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山本五十六の真実H吉田茂と昭和天皇の近衛父子抹殺指令・文隆編
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/771.html
投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 1 月 02 日 17:19:25: 8qHXTBsVRznh2
 

先ず、前回文麿編で『道楽したのは長身ハンサムなモテ男文隆である』と書いたことをお詫びして訂正します。松本重治の『通隆が道楽してしょうがない』という偽証に対する反証として書きましたが、やはり『道楽』という言葉には語弊があります。モテることと『道楽する』ことはまったく別ものです。文隆はいわゆる放蕩息子ではありません。文隆の名誉を傷つける発言であったことをお詫びして訂正します。


以下本文です。


あるいは松本重治が『道楽』という言葉を使ったのは、白洲次郎の『プリンシプルのない日本』の中で使われた近衛父子を貶める手法を真似たものかもしれない。訂正ついでといっては何であるが、その手法を以下に披瀝する。吉田茂の指令で近衛父子を嵌める工作をしていた張本人である白洲のバックレぶり、一部外国大使館員らに『二枚舌を使うヘビのような男』と評されていた白洲の人となりの『生態』が『如実』に現れている。


白洲次郎『プリンシプルのない日本』より以下抜粋


『吉田茂は泣いている 


近衛さんの強気と弱気


悲劇の政治家の標本みたいにいわれている近衛文麿氏も、私には非常に印象の深い人である。近代の政治家であの人ほど頭脳明晰だった人は少なかったろう。しかしおしむらくは、公卿の特性として決断力にはかけていたように思う。一面気の弱かった半面に、また常人には考えられない一種特有の図々しさというか、盲者蛇におじず的のところがあった。

(中略)

そんな強気の反面、自分の子供にすら小言を言えなかったような弱気の面もあった。この弱気はほとんどだらしなさに通じるものであった。戦死した長男の文隆はとても可愛い奴であった反面、一種の不良性も充分に持ち合わせていた。この長男に全然面と向かって小言が言えなかった。文隆にこういってくれ、ああいってくれ、とよく御用を仰せつかったものだ。


ある時、麹町永田町の私宅の二階で文隆をつかまえてどなりあげている最中に、御自身二階にあがってきて、私のあまりの剣幕に、「そんなにいわなくても文隆はわかるよ」と泣きをいれたので「これはもともと、あなたの指図でやっているのですよ」と暴露したところ、ほうほうの体で階下に逃げさったような滑稽な場面もあった。

これは終戦後よく思ったことだが、戦前にこの知能のかたまりのような近衛さんと、度胸と実行力の吉田さんのコンビの内閣が出来ていたら、あるいは悲惨な戦争は避け得られたかも知れない。これは単なる話で実現の可能性はゼロであったし、また万一実現していたところでご両人とも殺されてしまうのがおちであったろう。また近衛さんのうちの「公卿」は殺されるまでとてももたなかったろうとも思うが』


全文ガセであると私は思う。奸智のかたまりのような吉田と組んで近衛父子を抹殺した白洲が、二枚舌をチラチラさせている光景が浮かぶような文章である。近衛文麿を惰弱な公卿のように吹聴しているが、白洲自身が卑怯な弱虫なのである。白洲は敗戦に至るシナリオを知っていて、いずれやってくる東京大空襲が怖くて、五十六を暗殺した1943年4月の翌月には早々と山村に疎開している。招集令状が来ると吉田の陸軍コネクション・辰巳栄一中将に泣きつき、チャラにしてもらうと大喜びでお礼の缶詰を山のように贈っている。


悲惨な戦争は避け得られたかも知れないというが、吉田と白洲たちが悲惨な戦争を継続すべくマッチポンプしていたのではないか。白洲は東京大空襲だけでなく原爆投下も事前に知っていたし、広島原爆被災者を見殺しにする田布施村王朝の方針にも協力した。
白洲がどなりあげている(これ自体ねつ造であると私は思う)文隆は、そういう悲惨な戦争の召集に二度応じている。最初のころは糞まみれになりながら、1940年から敗戦まで兵役を務め上げている。文隆は敗戦と同時にソ連に抑留され11年間拘留された挙句、鳩山一郎が日ソ国交修復に調印すると同時にソ連国家保安省によって薬殺された。


白洲は『戦死した文隆』を使って近衛を親として貶めようとしているが、白洲は文隆が『戦死した』のではないことを一番よく知っている人間である。吉田茂の指令でみんなで寄ってたかって近衛父子暗殺工作をしたのだ。その吉田を『吉田茂は泣いている』という章題に使って、その章の中で近衛父子の誹謗中傷と吉田のヨイショと自分ボメをしているのである。白洲次郎の心根の卑しさというものは比類がない。


文麿は子供を叱れないのではなくめったに叱らないだけで、叱るときは叱っている。
白洲はすぐ人を怒鳴りつける癖があり、怒鳴ること=叱ることだと勘違いしている。
このような浅はかな人間に、どこの親が子どもを叱ってくれなどと頼む訳があるのか。白洲が一番かわいがっていた娘の桂子でさえ、白洲は親としてほとんど有用性がなかったと認めている。


白洲は文隆が『不良性』を持っているというが、文隆は親子兄妹仲睦まじいい家庭で真っ直ぐに育っている。だから文隆は白洲の姦計に簡単にはまってくれるのである。
『不良性』というのは白洲自身を反映した言葉であり、白洲は自分が持っている『不良性』をかっこいいと思っているらしいが、白洲が持ち合わせているのは薄汚い不良な根性だけである。

さて前回引用した中政則氏によるグルー日記原本の事例1に注目されたい。吉田茂はグルーに近衛文麿に関する機密情報を提供するだけでなく、近衛の渡米にタイミングを合わせて牛場友彦指令を出しているのが分かる。彼らの秘密工作を追跡調査してみよう。


『近衛文麿は長男の文隆を、昭和七年にアメリカのローレンスヴィル高校へ留学させ、卒業するとプリンストン大学へ入学させた。文隆のアメリカ留学の世話をしたのは、樺山愛輔だった。樺山は、元駐日大使であったローランド・モリスに文隆を預けた。文隆が樺山の世話でアメリカ留学を続けている昭和九年(1934年)に、白洲次郎の幼馴染みの牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月間のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅がきっかけで昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。近衛文麿が46歳、牛場友彦が36歳の時である。牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から「ジロー」「トモ」と呼び合う仲であったが、昭和12年以降その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)



NHK取材班によると、近衛文麿はルーズヴェルトと私的な会見をし、サンランシスコでは米国のメデイアに向けて英語でスピーチもしているようだ。



『そのフィルムが米国立公文書館(ナショナル・アーカイヴス)に残っていた。落ち着きのある、はっきりとしたスピーチだ。

「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちとも出会いたいと思っています。そして、太平洋の反対側にいる私たちが、80年にわたって育んできた日米間の友情をどれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです」

約50日に及んだこの米国旅行で、近衛は先に日記から紹介した人物たちのの香に財界人や軍人とも会談。新旧政府の要人や財界人からマスコミ人まで、当時これほど幅広く米国のオピニヨン・リーダーたちと意見を交わした日本の政治家はおそらくいないだろう。近衛の帰国報告は、駐米大使の報告よりも有益だと評されたという。』(近衛忠大『近衛家の太平洋戦争』NHK「真珠湾への道」取材班より)


牛場友彦はこの旅行中、近衛文麿に貼りつくのに成功している。やがて牛場は近衛内閣が発足すると書記官長の風見章と共謀して「朝飯会」を主催し、そこに尾崎秀実と西園寺公一を引き入れる。そして牛場は近衛の長男文隆にも、尾崎秀実を接近させる。ヨセミテで開催された太平洋問題調査会に、文隆を呼びつけて尾崎秀実の助手にする。文隆が日本に帰国すると、さらにゾルゲにも引き合わせ懇意にさせている。牛場は後年文隆がソ連に抑留され処刑される伏線を張っているのである。米国留学中の文隆には、白洲次郎も貼り付いている。

西木正明氏の『夢顔さんによろしく』は近衛文隆に捧げられた鎮魂歌である。もとより西木氏はジロー&トモを疑ってかかってはいない。しかし見事に彼らの本質を描いている。小説仕立てではあるが、綿密な取材を重ねて文隆の死に至る経緯を検証している。実録として十分鑑賞に堪える優れた作品である。事実と懸隔していると思われる部分を割愛して引用させていただく。

西木正明『夢顔さんによろしく』文藝春秋より以下抜粋。


『昭和11年(1936)5月20日午後。文隆は、ワシントン駐在大使館に呼ばれた。「おう、近衛君」斉藤大使は、文隆が執務室に入って行くなり、待ちかまえていたように立ち上がった。「8月半ばに、太平洋問題調査会第64回大会という国際会議が、カリフォルニアのシエラネヴァダ山中にある保養地、ヨセミテで開催されることになった。この会議に、日本から元外務大臣の芳澤謙吉さんを団長とする代表団が乗り込んでくることになっている。これを手伝ってほしいんだ」』

『「太平洋問題調査会、ですか。それはどんなことを話合う組織ですか?」「太平洋調査会は太平洋地域に利害を持つ国々、すなわち日本、シナ、アメリカ、ソヴィエト連邦、それにオーストラリアなど、直接太平洋に関わりのある国々と、この地域に植民地を持つイギリスやフランス、オランダなどが参加して設置された常設機関だ。二年ごとに一堂に会して、折々の問題を討議する。今回は日本とアメリカなど欧米諸国との貿易問題、シナ事変、満州国などが議題の中心となりそうだ。君に手伝ってもらいたいというのは、団長の芳澤さんの意向だということだ」「芳澤さんのご指名とあらば、お断りするわけにはいきませんね。それでわたしはどんなことをするのでしょうか」「いわば、秘書兼連絡係りというところだな」』

『「おう、ボチ君(文隆の愛称)。ひさしぶりだな」まっさきに声をかけてきたのは、長旅の後にもかかわらず、灰色の背広を粋に着こなした、代表団の通訳兼秘書団長を務める牛場友彦である。イギリスのオックスフォード大学を卒業した後、太平洋調査会書記に就任、得意の英語を生かして各国との調整に走り回ってきた。「近衛君、この人は、西園寺公望老公の孫で、私と同じく太平洋調査会で働いている、西園寺公一君だ」彼も牛場と同じ時期、オックスフォード大学への留学経験を持つ。』

『「そしてこちらは朝日新聞の敏腕記者にして、太平洋調査会の嘱託を務めてくれている尾崎秀実君だ。尾崎君はシナ語に堪能で、日本の新聞界では右に出る者がいないといわれているシナ通でもある」尾崎と牛場は一高東大を通じての同期生である。尾崎は東大を卒業すると同時に朝日新聞に就職した。以後特派員として中国大陸にわたり、足かけ四年間に渡って上海、北京で活動した。そんな尾崎を、東大同期生で親友の牛場は、アメリカで開催される太平洋調査会議の日本代表の一員に招いた。実のところ、日本代表団の事務助手として文隆が選ばれたのも、牛場の推薦があったからだった。牛場が尾崎秀実の助手に文隆をあてがったのも、近衛公の意向をおもんばかってのことだた。』

『8月15日、太平洋調査会第64回大会は、無事開催された。会議の間中、文隆は牛場や尾崎の雑用を一手に引き受け、分厚い体躯を忙しく動かして、文字通りコマネズミのように走り回った。当初、名門近衛家の遊び好きな御曹子くらいの認識しかなかった日本代表団の面々の、文隆を見る目が変った。尾崎の論文は、各国それぞれの立場からの反論はあったものの、その内容についてはひとしく賞賛を浴びた。いつも穏やかに笑っているこの新聞記者に対して、文隆はいちだんと尊敬の念を深めた。8月29日、会議は無事終了した。』

『年が明けて昭和12年になった。6月4日近衛内閣発足。外相に元総理の広田弘毅、陸相杉山元、海相米内光政。戦後の官房長官にあたる内閣書記官長には、ジャーナリスト出身の衆議院議員風見章が任命された。近衛内閣発足から一ヶ月余りたった昭和12年7月8日、北京郊外を流れる永定河にかかる盧溝橋付近で、日中両軍が衝突した。』

近衛文麿は『藁の女』であると既述した。破滅されることが予め決められていた『運命の子』である。近衛文麿を日中戦争の泥沼に放り込むべく大命が降下され、近衛内閣が発足すると一ヵ月後に盧溝橋事件が勃発した。ユン・チアン著『マオ』によると毛沢東の仕業であるという。しかし私は吉田茂が奉天駐在時代につくったコネクションのヤラセ工作だと思う。これを演じた支那駐屯軍は、熱河産アヘンをヘロインにする作業に励んでいた。事変はこの後拡大していくばかり、近衛は抜き差しならない立場に追い込まれていく。近衛が放り込まれた日中戦争とは、実はアヘン戦争であった。

江口圭一『日中アヘン戦争』岩波新書より以下抜粋。


『重視されねばならないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外・蔵・海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国家として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。』

