★阿修羅♪ > 中国3 > 272.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
2012年9月11日の領土問題日本共産党はこう考えますを読む
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/272.html
投稿者 手紙 日時 2012 年 10 月 04 日 10:18:04: ycTIENrc3gkSo
 


時・所 2012年9月11日・しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-11/2012091105_01_1.html

------------------------------------------------------------------------------
尖閣諸島の存在そのものは、古くから中国にも日本にも知られていました。しかし領有を示す記述は文献などにもありません。近代まで尖閣諸島は、どの国の支配も及んでいない、国際法でいう「無主の地」でした。その後、尖閣諸島を探検した日本人の古賀辰四郎氏が1885年に同島の貸与願いを日本政府に申請。政府は沖縄などを通じた現地調査のうえで、1895年1月の閣議決定で尖閣諸島を日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為でした。これは「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で認められている領土取得のルールです。その後、第2次大戦まで日本の実効支配が行われました。戦後、米軍の支配下におかれましたが、1972年の沖縄返還とともに、日本の施政に戻っています。中国は1895年から1970年までの75年間、一度も日本の領有に対して異議も抗議も行っていません。実際、53年1月8日付の中国共産党機関紙「人民日報」は「尖閣諸島」という日本の呼称を使って同諸島を日本領土に含めて紹介していました。中国側は領有権の主張の根拠に、日清戦争(1894〜95年)に乗じて日本が不当に尖閣諸島を奪ったという点をあげています。日清戦争で日本は、台湾とその付属島嶼(とうしょ)、澎湖(ほうこ)列島などを中国から不当に割譲させましたが、尖閣諸島は日本が奪った中国の領域に入っていません。台湾・澎湖の割譲を取り決めた日清戦争の講和条約(下関条約)の経過が示すように、
(1)日本による尖閣領有の宣言が交渉開始の2カ月前である
(2)条約は尖閣について一切言及していない
(3)交渉過程で中国側が抗議した事実はない
(4)条約締結の交換公文で定める台湾付属島嶼にも含まれていない
―ことからも、中国側が尖閣諸島を自国領土と認識していなかったことは明らかです。日本の尖閣諸島の領有は、日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる正当な行為でした。
このように、歴史的にも国際法的にも尖閣諸島が日本の領土であることは明らかです。
------------------------------------------------------------------------------

//Memo
*領有を示す記述は文献などにもありません(1)
*1895年1月の閣議決定で(2)
*これは「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり
*尖閣領有の宣言(3)

*(1)三国通覧図説;中山傳信録;琉球国中山世鑑;使琉球録;中山世鑑;指南広義;琉球録撮要補遺;使琉球雑録;籌海図編;乾坤一統海防全図;武備誌・海防二・福建沿海山沙図;台海使槎録;台湾府誌;重纂福建通誌巻84;皇明象胥録;坤輿全図;皇朝中外一統輿図;1809年フランスの地理学者Pierre Lapieらが描いた東中国海沿岸各国図;1811年英国で出版最新中国地図;1859年米国出版コットンの中国;1877年イギリス海軍作成香港から遼東湾に至る中国東海沿海海図
*(2)(3)いつ領土に編入したのかを公示公表せず非公開の閣議決定だった事

//Hitokoto
おそらく中共との仲たがいが尾を引いているんだろう。
占有する「先占」の文言にいたっては閉口。反帝はなし?
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2012年10月04日 23:35:55 : HNPlrBDYLM

尖閣諸島や西表島は石器時代から台湾の文化圏だよ。

千島列島にも無人島がいくつもあるけど、誰もがアイヌの領土だと認めていた。

従って、尖閣は台湾原住民の領土に決まってる。

単に台湾原住民には発言力が無かったから何も言わなかっただけさ。


02. 恵也 2012年10月06日 17:19:49 : cdRlA.6W79UEw : 9JlLu45UGQ
>> しかし領有を示す記述は文献などにもありません。

勉強不足!
1785年の林子平図では清国領土になってますし、日清戦争の直前に西太后
が漢方薬を上納した役人に魚釣島を薬草の自生地として与えてます。
文献がないというのは、アンタの知識不足。

ーーーー引用開始ーーーー
広東省にいたる中国本土を桜色にぬり、また台湾および「澎湖三十六島」を黄色
にぬってある(註二)。そして、福建省の福州から沖縄本島の那覇に至る航路を、
北コースと南コース二本えがき、その南コースに、東から西へ花瓶嶼、彭隹(佳)山、
釣魚台、黄尾山、赤尾山をつらねているが、これらの島は、すべて中国本土と同じ
桜色にぬられているのである。
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

(西太后)は、釣魚島を郵傳部尚書の盛宣懐に与え、薬剤の採取地とする詔書
を発した。詔書には「盛宣懐が献上した丸薬は効果が非常に高い。上奏によると、
薬の原料は台湾沖にある釣魚台小島のものである。

この霊薬は海上で産出され、効能は本土のものよりも優れている。聞くところでは、
汝の家系は薬局を開き、診察を行い、貧しい人や病気の人を助けてきた。これは
とりわけ称賛に値することである。

よって釣魚台、黄尾嶼、赤嶼の3島を薬剤採取に供するため、財産として盛宣懐
にあたえる
(1996年10月18日付 「人民日報」第8面 より)

>> 国際法でいう「無主の地」

日清戦争1895年の真っ最中に「無主の地」なんて存在しないよ。
時代錯誤じゃないのかね。

小笠原諸島を日本領土に入れたとき1875年には、米英と外交交渉をして話し合
ってるのに尖閣諸島だけ所有権争いの可能性のある中国に無断で、しかも戦争の
大勢が確定した時に、内緒で沖縄県に編入したのは怪しすぎ。

日清戦争では日本が戦争に勝ったのだから、強者である日本が無理を通し弱者で
ある清国の道理が引っ込んだと見るのが常識でしょう。無理が通れば道理が引っ込む。
無理の理論が「無主の地」なんだよ。

ーーーー引用開始ーーーー
1873年(明治6)に同諸島の本格的経営が廟議決定し、1875年に日本
領再回収を宣言しました。このころ、日本は同島に関係の深い米国、英国と何
度も折衝し、その了解を得ました。さらに1876年、欧米12か国に対して日本
の同諸島管治を通告しました(注)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm069.html

>> 中国は1895年から1970年までの75年間、一度も日本の領有に対して
>> 異議も抗議も行っていません。

1895年〜1945年の50年間は台湾と一緒に盗られたのだから、抗議しないのは当たり前。
でも1945年〜1970年の25年間は中華民国当局のミス。
中国に内緒で日本が沖縄県に編入していたことに気が付かなかったのだから。

>> 領土拡張主義とは性格がまったく異なる正当な行為でした。

逆だよ「性格がまったく同じでもっと悪質な行為」でした。
台湾割譲は「正式な手続き」でかつ「合法」でしたが、尖閣割譲は「内緒」で「不法」
な悪質な行為だったので、責任を持っていた中華民国当局も見逃してしまいました。


03. 2012年10月06日 17:41:14 : HNPlrBDYLM
尖閣が台湾原住民の領土だというのは認めるけど、中国の領土では有り得ない。

交易で島を目印に航海した位で領有権は無いよ。


04. 恵也 2012年10月07日 09:59:08 : cdRlA.6W79UEw : 2rlkZhh21M
>>03 交易で島を目印に航海した位で領有権は無いよ。

目印だけじゃないよ。
1785年の林子平図では色分けして、台湾じゃなく清の領土になってるし、日清戦争
の1年前には薬草を献上した役人に、魚釣島を薬草の栽培のために与えてます。

ーーーー引用開始ーーーー
この霊薬は海上で産出され、効能は本土のものよりも優れている。聞くところでは、
汝の家系は薬局を開き、診察を行い、貧しい人や病気の人を助けてきた。これは
とりわけ称賛に値することである。

よって釣魚台、黄尾嶼、赤嶼の3島を薬剤採取に供するため、財産として盛宣懐
にあたえる
(1996年10月18日付 「人民日報」第8面 より)


05. 中川隆 2012年10月07日 12:09:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

中国は清の様に長いこと異民族に支配されていたから、中国固有の領土は存在しない。例え、清の領土であったとしてもそれは中国の領土じゃない。

清は満州族が建てた世界帝国で中国はその版図の一部にしか過ぎないからね。

台湾に漢民族が入ったのは60年前だから,台湾は中国の領土ではない。


清の版図=中国の版図

と誤解させるのが中共のあくどい嘘


06. 恵也 2012年10月07日 19:13:45 : cdRlA.6W79UEw : qLITaqnBR6
>>05 中国は清の様に長いこと異民族に支配されていたから、中国固有の領土は存在しない。

逆だよ。
元が100年ほど中国を支配し、百姓の朱元章が明を作って300年支配し
清が300年支配したから中国の人種は完全に混血になってしまった。

中国固有の領土は、元が親しくしてたチベットや、清、元の発祥の地モンゴルまで
拡大してしまったんだよ。お殿様の血が百姓から平民まで混合したわけだ。

日本の大失敗は、清の後継者を満州皇帝にして清の実力者の張作霖を殺したこと。
そのために息子が中華民国の英雄になって、清の領土をすべて中華民国に戻せと
連合国のカイロ宣言に書かせてしまった。

だから清国→中華民国→中華人民共和国になったら日本は文句が言えない立場に
なってしまった。

>> 台湾に漢民族が入ったのは60年前だから,台湾は中国の領土ではない。

これは嘘!
蒋介石が台湾に逃げ込んだのは60年前だけど、400年前に滅亡する明の領土
として清が占領してるから中国の領土でしょう。

ーーーー引用開始ーーーー
1662年、大陸を追われた明の遺臣・鄭成功は、新たな拠点を構築するために
台湾を攻撃、既存のオランダ人勢力と対立しゼーランディア城を攻撃した。

その結果オランダ人勢力は台湾から一掃され、台湾史上初めて漢人による政権
が樹立された。鄭成功は熱蘭遮城を安平城と改称し、鄭氏政権3代にわたって
支配者の居城となり「王城」と呼ばれるようになった。

しかし1683年清による台湾統治が開始
(安平古堡 より)


07. 中川隆 2012年10月07日 20:17:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

そもそも漢民族というのは漢字を使っている何千という民族の総称だし、台湾人は漢民族と遺伝子も言葉も全然違う。従って、漢民族の版図は存在しない:

台湾を乗っ取った中国人の悪質な嘘


ほとんどの日本人が台湾人は漢民族であると考えている。実は、なによりわれわれ戦後の台湾人が「お前たちはもともと漢民族である中国人なのだ」という教育を受けてきたのだから、日本人がそう思うのも致し方ない面がある。しかし、これは間違いなのである。


台湾人は漢民族ではない―知っておきたい隣国の真実
2009/02/01/Sun

■最新の研究結果―南島語族の起源は台湾  

台湾では人口の八四%が所謂「本省人」で、一四%が戦後中国から渡って来た「外省人」、そして二%が原住民とされるが、これまで本省人は清国統治時代(一六八三〜一八九五)に移民してきた漢民族の子孫で、原住民はそれ以前に東南アジアから渡って来たマレー・ポリネシア民族(オーストロネシア語族=南島語族)と説明するのが常識だった。

そうした中、「マレー・ポリネシア人の起源は台湾だ」との研究結果が、一月下旬の米誌「サイエンス」で発表された。

これはニュージーランドのオークランド大学の地域言語学研究によるもの。東南アジア、太平洋地域での四百種以上の言語をコンピューターで分析し、簡単な動詞、動物、色、数字などの基本的な語彙の比較から、同語族の移動ルートを割り出したのだ。

その結果「南方民族は五千二百年前に台湾を出発し、東南アジアで約一千年滞留。その後の一千年以内の時間内でフィージー、サモア、トンガに至り、そこで約一千年留まった後、さらにポリネシアへ進出。最後はニュージーランド、ハワイ、そしてイースター島へと拡散して行った」と言う。ちなみにニュージーランドでは、マオリ族が定住したのは今から七、八百年前とのことだ。

研究グループによると「丸木舟を用いる優れた航行技術があったため、速いスピードで太平洋諸島に拡散できた。偉大な人類の移動の旅だった」とのこと。まさに壮大なロマンを書き立てる話である。

ちなみに最近のDNA研究からも、台湾を南方語族の起源とする結果が出ており、台湾の原住民にとっては誇りともなろうが、ここで台湾人全体が考えなくてはならないことがある。

■台湾人は漢民族移民の子孫ではなかった

沈建徳氏はこれまで、統計学の観点から、台湾の人口の歴史的変遷を克明に調査し、台湾の「本省人」が清国統治時代に同化(漢民族化)させられた原住民の子孫であり、移民の子孫とするのは古文献上の記録の政治的捏造であることを突き止めた人物。その研究成果の正しさは、医学界での住民のDNA調査でも裏付けられているのである。

だがこの事実を台湾人がなかなか受け入れようとしないのは、国民党の中国人化教育の影響、そして原住民を蔑視する伝統意識(これも漢化の影響)などと言った理由考えられるようだ。

そのため血統上は異なっても、漢民族意識があるかぎり、台湾人は漢民族のままである。しかし台湾人は中国の漢民族との比較を通じ、自分たちが異質の存在であることを知り、台湾人意識(台湾人としての誇りの意識)を高めているはずである。日本人から見ても台湾人は、漢民族よりも正直でやさしく、開放的な性格を持っており、民族的なDNAの違いが感じられる。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-644.html


一六二四年、オランダ人が台湾を統治することになる。それが台湾人が体験した初めての国家としての権力であった。

 著名な統計学者である沈建徳氏の著書『台湾常識』によれば、当時の台湾の人口は五〇万人だったという。今から一〇年ほど前までは、台湾では原住民のことを「山胞」、つまり山に住んでいる民族と呼んでいた。しかし、確かに三分の二は山でも、三分の一は平野である。住みやすい平野に人が住まなくて、山にばかり住んでいるなどというおかしなことはない。実は、当時の台湾人のうち二〇万人は山に、三〇万人は平野に住んでいたのである。

 余談だが、当時の台湾でいちばんの資源は鹿だった。台湾産の鹿の皮がとても綺麗だったので、日本の武士は好んで兜の飾りにしていたという。

●台湾に来たがらなかった中国人

 オランダ人は台湾を統治するために、中国から労働者を輸入する。その数は七〇〇〇人から八〇〇〇人で、五〇万人のなかの八〇〇〇人だ。人口の一・六パーセントにすぎない。

 鄭成功が清に負けて台湾に逃げてきたのが一六六一年であるから、オランダの統治は三八年間つづいたことになる。今、台湾人が中国人の子孫であり後裔であるという根拠は、鄭成功が多くの中国人を連れて海を渡ってきたことに求められている。しかし、一六六一年の台湾の人口は六二万人であり、中国からやってきたB成功一族と彼の軍隊はそのなかのたった三万人なのである。

 その一族が台湾を統治したのは二二年間で、清朝によって滅ぼされた。当時の台湾の人口は七二万人になっており、そのとき清朝が連れてきた軍隊はほんの数千人だ。なぜ中国人が台湾に行きたがらないかというと、当時の台湾はまさに瘴癘の地だったからだ。瘴癘とは風土病のことだが、マラリアをはじめ猩紅熱、腸チフス、百日咳など、ありとあらゆる伝染病が台湾に蔓延していた。「台湾に一〇人行けば七人死んで一人逃げ帰る。残るのはせいぜい二人」という中国のことわざが残っているほどだ。

 実際、清朝は二〇〇年間にわたって台湾を統治するが、その間、統治者は三年交替だった。三年交替の統治者で生きて中国に帰れたのはほんの数人、一〇人を超えていない。もちろん統治者としてやって来るわけであるから、いちばんよい食事、いちばんよい環境、いちばんよい住まい、つまりいちばんよい衛生状況を保てたはずだったが、その彼らがほとんど台湾で死んでしまうほど台湾の風土病は怖かった。

 そして、一八九五(明治二八)年に日本が台湾を領土としたときの人口は二五〇万人だったが、そのとき、清朝出身者のほとんどは中国に引き揚げている。だから、このように歴史をたどってみれば、われわれ台湾人が漢民族であるという認識はいかに間違っているかがよくわかるのである。

●税金のために漢民族になろうとした原住民

 清は、いろいろな階級に分けて台湾人を統治した。漢人、つまり漢民族しか苗字を持っておらず、原住民のことは、野蛮人を指す「蕃」を使って「生蕃」「熟蕃」と呼んだ。この戸籍制度は、日本の統治時代まで使われている。

 熟蕃というのは漢民族と一緒に住んでいる、人を殺さない原住民を指す。山に住んでいる原住民は首を狩る。そのことを「出草」という。自分が一人前の男であることの証明として人の首を狩り、狩った首はお飾りとして自分の家の前に棚を作って並べておく。この首の数が多ければ多いほど立派な男ということになる。私のなかでときどき血が騒ぐのは、その遺伝子のせいかもしれない。

 生蕃には重税が課せられ、熟蕃はやや軽い。漢人はいちばん軽い。そうすると、熟蕃は競って漢人になろうとする。そこで、当時の清朝は「では、あなたの名前は林にしましょう。あなたは王にしましょう」と苗字を与えた。苗字のない原住民は競って苗字のある漢民族になろうとしたのである。生蕃もできるだけ熟蕃になろうとした。だから、台湾人が漢民族であるというのは統治者の政策によってつくられた虚像でしかない。要は名前を漢人風にしただけのことであり、表面だけを見て漢人と言っていたのである。

●血液学からも台湾人は漢人でない

 台湾の人口は、一六二四年の五〇万人から一九四五年にはざっと六〇〇万人になった。環境などを考慮すると、その成長率は非常に合理的な数字である。清朝統治の二〇〇年間には、台湾に渡るなという禁止令があった。それは、台湾が非常に長いこと海賊の巣になっていたので、人が増えることは好ましくなかったからで、できるだけ台湾に渡らせないようにしようというのが清の姿勢だった。

 日本が統治した当時の人口は二五〇万人で、もちろん日本統治の五〇年間に中国から台湾に移住してきた中国人はほとんどいなかった。正常な人口の成長で、五〇年間で六〇〇万人になったのである。ただ一九四五年以降、台湾から引き揚げた日本人は約四〇万人いたから、総数としては六四〇万人ということになる。そのなかにもし中国人がいたとしても、ごくわずかなのだ。

