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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その24
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 14 日 12:07:44: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その24

●『いり豆の花』 出口和明

以下、『いり豆の花』 出口和明(やすあき) 八幡書店 1995年7月 より引用。 
 * p○○ は同上書による。

 第一篇 丹波小史 第三章 だまして岩戸を開いた。

 ★外宮の由来 p36

 雄略天皇21年冬10月、斎王ヤマトヒメ命は、夢でアマテラス大神に教えさとされた。
「われ、すでに五十鈴川の大宮に鎮まっているが、一人では楽しくない。御饌も安く食べられぬ。丹波の国・与佐の小見比沼(おみひぬ)の魚井之原(まいのはら)にますタニハノミチヌシ王の子孫のヤヲトメの斎きまつるトヨウケ大神をお連れせよ」

 ところが雄略天皇も同じ霊夢を見ていた。天皇は驚き、伊勢の山田原に新宮をいとなみ、翌22年秋9月、トヨウケ大神を丹波の魚井之原から迎えて新殿に鎮座した。この宮を外宮といい、内宮とあわせて大神宮、または伊勢神宮という。

 これは『豊受大神御鎮座本紀』ら神道五部書に伝える外宮の由来である。『丹後旧事記』は、タニハミチヌシ命の館は比沼の真奈井の近く府の岡という所にあったと記す。内宮の御杖代であるヤマトヒメ命はミチヌシ命の長女・ヒバスヒメ命(垂仁天皇の皇后)の皇女として、母方の里から外宮を迎えたことになる。

 ★出口家始祖

 『大本教組伝・開祖の巻』(以下『教祖伝』は「丹波道主命の後裔・綾津彦命は綾部の郷・神部の地(本宮山といわれる)を卜(ぼく)して永住し、トヨウケ大神を祭っていた。のち神勅によって神霊を丹波郡丹波村の比沼の真奈井に遷し、子孫が代々奉仕していた。

 ところが雄略天皇22年9月、再び神勅によってトヨウケ大神の神霊を比沼の真奈井から伊勢の山田へ遷すことになり、その時に神霊を奉持して伊勢へ移住したのが出口家の分家であり、渡会(わたらい)家の始祖となった。その子孫には神道家・国学者として著名な出口(渡会)延佳(のぶよし)が出ている。出口家の本家は綾部の地に子孫繁栄し、多く【抱き茗荷】を家紋とした。現在の綾部市味方にある斎(いつき)神社(祭神・経津主(ふつぬし)命・創建由緒不詳)は出口一族の氏神として往昔奉祀されていた」と伝える。しかし詳細な記録や系図は中世火事によって煙滅したというから、出口家の伝承に拠ったものであろう。

 出口はイツクチであり、イツキの転訛と考えれば、出口姓と斎神社とは深い関連がありそうだ。斎とは、潔斎して神に仕えること、またはその人をさす。さらに斎王の略であり、即位の初めにト定され、天皇に代わって伊勢神官や賀茂神社に奉仕した至高の巫女である未婚の内親王や女王を指す。

 ★奇しき神縁 p37

 出口直の末女・澄と結婚して出□家の養子になる王仁三郎の生家は、上田家であった。上田家の遠祖は藤原鎌足とされ、さらにさかのぼれば天児屋根命(あめのこやねのにこと)となる。

 上田家は丹波国桑田郡曾我部村大字穴太(あなふ)小字宮垣内(みやがいち)(現・亀岡市曽我部町穴太)にある。伝承では、この大字・小字の地名の由来を、トヨウケ大神の伊勢遷座に関連づけている。

 王仁三郎の「故郷乃弐拾八年」によると、遷座の途次、神輿は曾我部郷に御駐輦になった。この地がお旅所に選ばれたのはアメノコヤネ命の縁故によるとあるから、すでにアメノコヤネ命の子孫が住みついていたのであろうか。そして厳粛に祭典が執行されたが、そのとき神に供えた荒稲の種がけやきの老木の腐り穴へ散り落ちた。やがてそこから芽を出し、見事な瑞穂を得た。里庄はそれを神の大御心とし、種を四方に植え広めた。けやきの穴から穂が出たため、この里を穴穂というようになり、穴生・穴尾と転じて、今の穴太となった。

 上田家の祖先はこの瑞祥を末世に伝えるため、上田家の屋敷のあった宮垣内に荘厳な社殿を造営し、アマテラス大神・トヨウケ大神を奉祀して神明社と称し、親しく奉仕した。上田家の屋敷のある宮垣内の名称は、神明社建造の時から発したといわれる。

 文録年間(一五九二〜九六)、神明社は宮垣内から川原条(現・亀岡市曽我部穴太・小幡神社の東側辺)に遷座されてから後神明(ごうしんめい)社と改称され、いつのまにか後(ごう)神社と里人が唱え出し、今では郷神社と呼ばれ、穴太の産土である小幡神社の附属となっている。

 いずれも今日では考証できずにいるが、それが事実とするならば、すでに二千五百年も昔、出口・上田両家の出会いがトヨウケ大神を仲立ちに行われ、不思議な神縁を結んでいたことになる。

 なお伊勢の外宮にトヨウケ大神を遷座したことは国体に関する重要な出来事であるのに、なぜか正史である『日本書紀』には一行の記述もない。

 *****************

 ★帰化人の血 p43

 第四十三代・元明天皇は、和銅三(710)年に都を平城京に移した。翌四年、「丹波史千足ら八人が外印を偽造し、ひそかに人に位を与えたために、信濃に流された」と『続日本紀』は伝える。『新撰姓氏録』には「丹波史、後漢霊帝八世孫、孝目王之後世」とあるから、彼は帰化人の裔であろう。丹波康頼はその子孫といわれる。

 四世紀ごろから八世紀ごろにかけて、朝鮮人(百済・高句麗・新羅・任那)や中国人が多く日本に渡来した。彼らが伝えた技術は飛鳥・白鳳・天平と大陸的仏教的特色の強い文化を築き上げる。それが完全に咀嚼され、消化されて、やがては日本的な平安文化を生み出してゆくのであるが、丹波各地にも多くの渡来人が定住して影響を与えた。
 
 「十六年の秋七月、詔 して、桑に宣き国県に桑を殖ゑしむ。
  また秦の民を散ち遷して、庸調(ちからつき)を献らしむ。」(「雄略紀」)

 しばしば桑田郡の名の起源に引き出される一文であるが、ここでも秦氏が桑を植え、養蚕し、絹布を献じたことであろう。前文に続いて『日本書紀』は述べる。

「冬十月に、詔して、漢部(あやべ)を聚(つど)へて、その伴造者(とものみやつこ)を定む。姓を賜ひて直(あたひ)と日ふ」

 河鹿郡・【綾部】も元は【漢部】と古いたが、綾織を職とする漢部が居住したからだという。漢部は大化改新の前、中国から渡来した漢氏(あやうじ)の部民(べのたみ)の総称である。船井郡園部(薗部とも書く)の地名も、古代の部民のひとつ「そのべ」が由来だが、苑部の氏の上は苑部首(そのべおびと)といい、百済の知豆神(ちづのかみ)の裔とされる。

 このように、土着の血と外来の血がわき上がる濃い丹波霧の中でとけ合って、丹波族の勃興を見たのである。それは、出雲文化の土壌に大和文化や大陸文化が融合し、さらに時代の洗礼をへて丹波文化が形成されたことでもあった。水を涸らして丹波国を作る伝説にしても、オホヤマクイ神は秦氏の祖神であり、オホクニヌシ神は出雲の神であるから、まさに暗示的といえる。

 ★国分寺造営 

 第四十五代・聖武天皇は、天平十三(741)年、仏教の功徳による国土安穏・災厄除去を求めて、国ごとに国分僧寺・国分尼寺を造営する勅令を発した。

 丹波国分寺跡は、異論はあるが一応は桑田郡千歳村字国分の高台ということになっており、亀岡平野を展望できる景勝の地である。現在は小さな本堂だけの無住寺だが、境内には昔の堂塔の礎石が存在して当時の規模の大きさをしのばせている。

 寺伝によると、明智光秀が丹波平定のときに焼失したまま長く荒廃していたが、宝暦年間に護勇比丘(1788没)が再興して今日に及ぶ。本堂に安置される本堂薬師如来坐像(木造)は重要文化財、寺跡は国指定史跡となっている。なお国分尼寺は、近年の発掘調査から、五百メートル西の御上人林廃寺跡と推定されている。

 ●第四篇 寡婦時代 第二章 御三体の大神の御守護

 ★清吉兄さん p256 

 この頃の出口澄のあこがれの人は、寅吉の下で働いている清吉兄であった。清吉・久・澄の三人は「新宮の政五郎さんとこの暴れん坊」と噂されたが、とりわけ清吉と澄は権兵衛で鳴らしていた。