『この日本の国家犯罪について東京裁判はある程度の追究をした。しかし日本政府もアヘン政策の当事者も、この事実については今日まで触れようとしない。あまりにも犯罪性・反人道性が明確で、弁解の余地のないことだけに、関係者が触れたがらない真情は理解できる。』

『しかし、いかに恥ずかしくとも、いや恥ずかしいことであればあるほど、歴史の真実は直視されなかればならないはずである。日中戦争がいかに不当で不法な戦争であったかを明証する歴史的事実に目をふさぐこと によって、日中間の相互理解と有効に寄与がもたらせるとは考えられない』


再び西木氏の前掲書より抜粋。


『北支の状況が風雲急を告げたこの時、文隆は日本郵船浅間丸で、太平洋上を日本に向っていた。プリンストン大学で政治学を教えているライシャワー教授が、7月2日シアトル発の船で、教え子数人とともに日本を訪れることになっている。日本の政治の現状をつぶさに見たいという教授の希望で、文隆は彼らに便宜をはかってくれるよう、父文麿に手紙を書いた。自らも一行の世話をするつもりだ。』

文隆はライシャワーの正体を知る由もなかった。

『盧溝橋事件勃発後、文麿公は、ほとんど帰宅しなかった。以前は嫌がって寄りつかなかった、首相官邸に隣接する公邸に泊り込んで政務に没頭していたのだ。この日は久しぶりに帰宅するという連絡が入ったので、文隆も夜の外出を控えて待っていた。文麿公を囲むようにして、一群の男たちが玄関に入ってきた。先頭は、黒いカバンを手にした秘書の牛場友彦だ。それに風呂敷堤をぶら下げた、同じく秘書の岸道三が続く。「ボチ(文隆の愛称)、すまんがひどく疲れている。つもる話は、近くゆっくりやろう」文麿公はそう言って、千代子夫人にささえられるようにして、寝所にひっこんだ。文隆は、牛場、岸両秘書官、弟の通隆(みちたか)と、ビールを飲んだ。牛場が文麿公の立場をおもんばかるように、憮然としてつぶやいた。「総理がお疲れになるのも当然だ・・・。」それから急に笑顔になって話題を変え、「ところでボチ訓、ヨセミテで君が世話してくれた朝日新聞記者、尾崎秀実君を覚えているかい?彼はボチ君をいたく気にいったみたいだから。だからというわけではないが、近々彼とメシを食わないか?」「もちろんオーケーです」』


『尾崎との会食の場所は、虎ノ門交差点近くにそびえる満鉄ビル七階のレストラン「あじあ」と決めてあった。数分後、グレイの背広に上着を小脇にかかえた尾崎が、汗をふきながら姿を現した。「いやあ、近衛君、ひさしぶりです。あの節は、ほんとうにお世話になりました」彼の声があまりに大きかったのだろう。隣で話し込んでいた白人客が、顔を上げて尾崎を見た。「なんだ、ずいぶんにぎやかな人がいると思ったら、オザキさんじゃないですか」「なんだ、ドクター・ゾルゲじゃないの。これは奇遇ですな」そう言ってから、笑顔を文隆に向けて、その男を引き合わせた。「ドクター・ゾルゲ、この方は内閣総理大臣近衛文麿公のご子息、文隆君です。文隆君、わたしの友人で、ドイツのフランクフルター・ツアイトウング紙特派員、ドクター・リヒアルト・ゾルゲです。」文隆は1メートル80センチ近い長身だ。しかし、尾崎に紹介されたゾルゲというジャーナリストは、その文隆よりもさらに数センチ背が高かった。「首相のご子息ですか。はじめまして、ゾルゲと申します。」その時、ゾルゲの脇に立っていた小柄な男が控えめに話しかけてきた。「プリンス・コノエ、私を覚えておられますか。ニューヨークのピーター・ルガーでお会いした、ギュンター・シュタインです。」「あっ、そうか。いや、実はボチ−ぼくも先刻お見かけした時に、どこかで会ったことのある方だ、と思ったんですよ。いやあ、これはうれしい」「驚いた。世の中、せまいもんですね」ゾルゲとシュタインは、以前から牛場と顔見知りだった。シュタインは今、ロンドンのニューヨーク・クロニクル紙特派員として、日本に滞在中だという。』

牛場友彦の策略によって、文隆は驚くべき包囲網に囲まれつつある。鬼塚氏によると尾崎とゾルゲは穏健派に利用されたのだという。昭和天皇がスターリンに機密情報を流すために尾崎が利用され、その尾崎がゾルゲを引き込んだのである。

『牛場はしばらくの間、文隆を無言のまま見つめていたが、やがてぽつりと、「こんなことを言うと、近衛公にお叱りを被るかもしれないが、どうせボチ君は、いずれ政治の世界に入ってくることになるのだから、留学は程ほどのところで切り上げて帰朝し、日本の政界の空気にじかに触れたほうがいいのかもしれないね」と言った。四日後の7月28日午後11時。外出から帰った文隆は、牛場友彦と玄関先でばったりと顔を合わせた。およそ30分後。二階の自室で本を読んでいた文隆に、母の千代子が声をかけた。「ボチさん、牛場さんが、ひとりでンビールをお飲みになってます。よろしかったら、話し相手になってあげてくださる?」』

この後牛場は、「ボチ君。君は近衛公のご子息として、守るべき秘密はちゃんと守れるはずだよな」と念押しして文隆に近衛文麿の苦衷を説明する。牛場は文隆の自覚を促し、首相秘書官になる道を開く。こうしておけば近衛父子をセットで始末できる。

『秘書官になって一週間後の8月9日朝9時前、文隆は官邸二階の廊下で、意外な人物に会った。「尾崎さん!」「おう、近衛君。秘書官就任おめでとう」尾崎はさほど驚いたようすもみせずに立ち止まってそう言った。「ありがとうございます。それで、尾崎さんは誰かに会いに見えたんですか?「いや、出勤してきたんだよ。実は私もここの住人になってね」「ここの住人?」「もちろん、住み込んでいるわけではない。通ってきているだけさ。内閣嘱託という、いわば居候の身分でね」「すると朝日新聞は辞められたのですか」「うん。新聞記者というのは、いろいろな人に会うのには好都合な職業だが、反面自分がほんとうにやりたいことをやろうとしても、思うにまかせないところがある。わたし自身について言えば、長い間支那問題についてもっと勉強したいと願いつう、雑事に追われて果たせないできた。そこへ今回たまたま、内閣嘱託として、支那問題を徹底的に研究してもらえないかという、ありがたいお申し出が、君の父上や風見書記官長からあってね」「そうだったのですか。では、毎日ここに通っておいでなのですね」「そう。ちゃんと部屋ももらっているぞ。見てみるかい?」たどりついた先は、官邸二階の東南端にある、こぢんまりとした部屋だった。薄暗い部屋が多い官邸の中ではめずらしく日当たりも良く、いごこちの良さそうな部屋だった。「ここで、存分に支那問題の研究をさせてもらっているんだ。ありがたいことだよ」この日以後文隆は、ちょっとしたヒマがあると、ぶらりとこの部屋にやってきて、支那問題について尾崎にあれ
これ質問した。尾崎は自らの支那問題に関する知識を、惜しむことなく文隆に伝授した。』

『9月26日朝、文隆はいつものように、荻外荘(てきがいそう 近衛家自宅)から官邸に向う車の助手席に乗り込もうとした。それを文麿公が押し止めた。「ボチ、この前話した支那行きの件だがね、そろそろ実行してくれないか。表向きは、わたしの名代として前線部隊を慰問することだ」「はあ。それで、表向きでないほうの任務は戦地の実情把握ですね」「それでだ、ボチひとりではいろいろと大変だろうから、誰か支那問題に精通した者を随行させよう」「尾崎さんにお願いしてはどうでしょうか」「尾崎さん?ああ、最近内閣嘱託になってくれた尾崎君か。なるほど、尾崎君なあ・・・たしかに尾崎君は、支那問題に通暁している、すぐれた人物だ。だが、彼にはほかにやってもらわねばならぬことがある。尾崎君とはだいぶちがうタイプだが、支那に関する識見においては勝るとも劣らぬ人物がいる。彼に行ってもらおう」』

東亜同文書院中退の中山優である。『対支対策の本流』という論文が文麿の目にとまり、以後、文麿の演説原稿を起草するほどの信頼を得た人物である。先に投稿した文麿編の最後に、この中山の追悼文を載せた。同文書院は文麿の父篤麿が創設したものである。中山の一年先輩に後に阿片王として知られる里見甫がいた。実は松本重治はこの里見と組んで、同盟通信社設立の裏工作をしていた。


佐野真一『阿片王 満州の夜と霧』新潮社より以下抜粋。

『里見の関東軍第四課での最大の仕事が、国通設立に向けての工作活動だった。ことの発端は、新聞聯合専務理事の岩永祐吉が関東軍に提出した「満蒙通信社論」だった。その要旨は、満州にすみやかにナショナルエージェンシーを設立すべし、外国通信社や営利目的の通信社の乱立による誤ったニュースの流布は、満州の国際的地位を低下させ、いたずらに人心の混乱を招くおそれともなる、というものだ。関東軍第四課に派遣された里見の役割は、この岩永論文を火急のうちに現実化することだった。』


『国通設立にあたって最大に難関は、いかにして電通を説得するかにあった。

「この同意があって初めて満州における通信社の統一が成立する。両社のうち一社が嫌だと言えばそれでお仕舞いである。特に電通が承知するや否や中々疑問である。すでにその頃両社も薄々気配づき、特に電通側はひどく神経過敏であった。私は命を受けて、東京行きの途上、実は大変なことを引き受けたとつくづく思った。」里見甫”国通十年史”

当時の電通は、広告専門に特化した現在の態勢とは違い、広告の分野に加えて世界的ネットワークをもつ通信社の機能を兼ねそなえた一大情報機関だった。』

里見はまず大阪電通社長の能嶋進の懐に飛び込み、次に陸軍省の鈴木貞一に会って根回しをし、電通社長の光永星郎に面会して案を固めていく。


『そして2・26事件がおきる一ヶ月前の、昭和11(1936)年1月、電聯合併による同盟通信の発足を見ることになった。通信網を聯合に奪われた電通は、これ以降、広告取次専門会社として生きるほかなかった。

「国通の出現を契機に、政府は国内の通信統制に乗り出した。すなわち国家代表通信社の設立であり、国策遂行のための文字どおりの非常手段であった。」(”電通66年”より)』

岩永祐吉が論文で国通設立を説き、里見甫が奔走して同盟通信が発足する。岩永がIPRで活躍していた松本重治を見初め、上海支局長に据える。上海で合流した里見と松本は裏工作のパートナーになった。松本は里見のことを天馬空を翔けるような胸のすく男だと絶賛している。確かに軍と財閥を手玉にとった里見のスケールのでかさは、松本にはないものだった。国通設立の謀略には樺山愛輔・板垣征四郎・小磯国昭が関与している。主役は小磯国昭である。

『国通の創立で軍の信頼も高まり、軍が表面立てない特殊工作が里見に廻されるようになる。』


松本重治はこの里見甫と組んで、ロイターとの通信提携契約を取るのである。ロイターの極東支配人チャンセラーと松本重治はIPRでの知己である。後に阿片王の名をほしいままにする里見と組んだ松本重治は、やがてチャンセラーの斡旋でジャーデイン・マセソン商会に食い込んでいく。いや取り込まれていく。

松本重治『上海時代』中公新書より以下抜粋。

『この会議(IPR)で知り合ったイギリス人のうちに、その後、私の上海時代に、切っても切れぬ縁を持つようになった人がいる。それはクリストファー・チャンセラーである。ロイター通信社の極東支配人として、数日前に上海に着任した・・・チャンセラーは私と四つ違い。私は32でチャンセラーは28。イートン、ケンブリッジを出た、いわゆるエリート・コースをたどってきた名門出の長身の美男で、そのシルヴィア夫人は有名なグレイ卿の姪に当たる人。そのときが縁となって、今日まで40年余りのあいだ、私はチャンセラーと友人として付き合うことになった。上海での英国人社会に私を紹介してくれたのは、この当のチャンセラーであった。』

『ロイターのチャンセラーと交友を深めつつあるうちに、チャンセラーは、「私の親友で日本との縁故の深い二人の人物を君に紹介したいから、上海クラブでランチを一緒にしよう」といってきた。彼の親友二人というのは、トーニー・ケジックと弟のジョン・ケジックであった。この兄弟とチャンセラーとは、三人ともケンブリッジ大学とトリニテイ・カレッジの同窓生で、ケジック兄弟はジャーデイン・マセソン商会の大株主であり、重役であったが、二人とも、チャンセラーが上海に来る以前から、上海その他で活躍していた。ともに30歳になるかならぬかの年齢ではあったが、ケジック兄弟は大学卒業後、彼らの叔父のきびしい教育方針に従って、すぐ平社員として香港、上海、漢口などの各支店をお互いに交替しつつ、一種の丁稚奉公の数年間の年季を終え、一人は上海で、一人は香港で、彼らの店を主宰していた。』

