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僕らの宗教戦争: おそらく中国から渡来した僧が説法しても、ちんぷんかんぷんで、
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/783.html
投稿者 2012 日時 2012 年 1 月 04 日 20:17:34: oRUoduzfTINKk
 

(回答先: ナンミョー地獄は年々激しくなる 投稿者 真理を愛する者 日時 2012 年 1 月 02 日 06:28:21)

八切止夫 著 謀殺 17 より、
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html

台密九流

「新田系図」によると----新田太郎義重の四人の息子の内で、長男義俊は里見家の祖となり、次男義範は山名伊豆守となる。三男義純は新田家を継ぎ、そして、四男義季が徳川四郎と呼ばれ、これが徳川家の祖となるが、のち、世良田と分かれて、世良田二郎三郎の代にその宗家を継ぎ、やがて、「徳川家康」を名乗る事になり、そこで、この系図を徳川家に代々貸与していた上州新田の岩松満次郎は幕末には呪(まじな)い絵を描き、「ねこまん」の別名で知られているが、明治に入ると新田男爵となって華族に列せられる事になる。
 
さて、その世良田郷に、産土神を祀る「真言院」とよぶ拝み堂があった。白山信仰か薬師如来を本尊とする東光系のものだったらしい。
 
が、その当時は、そこには豪春なる者がいて、「葉上流」の秘儀をもって知られていた。
 
この時代より半世紀前になると、仙波喜多院で創案したと伝えられる「返音切」といった発声による呪法も生れてくるのだが、まだ、その当時は、「桓武天皇御相承黒箱」別名を、「山王一実神道許可」とよぶ、如来秘密神通力という修法が世に広まる少し前の事である。
 
後、この原文を本居宣長が、これぞ神代文字であると、版木に彫って発表したところ、「それは朝鮮の諺文(おんもん)である」と、若狭小浜藩士上がりの当時の大衆作家伴信友に叱責されたというが、それは幕末に近い頃に起きた話で、それまでは一般に天海僧正創案のものとして尊ばれていた。
 
また、呪法は、比叡山延暦寺からは、「台密九流」として、「雙厳房流、三昧流、大原流、石泉流、法曼流、谷流」などの流儀と、穴太流、蓮華流、西山流の各派が色々に分かれ伝わっていた。
 
しかし、草深い上州の世良田の庄あたりへ、そうした難しい、例えば、「一を谷、ニを三、三を雙、四を穴、五を西、六を大、七を石、八を蓮、九は法」といった相承(しょうしょう)伝授の法をとる、言わば隠語だらけの密教が持ち込まれたとしても、説法を聞いても住民に呪法など判ろう筈はないから、まともな信者などあったとも思えない。
 
「葉上流」の秘儀が広まって、土地の人々の渇仰を得たのは、現実的なもっと即物的な効果を御利益として与えたからではなかろうか。

幕末、佐賀出身の兵道者九牧仲太郎が、鹿児島城外華倉(けくら)茶屋において、島津斉興(なりおき)側室お由羅の方の命令で、西陣人形をもって相手の肖像となし呪詛調伏した秘法が葉蔭流であったと、「嘉永朋党事件顛末」の本には出ている。が、葉の上にしろ葉の蔭にしろ、それらは、まぁ似通ったような呪法だったのだろう。さて、そうした詮索は後回しにして、その真言院の拝み堂に、元龜元年(1570)以来住みついている一人の修験者がいた。
 
当時の上州は、榛名山麓箕輪城長野信濃守の勢力範囲で、厩橋城の長野左衛門が世良田辺りは押さえていた。
 
ところが天文二十年の大洪水で、それまで北を流れていた利根川が、今日の如く前橋の西へと変ったからして、「関東管領」として上州平井城にあった上杉憲政が、これまでの天険の防ぎを失い、やむなく越後の長尾景虎の許へ逃げ込んだ。
 
そこで、上杉の姓と管領の肩書を譲られた景虎が、関白近衛前嗣(まえつぐ)卿を伴って上州へ攻め込み厩橋城を占領、そこを近衛卿の城とし、関東制覇のため小田原攻めを敢行した。
 
そして、その翌永禄四年(1561)九月十日が血染めの川中島合戦になるのだが、小田原攻略に失敗したので近衛卿が帰洛した後は、北条(きたじょう)高広が景虎の命令で厩橋城の城代をしていた。
 
しかし、永禄六年十一月になると、攻め込んだ武田信玄は、この城を力攻めで奪ってしまった。そこで上杉方も放ってはおかず取り返した。
 
が、三年たった永禄九年に、上州箕輪城を落した武田信玄は、又も厩橋を手中に納めてしまった。そして今川義元亡き後の駿遠二か国をも、ついでに己が領国になさんと信玄は企てた。
 
