★阿修羅♪ > カルト8 > 381.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その23
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/381.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 14 日 12:00:17: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その23

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(26)  落合莞爾

  高島鞆之助、薩摩ワンワールド総長の座を上原勇作へ禅譲 
  
 ★乃木希典を台湾総督に据え 仲人も務めた高島鞆之助 

 明治27年8月30日、歩兵第一旅団長乃木希典少将に動員令が下った。歩兵第一旅団は10月18日、宇品港を出発して大連に向かい、旅順攻囲戦で勇名を馳せた。28年4月に乃木は中将に進級、第二師団長に補された。第二師団は9月に台湾島台南に移動、乃木は南部台湾守備隊司令官に就いた。

樺山資紀台湾総督の要請で急遽現役に復帰、8月21日付で台湾副総督に任じた高島鞆之助の指揮下で、土匪の討伐に当たるためである。高島は28年12月に帰還、副総督を辞し、翌年4月2日付で伊藤内閣の拓殖務大臣に就く。乃木の第二師団はその後も討伐に携わり、29年4月20日に仙台に凱旋した。

 29年9月19日、高島は松方内閣の陸軍大臣を兼摂する。翌10月某日、陸軍省高級副官(官房長に当たる)山内長人大佐が山形県の演習地にいた乃木師団長を突然訪れ、至急上京せよとの高島陸相の密命を伝えた。台湾総督は初代の樺山資紀が辞め、6月から第三師団長・桂太郎が二代目総督に就いたが、これは暫定的な腰掛けで、実際には赴任しないまま東京防禦総督に転じることとなった。拓殖務大臣・高島は、その後任を乃木に頼みたいとの主旨で、山内大佐を送ったのである。ところが乃木がなかなか上京しないので、高島は陸軍次官・児玉源太郎に依頼して、乃木の台湾総督受諾を促す書簡を送らしめた(『大阪偕行社附属小学校物語』)。

 高島と乃木は、明治9年秋の萩の乱で知り合った。陸軍教導団長・高島大佐は佐賀へ派遣され、大阪鎮台の歩兵第八連隊を率いて萩に向かう。萩の乱には、乃木の恩人・玉木文之進と実弟の玉木正誼が参加していたが、熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得・乃木少佐が肉親の情を断ち、国家の干城としての立場を貫いた姿勢に高島は感じたのである。10年の西南戦争で奮戦した乃木に、凱旋後の11年に高島は縁談を世話し、高島夫妻の媒酌で乃木は薩摩女性・湯地シヅと結婚した。高島と乃木はかくまで睨懇な仲であったから、乃木を陸軍長州閥の一人として算するのは大きな誤りである。明治38年、日露戦役で世界の名将となった乃木が、明治天皇に凱旋を申告した後、イの一番に報告に駆けつけたのは紀尾井町の高島鞆之助邸であった。

 初代拓殖務大臣となった高島が、当初から台湾総督を乃木と決めていたのは、その武弁一点張りでない人情味ある人格を知悉していたからである。しかし、同時に乃木の就任拒否をも予測していた高島鞆之助は、その際には陸軍次官の児玉に台湾総督に転出を願う積もりで、児玉の内諾を得ていた。結局、乃木は知己・高島の要望を受けて10月14日に台湾総督に就き、高島が根本を定めた台湾政策を実践した。

 台湾の民俗はさすがに乃木の性格に適せず、土匪跳梁もなお治まらず、繊細な乃木はやがて休職を願い出たので、児玉は第三師団長に就いたばかりだったが、31年2月乃木に代わって台湾総督になる。児玉は民政長官に後藤新平を起用し、自らは各大臣を兼務しつつ台湾経営に8年も関わるが、その政策はすべて杉山茂丸の唱えたものであった。乃木・児玉の台湾政策の根本が高島に淵源することも明らかで、要するに、高島と杉山の間には秘かなしかし重大な共通項があったのである。
 
 ★鈴木商店、大日本精糖・・・台湾利権と日本産軍複合体 
 
 台湾領有の影響を受けて日本産業界には変化が訪れた。変化は、まず樟脳業・製糖業・ケシ栽培に現れた。明治32年、台湾総督府は樟脳と食塩に関する専売制を実施し、神戸の砂糖・樟脳商鈴木商店に台湾樟脳の65%の販売権を与えた。樟脳は当時、先端物資・ベークライトの原料であり、最新兵器の無煙火薬の原料としても必須の、最重要物質であった。お家はん(未亡人)を店主と担いだ鈴木商店はこれを機に異常な発展を遂げ、大正経済界の最大の惑星となった。巷説では、大番頭の金子直吉が独断指導したとされる鈴木商店は、実は日高尚剛の母方の縁戚で煙草業者の〔安達リュウー郎〕という人物が陰から牛耳っていたと伝わる。つまり、鈴木商店は、実は薩摩ワンワールドの配下として、台湾利権に深く関わっていたのである。当然、台湾総督府民政長官・後藤新平ともつながっていたわけで、ここから後藤と薩摩ワンワールドとの問の秘められた関係も窺える。

 製糖は台湾産業の根幹である。台湾では、杉山茂丸の提案により明治33年、三井財閥の益田孝の出資により、台湾製糖が設立された。内地では発明家・鈴木藤三郎の個人経営を基盤にして28年に設立された日本精製糖が、39年渋沢系の日本製糖と合併して大日本製糖となり、同年台湾に進出したが、その後は過剰輸入・放漫経営により経営は危機に瀕していた。