 血液学的調査でも、台湾人が漢人でないことは証明されている。台湾の馬偕記念病院の血液学の教授である林媽利先生は人間のリンパ球の遺伝子を調べて、すでに台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うことを証明しているのだ。

 台湾人は漢民族ではなかったのだ。

http://kb-news.at.webry.info/200904/article_15.html


昭和二十年の八月十五日、日本が第二次世界大戦、つまり大東亜戦争に敗れた年、私たちが住んでいる台湾は、今まで祖国と言ってきた日本国から切り離され、選択の余地無しに中国人にさせられてしまいました。
君たちの祖国はこっちだよと言葉に蜜つけて侵入してきた外来政府は、実に天使の面を被った悪魔でした。国籍を失った台湾人は、それから中国人となり、そして中国籍になったその時から、悲惨を極める奈落の底に落とされ、イバラの道に追い込まれてしまいました。 

外来政府は、謀反を起こしたという烙印を押し、四十年もの長い年月にわたり″戒厳令″という名目で殺戮を繰り返したのです。台湾全土の人民を震撼させたあの忌まわしい二・二八事件で殺された人の数は、当時の政府の圧力により報道されていません。学生、若者、医者、学識ある者、特に財産を有する者など、死者は三万人にも上ると言われていますが、確実な数字は今でも分からないそうです。因みに当時の台湾の人口は、六百万人でした・・・
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4795276897/aoiumi-22/ref=nosim/


一九四七年二月二七日、台北市で闇タバコを販売していた女性を、支那人である国民党政府の官憲が摘発した。この女性が土下座して許しをえようとしたにもかかわらず、支那人官憲は銃剣の柄で殴打しただけけでなく、商品、所持金を没収した。この時、タバコ売りの女性に同情して、集まった台湾人民衆に向かってこの支那人官憲が発砲したさいに、無関係な台湾人を射殺し逃亡。

 この事件によって台湾人の人々が、二八日に市庁舎に押しかけたが、そのデモ隊に向かって支那人憲兵隊は市庁舎の屋上から機関銃にて、無差別に発砲し、多くの台湾人が殺害される。

 その後、蒋介石の命令により支那本土から派遣された支那兵による第二一師団と憲兵隊が、台湾一般市民に対しての無差別的な発砲や、裁判官・医師・役人など日本統治下で高等教育を受けたエリート層が目標とされ投獄・拷問などにより虐殺される。

基隆では針金を台湾人の手に刺し込んで縛って束ね、チマキと称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込むという醜い虐殺もおこなわれた。この手に針金を通すというやり方は、支那人そして、それに事大して生きてきた朝鮮人など特有の残虐さを感じる。

 この支那人による台湾人への虐殺事件によって、約二八〇〇〇人が殺害・処刑されました。

 一九八七年まで継続していたこの時に発令された戒厳令下、支那人による白色テロと呼ばれる恐怖政治が永らく続く。そんな台湾において、「民主化」が実現するのは、当時の李登輝総統が一九九二年に刑法を改正し、言論の自由が認められるまで待たなければならなかった。
http://www.tamanegiya.com/syoukaiseki20.2.28.html


台湾人の無差別な殺戮は高雄・基隆から始まり、約2週間で全島を鎮圧した。殺戮には機関銃が使用されたが、手のひらに針金を刺し、数人1組に繋いだり、麻袋に詰めて海や河に投げ捨てたり、また、処刑前に市中引き回しを行い、処刑後は数日間放置されたり、と今世紀に生きる近代文明の人間がなしえる業とは思えぬ野蛮きわまりない手口だった。

3月14日、警備総司令部により「粛奸工作」が開始される。「粛奸工作」の対象は、事件に直接関与していない者も多く含まれ、社会的指導者はもとより、危険人物と見られた民意代表、教授、弁護士、医者、作家、教師など、多くの知識人が逮捕された。意図的に日本教育を受けた知識人を根こそぎ粛清するかのようである。このため、台湾の知識人の存在は一時期の間空白となってしまう。

「二・二八事件」の関係者の逮捕は1949年になって緩和されるが、「要注意人物」の逮捕はまだ暫く続くのであった。国民党の発表によると、事件後1ヶ月に殺された台湾人は28,000に上る。これは50年の日本統治において日本軍によって殺戮された台湾人の数に匹敵する。また、有罪判決を受けて有期・無期の投獄に処せられた人数は計り知れないという。

国民党の台湾における「二・二八事件」に対する過剰な殺戮と鎮圧は国際社会の痛烈な批判を浴びた。国共内戦で劣勢にあり米国の援助が必要だった国民党は、米国の駐中国大使の抗議を受けると、蒋介石は米国の意向を無視できず、4月22日、陳儀を免職、5月1日に南京に召還した。余談になるが、陳儀は1950年に、中国共産党と通じたして反逆罪で逮捕、やがて処刑された。

日本統治下では「法の支配」、「法治国家」の精神を植え付けられ、国民党にもそれを期待していた。日本統治下では、いくら政府を批判しても、悪法とは言えども、治安警察法などの法によって裁判と処罰を受けていた。しかし、国民党は抵抗するものを手当たり次第に「鉄砲」で裁く事しかしなかったのだ。

http://tokyo.cool.ne.jp/masakim/Taiwan/History/history9.html



08. 2012年10月08日 19:53:56 : 6kuobrWeYc
共産党と言ってもこういうナショナリズム的な問題には多勢には逆らえないのでしょう。政党という人気商売の限界かな。

09. 恵也 2012年10月09日 09:53:55 : cdRlA.6W79UEw : 5FAk7oG9Ww
>>07 「南方民族は五千二百年前に台湾を出発し、東南アジアで約一千年滞留。
>>  その後の一千年以内の時間内でフィージー、サモア、トンガに至り、そこで約
>> 一千年留まった後、さらにポリネシアへ進出。最後はニュージーランド、ハワイ、
>> そしてイースター島へと拡散して行った」

「台湾を出発」という表現が怪しい。
これらの地域の言語が非常に似てるという意味だけであり、どちらから出発したのかは
非常に微妙な問題で、調査方法が難しい。

むしろ民族文化の発展状態を考えると、イースター島の巨石文化からもイースター島
付近に文明の中心地があったと見るのが常識だと思うけど・・・・
台湾にこんなモアイの像文化は発見されてないでしょう。

5000年前というのなら、地殻変動で多くの島が沈んだ可能性が大きい。
日本でさえ1万年前には大陸と地続きで、瀬戸内海さえ陸上だったという。
この記事は「炭酸ガス主犯論の温暖化説」と同じ匂いがする。

地球の歴史を見ると、1万年前の非常に寒かった時期に戻ろうとしているの
であって長い目で見ると、寒冷化の方向に進もうとしてる。

それを温暖化が既成の事実かのように宣伝したのは、東京電力などの金に
あかせた原子力ムラの暴挙であり、多くの科学者は疑問を持ってます。

ーーーー引用開始ーーーー
72人のノーベル賞受賞者を含む4000人の科学者が(二酸化炭素と地球温
暖化は無関係であると主張し)ハイデルブルグ控訴?(ハイデルブルグ控訴
(英語・Wikipedia))に参名しており、

オレゴン申請?オレゴン申請(英語・Wikipedia)にも米国人科学者17600名
が署名しており、異論を唱える科学者は決して少なくはない。
(はてなダイアリー より)

地球の気温変動は、実は非常に振幅が大きいのです。例えば、50年以内
で7度以上も下がっているところがあるわけです。それどころか20年以内で10
数度も変わったときもある。そういうことが分かった。

最近の1万年間は、異常なくらい気温の安定した時期なんです。今が異常な
んです。人間は、この安定したときに農業をはじめ、いろんなことをやって非常に
繁栄してしまったわけです。
http://www.moriyama.com/netscience/Maruyama_Shigenori/Maruyama-3.html


10. 中川隆 2012年10月09日 10:16:54 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

台湾人がポリネシア系だというのは常識だよ:

ポリネシア人のルーツと移民の流れ

トール・ヘイエルダールが唱えた南米からの植民説、ベン・フィニーらが唱えたアジアからの植民説があるが、1975年にハワイで建造された双胴の航海カヌー、ホクレアによる数々の実験航海や、言語学的・人類学的な各種の検証により、現在では東南アジア説が定説となっている。

アボリジニーの祖先となったオーストラロイド系の民族は中国大陸から約5万年前にスンダランドに移住。一部は後に現在のオーストラリアへ渡る(その逆で、彼等がアフリカ、南アジアからスンダランド経由で北東アジアに移住していったという見解もある。)のだが、ポリネシア人の祖先とされるラピタ人の移住はもう少し後の時代である。

ラピタ人はオーストロネシア語を話すモンゴロイド系の民族で、元々は台湾にいたのだが、その一部は紀元前2500年頃に南下を開始した。この時に別のグループは黒潮や対馬海流に乗って日本列島にも渡っており、縄文人の骨格との類似性から、縄文人と現在のポリネシア人を形成した人種は共通するとされている。ちなみに日本語は文法がアルタイ諸語のものであるが、音韻体系はポリネシア語の属するオーストロネシア語族と共通している部分がある。

一方、南下したグループはフィリピンを経て紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島に到達した。ラピタ人はここで進路を東に変え、紀元前1100年頃にはフィジー諸島に 到達する。現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。サモアに到達した時点 でラピタ人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、その間に現在のポリネシアの文化が成立していったと考えられている。

再び東への移住を開始するのは紀元1世紀頃からで、ポリネシア人たちはエリス諸島やマルキーズ諸島、ソシエテ諸島にまず移住した。その後、ソシエテ諸島を中心に300年頃にイースター島、400年頃にハワイ諸島、1000年頃にクック諸島やニュージーランドに到達した。ポリネシア人の移住の動きはこれ以降は確認されていないのだが、ポリネシア人の主食のひとつであるサツマイモは南米原産であり、西洋人の来航前に既にポリネシア域内では広くサツマイモが栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている。


生活

元来のポリネシア人の生活は極めてシンプルで石器や貝殻を用いた漁撈を主としていた。カヌー製作や航海技術に卓越した知識を保有し、天体や波のうねりなどから各島の位置を察知し、頻繁な海上交流を行っていた。漁法は環礁での単純捕獲のほか、投槍、漁網、釣り針、毒など多彩な手段を用いていたことが判明している[3]。通常の魚だけでなくカニ、エビ、ナマコなど様々な魚介類を捕食しており、特に外洋での危険を伴うサメやクジラの捕獲は胃袋を満たすだけでなく個人の名声を高める手段のひとつでもあった。

食材を葉にくるんで蒸焼きにするウム料理が一般的で、魚介類のほかにはタロイモ、ヤムイモ、バナナ、ココヤシ、パンノキ、サツマイモなどの農作物が採られた。一部儀礼の際には犬肉や豚肉も食される[1]。飲料はメラネシア人などと同じくコショウ科植物の根を原料としたカヴァが飲まれていたが、アルコール性飲料は一般的では無かった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA


因みに、縄文文化は北方系で縄文土器は木の実や雑穀を煮炊きする為のもので、高さが高い。

南方系の土器は高さが低い唯の入れ物でかごで代用できる。

西表島や石垣島が無土器だったのは木の実や雑穀を煮炊きする為の土器が必要無かったから。 従って、西表島や石垣島に住んでいたのは縄文人ではなくラピタ人系の台湾原住民


西表島や石垣島では縄文人の生活様式では生きていけなかったという事さ。

今西表島や石垣島に住んでいる琉球人は10世紀に九州から渡った縄文系農耕民。
先住の台湾原住民を殺して島を乗っ取ったのさ。

従って八重山諸島と尖閣諸島は縄文人ではなく台湾原住民の領土だ。


金関丈夫によれば、八重山には少なくとも3つのメラネシア的要素が認められるという。 その一つは、済州島漂流人の西表島の記事(15世紀)にかかわる事柄である。

両側鼻翼を穿孔し、栓状の小さい黒い木片をはめている。
その栓の頭は比較的小さく、あたかもほくろのように見えた、という記事があるが、この習俗は現在メラネシアの一部で行われているという事実。

第二に、波照間島前島で所蔵されている木製の鼓筒は、ニューギニアの砂時計形鼓に酷似しており、偶然の一致とは思いがたいこと。

第三に、波照間島の南村の一農家で使用されている腰部の両側にとってのようなものがついている臼があるが、これはニューギニアにおいてびんろうじゅを砕くための臼とよく似ていること。

こうした類似について、金関丈夫は、メラネシア人と接触して、少なくとも部分的に共通文化を共有したインドネシア系の習俗がもたらしたものとみなし、メラネシア人とインドネシア人の交流は、首狩り、入墨、歯牙変工などの点からみて疑うべからざるものがあるとする。

金関は、南方諸島から琉球列島、さらにはヤマトの中部地方以東にいたる地域へ、縄文中期あるいはそれ以前の時期に、メラネシア的要素を含むインドネシア系の習俗の到来を想定しているのである。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/a3932d27cf0ad07b070f05ec8b1f3533


何れにしろ沖縄本島と八重山諸島・尖閣諸島の間には大きな文化的断絶が有り、


沖縄本島以北は縄文人とその直系の子孫の琉球人の生活圏

八重山諸島・尖閣諸島はラピタ人とその直系の子孫の台湾原住民の生活圏


従って八重山諸島と尖閣諸島は琉球人ではなく台湾先住民の領土という事で間違い無い。


11. 2012年10月09日 10:22:01 : HNPlrBDYLM
もちろん、尖閣諸島は中国の領土ではない。

日本が尖閣諸島を返すならポリネシア人に返すのが正しい。


12. 恵也 2012年10月09日 12:40:40 : cdRlA.6W79UEw : E2EOet0fQ8
>>07 血統上は異なっても、漢民族意識があるかぎり、台湾人は漢民族のままである。

本省人は台湾の原住民と漢民族の混血という意味じゃないの?
だいたい台湾の原住民の血液も日本人にはたくさん入ってることだし、7000年前の
フロリダ州で発見されたミイラのミトコンドリアDNAからは、日本人とそっくりなDNA
が見つけられたという。

DNAの中でも変化しやすいものを調べると、血統的に近いかどうかがわかるけど
5900年前の前期縄文人は、漢族、台湾原住民、インドネシア人と非常に近く、
後期縄文人になると現代本土人、アイヌ人、沖縄人、漢族、韓国人、台湾原
住民と血統的に近くなってます。

茨城の中妻遺跡だと、北方アジアのモンゴル系まで混ざってるのを考えると日本人の
ルーツはアジアの大混血地帯になってるといえます。
漢族の悪口を言うのは、日本人の先祖の悪口を言うのと同じ天に唾する行為。

台湾においても台湾原住民と漢族の混血が、非常な速度で進んでいると見るべき。
今じゃ台湾原住民は2%くらいだというし、台湾においては混血が完成した時期に
来てるのじゃないかね。

ーーーー引用開始ーーーー
狭い地域内の中妻遺跡人の中に、北方アジアを故郷に持つ人も含まれていたのである。
このようなデータの積み重ねによって、古人骨からのmtDNAの抽出・分析が日本人
南方起源説の救世主ではなく、むしろ北方起源説を証明するかも知れないことが明
らかとなった。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_03_1mt_dna.html

>> すでに台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うことを証明しているのだ。

たった2%の台湾原住民と混血の進んだ98%を比べても、センナイ事だろう。
アンタは混血の進んでる日本本土人と純沖縄人を遺伝子が違うとして、沖縄人は
日本人ではなかったと言いたいのかい?


13. 中川隆 2012年10月09日 16:24:37 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

アホ?

君が言ってるのは、現世人類は4万年前にアフリカから世界中に広がったから1万年前は大して変わらなかったというだけだろ。

そもそも春秋戦国時代の漢民族はコーカソイドで今の漢民族とは完全な別民族

今の漢民族は500年前にはモンゴルに居た未開民族でつい最近南下してきた野蛮人さ。 10000年の歴史を持つポリネシア人や日本人とは比較にならないよ。

漢民族が昔から繋がっていると思ってるの中国人の誤解なんだ。


14. 2012年10月09日 16:30:45 : HNPlrBDYLM

漢や三国時代や唐が日本人に人気が有ったのは孔子や李白が白人(コーカソイド)だったから。

日本人は元以降の醜い有色人種の中国人を嫌った。

日本が元以降中国と一切関係を絶ったのはそういう事情があったのさ。


15. 2012年10月09日 17:23:28 : HNPlrBDYLM

台湾の本省人は遺伝子からするとポリネシア人なのに、中国人に騙されて漢民族だと思わされてきた。

今の中国人はわずか500年前にモンゴルや満州から南下してきた未開人なのに、勝手に漢民族だと名乗って自分達自身も、他の民族も騙してきた。

そういう事さ。


16. 2012年10月09日 18:12:00 : HNPlrBDYLM

ついでに付け加えると

10000年前から2500年前まで中国長江流域で稲作・漁労をしていた民族は当時の漢民族(コーカソイド)に追われて日本に逃げてきた。

従って、中国長江流域は本来、日本の弥生人の領土だ。 弥生人以外に生き残っている民族は居ないからね。

日本は中国に中国長江流域を返還するよう要求する権利がある。


17. 2012年10月09日 21:11:18 : HNPlrBDYLM

さらに元寇で受けた被害も中共に請求しないといけないな。

そもそも督部隊が後ろにいないと逃げ出す臆病者ばかりの中国人が
古代からアジアで一番凶暴だと言われていた日本に攻めてくるのがクルクルパーなんだ。


18. 恵也 2012年10月10日 09:31:32 : cdRlA.6W79UEw : ddFqfoxW9A
>>10 オーストラロイド系の民族は中国大陸から約5万年前にスンダランドに移住。

こんな記事を簡単に信じるところが、あまりにも幼稚。
5万年前に移住したなんてどうやって確認したのか考えてるのかね?

