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文化と文明の違いについて ・ ・ ・ 大相撲を考える
http://www.asyura2.com/11/senkyo106/msg/769.html
投稿者 月と星 日時 2011 年 2 月 08 日 10:27:45: vebXXayRfpINQ
 

大相撲における八百長問題を大騒ぎしているマスコミや評論家たちは、その根本にある大相撲というものの存在が何であるかを理解しているのだろうか。この根本的な問題については「文化と文明」というものの理解が存在していなければならない。

これを端的に表現した言葉は司馬遼太郎の「アメリカ素描」の一節で述べられている次の言葉に凝縮されている。

「人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているものが、文明と文化である。いずれも暮らしを秩序づけ、かつ安らげている。
ここで、定義を設けておきたい。文明は「誰もが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。
例えば青信号で人や車は進み、赤で停止する。この取り決めは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。普遍的という意味で言えば交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいうと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいいという合理主義はここでは成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるといえる。・ ・ ・ 一部省略
以上の事からいうと日本などは精神の安らぎのための不合理な習慣でつまっている。年末だけでも年賀状を書き、お歳暮を送り、忘年会で飲み、紅白歌合戦を見、年越しそばをすすり、除夜の鐘をきき、気の早い人はそのまま初詣に出かける。そういう文化の蓄積とその共有が、自然とクニの形をとったのが、地上のほとんどの国の場合である。日本の場合、そのアンコという文化の上に、マンジュウの皮のように文明という法秩序がある。 ・ ・ ・ 以下省略」

大相撲を野球やゴルフのような、他のスポーツと同じ観点からしか見れない評論家やヤメ検達の意見の白々しさや違和感が耳の中でこだまする。私は単純に処罰だ処罰だという報道には絶対に反対する。  

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コメント
 
01. 天橋立の愚痴人間 2011年2月08日 21:39:55: l4kCIkFZHQm9g : LLhZHEnsvM
月と星 さん、何時も論理的に突っ込んだ事象の解説に敬服しています。
この文化と文明とか言う範疇は、なかなか人の興味を引かないものですが、私は以前から興味を持っています。
そこで、一つ私の意見も検証していただきたくコメントします。
最も、ここで言われています文化、文明論は大相撲のことにかこつけておられますので貴方が全てを言っておられるとは思っていません。

ネットで見たことがあるのですが、文化と文明について下記のように定義されている方がいました。

文化の中で優越した民族や集団の文化が他文化に浸透していく、元々固有の文化であった物が他の文化に浸透したものが文明である。
つまり、文化は特定の人々に固有の物で、文化が他の文化にまで影響を与えるようになったのが文明と考えています。
文化と文明に本質的な違いはないと思います。

貴方と共通する認識で、このような場合が多いようです。

他方、アーノルド・トインビーの文明論は少し違った角度からアプローチしています。
原文は長い文章なので割愛しますので、正確に意味を伝えることが出来るかわかりませんが、

(文明の発生)

ここで、彼はまるでプラトンの洞窟の話しのような仮定をする。巨大な岩山の中腹の岩棚に横になっている人類の状況を、文明発生直前の様態と規定する。彼らが再び岩山を登ろうとするとき文明がスタートしたと言います。

これだけでは、解らないと思います。そこで登場するのが、ミメシス(模倣)と言う行為の内容を説明しております。文明発生以前のミネシスは、時代を遡る方向へ向いていた、つまり、長老などを通して過去の崇拝を主眼としていた。そのミメシスが、時代の先駆者を追うようになったとき、文明はスタートすることになったと言う。要するに社会が前進を始めたと言うことです。ここで最初に文明発生直前の社会が中腹の岩棚にあったと言う事は、文明とは言わない。

(以上)

要するに、普遍的、通常的にすごしてきた人間の集団の中に、先駆者と言うような階層が現れ、集団を啓蒙するようになり文明が始まるというような意味です。
トインビーは、人間社会の有り様を始原的に捕らえて文明を規定しました。

彼の考えでは、最初に規定した文明以外に新しい文明の発祥は殆ど考えられないことになります。

その後、彼は挑戦と応戦と言う言葉を使い文明の発展を説明しています。
挑戦も応戦も、その時代の文明を襲う、人的災難や自然の災難とそれを切り抜ける人々の様子を言っています。

突然、何でこのような文章を紹介したかと言いますと、数百万年の歴史において人類は常に複数の先駆者(リーダー)がでて、それを人々が追っかけて行くと言う形を繰り返してきた。そして文明を襲う困難(挑戦)とは、他民族の侵略や、大自然の猛威であった。その都度人類は先駆者を頼り彼らを真似ることで行動を起こし文明を維持し発展させてきたと言うことです。

そして現代社会で人類に挑戦してきているものを、先に話した科学技術の発達と巨大資本の猛威とすれば、今、我々の前に先駆者はいるのであろうか。
今回の挑戦は共に人類自身が作り上げた挑戦であることは、今までとは質が異なっているのである。

以上で、トインビーの文明論の説明を終わります。

文化と文明と言うオーバーラップした範疇の概念を云々するのはたいそう骨がおれますが、私は、文化と文明の本質を分けて考えたい方です。

私なりに言えば、文明は人間集団のアイデンティティであり、それが形をとったものが文化である。
かつ、文明を表すアイデンティティとは、文化に向かう能動的なものである。