信玄は本願寺裏方の姉三条氏を妻にしている立場を利用し、当時、一向宗と呼ばれた石山派の僧達を住民宣撫工作に招いた。
 
元龜二年の織田信長の比叡山焼き討ち後は、英俊、亮信、豪盛とよばれる延暦寺の名うての僧達も、焦土と化した山を下って信玄の庇護を求めてきた。そこで信玄は彼らを、「宣撫工作斑」として信州、上州の各地に派遣し、堂を設け寺を建てて付近の住民を集めさせ、「信仰は御仏、領主は武田」といった説教をして聴かせていた。
 
ところが、この武田方の進出に怖れをなしたのは徳川家康である。自己防衛のために織田信長と攻守同盟を結び、元龜元年十月には、「上杉家文書」や「歴代古案」によれば、越後の景虎の許へ音物(金目の贈物)をなして、同盟を結び武田信玄に対抗した。
 
しかし、それでも武田方の仏教団が、「甲斐の権僧正(ごんそじ)は鬼より怖い。どどっと来たって、どどと斬る」といった触れ唄を、御詠歌調で口から口へ流すのには閉口した。
 
なにしろ幕末までこの地口(ぢぐち)は伝わり、「甲斐の吃安[どもやす]、鬼より怖い。どどっと吃れば、人を斬る」と転用される程だから、その当時にあっても、権僧正の位をもつ武田信玄の威名は鳴り響いていたのであろう。
 
そこで家康は、今は仏法僧で名高い愛知県挙母(ころも)鳳来寺の猿女と呼ばれる者達のいる薬師寺に、対抗策を講ずるよう求めたのである。そこで、「家康こそは何を隠そう、鳳来寺薬師堂十二神将の一体の生まれ変わりである」
と説いて廻って、後には関ヶ原合戦に薬師寺系の大名をみな寝返りさせた程の実力のある全国的な組織ゆえ、「かしこまって候」と、鳳来寺から各地の医王山へ指令がとび、それぞれの修験者達が家康のために武田方に対抗せんと上州へも潜入してきたものらしい。
 
まぁ、書かでもがなの事ではあるが、武田方の一向宗、つまり後の浄土宗や真宗の本願寺派は、西方極楽浄土を説くのに対し、薬師寺医王山派というのは、白衣を纏い正反対の「東方瑠璃光如来」を教える東光派である。
 
教義がまるで逆で、墨染めの衣を纏って読経するより、修験(じゅけん)、修法(じゅほう)を旨とする白衣派ゆえ、「武田一派の本願寺派を折伏せん」とばかり各地から動員されて集まってきた中の一人が、世良田の真言院へ、「てまえは会津二本松裏条稲荷堂より参った者」として訪れてきたとしても、別に怪しまれもせず、住持の豪春より、「よぉ渡らせられた」と迎えられたのである。
 
というのは、稲荷信仰は元々稲生(いなり)で、「神代記」にも信心(保食神腹中に稲生けり)とあるのが、そもそも五穀豊饒を祈る神だった。が、その御食津(みけつ)を三狐(みけつ)と当て字してからはコンコン様になり、飯綱(いづな)の法とか狐使いといったのも現れ、これが病を治すとされていたので、薬師寺派の呪術による医王仏信仰に繋がっているとされたからである。
 
だから今では五万分の一地形図の、「福島十一号」の二本松の図においても、裏条の稲荷堂は、薬師堂に変わっている。


世良田の庄

さて、稲荷堂の修験者が、徳川家康の本貫地ともいうべき世良田の庄で、大いに反武田宣伝をしているうちに、信玄は妻の義弟本願寺光佐の力を借り、またぞろ出兵してきた。
 
越中、越前、加賀の一向宗の勢力をもって、越後の上杉景虎を防ぎ、後顧の憂いをなくしたからで、やがて美濃岩村城を落した信玄は、遠州二股の城をも降ろし、二万五千の兵は家康の浜松城めがけて殺到してきた。
 
この噂は上州新田郡世良田にもすぐ聞えてきた。「どうじゃろか‥‥」囲炉端に粗朶(きだ)を燻べながら、院主の豪春が尋ねると、それに修験者は、「徳川様には織田信長殿の御加勢が、おじゃり申すでのう」と落ちついていた。
 