日本でも旧石器時代の遺跡を見つけたという偽造騒動で、旧石器学会は
根底から瓦解してしまったけど、5万年前を何で確認したのかどんな遺跡が
あったのかくらい調べてから信用しなさい。

万年という単位じゃどちらから移住したかなんて、非常にアヤフヤで根拠は少ない。
1000年前くらいだと、文字による記録が残っていてある程度のことはわかるけど文字
がほとんど残ってないラピタ人なんて小説の世界クラスのものだ。

>> 南下したグループはフィリピンを経て紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島に到達した。

「見てきたような嘘を言い」という言葉を知ってるかな。
紀元前200年頃であれば、始皇帝の中国統一で高度な技術や経済力で大きな船団
を作って大移動というのは考えられるが、紀元前2000年というのならどの程度の造船
技術持っていたのかを考えれば、台湾程度の小さな島から黒潮を逆走し波の高い
外海を大人数での移動なんて考えられん。

10人程度が船を作って魚を釣ったり、交易するのは考えられるが黒潮の流れを考え
ればインドネシア方面から台湾方面に流れ着く可能性のほうが大きい。

鹿児島の南、鬼界カルデラは紀元前5000年ころ大爆発して関東まで10cmくらいの
火山灰が積もってるけど、そんな火山の冬で住めなくなったら大移住が考えられんわ
けじゃない。

でも輸送手段としては丸木舟を何隻も横に並べて、外海に耐える安定をはかったり
したら黒潮に流される方向であり、台湾から日本へ向かうのじゃないかな。
南下するのなら小集団でしょう。


19. 2012年10月10日 10:22:47 : HNPlrBDYLM

おまいが考古学や人類学の事を何も知らないだけだ。

編年と年代決定が考古学者や人類学者の一番大事な仕事だ。

もう少し勉強してから発言しろよ。


20. 恵也 2012年10月10日 15:21:04 : cdRlA.6W79UEw : uYEVkDJIBE
>>13 今の漢民族は500年前にはモンゴルに居た未開民族でつい最近南下してきた野蛮人さ。

歴史認識が狂ってるよ。
700年ほど前に元が占領し、400年ほど前に清が中国を占領してるけど
漢民族は滅ぼされてはいない。

滅ぼされたのは宋や明の皇帝や王族と官僚組織で、税金を食べる人たちなの。
税金を納める漢民族は、腐敗してしまった旧皇帝を見限りモンゴル系の連中に
政治権力を与えて支配層にし、官僚組織を一新しただけなんだよ。

漢民族の構成はモンゴル系の上流階級が入ってきたけど、平民にはほとんど無関係。
未開民族の支配構造の方が、漢民族としては都合がよかったんだろう。

しかし支配構造は時間とともに腐敗するものであり、官僚組織の肥大化で重税になり
賄賂の蔓延と非効率で300年くらいが中国では限度。
税金を食べる上流階級は腐敗後に、新しい支配構造の政権に替わってしまうだけだ。

だから漢民族は混血し、時代とともに変化してるんだよ。
民族と人種の違いくらいわからんのかな。

明の初期に活躍した鄭和はイスラム教徒でトルコ系の色目人。
鄭和は明国に征服された方の人間だったのに、明国の重要官僚になってます。
征服されて滅ぼされるのは、政治権力を持って税金を食べる連中のごく一部なの。

ーーーー引用開始ーーーー
永楽帝は、即位後に宦官の最高職をかれに与えているが、これは、洪武帝以来
の伝統を破る大抜擢であった。

1405年、鄭和は永楽帝の命により、200隻の大艦隊を率いて、第1回の南海遠征
に出発した。
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse059.html


21. 2012年10月10日 16:14:24 : HNPlrBDYLM
"700年ほど前に元が占領し、400年ほど前に清が中国を占領してるけど
漢民族は滅ぼされてはいない。

滅ぼされたのは宋や明の皇帝や王族と官僚組織で、税金を食べる人たちなの。


おまい、中国の歴史を何も知らないだろ。 日本では常識なんだけどね:


漢民族という言葉の下敷きとなった漢朝(前漢・後漢)では最盛期には人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順のため、中原の戸籍に登録されている500万人を切った。

この後は、次段落にあるように北族の時代を迎え、この時点でオリジナルな漢民族は滅亡した


中国は王朝が変わるたびに前王朝の都市民は殆ど殺されているから

漢の中国人と唐の中国人と元の中国人と明の中国人と清の中国人とすべて遺伝子が違う。

今の中国人は500年前はモンゴルか満州かシベリアにいた未開人さ。


「中国に純粋血統の‘漢族’は存在しない」

13億人の中国人の92%を占めるという漢族が、実際には‘遺伝学的には現存しない血統’だという調査結果が出てきた。 「漢族は血統概念ではなく文化的な概念」という通説が学術研究で明らかになったという点で、注目されている。

中国甘粛省蘭州大学生命科学学院の謝小東教授が「純粋な血統の漢族は現在いない」という研究結果を最近発表したと、中国メディアが15日報じた。 謝教授の研究結果は、中国西北地域の少数民族の血液サンプルDNA研究などから出された。

謝教授は「DNA調査の結果、現代の中国人はさまざまな民族の特質が混ざったもので、いかなる特定民族の特質も顕著には表れなかった」と説明した。 また「かなり以前から『漢族は中原に暮らしている』と考えられてきたが、これは特定時代の漢族を周辺の他の種族と区別するために作った地域的区分にすぎない」とし、「漢族をこのように地域的に特定して定義することはできない」と指摘した。

例えばBC12世紀の陝西省西安を首都とした西周は漢族政権に属するが、その後の春秋戦国時代に同じ地域に建てられた秦は少数民族の‘西戎’が主流だったということだ。 また中国の歴史に表れる中原の範囲は、主に現在の山西南部と江蘇西部および安徽西北部などの少数地方を含む河南省一帯だったが、ここに居住する人々を漢族だと規定するのも歴史的事実とは合わないという主張だ。

さらに、中国人は自らを「炎帝と黄帝の子孫(炎黄子孫)」と主張するが、研究の結果、黄帝と炎帝の発源地も‘北狄’地域だったことが研究の結果から分かった。 黄帝と炎帝の発源地はともに現在の甘粛省と陝西省にまたがる黄土高原地域で、ともに漢族の本拠地ではなく、居住地域でもなかったということだ。

謝教授は「研究の結果、むしろ中国北部から南部に移住した客家族が古代中原人の文化伝統を継承したことが分かった」とし「彼らの古語、風俗および習慣からして、客家族こそが本当の中原人」と強調した。

謝教授は、中国に純粋な血統の漢族がもはや存在しないのは大規模な民族移動と関係があるとし、「長い歴史の中で周辺少数民族、さらには周辺国家が漢族と絶えず融合してきた結果でもある」と付け加えた。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=84664&servcode=400  


22. 恵也 2012年10月10日 16:38:03 : cdRlA.6W79UEw : CDp0AQMFL2
>>19 編年と年代決定が考古学者や人類学者の一番大事な仕事だ。

考古学を知ってないのはアンタだろう。
どんな世界にもピンからキリまであり、その区別が出来ない方が多いようだ。

温室育ちの純真な先生方が、考古学会には多いようで俺は旧石器時代の
日本の遺物なんて、編年にしても年代決定にしてもほとんど信じてないよ。

タダの石ころを石器だなんて、怪しいもいいところだ。
捏造したのは藤村氏だけじゃないよ。
ゴキブリが1匹出てきたら30匹いるというのが世間の常識。

ーーーー引用開始ーーーー
1970年代に考古学を初めて捏造発覚までのおよそ30年間、藤村氏は行く
ところ行くところで石器を「発見」し続けました。

 後から確認してみると、石器文化談話会など彼の参加する団体はこの間に
135回の発掘をしていますが、彼はそのうちの102回に参加し、なんと93回も
石器を発見したのです。その確率は、91.2%です。まさしく掘れば出る状態です。
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/kyusekkinetuzou.htm


23. 2012年10月10日 17:02:35 : HNPlrBDYLM
おまい、学問が追試で成り立ってるのも知らないんだろ。

おまいの様な知恵遅れは人前には出ない方が自分の為だ。


24. 恵也 2012年10月11日 07:53:23 : cdRlA.6W79UEw : Q2O7HzBlog
>>21 前王朝の都市民は殆ど殺されているから

この言葉に偏見が凄く入ってる。
日本軍が南京虐殺を行った時にも、多くの南京市民は生き残ってるし「殆ど」
という表現は間違ってます。

日本軍は南京を計画的に燃やし、若い兵隊になりそうな男性を殺さない振りをして
集めて逃げ出せなくして殺害してるが、それでも人口100万人都市で30万人くらい
しか殺害できてない。

人間は殺されそうだとなったら逃げ出すし、死にもの狂いの抵抗をするので占領
軍という立場でも「都市民は殆ど殺す」というのは無理。

助かるというので抵抗をしないで降伏するが、殺すとなったら占領軍にも大被害
が出てしまうよ。

都市民もほとんど生き残ってるから「中国人はさまざまな民族の特質が混ざった」
という現象になるんであって、アンタは現実を知らないのじゃないかね。
どうやって多くの人を殺すのか、少しはまともに歴史を調べてから書き込みなさい。

ーーーー引用開始ーーーー
私の雇つて居ります料理人、それは十五歳の子供でありますが、其の子供が約百名
の中国人と共に、南京の街の城壁の外部に、約五十名づつ二団になつて連れて行
かれたのであります。其の際彼等は手を括られていたのであります。前で括られ、前
の方から日本兵がそれを殺し始めたのであります。
http://www.geocities.jp/yu77799/magee.html

>>23 学問が追試で成り立ってるのも知らないんだろ。

日本の旧石器学界は学問の部類に入ってないんだよ。
妄想の部類。


25. 2012年10月11日 08:07:02 : HNPlrBDYLM

おまいは日本の歴史も中国の歴史も全く知らないだけさ。

日本人は大陸とは違って基本的に殺しはやらない。

だから、今でも縄文人の移民やアイヌ人がそのまま残っているのさ。

一方、漢や唐や元や明は前王朝の人間を9割方殺して、北から新しい農耕民を連れてきた。

今の中国人は500年前はモンゴルか満州かシベリアにいた未開人。


26. 2012年10月11日 08:21:22 : HNPlrBDYLM

中国の皆殺しの歴史って凄い
もうね、すぐ皆殺しにするの。

まず粗相した奴がわりとすぐ死刑になって驚くけど、

本人だけじゃないの。三族皆殺し。

この三族って言うのは父方一族母方一族妻の一族。

これの近いところは全部処刑。


戦争で勝ったら城砦の中の人間全部殺す。

戦闘員全部殺すし非戦闘員も殺す。

もちろんとっくに抵抗諦めて命乞いしてるのを殺す。

壁に覆われた街を落とせば街の中を全部殺す。

もう人道とか慈悲とかいうレイヤーじゃないの。

合理的理由がわかんないぐらい殺す。

京観って言葉があるけど

あれもともと三国志の司馬イが敵兵皆殺しにして門みたいに積み上げたのが語源だから。

死体積み上げて門作って愉快愉快っていう快事として言葉が残ってる。

それぐらい殺す。

王朝が変われば前王朝の主だった一族や家臣を殺す。

ついでに民衆も殺してみたり埋めてみたりする。千とか万とかじゃないの。

十万百万。

征服したとこから美顔の童子を選抜して連れてきて、これは殺さないんだけどチンコ切ったりする。


27. 2012年10月11日 08:25:08 : HNPlrBDYLM

東洋は、服属、西洋は、皆殺しという認識でいたが、中国の歴史をみていくと、中国の方が、西洋に較べて皆殺し率が高いのではないだろうか?

中国の場合、春秋(戦国)時代を経由した漢の時代になると、農村の自主管理機能は失われ、末端の農村に共同体としての規範は喪失する。
このことが、次の漢崩壊時〜(2Cの寒冷化を経由した)五胡十六国の戦乱時において、秩序を全く維持できず、人口が5000万人から700万人まで激減する人が人を食うというような異常事態に陥っていくことになる。

農業生産を基盤とする中国は、帝国の安定期には人口が急激に増加する。
しかし、農業生産が人口過剰に追いつかない状態に陥いり、飢饉、疫病、内乱、そして周辺遊牧民の侵入などにみまわれると、秩序を維持できずに人口が大激減し大量の流民を発生させる。これは、この末端の自主管理機能をもつ共同体の喪失ゆえである。

そして、流民の頭目か、それを鎮圧した将軍か、遊牧民の族長が、戦乱を制覇し新たな王朝を建てるが、荒廃した国土と崩壊した秩序の上にゼロから支配体制をつくりあげることになる。

その際にみられるのが「住民の強制移住」である。
これは、流民に土地を与えて定着させる、(魏のように)激減した人口を一カ所にかき集める、無人となった地帯に入植させる、逆に(南宋のように)国境に無人地帯をつくる、といったさまざまな目的で行われる。

こうして人為的につくられた村落社会では、連帯感や規範意識は薄く、自主管理機能は期待できない。
そのため、租税を集めたり治安を維持したりする地方行政は、中央国家がやらなくてはならない。
中国が「専制の中央集権国家」になるのは、末端の共同体を喪失したがゆえの当然の帰結である。

そして、春秋、五胡十六国など長い戦乱を繰り返す中国は、社会基盤となる(村落などの)自主管理機能をもつ共同体を失ったがゆえに、(戦乱後の荘園地主の増大を抑制するためもあるが)根本的には、この人工村落社会を維持するために、「均田制(口分田を与えて租庸調を課す(唐))」、「10戸を1甲とし110戸で1里とする(明)」といった中国特有の画一的な人民編成の制度が不可欠になる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=255837


28. 2012年10月11日 08:31:05 : HNPlrBDYLM

日本以外の地球上の殆どの地域は血なまぐさい殺戮の歴史に塗られている。とくにユーラシア大陸、欧州大陸、中国大陸など陸続きの大陸民は皆殺しの歴史が殊の外多い。とくに中国の歴史は血生臭く、征服王朝が変わるごとに数百万人単位で死者が出た。近代以降でも、太平天国の乱、文化大革命、一つ一つが数千万人単位の死者を出している。また、中世のモンゴル帝国の殺戮のしかたも凄まじく、モンゴル騎馬兵は侵略した村々の老若男女の喉を悉く掻き切った。

・各大陸にある街に行くと、多くの街は堅牢な城壁で囲まれている。とくに欧州の各都市は城壁の保存状態が良いのでそれが良く分かる。城壁を突破されたら最後、皆殺しになる。「戦に負けることイコール皆殺しに遭うこと」という切迫した危機感を一時も忘れずに生きねばならなかったのが「世界の常識」で、「親方様が戦に負けて、新しい領主は年貢の取り立てが厳しくなった」などという日本人とは切迫感が天地の違いである。

・日本のように領主の城だけが石垣と掘に囲まれていて、領主以外は無防備、というのは世界的にも珍しい。確かに日本でも権力闘争はあり、戦に負けたら城主は城と領地を明け渡す慣習はあったが、日本人は単一民族であり、勝った側も負けた側も同じ民族であるために、都市民を皆殺しする理由は日本にはなかったのだ。
http://honu81.blog28.fc2.com/?tag=%B3%A7%BB%A6%A4%B7%A4%CE%CE%F2%BB%CB


殺しを嫌う日本人だから南京の被害は数万人で済んだのさ。


29. 2012年10月11日 12:12:42 : HNPlrBDYLM
漢民族は中身の遺伝子は王朝が変わる度にガラッと変わってるんだけど、こういう文化伝統はちゃんと継承されているから安心してね:


中国人が凌遅刑をしたがる理由


※閲覧注意
http://www.google.co.jp/search?q=%E4%BA%BA%E8%82%89%E9%A3%9F&hl=ja&lr=lang_ja&tbs=lr:lang_1ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=vNJyUI7hMMGemQX9uoCYCA&ved=0CEMQsAQ&biw=1047&bih=892
http://blogs.yahoo.co.jp/hisao3aruga/33053772.html#33053772
http://kaythai.blog60.fc2.com/blog-entry-82.html
http://ameblo.jp/tachiagare-nihonjin/entry-10666678965.html

「人食い」と言えば、かつて「未開民族」とされた地域特有の習慣だと思われるかも知れませんが、もちろん、そんなことはありません。例えば、中国は最近まで、人肉食の習慣が残っていたことが分かっています。

唐代(8〜10世紀ごろ)までの記録には、人肉が「両脚羊(ヤンシャオロウ)」、すなわち「両脚で歩く羊」として、かなりの頻度で人肉が食されていたという記述が残されているものがあります。何と、その肉は、飢饉でもない、普通の市場でも売られていたと言いますから、その「文化」の広まり具合が分かりそうです。この習慣は、少なくとも宋代(11〜12世紀)までは続き、その後歴史の陰にひっそりと沈んでいきますが、その後も、時代のはざまはざまに、人肉食はひょっこり顔を出します。

ちなみに、この「両脚羊」は羊や犬よりも一統価値の低いものと見なされ、それに手を出すのは、よほど食べるものに困っている時であると相場が決まってました。
その他に、過去の記録をひもとくと、例えば「史記」には、春秋時代(紀元前7世紀ごろ)の覇者、斉の桓公が、料理人の易牙に勧められて、易牙の息子を食べるという話が出てきます。

「世語」にも、三国時代(3世紀ごろ)に、魏の重臣として名高い程c(ていいく)が、軍の備蓄食糧に「干した人肉」を混ぜたということで、主君の曹操に嫌われた、というエピソードが出てきます。

また、曹操のライバルとして有名な劉備も、人肉を食べたという話が伝えられています。ある日劉安という人物のところに泊まったところ、あいにく彼をもてなす肉がない。そこで、妻を殺してその肉を供した、劉備はそれを知ると、劉安の恩の深さを知り、さめざめと涙を流したというエピソードが巷間に伝わっています。

古代ばかりではありません。何と20世紀になっても、人肉を欲して喰ったという話が伝えられています。有名なのは文化大革命のライバルを襲って食べる、といったできごとでしょう。1966年から1970年の間に、実に6万人もの知識人・文化人をはじめとする「反革命主義者」が殺され、その一部が「革命支持者」の腹に入ったと言うのです(もちろん、公式記録には何も残ってません)。


