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新しい文化(文明)で生きる人たちへ〜カルマの清算 (1)
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投稿者 JPLAW 日時 2011 年 8 月 24 日 20:24:08: 8Qw.LQgdpBEaI
 

 現在の状況(福島原発事故・第三次世界大戦の予兆)と近未来の予感は,明らかに私たち自身のカルマの清算=自業自得=自分の望んだことの結末であろうと,私は考えています。この苦難を乗り越えて,未来を生きていく人にこの文章を捧げます。

 われわれ日本に住む人間のカルマとは…
 映画・教えられなかった戦争シリーズ「第二の侵略 フィリピン −開発・投資・派兵」を見たことがありますか?

教えられなかった戦争 第二の侵略 フィリピン −開発・投資・派兵

(冒頭フィリピン先住民の話,ミンダナオ島キアンバで収録)
フィリピン,ミンダナオ島でのNGO活動家アガリン・サラさん


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要約と(投稿者の解説)
フィリピンでは,第二次大戦後も米国の経済植民地下にあった(後に日本も)。第二次大戦後から現在まで続く経済植民地下で起こった,ミンダナオ島現地民の恐ろしい苦難の歴史を語ります。

1960年代から…日本に輸出するための木材を伐採するために原住民サンギル族の土地が奪われた。(日本は安価な木材を手に入れることができ,コンクリートパネルの革命が起こった。使い捨てが可能になりコンクリート建造物が安く,早く造れるようになった。これによって日本の「高度成長」が可能になった。当時の日本人が勤勉に働いたから高度成長が可能になった? とんでもない。当時は低賃金・長時間労働が可能だったから,エネルギー革命(石油時代の始まり)という理由もあるでしょうが,資源をドロボウ同然に手に入れたことが高度成長の本当の原因)

1970年代から…土地を奪うために,軍隊が投入されるようになった。(これは現在も続いている。)居住地をいきなり軍隊が攻撃してきて,多くの住民がよそに逃げたが,3週間に及ぶ逃走中,子どもや老人はほとんど死んでしまった。捕らえられた男は全員殺された。女は一昼夜集団で強姦された。その間に水も与えられない子どもたちがたくさん死んだ。女と赤ん坊を含むこどもたちは,その後も水さえ与えられず13日間も監禁された。この間も自殺・病死が起こった。(フィリピンマニラの「スモーキーマウンテン」。ごみを漁って暮らす「可愛そうな」「貧しい」人たち。彼らはどこから来たのか?もうお分かりですね。あなたが望んだことです。安価な商品←フィリピンなどから「盗んできた」資源←豊かだった原住民を追い出す)
1980年代後半から…1986年コラソン・アキノが大統領になってからは,マルコス時代の軍事態勢だけでなく,それに加えて「開発計画」が原住民を苦しめた。「開発計画」は空腹をもたらした。また,自然破壊・公害により生活の場がなくなった。(1985年プラザ合意。日本は円高により,企業が海外に進出しやすくなった。フィリピンにも工場コンビナートが建設された。インフラ整備は ODA という名の日本政府の税金が面倒を見てくれ,労働運動は軍隊が規制してくれて,公害規制のゆるいフィリピンでは,あなたが望む安価な商品が生産可能でした,そして今でも。これが「開発計画」の中身です。この事情はフィリピンに限らず,東南アジア諸国に共通。おそらく中国も似たようなもの)

ミンダナオで起こってきたことは,宗教対立(イスラム教・キリスト教)ではない。資本家と原住民との対立だ。(日本では,1980年代から新聞の「海外」面で,小さく「『イスラム・ゲリラ』掃討作戦が行われた。」とよく報道されました。実態は,ほとんど上記のようなことです。何の武器も持たない原住民をいきなり銃撃・砲撃して土地を奪っていたのです。)
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(要約おわり)