『かれらの厳父ヘンリー・ケジックは、ジャーデイン・マセソン商会の対中国および滞日貿易を通じてどえらい財産をつくった。ケジック兄弟は、もちろん、貿易商であり実業家ではあるが、たんなる貿易商、たんなる実業家ではない。彼ら二人は、イギリスの極東政策、ことに対中国政策について、ロンドン政界に発言権をだんだんと持つようになり、南京政府の要人と密接に付き合ったり、日本外交官とも始終連絡していたわけで、すでに政治力ある実業家となっていた。この二人を友人にもつことになった私は、さらに上海のイギリス人社会でいろんな知友をつくることができた。交友を深めるにつれ、ケジック兄弟のそれぞれの人間の味が感ぜられるようになった。』


◎アヘン王の発言権は強力なのだろう。


『当時、二人ともまだ独身であり、しばしば、私たち夫婦を友人とともに招いてくれた。話題は、主として、日中問題と、それとの第三国関係であった。今日では、チャンセラーともども三人とも、ロンドンに帰って、それぞれ英国政財界に重きをなしているが、40年近くを経た今日でも、彼らと私との親交は続いている。ケジック兄弟の血管には、父祖三代の知日的な血が流れている。ジャーデイン・マセソン商会は、インドのカルカッタを起点として、香港、アモイ、上海を経て横浜までまたがった極東貿易に、多年、覇をとなえてていた会社であった。ケジック兄弟の父祖ウイリアム・ケジックは、明治維新直前に横浜の居留地に支店を開いたが、当時は「英一番館」という名称であった。横浜居留地の錦絵にもこの「英一番館」が載っている。』


◎「英一番館」は吉田健三に一代で財を築かせ、彼が40歳のとき『急逝』してもらった。当時11歳の養子吉田茂には60億近い遺産が譲与された。


『文久二年(1862年)のある夕、ウイリアム・ケジックが支店から家へ帰ろうとして人力車に乗ったところを、五人の日本青年が、にわかに立ち現れ、車のかじ棒を押さえた。「何の用かね」と尋ねると、これらの青年は、「私どもはイギリスに行きたいのです」と答える。「何の目的で行くのかね」ときくと、「航海術と砲術をイギリスで学びたいのです」と彼らは、率直に答えた。その老英国人は、眼が高かった。彼は眼前の算盤よりは、将来の日英関係とその貿易の可能性を考えていた。これら五人の青年は、伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤勤介であった。ウイリアム・ケジックは、この五人の情熱にほだされて、彼らに上海までの密航の便宜を与え、さらに上海からロンドンまでの船便の世話をしてやった。』


◎吉田茂少年は第二の伊藤博文を夢見てアヘン王の特殊教育に耐え、昭和天皇を凌ぐインテリジェンスに成長して望みを達成する。そういう自分を嘉する意味も含めて、後年大磯の豪邸に伊藤博文ら田布施王朝の勲功者を祀る五賢堂なるものを立てたと思われる。

『こういう話をトーニーは祖父から聞いており、私にも話してくれた。トーニー自身は横浜生まれでもあったし、日本には特別の親近感をもっていた。ジョンは、トーニーが上海から帰国してからも、長らく中国に滞在し、しばしば日本にも来訪して、私に「僕の心は、西洋的というよりも東洋的なものだ」といったことが、一度ならずあった。1935年、中国の幣制改革のため、イギリスのリース・ロスが上海に来たとき、日本側の大体の意向を知りたければ、「シゲ・マツモト」にまず会うべきだといって、私をリース・ロスに紹介したのも、この兄弟であった。』

『吉田首相が、戦後初めて渡英したとき、出航前に私を大磯の邸に招き、「君の友人の三人組に君からよろしく頼んでくれないか」という話があった。私は、よろこんで長文の手紙をそれぞれに書いたが、まだ反日の空気の強かった英国で、彼ら三人は吉田さんのために、いろいろと配慮してくれた。吉田さんが帰朝されて、その話を聞いてみると、吉田さんの訪英が大成功であったのも、彼ら三人による努力が一つの原因だったと知った。』

『ジョンは、その後も今日にいたるまで、文化革命の二、三年を除き、必ず一、二年の一回は北京を訪れ、中英貿易のことで、周恩来首相とは、毎回サシで三、四時間は話していた。それから、東京に来て、必ず私とゆっくりくつろぎ、さしつかえない限り、北京の話をしてくれたものであった。ケジック兄弟との交友の話は尽きないが、二人とも、若いときから、大物の風格を具えており、私は彼らを心から敬愛していた。私の上海時代に、公私ともに少なからず助けてくれたのは、どの英国人よりも、この兄弟とチャンセラーの三人であった。私は戦後、国際文化会館やユネスコの仕事の関係で、1945年、57年、60年、65年四回イギリスへ行った。多くのイギリス人に会ったが、いつもこの三人とは旧交を温めることを欠かさなかった。』

◎松本重治はアヘン王と直結したのだ。白洲次郎も昭和通商に出入りしてアヘン密売に関与している。

『白洲次郎君が一ぺん上海に来たことがあるんですよ。三井の仕事かなんか頼まれてね。そうしたら帰るときに、飛行機の席がない。それで白洲次郎君が電話をかけてきて、何とかできないかっていうから、里見君に「一つ友だちに席くれないか」と言ったら、「ああ、やるよ」って言って、すぐくれたんですよ。それで白洲君に「おい、席できたよ」といったら、「ああ、シゲちゃんは、三井財閥より強いんだねえ」なんて言って・・・』(『われらの生涯のなかの中国』 佐野真一前掲書より孫引き)

白洲次郎が頼まれた「三井の仕事かなんか」というのは、イラン産アヘンの輸入・取引である。三井物産の手で上海に輸入されたアヘンは、里見甫のとりしきる宏済善堂によって売りさばかれていた。ジロー&シゲちゃん&里見君はアヘン密売で繋がり、ジローとシゲちゃんが懐にいれている潤沢な金はアヘン密売のアガリである。ジローはそういう金でブランド品を買って身を飾り、クラッシックカーを乗り回し、召集をチャラにしてもらったのだ。シゲちゃんも仮病を使って召集を逃れている。武見太郎と出世を餌に取引したのである。ジローもシゲちゃんもこういう汚い手を使って兵役を忌避していたくせに、裏で戦争を煽る工作はひそかに続けていた。そして戦後になって偉そうに日本の国民性や文化を批判するのである。

ジローのネタはやがて伝説となり、次郎&正子の写真集となって平成の世に売り出された。シゲちゃんは国際文化会館の館長に収まり、死ぬ直前まで昭和史の偽証を続けた。しかしジローとシゲちゃんのネタも、昭和天皇と吉田茂に比べたらささやかなものだ。昭和天皇と吉田茂はヤラセの天才である。民草がバーベキューになることも承知していたし、第二総軍をおびき出して頭上に原爆投下もさせた。昭和天皇は血も涙もない。吉田茂はその昭和天皇を操った化け物である。

だから東京大空襲されても皇居が焼失しないように、吉田一味が集団疎開していた大磯も無傷である。吉田を逮捕しに大磯に行った憲兵隊は、その別世界ぶりにしばし茫然としている。

吉田逮捕の理由は近衛上奏文に関与したことであるが、近衛上奏文の主要テーゼの一つである『陸軍赤化説』は、吉田茂が世上流布させていたものである。これを念頭に置きながら、以下のジョン・ダワーによる吉田逮捕劇の検証を読まれたい。

ジョン・ダワー『吉田茂とその時代』より以下抜粋。

『1944年11月か東京憲兵隊のはなはだぶっきらぼうな隊長だった大谷敬次郎によると、「陸軍赤化説」は前からあったが、1945年のはじめには政界、実業界に広く流されており、すでに崩れやすくなっていた国民心理に非常な悪影響を及ぼすものとみられていた。そのうえ、こうした傾向は明らかに吉田・近衛グループと結びついていたから、憲兵隊としてはグループの主張や近衛上奏前の活動を鋭く査察していた。』

『しかしながら、このような有害な思想を徹底的に排除するとなると、その結果日本社会のまさに最上層部の人々まで逮捕することになるが、それ自体動揺のもとになる行為であるから、はなはだ重大な問題を引き起こす。そこで憲兵隊は、吉田・近衛一派の容疑者を、影響の大きさにしたがって三段階に分類し、そのうち第一の最も影響の少ない者として、吉田、岩淵、植田を実際に逮捕したのである。この三人がほかの者への見せしめであったことは、明らかであろう。』

◎ジョン・ダワーも大谷憲兵隊長も、吉田逮捕がヤラセだと分かっていない。

『大谷は、「逃げ出した自由主義者たち」が箱根や軽井沢などの安全な別荘地などで書いて快適な生活をしながら戦争の悲惨さを嘆いているのをさげすんでいたが、彼の述べる吉田逮捕の様子は、日本の都市が直接に戦争の惨害を受けていたときでも、特権階級はひきつづき快適な暮らしをしていたことを具体的に描き出している。4月15日の早朝、大磯の吉田邸に到着した憲兵の一隊は、そこに桜の花が夢のように遠近の山々の緑を点々といろどり、潮の香を乗せてくる浜辺には漁船も見られる「別世界」を見出した。』

『大谷が後に述べているところでは、戦後に吉田は戦争を終結させるために大きな努力をしてようにいわれているが、話をしている以外にほとんど何もしていなかった。そこで取り調べはもっぱら「造言蜚語」常習が中心になった。彼が樺山に送った手紙が、軍を敗北主義と中傷した証拠として使われたが、尋問の大半はなんといっても近衛上奏文に集中した。この点について憲兵隊は、この文書作成に果たした吉田の役割だけでなく、むしろそれよりも、その内容を他にもらしたことを大きく問題にした。』

『彼(大谷)はほかのどこからも手に入らない吉田の尋問調査から二つの引用を提供している。そのひとつは本当らしく思われる。もうひとつは、吉田が最後まで頑強に立場を守り通したという通説に挑戦したものである。・・・最後の長所からの大谷の引用文を見ると、吉田は植田と同じく、認識を誤ったことを認め、こういう言葉で謝っている。』

『「私の思慮の足らないために、軍を誹謗し、まことに申し訳ないことをしたと思う。この点お許しを願いたい。今後は心境を新たにし、この戦争遂行に、一国民として協力して行きたい。」』

『吉田の獄中の待遇はよかったと一般に認められている。吉田自身はこれを、東京でかつて近所に住んでいたことのある阿南惟幾のとりなしによるものとしている。彼は外から食物の差し入れを受けていた。そして吉田と同じグループの仲間二人の待遇は、社会階層の微妙な差が獄中まで浸透していたことを描き出している。三人のなかで血統も社会的な関係もいちばんいい吉田は第一号の独房に、それより身分の低い植田は第二号独房に、無位無官の平民、岩淵は小さな雑居房に入れられた。一説によると、吉田の食物に毒が入れられないように、黒崎中佐さる者が部下の兵を憲兵にやって調べさせたという。』



『この逮捕事件は不愉快なエピソードではあるが、それは吉田の「反戦」信任状にひとつの刻印を押した。それはちょうど、共産主義や「危険思想」の持ち主たちが戦前のはるかに長い年月にわたって入獄を経験したことから信望を得たのに似ていたが、彼らは解放されると戦後の時代における吉田の政治的敵対者になっていくのであった。』

吉田は一年のうちでもっとも気候の良い4月下旬から5月にかけて、快適な独房に差し入れ自由という状態で40日間拘束されただけで、反戦主義という天下御免の印籠をもらったのだ。また共産主義についてのジョン・ダワーの認識は甘い。共産主義とは、資本主義を追求していった究極の形態である。マルクスを育てレーニンを支援したのは、ユダヤ国際金融同盟である。日本共産党は、田布施ゲットーが創出した天皇教のバリエーションなのだ。



鬼塚英昭氏『日本のいちばん醜い日』より以下抜粋。

『天皇教が創作した神話の一つが、日本共産党である。日本共産党は反天皇ではないのか、と考えている読者がおられれば、天皇及び国家体制に疑いの目を向けよ、と説得する。』


『大室寅之祐の田布施の小さな特殊被差別村から、多くの政治家や実業家たちが輩出した。その中で忘れてならないのが、マルクス主義者たちも、この部落とその周辺から出てきたということである。その中の傑出した人物が川上肇であり、宮本賢治であった。そして彼ら二人は天皇教護持のために、その生涯を捧げるのである。』


『どうして天皇と共産党が結びつくのか。これはいたって簡単な答えで読者を納得させうる。田布施村を出て、一代の成り上がり者の「てんのうはん」となった明治天皇と伊藤博文らは、優雅なる生活をたのしんだ。大室寅之祐は馬に乗ったり、相撲をとったりし、それに飽くと、江戸城に造った千代田遊郭で女たちを抱きまくった。』