このとき、頻繁に行われたのが、「凌遅(りょうち)刑」という、人間の肉を足から順に削ぐという処刑方法でした。

人々はこの刑が行われる時、こぞってその周囲に集まり、肉を貰っては食った、とも言われています。


1984年にも、台湾で炭鉱事故に遭い生き残った炭鉱夫が、人間の肉の味についてコメントして大きなニュースとなっています。


「やはり死んだ人間の肉は旨くない。旨いのは生きた人間の肉だ」


21世紀になって、さすがにそのようなあからさまな報告はなくなりましたが、やはり一部では、あくまでも「一般的ではない」という註釈付きですが、料理によっては堕胎後の胎児を食材として使うこともあるようです。

人間の味について語ったものはいくつも見受けられますが、その内容は言う人間によってかなりバラバラです。全体的に臭みが強い上、かなり特殊な方に属する「食材」であるため、宗教観、倫理観、個人の嗜好、飢餓状態によって、かなりバイアスがかかりやすいというのがその理由だと思われます。

ちなみに、実際に食った人の話では、「豚肉のようでとても美味しい」とする人と、「とても食えたものではない、非常に不味い」といった二つに大別できるようです。


パーツ別に見れば、人間は眼の周りが一番旨いと言われています。特に視神経は珍味中の珍味とされます。

上腕二頭筋や大腿筋(太もも)など、赤身の部分も人気が高いようです。

心臓や肝臓などの内臓や男性器もかなり旨い、という話を聞きます。


逆に人気がないのが乳房とお尻で、どうも脂肪分の多い場所は、水っぽくて、あまり旨くはないようです。

女性器も「人肉食い」の人々にはあんまり人気がありません。

http://homepage3.nifty.com/onion/labo/cannibalism.htm


『両脚羊』

 ● 中国人は人肉を食べることを楽しんできた

中国人は人肉を食べることを楽しんできた。人肉食、人相食、夫食婦、婦食夫、易子而食(親がお互いに子供を交換して食べる)こういう記録が中国の史書の随所に見いだされる。あの春秋戦国の覇王桓公は子供の丸蒸しを料理として賞味した。宋代には人肉料理のメニューさえある。そのころ食肉用の人間は「両脚羊」と呼ばれていた。

1984年、台湾近郊で炭鉱事故がおこり、ただ一人生き残った炭坑夫は生き残るために人肉を食べた。 そして


「息の切れた人間の肉はおいしくない。やはり生きている人間の肉はうまかった」


と発言して大きなニュースになった。人を食べたからではない。どれが美味しかったという点でだ。それについて台湾大学の教授が人肉と牛肉と豚肉のいずれが、より栄養価が高くうまいかを新聞紙上でコメントした。このことは如実に中国の社会常識として現在でも人肉は食用たりうることを物語っている。
(封神演義  安能 務氏より)


つまり中国にとって人間を食べるという行為は飢餓をしのぐのためではなく、食文化の一つなのだ。

 ● 漢方では人体を薬として使う

こういった文化を持つ中国人にとって人体は賞味すべき料理の材料のみならず薬の材料でもある。胎盤を火であぶって乾燥させ粉末にして元気を出す薬として使う。これを紫河車(しかしゃ)という。また人間の毛髪を黒焼きにして血止めに使う。乱髪霜)と呼ぶ。これらの漢方薬は特殊な薬ではなく、普通 に使われる薬にすぎない。

中国人には目が悪ければ目を、肝臓が悪ければ肝臓を食べる習慣がある。
同じ肝臓なら人間の肝臓がよい。

だから文化大革命の混乱期には多くの人が殺され臓器が食ペられた。臓器の取りだし方まで解説した本もある。肝臓を取り出すためにわざわざ人を解剖する必要はない。肋骨の下にナイフで切り込み入れ、屍の胸を足で蹴ると肝臓が飛び出るという。

こんな中国人の強烈な享楽的、現実的パワーには驚きを禁じえないが、この貪欲な好奇心が漢方薬を発展させる原動力になってきたこともまた間違いない。

 ● 私の経験

私の鍼の先生から聞いた話だ。先生が中国大陸を放浪したときのことだ。「猿の生け作り料理」に出くわした。

丸い木のテーブルの真ん中に穴があいていてそこから猿の頭だけが出ている。頭は動かぬ ように金属の棒でテーブルに固定され、頭蓋骨が眉毛の上から円周に切り取られて薄い膜をかぶった脳みそが露出している。

猿は麻酔でもかかっているかのようにぼんやりと目をあけている。この猿の脳みそをスプーンですくって食ペる。猿は自分の脳みそが食べられるのを見て涙を流すのがまた一興だという。先生は吐き気をもよおして、その場から慌てて立ち去った。


中国人の人肉料理の歴史は紀元前にまで余裕でさかのぼり夏王朝以前から楚では最初の赤子を食すことで病気に強くなると考えてきた。数十年前まで人肉が市場に出てたし、今もたまに出てる(人肉とは書いてない)カニバリズムの総本山だぞ。人の肉が薬になると思ってる。

日本人の常識から考えると異常だけど、中国からみるそこまで異常なことではない。
http://www.asyura.com/2002/war11/msg/982.html

現代中国の人肉食

知る人ぞ知る中国の人肉食。昔の中国には人肉(もちろん死体)を売る店が市場にあり、かの孔子も好んで食べたという記録が残っている。

そして伝統を大切にしているというか何と言うか、現代の中国でも人肉は食べられているのである。下記は中国語記事の翻訳。
http://kaythai.blog60.fc2.com/blog-entry-82.html

食べられるのは、一人っ子政策の罰金を逃れるため生まれてすぐ捨てられた子や、産婦人科から引き取られたえい児。それを仲買業者が買い、主に精力増強スープの具にされる(写真)

中国では一人っ子政策と矛盾しないように、新生児を食べる場合のみについては見逃されている。ただし小学校低学年の子を誘拐して殺した事件はさすがに逮捕された。

中国人とは話せば分かり合えると主張する日本人がいます。EUのように地域統合を主張する人もいます。本当でしょうか?

まずは中国人と一緒に赤ん坊スープを飲んでから言っていただきたい。
http://rondan.tv/2009/04/07/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BA%BA%E8%82%89%E9%A3%9F/


学者芸者 : 2009/4/7 火曜日 at 8:34 PM

食習慣は、民族が置かれた環境で生まれます

塩辛、納豆、梅干、イカ、蛸などは、おいしいのですが外人には食べられないそうです

友人が中国でご馳走になったとき

猫のあんかけ料理と生きたサルの脳ミソだけは、どうしてもだめだったと言ってます

猫のあんかけには頂点に猫の頭が乗っていた、残したら中国人がこんなおいしいものを、と言って全部食べたそうです

サルのほうは、テーブルに穴が開いていて、生きながら頭蓋骨が半分切り取られた脳ミソが剥き出、それをスプーンですくって食べるそうです。サルはキーキー。

お互い、食文化は干渉しないほうがよいと思います


_____

匿名 : 2009/4/10 金曜日 at 10:23 AM

別のソースによれば堕胎した胎児と買われた新生児の両方があるが、新生児の方が食材として圧倒的に人気があり、値段が高いとのこと。

中国では2人目を生むと庶民の年収以上の罰金を科せられるので、金がない家はブローカーに子供を売る。

ブローカーは棒で叩いて新生児をゆっくり殺して、レストランには相対取引で納入する。さすがに市場はないらしい。

なお棒で叩いてゆっくり殺すのは、死ぬ前にアドレナリンが大量に出ると肉が柔らかくなるからだそうだ。長い歴史があるからノウハウが蓄積されている。

「ママ〜、怖いよ〜」赤ちゃんの泣き声が聞こえてきます。

http://rondan.tv/2009/04/07/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BA%BA%E8%82%89%E9%A3%9F/#comment-587


30. 恵也 2012年10月11日 18:06:00 : cdRlA.6W79UEw : Xa6AO1DdkM
>>25 日本人は大陸とは違って基本的に殺しはやらない。

そこまで日本人と大陸人の差はないよ。
アンタの知識不足だ。

織田信長の比叡山焼討ちや天草四郎の乱のように、大虐殺をした歴史もあります。
日本人の血の中には、中国や朝鮮の系統もたくさん入ってるのは常識でしょう。
天皇陛下でさえ50代くらい前の母親は朝鮮系の人です。

ーーーー引用開始ーーーー
私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に
記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。

武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされ
るようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知ら
れております。
http://www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h13.html

>> 前王朝の人間を9割方殺して、北から新しい農耕民を連れてきた。

9割方なんてどうやって調べたのだろうね。
それに新しい農耕民なんて、ド素人の騎馬民族に簡単に農耕なんて出来ないよ。
熟練の農耕民がいてこそ生産能力は上がるもので、ド素人に簡単に出来ることじゃない。

>>27 人口が5000万人から700万人まで激減する

どうやって調べたのかさえわからずに、適当に書いてる感じがする。
キリストの活躍した時期の中国の人口なんて、誰がどんな手段で調べた数字なのか
理解できずタダの又聞きを信用するバカタレ!

>>28 日本人は単一民族であり、勝った側も負けた側も同じ民族であるために

いつから単一民族だったのかね。
今だって北海道にはアイヌの人がおられるし、沖縄も民族的には独特の文化を
持っておられるけど・・・・

民族とは同じ地帯に住んで同じ言語、文化、習慣がある集団で、人種とは違う。
アイヌや沖縄の人は独特な文化があるけど、アンタ民族と人種を混同してるのじゃないの?


31. 2012年10月11日 19:24:19 : HNPlrBDYLM
引用したHPを俺が書いたと思ってる時点でアホだけど、上のHPは大体定説をそのまま書いているから妥当な内容さ。

<アンタ民族と人種を混同してるのじゃないの?

最近は人種という概念は無くなったのさ。


まあ、漢民族が何千もの民族の総称だというのは定説だけどね。

それから、縄文人とアイヌと日本人は遺伝子は非常に近い。

台湾原住民と台湾内省人の遺伝子は非常に近い。

縄文人・アイヌ・日本人と台湾原住民・台湾内省人は完全に別グループ

まあ、沖縄が中国の領土だと言ってるアホ中国人に説明しても理解できないだろうな。

ここのグラフを見ればわかるさ:

台湾原住民と台湾内省人の遺伝子は非常に近い:

Gm遺伝子の頻度
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_08_2Ysennsyokutai_karamita_sosenn..html


アイヌ人・琉球人・本土日本人はGm遺伝子ではどういう違いが認められるのだろうか。

  このグラフはもちろん現代の人々のデータである。従って松本によれば、例えばアイヌの人々のデータは、遺伝学的に60〜70%の純粋さしかないという。しかしそれでも、本土日本人との同化が進んだ現代において、奇跡的なデータといわねばならない。

 また宮古島の人々は一般の沖縄の人との間に言葉が通じない、あるいは民俗的にも違いが見られる人々であるという。上図のデータはそういう風に出来るだけ本来の姿に近づける努力をした結果の数値であると、松本は言う。

まずアイヌ人と琉球諸島人とくに宮古人とは、非常に高い青のag遺伝子と、極端に低い赤のafb1b3遺伝子をもつという明らかな等質性が認められる。アイヌ人と琉球人が二重構造モデルにもあるように、縄文人の直接の子孫の可能性がGm遺伝子からも窺える。しかもそのGm遺伝子の頻度は、きわめて北方的であり、南方系の可能性はほとんどない。

しかし奄美から与那国までの集団は、afb1b3遺伝子の頻度が非常に低い、極めて北方的な遺伝子セットになっている。アイヌ系と言ってもいいのかもしれない。
 そしてひとたび台湾に入ると、afb1b3が76%という高頻度の南方的なGm遺伝子のセットになる。ab3stという北方蒙古系の標識遺伝子も台湾ではほとんど認められない。
 すなわちGm遺伝子で見ると、日本の南西諸島と台湾とでは断崖絶壁というような集団間の違いがある。もし海上の道を南方の集団が島伝いに北上したとするなら、そういう絶壁のような遺伝子の断絶は見られず、なだらかに南方要素が大から小へ、北方要素が小から大へ推移するはずである。

 したがって、 松本秀雄は言っている。
 −−「現在の日本民族の基層となっている原日本民族が南方から琉球諸島、奄美大島を島づたいに遡上し、原日本民族を形成した」ということは、Gm遺伝子の分布に基づいた人類遺伝学的検証の結果では、全く考え難いことである。もし、南方から遡上したとするならば、南方型蒙古系の標識遺伝子・赤のafb1b3は与那國のみならず、琉球、奄美大島においても、もっと高い値を示すはずである。(p.109)
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_08.html


32. 2012年10月11日 19:51:31 : HNPlrBDYLM
”人口が5000万人から700万人まで激減する

どうやって調べたのかさえわからずに、適当に書いてる感じがする。


中国では大昔から税金を取るために戸籍を取ってるというのも知らない知恵遅れが居たんだ(呆れ) だから中国人はみんな知恵遅れだと言われるんだ:


中国で最初に全国的な戸籍が作られたのは、前漢の末期、平帝の元始2年(後2年)で、全国の人口59,594,978人、戸数12,233,062戸、であった。これ以降の中国の総人口については、ともかく戸籍登録人口をもとに論じることができるようになる。


中国の人口増減の基本的サイクル
 これ以降の中国の歴史は、模式的に言うと、以下のようなサイクルを繰り返しであった。


1.建国期 新しい王朝が建国されたときは、人口は少なく、政府は一般に税金を安くして民を休めるという「小さな政府」の政策を進める。その結果、農民を中心とする中国の人口は急激に増え、太平の世の中となる。

2.繁栄期 人口増加の結果、税収が増える。この豊かな財政を背景に、王朝は、大規模な土木工事や領土拡張など積極的な政策を行いはじめる。ただし外見の繁栄とはうらはらに、民の負担が増えるため、生活は悪化する。また農地の開拓は一般に人口増加に追いつかないため、農民一人あたりの可耕地面積は減少し、世代がくだるにつれて生活環境が悪化する。ちなみに、儒教思想が徹底していた中国の伝統社会は、江戸時代の日本と違い、兄弟による均分相続が普通に行われていたため、農地は細分化されやすかった。

3.衰退期 建国後おおむね十世代ほどで一人あたりの食糧供給量が飢餓線のラインに近づき、社会不安が広まり、農民反乱が頻発するようになる。はじめは王朝政府による反乱鎮圧などの政策が奏功するが、いずれそれも無効になる。

4.交代期 王朝政府の支配力が弱まり、地方政権・地方軍閥が半独立状態となる。戦乱が起こり、王朝は滅亡する。人民の大量死亡と出生率の激減の結果、人口崩壊が起こり、人口は減少して適正ラインにまで下がる。そして新しい王朝が勃興し、サイクルの最初にもどる。ちなみに新しい王朝の支配階級は、多くの場合、前王朝末期の農民反乱グループなり軍閥なりの一つであるか、あるいは、前王朝末期の混乱に乗じて中国本土にはいってきた異民族集団である。

 中国の歴史は、おおむね上記のサイクルの繰り返しであった。一つの王朝の寿命は十世代三百年を越えて存続することは難しく、人口崩壊期には極端な人口減少が見られる。

 特にわれわれ現代人の興味を引くのは、王朝交代期の人口崩壊である。これは、日本の歴史には見られなかった現象である。以下、具体例に即して述べる。

具体例1: 前漢末、六千万人近かった戸籍登録人口は、短命に終わった新王朝(西暦8−23年)期の動乱によって激減した。この動乱を収束し、後漢王朝を開いた光武帝(西暦25−57年)は、都を大都市である長安から、より小振りな洛陽にうつし、対外消極政策を取り、内政の充実をはかった。

それでも光武帝の治世末期の中元2年(西暦57年)の戸籍登録人口は、わずか21,007,820人にすぎなかった。六千万から二千万へ、政府の戸籍把握力の低下を考慮に入れても、戦慄すべき減少ぶりである。現代の中国の人口学者たちは、両漢交代期の人口崩壊によってわずか一世代の間に人口が半減したと見積もっている。

具体例2: 後漢末の永寿3年(西暦157年)、戸籍登録人口は前漢末に近い、56,486,856人にまで回復した。しかし、当時の中国の可耕地面積と農業技術では、戸籍登録人口六千万という数字が一つの限界であった。一人あたりの食糧供給量が低下し、社会不安が広まった結果、中国史上屈指の規模の農民反乱である黄巾の乱が起き(西暦184年)、いわゆる「三国志」の英雄豪傑が地方に群雄割拠する動乱期となり、後漢は滅亡した(西暦220年)。

中国は魏・呉・蜀の三国に分裂したが、それぞれの戸籍登録人口は蜀が940,000人(西暦263年)、魏が4,432,881(西暦263年)、呉が2,300,000人(西暦280年)に過ぎなかった。三国合計でも戸籍登録人口は一千万人に届かなかった訳である。ちなみに、この三国を統一した西晋(西暦265−316年)の戸籍登録人口は16,163,863人(西暦280年)であった。

 実人口の減少はこれほどではなかったと推定されるが、西暦3世紀が中国史上、空前絶後の人口崩壊期であったことは確実視されている。現に、中国の人口崩壊に乗じて北方の遊牧民族が南進し、次の4世紀には「五胡十六国」時代(西暦304−439年)がはじまる。中国は、後漢の滅亡(西暦220年)から隋の中国統一(西暦589年)まで、中国史上異例ともいえる長期に渡って分裂・混乱を繰り返し、統一王朝が現れなかった(途中、西晋が一時期中国を統一したかに見えたが、その期間はわずか一世代にすぎない)。その最大の要因は3世紀の人口崩壊の痛手がなかなか回復しなかったためである。

 ちなみに、隋の戸籍登録人口は46,019,956人(西暦609年)、唐の玄宗皇帝の天宝14年の戸籍登録人口は52,919,309人であり、いずれも前漢末の数字に及ばない。中国の戸籍登録人口が前漢末の記録を追い抜くのは、実に北宋(西暦960−1127年)まで待たねばならない。

http://www.geocities.jp/cato1963/jinkou996.html


33. 恵也 2012年10月12日 09:07:31 : cdRlA.6W79UEw : pG6jCqlHcg
>>28 城壁を突破されたら最後、皆殺しになる。