 清吉は目鼻立ち涼しく、男前で、気っ風がよかった,当時流行の闘犬が好きだったが、いつも五、六匹の犬を連れ歩いていたので、「新宮の犬の庄屋どん」と町の人たちから呼ばれた。犬を飼っていたわけではなかったから、野良犬や街の犬たちが自然に慕い寄ってきたものであろう。

負けず嫌いでよく喧嘩もした。「清吉どんが裏町で男たちにいじめられてるでよ」と告げてくれる人がいて、直は裏町へ駆けつけた。すると背に負うた澄ごと、清吉が柿の木に縛りつけられている。五、六人の男たちが床几を持ち出して坐り、「これ、あやまらんかい」とどなる。清吉少年は歯をくいしばって「なに、あやまろうやい」と力んでいる。直は清吉の縄目をふりほどいて家に連れ戻したが、清吉は「お澄をおぶっていたので気になって負けたが、いっぺんあいつらをやっつけてやる」とくやしがった。

 やんちゃはしても愛嬌があったので憎まれることはなかったが、無鉄砲で、よく相手を傷つけたらしい。澄が町を歩いていると「お前は政五郎の子やろ、清吉どんがわしにこんな傷つけたわい」と腕や足をまくって見せる人、肩肌をぬぐ人があったという。いっしょには住めなくなっても、同じ綾部の町内で紙漉きの修業中の清吉兄がいることは、澄にはどれほどか心強かったろう。 ・・・後略。

 ●第六篇 筆先濫觴 第二章 すえで都といたすぞよ

 ★近衛兵入隊 p373

 明治25年11月下旬、出口家に、直の次男・清吉(21歳)が近衛兵として徴兵される通知が届いた。

 近衛兵は、各師団ごとに、甲種合格しかも品行方正というきびしい資格をくぐり抜けた者の中から選ばれる。何鹿郡全体で、近衛兵の現役は、今度入隊する出口清吉・荻野富吉を加えても、僅か3名しかいない。清吉の近衛兵入隊は、綾部町の誉れであった。

 『何鹿郡役所日誌』の11月23日の項に「本年入営すべき新兵中、近衛兵入営に付、11時郡長より訓示あり、本部奨武会よりて酒肴料を贈る」と記載されている。清吉も招かれて、さぞ晴れがましい思いを味わったであろう。入隊者に対する役所や一般人の反響には幾多の変遷があったが、右の記録から、近衛兵に対するこの時の郡役所側の鄭重な待遇が推測できる。

 久の手記で見ると、この前後、清吉は八木まで行き、福島夫婦に別れを告げている。正確な日は不明だが、福島家はちょうど秋の収穫期で、猫の手も借りたいほど多忙であった。しかも久は10ヵ月の身重のため、充分には働けぬ。「忙しいから1泊して手伝ってほしい」と久に頼まれた清吉は、見かねて2泊し、稲刈りを助けている。王子まで足をのばしたかどうかは不明である。

 入隊する清吉のために、直はせめて好きな物を食わしてやりたいと願った。希望を聞くと、清吉は「そうやなあ、掘りたてのさつま芋が食いたいなあ」と答えた。直が苦労して手に入れたさつま芋を、男盛りの清吉がふうふう吹きながら、「うまいうまい」と言って食うのであった。

 長男・竹蔵は家出していまだに行方が知れず、三男・伝吉は大槻家へ養子にやり、清吉だけが出口家に残る只一人の男子である。その力と頼む息子をお国に奪られる直のせつなさは、いかばかりであったろう。

 「出口清吉近衛兵入営に関する通達」
― 11月24日兵庫県氷上郡柏原町旅籠業播磨屋方に集合、25日柏原町出発、三田を経て翌26日神戸着、27日近衛兵受領委員に引渡し28日神戸出発、横浜まで海路、それより汽車で東京に至る。

 清吉の東京近衛兵師団入隊は、(明治25年)12月1日であった。

 続く。
                    

●『いり豆の花』 出口和明(やすあき)

●『いり豆の花』 出口和明(やすあき) 八幡書店 1995年7月 
 
 第七篇 金光時代 第二章 艮の金神うそぬかした

 ★嘘ぬかした p442 

 「忠兵衛の家におる折に、人が清吉は死んだげなと申すなり、天朝からは何の沙汰も無きことなり、ことに近衛にいておりて死んだ話はあれど役場からも何の話もなきことなり、こちらから西町・大槻鹿蔵(*直の長女米の夫)が骨おりて手紙をやりたりいろいろとしよりたら、死んだと申して、骨を取りに来いと申して、福知山の陸軍へ取りに来いと申して沙汰がありて、あおやすの婆が桐村清兵衛の家まで参りて、その折は出口も怒りて、『こら、艮の金神、嘘ぬかした』と申して、『もう、言うことは聞いてやらん』と申したなれど、そこには子細のあることざ。そうは申しても、同じようにご用聞いてくれて、物事出来がいたしたぞよ」(明治35・旧9・28)

 「清吉は死んでおらんぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30・旧正・5)

 まだ西村忠兵衛の家にいる頃、「清吉はんが死んだげな」という出所不明の噂が流れた。だが直が腹の中の神に伺うと、「死んでおらぬぞよ」というきっぱりした答えが返ってくる。直は安心していた。

 大槻鹿蔵は清吉を愛しており、何回も手紙で問い合わせたりして、噂の真偽を知ろうとした。出口澄の『おさながたり』は述べる。
「今盛屋の大槻鹿蔵は悪党でありましたが、清吉兄さんを子供のように可愛いがっていたので、清吉兄さんと一緒に征った人が帰ってきても清吉兄さんが帰って来んのに業を煮やして、綾部の町役場へ『どうしてくれるんだい』と言って怒鳴りこんでいきました。役場から軍隊へ問い合せると、清吉兄さんの入っていた隊の者に戦死者は1人もないとの回答がきました。しかしそれから半年立ち1年立っても(ママ)、清吉兄さんは帰ってこられませんでした」

 だが突然、役場から、次男・出口清吉が戦死したから福知山歩兵二十連隊へ骨を取りにこいという通知があった。

 引用の筆先の「あおやすの婆」とは誰か不詳だが、『教祖伝』によると、遺骨はいったん直の兄・桐村清兵衛の家に安置され、後に埋葬された。現在は天王平の墓地に遷されている。

 遺骨と対面して、「こら、艮の金神、嘘ぬかした。もう言うことは聞いてやらん」と、慎しい直にはあるまじき荒っぽい言葉で怒りを表現する。いかに清吉の戦死が衝撃であったかが知れる。だが神は、国から弔慰金まで下賜されながら、「清吉は死んでおらんぞよ」と言う。

 筆先の表現の特徴は、すべて平仮名と数字だけで、句読点のないことだ。句読点は文意を正確に判断するためには意外に重要である。

 「ものさしはかります」の看板にしても、「物差計ります」と読みたくなるが、実は「物差、秤、桝」の計量器の看板だったりする。

 江戸中期の脚本作家・近松門左衛門が数珠屋に「なぜ句読点なんか打つんですか」と質問された。近松は笑って取り合わなかったが、その後、「ふたへにまげてくびにかけるじゅずをつくれ」と紙に書いて、数珠屋に註文した。数珠屋はおかしいなと思いながらも、注文通り、二重に曲げて首にかける長い数珠を作って持って行った。すると近松は、「それは注文の品と違う」という。数珠屋は「いえ、御注文通りです。ほら、ちゃんとここに書いてあります」と注文書を見せると、近松は「わしの註文したのは、二重に曲げ、手首にかける数珠じゃ」と答えたという。

 筆先の「しんでおらん」にしても、「死んでおらん」と読めば、死んでいないのだから生きていることになる。だが「死んで、おらん」なら、「死んで、もういない」。

 句読点のあるなしで、全く正反対の意味になる。あるいは、肉体は死んでいるが、魂は生き生きとして働いているという、折衷的な解釈もできよう。

 だが直や役員信者たちは、神の言葉を長い間「死んでおらん」とのみ理解し、清吉はいつ帰ってくるかと、待ち望んだ。 

 ★御霊の因縁 p443

 「出口清吉は結構に艮の金神さま、龍宮の乙姫さまにお世話になって、結構なことさしてもろうておりまする。清吉殿は艮の金神が日の出神と名がつけたる子よ。正一位稲荷月日明神と申すぞよ」(明32・旧8・10)
 「出口清吉を日の出神と神界から命令頂きて、今度の大望について出口清吉と三千世界の手柄いたさして、日の出神と現われて、親子2人を地にいたして、昔からの因縁を説いて聞かしたならば、変性男子と女子の囚縁が解るぞよ。この因縁は珍しき因縁ざぞよ。説いて聞かしたならば、みな改心できるぞよ。出口直、出口清吉、出口澄、みな因縁ある身魂であるぞよ。今度世の元になる因縁の身魂が天で改めいたして、一とこへ集めてあるのざぞよ」(明33・旧7・25)