 これより先の35年、政府は有効5年の時限立法「輸入原料砂糖払戻税法」を制定して内地製糖業者を保護していたが、大日本製糖がその44年までの期間延長を願い、大規模な議員買収を行ったのが42年の日糖事件である。これにより倒産寸前に陥った大日本製糖を建て直すべく、渋沢栄一は長崎出身の実業家・藤山雷太に経営参加を懇請した。藤山は直ちに台湾に進出し、生産規模を拡大して瞬く間に日糖の経営を建て直したが、巷間には桂太郎首相兼蔵相を籠絡し、大いに便宜を得たとの噂がある。詳細は未詳だが、桂が台湾を舞台に何か便宜を図ってやったことがあるのだろう。

 しかし、実際には在英ワンワールド薩摩支部として、台湾利権を深奥で管理していた元陸相・高島鞆之助と元海相・樺山資紀の両枢密顧問官が、藤山雷太に特殊の便宜を与えたものであろう。台湾進出により巨大企業となった大日本製糖は、以後薩摩ワンワールド系の主要企業となるが、戦前の日本大企業の番付上位は悉く製糖・紡績が占めたことを見ても、その重要性が分かるであろう。台湾利権を掌握していた高島にとっては、巷間言われるような家政の窮乏は、ワンワールド系の事業を隠蔽するための見せ掛けではなかったかと思う。

 最後にアヘンに関しては、台湾は生産に適さなかったが、巨人な需要地で、これに関する台湾総督府の漸禁政策が見事に奏功したことを知らぬ者はない。内地でも、水田裏作の畑作物としてケシの重要性が認識されたが、大いに広がったのは、欧州大戦によりアヘンの輸入が杜絶してからである。
   
 ★孫文を匿った別邸も持つ? 高島「家計窮乏」の真相は 
 
 明治31年1月、陸相を桂太郎に明け渡した高島鞆之助を、起高作戦と称して参謀総長に就けようとした宇都宮太郎ら参謀本部の少壮将校らは、後年にも朝鮮統監に就任させようと工作したが、彼らの計画は悉く桂・寺内らの長州派に阻まれた。以後の高島は、枢密顧問官以外のいかなる官職にも就かず、家計の逼迫もやがて取り沙汰された。明治43年、高島は大磯の別荘を中橋徳五郎に売却したが、太磯市宇簾田七百二十番地所在のその別荘は、昭和16年に木村大吉に売却され、戦後になって料亭「あら井」を開業したが、今は廃業しマンションが建つという(吉薗周蔵が大正14年に奉天から招来した紀州徳川家秘宝に関連する事件が、昭和40年代にここを舞台に展開するのだが、それは別稿とする)。

 明治45年3月、紀尾井町の本邸もイエズス会に売却した高島は、麻布箪笥町に移った。これより先の44年12月、参謀本部第二部長の宇都宮太郎少将が東亜同文書院長・根津一を訪れたところ、根津は孫文の革命党を支援する善隣同志会の創立を図り、その会長に高鳥鞆之助を仰ぐ所存であった。根津は陸軍を去った後も、高島の腹心であったのである。

 高島は支那問題に関しても独自の見識があり、孫文の支那革命を支援していたが、このことは高島と玄洋社との密接な関係をも示唆している。大正2年、第二革命に失敗した孫文の日本亡命を、首相・山本権兵衛に認めさせたのも高島であった。孫文は赤坂の頭山満邸の隣家に匿われたが、高島邸に保護されたことも伝わり、高島の神戸別邸を用いた可能性もあるという(『大阪偕行社附属小学校物語』)。明治末年の高島の家政が窮乏していたとする記載が、『宇都宮太郎日記』に頻りに出てくるが、神戸に別荘を持っているようでは、実際はどうかと思う。尤も神戸の別荘は、或いは鈴木商店あたりが秘かに手配したものかも知れぬ。

 ★陸軍での地位がどうなろうともアヘン事業だけは維持  
 
 高島鞆之助が吉薗ギンヅルの事業上のパートナーであったことは『周蔵手記』によって明らかである。周蔵の祖母ギンヅルが、愛人の公家・堤哲長から、哲長が丹波のアヤタチ上田家の出の渡辺ウメノから教わった特殊な医学の伝授を受け、幕末にはケシ製剤の<一粒金丹>や<浅山丸>の製造で巨利を上げて堤一家を養っていたが、維新後には京都の薩摩屋敷で知り合った吉井友実や高島鞆之助の協力で、その商売を広げていた。

 吉井友実が薩摩ワンワールド総長を高島に譲った時期は、むろん吉井が24年4月に薨去する以前のことで、吉井が宮内次官を辞めて枢密顧問官に就いた21年4月あたりと見ておきたい。当時の高島は、18年5月以来大阪鎮台司令宮(21年5月の官制変更により第四師団長)に就き、21年偕行社附属小学校を創立するなど、軍人の枠を超えた教育家・行政家として実績を積み、有数の軍政家として令名を馳せていた。大西郷後継として評価が定まった高島は、吉井薨去の翌月24年5月、大山巌に代わって第一次松方内閣の陸相に就き、名実ともに薩摩ワンワールドの総長となったのである。

 高島は31年1月、桂太郎に追われる形で陸相を辞め、以後は枢密顧問官として公的活動から全く遠ざかったが、これ恐らくは、台湾領有により薩摩ワンワールド総長の極秘事業が多忙になったからではあるまいか。つまり、薩摩総長としての事業の大半は台湾の産業政策に関わるもので、パートナーの杉山茂丸をメッセンジャーとして、隠然処置していたものであろう。

 以上が明治・大正の過渡期、すなわち上原勇作が陸相にいた時期の様相であった。明治45年4月5日に陸相を拝するまでの上原の経歴を遡れば、41年12月からの4年弱は師団長として田舎回り、その前は39年2月から3年弱の陸軍工兵監、その前は野津第四軍の参謀長として日露戦役に従軍していた。これでは何ぼなんでも、民政や経済に関わることはできない。