『生活が一変した。彼らは自分たちの秘密を隠す方法を数多く、しかも巧みに採用した。大名や貴族たちを優遇するために華族令をつくり、公・侯・伯・子・男などの新しい貴族たちを大量につくった。』

◎この中に自分たちももぐり込んで、素性を粉飾したのである。

『その反面、不満分子を抑えねばばらなかった。治安維持体制を強化した。明治、大正、昭和へと時代が変化すると、彼らは赤化革命を恐れるようになった。日露戦争の勝利の後にロシアに革命が起こった。天皇制を維持するには、赤化革命を防止するしかない。天皇制は赤化革命を逆手にとり、これを採用することにした。日本はマルクス主義を極端に取り入れた天皇教国家社会主義の国家となったのだ。日本ほど、マルクス主義を巧妙に取り入れた国家はなかったのである。』

『あの田布施から川上肇が出て、京大でマルクス主義の教授となり、木戸幸一、近衛文麿、原田熊雄(西園寺公望の秘書、国際金融財のエージェント)らにマルクス主義を教えたのである。河上肇と宮本賢治が田布施村から出たが、同じ山口県の萩から野坂参三が出てくる。天皇の銀行・横浜正金銀行から金をもらい続け、モスクワ・アメリカ・中国へとわたり諜報活動した多重スパイであった。ソヴィエトのスパイ、アメリカのスパイであった野坂参三は、何よりも天皇教のスパイであった。』

『私は、日本が南進策をどうしてとるようになったのかを、すなわち、どうしてアメリカと戦争をするようになったのかを書く。そのために野坂参三も書かなければならない。「日本共産党は唯一、太平洋戦争に反対し続けた政党である」とは、日本共産党が主張し続けている“定説”である。本当にそうであろうか。この“定説”に挑戦する。』


『1933年、野坂参三は日本の公安の助けを受け、変名(「ロイ」)となり、ゾルゲに日本を売るための工作をすべくアメリカに渡る。野坂参三は画家の宮城与徳をゾルゲのもとに送り込む工作に入る。ゾルゲ機関とは、日本の公安と野坂参三一味が天皇教護持のために組織したものである。』


『私は西園寺公一と尾崎秀実から、ゾルゲが日本の重要機密文書を得て、これをスターリンに送り、スターリンは日本の南進政策を知った、という説を認めるわけにはいかない。どうしてか。日本の公安の犬、野坂参三がゾルゲのために働いているとみられるからである。』

『私はたくさんのゾルゲ事件の本を読んできたが、ほとんど例外なく、西園寺公一と尾崎秀実が極秘裡に国家の情報を盗み出しゾルゲに渡したとの“ストーリー”で出来上がっている。日本の憲兵たちは一市民のトイレの落書きまで手帳に記して上司に報告していたのである。ゾルゲが多くの女たちと情事にふけり、バイクを乗りまわし、公然と尾崎秀実や他のニュース提供者と会っていたことは全部、木戸幸一内大臣に報告されていた。天皇と木戸は大いに喜び、西園寺公一に情報を提供しまくっていたのである。』

『野坂参三が日本に送り込んだ宮城与徳の仕事は、ゾルゲ機関の中に入って、日本共産党をつぶすための秘密工作であった。ゾルゲの仕事も宮城与徳とかさなっている。その理由は簡単である。日本共産党員の中に、本当の意味−天皇一族が日本共産党をつくった−を知らず、戦争反対を叫ぶ連中がいたからである。太平洋戦争に突入する前に、日本共産党が袴田里美という天皇教のスパイ一人を残してほとんど壊滅するのは、野坂、スターリン、そして木戸幸一らの策動によるものだ。』


『木戸幸一内大臣が持っていたクレムリンの最高の情報ルートは、間違いなく、野坂参三のルートであった。多くの資料がソヴィエ連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世にいう多重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。』


『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに浸入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第64回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年の8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』


『野坂はこの年の5月9日、モスクワを出発し、南回りルーマニア経由でパリに行き、ニューヨーク経由で空路、ロサンゼルスに行く。ニューヨークよりコミンテルン宛に「アメリカで活動せる情報部員、組織部員をモスクワで養成させる」ことを提案している。「実録野坂参三」(近現代史研究会編著)の中に、このことが書かれている。』


『私は、太平洋問題調査会の第64回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。』


『南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の6月ごろから年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にし、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

『ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方ソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのであろう。』

◎私はこの一味から近衛を除外する。太平洋問題調査会のヨセミテ国際会議で、尾崎秀実のコネクションを手配したのは野坂参三だけではない。前述したように牛場友彦が尾崎秀実の助手に近衛文隆を手配した。ただし野坂と牛場の手配は個別に行われている。野坂は吉田とは組んでいない。再び話を文隆に戻す。

西木正明氏前掲書より以下抜粋。

『出発は昭和13年10月1日と決まった。それまでの約20日間、文隆は支那関連の本を集めて読みふけった。中山優の「支那対策の本流」にも目を通した。一読して父文麿公が中山を高く評価する理由が分かったような気がした。支那に対する深い洞察は余人にないものだったからだ。文隆がとりわけ熱心に読んだのは、陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)が編纂した「支那事変戦跡の栞(しおり)」という上中下三冊からなる書物だった。これは、盧溝橋にはじまる支那事変の流れを丹念に記録してあるのみならず、戦場となった各地の故事来歴をも簡潔に記述してあり、手っ取り早く現地の実情を把握するには便利な文献だった。同時にこれは、現地に派遣された日本軍が、政府の不拡大方針を無視して、いかに独断専行を繰り返したかの、あからさまな記録でもあった。文隆は、腹立ちを抑えて二度繰り返して読んだ。』

◎昭和天皇は常に現地軍の独断専行を追認し、よくやったという勅語を与えていた。満州事変以来これが習慣化していた。これを現地軍の独断専行と言うのだろうか。現地軍の判断に任せていた現地優先主義というべきではないのか。

『帰国してから四日後、文隆は総理大臣執務室で、近衛首相と風見書記官長に対し、今回の前線視察の報告を行った。すべて口頭での報告だった。表向きの慰問旅行としての報告だけでなく、現地軍の動向や将官将兵たちの言動など、見聞したすべてについてくわしく話した。報告のまとめとして、文隆はこう述べた。「現地軍は、政府の不拡大方針など、まったく無視して行動しております。このまま事が推移しますと、かなりの確率で重慶まで行くと思います。そして・・・」ここからは私見ですがと断って、文隆は次のようにしめくくった。「万一皇軍が重慶に迫り、蒋介石が進退極まった場合、一番問題になるのは、アメリカの出方だと思います。彼らがこのまま手をこまねいているとは、とうてい思えません」近衛首相は、しばらく瞑目していたが、やがて目を開き、ぽつりと言った。「ボチ、ご苦労だった。今の最後の言葉は、覚えておく」』

『11月末日午前10時。近衛首相のお供をして、宮中参内から帰ってきた文隆に、牛場が声をかけてきた。「例のボチ君の慰労会だが、明日午後七時から、銀座五丁目のビア・レストラン、ラインゴルドということにした。ボチ君なら、堅苦しい料亭なんかより、そういう所のほうがくつろげるだろうと尾崎君が言うんで、そこに決めた。明日の夜はあけておいてくれよ」「ありがとうございます」いつもながらの牛場の配慮に、文隆は心の底から礼を言って頭を下げた。』

◎いつもながらの牛場の策略に、文隆は気が付かなかった。

『12月1日夜七時。左手奥のテーブルに、尾崎が座っていた。そして、彼の右手には、大柄な白人が腰を下ろしていた。文隆を認めた尾崎が、こっちだ、という風に手を上げた。文隆は、外国人が同席するということは聞いていなかったので、牛場が到着するまでのことだろうと思いつつ、そのテーブルに近づいて行った。尾崎が笑顔を浮かべて立ち上がり、「お役目ごくろうさん。大変だったでしょう」と言いながら、文隆の手を握った。その白人も立ち上がった。「近衛さん、ゾルゲです。去年、満鉄ビルの”あじあ”でお目にかかりました。」瞬時に記憶が戻ってきた。「もちろん覚えていますよ。ドクター・ゾルゲ。あの節は失礼しました。」「昨日、たまたまほかの要件でゾルゲさんにお目にかかり、今日ボチ君と飯を食うと言ったところ、さしつかえなければ自分も参加したいとおっしゃるんでね。いいだろ?」「いいにきまってるじゃないですか。わたしも、ひさしぶりにドクター・ゾルゲと旧交を温めたいですし」ほどなく牛場が到着した・牛場には一人の同伴者がいた。「ボチ君、しばらくぶりだね。その後、大変なご活躍で、ご苦労さん」そう言って手を差し出したのは、西園寺公一だった。西園寺とは、アメリカのヨセミテ以来である。西園寺はすでにゾルゲとも親しいらしく、鮮やかな英語であいさつを交わしながら、手を握り合っていた。「結局あの時の因果が今に及んで、私は現在、日本太平洋問題調査会の事務局長なる役割を仰せつかっているよ。事務局長といったって、実態は小間使いだがね」』

◎まったくあの時の因果が今に及んで、文隆は、尾崎秀実・ゾルゲ・西園寺公一に取り囲まれているのだ。牛場友彦が手引きした結果である。

『ゾルゲが「ああ、楽しい夜だ。よかったら、河岸を替えてもう一杯飲みませんか」と言った。ひとり牛場だけが「ちくしょう。いつも俺は、いいところでリタイヤしなくてはならん。明日の閣議で来年度予算概算を大蔵原案どおり承認するための段取り作りがある。くやしいが、これで失礼する」』

◎36計、逃げるに如かずである。いずれ使い捨てにする尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲ。いずれ抹殺する予定の近衛文隆。西園寺公一は昭和天皇の身内も同然の身分で、天皇の依頼で尾崎とゾルゲと付き合っている。しかし牛場友彦はこれ以上の長居は危険である。


『「ドクター・ゾルゲは、ドイツ生まれですよね。ドイツのどこで生まれたんですか?」「別に隠す必要もないことだから、言いましょう。わたしの両親はまちがいなくドイツ人です。だけど、わたしが生まれたのは、ドイツではありません。カスピ海のほとりの、アゼルバイジャンです。」「アゼルバイジャンって、ソ連の?」「そうです」ゾルゲは平然として頷いた。「父は、優秀な石油採掘技師でした。ロシアがまだ帝政だった頃、アゼルバイジャンの油田開発にドイツが協力することになり、多くの石油採掘技師が現地に住み込んで働いたのです。わたしはそこで生まれました。正確に言うと、アゼルバイジャン最大の都市バクー郊外に広がる、ムガン平原という油田地帯の片隅です。おかげで、ドイツに引き揚げてからのあだ名がムガンだったんですよ。友だちの悪ガキどもに。おい、ムガンって呼ばれてね。わたしにはもうひとつ、イカというニックネームがあって、自分ではそっちが気にいっていたので、くさりました。でもまあ、ムガンも悪くはないですけど。ところで、近衛さんは、なぜボチなんですか?」』

◎『夢顔さんによろしく』という表題の謎がここで解き明かされている。夢顔とはムガン、すなわちゾルゲのことである。後年ソ連に抑留された文隆は、故国の家族あてに手紙を書くことを許されるようになると、『夢顔さんによろしく伝えてくれ』という謎の言葉を繰り返した。ゾルゲによろしくという意味だったのだ。当時尾崎とゾルゲが処刑されたことを知らなかった文隆は、ゾルゲと自分が捕虜交換で帰国する可能性があると考えていた。


近衛内閣が退陣すると尾崎秀実も官邸を去ることになった。風見章は引き続き尾崎を近衛に近づけておくために、赤坂溜池の山王ビルに尾崎のために一室を確保して「支那研究室」の看板を掲げ、ここに『朝飯会』の連中を出入りさせた。文隆も折に触れて顔を出し、尾崎から支那に関する薫陶を受けた。


文隆は再度上海に渡り、テンピンルーという美しい日中混血のスパイに出会う。ピンルーは蒋介石政権の要人と日本女性の間に生まれた美貌の二重スパイである。彼女は蒋介石政権と日本政府の和平交渉工作をしていた。ピンルーは文隆を橋渡しにしようと接近するが、文隆の人柄に触れて熱愛関係に陥る。文隆はピンルーの主張に共鳴し、重慶の蒋介石とのに直接交渉を試みる。官憲の包囲網を突破しようとするが、二人の逃亡劇は未遂に終わる。

文隆は保護され帰国を命じられる。ピンルーは『ジェスフィールド76号』に銃殺される。『ジェスフィールド76号』とは、当時泣く子も黙ると恐れられた秘密工作部隊の名称である。反日分子の始末と汪兆銘傀儡政権の樹立のために設けられた機関だった。ピンルーが自分の処刑を察知して泣き喚いたという目撃談は、ピンルーをひいては文隆を貶めるためのねつ造である。