皆殺しになった記録もあるけど、ほとんどは全面降伏でしょう。
抵抗を諦めて無条件降伏することで、殺戮から助かるという戦時慣習法から
降伏した後で、慣習法を破り全員を殺したから記録に残ってしまったもの。

南京虐殺も中国軍が降伏し、武器を捨て収容された後に計画的に殺した
から30万人にも被害者が増えたわけでこの皆殺し戦法というのは、1回しか
使えない禁じ手なんだよ。

ーーーー引用開始ーーーー
一万人を超える人数のため、全員がそろった時は、もう日が暮れかかっていた。
沖合いに中洲があり「あの島に捕虜を収容する」と上官から聞いていたが、突然
「撃て」の命令が下った。

約一時間一斉射撃が続いた。見渡せる範囲の捕虜は必死に逃げ惑うだけで、水
平撃ちの弾を避けようと、死体の上にはい上がり高さ三、四メートルの人柱ができた。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/kurihara.html

>> 殺しを嫌う日本人だから南京の被害は数万人で済んだのさ。

そこはあなたと見解の相違がある。
なぜこんな虐殺が行われたのかをあなたは考えたことがないようだ。

日本人という理由で殺しを嫌うとは限らないし、秋葉原での連続殺人やオームの
地下鉄サリン事件など日本人の中にもたくさん殺してしまう人もいる。
あなたの血の中にもその遺伝子が混ざってるはずなんだけどね。

南京虐殺の最大の原因は、上海を占領した日本軍が食料も持たず300kmも
20万人以上の軍隊に「食料現地調達」を命じたこと。

食料がなければ捕虜を取るわけにも行かないから、敵が降伏しても殺さざるを得ん。
食料の調達で農民から根こそぎ食料をとったら、そのあとの強姦や殺戮もやり放題
そのため日本軍が凶暴化したわけで、松井石根大将には万死の責任がある。

ーーーー引用開始ーーーー
軍経理部長は、「こんな無茶な作戦計画があるものか、こんな計画では到底経理
部長としては補給担当の責任は持てないから、離任して内地へ帰えらして貰う」と
いきりたった程で、参謀長田辺盛武少将の口添えでその場はおさまったが・・・・
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chouhatu.html


34. 中川隆 2012年10月12日 09:25:32 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

おまいは何もわかっていない。

中国は点と線でしか支配できない。

もし占領地で住民を生かしておいたら、そこから更に内地へ進軍した時に前と後ろから両面攻撃され、退路も絶たれて全滅する。

だから中国や西域では占領したらそこの住民を皆殺しにするしかないのさ。

中国やモンゴルでは大昔からそのやり方でやっていた。


35. 恵也 2012年10月12日 11:27:37 : cdRlA.6W79UEw : KzDCmeUaM2
>>31 縄文人・アイヌ・日本人と台湾原住民・台湾内省人は完全に別グループ

「完全に別グループ」なんて集団がいるはずがないだろ。
日本人と台湾原住民の子どもがいたらどうするんだね。
戦乱や貿易で人間はアチコチに移動するもので、混血が進むのは当たり前だろ。

だいたい混血の人間の方が体の抵抗力も強くて、純血種の方が弱いというよ。
その点、日本人は縄文人・アイヌ・朝鮮人・中国人の混血で丈夫なんだよ。

>> 縄文人とアイヌと日本人は遺伝子は非常に近い。

日本人ってどこを基準にしてるの?
東北の人の遺伝子と、鹿児島の人の遺伝子もずいぶん違うようなんだけど・・・
縄文人も発見された遺骨から、同じ縄文時代でも極端に違う縄文人もいるんだがね。

縄文人の遺骨と弥生人の遺骨で極端に違うのは、弥生人の遺骨には戦傷跡が
多く発見されてるが縄文人の遺骨には非常に少ない。
縄文人は平和的民族で、弥生人は戦闘的民族だったといえます。

お米を作る弥生人と狩猟を主とする縄文人の差だろう。
それに縄文人と弥生人の混血も日本ではずいぶん起こってます。

ーーーー引用開始ーーーー
浦和1号は、縄文人のmtDNAの中ではむしろ例外的な存在であることが分かった。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_03_1mt_dna.html

弥生国同士の戦争でどのようなことが起きるかと言えば、難民が起きる。この統合の
過程で西日本各地に難民が発生したであろう。
それを受け入れたのが縄文人の村であったことは想像に難くない。
http://www2.ttcn.ne.jp/~kobuta/bunnka/b26.htm

>> 絶壁のような遺伝子の断絶は見られず、なだらかに南方要素が

これは黒潮のせいでしょう。
この激流で海の波が高く、むかしの小さな丸木舟では渡るのに危険があったため。
難破したりして流れ着くことはあっても、ワザワザ行き来することがすくなかったもの。
これが瀬戸内海みたいに波が大人しいと、交易も盛んになると思うけどね。

>> Gm遺伝子の分布に基づいた人類遺伝学的検証の結果では、全く考え難い

大袈裟だね。
わかるのは、台湾から沖縄への移動が起きたのは古い年代に多かったというだけの話。
76%ということは24%の例外があるのだから、移動が絶えたというものでもないだろう。

この話から類推できるのは朝鮮と、九州との交流が盛んになって台湾、インドネシア
からの交流が少なくなったというだけのこと。
天皇家が朝鮮の百済系と姻戚関係になっていたことからも類推できることでしょう。


36. 2012年10月12日 11:37:51 : HNPlrBDYLM
おまいは考古学も人類学も全然わかってないんだ。

”天皇家が朝鮮の百済系と姻戚関係になっていたことからも類推できることでしょう


朝鮮の百済人は倭人で弥生人と同族なのさ。

”台湾から沖縄への移動が起きたのは古い年代に多かったというだけの話。

島で食べていける人口は限られているから先住民は淘汰されて滅びる。


ポリネシア人の内省人と台湾原住民は琉球人とは遺伝子が全く違う:


沖縄県先島諸島の住民、遺伝的に本島と最も近いことが判明 台湾先住民や東南アジア系とは近縁性なし 2009/10/23(金)


先島住民 遺伝的に本島と近く 琉大と東大大学院研究 台湾先住民と近縁性なし

 先島諸島(宮古島、石垣島)の住民は沖縄本島住民と遺伝的に近く、いわゆる「琉球クラスター(集団)」の一つであることが22日までに、琉球大学医学部と東京大学大学院の共同研究で分かった。

考古学的には沖縄本島と先島諸島は約1000年前まで文化的交流は少なく、先島諸島は台湾先住民を含む東南アジアの海洋民との共通点が多いとされてきた。
しかし、今回の研究で現在の先島住民は遺伝的には沖縄本島に最も近く、台湾先住民との近縁性はないことが明らかになった。(黒島美奈子)


 研究は琉大医学部形態機能医科学講座解剖学第一分野研究室と、東大大学院新領域創成科学研究科が共同で実施。

2007年に3代続けて住む石垣島の高校生63人、宮古島の高校生66人、沖縄本島の専門学校生95人の歯形、血液、唾液(だえき)を採取し分析した。


 結果、母方の遺伝を示すミトコンドリアDNA配列は沖縄本島、宮古島、石垣島が琉球クラスターに属し、台湾先住民とは離れた系統に位置した。

同じく父方の遺伝を示すY染色体データに基づく系統樹でも3島の集団は、台湾先住民とは離れた。

 歯形の分布では沖縄本島の今帰仁、嘉手納の住民と、宮古島、石垣島の住民は、
歯の幅が狭い上に唇と舌の間の歯ぐきが太く、日本や東アジアなど、ほかのどの地域とも異なる位置に存在することも分かった。

 琉球大学医学部の石田肇教授は

「活発な文化的・遺伝的交流があったとされる琉球王朝時代に、琉球クラスターができあがったのではないか」

と推測する。

 日本人の起源に関する研究でアイヌ民族と琉球人はともに東南アジア起源の縄文時代人の直接の子孫であるとされてきたが、石田教授は

「琉球クラスターは昔からある縄文集団に、ある時点でほかからの移入があり、個性的な要素を持った可能性がある」

と分析した。


ソース 沖縄タイムス 10/23
http://logsoku.com/thread/yutori7.2ch.net/news4plus/1256302453/


いずれにしろ台湾人は外省人を除いて漢民族とは全く違う民族だから
尖閣は中国の領土では有り得ない。



37. 2012年10月12日 12:51:44 : HNPlrBDYLM
'日本人と台湾原住民の子どもがいたらどうするんだね。
戦乱や貿易で人間はアチコチに移動するもので、混血が進むのは当たり前だろ。


近代以前には混血は基本的には無い。

ラテン・アメリカは白人とインディオが混血しているが、それは

1.インディオの老人と男は全員殺す。

2.インディオの若くていい女だけ現地妻として生かしておいて家事をさせる。


という過程でできたのさ。


性奴隷が子供を生む以外には混血は起こらない。

縄文人と弥生人は1万年前から交易をしていて交流が有ったから
漢人に追われた弥生人が縄文人を頼って日本に渡って来て混血した。

日本人の地方差は弥生人と縄文人の混血の度合いの違いを表している。


日本人は台湾人とは混血していない。


38. 恵也 2012年10月12日 15:41:26 : cdRlA.6W79UEw : iqGZPPAgRg
>>32 中国では大昔から税金を取るために戸籍を取ってるというのも知らない知恵遅れが

そんな事を知ったか振りしてもね。
平和的に政権が変わるのならともかく、ほとんどの政権交代は武力で交代してるから
戸籍書類が残ると思うのかね。

あなたの出したような数字は、どのくらいの信頼性があるのだろう。
書類が2000年もそのまま残るなんて勘違いしてるのじゃないの?

三国志や聖書なんて、面白いし必要だから書き写して残されるんだぜ。
そんな戸籍書類なんて書き写すような方がいるとは思えないけど・・・・

>> 人口は少なく、政府は一般に税金を安くして民を休めるという「小さな政府」の政策を進める。

進めるのじゃなくて最初は官僚が少ないだけの話。
税金だって、最初は旧政権に行っていた税金が新しく新政権に入るのだから当たり前。
納税者数の把握だって出来てないと考えないと・・・・

>> 人民の大量死亡と出生率の激減の結果、人口崩壊が起こり、

戦乱の世の中では人口は調査できませんので、人口がどれだけ減ったのかは
証明は無理です。又戦乱で人口が激減するとは限りません。

今のイスラエルやエジプトをみると後世には、統一されず戦乱が60年以上続い
てると歴史上記録されると思うけど、人口は激増してるのじゃないかね。

>> 一つの王朝の寿命は十世代三百年を越えて存続することは難しく、

300年は確かだけど30世代くらいじゃないの。
1人で30年も政権を運営はしてないと思うが・・・・

>>  それぞれの戸籍登録人口は蜀が940,000人

1700年前の戸籍って誰が調べたのだろうね。
200年前の書類だって虫食いでロクに調査なんて、できはしないはず。

何度もあった戦乱の中をどうやって戸籍登録簿なんて残るのだろう。
日本も敗戦の時には、役所の庭でドンドン書類を燃やしてます。

>>34 占領地で住民を生かしておいたら、そこから更に内地へ進軍した時に前と後ろから両面攻撃

だからこそ孔子の儒教的精神が、戦乱の中の中国で流行った。
占領地の住民にも占領軍が支持されるような政治思想が儒教なの。
あなたみたいな思想じゃ、中国という巨大国家は占領できません。

旧日本帝国が行った悲劇を繰り返すぞ。

ーーーー引用開始ーーーー
日本軍に殺された住民の数は、恐らく日本軍と闘って死んだ中国軍の兵隊の数
よりも多いのではないだろうかとさえ、私には思われる。

すくなくとも、中国の奥地では、戦場で見る敵兵の死体よりも、農民の数の方が、
私達の眼に多く映るのが、普通だったのだ。

ある時期においては、ときのは、公然と住民を皆殺しにしろという命令が出たこともある。
ジンメツ作戦というのがそれだった。「おい、今度の作戦は、ジンメツだとよ。」 
(田村泰次郎著「裸女のいる隊列」 より)

>> 中国やモンゴルでは大昔からそのやり方でやっていた。

そんな事件もあったということであり、大多数は指導者の思想に共感し指揮下に入って
戦闘に参加したために少数のモンゴル民族が世界を征服するくらいの軍事力を持ったもの。
ジンギスカンには政治思想、人種思想、人材の登用の仕方など信服させるものがあったわけだ。


39. 2012年10月12日 15:59:07 : HNPlrBDYLM
おまい知恵遅れだろ。

漢民族の遺伝子は調べられていて単一民族ではないのがわかってるんだ。

もし農民が4000年前から同じなら、台湾人の様に単一民族の遺伝子になるのさ。


40. 2012年10月12日 16:30:26 : HNPlrBDYLM

要するにこういう事さ:

今、中国語の標準になっている北京方言は満州人の言葉

今漢民族と言っている人間も殆ど満州から500年前に出てきた野蛮人。

明以前に中国に住んでいた人間は流民となって僻地に追いやられた:


周辺の異民族が支那本土で暮らすうちに漢民族に同化したというのは事実ではない。歴史が漢文で記録されたということに過ぎない。彼らの名前も言葉も風俗も文化も失われたわけではない。むしろ漢字を発明した、本来の意味での漢民族は異民族に埋もれ、事実上絶滅したのに近いといえるのである。

漢民族といっても、北京語、上海語、広東語、福建語などの各種の言語がある。これらは一般には漢語の方言とされるが、その際は日本語などの方言と違い、先にあげたヨーロッパ諸民族の言語と同程度の差異があり、他の漢語方言の習得には慣れという程度では間に合わず、語学校に通わなければならないという。あるいはアメリカに居住すればネイティブの漢語ではなく、英語を共通の話し言葉として使用するほうが便利であるという。ヨーロッパの民族構成と言語も歴史の経過により複雑である。同様に複数の言語がある漢民族と呼ばれる集団においても、その民族構成は単純ではあるまい。


支那大陸では各民族は漢民族に同化したのではない。各民族は固有の言語風俗を維持しつつも漢民族を自称するようになったのに過ぎない。この点は各民族の出自を持つ皇帝が異民族を支配統一するのに都合がよかったのかもしれない。いずれにしても歴史が比較的新しい元や清においては満洲族やモンゴル族といった異民族支配の記憶が新しいために、異民族により支配された国家として正しく理解されているのはせめてもの救いである。

 モンゴル人は王朝崩壊とともに原郷に帰ったためにモンゴルなる民族名が残った。しかし清王朝は辛亥革命により倒れても、袁世凱にだまされて北京に残り、故地満洲に帰らなかったために、満州族の名前は中共政府により薄められて、漢民族に同化したなどと吹聴されている。事実は満洲語が北京語として支那全土に強制されることにより、支那大陸全土が満洲化されようとしているのだ。


満洲化した漢人

 日本には、支那大陸には漢民族が定住していて、外来の異民族が支配しても長い間に漢民族に同化されるという定説のごときものがある。例えば、評論家の石平氏は次のように書くP。

 大陸の漢民族は、その長い歴史において、侵入してきた外来民族によって支配されたことが何度もあるが、外来民族の建てた政権が崩壊してしまうと、漢民族自体は何も変わらず、そのまま生き延びてきたという実績がある。
 しかもその際、変わってしまったのはむしろ支配者としての外来民族の方である。たとえば満州から中国本土に入って清王朝を作った満州族の場合、数百年にわたって漢民族を支配しているうちに、彼ら自身はその文化的純粋さと原初性を失って完全に漢民族に同化されてしまった。気が付いたら、独自の文化を持つ満州族というものはもはや存在しなくなっているのである。

 昔から今までずっと漢民族が大陸にいる、という俗説を信じればこの主張は正しいかに聞こえる。だが、論理的に考えれば明らかにおかしい。紀元1世紀前後に漢民族なるものが成立したものとすれば、その時既に、漢民族なるものの、言語、風俗、文化なるものが完全に確立していて、その後全く変化がないのでなければこの説は成立しない。

 つまり二千年前に現代と同じ漢民族の文化、風俗、言語を持っていたという奇妙な主張になるのである。そんなことはあり得ないのは普通の頭脳の持ち主なら分かるはずである。この主張は支那人が尚古の精神、すなわち昔の昔の文物や制度を尊ぶことを言うのと類似の主張である。古代には理想が実現されていたというのである。これは幻想であって現実ではない。これが間違いであることを閲していく。
 康熙帝伝に次のような記述がある。

「朝廷の尊貴の子供達と韃靼人と『韃靼化した漢人』すなわち韃靼人の麾下に即する漢人の中で、・・・」 (P67)「パルナンは満洲人に仕える奉公人を二種類に分けて、次のように述べている。『これらの公子 (宗室の)たちに仕える奉公人を二種類があります。・・・かれらに賜わる満洲人、もしくは満洲人化した漢人であります。』」 (P182別注)

 つまり満洲人化した漢民族が満洲貴族に奴婢として使われているという驚くべきことが書かれている。一般には支那大陸の周辺民族は支那に定住することによって漢民族に同化するということが言われる。ところが黄文雄氏は逆に、「華化」は虚構、漢民族の夷化が真実、として漢人がモンゴル、日本、満洲などの風習に容易になじむ例をあげる。康熙帝伝はそれが事実であることをフランス人ブーヴェの証言で証明している。

 前述のように、北京語のルーツは満洲語である。すると康熙帝伝の証言を適用すれば、現在、北京語を話す中国人とは満洲人ないしは満洲化した漢人ということになる。ハワイにいる日系二世や三世はほとんど日本語を話せない。特に三世などは全くだめである。だが容貌は全くの日本人である。彼らは日系であるというのは人種上の区別だけで、英語を話しメンタリティーもアメリカ人である。完全にアメリカ化している。日系というのは容貌だけのことである。

 同様に満洲人化した漢人とは満洲人に等しい。康熙帝伝でブーヴェが奴婢でも満洲人と満洲化した漢人とを区別しているのは注目される。風俗と言語が満洲化していて外国人にもその区別がつく、という事は恐らく容貌上で区別がつくということしか考えにくい。つまり、同じ東洋人でも日本人とフィリピン人程度の容貌の差異が、当時はまだあったのではなかろうか。現在では同じ満洲語 (北京語)を話すもの同士が混血して区別がつかなくなっているのであろう。つまり北京語を母語として話すひとたちの居住する地域は、満洲人の居住区ということになる。ハワイの日系人と同様に、もとの民族のDNAは関係ないのである。

