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原爆投下、市民殺りくが目的、米学者、極秘文書で確認・atomic(人類は、米英以2千年の誤りを、体を張って、正す時です)
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak46/msg/162.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 4 月 18 日 18:35:22: 4sIKljvd9SgGs
 

http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/atomic_bomb.html
原爆投下、市民殺りくが目的


米学者、極秘文書で確認


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Source: National Archives and Records Administration


1983年8月6日(朝日新聞)


原爆投下、市民殺りくが目的
米学者、極秘文書で確認


原子爆弾が広島に投下されてから6日で38年。これについて米最高首脳はこれまで「軍事目的に限定して使った」(トルーマン大統領回顧録)としてきたが、実は「日本への原爆投下の目的は一般市民を大量殺りくすることにあった」とスタンフォード大の米歴史学者が極秘文書で確認、近く出版する本で発表する。また広島、長崎に「米人捕虜がいる」と英国情報部などが警告したのにもかかわらず、米政府はこれを無視したという。(パロアルト<米カリフォルニア州>菊地特派員)

スタンフォード大歴史学部のバートン・バーンスタイン教授は、原子爆弾が日本に投下されたとき、まだ小学生で、辺りの人々が「これで戦争が終わった」と喜んでいるのを記憶している。しかし、スタンフォード大で歴史学を専攻するうち、なぜ人々が原爆投下を単純に受け取っているか、について疑問を持ったという。あのころドイツが降伏し、日本だけが世界を相手に戦っていたのになぜ原爆を使わなければいけなかったか、についてである。この疑問を解明するため米軍事外交文書を研究するうち、“歴史の偽り”を発見したという。
同教授が入手した極秘文書によると、1945年7月31日、原爆投下についてスチムソン米陸軍長官を囲んで最高会議が開かれた。その際ノーベル賞学者のE・ロレンス博士(サイクロトロンの発明者)は「科学者としては原爆を直接日本に投下したくない。まず米国の砂漠などで世界の代表者を呼び、公開の場でその威力を見せるべきだ」と主張した。しかし、他のメンバーたちは「もし原爆が不発だったら世界の笑いものになる。ともかく日本へ投下しよう」と主張して決定を見たという。
投下地点の選定については、「軍事施設のみという科学者の主張に米軍側が強く反対し、結局、民間人を大量に殺りくすることが決定された」としている。
人類初の原爆は“効果半径”約1.8キロ。同教授の入手した米空軍史(部外秘)によれば、「その火の玉を広島の住宅密集地、商業地区に投下せよ」との命令が出ている。投下時間は午前8時15分。「これは工場労働者が仕事を始め、市民の子どもたちが戸外に遊びに出る時間帯。米軍はまさにそこを狙ったのだ」と同教授。
しかしトルーマン大統領はその回顧録で「原爆は非戦闘員の婦人、子どもを避けて、軍事基地だけに限定して使った」と書いている。
この広島原爆で護送中だった米人捕虜23人が死亡した。この事実は1945年10月9日、国際赤十字が確認したが、米当局は公表を避けているという。同教授によれば、それは、原爆投下の直前、米国は英情報部から「広島に米人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視したからだという。
米戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎には米人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電した。しかし投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人の米人捕虜は助かった。
同教授はトルーマン大統領の内政、外交政策について研究を続けるうちに、あるときふと、「広島で米兵捕虜も爆死しているのではないか?」という疑問を抱き、政府や軍に当たったが答えは得られなかったという。
しかしその後、ワシントンの国立公文書館で「極秘」扱いを解かれた兵士らの「軍歴書」の中に、「ヒロシマで戦死」との記述を見つけ、米兵捕虜被爆死の事実を確認した。
とはいえ、軍歴書は、乗機を撃墜され捕虜になって広島で死んだ、としているだけで、それが原爆によるものであることにはまったく触れていない。その遺族らも、被爆死どころか広島で死んだことすらも知らされておらず、日本上空で撃墜され戦死、あるいは戦傷死したものと信じていた。
政府が秘密にしていた理由について同教授は「米国民の大半が支持した原爆投下で米兵が殺されていたとなれば、世論は批判にかわり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」といっている。
バーンスタイン教授はこれらの新発見を基に近く「核軍縮への道」(仮題)という著書を出版するが、「米外交文書の公開は軍事機密に関しては特に厳しい。1978年に資料要求したものが最近やっと数点入手できたほどだ」と語っている。


(注)原爆の投下目標として検討された都市は東京など16都市があり、最後に広島、小倉、長崎の3目標に絞られた。8月9日の第1目標は小倉だったが、天候その他の条件が悪いときは長崎に投下すると決まっていた。

1994年12月23日(朝日新聞)


原爆投下批判する論文
米歴史学者 道義的責任問う


【ロサンゼルス22日=杉本宏】米国立スミソニアン航空宇宙博物館が来年5月に計画している原爆展の諮問委員会を務めた著名な歴史家、バートン・バーンスティーン・スタンフォード大教授が米外交雑誌フォーリン・アフェアーズの冬季号(来年1月発売)に「広島再考」と題した論文を寄稿、対日戦の早期終結に向け「米指導者は原爆使用以外の道を探求しなかった」などと、日本への原爆投下に批判的な説を展開していることが22日、明らかになった。
これまであまり注目されなかった歴史資料を引用。非戦闘員の大量殺傷に「大きな道義的責任」を感じなくなったことが響いていると指摘するなど、当時の米指導層や国民の戦争モラルを正面から問う内容となっており、原爆投下50年をめぐる日米間の論争に一石を投じそうだ。
同氏は、米国の原爆製造を主導したマンハッタン計画の目標委員会の会議録などをもとに寄稿。ニューメキシコ州での爆発実験前から日本での投下先が詳細に検討され、都市中心部に目標が定められていた事実を紹介しながら、米指導層が当初から市民の大量犠牲を前提にしていたとしている。
原爆投下が早い段階で既定路線になった背景として、同氏は米軍によるドイツのドレスデン空襲や東京空襲など戦略爆撃の例を挙げ、指導層や国民の戦争モラルが変質したと強調。「民間人の大量殺傷」を許す素地があったため、原爆投下を避けようとはしなかったと主張している。
その上で、こうした「道義感」の変質を「第2次世界大戦の産物」とし、日本軍の南京虐殺やナチス・ドイツによるユダヤ人大量殺害と米国の原爆投下に本質的な違いはないと結論づけている。
この論点は、スミソニアン原爆展の展示原案に含まれていたが、元軍人団体などの反発を受け、最近の案からは削除されている。同氏は論文について「学者のコンセンサスと世間の認識の差を少しでも縮めることに役立てれば」と話している。

マイケル・シェリー・ノースウエスタン大教授(歴史学)の話 原爆投下を戦略爆撃の延長戦に位置づけ、当時の政策決定者に道義的自制心があったかどうかを検証する視点は比較的最近のものだ。憶測的な論点もあるが、論文は論議を呼ぶだろう。

1994年12月24日(中日新聞)


原爆投下 早期降伏、目的でない
米歴史学者が外交誌に論文『日本への懲罰』


【ニューヨーク22日共同】米国立の有力外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」は来年1月9日発行の最新号で、太平洋戦争末期の広島、長崎への原爆投下は日本の降伏を早めたり、米軍兵士の犠牲を回避するのが目的で決断されたわけではない、との内容の米歴史学者の論文を掲載する。

1945年8月の原爆投下をめぐって米国では、戦争終結を早め、日本本土上陸作戦を無用にすることで米軍兵士50万人の生命を救うために決断された、などと正当化する議論が有力だが、論文はこうした米国の一般的な見方の修正を迫っている。
執筆したのはカリフォルニア州スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授。当時の政策担当者のメモや日記、また秘密解除された公文書などの資料に基づいて当時の政策判断を検証している。
それによると、戦争末期の45年、日本が降伏しなければ米軍は11月1日に76万7000人の部隊による九州上陸作戦の実行を計画。その際には最大2万5000人の米側戦死者を予測していた。続いて翌46年3月1日に計画していた東京正面の上陸作戦では1万5000人から2万1000人の戦死者を予測していた。
バーンスタイン教授は、上陸作戦による50万人の戦死者予測などは存在せず、当時の米国指導者はより大きな犠牲を避ける目的で決断したわけではない、と主張。また最大で計4万6000人と予測された米軍の戦死者発生を回避するためでもなかったとして、日本に懲罰を加えることが原爆投下の本来の目的の1つだった、と説明している。
また、原爆開発のマンハッタン秘密計画は約20億ドルの資金を投じて推進されたため、ルーズベルト、トルーマン両大統領は政治的にもその成果を示す必要があり、民間人に大量の犠牲者が出ることが分かっていながら原爆投下の決断を下した、としている。

1995年1月12日(朝日新聞)


原爆投下 戦争モラル変質の所産
一般市民を巻き込んでも構わないという意識


米スミソニアン航空宇宙博物館の原爆展や米郵政公社の原爆切手問題をめぐり、日米の「国民感情を逆なでする」ような論争が起きた。今年は第2次世界大戦集結50年。広島、長崎への原爆投下に至る大戦をどう受け止めるべきなのか。米国など旧連合国の間で様々な記念行事が繰り広げられるだけに、日本も無関心ではいられない。9日発行の米外交誌、フォーリン・アフェアーズ冬季号で、原爆投下の道義を問う論文を発表したスタンフォード大学の歴史学者、バートン・バーンスティーン教授に聞いた。(米カリフォルニア州パロアルト=杉本宏)

バーンスティーン・スタンフォード大教授語る

第2次世界大戦は、指導者や国民の戦争モラルを変質させたという意味で画期的だ。非戦闘員の殺傷を極力避けなければならないという古い倫理規範は薄れ、一般市民を戦争に巻き込んでも構わないという意識が支配的になった。
都市を体系的に狙う戦略爆撃は民間人の大量殺害を前提にしていた。こうした下地があったからこそ、原爆投下に大きなためらいはなかった。
当時、トルーマン大統領の周辺で、広島、長崎への原爆投下や戦略爆撃に苦悩の表情を見せ、戦争モラルについて真剣に問題提起したのはマーシャル陸軍参謀総長だけだった。
側近の多くは投下後に、「反対だった」などと当時を振り返っているが、広島以前に反対したという史実は見当たらない。スチムソン陸軍長官は非戦闘員の大量殺傷に悩むが、それが起きていないと自分で自分を納得させていたようだ。周りも長官が不安なことに気付いていたので、意識的に言及を避けようと努めた。
戦後になって「軍事目標を狙った」などと回顧し、原爆投下を正当化したトルーマン大統領も当時は、長官ほどではないが、こうした「自己欺瞞(ぎまん)」で心理的不安を取り除こうとした。
技術の発達は戦争観を変える。が、私は技術決定論の立場を取らない。そこには指導者による決定がある。戦略爆撃や原爆投下は「非人間的」な決定だったと思う。
戦争モラルの変質は大戦の所産だ。ナチス・ドイツや軍国日本が原爆を持っていたならば、使わなかったと信じる理由はないと思う。事実、ユダヤ人虐殺や日本軍のアジアでの蛮行があった。
米国だけが原爆使用のオプションを持っていた。そして、それを「恐ろしいもの」と見なさないで使った。
先の大戦で原爆使用の恐ろしさがわかったため、再び使うのが難しくなったという議論がある。冷戦時代、核兵器のおかげで米ソのもろい平和が保たれていたという説だ。越えてはいけない「モラルの敷居」がみんなに共有されているというが、キューバ危機などで使用が真剣に検討されたことを忘れるべきでない。核保有国も増えた。都市爆撃は朝鮮戦争やベトナム戦争などでも続いた。冷戦後のいま、モラルの敷居が高くなったかどうかは非常に微妙だ。
原爆投下をめぐって日米が、お互いに道義的責任をなすり合っても仕方がない。それぞれに責めを負うべきところがある。しかし、現在の日本の歴史教育では、南京虐殺や従軍慰安婦問題について健忘症になってしまう。米国の教育も大戦の醜い側面をなかなか認めようとしない。
原爆展をめぐる在郷軍人会の反発は、愛国主義の名の下に歴史を無視しろと要求しているに等しい。非難よりも歴史の精査と再構築に時間を費やすべきだ。それは市民の義務だ。


[解説]

米国人に原爆投下について聞くと、「戦争の集結を早め、日米の多数の人命を救うために使った」という返事が多い。
「戦勝国」のモラルが一般の米国人に浸透しているからだろう。民間人の大量殺傷に割り切れなさを覚えても、リーメンバー・パールハーバーや日本軍の残虐行為、「民主主義対ファシズム」などで正当化しようとする心理が強く働いてしまう。
バーンスティーン教授は、大戦の意味を「道義的自制心の喪失」ととらえることで米国人の一般的な意識に修正を迫っている。
原爆投下を戦略爆撃の延長戦に位置づけ、当時の米政策決定に道義的自制心が明確にあったかどうかを検証する研究は比較的最近のものだ。米歴史学者の間で「原爆は戦争の早期終結のために不必要だったという説がコンセンサス」(米原子力規制委員会の歴史家サミュエル・ウォーカー氏)になってからのことだ。
教授はこうした道義論を一歩進め、「どの当事国も民間人の大量殺傷に鈍感になった」という視点から米国の原爆投下責任を認め、その上で日本にも過去の清算を問いかけている。
米国の責任軽減につながるとの批判もあろう。どの国も当時、原爆を持っていたならば、使用しただろうという教授の説は多分に憶測を含む。原爆投下論議をめぐって、「日米間の歴史の共有」を模索しようとする動きが米国内に芽生えてきたことは、注目に値する。
あえて世間の「常識」に挑む教授の発言には、米国の将来への思いが強くにじむ。今後、米国が内外の諸問題に打ち勝っていくためには、「人間性に支えられた健全な愛国心が必要だ」という信念だ。教授は「戦勝ムードに流されず、歴史を直視し、未来に向けて教訓を学ぶ態度を持たなければ」と言う。(杉本宏)


バートン・バーンスタイン
1936年生まれ。クイーンズ大卒、ハーバード大学で博士号。専門は米外交史。米国の核兵器開発、日本への原爆投下をめぐる一連の研究で知られる。米スタンフォード大歴史学教授。「フォーリン・アフェアーズ」誌95年2月号で論文「検証・原爆投下までの300日」を発表。新資料をもとに「原爆が戦争終結を早めた」「米兵50万人の命が失われるのを防いだ」という定説を覆し、日米両国で論争を巻き起こした。(略歴出典:毎日新聞)


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【参考文献】


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【関連記事】

米“原爆”で人体実験 子供含む18人にプルトニウム
【ワシントン22日=AP】米エネルギー研究開発局(ERDA)は21日、「広島、長崎の原爆投下を前に、米国で、その放射能の影響度を調査する目的で18人の男女に対し、極秘にプルトニウム溶液を注射、人体実験をしていた」というショッキングな事実を確認した。
米科学ニュース誌「サイエンス・トレンズ」が伝えるところによると、実験はテネシー州オークリッジのマンハッタソ技術地区病院、ニューヨーク州ローチェスターのストロング・メモリアル病院、それにシカゴとカリフォルニア大学病院の4病院で、1945年から47年にかけて米政府の超極秘計画として行われた。
実験の目的は、原爆製造に従事する作業員に放射能がどのような影響を与えるかの調査で、4歳から50歳台までの老若男女18人が人体実験の対象となり、プルトニウムの注射を受けたという。
人体実験された人は通常、人体に発ガンなど大きな影響を与えるだろうと想定される量を2回から145回にもわたって注射され、このため7人が注射を受けたその年に死亡、3人が1−3年以内に、2人が14−20年以内に、1人が28年後に、さらに2人(期間不明)が死亡した。残り3人のうち1人は現在も生存しているが、注射の目的は知らされなかったという。(産経新聞 1976/02/23)

日本に原爆を4発落とすべきだった 遊説先で米下院議員
【ポートアーサー(米テキサス州)23日=AP】米民主党のジャック・ブルックス下院議員(テキサス州選出)は22日、遊説先のポートアーサーで、対日輸入問題などに対する質問に答えた中で「(第2次大戦中)トルーマン大統領は(日本に)2発の原爆を落とさせたが、彼は4発の投下を命令すべきだった」と発言した。
ブルックス議員は1945年8月、広島と長崎に原爆が投下された当時、米海兵隊の一員として日本本土侵攻を準備中だったという。同議員の発言について、スポークスマンは単なる冗談であり深刻に受け取られては困る、と述べた。(朝日新聞 1986/10/24)

広島原爆 死亡率、被ばく線量に比例 市外の住民の5倍
核被害者大会で発表へ
【ニューヨーク27日田原護立特派員】原爆投下から5年間の被ばく線量と死亡率の相関関係についてニューヨーク市立大客員教授の中川保雄・神戸大教養部助教授(放射線影響史)は、広島市の被爆者のうち約14万人と爆心地から離れた市域外の人々と比較したところ、被ばく線量によって最高5倍もの高い死亡率を示していることがわかった。28日午後(日本時間29日午前)、ニューヨークで開催中の第1回核被害者世界大会で発表するが、広島市の放射線影響研究所=前身はABCC(原爆傷害調査委員会)=は先の国際放射線防護委員会総会(イタリア)で、被爆者のがん死亡率が異常に高いことを報告しており、欧米の科学者たちの注目を集めそうだ。
放影研が分析、公表しているデータは被爆から5年たった1950年時点で生き残っていた12万人の被爆者に関する約30年間の追跡調査を基礎にしている。しかし、中川助教授は「人体に対する放射線の全影響を調べたことにはならない」として、原爆投下直後から5年間について、広島市やABCCなどが調べた約14万人分の資料を入手。爆心地から離れ、被ばく線量がゼロラドの市域外(not in city)のデータを集め、分析した。
その結果、被ばく線量に応じて死亡率が高くなっていることが判明。これまでのABCCなどの見解を覆し、特に最初の1年間(1945−46年)の死亡率は、爆心地に近い被ばく線量199ラド(ABCC調査)の地点で非被爆地区(市域外)のなんと5.08倍、18ラド(同調査)の地点で3.08倍にのぼった。1946−50年の5年問はそれぞれ平均1.45倍、1.22倍と倍率は減ったものの、いずれも市域外を大きく上回っていた。
中川助教授は「放影研のデータが間違っているというのではない。問題はデータの取り方、比較対象の設定。ABCC、放影研のデータを根本的に洗い直さなければ、放射線の危険性は正確には把握できない」と話している。(毎日新聞 1987/09/28)

放射線許容量の算定規準誤り 被爆5年内の死者数を無視
神戸大助教授が警告
【ニューヨーク28日=共同】米研修留学中の中川保雄・神戸大助教授(科学技術史)は28日、広島への原爆投下後の1945年10月から5年以内に放射線の影響で多数の人が死んでいるのに、広島、長崎の放射線による影響を基に作られた現行の日本の被ばく線量許容基準(年間500ミリ・レム)算定ではこれらの死者が考慮されていなかった、と発表、原発関係者の間で出ている国際的な許容量緩和の動きに警告を出した。
現行の日本の被ばく線量許容基準は国際放射線防護委員会(ICRP)が広島に本部を置く放射線影響研究所(RERF)の報告を受けて出した勧告を基に算定したものだが、ガンや白血病は5−10年の潜伏期間があるとして、被爆前に発病した可能性を考慮し、50年9月までの死者をこれらの病気の死者から除外、算定基準のデータとして扱っていなかった。
中川助教授が同日ニューヨークで開催中の第1回核被害者世界大会で明らかにしたところによると、45年10月から1年間の爆心地から1.2キロ以内の被爆者の死者数は非被爆者の約6倍に達しており、その後、46年10月から50年9月の4年間でも非被爆者の1.5倍が亡くなっていた。
助教授はこれらの数字はRERFなどの資料から得たが、RERFなどはこれらの死者を「被爆によるガン、白血病による死者」として扱っていなかった。(読売新聞 1987/09/30)

放射線の人体障害 原爆投下前にかなり予測? 「防護手引き」用意
第2次大戦中のヨーロッパ戦線で、ナチス・ドイツ軍が毒ガスのかわりにウランやラジウムをばらまくなど放射能攻撃を仕掛けてくることを想定し、米軍が極秘に防護作戦の手引きをつくり前線に配っていたことが、米国立公文書館の資料から13日までに明らかになった。広島、長崎への原爆投下の前年に配られた手引きには、白血病や脱毛など放射線の人体への影響などが、すでに詳しく書かれている。
米国側が原爆投下後の放射線障害をどの程度まで予測していたかは、軍事機密として戦後44年たったいまも明らかにされていないが、歴史研究者らは「被爆者の放射線障害を、かなり見通していたことを裏付ける資料」として重視している。
この防護手引きは、広島、長崎に投下された原爆の開発過程を調べている東京工業大学の山崎正勝教授らのグループが、米国立公文書館に保存されていた米国の原爆開発(マンハッタン計画)の責任者、レスリー・グローブスのトップシークレット資料集の中から探し出した。
作戦暗号名は「ペパーミント」。司令部がヨーロッパ戦線の部隊などにあてた書簡、メモと一緒に、「戦時における放射性物質の使用手引き」(A4判24ページ)が入っていた。配布されたのは、1944年4月24日から同年5月6日にかけて。冒頭には「ドイツが数年前から行っているある種の化学開発が進んでいれば、放射線物質を軍事的に使うだけの量を生産していると考えられる」とし、ドイツ軍が放射性物質を使って攻撃してきたときの備えと、併せて報復攻撃も想定している。
放射線の人体への影響については、白血病のほか、貧血、内臓疾患、やけど、脱毛、爪(つめ)の異状などに触れ、「100レントゲンあれば歩兵の攻撃を止められる」としている。また、毒ガスに比べて攻撃の持続力は数時間から数年間続き、「汚染された土地に入るのは危険」と注意。放射性物質の効果が部隊内に伝わると、兵隊が恐怖心を持つから極秘にするよう指示している。
研究メンバーの木本忠昭・東工大助教授は、「マンハッタン計画の中でも放射線の影響を調べるため人体実験が行われていた」と指摘。「見つかった防護手引きは、人体実験など当時の研究データをもとにつくられたのだろう。この資料だけでは米国側が人体への放射線影響を厳密に予測していたとはいえないが、白血病や脱毛など個別の影響については相当の知識を持っていたはず」と話し、原爆投下をめぐる人道上の問題も改めて提起している。
研究グループは、科学技術史の点からマンハッタン計画を3年がかりで再調査し、年内にも報告書をまとめて出版する。
マンハッタン計画の経緯などを調べて「原爆投下のシナリオ」を著した、ワシントン在住のアージュン・マキジャニ博士は「米国側が戦時中、これほど詳細な放射線被害のリポートをまとめていたとは知らなかった。戦後も米国は核実験を重ねて人体への影響のデータを集めているが、いったい何のためか、それならば必要ないのではないか、と考えさせられる資料」と話している。(朝日新聞 1989/08/14)

原爆投下し兵士演習 54年ソ連で
汚染域での作戦能力試す 「赤い星」報道
【モスクワ29日時事】29日付のソ連国防省機関紙「クラスナヤ・ズベズダ(赤い星)」によると、ソ連軍が1954年9月、原爆の爆発効果を実測し、汚染域における軍事作戦能力を試すため、本物の原爆を投下、爆発させる軍事演習を行っていたことが明らかになった。
演習を指揮したのはジユーコフ元帥(当時は第一国防次官)。計画の準備は53年末から開始され、演習場所は南ウラル軍管区が選ばれた。兵員用の「たこつぼ」や耐火用ざんごうが掘られ、その上には遮へい幕が張られた。また、地下深くには二重扉のついたシェルターも建設された。
54年9月半ばまでには準備が完了。あとは放射能が居住地帯に運ばれないよう、風向きの都合のよい日を待つだけだった。
そして同月14日、爆撃機から原爆が投下され、原爆は地上300−500メートルのところで爆発した。投下地点周辺では何ら識別できるものは残らなかった。兵員は「与えられた任務を完全に遂行」し、放射能汚染もほとんどなく、ブルガーニン国防相は演習成功を宣言した。

冷戦下、疑問の声は出ず

当時は冷戦下で、また、西独が北大西洋条約機構(NATO)に参加しようとしていた(加盟は55年5月)時期でもあり、「ソ連軍の戦闘能力を高揚させるためにどのような方法をとろうと、それを疑問視する見方は皆無だった」という。
国営タス通信は演習3日後の17日になって、原爆の爆発効果を調べるための核実験が行われたと伝えたが、原爆が軍事演習に使用されたことには全く触れなかった。
「クラスナヤ・ズベズダ」紙は、グラスノスチ(公開性)の時代の今だからこそ、この秘密を明らかにできると説明している。(毎日新聞 1989/09/29)

ソ連、原爆で「人体実験」 35年前、核戦争想定
【モスクワ29日=共同】東西冷戦時代の1954年9月14日に、ソ連が核戦争を想定して防御能力を調べるため、実際に原爆を爆発させ、人体実験に近い演習をしていたことが明らかになった。
29日付国防省機関紙赤い星によると、演習はジューコフ元帥(当時国防次官)が指揮して南ウラル軍管区で行われた。演習現場には多くのざんごうが掘られ、兵器や兵士は地下の二重ドアの内側に入り、地上には戦車が配置された。
原爆は地上300−500メートルの空中で爆発、戦車は数十メートルも吹き飛ばされてキャタピラが宙に舞ったり、溶けて地中にめり込んだりした。兵士に死傷者はなく、放射能汚染も“軽微”で、ブルガーニン国防相(当時)は「演習成功」と報告した。
深いざんごうの中では、兵士は教えられた通り、身を伏せて目を閉じていたが、爆発時には、わずかに土が降りかかっただけだったという。
人体実験とも言えるこの演習は周到に準備され、風向きまで考慮に入れて実行されたが、兵士には演習内容は秘密にされた。国営タス通信は3日後の17日になってやっと「学術目的の核実験を行った」と発表した。赤い星は「ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(公開性)の前に何があったかを知るべきだ」とし、厳しい冷戦時代だったとはいえ、当の兵士にも国民にも知らせずにこうした演習が行われたことを批判した。(朝日新聞 1989/09/30)

『真珠湾は過去』74% 60%が原爆を正当化
【ロサンゼルス1日共同】4人に3人は日本の真珠湾奇襲を“遠い過去の出来事”と見なしている一方、過半数の人は広島、長崎への原爆投下は正当化されると考えている──。米カリフォルニア州の住民を対象に行われた電話による世論調査で1日、こんな米国人の対日意識が明らかになった。
調査は世論調査団体の「カリフォルニア・ポール」が9月下旬、998人を対象に行った。
それによると、太平洋戦争開戦から50年たった今日、74%の人が真珠湾奇襲を「現在、将来にわたっての日本との関係の中では考慮に入れなくていい、と考えている」(世論調査担当者)ことが分かった。
しかし、ドイツをもはや敵国とは思わないと答えた人は86%だったのに対し、日本は81%とわずかながら旧敵国への意識の差も現れた。
原爆投下については60%が正当化しており、「悪いことをした」と答えた28%を大きく上回った。また67%の人が、日本人は原爆を投下した米国に敵意を持っていると答えた。(中日新聞 1991/11/03)

広島・長崎への原爆 米で「実験」と記載
エネルギー省刊行物 不適切と変更検討
【ラスベガス(米ネバダ州)4日=杉本宏】ネバダ核実験場を管轄している米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、太平洋戦争末期に実施された広島、長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが4日、明らかになった。同事務所は「分類方法が不適切だった」とし、「次版から書き方を変更することを検討する」としている。
この刊行物は同事務所が毎年、編集・発行しており、昨年5月に出された第12版が最新のもの。米国が1945年7月から91年12月までの間、同実験場などで実施した843回の核実験(英国との共同実験も含む)について、103ページにわたり実施時期、場所、爆弾の威力などを記載している。
この中で、米国の手による核爆発はすべて「公表された米核実験」としてくくられている。広島、長崎のケースは「第2次世界大戦、実戦使用──広島」などと表記され、その目的も「実戦」と書かれているが、時期別、実験名別のいずれの区分でも「公表された米核実験」の欄の中に分類・記載されている。
同事務所渉外部は「これまで文書を簡潔にするため、テストの中に分類していたに過ぎず、日本人を人体実験に使ったなどという意味はまったくない。3月から編集作業に入る次版では、核実験のほかに核爆発の欄をつくり、その中に分類することを検討する」としている。(朝日新聞 1993/02/05)

米の対日計画 原爆投下 京都も標的 米軍資料から解明
広島、長崎に原爆が落とされて48年目──。厚いベールに包まれていた米国の対日原爆投下計画の全容が、樟蔭女子短大(奈良県香芝市)の吉田守男助教授(47)ら研究者たちの手でほぼ解明された。これによると、米軍は終戦前日まで日本上空から「模擬原爆」を投下してリハーサルし、京都をはじめ主要都市に原爆投下の構えでいたことが判明。「米国は文化財保護で古都の爆撃を避けた」という、いわゆる“ウォーナー伝説”を覆した形だ。(編集委員・黒住隆興)

吉田氏が原爆投下問題の究明に取り組むようになったのは20年前の京大大学院生のとき。「米国は空襲を避けた」とされた京都にも、実際は「迷い子」のB29が2回も空襲、米軍資料で伏字にされていることに強い疑問を抱き、同じ伏字の米軍原爆投下部隊・509混成群団の存在も知った。
その後も、米軍の資料を集めて米国の対日原爆投下計画の大筋をつかんだ。昨年5月には、吉田氏の調査を裏付ける同部隊の極秘を解かれた文書が米国で見つかった。「徳山の空襲を語り継ぐ会」メンバーで、徳山高専教授の工藤洋三さん(43)が米国アラバマ州マックスウェル空軍基地のシンプソン歴史センターから入手したものだった。509混成群団の「作戦任務報告書」と「野戦命令書」で、愛知県の市民グループ「春日井市の戦争を記録する会」の金子力さん(43)=春日井市東部中教諭=が独自に調査した資料を加え、別掲の「509混成群団の作戦行動」一覧表(※江原注:割愛)がまとまった。
一覧表では、1945年7月から8月までの作戦行動を「1」から「18」まで番号をつけ、「13」が広島、「16」が長崎への原爆投下。残る16の作戦が模擬原爆の投下になっている。
つまり、米軍は8月14日までの1カ月足らずの間に、延べ50機のB29で49発(1発は海上投棄)の1万ポンド(約4.5トン)の巨大爆弾を投下。日本の上空1万メートルをゆうゆう飛んで、その高度から原爆投下の“リハーサル”をしていたことになる。
模擬原爆の投下目標は、目標都市としての京都、広島、小倉、新潟の4エリアに分けられた。京都は当時、原爆投下の対象からはずされていたにもかかわらず、広島の原爆後から終戦の前日にかけて集中的な投下ぶりが目を引く。
もともと、京都は原爆投下の第1目標と決められていた。米政府は目標選定委員会を45年5月に開き、京都、横浜、小倉、新潟を投下目標都市とし、京都は広島と並んでAA目標として「予約」、通常の爆撃禁止命令も出された。
京都の投下は京都駅西1キロの現JR梅小路機関車庫を爆心地として、航空写真も用意され、直径3マイルの円も描き込まれた。
その後、候補地は差し替えがあって二転、三転。京都もスチムソン陸軍長官が「京都に原爆を落とせば、日本人の反発を招き、戦後の占領政策がうまくいかなくなる」と唱える政治的理由で7月22日、対象からはずされた。
にもかかわらず、509混成群団のグローブズ少将は空襲禁止リストから京都をはずさず、実戦部隊は、あくまで原爆目標として「温存」、リハーサルも繰り返されていた。
模擬原爆のリハーサルで注目されるのは、天皇を殺害して英雄になろうとしたパイロットが皇居を爆撃しようと東京へ投下したケースも含まれている。

<509混成群団> 日本へ原爆を投下する部隊として、1944年12月、マンハッタン計画(原爆製造計画)の総指揮官だったグローブズ少将によって編成され、テニアン島を基地に改造B29が15機配備、総兵力1767人が配属された。グアム島の米第20航空部隊に所属、その行動は長くトップ・シークレット。47年7月に解散。

<ウォーナー伝説> ハーバード大付属フォッグ美術館東洋部長で日本研究家のランドン・ウォーナー博士(1881−1955)が京都、奈良、鎌倉の文化財を守るため、米政府へ爆撃しないよう進言、空爆除外に成功したとされる。日本では「日本文化の恩人」として、それらの古都など6カ所に記念碑が建てられ、勲二等まで授与されている。(中日新聞 1993/08/05)

“原爆の父”が人体実験要求 米エネ省研究所がメモを公開
【ワシントン16日=山口勉】米エネルギー省ロスアラモス研究所(ニューメキシコ州)は15日、「原爆の父」と呼ばれる故ロバート・オッペンハイマー博士(1904−67年)が原爆開発の早期から放射性物質による人体実験の必要を示唆していたことを示すメモを公開した。
同省の核開発をめぐる情報公開の一部として、同研究所の資料公開チームのゲイリー・サンドラ博士が発表したもので、44年8月16日付のオッペンハイマー同研究所長がヘンペルマン同研究所医学部長にあて、プルトニウムの動物実験、出来れば人体実験が必要なこと、実験は同研究所以外の場所で行われるべきことがメモに記されている。
その上で、45年3月ヘンペルマン博士が動物実験では必要なデータが得られないことを報告、「シカゴかロチェスター(ニューヨーク州)の病院で1から10マイクロ・グラムのプルトニウムを患者に注入、患者の死後その器官見本をロスアラモスに集めて研究する」計画が立案され、昨年来、問題化している18人の市民にプルトニウムが注入された。(読売新聞 1994/03/17)

「原爆の父」オッペンハイマー博士ら 製造情報 ソ連に提供
米誌報道 元スパイが回顧録
【ニューヨーク17日武藤芳治】第2次大戦中に米国が原爆を開発した「マンハッタン計画」の責任者で「原爆の父」といわれるロバート・オッペンハイマー博士らが、核戦争回避のため力のバランスをつくり上げようと自らの原爆製造情報を当時のソ連スパイに秘密裏に提供していた事実が明らかになった。
18日発売の米誌タイム(4月25日号)が元ソ連スパイの大物、パベル・アナトリエビッチ・スドプラトフ氏(87)の回顧録の抜粋で紹介したもので、戦後の「冷たい戦争」も「核抑止力による平和」も、実はこれら科学者たちが“演出”したものだったことになる。
スドプラトフ氏は現在は引退してモスクワに住むが、大戦当時はソ連の欧州・北米担当情報網の責任者。スターリンによるトロツキーの暗殺計画も担当した大物スパイ。
タイム誌が抄録した同氏の英語版新著「特殊任務−望まれない証人の回顧録」によると、原爆製造情報の秘密提供に参加したのはマンハッタン計画の責任者でロスアラモス研究所所長のオッペンハイマー博士のほか、1938年のノーベル物理学賞受賞者で39年にイタリアから米国に亡命したエンリコ・フェルミ博士、さらにニールズ・ボア博士ら。3博士らとも熱心な戦争反対論者として知られるが、スドプラトフ氏によれば、「原子力の秘密情報を米ソが共有することで力のバランスをつくり上げ、核戦争を回避しようとした」のが動機という。
ソ連は広島、長崎に原爆が投下される以前の45年初めに米国の原爆設計図を入手。33ページにわたるこの設計図がその後のソ連製原爆の基礎となった。ソ連は49年に最初の原爆爆発テストに成功している。(中日新聞 1994/04/18)

原爆投下は「人体実験」 原水禁アピール採択
原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党系)などによる「被爆49周年世界大会」は6日午前、広島市で広島大会閉会総会を開き、「ヒロシマアピール」を採択した。
アピールは、原爆投下を「国際法違反はもちろん、人体実験であった」と初めて明確に規定し、「国家補償の精神に基づく被爆者援護法の制定」を要求。また、「(商業利用も含めた)核絶対否定」を訴え、(1)核不拡散条約(NPT)は期限付き延長とし、核保有国が直ちに第3次戦略核兵器削減交渉に入ること(2)包括的核実験禁止条約を成立させること(3)侵略戦争への反省と、一日も早い戦後補償──などを各国政府に求めている。(朝日新聞 1994/08/06)

米日共同で「原爆展」開こう
バートン・バーンスティーン
米スミソニアン協会が退役軍人団体や議会の圧力に屈し、「原爆展」では米国の公式の歴史観のみが語られることになった。展示室には広島への原爆投下機B29「エノラ・ゲイ」だけが置かれる。その威圧的な存在は、1945年8月6日の原爆投下に何の疑問も抱かせず、見る人の気持ちを鼓舞するだろう。
退役軍人団体や議会は、原爆展から最近の学問的成果の多くを故意に排除し、証拠となる文書さえ無関係と規定した。この論争は「文化」をめぐる戦いでもあり、政治的圧力が真剣な歴史の探求、多くの疑問に対する解釈や分析を踏みにじった。
広島、長崎への原爆投下に関し、思慮深く、歴史的な示唆に富んだ展示とはどんな内容だろうか。それはまずアジアでの戦争の勃発、日本軍の侵略、アジアでの残虐行為、米の対日石油禁輸、不調に終わった1941年の米日交渉、真珠湾攻撃と続く歴史の実証的な展示から始めなければならない。展示は米日両国がお互いを人種的に排斥しあったことの実態、太平洋での戦争が著しく残虐に戦われた理由、戦時下の米国人は日本人を通常の人間以下とみなしていたことも明らかにする必要がある。
展示での重要課題のひとつは、なぜ都市や非戦闘員が狙われ、ルーズベルト大統領が戦争前に非戦闘員は攻撃しないとした約束が反故(ほご)にされたかだ。ドイツ諸都市への猛爆や1945年3月の東京大空襲が、日本の都市への原爆攻撃を自然な成り行きとし、不幸なことに受け入れやすくしたように思える。
日本側の問題としては、1945年段階の政府の意思決定過程に注目しなくてはならない。軍部と和平派の対立、昭和天皇の容易ならざる立場、さらに1945年半ばまで続いた、ソ連の中立を保たせるために、ソ連を仲介者と見立てるあいまいな和平の努力についてもだ。日本のモスクワ大使がソ連との和平交渉に難渋していたことにも触れるべきだ。
米側では、トルーマン大統領ら首脳が、1945年11月に予定された九州侵攻作戦の実施以前に、原爆投下なしに戦争終結が可能だったはずの総合的な戦術をなぜ追求しなかったかを検証すべきだ。考え得るのは(1)米国の無条件降伏要求の中で天皇制の維持を明確にし日本の和平派の動きを探る(2)ソ連参戦まで本土侵攻を待つ(3)日本の海上封鎖と通常兵器での都市の爆撃を継続する──などだ。
また、米政府高官らが侵攻作戦なしで戦争終結を図ろうとしたことに加え、原爆投下をソ連への脅しとし、戦後、とくに東欧での対決に有利な材料と考えたことにも言及しておきたい。多くの歴史家は、ソ連への脅しは、トルーマン大統領の投下の決意を一層強めただけだと考えているが、これこそ投下の真の理由としている歴史家もいる。
展示には原爆の威力を示す爆死者、負傷者、放射能による後遺症、壊滅的な都市破壊など多くの資料が含まれなけれはならない。米国の科学者の間にあった投下賛成、反対の議論についても触れたい。さらに8月6日の広島への原爆投下後、日本政府内で起きた混乱、8日のソ連参戦、そして降伏直前でさえ、軍部の中には降伏を阻止する試みがあったことも紹介すべきだろう。
展示はしかし、広島、長崎の惨状や8月15日の降伏で終わってはならない。原爆後遺症に苦しみ、時には日本の社会からさえも排除されていると感じた被爆者や、莫大な費用が投じられた戦後の危険な核軍拡競争にも視点を広げなければならない。
こうした原爆展の立案、展示台本の作成、資料の選択は米日両国から専門家が集まり、共同の野心的な事業として実施すべきだ。歴史家はお互いの母国の感情を害する歴史作りに携わる危険さえあるが、この作業だけが公正かつ誠実で実りのある歴史を追究する道であり、この努力こそが歴史的に未解決の第2次世界大戦の多くの問題について両国が合意する助けになる。戦後、こうした問題は周期的に噴出してきた。これを避けることは許されない。共同作業の過程とその結果は、互いに痛みを伴う厳しいものだろうが、究極的には解決への道筋を見いだせるはずだ。(米スタンフォード大教授・歴史学=投稿 原文は英語)(朝日新聞 1995/02/08)

米のプルトニウム人体実験 マンハッタン計画だった 米政府が報告書
【ワシントン9日=大塚隆】米エネルギー省の放射能人体実験調査室は9日、米国で1945年−46年、18人に対して実施されたプルトニウム人体実験が、原爆開発のマンハッタン計画の医学部門の研究として周到に実行されていたことを突き止めた、と詳細な報告書で明らかにした。
同省ロスアラモス研究所や、実験に参加したロチェスター大学などで埋もれていた資料を追跡して分かった。実験は同計画医学部門の研究に参加した内科医ルイス・ヘンぺルマン氏と化学者ライト・ランハム氏が計画、ロチェスター大やシカゴ大などの協力を得た。
原爆製造過程で強い毒性のあるプルトニウムを大量に扱うため、労働者の健康への影響を知るのが最大の目的だったようだ。
人体実験をしたのは「体内に入ったプルトニウムが排せつされる早さを知るのが目的」だった。ロチェスター大では11人に注入したが、うち1人は6日後に死亡、解剖で詳しい結果が得られた。
この直後、ランハム氏はメモで「患者が末期段階なら、プルトニウム注入量を増やすよう」に指示、シカゴでの実験は、2人に94.91マイクログラムという多量のプルトニウムが注入され、患者はすぐ死亡している。
しかし、患者のうち4人は20年以上生存、うち3人はアルゴンヌ研究所が追跡調査を実施した。
他の実験も含めた約300ページの調査報告書を公表したエリン・ワイス室長は「4月半ばまでには論文や資料が見られるよう準備を急ぐ」と約束した。(朝日新聞 1995/02/10)

広島「調査」の学者 人体実験にも関与 米ジャーナリスト明かす
【ワシントン17日=氏家弘二】原爆投下直後に広島を訪れて被爆の実態を調べた米国の学者らが米政府のプルトニウム人体実験にもかかわっていたことを、人体実験の報道でピュリツァー賞を昨年受賞したジャーナリストのアイリーン・ウェルサムさん(44)が明らかにした。
ウェルサムさんによると、取材の中で2つの調査にかかわっていたことがわかったのは、物理学者ら3人。原爆投下後間もなく、広島に入り、被爆の影響などについてデータを集めた。その中には、子どもの体への放射線の影響や発病状況の項目もあったという。
日本などに広島・長崎への原爆投下は人体実験だったという意見があることについては、「投下の目的が実験だったといえるデータは持っていないが、投下後に実験と同じように調査したのは事実だ」と話した。(朝日新聞 1995/03/18)

原爆は東京湾へ 示威投下で十分 「水爆の父」が言明
【サンアントニオ(米テキサス州)17日=AP】原爆など核兵器の開発を担当し、米国の「水爆の父」と呼ばれる物理学者エドワード・テラー博士は17日、第2次世界大戦末期の広島、長崎への原爆投下について、戦争を終結させるために日本に投下したのは正しかったが、東京湾に示威的に投下し、その威力を東京周辺の1000万人の前に示すことにとどめた方がよかった、と言明した。
また、テラー博士は、マンハッタン計画で原爆を一緒に開発したオッペンハイマー博士がこの「示威投下」の案に反対したとした上で、特に2つ目の長崎への原爆投下については「明白かつ全く不必要だった」と述べた。
テラー博士は示威投下で戦争を終結できただろうとした上で「死者を1人も出さずに済んだと思うし、道徳的観点からも、この方がよかった」と語った。テキサス州のトリニティ大学で開かれた戦後50年のシンポジウムでの発言。(朝日新聞 1995/03/19)

太平洋戦争時の米首脳「原爆不要と認識」 米の歴史研究家が論文
【ワシントン3日=時事】米歴史研究家のガー・アルぺロビッツ氏はこのほど、外交専門誌「フォーリン・ポリシー」に「広島−歴史家たちの再評価」と題する論文を寄稿、「太平洋戦争早期終結のために原爆が必要なかったことを、当時のトルーマン大統領ら米政府首脳は知っていた」と結論付け、原爆投下の目的はソ連に対する力の誇示だったと告発した。
同氏はトルーマン大統領やスチムソン陸軍長官、バーンズ国務長官ら当時の米政府首脳の日記や手紙などを分析した結果、この結論に達したと述べている。
この論文によると、米首脳部は日本の暗号電文解読から、1945年7月のポツダム宣言の前に昭和天皇が戦争終結の意思を持っていることを知っていた。米側も当初は原爆を使用しないでも、ソ連の対日参戦方針の明示や天皇制の維持を保証することによって日本が降伏に応じると判断していた。
ところが、ドイツ降伏後、米国は戦後のソ連との対立関係を意識し、「対ソ外交戦略の切り札」(スチムソン長官)として日本に原爆を投下する方針に転じた。(朝日新聞 1995/06/05)