 「明治36年の4月の28日に岩戸開きと相定まりて、結構に変性男子と女子との和合がでけて、金勝要(きんかつかね)大神は澄子に守護いたすなり、龍宮さまが日の出神に御守護遊ばすなり、四魂そろうての守護いたさねば、今度の世の立替には、上下そろわんとでけはいたさんぞよ」(明治36・旧4・30)

 では清吉の生死がなぜ重要かといえば、筆先に、清吉の御霊の因縁が日の出神と告げられているからである。

 日の出神とは、立替に必要な四魂のうちの二魂で、とりわけ龍宮の乙姫と引き添うて外国で大働きするという、信者の夢かき立てる神である。『霊界物語』によれば、伊邪那岐尊の御子大道別(おおみちわけ)の没後、国祖は大道別の四魂のうち、荒魂・奇魂(くしみたま)に日の出神、和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)に琴平別神と名づけ、陸上は日の出神、海上は琴平別として神界の経綸に奉仕するが、国祖出現に当たってば聖地に出現して地盤的太柱になるという。日の出神とはいわば職名であり、大道別の一つの働きをさす。

 出口清吉が日の出神というのは、一時期、その役割を分担したことを指し、日の出神の本体ではない。だが当時の信者たちは、そのようなことは知らない。

 日の出神の本体、すなわち大道別の現界的働きをする出口王仁三郎が綾部入りして金光教団から独立し、金明霊学会(大本教団の母体)を設立して以後も、大本は世間から気違い集団のように見られていた。その集団に参加している役員、信者たちは、出口清吉が日の出神としての働きを示し、やがて外国から大手柄を立てて帰ってくる、その時こそ輝かしい日の出の守護の世になるという期待を抱いていた。

 清吉はまさしく救世の大英雄、夢の存在であったが、その消息はようとしてつかめず、虚しく時が過ぎていく。 

 ★清吉死の謎 p444 

 清吉は本当に戦死したのか。

 日清戦争は明治27年8月1日勃発、28年4月17日下関で日清講和条約が調印され、日本の勝利で終る。この結果、日本の植民地として台湾領有が決まる。日本は樺山海軍大将を台湾総督に任命、軍事抵抗を予想し北白川宮親王の率いる近衛師団を台湾に派遣、その一兵として清吉も加わる。

 5月25日台湾の中国系本島人は台湾独立共和国建設を宣言し、それに応じて各地に反乱が起る。5月29日近衛師団は台湾に上陸、抵抗らしい抵抗もなく10日目には台北に無血入城するが、その後は蜂起した島民の鎮圧に忙殺される。10月19日抗日軍は降伏し、近衛兵は台南に入城、その直後、近衛師団長・北白川宮は悪性マラリアのため台南で薨去する。11月中旬には樺山台湾総督から「台湾は全く平定に帰す」と政府に報告があり、遠征軍は続々と引揚げを開始するが、清吉は帰って来ない。その後も台湾島民の執拗な抗日運動は続き、大本営解散は29年4月に持ち越される。

 出口家戸籍に記された清吉の死亡年月日は明治28年8月18日である。しかしこの時点では、台湾に本格的な戦争は行なわれていない。日本軍が台湾を鎮圧するために投入した兵力は二個師団半、人数にして5万人である。その中で戦死者はわずか164人、日本軍が苦しんだのは実際の戦争ではなく、マラリアと食料不足である。北白川宮も台南で悪性マラリアのため薨去したように、悪疫による死者は4600人、病気による内地送還者は2万人以上である。

 では清吉の死は戦死ではなく、戦病死なのか。綾部町役場に残された出□清吉に関する記録を見よう。

 出生 明治5年6月6日
 入営 明治25年12月21日
 所属 近衛歩兵第一連隊第二中隊
 階級 歩兵一等卒
 負傷入院地 台湾病院
 死没 台湾病院にて 明治28年7月7日
 葬儀 明治28年8月27日
 扶助料及特別下賜金 下賜あり。扶助料は年30円、大正7年の出口直帰幽まで支給を受く
 住所 京都府何鹿郡大字本宮村東四つ辻二の二

 これによると、清吉は戦地で負傷し台湾病院に入院、七夕祭の7月7日に死んだことになっている。単なる病死ではない。更にいぶかしいのは、死亡日の食い違いである。戸籍では8月18日、出口家祖霊名簿では8月16日の死亡とあり、町役場の記録では、葬儀は8月27日になっているが、その時点では直は清吉の死を知らされていないから、葬儀を行なうはずはない。また戦死の通知があった後も、直は神の言を信じて清吉生存を信じていたから、葬儀をするとは思われない。恐らく出口家とは関係なく、軍隊によってなされたのであろう。

 清吉の生死の問題やそれにまつわる神秘的な問題、日の出神の問題などは拙著☆『出口王仁三郎・入蒙秘話・出口清吉と王文泰』(いづとみづ社刊)に詳述しているので、参照されたい。

 ☆註:この著は現在、みいづ舎刊(昭和60年第1版−平成17年第2版)で読むことが出来る。これも、後ほど当該部分を紹介します。

  続く。                   
 

●『出口王仁三郎 入蒙秘話』

●『出口王仁三郎 入蒙秘話』 出口和明 みいづ舎 平成17年刊 

 P47〜(*適宜要約)。

 ・・・
 では清吉の死は(戦死ではなく)病死だろうか。ここに綾部町役場に残された出□清吉に関する記録がある。

 出生 明治5年6月6日
 入営 明治25年12月21日
 所属 近衛歩兵第一連隊第二中隊
 階級 歩兵一等卒
 負傷入院地 台湾病院
 死没 台湾病院にて 明治28年7月7日
 葬儀 明治28年8月27日
 扶助料及特別下賜金 下賜あり。扶助料は年30円、大正7年の出口直帰幽まで支給を受く
 住所 京都府何鹿郡大字本宮村東四つ辻二の二

 これによると、清吉は戦地で負傷して台湾病院に入院、七夕祭の7月7日に死んでいる。(ことになっている。)単なる病死ではないのだ。そしていぶかしいのは、死亡日の食い違いである。戸籍では8月18日死亡であり、出口家祖霊名簿では8月16日の死亡になっている。まったく清吉の死は謎だらけではないか。(前記のように、町役場の記録では、葬儀は8月27日になっているが、その時点では直は清吉の死を知らされていないから、葬儀を行なうはずはない。また戦死の通知があった後も、☆直は神の言を信じて清吉生存を信じていたから、葬儀をするとは思われない。恐らく出口家とは関係なく、軍隊によってなされたのであろう。)

 ☆直が生存を信じたのも当然だった。直が神にうかがうと、きまったように「清吉は死んではおらんぞよ」という答えがはね返ってくるからである。

 ○「清吉は死んでおらぬぞよ。神が借りておるぞよ。清吉殿とお直殿がこの世のはじまりの世界の鏡」(明治30年正月7日)

 ○「他ではいはれぬが、出口清吉は死んでおらんぞよ。人民に申してもまことにいたさねど、清吉は死なしてはないぞよ。今度お役に立てねばならんから、死んでおらんぞよ」(明治32年旧8月10日)

 ○「出口清吉を日の出神と神界からは命名いただきて、今度の大望について出口清吉と三千世界の手柄いたさして、日の出神と現われて、親子二人を地にいたして、昔からの因縁を説いて聞かしたならば、変性男子と女子の因縁が解かるぞよ。・・・略・・・出口直、出口清吉、上田鬼三郎、出口澄、もな因縁ある身魂であるぞよ。」(明治33年7月25日)

 著者・出口和明は、「何故清吉の生死がの重要なのか」というと「清吉の御霊」と「日の出神」との連環が筆先で告げられているからである、という。

 事実、この「筆先」は後に教団内に様々な【風雨】を巻き起こすこととなる。

 【風雨】の最大のものは、昭和6〜7年(1931〜2)にかけて、日出麿(大本三代教主・出口直日の夫(婿)、旧姓は高見元男)を担いだ「王仁三郎追放運動」ともいうべきもので、運動主体は二代教主・出口澄−出口直日−日出麿であった。(*澄は戦後この運動について自己批判することになる。)