しかし、戦況はそんなに楽観できる状態ではなかった。家康は十二月二十二日、夜明けとともに三河岡崎城を先発させ、遠江勢を己れの旗本となし、全軍を率いて浜松城を出ると秋葉街道を南下してくる武田勢に向かった。が、あまりの大軍に驚き、とって返し、篭城の仕度をした。武田方は姫街道の西へ出て追分で北方へと隊列を変えた。
 
家康を討つ肚なら、眼前の浜松城を攻撃すべきなのに、武田方はそうはせず、全く無視して三河岡崎城へ向かおうとしていた。
 
さて、現在のように徳川史観そのままの、「松平竹千代が成人して松平蔵人元康となり、それが姓も名もやがては徳川家康に改名」といった伝説を鵜呑みにしていては判らない話だが、当時の武田信玄こと晴信は、(松平蔵人が誤って守山で斬殺されたのを奇貨とし、後家の築山御前めに近寄って、彼女とその伜の岡崎三郎信康めを篭絡、家康はまんまと替え玉を勤めている。
 
が、今や当初の約束を守らず、成人した信康に三河を返すどころか横領せんと企てている。よって、戦のたびに最前線に出され、損害の多い松平譜代の石川数正らは堪りかねている。故に、三河を攻めて彼ら旧松平の者らを解放する事こそ、街道制覇の焦眉の急である)と、全軍を向けんとしていたのである。

さて、もともと三河は一向宗の地盤である。だから、不慮の事故で急逝した松平蔵人元康の身代わりとなって、世良田二郎三郎が岡崎へ入って来た時、薬師寺派の彼に抵抗した。
 
やむなく家康はその与党を率い、一向宗徒と提携した三河松平党の征伐をした。しかし、とても完全に制圧できぬと知るや、家康は引馬城を増築して浜松城とし、さっさと岡崎を引き払ってそちらへ移り住んだ侭である。
 
そして、その後はあまり三河へは寄りついていない。だから三河の土民や侍達は、「三河解放」を豪語して、信玄が乗り込めば、残存一向宗の者らと共に歓迎し、瞬時にして武田方へ靡(なび)くのは目にみえていた。
 
だから、名をとるより実をとれと、信玄は目の前の浜松城をまるっきり無視し、この時三河へ向かおうとしていたのである。
 
そこで、閉じ篭っていた家康も、(この浜松城へ攻め込まれんで助かった)と、ほっとするよりも、三河へ入り込まれ住民を煽動されたら大変であると、周章狼狽。既に日没になっていたが、「追い討ちをかけい」と城門を開かせた。「三河物語」の中で、大久保彦左衛門は、「家康公は浜松城から十二キロメートルの余も、打って出て武田勢を追いかけた。もっと真っ暗になってから奇襲をかけたら勝利を得たかもしれないが、三河へ行かれるのを恐れて、はやりすぎたので薄暮の中で捕捉され失敗したのだ」と、説明をしている。
 
つまり、この三方原合戦で、家康は完膚なきまでに敗れ、また浜松城へ逃げ込んでしまい、勝ち誇った武田信玄は、三河の大野へ出られる細江まで一気に進出した。しかし、その渡場のある瀬戸城へ入って越年をした。何故に足踏みしたかといえば、信玄風邪悪化の為ともいわれる。
 
‥‥が、武田方大勝利のこの噂は、上州へは元龜三年の初春とともに広まった。そして、風評に尾鰭(おひれ)がつき、既に三河の一向宗徒は解放され、かつて信長に叩かれた長島の一向宗徒も、又勢いを盛り返して尾張を占領した、といった具合に伝わってきた。
 
かつて、足利末期には、越前一国が一向宗徒の手にあって法燈の下に栄えていた実績もある。だから、尾張、三河、伊勢の東海三国が一向宗の法治国になったと云われても、いまさら疑う者もなく、上州でも、また改めて一向一揆が盛んになった。
 
今は高崎線が通っている深谷の岡部本真寺の住持光陰が、高崎から熊谷までの利根川べりにある一向宗の寺二十一を糾合し、「これまでの上杉、北条の勢力を追い、武田権僧正の御光来によって、この利根の川べりに極楽浄土の一向宗の浄土を築かん」と、寺々の釣鐘を乱打して、寺領の寺百姓や近在の信者に竹槍や刀槍を持たせ、「南無阿弥陀仏」の唱名をかけ声に、反仏的な拝み堂の類の征伐を始めた。
 
世良田は江原の対岸で、もともと江田郷と呼ばれた土地で、元禄年間からは、「岩松」に地名が変わっているが、ここは今の尾島町の近くである。
 
が、太田と前橋の中間に現在でも、「別所」の地名が残っているように、この一帯は、本庄や藤岡の手前の鬼石町と同じで、七、八世紀に西方から攻め込んできた占領軍と戦って、哀れや敗れ捕われた原住民の捕虜収容地域の名残りである。
 