米が核の人体実験検討 51年に29項目 ビキニ関係者が文書入手
広島市で28日開幕した世界平和連帯都市市長会議・アジア・太平洋地域会議に出席したマーシャル諸島の関係者が、米国が太平洋で原水爆実験を繰り返していた1951−52年、核戦争の調査には人体実験が不可欠と米国政府内で考え、具体的に実験項目を検討したことを示す資料の存在を明らかにした。「米国公文書館から入手した」といい、最近、相次いで明るみに出ている米国の核人体実験の証拠の1つとしている。
明らかにしたのは、ビキニ・アトール市の代表に随行している米国人法律顧問、ジョナサン・ウェイスガル氏。米軍医療政策委員会が52年、国防省長官にあてたメモは「核及び生物化学戦争の調査は、人体実験なしにはデータを得られない時点まで到達している。委員会は、この種の調査に人体を利用することを満場一致で承認した」と記しているという。
ウェイスガル氏は、その前年に米国防省医療団が、29の放射能実験を提案した文書も入手。生存者体内の放射能汚染、核爆発のせん光の目への影響、核実験人員の体液の放射性同位体の測定などの項目があり、「将来の核兵器テストに、生物学者や医師の参加が必要と考えるべきだ」と結論付けているという。(毎日新聞 1995/06/29)

日本への原爆投下 開発科学者156人が反対 トルーマン大統領に嘆願書
【ワシントン15日共同】米国の原爆開発に参加した科学者たちが、原爆投下がもたらす悲惨さへの道徳的責任を考慮、日本への投下前に、その威力を示す公開の実験を実施するようトルーマン大統領に求めた嘆願書をめぐる詳しい経緯や内容が15日、米国国立公文書館の文書などで明らかになった。当時書かれた嘆願書や草案類は17あり、計156人の科学者が署名した。うち今回初めて明らかになった1945年7月4日付の嘆願書は、日本に降伏拒否がもたらす悲劇を考える機会を与えるため、示威実験の実施を迫るなど科学者の心のかっとうが浮き彫りにされている。
同公文書館は17日に、存命中の科学者によるシンポジウムをワシントンで開催、嘆願書を広く一般に公開する。
原爆開発のためのマンハッタン計画の中核施設だったロスアラモス研究所は50年前の45年7月16日未明、ニューメキシコ州で世界初の原爆実験をした。署名者の1人であるジョン・シンプソン・シカゴ大名誉教授や公文書館の関係文書によると、開発の中心的存在だったレオ・シラード博士らが実験の半月前の7月1日からロスアラモス研究所で署名集めを始めた。この際の嘆願書は、ウラン加工施設があったテネシー州オークリッジの研究所にも送られ、7月4日付で計67人が署名した。
嘆願書は「(核)兵器の威力が世界にもたらす結果により、米国には道徳的義務が生じる」と指摘。「この兵器が使われる前に、威力を示すべきであり、日本は降伏拒否が招く結果を考慮する機会を与えられるべきだ」と勧告している。
同公文書館が今回一般公開する資料では、陸軍の開発責任者だったグローブズ将軍が署名集めを知り、150人の科学者の意見を聞いたのに対し127人が示威実験を求めたことも明らかにされている。

人間模様よくわかる

伏見康治・元日本学術会議会長(物理学)の話 当初はマンハッタン計画に積極的に参加した研究者たちが、日本への原爆投下が間近になって悩み抜いたことは、物理学者の間でうわさ話に伝えられていた。その人間模様が今回の史料公開で初めて具体的に分かると言える。(中日新聞 1995年07/16)

トルーマン大統領 原爆18発投下を承認 米紙が報道
【ワシントン16日関口宏】米ワシントン・ポスト紙は第2次世界大戦中の米国の原爆開発計画と日本への原爆投下に焦点を当てた16日付の特集記事の中で、当時のトルーマン大統領は1945年7月24日、日本への原爆投下計画として、8月に2発。9月、10月、11月に各3発、12月に7発の合計18発の原爆を投下する軍事・科学顧問提出のプランを承認していたと報じた。
同紙はこうした事実を国立公文書館が保存する記録を3カ月にわたって調べた結果として報じており、トルーマン大統領は原爆の性能が実験によって確かめられていない状況から、原爆投下だけでは戦争終結に十分ではないかもしれないと判断し、11月に米兵76万5000人を九州に上陸させる計画も併せて承認したとしている。
日本への原爆投下計画として広島、長崎に投下された2発のほか、さらに16発の投下が計画されていたことは、米国が大規模な日本破壊作戦を計画していたことを物語るとみられる。同紙は計画の詳細を明らかにしていないが、米国の原爆開発計画の進行状況からみて短期間に多数の原爆を投下するのは困難であり、計画は単なる机上プランにすぎなかったとみられる。
記事はまた、原爆投下をめぐっては歴史家の間で正当性が論議され、さらに日本を降伏させることよりもソ連への圧力強化に狙いがあったなどとする見方に触れながら、「トルーマン大統領は第2次世界大戦をできるだけ早く米国の勝利で終結させるという最終のゴールのために原爆を使用した」との見方を裏付ける十分な証拠があると述べている。(中日新聞 1995/07/17)

米国防総省 広島、長崎の原爆被爆者データ 核戦争研究に利用
ABCC収集解禁文書で「モルモット説」裏付け
【ワシントン30日共同】米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島、長崎の被爆者から収集した医学データを、国防総省が将来の核戦争を想定した軍事目的の研究にも利用していた事実がこのほど、同省や全米科学アカデミーなどの解禁文書で確認された。
国防総省は、核使用の際の医療対策に収集データが役立つと期待。広島、長崎のデータとビキニ環礁での原水爆実験の資料を比較し、爆心周辺で放射線から身を守るには服装をどうするか、などといった分野も研究していた。
ABCC設立当初から被爆者が抱いていた「モルモット扱いしているのでは」という疑いを裏付けるものだ。
また日本で「ABCCの研究は非人道的」との非難が強まることを恐れた米側が、病理標本やデータを重要機密資料として、その保護に極度に配慮していたことを示す文書も見つかった。
1946年11月26日、トルーマン大統領は「原爆が人間に与える長期的影響の研究を継続すべきだ」との陸、海両軍医務総監の勧告を承認。これを受けて全米科学アカデミー研究評議会に原爆傷害委員会(CAC)が設置され、現場機関として広島、長崎にABCCが発足した。
CAC議事録によると、47年3月のCAC第1回会議で海軍の代表が「防御的措置」と「攻撃的措置」の両面で被爆者データを利用することを提案した。またパターソン陸軍長官は同月、ジュエット科学アカデミー総裁に送った書簡で被爆者研究の「軍事的重要性」を強調し、極東司令部による協力を約束した。
翌48年6月に「特殊兵器プロジェクト」(国防総省国防核兵器局の前身)のハズブルック参謀長がまとめたメモは、被爆者データは「放射能戦争研究に非常に重要」だとして、核攻撃の際の死傷者数や負傷者の治療などに関する情報への利用に期待を表明した。
ABCCで収集されたデータや生検、解剖標本はこうして同プロジェクトや陸軍病理研究所で保管され、47−49年にまとめられた核戦争防護の各種研究に生かされた。
同プロジェクトのワイナント放射線防衛局長の論文は広島、長崎より良い防護施設がなければ「米国の大都市では10万人以上の死傷者が出る」と核シェルターの重要性を強調。ホートン同局医療部長の論文は、広島の被爆者の生殖能力や遺伝的影響などのデータを引用した。
さらにクーニー原子力委員会軍事応用局放射部長の論文は、広島、長崎でのデータとビキニ実験との比較から身体器官への影響を分析。「爆心から1.5キロ離れた地点なら軍服、シャツの着用でも防護になる」などと指摘した。

今さら驚かないが…

近藤幸四郎・広島県被団協事務局次長の話 中学生の時、先生に(調査のためABCCへ)行ってくれんか、と言われた。アメリカにはとても協力する気になれず断った。モルモット扱いは、我々は前々から言っていて今さら驚かない。50年たって、ようやく証明されたかという感慨が強い。

<ABCC> 原爆放射線の長期的な医学影響調査を主な任務として1946年11月、トルーマン大統領が設立を指示した。47年から広島、長崎で調査を開始、予算は米国原子力委員会などから出された。日本からは国立予防衛生研究所が参加。約12万人を対象に寿命(死亡)調査、成人健康調査、病理学的(解剖)調査、遺伝的調査などを実施した。(共同)(毎日新聞 1995/07/30)

米元機長「戦争勝利に原爆必要だった」 戦友会で正当性強調
【アルバカーキ(米ニューメキシコ州)7日=上治信悟】広島、長崎に原子爆弾を投下したB29の乗員が7日、戦友会が開かれているアルバカーキで記者会見し、当時の心境などを語った。会見したのは広島に投下した「エノラ・ゲイ」の機長だったポール・ティベッツ氏(80)や他の乗員、原爆を製造したマンハッタン計画にかかわった科学者など10人。
質問が集中したティベッツ氏は「当時我々は戦争していたのであり、目的は勝つことだった」と述べ、「使える兵器は何でも使え」という戦略家の格言を引用して、原爆投下の正当性を強調した。さらに「戦争にモラルはなく、戦いの場で私は別人だった」と語った。
また、広島に出撃した元航空士ダッチ・バンカーク氏(74)は「今日、自宅の留守番電話に日本軍の捕虜だった人たちから原爆投下を感謝する7本の電話が入っていた」と述べた。
一方、長崎に投下した「ボックス・カー」のパイロットだったダン・アルバリー氏(74)は戦争直後に長崎を訪問し、「ひどい破壊だった。(原爆の)影響は続くと思った」と語った。(朝日新聞 1995/08/08)

旧日本海軍も原爆開発 第2次大戦末期
米機密公文書で判明
【ワシントン1日時事】旧日本海軍が第2次世界大戦末期、秘密裏に原爆開発を進め、1944年末から45年初めにかけて上海で130キロの酸化ウランを購入していたことが、機密指定を解かれた米軍機密文着で明らかになった。ウランは海軍から委託された京都大学の荒勝文策教授の元に送られたとされるが、その後の用途などは不明。旧陸軍が大戦中、理化学研究所に原爆開発を要請、原料のウラン収集を進めていた事実は知られているが、海軍も原爆研究を具体化させていたことになる。
米国立公文書館に保存されている米軍情報将校、ラッセル・フィッシャー少佐が戦後、上海から米陸軍省に送った報告(46年3月27日付)によると、日本海軍上海基地のエージェントが酸化ウラン130キロを上海のブラックマーケットでブローカーから購入、船で日本に輸送された。代金は海軍が用意した1億円の資金から支払われたという。
報告は「購入は海軍の委託を受けた京都帝国大学の原子力エネルギー計画用の調達」と指摘、荒勝教授は当初ウラン1500キロの購入を要請したとしている。報告はまた、日本が支援した上海の自然科学研究所でも原子力研究や関連物質調達が行われた可能性があると伝えた。報告の情報源は、日本人科学者、海軍当局者、中国人情報提供者らで、「信頼できる」とされている。
荒勝教授は当時、科学研究推進協会原子核小委員会の主任研究員を務め、41年に「ウランおよびトリウムのガンマ光線による光分裂」と題する論文を発表していた。

湯川博士らも参画

米歴史家チャールズ・ストーン氏の話 わたしの調査では、旧日本海軍が原爆研究に着手したのは1942年ごろで、精力的な実験家だった荒勝文策氏に白羽の矢を立てた。極めて小規模な研究ながら、後にノーベル物理学賞を受ける湯川秀樹博士ら有能な物理学者が動員された。陸軍が委託した仁科芳雄博士の理化学研究所と京都大学は協力せず、独立して研究を進めたが、最終的にはウラン分離方法などで手を結んだようだ。日本本土ではウラン供給源は限られており、日本軍は朝鮮半島や旧満州(中国東北部)など各地でウラン調達に躍起になっていた。(ワシントン、時事)(中日新聞 1996/12/02)

大量のウラン化合物 1946年に徳山で押収
米軍文書 日本の原爆開発裏付け
【ワシントン30日時事】第2次世界大戦後の1946年2月、日本を占領統治中の連合国軍総司令部(GHQ)が、日本政府に原子力研究全面禁止の秘密指令を通達、各地でウランなど原子爆弾の製造につながる物質を大量に押収していたことが、このほど機密指定を解かれた米軍文書で分かった。大戦中の日本軍の原爆開発を察知した米軍が、研究を根絶するために実行したもので、この捜索で山口県徳山市の旧日本海軍燃料工廠(こうしょう)などで550キロに上るウラン化合物が発見されたという。
GHQが終戦直後、陸軍の委託で原爆開発を行っていた東京の理化学研究所(理研)を閉鎖し、サイクロトロン(イオン加速器)などを没収したことは知られているが、核関連物質大量押収の経緯が公表されたのは初めて。被爆国・日本でも精力的に原爆開発が進められた事実をあらためて裏付けるものだ。
日本政府の核関連物質を摘発する特別捜査班がGHQ内に設置され、米国の原爆開発計画に参画したラッセル・フィッシャー少佐が陣頭指揮。同少佐が46年3月1日付で作成した報告は、京都大学の核物理学研究室などを捜索し、京大から三酸化ウラン86キロ、八酸化三ウラン11キロなどを押収したとしている。(中日新聞 1996/12/31)

爆心から2キロ地点 放射線障害の症状
米調査団が報告
原爆の爆心地から2キロ以上離れた地点で被爆した人にも、脱毛など急性放射線障害とみられる症状が現れていたことを示すデータが、投下の1−2カ月後に長崎、広島入りした米国「マンハッタン調査団」の報告書に記載されていることが24日、分かった。
被ばく線量推定方式(DS86)を根拠に「2キロ以遠では人体への影響はない」としてきた国が判断基準の再考を迫られるのは必至。
報告書の翻訳作業に当たっている長崎大医学部の朝長万左男教授は「遠距離領域でのDS86の信頼性に疑問を投げ掛けるデータ」と指摘している。
米軍が原爆の影響を調べるため医師や科学者で組織したマンハッタン調査団は1945年9月10日から10月6日まで長崎、10月3日から7日まで広島入り。日本人医師の作成したカルテなどを基に、入院中の被爆者ら計900人を対象に調査した。
報告書は(1)爆心地から2.25−4.25キロで被爆した男女46人中8人に脱毛が見られた(2)2.25−3.35キロで被爆した41人中14人に皮下出血があった−としている。
報告書は2年前に機密解除となり、23日閉幕した核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の北アジア地域会議(長崎市)で朝長教授が分析結果を報告した。同教授は「広島、長崎とも脱毛と皮下出血の両症状を確認しており、2キロ以遠でも放射線障害があった可能性が高い。DS86はよくできた理論方式だが、このデータからも現実とずれがあることが分かる。今後、再検討の必要があるだろう」と話している。(中日新聞 1997/11/25)

胎内で被爆の女性に乳がん多発
広島・原爆病院が調査報告
広島、長崎の原爆投下時、母親の胎内で被爆した人のうち女性は男性よりがんの発症率が高く、中でも乳がんが多い傾向があるとする調査結果を広島赤十字・原爆病院(広島市中区)がまとめた。
胎内被爆は若年被爆とともに放射線の影響を受けやすいとされてきたが、成人期の発がんに関する調査は少なく、研究者は貴重なデータと注目している。長崎市で7日に開かれる「原子爆弾後障害研究会」で、藤原恵・同病院病理部長が発表する。
調査は、1988年から97年にかけ、がんなどの悪性腫瘍(しゅよう)の疑いがあると診断された同病院の患者を対象に、原爆投下後から46年4月までに生まれた胎内被爆者61人と、同時期に生まれた非被爆者235人を比較検討した。
その結果、悪性腫瘍が認められたのは、胎内被爆者が13人(21.3%)で、非被爆者は35人(15.3%)。男女比は、胎内被爆者は男性4人に対し女性が9人と2倍以上だが、非被爆者はほぼ同じだった。
腫瘍の部位は胎内被爆女性の9例のうち3例が乳がんで、胃がん、大腸がんなどは1例ずつ。非被爆者の乳がん発症例が1割強だったのに比べ高率だった。(中日新聞 1998/06/06)

核戦略用に設置? 米の研究所、治療はせず
原爆被害を科学的にきちんと明らかにすることは、被爆者の心理的な不安を解消し、核兵器の廃絶を国際社会に認めさせる上でも不可欠だ。けれども人体への影響の研究は、被爆者のためというより、被爆者を利用する動機で始まったといってもよい。(核取材班=添田孝史)

■NYに落ちたら

米国は47年、原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立。広島、長崎に研究所をつくり、原爆が人体に与えた影響を調べ始めた。75年からは、米国エネルギー省と日本の厚生省が費用を折半する財団法人の放影研が調査を引き継いでいる。
87年から全米に散らばるABCC関連の文書を探し集め、ABCCの元所員らにインタビューして被爆者研究の歴史を調べているペンシルベニア大のスーザン・リンディー教授に尋ねた。

──ABCCの研究は軍事目的だったのですか。
「研究は、核兵器が人類にとってどんな意味を持つかを決めるためのもので、冷戦戦略の一部だった。米国の将来の核戦争に備えるためだったことは疑いの余地がない。ニューヨークに原爆が落とされたら社会的にどうなるか、人問がどうなるか、というモデルでもあった」

──ABCCは調査だけで治療はしないといわれてきました。なぜでしょう。
「治療すれば、原爆投下の謝罪につながると考えていたようだ」

ABCCは、多い時は1000人を超える職員を抱えていた。16万の被爆者を選び、どこでどんな状況で被爆したかを数年かけて1人ひとりにインタビューし、亡くなった7500人を解剖した。
現在も母集団の12万人について、亡くなるたびにその死因を追跡し、2万人を2年に1度健康診断する。8万人の被爆2世、そして2800人の胎内被爆者の調査も継続中だ。放射線以外でも、疫学調査としてこれを超える規模のものは世界に存在しない、といわれる。
被爆者をモルモット扱いしたと言われるABCCの姿勢は、放影研にも引き継がれてはいないだろうか。
占領史研究者、笹本征男さん(54)は、今年末に発行される「通史日本の科学技術〈国際期〉I・II」(学陽書房)の中で、ABCCの研究を引き継ぐ放影研の設立目的にも不明確さが残る、と指摘している。
財団法人の目的には「被爆者の健康保持及び福祉に貢献する」ことをうたっている。一方、両国政府が74年に交わした公式の外交文書では、目的は「放射線が人に及ぼす影響の調査研究活動」とされ、「被爆者のため」という文言はどこにもないのだ。
ABCC、放影研の研究成果は結果として人類の貴重な財産となり、被爆者にも役立ってきたことは間違いない。一方で、米国側のエネルギー省は核兵器開発を担当する部局である。研究成果が核開発に応用されてきたのではないだろうか。

■年20億円の投入

6月末に訪れたワシントン郊外のエネルギー省で、「シーダ」という名前のデータベースを見た。
ハンフォード、ロスアラモス、オークリッジといった核兵器製造現場で働いた人たちの健康状況を1人ひとり追跡するデータベースだ。その中に「JALSSA01」というファイルがあった。
ABCC、放影研が集めた被爆者7万5991人の被ばく線量、性別、死因などの関連がオンラインで分析できる。利用するにはエネルギー省の許可が必要だという。
被爆者のデータは、実は原爆をつくり、落とした国の、核兵器をつくる省に管理されていた。
同省のセリグマン次官補代代理は「放射線の人体への影響を知るには、日本の被爆者の研究が最も基本となる」と話す。被爆者のデータは、核兵器、原子力関係の労働者から得られたデータと違い、一挙に放射線を浴びせられた子供から老人までの男女多数が、長期にわたって追跡されているからだ。
米国が今も年間約20億円を広島・長崎の研究に投じ、威力の見直しなども進めているのは、データの重要性が極めて大きいからと思えば納得できる。原子力発電、X線などの医療分野、そして核兵器工場でも、放射線をどれだけ浴びると有害かという基準づくりに、被爆者を追跡したデータは必要不可欠となっている。
データベースの中では、被爆者1人ひとりは数字でしか表れていない。数字の裏には、家族や友人、生活基盤を根こそぎ奪われ、病気の影におびえ続けた被爆者の実際の人生がある。そのデータの重みを、私たちはどれだけわかっていたのだろう。軍事、産業目的の被爆者調査の恩恵を受けながら、データの持つ意味に無関心に過ごしてはこなかっただろうか。
核兵器の廃絶を目指すために、「被爆者」という言葉を世界共通語にしようというアピールを採択したのは、内外の非政府組織(NGO)が77年に広島で主催した「被爆者の実情に関するシンポジウム」だった。以後、英語の辞書も「HIBAKUSHA」と表記するようになった。
被爆者の思い、被爆国の願いを広く、深く理解してもらうには何をしていくべきなのか。広島・長崎の原点から、もう一度考えてみたい。(朝日新聞 1998/07/29)

米、45年の原爆投下正当化 陸軍省機密報告
1945年の広島、長崎への原爆投下決定の経緯を記録した米陸軍省の最高機密報告が、ワシントン郊外の米国立公文書館で発見された。46年に作成された同報告は原爆投下を「正しい戦略思考に沿った決断」と正当化、(1)日本の軍事的撃破と無条件降伏達成(2)日米両国の犠牲者抑制(3)日本の軍事的抵抗能力の破壊(4)決定的な軍事作戦能力の誇示(5)日本への心理的圧力強化(6)戦争長期化の阻止──の6項目の戦略概念が原爆投下の行動指針になったと述べている。
「原爆の軍事的使用」(日付不詳)と題する36ページの報告は、陸軍省参謀本部作戦局が大戦中の機密文書を基に内部資料として作成。原爆投下には戦争長期化による日本側の犠牲と破壊を防ぐ目的もあったと指摘している。
この報告から、スティムソン陸軍長官がトルーマン大統領(いずれも当時)に対し「日本本土決戦はドイツとの戦闘よりはるかに厳しい戦いとなり、米軍に多大な戦死者が予想される」と原爆使用を促すメモを送っていたことも分かった。(ワシントン=時事)(日本経済新聞 1999/08/04)

「旧日本軍が終戦直前、原爆実験?」 朝鮮半島東岸沖合 GHQに極秘情報
【ワシントン5日時事】旧日本軍が第2次世界大戦の終戦直前、現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領となっている朝鮮半島東岸の興南沖合で原爆実験を実施したとの情報を米軍がつかみ、戦後日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)などが秘密裏に調査していたことが、米国立公文書館で時事通信が入手した米軍機密文書(約300ページ)で分かった。1947年の米軍防ちょう機関の報告は「原爆に似た爆発があった」と伝えているが、真相は解明できなかったもようだ。
また、これらの文書から、米軍は興南にあった化学コンビナートで日本海軍が秘密裏に核開発を進めていたとみて、朝鮮戦争(50―53年)に乗じて疑惑施設を徹底的に爆撃していたことも明らかになった。
米軍犯罪調査部隊のデービッド・スネル氏は、旧日本軍が45年8月12日未明、興南沖三十数キロの海上で原爆実験を行い、巨大なきのこ雲が上がったとの情報を、ソウルで元日本軍情報将校から入手。退役後の46年、米ジョージア州アトランタの新聞に公表したが、一笑に付されていた。
しかし、在朝鮮米軍司令部防ちょう部隊が47年1月16日付で作成した報告は、調査結果として、「日本軍は朝鮮北部東海岸沖に浮かべた小さな船で爆破を伴う実験を行い、原爆に似た爆発が起きた。関与した科学者らの名も(スネル報告は)正確だ」と指摘、科学者は旧ソ連軍によってソ連に抑留されたと伝えた。興南は8月12日、進攻ソ連軍に占領された。
興南での日本軍の核開発説について、45年のGHQ文書は(1)日本軍復員者によると、興南の化学工場で原子力関係の実験が行われていた(2)日本海軍は興南の化学工場の秘密部門で、「NZ計画」と呼ばれる水素化合物によるジェット燃料実験を実施していた(3)ソ連による興南占領後、秘密施設がソ連軍に接収され、日ソ両国科学者の共同研究が行われている―などの情報を挙げて、徹底調査を命じた。
興南には戦前、日本窒素肥料(チッソの前身)の大型化学工場があり、海軍と共同で重水などを生産していた。
一方、朝鮮戦争中の米軍文書(50年12月29日付)によれば、米軍は興南の化学工場施設に空爆を加え、施設の95パーセントを破壊したという。(西日本新聞 1999/08/06)

NPT派遣団が米ネバダ核実験場で抗議の座り込み
24日から米ニューヨークの国連本部で開催される核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米した原水禁などの「NPT再検討会議派遣団」約20人が21日、ネバダ核実験場を訪れた。地元のネバダ州やカリフォルニア州、アリゾナ州などから集まってきた反核運動家らとともに抗議の行進をした後、「立ち入り禁止」と書かれた標識の前で、地元の警察官らの監視の中、米の未臨界核実験や核兵器開発に対する抗議の座り込みをした。
派遣団のほか、集まった在米の反核運動家や市民グループのメンバーは約30人。うち約10人は、意識的に境界線を越え、拘束されることによって抗議の意を示した。先祖代々の土地の中に核実験場が位置する先住民族ウエスタン・ショショーニ族のコービン・ハーニーさん(80)は、警察官に詰め寄って、「これ以上我々の土地を汚染するな」と訴えた。NPT派遣団のメンバーで被爆者の坪井直・広島県被団協事務局長(74)は「核兵器廃絶を願う心に、国境や民族の壁はない。互いに協力し合ってがんばっていきましょう」と呼びかけた。(朝日新聞 2000/04/22)

NPT再検討会議に合わせ、NYで「原爆展」開催
米ニューヨークの国連本部で核不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれるのに合わせた連合、原水禁、核禁会議による「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」が23日、国連本部近くの多目的ホールで始まった。26日まで開かれる。
会場には、やけどを負った子どもの写真や、放射線被害を示すパネルなど約60点が展示された。資料は、被爆地の広島、長崎市からの提供で、両市の市長から寄せられた平和と核兵器の廃絶を願うメッセージも張り出された。反核の象徴とされる折りづるをつくるコーナーも設けられている。
開会の式典で、野沢雄三・連合副事務局長(59)は「再検討会議に合わせて集まるたくさんの軍縮問題の専門家や非政府組織(NGO)関係者に、『悲劇を繰り返してはならない』と訴えたい」とあいさつした。
この日は、市民や旅行者らが次々に訪れ、熱心に見入っていた。地元の会社員ポールライリーさん(42)は「教科書に載っていない写真ばかりだ。アメリカ人はもっと核の問題に関心を持っていい」と話した。(朝日新聞 2000/04/24)

「原爆投下は戦争犯罪か」 トルーマン元大統領を非難
米ジャーナリスト、HPで責任追及の論文
【ニューヨーク5日共同】米軍による広島、長崎への原爆投下を戦争犯罪として見直すよう主張する米国のジャーナリスト、フィリップ・ノビーレ氏(58)が、原爆投下の日を前に「広島の論争―ハリー・トルーマンは戦争犯罪人か」と題し責任を追及する論文をインターネットの論壇ホームページ「トムペイン・コム」に発表した。
その中でノビーレ氏は、トルーマン元大統領が最終決断した原爆投下は、「軍事的必要性により正当化されない破壊行為」と指摘。1945年夏までに日本は戦争継続能力を失っていたのに「原爆使用の可能性を日本に警告することなく、非軍事目標に投下した」と非難した。
米国では「原爆投下は第2次世界大戦を終わらせるために必要だった」という見方が圧倒的。しかし、ノビーレ氏は「トルーマン氏自身が53年1月に訪米中のチャーチル元英国首相と、原爆投下が戦争犯罪に当たるか否かを議論した」と指摘、戦争犯罪論議は十分意味があると指摘した。
論文(英文)はトムペイン・コムのホームページ(http://www.tompaine.com/)で読める。(東京新聞 2000/08/06)


ref. HIROSHIMA DEBATE: Was Harry Truman a War Criminal?
(TomPaine.com)

映画「パール・ハーバー」から第2次大戦を考える
バートン・バーンスタイン教授
日本の真珠湾攻撃をテーマにした超大作「パール・ハーバー」が公開され、日本を敵国とみなすハリウッド映画は反日感情をあおるのではと日系人は懸念する。しかし、米スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授(64)は、「米国人の多くは映画を事実とは思わず、全米に反日感情が広がることは考えにくい」と言う。むしろ、映画公開を機に、真珠湾攻撃を含む第2次大戦の歴史を若い人々にどう教えるべきか、両国で冷静に考えるべきだと強調した。【米カリフォルニア州パルアルトで佐藤由紀】

──映画「パール・ハーバー」は注目を集めましたが、映画評は散々です。

教授  恋愛中心の趣味の悪い映画とみられている。評判もよくない。30代以上はもちろん10代でも、映画を歴史的事実とは考えないでしょう。ハリウッドは、ドラマ性や戦闘場面に関心があるのであって、真実の歴史を描こうとは考えていない。

──映画によって、日本への反感が高まる恐れはありますか。

教授  反日感情が起こるのは、米国の経済が悪化し、対日貿易赤字が増し失業者が増えるような場合だ。日系人と日本人が区別できない米国人もいないではないが、大半は職場や学校で日系人、日本人と接しており、日本への反感を日系人にぶつけるようなことはしないだろう。映画を見た若者が、感情に任せて日本人や日系人を侮辱するようなことはあっても、その場限りだ。米国で反日感情が高まる心配はない。

──米国の高校の授業では、真珠湾攻撃に数日かけ、日本への原爆投下は10分で済ます、と聞きましたが。

教授  授業の目的は第2次世界大戦に至る経緯を学ぶことで、1941年12月の真珠湾攻撃だけに限っているのではない。原爆についていえば、自国の犠牲が少ない国(米国)は、どうしても他国の犠牲を強調しない傾向がある。しかし、私の知る限り、高校の授業では原爆投下をやむを得ない選択と位置づけるのが一般的で、米国の勝利のように教えてはいないと思う。

──ハリウッド映画はどこまで政治的ですか。

教授  政治的な意図で映画を製作しようという映画人はほとんどいないが、政治的影響を与えることはある。「プライベート・ライアン」でユダヤ人のスピルバーグ監督は、戦争の悲惨さ、ノルマンディー上陸作戦が欧州解放、とくにユダヤ人強制収容所の解放につながったという歴史にスポットを当てた。だが、反独感情を刺激しようとしたのではない。

──歴史とフィクションを組み合わせた映画では「タイタニック」が有名ですが。

教授  「タイタニック」は、魅力的な俳優が出演する優れた恋愛映画だが、それを歴史とは誰も思わない。ただ、ハリウッドは歴史的事実や異文化に対する繊細さを欠くという過ちを犯しやすい。日系人たちが疑問を感じているとすれば、「パール・ハーバー」の製作者が日系人の受け止め方への配慮を欠いたためだろう。

──宣戦布告が間に合わず、真珠湾攻撃を仕掛けたことで、日本は公正でないと責められてきました。もし攻撃前に和平交渉拒否が伝わっていれば、非難はされなかったでしょうか。

教授  (日本の)大使館内の混乱がなければ、攻撃の少し前に通告はできたかもしれない。しかし、それでも事態は大差はない。戦闘の大半は予告なしか、あっても攻撃の直前というのが一般的だ。米政府は日本大使館あての暗号文を解読し、攻撃の可能性は察知していた。ただ、場所を特定しきれなかった。あとで考えればハワイと想定すべきだったとはいえるが、実際には不確定要素が多すぎた。

──日本が不公正に戦争を始めたという認識が、原爆投下の正当性につながっていませんか。

教授  広島、長崎への原爆投下の直後、トルーマン大統領は日本の真珠湾攻撃を例に引いて発言し、それが米国での認識の背景になった。しかし、真珠湾で日本が軍事施設、船舶、航空機などを攻撃したのに対し、広島や長崎で、米軍は広く一般市民を攻撃目標とした。真珠湾攻撃と原爆投下を同じレベルで比較することはできない。

──日本では歴史教科書の記述をめぐって論争が起きています。米国で歴史教科書はどんな役割を持っていますか。

教授  初等、中等学校では、学校や地域によってどう教えるかが非常に違う。貧困地区で学力に問題のある学校では、教師が基礎的な読み書きや教室内でのしつけなどに時間を取られ、試験のための授業をするのに精いっぱいだ。教科書以外の教材まで手が回らない。他方、教育に熱心な家庭が多い、比較的裕福な地区だと、教師は柔軟に教材を選べ、教科書にどう書いてあっても授業に大きな影響は与えない。同じ教科書を使っていても、米国では地域と学校、教師によって教育内容が相当に違うので、日本とは根本的に違う。

──日本での歴史教科書論争をどう思いますか。

教授  日本は全国共通の教育をしようとしているので、教科書の記述にこだわるのだろう。私が知りたいのは、日本の中学、高校、大学で、第2次世界大戦がどう教えられているのかということだ。

──残念ながら、中高生たちは授業で現代史を十分に学ばないまま卒業しています。

教授  米国でも、初等教育の歴史教育では1940年代で終わるところが珍しくない。世界史を学ばせるのはよいが、多くを詰め込もうとすると、現代史の理解が表面的になる。

──日本は、歴史上の失敗から冷静に学ぶことがあまり得意ではないかもしれません。

教授  米国も同じように原爆投下から十分に学ばず、その後の核軍拡や冷戦に至った。原爆実験をした島の名前をとって、水着を「ビキニ」と呼ぶことなど、無神経さの象徴的表れだ。

──戦後半世紀以上たち、現代史の研究は難しくなってきたのですか。

教授  いいえ、機密文書が次々に解禁され、むしろ研究は容易になった。日本でも同じように未発表の歴史的文書をまとめた出版物が出ているはずだが、これをぜひ英文で出版してほしい。日本語を自由に読める米国の歴史家は少ない。冷静な歴史の理解は事実に基づく研究でしか得られない。


◇  ◆  ◇

バートン・バーンスタイン
1936年生まれ。クイーンズ大卒、ハーバード大学で博士号。専門は米外交史。米国の核兵器開発、日本への原爆投下をめぐる一連の研究で知られる。米スタンフォード大歴史学教授。「フォーリン・アフェアーズ」誌95年2月号で論文「検証・原爆投下までの300日」を発表。新資料をもとに「原爆が戦争終結を早めた」「米兵50万人の命が失われるのを防いだ」という定説を覆し、日米両国で論争を巻き起こした。(毎日新聞 2001/07/03)

放射線の影響、孫の代まで マウスの生殖細胞に異常
【ワシントン6日共同】放射線によって起こる生殖細胞異常の発生率は、放射線を浴びなかった子や孫でも、被ばくした親と同様に高くなることを、英国レスター大のグループがマウスを使った動物実験で突き止め、7日付の米科学アカデミー紀要に発表した。
放射線被ばくによる先天異常発生の可能性が、後の世代にまで引き継がれることを示す結果で、グループは「人間への被ばくの影響を考える上で、重要な結果だ」と指摘した。
グループは、生物に与える影響の大きい中性子線と、比較的影響の少ないエックス線をマウスに照射。生まれた子を、放射線を浴びていないマウスに交配、生まれた子(孫)を、被ばくしていないマウスと再び掛け合わせた。そこで、子や孫の精子などの生殖細胞の特定の遺伝子領域に発生する異常の率を調べた。
異常の発生率は、放射線の種類とほとんど関係なく上昇。孫マウスでも、放射線を浴びていないマウスのほぼ3倍になっていることが判明。放射線の影響が、被ばくをした親やその子供だけでなく、少なくとも次の世代の生殖細胞にまで伝わることが分かった。
グループは「生殖細胞の異常が何世代にも及ぶことは、被ばくによる先天異常発生のリスクが、これまで考えられていた以上に大きいことを示唆している」としている。(共同通信 2002/05/07)

原爆の影響「想像絶する」 赤十字の機密報告書判明
【ジュネーブ15日共同=藤井靖】赤十字国際委員会(ICRC)の駐日代表部職員だった故フリッツ・ビルフィンガー氏が1945年8月30日、原爆投下後の広島を視察、「病院での状況は想像を絶する」と当時の惨状を克明に記し、核兵器の使用禁止を訴えた機密報告書などがICRC本部(ジュネーブ)文書館に保管されていることが15日までに明らかになった。
外国や国際機関による原爆の影響調査は、同年9月9日に広島入りした米戦略爆撃調査団と故マルセル・ジュノーICRC駐日代表の報告が知られているが、これに先立って広島を視察したビルフィンガー氏の報告は昨年までICRCの機密指定が続くなどし、存在そのものが一般には知られていなかった。
一連の文書のうち、8月30日付で「包帯などが大量に必要」とジュノー代表に訴えた緊急電報は、戦略爆撃調査団が広島入りした際、計12トンの救援物資を届ける原動力となった。
機密報告書や電報の写しはこのほど、日本赤十字社経由でICRC本部から広島の原爆資料館に届けられた。資料館は今年の資料展での展示を検討する。
8月30日付の電報は、広島の状況について「筆舌に尽くしがたい」「病院にはなお、推定で10万人以上がいる」とした上で、代表が連合国軍と交渉し、大量の医薬品を広島に送るよう求めた。
これを受けてジュノー代表が連合国軍との交渉を開始。戦略爆撃調査団の広島入りに合わせて12トンの救援物資を送り、米軍ではなくICRCの管理下で物資を配給することで合意した。
またビルフィンガー氏がICRCを離れる直前の45年10月24日付で本部にあてた機密報告書は、本文が13ページ。爆心地や病院を訪問した際の様子が中心で「被爆者は髪が抜け落ちているほか、高熱、下痢などにさいなまされている」「患者に巻かれた包帯は古く、うみがいっぱいたまっている」などと記した。
報告書は、原爆の殺傷能力は他の兵器と比べものにならないと指摘。ICRCが、核兵器の使用禁止に向けた運動を起こすよう提言した。

ビルフィンガー文書の要旨

【ジュネーブ15日共同】フリッツ・ビルフィンガー氏がまとめた文書の要旨は次の通り。
▽マルセル・ジュノー赤十字国際委員会(ICRC)駐日代表あて電報(1945年8月30日付)
市の80%が吹き飛んだように見える。筆舌に尽くしがたい。多くの被爆者はいったん回復した後で、病状が再び急変している。病院にはなお、推定で10万人以上がおり、包帯や医薬品が深刻に不足している。連合国軍司令部に対し(救援物資の)空中投下を訴えてほしい。すぐに行動を起こすことが極めて望ましい。医療調査団も派遣してほしい。
▽ジュノー駐日代表あて書簡(8月31日付)
広島で1日半、過ごした。一生、忘れることはないだろう。私の(30日付の)電報は受け取ったと思う。(内容は)決して誇張ではない。あなた自身、できるだけ早い時期にここに来て、自分の目で確かめるよう強く進言する。多くの被爆者は治療が受けられず、身体の大部分がやけどで覆われ、傷口にはハエがたかっている。
▽ICRC本部あて機密報告書(10月24日付)
8月30日、市内を視察した。爆撃の被害は、爆風と放射線、そして熱による。爆心地から半径2キロ以内は完全に破壊され、同6キロ以内は家屋が大破、10キロ離れた地点でも被害が確認された。
被爆者は皮膚に斑点ができ、頭髪を失い、高熱や下痢に苦しんだ末、数日以内に死亡した。爆心地の近くにいた被爆者は焼き尽くされ、身元を特定できない。被爆者の治療に当たるべき医療スタッフや看護婦は、悲劇的なまでに不足している。
病院での状況は想像を絶する。患者はコンクリートの床に寝かされ、畳の上の人はわずかしかいない。患者に巻かれた包帯は古く、うみがいっぱいたまっている。
原爆の影響は、毒ガスも含めた既知の兵器をはるかに上回る。ICRCは、核エネルギーの管理に関する国際的な議論に参加し、破壊的な力を持つ核(兵器)を非合法化するために影響力を行使するべきだ。(共同通信 2002/06/15)

被爆者救援「陰の功労者」 ビルフィンガー氏
【ジュネーブ15日共同】原爆投下直後の1945年8月末に広島入りし、原爆の惨状を伝えた赤十字国際委員会(ICRC)駐日代表部の故フリッツ・ビルフィンガー氏。日本でもほとんど無名だが、同氏が打った電報がなければ、直後の連合国軍の救援物資は届かなかったとされる。被災者支援で「陰の功労者」ともいえる存在だ。
スイス・チューリヒに在住の妻インゲさん(89)によると、ビルフィンガー氏は44年9月、ICRCから申し入れがあった駐日代表部職の要請を2つ返事で引き受けた。上海での仕事を放り出して混乱の日本に赴任するのはリスクがあったが、インゲさんは「夫は(人道問題については)理想主義者だった」と語る。
原爆の惨状を目の当たりにしたのは、まったくの偶然だった。駐日代表部は終戦後、連合国軍捕虜の解放を手掛けるため日本各地7カ所に職員を派遣した。たまたま広島を担当したのがビルフィンガー氏だった。
だが原爆の傷跡を目撃し、広島の訪問は当初の目的から大きく変質した。市内を視察した8月30日のうちに救援物資を求める緊急電報を故マルセル・ジュノーICRC駐日代表に送り、翌31日には「(視察の経験は)一生忘れることがないだろう」との書簡を代表に送っている。
広島の原爆についての著作もあるジュノー代表と比べ、ビルフィンガー氏は「広島」を公表しようとしなかった。同年10月にまとめた報告書でも、自ら「機密かつ非公式報告」として取り扱うよう求めた。
インゲさんにも多くを語らなかった。しかし長い夫婦生活の中で何度か「原爆は2度と落としてはならない」と話したという。

大川四郎・愛知大学法学部助教授(法制史)の話 赤十字国際委員会(ICRC)と広島の関係では、マルセル・ジュノー駐日代表の救援活動が知られているが、ビルフィンガー氏の存在はジュノー氏の著書でもわずかしか登場しない。2人の間で個人的なあつれきがあったからだと思われるが、ビルフィンガー氏の働き掛けがなければ、救援物資は届くことはなかった。その意味で日本、特に広島にとっては無視できない存在であり、さらに知るべき価値がある。

ビルフィンガー氏略歴

フリッツ・ビルフィンガー氏 1901年スイス・チューリヒ生まれ。チューリヒ工科大卒業後、アルミニウム大手のアルキャンに就職。同社上海事業所の責任者だった44年9月、赤十字国際委員会(ICRC)の依頼でICRC駐日代表部職員に。45年8月、広島に派遣され、原爆の惨状を視察。同年10月にICRCを辞任後はアルキャンの極東地域担当副社長などを務めた。93年死去。(ジュネーブ共同)(共同通信 2002/06/15)

被爆直後の報告を初公開 広島の原爆資料館で
赤十字国際委員会(ICRC)駐日代表職員として、被爆直後の広島を訪れた故フリッツ・ビルフィンガー氏が、当時の惨状を克明に記し、ICRCの駐日代表だった故マルセル・ジュノー氏に送った電報や報告書の写しなどが16日、広島市中区の平和記念公園内にある原爆資料館で初めて一般に公開された。「広島の惨状」と題したジュノー氏の報告書などの写しも公開された。
ビルフィンガー氏が、1945年8月30日付で送った電報は「病院の状況は想像を絶する。病院にはなお、推定で10万人以上がい
る」と伝え、「包帯や医薬品が深刻に不足している」と訴えて、ジュノー氏が広島に医薬品を届けるきっかけとなった。
ビルフィンガー氏の報告書などは、昨年までICRCの機密指定が続くなどしていたが、このほどICRCから同資料館に送られた。
16日はジュノー氏の功績をしのび、平和記念公園内のジュノー碑前でジュノー記念祭が開かれ、被爆者ら約300人が出席。電報などは記念祭に併せて公開された。(共同通信 2002/06/16)

「写真むごすぎる」? 国連で原爆展中止
ニューヨークの国連本部で今秋に開催が計画されていた原爆展について、主催者の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に国連から計画中止の連絡が入っていたことが13日、わかった。国連側は理由を明らかにしていないが、被団協によると、打ち合わせの段階で国連側から「写真がむごすぎる」という意見が出ていたという。
原爆展は9月18日から10月27日まで、国連本部の会議場ロビーで開かれる予定だった。展示内容は、原爆投下直後の広島、長崎の様子ややけどを負った被爆者のパネル写真約80点と、広島原爆が投下された8時15分を指して止まった時計など十数点。
11日に国連の担当者から「残念ながら展示案は受け入れられなかった。様々な理由があるが、詳しくは後日伝える」「この時期以外の開催を否定するものではない」と被団協側に電子メールが届いたという。
今年5月、被団協幹部が渡米して打ち合わせた際、パネル写真のコピーを見た国連担当者は「子どもたちの目にも触れる。むごすぎる写真は遠慮してもらいたい」と話していたという。被団協は、むごいと指摘された写真を控えることも検討したが、「悲惨さを伝えなければ原爆展の意味がない」と当初計画通りに提案していた。
被団協の小西悟事務局次長は「何点かの展示はだめだといわれるとは思っていたが、全面中止までは予想しなかった。詳しい理由を聞いてから対応を考えるが、国連以外の別の施設を使ってでも開催したい」と話している。
国連本部には約20年前から広島、長崎両市が被爆資料を貸し出しており、常設展示されている。


海外の原爆展をめぐっては、米・ワシントンの国立スミソニアン航空宇宙博物館が、広島に原爆を落とした爆撃機「エノラ・ゲイ」と併せて計画した展示も、95年1月に中止になっている。戦後50年の企画だったが、退役軍人団体などが「原爆投下は多くの米国人の命を救った」と反発し、上院が変更を求める決議を可決するなどしたため中止に追い込まれた。
98年にインド・ニューデリーで開催された原爆展では、インドが74年に地下核実験をしたことなどを説明したパネルなど計6枚の展示が、政府の命令で中止された。(朝日新聞 2002/07/14)

