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ハルマゲドンと「グレートリセット」という願望  小田嶋 隆
http://www.asyura2.com/11/senkyo124/msg/452.html
投稿者 ダイナモ 日時 2012 年 1 月 06 日 13:12:59: mY9T/8MdR98ug
 

 2週間休むと、身も心もすっかり緊張がほぐれる。別世界で暮らしているみたいだ。だから、休暇が終わった後、俗世間に戻ってくるのに難儀する。毎度同じだ。夏休み明けにいきなり登園拒否をはじめて、そのまま中退してしまった幼稚園の頃から、私の基本的な部分は変わっていないのかもしれない。

 本来の私は、別天地に暮らすべく生まれついた人間だ。休みの方に適性がある。とはいえ、働かないと生きていけない。カネの話をしているのではない。働くことが人間を作り、人間の労働が世界を世界たらしめているということだ。だから、私が仕事を始めないと日本の新年が始まらない……と、それぐらいの絵空事を持ってこないと正月というパラレルワールドから帰還するミッションはうまく着地できないわけです。うむ。要らぬ前置きだった。でも、読者には不要でも、私には必要だったのだ。そう思って読み飛ばしてください。ここまではお正月のご挨拶。次の行から2012年の原稿がはじまります。本年もよろしくお願いします。

 大晦日の夜。オウム事件の最後の容疑者の一人、平田信容疑者が警察に出頭した。
 ニュースが配信されると、ツイッターのタイムラインには、平田容疑者の突然の出頭に驚く人々の声で賑わった。

「なぜ今頃出てきたんだ?」
「そんなことより、どうやって逃げおおせていたのでしょうか」

 たしかに、日本中の辻々に手配写真が貼られている環境の中で、180cmを超えるという長身の平田容疑者が、事件以来17年の長きにわたって世間の監視の目を逃れていたのは、不思議といえば不思議な話だ。

 が、私が一番意外の感に打たれたのは、彼が生きていたという事実そのものに対してだった。平田容疑者をはじめとする、オウム事件の残余の逃亡者について、私は、いずれどこかで死んでいるに違いないというふうに判断していた。たぶん、私は、そう考えることで、自分の中のオウム事件に終止符を打とうとしていたのだと思う。このことは、とりもなおさず、オウムについて考えることが、私にとって、重荷になっていたことを意味している。

 オウム事件について考えることをやめたのは、整理がついたからではない。
 逆だ。
 考えても考えてもどうにも整理がつかないから、私はそれを放棄したのである。
 この事件については、ずいぶんたくさんのことを考えた。他人の言説を色々と読んだりもした。でありながら、結局、意味が了解できなかった。だから、オウムについて考えると、いまでも胸のあたりがモヤモヤしてくる。

 私のアタマの中には、考えてもうまく説明のつかない事柄を保管しておくための、倉庫のようなスペースがある。
 その倉庫に納められたブツは、一定の時間が経過すると、焼却炉に移されて、順次消去されることになっている。

 うまくすると、食べ残しの生ゴミが、たい肥に化けることもある。
 が、オウムの記憶は、一向に風化しない。生ゴミのまま、アタマの中で、腐った匂いを立て続けている。つまり私はまだこの事件への執着を失っていないのだ。困ったことだ。謎は忘却によって治癒するしかないのだが、忘れられないものは仕方がない。もう一度考えるほかに対処法がない。

 年が明けてからの報道を見ると、出頭を打診する電話を受けた警察官が、平田容疑者の話をいたずらとして処理したことや、最初に応対した警視庁の機動隊員が、出頭してきた平田容疑者の話をまともに取り合わなかった(「特別手配の平田です」などと何度も名乗った平田容疑者を追い返し、丸の内署か交番に行くように指示したのだそうだ)件について、その対応ぶりを非難する論調の記事が目立つ。

 非難されるのは、なりゆきからして、仕方がないと思う。
 でも、自分が当事者だったらと考えると、果たして適正に対応できていたのかどうか、正直に申し上げて、自信がない。おそらく私は、門前払いを発動したはずだ。