 それはともかく、清吉死亡の通知が届いた当時の大本は、「世間から気違い集団のように見られていた。」 役員・信者たちの期待は「死んではおらぬ」はずの<清吉=日の出神>が「今にも外国から大手柄を立てて帰って来る、そのときこそ、輝かしい日の出神の守護の世になる」という期待だった。

 *************

 『出口王仁三郎 入蒙秘話』の当該章に戻る。

 ★二、北清事変と王文泰 p89〜

 では、なぜ王仁三郎は王文泰と名乗り、わざわざ名刺まで作って入蒙したか。単に偶然ではないことは明らかだ。なぜなら、王仁三郎の歌集『青嵐』にこういう歌があるからだ。

 日本人王文泰の仮名にて皇軍のため偉勲をたてたり
 王文泰は日清戦争のそのみぎり台湾島に出征せしといふ
 かくれたる北清事変の殊勲者は王文泰と新聞にしるせり
 王文泰の英名聞きて我はただ異様な神機にうたれたりける

 北清事変の時、王文泰が活躍したということが新聞にも載り、その記事を見て王仁三郎は異様な神機にうたれたのだ。出口澄も『おさながたり』で「王文泰という人は北清事変の時に日本の新聞にも載った人で、先生もその時の新聞で王文泰のことを読まれたときハッと感じておられたそうです」と語っている。

 北清事変とは・・・略・・・。

 ★三、京都日出新聞

 さて、話は『大地の母』(旧毎日新聞社版)執筆当時に戻る。
昭和46(1971)年1月28日、『大地の母』の文献調査を担当していたYが京都府立総合資料館に行くと、大本教学研鑽所のKとAにぱったり出合った。彼らは朝から王文泰の記泰が掲載されている新聞の調査に来ていたが、いくら探しても発見できず、むなしく引揚げるところだった。

 彼らと別れた直後、Yが何げなく取り上げた新聞が『京都日出新聞』である。特別の目的もなくぱらぱらとめくっていると、突然「王文泰」の三文字がYの目に飛び込んできた。再び読み直して間違いないことを確認すると、急に涙がこみ上げ、体が震えて止まらなくなった。

 Yは帰って来て、私に熱っぽい口調で報告した。
 「私が震えたのは、発見したというだけの歓びじゃない。私の心の中に、出口聖師に対する疑いが頭をもたげてどうしようもなかったんです。王文泰の記事については、私も今までさんざん調べました。『大本七十年史』でも調べたでしょうし、げんに今日だって大本研鑽所で調べて発見できなかった。北清事変のあった明治33年に聖師の読みうる新聞は限られているはずです。これだけ手をつくしてそれでも発見できぬとなると、新聞記事の存在そのもの、さらには王文泰や蘿龍の存在そのものまで疑わしい。

 もしかすると、聖師は嘘つきではないかと、聖師の人格まで否定したくなっていました。だから新聞記事を発見した時に体が震えたのは、ああ、聖師はやっぱり本当のことをおっしゃっていたという喜びでした。そして聖師がかつて読まれた同じ記事を71年後に自分が読んでいるかと思うと、涙が出て、涙が出て」

 この記事は『日出新聞』明治33年8月13日(日曜日)付二面である。『日出新聞』とは古い伝統を持つ京都の有力地元新聞で、昭和17年に『京都日日新聞』と合併して『京都新聞』となっている。当然、王仁三郎は『日出新聞』に目を通したことであろう。

 地元新聞だから、誰もが真先に『日出新聞』を調査したはずだ。にもかかわらず発見できなかったのは、その記事、特に見出しの扱いに問題があったと思われる。つまり、王文泰と仮名する日本人が北清事変で偉勲をたてたといえば、誰しも派手な扱いを想像するのが当たり前だが、実際は地味すぎるぐらいの扱いだ。前頁に掲載の写真(略す)を見ると、中段の左から2行目に『軍事探偵王文泰』と小さくあるだけだ。見出しも本文と同じ5号活字で、発見できたのは全くの偶然と言っていいだろう。

 次に記事の全文を転載しておこう。

 ★四、王文泰の記事

 「去る十日太沽(ターチー)より入港の朝顔丸にて帰朝せし従軍者・某語って曰く。
 軍事探偵王文泰のことは既に内地に伝はっても居ましょうが、丁度天津城陥洛後の事でした。私が居留地の或処に行きましたら、三十才前後の元気のよい一人のチャンが巧みに日本語を遣って切り(しきり)に話をしていました。
 其の話し振りの上手なことは内国人でも叶わぬ程ですから、彼人(あれ)は何だと某処等の人に尋ねたところが、彼人こそ軍事探偵王文泰よと答えた。某処で私は直ぐ名刺を取り次いで貰って面会して話をしましたが、至って快濶な人で、十数年来南清から北清と四百余州を
股にかけて跋渉したもので、清国内地の状況や言語には余程精通し、服装言語の如きも丸で支那人としか見られないので、歩き様に至るまで支那人其儘であるから、誰が見ても支那人に違いはない。

 其筈です。支那人すらも他国の人だとは見分けをしないといふことです。辨髪や清装したのは内地人に多くありますが、歩き様から體のこなしにいたるまで支那人其儘を真似するものは有りません。

 本名は云えぬが何でも土佐人といふ事で、其の他の事は憚る処があるので、唯だ王文泰とは世を忍ぶ仮の名であるといふことだけに御承知を願って置きます。

 此人は以前余程の無頼漢であったそうですが、斯る人であったから支那内地の跋渉も出来たのでしょう。太沽砲台から白河沿岸及天津城の偵察を遂げて、連合軍に少なからざる利益を与へたのは此非戦闘員の王文泰です。軍事探偵には斯の王文泰に譲らない人がもう一人居りますが、今頃は二人とも進発して居るさうです。

 処が今回の軍事探偵は外国人では出来ないので、是非とも日本人に依らなければならぬゆゑ、列国軍は此点に於て困難を感ずるのであるから、王文泰に対しては列国共大いに報ゆる処があって宜からう云々」

 ★五、王文泰は清吉か

 この記事で見る限り、王文泰が清吉であるという確証はない。「年の頃30前後」とあるが、清吉が生きていれば29才だから、この点は符号する。「快濶な人」というのも清吉の性格であり、支那を舞台の大活躍も暴れん坊の清吉にふさわしいと思える。また、支那人そっくりに化けているのも、艮の金神の真似をして直を驚かした清吉のことだから、それぐらいの芝居けはあったろう。

 反対に「十数年来南清から北清と四百余州を股にかけて跋渉した」というのは、もし清吉なら数年のはずで、別人を指摘しているかのようだ。だがこの記事は従軍者・某からのまた聞きで、記者本人が直接聞いたわけではないから、伝え間違いや誇張もあるだろう。だから、この記事を全面的に信ずるわけにもいかない。むしろ王文泰はスパイだから、わざと虚偽の告白をしたと考える方が自然であり、土佐の生まれというのも、おそらく身元を隠すための嘘の言葉と思われる。

 いずれにしても、王仁三郎はこれだけの記事を見て、「異様な神機に打たれ」王文泰こそ出口清吉なりと看破し、20数年後の入蒙にあたって、わざわざ王文泰と名のり、名刺まで作って満蒙百里の荒野を訪ねるのだ。すごい霊感というほかはない。

 それにしても、日の出神とされる清吉の手がかりになる記事が『京都日出新聞』に掲載されたというのも、何やら暗示的である。

 ★六、清吉の遺骨の謎

 馬賊・王文泰の前身が軍事探偵であったということは、この記事の発見によって初めて明らかになり、私は、今までの謎が一挙に解けた思いがした。

 戦時中日本の軍人が捕虜になると、軍隊は留守家族に戦死の通告をしたという。帝国軍人たるものは、捕囚の辱めを受けるべきでないということだろう。必要とあれば軍隊は平気で人を戸籍から抹消する時代である。清吉は軍隊によって、無理に死んだことにさせられたのではなかったか。

 清吉は暴れん坊で機転のきく人だったから、軍事探偵にはもってこいだ。清吉を第一線の軍事探偵として中国人に仕上げるために、軍隊はまず身元を消し去る必要があった。清吉が死んだということにしておかねば、因縁をつける鹿蔵ということで「因鹿」と綽名される大槻鹿蔵のことだから、当局にやいのやいのとしつこく迫ったことだろう。

 澄の『おさながたり』には、次のように述べられている。
 「清吉兄さんはそれから台湾に征って戦死したことになっています。そのころの近衛兵は赤い帽子をかぶっていたそうで、その当時、支那兵から赤帽隊と呼ばれていたものだそうです。清吉兄さんは金神様のお働きであると聞いておりましたが、戦争中にいろいろ不思議なことが現われましたそうです。また日の出の御守護といわれておりましたことも、思いあたるような働きを示したということをきいております。