 大正元年8月22日、陸相の上原が上総一ノ宮の別荘で引見した吉薗周蔵に、「草」になってくれと頼むに至った経緯は、いかなるものと見るべきか。増師問題を閣議で否決され、12月21日願いにより陸相を辞した上原は、陸軍分限令により待命を命ぜられて故郷・都城に帰省し、鹿児島城下山下町の日高尚剛邸に静養した。明けて2年3月1日付で第三師団長に補せられた上原は、赴任途上に病気を発して大阪赤十字病院に入院、加療3ヵ月に及び、結局名古屋には赴任しないまま、6月9日付で待命を命ぜられた。ギンヅルから託されたケシ粉と浅山丸を届けに行った大阪赤十字病院で出会った高島鞆之助から、将来のことは上原を頼って良いと言われた周蔵は、その一言で草になる決心を固め、鉄道学校に籍を置きつつ熊本医専でケシの研究栽培を始める。

 高島鞆之助が総長の座を上原勇作に譲ったのはその頃で、上原がケシ栽培とアヘン研究に急遽乗り出したのは正にその事と関係している。大正2年6月8日、実験栽培で得た初収穫のアヘン70cを届けた周蔵に、その翌日付で病気休職が決まっていたのにも関わらず、上原はこれからも頑張れと、大枚一千円を賞与して周蔵を驚かせた。つまり上原は、今後陸軍での地位がどうなろうとも、アヘン事業を進めることを決意していたのである。吉薗ギンヅルと日高尚剛が、高島の意を受けて、上原をそのように誘導したのであろう。上原が陸相に就き、ようやく政治家として活動する立場になったのを機に、高島はワンワールド薩摩派総長の座を譲ったものと思われる。
  
 ★欧州大戦、シベリア出兵 戦争の世紀の極秘戦略物資
 
 病気で第三師団長を辞して待命中の陸軍中将上原勇作は、10ヵ月後の大正3年4月22日、陸軍教育総監として陸軍中央に復帰した。教育総監は維新時期の監軍から発した職で、陸軍大臣、参謀総長と並ぶ陸軍三長官の一つである。

 7月28日(*?サラエボ事件は、6月28日)、セルビアのフリーメーソン会員の青年プリンチップ(*ガブリオ・プリンチップ、無政府主義者といわれる)が、オーストリア皇太子夫妻を狙撃して、欧州大戦の幕を開いた。8月、ロシアと連合した英仏がドイツ・オーストリアと開戦して戦争は本格化する。わが国も8月15日、ドイツに最後通牒を発して参戦したが、4年1月3日、青島出征軍は凱旋し、日本の参戦は一応終わった。

 教育総監として戦役事務に鞅掌した上原は4年2月大将に進級、軍事参議官を兼ねた。7月10日、3年目のケシの収穫を届けてきた吉薗周蔵に、上原教育総監はようやく本音を吐いた。
「阿片は極秘の重要戦略物資である。自給が出来なければ、それが軍の敗囚となる。陸軍はどうしても自給体制を立てねばならぬ」。
その翌日、上原の長女で19歳の愛子は、内務官僚の徳島県警察部長・大塚惟精に嫁した。大塚は、後に栃木・福岡・石川県の知事を歴任し陸軍司政長官になるが、戦時中広島県知事から中国地方総監になり、原爆で死去した。

 11月10日、京都において大正天皇即位の大礼が挙行され、参列のために京都に赴いた子爵・高島鞆之助は、宇治観月橋畔の高島友武邸に滞在した。高島友武は吉井友実の次男で鞆之助の養子となっていたが、当時は陸軍少将で京都十九旅団長であった。病を得た鞆之助は、そのまま友武邸に滞在、静養していたが、病態が急に悪化し、5年1月11日を以て薨去した。
 12月17日、陸軍大将・上原勇作は陸軍教育総監を罷め、陸軍参謀総長に補せられた。後任の教育総監は津軽藩士出身の一戸兵衛大将で、日露戦では乃木第三軍隷下の金沢第六旅団を率い、第一次旅順総攻撃で唯一旅順本要塞を占拠した猛将ながら、隠忍自重・思慮周到の名将である。

 前任参謀総長の元帥・長谷川好道は陸軍長州派の中心人物の一人で、日露戦役の最中の37年6月、乃木希典・児玉源太郎と同日に陸軍大将に進級し、戦役中は朝鮮駐駐留軍司令官として韓国統合を進める役割を成した。41年に軍事参議官、45年1月には奥保鞏に代わって参謀総長に就き、4年近くもその座を占めたが、泰平の時期でもあり、さしたる行跡もない。5年7月、欧州大戦における参謀総長の功績で伯爵に陞爵し、10月には朝鮮総督に就き、8年8月まで在任した。従一位大勲位を賜わったが、今日その名を知る人はまずいない。

 参謀総長・上原勇作に課せられたのはシベリア出兵問題であった。大正6年10月にロシア革命が成就して、ロシアの政権はレーニンが掌握しケレンスキー内閣が成立したが、その翌月、ロシア労兵会が共和政府を顛覆し、講和宣言を発した。この時、日本をしてシベリアからロシア革命に干渉せしめんとの意図を持つ在英・在仏のワンワールドは、ドイツ・オーストリア軍に対しても、ロシアに代わって日本に当たらしめんとし、種々の工作を行った。文豪サマセット・モームが来日したのも諜報活動のためである。また日本は日本で、対ロシア緩衝地帯をバイカル湖以東に設置することで、満蒙を完全に支配下に置くことを念願した。当初、日本のシベリア出兵にアメリカは反対したが、それは出兵の成果を日本が独占することを牽制したのである。

 大正7年7月8日、米国大統領ウィルソンから日本に、シベリア共同出兵への提議があり、13日寺内正毅内閣は出兵を決議し、15日には出兵に関する元老会議を開いた。そして16日には外交調査会は出兵を議決、米国にその旨を回答するに至った。
 
