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1970年代 尖閣諸島・釣魚島の問題について日本外務省と中国外交部の声明文を並べて読む
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/267.html
投稿者 手紙 日時 2012 年 10 月 02 日 05:35:36: ycTIENrc3gkSo
 

Japan
時・出典 1972年3月8日・外交青書16号,507−508頁

 尖閣諸島は,明治18年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない,単にこれが無人島であるのみならず,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上,明治28年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なつて正式にわが国の領土に編入することとしたものである。

 同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており,明治28年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。

 従つて,サン・フランシスコ平和条約においても,尖閣諸島は,同条約第2条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず,第3条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下に置かれ,昨年6月17日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)によりわが国に施政権が返還されることとなつている地域の中に含まれている。以上の事実は,わが国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示すものである。

 なお,中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかつたことは,サン・フランシスコ平和条約第3条に基づき米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等異議を唱えなかつたことからも明らかであり,中華民国政府の場合も中華人民共和国政府の場合も1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするに至つたものである。

 また,従来中華民国政府及び中華人民共和国政府がいわゆる歴史的,地理的ないし地質的根拠等として挙げている諸点はいずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

China
時・出典 1971年12月30日
日本外交主要文書・年表(3),521−522頁.北京周報,10巻1号,13頁
 
 日本佐藤政府は近年らい、歴史の事実と中国人民の激しい反対を無視して、中国の領土釣魚島などの島嶼(しょ)にたいして「主権をもっている」と一再ならず主張するとともに、アメリカ帝国主義と結託してこれらの島嶼を侵略・併呑するさまざまな活動をおこなってきた。このほど、米日両国の国会は沖縄「返還」協定を採決した。この協定のなかで、米日両国政府は公然と釣魚島などの島嶼をその「返還区域」に組み入れている。これは、中国の領土と主権にたいするおおっぴらな侵犯である。これは中国人民の絶対に容認できないものである。

 米日両国政府がぐるになってデッチあげた、日本への沖縄「返還」というペテンは、米日の軍事結託を強め、日本軍国主義復活に拍車をかけるための新しい重大な段取りである。中国政府と中国人民は一貫して、沖縄「返還」のペテンを粉砕し、沖縄の無条件かつ全面的な復帰を要求する日本人民の勇敢な闘争を支持するとともに、米日反動派が中国の領土釣魚島などの島嶼を使って取引をし、中日両国人民の友好関係に水をさそうとしていることにはげしく反対してきた。

 釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域のなかに含まれており、それは琉球、つまりいまの沖縄に属するものではなくて、中国の台湾の付属島嶼であった。中国と琉球とのこの地区における境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある。中国の台湾の漁民は従来から釣魚島などの島嶼で生産活動にたずさわってきた。日本政府は中日甲午戦争を通じて、これらの島嶼をかすめとり、さらに当時の清朝政府に圧力をかけて一八九五年四月、「台湾とそのすべての付属島嶼」および澎湖列島の割譲という不平等条約−「馬関条約」に調印させた。こんにち、佐藤政府はなんと、かつて中国の領土を略奪した日本侵略者の侵略行動を、釣魚島などの島嶼にたいして「主権をもっている」ことの根拠にしているが、これは、まったくむきだしの強盗の論理である。

 第二次世界大戦ののち、日本政府は不法にも、台湾の付属島嶼である釣魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリカ政府はこれらの島嶼にたいしていわゆる「施政権」をもっていると一方的に宣言した。これは、もともと不法なものである。中華人民共和国の成立後まもなく、一九五◯年六月二十八日、周恩来外交部長は中国政府を代表して、アメリカ帝国主義が第七艦隊を派遣して台湾と台湾海峡を侵略したことをはげしく糾弾し、「台湾と中国に属するすべての領土の回復」をめざす中国人民の決意についておごそかな声明をおこなった。いま、米日両国政府はなんと不法にも、ふたたびわが国の釣魚島など島嶼の授受をおこなっている。中国の領土と主権にたいするこのような侵犯行為は、中国人民のこのうえない憤激をひきおこさずにはおかないであろう。

 中華人民共和国外交部は、おごそかにつぎのように声明するものである−釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの島嶼は台湾の付属島嶼である。これらの島嶼は台湾と同様、昔から中国領土の不可分の一部である。米日両国政府が沖縄「返還」協定のなかで、わが国の釣魚島などの島嶼を「返還区域」に組み入れることは、まったく不法なものであり、それは、釣魚島などの島嶼にたいする中華人民共和国の領土の主権をいささかも変えうるものではないのである、と。中国人民はかならず台湾を解放する! 中国人民はかならず釣魚島など台湾に付属する島嶼をも回復する!
------------------------------------------------------------------------------
//Memo
*赤尾嶼と久米島
*琉球処分条約案に関する件18801113
*サンフランシスコ平和条約19510908
//Hitokoto
未来志向かつ互恵的理想
棚上げの維持、そして日中共同開発共同管理の考察を継続して両国が行う。その考察から生まれたものを異分野にも積極的に活かしていく。現状打開の為にもビジョンの提示が必要。両国の文化交流に尽力してきた人たちがいる。  

