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聖霊の導き(キャプテン・マクさんの日記)
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投稿者 もみの木 日時 2011 年 9 月 04 日 21:42:42: 7jMSCDqL4TVIk
 


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2011年9月4日
聖霊の導き

聖句 ヨハネ一4:13-16

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。

キリスト者として生きるというのは、日曜日に礼拝に出るというだけじゃありません。毎日を聖霊に導かれて生きるということであります。毎日、毎時、毎瞬、聖霊に導かれて生きることです。

聖霊とは神様の霊、神様の御霊でありまして、超自然的存在であります。トーマス・ハワード中将は申しました。「救世軍人とは超自然的力によって生きる人々である」 毎日を聖霊に導かれて生きるとは、毎日を超自然的力によって生きるということであります。

毎日を聖霊に導かれて生きる。これは、どのように始まり、どのように展開し、どのように完成するのでありましょうか。

1 聖霊を受ける

いったいどうしたらわたしたちは聖霊を受けるのでありましょうか。ヨハネの手紙一第4章15節が鍵であります。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」これであります。

肝心要なのは「公に言い表す」ということであります。単に心の中で思っているというだけじゃない。人々の前に立って、はっきり証しするのである。「わたしは、イエス・キリストが神の子であって、わたしのために、ほかならぬこのたわたしのために十字架にかかり、三日目に復活し、罪の赦しを与えてくださった救い主であることを、いまここにはっきり言い表します」という、これをすることである。

ここがキリスト者の最初のスタート地点であります。この地点に立たなけりゃ、キリスト教的生活は絶対始まり得ません。人々の前に立って、「イエス・キリストは神の子であって、わたしのために十字架にかかり、三日目に復活し、罪の赦しを与えてくださった救い主であります」とはっきり言い表すのです。 

すると何が起こるか。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」という、これが実現する。神がその人の内にとどまるとは、神がその御霊、聖霊によって、その人の内にとどまってくださるということであります。

2 聖霊を実感する

イエスが神の子であると公に言い表した。聖霊がわたしの内に入ってくださる。するとどうなるか? わたしたちは聖霊を実感するようになるのであります。

聖霊を実感する。こういう実感であります。ローマの信徒への手紙第8章16節「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」 わたしたちは自分の胸に手を置いて静かに自問自答するのである。わたしは救われたのか? わたしは神の子どもとして受け入れられたのか? こう自分の胸に問いかけるとき、心の内なる声が聞こえて来る。「アーメン、おまえは確かに神の子どもとされた。喜び、喜べ!」 これこそが、われらの内に宿りたもう聖霊による証しであります。

ガラテヤの信徒への手紙第4章6節も同じことを言うております。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実からわかります」 わたしたちは自分の胸に手を置いて、天を見上げ、神様に祈るのである。「天のおとうさま、あなたを賛美します!」 実にわたしたちが神様に向かって「おとうさま」と呼びかけて祈れるという、この不可能を可能にしたもうのが、われらの内に宿りたもう聖霊であります。

このようにわれわれは聖霊を実感するのである。なんでそう実感できるのか。そう感ずるんだから感ずるんだ、としか言いようのないものであります。これが聖霊の実感、聖霊による証しでありまして、救世軍教理第8条にこう述べられております。「われらは、われらの主イエス・キリストを信ずることにより、恩恵(めぐみ)によりて義とされること、また信ずる者はそのうちに証(あかし)を有することを信ず」

救世軍の集会では「証し」の時間がございます。証しの時間とは、元来は旅行の報告ではない、自分の思想を述べることではない。証しの時間とは、「アーメン、わたしは確かに救われて神の子どもとされています。実に神様はわたくしのおとうさまでありますゆえに、喜び喜んでおります。ハレルヤ!」という聖霊の実感を証しすることである。だから別に長く証ししなけりゃいけないわけではない。「ハレルヤ、わたしはイエス様を信じて救われ、神様の子どもとされ、喜んでおります」という、短く単純な証しで十分なのであります。