だから、かつて占領軍が大陸から仏教をもって侵入した当時の怨念を忘れかね、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」と、その後何百年たっても、まだ憎悪に燃え立っている連中が、集団で住まっている区域であった。
 
それゆえ、「今や、大利根の流れが変り江田郷は川向こうになっているが、下流館林よりの北川原南河原の住民もみな江田郷の者ゆえ、ありゃ退治せなあかんぞ」と、一向宗の光陰上人は、鍬鍬の類まで持って集まった連中に言ってきかせ、「もともと世良田の真言院は、そうした仏果を得られぬ異教徒を宣撫せんため、叡山で焼き討ちにあい、難を避けて下山した豪春坊を同地へ遣って一寺を営ませたもの‥‥しかるに我等一向宗とはこと違い、延暦寺上がりの者は仏心が薄いのは、郷に入っては郷に従えでもあるまいに、修験者などを入れて今や拝み堂の如きはまこと怪しからぬ様相を呈しおるのである‥‥構わぬから、やっつけぃ」と命じ、自ら坊主頭に鉢巻きを締め、興に乗ると、払子(ほっす)を采配代りに打ち振って、「者共っ、進めや進め」と、浅瀬のある妻沼(めぬま)の先の男沼の渡しから迂回して、対岸へ打ち込んだ。もちろん、この知らせは、中瀬川原の者から真言院には急ぎ知らされていた。


魔多羅神

「‥‥これは大変なことになった。わしは元々、比叡山東塔南光坊にて学習をなせし者で、信長の焼き討ちにあい、兄弟子豪盛らと武田方の保護を受けし身ゆえ、ああ忠ならんと欲すれば孝ならずといった悩みの心境であるぞ。如何いたすが良かろうか」と、人のよいのが取り柄ような豪春は困惑し、続けて、「のう、修験者どの、一宿一飯の義理を枷にしてというわけではないが‥‥押し寄せる一向宗の者らと手を組めば、土地の衆を裏切る事になるし‥‥といって、わしが逆らえば、まだ甲斐で厄介になっている豪盛らに迷惑が及ぼうというもの‥‥」身代わりをかって出てくれぬか、といった意味の申し出を言いにくそうにした。
 
既に川を渡って押し寄せてきた一向宗の面々に、江田郷の世良田者達が、「やあ、やあ」と矢声をかけて、川原の石を丁々発止と投げつけ、礫打ちをもって防いでいるのが、堂内へも手にとる如く響いてていた。
 
そこで猶予もできかね、稲荷堂の修験者は無言の侭だが、それにはっきり点頭してみせた。
 
すると豪春は、裏庭から採取し重ねて揃えてあった乾草の葉を取出し、明り障子を締め、突上げ戸もおろし、室内を密閉してからが、「魔多羅(マダラ)神ハ炎魔法王ニシテ冥(ヨミ)の益ナリ、常行三昧(ジョウギョウザンマイ)=護法ハ魔多羅神ヲ下トシ、山王ヲ諸神ノ最上トナス。ヨッテ阿毘(アビ)ノ依正(イセイ)ニ表シ、冥顕(ヨミマコト)ノ益ヲ不二ニセント欲セバ、薬師ハ良薬ノ壺コノ如来ヲコソ勧請セン」薬師三昧呪法を唱え、葉を揉みくだき、魔神に供えた埋火の上へ抹香の如く振りかけ撒いた。
 
そこで修験者は端座合掌し、臍下丹田に力を込め、立ち昇る青紫っぽい煙を吸っていたが、やがて、すくっと仁王立ちになって、「‥‥わあっ」と一声をはりあげるや、金剛杖を鷲掴みにすると、入口の戸を八双に押し広げ、堂の外へ躍り出た。
 
そして懸命に石を投げて食い止めんとしつつも、じりじり押されて御堂の前まで、後退してきている者達の間をかき分け、「やあ、やあ、仏法は我らの仇敵、いざ来い、来れや」とばかり寄せてくる連中の真っ只中へ駆け込み、当るを幸い金剛杖で打ちすえ、「念仏宗の奴ばらめ、いざ死人の山を築き候わんず」と滅多矢鱈に暴れ廻った。
 