帰国した文隆に召集がかかる。

『1940年1月29日、文隆のもとに召集令状が届いた。徴兵に応じることを命じた、いわゆる赤紙がきたのだ。なにもかもが異例ずくめの召集だった。ふつう赤紙による召集は、次のような手順を経て行われる。満二十歳に達した壮丁(男子)は、戸籍を有する役所や役場に、徴兵年齢届を出す。それにもとづき、4月26日から7月31日の間に徴兵検査が行われる。徴兵検査に合格し、現役兵となった者の入営は。1月10日と決められている。これを定めた兵役法には免除や延期の規定があり、中学校や大学予科、大学などに通う学生は一定の年齢まで兵役を免除される。また、この時期に外国に滞在している者には、帰国まで兵役につくことを延期するという規定もある。文隆は、プリンストン大学在学中および、上海で東亜同文書院に勤務している間、これらの適用を受けていた。また首相秘書官在任中は、総理大臣という最高位の勅任官に付属する立場ということで、兵役を免除されてきた。そして、首相秘書官などを務めた経験を持つ者は、以後も高位の官吏と同等の地位に就く可能性が強いということで、兵役は免除されたままになることが多い。文隆はそれらすべてに該当する上、徴兵検査も受けていない。したがって、召集の対象となる現役兵ではないのである。なのに召集令状がきた。臨時招集の形をとった徴兵であった。なにがなんでも、文隆を軍隊に放り込む、そういう意図が感じられる召集だった。』

『牛場らが驚いて、異例の召集の背景をさぐってくれた。その結果、背景に憲兵隊の強い意向があるということがわかった。』

◎牛場はよくこういう臭い芝居を平気でやると思う。

『はたして、指定された入営場所は満州であった。』

◎はたしてシナリオ通りであった。

『文隆が配属されたのは、手塚という中尉に統率される第三中隊だった。中隊内での担当は内務班で、下士官の班長以下、隊内のこまごまとした雑務を一手に引き受けることになった。入営した翌日から、きびしい練兵教練が待っていた。教練だけではない。兵舎の雑巾がけ、便所掃除、古年兵の衣類洗濯も、文隆たち初年兵の仕事だった。なかにはわざとやったのではないかと思われるほど、糞だらけの褌もあった。糞といえば、便所の汲み取りも難物だった。酷寒地なので、便所の中の糞はかちかちに凍って石のようになっている。それが日に日に増えていく。これを汲み取るために、鉄棒でつついて、凍った糞を細かく砕く。それスコップ等ですくい取る。凍った糞の破片が軍服にこびりつく。それが暖かい室内に戻った後で溶け、ひどい臭気を発した。こんな時は、内務班に配属されたことがつくづく嫌になった。支給された寝具毛布状袋は、大柄な文隆には丈が足りなくて、もぐり込んだ後ろ足を縮めて寝るしかなかった。そうやって聞く消灯ラッパの音色は、たしかに、誰言うともなく言われるようなった、♪新兵さんはかわいそうだなー、また寝て泣くのかなー、と聞こえるような気がした。』

◎糞まみれの文隆であった。

『1941年4月25日、第一次幹部候補生考査が行われた。この試験に文隆は、周囲はもちろん本人も予想外の一番で合格した。筆記試験はともかく、口頭試問の人物考査で断然の好成績を収めた結果だと、後で試験を担当した上官に知らされた。文隆は意外だった。口頭試問の折に、アメリカ留学を途中で切り上げた理由を根掘り葉掘り聞かれ、正直にこう答えたりしたからだった。「落第しまして、学業を続ける見込みがなくなったからであります」自分ではまずい答えだと思ったが、それが正直で飾らない人柄だと評価されたのだという。』

『1941年10月15日、尾崎秀実は、上目黒の自宅でのんびりと朝食をすませ、新聞などに目を通していた。そこに来客があった。女中が客の名刺を尾崎に渡した。東京地検の玉沢三郎検事のものであった。<<少々お尋ねしたいことがありますので、ご同道ください。外でお待ちしています>>という走り書きがしてあった。わずかの間考えた末、尾崎は妻の英子を呼び、「ちょっと出かける」と告げて、背広に着替えた。それから尾崎は、ポケットから銀行預金通帳と印鑑を取り出して、妻に手渡した。その通帳の残高は、三百円であった。』

『尾崎秀実逮捕から三日後の18日早朝。午前6時、麻布区永坂町にあるリヒャルト・ゾルゲ宅の玄関前に、五人の男が立った。「お早うございます、ゾルゲさん。朝早くから申し訳ありませんが、先日の自動車事故の件で、伺いたいことがあっておじゃましました」ゾルゲが、え、という顔をした次の瞬間、裏庭のほうから号令がかかった。「今だ!」斉藤以下四人の刑事がゾルゲに飛びかかった。腕をねじ上げて表に連れ出す。ゾルゲはまだ事態が呑み込めないのか、抵抗せずに歩きだした。』

『この事件そのものは極秘扱いとされ、半年以上にわたって世間に発表されなかった。10月30日、文隆は現役満期となり、予備役に編入された。平時であれば、これで娑婆に戻れる。しかし、日米関係の緊張がそれを許さず、即日臨時召集され、陸軍少尉任官となった。それから一か月余り後の12月8日、日米開戦。日本は同時にイギリス、オランダ、オーストラリアなどとも戦争状態に入った。局地戦争にすぎなかった支那事変とはケタちがいの、未曽有の大乱に突入したのだ。』

◎文隆は二度の召集に応じ、この後満州にくぎ付けにされる。

『文隆は異色の小隊長であった。教練時など、余計なことをいっさい言わず、要点だけを指示して、あとは下士官や兵士の判断に任せた。配下の不始末も、一身に引き受けて懲罰を甘受、平然としていた。その悠々たる指揮ぶりに、部下の下士官や兵士が感服し、深い信頼を寄せた。上下関係を問われる公の場ではともかく、個人的には、部下も同僚も、みな文隆をボチさんと呼んだ。』

『この頃親しく行き来した民間人に廣兼篤郎という人物がいた。ビールを飲みながら談笑しているうちに、廣兼がふと、こんなことを言った。「ボチさんは、以前父上が総理大臣だった当時、秘書官をなさっておられたんですよね」「そのとおりです。しかし、すでに昔話に近くなりましたよ」「ここに出ている尾崎秀実さんという人は、第一次および第二次近衛内閣当時、内閣嘱託を務めたと書かれています。もしかして、ボチさんもご存じなんじゃないですか?」「えっ、尾崎さんがどうかしたんですか?」「やはりご存じでしたか。大変な嫌疑をかけられているようですよ」「嫌疑?−なんの嫌疑だろう」まさか、と思いつつ、廣兼から新聞を受け取り、さっと目を通した。文隆はしばらく茫然としていた。これは何かのまちがいだ。文隆はそう思った。尾崎秀実は牛場友彦の親友で、近衛内閣の書記官長だった風見章の信頼が厚く、官邸内に専用の部屋まで与えられていた。』

◎何かのまちがいではない。牛場と風見が共謀していたのである。この廣兼篤郎も連中が差し向けたお目付け役で、文隆をソ連に拘留させる工作の陰の主役の一人である。

『「だいぶ驚かれたようですね」「驚いた、なんてものではないですよ。でもボチは、これはなにかのまちがいだと思います」そう言いながら文隆は、それにしても今まで、尾崎と親しい風見章や牛場友彦らが、なぜ手をこまぬいていたのだろうと思った。記事によると、尾崎らが検挙されたのは昨年の10月15日だという。かれこれ7か月前のことだ。友誼に厚い風見や牛場のことだ。この間なにもしなかったということはないはずだ。まして尾崎は、近衛内閣嘱託という公的な立場にあった者ではないか・・・。第一、検挙されたのが10月15日というのがおかしい。第三次近衛内閣が総辞職したのは、この翌日の16日であった。−これはなんらかの謀略だ。』

◎そうだ、これは昭和天皇と吉田茂の謀略だ。尾崎をスパイとして利用して、その尾崎を近衛内閣の嘱託にする。そして近衛内閣が総辞職した翌日に尾崎を逮捕させる。悪知恵と底意地の悪さでは、この二人の右に出るものはいない。まさにゴールデン・コンビである。

『1942年12月1日、下城子駐屯部隊の将校のみを対象とした、座学講座が開かれた。講師は、下城子の北方約400キロの、ソ満東部国境の町虎頭(フートン)に駐屯している、第四国境主守備隊長、秋草俊大佐である。秋草大佐は、陸軍士官学校を終了後、東京外語専門学校に入り直し、ロシア語を修めた。その後ハルビン特務機関員やドイツ星機関長を歴任後、陸軍中野学校の別名で知られる後方勤務要員養成所の初代所長を務めた。陸軍きってのソ連通として知られるばかりでなく、経歴からもわかるように、諜報工作畑の権威でもある。』

◎秋草俊も連中の回し者である。彼はこの後も、文隆のターニング・ポイントの要所要所で登場する。

『「ソ連の状況についえ話せとのご要望ですので、浅学をも顧みず、若干の時間をいただいてお話申し上げます。わたしどもの知るかぎり、トハチェフスキーらは、まったくのでっち上げ。すなわち無実の罪をきせられて処刑されました。スターリンは、国民的に人気のあるトハチェフスキーらが、自分の地位をおびやかすという妄想にとらわれ、先手を打って抹殺したのです。彼らの肉親も、ことごとく殺されるか、遠隔地に流刑になったという情報があります。」』

『秋草はこうした犠牲者が出る裏には、国民同士を相互に監視させ、密告させるシステムができていることがある、と説明した。続いて秋草は、ソ連に点在するおびただしい数の監獄と共生収容所について触れ、その存在が、いかにしてスターリンの恐怖政治を支えているかを、実例を挙げて説明した。「たとえば、モスクワ市街のど真ん中にあるルビアンカという元保険会社の建物は、現在NKVDなる秘密警察の本部になっております。この建物の中庭の一角と地下が監獄になっていて、おもに政治犯が収容されております。ここに入ったが最後、生きて帰ることは不可能とされている場所で、ソ連人たちにとっては泣く子も黙る存在であります。トハチェフスキーらが逮捕されたのも、このルビアンカの地下の処刑場でした」』

◎数年後、文隆と秋草大佐はソ連収容所で再開する。文隆は秋草の前講義を受けていたので、自分の置かれた状態を良く把握することが出来た。秋草は文隆と同じ房に収監されて自分の運命を悟り、全てを打ち明けた。秋草はある夜突然連れ去られ、生きて故国の土を踏むことはなかった。

話は戻って、文隆は帰国して見合いする。

『1943年11月29日。文隆は二か月の長期休暇を与えられて、下城子を出立した。応召以来あしかけ四年ぶりのまとまった休暇である。12月5日昼前、東京駅に帰着。荻外荘に荷ほどきし、この日はゆっくりして、昔年の軍隊の垢を落とした。翌日、体調を崩して入院中の文麿公を見舞った。文隆に満州方面の状況を聞いた後、ぽつりと、「万一満州にソ連が入ってくるようなことがあったら、この戦争は終わりだ」と言った。』

『12月10日、荻外荘に牛場友彦が顔を出した。「近衛公をお見舞いしたら、ボチ君が帰ってきたとおっしゃるんで、顔を見にきたよ」牛場はそう言って、しばらく一別以来のよもやま話をした後、ふいに声をひそめて言った。「ボチ君は、もちろん尾崎の事件を知っているだろう?」一瞬のためらいの後、文隆は小さくうなづいた。牛場はたたみかけるように、「では、彼に死刑判決が出たことも、知っているか?」と言った。「えっ?・・・それは知りませんでした。」「風見さんなどがいろいろ尽力しているようだ。それに、まだ上告審がある。それまでに、何か動きがあれば、判決がくつがえる可能性も出てくるだろう」「動き、というと」「例えば、ソ連がゾルゲの引き渡しを要求してきて、それに我が国が応じる場合などだ。向こうにも、我が国の人士で、スパイ容疑で捕まってる者がいるから、それとの交換ということになるだろうがね。主犯のゾルゲが刑の執行を免れたのに、尾崎らを極刑に処すわけにはいかんだろう」「おもうさん(お父さん)に、上告審が有利に展開するよう、力添えを頼んでみましょうか」「だめだめ。それこそ、軍部の思う壷にはまる。日米開戦直前の16年10月、あの事件が発覚したこと自体、何者かの意図があるとわれわれは睨んでいる。事実、事件発覚後、風見さんはもちろん、近衛公まで検事の尋問を受けた。かくいう私も、尋問を受けた口だがね。われわれは、塁が近衛公に及ばないようにするために、必死だったんだ。そのことは尾崎も良く分かっていて、調べに対し、近衛内閣の関係者は一切無関係だと言い張ったらしい。彼は骨があるよ」』

◎さっそく牛場が偵察にやって来た。牛場友彦は風見章と組んでマッチポンプ役を演じている。風見章は1933年に発足した「昭和研究会」のメンバーに、まっさきにゾルゲを推薦した人物である。牛場は岸道三と謀って1937年に「朝飯会」を作り、まっさきに尾崎と西園寺公一をここに引き入れた。風見と牛場は尾崎とゾルゲを罠にはめ、近衛に塁を及ぼすようにした張本人たちだ。

