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科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その9)
http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/469.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 11 日 23:20:11: BW32mpuE76J86
 

 投稿者Kakasiは、日本共産党の指導者による「綱領・古典の連続教室」がとてもわかりやすいので、皆さんに是非聴講していただき、その批判へのコメントを期待して投稿しています。
 http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 今まで、マルクス主義は、科学的社会主義ではなく「空想的共産主義(似非科学的社会主義)」であり、これを科学と考え実践すると様々の誤りを起こすと述べてきました(愚痴人間さんによる「壮大なペテンの実験」に半同意します)。具体的内容は周知のこと(党派組織による人民解放と労働者・人間支配)なので、できるだけ理論面に絞っています。だから「教室」でしっかり勉強していただかないと理解困難・意味不明ということになります。
 マルクス批判の要点は、社会主義を科学にしたといわれる二点、「等価交換による剰余価値説」と「社会的存在が意識を規定するという唯物史観」についてです。その批判の詳細は、「人間存在研究所」のHPに展開されている理論「生命言語説」に依拠しています。
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/index.html
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html

 前者(剰余価値説)については、労働者搾取は、生産過程ではなく交換(流通)過程でおこなわれること、すなわち、強者資本家と弱者労働者との自由で対等な労働契約が、等価交換ではなく不等価交換(低賃金・劣悪な労働条件)によって行われていることを指摘しました。労働契約がたとえ合意の下で行われ表面的にwin winの関係だとしても、実態としては半強制的な労働が行われてきたことは、過去においてはもちろん、今日においても企業役員、正社員、派遣社員等々との格差賃金にあらわれています。
 資本家・企業家・経営者がいかに能力に優れているとしても、人間の知的体力的能力は、平均的労働者・人間能力の10倍を超えるものではないでしょう。平均的労働者の生涯所得が3〜4億円として、一年の収入で10倍を超えることになるのは、市場の不等価性に由来しています。ちなみに日本の上場企業の役員年間報酬1億円以上は、約300名とされています(役員報酬ランキング)。高額納税者公示制度が廃止されましたがネットでは残っています。おそらくすべて流通による不等価交換の所得でしょう。芸能スポーツ関係の高収入でさえ個人の能力を超えた所得です。累進課税の社会的存在意義は、不等価に対して多少でも公正と正義を考慮したものなのです。

 「等価交換=価値法則=労働価値説」ついてのコメントが一切ないのはなぜでしょう。この「阿修羅」で一言もないのは残念なので再論しました。もっとも「労働価値説」に反対しても、「等価交換」に反対できない学者・評論家がこの問題を避けているので仕方ありません。もちろんマルクス経済学者は全滅です。商業利潤、国際的不等価交換、独占価格、格差社会から考えれば答えは簡単に出てくるのですが、皆さんマルクス等の西洋的偏見・イドラ・トリック・神秘化に欺かれているのです。一つだけ実例を挙げておきましょう。→http://www.a-jrc.jp/pdf/ajj/047_068_ito.pdf

 さて、不破さんの好きな「唯物史観の未来論」に話を進めましょう。唯物史観は、単純な階級闘争論ではありません。階級闘争を意識せざるを得なくなる資本主義的生産様式の社会的矛盾が問題になります。労働組合の賃上げや諸要求実現闘争は、生産力の上昇にもかかわらず生じる生活の困窮に対する、労働者の自覚と団結によって引き起こされます。ここでマルクス理論では、「市場」の交換過程に関心があるのではなく、搾取労働が行われる生産過程、過剰生産と失業を制御できない生産様式が問題とされ、生産手段の社会化・政治権力の奪取(社会主義社会)をめざします。
 つまり、マルクス主義的社会主義は、意識的(契約的)過程ではなく、生産力と生産関係の矛盾、すなわち生産力の発展が低賃金、恐慌、生産の無政府性を拡大するため、必然的に労働者の団結と生産手段の社会化、それに伴う意識的計画的生産が起こるというものです。しかし、恐慌と低賃金が、福祉国家をめざす政府(と中央銀行)の意識的介入によって、多少とも矛盾の調整と制御、すなわち生産力の発展と生産関係の矛盾の低減が可能となり、事実として唯物史観の公式が否定されることになりました。つまり資本主義的生産様式は、マルクスの考えた矛盾をある程度克服し、別の矛盾、すなわち資源エネルギーの偏在・枯渇や環境汚染・温暖化問題、人間による制御困難な原子力開発等にみられる地球的規模での成長・発展の限界に直面しているのです。