「ん? 平田信だと? ははは。素敵なジョークだけどさ。あいにく勤務中なんで付き合ってる時間は無いよ」
「いえ、本当に私が特別手配の平田信なのです」
「わかった。それじゃ、こうしよう。来年のこの日のこの時間にもう一度この場所に来なさい。そうしたら信じるから。ついでに、オレが一杯のかけそばをおごろう。な。来年の大晦日は二人して年越しそばでも食べながら、日本の将来について語り合おうじゃないか」

 市民と直接に接する部署の警察官は、意味不明ないたずら電話や様子のおかしな人たちからの見当違いの通報に、恒常的に悩まされている。だから、前例の無いタイプのアプローチに対しては、第一感で、いたずらとして処理する習慣が身に付いている。

 はるか昔、昭和五十年代のある年の元旦、皇宮警察にいたずら電話をした男たちがいる。もう時効だろうから紹介する。
 彼らは、忘年会の流れで、酔っ払って歌舞伎町の電話ボックスからダイヤルしたのだそうだ。

「あけましておめでとうございます。そちらは天皇陛下でしょうか」
「いえ。◯◯と申します」
「陛下にあけましておめでとうございますと伝言をお願いしたいのですが」
「お名前を承ります」
「◯◯大学文学部3年生の◯◯と申します」
「了解しました。たしかにお伝えします」
「ありがとうございます」

 この時の警察官が、本当に陛下に伝言を伝えたのかどうかは知らない(っていうか、伝えられるはずもないわけだが)が、ことほどさように、彼らはいたずら電話に慣れきっている。だから、平田容疑者による出頭の申し出を最初に処理した機動隊員が、いたずらだと思い込んだのは無理もなかったと私には思えるのだ。でなくても、

「オレの管轄じゃねえよ」

 と、彼が思ったのは仕方がない。というのも、彼は、本庁の前を警護する役割りの人間であって、指名手配犯の出頭を取り継ぐ任務は、意識の中になかったはずだからだ。

 警察官たるもの、本物の出頭といたずらを見分ける程度のセンスは当然備えていなければならない、という意見があることは承知している。私もその通りだと思う。しかしながら、本物の情報といたずらを見分けるのは、そんなに簡単な仕事ではない。
 というのも、大事件は、それが大きな事件であればあるほど、ジョークじみて見えるはずだからだ。

 凡庸な犯罪は凡庸な外形を備えている。だからそれは、どこからどう見ても犯罪に見える。
 凡庸な犯罪者も、ありがちな相貌で登場する。それゆえ、彼らは全方位的に犯罪者らしく見える。

 が、驚天動地の大事件や前代未聞の犯罪者は、必ずしも観察者の予見に沿ったカタチで登場しない。よって、彼らは警察官の目から見て(あるいはわれわれ一般人の目から見ても)、いたずらやジョークにしか見えなかったりする。

 実際、オウム事件は、最後までどこか冗談じみていた。規模こそケタ外れだったが、事件の外形は、ガキのいたずらそのもので、だから、発端から収束まで、何もかもが、こちらの予断からハズれていたのである。

 地下鉄サリン事件の第一報を聞いた時、私は、悪い冗談だと思った。あるいは、何かの誤報じゃないかと。
「ウソだろ?」
 と、私は、かたわらにいた誰かに言ったはずだ。

 松本サリン事件も、普通の犯罪とは思わなかった。何らかの妄想をかかえた単独行動者による、非現実的な実験に関わる何かなのであろうと、そういうふうに解釈して、まさか、この事件に後段が控えているとは、その当時、想像だにすることができなかった。

 が、事件は現実で、犯人たちは本気で、毒は筋金入りの本物だった。なんということだろう。

 で、すべてが終わり、事件の全容がほぼ明らかになり、裁判が結審してみると、オウムの事件は、しかしながら、いまだにどこか冗談じみている。この悪いジョークを、われわれは、なんとか読み解かなければならない。
 
 というわけで、今回は、オウム事件についてふりかえってみることにする。
 大きな事件は、進行形の時間の中では把握しきれない。巨大な山容が、遠景に去ってからでないとその全貌を見渡せないのと同じで、オウム事件のような多面的な出来事については、2012年の現時点ぐらいのところから振り返ってみてはじめてわかる要素がいくつも含まれているはずなのだ。