加賀、越前の、永正三年からの一向宗の僧徒が、吉村道場から蹶起して、守護代富樫介(とがしのすけ)を滅ぼした経緯を綴った「加越闘諍記(かえつとうそうき)」巻一の始めの書出しにも、はっきりと、「是即ち、仏法は大魔にして、武士の怨敵也」と出ているくらいで、元龜天正の頃は、徴税つまり年貢をとり課役を言いつける施政権の奪い合いで、仏教徒と非仏教徒の武士とは、互いに不倶戴天の仇敵同士だったのである。
 
さて、御堂の中から飛び出してきた修験者の勇猛な敢闘ぶりを眼にした世良田者達は、てんでに御堂の中へ駆け込むと、「我らにも、葉上流の有り難き大麻を嗅がせていただき、勇気をお授けなされましょう」豪春に燻べてもらい、これをクンクン犬のように嗅ぐと、やがて酩酊したごとく、ふらふらして外へ出るが、まるで別人の如く剛勇ぶりを示しだし、打ち物をとって反撃にでた。
 
今では大麻の事をマリファナと呼び、さながら国外から輸入され広まったように扱っているが、伊勢神宮の御師(おんし)宿控帳にも、「大麻奉戴料、銀五十匁、三十匁」などの文字が、大神楽奉納と並んでついている。
 
奈良県北葛城郡の当麻(たいま)寺も、河内万法蔵院が天武帝の時に移し替えられた際、初めは禅林寺、のち大麻寺と呼ばれていたぐらいなもので、「当麻曼荼羅(たいままんだら)」として名高い阿弥陀浄土変相図にしても、中将姫伝説に基づく横佩大臣(よこはきのおとど)の姫が夢幻の裡に、生身の弥陀が化身し尼となって現れ、極楽浄土図を藕糸(ぐうし)で織って展示したとするが、その曼荼羅縁起絵巻にしても、ファンタジックなところはマリファナ的である。
 
おそらく中国から渡来した僧が説法しても、ちんぷんかんぷんで、耳からでは教化しにくいゆえ、堅く戸をとざした本堂に集め、地獄絵図や極楽涅槃の図を見せつつ、香を燻らせるごとく大麻を燃やし嗅がせたのが始まりらしい。
 
今でも地方へ行くと、鄙(ひな)びた神社の裏手には野生のものがよく繁茂している。
 
土地の老人たちに言わせると、町場(都市)の神社の御札は稲穂を芯に入れてあるが、在(田舎)の神社の御札さんの中には、野生のそれが捲きこまれていて、長旅して疲れた時や、俄かに腹痛がした時など、御札をくるくる巻いて筆の軸のように糸で縛り、火をつけて吸ったものだという。
 
だから、「北越太平記」の類に、「満願三七二十一日の日、御堂内にて香を焚きしめてあれば、夢かうつつか幻か。金色の甲冑をつけ戈を右手、左に金色の光明を発する珠をもちし影が現れ出て、われ毘沙門天なり、この金珠は明星なりと、その母の懐ろへ抛(な)げ入れたまえば、ここに御懐妊遊す」と、景虎が生れる前の吉兆譚がでているのも、その燻らせた香なるものが大麻であったなら、幻影が出てきても不思議ではない。
 
講談でよく、満願の日に御札をくべたら、白い煙がたちこめて、その中から神様が現れて、何とか言ったとかいう話も、こうなるとあながち荒唐無稽とも言い切れぬ。
 
明治に入って、初めての軍医総監になった旧御典医、松本良順男爵の回顧録に、「ご一新までは御府内とよばれた江戸市中にあっても、診察投薬する医師は数える程しか居らず、庶民は御幣を担ぎ飛び廻る拝み屋祈祷師に病気治療を願っていたものである。文明開化の今日からみればおかしな話だが、密閉した部屋の中で怪しげな香を焚き、榊とか梵天とよぶ白紙をつけた木の枝を頭上で振り、狐つき落ちろと呼ばわると、病人が狐の真似をしてコンコン鳴き、やがてけろりと鎮まって落着く。つまり匂いで治す奇妙な療治だった」旨があるが、今でも無医村には、この拝み屋がまだ「みこさん」とか「いたこ」とか呼ばれて治療に当たっているのである。
 
さて、大東亜戦争も末期になると、特攻志願の者へ勇気づけのために、ヒロポン注射をした場合もあるやに聞くが、世良田者たちも、大麻の匂いを嗅ぐと、鼻腔を一杯に開げて吸い込み、みな勇気百倍、それぞれ獲物を握りしめ、「うわっ」とばかり、中瀬から伊勢島の方角へと一向宗徒を押し返した。
 