 常識では支那大陸では異民族が侵入して王朝を建てても、長く定住化しているうちに土着の漢民族に同化して漢民族化していく、ということになっている。しかし康熙帝伝の証言は、逆に土着の民族が外来の民族に同化していったことを証明している。これを敷衍すれば、支那大陸の歴史はこのことの繰り返しであったと考えられる。

 このように考えると、次のような仮説が成立する。中国には広東語、福建語、上海語など全くことなる言語を話す地域の区別が厳として存在する。歴史のかなたに忘却されているが、これらの地域は周辺から侵入した異民族が支那に王朝を作って、定住していった痕跡なのである。広東、福建、上海などの各地域に居住する漢語系の言語を用いる人たちを、通常、チベット、朝鮮、モンゴルなどのいわゆる少数民族と区別して、漢族と総称しているが、実は漢族などという民族は存在せず、それぞれの言語に対応した民族に分かれているのであろうと考える。
http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub2-3.html


41. 2012年10月12日 16:57:42 : HNPlrBDYLM

 漢語族言語とひとくちで言っても、アルタイ語、タイ語、ベトナム語系など多数の周辺民族の言語の系統に分かれているという。もし漢民族なるものがいて、異民族を同化してしまって漢化しているのなら、全て同一の系統の言語に収斂しなければならない。そうではないのだから、もともと漢民族なるものが中原にいたとしても、結局は地域ごとに異民族に同化されたと考えるのが自然である。

 中央で安定しきって武に衰えた民族を倒す。中原を占拠した支配民族はその地の利を生かし、さらに自らの生存を安定させるために周辺地域を併呑して拡大する。すると力が拡大するから領域も拡大して統一王朝なるものに拡大する。その版図は力次第であろう。中央から追放された民族はどこかに逃れて、一地方民族として存続する。

 その分布が現在のような多言語の地域として、例えば広東、福建等として存続している。中国の言語分布はこれほど統一されても混淆することはない。それは異言語すなわち異民族という対応がある程度あるからである。漢民族なるものがあり、異民族を漢化させるのであれば、ひとつの漢語になり、現在のように異なる系統の言語が常に存続するということはあり得ないのである。

中国文化のルーツ

 チャイナドレス、京劇、辮髪などはすべて清朝に起源を有する。京劇の化粧は明らかに明や唐、宋の時代とは異なるどぎつい趣味である。このように中国文化と理解している多くのものはほとんどが満州族のものである。そして現在中国古来の文化なり習慣として理解されているもののうち、本稿でいう本来の漢民族すなわち漢王朝以前に遡るものは少ない。有名な纏足は唐末に始まったといわれている。19世紀の支那人の風俗として有名な辮髪は満州族に強制されたものである。

 唐の始祖安禄山は父がイラン系ソグド人(胡人)、母がトルコ系突厥人(705〜757)であったというH。そして唐王朝は民族国家ではなく、複合民族国家であるという。すなわち纏足は異文化を受け入れたのである。このことから唐は実は元王朝、清王朝がモンゴルや満州族による多民族国家であったように、それこそアラビア系民族による多民族国家であったということになる。

 宦官のルーツではっきりしているのは秦王朝の趙高という者である。趙高は秦王朝の宮廷で権力をふるったとされる。宦官は珍しく漢民族ルーツであった。しかし宦官はそもそも家畜に対する去勢から始まったため、牧畜文化であるという説が強い。従って実は農耕民族であった漢民族のオリジナルではなかったのかも知れない。あるいは秦朝自身も西方から来た遊牧民族であるという説もある。

 火薬や印刷技術の発明についても中国人の発明と簡単に言われるが、むしろ異文化交流のなかから生まれたものと言える。支那大陸をヨーロッパに例えたが、これらの支那大陸から生まれた発明を単純に中国人の発明とするのはおかしいのである。現に火薬は元朝のモンゴルで武器として発明されたのである。モンゴルの軍隊が強かったのは、このオリジナルの発明によるのも一因である。何でも中国人の発明とするのは、一部中国人の自尊心を満たすだけで科学技術や文化史研究の観点からは正確ではないと言わざるを得ない。

 支那大陸がいかに異民族と言われる征服王朝の影響を絶大に受けているかを示す証拠がある。2章で述べたように中共の言語で北京官話を使う地域は、黒龍江、吉林、遼寧、河北、甘粛、寧夏、陝西、河南、湖北、山西、四川東部、貴州東部、雲南、江蘇、安徽、山東の16省にわたる。人口にいたっては「中共人民」の大多数であるとされる。

 北京語のルーツは2章で述べたように満洲語である。だから北京語は旧満州の3省と北京を中心とする北方地域に分布する。複数の異言語からなる「南方諸方言」が北京語とは異なる言語として残ることができたのは、清朝の首都北京からの距離が遠かったためもあろう。

 もうひとつ重要なのは、清朝皇帝とは満洲人に対しては「8部族の部族長会議の議長」であり、モンゴル人に対しては「大ハーン」であり、チベット人に対しては「チベット仏教の最高の保護者」、東トルキスタンには「ジューンガル帝国の支配権を受けついた者」、そしていわゆる漢字を使う「漢人」に対しては明朝皇帝の後継の「皇帝」という多元支配をしていたこととも関連するF。それは英国のヴィクトリア女王がインド皇帝としてインドを支配していたのと類似している。すなわち皇帝の直轄地域と漢字を使う人たちの地域は明瞭に分かれていたのである。だから北京の影響力が少なく、距離の遠さとあいまって南方では独自の言語が残存する要因があったのであろう。

 距離による中央の影響力の低下という事は、フィリピンでも英語の影響が強いのは首都周辺であり、地方に行くと、多数の言語が依然として残されていて、土着言語の主力であるタガログ語で統一することはできないのと同じ事情であろう。フィリピンでは地方になると英語の影響力が少なく土着言語が残りやすかったのは、アメリカの支配が50年と短かったためもあろう。

 それでも満洲語すなわち北京官話の影響は絶大であった。300年の長い支配があったため北京官話は比較的均質であり、4つの方言に分かれているだけだが、南方では6つの異言語が融合せずに残った。もとはいくつかの異言語の言語分布があったにもかかわらず、北京語の影響力で満洲語を基層とする方言という程度の言語差に統一されてしまったのである。方言は50年や100年では定着しないであろう。満洲王朝の影響は300年近くもあったのである。その影響の大きさの証拠が多数の話す「北京語」の均質性である。そのことは南方諸方言の方言とはいえない異言語性と比較すれば明瞭となる。

3.8 被支配民族が支配者の言語風俗を受け入れるのは当然
 清朝で満洲語が話され、地元の支那人に定着して行ったということは、考えてみれば自然なことである。満洲人は支配者とはいえ漢民族に対して圧倒的少数だといわれる。しかし、そのことは、言語の影響を及ぼしたか否かということと何の関係もない。欧米の旧植民地では上流階級と知識層は全て旧宗主国の言語を話せる。

 しかも植民地に滞在する宗主国の人間は圧倒的少数であった。それにもかかわらず宗主国の言語が植民地に普及したのは、ひとえに支配層の言語だったからである。米国は19世紀末にフィリピンを支配したが第二次大戦後独立するまで、わずか50年しかなかったにもかかわらず、英語はフィリピンの公用語のひとつになったのである。300年近く支配した満州族の言語が普及しないと考えるのがおかしい。満州族の少なさと北京への定住を言うなかれ。モンゴルは北京に定住し、少数であったにもかかわらず、モンゴルの言語風俗は「漢民族」化されなかった。

 ただしヨーロッパの植民地において宗主国の言語が残存しているのが、上流階級、知識層であり、首都なり大都会の周辺である。満洲語が北京語として旧満州と北京周辺で話されているのと事情は類似している。皮肉なことに北京政府は、満洲語を全国に普及させようとしているがなかなかそうはいくまい。それならばモンゴル語はどうした、という疑問がわく。モンゴルの支配が終えてから明、清という異言語民族の支配があり、モンゴルは元朝崩壊後祖地に撤退した。モンゴル化した北京の支那人はモンゴル人とともに逃亡したのであろう。ベトナム戦争に負けた南ベトナムの人々の多くがアメリカをはじめとする世界各地に逃避定住したのと似ている。

 しかも清朝でもモンゴル地域は支配され、中共時代にもモンゴル地域の半分は支配されたのであった。中国における異言語のひとつモンゴル語はモンゴル支配の残像として残った。満洲語も北京語として残った。満洲語が中国語の一部とされて、モンゴル語が明瞭に支那の言語と異言語とされるのはなぜか。モンゴル人が故地に帰り帝国を残存させたから、モンゴルという名前が支那の外に残ったから、モンゴル語は支那人の支配下にあってもモンゴル語なりモンゴル文化と指摘できるのである。そうすると満州族と同様に唐などの異民族支配時代の民族の言語風俗はどうなったのであろうか。

 それは必ず残っているのに違いないのである。すると支那大陸における多くの言語、福建語、上海語、広東語などはかつての支配民族の言語であったのではなかろうか。すなわちこれらの言語を話すのは、かつての支配民族すなわち大陸の東西南北周辺にいた異民族が大陸を支配して、その後別の周辺民族に滅ぼされて残った民族の末裔なのであろう。

 漢民族は漢王朝末に戦乱と疫病で民族としてはほぼ絶滅し、その後周辺から乱入したいわゆる蛮族に取って代わられている。すなわち漢民族はこのとき少数民族に転落した。その後は外来民族が支配し、その支配がまた周辺民族に取って代わられるという歴史を繰り返したのである。その結果、次々と各種の言語と風俗が各地に定着したのが現在の支那大陸の民族言語地図である。つまり支那大陸は各種民族の雑居する地域なのである。そして広東語の地域は広東語の地域であるごとく、決して地域が地域外と融合することはない。ヨーロッパの類似で言えば、広東語を話すのは広東族としかいいようがないのである。国民国家が成立するとすれば、広東国としかいいようがないのである。

 それらの国が合体して中華人民共和国という帝国を構成している。毛沢東が江南の出身であったように、支配者は各地から競って次々と現れる。漢民族はいない。正確に言えばわずかに客家として残った。これが一つの仮説である。それではなぜ異民族の言語が残存したのであろうか。欧米の言語が東南アジアに残ったのと同じである。かつての支配者の言語であったことと、優れた文明を持っていたと考えられることである。満洲語が北京語として定着したのは長期間支配されていたということで十分である。満洲語は北京官話として地方に派遣された官吏の共通言語としても使われていたから普及しないはずはない。

 北京語と広東語との相違は英語とドイツ語、フランス語ほどの大きな相違で、方言といえるものではないといわれる。だがヨーロッパ系のどれかの言語を話す者が、英独仏語を外国語として習得する事は、北京語広東語を習得するよりははるかに容易であろう。だからインド人やフィリピンが英語を習得するよりは、広東語を話す者が、北京語を習得する方が容易である。すなわち「漢民族」が満洲語を習得して満人化することは大いにありうるのである。

 満州族の方が文明として優れていたと支那の原住民が考えていた証拠もある。支那服は満洲人の服装である。支那服が衣服として、高度な技術を持って作られているのは明瞭である。京劇も紫禁城の中の文物も満州族のものである。支那人はこれらの文化風俗を中国の文化遺産として誇っている。すなわち優れたものと考えている。これらのものを取り入れた原住民が、満洲語を取り入れるのは当然であり、現在も残存するのは当然であろう。満洲民族が漢民族に同化したのではない。北京語を話す漢民族と自称する人々は満洲民族に同化した人たちである。

 そんなに満洲の支配がいやであったのなら、清朝を転覆したときに漢民族の言語風俗を取り戻せばよかったのではないか。それはできないのである。清朝転覆に奔走した孫文ら上流階級、白話運動を行った魯仁ら知識階級は何百年もの満洲人の支配で言語風俗まで完全に満洲化しており、取り戻すべき漢民族文化など既に持たなかったのである。地方の民衆はともかく、高度な知識を持ち学問に優れたもの、あるいは財力のあるもの、すなわち革命の原動力を担うことのできる者ほど満洲化していたのである。ちなみに辮髪は残らなかった。すなわち良いものと悪いものは選別されていたのである。

 だから彼らの支那訛りの満洲語を北京語とし、満洲服を支那服と偽り、満洲という単語を駆逐忌避するしか、自らのアイデンティティーを満洲文化と区別することはできなかったのである。漢民族という共通した民族は存在せず、異民族が侵入するたびにそれぞれの地域に定住していった、異民族の複合であると規定すれば、中国人なるものの性格は理解できる。チベット、モンゴルなどの少数民族以外、すなわち漢民族と称される人々は概して、個人主義でエゴが強く、他人を信用せず、血族だけを信用するという、ヨーロッパや日本の現代人にあるまじき性格である。すなわち人間不信の世界である。

 大陸の歴史は、常に異民族が侵入して王朝が交替することを繰り返した。元々は多数の民族の集合であり多少の戦乱はあっても、日本では多年の同化混淆の後に安定し一民族として融合する歴史を経過した。支那大陸で繰り返された戦乱は日本の戦国時代の比ではない。社会は安定する前にすぐに壊される、賽の河原の歴史を繰り返している。社会のルール、共通した常識やモラルというものが熟成されることがなかったのである。すなわち社会に埋没して安心して暮らせる社会が決してできることがなかったのである。もし漢民族という共通したアイデンティティーがあるならば、このような不幸な社会になるはずがないのである。

 せめて広東語、福建語といった共通言語を話す社会の中だけで排他的に安定する社会を作ることができたなら、そのようなことはなかったであろう。共通言語を話す民族同士でも戦乱と統一の繰り返しの中で、共通したアイデンティティーを持つことが妨害された。だから他人を信用せず、血族だけに頼るという事が不幸な「漢民族」の唯一のアイデンティティーとなってしまったのである。彼らが安定した社会を構成するには言語風俗を共通する人々だけで個別の国民国家を構成するしかないのであろう。

 しかし長い支那大陸の歴史を閲する限り、分裂したところでそこで安定することがなく、再び統一するといった歴史を繰り返している。すなわちヨーロッパのように国民国家を形成する方向に収斂するということはないように思われる。それならば、唯一あるべき姿は、いわゆる漢民族と自称する人たちの地域と、チベット、内モンゴル、ウイグルなどの非漢民族の地域を分離し、後者がいくつかの独立国となることである。自称「漢民族」の地域は勝手に戦乱と統一を繰り返していればいいと思うのである。

3.9 漢民族滅びる
 杉山徹宗氏は次のように書くI。

 時代は下がるが、特に三国時代 (三世紀)の末期、蒙彊の諸民族やチベット族が大挙して漢民族居住地に侵入し、いわゆる五胡十六国時代(四世紀から五世紀ごろ)を現出させるが、これによって、それまでの漢民族という人種をほぼ絶滅させ、異民族との混血による新たな漢民族を出現させたことは特筆すべきことであった。したがって隋(五八一〜六一九年)から始まる現在の中国人は、新種とも言うべき漢民族なのである。

 これは驚くべき記述である。秦の始皇帝や孔子といった人たちが活躍し、漢字を発明した時代の漢民族は隋成立以前に滅んで、もはやいないというのである。なるほど中国には孔子の何代目と主張する中国人はいる。雪舟の息子が英国に行き、現地で英国人と結婚したとする。そのようにして英国で代々結婚を繰り返して残った人がいて、一方で本国の日本民族が絶滅したとする。すると英国に行った人の末裔が雪舟の子孫だと主張することは勝手だが、民族としての連続性から考えれば何の意味もないのである。紅毛碧眼で日本語を完全に忘れ、風俗文化も継承しないそのような日本人の末裔が、日本人の子孫であると主張することに何の意味もない。孔子の末裔とはこのようなものであろうと想像する。

 「東洋史通論」Kには次のような記述がある。

 五胡とは匈奴、羯、鮮卑、氏、羌の五つの異民族のことで、これらは西晋の衰亡に乗じて華北に侵入し各々国をたてて互いに抗争し約百三十年間に前後十八国(国名は略)の興亡を見た。その中、西燕は存立期間がきわめて短いために、また後魏(北魏)はのち諸国を平定して江北を統一したので、この二国を除き他の国々を五胡十六国と称する。ただし前涼と西涼、北燕は漢族である。

 これは五胡十六国時代の説明である。18国あったうちのわずか3国が漢族であり、残りは漢民族以外の異民族だと言うのだ。その上、これら諸国を異民族の後魏という国が平定して、江北を統一したということなのである。ここにも漢民族の国家が滅びたことが書かれている。通論は杉山氏の著書と異なり定説をのせた教科書的なものである。通論には滅んだ漢民族国家の民はどうしたかと言えば、大量に南下して漢文化の南方への移植を果たしたとある。元来、揚子江流域は開発は進まず、土地は肥沃であったが農耕生産も少なかった、とある。

 農耕生産がすくなければ、当然人口は希薄であったに違いない。そして漢文化が南下したということは、当時の揚子江流域には漢文化はなかった、すなわち漢民族はいなかったということである。地図を見るに揚子江は河口付近が平地であるだけで、すぐ上流と揚子江南部は山地であり黄河周辺とは地形が異なり人口が少なかったと想像される。

 そして別項で述べるように、このころ南下したのは最初の「客家」と呼ばれる人たちである。そして客家は移住先に混じることなく、独自の文化を維持していたというのは定説である。つまり南部に新たに漢民族国家を形成することはなかった。つまり杉山徹宗氏の言う、漢民族も漢民族国家も絶滅したというのは正しいといえよう。漢民族は隋帝国以前に絶滅したということは、歴史を考える上で重大な事実である。漢字と古代中国文明を発明したあの漢民族は単に消えてしまったのか。その答えは次章にある。