 去年のいつ頃だったか、若いヤツと話していて、こんな話が出てきた。ちなみに、ここで言う「若いヤツ」は、四十歳前後の男だ。一般世間から見て四十歳が若者でないことはよくわかっているが、でも、私から見れば若いのだ。若さは、絶対値ではない。ネズミはアリから見れば大きく、19世紀生まれのゾウガメと比べれば、われわれは誰もが若い。つまり、若さのような曖昧な指標は自己申告でどうにでもなるということだ。ゆえに彼は若く、私もまた若い。若すぎないだけだ。

「だって、オレ、21世紀は来ないと思ってましたから」
「…どういう意味?」
「ほら、そういう予言があったでしょ?」
「1999年の7の月にとかいうヤツ?」
「そう。それです。ノストラダムスの大予言」
「まさか、あれを信じてたわけじゃないだろ?」
「いや、まるっきり鵜呑みに信じこんでたわけじゃないけど、アタマの中で3割ぐらいは、いつもそんな気がしてましたよ。なにしろ、はじめて知ったのが小学生の時で、思春期まるごとがオカルトのブームの中でしたから」
「でも、いくらなんでも、空から恐怖の大王が降りてくるなんてお話がマトモじゃないぐらいなことは、年頃になればわかるもんじゃないのか?」
「ええ。でも、受験勉強とかしてると、もう世界は滅びるしかないって思えてくるんですよ」

 ノストラダムスについてのこの種のお話は、3〜40代の人間にとって、ひとつのネタみたいなものなのであろうし、それを聞かされるこっちも、鵜呑みにしてはいけないのだろうとは思う。でも、私たちは、「本気じゃない」「ネタだ」「まあ、保険みたいなもんですけど」「思考上の手続きですよ」と言っている当のものに、思いのほか強い影響を受けている。というよりも、いつの世でも、終末思想に依存する人々は、それを願望しているものなのだ。
 
 オウム真理教の中枢部にいた高学歴の信者たちが、どうしてあの荒唐無稽な教義に傾倒したのかについては、これまでにも、様々な仮説が立てられてきた。

「高学歴だからこそ思い込みが激しい、と」
「つまり、醜女の深情けみたいなものか?」
「そもそもエリートっていうのは自己超克みたいなチープなストーリーにハマることのできる能力を指す言葉なわけで、あの人らはそういう意味で、どハマりのアホだったちゅうことですよ」
「っていうか、単純に思い上がりでしょ。救済とか、いったい何の権限でオレらを救おうとしてたんだ?」
「連中は謎に弱いんだよ。だから目の前に不可解な課題が投げ出してあると、犬が骨に食いつくみたいにしてひっかかるの。許してやれよ。哀れなインテリなんだから」
「CPUは高性能だったけどOSがクソだったとか、そういう話じゃないのか?」

 様々な説には、それぞれに説得力がある。が、前世紀の終わりから、われわれは、寄るとさわると集まってはそんな話を繰り返しながら、結局、最終的なところでうまい説明を見つけることができなかった。

 たしかに、エリートが薄っぺらだったりすることはよくある話だし、優秀なアタマは歪んだ心の上に乗っかっているというお話にも一応の説得力はある。でも、それにしても、オウムの教義はあまりにも馬鹿げていた。そう思うと、あの教義を、あれだけの数の人間が丸呑みに信じこんで、ああいう事件を起こしたことについて、結局、マトモな解釈はどうやっても見つからないのだ。

 人はバカなことを信じる場合がある。
 とはいえ、一定数の人間のアタマの中に、何らかの荒唐無稽な考えを強固に吹き込むためには、それなりに強力なメソッドが介在していなければならないし、それ以上に、信じることになる人間の側に、あらかじめ下地が備わっていなければならない。下地というのは、たとえば、民族の歴史の中で営々と伝えられてきた宗教的な伝統だとか、生活文化に根ざした習俗だとか、そうした理屈としては馬鹿げていても、存在として強固である必要がある。そういう伝統にのっとっているのであれば、海が割れるみたいな話でも、人々を説得してしまう場合がある。