  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(26)  <了> 
               

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)―1 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)    落合莞爾
 −開戦から講和までイギリスの意図が強く反映された日露戦争  

 ★巨熊ロシアと対峙する グレート・ゲームの渦中ヘ

 明治維新以後の日本は、グレート・ゲームすなわち19世紀以来の英露間の世界的角逐に参加したが、本邦史家がこれを「英国の走狗」と自称するのは、謙遜というより自虐趣味である。日本が英国陣営へ参加したのは、当時の帝国主義段階における民族自活策として他に選択の余地がなかった。かかる場合に他民族に迷惑を掛けるのは世界史の通例で、その後の対処は先輩諸国に倣うしかない。

 軍事体系は輸送技術にも依存するから、列強の陸軍が鉄道と要塞、海軍が艦隊と軍港を戦略の中核に置いたのも輸送技術に対応したものである。当時は英国といえどもシンガポールまでが勢力圈で、極東に艦隊を常置するのは無理であった。ピョートル大帝のヴラジヴォストーク(東方を征服せよ)命令を実行して無人のシベリアを席巻したロシアは、ユーラシアの太平洋岸に至るまで無主の地を占拠して領土に組み込み、その領土はユーラシア大陸の東西両端に跨がった。極東地域において英国がロシアに対抗せんとすれば、在地民族の軍事力を利用するしかない。地政学上、日本の価値は正にその点にあった。

 ロシア帝国の極東部は、ハバロフスクの東南にあって太平洋に接する沿海州(現在は沿海地方と称す)である。ここはもと清国領満洲の一部であったが、1860年にアロー号事件の仲介料として、北京条約によりロシアが獲得した新領土である。沿海州の南端はピョートル大帝湾に突き出した半島で、軍港ウラジオストックがある。そこから日本海の海岸に沿って李氏朝鮮国が連なり、東南は日本海を挟んで日本列島が浮かぶ。沿海州の西側は満洲へ接して海への出口はなく、満洲の南端は遼東半島で東シナ海に突き出ている。

 沿海州はあたかも巨熊ロシアが極東に突き出した前脚で、満洲との国境は黒龍江が掌の形をなして満洲を圧している。沿海州の南端ウラジオストックはロシアが永年渇望していた不凍港で、此処にロシアは太平洋巡洋艦隊を置いて朝鮮を引っかく鋭い爪先をなし、前脚を一端撥ね上げれば日本海越しに日本を叩く形となっている。

 ロシア側から観ると、陸路を南下すれば満洲と朝鮮半島が立ちはだかり、海路を南下すれば日本海が日本列島の前方に在る。つまり満洲・朝鮮半島がロシアの日本侵入を妨げていて、イギリスから観るとこの地域は、日本列島を含めて絶対にロシアに取られてはならぬ地政学的な要地であった。史家は指摘しないが、ロシアからするともう一つ重要な地域がある。それは南シナ海に浮かぶ台湾島で、英露が極東の海洋覇権を争う場合、遼東半島と並ぶ最大の要地であった。

 ★明治史を規定したのは、薩摩とイギリスの意思 

 当時のイギリスが、満洲・朝鮮・台湾の地を日本に代理支配させようと望んだのは、地政学的当然で、ロシアが右の地域の直接支配を望むのも必然であった。日本としては、イギリスと結ぶかロシアの旗に下るかの選択しかあり得なかったが、新政府の権力を握った薩長土肥の雄藩の中でも、薩摩はイギリスに深く通じており、これが明治史を規定した。

この事を指摘して意義を明らかにした史家は管見するところ存在しないが、実にこれが明治秘史なのである。

 維新政府において、西郷隆盛が早々に征韓論を打ち出したのも真相はここにあり、内治優先を主張する大久保利通らによって否決されたが、明治4年に琉球漁民が台湾に漂着して惨殺されたのを機に、薩摩藩士・樺山資紀少佐が暗躍し、当路の薩摩高官を周旋して7年の台湾征討に漕ぎ着けた。これ決して樺山資紀の個人プレイではなく、大西郷麾下のワンワールド薩摩派の一員として働いたのである。大久保参議は征台を中止させるため、自ら長崎まで出向いて出兵を引き止める猿芝居を尻目に、西郷従道が征台軍を率いて勝手に出帆した真相もこれである。余談であるが、明治10年の大久保の横死は、ワンワールドに加わりながら中枢の意思に逆らったことに在ると聞いた。

 台湾征伐は台湾島が清国の実効支配が及ばぬ地であることを立証した日本は、20年後の日清戦争で台湾島の割譲を勝ち取り、所期の目的を果たした。同時に得た遼東半島の租借権は三国干渉により返還することになったが、当時のイギリスがそれを望んでいたと推測する根拠は、杉山茂丸が遼東租借にあくまでも反対で、外相陸奥宗光の宿舎に押しかけてまで日清講和の進行を監視していたことである。この杉山の背後に、イギリスの意向を読み取るべきであろう。

 日清戦争で台湾島を獲得した日本は、薩摩新三傑の松方正義・高島鞆助・樺山資紀が力を尽くして台湾経営に努めたが、新三傑の背後に杉山茂丸がおり、それがイギリスの意思を反映したことを指摘した史家は、本稿の前にはいない。因みに日本は、帝国主義段階の植民地経営として列強に勝る立派な統治を台湾で達成した。

 ★日清戦後、迷走する清国 もはや日露開戦は不可避

 明治29年6月、漢族出身の清国高官・李鴻章は、ロシア外相ロバノフ、蔵相ヴィッテとの間で露清密約を結んだ。この密約は、日本が清国・極東ロシア・朝鮮を侵略した場合における清露の相互援助を約し、満洲北部を通る東清鉄道の敷設権をロシアに与えたもので、三国干渉に対するロシアの働きに対する見返りの意味があった。ロシアにとっては極めて有利な取決めのため、締結に当たりロシアは莫大な賄賂を李鴻章に贈ったと言われる。大清帝国の漢族官僚が宗室愛親覚羅氏の発祥の故地をロシアに売り飛ばすことができたのは、愛親覚羅氏の統治力が既に頽廃していたからである。