被爆者に神経系腫瘍多発 放影研調査
広島、長崎の被爆者は神経系腫瘍(しゅよう)の発生率が高いことが、放射線影響研究所(広島市南区、放影研)のデール・プレストン統計部長らの調査で分かった。16日、米国立がん研究所の学術誌(ジャーナル)に論文を発表する。
被爆者8万160人の診断記録や死亡診断書を基に、1958〜 95年の間に診断された、脳など神経系や下垂体の腫瘍例を調べた。その結果、特に良性腫瘍であるシュワン細胞腫を中心に、非被爆者より発生率が高いことがわかった。
シュワン細胞腫以外の神経系腫瘍全体では、男性の方が女性より発生率が高く、低年齢被爆は成人後より30%増加する傾向がみられ るという。
調査対象の被爆者の大半が1シーベルト以下の低線量または中線量の放射線を浴び、発生率は線量に比例して増える傾向があった。プレストン部長は「神経系腫瘍の罹患(りかん)率は中線量でも高いことを示唆している」としている。(中国新聞 2002/10/16)

原爆展:国連本部で来春、開催へ 被団協主催
米・ニューヨークの国連本部で昨秋予定されながら延期されていた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)主催の原爆展が来春、NPT(核拡散防止条約)再検討会議準備委員会の期間中に開かれることが18日、分かった。
国連側は昨年7月、「展示資料の内容を検討する時間がない」として延期を要請。「同時多発テロを受けた米国民に配慮して、悲惨な写真を排除しようとしたのではないか」との憶測を呼んでいた。被団協によると、延期要請の直後に国連軍縮局から「拒否ではないので開催の希望があれば応じる。国連総会かNPT準備委の時期が効果的では」と連絡があった。
被団協は、準備委がある来年4月を希望。今年になって「来年4月20日から1カ月間、展示場として本部ロビーを確保した」との回答があったという。11月までには展示資料を決める予定。
被団協の田中煕巳(てるみ)事務局長は「イラク戦争で世界が混乱した後だからこそ、核被害の実態を、国際秩序を守るべき国連の場で多くの人たちに見てもらいたい」と話している。【隅俊之】(毎日新聞 2003/04/18)

被ばくにヨーグルト有効 広島大原医研などが調査
被ばくした際の放射線による急性障害の予防に、旧ソ連諸国にまたがるカフカス地方のヨーグルトが有効であるとの研究結果を、広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)と広島女子大のグループがまとめた。6月1日、広島市での原子爆弾後障害研究会で発表する。
グループはマウスを使って実験。同地方から取り寄せた菌でつくったヨーグルトの上澄み液を蒸留水で2倍と10倍に薄め、それぞれ10匹に1週間与えた上でエックス線を照射した。
その結果、上澄み液を与えなかったマウスが4日目から死に始めたのに対し、10倍に薄めた液を与えたマウスは10日目、2倍に薄めた液を与えたマウスは9日目まで生きていた。
カフカス地方は長寿で知られ、ヨーグルトがその理由の1つとされている。今後、ヨーグルトのどの成分が作用しているかについても調べる。(共同通信 2003/05/28)

映画「ヒバクシャ」完成 がんに苦しむイラクの子供
劣化ウラン弾の影響とみられる白血病やがんに苦しむイラクの子供や、広島、長崎の被爆者ら世界の放射能汚染を追った映画「ヒバクシャ−世界の終わりに」がこのほど完成した。
イラク戦争やイラク復興支援特別措置法案をめぐる議論が起きる中、試写会が満席になるなど関心が高まっている。
映画は、湾岸戦争が子供たちに残した「後遺症」に触れ「私を忘れないで」とメモを残して白血病で亡くなった少女(14)や、白血病治療のため100キロ先の病院へ通う9歳の少年らの暮らしを紹介。
監督した東京都在住の映像作家、鎌仲ひとみさん(45)は「普通の日常を送る人々が巻き込まれる核被害は、イラクだけでなく明日の私たちの問題だと分かってほしい」と話す。
青森、山梨、神奈川、徳島などで上映予定。問い合わせはグループ現代、電話03(3341)2863。(共同通信 2003/07/10)

新非核3原則を世界に 広島市が政府に要望へ
被爆都市として核廃絶を訴えている広島市は24日までに、日本だけに限定していた従来の非核3原則を改め、世界共通ルールとする「新・非核3原則」を提唱する要望書を政府に提出する方針を固めた。28日に秋葉忠利市長が上京した際に伝える。
新たな3原則は「作らせず、持たせず、使わせない」とする内容。これまでの「持たず、作らず、持ち込ませず」は日本だけの原則だったが、各国に対しても自制を求めている。
広島市は北朝鮮の核保有問題や米国が小型核兵器開発を進める方針を打ち出していることから、新たな非核外交の展開が必要と判断。政府に働き掛けることにした。
8月6日の平和記念式典でも、世界に向けて呼び掛ける予定で、被爆地ヒロシマから、新たな非核外交の流れを作り出したい考えだ。(共同通信 2003/07/25)

推定被ばく線量はほぼ正確 ニッケル使う新手法で解析
【ワシントン30日共同】広島で原爆に被爆した人が浴びた放射線量を推定するために作られた計算方式「DS86」は正確だったとの研究結果を、米ユタ大とドイツの共同研究チームが、ニッケルの同位体を使う新たな手法を使ってまとめ、31日付の英科学誌ネイチャーに発表した。
被爆者が浴びた線量の特定は、発がんなど、放射線による健康影響の研究や放射線の基準づくりにとって重要。実際に原爆から放出された中性子線量はDS86による推定値より、2から10倍も多かった可能性が指摘され10年以上にわたって、推定線量の正しさをめぐる議論が続いてきた。
グループは「新たな解析結果は(DS86に基づく)これまでの値とよく一致し、被ばく線量の大幅な見直しの必要はない」とした。(共同通信 2003/07/31)

共同研究を無断発表と抗議 広島の研究者が米教授に
被爆者が浴びた放射線量についての共同研究の内容を、断りなく単独の論文として発表したとして、広島大原爆放射線医科学研究所の星正治教授や放射線影響研究所(広島市)の研究者らが31日、米国の教授に抗議した。
発表したのは米ユタ大のトア・ストローメ教授で、同日付英科学誌ネイチャーに、ドイツの大学や米国立ローレンス・リバモア研究所などとの共同研究として発表し、日本の研究機関は巻末の参考文献一覧で紹介されただけだった。
ストローメ教授は論文で、原爆が落とされた当時の神社の屋根や避雷針に含まれる、銅に放射線(中性子線)が当たってできたニッケルの同位体を調べた結果、現在使われている被ばく線量推定のための計算方式がほぼ正確だと結論付けた。(共同通信 2003/07/31)

米の核政策を強く批判 広島平和宣言骨子
「法の支配」と「和解」訴え
広島市の秋葉忠利市長は1日、6日の平和記念式典で読み上げる「平和宣言」の骨子を発表した。核拡散の危機が叫ばれ、イラク戦争をはじめ戦禍の絶えない世界情勢に、「力の支配」ではなく、国際社会のルールに則した「法の支配」と「和解」の重要性を訴える。被爆60周年の2005年に開かれる核拡散防止条約(NPT)再検討会議を1つの節目ととらえ、核兵器廃絶のための緊急行動を世界に要請する。
宣言は、核兵器先制使用の可能性を明言し、小型核兵器の開発も目指す米の政策が、NPT体制を崩壊の危機にさらしているとの認識を表明。「核兵器は神」とする政策を強く批判し、ブッシュ大統領や核兵器保有を表明する北朝鮮の金正日総書記らに、核戦争の現実を直視するよう広島訪問を促す。
米国民への説得を意識し、「すべての人を永遠にだますことはできない」とのリンカーン元大統領の言葉を引用。劣化ウラン弾による放射能汚染をもたらしたイラク戦争を「平和をもたらす戦争」と正当化する主張を退ける。
さらに、米黒人運動の指導者、故マーチン・ルーサー・キング牧師が述べた「暗闇を消せるのは、暗闇ではなく光だ」との言葉を引用し、イラク戦争に象徴される「力の支配」は闇であり、「法の支配」と被爆者から生まれた「和解」の精神こそが光であるとのメッセージを盛りこむ。
「核兵器禁止条約」締結交渉を始めるよう各国政府へ働きかけるため、平和市長会議の加盟都市に05年のNPT再検討会議への出席など緊急行動を呼び掛ける。世界の各界のリーダーたちに戦争や核兵器を容認する発言を控えるよう求める。
日本政府には「作らせず、持たせず、使わせない」との新・非核3原則を国是とするよう求め、被爆直後の「黒い雨」を浴びた人たちへの援護充実にも初めて触れる。(中国新聞 2003/08/02)

被爆者に特有の遺伝子異常 原爆症認定へ応用も
血液のがんの一種「骨髄異形成症候群」の患者のうち、原爆被爆者など強い放射線を浴びた患者は、特定の遺伝子に異常が集中していることが4日、広島大原爆放射線医科学研究所の木村昭郎教授(血液内科学)らの研究で分かった。
放射線被ばくでがんになりやすいことは分かっているが、非被ばく者との差が明らかになっておらず、いずれのがんでも個々の患者で被ばくが原因と特定はできなかった。原爆被爆者で骨髄異形成症候群の新たな患者は年間数十人程度とみられるが、1種類でも、がんで放射線被ばく特有の遺伝子異常が確認されたことは、今後のより科学的な原爆症の認定に役立つ可能性がある。
研究成果は、28日に大阪市で始まる日本血液・日本臨床血液学会で発表する。
木村教授らは2001年から、骨髄異形成症候群の患者129人で赤血球や白血球などをつくる際に調節役として働く遺伝子を分析した結果、被爆者とがんの放射線治療を受けた23人のうち約4割の9人で異常があった。
一方、遺伝子に影響がある放射線被ばくや抗がん剤投与を受けていない105人の患者で、この遺伝子に異常があったのは11人だけだった。
また木村教授らは、この遺伝子の中でも被ばく者は特にDNAと結合する部位に異常が多いことも突き止めた。
木村教授は「放射線量との相関関係も含めて、原因を明らかにしたい」と話している。(共同通信 2003/08/04)

英軍が毒ガス空爆計画 広島平和研教授が資料発見
「日本領土に報復的使用」
第2次世界大戦中、英軍が日本や台湾に対し、毒ガス爆弾による空爆を計画していたことを示す資料が、広島市立大広島平和研究所の田中利幸教授(戦争史・戦争犯罪)の調査で、英国王立公文書館の英空軍文書から見つかった。

第2次大戦中米との連携探る
第1次世界大戦から実戦使用され、「貧者の核兵器」とも呼ばれる毒ガスが、第2次世界大戦でも空爆という大量殺りくの手段として想定されていたことを裏付ける貴重な資料といえそうだ。
複数ある資料のうち1点は、英軍による日本本土の空襲作戦計画の1つで、1945年7月12日付の「タイガーフォース作戦」の文書の一部。
「限定的な攻撃目標に対し、報復的に使う」との前提があり、何に対する報復かは具体的記述はないが、資料には「日本の領土を毒ガスで攻撃する」「(窒息剤の)ホスゲン500ポンド(約227キロ)が準備できる」などと書かれている。「英軍には極東戦線向けに十分な貯蔵がない」「可能であれば、米軍から毒ガス弾の供給を受ける」ともあり、米国との共同作戦を狙っていたとみられる。
44年7月の別の作戦資料は、日本の植民地だった台湾への毒ガス攻撃をシミュレーションしている。攻撃は「早ければ45年2月、遅ければ11月」に行い、「4日間にわたり、最初に1000ポンドのホスゲン爆弾を1マイル(約1.6キロ)四方に600発投下し、その後、(びらん剤の)マスタード爆弾50〜112発で攻撃する」と具体的に記述し、攻撃対象は南部の高雄と北部の基隆それぞれの周辺軍事施設を挙げている。
田中教授は「毒ガスは当時、すでに国際法で使用が禁止されていたにもかかわらず、英軍に使用の意図があったのは明らか」と分析。米軍との共同作戦については「一国だけでは国際法を破りにくいとの意識もあったのではないか」とみている。

日本の動きに対抗

大久野島毒ガス資料館(竹原市)の村上初一元館長の話 第2次世界大戦中、日本軍が化学兵器の使用を準備していると英軍が察知していたことを示す資料はすでに存在が明らかになっている。これに対し、英軍が毒ガスを使う作戦を立案することは十分考えられる。(中国新聞 2003/08/04)

柿の木:長崎で被爆した木に実 茨城
長崎で被爆した柿の木の2世が茨城県ひたちなか市阿字ケ浦の川前浩二さん(70)方で実をつけた。2世の木は反戦の心を込めて約500本が国内外に配られたが、実をつけた木は5本に満たない。川前さんは「生命力に驚いた。平和を愛する心もこの実のように育てたい」と柿の実の成長を見守っている。
川前さんは同市立東石川小校長などを務め、98年に退職した。「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀の終わりを前に、「将来にわたって、子どもたちに平和と安全を愛する心を育てるような素材を贈りたい」と記念樹の植樹を発案。人づてに探すうちに長崎で戦火をくぐりぬけた柿の木とめぐり合った。
「母」に当たる柿の木は45年8月9日、長崎の爆心地から約900メートル離れた民家の庭で被爆した。樹齢150年とみられたが、5本のうち2本は熱線で黒焦げになり、3本は上半分を吹き飛ばされて、幹だけが残った。この3本の幹に芽生えた新芽を所有者が接ぎ木、「母」の木を再生した。
川前さんは長崎に嫁いだ娘を介して、柿の木に治療を施した樹木医が苗木を国内外に広める活動をしていることを知り、配布を要望。00年から01年にかけて苗木7本を譲り受け、6本をひたちなか市や那珂町、東海村に寄贈した。自宅に植えたのは最も貧弱な 1本をだった。
柿の実がなったのは5月中旬。19個の小さな実だった。風雨にさらされ、18個が落ちてしまったが、今でもゴルフボールほどに育った1個が高さ2メートルほどの木に残っている。樹木医に報告すると、実がなった例は西日本で3例あるだけで、東日本では初めてと聞かされた。「実はならないと思っていただけに、柿の木の生命力の偉大さに驚かされた。どんな味がするか興味もあるが、大事に育てたい」と小さな実を両手で包み込んだ。【高野聡】(毎日新聞 2003/08/10)

『広島原爆』著者に聞く 『大量殺戮が目的』と状況証拠を積み重ね
広島への原爆投下の目標地点、爆発高度、そして時刻は、誰が、いつ、どのように決めたのか──。現代史の“空白”の1つとも言える、その意思決定までのプロセスを徹底的に追跡した。
「原爆関係の本は国内で2000冊以上出ているが、そのほとんどが被災の嘆き。それはそれでいいが、50年以上たったのに、それだけではだめだと思った」
諏訪澄さん(72)は、本書をまとめたきっかけを話す。
中でもこだわったのは「投下時間は、なぜ午前8時15分だったのか」という一点。原爆について書かれた優れたノンフィクションを読んでも、どこにもその理由が記されていない。
「なぜ、午前8時15分に決まったのか」。4年ほど前から、その「答え」を見つけるため、関連書物を読みあさり、アメリカ国立公文書館に足を運び、著名な研究者や、原爆投下に使われた爆撃機「エノラ・ゲイ」のティベッツ機長らに直接インタビューした。<いわば『空白』部分への固執──それが、この小論の方法論になった>と記している。
結局、この問いに直接答える資料や証言は得られなかったが、米大統領の特命諮問機関の議事録に残っていた<可能な限り多数の住民に、深刻な心理的効果を与える>という原爆の目的にかかわる文言に注目。広島市が編纂した『広島原爆戦災誌』の、8時15分には多くの学校や官公庁の朝礼が屋外で行われていたという記録などと照らし合わせ、「状況証拠を積み重ねた仮説だが、一般市民の大量殺戮を目的として8時15分という時間を選んだとしか思えない」と結論づけた。
その上で、「私の検証作業は、まだ荒削りのものだが、それでも原爆使用決定・作戦立案の過程を追跡すると、『戦争の早期終結のため使った』というアメリカ側の説明が虚構であると分かる」と言う。
そして「攻撃側と被災側の双方を明らかにしないと全体像は見えないのに、この半世紀、アメリカ側についての検証は不十分だった」と指摘。「なぜ8時15分だったのかという、ごく単純な問い掛けをしてこなかった日本人は、私を含めて原爆投下を道義的に許せないものとは本当に思っていないのではないか」と問題提起をしている。原書房、2200円。(森村陽子)(中日新聞 2003/08/17)

エノラ・ゲイ展示を批判 原爆被害触れずと米学者ら
【ワシントン4日共同】広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイが来月、米ワシントン近郊のスミソニアン航空宇宙博物館で一般公開されるのを前に、米学者らのグループ約150人が4日までに、展示は原爆被害などに言及しておらず不適切と批判する声明文に署名した。5日、博物館に送付する。
声明をまとめたアメリカン大のピーター・クズニック教授(米近代史)が明らかにした。同教授によると、声明は展示が「死傷者数や歴史的経緯に触れていない」と批判、博物館に展示方法の変更などを求めている。
声明には1995年のノーベル平和賞受賞者ジョゼフ・ロートブラット氏や小説家カート・ボネガット氏らも署名した。

▽エノラ・ゲイ展示説明要旨

【ワシントン4日共同】米スミソニアン航空宇宙博物館によると、B29爆撃機エノラ・ゲイの展示で予定される説明文の要旨は次の通り。
ボーイング社の「空の要さいB29」は第2次大戦当時、最も高度なプロペラ式爆撃機であり、初めて与圧された乗組員室を持っていた。当初は欧州戦線に投入予定だったが、太平洋戦線で活躍することになり、通常爆弾、焼夷(しょうい)弾、地雷に加えて、2つの原子爆弾を投下した。
1945年8月6日、このB29爆撃機(エノラ・ゲイ)は日本の広島に、戦闘としては初の原爆を投下。3日後、(別のB29爆撃機の)ボックスカーが2発目の原爆を長崎に投下した。(共同通信 2003/11/04)

エノラ・ゲイで変更拒否 米博物館が声明
【ワシントン7日共同】米スミソニアン航空宇宙博物館は7日、広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの展示方法について、原爆被害の実情に触れていないなどとして米学者らが求めていた変更を事実上拒否する声明を発表した。
声明は、航空技術の発展を記念するのが同博物館の使命と指摘。原爆投下による死傷者数などを示さない展示説明文は適切との姿勢を強調した。
米アメリカン大のピーター・クズニック教授らが5日、博物館に展示方法の変更を求める声明を送っていた。エノラ・ゲイは、ワシントン郊外に建設中の同博物館新館で12月15日から一般公開される。(共同通信 2003/11/08)

エノラ・ゲイ:訪米市民団体に、原爆投下正当化のメール
広島に原爆を落としたB29爆撃機「エノラ・ゲイ号」を米・スミソニアン航空宇宙博物館が15日から一般公開することに抗議し、広島から訪米する被爆者の所属する市民団体に2日以後、「原爆投下は素晴らしいことだった」などと原爆投下を正当化する内容の英文メール4通が届いたことが分かった。エノラ・ゲイの展示を巡っては、95年にも米で原爆投下の正当性を巡る論争が起きた。
広島からは被爆者ら3人が、11〜18日に訪米する。メールは訪米団の通訳も務める小倉桂子さん(66)が代表を務める市民団体に送られてきた。小倉さんによると、差出人はそれぞれ違う外国人名で、団体名などの記載はなかった。メールには「われわれはそこに爆弾を落としたことを素晴らしいと思っている。エノラ・ゲイも誇りに思っている」などと書かれていた。中には、「地獄へ落ちろ」と書いたものもあったという。広島からの抗議の訪米を報じた記事を添付したものもあった。
エノラ・ゲイは原爆投下から50年となる95年、機体の一部が同博物館で特別展示された。当初は広島や長崎の被害実態を同時に伝える「原爆展」として企画されたが、退役軍人団体や米議会から強い反発があり、エノラ・ゲイの歴史と復元作業だけに焦点を当てた展示に切り替えられた。
95年当時に原爆資料館長だった被爆者の原田浩さん(64)は「被爆50年の夏、米新聞に核兵器廃絶を訴える全面広告を出した時も、同様のメールが届いた。原爆を正当化する声を乗り越えて核兵器の恐ろしさを伝えることが、ヒロシマに求められている」と話している。【牧野宏美】

<エノラ・ゲイ号> 1945年8月6日に、広島へ原子爆弾を落とした米陸軍航空隊所属の爆撃機の名称。同機のポール・ティベッツ機長(当時)の母親のファースト・ネームからとった。
機体は、第2次大戦中に製造されたB29型重爆撃機で、全長30・2メートル、翼幅43メートル。原爆投下用に改造されていた。
同号は同日午前2時45分(日本時間同1時45分)、原子爆弾リトル・ボーイを搭載し、12人の搭乗員とともに、太平洋西部のマリアナ諸島テニアン島の基地から飛び立った。原爆投下時の科学観測と写真撮影を行う2機を従えていた。日本時間午前8時15分、高度約9600メートルで原爆を投下、上空約600メートルで爆発した。
同号は一線を退いた後、解体し保管された。95年には米スミソニアン博物館が同機の胴体部分などを展示し、併せて「原爆展」も企画したが、米議会や退役軍人団体などが強く反発、原爆投下の正当性をめぐる論争に発展した。結局、原爆展は中止され、短い説明文とともに機体だけが展示された。
長崎に原爆を落としたB29爆撃機は、オハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地に展示されている。(毎日新聞 2003/12/04)

「米兵被爆死」終戦直後に遺族へ通知…米資料で判明
B29爆撃機「エノラ・ゲイ」による広島への原爆投下で米兵捕虜も死亡したことについて米政府は1983年まで公式に認めていなかったが、実際は終戦直後の46―49年に、少なくとも3人の遺族に「被爆死」を通知していたことが12日、広島市の歴史研究家森重昭さん(66)の調査と米国立公文書館の未公開資料などからわかった。
被爆死した米兵は45年7月末、広島近くで撃墜されたB24爆撃機「ロンサムレディ」と同「タロア」の乗員ら。爆心地から約400メートルの憲兵隊司令部など2か所で被爆した。
被爆者である森さんは、元捕虜らの情報から96年ごろ、ジェームズ・ライアン少尉(当時20歳)の「死亡通知書」を入手した。47年8月28日付で、「広島市は原爆で破壊され、少尉は亡くなった」と当時の陸軍省陸軍軍務局長名で記されていた。
読売新聞の米国立公文書館への照会で、同館には他に2人の死亡通知が存在し、連合国軍総司令部(GHQ)が原爆投下の2か月後には被爆した米兵捕虜の名前などをほぼ把握していたこともわかった。しかし、当時の米側は日本国内に「プレスコード(報道管制)」を敷いたため、原爆報道は規制され、83年、歴史学者バートン・バーンスタイン・米スタンフォード大教授が外務省の米兵捕虜の死亡者名簿をもとに照会するまで米政府は「被爆死した米兵」の存在を認めなかった。
バーンスタイン教授は「米政府が半世紀にわたって意図的に関係資料を隠してきたと考えられ、素晴らしい発見」と評価している。(読売新聞 2003/12/12)

原爆投下機:被爆者ら、米博物館に抗議署名手渡す
【ワシントン和田浩明】訪米中の日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のメンバーらは12日、スミソニアン航空宇宙博物館を訪れ、同館が予定しているB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の展示方法に対する抗議の署名約2万5000通や秋葉忠利・広島市長らからのメッセージを手渡した。
訪米団が面会を望んだジョン・デイリー館長(69)は「不在」(同館広報担当者)とされ、会うことができなかった。被爆者らは13日にワシントン市内で開催される集会で被爆体験や今回の展示への反対理由を報告。15日の展示開始日には会場を訪問し、原爆被害の写真を掲げるなどして、静かな抗議活動を展開する計画だ。
訪米団の1人の田中煕巳・日本被団協事務局長(71)は「B29はたくさんある。なぜエノラ・ゲイなのか、原爆の被害を考えるのか、博物館側の考えを聞きたかった」と話した。
デイリー館長は11日に毎日新聞と会見し「原爆の被害については承知しているが、原爆投下の意味をめぐる議論は長年続いている。今回の展示でそれを過不足なく示すのは不可能」と語り、展示内容を変更する考えはないことを示した。
13日の集会を企画したアメリカン大のピーター・カズニック教授(歴史学)は「原爆使用が本当に必要だったかは大いに疑問。いずれにせよ、双方の考えを取り入れた展示は可能なはずだ」と話している。(毎日新聞 2003/12/13)

原爆被害の資料展示訴え エノラ・ゲイで被爆者ら
【ワシントン15日共同】広島に原爆を投下し、このほど復元されたB29爆撃機エノラ・ゲイがワシントン郊外の米スミソニアン航空宇宙博物館新館で一般公開された15日、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)ら日本の被爆者団体と米市民団体が、原爆の悲惨さを伝える資料が展示されていないとして同館前で抗議集会を開いた。
原水爆禁止広島県協議会の坪井直常任理事は「十数万人の子どもや女、男が一瞬にして死んだ。われわれは核廃絶に向け、気持ちを1つにしなければならない」と連帯を強調。
原爆投下直後の広島に調査のため入った父親を持つレスリー・スーザンさんは「父も被爆し私も被爆2世。核のない世の中をつくらなければ」とアピールした。
展示場では米国人がエノラ・ゲイにペンキを投げ付け、一時警備員が周囲を封鎖する騒ぎとなった。(共同通信 2003/12/16)

被爆者の苦痛報道=「エノラ・ゲイ」展示問題−Wポスト紙
【ワシントン17日時事】17日付の米紙ワシントン・ポストは、広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の完全復元機が米スミソニアン航空宇宙博物館新館で一般公開され、これに抗議するため訪米した広島、長崎の被爆者について報じた。「エノラ・ゲイ、本当に恐ろしいせん光の中で」という見出しで、「ヒバクシャ」という日本語も紹介。原爆の悲惨さを伝える内容となっている。
「わたしは(被爆)当時、13歳だった。吹き飛ばされる直前、この飛行機が空を横切ったのを見た。怒りと苦痛を感じていた。級友は火に包まれていた。泣きたかったが、泣けなかった」(西野稔さん)、「(エノラ・ゲイを見て)悲しかった。涙が出そうだ。展示されているすべての戦闘機を見ると、ここ(スミソニアン博物館)は戦争博物館ではないのかと思えてくる」(田中煕巳さん)−。同紙は被爆者のこのような思いを伝えた。(時事通信 2003/12/18)

被爆死米兵の遺影を登録 追悼祈念館に親族持参
広島で被爆死した元米兵ジョン・ロング・ジュニアさん=当時(27)=の遺影が4日、広島市中区の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録された。一昨年開館し、約8800枚の遺影をデータベース化して公開する祈念館に、米兵の写真が加わるのは初めて。館内のパソコンで対面できる。
持参したのは、ジョンさんのおいの長男に当たる執筆業ネイソン・ロングさん(34)=東京都東久留米市。写真は軍服姿のモノクロで、ネイソンさんは「安らかに眠ってください」とのメッセージを書類に添えて、在りし日の大叔父の姿を職員に手渡した。
ネイソンさんらによると、ジョンさんは米軍爆撃機の乗員だった1945年7月28日、呉市の日本軍戦艦を攻撃中に撃墜され、広島市中心部へ連行された。捕虜としての拘束先(現中区)で被爆死したとされる。
ネイソンさんは昨年8月、佐伯区にある妻朋子さん(36)の実家を訪問。朋子さんの母から、祈念館の遺影公開を聞いて、米国に住む父が持つ唯一の写真を複写した。
神戸市生まれで日米各地を移り住んだネイソンさんは「原爆被害について、ほとんどの米国人は無関心。米兵の犠牲を知らせ、1人でも多くの人に原爆の悲惨さを伝えたい」と話していた。
ジョンさんとともに、朋子さんの祖母の親族2人の写真も登録され、祈念館の遺影は8847枚となった。荒谷茂主幹は「味方をも無差別に殺す原爆の残虐性を示す遺影になる」と強調していた。(中国新聞 2004/01/05)

「黒い雨」今も心身に影響 広島の研究会が被爆者調査
被爆体験の影響を調査していた広島市原子爆弾被爆実態調査研究会(座長・神谷研二広島大原爆放射線医科学研究所長)は21日、「(原爆投下直後に降った)黒い雨の体験者には、今も健康・精神面に影響がみられる」などとする結果を発表した。
2002年8月から9月に60歳以上の約1万人にアンケート、原爆投下の8月6日に市内にいた約3800人の回答を分析した。
被爆者ではないが、爆風やせん光などを感じた「原爆体験者」のうち黒い雨を体験した人々は、今もさまざまな病気を患ったり「光や大きな音が怖くなった」などと回答した割合が大きかった。
一方、黒い雨を体験しなかった原爆体験者と、原爆非体験者との間に心身への影響の差はみられなかったという。(共同通信 2004/01/21)

被爆者の新たな特徴判明 遺伝子異常の場所と種類で
血液がんの一種「骨髄異形成症候群」の患者のうち、原爆などで放射線を浴びた患者特有の遺伝子異常を発見した広島大原爆放射線医科学研究所の木村昭郎教授(血液内科学)らは15日までに、遺伝子異常の場所と種類で、被爆者と非被爆者の違いが一層鮮明になる新たな特徴を発見した。
放射線による発病かどうか区別する手掛かりとなり、原爆症認定に応用できる可能性がある。16日、米国の血液学専門誌で発表する。
木村教授らは1995年から昨年までに、この病気で治療を受けた患者160人で、赤血球や白血球をつくる際に調節役を果たす遺伝子を分析。
その結果、被爆やがん治療で放射線を浴びるなどした患者29人のうち12人で見つかった異常は、1人を除き遺伝子の一方の末端にあった。
これに対し、非被ばくの患者131人中、異常があったのは15人で場所は一方に偏らず、両端がほぼ同人数。(共同通信 2004/03/15)

被爆者の健康追跡を重点に 外部研究者が放影研に勧告
原爆被爆者の健康調査を日米共同で行う放射線影響研究所(放影研)の研究内容を検討するため、広島市南区の放影研で開かれていた専門評議員会は19日、「被爆者のがん発生は今までに予想の半数に満たない」などとして、放射線による健康影響に重点を置いた研究を引き続き進めるよう放影研に勧告した。
勧告は(1)被爆者のがんの多くは今後20年間に発生する(2)胎内被爆者の健康も今後20年以上の追跡が必要(3)被爆2世を対象にした調査は始まったばかりだ−などの理由を挙げ、研究継続の重要性を強調している。
また、米国からの拠出金が円高傾向のため実質的に減っていることなどから、研究の優先順位は「非常に慎重に決めるべきだ」とくぎを刺した。
専門評議員会は日米10人の外部研究者で構成。17日から3日間、放影研側から報告を受け、検討を進めた。(共同通信 2004/03/19)

放影研予算を削減方針 米エネルギー省が伝える
日米共同で広島、長崎の原爆被爆者の健康を長期追跡調査している放射線影響研究所(放影研、広島市南区)に対し、運営資金を拠出する米国エネルギー省(DOE)が2005会計年度(今年10月−05年9月)で予算を削減する方針を伝えていたことが1日、関係者の話で分かった。
放影研の予算は年間約37億円。このうち約28億円を厚生労働省とDOEが折半し、残る約9億円を厚労省が単独で負担している。削減率は不明だが、原爆傷害調査委員会(ABCC)時代を含め半世紀以上続く研究は大幅な変更を迫られる可能性も出てきた。
削減の理由としてDOE側は「国家の安全保障政策への重点配分」などを挙げたといい、イラク戦争やテロ対策、財政赤字が背景にあるとみられる。(共同通信 2004/04/01)

捕虜になり広島で被爆死 米兵の遺影が平和祈念館に
大津の中村さん 当時姿を目撃「母国の爆弾 気の毒」
太平洋戦争末期、搭乗機が撃墜され捕虜となり、広島で被爆死した米海軍兵レイモンド・ポーターさん=当時(24)=の遺影が12日、米ウィスコンシン州在住の遺族の申請に基づき広島市中区の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録された。米兵捕虜の遺影登録は、3月に続き3人目。
ポーターさんとみられる米兵の姿は、当時中学生だった無職中村明夫さん(72)=大津市=が被爆前日、父親が勤務する中国憲兵隊司令部の独房で目撃した。その様子を自らの体験記につづっていた。
原爆で父親を失った中村さんは、遺影登録の知らせを聞いて「米国は憎かったが、母国の爆弾で死んだ捕虜は気の毒だった。米兵も原爆による無差別虐殺の犠牲者だ」とあらためてポーターさんの冥福を祈っている。
広島市西区の歴史研究家森重昭さん(67)の調査によると、ポーターさんの爆撃機は1945年7月28日、対空砲火を浴び瀬戸内海に墜落。ほかの捕虜とともに爆心地から約400メートルの中国憲兵隊司令部に拘束された。
中村さんの話では、同司令部幹部だった父重雄さん=当時(38)=に「捕虜が見たい」と頼み、同年8月5日、同司令部を訪れると、5つ並んだ独房にそれぞれ米兵が入っていた。
ポーターさんとみられる男性は、中村さんの目の前で憲兵に「ポーター」と名前を呼ばれ「イエス」と立ち上がった。下着のシャツにパンツ姿で、華奢(きゃしゃ)な体格とおびえた表情が印象に残ったという。(中日新聞 2004/04/13)

原爆:遠距離被害者ら924人に急性症状 被団協調査
日本原水爆被害者団体協議会(被団協、東京都港区)が昨年5月から、会員らを対象に実施していた被爆実態調査で、「遠距離被爆者」と原爆投下2週間後までに爆心地から2キロ以内に入った「入市(にゅうし)被爆者」の計924人に、原爆放射線との因果関係が高い「急性症状」やがんなどの疾病があったことが22日分かった。被団協が同日、広島市中区の広島弁護士会館で発表した。東京、大阪、広島など計11地裁で係争中の原爆症認定集団訴訟では、入市・遠距離被爆者が原告計138人のうち7割近くを占めており、被団協は調査結果を意見書として提出する。
調査では、2297人が回答。被団協が把握している限りでは、80年代後半以降の国の基準で「入市・遠距離被爆者」が原爆症と認められたケースは、85年と88年の2例だけという。
同訴訟の全国弁護団連絡会事務局長の宮原哲朗弁護士は「国の厳しい認定基準に対し、被爆による実態を事実として突きつけたい」と話している。【遠藤孝康】(毎日新聞 2004/05/22)

原爆データベース完成 記事や写真をHPで公開──広島大原医研/広島
◇「核兵器廃絶発信を」
広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)が所蔵する原爆・被ばくに関する資料のデータベースが完成し、2日からホームページで公開を始めた。
利用は調査・研究目的に限られ、事前審査もあるが、原医研は「被爆者が高齢化する中、データベースが原爆体験の風化を食い止め、世界に核兵器廃絶を発信する役割を果たしてくれれば」と期待している。
公開されたのは「原爆・被ばく」をキーワードとする67〜79年の新聞記事(中国・毎日・読売)約3万1500点▽米国陸軍病理学研究所(AFIP)が収集した被爆直後の広島の写真や病理学写真約1200点▽原医研付属国際放射線情報センターが所蔵する原爆・被ばくに関連のある図書や雑誌のリスト約6200件──の3種類。同大は03年度に日本学術振興会の補助金で、データベース化に取り組んだ。
川野徳幸・原医研助手は「広く研究者に公開することは、59年前に投下された原爆とは何かをあらゆる分野で解明する手がかりになる」と話している。
利用できるのは(1)教育、研究機関に所属する者(2)原爆・被ばく、平和に関する調査を行う者(3)データベース作成協力新聞社、広島大図書館長または原医研所長が認めた者。
広島大図書館のホームページ(http://www.lib.hiroshima-u.ac.jp/abdb/)にアクセスして申請し、ID、パスワードを受け取る。写真や書籍リストのみの申請も可能。【牧野宏美】(毎日新聞 2004/06/04)

米の出資削減に反対声明 約束違反と放影研理事会
被爆者の健康を日米共同で調査している放射線影響研究所(広島市)のバートン・ベネット理事長は24日、理事会終了後に記者会見し、米国政府が打ち出した出資金削減の方針に対し、日米の科学者ら計9人で構成する理事会が「一方的削減は運営資金折半の日米合意に反する」との反対声明をまとめたことを明らかにした。
同理事長によると、声明は「放影研の研究にはまだ長い時間が必要だ」と研究継続の重要性を訴えている。米エネルギー省、国務省、連邦議会に近く郵送する。
理事会初日の23日、複数の理事から「理事会として態度を表明すべきだ」との意見が出て、急きょ取りまとめた。
放影研の予算は年間約37億円。うち日本独自の研究分として約9億円を厚生労働省が負担。残る約28億円を米エネルギー省と厚労省が折半している。
3月中旬、エネルギー省の予算担当者が来日し、出資金削減の方針をベネット理事長らに伝えた。(共同通信 2004/06/24)

神戸への「模擬爆弾」投下 エノラ・ゲイ参加
広島に原爆を落とした米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が約2週間前の1945年7月24日、他の爆撃機3機とともに神戸に4発の「模擬原爆」を投下していたことが23日までに、市民団体の調査で明らかになった。神戸への模擬原爆投下は米軍記録などから判明していたが、エノラ・ゲイが参加していたことで市民団体のメンバーは「かなり重要な事前訓練だったのでは」と推測している。
「春日井の戦争を記録する会」(愛知県春日井市)が、国会図書館に所蔵されている米軍資料を詳細に調べ、エノラ・ゲイの神戸への模擬原爆投下が分かった。
米軍は当初、新潟▽京都▽広島▽小倉の四都市を原爆投下の候補地として検討していた。このうち、上部の命令で京都が外されて長崎が入った。原爆の巨大な衝撃波に巻き込まれないよう、米軍は模擬原爆を使った投下訓練を米国内と日本で繰り返した。
同会によると、日本国内では45年7月20日から8月14日の間に、17都府県30都市へ計50発が投下され、少なくとも400人が命を落としたという。
模擬原爆は通常の火薬爆弾だが、長崎に落とされた原爆と同じ形状。外観から「パンプキン」と呼ばれ、重さは約4.5トンもあり、B29でも1発しか積めなかった。
神戸への投下は、京都攻撃を想定した訓練と考えられ、4機が三菱重工、川崎車両、国鉄鷹取工機部、神戸製鋼所を目標に1発ずつ投下。計8人が亡くなった。
資料ではエノラ・ゲイは神戸製鋼所を狙ったとされるが、詳しい記録は残っていない。他の3発は社史などから落下地点が確認されており、同会の金子力さんは「落下地点が海などにそれたのではないか」と推測する。
同会は模擬原爆の被害実態を確認するため2年前から、各地の記録や社史などを基に犠牲者の氏名を収集。現在、約280人分を集めており、「ある程度まとまれば何らかの形で公表したい」という。金子さんTEL0568・52・6184

エノラ・ゲイ 1945年8月6日、世界で初めて、原爆を実戦で投下した爆撃機。2003年12月、完全復元された機体が米国のスミソニアン航空宇宙博物館で公開され、広島の被爆者が渡米して抗議するなど波紋を呼んだ。(神戸新聞 2004/07/24)

「急性症状」80%以上 原爆症訴訟原告アンケート
共同通信社は1日、原爆症認定を国に求め全国11地裁で係争中の被爆者146人を対象にしたアンケート結果をまとめた。回答を寄せた92人のうち、脱毛や嘔吐(おうと)など急性放射線障害とみられる症状を被爆当時に発症したケースは、爆心地からの距離に関係なく、80%を超えていることが分かった。
被爆後に捜索や救援などのため、爆心地近くに入った原告は71人(77%)に上る一方、放射性降下物である「黒い雨」を浴びた人も43%を占めた。
急性症状は1グレイ以上の高線量の放射線を浴びた場合に発症するとされる。爆心地近くに出入りしたことで、爆発時の初期放射線に加え、放射性降下物や誘導放射線に多重被ばくしていた可能性がアンケート結果から浮かび上がっている。
回答者のうち64人は広島で、28人は長崎でそれぞれ被爆した。平均年齢は72.4歳。
脱毛や嘔吐などの症状があったのは、2キロ以内で被爆した54人のうち44人。2キロ以上の遠距離被爆者33人のうち28人を占め、その大半が爆心地付近に入っていた。
このほか、救援活動などで原爆投下後の市街地に立ち入り被爆した「入市被爆者」の5人全員が「発症した」と回答した。
2キロ以内で被爆した人の83%が爆風や熱線などで負傷。遠距離被爆者の負傷率は36%だった。
一方、全体の約40%が焼け跡に残っていた水や食べ物を口にし、28%が爆心地付近で救援活動や後片付けに従事した。
被爆後に「健康状態が全く変わった」とする人が64%。被爆直後から体調悪化に苦しめられているとした人が39%おり、40年以上、症状に苦しめられている人が70%を占めた。
原爆症認定申請の理由は「病気が原爆によるものだと国に認めてもらいたい」が84%。「医療費や健康手当のため」の17%を大きく上回った。
国の認定基準については、約90%が「厳しい」と回答。裁判に踏み切った理由をみると、「国への憤りや怒りから」「原爆の恐ろしさを訴え、核廃絶につなげたい」が約60%を占めた。

<原爆症認定> 原爆投下時に広島、長崎両市や周辺地区にいて直接被爆したケースや、2週間以内に爆心地付近に立ち入った場合(入市被爆)などに被爆者健康手帳が交付される。このうち原爆の放射線による病気や治癒力低下のために治療が必要な場合は、厚生労働省が原爆症と認定し、月額13万7840円の医療特別手当が支給される。2003年度末で全国の被爆者手帳所有者約27万人のうち、原爆症認定は0.82%の約2270人。「認定基準が厳しすぎる」と批判がある。(共同通信 2004/08/01)

米兵捕虜の遺影登録7人に 「米国人も原爆の犠牲者」
原爆犠牲者に米国人がいたことを忘れないで−。被爆死した米兵捕虜の遺影を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ登録する米国人遺族が相次ぎ、登録された遺影は3日までに計7人に上った。
登録を呼び掛けているのは、被爆米兵の歴史を長年研究する被爆者の森重昭さん(67)=広島市西区。「原爆で亡くなった米兵全員の遺影を登録し、事実を後世に伝えたい」と活動を続ける森さんの姿に、米側でも共感が広がっている。
森さんが被爆米兵に関心を持ったのは26年前。ある米兵の父親が息子の被爆死を初めて知り、驚愕(きょうがく)したとの新聞記事を読んだのがきっかけだった。
8歳の時、通学途中に被爆した森さんは、遺族に事実が伝えられていないことに心を痛めた。「原爆が無差別に人を殺したことを思うと、あらためて怒りと悲しみが胸にこみ上げた」と振り返る。(共同通信 2004/08/03)

広島・長崎原爆:原料ウラン購入、米がベルギーと戦中密約
【ブリュッセル福原直樹】広島、長崎に1945年、投下された原爆の原材料となったウラン鉱石の供給を確保するため、米国がベルギーとの間で独占購入権を結んだ秘密協定の全容が4日、ベルギーの歴史家の調査で分かった。
米国は第2次世界大戦中、ベルギーが当時の同国領コンゴ(現コンゴ民主共和国)で採掘したウラン鉱石約3万トンを1億ドル近くで購入し、戦後の冷戦下にも協定に基づいてウラン購入を続けていた。広島、長崎の原爆製造にコンゴ産ウランが使用された事実は知られているが、ウラン鉱石の売買をめぐる秘密協定の詳細が判明したのは初めて。
協定文書は、ブリュッセル自由大学のバンデルリンデン教授(ベルギー史)がロンドンの英国公文書館で発見した。
同教授によると、ベルギーの国策会社が大戦前から旧植民地の現コンゴ民主共和国の南部でウラン鉱石を採掘。39年、同社は販路を北米に求め、米やカナダにウラン鉱石を輸送して貯蔵、陶器着色剤や医療用ラジウムの原料として販売を始めた。
これに着目した米国の「マンハッタン計画」担当者が42年9月、ニューヨークの同社事務所を訪問して売買契約を結び、44年までにウラン約3万トンを同社から購入した。しかし、さらにウラン供給を確実にするために同盟国の英国とも協議。44年8月、ベルギー亡命政府(ロンドン)と秘密協定を結んだ。当時、ベルギーはナチスドイツに占領されていた。
協定文書は、ウラン供給協定の目的を「文明擁護のため」と明記。▽米国、英国は軍事用にウランの独占購入権を持つ▽ウラン採掘に米英が資金を提供する▽将来的にベルギーに核の平和利用の技術を提供する──などを規定している。またウランを「Q11」、ラジウムを「K65」などと暗号化し、輸出入文書に使うよう決めた。45年から協定が期限切れとなった60年までのウラン輸入は約1.5万トン、約1億5000万ドルに上った。
一方、ベルギー政府は秘密口座を設置し、同会社から売り上げの一部を税金として徴収するなどして1400万ドル以上を貯蓄。口座の管理は政府幹部2人だけで行った。
同教授によると、広島、長崎原爆の原材料となったウランの少なくとも約75%はコンゴ・ルートで入手したものが使用された。また米国は大戦後の核兵器製造にもコンゴのウランを大量に使用したとされる。

◇原爆誕生の重要資料──田口晃・北海道大学教授(欧州小国史)の話

マンハッタン計画でのウラン供給の詳細が明らかになり、原爆誕生の重要なプロセスの1つが解明されたことになる。ベルギー政府がウラン鉱石販売で得られた税金などを秘密口座に蓄えていたことも知られていないと思う。当時ベルギーはナチスドイツが占領していた一方、ドイツは原爆製造を進めているとも考えられていた。このためドイツなど枢軸国側と戦争状態にあったロンドン亡命政府が米・英に極秘裏に協力したのは当然だった。

