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「医師が見た被爆者の生と死〜原爆被害、隠蔽と放置の12年間〜」(肥田舜太郎先生)(脱原発・放射能)
http://www.asyura2.com/11/genpatu19/msg/834.html
投稿者 こーるてん 日時 2012 年 1 月 05 日 20:58:56: hndh7vd2.ZV/2
 

「医師が見た被爆者の生と死〜原爆被害、隠蔽と放置の12年間〜」

2000年09月09日 肥田 舜太郎 先生

アメリカは、被爆後に日本の各大学医学部が行なった調査資料を取上げて持っている。

いまだ公開されていない。被爆による恐ろしい被害の実態を知り尽くしているといえる。

http://homepage3.nifty.com/kikigaki/gakusyuu00.htmlより一部転載↓↓

<爆風と熱線による死>

私が一番、最初に被爆者の死にぶつかったのは1945年8月6日、原爆投下の1−2時間後でした。私はその日の早朝、たまたま6キロ離れた戸坂という村の農家に往診に出ていて被爆しました。藁葺屋根の農家は潰れましたが、火傷も怪我もせず、壊れた農家から這い出て、きのこ雲の立ち上る広島市内へ引き返しました。太田川の川沿いの道を、市内までちょうど半分のあたりで、市内から逃れてきた最初のその人に会ったのです。

 遠くから見た時は、 人間だと思いませんせした。近くで見ても人間には見えませんでした。真っ黒に焦げたドロドロの肉の塊で、腫れあがった大きな目と、口が顔の下半分の恐ろしい形相。それが私に手をのばして、目の前でばったり倒れました、あっ、人間だったと思って、近寄って「しっかりしてください」と言ったのは覚えていますが、あとは声もでなかった。脈をとろうとしましたが、手首には皮膚がない。この人、ぼろを着ていると思っていたら素っ裸で、剥がれた皮膚がぼろのように垂れ下がっているのです。おろおろしているうちに、ぴくぴくっと痙攣して、うごかなくなりました。それが私の見た最初の被爆者の死でした。

 猿喉川(広島市内を流れる太田川の七本の支流の一つ)の工兵橋、ここから先が市内というところまで行って、河原といわず、道路といわず、焼け爛れて、倒れている者、座っている者、死んでいる者、川を流れて行く者、どこを見てもまともな人間の姿は在りません。最初に感じたのは恐ろしいとか気の毒だとかということではない。感じたのは、無力感です。医者として自分にはすることがない。医者だから何かしなくてはならない。薬はありませんでしたが聴診器を当てるぐらいのことは出来たわけです。だけど何をしていいか分からないわけですよ。そんなことで間に合うような人は一人もいないわけですから。正直に言うと、どんどん死んでいく大群の中でぼんやりしていました。川へ飛びこんでは流されていく、その川の中に突っ立ったまんま、何にもしないでその様子をボーッとただ見ていました。軍医だから病院へ帰る任務がある。けれど火で市内には入れない。うろうろ迷って立っていました。

 そのうちに自分を説得して、こんなところにいてもしょうがない。この人たちはみんな村へ逃げるから、村に戻れば何か出来るに違いないと思って、手を合わせて詫びるように拝んで、戸坂村へ引き返しました。

 村の中はもう被災者でいっぱいでした。戸坂村でも大部分の家は爆風で壊れていますから入るところがない。乾いた道路とか農家の軒先の空き地、学校の校庭や役場の広場、乾いた土のあるところに被災者が転がって寝ています。後から来た被災者は、寝ている被災者、死んでいる人の上を乗り越えて奥へ行こうとしています。何といいますか、地獄としか言いようがありませんでした。

 次から次へ負傷者が村へ入ってくる。後で調べたら3万人入ったそうです、人口が約1800人という小さな村ですから入るところがありません。みんな乾いて地べたへ転がっていたわけです。

 一番、最初にやったことは治療ではなくて、食事を与える準備でした。私は軍医学校で戦地での軍医の仕事を習った時、「一度に大量の患者を収容したときは治療よりも先ず食事のことを考えろ」と教えられました。村長以下、村の幹部に命じて、村に疎開させてあった陸軍の米を出させ、むすびを沢山作らせました。ところがこれが失敗だった。顔が焼けただれて、むすびを食べられるようなのは一人もいない。それで慌てて、むすびを鍋に戻してグツグツ煮てお粥にしました。