そこで指揮してきた光陰上人は、「おのれ、仏罰を知らぬ不逞な輩め」と激怒。「皆戸勝曼(かいどしょうまん)寺の弓隊を呼べ」とよばわった。
 
この皆戸というのは今は粕川村に入っているが、幕末に大前田英五郎の出た太胡町河原浜の近くで、ここには弓の弦を製する獣脂を扱う部落があって、武田方や北条方への弓足軽の補給地になっていた。だから今の言葉でいえばプロの連中である。
 
そこで、この者達が、弓幹(ゆがら)は青竹の三つ割で粗末だが、強靭な弦をはって、「あれなる金剛杖を振り舞す修験者こそ、世良田者の長吏(かしら)ならめ、いざ射止めてしまえ」と、八方から狙いを絞って、ひょうひょうと射かけた。
 
これには白い法衣一枚だけの修験者は、防ぐ術もあらばこそ、次々に白衣に鮮血を噴き出させ、さながら衣川の弁慶の往生よろしく、全身針鼠の如く矢を突き立て絶命してしまった。


本願寺文書

「本願寺顕如上人御書礼案留」には、上人つまり信玄の義弟にあたる本願寺光佐は、天正元年二月二十七日付をもって、「二月十六日付の、別所街道豊川べりの三州野田城を落された飛脚便は、確かに入手した。城主菅定盈(さだみつ)以下三百名を(後日の宣撫工作の必要上)生け捕りのまま、信州へ送られた由はめでたい。越前の朝倉義景も雪どけ次第、出兵する旨を言ってきているから、信玄は三河に陣をはって頑張ってほしい。近江の西口は此方の門下の慈敬寺が調略をして思う通りになっている」旨を伝えている。
 
越中勝興寺なる一向宗本願寺派文書では、(三河は既に信玄の手に入り、東美濃の加治田、奈多尾、津保の三城も甲斐に味方して、武田の兵を迎え入れているから)と、姉川合戦のあと萎縮気味の浅井長政を励ますような書面の取次ぎをした記載がある。
 
もはや本願寺を中心にした仏教の新興勢力が天下を併合する気構えをみせ、原住系の徳川家康のごときは、まったく無視されていた。
 
したがって、大麻の力を借りたにしろ、家康の出身地ともいうべき世良田の江田郷を守って憤死をとげた修験者の死など一顧もされないといった状態になっていた。
 
ところがである。ここに一大異変が起きた。風邪が原因ともいわれるが、「御宿監物状(みしゅくけんもつじょう)」では、肺肝の病を発し、四月十二日に駒場で信玄が病歿してしまったのである。
 
しかし徳川方は彼を憎んでいたから、それを自然死にしたくなかったようだ。「松平記」「浜松御在城」では、三州野田城攻めのとき、鉄砲で狙撃されたためとなし、「武徳編年集成」や「菅沼家譜」は、「野田城に居合わせた伊勢山田の笛の名人村松芳休の奏する音にひかされて、近寄った信玄を、鉄砲上手の城内の鳥居三左衛門が一発で仕止めたものである」と書いて溜飲を下げている。
 
が、どっちみち武田信玄が死んだ事には変りはない。信玄の上洛をあてにして、二条城に立て篭っていた足利義昭十五代将軍は、やむなく宇治の槙島城へ撤退し、そこも信長に囲まれて河内の若江へ身一つで退散した。
 
信長は、更に朝倉義景を一乗谷に攻め、浅井長政を小谷城で滅ぼした。そして、翌天正二年七月には、今の長島温泉のある服部ニ之江砦の本願寺一向宗徒を、信長は根絶やしに殺掠した。家康もこれに勢いを得て、駿河に兵を出し、本願寺派の根城となっていた常光寺や西華院を次々と撃破した。

しかし、武田勝頼が信玄の跡目を継ぎ、自ら二万の兵を率い三河入りしてくると、状況は一変した。足助(あすけ)、安城(あじろ)、田代、浅谷、八桑の諸城を次々と屠られ、現在の豊橋市であるニ連木にまで迫ってこられると、家康は三河を防衛するだけで手一杯になった。
 
勝ちに乗じて勝頼は、三河きっての要害、作手(つくて)の城をまず手に入れ、次いで豊川べりの長篠城をまで包囲してきたのである。
 
だから天正三年五月二十一日の設楽ヶ原合戦で、織田の鉄砲隊が武田方を敗走させるまで、家康としては何の余裕もなかった。
 
が、勝ってすぐ兜の緒をしめた家康は、三年前に武田方に奪われた二股城を取り返し、天正九年には、かつて取られた遠江高天神城もようやく回復。翌十年には織田信長と共に甲州攻めを敢行し、三月には武田の一族である江尻城主穴山梅雪の降状を受け入れた。
 