 戦争がすみましても清吉兄さんは婦ってきませんでした。教祖様は神様にお伺いされ何か深く考えこんでいられました。
  (中略)
 筆先では「死んでいない」と神様が申され、その解釈についていろいろのことを聞かされましたが、その時の兄の戦友にききますと、戦死したという人はなく、ある人は隊から抜け出して支那の方面へ行ったとも言い、ある人は、兄が海に身を投げたのを見たと言って色々様々で、今もって兄が戦死したかどうかは不明のままであります。しばらくして戦死の公報が家に届きましたが、遺骨もなく、たった一冊の手帳が送られてきまして、これで戦死したということになっていたのです」

 清吉は、「戦争中にいろいろ不思議なことが現われましたそうです」とあるから近衛師団でも目立った存在だったであろう。軍事探偵の候補として白羽の矢が立ったことは、十分に推測できる。

 この中で「遺骨もなく」とあるが、先に引用の筆先には「この方から西町大槻鹿蔵が骨折りて手紙をやりたり、色々としよりたら、『死んだ』と申して、『骨を取りにこい』と申して、『福知山の陸軍へ取りにこい』と申してありて、・・・」とあるから、澄は遺骨が返された事実を知らなかったのであろう。当時、澄はわずか数え13才の少女だし、当時は私市へ奉公中で綾部には居ない、知らなかったとしても無理はない。

  続く。 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)−1

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)  ◆落合莞爾
 
 ★辺見勇彦、牧口辺見、出口清吉、日野強 大陸で暗躍する「草」たち
                      
 ★馬賊「東亜義軍」を率い大陸を疾駆した辺見勇彦

 前月号で触れた明治三十三年八月十三日付の『京都日出新聞』の記事中、従軍記者の話に「軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人いる」とあるのは辺見勇彦であろう。辺見勇彦の父・辺見十郎太★(嘉永二年〜明治十年)は、西郷隆盛・大久保利通・高島鞆之助らと同じく鹿児島城下で下級武士の住んだ三方限に生まれた。十郎太は性剽悍で、戊辰役では十八歳で小隊長となり、戦功を挙げて 名を馳せた。四尺四寸の大刀を自在に揮い、身長六尺、顎髭は悉く赤かったとなれば、他の薩摩功臣と同じくポルトガル鉄砲鍛冶が混じった血筋で、日本版マカイエンサと見て良い。私淑する大西郷に従って上京した十郎太は、四年七月御親兵に応じて初任大尉、六年に職務上の失敗で免官された後、帰郷する西郷に伴して鹿児島に戻る。

 ★ブロガー註:辺見十郎太については、昔こんなエピソードを読んだ。

 『明治の群像3』−明治の内乱 谷川健一編 三一書房 1968年刊 
 コラム・15(p209)<辺見十郎太とひえもん取り>というもので、以下のようにあった。

 作家の里見ク氏が〔ひえもん取り〕のことを書いておられる。お父さんが薩摩藩士であったから聞かれたのであろう。これは藩の重罪人を近郊の境瀬戸の刑場で処刑するときに屈強の若侍達が近くに居て、処刑されると罪人のところに飛んで行って耳、鼻などにかじりついて試し斬りの順番を得るのである。似たようなことを学生時代に西郷隆盛以下を祀る南洲神社の例祭の折、(九月廿四日の城山落城の日)、薩軍生残りの古老から聞いた。それによると辺見さんは薩軍随一の豪傑で、味方が退却すると逃げないように斬り殺したといわれているが、実際はそれより乱暴だった。逃げたものを斬っただけでなくその生き肝を私等部下に食べさせて、お前達も逃げるとこのようになるぞといわれたのにはびっくりしたものだ。辺見さんはそのような気性のはげしい人であったとその従軍した古老は語ったという。ある友人から聞いた辺見十郎太の一面である。

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 この機会に次のコラムも紹介しておこう。

 17 大山綱良と遺書

 鹿児島県令大山綱良は長崎裁判所に送られ、城山落城の数日後の九月三十日処刑された。この大山が獄の誰かの便で家族に送った小さな字で言いた紙片を大きな紙にはりつけてあるのが遺言である。

 「墓所 右松原神社境内エ御建立給わるべし。但し世の治て後然るべし。
 沖ノ村屋敷小クラ建立ノ事大松の下へ」

 この大松の下に墓碑の図を描いているが、この松には蝉も止っている。死を前にして落着いた心境であろう。
 「老体の姉三人これあり候間藤安よリ受取の内にてもお郡合を以て金二百円宛直に御渡形見に御送り下さるべし。」

 年老いた姉達を大事にする考えが形見わけのことを遺言している。
 「五十年来、世に生れ生涯苦心の身終にかかる身に終り候儀数度の戦場怨霊の報いと何れも御明らめなさるべく候、只々死に近き遺言を差送り候也」

 大山のような剛胆な大物であってもこのようになったのは数度の戦場で殺した怨霊の報いと考えているようである。これは人斬り半次郎といわれた中村半次郎が夜怨霊にうなされていたというのと一脈通ずるものがあるようだ。
 (鹿児島市立美術館長・坂元盛愛氏御教示による)

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 その〔人斬り半次郎〕桐野についても。

 14 桐野利秋の「京在日記」

 これまで「教養がひくい」「自分の名がやっと』書けるほどの あきめくらであったと」いわれる桐野利秋の曰記が上の写真で ある。字もたしかであるし、曰記中に和歌や漢詩なども、もの しているのである。また彼の画いた絵もあるが、多趣味な人物 であったようだ。幕末期の武士、明治の軍人としては普通以下 の教養ではないと思う。また曰記は慶応三年の九月朔日から十二月十曰までの約百曰間のものであるが内容も興味深い。信州上田藩士赤松小三郎は薩藩に招かれ英式兵学を教えていたが、
 慶応三年九月三日京都において暗殺されたが、一説に薩藩士の 手に掛るという(『鹿児島県史』)とあるが「京在曰記」の九月 三曰の条に[上田藩赤松小三郎此者洋学を治候者にて去春よリ 御屋敷に御頼に相成り・・・今度帰国之暇申出候に付段々探索方 に及候処弥幕奸の由分明にて」とあり、途中行き会ったので田代氏と追い掛けて遂に天誅を加えている。この曰記で桐野がはっきり暗殺したことがわかる。人斬り半次郎と呼ばれる通りである。日記には彼と連絡のあった人名が多く出てくるが、十一月十曰土州の坂本竜馬に行き逢っている。十八曰にはその坂本が暗殺されたことを聞いて墓参に駈けつけているなど、時期が慶応三年の大政奉還、王政復古の大号令の直前であるだけに興味深い。

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 寄り道はこの辺にして、吉薗周蔵の手記(29) に戻って、 続ける。                   

 辺見勇彦はその(十郎太)の長男で西南役の最中に生まれた。昭和六年刊の自著『辺見勇彦馬賊奮闘史』に身上の記述があるらしいが、目下未読のため、以下は推察を以て進め、後日必要に応じて補正したい。勇彦は陸士の入試に落ちて軍人を諦め、日清戦役末期に満洲に渡ったというが、明治十年生まれの年代は陸士新制(士官候補)九期に該当し、荒木貞夫・真崎甚三郎・本庄繁・阿部信行ら大将六人を輩出した当たり年である。幼年学校ならば二十六年に入校、中学年ならば二十八年八月の陸士入試に合格せねばならぬ。日清戦争は二十八年四月に講和したが、その後に台湾土匪の平定が本格化したから、台湾副総督・高島鞆之助が匪賊掃討を終えて帰国した二十八年十二月を以て実質的な終戦と見ることもできる。これからすると、辺見勇彦は二十八年八月の陸士入試に失敗して、間もなく満洲に渡ったものであろう。

 高島鞆之助の腹心宇都宮太郎(後に陸軍大将)が遺した『宇都宮太郎日記』の明治四三年二月二十八日条に、「満州長春にて実業に従事せる辺見勇彦来衙(元と高島中将の書生たりしことあり。二十七・八年戦役には馬賊を率て功あり。目下は長春に賭場を開き成功、何か御用に立ちたしとの申出なり)」との記載がある。高島鞆之助は二十五年陸相を辞任して以来、枢密顧問官の閑職に在った。実際は薩摩ワンワールドの総長に就いたがそれは世間極秘であった。ところが、二十八年八月二十一日に突如現役中将に復帰し、台湾副総督に補せられて渡台する。高島はそれまで勇彦を書
生に置いて受験準備をさせていたが、八月の入試に勇彦は落ちた。勇彦が高島の後に上原勇作の書生になったというのも、高島が台湾赴任にあたり勇彦の身柄を腹心上原中佐に預けたのであろう。日清戦役で第一軍参謀副長を務めた上原は二十八年五月に凱旋、その後休養の体であったが、二十九年二月から伏見宮貞愛親王のロシア皇帝戴冠式参列に随行し、八月まで渡欧した。ともかく勇彦は、二十八、九年ころに上原の書生を辞めて渡満したものらしい。