 しかしながら、オウムの連中が語っていたロールプレイングゲームみたいな仏教思想や、少年漫画の付録に載っていそうな陰謀論には、ほとんどまったく伝統や文化の裏打ちがない。
 とすると、いったい、あのバカ話は、何の上に乗っかって信者のアタマの中に住み着いたのであろうか。

 で、私は、先日の会話以来、オウム信者のうちに、下地として「ノストラダムスの大予言」があったことが、案外バカにならないのではないかと考え始めている次第なのである。
 信者たちは、ジャストミートで大予言を浴びた世代だ。
 とすれば、やはり多少の影響はあったはずなのだ。
 
 1999年にまつわる大予言は、ちょっと考えれば誰にでも見破れるバカな駄ボラだった。

 それでも、子供たちはひっかかった。予言をネタに商売をした出版社もたくさんあったし、同じネタを番組にしたテレビ局もあった。私自身は、ブームが来た時にはいいかげん大人になっていたので、鼻で笑っていたが、私の世代の中にも、影響を受けた人間はそこそこいる。

 まして、子供たちは、かなり露骨にひっかかっていた。
 完全にひっかかっていない組の子供たちも、どこかで影響を受けていた。
 つまり、心のどこかで、「大予言」の結末を意識(ないしは待望)しながら二十世紀の世紀末を生きてきた若者が、あの当時の日本には大量に暮らしていたということだ。

 私は、日本に住んでいる人間のうちで、40歳をはさむ前後10年の人間だけが選択的に愚かだったとか、そういうことを言おうとしているのではない。
 愚かしさそれ自体について言うなら、どの世代であれ、われわれの馬鹿さ加減に大きな差は無い。どの年代の人間も、常に一定数の愚か者を輩出しているし、彼らのうちの何割かは、世間を明るくするために貢献してくれていたりもする。

 ただ、私が言いたいのは、愚かしさには、時代に特有な傾向があって、その世紀末に特有な愚昧さが、ノストラダムスの大予言が跋扈していた時代と、オウムが大きな犯罪をやらかした時代を結んでいるということだ。
 
 オウムの時代に限らず、わたくしども日本人は、一貫して、極端な結末に惹かれる傾向を持っている。オウムの終末思想はもとより、一億総決起、一億総懺悔などといったスローガンは、いずれも、カタチを変えた終末思想だ。

 古い話をすれば、昭和11年に石橋湛山が、「根本病患者」という言葉を使って、日本人の性急さをいましめる原稿を書いている。

 詳しく紹介しても良いのだが、どうせ孫受けの受け売りなので、リンクを張っておく。田中秀臣さんが、2007年の2月にとあるウェブマガジンのために書いた記事だ。私も当時同じ媒体でコラムを書いていた関係で、感心して読んだのをおぼえている。その記事が、つい先日ツイッターで紹介されているのを見て、思い出した次第。興味のある向きは、このリンク先を読んでみてほしい。

 見える目を持った人には戦前から既に見えていたということだ。
 2.26の亡霊は、何かがある度に登場する。おそらく、この先、震災の影響が、亡霊を召喚することになる。憂鬱な展開だが、これは、定番の筋立てなので変えることができない。せいぜい用心しておくことにしよう。
 
 12月の28日の新聞を読むと、橋下徹大阪市長が、その施政方針演説の中で、「グレート・リセット」ということを言っている。

 気持ちはわかるが、ここで述べられているあれこれは、石橋湛山が言ったところの「根本病患者」の症状そのものに見える。

 小さな不具合や、ちょっとした不調は、その都度修理して対応すれば良い。私たちは、ふだんの日常生活をそうやって運営している。部屋の隅に積もった綿ぼこりは掃除機で吸えば消えるし、机の横に積み上がった週刊誌の束は、一定のタイミングでリサイクルにまわせば良い。ウィンドウズが重くなったらとりあえず再起動。ネズミが出たらおまじないを言う。そうやって、日々は、大過なく過ぎて行く。