3 聖霊に導かれる

イエスを神の子と言い表す。聖霊を受ける。聖霊を実感する。そのようにして、われわれは聖霊に導かれて生きるようになります。ヨハネの手紙一第4章13節「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります」 天地万物を創造したもう神の大いなる臨在の中にすっぽり包まれて、われわれは生きるようになる。神の内にいるわたし、であります。神の臨在にわれわれは包まれ、しかも、われわれの内側に神の御霊である聖霊が満ち満ちてくださる。わたしの内にいます神、であります。

かくのごとき神との親しい交わりを通して聖霊はわれらの歩みを導きたもう。ヨハネによる福音書第14章26節「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」 聖霊はどのようにわたしたちの人生を導いてくださるのか。

詩編第23編3節「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」 主は永遠の命に至る道へと、われらを導きたもうのであります。

詩編第48編15節「この神は世々限りなくわたしたちの神。死を越えて、わたしたちを導いていかれる」 この地上の生活を越え、死を越えて、死の彼方にある世界、死の彼方にある希望、永遠の命に至るまで、われらを導きたもう。

詩編第73編24節「あなたは御計らいによってわたしを導き、後には栄光のうちにわたしを取られるであろう」 救世軍では死ぬことを召天、英語でプロモーテッド・トゥ・グローリーと言います。文字通りには「栄光のうちに取られる」ということでありまして、神がわたしたちを栄光のうちに神のふところの中へ取られるという、そこまで聖霊はわれらを導きたもうのであります。

イザヤ書第30章21節「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け』と」 聖霊はわれらに親しく語りかけたもう。人生の重要な場面において、右に行くべきか左に行くべきか、聖霊は内なる声、直感的な声を通してわれらを導きたもう。そうして、聖霊の導きは確実であります。

使徒言行録第10章19節から20節「ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。『三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ』」 これを見ますると、ペトロは聖霊による直感的語りかけを受けて、行動しております。

使徒言行録第13章2節「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』」 聖霊の直感的語りかけを受けて、指導者を選び出しました。救世軍では、最高指導者を選ぶ最高会議において大半の時間を祈りのために費やします。それはまさに聖霊の語りかけを聞くためであります。

使徒言行録第16章6節「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」 良いことをするのであれば、とにかくなんでも良いことをすればいいだろう、というのがわたしたちの考えです。しかし、たとえ良いことであっても、聖霊が禁じられることがあるのです。禁じられた時には、わたしたちは従順でなければなりません。

4 霊的な識別

聖霊の導きがあると言っても、わたしたちはなんでもかでも直感的に歩めばいい、何も考えなくていい、という無責任なものではない。この世界に働いているのは聖霊だけではありません。まどわしの霊も働いております。まどわしの霊というのは、その名のとおり、まどわすことに非常に長けております。ですからわたしたちは、なんでもかでも直感でもって慌てて走るのではなくして、おちついて冷静に霊を識別しなければなりません。

ヨハネの手紙一第4章1節から4節「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今やすでに世に来ています」

わたしたちは、どのように霊を識別するのか。霊的な経験、霊的な体験、直感的な語りかけを受けたとき、おちついて静かに自分の心のうちに語りかけるのです。「これは、世に来られた救い主イエスキリストの栄光、ただただイエスキリストの栄光だけ表わすものであるか? それともキリスト以外の何者かの栄光を表わすものであるか?」 そう静かに心の内に問いかけるのです。「アーメン、それはただイエスキリストの栄光のみ表わすものである」と確信できたら、聖霊の導きであります。

「いや、そうでない。それは、おまえの栄光を表わすもの、おまえの野心を実現するもの、おまえの願望を実現するものだ。イエスキリストの栄光を表わすものではない」と思えたら、聖霊の導きではありません。断固拒否しなければなりません。こうしてわたしたちはまどわされないのです。

結論

どうかわたしたちは、イエスを神の子救い主として公に言い表し、自分の心の中に聖霊をお迎えし、聖霊を実感し、聖霊の臨在の中で、聖霊の導きを受けながら、進んで行きたいものであります。 >>  

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