 村民はその日、早朝から中学生以上が男女とも広島へ招集されていて、老人と小学生だけが村に残っていました。それで小学生を集めて、上級生の男の子二人にお粥を入れたバケツを持たせ、女の子にしゃもじを持たせて寝ている者の口にお粥を流しこむことから初めました。

 夕方頃、軍医が3人来て、私と一緒に応急手当をはじめました。今から思えばとても手当なんて言えるものじゃありません。乱暴そのものです。ガラスが方々へ刺さっている。三角に割れたガラスが、尖った方を先にして皮膚の下をクルッと回って刺さっています、それを狭い入り口から抜き取るのは大変な仕事です。切れた傷口は縫わねばなりません。道具がなく、一時は縫い針を火で焼いて、ヨ−ドチンキにひたした絹糸を通し、ヤットコで挟んで縫合しました。

 どんどん死んでゆきます。一目見て、火傷がひどく、大怪我をしている者で死の近いものは一目で分かりますから、助かりそうもない人は避けて通る。今から思うと、医者として一番間違ったことでした。複数の患者に出遭ったら重傷者から治療するのが医師の倫理です。それを重傷者は目を逸らせて軽そうな人を選んで歩きました。

 そんな中で一人、目を逸らせ損なった兵隊がいました。私を必死に見つめるその人と目を合わせてしまい、思わずその人の傍らに膝をつきました。地べたにじかに倒れていました。ボロボロに破れた軍服のズボン、上は裸です。焼け爛れて呼吸も苦しそうでした。何もしようがない。顔を見ると左の頬だけが白く焼け残っていました。何となくそこへ私の手をもっていって、そっと触れたんです。そうしたら、カーッと目を光らせて見ていたのが、目の光がスーッと柔らかくなって。優しい人間の目になったんです。そしてカクンと頭が落ちて息が絶えました。私が手を触れたのが慰めになったのか、とにかく人間らしく死んだ、私にはそう思えた。今でもその時の夢を見ます。人間でなく、捨てられた物のように、無数の被爆者は死んでゆきました。

<急性放射能症による死>

私たちが目を逸らせた重傷者は2―3日のうちに大半が死に、あとは、治療すれば助かると思えた負傷者で、これからは医者の働きどころと、多いに張り切った矢先に、生き残った負傷者の中から、不思議な症状の急病が出はじめました。

 熱が出とからと呼ばれて行って見ると、ポッポと汗を出している。四国の部隊から応援に来た軍医が体温計を持っていたので、それを借りて測ってみると5分計で1分も経たないうちに39度にあがりました。発熱なので口の中を見ると扁桃腺やその回りが真っ黒に壊疽をおこしている。普通、風邪などでは扁桃腺は真っ赤に炎症を起こすのが、真っ黒に腐りはじめている。身体の組織が生きながら腐って死んで行く病気です。傍にいたたまれないほど臭い匂いが特徴です。そのうちに、瞼の裏や鼻や口から血が出はじめた。何の血だろうと考えているうちにワーッと血を吐かれた。びっくりして、よく見ると火傷していない白い肌に紫色の斑点が出ている。死んでいった被爆者と同じです。そのうち苦しがった患者が頭に手をやったら、触れたところの髪の毛が取れてしまった。高熱、口中の壊疽、出血、紫斑、脱毛という、教科書にもない症状です。医者の誰一人も経験したことのない症状がでて、早い者は数時間、遅い者でも数日のうちに死んでしまいました。

 この爆弾は火傷と大怪我で人が死ぬだけでなく、ピカに当たった人はこういう病気のこういう死に方をするんだということを、医者だけでなく、被爆者もみんな3〜4日の間に経験したわけです。「血がでて、毛が抜けたら駄目」。みんながそう思いました。これが後に分かった急性放射能症です。普通、内臓の病気は心臓とか腎臓とか肺臓とか、一つの臓器が病気になるのですが。ピカの強烈な放射線で多くの臓器が同時にやられてしまう。多臓器の同時発病という今までに医者が経験のしたことがない発病の仕方でした。しかし、そんなことも 10年も20年も経って分かったことで、当時は全く原因が分からなかった。こう言う死に方が被爆の年の暮れまでずっと続きました。