◇マンハッタン計画

1942年6月に発足した米の原爆開発計画。米陸軍がニューヨーク市マンハッタンに事務所を開設、ウラン鉱石を集めた。45年1月にオークリッジ(テネシー州)にウラン濃縮工場、ハンフォード(ワシントン州)にウランから製造するプルトニウムの生産施設を設立。45年7月にニューメキシコ州でプルトニウム型原爆の実験が成功。広島用の原爆は濃縮ウラン、長崎用はプルトニウムが使われた。英国は研究者を米国に送り、同計画に協力。一方、ドイツは資源不足などで42年に原爆製造を断念した。

◇当初は原爆用と知らず

【ブリュッセル福原直樹】広島や長崎原爆の製造に結びついた米国・英国とベルギーのウラン売買協定を調べたブリュッセル自由大学のバンデルリンデン教授(ベルギー史)に聞いた。

──米英とベルギーのウラン売買の発端は何だったのか。

ベルギーの国策鉱山会社(旧コンゴ)は当初ノーベル賞受賞者・キュリー夫人ら、フランスの原子物理学者にウランを提供していたが、大戦勃(ぼっ)発で北米に販路を求め、カナダとニューヨークにウランを貯蔵した。米がこれを知り、1942年に1500トンを購入したのが発端だ。

──44年、米とベルギーは極秘のウラン鉱石の売買契約を結びます。

当時、ベルギー国策会社の担当者がウラン価格の値上げを求めたため、米英がベルギー政府に「正当な価格を」と求めたのが契約の発端だ。完全な秘密協定で、戦後も長く存在しないことになっていた。59年まで契約は更新されたが、その後はカナダ産などのウランが安くなり、米英はベルギーのものを必要としなくなった。

──ベルギー側はウランが原爆に使われることを知っていましたか。

国策会社の担当者は、売買先が米軍で軍事目的と気づいていた。だが原爆用と知ったのは、広島の後だ。ベルギー亡命政府も当初、米国の原爆開発計画を知らなかった。

──協定でベルギー側の受けた恩恵は。

ベルギー政府は戦後、60年ごろまでウランの売上税などを秘密口座に蓄えた。秘密協定で米英側はベルギーに核技術の提供を約束し、戦後いち早くベルギーの技術者が米国で核の平和利用の研究を行った。

──ウラン売買の結果、広島の悲劇が起きたことをベルギー側はどう判断したのですか。

ベルギーは同盟国・米への協力を義務と考え、敵国日本を哀れむ気持ちはなかった。欧州が広島の悲劇を論じ始めたのは後のことだ。ベルギーは戦後も米英にウランを供給し続けた。これは当時の指導者が、米国の核の傘が旧ソ連の脅威から「自由」を守ると信じていたからだ。(毎日新聞 2004/08/04)

原爆:原料供給のベルギー国策企業、米軍幹部へ賛辞
【ブリュッセル福原直樹】米国にウラン鉱石を売り続けたベルギーの国策鉱山会社のエドガー・ソンジェ氏は、「マンハッタン計画」の最高責任者・グローブス少将に、広島、長崎への原爆投下直後、書簡を出していた。バンデルリンデン教授が、米国の国立公文書館で発見した。書簡の日付は長崎への投下翌日の1945年8月10日で、仏語で書かれていた。
同氏は書簡の中で、少将から事前に「近くラジオで米政府の重大発表があるから聞くように」と連絡を受け、広島への原爆投下を知ることが出来たことに感謝を表明。「(原爆は)戦争遂行だけでなく、世界と人類の将来に大きな影響を与える発明」と記しており、核兵器に対する当時と現在の認識の大きな違いを示している。
さらに、ウラン入手のため少将が同社事務所(ニューヨーク)を最初に訪れた日のことに触れ、「あなたは謎に包まれた人物だったが、我々の(取引)関係は建設的で誠実なものだった」と書いている。
同氏はまた、前日の9日にワシントンで少将と昼食を共にしたことなどにも触れており、書簡はウランの取引で双方が当時、頻繁に接触したことも示している。(毎日新聞 2004/08/04)

NYでも「原爆の日」
広島「原爆の日」の6日、ニューヨークのタイムズ・スクエアで米反戦団体が抗議行動を行い、約20人が「ヒロシマからイラク戦争まで、何人、無実の人が死ななければいけないのか」と書いた横断幕を掲げて戦争反対を訴えた。
シカゴに本部を置く団体で、毎年この日に反戦を訴える行動をしている。代表のセロン・ムーニーさん(29)は今年訪れたイラクで、壁に焼き付いた人間の形をした影を見つけ、広島の惨状を思ったという。
道行く人々のほとんどは無関心で、ビラを受け取る人はまばらだった。(朝日新聞 2004/08/07)

被爆米兵の遺族に弔意 マッカーサーの手紙発見
GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサー(1880−1964年)が原爆投下9カ月後の1946年5月、捕虜として収容中に広島で被爆死した米兵ジェームズ・ライアン少尉=当時(20)=の母親に手紙を送り、弔意を伝えていたことが15日、広島市の歴史研究家森重昭さん(67)の調査で分かった。
手紙は原爆に一言も触れてはいないが、その3カ月前には母親の元には米陸軍から「広島で戦死した」と被爆死をほのめかす文書も届いていた。
森さんは「米政府が早い段階で自国の兵士が原爆の犠牲になったことを把握し、マッカーサー自身も遺族に後ろめたい気持ちを抱いていたことがうかがえる」と分析。手紙のコピーは近く広島市中区の原爆資料館に寄贈される。(共同通信 2004/10/15)

核廃絶訴える映画を製作 被爆60年で米監督
被爆60年に向け、核廃絶を訴えるドキュメンタリー映画を製作するため、米ニューヨークの映画監督ロバート・リクターさん(75)が広島市を訪れ、7日、放射線影響研究所(同市南区)などで撮影をした。
映画は、プルトニウム型爆弾が使われた長崎の被爆者や平和活動に取り組む若者を中心に取り上げ、核の悲劇を2度と繰り返さないよう訴える内容。6日には秋葉忠利広島市長にもインタビューした。
リクターさんは7日、広島市役所で会見し「2度と被爆者をつくらないために、若者が自分にできることを実行に移すきっかけとなる映画にしたい」と抱負を語った。東京やニューヨークでもロケをし、2005年6月ごろ完成する予定。(共同通信 2004/12/07)

ヒトラーは原爆を持っていた=ドイツ歴史家が主張
【ベルリン6日】これまでの定説とは違って、ナチス・ドイツは第2次大戦終結前に原子炉を建設し原爆を保有していたとの新説をドイツの歴史家が今月半ばに発刊する著書「ヒトラーの爆弾」で発表する。歴史家ライナー・カールシュ氏は同書で、原子炉は1944−45年には稼働し、核兵器の実験が親衛隊(SS)の監督の下にバルト海の島やドイツ中央部のテューリンゲン州で行われていたと述べている。
「ヒトラーの爆弾」を出版するDVA社は6日出した出版案内の中で、ナチス・ドイツがあと少しで、世界初の実用的な核兵器の開発競争で勝てるところまできていたものの、空中から投下できるほどには開発が進んでいなかったと指摘している。カールシュ氏は、ドイツ初の原子炉がベルリン近くで稼働していた事実や、プルトニウム式の爆弾製造に関する41年以来の文書を発見したと主張している。
カールシュ氏によれば、ナチス・ドイツの原爆の破壊力は米国が広島、長崎に投下した原爆の足元にも及ばなかった。しかし、連合国のサボタージュと資金難にもかかわらず「汚い爆弾」の製造には成功し、テューリンゲン州での実験では捕虜数百人が死亡したという。〔AFP=時事〕(時事通信 2005/03/07)

「ナチスが核実験」独歴史家が新説 メディアは根拠不足指摘
【ベルリン=熊倉逸男】ナチス・ドイツが核兵器開発を実用化直前まで進め、核実験も実施していた─との新説を紹介した本「ヒトラーの爆弾」が14日、ドイツで出版され、信ぴょう性をめぐり論議を呼んでいる。
著者のベルリン・フンボルト大学講師の歴史家ライナー・カールシュ氏によると、ナチスは1944年から45年にかけベルリン近郊に原子炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発。45年3月3日、ドイツ東部チューリンゲンで核実験を行った。被害は半径約500メートルにわたり、近くの強制収容所の収容者ら約500人が犠牲になった。開発は、ヒトラーらナチス指導層も承知していたいう。
新たに発見された旧ソ連軍の史料や証言記録、実験場所とされる土壌から放射能が検出されたことなどを「核実験説」の根拠としている。
ドイツでは1930年代から核開発が進められたが、ナチスは兵器化に熱心ではなく、ナチスの核兵器保有を懸念した科学者らの訴えを聞いた米国が先んじて、原爆を開発した─というのがこれまでの定説だった。
独メディアは新史料発見を評価する一方、「核実験説」の説得力不足を指摘している。(東京新聞 2005/03/16)

米加州で原爆展 被爆者写真に涙ぐむ女性も
【ロサンゼルス18日共同】原爆被害の悲惨さを世界に伝えるため広島、長崎の両市が続けている「原爆展」が18日、米カリフォルニア州ロサンゼルス郊外のコンプトン市で始まった。
「コンプトン・カレッジ」図書館の一角に、焼け野原になった被爆直後の両市の写真や、焼け焦げた衣服など約50点が展示された。訪れた女性の1人は、男女の区別もつかないほど顔が焼けただれた被爆者の写真を前に涙をこらえきれない様子だった。
写真を見た学生のモーリス・ドスさん(29)は「米国はこれまでにもひどいことを数多く行ってきたが、中でも原爆投下は許されない。このような非人道的な行為は二度と起きてはならない」と話した。(共同通信 2005/03/19)

米国で「原爆の絵」紹介 MITのダワー教授ら
【ボストン29日共同】米マサチューセッツ工科大(MIT)のジョン・ダワー教授らが、被爆者が描いた「原爆の絵」を使い、被爆の実態を伝えるサイトを作成し4月中旬、月50万件を超えるアクセスがある同大のホームページで公開した。
ダワー教授は「被爆者の絵には原爆の真実に目を向けさせる力がある」と話している。
広島の原爆資料館が保管する「原爆の絵」と、著書「敗北を抱きしめて」で知られるダワー教授の解説を組み合わせ、「1945年のグラウンド・ゼロ(爆心地)」で何が起きたのかを効果的に伝える画期的な試みだ。
ダワー教授は「地獄の火」「幽霊」「希望」などの項目に沿って、原爆投下後の広島を約40枚の絵を通じて紹介。大やけどを負い、列になって歩く被爆者の姿や、家族や友人を救えずに逃げた罪悪感などを詳細に記述している。
サイトを使って、中高生向けに原爆を教える教材も作成中で、9月の新学期から米国の200校が採用する予定。
サイトのアドレスは、http://visualizingcultures.mit.edu

マサチューセッツ工科大のジョン・ダワー教授の話 米国で原爆の悲惨さを伝えるのは非常に難しい。愛国心だけではなく、人間は自分が犯した過ちを直視できないからだ。個人的な体験が迫ってくる被爆者の絵には心理的な覆いを取り去る力がある。米国では9月1日のテロの現場を「グラウンド・ゼロ」と呼んだが、20世紀の大国が一般市民を戦争の標的にしてきたことが忘れられている。1945年のグラウンド・ゼロ(爆心地)に立ち戻り、暴力や戦争の悲惨さを見つめ直さなければならない。(共同通信 2005/04/29)

NYタイムズに反核広告 NPT会議前に広島の団体
【ニューヨーク29日共同】5月2日にニューヨークで開幕する核拡散防止条約(NPT)再検討会議を前に、広島市の市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」は29日付の米紙ニューヨーク・タイムズに、核廃絶に向けた明確な計画の策定を求める意見広告を掲載した。
「ヒロシマとナガサキはブッシュ大統領と米国民に訴えます」と題する意見広告は新聞半ページの大きさで、原爆が投下された翌日の1945年8月7日の広島市内の写真を掲載。「苦しみが終わることのない戦争被害者のことを考えてください」と呼び掛けた。(共同通信 2005/04/29)

エノラ・ゲイ展示に抗議 被爆の説明ないと被爆者ら
【ワシントン29日共同】原水爆禁止日本国民会議(原水禁)のメンバーら約30人が29日、米国ワシントン郊外の米スミソニアン航空宇宙博物館新館を訪れ、広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の展示に抗議した。
展示には被爆状況の説明がなく、メンバーらは「核兵器による悲劇を伝え、戦争のない世界を創造するのに意義がある展示となるよう求める」とテッド・マクスウェル館長補佐に要請した。
マクスウェル館長補佐は「現在の説明が十分だとは思わないが、米国ではエノラ・ゲイについて非常に強い感情を持っている人たちがいる。私たちはバランスの取れた展示をしなければならない」と答えた。(共同通信 2005/04/30)

反核集会:国連に届け、被爆地の声 NPT再検討会議を前にデモ──NY
【ニューヨーク遠藤孝康、小山内恵美子】2日から米ニューヨーク市の国連本部で始まるNPT(核拡散防止条約)再検討会議を前に、同市内で1日(日本時間2日未明)、核兵器廃絶を求める大規模なデモや集会があった。
被爆から60年。被爆地の声を国連に届けようと、同会議に合わせて渡米した広島や長崎の被爆者約40人を含む4万人(主催者発表)が参加し、核兵器や戦争反対を訴えた。
米国のNGO(非政府組織)が主催した。デモは「すべての核兵器の廃絶を」と英語で書かれた横断幕を持った被爆者や被爆地・広島市の秋葉忠利、長崎市の伊藤一長両市長を先頭に国連本部近くを出発。約2時間かけて市中心部約3.2キロを行進した。
セントラルパークでの集会では、世界942都市が加盟し、2020年までの核兵器全廃を求める反核NGO「平和市長会議」の会長、秋葉市長が「世界の多くの市民が核兵器はいらないと考えている。人類の未来のためにも核兵器の廃絶を決定しよう」と呼びかけた。
また、長崎で10歳の時に被爆した下平作江さん(70)=長崎市=もステージに上がり、「母と姉、兄の3人を原爆で亡くした。多くの被爆者が今も病に苦しんでいる。被爆者は、死ぬことによってしか苦しみから逃れられないということを知ってほしい」と訴えた。(毎日新聞 2005/05/02)

核兵器開発で被曝、元職員ら160人が補償要求 南ア
南アフリカの原子力公社(AEC、現在は南ア核エネルギー公社)で80年代、極秘裏に進められた核兵器の開発製造に携わった元職員らが最近、相次いで作業中の被曝(ひばく)による健康被害を訴えていることがわかった。これまでに約160人が支援団体を通じて名乗りを上げ、政府に補償を求めている。公社は朝日新聞の取材に文書で回答し、「専門家らによるチームを早急に立ち上げ、調査に着手する」との方針を明らかにした。
元職員らの健康被害については、南アで反核運動に取り組む非政府組織「アースライフ」が昨年春から関係者の証言をもとに聞き取り調査を始めた。肺がんや白血病などの診断を受けたとする元職員らから問い合わせが相次ぎ、これまでに計160人が何らかの健康被害を訴えて、政府への補償要求を前提に、情報公開法に基づく就業時の健康管理記録などの開示請求を依頼した。
すでに死者5人を含む元職員24人の記録が開示されたが、20人については検診結果など本来あるべき記録がなかった。医師の診断では生存者のうち現時点で少なくとも2人ががん、5人が肺に障害を持っているという。
診断に当たったマレークーム医師(47)は「作業と健康被害の因果関係を明確にするのは時間がかかるが、政府が職員の健康管理をおろそかにしていたことは明白だ」と話している。(朝日新聞 2005/05/05)

原爆展:米シカゴの平和博物館で開幕 被爆地の惨状訴える
【シカゴ小山内恵美子】国が主催する初めての原爆展が6日夕(日本時間7日午前)、米イリノイ州のシカゴ平和博物館で開幕した。シカゴは、世界初の核分裂連鎖反応実験が行われた土地だが、展示物を見た市民から驚きの声も上がった。8月14日まで、被爆地の惨状を訴える。
長崎市の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(丸田徹館長)が主催。黒焦げになった遺体や大やけどを負った少年少女、きのこ雲の写真パネルなど41点、被爆資料23点を展示している。
開幕式で、丸田館長は「米国で被爆60年の年に原爆展を開催できることは、非常に意義深い」とあいさつ。メリッサ・マグワイア館長も「米国では『原爆投下は正しかった』と教えられているが、それは悲惨さを知らないから。広島や長崎で起きたことを伝えなければ」と話した。
会場の一角では、13歳の時に爆心地から850メートルの地点で被爆した吉田勝二さん(73)=長崎市片淵=が被爆体験を語った。顔や手に大やけどを負った被爆直後の写真も今回、海外で初展示した。吉田さんは「悲惨な様子を知ってもらおうと思ったから。平和の原点は、人間の痛みが分かる心を持つこと」と訴えた。
講演終了後、当時の吉田さんの写真を見た環境コンサルタントのティム・ハリントンさん(58)は「まさかこの子が生きているなんて」と驚いた様子。「広島に原爆を投下したエノラ・ゲイ号の搭乗員を知っているが、彼は戦後、感情がなくなった。大きな悲しみを感じていたのだろう。彼も犠牲者だ。戦争はいけない」と訴えていた。
広島、長崎両市は96年から海外で原爆展を行っているが、国の機関が主催するのは初めて。「被爆国として原爆の惨禍を海外に伝えてほしい」という被爆者の要望が強かった。(毎日新聞 2005/05/07)

「ナチスの核兵器 図面あった」 独の歴史家らが発表
【ロンドン=岡安大助】第2次大戦中にナチス・ドイツが開発した核兵器の図面を発見したと、ドイツの歴史家らが1日発表した。粗いステッチのため実際に組み立てられたか不明。実用化の段階に達していたとはいえないが、「これまで考えられていたよりナチスの研究は進んでいた」としている。
発表したのは、ベルリンに拠点を置く歴史家ライナー・カールッシュ氏ら。英科学誌「フィジックス・ワールド」6月号に掲載された論文によると、図面はドイツかオーストリアの科学者が1945年5月のドイツ降伏後、個人的に書いたとみられる文書の中から見つかった。
この文書は核開発に関するリポートだが、タイトルや執筆した日付は記載されていない。カールッシュ氏らは「水爆研究に取り組んでいたことは明らかだ」と指摘している。
同氏は今年3月、旧ソ連軍の史料などを基に著書「ヒトラーの爆弾」を出版。「ナチス・ドイツが核実験をしていた」という新説を主張し、信ぴょう性をめぐって論議を巻き起こした。これまでは、ドイツの核開発は30年代から進められたが、ナチスは兵器化に熱心でなく、米国が先んじて原爆を開発したとされている。(東京新聞 2005/06/03)

アインシュタイン:手紙6通寄贈へ 原爆の苦悩にじませ
アインシュタイン(1879〜1955)博士が平和観や戦争責任についてつづった6通の手紙の寄贈先を、東京都中野区在住、哲学者の故・篠原正瑛(せいえい)さんの家族が探している。博士は第2次大戦中、ルーズベルト米大統領(当時)に原爆開発を促す連名の書簡を送った。「あなたは平和主義者と言うが、なぜ開発を促したのか」と批判する篠原さんの指摘をきっかけに始まった文通の手紙で、家族は「今年は戦後60年の節目。平和を考える材料にしてほしい」と話している。
篠原さんは戦前、ドイツに留学して哲学を学んだ。現地で終戦を迎え、連合国軍に2年間抑留された後に帰国、著述活動を始めた。ドイツ語で書かれた博士への最初の手紙は53年1月。6通は53年2月から54年7月にかけ博士が送った。
53年2月22日付の手紙で博士は「私は絶対的な平和主義者ではない」と書き、ナチス・ドイツに対して暴力を用いることは正当で、必要なことだったと主張した。
「日本は原爆投下のモルモットにされたのではないか」。篠原さんが同6月18日付の手紙でただすと、非礼と知りながら、あえてその裏に返事を書いた同23日付の手紙が博士から届いた。
「日本への原爆使用は常に有罪と考えているが、日本人が朝鮮や中国で行った行為に対して(篠原さんに)責任があると言われるのと同様、(私は)何もできなかった」とし、「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と怒りをあらわにした。
時に感情をぶつけ合うこうしたやり取りから、2人に友情が生まれた。篠原さんは人形や絵画を米国へ届け、博士はサイン入りの写真を贈った。
篠原さんと結婚したばかりの妻信子さん(80)は、写真の博士が古びたカーディガン姿なのを見て、手編みのセーターを贈ると申し出た。博士は「あなたの国にも必要とする人は大勢いらっしゃる」と丁重に辞退した。
博士は戦後、平和運動に取り組み、核兵器廃絶を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」が出た55年に死去した。
篠原さんは90年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、01年に89歳で亡くなった。信子さんは蔵書などを売って療養費に充てたが、手紙は手放さなかった。遺産は、預金約30万円と書籍約3000冊だった。
信子さんは「お金や名誉に執着しなかった夫は、博士の生き方に共感していた。多くの人の目に触れる博物館などに引き取ってほしい」と語る。
アインシュタイン研究家の金子務・大阪府立大名誉教授は「アインシュタインの手紙の現物は、日本にはほとんど残っていない。当時の日本人の多くが聞きたかった問いでもあり、貴重な資料だ」と話している。【元村有希子、藤生竹志】(毎日新聞 2005/06/07)

◇アインシュタイン博士からの手紙(抜粋)

1953年2月22日
……私は絶対的な平和主義者だとは言っていません。私は常に、確信的な平和主義者です。つまり、確信的な平和主義者としてでも、私の考えでは暴力が必要になる条件があるのです。
その条件というのは、私に敵がいて、その敵の目的が私や私の家族を無条件に抹殺しようとしている場合です。……したがって、私の考えではナチス・ドイツに対して暴力を用いることは正当なことであり、そうする必要がありました。

1953年6月23日
……私は日本に対する原爆使用は常に有罪だと考えていますが、この致命的な決定を阻止するためには何もできなかった。日本人が朝鮮や中国で行ったすべての行為に対して「あなた(篠原さん)に責任がある」と言われるのと同様、(私は)ほとんど何もできなかったのです。……他人やその人の行為についてはまず、十分な情報を手に入れてから、自分の意見を述べるように努力すべきでしょう。あなたは、日本で私を批判的に説明しようとしている。……

1953年7月18日
あなたが前回のお手紙で予告されていた、素晴らしい日本の木彫りの人形が届きました。素晴らしい贈り物に心から感謝します。

1954年5月25日
……奥様からの感動的なお申し出をありがとうございます。しかし、私はどのみち要求の多い人間でありますし、あなたの国にも必要とされるふさわしい人たちは大勢いらっしゃるでしょうから、その友情をお受けすることはできません。

1954年7月7日
……原爆開発で唯一の私の慰めとなることは、今回のおぞましい効果が継続して認識され、国家を超えた安全保障の構築が早まっていることです。ただ、国粋主義的なばかげた動きは相変わらずあるようです。

(手紙はすべてドイツ語。藤生竹志訳す)(毎日新聞 2005/06/07)

長崎原爆:米記者のルポ原稿、60年ぶり発見 検閲で没収
【ロサンゼルス國枝すみれ】長崎市に原爆が投下された1945年8月9日の翌月、同市に外国人記者として初めて入り取材した米シカゴ・デーリー・ニューズ紙(廃刊)の故ジョージ・ウェラー記者の未公表の原稿と写真が60年ぶりに見つかった。原稿は、長崎市の惨状と原爆症に苦しむ市民の様子を克明に記している。ウェラー記者は原稿を連合国軍総司令部(GHQ)検閲担当部局へ送ったが、新聞に掲載されることはなかった。当時、米政府は原爆の放射線による健康被害を過小評価する姿勢を見せていた。この原稿が公表されていれば米世論に影響を及ぼし、核開発競争への警鐘となった可能性もある。
原稿は昨年夏、ウェラー記者が晩年を過ごしたローマ近郊のアパートで、息子の作家、アンソニー・ウェラーさん(米マサチューセッツ州在住)が発見した。タイプを打った際にカーボン紙で複写したもので茶色に変色しており、A4判で計約75枚、約2万5000語。長崎市内を撮った写真25枚は、記者(國枝)の取材を受ける準備のため、アンソニーさんが、5月11日にトランクを整理していて偶然発見した。
ウェラー記者は45年9月6日、鹿児島県からモーターボートや鉄道を使って長崎市内に入り、同市を拠点に約2週間にわたり被爆地や九州北部を取材した。
原稿は、長崎入りした9月6日付から始まる。8日付の原稿では、被爆者が受けた放射線による障害などの重大性に気づいた様子はなく「せん光が広がり強力な破壊力を持っていることを除いて、原爆がほかの爆弾と違うという証拠は見つからない」と書いている。
しかし同日、ウェラー記者は2つの病院を訪ね、原爆の特異性に気付く。軽いやけどなのに腕や足に赤い斑点が出て苦しんでいる女性、鼻に血が詰まったり、髪の毛が抜けている子どもたちがいた。オランダ人軍医は、患者の症状を「疾病X(エックス)」と呼んだ。
9日には、福岡から長崎に駆けつけた中島良貞医師を取材し、「疾病X」が放射線被ばくによる原爆症を意味し、投下から時間が経過しても死者が出ている原因と確信する。「患者たちは、エックス線照射によるやけどの患者と違って、あまり苦しまない。そして、彼らは4〜5日後に悪化し、亡くなる。死後に調べると臓器も正常だ。しかし、彼らは死ぬのだ」
息子のアンソニーさんによると、ウェラー記者は一連の原稿をGHQに送ったが、掲載は許されなかった。原稿は返還されず、複写については、ウェラー記者自身、紛失したと思っていたらしい。当時、広島に入った記者による放射能汚染を告発した記事が英紙「デーリー・エクスプレス」(45年9月5日付)に掲載され、米政府はその打ち消しに躍起になっていた。
アンソニーさんは「原稿が公表されていたら、放射能の危険性を警告した画期的な記事になっていたはず」と話している。

【略歴】ジョージ・ウェラー記者 米国ボストン出身、苦学してハーバード大を卒業した。30歳でニューヨーク・タイムズの契約記者としてバルカン半島を取材した後、シカゴ・デーリー・ニューズ特派員として太平洋戦争を取材した。日本軍の攻撃を受けている潜水艦の中で、盲腸の手術を施した米兵士の記事で、1943年、ピュリツァー賞を受賞。その後アジア、アフリカ、中東、ロシアなど世界中で紛争を取材。02年12月、95歳で死亡した。

◆核の恐怖「圧殺」 検閲の罪、今に問う=解説

外国人記者として最初に被爆地・長崎に入ったウェラー記者の原稿は、原爆の放射線による健康被害の実態を明らかにするものだ。内容的には、英紙「デーリー・エクスプレス」に掲載されたウィルフレッド・バーチェット記者の広島リポート(1945年9月5日)を、さらに詳しくしたものといえる。
バーチェット記者はGHQの検閲当局を通さずに原稿を英国に送った。一方、ウェラー記者は同局に原稿を提出したため、それが世界に打電されることはなかった。米政府は「多数の民間人の被ばく死」というのは日本側のプロパガンダだとして、米国内の世論を操作。原爆の惨劇が米国人に広く認識されるには46年8月、ジョン・ハーシー氏の「ヒロシマ」が米誌ニューヨーカーに掲載されるまで待たねばならなかった。
核兵器の研究を進める米政府は、国民が放射能に恐怖心を持つことを避けたかった。放射能による健康被害を認め、広島や長崎にいた米捕虜、被爆地に派遣された米兵などへの補償法ができたのは85年だった。
ウェラー記者の原稿が掲載されていれば、米国内で原爆使用を非難する世論が高まり、政府の核兵器開発に対するブレーキになった可能性もある。その意味で「幻の原稿」は、ジャーナリズムを圧殺した検閲の罪を問うている。湾岸戦争やイラク戦争はどうだったのか。変色した原稿は今を生きる者に問いかけている。【國枝すみれ】(毎日新聞 2005/06/17)

記事の英訳はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/news/20050617p2a00m0dm001001c.html

ウェラー記者の原稿原文はこちら
http://mdn.mainichi.co.jp/specials/0506/0617weller.html


核兵器1000万円で買い取ろう!=日本の僧侶ら、米で2500キロ平和大行進へ
【シリコンバレー18日時事】原爆投下60周年に合わせ、長崎市や広島市の僧侶らは7月16日、米カリフォルニア州サンフランシスコから核兵器根絶を訴える平和大行進を始める。行進で集まった寄付金は、「核兵器を1000万円で買い取ろう」というユニークな民間運動に寄付される。
日本から参加するのは、長崎の禅僧を中心に宗派を超えて集まる数十人の僧侶。炎天下の山や砂漠を越え、ニューメキシコ州の核実験場トリニティーサイトまで約2500キロを25日間かけて行脚する。同実験場は、長崎に投下された原爆の実験に初めて成功した因縁の施設だ。(時事通信 2005/06/19)

英兵捕虜の被爆死確認 長崎で
長崎市で捕虜として収容されていた英国兵ロナルド・ショー伍長が1945年8月9日に被爆死していたことが、広島市西区の歴史研究家、森重昭さん(68)の調査で分かった。長崎市によると、英国兵の被爆死が確認されたのは初めて。
森さんは昨年秋、外務省の外交史料館(東京都港区)の保管資料のなかから、連合国軍総司令部(GHQ)などによる捕虜の調査記録を発見。ショー伍長は長崎市内にあった旧日本軍の収容所第14分所で、8月9日に圧死したと記してあった。分所は爆心地から1.65キロの幸町にあり、全壊したとされる。
森さんの調べでは、ショー伍長は被爆当時25歳。英空軍エンジニアで、インドネシアのジャワ島近郊で搭乗機が撃墜され、長崎に連行されたとみられる。姉(94)が英国内にいる。
長崎市調査課によると、長崎での連合国軍の捕虜関連の原爆犠牲者はオランダ兵9人。英国兵の捕虜の存在は知られていたが、犠牲者はいないとされていた。
伍長の遺族は原爆死没者名簿への記載や、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館への遺影登録を希望している。森さんは24日に長崎市を訪れて手続きをする予定。(中国新聞 2005/06/21)

線量限度の被ばくで発がん 国際調査で結論
【ワシントン30日共同】放射線被ばくは低線量でも発がんリスクがあり、職業上の被ばく線量限度である5年間で100ミリシーベルトの被ばくでも約1%の人が放射線に起因するがんになるとの報告書を、米科学アカデミーが世界の最新データを基に30日までにまとめた。報告書は「被ばくには、これ以下なら安全」と言える量はないと指摘。国際がん研究機関などが日本を含む15カ国の原発作業員を対象にした調査でも、線量限度以内の低線量被ばくで、がん死の危険が高まることが判明した。
低線量被ばくの人体への影響をめぐっては「一定量までなら害はない」との主張や「ごく低線量の被ばくは免疫を強め、健康のためになる」との説もあった。報告書はこれらの説を否定、低線量でも発がんリスクはあると結論づけた。業務や病気の診断や治療で放射線を浴びる場合でも、被ばく量を低減する努力が求められそうだ。
米科学アカデミーは、従来被ばくの発がんリスクの調査に用いられてきた広島、長崎の被爆データに加え、医療目的で放射線照射を受けた患者のデータなどを総合し、低線量被ばくのリスクを見積もった。
それによると、100ミリシーベルトの被ばくで100人に1人の割合でがんを発症する危険が判明。この線量は、胸部エックス線検査なら1000回分に相当するという。また、100ミリシーベルト以下でもリスクはあると指摘。10ミリシーベルトの被ばくになる全身のエックス線CTを受けると、1000人に1人はがんになる、とした。
また、国際がん研究機関などが約40万7000人の原発作業員らを長期追跡した調査では、100ミリシーベルトの被ばくにより、がん死の危険が約10%上昇するとの結果が出た。調査対象の平均累積被ばく線量だった約19ミリシーベルト程度でも、がんの死亡率がわずかに高まる可能性が示された。
日本の商業原発では2002年度の1年間に作業員が浴びた線量の平均値は1.3ミリシーベルト、最も多く被ばくした作業員は19.7ミリシーベルトだった。(共同通信 2005/06/30)

核重視の米政権を非難 史上初の原爆実験参加者
【ワシントン15日共同】1945年7月16日に米ニューメキシコ州アラモゴードで行われた史上初の原爆実験から60年になるのを記念して、実験に関与した科学者11人が14日、ワシントン市内でシンポジウムを開催、核戦力を依然重視するブッシュ政権の不拡散政策に非難の声も上がった。
米国の核管理・維持を所管する核安全保障局のブルックス局長は基調講演で「悪が依然存在することを認識しなくてはならない」と述べ、北朝鮮など「ならず者国家」の抑止には核が必要との認識を表明。また「冷戦の遺産である現在の備蓄核は不適切だ」とも強調し、耐久性が高く安価で製造しやすい新しいタイプの核の開発を模索していく考えを示した。
これに対し、原爆の威力を測定する計器の開発に携わったパノフスキー・スタンフォード大名誉教授は「圧倒的な軍事力を使おうとする米国は、弱小国に核保有の動機を与えかねない」とし、先制核攻撃の選択肢を温存するブッシュ政権を批判。「特定の国を『ならず者国家』とか『悪』と呼ぶことは、公平な不拡散政策につながらない」とも述べ、現政権に苦言を呈した。
また原爆設計に携わり、戦後は広島、長崎の原爆後障害研究にも参加したクリスティ博士は「(核開発競争は)想像もできなかった。核兵器は許されない」と指摘。大胆な核軍縮に取り組むよう米国、ロシアなどに呼び掛けた。(共同通信 2005/07/15)

原爆調査、終戦翌日にソ連将校が広島入り…米より早く
【モスクワ=古本朗】1945年8月の広島、長崎への原爆投下直後に、ソ連(当時)の軍情報部が原爆の威力を現地調査するため、米国に先んじて将校2人を両市へ送り込んでいたことが関係者への取材で分かった。
ソ連の独裁者スターリンが、米国の新兵器をいかに強く意識していたかを示している。
この2人は当時、在京ソ連大使館に「領事」の肩書で勤務していた軍参謀本部情報総局(GRU)のミハイル・イワノフ大尉と、武官補佐のゲルマン・セルゲーエフ氏。セルゲーエフ氏は現地調査の後、放射線障害で死亡したが、イワノフ氏は現在92歳で存命だ。
イワノフ氏本人への取材は体調不良を理由に断られたが、同氏と親しい露東洋学研究所のアレクセイ・キリチェンコ博士が本人の証言をまとめた文書は、広島、長崎での調査の模様を生々しく伝えている。
米軍は45年8月6日に広島へ、同9日に長崎へ相次いで原爆を投下。文書によると、イワノフ氏らはスターリンの命により、同16日に鉄道で被爆から10日後の広島を、翌17日には長崎を訪れた。米国が両市での「予備調査」を始めたのは同年9月8日以降で、イワノフ氏らの調査は20日以上早かったことになる。
広島駅で接触してきた「日本の公安当局者」は、外交官を名乗る2人に対し、「街では『正体不明の恐ろしい病気』がはやっている」と懸命に市内視察をやめるよう説得。だが、2人が中心部へ向け歩き始めると、追っては来なかった。2人は被害のすさまじさに驚愕(きょうがく)しつつ両市内を歩いて写真を撮り、「熱で溶けた石」や焦げた犠牲者の手首を見付け、資料として収集した。
ソ連指導部は当時、広島の爆心地に大穴が生じたはずだと考え、爆発の威力を推定するため「穴の深さ」を見極めるよう命じたが、実際には、爆心地は「地ならししたような平地」になっていた。広島市内で負傷者に水を飲ませていた神社の神官は2人に、「アメリカに対する日本人の戦いぶりが悪かったので神罰が下った」と語ったという。
長崎で2人は、警察官が用意してくれた駅の隣の建物で夜を過ごしたが、放置された遺体の腐臭、助けを呼ぶ戸外の声に悩まされ一睡も出来ないまま翌朝、東京への帰途に就いた。(読売新聞 2005/07/24)

原爆投下乗組員ら「これで戦争終わった」と証言・米誌
【ニューヨーク24日共同】25日発売の米誌タイム最新号は広島、長崎への原爆投下から60年に関する特集記事を組み、原爆投下作戦に参加した爆撃機の乗組員ら4人の「これで戦争が終わったと思った」などとする証言を掲載した。
広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイに搭乗したセオドア・バン・カーク氏(84)は、原爆投下後、立ち上ったきのこ雲を見たときに「(乗組員の)誰かが『戦争は終わった』と言い、私もそう思った」と語った。
同機に搭乗したモリス・ジェプソン氏(83)は投下時は「陰鬱な瞬間だった。下界では大勢の人が殺されていたし、喜びはなかった」と述べた。基地に帰還後、仲間に「今日は何をしたんだ」と聞かれたときは「戦争を終わらせてきたと思う」と答えたという。
長崎に原爆を投下したB29爆撃機ボックスカーのフレデリック・アシュワース氏(93)は「当時の状況下でやらなければならないことだった。戦争終結に大きく貢献したし、参加できて幸運だった」と語った。(日本経済新聞 2005/07/25)

井上戯曲「父と暮せば」、世界へ 6カ国語に翻訳・上演
広島で被爆した父と娘の心の交流を描いた井上ひさしさんの戯曲「父と暮(くら)せば」が世界に広がっている。94年に発表されて以来、フランス語、ロシア語、英語など六つの言語への翻訳が進み、海外での上演も相次ぐ。日本の現代戯曲としては異例のことだ。被爆60年の今年は米国ニューヨークでも上演が予定されている。
2人芝居「父と暮せば」は井上さんが座付き作者を務める「こまつ座」が上演を重ねている。
海外ではまず、97年にパリで地元の劇団がフランス語で上演。こまつ座もモスクワ(01年)と香港(04年)で字幕や同時通訳付きで上演した。
昨年8月にこまつ座が英文対訳本を出版したことで、上演や翻訳申し込みが一気に増えた。せりふが多いため、比較的上演が簡便なリーディング(朗読による舞台化)でも内容が伝わりやすい。それも後押しになった。
こまつ座のまとめによると、カナダでは今年1月からトロント、オタワなどでリーディングが重ねられ、今後も続演の予定。ロンドンの劇団も5月に取り組んだ。9月12日にはニューヨークでもリーディングがある。
イタリアでは本格的な上演が計画され、翻訳が進んでいる。来春にボローニャで開幕し、07年まで全国を巡演する。ドイツ語にも翻訳中だ。
井上さんは「被爆した人たちの気持ちを総合するとこうなると考えて書いた。海外から『原爆を落とされた日本人が、仕返しをするという発想ではなく、この悲劇が人類の上に繰り返されないようにと考えていることに感銘を受けた』という反響が寄せられている。被爆者の思いが理解され、広がっているのだと思う」と話している。(朝日新聞 2005/07/30)

原爆症1号カルテ:英訳の報告書発見 症状経過克明に
広島で被爆し、世界で初めて「原子爆弾症」と診断された女優、仲みどりさん(1945年に死去)のカルテの大半を英訳した報告書が、広島大学原爆放射線医科学研究所(原医研、広島市)に保管されていることが31日分かった。入院から死亡するまでの臨床経過が詳細に記述され、放射線による急性障害の症状がよく分かる内容。仲さんのカルテは、人体影響の客観的データとして、医学的、歴史的意義が高いとされるが、所在不明のため、内容は知られていなかった。報告書は、「原爆症1号カルテ」の全容を知るうえで極めて貴重な資料だ。
報告書は、終戦後に日米の研究者で編成された合同調査団がまとめた文書で、73年に米ワシントンの陸軍病理学研究所から日本に返還された資料の1つ。東京大学付属病院で仲さんの血液検査にかかわり、カルテの行方を捜し続ける医師、白戸四郎さん(82)=神奈川県綾瀬市=が確認した。
「臨床記録」のほか、「解剖記録」、顕微鏡写真など計約60枚の文書で構成。要旨には、仲さんの治療責任者だった東大教授の署名もあった。
このうち臨床記録には血液や尿の検査データのほか、症状も詳細に記述。被爆直後から嘔吐(おうと)や下痢、食欲不振などの症状が表れ、死亡6日前から脱毛が始まっていた。
また死亡直前には歯肉炎や咽頭(いんとう)炎の症状も出て、体温は39〜40度あった。いずれも被爆による急性障害の典型的な症状だった。直接の死因は肺炎で、死亡直前には呼吸困難が続いたことも判明した。こうした内容から、報告書には所在不明のカルテの大半が盛り込まれた可能性が高い。合同調査団がカルテをもとに、一部を省いたうえで英訳し、米国側が持ち帰ったらしい。米国は原爆症の資料としてデータを保存し、活用したとみられる。
広島では、原爆投下直後の混乱がしばらく続き、病状経過を詳細に記録して死亡した症例は極めて少ない。しかも、解剖で「原子爆弾症」と確定診断されたケースも珍しかったという。
仲さんの場合、被爆2日後の45年8月8日に列車で、東京に逃げ、同16日に東大病院に入院。十分な診察に基づくカルテ作成が可能だった。しかも同24日に死亡した直後に解剖も実施された。後に「原爆症第1号患者」と言われるようになったが、東大病院に保管されているはずのカルテが消え、学者や医師らが「幻のカルテ」として行方を捜している。【鵜塚健】

◆被ばく線量、一般の8000倍

◇神谷研二・広島大緊急被ばく医療推進センター長の話 白血球の少なさなど入院後の症状が細かく書かれ、原爆の急性障害がよくわかる報告書だ。カルテを転記したものと考えられる。放射線の急性障害は、原発などでの臨界事故などしかなく、どのように各臓器に影響が出るかを示す貴重なデータだ。被ばく線量は、一般人の年間許容量の8000倍にあたる8シーベルトぐらいと推定される。

◇仲みどり 1909(明治42)年、東京・日本橋で生まれ、現在の津田塾大学を中退後、丸山定夫や園井恵子らとともに移動演劇隊「桜隊」に所属。脇役として活躍。45年6月、国策により拠点を東京から広島に移し、8月6日、爆心地から約700メートルの宿舎で被爆した。

◆英文の報告書に記された主な症状◆

※日付は1945年8月

【6日】(被爆) 嘔吐、食欲不振、下痢で便に血が混じる

【10日】(自宅到着) 強い胸の痛み。嘔吐物にも血が混じる。尿の色が濃い

【16日】(入院) 白血球数400(通常は5000以上)

【17日】 背中の傷が悪化

【18日】 脱毛始まる。黒い便。骨髄芽球など白血球に異常(白血病?)。尿に高いウロビリノーゲン値(肝臓障害?)