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コメント
 
01. 2012年10月02日 08:01:58 : HNPlrBDYLM
『釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域のなかに含まれており』

中国人も台湾人も船から尖閣列島を眺めたのを実効支配していたと言ってるだけ:


尖閣諸島第二次調査

1952年、高良鉄夫氏は尖閣諸島の更なる生物調査と富源調査を企画、前回の単独調査に続く第二次調査として調査メンバーを選び参加を呼びかけました。
呼びかけに応じたメンバーの一人、多和田真淳氏は植物学、考古学が専門の博物学者でした。

調査から帰って後、多和田氏は自身の報告「尖閣列島採集記」で「〜尖閣諸島に昔人間が住んだ證拠を一つでも探そうとしましたが全くありません。つまり此処は昔からの全くの無人島だつたのです。〜」と明らかにしました。

のちに尖閣諸島の領有権問題が起こる1970年代よりも遙か以前に尖閣諸島は歴史的に無人島であった可能性を調査し明らかにしたこと、これは考古学の専門である多和田氏ならではの視点でしょう。
http://pinacles.zouri.jp/bunken/tawada_a.htm

 【尖閣列島の歴史はどんなものか】

 島々に上陸して貝塚とか、城とかの跡があるか、石器や土器があるか、何でもよいとに角昔人間が住んだ證拠を一つでも探そうとしましたが全くありません。つまり此処は昔からの全くの無人島だつたのです。然し昔の人はこゝをユクン、クバ島ととなへ漁民や航海者はこれを知つていた様です。
 その昔琉球王国の遣唐使は那覇を出帆して久米島へ行き赤尾嶼、魚釣島を道しるべに支那の福州へ達した様です。

 明治十七年に古賀辰四郎氏が発見したと伝えられていますが真の発見ではありません。又一八四三年〜一八四六年英国軍艦サマラン号が東洋探検の途上魚釣島によつていますが之も同様です。
 尖閣列島は昔から琉球の一部だつたのです。然し同列島は長い年月どこの国のものやらはつきり決らなかつたのですが明治二十七八年の日清戦役の翌年勅令で日本帝国領土として八重山郡石垣町に入りました。
 今は石垣市字登野城一番地になつています。

 ∇魚釣島は明治十八年ごろから古賀辰四郎氏の手で盛に開発事業が進められましたが今はうつちやられています。

 ∇黄尾嶼は大正十年頃古賀氏によつて燐鉱採掘事業が初められましたがそろばんが合わんでやめてしまいました。

 ∇北小島の海鳥(セグロアジサシ)は同じく古賀氏によつて生物標本を作つて米国に送つていましたが明治四二年頃事業をやめています。

 これらの島々には屋敷の跡や工場の跡や水タンク等が残つています、魚釣島の工場跡はまるで小さい御城の様です。この御城の様な石垣がこいの中に今は与那国島の人々がカツオの漁期にだけ上陸してカツオ節を半がわかしするクバ( ビロウ) ぶき三むねの工場を建てています。之が私達調査団の有難い御宿になりました。

http://pinacles.zouri.jp/bunken/tawada.htm


尖閣諸島は10000年前から日本の縄文人が頻繁に立ち寄っていた島。
その頃遠洋航海ができたのは縄文人だけなのです。

琉球人は日本の縄文人の後裔で、琉球語は日本語の方言ですから尖閣諸島も沖縄も純然たる日本の領土です。


従って、尖閣諸島は10000年前から日本の領土という事で間違いありません。

人の良い日本人ももう日中友好は有り得ない事に早く気付いて欲しい。

中国は環境破壊で農業用水はおろか飲み水さえ無い。

後5年以内に中国の崩壊が確実なので、中国人はあせっている。移民申請の状況から見て、中国9割の官僚家族と8割の富豪がすでに移民申請を出した。

金持ち以外の中国人には日本人を皆殺しにして日本列島を乗っ取るしか生きる道は無い。それが今回の尖閣問題の背景にある。


02. 2012年10月02日 09:10:49 : X7C9b1Pyho
>01.

トンデモ論全開かww

>琉球人は日本の縄文人の後裔で

そんな事言い出したら、日本人のルーツはアジア(中国も含めてだぞ!)及びユーラシア東部(バイカル湖付近からモンゴルやチベット、江南、朝鮮半島等々)にまで拡がるのだから、大東亜全てが日本人のもの、となるじゃないか!
このド阿呆メ!