そのため武田勝頼は老臣小山田信茂の裏切りにあい、逃げ場を失い田野の山へ入るが、そこを信長の将滝川一益に囲まれて、「もはや、これまでなり」と、その妻北条御前や一子信勝と共に自害を遂げてしまった。
 
家康も長年の暗雲が一掃された思いで、ようやくせいせいしたからして、「駿河一国」を改めて信長から貰えた礼に、五月十五日、黄金三千両の手土産をもって、安土城へ伺候した。信長も機嫌よく迎え、「道中にては何かと諸掛りもあろう」と献上金も半分を、下賜の形式で戻してくれて、二十日までは九層建ての天下一の名城で下へも置かぬ饗応を受けた。
 
二十一日になって、京見物をしたいと告げる家康に、案内役にと近習の長谷川竹こと後の秀一を信長はつけてくれた。ここまでは無難であった。
 
が、家康は、この秀一が秀吉の腹心の廻し者とまでは気づかなかった。勿論、後になってみれば、(‥‥堺から三河へ逃げたきりの手柄にしては、白面二十五歳で五百貫扶持の近習役が、翌年には秀吉から近江比多二万石の城主にされ、二年後また越前敦賀十一万石の東郷城主にしてもらえ、その上おまけに羽柴の名乗りから豊臣姓まで授けられる)のは、どうも少しおかしすぎる変な話だが、そこまでは家康も、神ならぬ身の知りようもなかった。だからして、その秀一から、「徳川殿は上様(信長)を何ぞ欺いてござらっしゃる事は‥‥ござりませぬかな?」鎌をかけるように打診した時、「いや、滅相もない、左様なことは‥‥」と、口では、はっきり否定したが、内心は愕然たるものがあった。
 
というのは、築山御前の頼みで、尾張の熱田砦の加藤図書之介の許に人質の如く連れされていた岡崎三郎信康、当時は三歳で竹千代といったが、これを戻してもらうために清洲城へ掛け合いに行った時、守山で不慮の死をとげた故松平蔵人元康が、長年駿府宮が崎に閉じこめられていて顔を全く知られていなかったのを奇貨とし、当時は「世良田二郎三郎」だった彼が「松平蔵人」になりすまし、信長と起請証文を取り交わし、尾張一の宮の国府神社の護符を焼き、灰を盃に浮かべ呑み分けていたからである。
 
言うなれば、まんまとペテンにかけて、当時の信長を騙くらかしていたのである。もちろん、古いことだが、信長は執念深い性質で、二十四年前の反乱の咎で一番家老だった林佐渡を追放したり、三十年前に妻の奇蝶の付け人として尾張へ来ていた美濃の安東伊賀守が文句ばかり言ったと、これも天正八年に北方城を取り上げて処分。
 
佐久間信盛も、平手汎秀の義弟にあたっていたのが不快であると、信長は幼児に[平手家に]苛められたのを根に持ち、天王寺在城時の不届きに転嫁し、これを改易し高野山へ追い払っている。
 
だから、それらの事を思い浮かべ、「‥‥ひへっ」声にもならぬ声を出したところ、「なんせ上様は、亡き信康殿を熱田から呼び寄せては、三歳まで御手許へ可愛がっておられ、己が御名の三郎をつけた上、姫が誕生されし折りは、行末は奇妙丸(信忠)茶筅(信雄)三七(信孝)の三人に、三郎(信康)を入れた四人に姫を加え、五つの輪になるようとの思し召しにより『五徳姫』と、鉄瓶のせの金輪の名を命名された程‥‥つまり上様は信康殿を吾が子同様にお考えられ、姫をも縁づけなされた‥‥なのに徳川様は上様の御下知じゃと嘘こかしゃって、三郎信康様を殺されました‥‥」と、すかさず、その秀一から耳許へ囁かれてしまった。「‥‥うむ」家康はまたぞろ唸った。
 
武田勢が三河解放を掛け声に進出してきて厄介でならず、よってやむなく築山御前と三郎信康の始末をした際、まさか、今さら岡崎城を戻したくないので、と本音も吐けず信長の下知なりと、その場を取り繕った覚えがある。(あれが露見したとあっては、こりゃ唯ではすまされぬ。さだめし命取りじゃろ)家康も、[信康を]己が子の如く信長が可愛がっていたのは熟知していただけに、肌に粟だつ思いがし、憮然とさせられた。