<残留放射能による死(低線量放射線障害)>

ところが、当日は広島にいないで、直接、原爆に遭っていない人の中から、被爆者と同じ症状の病気になり、死ぬ者も現れて、私たち医師を動転させました。

 被爆の翌日から広島市内には肉親や知人の安否を尋ねる人たちが、ぞろぞろ焼け跡を歩きはじめました。瓦礫の原を、骨や生焼けの肩や半分崩れた頭蓋骨の上を踏んで歩きます。そのうちに、「負傷者はもし生きていたら、近在の村々に収容されている」ということが分かり、私のいた戸坂村にもこういう外来者が毎日、多数訪ねてきました。

 この頃には九州や四国の軍隊から多数の軍医や看護婦が薬や器材を持って応援に来てくれ、戸坂村にも医師の数は私をいれて29人になり、看護婦も100人近くになりました。しかし、総計で3万を越えたといわれる在村患者には、間に合うどころか手も足も出ない有様だした。この頃には小学校の校庭や役場の広場や大きな農家の前庭などの空き地に筵を敷き詰め、その上に日除けのよしずを張って直射日光を防ぎ、それが病床で、負傷者を寝かせていました。

 そんな中を尋ねてきた人が大きな声で「何々さーん」と大きな声で名を呼んで歩く。顔が焼けていて見分けがつかない者が多いので、名前を呼んで探すのです。稀に巡り会える者もいるし、「○○さんは、○○で見た」と消息の分る例もありましたが、無駄足を踏んで次の村に移って行く人が多かったようです。

 被爆をしていないのに、被爆者と同じ症状を出した症例に出会ったのは、2週間かそれ以上たったある日の午後でした。

 私の担当していた病室(村の中のある一画を自分の病室と決められていました)、部屋ではなくて、村の中の一画(道路や橋や樹木を目印に分けた)を担当病室として、毎日、看護婦を連れて回診するのです。その中に屋根の一部が壊れた土蔵があって、涼しいので重症患を入れていました。そこを一日二回、朝と昼、最初に回診していました。

 その日、朝は何もなかったのですが、午後の回診時に、土蔵の真中にきれいな着物を着た婦人が横たわっていました。着ている衣類で一目見て非被爆者と分ります。隣に寝ていた重症の兵士(3日後に死にました)が「軍医殿、お忙しいでしょうがこの奥さん、診であげて下さい。熱出しているから」といいます。昔の人は親切でしたね。本人は仰向けになって寝ているだけで何にも言いません。気分が悪かったんでしょう、きっと。

 私は殆ど不眠不休で、ろくに寝てもいません。忙しいのに風邪ぐらいでと内心思いましたが、傍によって口を開けて喉を見、胸を開けて聴診器を当て、「風邪だろうからこれを飲んで寝てなさい。二、三日でよくなる」と、解熱剤を一包渡して帰りました。その夫人は3日間、寝ていました。大したこと無いと思っていたので、その間、何も尋ねませんせした。4日目の朝、まだ寝ているので。気になって傍へ寄ってみたら、胸の合わせ目の白い肌に紫色の斑点が出ている。これはと思って、「奥さんはどうしたんですか」と聞きました。本人の言うには「一年前、松江で県庁職員の主人と結婚。直ぐに広島県庁に転勤になり、宇品に間借りしました。一年経ち、臨月になって七月初めに松江の実家に帰り、出産しました。ラジオが『広島に特殊爆弾が落ちて相当な被害が出た模様』と、それだけしか言わない。新聞も同じ文句が書いてあるだけ。心配していたら、広島から松江に逃げてきた人が『広島には誰も生きていない。家は全部焼けた』と言うのを聞き、心配になって出て来た」のだと言う。原爆が落ちて一週間目に広島の焼け跡に入り、宇品から県庁から爆心地の方をぐるぐる回って、一週間目に今度は村を歩き始めた。そして10日目に戸坂村へきて、土蔵の中で旦那と巡り合ったのだというんです。

