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ヒャルマー・シャハト(国立銀行総裁、経済大臣)
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak51/msg/832.html
投稿者 新世紀人 日時 2012 年 2 月 09 日 11:24:49: uj2zhYZWUUp16
 

(回答先: 日独の戦友意識と敗戦認識の差「おめでとう」と言われた岸信介[歴史こぼれ話](過去の雑誌)…原発廃炉できず敗戦継続の日本人 投稿者 新世紀人 日時 2012 年 2 月 09 日 11:22:19)

http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/biblo/germany/sa/schacht.htm

シャハト
ヒャルマー・シャハト(国立銀行総裁、経済大臣)
Horace Greely Hjalmar Schacht
(1877-1970)
−ナチス政権を財政面で支えた敏腕の財政専門家−

(2002.11.3作成)
(20081025大幅修正)


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 1877年1月22日に、現在はデンマーク領となっているティングレフで生まれる。大学入学後にキールで薬学、ミュンヘンで心理学、ベルリンで政治学を勉強し、1899年には経済学の博士号を取得した。1903年にはドイツの大手銀行の1つであるドレスナー銀行に入社し、1905年に渡米、アメリカ財界の中心的人物であるジョン・ピアポント・モルガンやセオドア・ルーズベルトと会談している。その後1908年から1915年まで頭取の地位にあった。

 1916年から1922年までにドイツ国立銀行理事。1923年に首相グスタフ・シュトレーゼマンや財務大臣ハンス・ルターの下で通貨全権委員に就任。破滅的なほどに進行していたハイパーインフレーションをデノミネーションの実施とレンテンマルクの発行で対処、沈静化に成功した。この時の経験を買われドイツ国立銀行総裁となり、ヤング案やドーズ案の取りまとめに奔走した。

 1930年3月7日にドイツ国立銀行総裁を辞任。同年アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」に感銘を受け、シャハト自身はドイツ民主党(ドイツ国民自由党左派)のメンバーだったが、右翼よりの政治姿勢と取り始め、ナチスに協力の姿勢をとる。1931年1月には、ヘルマン・ゲーリングの設定でヒトラーに面会している。シャハトはナチス党への政治資金を集め始める。彼は、良好な関係を有していたクルップ社といった実業家たちにナチス党へ政治資金を提供するように説得した。1932年11月にシャハトは、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクにアドルフ・ヒトラーを首相に指名するように訴えたドイツの主要実業者によって署名された手紙を取りまとめ、提出した。これは成功し、1933年2月20日にはドイツ実業者協会の会合を設定し、次の選挙のためにナチス党へ200万マルクの資金を提供した。
 シャハトはアメリカへ旅行し、40もの演説をおこなったり、ラジオに出演したり、いくつかのアメリカの会報にいくつかの記事を書いた。その中で彼は、ヒトラーが間もなくドイツに民主主義を戻すと主張した。彼は、フランクリン・ルーズベルト大統領にも会ったが、大統領に悪い印象を持ったようで、後に彼を「とても尊大である」と記述している。

 他のナチス党員同様、彼はドイツのユダヤ人にとても敵対的だった。それを示す演説で、「ユダヤ人は、ドイツでの影響力が永遠に消えたことを理解すべきである」と述べている。1934年には世界シオニスト協会と、ドイツのユダヤ人がパレスチナに移住するために15,000ライヒスマルクを支払うという協定を結び、この4年の間に170,000人以上がパレスチナに移住させられたと見積もられている。

 しかし、シャハトはユダヤ人に対する「不法活動」については不同意で、1935年8月にはユリウス・シュトライヒャーを非難する演説を行い、「Der Stuermer」にも寄稿している。彼は、ユダヤ人が第一次世界大戦でドイツ軍の一員として勇敢に戦い、公正に扱われるに値すると指摘した。

 ヒトラーが政権を握った後の1933年3月17日にドイツ国立銀行総裁に復帰、更に1934年8月に経済大臣に指名された。
彼は、前のシュライヒャー内閣で構想のあった、アウトバーン建設に代表される大規模な公共事業を行って失業率を下げるというケインズ理論に即した経済政策を行うにあたって資金面での手助けを行い、結果として失業率を劇的に下げ、ドイツを世界大恐慌から脱することに成功した。その後、1935年5月に戦争経済準備のための全権委員に指名されるが、急激な軍備拡張はインフレを招き国家財政を破綻させる懸念があるとしてヘルマン・ゲーリングと対立、1937年11月に経済相と全権委員を解任され、さらに1939年1月20日にドイツ国立銀行総裁も解任された。その後は、1943年1月まで無任所大臣を務め、国立銀行総裁と同額の給与を受けたが、これは実権のないただの名誉職にすぎなかった。

 第二次世界大戦中、彼は反ヒトラー派のハンス・ドーナニィやエルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥と接触し、ヒトラーに対する反乱計画に関与していく。そして1944年7月20日に、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を中心にしたヒトラー暗殺未遂事件が発生すると、連座していたとして7月23日に逮捕され、ラーベンスブリュックやフロッセンブルク、最終的にはダッハウ強制収容所に収容され、1945年4月に連合国によって解放されるまで“特殊囚人”として軟禁されていた。

 解放後は、一転ナチス独裁政権の強化に貢献した疑いと人道に対する罪で戦争犯罪人として起訴。ニュルンベルク裁判で裁かれたが、無罪判決を受けて釈放された。

 一説には、このシャハトは、第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判所に引き出されたとき、「自分は国際決済銀行(BIS)に代表される、国際金融体制の一員として行動していたに過ぎない。もしも自分が裁判にかけられるようなことがあれば、自分は国際金融陣営が『ヒトラー計画』を背後で操っていたことを示す証拠を公開するであろう」と、ニュルンベルク法廷を脅迫したので、アメリカとソ連の裁判官の強い反対を押し切って、釈放、無罪放免とされたとも言われている。その後の非ナチ化裁判では労働奉仕8年の刑を受けたものの、1948年9月2日に釈放された。

 釈放後はデュッセルドルフ銀行でインドネシアやエジプトなど発展途上国の経済・財政に関するアドバイザーとして活動した。1970年、自宅での転倒事故が原因の塞栓症で死去した。


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