03. 無段活用 2012年10月02日 16:10:38 : 2iUYbJALJ4TtU : t4Q18rL20Y
「領土」と「領海」とはそもそも何なのか、というところから、丁寧に論理を構築し
ていけばいいと思う。

「領土」あっての「領海」のはず。人が住んでいたとか、家や港を作った、という
のならともかく、「そこの島の周囲の海は我が国の漁民の生活の海であった」
だけでは、「そこの島」が「我が国」の領土にはならない。ましてや時は1900年代
以前のこと。

当時の「領土」や「領海」のルールに照らし合わせて、日本がきちんとした調査を
行い、日本の領有を決めたこと、明国や清国はそれをしなかったことを、丁寧に
説明すればいい。

戦前、尖閣には確かに日本人の生活があった。その間、中国は尖閣は日本の物と、確かに認めていた。戦後も、1970年代以前は、国境は尖閣の大陸寄りに
引かれていたことは、彼らの地図が証明している。


04. 2012年10月02日 20:45:24 : YxpFguEt7k
浅井久仁臣氏
「東アジアに吹き荒れる「領土問題」。政治家や評論家の言う「日本固有の領土」には全く根拠がない事を理解しないと、国際的に恥をかくことになる。日本の領土は、ポツダム宣言に未だ縛られているのだ。それはつまり、米国のさじ加減次第という事。米国は一度も、「尖閣は日本の領土」と明言していない。
私は、1975年(1974年に訂正)だったと記憶していますが、キッシンジャー氏に直接確かめたから間違いはないですよ。訪中後、東京に立ち寄った同氏をつかまえ、施政権と領有権の違いについて訊ねた私に同氏は「領有権については特定の立場を取らない」と明言しました。」
https://twitter.com/asaikuniomi/status/252908045779234816
https://twitter.com/asaikuniomi/status/252969677301612544

領有権のない土地を「領土」と言わないのでは?
「米国のさじ加減」を残しておくための戦法です。


05. 恵也 2012年10月03日 12:11:31 : cdRlA.6W79UEw : C4gE9IMu4g
>>03 「そこの島の周囲の海は我が国の漁民の生活の海であった」
>>  だけでは、「そこの島」が「我が国」の領土にはならない。

漁民の生活の場は領土権には強い要因。
大昔から人間は魚を取っており、船の性能発展で人間の生活圏が広くなった。
広い生活圏で漁民が揉めないようにするために、領有という考えが出たの。

沖縄と尖閣の間には黒潮の激流が流れており、沖縄からの漁民はめったに
尖閣には行っておりません。台湾からだと潮の流れを利用して往復しやすい。
また海賊の住処になるのを止めるため、国家は「我が国」の領土にします。

1895年ころは巨大な軍艦を作り、日清戦争を行ったくらいですから無主地
がその時代にあったという考えがダイタイ荒唐無稽な思想。
日本は戦争という大火事のドサクサにカッパライをする盗人国家に成り下がるのか!!

尖閣は日清戦争のドサクサに、清から日本がカッパラッタ島。
竹島は日露戦争のドサクサに、韓国から日本がカッパラッタ島。
北方領土は第二次大戦のドサクサに、日本からソ連がカッパラッタ島。

ーーーー引用開始ーーー
清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有の
たくらみは実現できなかった。九〇年の沖縄県の申請にも、政府は何の返事
もしなかった。九三年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。

それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その
答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治
十八年の「其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。
http://www.come.or.jp/hshy/j96/10si4.html


06. 恵也 2012年10月03日 16:36:53 : cdRlA.6W79UEw : kvUzA0KNzU
>> 清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上,明治28年1月
>> 14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定

この時期が問題なんだな。
日清戦争の大勢が決まって、清国はボロ負けして戦争をやめることで外交は
精一杯の状態で沖縄県に尖閣を併合したわけだ。

尖閣だけは先に手に入れて、台湾などは外交交渉で手に入れようとしたわけ。
台湾の方は清国が強硬に突っ張れば諦める可能性があったが、尖閣には
外交交渉もなしに内緒で清国から先に盗んでしまった。

その言い訳に「痕跡がないことを慎重確認の上」という表現をしたもの。
忙しい戦争中に官僚が、慎重確認なんて出来るはずがない。

>> 従つて,サン・フランシスコ平和条約においても

サンフランシスコ条約は国際条約ではあるが、戦争をした相手国のソ連と中国
はサインをしてないので無関係で縛られません。
尖閣諸島に関しては当事者中国のサインがなければ何の役にも立ちません。