 では、なぜマルクス的見通しが、誤ってしまったのでしょうか。それは根本には、弁証法論理に見られる西洋的思考様式の限界、ユダヤ・キリスト教的歴史決定論(終末思想)があります。人間の社会契約関係(不等価な交換・取引関係)を、市場の多様性・不均等性の中に見ないで平均的法則性を重視したこと、18〜19世紀の科学と革命と発展の時代であったこと、レーニンの言うようにドイツの哲学、イギリスの経済学、フランスの社会主義の統一が課題とされていたことなどがあげられます。
 マルクス主義は、時代の産物であり、西洋思想と伝統の産物であり、合理主義と楽天主義の産物です。 楽天的なところは「空想的共産主義」という名称が全くふさわしいのです。今更、「市場経済を通じて社会主義へ」(綱領)などという方針は、マルクスの真意に反します。それでも不破さん達がそう思っているなら、彼らはマルクス主義者です。様々なキリスト教や仏教があるように、様々なマルクス主義があるのです。しかしマルクス理論に依拠する限り、その理論にもとづく行動は、人間と労働者を抑圧し不幸に陥れることになるでしょう。人間と地球の生産力には限界があるからです。
 
 今回はここまで、次回の予告をしてもそのとおりに進みませんが、ご容赦ください。次回は、市場と不等価交換と社会契約について考えてみます。
 前回までは<BW32mpuE76J86> を検索してください。

 

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コメント
 
01. 2011年12月12日 00:49:41: 4nYOVoK0vw
議論板か経済板に行ってほしい。
マルクスも日本共産党の存在もアクチュアルな政治話題ではない。
場違いはなはだしい

02. 2011年12月12日 17:53:01: XmrRXp4oz2
マルクスはイギリスに亡命していましたが、その頃に、欧州大陸からマルクスの著作を読んで「マルクス主義者」になった人たちがマルクスを訪ねてきました。

マルクスはその人たちと話し合いをした後に、あなたがたが「マルクス主義者」だとすると、私は「マルクス主義者」ではないとマルクスを訪問した人々に言ったそうです。

マルクス思想は、残念ながらマルクスが生きていた頃から、既に誤解されていたのです。

Y. Kakasi は、残念ながらマルクス思想を誤解して批判していると思います。

是非、広松渉の著作を読んで、広松渉のマルクス論を批判してみて下さい。

マルクスの唯物史観は様々な意味がありますが、その中には、ありとあらゆる人間の思想は暫定的なものに過ぎず、変化してゆくものという考え方もあり、マルクス自身がマルクス思想も暫定的な思想であることを知っていたと思います。

つまり、マルクス自身がマルクス思想も、マルクスが生きていた時代の歴史的な制約を帯びていることを知っていたのであり、その意味では、マルクス自身がマルクス思想も絶対的なものではないと思っていたのです。