明けて1944年1月23日、文隆は見合いする。昭和天皇の勅命である。相手は浄土真宗本願寺派本山、西本願寺法王、大谷光明の娘、母は良子皇后の妹・大谷正子。つまり昭和天皇の義理の姪である。

『この頃から、太平洋方面の戦況はいよいよ切迫の度を深めた。7月に入ると、7日にはサイパン島守備隊が全滅、4万人以上の将校と住民1万人が玉砕した。18日、東条内閣がついに総辞職、前朝鮮総督小磯国昭陸軍大将に組閣の大命が降下した。こうした騒然たる雰囲気の中で、文隆の結婚準備が進められた。逼迫した状況に鑑み、近衛公は文隆にふたたび長期休暇を取らせるころはできないと判断、満州において簡素な結婚式を挙げさせることにした。』

サイパン陥落で日本の敗戦は決定した。将棋でいえば「まいりました」である。米内光正でさえ「誰がどうどう考えても負けである」と言った。このような時期に大元帥昭和天皇は義理の姪に満州で結婚式を挙げさせ、現地で兵役に就いている文隆と新婚生活をさせたのである。媒酌人は木戸幸一。


昭和天皇と吉田茂は、敗戦のシナリオを知悉している。いずれソ連が満州に侵攻し、戦後世界は米ソによって二分され。ソ連国境に近い満州は地獄となる。昭和天王と吉田茂はその危険な満州に正子を送り込む。敗戦直後の混乱した状況の中でも、正子を囮に使えば文隆をおびき寄せることが出来るからだ。昭和天皇は皇后の姪を、文隆に罠を仕掛ける道具に選んだのである。


10月12日文隆と正子は満州で挙式する。近衛文麿は多忙という理由で欠席した。出席者の中には秋草少将の顔があった。『大任』を果たした木戸は、心の底からうれしげだった。そして11月1日、牛場友彦と岸道三が、満州くんだりまで偵察にやって来る。

『「あの後、尾崎さんたちはどうなりました?大審院に上告した結果はもう出たんでしょう?」「機密扱いで発表されていないが、伝え聞くところによると、上告棄却らしい」「えっ、ということは死刑が確定したと」「しかし、まだ諦めるには早すぎる。普通、死刑が確定しても、実際に処刑がなされるまでにが、数年の時間的余裕がある。その間なにか社会的慶事があれば、恩赦が期待出来る」「そうですね。とりあえずは、大東亜戦争の終結と、それに続く講和発効などが、ひとつのチャンスですね」』

◎牛場はオトボケの名人である。何が伝え聞くところによるとだ。謀略関係者の一員なのだ。牛場はすべて知っている。尾崎とゾルゲは用済みになり口封じされる運命にある。この会話のわずか10日後、尾崎とゾルゲは刑された。


1944年11月7日ソヴィエト革命の記念日の朝、尾崎が約3年を過ごした東京拘置所2舎1階11房に執行人が迎えに来た。尾崎は処刑場の入り口の小部屋で、勧められたお茶を続けざまに二杯うまそうに飲み干した。絞首台の手前まで来ると、尾崎は後ろに控える人々に軽く頭を下げて言った。「では、さようなら」尾崎の最後の言葉だった。その後目隠しをされ死刑執行台の上に乗った。獄中の尾崎と家族の往復書簡は『親友』の松本慎一が奔走して一冊の本となって出版された。本は大ベストセラーとなり、印税は遺族の生計を支えた。尾崎が口をつぐんだままあの世に往ってくれたご褒美であった。

『満州に本格的な冬が訪れた。酷寒の中、文隆は平和で静かな日々を送っていた。なにもない、辺境の軍人生活。しかし文隆は幸せだった。夕刻、文隆の小さな影が、草山の稜線付近にぽつんと現れる。正子は外に飛び出して、その影が大きくなりつつ近づいてくるのを、飽かず眺めていた。』


私はここを読んで胸が痛くなった。西木氏の筆によって正子のひたむきな慕情が伝わってくる。この慕情が道具に利用されるのだ。

『戦況の悪化とともに、満州でも何が起こるか分からないという雰囲気になってきた。「なるべくすみやかに家族を内地に引き揚げさせるように」という命令が、さりげなく下された。』

いったん正子は廣兼篤郎宅に泊まって、帰国手続きを取り始めた。しかし文隆から家族同伴での赴任が認められたという手紙が届く。


『正子は大喜びで手続きを中止した。』

『7月1日、文隆が正子を迎えにきた。「家族同居が認められたものの官舎がない。知り合いのお宅に間借りすることになる」文隆にそう言われたものの、夫といっしょに生活できるのであれば、住まいなどどうでもいいと正子は思った。文隆が用意した住まいは、山本庄吉という人の家の、二階の一間だった。家族同然とは名ばかりで、文隆は山中の駐屯地で兵と起居をともにし、週に一度くらいの割で町場に出てきた。しかし、それを埋め合わそうとするかのように、文隆は正子を楽しませようとした。』

文隆は1940年からずっと満州で兵役に就いていた。最初の召集を満期務め上げ予備役に編入されたが、臨時招集をかけられ引き続き満州で兵務に就いた。昭和天皇と吉田茂は文隆を拘束し続け、そういう状況の中で正子とお見合いさせた。幸か不幸か二人は強く惹かれ合った。正子は文隆と一緒にいるためなら命を懸けた。

『8月9日未明、宿舎のテントで熟睡していた文隆は、「中隊長殿、中隊長殿、起きてください」という呼びかけに眠りを破られた。「つい先ほど入った連絡によれば、ソ満国境数か所でソ連軍の越境が認められると・・・」「なんだと!」跳ね起きた文隆は、すぐさま連隊長のテントに出向いた。「ソ連軍が越境したというのが本当でありますか?」文隆の問いに、飛松大佐は小さく頷いて、「いよいよきたぞ」と言ってから、声を張って号令した。「全員即刻戦闘配置につけ!空爆が予想されるので、砲の遮蔽を十分考慮すべし」』

『7日間に渡って断続的な爆撃が繰り返された。8月14日、ソ連軍が駐屯地の周囲に迫った。しかし、警戒してのことか、なかなか攻撃をしかけてこなかった。8月15日午後4時前。飛松連隊長が各中隊の中隊長に集合を命じた。「関東軍司令部からの無線連絡によれば、本日正午、畏くも天皇陛下におかせられては、直接ラジオを通じ、御自らの玉音を持って大東亜戦争終結を宣言された。それを受けて関東軍司令官は停戦命令を発した。したがってわれわれも、今現在をもって戦闘行為を終結する。」』

『一度も敵と戦火を交えることなく、戦争が終わってしまった。それにしても、下城子にいる正子は大丈夫だろうか。下城子はソ連との国境に近く、戦車だと数時間で到達されてしまう。11日、女子供は急いで後方に退避せよという命令が出され、避難用のトラックが用意された。正子は着の身着のままでトラックに乗せられ、下城子を脱出した。』

正子はハシカを患っている女性を看病しつつ、途中でトラックを降り廣兼篤郎宅に向かった。文隆を待つためである。やがて周辺から日本軍の姿はまったく消え失せ、代わってソ連軍が大挙して入ってきた。廣兼は正子を足止めし、ソ連将校イワノフ中佐に通報する。イワノフ中佐は廣兼宅に当直将校をつけて『護衛』させ、もし正子が望むなら文隆を探してあげようと持ちかける。正子には謀略が分からない。

『正子は、イワノフが突然神様に変身しように感じられた。思わず強い調子で「お願いします!」と言った。イワノフは頷いて、「ではやってみましょう。ついては、少し手がかりが必要です。終戦前、ご主人が最期におられた場所はどこですか?」』

イワノフは正子から聞いた文隆の所属部隊をメモして帰って行った。文隆は探し出され、正子のもとに連れて来られる。正子は大喜びで迎えた。本当に文隆本人かどうかテストされたのが分からなかったのだ。本人確認が取られた文隆は、三日後、再び連れ去られる。これが文隆と正子との永訣となる。

『日本時間の10月23日夜10時。東京・麻布狸穴にある中日ソ連代表部の一室。中日代表クズマ・テレビヤンコ中将に、通信担当将校が解読したばかりの暗号電文を手渡した。モスクワの赤軍情報管理本部GRUが発信元で、極秘扱いだった。<コノエモトシュショウノシソク フミタカノミガラカクホシタ モッカエイイジンモンチュウ> テレビヤンコは、電文をしばらく睨みつけた後、細かく破り裂いてクズかごに捨てた。』

◎テレビヤンコ中将は吉田茂にこれを報告した。吉田茂はテレビヤンコに金を与え、近衛文麿プロパガンダを依頼した。テレビヤンコはGHQ民生局のホイットニー少将とランチを楽しんだ折、近衛文麿が新憲法草案策定作業の責任者になっていることに苦情を申し立てた。

『この時ホイットニーは、反論も賛成もしなかった。だがテレビヤンコの目的は、東京から1万3千キロ以上離れたニューヨークで、さっそく果たされた。アメリカ東部標準時間で10月26日付けのニューヨークタイムズ紙は、この日の社説で次のように論じた。<近衛文麿元首相が、日本の新憲法草案起草者に擬せられているが、彼のように過去の抑圧政治への貢献大なる者が、マッカーサー元帥によって戦争犯罪人に指定されても、誰一人驚かないであろう>』

◎吉田はウイロビーにも依頼して、朝日新聞に近衛プロパガンダの社説を掲載させた。前回掲げた記事である。息子の身柄を抑留すると同時に、父親を追い込む包囲網が敷かれる。昭和天皇と吉田茂による近衛父子抹殺指令の本格的に始動したのである。

『文隆がノヴォニコリスク収容所に連行されてきたのは、昭和20年の10月31日である。ここには日本軍の将官クラス、および満州各地に展開していた日本の在外公館職員、満州国政府に派遣されていた日本人高官などが収容されている。』

『文隆は満州に駐屯していた部隊の一員だったとはいえ、終戦時の戦闘にも関わっていない。だから、ソ連に留め置かれる理由などなにひとつないはずだ。文隆はそう確信していた。』

◎文隆は知らなかった。自分たち父子を抹殺する工作が東京ですでに二か月前に進行していたことを。

『9月11日、東条自殺未遂の報に世間が騒然としている午後七時。東京・麻布狸穴にあるソ連代表部では、テレビヤンコ中将を中心とした数名の男たちが、ロシア語に翻訳された書類に目を通していた。読み終えたテレビヤンコが、書類を机の上に放り出して、小さく頷いてつぶやいた。「これはつかえる」』

◎ロシア語に翻訳された書類をテレビヤンコに見せたのは吉田茂である。

『ロシア語で極秘と記されたその書類の表紙には、“1945年2月14日の近衛上奏文およびそれに対応して行われた近衛文麿に対する憲兵隊訊聞調書』というタイトルが付されていた。』

ここに何故吉田茂の名前が出てこないのか。吉田茂は近衛上奏に関与した人物として、訊問どころか逮捕されてムショにぶち込まれているのだ。『敗戦はもはや必須なりと存じ候』の書き出しで始まる近衛上奏文はあまりにも有名だが、これを起草したのが吉田茂であることはほとんど知られていない。原田熊雄は側近から近衛を支えるフリをして吉田のために内偵工作をしている。この原田熊雄を丸抱えして潤沢な工作資金と事務所を提供していたのが、田布施ゲットー御用達・住友財閥である。住友財閥は表舞台で汚れ仕事をしている三井・三菱よりも力を持っている。

工藤美代子は近衛上奏について次のように内幕を描いている。

『近衛上奏の前夜に時間は戻る。永田町の吉田邸を近衛文麿が訪れた。近衛「吉田さん、お聞き及びとは思いますが、明朝お上に拝謁がかなったので上奏いたすことにあいなりました。上奏文の叩き台を持参したので、お手入れなどしていただきたい。」吉田「ふむ、これは容易ならざる上奏文だが、この際は思いっきりやりましょう」吉田はそう言うや硯を側に引き寄せ、ところどころ書き直し足り、修正を加えた。近衛「存分に筆を入れて欲しい」お互いの意見を言い合い、もう一度近衛が清書し終わったころは、深夜二時になっていた。


話し合いと手入れが深夜に及んだので、モーニング姿の近衛はそのまま吉田邸に泊まり込み、翌朝の上奏に備えた。吉田は近衛を先に休ませると、上奏文の写しを丁寧にとった。近衛から、「牧野伯にもぜひよんでもらってほしい」と頼まれたためである。だが、その写しは吉田が寝込んでいる隙に、マキの手で密かに移され、翌日「ヤマ」の手に渡っていた』(工藤美代子『かくやくたる反骨 吉田茂』新潮社より)