と、まあ、
文化、文明と言う同じような概念を、精神的な面からみるのと、結果の形から見るというようなものですが、現代社会を文明史的転換の時代と言う場合は、この捉え方が必要ではないかと思っています。

拙文、如何でしょうか。
こんな議論を吹っかけるのも、月と星さん、貴方ならではです。


02. 2011年2月09日 00:07:18: QIxHTyiC1g
相撲取りにとって、八百長によって自分の所得を守りたいという気持ちが起こるのは当然でしょう。お金で星を買うという行為は褒められるものではないですが、とはいえ、せいぜい個人的な犯罪のレベル。相撲という芸を高めることで、観客にその芸術的な身体の使い方を見せて感動を与えることができる。そこにたとえ八百長があっても、そんな勝負に拘らず、素晴しい相撲の感動を与えることは可能だと思う。相撲に八百長があってはならないという人、相撲をやくざに見せてはいけないという人たちは、相撲に何を求めているのですか?相撲はサッカーや競馬や競輪のように、公営ギャンブルの対象ではないのですよ。八百長があっても個人の問題ではないですか。普通の観客が見て、明らかに八百長だとわかるような相撲なら、その技術の未熟さを笑えば良いではありませんか。でも、八百長だと明確に分かる人もいないのですよね。サッカーのワールドカップなどでも審判の買収疑惑がありますが、国際的なスポーツ大会やギャンブルの対象となっているスポーツの不正行為には口を閉ざして、なぜ相撲だけを非難するのでしょうか?
誰かが日本独自の伝統文化を狙い撃ちしているような、いやな感じがします。それも外国からの攻撃ではなく、日本人自らが日本文化を否定するようなやり方で。このやり方は悪い人たちの常套手段です。これは、カルトの手口なのです。つまりマインドコントロールのやり方。日本人に対して、日本社会全体に対して、『日本の伝統文化は世界に通じない特殊で良くないものなのだ』と、彼らが意図する印象を刷り込んで、自分たちに自分たちの文化を棄てさせることでマインドコントロールを強めるという手口だと思います。
日本のマスコミがこれほど情報統制できる体制を持っているとは思いませんでした。マスコミ自身もマインドコントロールされているのかもしれません。
グローバルスタンダードではなく、多様な考え、多様な報道をしている国々の情報を積極的に収集して、一方的な情報に惑わされず、自分自身のなかで判断出来る人が増えてほしいと思います。

03. 月と星 2011年2月09日 06:37:01: vebXXayRfpINQ : oLX08exg3Y
天橋立の愚痴人間 様

コメント感謝いたします。そのような難しい話にするつもりはありませんでした。小生の理解はもっと単純です、司馬遼太郎のいうとおりに「文明=全ての人に普遍的なもの」、「文化=特定の集団だけに普遍的なもの」、ただこれだけです。

従って大相撲の問題も単に八百長の有無だけを大袈裟に騒ぐような問題なのか、という問題の提起です。単純に言えばプロレスなどと同じ意味の興行という形で連綿と続けられてきたものが、他の西欧型のスポーツマンシップに基づくスポーツと同じ発想で非難されるべきものなのでしょうか、しかも国民が具体的に被害を受けたものでもないのに、何をもって大騒ぎしているのか理解できません。というより理不尽さに憤りを感じるのです。相撲協会が官僚の食い物にされていくのを見ているのに我慢がならないのです。元の官僚などの入る余地のない協会に戻すべきです。


04. 天橋立の愚痴人間 2011年2月09日 08:20:29: l4kCIkFZHQm9g : UGfcIMXlEw
月と星 さん、
いらぬ方向へ、持って行きまして申し訳けありません。
貴方が何時も言っておられる背景に、現代資本主義、民主主義へも疑問も含まれているように見受けられます。
情報と物質の氾濫、働くことの意味の相違を考えましたとき、現代社会が抱えている問題点を捕らえるのにトインビーが言う文明論が調度良かったので飛びついて、文明史的転換が必要としている次第です。

大相撲につきましても、貴方の意見に賛同するものです。
何でもかんでも合理的に割りきることが正解ではないことも認識したいものですね。


05. 天橋立の愚痴人間 2011年2月09日 08:27:48: l4kCIkFZHQm9g : UGfcIMXlEw
追伸です。
月と星様

デモを煽っていることにも関連して、前回のようなことを言いますとマルクス主義者のように思われますが、決してそうではありません。
むしろマルクス主義(経済論)とか、共産主義の理念そのものを否定するものです。
念のために。


06. 2011年2月10日 21:53:06: Ff12HBKI4g
文明=唯物論で謂うところの世俗的な上部構造。(政治経済科学軍事同盟)
文化=観念論で謂うところの浪漫的な下部構造。(宗教芸術言論共同幻想)
もっと下司の譬えで云えば・・[正常位]が文明とするならば、文化は[四十八手]の情炎にも似て・・
文明と文化はコインの裏表の補完関係にあり、そのコインが基軸通貨となり、その通貨の発行権を持った帝国主義覇権が文明の盟主となる。
すなわち、ドル基軸のアングロサクソンを称して西欧近代文明という。
歴史的に文明は相対的であるが、文化は世俗的な下部構造に沈殿して重いものである。

07. 2011年2月10日 22:00:42: Ff12HBKI4g
06追伸。
月と星さま・・・コメントは不要です。(稲垣勘尚)

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