【19日】 39〜40度の高熱。死亡直前まで

【21日】 出血性歯肉炎、咽頭(いんとう)炎。傷口が硬化。体に粟粒(ぞくりゅう)状の点状出血

【22日】 白血球数300

【24日】(死亡) ピンク色の粘性のたん。傷口が紫色に。呼吸困難が進む

(毎日新聞 2005/08/01)

原爆症1号カルテ:記述の医師、未知の症状に衝撃
「間違いなく私が書いたカルテと一緒だ」。東京大学病院で原爆症第1号患者の女優、仲みどりさん(1909〜45)を担当した新潟市金巻の医師、清水善夫さん(82)は、英文を一語ずつ読みながら、そう語った。原爆症と知らずに残した文字や数値。それが米国も注目する世界初の貴重な記録となり、今回、英文報告書という形でよみがえった。清水さんは「仲さんのお陰で原爆被害の証拠を残すことができた」と感慨深げに話した。【鵜塚健、砂間裕之】

清水さんは当時、東大の医学生。学徒動員で東大病院外科に勤務し、仲さんの担当医になった。入院初日の1945年8月16日には、被爆時の様子やその後の経過が記述されていた。
仲さんが朝食当番で後片付けをしている時、強烈な光が窓から差し込んだ。そしてボイラーの爆発音のような大きな音を聞いたことが宿舎の見取り図とともに書かれてあった。また広島から東京に列車で戻る際、身にまとっていたのはシーツ1枚だったことも、清水さんの記憶通りだった。
「見取り図は仲さんから話を聞いて描いたのでしょう。私は今もカルテに図を描き込んでいるし、担当の私にしかできない」と説明する。
8月24日の午前中、仲さんの容体は安定していたが、清水さんが昼食に出かけたわずかの間に急変し息を引き取った。
「呼吸困難が続き、息づかいが激しくなる。ベッドの上で一分たりとも座っていられなくなり、まもなく横になった。ピンク色の粘り気のあるたんが出て、傷口は紫色に変わった」
死の直前の様子を詳細に書いている。清水さんには、この部分の記憶が薄れているが「死亡時の様子は、カルテに必ず記録するはず。看護婦から聞いて私が記述したのだろう」と推測した。
カルテには、正常値の10分の1しかない白血球数や、嘔吐(おうと)、下痢、脱毛など、原爆症の典型的な症状が列記されている。「外傷もないのになぜ?」。清水さんには、解剖時に担当教授から教えられるまで、原爆症を考えてもみなかったが、逆にそれで印象に残ったという。
「カルテは全部で十数枚だったと思うが、今回の報告書にもない細かい記述があるかもしれない。カルテはとても大切なものだ。研究者なら実物を見たいはず。米国に眠っているように思う」。清水さんは、幻のカルテの行方を推測した。(毎日新聞 2005/08/01)

米将軍に被爆神父の手記 45年秋、広島の惨状伝える
広島で被爆し、救護に携わったイエズス会のドイツ人神父、故ヨハネス・ジーメス上智大名誉教授(1907−83年)の目撃手記が45年秋、原爆を開発した米マンハッタン計画の責任者、グローブズ将軍の元へ送られていたことが1日までに分かった。
また、手記の抜粋は被爆半年後の46年2月、米タイム誌に「広島原爆に関する最初の詳細な報告」として掲載されていた。
手記は英文タイプ打ちで計8ページ。被爆の惨状をつづり、「たとえ目的が正しくても、今日のような総力戦は正当化できるのか」との問い掛けで締めくくっている。
広島女学院大の宇吹暁教授(日本現代史)は「被爆証言の手記として米政府に伝わった最初のものといえるのではないか」と話している。(中国新聞 2005/08/01)

原爆投下60年:米国の立場、バーンスタイン教授に聞く
広島、長崎への原爆投下60年を前に、米スタンフォード大の歴史学者、バートン・バーンスタイン教授に投下時の米国の立場や日米の受け止め方の違いを聞いた。【ロサンゼルス國枝すみれ】

──米国の核開発計画マンハッタン・プロジェクトが歴史にもたらしたものは何でしょうか。

◆少数国による核の独占だ。また、連邦議員でも数人しか内容を知らなかった同計画は、安全保障分野での秘密主義の傾向を拡大、強化した。民主主義国といっても諜報(ちょうほう)予算は今も秘密で、安全保障での透明性はほとんどない。60年たち、我々はさらに危険な世界にいる。保有国は核を放棄せず、イランなどが核を持とうとしている。もし市民がなぜ、どのように原爆が製造、投下されたかを知ったら、こんなことにはならないはずだ。

──投下せずの選択はなかったでしょうか。

◆日本への原爆投下について、当時の米指導者にためらう余地はあまりなかった。パールハーバーの復しゅうであり、ソ連に核の脅威を見せ付けるという目的があった。また、20億ドルを費やした核開発計画を無駄にするわけにはいかなかった。

──日米で原爆に対する意見の違いが目立ちます。

◆私は、日本は原爆投下がなくとも米国による通常の攻撃とソ連の参戦だけで、45年11月に予定されていた本土侵攻前には降伏していたと考える。しかし、多くの米国人は「原爆投下は正しく、必要だった。多くの命を救った」と思っている。45年当時、米国民の85%が日本への原爆投下に賛成、95年でも59%が支持した(注)。また、日本への投下後、米国民は核使用をタブー視するようになったと言われるが、根拠は薄い。例えば、イラク戦争開始直前、米国民の46%が「イラクが生物化学兵器を使用したら米国は核兵器を使用してよい」と回答している。

──第2次大戦で非戦闘員の殺害が許される風潮が広まりました。

◆非戦闘員の殺害は、英国と日本が始め、ドイツ、米国も倣った。7月にロンドンで起きたテロで死んだ市民は「テロの犠牲者」として数えられるが、第2次大戦中の空襲や原爆、イラク戦争で死んだ市民は数えられない。彼らも国家によるテロの犠牲者なのだが。最近は同盟国が民間人を殺害した場合は「戦争」と呼び、敵の行為は「テロ」と呼ぶ。

注 今年3月の世論調査によれば、原爆投下に賛成する米国民は47%まで低下する一方、反対する国民も若者を中心に46%に上った。また、66%が米国も含めいかなる国も核を持つべきではないと回答している。(毎日新聞 2005/08/04)

エノラ・ゲイ元乗員、原爆投下後悔せず
「われわれは後悔していない」−。英BBC放送(電子版)は4日、広島に原爆を投下した米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイの元乗組員3人が、原爆投下から60年を前に出した共同声明を紹介した。
3人は機長のポール・ティベッツ氏、航空士のセオドア・バン・カーク氏、兵器担当のモリス・ジェプソン氏。声明は「(原爆投下に至った経緯は)確かに不幸だったが他に選択肢がなかった」と強調。その上で、3人が過去60年にわたって「歴史の中で、原爆使用が必要とされる瞬間だった。われわれは後悔していない」と繰り返してきたことに言及した。
声明は同時に、米国の指導者らが「再び核の力を用いる必要に迫られる前に、理性が働くことを祈る」とし、現代における核の使用に反対の姿勢を明確にした。(共同)(日刊スポーツ 2005/08/05)

原爆投下前に「敗戦国」 エノラ・ゲイ乗組員
【ロンドン6日共同】ドイツ週刊誌シュピーゲル(電子版)は5日、広島に原爆を投下した米爆撃機エノラ・ゲイの乗組員だったセオドア・バン・カーク氏が同誌との会見で「原爆を投下するまでもなく(当時の)日本は敗戦国だった」と述べた、と伝えた。
カーク氏の証言は、米軍の実行部隊レベルでも原爆投下前の日本が事実上、敗戦状態だったとの認識があったことをうかがわせる。
カーク氏は「日本は国土の85%が焼き尽くされ、投下しなくても工業基盤は崩壊していた」と回想。ただ「日本はそれでも戦争を継続しようとしていた」とも強調した。
同氏はまた、同機のティベッツ機長が撃墜された時の自決用に乗員全員分の青酸カリを持っていたことを後に教えられたとしたが、もし撃墜されても「私は日本人と何とかやっていけると思っていた」と述べた。(共同通信 2005/08/06)

英反戦団体が1ページ広告 原爆投下60年で
【ロンドン6日共同】英国の反戦団体「核軍縮運動(CND)」は広島への原爆投下60年に合わせ、6日付のインディペンデントなど英2紙に1ページ広告を掲載、英政府に対し、核兵器廃棄などを呼び掛けた。
「ネバー・アゲイン」と題した広告は、広島、長崎への原爆投下に触れ、核兵器の使用は「人類への犯罪だ」と強調。英政府が現在、南部オルダーマストンの核兵器工場で核開発を進めているなどと指摘し、世界の安定と平和を脅かす行為だと懸念を表明している。
広告は、賛同するリビングストン・ロンドン市長や国会議員ら署名者の名簿も載せている。(共同通信 2005/08/06)

原爆関係資料をオンライン公開=米大学
【ワシントン5日時事】米国の歴史文書などを収集し整理しているジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は、米軍による広島と長崎への原爆投下に関連した資料をまとめ、5日からオンライン上でも閲覧できるようにした。
これらの資料は米政府の極秘文書などが中心。同公文書館によると、大半はすでに歴史研究者などにより発見されたものだが、一括して公開されるのは初めてという。
資料の内容は広島や長崎を原爆の投下目標に決めた経緯や米政府内部での会議録、日本政府の公電の諜報(ちょうほう)記録、原爆投下後の評価報告などが含まれている。
同公文書館のアドレスはwww.nsarchive.org.。(時事通信 2005/08/06)

重複がん:近距離被爆ほど発生率増加 長崎大グループ調査
原爆被爆者の間で、複数の臓器にがんが生じる「重複がん」の発生率が上昇し、被爆時の爆心地からの距離が近いほど発生率が高くなっていることが、長崎大学医歯薬学総合研究科の原爆後障害医療研究施設(原研)の関根一郎教授(病理学)らのグループによる病理疫学調査で分かった。爆心地から1キロ未満の被爆者と、放射線の影響が少ないとみられる3キロ以上の被爆者を比べると、発生率に2倍の開きがあった。被爆と重複がんの相関関係が明らかになったのは初めて。
重複がんは再発や転移とは異なり、複数の臓器に原発性のがんができることを指す。調査は、長崎市の放射線影響研究所(放影研)などが運用する腫瘍(しゅよう)登録システムを使い、長崎市内に在住していたり、在住経験のある被爆者約10万人から症例を抽出した。1962〜99年の37年間に2万1376件の腫瘍が検出され、このうち重複がん患者は480人いた。
研究によると、爆心地から3キロ以上の被爆者の重複がん発生率は10万人当たり22.8人。これに対し、爆心地から1キロ未満の発生率は45.6人と倍増し、被爆距離が短いほど発生率に上昇傾向が見られた。また、被爆年齢が若いほどがんの発生リスクが高いとされているが、重複がんについても同様の傾向が見られた。
最初のがんの発生部位は胃がん、大腸がんが多い。第2のがんは大腸がん、胃がん、肺がんが多かったが、発生部位は多岐にわたっていた。被爆が特定のがん発生のリスクを高めるのではなく、がん自体を発生しやくすることが分かった。
関根教授は「重複がんは長い期間観察が必要で、被爆から60年を経てやっと被爆との関係が分かった。若年被爆者がこれからがんの好発年齢になることから、重複がんも増えると思われる。被爆者のフォローがますます重要になるだろう」と話している。【小山内恵美子】(毎日新聞 2005/08/06)

元機密の映像入り映画公開 米、原爆投下から60年で
【ロサンゼルス7日共同】広島への原爆投下から60年の6日、戦後30年近く軍の最高機密扱いだった原爆被害の映像を取り入れた記録映画「オリジナル・チャイルド・ボム」が米国で公開された。視聴者数が限られるケーブルテレビ局での公開だが、生々しい被害映像の放映は、米国ではまれ。
同映画では、原爆投下後間もない時期に広島に派遣された米空軍の担当者が撮影した被爆者の様子を紹介。熱線で焼けただれた背中をさらす子どもたちや、顔の皮膚の半分をやけどで失った人々らのカラー映像を取り入れた。
また日本への原爆投下から冷戦中の核兵器開発競争、現ブッシュ米政権の核兵器開発の維持に至る核の歴史を、最近のポップミュージックに乗せ表現するなど、「通常の映画としても完成度の高い作品」(米メディア)と評価されている。(共同通信 2005/08/07)

原爆誕生地で反核デモ=「ヒロシマ、ナガサキを後悔」−米
【シリコンバレー6日時事】広島への原爆投下から60周年を迎えた6日、人類初の原爆を製造したロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ州)など米国内の原爆ゆかりの地で、核廃絶を求める抗議行動が繰り広げられた。
研究所周辺には平和団体関係者ら500人以上が集まり、「ヒロシマ、ナガサキ(への原爆投下)を後悔する」「石油を求める戦争をやめよ」と書かれたプラカードを掲げて抗議。日本の被爆者も駆け付け、「広島、長崎の悲劇を繰り返さないで」と訴えた。(時事通信 2005/08/07)

日本への原爆投下とイラクへの攻撃に類似性 イラク・パトロール
【東京7日=齊藤力二朗】6日付のイラクのニュースサイト、イラク・パトロールは、広島原爆投下60周年の特集を組み、日本への原爆投下とイラクで起きていることの目的の手法も全く同一である主張した。以下抄訳。

米国は敵に無条件降伏を強いた。また新型爆弾が米ニューメキシコ州で実験され、その使用が決定された。その目的は膨大な数の民間人を殺戮することで敵の戦意を喪失させることにある。同時に破滅的なこの兵器を実際の現場で実験し、そして3番目に自軍の優越性を示すことにあった。
この特集を組んだのは、人類に対する米国の犯罪を世界に再想起させるためのみでなく、米国の手法は現在に至るまで変化していないことを伝えるためである。本特集を読めば、原爆投下後に如何に米国が次の諸点に注力したか理解できよう。米国が採用した手法は、証拠を隠滅し、虚偽の発表をし、虚偽の報道をする報道陣を厚遇し、この犯罪行為の影響を否定することだった。
まさに現在のイラク占領政策と同一ではないか。すなわち、劣化ウラン弾のようなその他の破壊兵器で都市を爆撃、破壊している。その目的は、人々の抵抗意欲を挫き、兵器の実験、自軍の優越性誇示とこれまた同一だ。
この大惨劇を思い起こすと、「抵抗勢力がイラクの民間人を殺害している」とする米国の主張が蔑視すべき説であることが分かろう。
米国は民間人の殺害を嫌悪するという虚説を流し、その実行者をテロリストと決め付けた。世界の法律を捻じ曲げ国際組織をなぎ倒し、世界の各地を侵略し、その進路の都市や人間を踏み潰す。
米国は、広島で一瞬にして14万人の住民を殺戮し、3日後に別の街(長崎)を抹消し7万人の殺害したが、謝罪も補償もしていないのだ。(日刊べリタ 2005/08/07)

パリでヒロシマ原爆展 核保有国の首都で初開催
パリ市が「60年後のヒロシマ展」を5日から30日まで開催する。広島平和記念資料館によると、核保有国の首都が主催する原爆展は初めて。フランスは核抑止を国是に掲げる国だけに、開催を願った人々の感慨はひとしおだ。
会場は市役所の展示ホール。広島、長崎から借りた写真、弁当箱や水筒など被爆資料のほか、パリ市独自のアイデアで、「はだしのゲン」や「夕凪(ゆうなぎ)の街 桜の国」など原爆を題材にした漫画作品を紹介する。日本の漫画はフランスの若者に絶大な人気で、担当職員のクリスティアン・ミシェルさんは「12歳の娘に『はだしのゲン』を読ませたら止まらなくなった。若い人に見に来てほしい展示ですから」という。
これまで広島、長崎両市は核保有国に原爆展の開催を働きかけ、地方都市では実現したが、首都の公共団体が受け皿になった前例はなかった。
パリには以前、開催の打診を断られたことがある。核戦力保持と核抑止論で党派を超えた合意があり、「国是に触れる催しを首都で計画すれば、圧力がかかる恐れがあった」と関係者は明かす。
だが昨年、社会党のドラノエ市長が広島市を訪問し、トップダウンで開催が決まった。今年実施した世論調査で、核抑止論支持はフランスで35%と日本並みの低さ。冷戦の恐怖がなくなったのに加え、テロの脅威に「武力より、貧困や抑圧の解消が先決」との考えが浸透、国民の脱「核抑止」が進んだことも背景にあると見られる。
仏在住の平和活動家、美帆シボさんは「抗独レジスタンスの名残で、『平和主義』が否定的に響いた80年代までがうそのよう」。平和記念資料館の外和田孝章副館長は「核保有国に平和論だけでは通じない。キノコ雲の下に普通の人々が大勢いた事を知ってもらう意義は大きい」と話す。(朝日新聞 2005/09/06)

エルサレムにヒロシマの資料発送
イスラエルの核兵器開発疑惑を暴露し、18年間収監された末に釈放された元技師が、東エルサレムの教会に「ヒロシマミュージアム」の開設を計画している。獄中にある時から彼と文通してきた広島の支援者が21日、依頼に応じて展示資料を発送した。
この技師は、同国南部ディモナにある原子力施設に務めていたモルデハイ・バヌヌさん(51)。1986年、英国のサンデータイムズ紙に勤務先の内部の写真などを提供して「原爆の秘密工場になっている」と証言、世界に衝撃を与えた。国家反逆罪などに問われ、昨年4月まで収監されていた。
国際人権擁護団体アムネスティ会員の野間伸次さん(42)=広島県府中町=は、99年から獄中のバヌヌさんと文通。釈放時にはイスラエルに渡って直接面会もした。このほどバヌヌさんから「今住んでいる教会にヒロシマミュージアムをつくりたい」と資料提供の依頼があり、被爆の惨状を伝える組み写真や英字の絵本などを送った。
バヌヌさんは「祖国を裏切った」との非難にさらされ身の危険があるため、釈放後、パレスチナ人が多く住む東エルサレムの聖ジョージ教会にかくまわれている。国内外から観光客も多く訪れる教会という。
野間さんは「バヌヌさんは昨年会った時、『被爆60年の広島に行きたい』と熱望していた。国外渡航を禁止され実現していないが、ヒロシマに寄せる思いはとても深い。できるだけの協力をしたい」と話している。(道面雅量)(中国新聞 2005/11/22)

自分流 平和の『虹』
反戦 無言の訴えに『原爆の図』
1月28日、東京・新宿駅の西口地下広場で、反核、反戦平和を訴えた画家故丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」が静かに掲げられた。2003年から毎週土曜、手製のポスターで反戦・平和を無言で訴えてきた人たちの活動に、夫妻の作品を所蔵する美術館が賛同。原画を撮影したフィルムを貸し出し、それをパネルに仕上げた。「絵の力はすごい。反応がこれまでとは違う」。新たな“同志”を得て、無言のアピールは4年目に入った。 (川崎支局・飯田克志)

「個人として反戦の思いを伝えよう」と、東京都世田谷区の主婦大木晴子さん(56)が知人と初めて西口広場に立ったのは、イラク戦争直前。01年の米中枢同時テロ以来、戦争のうねりが日本に押し寄せていると感じたからだった。
それから3年。インターネット、平和集会などで知り合った人たちが、思い思いのメッセージをこめたポスターやプラカードをつくり、土曜午後6時から西口広場に1時間たたずんできた。常連は十数人だが、新たに加わる人もいる。
昨年10月、大木さんは仲間と埼玉県東松山市の「原爆の図 丸木美術館」を訪れた。原爆投下直後の広島での体験をもとに、丸木夫妻が描いた全15作からなる「原爆の図」を見て、反戦への思いを新たにした大木さんたちは、作品を西口広場で掲げたいと美術館に打診した。
美術館側も「多くの人に知ってもらう機会になる」と、個人としては初めて原画のフィルム提供に応じた。パネルにする作品は、被爆の悲惨な情景の空に虹がかかる「虹」を選んだ。「希望を感じられる」(大木さん)という理由からだ。
丸3年を迎えた1月28日、人であふれるいつもの週末の西口広場で、大木さんらは「虹」と、美術館から借りた「水」「火」を掲げた。足早に通り過ぎながら「原爆の図」に視線を“止める”人。話しかけてくる人も…。「『原爆の図』が意思表示に加わることで会話も生まれる。自分流に平和への思いをつないでいきたい」。大木さんたちは立ち続ける。(東京新聞 2006/02/22)

広島・長崎の原爆被爆者 検査了承の45%が甲状腺疾患
広島・長崎の原爆被爆者約4000人のうち、45%が甲状腺の疾患を発症し、被ばく線量が高いほど、被爆時に年齢が若いほど、発症する率が高いことが放射線影響研究所(広島市・長崎市)の大規模調査で分かった。研究チームが1日、米医師会雑誌に発表した。
調査期間は2000―03年で、被爆から55年以上たっても放射線の影響が深刻なことが示された。発表した放影研長崎研究所の今泉美彩研究員は「今後も被爆者の健康状態を注意深く見ていく必要がある」と話している。
調査対象は期間中に定期健診に訪れた被爆者のうち、甲状腺の検査を了承した4091人。過去に甲状腺の病気になったことがあったり、新たに超音波検査や細胞検査で病気が判明したりした人は約45%の1833人に上った。
内訳は甲状腺がんが2%、良性腫瘍(しゅよう)が5%、液体がたまる嚢胞(のうほう)が8%だった。ほかに慢性甲状腺炎が28%あった。
甲状腺への被ばく線量がはっきり分かっている約3200人を分析したところ、慢性甲状腺炎と甲状腺機能低下症、甲状腺機能こう進症を除き、線量が高いほど発症が増える関係があった。また、発症率は被爆時に20歳以下で高く、若いほど急速に高くなった。
この結果を統計的な手法で分析すると、甲状腺がんの37%、良性腫瘍の31%、嚢胞の25%が被爆による分だと考えられるという。(長崎新聞 2006/03/02)

死の灰の影響、米が極秘調査…死産胎児の骨入手?
1950年代、米政府が、核実験の死の灰による日本人への影響を極秘に調査していたことが明らかになった。本紙記者が、米エネルギー省核実験公文書館で、機密指定を解除された当時の文書を入手した。
文書は、米原子力委員会のダドリー博士から、政府の計画にかかわっていた米ロチェスター大のスコット博士にあてられたもので、53年12月9日の日付がある。日本の漁船員がビキニ環礁での水爆実験の犠牲となった第五福竜丸事件の約3か月前にあたる。
調査の目的は、当時すでに50回を超えていた核実験で生じる死の灰の成分で、長く骨に蓄積する「ストロンチウム90」を測定するため。本来の目的は隠ぺいされ、表向きは「(自然界に存在する)ラジウムの分析」とされていた。
この極秘調査の存在は、1995年に放射能人体実験に関する米大統領諮問委員会の調査で初めて明るみに出た。過去の欧米の報道では、インドや豪州も調査対象になったことがわかっているが、今回入手した文書には、冒頭から「日本での(試料)入手に関心がある」と明記され、当時、広島・長崎の原爆による影響を調べていた「原爆傷害調査委員会(ABCC)」と在日米大使館の協力に言及するなど、日本に調査の重点を置いたことを示唆している。
日本が対象となったのは、ABCCの存在が隠れみのになるだけでなく、太平洋の核実験場に比較的近い地理関係にあることが重視されたとみられる。
文書は、死産した胎児だけでなく、死亡した乳幼児も対象に、日本からは「6〜8体を分析に使う」としており、日本から死の灰が蓄積しやすい胎児や乳幼児の骨を入手する極秘任務に着手していたことがうかがえる。(読売新聞 2006/03/08)

原爆ドーム、2045年まで現状のまま保存 広島市方針
被爆60年を超え、れんがや鉄骨などの劣化が心配されている世界遺産「原爆ドーム」(広島市中区)の中長期的な保存方法を検討していた広島市は10日、被爆100年の2045年までは屋根をかけたり、建物を移転したりせず、現状のまま保存する方針を発表した。核廃絶を目指す世界のシンボルであり、最小限の補修をしながら被爆した当時のままの姿で現地に残すことにした。
被爆者や有識者、市民団体メンバーらでつくる市の「平和記念施設あり方懇談会」(座長・舟橋喜恵広島大名誉教授)が04年7月から今年1月まで議論した内容をもとに市が決定した。建物の傷み具合がひどければ、被爆80年の25年までに再検討する。
市によると、懇談会では屋根で覆う案や、原寸大のレプリカを現地に置き、実物は博物館などで保存する意見も出た。しかし、折れ曲がった鉄骨や崩れたれんがなど被爆の痕跡を現地でできるだけ多くの人に見てもらうため、いずれも採用しなかったという。
一方で、劣化を防止するため酸性雨や大気汚染の調査を実施し、修復の専門家を世界中から募るコンペも検討する。また、周期が比較的短いとされる安芸灘を震源とした地震に備え、震度6弱に耐える工事も早急に実施する。
また、いたずらなどから守るため立ち入り禁止としてきたドームの周辺には仮設の通路を設置し、期間限定で開放することも計画していく。(朝日新聞 2006/04/10)

被爆後の復興 鮮明に 長崎、広島を撮影、収集223枚
米人遺族が寄贈 放影研へ
第2次世界大戦後に原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所=放影研)の研究者として日本に滞在した米国人生物物理学者、ポール・ヘンショー博士=1992年に90歳で死去=が、被爆後の広島や長崎で撮影・収集した写真223枚が保存され、放影研(広島市・長崎市)に寄贈されていたことが24日、分かった。
放影研は8月5、6日に広島、同8、9日に長崎で行う施設の一般公開「オープンハウス」で展示する予定。
長男の動物生理学者、ロバート・ヘンショー博士(71)=ニューヨーク州オルバニー在住=が昨年寄贈した。写真はほとんどがカラーで、45?47年に撮影されたとみられるものが中心。広島市の原爆ドーム周辺に建物が建ち復興への動きが感じられる風景や、長崎で被爆した医師の故永井隆博士が家族と一緒に写った写真などが含まれている。
ロバート博士によると、ポール博士は原爆開発を進めたマンハッタン計画に42年から参加、放射線が細胞に与える影響の研究をしていた。46年に来日、広島や長崎で原爆被害を調査した。被爆地の惨状を知り、晩年は戦争の悲惨さを伝える活動を続けた。
ロバート博士は「戦争は2度と繰り返してはいけないという父の遺言をあらためて伝えるため寄贈した」と説明している。
放影研の大久保利晃理事長は「当時としては貴重なカラーであり、写真を見て広島、長崎の街の様子を知ってほしい」と話している。

<原爆傷害調査委員会> 原爆の放射線が人体に与える長期的な影響の医学的調査を主な目的として、米国学士院・学術会議により創設された研究機関。47年から広島、長崎を拠点に調査を開始。寿命調査、成人健康調査、遺伝学的調査などを行った。75年に日米共同運営の放射線影響研究所(放影研)に改組され、広島と長崎に研究所がある。(西日本新聞 2006/05/24)

白血病の発症3倍以上に 原爆投下日の入市被爆者
原爆投下後、家族を捜す目的などで2週間以内に爆心地付近に入った広島の「入市被爆者」の中で、投下当日の8月6日に入市した男性の白血病発症率が、通常よりも3倍以上高かったことが4日、分かった。鎌田七男・広島大名誉教授が、同日長崎市で開かれた「原子爆弾後障害研究会」で発表した。
鎌田名誉教授は「白血病発症への放射線の影響を否定できないことが分かった」としており、今後、放射線と別のがんとの関係を解明する鍵となりそうだ。
調査は、1970−90年の間に広島大原爆放射線医科学研究所などで診察を受けた、広島への入市被爆の白血病患者113人について、入市時期別に検討した。(共同通信 2006/06/04)

カナダで原爆劇を披露 現地「9条の会」主催
【バンクーバー(カナダ)26日共同】カナダのバンクーバーで25日、日本の憲法を守ろうと活動する在留邦人グループ「バンクーバー9条の会」の主催で、広島の原爆を描いた井上ひさしさんの戯曲「父と暮せば」の朗読劇が披露された。
当地で開催中の世界平和フォーラムのイベント。劇は原爆投下から3年後を舞台に、被爆死した父の亡霊と生き残った娘が対話するストーリーで、バンクーバーで活動する俳優の原真奈美さん(38)と金川弘敦さん(42)が、英語のせりふに「おとったん(お父さん)」「ピカ(原爆のこと)」などの日本語を交え朗読した。
当地在住の日系人のほか、カナダ人ら計約100人が聞き入った。(共同通信 2006/06/26)

証言CDネット公開 『被爆者の声』いつでも聞いて
東京都調布市の元長崎放送記者伊藤明彦さん(69)が4月に制作した被爆者の証言CD「ヒロシマ ナガサキ 私たちは忘れない」を聞けるホームページ(HP)「被爆者の声」が完成した。インターネットが不得手の伊藤さんを助けたのが、CD制作を新聞で知った埼玉県所沢市のコピーライター古川義久さん(51)。協力の輪は、古川さんの母校、県立長崎東高の卒業生らの間にも広がり、HPは約1カ月間という短期間で出来上がった。
8枚組のCDには284人の被爆者の体験が収録され、650組が全国の資料館などに寄贈された。古川さんは4月に新聞記事を読み、「資料館に贈っても、死蔵されては意味がない」と感じ、「HPで、誰もが簡単に聞けるようにしよう」と提案。伊藤さんに代わって、古川さんがHP作成を請け負った。
週末に証言を音声ファイルのMP3に変換し、HP上に置いていった。さらに被爆の実体験をHP上でも聞きやすくしようと、思案の末、証言を文章化して目でも追えるように取り組み始めた。
ただ、日曜日に丸1日かけても文章化はCD1枚の4分の1以下。1人では困難と、母校の長崎東高校卒業生で、主に関東地方在住者が参加するメーリングリストで協力を呼びかけた。すぐに5人から手が挙がり、結局、同じ中学出身者と合わせて7人が協力。顔見知り程度や会ったことのない人ばかりが、ネットを通じて協力することに。
古川さんは「ネット時代らしい協力形態だった」と話す。一度も顔を合わせず、各自が分担して、週末や夜間に証言を文章化した。
古川さんは「長崎は他地域に比べて原爆に対する意識が高いから、協力してもらえたと思う。被爆者の証言はすごい迫力。多くの人が聞いて、原爆の悲惨さを知ってほしい」と話している。
HPのアドレスはhttp://www.geocities.jp/s20hibaku/(東京新聞 2006/07/08)

映画:原爆ではなく、人が人を傷つけたと訴えたかった 米国の14歳が製作
◇NGO招き来日
広島、長崎への原爆投下と米国の秘密核開発「マンハッタン計画」をテーマにした短編ドキュメンタリー「ジニー(魔神)・イン・ア・ボトル アンリーシュド(解き放たれた)」(16分、日本題「魔法のランプのジニー」)を製作した米国の中学生、スティーブン・ソターさん(14)=シカゴ在住=が、国際交流NGO「ピースボート」の招きで14日、来日した。【大治朋子】

◇ドキュメンタリー・国連でも反響──広島、長崎、東京で上映

作品は昨年ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約再検討会議でも上映され、大反響を呼んだ。英国やスイスなどでも上映され、日本では22日、東京都内で開かれる東京平和映画祭で公開される。
ビデオ撮影が好きなソターさんは12歳だった04年夏、同級生のトレース・ゲイナーさん(14)とドキュメンタリーの製作を始めた。テーマは、教科書ではよく分からなかった「米国はなぜ原爆を開発し、日本に投下したのか」という疑問。約1年がかりでソターさんが撮影・編集し、ゲイナーさんがインタビューや音楽の作曲、演奏を手がけた。ソターさんは「原爆が人を傷つけたのではなく、人が人を傷つけたのだと訴えたかった」と話す。
作品は05年秋の「国際子供映画祭」の短編子供製作部門で最優秀賞などを受賞した。
インタビューで登場するのは最初の核反応実験で知られる物理学者、エンリコ・フェルミの元同僚のシカゴ大物理学者。さらに当時計画にかかわった科学者の夫人で、核戦争による世界の終末までの残り時間を示す「終末時計」(シカゴ大に設置)の製作で知られる芸術家など多岐にわたる。
17日に広島市、19日に長崎市で、それぞれ上映会や講演会などを開く予定。詳しくは「ピースボート」東京事務局(03・3363・7561)。(毎日新聞 2006/07/16)

原爆投下、米元大統領らに「有罪」
▽広島で「国際民衆法廷」
広島市中区の原爆資料館で開かれていた、原爆投下の違法性を問う「国際民衆法廷」は16日、原爆開発や投下に関与した米国のルーズベルト、トルーマン両元大統領や元軍人、科学者ら15人の「被告」を、国際法違反で「有罪」とする判決要旨を発表し、2日間の日程を終えた。米政府に対し、被爆者や遺族への謝罪と賠償を求める「勧告」も盛り込んだ。
約250人が傍聴。日韓の弁護士5人でつくる「検事団」が15日に朗読した起訴状に関して、近現代史研究者らが証言し、日本、米国、コスタリカの国際法学者3人で構成する「判事団」が合議した。
判事団は、毒ガスや細菌兵器の使用を禁じたジュネーブ議定書(1925年)や、「人道に対する罪」を規定した極東国際軍事裁判所条例(46年)を根拠に違法性を認定した。
代表して、米ラトガーズ大のレノックス・ハインズ教授(国際法)は「原爆投下は非戦闘員への大規模攻撃。被爆者は今も放射線被害に苦しんでおり、被告の罪は重い」と指摘した。
当時の政府首脳らと並んで被告と位置づけた米政府への「勧告」は5項目。被爆者への謝罪と賠償に加え、原爆投下が国際法違反であると認める▽核兵器を使用しない▽核兵器廃絶に努力する▽核兵器の違法性を米国民に教育する―ことを求めた。
判決に法的拘束力はないが、被爆者や研究者らでつくる実行委員会は、年内にも文書化し、米政府や国際司法裁判所などに送る。(石川昌義)(中国新聞 2006/07/17)

原爆集団訴訟 「黒い雨」など浴びた原告 68%に急性放射線障害
国に原爆症認定を求めた集団訴訟の原告のうち、爆心地付近で水や食料を口にしたり、放射性降下物を含む「黒い雨」を浴びたりした後、脱毛などの急性症状が出た人が68%に上ることが30日、共同通信社のアンケートで分かった。
直接被爆した人は87%で、爆心地から0.5−5キロだった。2キロ以上で被爆した45人のうち25人も黒い雨を浴びるなどした後、急性症状を起こしており、爆発による放射線だけでなく、残留放射線も含めた複合的な被ばくで急性症状が出るとする研究者などの指摘を裏付ける結果となった。
直接被爆でも距離や遮へい物などの条件で放射線量が少ないと原爆症は認定されず、残留放射線は考慮されないのが実情。爆心地から2キロが目安とされるが、国への意見では、判定が機械的とする不満がトップで、現行の認定制度の在り方があらためて問われそうだ。
7月上旬時点で提訴していた176人に調査票を郵送、100人から回答を得た。68人は広島、32人は長崎で被爆。6人は死亡した原告の代わりに遺族が答えた。死亡した6人を除く平均年齢は74.3歳。
爆心地近くに入り水や食料を摂取したのは61人、黒い雨を浴びたのは36人。どちらかを経験した73人で、脱毛など急性放射線障害とみられる症状が出たのは、幼少で覚えていない人などを除く68人全員。原爆投下後に爆心地付近に入った「入市被爆者」にも症状があり、全体では88人だった。
被爆直後から現在まで体調悪化に悩まされていると答えた原告は39%に上った。国の認定行政への不満は38%が「評価が機械的」と回答。「入市被爆者や遠距離被爆者の評価が厳しい」が23%で続き、「審査が不透明だ」は12%だった。
5月の大阪地裁判決は「放射性降下物による被ばくや(食料などによる)内部被ばくの可能性を念頭に置き、被爆前後の生活状況や健康状態を考慮するべきだ」と述べ、機械的に審査せず個別の判断が必要と示し、9人全員を認定した。
この判決に47%が「症状を個別に判断して認定した」点を評価。判決を受けて国が制度を変えることに「強く期待する」「やや期待する」との意見は89%に上った。
集団訴訟は14地裁で提訴され、31日に高知地裁にも提訴予定。8月4日に広島地裁で判決が予定されている。(中日新聞 2006/07/31)

原爆研究者のメモ発見 旧日本海軍の核開発詳細に 米議会図書館に保管
京大の2人直筆 加速器製造果たせず
【ワシントン2日共同】太平洋戦争中に旧日本海軍から原爆開発を命じられた旧京都帝大(現京大)の荒勝文策研究室で研究に携わっていた科学者2人が、核反応をはじめとする基礎研究の実験記録などを克明に記載したメモ二冊がワシントンの米議会図書館で2日までに見つかった。戦中の核分裂研究の実態など未解明な点が多い日本の原爆開発史をひもとく上で貴重な史料となりそうだ。
終戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)が接収、同図書館に移管された未整理の日本関係史料群に含まれていた。メモは原爆開発が本格化する以前の文書だが、開発に関与した第一線の科学者による直筆の一次史料は珍しい。
常石敬一神奈川大教授(生物・化学兵器)と共同通信の調査で、原爆関連史料のほかに、旧日本軍や南満州鉄道(満鉄)などの目録化されていない戦時中の日本側史料が1万点以上あることが判明。日本に存在しないものも多数あるとみられ、史料の保存が急務となりそうだ。
見つかったのは、旧海軍から原子核分裂の技術を用いた原爆開発を依頼された荒勝教授の下で、原子核反応の研究に使われるサイクロトロン(円形加速器)の製造を目指した清水栄氏(後の京大名誉教授)と、植村吉明氏(後の京大教授)が大学ノートに記したメモ。約220ページに上る清水氏のメモは「実験室覚書2」の表題がついており、サイクロトロンの製造を視野に1942年以降進められた高電圧加速器の開発過程が詳細に記されている。
約75ページの植村氏の「研究日誌」は41年以降の基礎研究内容を記載。ガンマ線をさまざまな金属に当てて核反応を調べる研究を行っていた記録や「昭和16年6月14日 Cyclotoron(原文ママ) 略 建設に決定」との記述があり、中型サイクロトロンの建設を41年夏に決定していたことが分かる。サイクロトロンは完成されないまま終わった。
清水氏は広島への原爆投下直後に現地入りした学術調査団の一員。54年のビキニ環礁での水爆実験では「第五福竜丸」から採取した灰を分析、水爆と突き止めた。

基礎研究の貴重な史料

日米の原爆開発に詳しい山崎正勝東工大教授(科学史)の話 ウランの核分裂など基礎研究の結果を記す史料としては貴重なもの。清水栄先生に生前「残っている唯一の史料」として1945年7月に海軍に提出された核分裂の実験データを見せてもらった。今回のメモにはサイクロトロンの電源装置の図が出てくるなど、サイクロトロン建造の準備段階が記されている。ただサイクロトロンを実際に使った形跡はなく、原爆開発そのものの内容を記した記述はない。原爆開発の前段階に当たる基礎研究の記録まで米側が接収していたことになり、日本の原爆開発を調査した占領軍の荒い仕事ぶりがうかがい知れる。(共同通信 2006/08/03)

がん死8%が放射線原因 被爆者調査で放影研
がんで死亡した広島、長崎の被爆者のうち放射線が原因と考えられる人は8%を占め、被ばく量が高線量の人では40%に上るとの研究結果を、放射線影響研究所(放影研、広島市・長崎市)が3日までにまとめた。
被ばく線量を推定する方式「DS86」を改良した「DS02」が新たに導入されたのに伴い試算した。
放影研が調査対象としている約8万6600人のうち、1950―2002年の間にがんで死亡した1万755人と、白血病で死亡した315人について調べた。
その結果、広島で爆心から約2.5キロ以内に相当する被ばく線量5ミリシーベルト以上の人では、がん死亡の8%、白血病死亡の45%が放射線が原因と考えられた。爆心から約1キロ以内に相当する1シーベルト以上の人では、放射線が原因となった人がそれぞれ40%と86%と推定した。
清水由紀子(しみず・ゆきこ)疫学部副部長は「DS02を使うことで信頼性が増した。がん以外の疾患も原爆放射線との関係を調べる必要がある」と話している。(共同通信 2006/08/03)

被爆者がエノラ・ゲイ見学=「原爆投下命じた人に罪」と批判−米
【ワシントン4日時事】1945年8月に広島と長崎で原爆により被爆し、核兵器廃絶を訴える活動をしてきた日本人男性3人が4日、米バージニア州シャンティリーの国立航空宇宙博物館別館を訪れ、広島に原爆を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」を見学した。
広島で14歳の時に被爆した佐藤良生さん(75)は「この飛行機にやられたのかという印象だ。米国民は憎んでいないが、米政府は被爆者に謝罪してほしい」と強調。同じく広島で15歳で被爆した児玉昭太郎さん(76)は「飛行機自体に罪はない。原爆投下を命令した人が戦争犯罪人だ」と語った。(時事通信 2006/08/05)

原爆投下「戦争終結のため必要」…エノラ・ゲイ元機長
【ラスベガス(米ネバダ州)=古沢由紀子】広島に原爆を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ元機長(91)が6日、米ラスベガスで読売新聞のインタビューに応じ、「広島、長崎への原爆投下は戦争終結のために必要だった」と、その正当性を主張した。
一方で、「私が戦ったのは日本の一般市民ではなくサムライ(旧日本軍)」と表現するなど、現場の当事者としての複雑な思いものぞかせた。
ティベッツ元機長は母親の名エノラ・ゲイを爆撃機に付けたことでも知られる。戦後60年の昨年、乗組員2人と共同で「当時原爆投下は必要であり、我々は後悔していない」との声明を発表したが、日本のメディアの取材には一切応じていなかった。
元機長はインタビューで、原爆投下について「今も全く後悔はない。任務を果たし、(戦争継続で)これ以上血が流れるのを止めたかった」と強調。当日の朝は「準備を徹底していたので不安はなく、成功しなければとの思いだけだった」と語り、さく裂の瞬間は「大きな肩の荷が下りたようだった」と振り返った。
さらに、長崎への投下についても「もちろん必要だった」とした上で、「日本が無条件降伏しなければ、我々は第3の原爆を落とす用意があった」と述べた。この「第3の投下計画」は近年、米軍の電信記録などで裏付けられている。
一方で元機長は、「原爆投下の結果、犠牲になったのは市民」との指摘に対しては無言でうなずくだけ。日本のメディアの取材については、「近年は気が進まず拒否してきた」と口ごもった。
原爆投下の正当性に関しては、開発に携わった科学者らの間でも戦後は意見が割れたが、元機長は一貫して正当性を主張。「戦争を終結させた」と退役軍人らに英雄視されることも多い。
しかし、そうした言動には批判も少なくない。近年は日本の被爆関係者との交流も断っており、米国の核開発関係者からは「内面では、投下に携わったことが長年の重荷になっているのでは」との指摘もある。(読売新聞 2006/08/07)

長崎原爆で発症1.5倍に 血液がんの一種で分析
骨髄の造血幹細胞に異常が起き、正常な血液をつくることができなくなるがんの一種、骨髄異形成症候群(MDS)の罹患(りかん)率が、長崎原爆で被爆した人は被爆していない人の約1.5倍との分析結果を、長崎大原爆後障害医療研究施設などのグループがまとめた。福岡市で開かれている日本血液学会で6日、発表した。
グループの岩永正子(いわなが・まさこ)・長崎大助手(血液内科)は「放射線被爆は明らかにMDSの発生に影響を与えているのではないか」としている。
岩永助手らは、血液専門医のいる長崎市周辺の5カ所の病院で、1980年から2004年にかけてMDSと診断された患者を調査した。
結果によると、MDSと診断された計368人のうち、被爆者は174人、非被爆者は194人。人口10万人当たりの年平均罹患率は、非被爆者の6.2人に対し被爆者は9.23人と、被爆者が約1.5倍だった。
爆心地からの距離で見ると、1.5キロ以内で被爆した人の方が発症の危険性が高かった。MDSには白血病に移行しやすいタイプがあるが、このタイプを発症する危険性も近距離で被爆した人の方が高かった。(共同通信 2006/10/06)

長崎原爆ルポ:米記者「幻のルポ」、61年ぶりに出版
【ロサンゼルス國枝すみれ】原爆投下直後の長崎の惨状を描き、連合国軍総司令部(GHQ)の検閲で封印された米国人記者のルポが米国で出版された。記者の息子で編者のアンソニー・ウェラー氏は6日、米テレビで「政府は情報にフィルターをかけ、国民の意識から『放射能』を取り除こうとした」と当時の政府の対応を批判した。
ルポを書いたのはシカゴ・デーリー・ニューズ紙(廃刊)の故ジョージ・ウェラー記者。原爆投下から1カ月後の長崎に潜入して原稿にしてGHQに送ったが、紙面掲載は許可されなかった。死後、ルポの複写を発見したアンソニー氏が通信用に短縮された約7500語の原稿を書き起こし、「ファースト・イントゥ・ナガサキ」(クラウン出版)として昨年末に出版。原爆症に苦しむ市民の様子などを克明に記録しているほか、捕虜収容所のルポも含まれ、第一級の史料となっている。
毎日新聞は05年6月17日の朝刊で長崎ルポの発見を報じ、一部を掲載した。(毎日新聞 2007/01/08)

被爆者に焦点、米で異例の「原爆」映画公開
■8月6、9日 知らぬ米国人/忘れる日本人
【ロサンゼルス=松尾理也】広島、長崎の被爆者へのインタビューをもとに原爆の悲惨さを訴えるドキュメンタリー映画「白い光、黒い雨」(スティーブン・オカザキ監督)が米国で製作され、このほど公開された。被爆者に焦点をあてた映画が米国で作られた例は極めて少ないという。オカザキ監督は「原爆投下の是非をめぐる政治的な議論を超え、実際の被害に対する認識と関心を呼び起こしたい」と話している。
同作品はこのほどユタ州で開かれたサンダンス映画祭で初公開された。広島、長崎の被爆者14人へのインタビューに加え、原爆投下にかかわった元米軍兵士へのインタビューを織り交ぜ、原爆がもたらした悲惨さを浮き彫りにする。日本でも今年夏に公開される予定だ。
オカザキ監督は広島、長崎への原爆投下について「9割方の米国人は何も知らない。残りの部分も、原爆投下が政治的に正しかったかどうかの論争を行っているだけ。被爆者の現実については、まったくといっていいほど知られていないのが実情」と説明する。
オカザキ監督は1995年、米スミソニアン航空宇宙博物館が企画した原爆展が、国内からわき上がった反対論のため事実上の中止に追い込まれた際、展示スタッフとして働いていた経験もあり、今回の映画について「被爆者を取り上げ、かつ政治的でないドキュメンタリー映画が米国で作られたのは、おそらく今回が初めて」という。
映画は東京・渋谷で若者たちに「1945年8月6日、9日に何があったか知っていますか」と問いかけ、全員が「知らない」と答えるシーンから始まる。オカザキ監督は「知らないと答えた若者だけを取り上げたのではなく、本当に全員が知らなかった。われわれにとっても予想外だった」と述べ、日本でも原爆に対する関心が薄れていることに驚きを隠さない。
「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)をはじめ、第2次世界大戦を題材にした映画の製作が相次いでいることについて、監督は「戦争を体験した世代に残された時間が少なくなりつつあることも作品ラッシュに関係していると思う」と語った。
オカザキ監督は第2次大戦中、日系男性と結婚していたため、白人でありながら強制収容所入りを選んだエステル石郷さんを描いた映画「デイズ・オブ・ウエイティング(邦題・収容所の長い日々)」で、アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞している。 (産経新聞 2007/02/02)