工藤美代子は不思議な作家である。正義感と使命感から近代史を検証しているのは伝わってくる。厖大な資料を渉猟し、貴重な文献を提示してくれている。吉田茂、近衛文麿、山本五十六、マッカーサー、貞明皇后、香淳皇后、平成天皇の評伝を総なめしている。しかも工藤は田布施ゲットーの中にまで食い込んで聞き取りをし、どうやって入手したのか希少な写真を貼りつけ、国会図書館憲政室の資料にも目を通して、誰も書かけないことを書いた歴史本を量産している。中田君が自己PRとカルト・ビジネスのために、パクリ粗製乱造本を量産しているのとはエライ違いである。しかしその工藤が肝心のことが何も分かっていないのだ。

保坂正康はもっと何も分かっていない。保坂の編著による『私は吉田茂のスパイだった』を読むと、保坂とスパイは完全に吉田茂に手玉に取られているのが分かる。保坂は吉田にいいように転がされているスパイの手記を読んで、スパイと一緒になって吉田に心酔し絶賛している始末である。東輝次という陸軍中野学校から派遣されたスパイは、真面目すぎて使い物にならない。吉田はこういう堅物を選ばさせて自分に貼り付かせたのだろう。東の手記は、吉田茂の正体を見抜けなかったトンマなスパイの日誌である。これを入手した保坂はただただ有頂天になり、東を心酔させた吉田を絶賛している。昨今保坂の全集が刊行され、図書館の近代史の棚を埋めている光景にはため息が出る。

さて寄り道して、東輝次の手記による吉田の逮捕の場面を見てみよう。ヤラセを知らない彼は思いっきり同情している。

『余はかわいそうになった。年老いたこの「吉田」が、それほど軍部にとって強敵なんだろうか。もし検挙すれば、2,3年の禁固だろうと、C大尉は言っていた。けれど、この老人は悪人ではない。

任務上、こうして密偵として余がいるけれど、決して憎める人ではないのである。よく海岸の散歩にお供をした。自転車に乗せ回った。そして色々と尋ねた。よく何でも笑って答えてくれた。この人が2,3年も留置されれば、ほんとうにその間死んでしまうかも分からない。そして後に残ったこの家族の人たちは、どうなるのだろう。

余は出ていく主人の背の低い姿がいじらしく、瞼に灼けつけた。玄関を離れるとき、「ヨハンセン」は振り返り、心配顔で見送る五人のものに、「心配しなくてもよいからね。すぐ帰るから」と、笑顔を残した。

5月31日、その日も一日の仕事を終え、本を出して読んでいた。突然、「おい」「おい」と、表玄関で声がする。「東さん、旦那様ですよ」しづの嬉しそうな声。ガラガラと開かれた玄関から、いつもと変わらない「ヨハンセン」の顔が現れた。「お帰りなさい。お帰りなさい」家の者の喜びは、たとえもなかった。

余は内心、びっくりした。何の連絡(諜報機関から)もないのである。一体、どうしたと言うんだろう。なぜ釈放したんだ。こんなに早く釈放するくらいなれば、俺がこんな生活をする必要がなかったではないか。余は口惜しかった。でも主人の室に行って、喜びの言葉を述べねばならない。

一通りの挨拶のすんだ後、余は尋ねた。「ご感想はいかがですか」「君、人間一生に一度は入ってみてみるのも、よいところだよ」と言って、大笑した。この笑顔を見ていると、余らの工作班、いな軍閥が完全なる敗北をしたように思えた。』

東はたった40日間で『いつもと変わらない顔』で帰宅した吉田に吃驚している。そして怒り心頭に発している。自分の役目は何だったのだ?と。さしずめ東は、吉田逮捕に花を添えるピエロといった役どころだ。ヨハンセンは憲兵隊に自分を逮捕させ、もっとも気候の良い4月下旬から5月にかけて、快適なムショ生活を短期間すごしてきただけである。吉田茂はこれを次のようにとぼけて見せている。

『召喚される原因は、多分秋月翁の潜水艦の一件だろうと想像していた。ところが件の憲兵隊での取り調べは、秋月翁のことは一切触れない。「二月に近衛公が内奏した詳細な内容を貴殿は承知しているはずだから白状しろ」というのである。これはいささか見当が外れた。しかし私はこの憲兵隊での取り調べでは、一切答えないことに肚を決めた。旧憲法ですら親書の秘密が保障されていたから、内奏文の内容を話す必要はいささかもないと考えた。今流でいう黙秘権を行使したのである。』(吉田茂『回想十年』より)

吉田茂はその後、陸軍刑務所に移され短期間で釈放される。保坂は『なぜ釈放になったのかは、定かではないが』と前置きして、いくつかの伝聞による理由を挙げた後、結局、『憲兵隊の勇み足というのが、案外、的を射ているのではないかと、私には思えるのである』と結論している。簡単に釈放された理由などヤラセ以外にない。しかし保坂正康は東の手記と同じようなマヌケな歴史観を書く。まさに吉田の思うツボである。

『戦後になって、連合国の占領支配を受けたときに、吉田は軍部にもっとも抗した外交官OBとして政界に引き入れられ、外相や首相も経験する。そして昭和23年10月からは、第二次吉田内閣を組閣し、以来昭和29年12月までの6年余にわたって首相として日本の土台づくりを行った。とくに歴史的には、占領下にありながら日本の国益を守り続けただけでなく、前述のようにアメリカと交渉し、講和条約を締結したことが挙げられる。大仰にいうなら、吉田は20世紀の日本、それは明治34年から平成12年となるのだが、このなかで大久保や山形、原敬と並んで語り継がれる宿命をもつ首相といえるだろう。


その吉田が、日米安保条約を結んだのはどのような哲学や思想があってのことか。さらにその心理の底には逮捕事件はどのようは糸を引いているか。あるいは、なぜこの条約は将来問題になると考えて自らだけで調印したのか。そして吉田はその晩年において、この安保条約をどのように捉えていたか。その辺りのことは十分に検証されなければならない。』(保坂編著の前掲書より)

吉田茂が『近衛上奏文』の関与を理由に、自分を憲兵に逮捕させたヤラセは十分に検証されねばばらない。逮捕劇によって戦後占領期に台頭する免罪符を手に入れた吉田に比して、近衛文麿は上奏した本人でありながら訊問されただけであった。なぜ近衛は逮捕されなかったのか。なぜ吉田茂は現役を退いている間ずっと友人を装って近衛に張り付いていたのか。近衛が憲法起草案を奉答して栄爵拝辞した直後にニューズ・ウイ―クと朝日新聞に近衛排撃の社説を書かせたのか。これを合図にマッカーサーの態度が豹変し、近衛の立場は一転し戦犯になった。吉田の免罪と比較対照して十分に検討されねばならない。吉田茂は田布施村王朝次世代リーダーとして、大久保利通、山形有朋、伊藤博文と並べて検証されねばならない。昭和天皇と吉田茂のゴールデン・コンビがそれぞれのコネクションを使ってダレスと直結し、国益に反する口頭メッセージを送っていたことは十分検証されねばならない。

西木氏の『夢顔さんによろしく』に戻る。

『ジェルジェンスキーは、革命直後に創設された反革命取締り組織全ロシア非常委員会、略称チェーカの初代委員長だ。チェーカは後にいくたびかの変遷を経て巨大化し、世界屈指の秘密警察KGBとなる。』

アヴェレル・ハリマンが単身ソ連に乗り込んで、フェリックス・ジェルジェンスキーに大金を渡してソ連の利権を開拓したことは既述した。これにOSSにいたジミー・ウオーバーグが参入したことも、ジミーが白洲次郎と繋がっていることも。チェーカがある通りはルビヤンカ通りといわれている。その裏手には政治犯の重罪人を収容する監獄がある。その入り口をくぐれば生きて出ることはないと恐れられたルビヤンカ監獄である。文隆は昭和20年10月、将官クラス、在外公館職員、政府高官が収容されるシベリア・ノヴォリコフ俘虜収容所に入れられた後、半年ほどでモスクワのルビヤンカ監獄に移送された。悪名高いルビヤンカについては、満州に駐屯していた間、なにかと目をかけてくれていたハルビン特務機関長秋草俊少将から、その概略を聞かされている。実は秋草俊は文隆に貼り付いて情報収集していたのだが、文隆と同じようにソ連に抑留されルビヤンカに収容されている。生きて出ることがないと言われたルビヤンカを、しかし文隆は昭和22年6月2日に生きて出て同じモスクワ市内のレフォルトヴォ監獄に移送された。ここで文隆はラヴレンテイ・パヴロビッチ・ベリアに聴取されている。

『恐怖政治を敷くスターリンの最大の腹心、教案等中央委員会政治局員べリアだった。べリアはスターリンンと同じグルジアの出身で、1937年から1938年にかけて吹き荒れた、トハチェフスキーらに対する大粛清で辣腕をふるい、スターリンの信任を得た。以後NKVD(内務人民委員部)長官をへて、政治局員に抜擢されている。ソ連における公安・秘密工作組織の総元締的な立場にある男だ。』


言葉ひとつ交わさないべリアとの会見を終えた深夜、文隆は突然部屋替えになる。これまでは未決囚だったが、戦争捕虜の扱いになるという名目だった。

『翌日から、これまでとは比較にならない、密度の濃い取り調べがはじまった。』


文隆を取り調べたのは、スメルシュに出向しているレフシン海軍大尉だった。文隆は秋草の言葉を思い出していた。


『シュメルシュは、その名の通りきわめて危険な防諜機関です。単なる軍事警察ではなく、通敵分子の暗殺や誘拐、テロなども彼らの守備範囲です。』

1年2か月後の昭和23年8月3日夜、文隆は独房713号から112号室へ引っ越しを命じられる。そこには意外な人物が文隆を待ち受けていた。

『「あ、秋草さん!」「これは・・・近衛君」新しい住処となる112号の先住者は、あろうことか、元陸軍中野学校初代校長にして哈爾賓(ハルビン)特務機関長の秋草俊少将だった。目の前にいる秋草は、ふたまわりも小さくなった感じだった。頬がこけて目は落ち窪み、軍服はぶかぶかである。秋草は文隆の耳元に口を寄せて「紅耳あり、だ。ここの房の壁の中には、まずまちがいなくマイクが埋め込まれている。奴らが俺と君を同じ房に入れたのは、なにか魂胆があるからだろう。」』

秋草はここに移送される前に文隆と同じくルビヤンカにいたこと、そこでアバクーモフ保安省長官じきじきに訊問されたこと、それは多岐にわたり且つ徹底していたことを話した。陸軍中野学校の詳細や、哈爾賓特務機関の役割に関しては、『微に入り細にわたってしつこく尋ねられた』。秋草は同じ房に文隆が連れて来られた時に、自分の運命を悟った。事情を知りすぎた自分は、文隆と同じ運命をたどるのだ。秋草は罪滅ぼしのつもりで、『自分が経験したことをすべて伝えておこうとするかのように、看守の目をかすめては、文隆の耳にささやき続けた。』

『昭和24年1月8日夜8時、房の扉が開かれ、秋草ひとりが連れ出された。そして、それっきり、彼は戻ってこなかった。』

◎秋草は間もなく『病死』したことになった。

4月19日夜8時。文隆は突然呼び出しをかけられ、陸軍司法大佐ブイレンコフから禁固25年の起訴を受けた。罪状は文隆が近衛内閣首相秘書官として、関東軍を訪れさらなる侵略の策謀をなしていたことや軍需産業を訪問して督励していたことに加えて、近衛上奏文にまで言及していた。

『「さらに1945年2月14日、コノエフミマロが大日本帝国天皇ヒロヒトに対して行った上奏の原稿たる、いわゆる近衛上奏文においては、国際共産主義に対するあからさまな妨害を意図し、その実現を図った。被疑者コノエフミタカは、総理大臣秘書官当時、この上奏文の骨格をなす政策設定に力を尽くした。よってここに起訴し、量刑禁固25年を求刑する。』』

◎昭和26年11月16日、またも文隆は移送される。やはりモスクワ市内にあるプトルイスク監獄である。ルビアンカとレフォルトヴォは保安省管轄だったがプトルイスクは内務省管轄である。文隆は特別会議ですでに禁固25年の刑が確定されていたのだ。

『特別会議には、誰も太刀打ち出来ない。1917年革命が成功した後、さまざまな反革命の動きがあった。それを封ずるために、レーニンは、あらゆる機関に超越する特別会議の設置を承認した。特別会議は通常3人で構成される。めんばーは、内務省の最上層部しかわからない仕組みになっている。この特別会議は、商人や被告の立会いなしに、犯罪者を裁く権限を与えられている。』

『文隆がまるで身に覚えのない罪状で禁固25年を言い渡される3か月ほど前の昭和26年9月8日。アメリカ西海岸のサンフランシスコでは日本の戦後に一区切りをつける対日講和条約が調印された。』

◎吉田茂は講和条約を調印した3か月後に、文隆に禁固25年の刑を確定させたのである。翌年の1月20日、またも文隆は移送される。イルクーツク州キーロフ区アレクサンドルフスク監獄である。『帝政ロシア時代から、3ツエントラル(三大中央監獄)と呼ばれた国内最大の監獄のひとつである』。