 その10月、漢族国家樹立を目指す孫文は、滞在先のロンドンで★南方熊楠と交遊した。現地の清国公使館に拘禁された孫文の釈放に熊楠が関わったとされる真否はさておき、清国はこの月、初めての留学生を日本に派遣した。日本に敗れた清国はその脆弱さを列強に知られ、以後は急速かつ露骨な侵略を受けることとなった。すなわちドイツが膠州湾、イギリスも九竜半島を租借したが、ロシアは三国干渉により日本から返還せしめた遼東半島の旅順・大連を自ら租借して、野心を露呈した。
 
 ★ブロガー註:熊楠のロンドン滞在期については熊楠自身の手による『履歴書』(これは通称で、矢吹義夫氏宛ての自己紹介を主にした大正14年に書かれた長文の書簡のこと。)及び松居竜五『南方熊楠一切智の夢』(朝日選書1991年)の一章―【英国博物館 一切智の夢】、『ユリイカ』2008年1月号(特集・南方熊楠)等に詳しい。
 ロンドンでの孫文(孫逸仙)と熊楠との交友は明治30年3月16日から6月30日までの短い期間だったが、熊楠の日記にはしばしば孫文の名が出てくるように極めて濃密なものであった。
 また、よく比較されることだが、内向した漱石とは対照的にひたすら外へ開かれた熊楠の日常は「会話・論争・食事+喧嘩」の毎日で、その交友範囲は驚くほど広く、その意味からも興味は尽きない。<熊楠=孫文>プラスアルファという意味で。
 後ほど上記書などから、当該箇所を紹介します。 

 明治日本が実行する社会改革の成果に注目したのが光緒21年の進士・康有為で、変法自強策を光緒帝に上奏して容れられ、戊戌の変法(明示31年)にまで漕ぎ着けたが、西太后ら保守派に阻まれて康有為は日本に亡命、湖北巡撫の子息・譚嗣同は捕らえられて刑死する。

 列強による要地租借やキリスト教会の設置に憤った漢族民衆は、明治32年秋頃から道教団体の義和団に拠って反外人・反教会運動を起こした。これに対し列強は、33年(1900)年北京に出兵、義和団鎮圧の連合軍を組織して北京・天津を攻略したので、西太后と光緒帝は西安に蒙塵するに至る(北清事変)。政府は義和団を暴徒扱いしたが、その裏で西太后ら宗室の一部が排外的暴挙を秘かに快としていた。清朝宗室の統治力は確実に減退していたのである。

 明治34年1月、光緒帝は西安において変法の詔勅を下し維新政治を宣言するが、翌月ロシアは満洲・蒙古・中央アジアにおける権益の独占と北京への鉄道敷設等の協約草案を清国に提示し、受諾を迫った。李鴻章の親露的行動につけこんだロシアも、さすがに列強各国の抗議に遭い、交渉中断を声明する。11月に李鴻章が死ぬと、腹心の袁世凱が直隷総督兼北洋大臣を代行し、翌年6月には正式に直隷総督兼北洋大臣に就いた。

 この年、日本では杉山茂丸によって日英同盟推進の動きが始まる。杉山が桂太郎と児王源太郎を調略して3人で秘密結社を作って親露派伊藤博文の排除を策し、9月から欧米巡遊に出た伊藤が、露都ペテルスブルグに着いた35年1月に、桂内閣は日英同盟の締結を世界に公表した。

 明治35年4月、清国と満洲撤兵条約を結んだロシアは、それを履行せず、却って36年4月18日に新要求を提出する。これを反映して4月22日、山県有朋の別荘の京都無隣庵で、山県・伊藤・桂・小村寿太郎が会して対ロシア策を協議したが、桂らは7月には伊藤を枢密院議長に祭り上げ、その政治力を封じて日露開戦の障害を除去した。ロシアの清国侵略はこの間ますます進み、8月に旅順に極東総督府を設置、10月にはロシア軍が奉天省城を占領した。イギリスにとっても日本にとっても到底容認できぬ暴挙で、日露開戦は誰の目にも最早避けられないものとなった。

 以上は素より世上公知の史実であって、今更贅言の要もないが、本稿が諸賢の注目を喚起せんとするのは、北清事変後の愛親覚羅氏の動向である。

  続く。                  

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)―2

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)

 ★「大漢民族主義」に走った孫文と愛親覚羅氏の運命
    
 明治37年1月10日、日本はロシアに宣戦を布告、日露戦争が始まる。この戦争をイギリスが陰で支えたことは周知だが、その支援の全体は現代人の想像を超えていた。例えば、英国スパイが入手した旅順要塞の精密な地図が秘かに山県有朋に渡された。日本の戦艦には艦戦武官の名目で英国士官が同乗し時に作戦指導に当たったことなど、すべて厳秘事項とされ、戦果は悉く日本軍の功績に帰されたが、これは必ずしも帝国陸海軍を貶めるものではない。あらゆるものを利用して成果を求めるのが戦争で、その過程に何があろうと日露戦の戦果は日本軍のものである。さもなくば、中国共産党が唱えてきた、いわゆる抗日戦の勝利も、マヤカシの典型と評価すべきことになる。

 明治38年9月5日、ポーツマスの日露講和条約によって日露戦役は終わった。11月には日清間で満洲に関する条約を調印、満洲におけるロシア利権はすべて日本が引き継ぐこととなった。漢族官僚によってロシアに売られた愛親覚羅氏の故地が、日本に転売された形である。以後、愛親覚羅氏は、秘かにかつ急速に日本皇室に接近し、皇室もまたこれに対応し、20世紀の極東秘史が始まるのであるが、本稿はそれを後に追究したい。