国際法的には日本が戦争に負けて、カイロ宣言・ポツダム宣言を受諾した時点
で、尖閣諸島は中国領。

>>01 尖閣列島は昔から琉球の一部だつたのです。然し同列島は長い年月
>>  どこの国のものやらはつきり決らなかつたのですが

これは日本語になってない。
尖閣が琉球領か、それでないのか中身のない文章。

>>04 政治家や評論家の言う「日本固有の領土」には全く根拠がない事を
>>  理解しないと、国際的に恥をかくことになる。

俺もそう思う。
日本の領土という根拠は、日清戦争で沖縄県領に編入した後のことばかり。
国際的には清国から取った領土は、中華民国に戻すというカイロ宣言が優先
すると思うけど・・・


07. 中川隆 2012年10月03日 22:33:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

尖閣は中国人の言う通り中国の領土かもしれない

尖閣について書いたHPを見つけたので貼っておきます。
沖縄はもちろん日本だけど、尖閣は沖縄とは関係無いのかもしれないですね:

「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明   井上  清 Kiyoshi INOUE
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/327.html


08. 恵也 2012年10月04日 17:05:25 : cdRlA.6W79UEw : oqQC6dkzcw
>> サン・フランシスコ平和条約においても,尖閣諸島は,同条約第2条に
>> 基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず,

確かにサンフランシスコ条約には含まれてないが、日本が敗戦で受諾したカイロ宣言
でいう「清から盗った島」には該当してますので中華民国に戻すべき島。

戦争に負けて約束したことを守れない国家では、世界からの信頼もなくなってしまうよ。
カイロ宣言は米英中の3カ国が日本と戦争する目的を表したもので、ポツダム宣言に
引き継がれてます。

ーーーー引用開始ーーーー
満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華
民国に返還すること
(カイロ宣言 より)

>> 米国の施政下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実に対し従来何等
>> 異議を唱えなかつたこと

異議が唱えられなかった事情がある。
日清戦争で台湾などは清との交渉で日本領土になったが、尖閣は戦争末期の
ドサクサに沖縄県に編入してたために中華民国当局が気が付かなかったもの。
気が付かなければ異議が唱えることは出来ません。

日本が戦争に負けた1945年から中華民国が気が付いた1970年まで25年を時効と
みるかそれとも、カイロ宣言を有効と見て尖閣を戻すかの差がある。


09. 2012年10月05日 04:54:05 : MbdD1KLmOM

地図で日本本土からの距離と中国からの距離を確認すれば、どちらに説得力があるか明白な気がしますが…

ほんの100年前まで、琉球ですら別の国だったわけだし。

その沖縄本土から尖閣までだって、かなりの距離がある。

何千年の歴史の中で比べたら、どちらの国の人間がより尖閣に接していたのかは明白だと考えられます。


10. いしゐのぞむ 2013年8月26日 22:20:31 : 4p8BaJ5oSykqE : EiEUkqO8fm
惠也樣。
「沖縄と尖閣の間には黒潮の激流が流れてをり、沖繩からの漁民はめったに
尖閣には行っておりません。臺灣からだと潮の流れを利用して往復しやすい」

とのお説は誤りです。
近代以後では沖繩側から多數漁民などが行ってゐることは史料にある通りです。
近代以前の航海の史料では、潮の流れはほとんど話題にならず、
季節風が主な話題です。季節風が變はるまで數ヶ月待たねばなりませんから、
近代以前の尖閣で漁業は不可能で、チャイナ人沖繩人とも漁業の記録皆無です。

「日本本土からの距離と中国からの距離、どちらに説得力があるか明白
 100年前まで、琉球ですら別の国。沖縄本土から尖閣までだって、かなりの距離」

とのお説も誤りです。
尖閣は沖繩石垣島に編入されたので、八重山諸島からの距離で比較すべきです。
與那國島から尖閣まで150KMで最も近い。
過去に溯れば、1534年の尖閣最古の記録の時、與那國は琉球國領土でしたが
一方の臺灣はチャイナ領土外でした。
1534年時點で比較するなら、福州まで300kmと、大差がついてます。
かりに沖繩本島の距離で比較するなら、最東端の比較も入れるべきです。
大正島から那覇まで200kmほど、福州まで500kmほど。大差です。
http://ishiwi.iza.ne.jp/blog/list/2/


11. いしゐのぞむ 2013年8月26日 22:35:54 : 4p8BaJ5oSykqE : EiEUkqO8fm
「何千年の歴史の中で比べたら、どちらの國の人間がより尖閣に接していたのか」
との問ひ掛け、答へは大差で琉球國人です。
琉球國の船はほぼ毎年尖閣を經由してゐたが、
チャイナの船は二十年か三十年に一度きり。大差です。
しかも最古の1534年の記録では、琉球國公務員が尖閣を案内しました。
後の記録でも水先案内は琉球國人です。
http://ishiwi.iza.ne.jp/blog/list/2/


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