 だが、故障箇所が随所に目立つようになり、ほころびや傷みが部屋中を覆うようになると、ある人々はヒステリー症状を呈するに至る。すなわち、「断捨離」を叫び出すのだ。生活の中からあらゆる不要物を排除し、完全にクリーンな環境を作れば、人生それ自体が新しいフェーズに入るとかなんとか、ヤケを起こした人たちはそういう極端なことを言う。掃除なんかで人間が生まれ変わる道理は無いのに。

 より甚だしい向きは、
「いっそ新しい部屋に引越しましょう」
「こんな家は壊してしまえばいい」
 ぐらいなことを言い出す。
 ここまで来ると終末思想とそんなに変わりがない。

 オウムの言っていたハルマゲドンは、終末思想である以上に、自分たちが世界の根本を組み替えるという、グレート・リセットを含んでいた。

 そういう意味で、しつこいようだが、私は、大阪市が進めようとしている改革に、懸念を抱いている。

 年末に大掃除を経験した人はわかっているはずだ。部屋は、少しずつ片付けるものだ。手をつけられるところから、順を追って片付けて行かないと仕事はうまく進まない。

 カビ取り剤をスプレーする前には、あらかじめ近くにある金魚鉢を避難させておかないといけない。でないと、金魚は死んでしまう。
「いっそ、すっきりしていいじゃないか」
 と、そういう考え方をする人間は、掃除をしてはいけない。
 浪花の金魚のために、声を大にしてそう言っておきたい。

(文・イラスト/小田嶋 隆)


http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120105/225840/?bv_ru


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橋下の「大阪都構想」が実現したら、現在の大阪府民の暮らしがどのように良くなるのか。橋下はこの疑問に明確な答えを明らかにしたことが無い。

まったく馬鹿馬鹿しい限りだ。なにが「グレートリセット」だ。一度でいいから大阪府民の暮らしがどのように良くなるのか具体的に説明してもらいたいものだ。

橋下のような「扇動家」が一部の人たちに支持されるのは、三文芝居にだまされる人がいるということだ。橋下は権力を掌握することが目的であり、そのためには大阪府民の暮らしがどうなろうと知ったこっちゃない。橋下支持者は、自らの暮らしが苦しくなっていってもしばらくは橋下を支持し続けるだろう。
 

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コメント
 
02. 2012年1月06日 18:15:04 : SFB6e5PgNo
石橋湛山が言ったところの「根本病患者」の症状


「記者の観るところを以てすれば、日本人の一つの欠点は、余りに根本問題のみに執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われている。第二には根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考えうる場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用うることになる。そこに危険があるのである。

 これは右翼と左翼とに通有した心構えである。左翼の華やかなりし頃は、総ての社会悪を資本主義の余弊に持っていったものだ。この左翼の理論と戦術を拒否しながら、現在の右翼は何時の間にかこれが感化を受けている。資本主義は変改されねばならぬであろう。しかしながら忘れてはならぬことは資本主義の下においても、充分に社会をよりよくする方法が存在する事、そして根本的問題を目がけながら、国民は漸進的努力をたえず払わねばならぬことこれだ」

(「改革いじりに空費する勿れ」昭和11年4月25日『東洋経済』社説)。


なるほど。橋下の唱える「大阪都」構想という大風呂敷とぴったり一致する。
橋下は「根本病患者」であり、橋下を支持するものは、現実からずれまくっている勘違い男を何か自分たちにとって有利になるようなことをやってくれる「リーダー」だと思い込んでいるという訳だ。


03. 2012年1月06日 19:25:30 : 0EZ4BnKpdE

オウムに入信する前に、せめてかめはめ波ぐらいはマスターしておくべきだった・・・
エリートらしからぬ手順ミスが悔やまれよう。

小田嶋隆の文章は実は密かによく研究したもの。
エリートとネトウヨニート、オウムと橋下が、
いつの間にか調和しつつ結びつくあたりの筆の運びはさすが。

しかし結論は万古普遍。
愚民は愚民に過ぎないということだ。
それ以上でも以下でもない。



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