 日露講和に先立つ8月20日、東京で孫文らが中国革命同盟会を結成、興漢滅清すなわち満洲族支配からの漢族独立を標榜する民族運動が最盛期に入った。大清帝国はいくつかの民族国家で構成された一種の連邦国家であったが、人口の大多数は漢族で、他に満洲族・蒙古族・ウイグル族・チベット族がそれぞれ地域社会を構成していた。そのなかで、少数派の満洲族が帝国の支配者であったところに特殊性があり、孫文らの漢族独立運動の目標は、領土的にはプロパー・チャイナ(支那本部)と満洲部の分離、民族的には漢族による民族自決、すなわち支那本部を固有領土とする漢族国家を樹立して女真族を満洲部に送還することを主眼としたもので、蒙古・チベット・ウイグルの各部をも民族自決主義による民族国家を樹立さすべき理念に立っていた。

 革命の父と仰がれる孫文が、その掲げた三民主義のうち民族自決主義を早々に放棄して正反対の「大漢民族主義」に就いたのは、吾人の理解に苦しむところである。これはおそらく孫文も超えられなかった「中華思想」の壁かと思うが、英露が対抗するグレート・ゲームの拮抗線上にある満・蒙・蔵・回の各部が、当時完全独立や民族自治を求めても、地政学的に全く困難であった。いきおい旧清国領内の各部は、英露の外圧に対応して民族国家の探りうべき形態を探りつつ、東アジア地域の安定を求めざるを得ず、それに対して地域の中央に座す漢族国家がどう関わるかの問題であろう。

 ★大陸で国事に奔走した出口清吉という人物

 日露戦争が日本勝利に終わったことは清国の上下に大きな衝撃を与えた。殊に、漢族独立・満族排斥運動の高まりから、支那本部における役割の終焉を感じた宗室愛親覚羅氏は、故地満洲に関して日本と利益が共通することに注目した。極東ロシアの脅威に対する緩衝地帯として朝鮮半島の確保と満洲の自立を欲した日本は、日清戦争により前者をば勝ち得たが、清国の漢族官僚が買収されて満洲の統治権をロシアに与えたため、後者は却って後退しロシアの脅威は以前に数倍することとなった。その結果、満洲の覇権を巡って日露戦争となったが、日本の戦勝により満洲のロシア利権はすべて日本に譲渡され、満洲は実質的に日本統治下に移った。この地の潜在主権を自覚する愛清覚羅氏が、秘かに日本と結ぶことを考えたのは当然のことである。

 愛清覚羅氏と皇室を繋いだのは、国事のため早くから清国に潜入していた出口清吉であった。日本でも古来秘事に携わる一統がいたことは、当の一党を除けば、知る人は甚だ少ない。一党とは丹波を本拠とする大江山衆のことで、本稿が論じたアヤタチ一族を指す。その1人が出口清吉であった。

 出口清吉は明治5年6月1日、出口政五郎・直の次男として丹波国何鹿郡綾部に生まれた。母は大本教の開祖として知られ、11歳下の末妹・澄の婿が上田鬼三郎(後の出口王仁三郎)である。『大本教祖伝』によれば、綾部の地に繁栄した出口家は、トヨウケ大神の神霊を奉持して丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井から伊勢に移住した渡会家の本家で、家紋は多く「抱き茗荷」、氏神は綾部の斎神社、祭神はフツヌシであるという(出口和明『いり豆の花』)。

 一方、鬼三郎の出た上田家は、本貫を丹波国桑田郡曽我部村大字穴太小字宮垣内(*現:亀岡市曽我部町穴太あなお)とする。家伝では遠祖を藤原鎌足、氏神はアメノコヤネと称する(出口前掲著)が、実は本姓海部氏で、いわゆるアヤタチの一統であることは本稿が明らかにしてきた。王仁二郎『故郷乃弐袷八年』は、前記トヨウケ大神の遷座に際し、神輿がアメノコヤネの縁故で曽我部の地に駐輦したが、その時に供えた荒稲の種が欅の老木の穴に落ちて芽を出したので、穴太(アナオ・アノウ)と呼んだと付会している。しかしながら穴太は、任那の諸国の一たる安羅(アナ)から来た石工衆の居留地を謂う地名で、各地に点在することは、すでに本稿が明らかにした。ともかく、伝承の主旨は二千年も前に出口と上田の遠祖が出会った因縁話だが、史実としても両家は同家系で、オリエントに発祥する多神教のヘブライ族いわゆるイスラエル十支族の子孫である。上田家が遠祖と仰ぐアマベ(海部)氏は、海路を渡来して丹後半島に上陸し、各地にイセ(伊勢)の名の集落を建設したが、やがてモノノベ(物部)氏と混淆した。本稿は、さらに後来者で陸路を来たハタ(秦)氏がそこに混入したと考えるが、三氏はいずれもイスラエル十支族に属した部族で、同族である。

 ★日本に流れ込んだセファルダムの血

 相模国丹沢山麓の秦野は、秦氏が養蚕紡織の適地を求めて開拓した地域で、地名は明らかに秦氏に因むが、近在に伊勢原がある。養蚕適地を求めた他の一族は信濃国小県郡真田荘に入った。ここに上田の地名があるのは、姓が先か地名が先か現状では未詳であるが、信州上田の地は遠く西アジアに始まるシルクロードの終点に当たり、さればこそ蚕業の最高学府たる上田高等蚕糸学校が置かれたが、高蚕の設置地は、東京を別にすれば上田と京都だけで、これは正に秦氏・上田氏の故事に応じているのである。