 中原にいた本来の漢民族は五胡十六国の時代を経て、彼らの言う夷狄により滅ぼされて言語も文化も異なる北方系の新しい王朝、隋唐の時代となる。正確に言えば秦自体の出自も地理的に言えば、春秋戦国時代にかつての周の西の外れにあったから、夷狄というべき西戎出身といわれる。いずれにしても殷周の時代あるいは秦漢の時代に中原を支配した民族を漢民族とすれば、その後漢民族は絶滅して新しい文化に置き換わった。かろうじて残ったのは漢字だけである。この経緯はギリシアローマが滅びて、彼らの文字の発展形であるアルファベットだけが残って西欧近代世界となった経緯とも類似点がある。現在のイタリア人もギリシア人も古代ギリシアローマの末裔ではない。
 ちなみに古代ローマの末裔を主張しているのは文字通り現在のルーマニア、すなわちローメニアンである。宋の時代とて支那大陸に外から定住した非漢民族が前王朝を倒したに過ぎない。大事な点は、これらの非漢民族は支那で漢民族の言語風習を受け入れて漢化したのではないということである。漢民族は滅びて言語も風俗も絶えたのであるから。これらの民族は自らの言語風俗を維持したのは当然のことである。

 四書五経の読み方は、作成された当時の漢民族の読み方から切韻というアルタイ語系の読み方に変わっている。これは英語の文章を勝手にドイツ語読みしたりフランス語読みするのに等しい暴挙である。風俗風習も同様で、隋唐以後は非漢民族の各種の民族が入れ替わり立ち代り支配するたびに、彼ら自身の風俗風習を維持し定住していった。

 彼らは決して秦漢当時の言語風習を取り入れて漢化するなどということはなかったのである。こうして中国には各種の民族分布が出来上がっていく。モンゴルに支配された支那大陸はモンゴルが故地に帰ると、支那大陸に定住していたどれかの民族が有力となって、支那大陸を支配する。これが明王朝である。これを異民族を漢民族が追放したなどというのは間違いである。モンゴルにとって替わったのが滅びた漢民族でありうるはずがない。それは秦漢の時代に北狄、南蛮、西戎、東夷と呼ばれた民族が漢民族を滅ぼして中原と大陸を支配して定住したなれの果てである。漢民族の復興などというのは、支那大陸を支配するものの正統の象徴であって事実ではない。

 我こそ漢民族の復興をなしたる者なるぞ。我が支配に従えというときのせりふである。だから歴史書は支配民族の出自を漢民族と偽って書かされるというのは既に常識である。あれだけ民族の支配被支配が繰り返された支那大陸で、常に不変の漢民族がいて周囲の異民族が漢化されるというのは、ヨーロッパ史のアナロジーからもあまりに馬鹿げている。第一蛮族に滅ぼされるのは蛮族が、野蛮どころか実は文明文化が優れていたからである。現在の米国は軍事力でもテクノロジーでも、文化でも世界を席巻している。テクノロジーが優れているから軍事力が優れ、テクノロジーが優れているから、それにより新しい文化を生むことができる。ハリウッド映画の特殊撮影はテクノロジーに支えられている。

 王朝を倒したのは、倒した民族が優れたテクノロジーに支えられた軍事力があったからである。現に「漢民族」は征服者たる満洲族の民族衣装を支那服として取り入れてしまい、京劇として喜んでいる。征服者は優れているから征服者であった。2章でフランク王国とフランスの関係が支那史で関連のない王朝とされるふたつの呉王朝にもあるはずだと書いた。このような整理を行っていくと、支那大陸史は実はヨーロッパのような民族の離合集散が行われていることが発見されるはずである。

 このような整理を阻んでいるのは支那史における統一願望である。大帝国とされる唐、元、清にしても統一が保たれているのは建前の期間の半分にも満たない。そう考えれば統一されていた期間は十分の一にも満たないだろう。統一は願望であっても例外であった。そして統一といっても現在の世界各地で見られるような国民国家の統一とは全く異なる。

 元朝を例に取る。フビライハーンの帝国は元朝というから誤解される。フビライはモンゴルの元首である大ハーンである。そして支那の元朝の皇帝であり、チベットではダライ・ラマの庇護者として支配といった具合である。それぞれの領域に対して各々の伝統的支配形態をそのままにした君主として君臨したのである。このときの元朝の領域とは、2章で説明した南方方言の使われる地域と北方では河北、河南、山東、山西、江蘇あたりの各省の領域に限られる。そしてここに住む支那人は他の地域に住んではならないのであった。すなわち異国だからである。

さらに支那人の居住域ですら各地では言語が違う。言語が違うまま保持されるということはこれらの地域内の交流はなかったということである。モンゴルの帝国はこのような程度のものであった。さらに漢にしても隋唐にしても似たようなものであったし、各帝国が興ってから滅びる間の大部分は名目上も統一されていなかった。このように支那大陸の統一とは願望であって実態ではない。また2章のような現在の言語分布を考えると、奇妙なことがわかる。客家語は別かもしれないが、南方方言の地域は6つの互いに通じない異言語地域に分かれている。しかし北方方言の地域では地域内の言語の相違が希薄で、互いに何とか通じる範囲であるというのだ。

 この明白に区分された南北の相違になぜ疑問を持つ人がいないのだろうか。この区分を地図にしたものを見ると実に不自然である。北方は北京官話で統一されているのに、南方は互いに通じない言語地域に細分化されている。これが奇妙でなければ奇妙なことはない。北方の北京官話の地域とは満洲と首都北京の周辺が主である。北京官話とは満洲人の王朝で話されていた言葉である。そして宮廷には多数の満洲化された漢人がいると書いたことを思い出して欲しい。

 ハワイ旅行に行ったときに日系人のみやげもの売り場に若い日系人の若者がいた。普通に英語を話すが日本語は全くの片言。日本語で書かれたパンフレットを見せると漢字が面白いからくれないかといわれた。だが読めないのである。しかし容貌は全くの日本人だから日系人同士で結婚した何世かであろう。白人と混血してはいないから血統は完全な日本人である。しかしこの人は民族としては日本人ではないとしかいいようがない。言語も風俗も完全に米国化したのである。康熙帝伝でいう満洲化した漢人というのはこのような人たちであろう。

 すなわち首都近辺の満洲人の支配力の強い地域では土着の支那人−漢民族ではなく、かつて北方西方から来て定住した、鮮卑トルコ系などの人たち−は競って満洲化した。元の出自が各種あり、地域の隔離があるから必然的に方言が生起する。しかし宮廷の満洲人やそのとりまきと交流するから、言語と文化は一定の範囲に収斂する。互いに通じなければならないからである。このように満洲と満洲王朝の影響力の強い地域では、三百年の間に満洲化する。三百年は長い。彼らは満洲人の支那服を着る。満洲人の北京官話を話す。満洲人の京劇を演じ、鑑賞する。血統から言える満洲人がどれ位いるかは問題ではない。中共建国直後満洲族は2〜3百万人と言われた。

 それが満洲人を名乗ってもバッシングされないと分かると突然満洲人は一千万人を超えた。しかし彼らは言語風俗も漢民族と区別がつかないといわれる。そうではない北方の地域が満洲化したのだ。聞きたい。言語風俗のどこに孔子孟子の時代の漢民族の痕跡があるというのだ。すなわち現在、北京官話を話す人たちは満洲人である。南方の人たちは、はなから漢民族ではない。一部はベトナムなどの東南アジア系であろう。このことは言語にも証拠がある。繰り返して言う。漢民族は二千年近くの昔に滅びていない。四書五経を作った漢民族はいない。

 「世界の言葉」Gは「現在の中国語の南方諸方言の基層に東南アジアや南島語の要素があることを指摘する学者が間々ある。その説に従えば、かつてこのあたりに住んでいた非漢族が後に漢語を習得した結果できあがったのがこれら南方方言ということになる。」と書く。これは筆者の意図とは反してこれら南方方言を話す人たちは漢民族ではないということを言っている。そもそも言語の基層が漢語ではないのに、なぜ漢語を習得したと言えるのだろう。この本の筆者は牢固として中国に入ったら言語は漢語に支配されると信じている。しかしこれらの言語は南方民族が自らの言語を発展させた結果に過ぎない。

 例えば英語である。英語は古ドイツ語から発展したものである。言語の基層はドイツ語である。これはドイツ語と英語を比較することによって、両方の言語の理解に役に立つとされていることからもわかる。しかし英語は徹底的にフランス語の影響も受けている。英単語の60%までもがフランス語ルーツであるといわれている。これほどの影響を受けても文法の基本はドイツ語である。すなわち英語の基層はドイツ語にあるといえる。つまり言語の基層は失われないのである。

 この地域は中原ではない。漢語ははなからないのである。別項で述べたように漢語を話す客家は北方から逃げてきて、土着民とは混淆していないのだ。そして2章で述べたように客家語は広東福建江西の各省にまたがる地域にわずかに存在するに過ぎない。これがオリジナルの南方語を大きく変容する影響があるとは考えられない。南方方言を話す民族は北方と同じく漢民族ではなく、東南アジア系であると断定せざるを得ない。この地域でも漢民族は存在しないのである。

3.10 軍管区と言語と中共の分裂
 週刊誌・サンデー毎日の平成18年10月29日号の北朝鮮の核実験による金正日体制崩壊特集に面白い記事がある。金正日体制が崩壊した場合、中国は緩衝地帯を失いその影響で中国も分裂してしまうだろうというものである。分裂は人民解放軍の7つの軍管区の管轄に分裂するだろうというものである。軍管区は現在軍閥化して半独立国家になっていると言われるから、荒唐無稽なことではない。天安門事件の際も国際社会は各軍管区がどう動くかを注目したが、結局北京政府に従った。もしかすると北京以外の軍管区が離反して中国が分裂するのではないかと疑ったのである。

 ちなみに中国における軍閥とは戦前の日本軍を指して言う軍閥とは意味が異なる。中国の軍閥とは頭目が私兵を雇用して、軍事ばかりではなく農耕など全生活にわたって一体化して共同体もしくは半独立国家化したものである。戦前の支那大陸は実際には多数の軍閥が群雄割拠する社会であった。蒋介石も毛沢東も張作霖も実態は軍閥の頭目であった。

 蒋介石は英米から金をもらい私腹を肥やし、毛沢東はモスクワの指示で動く傀儡であったし、張作霖は日本の支援を受けて利用されていた。軍閥は戦争などで略奪して子分を養う、日本で言えば強盗集団であり、良くて戦国武将である。支那軍閥の様子はパール・バックの「大地」に描かれている。だが軍閥が分裂して独立するためには、言語との関係をチェックしなければならない。軍管区に異言語があまり混在するようでは、独立の条件としては厳しいからである。独立後、国内に複数の対等の勢力を持つ民族が並立するのは困難だからである。

 2章では北京官話の分布を次のように推定した。

@北方官話・・・東北部すなわち旧満洲と北方(黒龍江、吉林、遼寧、河北)

A西北官話・・・黄土台地とその西方地域(甘粛、寧夏、陝西、河南、湖北、山西)

B西南官話・・・四川とその近隣地域(四川東部、貴州東部、雲南)

C東方官話・・・南京とその周辺(江蘇、安徽、山東)

 一方「中国人民解放軍」Lによれば、中共の人民解放軍の軍管区は

@瀋陽軍管区・・・黒竜江省、吉林省、遼寧省

A北京軍管区・・・北京、天津、河北、山西省、内モンゴル

B済南軍管区・・・河南省、山東省

C南京軍管区・・・上海、浙江省、江蘇省、福建省、安徽省、江西省

D広州軍管区・・・湖北省、湖南省、広東省、広西省、海南島

E蘭州軍管区・・・陝西省、甘粛省、寧夏省、青海省、新疆ウイグル

F成都軍管区・・・四川省、雲南省、貴州省、チベット

 軍管区の区分で注目されるのは、となりに本国というべきモンゴルがあり、独立志向の強い内モンゴルが中共政府の直轄というべき北京軍管区に入れられて監視されていること、独立地域というべき広大な新疆ウイグルとチベットが単独の軍管区を構成せずに、他の軍管区に入れられて、これも監視されていることである。

 軍管区と言語の分布との比較でひとつの特徴は、2章で説明した漢語と呼ばれる言語のうち、北京語を除いた、南方中国語諸方言と呼ばれている6種類の言語、呉方言(上海語)、閩方言(福建語)、粤方言(広東語)、客家方言(客家語)、韓(字見つからず、仮字)方言、湘方言は、広州軍管区と南京軍管区に完全に包括されていて、軍管区の方がやや広い

 さらに詳細に見ると、海南島を例外とすれば、広州軍管区は広東語と湘方言の分布地域であり、南京軍管区には福建語、上海語、韓方言が含まれる。この境界は比較的明瞭である。客家語は両軍管区の中央にまたがって分布しているが、2章で述べたように客家語は土地との結びつきがやや薄いことを考えれば、客家語は例外と考えるべきであろう。

 軍管区独立説との関係を見よう。新疆ウイグル、チベット、青海省と四川省西部、雲南州西部などの北京語でも南方中国語諸方言でもない、いわゆる非漢語の地域は、軍管区とは関係なく各々別途独立すべきものと考える。残りの北京語を使う軍管区では、旧満洲の黒竜江省、吉林省、遼寧省の軍管区は他の軍管区と隔離されていること、方言としてもまとまりがあること、旧満州であることを考慮すると、これも分離独立する要素があると考えられる。

 さらに残った北京語を話す軍管区では方言という程度の差なので、長い間に軍閥としての軍管区内の結びつきが強くなっていれば、方言の区分ではなく軍管区での区分で独立する要素があるというのはおかしな話しではない。

 南方方言の2軍管区は軍管区内での言語の差異が大きいと考えられるので、軍閥としての軍管区内のまとまりが、言語の差異を超えることができるかにかかっている。このように考えると、中共の軍管区による独立説は荒唐無稽とは言えない。中共の分裂は歴史のあるべき姿としてのヨーロッパ化である。しかし多くの暴動が現在でも起こっていることを考慮しても、中共が近いうちに分裂するという徴候があるとは私には考えられない。

 中共の分裂は「あるべき姿」と書いたように、私の願望である。ソ連の場合にも私は同じ願望を抱いた。バルト三国などは明らかに第二次大戦のどさくさにまぎれて侵略されたのだし、ウクライナなどは明らかにロシアではない。だからいつか分離独立すべきだと考えた。ただ私が生きている間には到底あるまいと考えた点と、あそこまで多数の共和国が短期間に一気に分離独立した事は予想もできなかった。

 中共の分裂の願望もそう簡単には成立しまい。歴史的に見て支那の元、清といった征服王朝は300年近く支配を続けた。まだ中共の帝国は60年程度の歴史しかない。歴代王朝の転覆は内部崩壊の場合には白蓮教などと呼ばれる民間の秘密結社の反乱であった。しかし当時と比べると武器の発展が著しく、政府軍の持つ武器と民間の武器の格差が著しい。

 戦車や爆撃機の前に民間のライフルは無力である。実は秘密結社ともいわれる法輪功は簡単に弾圧されたではないか。軍管区分裂説の背景にはこのような武器の発展がある。軍管区は戦車どころか核兵器も持つから、軍管区が独立の意志を持つときは中共政府に対抗できる。民間による反体制運動より軍管区独立説の方が現実味はある。それどころか内モンゴルという内敵を抱える北京政府直轄の北京軍管区は、内部に反対勢力を抱える不安定勢力である。ただし現在の各軍管区には分離独立の動機が見当たらないのである。

 しかしいつの日か中共は分裂する。その日を私は見ることはできない。しかし中共の分裂は歴史の予言するところである。しかし分裂が従来の歴史的パターンと異なり、ヨーロッパのような国民国家化として定着すべきであると考える。従来の弾圧と搾取と反乱の繰り返しから脱却し住民が真の幸福を得られる唯一の条件だからである。それはひとえに言語の問題にかかっている。
http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~k-serizawa/sub2-3.html


中国では川筋毎に言葉が異なるから、川の支流の数だけ異なる自称漢民族がいて、みんな自分達は漢民族だと言ってるだけさ。 遺伝子も言葉も文化も全然違うのにね。

本当の漢民族は白人で, 2500年前に滅びてるんだけどねwwwwwwwwww


42. 恵也 2012年10月12日 17:00:40 : cdRlA.6W79UEw : PKDeTsQscY
>>37 インディオの若くていい女だけ現地妻として生かしておいて家事をさせる。

これがアンタの隠された欲望なのかな。
周りに可愛い女の子を集めて、お殿様のような生活をしたいのだろう。
でもそれじゃ税金を納めてくれる人間がいなくて、食料さえ集めれないよ。

あなたみたいな方が現地女性を集めて、アメリカの外交官にビンタをくれて
外交問題になって日本に恥をかかせるのだろうな。
勝ち戦になったらアンタみたいな連中が生まれてくるもの。

ーーーー引用開始ーーーー
日本兵が血相を変えて突進してきて、「バック、バック」と英語で叫ぶと同時に、
門まで私を押し返した。私はゆっくりと下がったが、門から追い出される前に、その
日本兵は私の頬にビンタをくれ、それから向きを変えて同じことをリッグズ氏にやった。

われわれが同行した憲兵は、弱々しい態度ながらもその日本兵を止めようとした。
http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano1210.html

>> 日本人は台湾人とは混血していない。

混血してるよ。
あまり歴史をご存知じゃないようだな。

ーーーー引用開始ーーーー
台中の霧社で発生した高山族(高砂族)の抗日蜂起で、日本政府は台湾の
山地に住む少数民族を平地に移動させたり、過酷な強制労働に駆り立てました。

「慰安婦」にさせられた女性たちは“義務労働”と呼んでいましたが、山から木を
伐採して運ばせる、道路を作る、建物をたてる、鉄道を造るという労働を強制し、
権力の末端の警察官たちは、絶対的な権力をふるって、この人々を、まさに
“蕃人”として暴力的にあつかったのでした。

こうして1930年に霧社を中心に抗日蜂起がおこったのです。台湾総督府は
軍隊を投入してこの抗日蜂起を鎮圧しますが、その霧社事件で彼女の父親は
日本軍に殺されています。その時母親は妊娠2ヶ月でした。この母親も彼女を
生んでまもなく殺されてしまいました。

彼女は16歳の時に、おばさんの家に居候をして、本当に貧しい生活をしてい
ましたが、警察、つまり派出所の巡査がきて、着物を洗濯したり、繕ったりする
仕事があるから働かないかと言ってきました。

彼女は少しでもお金が稼げると思い、働きはじめましたが、3ヶ月くらいたつと
強姦されて「性奴隷」として働かされるという状況に陥ってしまいました。
(先住民族にみる植民地支配の爪痕  より)


43. 2012年10月12日 17:14:11 : HNPlrBDYLM
おまい、日本語が理解できないんだろ?