 旦那の方は、早出して県庁の地下室で書類探しをしている時、いきなり天井が落ちてき下敷きになり、右大腿骨折で骨が外へ突き出る大怪我をした。地下室なのでピカには遭っていない。周りにいた仲間がみんなで担ぎ出してくれ、ぼつぼつ火が出始めた市内から逃げ出して、親戚だったこの家の土蔵で横になっていた。衛生兵が回ってきて、当時は包帯もなかった時なので、骨が突き出た太ももを無理やり引っ張って元に戻し。ぼろ切れを巻いて、竹の棒を当てて荒縄で縛ってくれた。これでも副木治療という応急手当なんです。「そのうちにくっつくから、歩けるようになったら這ってでも帰れ!とういうんで、後は何もしてもらえず、寝ているところへ奥さんが着たという次第です。奥さんは看病したくても本人が一応、元気なので、周りの重傷患者の手伝いをしてくれていました。

 そのうち熱が出始め、風邪だと思っていたら斑点が出てきた。私にも何が起こったのか訳が分りません。そうこうしているうちにだんだん悪くなって出血が始める、吐血する、下血する。髪の毛は抜ける。県庁で原爆に遭っている旦那の方は大隊骨折以外は何ともないのに、松江から爆発後一週間たって元気で出て来た夫人の方がおかしくなっている。旦那が気違いみたいになって。奥さんの看病をしましたが、 だんだん症状が重くなって、とうとう死亡しました。

 似たような症例は一人や二人じゃありません。死亡例は戸坂村では3−4例でしたが、発病者は多数ありました。当時、私たち軍医の間では、出血のあることから腸管伝染病を疑い、夜半、内密に死体解剖を行なって検査しましたが、チフスでも赤痢でもないことが確かめられました。

 今から思うと、後から市内に入ったこの人たちの症状は、体内に摂取した放射性物質からの低線量放射線による体内被爆に起因する慢性放射能症でしたが、それは二十年も経った後に分ったことで、加害者のアメリカは現在でもまだ、体内に摂取された放射性物質からの放射能は微量なので、人体には無害であると主張し続けています。

<沈黙の中に>

私はその年の11月末、山口県の柳井市の伊保庄村に国立病院を作って、そこに被爆者を集めて治療を行ないました。広島から船で運んだ患者と、山口県各地に帰っていた被爆者が、国立病院ができたというので集まってきました。病院とは名ばかりで、建物は病室で七輪に薪をくべて暖房をとるような古兵舎だし、設備も無い、資材もない、食い物も薬も乏しい。米軍の直接占領下におかれた敗戦国で本当に惨めな状態でしてが、それでも必死になって患者を診療しました。

 重傷者の大部分は次々死に、家へ帰れる者は帰って行き、帰るところのない者だけが病院に残るようになりました。元気な者は点呼が済むと海岸で(病院の庭の先が海でした)一日中、魚釣をやっていました。

 そんな中に、無口で何にも喋らない患者がいました。どの医師が診察しても一言も口をきかない。病気は慢性腎臓炎。満州の大連の陸軍病院に入院し、内地へ転送されて広島陸軍病院に入院した患者です。腎臓炎は症状は軽く、食餌療法だけでの指示でしたが、入院後、6日目に原爆に遭いました。病室の中で被爆したので火傷もせず、偶然、私のいた戸坂村へ逃げ。結局、柳井まで一緒に行動したわけです。主治医の私が色々、聞いても「はい」とか「いいえ」とか短い返事をするだけで、何も言わないのです。分かっているのは名前だけ、どこの生まれか、戦地はどこへ行ったのか、何を聞いても返事をしません。

 それがある日、突然、自殺してしまった。首を吊ったんです。同室の者が早朝、便所に行って、表の松の枝に下がっているのを見つけ、大騒ぎになりました。理由も、何も分らず仕舞いのまま、形ばかりの葬儀があって、後は何事もなかったように海辺の病院の日が過ぎてゆきました。

 何ヶ月か経って、たまたま事務長と用談した時、「先生には話しておいた方がいいと思う」と、自殺した患者の話をしてくれました。そう言えば、自殺のあった日に、「親身になって診たのだから、死ぬくらいなら一言、相談してくれてもよさそうなのに」と事務長にこぼしたことがありました。 患者の遺骨を受取りに来た本籍の村役場の助役から聞いたのだが、他言は無用と断った事務長の話は、「患者は中国戦線に従軍中、間違って戦死の公報が役場に入った。家では葬式を出し、農家の長男の跡取だったので、彼の弟が嫂と結婚して後を継ぎ、子供も生まれている。そこへ彼が突然、生還してきた。事情を知った彼には帰る家はなくなっていたわけです。相談されても答えようのない、酷い話じゃないですか」「一言、相談してくれても」と自惚れていた私を叩きのめした一人の被爆者の死でした。