長谷川秀一

五月二十九日の事である。「上様が安土から血相変えて、馬乗りで出て御座りましたぞ」長谷川秀一に告げに来られた家康は愕然となった。
 
そこで、伴ってきた本多忠勝、酒井忠次、榊原康政、井伊直政の四天王を呼び、「‥‥いかがしたものか」いつもと違ってせかせかとした声を出した。「はあ、お伴しましたるは、これ粒よりの人選ではござりまするが‥‥その数しめて
百と十二人。とても合戦などおぼつかなく」困惑しきって酒井忠次もうなだれた。
 
すると、伊勢白子浦出身の榊原康政が、「‥‥住吉浦は六月二日四国向け出帆の織田信孝らの軍船にて埋り、とても便船の求めようはありませぬが、堺まで赴けば、白子への通い船がありまするで‥‥」と言い出した。
 
そこで、その時、脇にいた長谷川秀一が、「四国の長曾我部元親は、去る天正三年に、その子弥三郎を伴って上様に御眼見得した節、信の字を賜り信親と命名を受け、四国全国安泰の墨付をいただきました由なれど、上様は御三男信孝様可愛さに心変わりされ、津田正澄や丹羽五郎左ら一万五千の兵をつけ、明後日出帆の手筈」と脇から口を入れ、そして、「よって、立場に困って、これを食い止めんと狂奔しているは、元親へ妹を嫁に出している斎藤内蔵介めにござります」と告げた。そこで、「うん、斎藤内蔵介か。かつては北国路で美濃衆を率いて活躍された武辺の衆じゃが、今は何としておられますや」本多忠勝が、その話をうけたところ、「甥にあたる長曾我部信親を庇って、上様へ四国征伐の苦諌をなしたるため御勘気を蒙り、今では明智の軍監を命ぜられて、目付として丹波亀山におりまするて」酒井忠次が答えた。「‥‥そうか。明智光秀は、天下りの目付役の内蔵介が面白うなくて、本城の亀山へは行かんと己が築いた坂本に入り込んだままゆえ、巧くゆけば丹波亀山一万余の兵は、内蔵介の手中にござりまするな」榊原康政も合点した。
 
すると、長谷川秀一が、それらの話をひきとるように、家康に向かい、「その内蔵介め、唯今は、烏丸中立亮に在宅しております。行かれますか?」と尋ねてきた。
 
それまで黙然と考え込んでいた家康が、すうっと身体を持ち上げ、「安土から持ち戻った例の千五百両を‥‥」と、若い井伊直政に口早にいいつけた。
 
そして、深編笠で面体を隠し、長谷川秀一の案内で斎藤の京屋敷へ赴くと、何も云わずに井伊直政に運ばせてきた金箱を積み上げさせ、まず、「‥‥我が名は聞かんでほしい」と言った。
 
そこへ、お河童髪の幼女が甘えて現れてきた。内蔵介は恐縮して叱りつけんとしたが、家康はそれを制し、「よき子じゃ、名は何と‥‥」すかさず尋ねた。「はい、於ふくと申しまする」こっくり頷き、幼女は紅葉のような指を四本つきだした。すると、それを抱えて、「一番裾の娘にて四歳にござりまする‥‥」武門の意地とはいえ、主君信長を討てば生きてはおれぬ身を知っているだけに、内蔵介は、涙ぐみつつ、お河童頭を撫ぜた。「‥‥うん」家康も、その志を思いやり、「もしもの時はな‥‥おことの血を絶やさぬようにする」と、しみじみ誓いを述べた。
 
なにしろ、現代と違ってその頃は「輪廻」といったのが常識としてあった。人間は、その血脈さえ絶えず続いていれば、何度も生れ変りがきくという思想である。だから家康は自分の苦境を救うため内蔵介が一死を賭けるからには、その血をこの幼児に保たせてゆき、必ずやまた再生がきくようにと誓約したのである。
 
さて、このようにして信長が本能寺へ入ると、入れ替わりのように、その日のうちに家康の一行は密かに堺へと脱出した。
 
が、堺政所の松井友閑は、家康らが来たのを知ると、さも歓迎するように、「よぉ渡らせました」と、その邸内にていよく軟禁してしまった。
 
気が気でなく一同は心配したが、「‥‥手前は上様の近習役を長年勤めおりましたもの。よって、もしもの時の用心にと上様花押を捺印せし御料紙を持ち出して参りましたゆえ、それを内蔵介に渡してござりまする。あれにさえ文字を書き込み城内で披露すれば、何人とはいえ疑う者はなく、内蔵介の命令は上様の下知と、すぐさま出動するのは目にみえたこと‥‥」長谷川秀一のみは、若さがさせるのか自信満々とした口のきき方をした。
 

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