文隆が入る49号室にはすでに20人余りの先住者がいた。文隆はここで、歌を歌ったり、せがまれて何回もプリンストン大学留学中の武勇伝を語ったりして雑居房の人気者になる。西木氏が描く文隆のアメリカ留学時代のエピソードは、40号室の生還者からの聞き取りである。『第49雑居房においては、軍隊での階級や軍人地方人のちがいに拘わらず、文隆を媒体にしてなごやかな時間をすごすことが出来るようになった』。


しかしここでも文隆に貼り付く工作人が用意されていた。脇田という名前で登場するが、彼は文隆の『脇』にいるから脇田という名前が付けられたのだ。10月、脇田は文隆にアバクーモフが処刑されたことを告げる。秋草俊をルビヤンカで訊問した国家保安省長官アバクーモフが、国家反逆罪で銃殺されたのである。11月3日、文隆らは家族に葉書を書くことを許されるようになる。文隆は自身が無事であり、正子の身の上や家の生活状態を尋ねた後、差し入れてほしいものを列記した。この葉書はもちろん検閲を受けた。

翌年昭和28年3月6日、ザ・オーダーの意向に逆らい始めたスターリンが、息の根を止められた。7月10日、スターリンの最側近だったベリヤも失脚する。翌年昭和29年12月7日、吉田茂の長期に渡ったワンマン政権体制が倒れ、鳩山一郎が内閣首班となり日ソ国交回復を掲げた。これも吉田の自作自演である。鳩山は吉田に一時使われた駒に過ぎない。中田安彦が新著で鳩山一郎の友愛主義を賞賛し、鳩山の友愛主義が吉田茂に突き崩されていく過程を知らずに戦後日本の民主主義の変遷を語ることはできない、としているのは幻想である。


翌年昭和30年12月、文隆はまた移動を命じられた。車で10分ほどの国家保安省管轄の監獄だった。ここで文隆に対して『痔疾の治療』が開始された。文隆は尻の皮下注射と腕の静脈に『ペニシリン』注射を打たれるようになる。

昭和31年1月21日、文隆はまたも移動を命じられる。イルクーツクを出発して三週間後、モスクワ東方およそ250キロの所にあるウラジーミル中央監獄である。ここでも文隆の『治療』は続けられた。


『あなたには特別の治療をするようにとの申し送りがきている。人道主義にもとづき、貴重なペニシリンを用いての治療だ。今から担当医がその治療を行う』。


6月14日、またもや突然の移動命令が出た。イワノヴォ州チェレンツイ村、ここが文隆終焉の地である。そこには関東軍参謀長・秦日彦三郎、関東軍ソ諜報部隊・福田稔少佐が収容されていた。秦は文隆が正子と哈爾賓で結婚式を挙げたときに秋草とともに出席した人物であり、福田は文隆の戦友である。彼らは最期の仕上げとして、文隆の最期を見届ける任務を帯びて待機していたのである。


10月12日鳩山首相一行がモスクワに到着する。ニュースはただちに文隆のいるイワノヴォ収容所の日本人たちにも伝わった。

『紆余曲折があったが、ほんとうにこれで帰れる。モスクワ時間10月19日午後5時50分、日本時間では午後11時50分、領土問題を棚上げする形で決着、調印された。この瞬間、文隆ら日本人虜囚の帰国も確定した。』


◎この瞬間文隆の死刑執行が決定されたのである。国家保安省から派遣されたノビコフ中佐によって、、文隆の『治療』が集中的に行われ容体が急変した。10月29日午前5時ちょうど、文隆の最後の脈が消えた。

『午前7時、文隆の遺体は車に乗せられ、イワノヴォ大学医学部に移され、病理解剖に付された。その結果、死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎臓炎とされた。』


以下、文隆の葉書から抜粋する。

『なつかしいマコ。皆元気か。小包有難く受領。・・・岸、牛場、白洲、廣兼諸氏にそろそろ歓迎準備をする様に頼んでくれ。それには夢顔さんと相談するがよかろう。尚、岸、牛場、白洲さんに、西園寺の公ちゃんに宜しく伝言の程頼んでくれ。』

『尻は今ペニシリンで治療を受けている。全治するかもしれぬ。これが手術なしで治ればしめたものだ。細川、岸、牛場、白洲、廣兼さんに呉々も宜しく。もうすぐ帰れるでしょうと伝えてほしい。夢顔さんとなんでも相談せよ。』


『マコ、また移った。今度の所は全く今迄と違って別天地。・・・帰ったら生まれ変わったボチを期待していてほしい。夢顔さんに呉々も宜しく。』


『もし交渉が妥結したら、今年の9月か10月にはなつかしの祖国の土をふむことが出来るかもしれない。ではもう少しの辛抱頑張ってくれ。夢顔さん始め皆によろしく。』


『母上、お変わりありませんか。当方元気故御安心下さい。・・・マコ、しばらく手紙が来ないので心配している。変わりないことを祈っている。・・・夢顔さん始め友人諸氏にも宜しく。』


『なつかしいマコ。その後如何。母上はじめ皆変わりない事だろうと思っている。当方元気。当地では既に晩秋の感がする。今日あたり松本さん(注 松本重治)がモスコーに着く筈。鳩山さんが来られる様になったら交渉もまとまるのではないかと期待している。・・・皆さんによろしく。夢顔さんに呉々も宜しく。』


文隆の葉書には犯人たちが名指しされている。松本重治、牛場友彦、白洲次郎、岸道三、細川護貞、廣兼篤郎。


松本重治は文隆の父親文麿が暗殺される一部始終を見届けたが、今回も文隆の処刑を確認すべく鳩山一郎に随行してモスクワまで来ている。文隆は鳩山の側近を介して、松本重治に「帰国したら文麿の死因を追及するつもりである」と伝えた。文隆は100%帰国できると思い込んで、松本に復讐を予告したのだ。文隆の伝言は松本に残っていた最後のわずかな逡巡を払い去った。松本は文隆を始末することにもう何の迷いもなかった。


満州での短い新婚生活で、正子は文隆の帰宅を待つ時間が好きだった。文隆の人影がポツンと草山の上に現れると、飛び出して行ってそれがだんだん大きくなって近づいてくるのを飽かず眺めた。そして文隆がソ連に抑留されてからも、正子は11年間待ち続けた。姉の家に間借りして一人暮らしをしながら、働いた給料で文隆への差し入れをせっせと小包にして送り続けた。ついに文隆が帰国することがないと知らされた時も、近衛家から籍を抜いて再婚する話を断った。正子は心の中にある満州の草山の上に、文隆の影がだんだん大きくなるのを生涯待ち続けたのだろうか。

文隆と正子の間には子供が出来なかったので、近衛家の跡取りとして細川護貞の二男が養子に入り、さらに三笠宮の娘の血が混入された。一方、吉田茂も孫娘を三笠宮家に嫁がしている。田布施村王朝と吉田茂の、“高貴な血筋”に対する怨念と執念を感じる。


しかし神武天皇は天皇家が朝鮮から渡来したと明言しているし、近衛家を筆頭とする五摂家の始祖である藤原鎌足も素性が怪しいし、徳川300年の封建制を樹立した徳川家康の祖父も乞食坊主だったというし、田布施村王朝による明治維新だけでなく、ずーっと元をたどれば何処も同じである。


聞くところによると麻生太郎は、所信演説で開口一番『平民のみなさん』『下々のみなさん』と言ったという。麻生太郎君、しかし君の祖父の吉田茂だってれっきとした平民で下々のみなさんの一人だった。どこの馬の骨ともわからない生まれだったのだ。君のお祖父さんが執着し、君が誇りにしているらしい田布施村王朝の血統も、やはり同じ穴のムジナなのである。あの皇居の広大な森の中に巣食う人々は、サスペンスドラマ顔負けの乱脈さではあるが、一般市民であることには間違いない。


我々はもういい加減人の素性に上下をつけるのを止めて、天皇陛下とか皇后とか女王とかいう称号も止めて、みんなでただの人間になるのはどうだろうか。私はそれが一番良いと思う。


田布施村を抑圧し続けてきた対価を、明治維新以来、我々の祖父母や両親は十分支払ってきたと思う。そして近衛父子も過酷な運命の支払いに正面から対峙して、最後まで逃げなかったと思う。


今この国では若者の未来が見えなくなりつつある。日本国憲法には、天皇の世襲に当たっては、国民の総意が問われることが銘記されている。田布施村王朝は中国で麻薬栽培・密売して儲けた天文学的な秘密財産を明らかにし、麻薬王の傀儡政権として国民に対する暴力装置として機能し続けた実態を明らかにした上で、あらためて国民の総意を問い直してはどうだろうか。


 

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コメント
 
01. 2012年1月02日 20:10:13 : cPIJgl1gMc
人生の無常感を説くのなら世界政府のユダや貴族にも言ってやってくださいよ。他人を支配しても人生の虚しさは消えませんよとね。日本にあたりちらしても、ますます虚しくなる。

某協会が天皇制廃止の工作をしているようですよ。本を書いたりして、いろいろとね。天皇制廃止で新しい貴族出現の世界政府への道は既定のアジェンダでしょう。言われるとうり馬鹿らしいことですね。


大衆は手におえないものでしょう。大衆は今の現在の力に対して頭をさげている実利的な人間でしょう。金にたいして頭を下げているにしかすぎない。

そうそうゾルゲは生きてるそうで墓は空だそうだと達人さんがいっておられましたよ。ソ連も日本も世界は上が全部グルだそうです。大衆を支配する劇場にしかすぎない。


02. 2012年1月03日 05:37:21 : FijhpXM9AU
白洲は敗戦に至るシナリオを知っていて、いずれやってくる東京大空襲が怖くて、五十六を暗殺した1943年4月の翌月には早々と山村に疎開している。
------------------------------

さもありなん。


03. 2012年1月03日 05:40:10 : FijhpXM9AU
東京大空襲されても皇居が焼失しないように、吉田一味が集団疎開していた大磯も無傷である。吉田を逮捕しに大磯に行った憲兵隊は、その別世界ぶりにしばし茫然としている。
---------------------------

さもありなん。


04. 2012年1月03日 06:18:55 : FijhpXM9AU
明けて1944年1月23日、文隆は見合いする。昭和天皇の勅命である。相手は浄土真宗本願寺派本山、西本願寺法王、大谷光明の娘、母は良子皇后の妹・大谷正子。つまり昭和天皇の義理の姪である。
--------------------------------------
これで文隆が満州の最前線に戻されるとしたら、昭和天皇の策謀があったとしてもおかしくはない。どうみてもおかしい。

戦前大元帥気取りで軍馬に乗って勇ましく振る舞っていた昭和天皇は、戦後突然無害な「生物学者」に豹変した。おかしいと思っていた。

「昭和天皇は常に現地軍の独断専行を追認し、よくやったという勅語を与えていた」というのも、「さもありなん」である。成功している限りはおだてておいて、失敗したら「関東軍の独断専行だった」としらんぷりをする戦略だったのだろう。


05. ♪ペリマリ♪ 2012年1月04日 11:41:30 : 8qHXTBsVRznh2 : DJ1GPcwFsg
>>01

ゾルゲ情報ありがとうございます。


調べ直しましたが、確かにゾルゲは密かにソ連に送還され、
大量の日本人捕虜と交換されたようです。
ただしゾルゲはすぐに殺されているようです。


ゾルゲとの捕虜交換のリストに文隆が入ることはありませんでした。
昭和天皇の安泰と交換に、瀬島龍三が日本兵を引き連れて投降し、
シベリア強制労働の後に帰国したケースもありますが、
やはり文隆は25年の刑を宣告されていたので帰国を許されていません。


文隆は25年の禁固刑が確定されてからは待遇が過酷になり、
少しずつ食べ物にも薬が混入され、顔も手足もむくみ、
歯茎もぼろぼろになったいたようです。


白洲次郎や松本重治らは11年間ボチを生殺しの状態にし、
近衛父子が死んだ後は死人に口なしとばかりプロパガンダを流していました。
本当に人非人だと思う。


尚ここに書いたことは、関係者に聞き取りした情報を元にしています。
7月27日以降、資料が表に出される予定です。


06. ♪ペリマリ♪ 2012年1月04日 11:44:51 : 8qHXTBsVRznh2 : DJ1GPcwFsg
>>02>>03>>04


だから楽しみにしていてください。


07. ♪ペリマリ♪ 2012年1月05日 09:25:10 : 8qHXTBsVRznh2 : KxhwWQU3KY
仁王像様


コメントありがとうございます。
レスしましたのでどうぞご覧ください。

分りやすさについてのアドヴァイス、
肝に銘じておきます(汗


08. 2012年2月14日 22:55:45 : OrtC8x8i7k
あなたの頭はおかしい!
妄想でしょこれ?
フィクションとしてならおもしろいかな。

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