 陸士不合格で軍人嫌いになった勇彦は、満蒙を放浪して地誌・地要を極め、緑林(馬賊)に混じって頭目となった。正規軍人の志を捨てた勇彦に馬賊の道を勧めたのは、高島か上原と見て良い。彼らは、対露戦争の際は満蒙における後方撹乱が必要で、それには馬賊の活用が必須と考えていたからである。因みに、インターネットで検索した処、北海道某学校の舎監日記に、「明治三十二単一月十四日、辺見勇彦(鹿児島の人 土木科一年入舎」と出ているようだが、これは、勇彦が諜者の表看板として土木技師の肩書を取るために、一時的に籍を置いたものであろう。因みに、熊本高等工業の受験を放棄した吉薗周蔵も、陸軍大臣・上原勇作の命令で大正九年から東亜鉄道学校土木科に形だけ籍を置いたが、目的は、土木技師だと外国に入国する理由が立つからである。明治二十八年当時の辺見勇彦と大正元年の吉薗周蔵の立場は、良く似ている。

 近衛上等兵・出口清吉は二十八年夏、入院中の台湾病院を秘かに抜け出し、或いは帰国の船上で包帯で巻かれて水葬されたと伝えられたが、五年後の満洲で北清事変の功労者として、〔元気の良いチャン〕王文泰として『京都日出新聞』の従軍記者の前に現れた。清吉は満洲に渡り、身を緑林に投じた五年間に馬賊仲間の信頼を得たのである。清吉が台湾征討軍を抜けたのは、台湾征討軍司令官・高島鞆之助の指示と見るべきであろう。前掲『京都日出新聞』の記事中、「軍事探偵としては、王文泰に劣らないのがもう一人」とは辺見勇彦と見る以外にない。勇彦と清吉は同じ頃に、高島の筋により特務の道に入ったものと考えられる。

 日露戦争に際し、辺見勇彦は江崙波の名で馬賊集団「東亜義軍」を率いてロシア軍を悩ますが、正式身分は陸軍軍属で、橋口勇馬の指揮下にあった。宇都宮太郎の親友で共に高島の腹心を自任した橋口少佐は三十七年一月清国差遣(諜報)、三十七年二月兼大本営附仰附、七月満洲軍総司令部附、三十八年三月中佐進級、十一月に参謀本部附となる。二月の日露開戦の直前から満洲に渡り、諜報活動に当たって馬賊を指揮していたが、当時の出口清吉は、辺見勇彦と同様馬賊の頭目となり、王文泰ないし別名で橋口少佐の下で活動したのであろう。その馬賊仲間の一人が張作霖だった。 

 ★吉薗周蔵を「親方」とした牧口辺見なる人物の正体

 大正八年十月、上原勇作参謀総長から大連阿片事件の調査を命じられた吉薗周蔵は、知人・布施一の紹介で、辺見と名乗る男を調査員として雇った。

 その男は明治四年、越後国刈羽郡荒浜で倭族(海女)の渡辺ヰネの双子として生まれた。後に創価学会を創った牧口常三郎の双子の兄に当たり、本姓は牧口で、元は山梨で教師をしていたが、辺見勇彦を名乗る友人と土佐で知り合い、日常の交りのうちに薩摩弁を覚えた。ついでに姓も借りた理由は、本名は名乗りたくないのでと弁明したが、特務同士の姓名貸借は通常のことである。吉薗周蔵も、最初の渡欧では久原鉱業土木技師・武田内蔵丞を名乗り、二度目は煙草小売商・小山建一の名を借りるが、一方では吉薗収蔵の名前で誰かが特務活動をしていたわけである。

 布施の説明では、姓は辺見を名乗るが名は分からぬとのことなので、以下では一応「牧口辺見」と呼ぶことにする。周蔵が上原参謀総長に、大連阿片事情の調査は牧口辺見に頼むことにしたいと申告すると、上原が「コノ船二乗セタラ良カ」と世話してくれたのが、大谷光瑞の自家用船であった。船名の「寺丸」はいかにも滑稽と思った周蔵だが、後年牧口辺見から船内に「沈ムデモ南無阿弥陀仏」と者いてあったと聞いて、大いに呆れた。牧口辺見は、阿片の大物運び屋の元樺太長官・平岡定太郎(平岡公威=三島由紀夫の祖父)を追い詰め、大正八年十二月三十一日に満鉄列車内で地元警察に逮捕させたが、相手は何しろ元内務省高官で、すぐに釈放されてしまう。九年五月に上原から満洲出張を命ぜられた周蔵は、「大連(の牧口辺見)が心配だから、ついでに様子を見てくる」と申告した処、上原から「その男は信用できるか?」と念を押された。五月六日に東京を発った周蔵は、上原の手配で、途中五日ほど大連の大谷別邸に滞在する。その際に牧口辺見に会ったものとも思えるが、記録は見つからない。

 一年後の大正元年十月、帰国した牧口辺見は直ちに周蔵に報告に来た。それを四十三枚の聴書にして、上原に提出した処、「これで満足」と褒められ、報奨金を下さることになった(聴書は後年松本清張が小説『神々の乱心』のネタにした)。周蔵は、本人の要求額二千五百円を上原から直接受け取らせようとしたが、本人は上原に会いたがらず、「俺のような人間は、これ以上に上がってはいかんのだ。こうしておれは金になる話は幾らでも掴むから、金にすることは幾らでもできるが、それはやってはいかんのだ」と言い、「平岡の出自は俺と同じさ。そこで平岡を脅かせば、そこそこ金は出すが、それをやっては癖になるから、困った時はすぐやろうと思うようになる。そうなると、俺は悪戻りする事になっちまうから」との説明に、牧口辺見を礼儀正しいと見た周蔵は、今後も使うことにする。

 五月時点では半信半疑だった上原も、今は「ソン男デ良カガ、ウマフヤレ」とすっかり信頼した様子、と周蔵は記している。思うに、かつて辺見勇彦を書生としその後も橋口勇馬の下で「草」として使った上原が、その同県の牧□辺見を知らぬ筈はないのではないか。尤も、牧口辺見は正式軍属でなく、周蔵と同じような独立特務だから、上原の念頭になかったのかも知れぬ。後年のことだが、牧口辺見は「うちらの種は、頭は一人と決まってるんですわ,あの時、言い値の二千五百円をポンと出して下さったあんたが今でもワシの親方や」と明言したが、以後も周蔵を親方と呼び、満洲で椎名悦三郎に雇われながらも、その周辺の事情を時々周蔵に報告してきた。仄聞するところ、辺見勇彦と牧□辺見の接点は、土佐に在った諜者習練所(*前出)らしいが、出口清吉も幼少時代にそこで修業したというから、三人はいわば同窓生である。

  続く。    
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)−2

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)−2  ◆落合莞爾  
 
 ★杉山茂丸、堀川辰吉郎へと繋がる大江山衆・出口清吉  

 王文泰こと出口清吉のその後は、出口和明が『出口王仁三郎入蒙秘話』に述べるが、会員制情報誌『みち』に平成二十年九月一日号から連載する栗原茂の「大江山系霊媒衆」が、背景を詳細に解説している。甚だ難解な内容だが、これほどの超深度にまで達しないと、歴史の闇は見透かせない。超深度と呼ぶのは、王仁二郎曾孫の出口和明でさえ知らない事実を述べるからであるが、表現が晦渋なのは、真相の全面公開を憚って当座は黙示の形にしたものと思う。

 その中の一節を抄出してみる。「出口ナヲの次男・清吉は、並みいる〔草〕と異なり、少年期に表芸から裏芸まで、徹底して仕込まれていく資質を持ち合わせることから、杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していたのだ」。これは「清吉が少年期に、諜者としての表芸と裏芸の徹底的な習練を受けていた」との意味である。出□和明が一族と周辺の伝承を拾って理解した処とは全然異なるが、それこそ真相の深さを示唆しているのである。続けて「さて史家としては、出口の氏姓鑑識が必須の心得であり、大本教を論ずるには、何故に霊媒衆を出口姓としたのか、また王仁三郎(上田鬼三郎)を養子とした背景にどんな企みが潜んでいたのか、などの問題とともに、最大の課題は大江山系シャーマニズムを解く能力が問われよう」と言う。つまり、清吉を生んだ出口家の氏姓を解いて初めてすべてが分かると説くわけで、「ナヲの出た綾部出口家も、王仁三郎の出た穴太上田家も、共に大江山系シャーマニズムの霊媒家系」たる事の意味を強調するのである。さりながら、スサノヲ信仰の大江山系は霊媒系としては亜流であって、本流は役行者・小角の流れを汲む修験道であると栗原はいう。