<アメリカによる原爆被害の隠蔽>

昭和22年(1947年)、私は国立病院の医者でしたが、労働組合の役員をしていました。そんな私に広島の開業医の叔父から手紙が来ました。

叔父は宮島の傍の五日市で開業していました。終戦後、広島の被爆者がいっぱい受診し、外科医だったので私の知人や友人でガラス片を抜いてもらった者が沢山いました。

 私が労働組合の役員をしていると知って、私に厚生大臣に会って、「広島で生き残った医者は数が少ないし、被爆者の治療の方法が全く分らない。アメリカは被爆後、日本の各大学医学部が行なった調査資料を取り上げて持っている。それを公開してもらって欲しい。それと、治療法がわかっていたらそれを教えてくれるよう頼んでもらってくれ。アメリカは来年、広島に病院を作るらしい(ABCCのこと)。噂だが、そこでは検査だけをして治療はしないと聞いている。治療もするように厚生大臣に頼んで欲しい」と書いてありました。

 私は早速、厚生大臣に会いに行きました。当時の厚生大臣は林譲治という自民党の大臣で、私は団体交渉で始終、会っていましたから、その時も大臣が会ってくれて、こういうわけだと叔父の手紙を見せ、「GHQの担当の者に頼んで欲しい」と言うと、「そんなこと出来ない」と言下に断られました。天皇陛下でも簡単には会えないマッカーサー総司令官にそんなことが出来るか、と動こうとしません。それでも根気よく頼むと「そんなに言うなら、厚生大臣の代理と名乗ってお前が行け」といわれ、売り言葉に買い言葉というわけで私が行く羽目になりました。

 日比谷交差点の角の第一生命ビルに星条旗が翻っていて、正面玄関に衛兵が立っています。「軍医に会いたい」というと何かベラベラと英語で言われた。早口でよく分らない。「そのうちに「予約はあるか」と訊いていることが分り、「ない」というと「ダメ」と断られた。

 陸軍病院の営門でも兵隊に面会にくる家族に、衛兵は規定を教えて断るのですが、何度も来て顔馴染みになると人情が通って、中には入れないが、相手を営門まで連れ出して会わせることを知っていたので、何回も通えば道は開けると日参しました。三日目に同じ衛兵と顔を合わせ、「用件はなんだ」と聞くから「医者に会いたい。大事な用だ」と言うと、「連れてきてやる」と昼食休みに若い軍医中尉を連れてきて会わせてくれました。準備した英語のメモに身振り手振りを交えて話すと。原爆関係は軍事機密でそんな問題は自分の権限外だと言う。困っていると、どうしてもと言うんなら上官に会わせるという。

 ちょうど朝鮮戦争が始まる直前でGHQが右傾化した時でした。占領直後、総司令部は日本を民主化するという任務もあって、労働運動を指導したり、農民組合づくりを応援したり、かなり民主的なメンバーが来ていましたが、朝鮮戦争を始める直前から右翼化が強まり、民主的な運動をしめつける方向に大転換した時期でした。

 呼び出されて会ったのは軍医の高官でしたが、医者なので紳士的に話をしてくれました。しかし結論は「資料の公開は不可能である。被爆者の疾病を隠蔽した事実も学会の研究を禁止した事実もない。念のため調査するから二週間待て」と言われた。やがて呼び出しがあり、「総司令部で調査の結果、隠蔽も禁止も全く事実無根である。従って、今後、そのような言動は一切しないように。万一、そのようなことを喋る時はその責任はお前が取らねばならない」と慇懃無礼に威嚇されて帰りました。