(以下,字幕を再現) (サラさんは英語でしゃべっています)
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 この地域のことについて話したいと思います。
 ここはキアンバ・タウンのランディン地区といいます。私はここに生まれ13歳まで過ごしました。この地域はもともと1900年代の前半までサンギル族の人々が多く住んでいました。彼らは平和な生活を送っていました。海外向けではなくミンダナオ島に住む人々のために農業をしていましたし,近くの海で漁業を営むこともできました。生活には何の心配もなかったのです。その後1960年代から70年代にかけて森林伐採業者が進出してきました。ここはラグバンとして使用されました。山から伐採した木材をここに積んで,日本への運搬船に積み込むのです。私たちはここをラグバンと呼びました。日本に輸出される木材の山という意味です。
 その頃から移住者とムスリムとの間に問題がおきました。土地収奪の問題です。移住者たちは土地を奪うためにいくつかの方法をもっていました。ひとつめはサンギル族から土地を借りる方法です。その後,サンギル族の人々に少しずつお金をあげたり貸したりします。やがて返済不可能になったところで土地を取り上げるのです。これがひとつめの方法です。
 ふたつめは豚を使った方法です。サンギル族は豚を嫌います。彼らの文化的信条や信仰するイスラム教によるものです。移住者たちはサンギル族の畑にわざと豚を放ちました。サンギル族の人々は豚に荒らされた畑を見ると,自分の土地や畑を残してほかの場所へ避難してしまいました。そうして移住者たちは土地を獲得していくのです。こうして移住者たちは先住民サンギル族の土地を奪ったのです。
 その当時,サンギル族は「無知」だったのです。(書き起こし者の注:原語は very ignorant であり「無知」というより「とても純真無垢」だったと訳すのがより適切だと思われる)彼らは宗教や民族に関係なく他人に対してとても親切でした。移住者たちがここに来たときも歓迎し受け入れ,助けてあげようとしたのです。サンギル族の人々は気付きもしなかったのです,移住者たちが自分たちをだまして,土地を奪おうとしているとは。

 さらに悪いことには,ほかの村や地域にも土地の収奪が広がっていきました。1972年から1978年にかけて,隣の町や州では激しい軍事化が進んでいました。隣のスルタン・グダラード州もその中のひとつです。
 1974年には大虐殺が起こりました。たくさんのイスラム系先住民マギンダナオ族が住んでいる地域でした。フィリピン国軍は彼らの住む山や村に激しい爆撃を行いました。ほとんどの住民は逃げることができませんでした。かろうじて山に逃げ込み,パリンバンという町にたどり着いた人はほんのわずかです。ほとんどの人,特にお年寄りが避難の途中で殺されました。爆撃に追いかけられながらの避難は3週間に及びました。しかし子供や老人たちのほとんどが死にました。
 村の中心部に住んでいた人々は,軍によって捕らえられ男性と女性とに分けられました。男性たちは若者も含めた1500人がモスクの中に入れられました。3000人以上いた女性たちは,このような海岸沿いの村に隔離されました。男性たちはモスクの中で虐殺されました,殺されてしまったのです。それでも数人の生存者がいました。そこで兵士は2頭の水牛をモスクに放ち戦わせたのです。かろうじて生き残っていた人たちも全員殺されてしまいました。水牛に蹴られたり角で突かれたからです。全員が殺されてしまいました。
 一方,別の村に連行された女性たちは,海軍の船で沖に運ばれました。一昼夜の間,会場の船内では兵士たちが強姦を続けました。9歳から60歳までの女性が被害を受けました。わずか一昼夜の間です,ゆれる船の中で。その後,彼女たちは子供たちとともに元の海岸に戻されました。
 その一昼夜の間に13人の子供たちが死んでいきました。灼熱下での脱水症状が原因です。食べ物はおろか水さえなかったのです。海岸に着くと彼女たちは有刺鉄線に囲まれた村に収容されました。誰も逃げられません。兵士たちが完全に包囲していたからです。何人かの女性や子供は病気でしたが,病院に行くことも何の治療もできませんでした。ですから母親たちは毎日,子供たちを埋葬していました。1日に約20人の子供たちが死に,海岸に埋められていきました。食べ物も水もないその村で,たくさんの病人と13日間も暮らしていたからです。
 何人かの母親は自殺しました。赤ちゃんを連れていて精神状態が不安定だったのでしょうか,兵士につかみかかり射殺されたのです。こんな風に赤ちゃんを抱いていても,兵士たちは銃を向けたくさんの女性たちが殺されました。それに若い女性たちは兵士たちに強姦されました。