 室町時代にポルトガル人が来日し、鉄砲・火薬の輸入、男女奴隷の輸出と共に明国産絹糸の仲介貿易を行ったが、その本性はレコンキスタ(キリスト教徒の失地回復)でスペインを追われ、隣国に逃れたセファルダムが多かった。天主教のポルトガル人を装ったが本もとが一神教ユダヤ教徒で、アマベ・モノノベ・秦氏の多神教イスラエル族とは本来同根であった。ポルトガル人は、植民地は言うに及ばず、ゴアやマカオなどの交易地でも、必ず混血族を作って己の手足とするのが常道で、日本でも当然同じことをした。

 本邦での鉄砲生産地は当初伝来地の種子島、そこから伝来した根来の芝辻氏が移った泉州の堺(高須神社近辺の鉄砲屋敷)、伊集院の橋口氏が移った鹿児島(鍛冶屋町方限)、後には近江国国友村などである。また、蚕業地の丹波で上田氏が興した紡織・繊維業は京都西部に移って発達し、堺港にもたらされる明国産生糸の需要地となっていた。右の何処かの地に、ポルトガル人との混血種が誕生したわけである。鎖国後には、ポルトガルに代って新教徒オランダ人が来航するが、これにもレコンキスタの後、エクソダス(大脱出)によってスペイン領オランダヘ移ったセファルダムの後身が混ざっていた。王仁三郎の祖父・上田吉松の五代前の遠祖・円山応挙には、オランダ人の血が混じっていたという。右のごとき血筋の出口家から出た清吉は、明治25年12月1日、近衛師団に入隊する。全国から優秀な青年を選抜した近衛兵に何鹿郡から入隊したのは、清吉を含めて2人であった。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(27)  <了>。
                      


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28) ◆落合莞爾
  大本教開祖の次男・出口清吉こそ不世出の軍事探偵・王文泰  

 ★極端に少ない記述 清吉幼時の不思議  

 明治6年生まれの清吉もやがて学齢期になる。出口和明『いり豆の花』がいう出口家の記事は、ナヲの4人の娘については幼時から精細を極め、長男・竹蔵のこともやや詳しく記すが、次男・清吉と三男・伝吉についての記述は甚だ少ない。尤も伝吉は、13年に4歳で姉夫婦・大槻家の養子となる(入籍は後)から、無理もないとも言えよう。ところが清吉については、

@ 7歳以来、饅頭の行商をして家計を助けた。
A 15歳になり、口減らしのために、紙漉き業・寅吉のもとへ見習いに住み込ませた。
B 20年、長兄・竹蔵の居た鳥羽の酒屋で働くため寅吉の許を去り、
  12月25日に金2円をナヲに届けた。
C 竹蔵が蒸発したので鳥羽の酒屋を去り、綾部に戻って寅吉の下で紙漉きをした。
D 闘犬が好きで、常に野良犬の5、6匹を連れており、喧嘩も強かった。
E 22年頃、寅吉が博打で負けて夜逃げしたのを機に、義兄・大槻鹿蔵が自宅に引き取り、紙漉き(かみすき)をさせた。

 ・・・との記載しかなく、姉妹について些細な逸話まで延々と述べているのと比べて、比較にならぬほど簡略である。

 25年11月24日、入営のために綾部を発った時が見納めというから、以後は帰省しなかった清吉の、入営から1年半後の27年8月1日に日清戦争が起きた。近衛師団は当初は戦線に赴かず、師団長・小松宮が28年1月26日付で参謀総長に転じた後を北白川宮が継ぎ、国内で待機していた。戦況は日本優勢に展開し、3月20日から下関において講和会議が行われ、4月17日には台湾割譲、遼東半島租借を内容とする日清講和粂約(下関条約)が調印された。5月10日に海軍軍令部長・樺山資紀が大将に進級、台湾総督兼台湾軍司令官に補された。台湾では現地民による軍事的反抗が予想され、その平定のため、大連港で船内待機していた近衛師団が、東郷平八郎指揮する浪速に護衛されて5月21日に出港、直ちに基隆を占領し、6月14日師団長・北白川宮が台北城に無血入城した。7月に入り近衛師団は各地に転戦して要所を占領するが、台湾共和国独立を宣言した現地民の抵抗は激しく、樺山総督は8月20日、副総督に高島鞆之助を迎え、南進軍司令官に補した。樺山総督が10月26日台南城に入城し、台湾平定は一応成ったが、28日には近衛師団長・北白川宮がマラリアのため戦病死するに至る。11月6日南進軍の編成を解いた樺山総督は、11月18日大本営に台湾平定を報告したが、その後も土匪の反抗は静まらず、12月28日に宣蘭で武装蜂起、12月31日には台北周辺ども武装蜂起があった。 

 ★台湾で失踪、戦病死を装い 王文泰 として密かに再生 

 出口和明の前掲書によれば、旧暦9月の頃から、何処からともなく清吉戦死の噂が流れた。陸軍からは何の知らせもないので、清吉を可愛がっていた義兄・大槻鹿蔵が綾部町役場に掛け合い、役場から陸軍に問合せたところ、清吉の隊からは1人の戦死者も出ていないとの回答があった。台湾征討軍は続々凱旋するが、いつまで待っても清吉は帰ってこない。その後陸軍から、清吉が28年7月7日に台湾病院で病死したとの報せがあり、29年12月26日付で「明治27・8年ノ役死没シタルニ依リ特別ヲ以テ金150円」、また31年3月7日付で「明治27・8年戦役ノ功ニ依リ受賞スヘキ所死没セシニ付キ特旨ヲ以テ金120円」を下賜され、さらに大正7年のナヲの他界まで、遺族扶助料として年間30円が与えられた。