 右(上)に抄出した一節「杉山茂丸ラインを経由して堀川辰吉郎に達していた」との指摘は重大で、堀川−杉山の行状が日本近代史の底流を規定することを意味するが、一般には理解の外だろう。諸賢の中には、杉山茂丸はともかく堀川辰吉郎の名を出すだけで、眉を曇らし目を背ける向きも在ろうかと思う。歴史感覚が学校歴史の延長上から抜け出ぬ以上、詮ないことだが、そろそろ気づいて貰いたいものである。本稿はこれまで繰り返し、杉山の実像を追ってきたが、杉山の根底が堀川辰古郎に繋がっていることを、今後は明らかにしていきたい。因みに、東条英機と陸士の同期(新制十七期)で陸軍少将に昇った古野縫之助の子息に、古野直也という作家がおられる。この方から私(落合)が幾つか教わった中に、堀川辰吉郎の後妻になった叔母の話として「堀川の銀行口座の残高は常に二百万円で、その月に引き出したのと同じ金額が、月末に何処かから振り込まれ、残高は常に二百万円を維持していたが、昭和四十一年十二月に堀川が亡くなると実行されなくなり、未亡人が問い合わせた処、「あれはもう終わりました」と言われた。相手は日本銀行総裁・宇佐美洵と伺ったが、疑う余地の少ない話で、堀川辰吉郎が只者でないことはこれだけでも察しが付くであろう。

 出口清吉が「並みいる草とは異なり、少年期に表芸から裏芸まで徹底的に仕込まれた」のは、個人的資質もさることながら、出自の大江山霊媒衆が杉山茂丸−堀川辰吉郎ラインに繋がっていたからである。前掲の栗原「大江山霊媒衆第十二回」に拠れば辰吉郎は嘉仁親王(大正天皇)御降誕の翌年すなわち明治十三年に京都堀川御所に降誕した貴公子という。京都行幸の折に使用さるべく造営された堀川御所で生まれ、そこで幼少期を過ごしたと知れば、辰吉郎が姓を堀川と称した次第も理解できよう。その御血統については、辰吉郎が孝明天皇および岩倉具視と深い関係にある、とだけ申し上げておく。後は栗原氏独自の晦渋な解説から、読者が想像力と推理を尽くして真相を汲み取るべき段階であろう。

 ★軍事スパイ・日野強の☆『伊犂(イリ)紀行』を読み解く

 出□清吉と陰で協働した陸軍軍人が日野強である。慶応元年旧十二月(新暦一八六六年一月)に伊予国小松町に生まれた日野は、県立師範学校から陸軍教導団に入り、陸軍士官学校に進み、旧制士官生徒第十一期生となる。同期には菊池慎之助(教育総監)、奈良武次(侍従武官長・男爵)の両大将のほか、関東都督府参謀長・西川虎次郎中将、初代奉天特務機関長・高山公通中将など、満洲に縁の深い将官が多い。軍事スパイとして有名な石光真清も同期生徒二百七名の内だが、日野の文にも石光の手記にも、互いの名を見ないように思う(未確認)。十一期士官生徒は、明治二十二(1899)年七月二十六日に卒業し、同日付で陸軍歩兵少尉に任官した。石光は即日近衛歩兵第二連隊付少尉に補せられたが、日野のついては「それから三年間ほどはどこに居たのか明らかでない」と日野の労作『伊犂(イリ)紀行』末尾に付した東京外語大教授(当時)・岡田光弘の解説は言う。岡田によれば、「防衛庁防衛研修所戦史室が親切に調べてくれた履歴」にも出て来ないのだから、そこには或いは特殊事情が存在するのかも知れぬ。大尉・中隊長までの日野の軍歴は省略するが、特務活動の始まりは明治三十五年七月一日参謀本部出仕として満韓国境に派遣された時で、義州方面を根拠にして清人スパイを使役して諜報任務を果たした。三十七年二月の日露開戦後は、黒木第一軍に属して通常の任務に服し、十二月十四日付で少佐進級、歩兵第三十連隊隊長になった。前述の橋口勇馬が開戦直前に渡満して諜報活動に就き、開戦後にも辺見勇彦ら馬賊を指揮していたのとはやや異なる。

 日野少佐が三十九年七月一日付で参謀本部附となった理由は、『伊犂紀行』の第一頁に「明治三十九年七月下旬、予はその筋より新彊視察の内命を受けたり」と記す通り、中央アジア偵察のためである。「その筋」を岡田は、「もちろん、これは参謀本部の命令であった」と解説するが、およそ軍人は指揮命令系統の中で活動するのが当然であり、参謀本部の命令を「その筋」などと持って回る必要はない。わざわざ「その筋」と言ったのは、外部からの要請を受けた参謀本部の内命と観るべきである。ともあれ、九月七日東京を発った日野は、二十日に北京に着いて準備を整え、十月十三日に北京を出発、四百七十四日に及ぶ大旅行を遂げ、四十年十二月二十五日に帰京復命した。翌年、明治天皇から召されて御前講演の栄に浴したことが、「その筋」の那辺なりしかを物語っていよう。

 その後の日野は、四十二年六月中佐に進級し、近衛歩兵第二連隊附となったが、四十五年三月袁世凱が中華民国臨時大総統に就任するや、六
月八日付で「陜西省方面二到り諜報活動二勤務シ、特二該方面二於ケル共和政反対党ノ動静ヲ偵知スルヲ勉ムヘシ」との命令を受けて、陜西省巡撫升充ら宗社党の動向を偵察した。大正二年に帰朝した日野は、間もなく大佐に進級して予備役編入、以後は山東省青島を住まいとし缶詰業や煉瓦工場を営んだが、『東亜先覚志士記伝』に「支那問題に関する志は依然として盛んで、一方には宗社党の士と往来し、一方には革命の志士と交わり」とあるのを見れば、いまだ全く国事を辞めてはいない。八年ころ既に健康を害した日野は、「そのころから大本教の教旨に共鳴し、青島における事業をなげうって丹波綾部に帰住し、大本教の幹部としてさらに新生涯に入ったのであったが、大正九年綾部において長逝した」(前掲)とある。しかし栗原「大江山霊媒衆・第一回」によれば、これは陸軍が出口玉仁三郎の入蒙を先導するため、満蒙事情に通じた日野を綾部の大本本部に送り込んだもので、真の目的は、王仁三郎とまだ見ぬ義兄・出口清吉との邂逅を実現するためであった。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(29)  <了>。 

 **************** 

 ☆『伊犂紀行』の紹介を少々。
 
 同書、上巻<日誌の部>は上の通り、明治40年12月25日の「帰京復命す。」

 で終わるが、その前日24日の記は、以下の通り。

 「神戸着。先着の安藤君来り迎う。午食を共にし、鉄路京都を経、
  西本願寺に大谷(光瑞)伯を訪い、長安における謝意を述ぶ。」

 その長安での「大谷伯との邂逅」(明治39年10月28日)は、次のようであった。(一部略)

 「予(日野)の陜州に着するや、たまたま本派本願寺大法主・大谷光瑞伯、同尊由師の一行(略)が布教かつ歴史研究のため、西安すなわち長安に向うに邂逅し、その後同地に到るまで相前後せり。・・・略・・・(大谷光瑞伯は日野に対し「多大の同情を寄せら」れ、また光瑞自身のカラコルム探検の体験談話、その経験からの携行品についての注意は日野にはありがたかった。)・・・
 この邂逅は、空谷の跫音を聞くが如く、予は痛く伯の懇切に感激せり。伯の好意は、これに止まらず、カシガル駐在の英国貿易事務官・マカートニ氏を初め、英領印度における紳士への紹介状を与えられ、かつ写真器械一組、時計一個をも貸与せられたり。特に記してここに伯の好意を謝す。」

 また、同書刊行時の<序>には、

 「明治四十二年四月 陸軍大将伯爵 奥保鞏(おく やすかた) 撰」とある。 

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に拠れば、

 ・・・奥は佐幕藩(豊前小倉藩)出身であり、しかも長州藩と直接戦火を交えた小倉藩士でありながら、陸軍内で異例の抜擢を受け続けた。これはひとえに奥自身の指揮統帥能力及び古武士に例えられる謙虚な性格によるものである。