ヒロシマCG、国連で上映 「日常」と「地獄」を再現
【ニューヨーク11日共同】原爆投下前後の広島の「日常」と「地獄」をコンピューターグラフィックス(CG)などで再現した映像作品「ヒロシマ グラウンド ゼロ〜あの日、爆心地では」が11日、国連本部で初めて上映され、国連職員や外交官、市民らが鑑賞した。
作品は広島市の産学官連携組織「爆心地復元映像制作委員会」が企画し、同委代表で被爆者の田辺雅章さん(69)=広島市西区=が監督。田辺さんは上映に先立つ10日、DVDに収めた作品を国連に寄贈した。
作品には原爆投下機「エノラ・ゲイ」の実写なども使われているが、爆心直下の旧細工町の街並みや原爆さく裂の瞬間などはCGで再現。市民の声や鳥のさえずり、げたの音などを挿入し「グラウンドゼロ(爆心地)」をリアルに描き出した。
原爆で母と弟を亡くした田辺さんは11日の記者会見で、爆心地で「この世の地獄」を見て以来「原爆に背を向けて生きてきた」と告白。60歳になってやり残したことがあると感じ「宿命」として制作に取り掛かったと語った。
鑑賞した米市民からは「CGによる再現という発想が興味深い」「作品を非政府組織(NGO)の活動に使いたい」との声が出ていた。(共同通信 2007/04/12)

米で長崎原爆ルポ出版 GHQが公開差し止め
【ニューヨーク30日共同】原爆投下から約1カ月後の長崎に入り被爆地の惨状をルポした米記者の記事を盛り込んだ「ファースト・イントゥー・ナガサキ」がこのほど、米国で出版された。記事は当時、連合国軍総司令部(GHQ)の検閲で公表を差し止められ「幻のルポ」となったが、最近になって未公表原稿のコピーが見つかり、日本でも話題を呼んだ。
ルポはピュリツァー賞受賞者の米紙シカゴ・デーリー・ニューズ(廃刊)の故ジョージ・ウェラー記者が執筆した。1945年9月6日付から始まる記事は、原爆の破壊力や放射線被害の実態を克明に描いたが、掲載は認められなかった。
ウェラー氏は2002年に死去し、原稿の行方も分からなくなっていたが、その後、息子のアンソニー氏がカーボンコピーされた原稿が残されているのを発見。今回、アンソニー氏が編集し出版に至った。(共同通信 2007/05/01)

入市被爆者に残留放射線 「白血病の原因」と指摘
原爆投下後、2週間以内に爆心地付近に入った広島の「入市被爆者」の中に、急性障害の1つである白血球の減少がみられ、残留放射線による0.5シーベルト以上の被ばくがあったと推定されることが3日、分かった。
鎌田七男(かまだ・ななお)広島大名誉教授(放射線生物学)が広島市で開かれた「原子爆弾後障害研究会」で発表した。残留放射線は爆発から1分以後に放出されたもので、爆発直後の初期放射線と区別される。
鎌田名誉教授は昨年、入市被爆者の白血病発症率が高いとの研究結果を発表しており「残留放射線が原因である可能性が高い」と指摘している。
一連の原爆症認定訴訟では、「国は残留放射線の影響を過小評価している」との原告側主張を認める判決が出ている。
鎌田名誉教授は、当時の陸軍や病院などの記録を分析。入市被爆者159人中95人で、白血球が減っていたことが分かった。白血球の減少は0.5シーベルト以上の被ばくで起きるという。
また爆発時に地下室にいて、その後市外に逃げた4人についても、入市被爆と同様の条件と想定。判明している染色体異常率から、推定される被ばく線量は0.9―3.3シーベルトだった。(共同通信 2007/06/03)

エノラ・ゲイ搭乗員と対面 原爆乙女の笹森さん
【ニューヨーク20日共同】13歳の時に広島で被爆、米国に渡りケロイドの治療を受けた笹森恵子さん(75)=米カリフォルニア州在住=が20日、ニューヨークで行われた非営利団体「アジア協会」のイベントで、原爆を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の元搭乗員セオドア・バン・カーク氏と初めて対談した。
笹森さんは「罪のない人の上に原爆を落とすことが戦争を早く終わらせる方策ではない。2度と起こしてはならない」と訴えた。カーク氏は、終戦から約62年を経た今も「原爆が(戦争終結を早め)多くの人命を救ったとの信念は変わらない」と正当化。両者の主張は平行線をたどった。
原爆を投下した米国人と、笹森さんら広島、長崎の被爆者の証言に基づくドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」=原題「ホワイトライト/ブラックレイン(白い光/黒い雨)」=の試写会に伴う企画で、原爆投下から約62年を経た笹森さんらにとって運命的な出会いとなった。
笹森さんは学徒動員中に被爆、やけどによる重いケロイドが残った。米作家、故ノーマン・カズンズ氏の尽力で1955年、25人の「原爆乙女」の1人として渡米、治療を受けた。(共同通信 2007/06/21)

原爆被爆者:食道がんリスク、一般人の1.52倍…放影研
日米共同研究機関「放射線影響研究所」(放影研、広島市・長崎市)は27日、原爆被爆者が食道がんにかかるリスクは、被爆していない人に比べて1.52倍になるという解析結果を発表した。これまで被爆と食道がん発症の相関関係は明確になっていなかった。被爆時に20歳未満だった女性が、子宮体がんにかかるリスクも関連が見られたが、症例が少ないため、今後調査を継続する。
放影研が追跡調査している約12万人の集団から、対象期間の1958〜98年にがんと診断された1万7448件の症例について、被ばく線量を推定する新しい計算式「DS02」を使って解析。これまで胃がんや乳がん、甲状腺がんなど11部位のがんでは、発症リスクと被爆の相関関係が報告されていたが、食道と子宮のがんでは初めて関連が見られた。DS02の導入で、リスク評価の精度が高まったことなどが理由と推測される。
被爆時年齢30歳の人が70歳になった時、被爆していない人に比べてがんにかかるリスクは1.47倍(男性1.35倍、女性で1.58倍)。被爆した年齢が若いほど発症するリスクが高くなるなど、放影研が94年に旧計算式「DS86」を使って58〜87年の症例を解析した結果とほぼ一致した。
また、がん発症リスクの増加と被ばく線量の関連も詳細な解析を試み、線量0.15グレイ(屋外で遮へい物がない場合、広島で爆心地から1.85キロ、長崎で2キロ)以上では相関関係があった。【宇城昇】(毎日新聞 2007/06/27)

ゲルニカで原爆展が開催 長崎の被爆者が体験談
【ゲルニカ(スペイン北部)28日共同】スペイン内戦中に無差別空爆を受け、ピカソの名画でその惨劇が世界に伝えられた同国北部ゲルニカの平和博物館で27日、長崎と広島の被爆資料を集めた原爆展が始まった。開会式では長崎の被爆者、下平作江さん(72)が「被爆者を二度とつくらぬため、長崎を最後の被爆地にしてください」と訴えた。
今年はナチス・ドイツによるゲルニカ空爆から70年の節目。「原爆の恐ろしさを訴えるのにふさわしい」として、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎市)が開催を決めた。
開会式ではゲルニカのゴローニョ市長が長崎から現地入りした一行を「平和の大使だ」と紹介。続いて下平さんの体験講演に市民約80人が静かに聞き入った。
喫茶店経営のフェリペ・オマゴヘアスコアさん(43)は「犠牲者を思うと胸がいっぱいになる。これだけ多くの人を殺す者に憤りも覚える。聞いたことを2人の子供に伝えたい」と話した。
原爆展は被爆者の体内から取り出されたガラス片や被災状況の写真などを9月9日まで展示する。同祈念館による海外原爆展は2005年の米シカゴ、06年の同ラスベガスに続き、3回目。(共同通信 2007/06/28)

米特使、「原爆使用が何百万人もの日本人の命救った」
米政府のロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)は3日の記者会見で、広島・長崎への原爆投下について「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の数十万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と語った。
米国とロシアの核軍縮枠組みづくりに関する会見での発言で、久間前防衛相の発言問題と直接絡んだものではない。ジョセフ氏は、「原爆を使用した米国が核不拡散について訴える道義的な根拠があるのか」との質問に対し、「米国は核不拡散で指導的立場に立ってきた」などとかわした。
米国の歴史学者の間では、原爆使用と終戦の因果関係は必ずしも明確ではない、という学説が有力だ。だが、特使発言のような見方は、保守派を中心に米国内でなお根強い。米政府はこれまで原爆使用について謝罪したことはなく、ジョセフ氏もこれまでの流れに沿って原爆投下の正当化論を繰り返したものとみられる。(朝日新聞 2007/07/04)

原爆投下で米に抗議せず 政府が答弁書
政府は10日の閣議で、広島、長崎への原爆投下について「米国に謝罪を求めるよりも核兵器のない平和で安全な世界を目指して現実的かつ着実な核軍縮努力を積み重ねていくことが重要である」と、今後も米国に抗議しないとする趣旨の答弁書を決定した。
日本政府がこれまで米政府に抗議したことがあるかどうかに関しては「先の大戦後に直接抗議を行ったことは確認されていない」とした。原爆投下そのものは「極めて広い範囲にその害が及ぶ人道上極めて遺憾な事態を生じさせた」と批判した。
久間章生前防衛相が原爆投下を「しょうがない」と発言したことに絡み、社民党の保坂展人氏や辻元清美氏らが提出した質問主意書に答えた。久間氏発言に関しては「原爆投下を是認するとの趣旨で発言されたものでない」と釈明した。(共同通信 2007/07/10)

「原爆投下は戦争犯罪」、国際民衆法廷が判決文 広島
広島、長崎への原爆投下を国際法の視点から検証しようという「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島」の判決公判が16日、広島市で開かれ、判事役のレノックス・ハインズ米ラトガーズ大教授(国際法)らは「正当化できない戦争犯罪」などとする判決全文を言い渡した。市民団体などでつくる同法廷の実行委員会は「久間前防衛相の発言に象徴される原爆正当化論に対抗する法的基盤にしたい」としている。
原爆投下が犯罪と認定されなければ核廃絶は実現できないとの考えから、当時の米国のトルーマン大統領ら15人を被告に、国際法学者らを判事役・検事役にして、昨年7月に裁判形式で開廷。その際、判事団は原爆投下を国際法違反とし、全員を有罪とする判決を言い渡したが、要旨だけだった。
判事団はその後1年がかりで被爆者や専門家の証言、米国立公文書館の機密解除文書などを証拠に判決全文を起草し、この日朗読した。
判決は、原爆投下は民間人を無差別に攻撃対象としており、当時の国際慣習法に照らして違法な戦闘行為だったと指摘。生存者の多くに原爆放射線による深刻で長期にわたる苦痛を与えているのは「人道に対する罪」にもあたるとした。(朝日新聞 2007/07/16)

原爆投下必要なかった?=「使用せずとも終戦」と分析−米軍神話覆す機密資料
広島、長崎への原爆投下が太平洋戦争を終結に導き、何百万人もの人命を救った−。米国が繰り返す原爆正当化の論理は、「(投下は)しょうがない」とした6月の久間章生前防衛相の容認発言と相まって、被爆者の怒りをかき立てている。だが、その正当化論は戦後につくられた「神話」にすぎないことが、終戦前後の米軍資料から浮かび上がってくる。

◇終戦の決定打はソ連参戦

「原爆を使用せずとも、対日戦争は(1945年8月9日の)ソ連参戦でほぼ終わっており、遅くとも46年2月半ばまでには終戦を迎えていた」。戦後間もない46年4月、当時の米陸軍省情報部門の研究チームがまとめた極秘報告書がワシントン郊外の米国立公文書館に保管されている。2発の原爆投下が直接的に太平洋戦争を終結させたわけではないと、第一線の米軍情報担当官らが告白していたことは注目に値する。
報告書は、米軍が原爆を使用しなかった場合の戦局の推移を研究したもので、昭和天皇は早ければ45年6月20日には終戦を決意していたと指摘。ソ連参戦に至るまで、日本指導部は原爆投下にほとんど言及していないとして、和平の仲介を依頼していたソ連の参戦が「日本にとって終戦の理由を完成させた」と結論付けている。

◇侵攻後の米軍死者、30日で1万人

日本が降伏しなければ、米軍は45年11月1日を期して九州侵攻作戦(オリンピック作戦)を発動する計画だったが、報告書は、原爆を併用せずとも作戦開始後2カ月以内に九州占領に成功し、その間の米軍死傷者は7万5000〜10万人と試算。46年春に計画していた関東侵攻作戦(コロネット作戦)の開始は不必要になっただろうと判断している。
オリンピック作戦の計画書(45年春作成)でも、作戦開始後30日間の米軍死傷者を4万9000人(死者・行方不明者1万950人、負傷者3万8050人)と予測。47年に当時のスティムソン陸軍長官が「原爆は米兵100万人を救った」と主張して以来、連綿と続く米国の原爆正当化の論理との乖離(かいり)が浮き彫りになっている。

◇米大統領は広島訪問を

米国のジョゼフ核不拡散担当特使(前国務次官)は7月初め、「原爆投下は日本人数百万人を救ったという点で大半の歴史家が同意するだろう」と述べ、「米兵」を「日本人」に置き換えて原爆の正当化を図った。だが、アメリカン大学のピーター・カズニック教授は「当時の戦況と国際情勢から原爆投下は不必要で、米兵や日本人多数の命を救ったとする考えに同意する歴史家は米国でもほとんどいない」と一笑に付す。それでも、米国の大衆層は原爆が人命を救ったとする理屈を受け入れているという。
従軍慰安婦をめぐる米下院の対日謝罪要求決議を契機に日米間の「歴史摩擦」が再燃し、原爆投下という米国の人道犯罪に対する日本側の非難が高まる恐れも懸念されている。ジョージ・ワシントン大学のマイク・モチヅキ教授は日米の真の和解に向け、「日本の首相がパールハーバー(真珠湾)を、米国の大統領が広島を相互訪問する時が来ればいいのだが」と話す。
しかし、米大統領の広島謝罪旅行は空想の域を出ない。ブッシュ政権は、核兵器恒久化につながる新型核弾頭の開発を急いでいる。米国が原爆正当化の神話を放棄する日は訪れそうもない。〔ワシントン時事〕(時事通信 2007/08/03)

米核テロ対策に協力 被爆者調査の日本専門家
米政府が「核テロ」対策の一環として、広島と長崎の原爆被爆者やビキニ水爆実験被ばく者の調査を続けている日本の研究機関や専門家の技術協力を受けていたことが4日、分かった。米政府は協力を基に、被ばく放射線量と染色体異常の関係を示す基礎データを作成、欧州の研究者も交え、国際協力に関する共同研究も実施した。米核安全保障局(NNSA)や複数の日本側専門家が明らかにした。
ブッシュ米政権はデータを使い、染色体異常の度合いから被害者が浴びた放射線量を推定、治療の優先順位をつける「トリアージ」を導入したい意向。唯一の被爆国である日本の被爆者への調査などを通じて蓄積された知識が、米国の核テロ対策に使われる。
NNSAや日本の専門家によると、米政府は昨年、テネシー州オークリッジに核テロ対策を担当する「生物学的線量推定細胞遺伝学研究所(CBL)」を開設。広島と長崎の被爆者調査を進めてきた放射線影響研究所(放影研)の元遺伝学部長、阿波章夫博士に協力を依頼、核テロ時に使う基礎データを作成した。
データは、染色体異常の発生率と被ばく量の相関関係を示すグラフ。線量を推定するためのモデルを準備しておくことにより、テロ発生時には比較的容易な血液検査で染色体異常の度合いを調べた上で被ばく量を推定、優先順位も含め適切な治療につながるという。
NNSAは「核テロ被害者の治療支援で、被爆者調査から得た知識を生かしていく」とする一方で、被爆者個人の調査データは直接使わないと強調した。
CBLは、ビキニ水爆実験の被ばく者や東海村臨界事故の重症患者を調査、治療した放射線医学総合研究所(千葉市)とも連携。放影研の現役研究者もCBLに助言する評議会のメンバーになっている。

<放射線影響研究所> 原爆放射線の長期的な影響を調査するため、1946年11月、米海軍長官の建言に基づき、トルーマン米大統領が設置を承認した原爆傷害調査委員会(ABCC)が前身。47年にニール博士が広島で血液学調査に着手、その後、広島、長崎を拠点に約12万人を対象に調査を開始した。ABCCは75年、日米共同運営の財団法人「放射線影響研究所」に改組。寿命や成人の健康、被爆者の子供に関する調査を柱にしている。

<米国の核テロ対策> 米中枢同時テロを受け、ブッシュ政権は核兵器や放射性物質を使った「汚い爆弾」が大都市などで使用される「核テロ」の発生を強く警戒。第三国がテロ組織に核物質を渡さないよう、爆発後に核物質の組成を調べて供給源を特定する「属性識別プログラム」を推進、ロシアなどの核物質の保全強化にも協力している。米国向けコンテナの放射性物質探知強化を狙った「メガポート構想」も促進。原則的に今後3年間で旅客機の全貨物の検査実現を目指す新法も成立した。(共同通信 2007/08/04)

長崎原爆:「救護被爆者」がん多発 原爆症認定へ裏付け
長崎に原爆が投下された直後、長崎県大村市の「大村海軍病院」に収容された被爆者らを救護した軍医や衛生兵、看護師らが、がんや肝機能障害、白内障などを、一般より高い率で発症していることが、弁護士らの調査で分かった。被爆者援護法は、広島・長崎市外で救護活動に携わった人も「救護被爆者」として原爆症認定の対象にしているが、認定例は報告されていない。調査に加わった澤田昭二・名古屋大名誉教授(素粒子物理学)は「被爆者の衣服や髪に付いた放射性微粒子を医療従事者が吸い込み、体内で被ばくし続ける内部被ばくによる健康被害の可能性が高い」と指摘。調査結果は、救護被爆者の原爆症認定に向けた一助となりそうだ。
調査は05年11月〜06年11月、同病院の元職員約700人に救護状況や健康状態に関する質問状を送付して実施。遺族を含め約120人から回答があり、うち実際に救護活動に当たった人は73人(男性32人、女性41人)だった。救護被爆者への原爆放射線の影響に関する調査は過去に例がない。
1945年8月9日の原爆投下後、長崎市の北約20キロの同病院には、救援列車やトラックで被爆者千数百人が運び込まれ、約860人の病院職員が救護に当たった。
全国で266人の被爆者が起こしている原爆症認定訴訟の原告に、当時の同病院看護師1人も参加。同病院で救護に当たった人にがん死亡者が異常に多いと聞いたことから、近畿弁護団が統計の専門家と共に調査した。
調査結果は、被爆者278人、非被爆者530人を対象にした「04年くまもと被爆者健康調査プロジェクト04」などと比較して分析。同病院の救護被爆者73人のうち25人(34.2%)ががんを発症しており、「くまもと04」の非被爆者の発症率(9.7%)や遠距離・入市被爆者(19.9%)よりも高率だった。また、肝炎の発症率も「くまもと04」の非被爆者の約2倍。白内障や変形性関節症、前立腺肥大(男性)の発症率も、他調査での非被爆者に比べて高かった。脱毛や下痢など被爆者特有の急性症状も多くの回答者にみられた。
被爆者手帳所持者のうち、疾病が原爆に起因し治療が必要な「原爆症」と認定された人には医療特別手当が支給されるが、認定は手帳所持者の1%未満の2242人。爆心から2キロ以遠の「遠距離被爆」や、被爆地に後日入った「入市被爆」でも、ほとんど認定されていない。救護被爆として手帳を所持する2万5566人については、放射線の影響はほとんどないとして、原爆症認定申請を却下されてきた。【岩崎日出雄】(毎日新聞 2007/08/04)

原爆特別視を懸念、被爆者治療せず 50年代の米公文書
原爆投下後に広島、長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)をめぐり、米政府が「原爆は特別な兵器ではない」との主張が揺らぐのを避ける意図で、被爆者の治療をさせなかったことが50年代の米公文書で明らかになった。原爆投下への謝罪と受け止められることも懸念し、被爆者と他の戦災者を区別しない方針を固めていた。米国は当時の冷戦下で、非人道的と非難されて原爆が使いにくくなるのを防ごうとしていたとされ、研究者は「被爆者への対応も核戦略の中に位置づけられていた」とみている。
朝日新聞が米国立公文書館に対し、ABCCに関する複数の公文書の閲覧を請求した。いずれも50年代に作成された当時は機密扱いで、機密期間が過ぎた80年代以降に開示対象になった。
ABCCは被爆者を検査してデータを収集したが治療はせず、被爆者の間に批判があった。50年代になって日本の報道機関も取り上げるようになっていた。
今回閲覧したうち、パーソンズ駐日公使が国務省北東アジア部にあてた文書(54年2月)には、治療しない理由について「ABCCには日本での医療資格がない」ことなどを列挙。さらに重要なこととして「(治療すれば)被爆者に特別な意味があり、他の兵器の被害者とは異なるという見方を支持することになる」と説明した。「原爆投下への謝罪と解釈されかねない」とも指摘した。
また、ロバートソン極東担当国務次官補にあてた文書(同年1月)の中で、北東アジア部の担当者は米政府の公式見解として「被爆者支援の責任は負わないし、その他の爆撃による被害者と区別することはできない」と述べている。
こうした考え方の背景について、核問題を研究する米ジョージタウン大歴史学部博士課程の樋口敏広さん(28)は「旧ソ連とにらみ合った冷戦下で、米国は原爆を使用可能な兵器と位置付ける必要があった。ABCCが被爆者を治療しなかった理由は核戦略と結びついていた」とみている。(朝日新聞 2007/08/06)

「広島・長崎」原爆の複製爆発、50年前に米で検討
米エネルギー省の前身、原子力委員会が約50年前に、1945年8月に広島・長崎に投下された原爆の複製爆弾を爆発させて、被爆状況を再現する実験を検討していたことが、読売新聞が同省の公文書館から入手した当時の機密文書や書簡でわかった。
検討は60年代初めまで続けられたが、63年に米国などが部分的核実験禁止条約に調印、地上での核実験ができなくなったこともあり、実施に至らなかった。
広島・長崎への原爆投下時は測定技術が開発途上で、原爆の正確な威力や爆発の詳しい様子、放射線量などを十分把握できなかった。
このため、米国は冷戦下の多数の核実験で得た知識と技術で再現爆発を測定することにより、日本の被爆者のデータと突き合わせて、核戦争や核攻撃を受けた場合の人体への放射線影響をより詳しく予測する狙いがあったようだ。
機密文書などによると、実験はネバダ州など米西部の核実験場で行う構想で、同委員会のチャールズ・ダンハム生物医学部長の指揮で専門家チームが準備を進めた。当時の原子力委員長らにも報告された。58年4月には、生物医学部とロスアラモス国立研究所、保健当局の幹部が会合を開いて、実験の必要性や具体的内容について話し合っている。
しかし、この会合では決定に至らず、政府内では「放射能汚染の状況まで再現できるとは限らない」などの反対論も出た。専門家チームがグレン・シーボーグ原子力委員長にあてた63年9月の書簡では、米国の同条約調印により「慎重論が増して見送られる」との見方を示している。
複製爆弾による再現実験とは別に、米国は50年代後半から、ネバダ州の核実験場に切り妻屋根と畳の木造家屋を並べた「日本村」を作り、中性子線やガンマ線の影響を調べる「イチバン計画」を始めるなど、広島・長崎に投下した原爆の威力などを正確に把握するための実験を行っている。
米国の核関連の文献に詳しい広島市立大広島平和研究所の高橋博子助教は「大変興味深い話だ。米国は、放射線の人体影響を詳しく把握しようとしていたことが、機密文書の記述からわかる」としている。(読売新聞 2007/08/06)

核研究の証、京大に 原爆開発懸念し米軍廃棄
連合国軍総司令部(GHQ)が終戦直後、「原爆開発につながる」との懸念から廃棄した京都帝大(現京都大)の円形加速器「サイクロトロン」の主要部品が約60年間、京大内に保管されていたことが7日までに分かった。
原子核反応の研究に使われるサイクロトロンは当時最先端の実験装置で、アジアでは日本だけが京大の1基を含め計4基を開発。一般にはこれまで、すべて廃棄され残っていないと思われていた。部品は京大総合博物館(京都市左京区)の収蔵庫で見つかり、研究者らは「日本の核研究史を考える上で貴重だ」と話している。
保管されていたのは、サイクロトロンの磁極として使われた直径約1メートル、重さ約250キロの鉄製円盤「ポールチップ」1枚。(共同通信 2007/08/07)

原爆実録映画を全米放送 「核の悲惨」訴え有料TV
【ニューヨーク6日共同】広島、長崎の被爆者や元米軍人らの証言に基づき、原爆の悲惨さを描いた米ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」=原題「ホワイトライト/ブラックレイン(白い光/黒い雨)」=が6日夜、米有料ケーブルテレビHBOを通じ、全米で放映された。
米国では原爆投下が戦争終結を早め、多くの人命を救ったと正当化する意見が根強く、プライムタイムと呼ばれる高視聴率帯にこうした映画が放送されるのは異例。HBOは一部の反発も覚悟しながら「核戦争の壊滅的影響」(担当ディレクターのサラ・バーンスタインさん)を伝えるため放送に踏み切った。
日本でも公開中の同映画は日系3世のスティーブン・オカザキ氏が監督。原爆を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の元搭乗員や科学者ら4人の米国人と、被爆者14人の証言に基づき「62年前の夏」を再現した。
HBOは米娯楽・メディア大手タイム・ワーナー傘下。HBOグループ全体の受信契約数は全米で4000万を超える。(共同通信2007/08/07)

核不使用の教訓と、米紙評価 原爆映画「ヒロシマナガサキ」
【ニューヨーク7日共同】米国ニューヨーク・タイムズ紙は7日までに、全米でテレビ放映された米ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」=原題「ホワイトライト/ブラックレイン(白い光/黒い雨)」=について、ユダヤ人大量虐殺の再発を阻止し、2度と核兵器を使わないことが第2次大戦の教訓であることを明確に思い起こさせてくれる作品と評価した。
同紙の本社があるニューヨークでは、中枢同時テロで崩壊した世界貿易センタービルの跡地は「グラウンド・ゼロ(爆心地)」と呼ばれている。同紙は62年前に原爆が投下された広島と長崎を「最初のグラウンド・ゼロ」と形容、被爆者らが体験した苦しみに思いを重ね合わせた。
この映画は広島、長崎の被爆者や元米軍人らの証言に基づき、原爆の悲惨さを描いた。6日のテレビ放映については、AP通信も報道。(共同通信 2007/08/08)

「長崎」後、東京投下を検討=3発目の原爆標的−米軍機密電文
【ワシントン8日時事】1945年(昭和20年)8月9日の長崎への原爆投下後、米軍上層部が東京を標的に3発目の原爆投下を検討していたことが、米国立公文書館に保管されている当時の米軍最高機密電文で裏付けられた。
トルーマン政権は原爆投下目標を広島と長崎、小倉、新潟の4都市に絞り込み、東京は標的から外されたとされているが、この機密電文の存在は、米軍上層部が終戦間際まで東京への原爆攻撃を視野に入れていた事実を示している。(時事通信 2007/08/08)

米国の原爆投下を批判 ニカラグア大統領
米国にイランや北朝鮮の核開発を責める権利はない−。25日始まった国連総会一般討論で演説したニカラグアのオルテガ大統領は、日本に原爆を投下しながら他国の核問題を非難する米国の政策を、強い調子で批判した。
演壇で最初は静かに語り始めた大統領だったが、米国批判を始めると徐々にヒートアップ。「広島と長崎で無実の人々に原爆を投下した世界中でただ一つの国」である米国が「平和目的で核開発をしていると言うイランや北朝鮮をどうして非難できるのか」と何度も手を振り上げながら興奮気味に話した。
演説時間は制限時間の15分を大きく超え30分以上に及んだ。(共同)(産経新聞 2007/09/26)

原爆投下命令の地に記念碑 独ポツダムの広場
【ポツダム(ドイツ東部)6日共同】第2次大戦の戦後処理を協議したポツダム会談の期間中、広島と長崎への原爆投下を命じたトルーマン米大統領(当時)の宿舎、通称「リトル・ホワイトハウス」前の広場に、原爆の悲劇を訴える記念碑の設置が計画され、「歴史を記憶する広場」に生まれ変わることになった。
ポツダムの市民運動団体が手掛けるプロジェクトで、16歳の時に広島で被爆した、ベルリン在住の外林秀人元ベルリン工科大教授(78)も協力。原爆投下から65年に当たる2010年までの完成を目指している。
指揮を執る緑の党主体の「ポツダム90年連合」のウウェ・フレーリヒ氏によると、ポツダムは投下から60年の05年、宿舎前の敷地を「ヒロシマ・プラッツ」(広島広場)と命名。記念碑には日独英の3カ国語で「原爆の破壊的威力で何十万人もが死亡し、人類に恐るべき悲劇をもたらした」と刻まれる予定で、広場全体のデザインは日本とドイツから公募する。
同氏は「被爆生存者も減っている。ポツダムが原爆投下に関係したとの歴史的事実を若者にも伝えたい」と話している。
ポツダム会談は1945年7―8月、トルーマン、チャーチル、スターリンの米、英、ソ連の首脳がドイツの戦後処理や対日戦争の終結策などを協議。日本に降伏を迫った「ポツダム宣言」を採択したことで知られる。
本国での核実験成功の知らせを受け、トルーマンは7月24日、リトル・ホワイトハウスで広島、長崎への原爆投下を命令したとされる。
外林さんは「原爆投下決定の場所は意外と知られておらず、悲劇を伝える活動を続けたい」と話している。(共同通信 2007/11/07)

ドイツ:外林さん、60年の沈黙破り「ヒロシマ」語る 「ポツダム原爆碑」建立支援で
◇「被爆者の義務と感じた」
広島に投下された原爆で被爆した、ベルリン在住50年の外林秀人・元ベルリン工科大学教授(78)が、60年以上の沈黙を破って自らの体験を語り始めた。1945年夏、当時のトルーマン米大統領が原爆投下を命令したベルリン近郊のポツダムに、原爆犠牲者を悼む記念碑の建立計画を後押しするためだ。「ヒロシマの語り部」の出現は地元メディアでも紹介され、大きな反響を呼んでいる。【ベルリン小谷守彦】

外林さんは16歳の時、爆心地から1.5キロの学校で授業中に被爆。奇跡的に生き残り惨状を目の当たりにしたが、被爆者や親族への差別を案じ、体験を口にすることはなかった。しかし、昨年、「核戦争防止国際医師会議」が中心となって進める記念碑建立計画を知り考えが変わった。
ポツダムでトルーマン元大統領が滞在した宿舎「トルーマン・ハウス」は現在、政党系財団の本部になっている。原爆投下が指示され、日本に早期降伏を求める「ポツダム宣言」が発表された宿舎前の一角は2年前、「ヒロシマ広場」と改名された。原爆記念碑はこの広場に建てられる。
外林さんは今月1日、ベルリンの講演会で約200人に被爆体験を初めて語り、記念碑への寄付を呼び掛けた。語り部の存在を知った学校などからも講演依頼が相次ぎ、「広島の惨状を知らないドイツ人の関心は高い。寄付も予想以上だ」と手応えを感じている。
「記念碑建立に協力することが被爆者としての義務だと感じた」という外林さんは、「元気なうちにドイツ各地を回りたい」と決意を語った。(毎日新聞 2007/11/11)

「原爆研究」京大に日誌 海軍への支援依頼などが記載
戦時中、旧海軍から原爆研究の委託を受けて旧京都帝大(現京都大)で建造が進められていた加速器「サイクロトロン」の工事記録などを記した日誌が、京都大化学研究所(京都府宇治市)に残されていた。サイクロトロンは戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって破壊されたうえ関係書類も押収されており、京都帝大と旧海軍との関係や建造の経緯を知る資料になりそうだ。
日誌は「京大サイクロトロンの生立」と題した大学ノートで、終戦前年の1944年11月から約1年間にわたり、日ごとの搬入物や工事に携わった人数などが詳しく記されていた。旧海軍との接触記録もあった。物資が不足した45年の2月10日には、在大阪海軍監督官事務所で酸素や溶接材料の配給を監督官に依頼。同14〜19日には艦政本部で旧海軍から委託された原爆研究(F研究)の打ち合わせがあった。
当時、京都帝大の故荒勝文策教授と共に加速器造りにあたった故木村毅一・助教授が個人的に残していたらしい。日誌は75年ごろ、木村さんから竹腰秀邦・京大名誉教授(81)=原子核物理=が引き継ぎ、同研究所図書室に保管した。
竹腰さんは「京大は基礎研究のためにサイクロトロンを造ろうとしたが、旧海軍は原爆製造の現実性を確かめるため、京大に原爆研究を委託したと考えられる。軍との関係を示す当時の資料はほとんど残っておらず、貴重だ」と話している。(朝日新聞 2008/03/18)

原爆投下後の情報統制 放射線影響を過小評価 米国の姿勢問う
高橋・広島市大助教が出版
広島市立大広島平和研究所の高橋博子助教が、原爆投下後の米国による情報統制や、その後の米核戦略の背景を明らかにした「封印されたヒロシマ・ナガサキ 米核実験と民間防衛計画」(凱風社)を出版した。米国立公文書館から入手した資料を基に、放射線の人体への影響を過小評価し続けた米国の姿勢を問う内容で、高橋助教は「今後も公開された資料をひもとき、コントロールされていた原爆の情報を明らかにしていきたい」と話している。
高橋助教は、同志社大大学院文学研究科を修了後、1995年に米メリーランド大に留学したのをきっかけに、米国立公文書館で機密解除された原爆や核実験に関する資料を収集。今回の本では、2006年11月までに集めた資料を基に、米国が行った原爆情報収集と報道統制、ビキニ環礁での核実験や民間防衛計画など、全5章でつづった。
広島、長崎への原爆投下後、米国が被害に関する情報を管理・統制し、とりわけ人体への放射線の影響を過小評価したことについて高橋助教は「原爆投下への批判をかわし、核兵器開発や核実験をやりやすくする意図があったのではないか」と分析。第五福竜丸の被曝(ひばく)前まで「広島、長崎では残留放射線は人体に影響を与えていない」とする見解を米国が主張し続けたことが、初期放射線しか考慮されない現行の原爆症認定基準に大きな影響を与えたと指摘している。
核実験や原爆投下に関する文書は、90年代から徐々に機密解除されてきたが、公開されたのはその一部だけだといい、高橋助教は、「核を肯定するため、広島、長崎の被害の実態は隠されている。この本が、戦争や平和を考える人の手助けになれば」としている。
(読売新聞 2008/03/24)

米国:中国への核使用検討 空軍、58年台湾危機で──公文書公表
【北米総局】米ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は4月30日、中国と台湾が武力衝突した1958年の第2次台湾海峡危機の際、米空軍が中国への核爆弾投下を検討していたことを示す公文書を公表した。アイゼンハワー大統領(当時)は投下を認めず、初期段階では通常爆弾での攻撃を指示したという。
公文書は当時の米空軍戦史担当者による報告書。大学が情報公開法に基づき、入手した。文書によって、米側の具体的な核計画が明らかになった。
公文書によると、米軍は台湾海峡危機の戦況を憂慮。危機が高まった場合には、米空軍が広島型原爆と同規模の爆発力である10〜15キロトンの原爆を福建省アモイ一帯に投下する計画を策定した。
しかし、米政権は核爆弾を実際に投下した場合、放射性降下物の拡散や中国以外にも台湾の住民に死傷者が出る可能性、核戦争に発展する恐れなどを懸念。計画を見送った。

<58年の台湾海峡危機> 中台間の海峡で起きた緊張状態。中国人民解放軍が58年8月、台湾の軍事拠点だった金門島を砲撃して始まった。台湾は金門島の対岸にある中国福建省アモイを攻撃。台湾支持を表明した米国は9月、金門島への物資補給を実施し、中国の海上封鎖は失敗した。54〜55年、96年にも同様に「台湾海峡危機」と呼ばれる事態が発生している。(毎日新聞 2008/05/01)

原爆投下、沖縄から出撃 台湾危機時の中国爆撃計画
【ワシントン12日共同】中国と台湾が武力衝突した1958年の台湾海峡危機で、台湾を支持する米軍首脳部が中国本土への原爆投下作戦を立案した際、沖縄の嘉手納空軍基地からの出撃を計画していたことが12日までに分かった。米シンクタンク「国家安全保障公文書館」が情報公開法を通じて空軍の旧機密文書を入手、公表した。
沖縄は15日、米国が72年に施政権を返還してから36年を迎える。今回の文書は、沖縄が返還前から核を含む米軍事戦略に深く組み込まれ、台湾有事の際の出撃拠点となっていた実態を映し出している。
機密指定を解かれた同文書は「58年の台湾危機における空軍作戦」と題され、空軍の戦史部門が62年11月にまとめた。それによると、米太平洋空軍は、中国人民解放軍が台湾攻撃の準備を進めていた58年夏、台湾防衛のため中国本土に原爆を投下する作戦計画を策定した。(共同通信 2008/05/12)

白血病発症、被爆60年後も 爆心1.5キロ内の高齢者
原爆の爆心地から1.5キロ未満の近距離で被爆した人は、被爆から60年以上が過ぎ、高齢になった現在でも白血病になる恐れがあることが、朝長万左男長崎大教授(血液内科)の研究で分かった。
白血病は被爆後10年程度で発症率がピークに達し、その後は減少すると考えられていたが、近年の症例を詳しく調べると、近距離被爆者は半世紀以上の潜伏期を経て初めて発症するケースが多いという。
朝長教授は「放射線を浴びたことで骨髄内にある造血幹細胞の染色体が不安定になり、長い年月のうちに遺伝子が複雑な変異を繰り返し、白血病化してしまうというプロセスではないか」とみている。8日、長崎市で開かれる原子爆弾後障害研究会で発表する。
朝長教授は、長崎市の被爆者約12万人の健康状態データベースから、造血幹細胞の染色体異常が原因とされ、急性骨髄性白血病に移行しやすい造血障害「骨髄異形成症候群(MDS)」と診断された126の症例を抽出し、被爆距離や血液の状態、染色体の所見などを分析。
その結果、近距離被爆者のMDS発症率は3キロ以遠被爆者の約4倍と、白血病になるリスクが高かった。
宮川清東大教授(放射線分子医学)は「被爆者にMDSが多いのではという指摘はこれまでもあったが、具体的な疫学データが出たことは興味深い。高齢被爆者の白血病を早期発見するために、定期的な検診が重要であることを示す研究結果だ」と話している。(共同通信 2008/06/08)

60年経過 新たに白血病 「放射線の影響は一生」
爆心1.5キロ以内の被爆者 長崎大調査
長崎原爆の爆心地から1.5キロ以内の近距離で被爆した人たちが被爆から60年以上が過ぎて高齢化した現在、新たに白血病を発症する恐れがあることが長崎大(長崎市)の研究グループの調査で分かった。同大原研内科の朝長万左男(ともながまさお)教授が8日、長崎市である第49回原子爆弾後障害研究会で研究成果を報告する。
朝長教授らのグループは1980−2004年に長崎市で健康診断を受けた被爆者のうち、白血病につながる造血器疾患「骨髄異形成症候群」(MDS)と診断された162人(平均年齢70.7歳)を対象に調査。爆心地から1.5キロ以内で被爆した人のMDS発症率が、3キロ以遠で被爆した人に比べ3.7倍に上ることが分かったという。
MDSは骨髄中の造血幹細胞に異常が生じ、正常な血液を作れなくなる病気。中高年者を中心に発症し、4分の1程度は急性骨髄性白血病に移行するとされる。
従来、被爆による白血病は若年者を中心に被爆後10年以内に多発し、その後は発症が沈静化するとされてきた。今回の研究は放射線で傷ついた造血幹細胞の遺伝子変異が長期間蓄積することで、高齢化した被爆者が新たに白血病を発症する可能性を示しているという。
朝長教授は「原爆の放射線が被爆者の健康に生涯にわたり悪影響を及ぼすことがはっきりしてきた。高齢化した被爆者に白血病が多発する恐れがある。検診による早期発見と治療が重要だ」と話している。(西日本新聞 2008/06/08)

「黒い雨」で複数がんか 広島の被爆者で確認
広島の爆心地から4.1キロ離れた地点で被爆した女性(92)が、「黒い雨」などの放射性降下物による残留放射線の影響で複数のがんを患ったとみられることが、鎌田七男広島大名誉教授(放射線生物学)らの調査で8日分かった。
長崎市で同日開かれた「原子爆弾後障害研究会」で発表。染色体異常率などから、女性の被ばく線量を爆心地から1.5キロの地点での直接被爆に匹敵すると推定した。
原爆症の認定をめぐり国が敗れた大阪高裁判決は、被ばく線量算定について「放射性降下物や内部被ばくの可能性を考慮すべきだ」と指摘している。
国は4月から、積極認定の範囲を「爆心地から3.5キロ」などと拡大。鎌田名誉教授は「新基準から漏れる被爆者にも、残留放射線が深刻な健康被害を及ぼした可能性が高い」としている。
女性は放射性降下物が多かった広島市古田町(当時)の自宅で出産後まもなく被爆、2週間を過ごした。80歳を過ぎてから肺や胃、大腸にがんを患い手術を受けたほか、骨髄機能の異常もみられるようになった。(共同通信 2008/06/08)

77歳女性、被爆証言終える 「地球上から核なくして」
【スプリングフィールド(米マサチューセッツ州)2日共同】広島市が呼び掛ける「全米原爆展」で、被爆者体験証言の第6陣として訪米中の服飾デザイナー長尾ナツミさん(77)=同市=が2日夜(日本時間3日午前)、米北東部マサチューセッツ州スプリングフィールドで市民ら約60人に「地球上からすべての核兵器がなくなることを願います」と訴えた。
これで6月27日から2州5都市で繰り広げた証言活動は終わり、長尾さんは「つらい体験を話すのは嫌だったが、原爆投下国で話ができて良かった。平和の願いを若い人々にも受け継いでもらいたい」と感想を述べた。5日に帰国する。
体験証言は地元の市民団体などが主催し、音楽学校のホールで開かれた。広島、長崎の惨状を伝える写真ポスターの展示に合わせて長尾さんが招かれた。
長尾さんは「63年間、被爆者として一生懸命生きてきた」と振り返り、爆心地から約1.4キロ離れた女学校の校庭で被爆した際の様子やその後の体験を通訳を交え約1時間語った。(共同通信 2008/07/03)

原爆開発資料、25点を接収=京都帝大からGHQ−米報告書
【ワシントン6日時事】戦時中、旧日本海軍から原爆開発の委託を受けた京都帝大(現京都大)の故荒勝文策教授の研究室から、連合国軍総司令部(GHQ)が接収した資料は少なくとも25点に上ることが、米公文書の記録で6日、分かった。所在不明になった接収資料に関する調査報告書で、京大名誉教授の政池明氏(73)が米国立公文書館で入手した。
接収された京都帝大の原爆開発研究者の資料をめぐっては、荒勝教授の下でサイクロトロン(円形加速器)などの研究に携わった故清水栄・京大名誉教授らの2冊の研究日誌がワシントンの議会図書館で見つかっているが、何点の資料が接収されたのかは分かっていなかった。(時事通信 2008/07/07)

テレ朝50周年特番、日本の原爆計画を追う
世界唯一の被爆国である日本にも原爆開発計画があった。そんな驚くべき事実が、テレビ朝日開局50周年記念「原爆〜63年目の真実〜あの夏“封印”された昭和史最大のミステリー」(8月2日午後9時放送)で明かされる。幻の原爆開発計画は3話構成の中の1話で、開発秘話がドキュメンタリーとドラマとしてまとめられている。
日米開戦目前の1941年(昭16)4月、陸軍が東京・駒込の理化学研究所に原子爆弾の開発を正式依頼。優秀な科学者たちが米国の科学者らと同様、ウランの分離で原爆製造が可能だと陸軍に伝えた。
その原料となるウラン鉱石の採掘に、福島県石川町に住む15歳の中学生たち160人が動員される。その1人の証言を軸に物語は進む。同町で「1000キロ」相当の鉱脈が発見されたからだ。「マッチ箱1箱分でニューヨークを吹き飛ばす爆弾ができる」と軍人に聞かされる。終戦となる45年、研究所が空襲を受けて実験装置が炎上。計画は断念されたが、中学生らはわらじ履きに素手でウランを掘り続けて終戦を迎える。そして、真実は封印された。
戦後63年、原爆の記憶は年々風化。当事者たちの証言を得られるギリギリの時期でもある。テレビ朝日は「生き証人たちの再現ドラマは、昭和史から置き去りにされた真実であり、語り継がなくてはならない平和へのメッセージ」と制作意図を説明した。
番組にナビゲーターとして参加した中井貴一(46)は「原子力には太陽の面(エネルギーとしての発電)と悪魔の面があると思う。悪魔の面を伝えるのは自分たちが生きていくために必要なこと」と語っている。(日刊スポーツ 2008/07/14)

「ユカワは原爆研究に関与せず」GHQ報告書、米で発見
【ワシントン=勝田敏彦】第2次世界大戦中、京都帝国大が行った原子爆弾研究に、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹氏(1907〜81)はほとんど関与していなかった──。米国立公文書館に保存されていた資料から、連合国軍総司令部(GHQ)がそう結論づけていたことがわかった。後年、核廃絶や平和運動に力を入れた湯川氏の軌跡をたどる手がかりとして注目される。
日本の原爆研究としては、旧陸軍の委託で仁科芳雄氏らが東京の理化学研究所で行った「ニ号研究」と、旧海軍の委託で京都大理学部の荒勝文策教授らが行っていた「F研究」が知られている。
政池明・京都大名誉教授(素粒子物理学)らは、米国立公文書館で、GHQの科学顧問だったフィリップ・モリソン氏らによる機密解除報告書などを見つけた。
モリソン氏は、米の原爆計画であるマンハッタン計画に参加した核物理学者で、日本の原爆開発能力を調べるため、日本に派遣された。
終戦翌月の45年9月に京都で、F研究の実験を指揮した荒勝教授と理論の責任者だった湯川教授に尋問し、湯川教授が不在のときに研究室の本や資料を調べた。
報告書は「湯川教授は(ノーベル賞授賞理由となった)中間子論の研究にすべての時間を割いており、原爆の理論研究はほとんどしていなかった」と結論づけている。
F研究のチームは終戦直前、旧海軍との会議を開き、湯川氏も出席している。ウラン鉱石の入手が困難なことなどから、「原爆は原理的には製造可能だが、現実的ではない」との結論を出したとされる。
湯川氏は、「中間子論」を34年に発表し、F研究に参加していたころは世界的に著名な理論物理学者だった。49年、日本人として初のノーベル賞を受賞し、55年には核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言に署名した。(朝日新聞 2008/07/18)