 近衛師団の一等卒として台湾征討に加わった清吉は、台湾病院から秘かに失踪し戦病死扱いにされたと推察するが、詳細探求は本稿の目的ではない。むろん不名誉な脱走ではなく、軍事探偵になるため戦病死を装ったのである。清吉が選ばれた理由は勤務評定ではない。そもそも近衛兵採用じたい、大江山衆として国事に携わるためであった。大山巌の後の陸軍大臣は、28年3月から山県有朋、5月に西郷従道に代わりさらに大山巌に交代し、29年9月に至って高島が再び就任した。山県時代の2カ月を除くと、軍政首脳はワンワールド薩摩派が占めていたので、清吉の軍事探偵転向は、ワンワールド薩摩派が関与したと見るべきである。

 明治33年の「北清事変」は、白蓮教の秘密結社・義和団を拠り所にした民衆の暴力的な排外運動であったが、清室でも西太后が支援、遂には清国の列強への宣戦布告となった。義和団鎮圧のため出兵した列強8ヵ国の中でも日露両国は最大の兵員を派遣した。日本は福島安正少将を司令官として臨時派遣隊を出し、次いで山口素臣率いる第五師団を派遣するが、この時日本の軍事スパイとして活躍した者がいた。

 出□和明前掲書によれば、明治33年8月13日付の『日出新聞』に、従軍記者の話として、「三十歳前後の元気の良い一人のチャン(清国人)が巧みに日本語を遣ってしきりに話をしており、周囲に名前を聞くと軍事探偵・王文泰と言うので、面会した。十数年来南清から北清と跋渉し、服装言語のごときも丸で支那人としか見られず、歩き様まで支那人その儘である。本名は言えぬが、土佐人ということである。太沽砲台から白河沿岸及び天津城の偵察により、連合軍に大きな利益となった。軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人いる」とある。

 その王文泰こそ出口清吉であった。記事には「土佐人」とあるが、土佐に忍者習練所があり、資質の優れた大江山衆の少年を呼んで練成したらしい。本稿で以前、上田吉松が越後国、柏崎荒浜の倭人の女・渡辺ヰネに生ませた双子の一人、辺見こと牧口某が幼時に土佐で鍛えられたと述べたが、この習練所のことである。三角寛が説く山窩伝承では、山窩の棟梁アヤタチ丹波が一族の教育を総覧し、各地のセブリの青年を丹波に呼んで一人前の山窩に鍛練するとある。その丹波アヤタチ大学と土佐の奉公衆習練所の関係は未詳だが、当然深い関係にある。下北半島の薬研温泉で、槇玄範が上田一族の子弟を練成していた現場を見たと『周蔵手記』に記すが、同じ性格のものであろう。清吉幼少時の状況が朧気なのは、その間に土佐習練所に留学していたからであろう。姉たちは幼時から子守に出され、妹・スミだけが清吉の記憶を残すが、王仁三郎の妻になった後は、幼時の見聞については□を噤む必要を感じたものであろう。 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)  <了>


●『いり豆の花』 出口和明

●前回の陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(28)に関連して、出口和明・『いり豆の花』から当該部を紹介しようと思うが、その前に、

 【O オニド ― 出口王仁三郎と霊界物語のサイト】
 http://onido.onisavulo.jp/modules/ond/index.php?content_id=29

 の中に、Onipediaという人物事典があり、その【出口清吉】を先ず読んでみる。 出典: Onipedia
 
 ●出口清吉

 明治5年(1872年)6月1日生まれ。[1]

 明治25年(1892年)12月1日、東京の近衛師団に入隊。明治28年(1895年)、台湾に出征し、同年7月に戦死した。

 しかしその後、清吉は死んでない、と受け取れる筆先が降る。

 「清吉は死んでおらぬぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30年1月7日)

 「他ではいはれぬが、出口清吉殿は死んではおらぬぞよ。人民に申してもまことにいたさねど、清吉殿は死なしてはないぞよ。今度お役に立てねばならんから、死んでおらんぞよ」(明治32年旧8月10日)

 役場から軍隊に問い合わせると、清吉が所属していた隊に戦死者は一人もいないとの回答があり、果たして本当に死んだのかどうか疑惑が持ち上がる。清吉は筆先で「日の出の守護」と呼ばれ、神業上、重要な役割を担っていると言われていた。そのため開祖・出口直を始め信者は、清吉は死んではおらず、そのうち大手柄を立てて帰国するのでは、というような期待を持っていた。

 大正13年(1924年)、出口王仁三郎が入蒙したときに、清吉の娘だと思われる若い女と出会う。蘿龍(ら りゅう)という名の21歳の馬賊で、3000人の馬賊を率いる頭目である。日本語をしゃべり、母は蒙古人だが、父は「デグチ」という日本人で、蒙古では王文泰(おう ぶんたい)また蘿清吉(ら しんきつ)と名乗っていたという。


 王仁三郎が蒙古で用いた名刺。朝鮮姓名として「王文泰」と記されてある。王文泰は明治33年〜34年の北清事変(義和団の乱)の時に、殊勲者として新聞で報道されており、その名を見たときに王仁三郎は異様な神機に打たれた[2]。そのため入蒙時に王仁三郎は王文泰と名乗った。

 清吉は蒙古独立軍に馬賊3000騎を率いて加勢していたが、5年前に張作霖に欺かれて殺されてしまったという。

 蘿龍は蒙古に国を建てるため、王仁三郎の別働隊となって働く。しかしパインタラの遭難の後、蘿龍も捕まり殺されてしまった。

 脚注
↑ 『入蒙秘話』35頁では6月1日生まれ、『大地の母 上巻』68頁では6月6日生まれになっている。
↑ 王仁三郎の歌集『青嵐』に次の歌がある。「王文泰の英名聞きて我はただ異様な神機にうたれたりける」

 **************

 続く。
                      

http://2006530.blog69.fc2.com/category2-10.html


 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > カルト8掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > カルト8掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