ですから、マルクス思想を正当に批判する人なら、マルクス自身が大歓迎するでしょう。

世の中には様々なマルクス論があり、日本共産党のマルクス論はその中の一つに過ぎませんが、残念ながら、日本共産党(不破)は誤った解釈をしていると思います。

是非、広松渉のマルクス解釈を読んで、広松のマルクス論を批判して下さい。広松自身も、広松マルクス論の正当な批判なら、大歓迎するでしょう。

マルクス思想が誤解されてきたのは、マルクス思想は、<色即是空>という仏教のような世界観とほとんど同じ世界観に基づく思想だったからだと思います。

マルクス思想は、ヨーロッパに生まれた事実上の<仏教>であると思います。

たとえば、講談社現代新書の「入門哲学としての仏教」という本で、著者である仏教学者の竹村牧男氏は、広松渉がマルクスの世界観を述べた「事的世界観への前哨」(勁草書房)が主張するマルクスの「関係主義的世界観」を、仏教とほぼ同じ世界観だと言っていますし、広松渉自身が仏教の世界観とマルクスの世界観が非常に良く似ていると述べています。

しかし、日本だけでなく、世界のほとんどの「マルクス主義者」は、日本共産党のような実体主義的世界観こそが唯物論の世界観と誤解して、実体主義的世界観を前提にしてマルクスを解釈してきたと思います。

我々近代人は、日常的には実体主義的世界観に基づいて思考していますので、<色即是空>という非実体主義的世界観は、非常に理解しがたい世界観です。

ですから、我々にとって釈迦が唱えた<色即是空>という非実体主義的世界観が中々理解しがたい世界観であるように、マルクスの非実体主義的思想も、多くの「マルクス主義者」から誤解されてきたのも無理はない面もありますが、誤った解釈でマルクスを批判しても無意味です。

是非、広松渉の著作を読んで、広松のマルクス論も批判して下さい。

世界資本主義は、ほぼマルクスやエンゲルスが予想した通りに、大悲劇=世界同時恐慌=に向かって迷走しています。

今こそ、真のマルクスの復活が必要な時です。

そのような時に、誤ったマルクス解釈でマルクスを批判しないで下さい。

お願いします。


03. 2011年12月12日 20:18:52: m67BSuHnKM
マルクス思想が誤解されて拡散されているとするなら
彼自身の記述、表現に問題があるからでしょう。それを棚に上げて
今こそマルクスっていうのは滑稽です。
そもそも時代の異なる広松の解釈が他より正統性があると誰が承認するんでしょうか。

04. 一隅より 2011年12月12日 23:13:09: PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
>>02さんのあげる問題も、>>03さんのあげる問題も、どちらも重要なのですが、ひとつ分かりにくい。

>そもそも時代の異なる広松の解釈・・・

とは何の時代と、何の時代が異なるというのでしょうか。
(ひとつは広松の時代でしょうが、もうひとつは?)

すみません。分かりにくかったものですから。補足お願いします。


05. Y. Kakasi 2011年12月12日 23:55:11: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
01)さん コメントありがとうございます。
>場(板)違いはなはだしい。
→とのことですが、見解の相違だろうと思います。マルクスも共産党の存在もきわめてアクチュアルな問題です。マルクス主義を信条とする大国があることはご存知の通りです。マルクス主義がめざす社会革命は、優れて政治的・現実的な問題です。なぜなら、共産主義革命は中国などで進行中ですし、日本でも革命を創造的に進めていこうとしているのが不破さん達だからです。
 この「阿修羅」の政治板等でも、「赤旗」「共産党」の宣伝が行われています。マルクスの誤りは、彼らも自覚されていないでしょう。経済や議論板でゆっくりとやればいいというご意見もありましたが、Kakasiは、管理人さんの判断に任せています。ダメと言われるなら投稿は中止します。クレームは賢明なる管理人さんへよろしく・・・・。
 多くの投稿に流され、すぐに消滅するような拙稿に目をとめていただき感謝です。