模擬原爆を知っていますか? 太平洋戦争末期に米軍が投下訓練
太平洋戦争末期に行われた米軍による原爆投下訓練で、長崎で落とされた原爆と同じ重さと同じ形状の「模擬爆弾」が全国各地に投下された。昭和20年7月26日に大阪市東住吉区に落とされた大型爆弾もそのひとつだが、投下されたのが模擬爆弾だったことは長年伏せられたままだった。同区の住民グループでは一連の原爆作戦を風化させまいと、毎年この日に集いを開き、追悼の活動を続けている。
63年前、爆弾が投下される瞬間を自宅から目撃した当時、中学生の杉浦順吉さん(77)は「B29をのんびり見上げてたら、機体から黒い塊がすーっと落ちてきた。慌てて家に飛び込むと、ボガーンと轟音(ごうおん)がして、見に行くと池のような穴が開いていた」と証言する。
市の記録によると、爆弾による死者7人、負傷者73人、倒壊戸数は486戸にのぼる。落とされたのは長崎に投下された原爆「ファットマン」と同じ直径約1.5メートル、長さ3.3メートル、重さ5トンの模擬原爆「パンプキン」だった。
実際の原爆の投下作戦にあたるB29は、爆発による衝撃波を避けるために投下直後、難しい急旋回をする必要があり、その訓練のため、同年7〜8月にかけ東京や福島、愛知などに、通常火薬を詰めた50発の模擬原爆が落とされたという。
模擬原爆の存在は戦後長く知られないままで、東住吉区に投下されたのも通常の1トン爆弾と伝えられていた。だが、平成3年に愛知県春日井市の市民グループが米軍文書から原爆投下訓練だったと確認。存在が明らかになった。
同区では犠牲者の遺族が平成13年に「模擬原子爆弾投下跡地の碑」を建立。地元住民らが追悼の集いを続けており、今年も26日午前9時から、碑の前で集いが開かれる。模擬原爆被害の目撃者や広島・長崎の被爆者が当時の惨状を語るほか、投下時刻に合わせて黙祷(もくとう)し、不戦の誓いを新たにするという。
追悼式を主催する市民グループ「7.26田辺模擬原爆追悼実行委員会」の吉村直樹さん(61)は「模擬原爆による被害地域のなかには、その事実が知られていないところもある。広島・長崎の悲劇が全国につながる身近なものだったことを知ってほしい」と話している。(産経新聞 2008/07/19)

戦中の加速器日誌を発見 理研「大サイクロトロン」
太平洋戦争中に東京都内にあった理化学研究所(理研)で造られ、日本の原爆研究開発計画にも組み込まれた加速器「大サイクロトロン」(重量220トン)の実験などを記録した日誌2冊を、仁科記念財団(東京都文京区)の中根良平常務理事(87)が20日までに、理研跡地にある同財団で発見した。
大サイクロトロンは日本の敗戦後、米軍が破壊し、東京湾に沈めた。日誌は、原爆研究の責任追及を恐れた理研の研究者によって焼却されたと考えられており、発見は初めて。戦中の理研での原子核研究を探る第一級の資料として注目される。
日誌の期間は、1942年7月−43年1月と43年2月−44年4月。A5判のノートに建造や実験の苦闘ぶりが、図面や数値入りで日曜日を除く連日、日記風に詳しく書き込まれている。
日誌は、当時の理研の資料を引き継いだ財団のロッカーで、本に挟まっていた。元理研副理事長の中根さんが本の整理中に偶然発見。「よくぞ残っていた」と感激する。
主任研究員だった仁科芳雄博士(1890−1951年)のもとでサイクロトロンを担当していた山崎文男博士(1907−81年)が主に書き、ほかの研究員も随時、データなどを細かく書き込んでいる。資材不足の中、装置を真空に保つのに苦心した様子(42年7月)や、「遂ついに(中略)ビーム光る」(43年12月)と、うまく進んだ喜びが読み取れる。
日誌の記録は、現在残っている写真やほかの資料と符合し、正確だ。出征する研究者の壮行会や、実験中に放射能を浴びたためとみられる研究者の白血球減少なども記述されていた。

江沢洋学習院大名誉教授(物理学)の話 大サイクロトロンの建造や実験の様子はこれまで詳しく分かっていなかった。日誌はその空白を埋める貴重な資料だ。戦中で資材が欠乏する中で材料入手に苦労した様子がつかめる。
大サイクロトロンは「使い物にならなかった」とされていたが、日誌からは、実験を試みていたことが分かる。日誌を読み解く必要がある。

<大サイクロトロン> 磁場の中で円運動しているイオンを加速し、新しい元素づくりなどに使われる基礎実験装置。理研が、1937年に造った小サイクロトロン(重量23トン)に続き、44年に完成させたが、これまで建造や実験の詳細は不明だった。強い中性子源などになるため旧陸軍の原爆開発研究「ニ号研究」の一端に組み込まれ、学術的な装置でありながら、原爆研究に関係する二面性があった。米軍が45年11月に理研の2基と京都大、大阪大の計4基のサイクロトロンを破壊した。大サイクロトロンは当時世界最大級で、成果が期待されていただけに、破壊への非難が国際的に高まった。(共同通信 2008/07/21)

マル秘情報届き原爆と認識 仁科博士に広島投下の翌朝
広島への原爆投下に関するトルーマン(当時の米大統領)声明を伝えるマル秘扱いの「敵性情報」が投下の翌朝、旧陸軍の原爆研究開発計画を指導していた仁科芳雄博士(1890―1951年)に届いていたことが3日、分かった。
同盟通信(共同通信などの前身)記者が届けたとみられる。仁科博士はこの資料で、広島に投下された爆弾をいち早く原爆と認識、その後の終戦決断に至る流れを速めたきっかけとなった。
この敵性情報は、同盟通信社内の情報局分室がB5判のわら半紙にタイプ印刷したもので、太平洋戦争中に理化学研究所(理研、東京)主任研究員だった仁科博士の部屋(現仁科記念財団)にそのまま保管されていた。
敵性情報は、政府や軍部の首脳だけに配られており、民間人に渡すのは極めて異例。
当時、仁科研究室に在籍していた中根良平・元理研副理事長(87)は「同盟通信の古野伊之助社長(1891―1966年)の命令で、博士と親しい記者が原爆投下翌日の1945年8月7日朝に届けたと、数日後に仁科さんの秘書から聞いた」と話す。仁科博士は翌8日に現地調査に向かった。
トルーマン声明は「今から16時間前、米国の一航空機は日本の重要陸軍基地、広島に一個の爆弾を投下した。TNT(火薬)2万トンよりも強力で(略)それは原子爆弾である」で始まり、同盟通信が7日未明に受信した。この声明で世界が原爆投下を知った。しかし、大本営は原爆とせず「新型爆弾」と発表した。
仁科博士が「原爆」と判断したのを聞いたことが、終戦工作を加速するきっかけになったことは、後に古野社長も明らかにしている。

戦前の理研を描いた「科学者たちの自由な楽園」の著者でジャーナリストの宮田親平氏の話 仁科芳雄博士は広島に投下されたのが原爆であることを現地調査に行く前に覚悟していたが、その根拠が謎だった。同盟通信の記者がトルーマン声明の「敵性情報」を渡したことはあり得る。情報が保管されていたのは、動かぬ証拠となる。初めて聞く話で、重要な発見だ。

<仁科博士に渡った敵性情報> 仁科記念財団に保管されていた「敵性情報」はB5判わら半紙にタイプ印刷され、14件計約60枚に上る。トルーマン声明や英首相アトリーの原爆声明、原爆実験などを報じた外電を同盟通信社が翻訳、8月7―9日に配布した。敗戦時にほとんど焼却され現物は少ない。紙の裏に仁科芳雄博士が走り書きしたとみられる原爆の規模を計算したメモも残っているが、8月9日に長崎に投下された原爆の情報はない。(共同通信 2008/08/03)

被爆者に血液のがんが増加 長崎原爆病院の診療状況
長崎市の日赤長崎原爆病院は4日、2007年度に入院した被爆者の診療状況を発表した。進藤和彦院長は「被爆者の高齢化とともに、白血病など血液のがんが増加傾向にある」と分析している。
白血病の患者数は被爆直後に増え、その後減少の一途をたどっていたが、染色体異常には発症まで長くかかる場合があり、遅れてがんが発生するケースが増えていると考えられるという。同病院には07年度、白血病など血液のがんの被爆者が52人入院。3年前に比べ20人多かった。
原爆症認定の申請についての相談は07年度、与党のプロジェクトチームなどが認定基準の改正の議論を始めたことを受けて、前年度より82件多い209件に増加。その結果、87人が申請し1人が認定された。
07年度の入院被爆者数は過去最多だった06年度よりも219人多い2024人で、平均年齢は75歳となっている。(共同通信 2008/08/04)

被爆者:低放射線量、がん死高率…非被爆者の2.7倍も
爆心地から2.7〜10キロ離れた場所で被爆し、原爆のさく裂に伴う放射線を直接浴びた量が少ない極低線量被爆者でも、被爆していない人よりがんによる死亡リスクが高いことが、名古屋大などの研究者グループの疫学調査で分かった。放射線影響研究所(放影研)が寿命の追跡調査をしている広島被爆者の集団と、広島、岡山両県の住民データを非被爆者群として比較した。低線量被爆者と一般住民を比べた初めての本格的な研究で、「黒い雨」による残留放射線などの影響が表れた結果と分析している。

◇「原爆症認定基準に疑問」

研究グループは、名古屋大情報連携基盤センターの宮尾克教授(公衆衛生学)ら4人。9月15日発行の日本衛生学会の英文雑誌で発表する。
調査は、71年当時の両県住民のうち、原爆投下時に0〜34歳だった計約194万人の同年から90年までの死亡データを使用。放影研の寿命調査のうち広島の被爆者データ(約5万8000人分)を同等の年齢構成などになるよう補正して比較した。その際、極低線量(爆心地から2.7キロ超〜10キロ以内で被爆、被ばく線量0.005シーベルト未満)▽低線量(同1.4キロ超〜2.7キロ以内、同0.005シーベルト以上0.1シーベルト未満)▽高線量(同1.1キロ超〜1.4キロ以内、同0.1シーベルト以上〜4.0シーベルト未満)──の3群に分け、各種がんの死亡率を比較した。
その結果、極低線量・低線量の両被爆者群は、男性の固形がん(白血病など造血器系を除くがん)で両県住民より1.2〜1.3倍高かった。肝臓がんでは男女とも1.7〜2.7倍になり、子宮がんでは1.8〜2.1倍となった。
宮尾教授らは「原爆症の認定基準の根拠である放影研の被ばく線量推定方式が、遠距離被爆者の浴びた放射線量を過小評価している可能性や、黒い雨や微粒子など放射線降下物による残留放射線の影響が予想以上に遠方まで及ぶことを示唆している」と話している。
原爆放射線に詳しい沢田昭二・名古屋大名誉教授(理論物理学)は「原爆症の新認定基準は残留放射線の影響を重く見ておらず、改めて国の見解を問い直すものだ」と指摘している。【牧野宏美、立石信夫】

◇解説…残留放射線、考慮迫る…被爆者同士の比較避け

低線量被爆者のがん死亡リスクを研究した今回の疫学調査は、放射線影響研究所(放影研)の発がんリスクなどに関する研究で、比較対象としてこなかった「非被爆者群」を一般住民のデータを用いて明確に設定。これまで事実上無視されてきた残留放射線の影響を見直す必要性があるとした点で注目される。
放影研の寿命調査は、約12万人を対象としている。うち広島、長崎の約9万3000人を被爆者とし、被爆時に両市内にはいなかった約2万7000人を「非被爆者群」としてきた。この非被爆者群は、その後の入市状況など行動記録が明確ではなく、放影研は最近まで、被爆線量が0.005シーベルト未満(今回調査の「極低線量群」)の遠距離被爆者を比較対照群として、がんの死亡リスクなどを研究し、「被爆者同士を比較している」との批判を招いてきた。
さらに、被ばく線量は、直接被爆にあたる初期放射線の爆心地からの距離などを基に推定する計算方式を採用。放射線降下物など残留放射線の影響も考慮されなかった。
今回、実際の「非被爆者」と比較し、極低線量被爆者にも統計学的に有意な高い死亡率が示された。4月から原爆症認定基準が改訂されたが、国は「従来の審査方法が科学的に法的に誤ったものではない」(厚生労働省)としており、残留放射線の影響は認めない立場に変わりはない。これに対し、沢田昭二・名古屋大名誉教授は「被爆実態の全体像を科学的につかむ態度が欠けている」と批判している。【立石信夫、牧野宏美】(毎日新聞 2008/08/04)

原爆開発の女性科学者、初めて広島訪問
物理学者として米国の原爆開発にかかわり、戦後中国に渡ったジョアン・ヒントンさん(86)が原爆投下から63年を前にした5日、初めて広島市を訪れ、原爆ドームを見学した。科学者の道を捨て、北京郊外で酪農を続けながら、米国への書簡などで「原爆投下は人類への犯罪」というメッセージを発し続けてきた。ヒントンさんは6日、被爆者と会い、数奇な半生を振り返り、原爆への思いを語ることにしている。
米国の大学院で物理学を研究していた1944年から、原爆開発のための「マンハッタン計画」に参加し、ニューメキシコ州の施設で研究に携わった。上司は「おもちゃを作る」と言っていたが、指紋をとられ、研究内容は口外しないよう命じられた。
広島、長崎に投下されたことは新聞で知った。地上で何が起きたかは想像できた。しばらくして、研究所内の部屋に集められ、軍が被爆地で撮影した映像や人の手の影が写った石などを見せられた。「威力を見せつけるための兵器で、まさか市民の上に落とすとは思わなかった」。研究所の同僚も怒っていた。
終戦から間もなく、仲間とともにワシントンの連邦政府を訪れ、原爆投下に抗議した。自責の念にかられ、悩んだ末に物理学者の道を断ち、48年、上海に渡った。「粗末な食事と素朴な武器で日本に勝った中国人民に興味があった」とそのわけを明かす。
米国内では中国の核開発への協力を疑われ「逃げた原爆スパイ」と話題になったこともあった。中国は64年に初の核実験に踏み切ったが、ヒントンさんは「協力を頼まれたことはない」と明確に否定している。
騒ぎをよそに中国で酪農に従事していた米国人男性と結婚。全米科学者連盟などに反戦を呼びかけながら、今は乳牛約300頭を飼って暮らす。長男(55)には「和平」という中国名をつけた。
米国人作家パール・バックがマンハッタン計画を題材に59年に著した小説(邦訳「神の火を制御せよ」)の登場人物と生涯が似ている点もあり、邦訳を出版した関係者らの招きで来日が実現した。
ヒントンさんはこの日、初めて訪れた原爆ドームをあおぎ見て「ひどい」とつぶやき、あとは無言になった。被爆63年の6日に予定している被爆者との面会について「『ヒロシマ』で私の人生もすべて変わった。なぜ、私が中国へ行ったのか、すべて話したい」と語った。(浅倉拓也)(朝日新聞 2008/08/06)

広島原爆の日:開発計画に参加の女性科学者、初めて見た広島 「ひどい」絶句
◇63回目きょう「原爆の日」
米国による第2次大戦中の原爆開発計画に携わった女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が初来日し5日、広島を訪れた。数万人の命を一瞬で奪った科学に絶望して米国を離れ、中国へ渡って60年。科学者であることを捨て、酪農に従事した。「自分がつくったものがどんな結果をもたらすか。それを考えず、純粋な科学者であったことに罪を感じている」。しょく罪の意識から、広島訪問をかねて望んでいた。広島は6日、63回目の「原爆の日」を迎える。【平川哲也、黒岩揺光】

「オーフル(awful、ひどい)……」。5日午後、原爆ドーム。そう独りごちると、ヒントンさんは鉄骨がむき出しの最上部を仰いだ。その後、ドーム脇の英語の説明文を一語一語かみしめるように読んだ。
「私はただ、実験の成功に興奮した科学者に過ぎなかった」
ヒントンさんは広島市のホテルで取材に対し、そう語った。1945年7月16日、米国南西部のロスアラモス近郊。立ち上る人類初の核実験のきのこ雲に、ヒントンさんは胸を躍らせた。原爆を巡るドイツやソ連との開発競争に打ち勝つため、42年に米国が始めた「マンハッタン計画」。最大時で12万9000人を動員した原爆開発計画が結実した瞬間だった。

◇「使われないと考えていた」

「科学を信じていた」。大学で物理学を専攻した21歳のころ、放射線の観測装置を完成させた才女は44年春、請われるまま同計画に参加した。
ヒントンさんはプルトニウム精製を担い、全資料閲覧と全研究施設立ち入りを許可される「ホワイト・バッジ」を与えられた。約100人しかいなかったという。核実験の2カ月前にドイツは無条件降伏しており「研究目的の原爆開発であり、使われないと考えていた」。
しかし8月6日。広島上空で原爆がさく裂する。新聞で原爆投下を知ったヒントンさんは声を失った。「知らなかった。本当に知らなかったの」と、まゆをひそめて話した。

◇反核運動に参加、中国に渡り酪農

戦後は核兵器の使用に反対する動きに加わった。48年、内戦が続く中国・上海に渡った。内モンゴルに移住し酪農を営んだ。消えた足跡に、米国の雑誌は「原爆スパイ」と書き立てた。健在が知られたのは51年、全米科学者連盟にあてた手紙が中国の英字紙で報じられたからだ。それにはこうあった。
<ヒロシマの記憶──15万の命。1人1人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ>
あの朝から63年。今なお後遺症に苦しむ人がいる。今なお米国を憎む人がいる。「なんと言えばいいか……」。ヒントンさんは絶句し、宙を仰いだ。(毎日新聞 2008/08/06)

米極秘文書入手、原爆投下の真実
長崎は間もなく63回目の「原爆の日」を迎えます。アメリカが放射線の危険性を知った上で原爆を投下し、その威力のデータを収集していたことを示す公文書が見つかり、JNNが入手しました。
原爆の強烈な爆風と放射線。その威力と影響をアメリカはどこまで知っていたのか。その疑問に答える文書をJNNがこのほどアメリカ国立公文書館から入手しました。
原爆投下のおよそ3か月前。原爆を開発した科学者のリーダー、オッペンハイマー博士が軍部のために作成しました。
原爆の放射線の危険性を詳しく説明しており、爆心地から1キロ以内では死亡するとしています。その上で、原爆を投下する飛行機の乗組員が注意すべきことを記載しています。
「飛行機は放射線を避けるため、原爆の爆発地点から4キロ以上離れること」「爆発後、数時間以内に上空に入る飛行機は放射能を帯びた雲に近づくな」としています。
原爆を投下する前、アメリカが放射線の人体への影響について、どの程度知識を持っていたか、これまではっきりしていませんでした。しかし、放射線医学の専門家は、発見された文書はアメリカが放射線の危険性についてかなり知識を持った上で原爆を投下したことを示していると指摘します。
「放射線がどのくらいあったのか、計算されていたなんてことが如実に分かる手紙ですね、これは。1895年のレントゲン博士のX線の発見。それ以来、放射線と人体の関係は当時で50年経っているんですから。全て計算していたと」(長崎大学医学部 朝長万佐男 教授)
爆風の威力については、実践のさなか調査が行われていました。長崎市の原爆資料館には、アメリカが原爆の威力を測定した装置が保存されています。この装置は、飛行機が長崎上空から原爆投下にあわせて落としました。
私たちは長崎と広島の上空で、この測定装置を使って原爆の威力を調査した科学者を以前、取材しました。
ラリー・ジョンストン博士は、パラシュートに取りつけた装置で原爆の威力を測定したのです。
「原爆が爆発した時、測定器が爆風のすさまじさを示した」(ラリー・ジョンストン博士)
この文書は長崎への原爆投下の3日後、ジョンストン博士が測定したデータをもとに、別の科学者が原爆の威力を推定したものです。
広島原爆は爆風の圧力などからTNT火薬に換算すると15キロトンに相当するとしています。
一方、長崎原爆は爆風の威力が広島のおよそ2倍でTNT火薬30キロトンに相当すると推定していました。
アメリカで原爆の威力を測定したデータの文書が見つかったのはこれが初めてで、核問題の研究者は「文書はアメリカが原爆のデータを収集しようとしたことを示している」と言います。
「原爆を落とした効果がどれくらいあったのかっていうことを、キチッと調べると。それは次のステップに使えるということを前提とした調査ではないか、ということが分かりますよね」(長崎大学工学部 岡林隆敏 教授)
原爆の人体への影響を知った上で投下し、その威力のデータを収集しようとしたアメリカ。発見された文書からは、戦争と核兵器開発の非情な論理が浮かび上がってきます。(JNN News 2008/08/07)

京都・阪大の加速器写真発見=原爆開発懸念で破壊の直前−米公文書館
【ワシントン24日時事】終戦直後に旧京都帝国大(現京大)と旧大阪帝大(現大阪大)にあった原子核物理学研究に使われるサイクロトロン(円形加速器)を、「原爆開発に転用される恐れがある」として連合国軍総司令部(GHQ)が破壊する直前に撮影された写真が、米国立公文書館に所蔵されていることが24日、分かった。写真は直前の査察で米軍が撮影したもので、米兵のコメントが裏書きされている。
終戦後の加速器破壊の経緯に詳しい福井崇時名古屋大学名誉教授(85)は「GHQが加速器を接収後、破壊する際に撮影した16ミリ映像や、同時に破壊された理化学研究所の加速器の解体、廃棄時の写真があることは分かっているが、京都帝大と大阪帝大の査察と破壊直前の写真は初めてだ。当時の米兵の認識も分かり、貴重な史料だ」と評価している。 
写真は白黒で、京都帝大の1945年11月20日付写真の裏面には、「米陸軍第33歩兵師団の大尉が京都帝大を査察」と記されている。破壊当日の同24日付の写真は解体場面で、「原子核エネルギー研究のために京都帝大教授が使う予定だった」との記述や「原爆製造に不可欠」と読める文言がある。また、サイクロトロンの英語のつづりを間違えるなど、米兵の知識不足もうかがえる。
大阪帝大の解体当日の写真には「マッカーサー連合国軍最高司令官の命令を実行した」とある。当時、破壊は激しい批判を浴び、パターソン米陸軍長官(当時)が破壊は誤りだったと認めた。
竹腰秀邦京都大名誉教授(81)は「加速器は原子核物理学の基礎研究のためで、原爆開発とは直接関係はなかった。進駐軍が京都帝大に来て1週間ほどかけて解体したが、立ち入り禁止で学生は建物を遠巻きにするしかなかった。写真は当時の状況を知る上で非常に貴重」と話している。(時事通信 2008/08/25)

原爆の原料製造炉が米史跡に 米政府指定、長崎原爆の原料
【ワシントン27日共同】米政府は25日、ワシントン州のハンフォード核施設にある「B原子炉」を国の史跡に指定したと発表。B原子炉で製造されたプルトニウムは1945年、人類初の核実験に使われ、長崎に投下された原爆の原料にもなった。米政府は「B原子炉は大きな歴史的意義を持っている」と説明。原爆投下が大戦終結を早め、多くの米兵らの命を救ったとの米側史観だが、被爆者らからは反発も出そうだ。(共同通信 2008/08/27)

核廃絶、日本が主導を=ダライ・ラマ
チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世は3日、北九州市で記者会見し、唯一の被爆国である日本は「その体験を基に、原爆使用を食い止めるという大いなる責任を果たすべきではないか」と述べ、核兵器廃絶に向けて日本が主導的役割を果たすよう訴えた。
ダライ・ラマは「原爆は2度と使用されてはならない。日本はイニシアチブを取って食い止めていくべき立場にある」と強調した。(時事通信 2008/11/03)

被爆3世の11歳、国連で「恐ろしさ伝える義務がある」
【ニューヨーク=加戸靖史】広島市立中山小6年で被爆3世の富永幸葵(ゆうき)さん(11)が5日(日本時間5日深夜)、核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会に合わせ国連本部で開かれた国際NGO・平和市長会議主催の会議でスピーチした。1カ月前に祖母が初めて詳しく話してくれた被爆体験を胸に、「広島の子どもは原爆の恐ろしさを世界に伝える義務がある。広島の平和記念資料館を見に来てください」と訴えた。
祖母の岡田恵美子さん(72)は爆心地から2.8キロの自宅で被爆、12歳だった姉が行方不明になった。20年以上、被爆証言を続けてきたが、家族に語ることにはためらいがあった。しかし、当時の姉の年齢に幸葵さんが近づいたこの春、語り継ぐことを決めた。幸葵さんを平和記念資料館(原爆資料館)に連れて行き、原爆に関する展示を前に話すと、幸葵さんはじっと耳を傾けた。
岡田さんがNPT再検討準備委に合わせて渡米することになると、幸葵さんは同行を望んだ。アルファベット入りの名刺を用意。出発前の4月末には、オバマ米大統領とその娘2人に手紙も出し、広島訪問を呼びかけた。
幸葵さんはこの日、会議に集まった各国の市長ら約100人を前に「あの日広島は焼け野原になり、『助けてください』『水をください』と何度も言って、たくさんの人たちが亡くなったそうです」と大きな声で語った。
岡田さんの娘で被爆2世になる母親は、血小板が減る難病をかつて患った。幸葵さんも原因不明の腹痛で入院したことがあり、原爆の放射能との因果関係を考えると不安になる。だからこう強調した。「たった1つの爆弾で人々を苦しませ、死んでいく。そんなこと喜ぶ人なんていません」
子どもたちが笑顔で明るく過ごせる地球の平和を考えるサミットの開催を求め、スピーチを締めくくると、大きな拍手がわいた。米オハイオ州アクロン市のプラスケリック市長は幸葵さんに歩み寄り、「とても感銘した。あなたの話は若い世代に平和を考えさせる第一歩になる」と語りかけた。
大役を終えた幸葵さんは「自分の思いを伝えることができました」。スピーチを後ろで見守った岡田さんは「被爆者はいずれいなくなる。彼女たちがいつか被爆体験を自然に継承してくれればうれしい」と話した。(朝日新聞 2009/05/07)

三宅一生さん、米紙に原爆体験寄稿 オバマ大統領に広島訪問促す
【ニューヨーク14日共同】著名な服飾デザイナーの三宅一生さん(71)=広島市出身=が14日付の米ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿、これまでの沈黙を破って幼年時代の原爆体験を明らかにした上で、オバマ大統領に広島訪問を促した。
三宅さんはまず、今年4月にオバマ大統領がプラハで「核兵器のない世界」を訴えたのを機に、原爆の生存者として体験を語っていく「個人的かつ倫理的な責務」があると思うに至ったと寄稿の理由を説明した。
広島に原爆が投下された1945年8月6日は7歳で「赤い閃光を放ち、直後に黒い雲が上がり、人々があらゆる方角に逃げ惑った」様子を目撃。目を閉じると、今でもその瞬間がありありと思い出されるとつづった。母親も被爆し、3年たたないうちに亡くなったという。
三宅さんはその後、服飾デザインの道に進んだが、「原爆生存者のデザイナー」とのレッテルを張られるのが嫌で「ヒロシマ」に関する質問は避け続けてきたという。
しかし「世界から核兵器をなくすためには、原爆体験を語っていかなければならないことに気付いた」と指摘。オバマ大統領を8月6日に広島に招く運動があることを紹介し「(大統領が)受け入れることを希望する」と述べた。(共同通信 2009/07/15)

三宅一生さんが被爆体験 NYタイムズに寄稿
広島の惨状、今もまぶたに オバマ大統領に「訪問を」
【ニューヨーク支局】世界的デザイナー三宅一生さん(71)は14日の米紙ニューヨーク・タイムズに寄稿し、7歳の時に広島で被爆した体験を明かした上で、「核兵器なき世界」を訴えたオバマ米大統領に広島訪問を呼びかけた。
三宅さんはこの中で、原爆投下時の「真っ赤な閃光(せんこう)に続いて黒い雲があがり、人々が逃げまどう」風景が今も目に浮かぶと記した。「ほかのだれも体験すべきではないこと」だとして、その悲惨さを強調した。放射線を浴びた母は後に亡くなったという。
これまで、被爆体験については、ほとんど語ってこなかったが、その理由について、「“原爆を生き延びたデザイナー”といったレッテルを張られたくなかった」と説明。原爆について尋ねられることも不快だったと述べ、忘れようと試みたこともあったと明かした。「破壊されてしまうものではなく、創造的で、美しさや喜びをもたらすもの」を考え続けた末、衣服デザインを志向するようになったと記した。
だが、オバマ大統領の言葉が、「私の中に深く埋もれていた何かを呼び覚ました。今まで、話すことをためらっていたことだ」といい、核爆弾を生き延びた1人として発言するよう「個人的、そして倫理的な責任」を感じるようになった。
8月6日に広島で開かれる平和式典への大統領の出席を望み、核廃絶に向けた「現実的で象徴的な一歩になる」と主張。日本が北朝鮮の核の脅威にさらされ、ほかの国でも核技術の移転が進むと報じられる中、「少しでも平和への希望を生むためには、世界中の人たちがオバマ大統領と声を合わせなければならない」と訴えた。
オバマ大統領は今年4月、訪問先のプラハで、核廃絶を希求する演説を行った。三宅デザイン事務所(東京)によると、三宅さんはプラハでの演説に感銘を受け、オバマ大統領に手紙を送ったという。(読売新聞 2009/07/15)


ref. A Flash of Memory
(New York Times 2009/07/13)

漫画「はだしのゲン」英訳本完成 全米の子どもに「読んで」
原爆が投下された広島をたくましく生きる少年を描いた漫画「はだしのゲン」全10巻の英訳が完成し、広島市で26日、記念祝賀会が開かれた。作者の中沢啓治さん(70)も出席し「全米の子どもに読んでほしい。戦争や原爆の愚かさが世界中に伝わるまでゲンの役割は終わらない」と訴えた。
祝賀会には翻訳ボランティアやファンら約100人が参加。核兵器廃絶を掲げたオバマ米大統領の広島訪問を呼び掛けるメッセージと、ゲンのイラスト入りの色紙に寄せ書きした。英訳本とともに、大統領に贈る。
英訳は、金沢市の浅妻南海江さん(66)らのグループが9年かけて完成させた。戦後のゲンの成長を描いた後半部の英訳は初めて。最後の9〜10巻は、インターネットを通じて10月に発売する。
浅妻さんは祝賀会で「世界で核廃絶の機運が盛り上がり、ゲンに寄せられる期待は一層高まっている。世界中の人に愛されてほしい」とあいさつした。
中沢さんが自らの被爆体験を元に描いた「はだしのゲン」は1973年から約1年半、週刊漫画誌に連載された。
浅妻さんらはこれまでにロシア語や韓国語など5カ国語に全訳。一部をドイツ語など8カ国語に翻訳している。(共同通信 2009/07/27)

「ゲン」翻訳者が作者と対面
チェルノブイリ原発事故で被災したウクライナの詩人ヴァシレンコ・ニーナさん(73)が26日、被爆地広島市を訪れ、漫画「はだしのゲン」の原作者中沢啓治さん(70)=埼玉県在住=と対面した。ヴァシレンコさんは「はだしのゲン」全10巻をウクライナ語に翻訳中。8月6日には完成した第1巻を携え、平和記念式典に出席する。
チェルノブイリ原発事故の起きた1986年、ヴァシレンコさんは南西75キロのマカレヴィッチ村で小学校教諭をしていた。住民の多くが白血病やがんを患い、夫もがんを発症。2000年に61歳で死亡した。
「ゲン」とは91年に出合った。日本の知人から、ロシア語版の第1巻を贈られ、被爆後の広島で生き抜くゲンの姿に感動した。学校退職後の04年、ウクライナ語への翻訳作業に取りかかった。
今回、広島には「はだしのゲン」全巻の英訳の完了祝賀会に招かれた。中沢さんと原爆ドーム周辺を散策し、ヴァシレンコさんは「ヒロシマとチェルノブイリは1本の鎖でつながっている。ゲンからは勇気をもらった」と感謝の気持ちを伝えた。中沢さんも「原発事故後に苦しむ多くの人に、懸命に生きるゲンの姿を伝えてほしい」と励ました。(中国新聞 2009/07/27)

広島原爆:カルテを入手 今なら救える命も 臨界事故で治療、医療グループが分析
1945年8月6日の広島原爆投下後、被爆者の治療にあたった東広島市の傷痍(しょうい)軍人広島療養所(当時)の19人分のカルテを毎日新聞が独自に入手した。このカルテについて、99年に起きた核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所(茨城県)の臨界事故で、緊急治療にあたった医療グループが分析。現代の被ばく医療の視点から、死因や被ばく線量などを推定した。【辻加奈子、井上梢】

医療グループは東大名誉教授、前川和彦氏(68)▽放射線災害医療研究所副所長、衣笠達也氏(62)▽同研究所研究参与、神裕氏(52)の3人。先月24日、被爆から20日後の8月26日に同療養所に入院し、翌9月4日に死亡した警察官、田川正之さん(当時33歳)のカルテを遺族の了承を得て主に分析した。
田川さんの遺族らによると、田川さんは爆心地から南約1.1キロの警察練習所1階で被爆。10日後、広島市郊外の家族の疎開先に姿を見せた。元気な様子だったが、体調は急変し死に至ったという。
カルテから放射線障害の前駆(前ぶれ)症状や放射線による臓器障害を詳細に検討。血液1立方ミリメートル中の白血球数は徐々に減り死亡時には370個(通常4000〜9000個)に落ち込んでいた。被爆で骨髄の造血細胞が傷ついたとみられる。他の検討結果と総合し「基礎にあるのは白血球の減少と感染症。死因は敗血症」とした。
症例検討と過去の放射線事故症例での白血球数の推移を基に作られた推定式を用い、田川さんの被ばく線量を3〜4グレイと推定。爆心地からの距離などによる物理的計算式「DS02」での被ばく線量は2グレイ弱で、今回の検討結果の方が高い傾向が出た。他数人分の検討でも同様で、前川氏は「周辺の放射化も加わり、被爆者は2次被爆もしたろう。患者をみて被ばく線量を決めるのが重要」と述べた。
田川さんのカルテには「大腿(だいたい)骨上半と胸骨の赤色髄」の記載もあった。これについて医療グループは「死亡時に造血機能はまだあった」と分析。また、カルテの患者らの被ばく線量はいずれも2〜6グレイだった。集中治療と造血細胞を刺激するサイトカイン療法が有効なレベルで、医療グループは「限られた人数であれば、今なら急性期の救命はできる」とみている。前川氏は「カルテを読み込めば、現在も新たな知識が得られる。こういうものを伝承する文化を持たなくては」とも語った。(毎日新聞 2009/08/03)

◆被ばく線量(グレイ)と主な症状
0.25  ほとんど臨床的症状なし
0.5  白血球(リンパ球)一時減少
1.0  リンパ球著しく減(吐き気、嘔吐(おうと)、全身倦怠(けんたい))
1.5  50%に放射線宿酔(同上)
2.0  5%死亡、脱毛
4.0  30日間に50%死亡
6.0  14日間に90%死亡
7.0  100%死亡

核廃絶訴え、米大陸横断へ 原爆展に衝撃の元海兵隊員
「核兵器のない世界」の実現を訴え、米大陸横断ツアーを計画している元米海兵隊員パトリック・コフィさん(35)が1日、広島市で開かれた国際平和シンポジウムのトークセッションに参加。
広島、長崎の被爆両市が2007年に全米で開催した原爆展で衝撃を受けた体験を披露し「苦しみの中で被爆者が証言を続ける姿に心を打たれた」などと語った。
1992年から約6年間、海兵隊員だったコフィさんは湾岸戦争に従軍したほか、韓国や沖縄にも駐留。原爆投下は第2次世界大戦を終わらせ、多くの米軍兵士の命を救ったと信じていた。
だが退役後入ったデュポール大学での原爆展を見て、「正義」への自信が揺らぐ。疑問を解消しようと広島、長崎を訪れ、原爆資料館や原爆ドームを見学。熱線に逃げ惑う市民や放射線の後遺症に苦しむ被爆者らの「原爆を落とされた側の現実」を見ようとしていなかったことに気付いた。
帰国後、広島市長が会長を務め、2020年までの核廃絶を目指す平和市長会議への賛同を求める署名活動に参加、シカゴ市とエバンストン市の加盟に結び付いた。
計画は、日米の学生8人が9月に東海岸を出発。各地の高校や教会で原爆の写真や被爆者の証言などを紹介しながら、約3カ月かけて西海岸を目指す。(共同通信 2009/08/01)

広島原爆:エノラ・ゲイ乗組員ジェプソン氏 放射線被害、これほどとは…
◇オバマ大統領の道義的責任発言に「世間知らず、間違いだ」
1945年8月6日、広島に世界初の原子爆弾を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」乗組員(12人)の1人で爆発物の監視を担当したモリス・ジェプソンさん(87)が2日までに、米ラスベガスの自宅で毎日新聞とのインタビューに応じた。ジェプソンさんは、64年後の今も被爆者の後遺症が残っていることについて「放射線被害がこれほど大きいものとは思っていなかった」と述べた。また、原爆使用についてオバマ米大統領が「道義的責任」に言及したことについて、「間違っている」と批判、「戦争早期終結のためだった」と使用を改めて正当化した。
エノラ・ゲイ乗組員で生存しているのはジェプソンさんを含む2人だけ。オバマ大統領の発言を乗組員が公に批判したのは初めて。
ジェプソンさんらは45年6月から、テニアン島(太平洋)で特別任務メンバーとして、他の一般米兵とは離れて生活。当時から「私は物理を学んでいたから爆発物が原爆だと知っていたが、機長(故ティベッツ氏)らを除き、ほとんどの乗組員は超強力爆弾(スーパー・パワフル・ボム)という認識だった」と振り返った。
ジェプソンさんによると、投下時、爆弾(5トン)が離れた瞬間、機体が跳ね上がり、約43秒後に窓から閃光(せんこう)が入り、爆風で飛行機が振動した。しばらくして再び振動が起き、機長が機内通信装置で、投下されたのが原爆であることを乗組員に明かしたという。
ジェプソンさんは「窓から(キノコ)雲と火が広がっていくのが見えた。多くの命が奪われ、多くが破壊されていることを意味した。うれしいことではなかった」と語った。
現在も残る放射線被害については、「(原爆を開発した)ロスアラモス研究所自体、これほど被害が大きいことは理解していなかったと思う。米国の物理学者も驚いた。当時のトルーマン大統領でさえ知っていたとは思えない」と語った。
だが、当時は米軍の本土上陸作戦が近づいていたと説明、「上陸すれば、米兵だけでなく、日本兵や一般の日本人の多くが犠牲になることは明白だった。原爆は戦争を早期に終結し犠牲を回避するための唯一の選択だった」と述べた。
その上でオバマ大統領が4月にチェコ・プラハで原爆使用国としての「道義的責任」に触れ、「核のない世界」を目指すと述べたことについて、「原爆を使用した米国を罪だとしており、あまりにも世間知らず(ナイーブ)な発言だ。彼は我々の世代が死亡するのを待っている」と批判。将来、米大統領が被爆地を訪問することになった場合、「とても悪い気分になるだろう」と述べた。【ラスベガス(米ネバダ州)で小倉孝保】

<エノラ・ゲイ> 太平洋・北マリアナ諸島のテニアン島から飛び立ち、ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。乗組員は計12人。名前はティベッツ元機長の母親のファーストネームとミドルネームからとった。全長30.2メートル、翼幅43メートル。現在は米ワシントン郊外のスミソニアン航空宇宙博物館別館で展示されている。

<モリス・ジェプソン氏(Morris Jeppson)> 米ユタ州生まれ。ハーバード大やマサチューセッツ工科大(MIT)で、原爆に設置される電波装置の技術を学び、陸軍飛行部隊将校としてロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ州)入り。エノラ・ゲイ機内では、爆発物が正確に作動するかデータを監視した。第二次世界大戦終了後は民間の研究所などに勤務。(毎日新聞 2009/08/03)

広島原爆:エノラ・ゲイ乗組員ジェプソンさんの発言(要旨)
◇爆弾投下「好きな人間いない」
モリス・ジェプソンさんの発言要旨は次の通り。【小倉孝保】

<原爆投下まで>
▽45年6月に(サイパン島に近い)テニアン島に移り、島の一角に建てた仮設小屋で(原爆投下の)特別任務に関係する人間だけで暮らした。
▽(8月6日の)前日か前々日、(島に渡った技師)6人の中から2人が選抜され、最後に上官がコインを投げて、「ジェプソン、君が飛ぶことになった」と決めた。当時の気持ちは思いだせないが、爆弾を落とすことを好む人間なんていない。

<原爆投下>
▽私は物理を学んでいたから広島へ運ぶ爆発物がウラン型原爆だと知っていた。しかし、私と機長の故ティベッツ氏、物理学者の故パーソンズ氏を除くほかの乗組員は、超強力爆弾(スーパー・パワフル・ボム)だとしか知らなかったと思う。
▽広島上空で爆弾の収納室の扉を開けた瞬間、機体が跳ね上がった。5トンの爆弾を切り離したためだ。
▽投下後43秒で爆発するはずだった。時計を持っておらず43秒数えたが何も起こらなかった。それから2、3秒後、窓から閃光(せんこう)が入ってきた。数え方が速過ぎたようだ。すぐに、(爆風で)飛行機が振動し、多くの乗組員は「対空射撃だ」と言った。その後、やや小さな振動があった。みんなは「何だ、この振動は」と言っていた。私は地上に跳ね返った爆風だと思った。
▽機長は機内の通信装置で、「我々が今見たのは戦争で初めて使用された原子爆弾だ」と述べた。私は任務完了と思った。

<投下後の様子>
▽日本人にこの話はしたくないが、機内の窓から(キノコ)雲と火が広がっていくのがみえた。多くの命が奪われ、多くが破壊されているのを意味した。うれしいことではない。

<オバマ発言>
▽オバマ大統領の「道義的責任」発言は、この兵器を使用した米国に罪をかぶせ、あまりにも世間知らず(ナイーブ)な発言で間違っている。こうした発言はすべきでない。彼は我々の世代が死んでいくのを待っている。
▽この部隊の使命で唯一絶対の共感を得られる点は、戦争終結が目的だということだ。広島、長崎の原爆は戦争を早期に終結し、犠牲を回避するための唯一の選択だったと今でも確信している。
▽大統領が被爆地を訪問すれば、とても悪い気分になるだろう。また、原爆使用を謝罪すれば腹立たしい。

<放射線被害>
▽原爆による被害が大きくなるのは予想していたが、放射線被害がこれほど大きいとは思っていなかった。(原爆を開発した)ロスアラモス研究所自体、これほど放射線の被害が大きいことは理解していなかったと思う。米国の物理学者も驚いたのだ。トルーマン大統領(当時)でさえ知っていたとは思えない。しかし、大統領が仮に放射線被害の大きさを知っていれば、意思決定が違ったかどうかには答えられない。(毎日新聞 2009/08/03)

米国内で6割が原爆投下賛成 キニピアック大の世論調査
【ニューヨーク共同】米キニピアック大(コネティカット州)は4日、第2次大戦末期の米軍による広島、長崎への原爆投下について、米国内で61%が「正しかった」と回答し「間違っていた」は22%だったとの世論調査結果を発表した。
それによると、党派別では「正しかった」は共和党支持者の74%で、民主党支持者の49%を大きく上回った。「間違っていた」は、共和党13%、民主党29%だった。
年齢別に見ると「正しかった」は55歳以上が73%だったが、35〜54歳が60%、18〜34歳が50%と、年齢が下がるほど原爆投下への支持は低下。男女別では「正しかった」は男性72%、女性51%だった。
同大のピーター・ブラウン氏は「第2次大戦の恐怖を記憶している有権者は(原爆投下の決定を)圧倒的に支持するが、冷戦時代に核の恐怖の中で育った世代など、若くなるにつれて支持が落ちている」と分析している。調査は7月27日〜8月3日、全米の有権者2409人を対象に実施した。(共同通信 2009/08/05)