 猛烈に腹が立ちました。アメリカが落した爆弾で、死んだ者は別としても、なんとか助かっている者が診断もつかず、治療法も不明の病気で苦しんでいる。日本の学者が苦労して調べた資料を没収し、研究を禁止した上、日本の医師の協力要請を拒否する。理不尽な占領権力の傲慢さに、腹の底から憤りが全身に燃えあがりました。私はアメリカの無法と闘うため共産党に入ろうと決心しました。当時、被爆者の問題など、誰も相手にしてくれず、占領権力に真正面から立ち向っていたのは共産党しかなかったのです。


http://blogs.yahoo.co.jp/x_csv/20382700.htmlより転載↓↓


「最初に下痢がはじまります」肥田舜太郎、被曝について語る @donbarakun
http://tcyhhd.blogspot.com/2011/05/donbarakun.html 約14分映像

肥田舜太郎が福島第1原発事故での被曝について語る
肥田舜太郎[ヒダシュンタロウ]
1917年、広島市生まれ。1944年、陸軍軍医学校卒。軍医少尉として広島陸軍病院に赴任。
1945年8月6日、原爆被爆。被爆者救援にあたる。
全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の創立に参加。全日本民医連理事、埼玉民医連会長、埼玉協同病院院長などを歴任。
現在、全日本民医連顧問、日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長。この間、海外渡航32回のべ33か国で被爆の実相を語り、核兵器廃絶を訴える。


書き起こし

原発で漏れる放射線と原子爆弾ででる放射線も
まったく同じです。

マッチの火は消える、消す事ができる。

あらゆるエネルギーは消す事ができる。

ところが、放射線のエネルギーは、
絶対に消す事ができない。

あれだけ事故を起こした原子力発電所も、
あそこで燃やしたプルトニウムは、そのまま熱を持って燃え続ける。
人間には消す事はできない。

このような難しいエネルギーを科学の方法で無理やり
使っている。最初に使ったのは、爆弾だった。

爆弾をつくるための機械、工場は、
戦争が無くなれば、使うことはなくなる。

しかし、なんとかこの工場を使うことは出来ないかということで、
無理やり、電気を起こす工場にしたのだ。

わずかずつですが、
原発からは水にも空気中にも放射能を出し続けるのです。

そして、それはすべて、土や海などに溜まっていくのです。

原発作る側の人は、人間に放射線があたったときに、
どんな影響があるのかわかっていない。

既に、東北の人達は下痢が始まっている。被爆の最初の症状です。

これは、薬をつかっても止める事ができないのです。

現在、元気な人も含め、放射線の病気が始まってくるのは、
この秋から来年の春にたくさんでてくると思われる。

しかし、下痢になったことを今の医学で証明する事ができない。

理由は、放射線のつぶは、定規の1ミリの60億分の1である。

これが体の中に入って悪さをする。
細胞の中のさらに、60億分の1のところを今の医学では、
みつける方法がないのだ。

直すこともできない、消すこともできない、
特別なエネルギー。

なぜ、このような原発を選んで電機を発電しなければ
ならないんだろう。

放射線は、まだ人間が自由にコントロールできない
エネルギーなのです。

ひとたび、原発事故をおこせば、
何百万人という人が・・、
今、東北で苦しむことになる。

それは、みなさんの明日に、それが無いとはいえないのだ。

絶対に国民の力で原発、核兵器を無くそう!

人類が長生きするためには、世界中でこれを実現しなければならない。

アメリカやドイツ、フランスでは、自国民をすぐに80キロメートル圏より外に
逃げさせたが、それは、それぐらいでないと将来が危ないことを知っているからだ。

日本の政府は何もしらない、とぼけたことをやっている。

日本国民の力を結集し、
世界から核兵器をなくそう!

これからの自分達の将来、自分達の子供達、孫に
放射腺の恐ろしさや不安を感じさせる事が無い国に
つくりかえないといけない。
(転写終了)

2012/01/05原発・フッ素19
 

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コメント
 
01. 2012年1月06日 21:15:18 : C4o01wJ8i2
>>日本の政府は何もしらない、とぼけたことをやっている。

とんでもない!
日本の政府は分かっていながらやっているのだ!!
東北の人々、いや東日本の人々に緩慢な死が訪れることは百も承知である。
それをあえて日本全体の経済のために切り捨てたのである。
強いて言えばUSAの植民地としての利用価値が残るよう、日本の国民及び国土を悪魔に売り渡したのである。
現在の日本はそのような腐りきった政府及び官僚社会になってしまっているのだ。
これからどうすべきかは我々個々人がよく考えて行動しなければならない。


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