02)さん ユニークなコメントありがとうございます。
 広松さんの支持者のようですが、彼の著作は、9巻の著作集程度は「見」させていただきました。ここで広松論を述べるゆとりはありませんが、現象学の限界、すなわち西洋思想の限界を超えてはいません。ハイデガー的・現象学的な「共同主観性」という概念では、人間も、人間の意識も、人間社会も捉えることはできません。人間存在は、社会科学以前に、自然科学的・生物学的に解明され「言語」を「非実体主義的世界観」の根底に位置づけなければなりません。
 人間社会の関係性(運動法則)を理解するには、「共同主観性」の解明以前に、「言語」によって規定されている「自然的主観性」の解明が必要なのです。「生命言語説」の存在意義がここにあります。
 広松の言うようにマルクスが「近代の地平」を越え、彼もそれをめざしていたとしても、広松哲学では、西洋思想の地平(限界)を超えることはできませんでした。
 Kakasi達も仏教には関心を持ち、「仏教の現代化」をめざしています。広松の仏教理解が優れているとしても、「空観」は「縁起」の理解があってはじめて意味を持つのであって、『般若経』や龍樹の『中論』ように、はじめに「空」ありきという発想では、西洋思想を克服することはできないでしょう。
 03)さんが指摘されるように、広松は、全く過去の人です。
 ついでながら、『資本論』の「等価交換」について、広松が何かコメントをしているなら是非教えてほしいものです。

現象学批判→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page8.html
仏教の現代化→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/subgendaika.html#engi

04)さん 割り込んですみません。マルクスの時代だと思いますが・・・。


06. 2011年12月13日 12:50:54: FUviF2HWlS
不破さんは「古典講義第8回」で、エンゲルスも「空想から科学へ」においてマルクスの説を誤解していると述べていますね。

07. 2011年12月13日 13:15:14: EVskgte9f6
現象学的アプローチの問題点として言語を使うからと仰られていますが、そういうアプローチが生まれた頃には記録手段が(ほぼ)文字しかなかったからというのが理由ではないですか。今では研究手段として映像も音声も使われていますし、言語の限界を有る程度はカバーしていると思います。また言語の限界については大抵の人は判っていると思います。

で、話は変わるのですが、

>人間社会の関係性(運動法則)を理解するには、「共同主観性」の解明以前に、「言語」によって規定されている「自然的主観性」の解明が必要なのです。「生命言語説」の存在意義がここにあります。

『生命言語説』とは具体的には何なのでしょうか。
貴方のページを拝見しましたが、

<新しい言語論(生命言語説)はものの見方や生き方を変革します>
 言語は、西洋言語学におけるように対象化された言語記号の構造のみを扱う(ソシュール等)のではなく、生命の刺激反応過程を制御し構造化し創造する認識や思考、感情や行動の表出過程(生命言語説)として扱うべきものです。このような言語観・人間観は自己(私・生命)の主体性(自律性)を確立し、神仏の存在を必要とせず、人間相互の共通理解と連帯を促進し、諸個人の幸福と社会の平和に貢献します。人間は言語によって自らを支え、相互理解(又は相互不信)を深め、新しい自己と社会と文化(文明)を創造する動物なのです。

ソシュールは、言語で感情や行動を表現することについて言及していませんが、だからといってそれを否定したわけではないような気がしますが、それはともかく、Kakasiさんは、政策決定における人間の感情の重要性を主張されているような気がするのですがどうでしょうか。だとすると、言語論とは関係が薄いような気がするのですが。


08. Y. Kakasi 2011年12月17日 15:23:19: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
06)さん、07)さん スレッドが流され、次の投稿の記述のためにせっかくコメントいただきながら、見逃してしまいました。
06)さんの指摘は、研究者としての不破さんの優れた点だと思います。エンゲルスは『自然弁証法』などでは観念的でしたが、マルクスよりも現実的な人だったようです。あまり決定論的ではなかったと思います。

07)さん「生命言語論」の要約が、以下にありますのでご覧ください。
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub2.html

「政策決定における人間の感情の重要性」は、言語表現が主語・述語による自己意思の表明(反応)であり、意思(意志)は感情の表出と考えるので、指摘のとおりです。


09. 2012年11月27日 17:38:02 : wXPShKYgaw

(その10)につづきます。kakasi
 ⇒http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/590.html

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