 隣の州からこの町へ軍事化の波が押し寄せてきました。1978年には,この地域も激しい軍政下に置かれました。すべての住居は焼き払われました。ボートで逃げられなかったり,山に逃げ込めなかった住民は軍隊につかまり殺されました。身体に障害がある人も目の不自由な人も老人もすべてです。私のおじの一人は目が不自由で何も見えません。兵士が叔父を呼びました。
 隣の州からこの町へ軍事化の波が押し寄せてきました。1978年には,この地域も激しい軍政下に置かれました。すべての住居は焼き払われました。ボートで逃げられなかったり,山に逃げ込めなかった住民は軍隊につかまり殺されました。身体に障害がある人も目の不自由な人も老人もすべてです。私のおじの一人は目が不自由で何も見えません。兵士が叔父を呼びました。
 隣の州からこの町へ軍事化の波が押し寄せてきました。1978年には,この地域も激しい軍政下に置かれました。すべての住居は焼き払われました。ボートで逃げられなかったり,山に逃げ込めなかった住民は軍隊につかまり殺されました。身体に障害がある人も目の不自由な人も老人もすべてです。私の叔父の一人は目が不自由で何も見えません。兵士が叔父を呼びました。何も見えないので返事ができないでいると,その兵士は叔父を射撃しました。叔父はココナッツの木に縛られ撃たれました。

 当時モロの人々は子供も含めて,家の中や居住地内にいてさえ捕まえられ射殺されました。とてもひどい時代でした。私たちはそれを民族絶滅戦争と呼んでいます。1970年代から80年代にここで起きたことは民族絶滅のための戦争です。

 当時,私たち家族は村からすぐに逃げることができたの幸運でした。しかし家族はバラバラになってしまいました。私の姉妹はあちらに私たちはこちらというふうに。半年後には再開することができ家族みんなで暮らせることになりました。

 ここには帰ることができません。1978年にここを逃げ出した後,1983年に私たちは畑にある農作物を収穫しようと戻ってきましたが,兵士に発砲されました。2人の姉妹と私は走って逃げました。それ以降私たちはここには戻らないことにしました。ここでは常に生命の危険にさらされるからです。その理由は軍隊がここを支配し続けているからです。軍隊のキャンプがここにはあります。ですからサンギル族の人々は恐ろしくて,この土地に戻ってくることができません。

 以上がこの土地がたどってきた物語です。これはマルコス大統領時代におけるモロの人々の物語とも言えます。それは1970年代から80年代まで続きました。

 その後大統領はマルコスからコリー・アキノに交代しました。しかし,軍政や人権侵害はなお続きました。マルコス大統領時代よりもさらにひどくなったといえます。コリー・アキノは新たな統治方法を使いました。2つの統治方法を用いるのです,軍事強化と開発計画。私たちにとって搾取と圧制も倍になりました。マルコス時代は弾丸から身を守りさえすればよかったのです。
 アキノ時代はさらに深刻になりました。弾丸よりも空腹から身を守らなければならなかったからです。そういう状況の違いがありました。苦しんでいるのはキリスト教徒の人々も同様です。特に開発プロジェクトでは多くの人々が被害を受けました。多くの貧しい漁民と農民が生活の場を奪われ,農民が漁業をしたり,漁民が農業をするようになりました。開発プロジェクトによって生活環境が破壊されたからです。ジェネラル・サントス市だけでなく,マアシムでも同様です。どれだけたくさんの漁民が海岸地帯を破壊されたことでしょう。ここキアンバも同様で開発計画は海岸地帯を破壊してしまいました。
 この侵略ともいえる開発プロジェクトは今でも続いているのです。もっとも被害を受けているのは零細漁民・零細農民たちです。そこにムスリムとキリスト教徒の違いはありません。金持ちや大資本家はさらに裕福になり,貧しいものはさらに貧しくなる,さらにさらに貧しくなっていくのです。これが現実です。しかし新聞には違う物語が書かれています。これがミンダナオの真実です。これこそが実際にミンダナオで起こっていることなのです。宗教対立ではありません。人々が生きていくための闘いであり,資本家に対する闘いです。海外と地元の資本家に対する闘いなのです。貧しい人々は外国投資家たちの侵略に苦しんできました。
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