内部被ばくの“証拠”撮影 長崎大研究グループ
長崎原爆で死亡した被爆者の体内に取り込まれた放射性降下物が、被爆から60年以上たっても放射線を放出している様子を、長崎大の七条和子助教らの研究グループが初めて撮影した。放射線を体の外側に浴びる外部被ばくと別に、粉じんなど「死の灰」による内部被ばくを裏付ける“証拠”という。
内部被ばくの実態は研究が進んでおらず、七条助教は「病理学の見地から内部被ばくの事実を証明することができた。今後、健康への影響を解明するきっかけになるかもしれない」と話している。
七条助教らは、爆心地から0.5〜1キロの距離で被爆、急性症状で1945年末までに亡くなった20代〜70代の被爆者7人の解剖標本を約3年間にわたり研究。
放射性物質が分解されるときに出るアルファ線が、被爆者の肺や腎臓、骨などの細胞核付近から放出され、黒い線を描いている様子の撮影に成功した。アルファ線の跡の長さなどから、長崎原爆に使われたプルトニウム特有のアルファ線とほぼ確認された。
鎌田七男広島大名誉教授(放射線生物学)は「外部被ばくであればプルトニウムは人体を通り抜けるので、細胞の中に取り込んでいることが内部被ばくの何よりの証拠だ。広島、長崎で軽んじられてきた内部被ばくの影響を目に見える形でとらえた意味のある研究だ」としている。(共同通信 2009/08/07)

長崎被爆者の細胞でプルトニウム確認 内部被曝解明に道
長崎原爆で被爆し間もなく亡くなった犠牲者の細胞内から、原爆の材料となったプルトニウムが確認された。長崎大学の原爆後障害医療研究施設(原研)の七條和子助教らのグループが研究していた。現在も放射線を出しており、被爆地に降った「死の灰」(放射性降下物)などが呼吸や飲食によって体内に取り込まれたために引き起こされる「内部被曝(ひばく)」の実態や影響の解明につながる発見として注目される。
研究では、爆心地から0.5〜1キロ地点で被爆し、外傷や放射線障害によって1945年のうちに亡くなった男女7人の組織標本を調べた。日米の研究者が解剖後に肺や肝臓、腎臓、骨から取り出し、原研に保管されていた。
乳剤を組織に塗り、細胞から出ている放射線の軌跡を撮影して分析。発生源がプルトニウムだとつきとめた。
細胞内のプルトニウムは被爆から64年がたった現在も放射線を出し続けている。だが原研のグループによると、生存する被爆者が吸い込むなどした放射性物質は大半が代謝などで排出されているという。七條助教は「内部被曝は未知の部分が多い。この発見が解明につながれば」と話している。(波多野陽) (朝日新聞 2009/08/08)

核の惨禍展:国連本部で始まる 広島など3市共催
【ニューヨーク小倉孝保】核の被害を紹介する展示会「核の惨禍展」が10日、ニューヨークの国連本部で始まり、各国外交官や国連を訪れる旅行者が写真などに見入った。
被爆国・日本とセミパラチンスクの核実験施設閉鎖から20年になるカザフスタンの両国連代表部が、来年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け核軍縮・不拡散の機運を盛り上げようと企画した。広島、長崎、セミ(カザフ)の3市が共催。国連日本代表部によるこうした展示会は初めて。
会場では、広島、長崎の原爆投下直後の街の様子ややけどを負った被爆者の写真、セミパラチンスク核実験施設の写真、図などが展示された。83年に広島、長崎両市を訪問したことがあるザンビアのカパンブウェ国連大使は展示写真を前に、「核兵器は防衛のための武器ではなく、明らかに攻撃のための兵器だということを認識する必要がある」と語った。展示会は9月30日までで期間中の9月後半、オバマ米大統領が国連を初訪問する。(毎日新聞 2009/08/11)

ジェームズ・キャメロン監督:原爆テーマ映画を構想 長崎で二重被爆者に面会
ハリウッド映画「タイタニック」などを手掛けた映画監督のジェームズ・キャメロン氏(55)が22日、長崎市の病院に入院中の二重被爆者、山口彊(つとむ)さん(93)=長崎市=を訪ね、自身が構想している原爆をテーマにした映画などについて語った。キャメロン監督は「山口さんには今しか会えないかもしれない」と面会を求めたという。
面会には、昨年山口さんら被爆者を取材し、原爆を題材にした小説「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」を来月米国で出版する作家のチャールズ・ペレグレーノさんも同席した。臨席した家族や関係者によると、キャメロン監督は「あなたのような稀有(けう)な経験をした人を、後世、人類に伝えるために来ました」と話し、固い握手を交わしたという。
原爆について「8歳の時にキューバ危機があり、原爆が使われるかもしれないという恐怖が頭に焼き付いている」とも語ったという。映画の実現は未定だが「作るとしたら妥協はしません」と誓ったという。山口さんは2人に自作の絵をプレゼントした。
山口さんは面会後、毎日新聞の取材に「(原爆をテーマにした)映画を作るのは彼らの宿命だと思う」と期待感を示した。【阿部弘賢】(毎日新聞 2009/12/30)

「2度も被爆、私にはやることがある」 山口彊さん
「(高齢なので)今回が最後の講話になると思うが、他の人にバトンタッチし、輪を広げてほしい」。広島、長崎両市で二重被爆し、4日に死去した山口彊(つとむ)さんは昨年6月、長崎市での講話で若者たちにそう語った。亡くなる直前まで、二度にわたって自身を襲った核兵器の廃絶を訴え、そのために体験を次の世代へ伝えたいと願っていた。
山口さんが被爆体験を語り出したのは晩年になってからだ。被爆者団体にも所属していない。被爆の影響で左耳が不自由になったが、「自分は重い被爆をした人たちと異なり、傷も残っていないので」と考え、積極的に人前には出なかった。
だが、2005年に次男をがんで亡くすと、山口さんは「二度も被爆してなぜ生きているのか。伝えるために生かされているからだ」と、自ら答えを出した。記録映画「二重被爆」に出演し、体験を語った。以来、国内外のメディアから取材が相次ぐようになった。
核廃絶を願い、オバマ米大統領の登場を喜んだ。「オバマ大統領と共に行動したい。非核・平和を一緒に訴えたい」と語り、大統領あてに手紙も書いた。
昨年12月22日、映画「アバター」のプロモーションで来日していた米映画監督ジェームズ・キャメロンさんから訪問を受けた。「二重被爆」を撮影した番組制作会社「タキシーズ」の稲塚秀孝さん(59)は、その場に同席した。
稲塚さんによると、キャメロン監督は「あなたのような稀有(けう)な経験をした人を後世に伝えるために会いに来た」と語りかけた。面会後、山口さんは「使命は終わった」と話したという。山口さんの長女、山崎年子さん(61)は「昨年8月に入院した時からは、いつ死んでもおかしくなかった。12月にスイスのテレビ取材やキャメロン監督に話をするまで、必死で頑張っていた。天命を全うしたんだと思う」と話した。
一方、核兵器廃絶を訴える「高校生1万人署名活動」実行委員会(長崎市)のメンバーたちは08年4月、山口さんの証言DVDを作るため、自宅を訪ねた。山口さんの体調が優れず、何度も取材予定がキャンセルになった後のことだった。
当時高校3年だった尾田彩歌(あやか)さん(19)=活水女子大1年=は、その時の様子を鮮明に覚えている。一度話し出すと被爆当時の記憶は鮮明で、つらかった体験がひしひしと伝わってきたという。「私たちが体験を伝えていかなければと実感しています」と悼んだ。実行委世話人の平野伸人さん(63)は、山口さんの証言DVDの追悼上映会を考えている。
山口さんは戦時中、長崎市の三菱造船所に勤務。1945年5月から、広島へ3カ月間の出張に出た。長崎へ戻る前日の8月6日、出勤途中に原爆に遭った。熱線を浴び、爆風に吹き飛ばされた。膨れた左手をふろしきでつるし、40度以上の熱に震えながら、妻と生後間もない息子の待つ長崎市へ8日に帰り着いた。
翌9日、長崎市水の浦町の職場(爆心地から約3キロ)で広島の惨状を報告中、空がピカッと光った。「キノコ雲が追いかけてきた」と思ったという。(朝日新聞 2010/01/06)

山口彊さん死去:「8月6、9日は命日」 「青き地球」と短歌に思い
もう二度と被爆者を作らないで??。4日に93歳で死去した二重被爆者の山口彊(つとむ)さん=長崎市=は、死の1カ月前まで病室で海外メディアの取材を受けるなど、平和のメッセージを発信し続けた。家族のきずなを何よりも大切にしていた。最期はその家族に見守られて、穏やかに旅立った。
オバマ米大統領の登場に「今が核廃絶のチャンス」と希望を見いだし、期待を寄せた「核なき世界」の実現は間に合わなかった。
8月以降、入退院を繰り返し、12月ごろには見る見るうちにやせ衰え、以前のような張りのある声は出なくなっていた。
命の光が弱くなる中、12月7日には、病室でスイスのテレビ局の取材を受け、か細い声で必死に戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを訴えた。
12月22日には、来日中の米国映画界の巨匠、ジェームズ・キャメロン監督が病室を訪問。原爆をテーマにした映画の構想を聞いた山口さんは英語で「私の役目は終わった。後はあなたに託したい」と語り、固く手を握ったという。
「自分の幸福は家族」と口癖のように話していた。1月3日には家族の手を握って「みんなで力を合わせて、ひ孫を育てていくように」と語り、翌4日早朝、静かに息を引き取ったという。
8月6日と9日のことを「僕の命日」と言い「核兵器廃絶のために生かされている」との思いを持っていた。09年3月、世界で初の二重被爆者として公式認定され、そのニュースは原爆の悲惨さの象徴として世界中を駆け巡った。「平和のバトンをつなげなければいけない」が口癖だった。
趣味の短歌に思いを込めた。
<非核平和永久(とわ)に護(まも)らす神あらば青き地球は亡(ほろ)びざるべし>
遺族は、この短歌を墓碑に刻もうと思っている。【阿部弘賢、宮下正己】

◇出張の広島、戻った長崎

三菱重工業長崎造船所の設計技師だった山口彊さんは45年5月、妻子を長崎に残し、3カ月の予定で広島に長期出張。8月7日に長崎へ戻る予定だった。
6日朝、広島市内を走る路面電車の駅を降り、職場に向かって歩いている途中、空に白い落下傘が二つ見えた。「地上に白い光が満ち、膨張する大火球を見た。ものすごい爆風で吹き飛ばされた」。被爆した山口さんは左上半身に大やけどを負った。
翌7日朝、原子野と化した広島市内を歩いた。川面にはおびただしい死体があった。この時に見た光景を基に、戦後「大広島炎(も)え轟(とどろ)きし朝明けて川流れ来る人間筏(いかだ)」の短歌を詠んだ。
同日昼過ぎ、避難列車に乗り、8日に長崎にたどり着くと9日には造船所に出社。広島での様子を上司に報告している最中、窓の向こうに再び閃光(せんこう)が見えた。上空に上がるきのこ雲を見て「まるで(きのこ雲に)追いかけられているみたいだ」とつぶやいたという。(毎日新聞 2010/01/06)

二重被爆者:山口さん、死の直前キャメロン監督らにバトン
【ロサンゼルス吉富裕倫】広島と長崎の両方で原爆被害に遭った「二重被爆者」の山口彊(つとむ)さん(93)が亡くなる約2週間前、長崎市の病院を訪ねていた米作家、チャールズ・ペレグリーノさん(56)が6日、毎日新聞の電話取材に応じた。自らの死期が近いことを悟った山口さんは、ペレグリーノさんとともに訪れた映画界の巨匠、ジェームズ・キャメロン監督(55)と3人で手を取り合い、「原爆が何をもたらしたか、人々に伝えるバトンを渡したい」と思いを伝えたという。
ニューヨーク在住のペレグリーノさんは08年7月、山口さんの体験を題材にノンフィクションを書くため、自宅を訪問。その後、病状が深刻になった山口さんが、二重被爆者に関する映画化構想を抱いているキャメロン氏との面会も希望していることを知り、先月22日、新作映画「アバター」の宣伝のため訪日した同氏とともに病院を訪ねた。
ベッドに座った山口さんは死期が近いことを悟り、「私の仕事はほぼ終わり、引き継ぐ時が来た」と述べ、広島、長崎の惨劇を二度と繰り返さないよう語り伝える仕事を2人に託し、手を握って誓い合ったという。
「もう時間がない。今こそ学ぶべき時だ」と訴えた山口さんに、キャメロン氏は「忘れ去られた事実を本当に再現する映画になるでしょう。山口さんのバトンを引き継ぐのは名誉なこと。最善を尽くします」と製作に意欲を示したという。
科学アドバイザーとして「アバター」や「タイタニック」でキャメロン氏に協力してきたペレグリーノさんによると、二重被爆者をテーマにした作品は「6時間の大作」になる見込み。3D劇場映画になるかミニテレビシリーズになるか、目標時期も含めて詳細は未定という。
山口さんの体験を基にしたペレグリーノさんのノンフィクション「ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」は今月19日、米国で出版される。(毎日新聞 2010/01/07)

脳卒中と心臓病で高死亡率 被ばく量多い被爆者で
広島、長崎の被爆者のうち、原爆による放射線の被ばく線量が多い人ほど脳卒中や心臓病による死亡率が高いことが、放射線影響研究所(放影研、広島市・長崎市)の調査で分かり、23日付の英医学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに発表した。
がん治療で数十グレイの高線量を浴びると、脳卒中や心臓病などの循環器疾患の発症リスクが高くなることは知られている。今回の調査で、被爆者が浴びた数グレイ以下のレベルでもリスクが高くなる可能性が示された。
放影研は被ばく線量が推定可能な被爆者約8万6600人のうち、1950〜2003年に脳卒中で死亡した約9600人分と、心臓病で死亡した約8400人分のデータを統計学的に分析。
被ばく線量が0.5〜2グレイの中程度でも、線量が増えるほど両疾病による死亡率が高くなり、1グレイでは、0グレイのときより脳卒中で9%、心臓病で14%上回っていた。
1グレイは、広島の爆心地から1.1キロ、長崎の爆心地から1.25キロ地点での推定線量。
この傾向は、喫煙や飲酒、糖尿病などのリスク要因を考慮しても大きく変化せず、がんの放射線治療などによる後遺症とも考えにくいという。
児玉和紀主席研究員は「現時点では別の原因も考えられるが、臨床検査を重ね、放射線が脳卒中などに与える影響のメカニズムを解明したい」と話している。(共同通信 2010/01/23)

「黒い雨」範囲3倍か 広島市と県、1844人の体験分析
広島に原爆が投下された直後の「黒い雨」の降雨地域が、これまで国が示していた範囲の約3倍に及ぶ可能性があることが25日、広島市と広島県の調査で分かった。市は、黒い雨の「大雨地域」を対象とする被爆者援護法の健康診断特例区域の指定拡大に向け、国への要望に役立てる。
調査は2008年6〜11月、被爆者、黒い雨の体験者を中心とする市内と周辺の3万6614人を対象に実施。調査用紙に記入、返送してもらった。有効回答2万7147人のうち、黒い雨の降雨時間や場所を記した1844人のデータを分析してきた。
その結果をみると、黒い雨は原爆投下直後の午前8時台から広島市西部で降り始め、同10時台には最も広範囲に及んだ。体験者の分布エリアは、最北が旧都谷村(北広島町)▽最西は旧砂谷村(佐伯区湯来町)や旧廿日市町(廿日市市)▽最東は旧三田村(安佐北区白木町)−となった。
1945年の調査に基づく「大雨地域」に比べて6倍程度、「小雨地域」を含めても約3倍の広さである。さらに降雨量についても新たな可能性が浮上。爆心地から北西約20キロにあり、一部が小雨地域とされている旧水内村(湯来町)で、4時間以上降ったとの回答を得た。
健康被害では、黒い雨の体験者で「下痢や脱毛などがあった」と回答した人は大雨地域で16%、同地域外で10%。被爆や黒い雨を体験していない人の水準(3%)を上回った。
調査結果は、市原子爆弾被爆実態調査研究会(市、県、研究者で構成)が、25日の会合で報告した。座長を務める広島大原爆放射線医科学研究所の神谷研二所長は「これまでにない大規模な調査であり、実態解明に役立つ」と説明。3月末までに最終報告書をまとめる。(東海右佐衛門直柄)(中国新聞 2010/01/26)

「黒い雨」援護地域外からセシウム137初検出 広島
原爆投下後、広島郊外に降った「黒い雨」がもたらしたとみられる放射性元素・セシウム137を、広島大などの研究グループが国の援護対象になっている地域外の土から初めて検出した。雨が降った地域では、2週間で最大50ミリグレイの外部被曝(ひばく)が起きた可能性があるという。3月3日から広島大で開かれる研究会で発表される。
国は、原爆投下後の1945年末までに地元気象台が実施した調査をもとに定めた「大雨地域」を援護対象としてきた。広島市は援護対象の地域拡大を求め続けており、今回の検出は広島市の主張を裏付けるものと言える。
セシウム137は、人工的な核分裂によってしか生じない。ただ戦後、米ソ両国などが繰り返した核実験で、セシウム137などが世界中に大量にばらまかれ、広島でも原爆によるものとの判別が困難だった。広島大の星正治教授(放射線生物・物理学)らは、原爆投下の45年当時は畑や更地で、核実験が盛んになる50年までに建物で覆われ、実験の影響を受けていないと考えられる場所を爆心地から10キロ圏内の大雨・小雨地域で7カ所選定。昨年以降、床下の土壌を採取した。
金沢大低レベル放射能実験施設の山本政儀(まさよし)教授による放射性元素の測定で、爆心地の北8〜9キロの旧安(やす)村(現・広島市安佐南区)の2カ所でセシウム137を検出した。いずれも国が援護対象とする大雨地域から1キロ前後離れた場所だった。大雨地域内の旧伴(とも)村の1カ所でも検出した。
今中哲二・京大原子炉実験所助教(原子力工学)は3カ所のセシウム沈着量や過去の測定データから、「雨が降った全域で降り始めから2週間程度の間に10〜50ミリグレイの外部被曝があった」と推定した。人が自然界で受ける線量は年約1ミリグレイとされる。ただ、雨で汚染された飲食物を食べるといった内部被曝の影響は不明という。
国は市が求める援護地域の拡大について「科学的根拠がない」と消極的だが、広島市は今回の研究成果を踏まえ、改めて国に要望していく方針。(加戸靖史)(朝日新聞 2010/02/27)

キャメロン監督:原爆テーマの次作…原作に誤り構想揺れる
米ハリウッド映画「アバター」のジェームズ・キャメロン監督が次回作に予定している、広島への原爆投下をテーマにした映画構想が揺れている。映画の原作の一部に誤りが見つかり、原作者が内容の訂正を表明しているからだ。米国の退役軍人らからは批判の声が上がり、被爆者の間にも困惑が広がっている。
原作は「アバター」で科学アドバイザーを務めた米作家チャールズ・ペレグリーノさんの「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」。漫画「はだしのゲン」の作者で広島で被爆した中沢啓治さん(70)のほか、1月に亡くなった二重被爆者の山口彊さんや広島・平和記念公園の「原爆の子の像」のモデルとされる佐々木禎子さんらも登場する。
問題の発端となったのは、広島への原爆投下の際、米軍の写真撮影機に搭乗したという元米兵(08年死亡)の証言。原作は、これを基に、出撃前に科学者が死亡する放射線事故があったことなどが描かれた。だが、投下任務に当たった米軍部隊の名簿や搭乗員リストにこの元米兵の名前はなく、証言が虚偽だった疑いが浮上した。
原爆投下機エノラ・ゲイの航空士だったセオドア・カークさんは、退役軍人グループのウェブサイトで「完全にでっち上げの話だ」と非難。ペレグリーノさんは元米兵の話が誤りだったことを認め、改訂作業を始めた。
さらに、ペレグリーノさんは毎日新聞の取材に対し、中沢さんの連絡先が分からなかったため、複数の漫画作品や自伝、記事などから実体験と思われる部分を抜き取って作中に用いたことも認めた。
「引用の連絡はなかった」としている中沢さんは、作品に架空の人物が登場する場面があることなどから「キャメロン監督がどういう構想を描いているのか聞いてみたい」と話している。【松本博子、ロサンゼルス吉富裕倫】(毎日新聞 2010/02/27)

原爆投下は「真のホロコースト」 イラン議長が長崎訪問報告
【テヘラン共同】イランのラリジャニ国会議長は28日、日本訪問中に長崎市の原爆資料館を見学した感想についてイラン国会で演説し、第2次大戦中のナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)になぞらえ「原爆投下こそが米国が引き起こした真のホロコーストだ」と述べた。イランのメディアが報じた。
27日の長崎初訪問についてラリジャニ氏は「日本にとって最も悲しい出来事の一端を知る機会だった」とした。その上で「広島に原爆を投下して核兵器の影響の大きさを知りながら、長崎にも落とした」と米国を批判。ホロコーストよりも、米国の核兵器使用を問題にするべきだと指摘した。
イランの核開発をめぐっては国際原子力機関(IAEA)が核弾頭開発疑惑を指摘しているが、同国は発電目的だと説明している。(共同通信 2010/02/28)

ジェームズ・キャメロン監督:原爆「映画化、意思変わらず」 原作が販売中止
◇「誤りわずか」 事実関係に疑義、原作が販売中止
広島への原爆投下などを取り上げた米作家の新刊書に事実関係の疑義が生じ、販売が中止された問題で、同書を原作とする映画の製作を表明していた映画監督、ジェームズ・キャメロン氏が、映画化の意思に変更はないとする考えを関係者に伝えていたことが分かった。同書の日本国内での著作権代理店「アウルズ・エージェンシー」(東京都)などに3日に届いた文書で「映画化の優先権を保持する」と明らかにした。
この新刊書は、チャールズ・ペレグリーノ氏の「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ(広島からの最終列車)」で、1月に出版された。キャメロン氏は文書で、自身が監督したヒット作「アバター」で科学アドバイザーを務めたペレグリーノ氏について「被爆者へのインタビュー取材における努力は議論を差し挟む余地はない」と評価し「具体的な製作予定は確定していないが、その意思になんら変わるところはない」と記している。
この新刊書は、広島への原爆投下の際、米軍の写真撮影機に搭乗していたという元米兵(08年死亡)の証言が虚偽ではないかと指摘され、登場人物の存在にも疑問が投げかけられたことから、出版社が今月、販売を中止した。キャメロン氏は「わずかな誤りのために、本が抹消されるのは遺憾だ」と批判した。【臺宏士】(毎日新聞 2010/03/10)

被爆の実相、証言で訴え=原爆展が開幕−NY国連本部
【ニューヨーク時事】広島、長崎の被爆の実相とその悲惨さへの国際理解を深めるため、ニューヨークの国連本部ロビーで3日、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が主催する原爆展が始まった。核拡散防止条約(NPT)再検討会議の開幕に合わせたもので、6月末までの開催期間中、通訳を使って約20人の被爆者が交代で体験を語るほか、約50枚の写真パネルや遺品を展示して平和の尊さを訴える。
14歳の時に広島駅で被爆した平末豊さん(79)は「悔いて人生を終わりたくない。年齢を考えればここに来るのはこれが最後。1人でも多く話を聞いてもらえたらいい」と抱負を語った。
米国人ジョン・スタインバックさん(63)は、平末さんらの体験談に聞き入り、「平和への情熱がよく分かった。軍縮に携わる人々が集まる国連での証言は大変重要だ」と感想を述べた。
被団協による国連での原爆展は2005年に続き2回目。あいさつした秋葉忠利広島市長は「記憶を鮮明にしておくことが大切」と意義を強調。田上富久長崎市長も「できるだけの想像力を持って写真一枚一枚を見てほしい」と来場者に呼び掛けた。(時事通信 2010/05/04)

NYの学校で被爆映画上映 核廃絶「話し合いを」
【ニューヨーク共同】原爆投下後の長崎で、自らも被爆しながら被爆者の治療に当たった医師秋月辰一郎さん(2005年死去)の姿を描いたアニメ映画「NAGASAKI・1945〜アンゼラスの鐘〜」が4日、ニューヨークのセント・ルークス校で上映され、日米の生徒ら約60人が原爆被害や核兵器をテーマに議論した。
同校の招きで、「東京高校生平和ゼミナール連絡会」のメンバーや被爆者が訪問。
ロイド・フェン君(14)は「悲しくて何度も泣きそうになった。核をなくすには時間がかかるが、よく話し合うべきだ」と感想を話した。「核をなくすとテロリストの攻撃にどう対応すればいいのか」との意見も出た。
有原誠治監督は「映画を通じ平和について語り合う姿を見て、深く感動した」と語った。(共同通信 2010/05/05)

被爆少女描いた作家が平和訴え 「サダコの思い」世界に届け
【ニューヨーク共同】広島で被爆し、12歳で亡くなった佐々木禎子さんの折り鶴が展示されている米中枢同時テロ追悼施設。核拡散防止条約(NPT)再検討会議が始まった3日、兄雅弘さん(68)らを招いて開かれたセレモニーに被爆少女「サダコ」の話を世界に広めたカナダ出身の作家、エレノア・コアさん(88)の姿があった。「サダコの平和を願う心が世界に伝わってほしい」。折り鶴に思いを託している。
被爆10年後に突然白血病を発症し、生きたいと願いながら千羽鶴を折り続けた禎子さん。コアさんが1977年に出版した「サダコと千羽鶴」は米国やカナダの小学校で副読本として読まれ、サダコは世界で最も知られた被爆者とも言われる。
子どものころから日本に興味を持っていたコアさんは、戦後間もなく新聞記者として日本を訪れ、広島の惨状を見た。「すべてが破壊されていた」と大きなショックを受けた。
60年代に再び来日し、広島市の平和記念公園で禎子さんをモデルに建てられた「原爆の子の像」が目に入った。「この少女はいったい誰だろう」と興味を持ったことが著作のきっかけになった。(共同通信 2010/05/07)

NPT再検討会議:ノーモア・ヒバクシャ、私は忘却を恐れる 81歳、非核の叫び
【ニューヨーク加藤小夜、錦織祐一】ニューヨークの国連本部で開催中の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、各国政府代表が非政府組織(NGO)の意見を聞く会合が7日(日本時間8日)あった。核廃絶へ向けて、秋葉忠利・広島市長が「未来の世代のために力を注いでほしい」と演説。田上富久・長崎市長が「『核兵器のない世界』だけが、国際社会の永続的安全を保障する」と呼び掛けた。長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄(すみてる)会長(81)が被爆者を代表して演説した。
被爆者代表で演説した谷口さんは、原爆の熱線を浴び真っ赤に焼けただれた自身の背中の写真を手に「人間が人間として生きていくため、地球上に一発も核兵器を残してはならない」「私は忘却を恐れます。忘却は新しい原爆の肯定に流れてしまう」と各国代表ら約400人に語りかけた。
16歳の時、郵便局員として郵便を集配中に爆心地から1.8キロの近距離で被爆。数千度の熱線に背中一面を焼かれた。1946年1月に米軍が撮影した治療中の写真を谷口さんが掲げ、スクリーンにも映し出されると会場は静まり返った。
「身動き1つできず、腹ばいのまま痛みと苦しみの中で『殺してくれ』と叫んだ。誰一人、私が『生きられる』と予想する人はいませんでした」。入院治療は4年間にも及んだが現在に至るまで完治はせず、右目の眼底出血など原因不明の症状に次々と襲われる。本人も「これが最後の渡米」と覚悟を決める。
最後に「私は見せ物ではありません。でも、私の姿を見てしまったあなたたちはどうか目をそらさないでもう一度見てほしい」とかすれる声を絞り出すように呼び掛け「核兵器は絶滅の兵器。ノーモア・ヒバクシャ」と訴えると、各国政府代表らは立ち上がって拍手を谷口さんに送り続けた。
証言を会場で聴いたロシアの政府代表の1人は「私たちは、第二次大戦の戦勝国としての見方しか持っていなかった。深く感銘を受けた」。再検討会議のカバクテュラン議長(フィリピン)は「(原爆投下を)2度と起こしてはいけないという強いメッセージを表現した」とたたえた。
演説を終えた谷口さんは「やるべきことはやった。しかしこれが終わりじゃない。話を聞いた人たちが(核廃絶を)実行につなげてもらわないと」と期待を込めて語った。(毎日新聞 2010/05/08)

広島被爆2世、11万9331人確認 親の被曝線量分析
広島県在住の被爆者を親に持ち、1946〜73年に生まれた「被爆2世」が、少なくとも11万9331人いることが、鎌田七男(かまだ・ななお)・広島大名誉教授(内科学)のグループの研究でわかった。それぞれの親の被爆状況や被曝(ひばく)線量も分析した。被爆2世については、全体の人数すら把握されておらず、不明な点が多い。研究は、遺伝的影響を解明する足がかりとして注目される。
6日、長崎市であった「原子爆弾後障害研究会」で発表された。同グループは広島県と広島市が73〜74年、県内在住で被爆者健康手帳を持つ約17万人を対象に実施した家族状況調査(記入式、回収率約80%)を精査。広島大原爆放射線医科学研究所が持つ、全国の被爆者約29万人の被曝線量などのデータと照らし合わせた。
その結果、被爆した父親を持つ子が6万6108人、被爆した母親を持つ子は7万5479人いることがわかった。両親とも被爆していた子は2万2256人だった。調査に答えなかった人の子や74年以降の出生も考慮すると、県内在住被爆者の子は13万人程度いたと推定できるという。
グループはさらに、判明した被爆2世の親の被爆状況や被曝線量を解析した。線量が0.5グレイ以上(おおむね爆心地から1.5キロ以内に相当)の親は6229人で、0.5グレイ未満の親は3万1874人だった。ほかに2万917人の親が2キロ以内で直接被爆したが線量は不明だった。原爆投下から3日以内に広島に入った「入市被爆者」の親は、4万1937人いた。
広島、長崎の被爆者を親に持つ被爆2世は全国で30万人以上いるとされるが、国は実態調査をしておらず、親の被曝線量と子の健康状態の関連も究明されていない。
鎌田さんは「原爆被害の全貌(ぜんぼう)を明らかにするうえで、広島の被爆者にどれほど子がいるのか突き止めたかった。被曝線量も含めて一定の数字が出せたことは、今後の2世研究の基礎になると思う」と話している。(加戸靖史)(朝日新聞 2010/06/07)

広島原爆:「黒い雨、より広域で」 日露専門家グループ、被曝との関係を報告
日露の放射線や気象の専門家グループが、広島への原爆投下後に降った「黒い雨」と放射線被曝(ばく)の関係など最新の研究成果を報告書にまとめた。「黒い雨」は降雨域や浴びた人への精神的な影響など不明な点が多く、被爆65年を機に「解明は科学者の責務」として作成した。グループの協力によるこの報告書を添え、広島市は7月、年4回の無料健康診断などの対象となる被爆者援護法に基づく「健康診断特例区域」の拡大を国に求める方針。【矢追健介】

◇広島市、特例区域拡大要請へ

グループは「広島“黒い雨”放射能研究会」で、広島大原爆放射線医科学研究所の星正治教授と京大原子炉実験所の今中哲二助教を世話人にする約20人。国内のほか、旧ソ連セミパラチンスク核実験場(カザフスタン)周辺の被曝実態を研究する露の学者も加わり、08年2月から知見の集積を進めてきた。
報告書は137ページ。グループは、黒い雨に含まれていたとみられる放射性物質「セシウム137」を、特例区域外にある民家床下の土壌から検出。被曝線量は最大で、爆心地から約2.1キロでの直接被爆と同じレベルと推計した。原爆投下後に立ち上ったきのこ雲の高さが、従来より4キロ高い約16キロだった可能性も指摘した。
国は北西方向に長さ29キロ、幅15キロを黒い雨降雨地域と定める。このうち長さ19キロ、幅11キロの楕円(だえん)が被爆者援護法に基づく指定地域(大雨地域)で、健康診断などの対象となっている。研究グループは、08年から広島市が実施した被爆者調査の黒い雨に関する回答約1800人分の解析も担当。黒い雨の体験地は現在の降雨域より広く40キロ程度の円になることが分かり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱える人がいることも判明した。
星教授は「被爆体験をした人が生きている限り、新しい知見を集め続けることが科学者の責任と考えている」と話している。(毎日新聞 2010/06/15)

反核イベント:「ホピの精神、被爆地へ」 先住民の子孫が舞踊披露??つくば /茨城
核兵器開発に伴うウラン採掘で被ばくした米先住民の「平和への願い」を日本の被爆者に伝えようと、広島と長崎の原爆忌に合わせて両地を訪ねる舞踊家のデリック・デービスさん(43)らが3日、広島訪問に先立ち、つくば市のノバホールで反核イベントに参加し、先住民の舞踊「フープダンス」を披露した。訪日を企画した広島の被爆者、村上啓子さん(73)=牛久市=も、別の先住民の演奏に合わせ、広島の被爆が風化する現状を危惧(きぐ)する詩を朗読。米国による65年前の原爆投下と、今も続くウラン採掘被ばくの痛みを共有し合い、核廃絶を訴えた。 2人は4?9日に両地を訪問、デービスさんはその後も約1週間かけ、国内各地でパフォーマンスを披露する。つくばのイベントは、県内で戦争体験を語り継ぐ女性の会が主催、自費で来日したデービスさんらの交通費を支援しようと、有料で開き、2回の公演で約400人が訪れた。
イベントで村上さんは、6月に現地で鉱山労働者の夫をがんで失った先住民女性(81)と会った経験を語り、政府による被ばく認定の審査が厳しいことや補償が十分に進まない実態に「不条理を感じた」と振り返った。
デービスさんは「すべては輪になってつながっている」ことなど示す5本の輪(フープ)を使い、踊りを披露。村上さんの知人で、2人を仲介した米国在住のミュージシャン、小塩賢さん(44)らの演奏に合わせ、輪で球体や鳥の翼などを形づくるなどして先住民の精神性を表現した。
デービスさんは76年の国連総会で核開発中止を呼びかけたホピ族の母を持つ。公演後、デービスさんは「自分の踊りを通じ、痛みを癒やすホピの精神性を両被爆地に伝えたい」と語った。【高橋慶浩】(毎日新聞 2010/08/04)

原爆題材に「誹謗中傷」 米作家が中止の経緯説明
広島への原爆投下を取り上げた本を書き、その後出版中止になった米国の作家チャールズ・ペレグリーノさんが9日、長崎市で共同通信などのインタビューに応じ「原爆というテーマを快く思わない人たちがおり、誹謗(ひぼう)中傷が相次いだ」と出版中止の経緯を説明した。
ペレグリーノさんは1月、「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ(広島からの最終列車)」を出版。本に登場する米兵がうその証言をしていたなどの理由からその後出版中止になった。
ペレグリーノさんは「訂正の意思を示した後からも退役軍人らからの反発が強く、出版社が尻込みして改訂ができなかった」と話した。批判の中には「原爆の放射線は地上に影響を及ぼさなかった」と事実に反するものもあったという。(共同通信 2010/08/09)

米国人作家も平和祈念式典参列 キャメロン監督に促され
米国人作家のチャールズ・ペレグリーノ氏が9日、長崎の平和祈念式典に参列した。原爆投下をめぐる著作「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」を1月に出版したが、虚偽証言が含まれていたため出版停止になった。「大きなミスを犯した」と釈明したうえで「新たに聞いた被爆者の話を加え、書き直した」と再出版への意欲を示した。
4〜11日の日程で来日し、6日の広島、9日の長崎の両式典に参加したという。「予想以上にインパクトがあった。世界中の人が見に来るべきだ」と感想を述べた。
著作は映画「アバター」が人気を博したジェームズ・キャメロン監督が映画化の権利を持っている。監督と訪問する計画があったが、1人でもよいから行くよう監督に促されたと明かし、「監督は映画化する気持ちに変わりはないと思う」と語った。(朝日新聞 2010/08/09)

映画:J・キャメロン映画化権取得の小説原作者が来日 「はだしのゲン」作者に取材、謝罪も
◇キャメロン監督「中沢さんアドバイザーに」
広島・長崎の原爆を描き、ハリウッドのジェームズ・キャメロン監督が映画化権を取得した書籍「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」の作者、チャールズ・ペレグリーノさん(57)が8日、広島市の漫画家、中沢啓治さん(71)を訪ねた。
作品は、被爆者や米軍関係者への取材に基づき、今年1月に米国で出版された。しかし、原爆投下に関与したとされる元米兵の証言が虚偽だと指摘され、販売中止に追い込まれた。毎日新聞も、同書が、漫画「はだしのゲン」や自伝など中沢さんの著作に書かれたストーリーを無断で使用しているうえ、中沢さんが創作した部分も事実として記載していると報道。その後、中沢さんに謝罪の手紙が届いた。
ペレグリーノさんは8日、中沢さんに改めて謝罪したうえで、広島での被爆体験を取材した。また、映画化計画が継続していることを明かし、「キャメロン監督は中沢さんに映画のアドバイザーになってほしいと考えている」と伝えた。ペレグリーノさんはキャメロン監督の映画「タイタニック」「アバター」などで科学アドバイザーを務めた。「ザ・ラスト……」の映画では、被爆地で何が起きたかを事実に即して克明に描く方針で、広島・長崎の原爆の日や被爆者・遺族を追加取材するため、4日から1週間の予定で来日したという。同書は改訂し、日本など複数の国で出版する予定だが、米国での再出版の見通しは立っていないとしている。
ペレグリーノさんは、米国民に被爆の実相が伝わっていないと指摘し、「長崎原爆を知らない人がいる。『ヒロシマで放射能汚染はなかった』と公言する人まで現れた。東西冷戦も遠い昔となり、核兵器への関心が薄れている」と危機感を語った。中沢さんは「真実から遠ざかっていくのは怖い。原爆がどんなものかを次の世代に知らせるのが漫画家や作家、映画監督の役割だ」と応じた。
ペレグリーノさんは9日、長崎市で会見し、同書改訂版(2訂版)が完成したと発表した。中沢さんらへの取材結果を盛り込んだ3訂版も予定しているという。【松本博子】(毎日新聞 2010/08/10)

米原爆本:出版中止原爆小説、取材し直し改訂版 映画化計画も継続 長崎市で作者会見
内容に誤りがあるとして米国で出版中止になった、原爆投下が題材の小説「ザ・ラスト・トレイン・フロム・ヒロシマ」の作者、チャールズ・ペレグリーノ氏(57)が9日、長崎市で会見し「改訂版を書き上げた」と発表した。同作はジェームズ・キャメロン監督が映画化を計画し、ペレグリーノ氏は「監督はまだ計画を放棄していない」と話した。
作品は、ペレグリーノ氏が二重被爆者の故・山口彊(つとむ)さんや米軍関係者ら約100人に取材して書いた。しかし、広島原爆で観測機の搭乗員だったと称した元米兵の証言が虚偽と指摘され、出版中止に追い込まれた。また、漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんに無断で作品から引用したことも指摘された。
ペレグリーノ氏は「徹底的に取材し直した。中沢さんには謝罪して了解を得た」と釈明した。米国での出版予定が立たず、外国語版が先行する見込みという。同氏は「米国では原爆の放射線で人は死なない、と言う人さえいた。批判された時は、山口さんの『被爆者のことを伝えてほしい』という言葉を心の支えにした」と語った。【扇沢秀明】(毎日新聞 2010/08/10)

広島・長崎への原爆投下、59%が「良い決断」 米世論調査
【ワシントン=弟子丸幸子】米世論調査会社ラスムセンが日本への原爆投下から65年を機に、8〜9日に実施した米国民の意識調査で、広島・長崎への原爆投下について59%が「良い決断」とし、16%が「悪い決断」と回答する結果が出た。日本への謝罪の是非を巡っては59%が「謝罪は必要ない」と答えた。その一方で「謝罪すべきだ」との意見が20%あった。
原爆投下を「良い決断」と肯定する意見は男性に多く、77%に達した。女性は43%だった。68%の人々が「原爆によって多数の米国民の命が救われた」との認識を示した。調査は18歳以上の1000人を対象に実施した。今秋に訪日するオバマ大統領の広島訪問が焦点となるなか、世論の受け止め方が重要な判断材料の1つになる。(日本経済新聞 2010/08/12)

原爆投下:「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた
にぎやかだった新潟の市街地に人影はなく、音も消えた。「ガラーンとして、猫の子一匹いないという言葉通り。不気味だった」。緑茶販売会社「浅川園」の会長、浅川晟一(せいいち)さん(104)=新潟市中央区=は、65年前の新潟・古町の情景をはっきりと記憶している。終戦2日前の1945年8月13日。大和百貨店は営業を中止し、ウインドーには郊外への疎開を急ぐよう市民に命じる役所の張り紙が掲示されていた。


当時の新潟市は今の中央区と東区の一部が市域で、人口は約17万人。大陸と結ぶ物資輸送の拠点港として、軍事上も重要な都市だった。しかし8月に入っても、なぜか米軍のB29爆撃機による大規模な空襲はなかった。同じように無傷だった広島市には6日、長崎市には9日に原子爆弾が投下され、一瞬で壊滅した。「次は新潟が新型爆弾にやられる」。市民に恐怖が広がった。
県は緊急に対応を協議し、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した。「(広島市は)極メテ僅少(きんしょう)ノ爆弾ヲ以テ最大ノ被害ヲ受ケタ」「酸鼻ノ極トモ謂(い)フベキ状態」「新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大キイ」。その文面からも当時の緊迫感が伝わってくる。
知事布告は11日に町内会を通じて市民に知らされる予定だったが、うわさは10日のうちに広まり、その日の夜から疎開が始まった。郊外へ通じる道は、荷物を山積みした大八車やリヤカーを引いて逃げる市民であふれた。郊外に知り合いがいない市民には集団住宅が用意され、13日までに中心部はもぬけの殻となった。


当時、兵器に使うアルミの製造工場に徴用され、工員の通勤定期券を買う係だった浅川さんは、疎開が許されず、出雲崎に家族を送り出し、古町の自宅に残った。軍需品や生活必需品の生産・配給、交通運輸、通信、電気供給などの重要業務に従事する者は残留を命じられたからだ。
「どんな新型爆弾なのか、想像もできないだけに怖かった。だが自分には職務があり、逃げるわけにはいかなかった」。誰もが国のために尽くすことを第一に考えなければならない時代だった。
浅川さんは、今の県庁近くにあった工場と、古町にあった交通公社の間を自転車で行き来するのが日課だった。15日朝、交通公社に出向くと、「正午から玉音放送というのがある」と女子職員から耳打ちされた。無人の街に響くラジオの音は聞き取りにくかったが、日本が戦争に負けたと知った。「正直、ホッとした。これで爆弾を落とされることはない」。恐怖から解放され、市民も疎開先から少しずつ戻ってきた。


実際に米軍が一時、新潟を原爆投下目標にしていたことがわかったのは、戦後のことだ。当時、市民が「次は新潟」と恐怖を直感したのも無理はなかった。
浅川さんはのちに広島、長崎を訪れ、資料館で原爆被害の悲惨さを知った。もし最初の原爆投下目標が新潟だったら、多くの市民が疎開をする間もなく犠牲になったはずだ。「新潟が免れたのは紙一重だった」と思うと同時に、被爆地の痛みも人ごととは思えない。
「軍人が日本を支配し、戦争を起こすような時代には戻してはいけない」。次の世代に託したい浅川さんの思いだ。【小川直樹】

<原爆投下目標> 米軍は45年7月25日までに広島、小倉、新潟、長崎を原爆投下目標に定めたが、8月2日の作戦命令で新潟を外した。新潟市が98年に「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」を編集した際、執筆者たちは米国の公文書などを調べ、「新潟は工業集中地区と居住地とが離れ、原爆攻撃に適さない」「(爆撃機が出撃する)テニアン基地から遠い」などの判断があったと推定した。(毎日新聞 2010/08/13)

原爆小頭症の患者リスト「提供したのは私」 実名で告白
母親の胎内で被爆し、心身に障害を持って生まれた「原爆小頭症」をめぐり、1965年、極秘とされていた患者リストを匿名で支援者に提供した女性が28日、提供の事実を実名で証言した。女性は当時、米国が広島と長崎に設置した原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)に勤務していた。患者リストが明るみに出たことで、同年に患者と家族の会「きのこ会」が結成され、国が患者を援護対象とすることにつながった。
証言したのは山内幹子さん(79)=広島市中区。この日、きのこ会結成に尽力し、9月に急逝した元中国放送記者の秋信利彦さんをしのぶ会が同市であり、その席上、秋信さん側に匿名でリストを提供したことを明かした。山内さんは2007年、朝日新聞の取材に、リスト提供を明かしていたが、実名での証言は初めて。
原爆と小頭症の関係を証明する論文は、広島、長崎への原爆投下の数年後に出され、ABCCがひそかに臨床研究を続けていたが、患者が誰であるかは秘匿されていた。きのこ会の関係者によると、患者は国の支援もないまま孤立していたが、リスト入手によって会が結成でき、会の働きかけによって国は患者を「近距離早期胎内被爆症候群」と認定、援護対象となった。
山内さんによると、患者のカルテは6ケタの番号で管理され、いくつもの資料室に分けて保管されていた。当時、山内さんは、唯一各部屋に出入りすることができる立場にいたという。山内さんは「私自身、女学生のときに被爆し(被爆者の研究はするが治療をしない)ABCCに勤める矛盾に苦しんでいた。理不尽さに我慢できませんでした」と打ち明けた。
「きのこ会」会長で、小頭症の兄(64)の世話を続ける長岡義夫さん(61)は「良心に突き動かされた、苦渋の行動だったと思う。それがなければ患者と家族は孤立したままだった。感謝します」と話した。(武田肇)(朝日新聞 2010/12/03)


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【関連サイト】

「原爆ホロコースト」の実態(ヘブライの館)

ATOMIC BOMB: DECISION (Leo Szilard Online)

Why We Dropped the Bomb (Barton J. Bernstein, Mercury News)

The Atomic Bomb and the End of World War II- A Collection of Primary Sources (National Security Archive)


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