 日露戦争において、軍司令官や参謀長人事は薩長出身者がほとんど独占したが、「奥だけは外せまい」というのが陸軍部内の一致した見方であった。4人の軍司令官のうち、参謀なしで作戦計画を立てられるのは、奥だけだった。奥は実は耳が不自由で、司令部では幕僚と筆談でコミュニケーションをとったとのことだが、奥の能力に影響を及ぼすことはなかったらしい。・・・

 とあるが、

 ・・・幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征伐に参加。明治維新後、陸軍に入営。

 明治4年(1871年)に陸軍大尉心得となり、以後佐賀の乱の平定、台湾出兵、神風連の乱の平定に参加。

 明治10年(1877年)の西南の役では陸軍少佐として熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり、2月21日からの熊本城籠城戦に参加。4月8日未明、歩兵1個大隊を率いて薩摩軍の包囲を突破し、薩摩軍の後方に上陸した政府軍(衝背軍)との連絡に成功した。・・・

 という複雑な履歴もある。

http://2006530.blog69.fc2.com/category2-9.html


 

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コメント
 
01. BRIAN ENO 2011年7月14日 12:50:10: tZW9Ar4r/Y2EU : GkP4o9Xp4U
今日で、「その24」である。コピー元のナンバーでは、29である。
今現在のコピー元のナンバーは52のようである。
今の時点では、ようやく、折り返し地点である。

これを投稿しているのも、
私が知らなかった日本の裏面史が書かれてあるからである。
書かれた内容を読むと、
いかに、官制の日本史が、表面しか、それも、加工して書かれてある事がわかる。

日本という国家が、特定のある勢力により、私物化され、
彼らのやりたいように動かされてきたことに驚きを禁じ得ないが・・
それは、現代にも連綿と続き、今の原発利権複合体問題へと直結するのである。

中曽根のような気の弱いの若造が、キッシンジャーらに、
脅され、怯えながらもしっかり資金提供を受け、
ルイス・L・シュトラウスの書いたシナリオどおりに、
原発推進関連法案を提出し、
政官財学、マスコミ、著名人、芸能人を巻き込み、
原発が生み出す金と利権を山分けするシステムを構築しえたのも、
連綿と続く、日本という国家を私物化し、
自分達だけが利する政治・経済・司法を継続させてきた勢力のなせる技である。
それを知らない国民は、それでいいのか?と自問しなければならない。

日本の本当の歴史、裏面史に触れずして、
歴史の真実、真相は見えてこないし、
洞察もできない。
それらに少しでも触れることができればと思い、
今後も、少しずつではあるが、投稿していこうと思っている。

しばらくお付き合い願えれば幸いである。


02. 2011年7月14日 14:22:43: FdHkrM6gYw
大変興味深い話であると思う。

もし、深夜に当てもなくサーチしているときに出会った文書なら全部読みきるくらい
噛り付いていたかもしれない。

しかし、阿修羅の記事としては「何が最重要か」を考え、それを見出しにして一つ記事をあげ
リンクすればそれで十分だと思う。

規制にひっかかってはいないので、私がいちいち説教することは野暮であるが、
この投稿の仕方だと、折角の周蔵ネタが即効でお蔵入りしてしまいかねない。

まあ、でもここまで周囲の空気を一切無視して転載し続けたのだから、最後までやりたまえ。


03. BRIAN ENO 2011年7月14日 14:50:41: tZW9Ar4r/Y2EU : GkP4o9Xp4U
02様コメントありがとうございます。

>しかし、阿修羅の記事としては「何が最重要か」を考え、それを見出しにして一つ記事をあげ
リンクすればそれで十分だと思う。

それはそれで貴殿の世界での考えかもしれないが・・

貴殿はご存じないかもしれませんが、

10年ほど、前だが、貴殿と似たような主張をなさる方がいらっしゃって、
阿修羅で問題になったことがある。

その時の結論(管理人様の采配)は、
貴重だと思われる情報は、この阿修羅をバックアップとして、
保存していくべきとの方向性が管理人様によって示されました。
私も管理人様の考えに賛成です。

というわけで、今回の投稿は、
コピー元のデータが失われる危険性を考えた上での投稿である。

その辺を広い心で受け止めていただければ幸いである。

>この投稿の仕方だと、折角の周蔵ネタが即効でお蔵入りしてしまいかねない

その理由を、お手数ですが、具体的に述べていただければ幸いである。

>まあ、でもここまで周囲の空気を一切無視して転載し続けたのだから

周囲の空気とは具体的に何か?

それも具体的にお答えいただきたいと思います。

>無視して

周囲の空気の正体が不明であるので
何を対象に無視したかが、特定できない。

できれば、ペンネームを記していただければ幸いです。


04. 2011年7月14日 15:32:37: FdHkrM6gYw
>貴重だと思われる情報は、この阿修羅をバックアップとして、
保存していくべきとの方向性が管理人様によって示されました。

重要な情報は、メインコンテンツとして阿修羅のフロントにあげる、ということなんじゃないでしょうかね。
阿修羅には目次の機能がないので、カルト8のどっかに連続掲載したはずだ、ということをどうやって
カルト9以降知らしめていくのでしょう。そうは思わないですか?コピー元のサイトが消えることより、
カルト8のあなたの転載が歴史に埋もれる可能性のほうが5000倍くらい高いと思うがな・・・・


>その辺を広い心で受け止めていただければ幸いである。

最終行で、受け止めるという意志を表わしたわけだが、それ以上話を広げるのはあまり粋ではないですね。

>その理由を、お手数ですが、具体的に述べていただければ幸いである。

http://www.asyura3.com/rnk/ranking_list.php?code=sjis&q=%83J%83%8B%83g&term=1

これを一言でいえばNo Thanksですよ。

>周囲の空気とは具体的に何か?

コメントの量が記事のヒット数に比例的に影響するカルト板。あなたの周蔵手記には全く、コメントがない。
インタラクションがない、つまり読者からの受けが無視されたまま投稿が続くことを指摘しています。
http://www.asyura2.com/09/reki02/index.html こっちでも似たようなことをやっていて
同じように白けた空気を作っているので、場違いだがカルト板のほうに移ってきた、というように見受けられますね。


05. 2011年7月14日 19:04:36: qMgd17wAMA
何かとんでもないことになっていますが

一つの投稿にまとめて
その中でコピー元52全てのリンクを貼りまくっていった方がよかないですか?


06. 2011年7月14日 19:07:10: qMgd17wAMA
もしくは、1を投稿。コメントに2〜52投稿して
この阿修羅をバックアップとして保存すればいいかと

07. BRIAN ENO 2011年7月14日 19:42:02: tZW9Ar4r/Y2EU : GkP4o9Xp4U
06様、
貴殿の方法でやってみます。
アドバイスありがとうございます。

08. 島唄 2011年7月14日 23:35:30: ZW97PFZHjT5Lg : 3mojW9e0OQ
阿修羅よ怠けるな。

09. 海幸彦 2011年7月15日 15:28:22: jY0c1QUHK1KaM : 3mojW9e0OQ
周蔵手記とかぶる部分も多々あるのですが「擬史」のカテゴリーの中にも凄いことが書かれてますよ。

よくもま〜これだけ調べたと感心します。


10. BRIAN ENO 2011年7月15日 15:43:39: tZW9Ar4r/Y2EU : GkP4o9Xp4U
09 海幸彦 様
私も見てますが・・
驚きますね〜
タダものじゃないです・・

11. 海幸彦 2011年7月16日 07:41:57: jY0c1QUHK1KaM : 3mojW9e0OQ
これだけのことを調べ上げられる人物、または組織だが、物的証拠が多々ある中、UFO−地球外知的生命体ー異次元知的生命体?についてはただの比喩だと軽く流している。

気になる点である。

大江山霊媒集なるものをあげるが、肝心の霊媒についてはスルーだ(私が今現在読んだ範囲内)。


12. felice 2013年1月11日 11:23:51 : AfACkvhoBP1WI : cwrS8JT2ac
これだけの奥深い内容、更にBRIAN ENO様ご自身の関連文献の投稿と、感謝してもしきれません。これまでご投稿ありがとうございました。これだけの情報を自分で探そうとすると膨大な時間がかかります。
それをまとめて一気に連載して下さり、心より感謝しております。

全て読ませて頂きました。
余りに衝撃的で、他のことが手につかないくらい没頭して、1週間かかって読みました。

「24」にて終わってしまったのでしょうか?
終わりでしたら、大変残念です。
続きは貴ブログで拝見するということでしょうか?

また再開の運びになりましたら、是非拝読させて頂きます。

本当にありがとうございます。


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