性奴隷の話は実際にアメリカ大陸でスペイン人がやった事。

俺が混血が無いと言ったのは国家ができる以前の話なのにそれも誤解してる。


もう少し日本語がわかる様になってから来いよ。


44. 恵也 2012年10月12日 19:03:40 : cdRlA.6W79UEw : cmmhfDW8MU
>>39 漢民族の遺伝子は調べられていて単一民族ではないのがわかってるんだ

まともな日本語になってない、バカかお前は!
漢民族とは一民族の名前で、遺伝子は多種多様という意味だろ。
民族とは文化や言語、習慣が同じで同一地域帯に住んでる人たちのこと。

漢民族とは単一人種でないというのなら、まともな日本語だ。
人種であれば遺伝子に大きな差があるし、中国人には鄭和みたいなイスラム教徒
の色目人が歴史に登場したり、ローマ人のいる村が中国にはあるんだよ。

ーーーー引用開始ーーーー
村の言い伝えでは、145人のローマ人が捕虜にされて、長い間その地域を歩き
まわったと言われている。

ダブズ教授の推論は、彼らローマの捕虜が東方に傭兵部隊として進んだという。

そして、17年後に、彼らが漢族によって捕えられ、ローマの戦術が伝わり、「魚鱗の陣」
をする部隊が中国に生まれたというのだ。
http://d.hatena.ne.jp/johnfante/20091223


45. 2012年10月12日 19:17:25 : HNPlrBDYLM

ここまでくると哀れだな。
おまいは日本語がわからないんだ。

>漢民族とは単一人種でないというのなら

日本語で人種という言葉は黒色人種、黄色人種、白色人種

という分類にしか使わない。


民族というのは遺伝子が近い場合に使う

>民族とは文化や言語、習慣が同じで同一地域帯に住んでる人たちのこと。

おまいが使う民族という概念は日本語では文化圏という言葉で表している。


中国と日本では同じ熟語でも意味が全然違うのに気付けよ。


もちろん、こういう専門語は明治時代に日本で作られて、中国の留学生によって中国に伝えられたのだから、日本人の使い方が正しい。


46. 2012年10月13日 00:27:43 : HNPlrBDYLM

中国の民族という言葉の定義はもう既に時代錯誤となったマルクス史観に基づいているんだよ:


中国における民族定義に多大な影響を与えたものとして、スターリンの民族定義がある。

スターリンは、民族を

「言語、地域、経済生活、および文化の共通性の内に現れる心理状態の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体である」

と定義した[iii]。中国もこれを受け、1980年代半ばまでは中国の民族状況をこのスターリン定義に当てはめて説明しようとした。しかし中国でいう「民族」は、スターリン定義に当てはめるには合致しない部分が大きい。回族を例に考えると、回族は文字も言語も地域も経済生活も固有のものを持っていないにも関わらず、中国は回族を公認の1民族として認定している[iv]。

このように中国における民族概念はスターリン定義を念頭に置きながらも、次のような4つの特徴を持っている。

@スターリンの4つの標識を柔軟に考えている。

A4標識のうち特に「共通の民族意識」、「民族感情」を重視する。

B近代の概念である「民族」を、原始部族までも含めて非常に広義に使用している。

C民族の形成における統一国家の役割を特に重視する。

http://semi.miyazaki-mu.ac.jp/stamiya/soturon/14hiraishi/1syou-1setu.htm


遺伝子解析ができなかった時代には肌の色の違いで人種を定義して、さらに細かい分類は言語や文化の違いで説明していた。

しかしそれでは日本人と中国人とエスキモーとポリネシア人はすべて同一人種で言葉と文化が違うだけになってしまう。

遺伝子解析ができる様になってから、それ以前は単に文化的な概念だった民族をDNAの差で説明できる様になったという事さ。 そして人種という分類法が間違いだというのが明らかになった。

中国人は日本より100年遅れてるから、まだスターリンの用語法をそのまま使ってるのさ。


47. 恵也 2012年10月13日 06:57:32 : cdRlA.6W79UEw : 4A6BeyZ1as
>>32 具体例1: 前漢末、六千万人近かった戸籍登録人口は

結局、戸籍登録人口の元データは出せないようだね。
お役所で作る戸籍が2000年近く残ってるなんて信じられないことだが、人口の
推定にはむしろ、三国志みたいな面白い小説などから類推した可能性がある。

日本の江戸時代の人口の類推も、国力の基礎として加賀百万石などの表現
をするが年間1人の人間が生活するには1石のお米を食べていたという。
ここから加賀藩には100万人の人間がいたという類推が出来る。

しかしお米の生産量だけで人口を出すというのは不正確になりやすい。
税金をかけられるとなったら、今の人間だって収入を減らして申告するものであり
豊臣秀吉が全国で田んぼの調査を一斉に行ったことがあるが、それも税金誤魔
化しが多数あったと言う証拠でしょう。

>>41 しかしいつの日か中共は分裂する。

当たり前のこと。
諸行無常でどんなものでも変化していくよ。

>>45 日本語で人種という言葉は黒色人種、黄色人種、白色人種という分類にしか使わない。

お前がその程度の理解力しかないということ。
そんな理解じゃオバマ大統領はどう表現するんだ?

日本語で人種とは肌色、髪、目の色など身体的特徴で分類したもので大きく
分類すると3分類、もしくは5分類になるだけのこと。
詳細に分けたら分ける内容によっても、分析者によっても無数になってしまう。

言葉というものはイメージを伝える非常に不完全な道具。
だから民族という言葉と人種という言葉を混同してアヤフヤに理解しないように。


48. 恵也 2012年10月13日 07:25:12 : cdRlA.6W79UEw : 9JlLu45UGQ
>>45 こういう専門語は明治時代に日本で作られて、

ここにもあなたの知識の低さが出てる。
言葉というものは常に変化して行くもので、一つの時代に全部が作られて変化しない
というものじゃありません。

明治憲法を見てもあなたは理解できないのじゃないかね。
流行り廃りがあり、同じ言葉でも内容までが変わることがある。

右翼という言葉もフランス革命で国王支持派が国会の右側に集まっていたから
国王支持派を右翼と呼ぶようになった。

それが今の日本では国粋主義や自由主義そのモロモロまで全部くるめて2分した。
俺は天皇制支持派なのに、左翼だと誤解する人間まで出てくる。

自由という言葉も仏教用語を翻訳に使ったものだからずいぶん変化したという。
言葉というのは非常に不完全な道具なんだから、セイゼイ単純明快な意味で使いなさい。


49. 恵也 2012年10月13日 08:44:40 : cdRlA.6W79UEw : 6PbteOE7wA
>>45 おまいが使う民族という概念は日本語では文化圏という言葉で表している。

日本語では民族とは人間の集団をいい、文化圏とは土地を区切った地域をいいます。
生きてる人間と地域が違うことくらい理解しろよ。


50. 2012年10月13日 11:25:09 : HNPlrBDYLM
どうでも良いこと事に必死だね。

古代中国の戸籍の史料も知らないのか。

だから中国人は知恵遅れだと言われるんだ。

中国の戸籍制度――古代の戸籍制度――〔「戸籍制度」の基本知識〕(解法者)■□■□■

◆◆◆ 中国の戸籍制度(0) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 6月22日(日)16時00分22秒 ◆◆◆

 「戸籍」が整備されたのは「唐」代である。この制度が日本、韓国に伝えられ後世の「戸籍」制度を生んだ。中国においてもその後の時代の「戸籍制度」は「唐」代のそれを模範としている。日本および朝鮮の「戸籍制度」を考えるときは「唐」代より後の「戸籍制度」を探究することはあまり意味がない。
 中国の「戸籍制度」についての研究は非常に少ない。日本の「戸籍制度」がこれを模倣しているにもかかわらずである。それは「唐」代の「戸籍」が「敦煌文書」および「トルファン文書」で断片的にしか残ってないことになる。むしろ、「唐」代の「戸籍制度」については日本の古代の「戸籍制度」から推定される。「唐」代の「戸籍制度」については
日本で研究した方が早い。さらに、「宋」、「元」、「明」の戸籍も現存してないので、詳細は不明である。

 ここで、「戸籍」についての用語を説明したい。「戸籍」は「戸」ごとの構成員を国家が編製するものであるが、これは「戸主」の「戸」ごとの構成員を申告した「手實」という申告書に基づいて作成された。
「唐」の「天聖戸令」に「人戸をしてその丁口田宅の實を具さしむ」(『続資治通艦長編』巻二五四神宗熙寧七年癸亥条呂恵郷議、『唐令拾遺』240頁)との記録があり、「唐」『唐令拾遺』239頁、『唐令要』巻八五団貌、『冊府元亀』巻四八六邦計部戸籍、などに規定がある。
 「計帳」とは一定の地域の人民の集計表をいう。わが国では『養老戸令』造計帳条に「凡造計帳、毎年六月卅日以前 京国官司、責所部手實」との規定がある。
 「差料簿」とは縣が管内の人民を役務に徴発するための名簿台帳に当る文書で、県の長官が自から作成する建前であった(『大唐六典』巻三十)。わが国にも『養老賦役令差料条』に「凡差料 先富強 後貧弱」、「徭役は富める者から先にし、貧者は後にせよ」という条文がある。これは「唐」の字句とほぼ一致しているから、「唐」の制度を真似た
ものである。
 「戸籍」については「帳籍」、「籍帳」という呼び方もある。これは「戸」ごとの記載かどうかを判定できないものがあるから、慎重を期してそう呼ぶが、それも含めて「戸籍」と呼ぶことにする。
 古代および唐の「戸籍」制度については、末尾の資料に全面的に依存した。

 ※ 『中国古代籍帳研究−概観・録文』池田 温 東京大学東洋文化研究所
   1979年5月10日
   「戸籍」仁井田 陞(『唐宋法律文書の研究』仁井田 陞
   東方文化学院東京研究所 650頁 1937年3月25日)


◆◆◆ 中国の戸籍制度(1) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 6月24日(火)06時54分8秒 ◆◆◆

>古代の戸籍制度(1)<

 中国で「戸籍」がいつ現れたかは明らかではないが、「周」代〔紀元前1046年ころ〜771年〕に「「司徒(後に「司空」)」と呼ばれる戸籍官が庶人六百又五十又九夫を王より賜った」(第3代王「康王」〔紀元前1002年?〜同993年?〕23年の「大孟鼎」)という記録があることから、「戸籍」が存在していたことがわかる。ただ、具体的な「戸籍」が残されてないので、詳しいことはわからない。人民の統治は「殷」代〔紀元前1600年ころ〜1046年ころ〕から始められたとされているので、その時代にも存在したかもしれない。
 「戸籍」制度は春秋時代にも引き継がれ、南辺の「楚」でも「大戸(戸籍調査)が行われた」という記録がある(成公2年〔紀元前589年〕―『春秋左氏伝』成公2年9月条)。
「秦」の献公10年〔紀元前375年〕に「為戸籍相伍」、「戸籍を造り5軒組を整える」との記録がある(『史記』巻六始皇本紀巻末秦記289頁)。『戸籍』という用語が現れたのはこれが最初である。
 具体的な「戸籍」がわかる資料としては紀元前252年が最初で、次のとおりとなっている(雲夢県睡虎地第11号秦墓の棺中から発見された「竹簡」(「封守」−訴訟文書))。

〈1〉見 出
  某里士伍甲 家室 妻 子 臣 妾 衣器 畜産一覧
〈2〉本 文
  甲室 人
   一宇二内 各有戸 内室皆瓦蓋 大木具門 畜産
  妻曰某 亡 不会封
  子大女子某 未有天
  子小男子某 高六尺五寸
  臣某 妾小女子某
  牡犬一

 このように「戸」の家産も記載したのは「戸籍」が賦課を目的として編製されたからである。

 ★ 士伍−平民  甲−姓名
 ★ 周
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
   殷
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7

 ※ 『古代中国』貝塚茂樹・伊藤道治 講談社(講談社学術文庫)
   2000年2月10日 240頁


◆◆◆ 中国の戸籍制度(2) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 6月24日(火)06時51分53秒 ◆◆◆

>古代の戸籍制度(2)<

 人民の年齢区分については、身長が使われた。これについては先の墳墓から発見された官吏および官奴婢の給与規定がある。

類 別    身 長            月 粮
嬰 児                   禾半石
未能作    5尺2寸以下         禾1石
小 臣    5尺2寸以下〜6尺5寸    禾1石半
小 妾    5尺2寸以下〜6尺2寸    禾1石2斗5升
大 臣    6尺5寸以上         禾2石(田者2〜9月 禾2石半)
大 妾    6尺2寸以上         禾1石半

 「秦」代では人民の年齢区分が4種に分けられていたことがわかる。人民の年齢区分については、「漢」代では「大」、「中」、「未使」で、後世の「黄」、「小」、「中」、「丁」の4種に該当する。ただ、「漢」代以降では「身長」ではなく「年齢」で区分されている。
 先のとおり、「戸籍」は賦役のために編製されたため、人民の逃亡は避けられなかった。
 先の墳墓の「竹簡」には、成丁に達した者を隠して申告しなかったり、身体障害者の申告が不実であれば、里典(里正)・里老に耐(労務刑)を科すことができた。また、入老の年にならないのに「老」としたり、「老」に達したのに申請しなかった者は鎧(甲)2個を、里典・里老を申告しない者は鎧(甲)1個を納める罰を、伍人(5軒の隣組)は1軒ごとに盾1個を納め、移住させる罰を科した。
 「秦」の始皇帝の代に「戸籍」は整備されていったとされる。強大な権力を有するためには「賦課」が必要で、それには「戸籍」の整備が必要不可欠だったのであろう。


◆◆◆ 課税単位 投稿者:解法者 投稿日:2008年 6月25日(水)05時46分13秒 ◆◆◆

 「戸籍」は国家による課税、徴兵のために創設されたものであることは先に説明してきたとおりである。

 古代エジプトでは「ナイロ・メ−タ」というものが設けられていた。
 ナイル川は毎年氾濫していた。
 これはナイル川の水かさがどのくらいに達しているかを計るもので、もちろん目盛がついている。
 水かさが多ければ、それだけ氾濫の度合いが大きいことを意味していた。
 氾濫 肥沃な土壌を運んでくれるから、氾濫が大きな年にはそれだけ収穫が多いことを意味していた。
 したがって、「ナイロ・メ−タ」で計った水かさで「課税」が行われていたのである。これは一々収税官が課税対象の畑の収穫の度合いを見回る必要がなく、当時としては極めて合理的な課税方法であったといえる。
 紀元前3000年前からこの方法が使われていた。
 今でも、ナイル川沿岸には当時の、「ナイロ・メ−タ」が残されており、そのうち何ヶ所かを今回見学してきた。紀元前3000年前というから歴史を感じた。
 課税には「戸籍」の整備は欠かせないから、当時から「戸籍」が存在していたことは間違いない。今回の訪問時では聞き漏らしたが、現存しているのではなかろうか。当時の「収税官」の墓も何ヶ所か地下にもぐって見学してきた。「収税官」の地位が高かったことがうかがえた。

 なお、現在のエジプトはナイル川の流域しか農業が発達しておらず、灌漑施設が貧弱なのには驚かされた。したがって、今でも穀物輸入大国となっており、今回の穀物高騰によりパンの価格が上がって暴動が起きている。あれだけの大河が流れているにもかかわらず、農業が不振であるとは思ってもいなかった。これも貴重な体験であった。
 遅まきながら、ナイル川の支流を造るという計画が持ち上がっているが、この資金も外国頼みだという。これで「アラブの盟主」を自任しているから、これもよく理解できなかった。

 中国の古代では生年月日は記録されないこともあり、また徴税回避のため偽装することも多かったと思われるから、中国の身長による課税方法もまた合理的であったのではなかろうか。


◆◆◆ 中国の戸籍制度(3) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 6月26日(木)07時55分21秒 ◆◆◆

>古代の戸籍制度(3)<

 『漢書』地理志(「班固」〔32年〜92年〕編製−「前漢書」ともいう)で「民戸千二百二十三万三千六百十二、口五千九百五十九万四千九百七十八」とある。中国の巨大さと相当精密な「戸籍」が存在したことがわかる。「前漢」は統一国家としての体裁を整えていた。
 「漢」(単に「漢」というときは「前漢」、「後漢」をいう)が精密な「戸籍」を作成したのは「人頭税」を実施していてからであるとされる。
 残念ながら「漢」の「帳籍」は残されていない。ただ、次のような「符(パスポ−ト)」は残されている。永光4年〔紀元前4年−「前漢」時代〕のものである。身体の色まで記載されている。

            妻大女昭武万歳里□□歳?二(42)
 永光四年正月酉    子大男輔年十九歳
            子小男広宗年十二歳     皆黒色
            子小女々年九歳
            輔妻南来年十五歳

 年齢区分は次のとおりである。身長による区分は廃止されている。
6歳以下     未使男・未使女   小男・小女
7歳〜14歳   使男・使女     小男・小女
15歳以上    大男・大女

 そのほか、「秦」代と同じく給与簿も発見されている。
 「後漢」時代には、全住民を県都に集め首実検を行ったという記録がある(『後漢書』巻39江革伝 1302頁)。こうして「戸籍」は毎年9月に作成されていたようであるが。残されていない。この時代も賦課を嫌っての「逃亡」に悩まされていた。「流民の名数無くして届出(占)するを欲する者は人ごとに(爵)1級を賜え」という記録が残されている。


◆◆◆ 中国の戸籍制度(4) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 6月26日(木)07時51分50秒 ◆◆◆

>古代の戸籍制度(4)<

 「漢」が滅び三国六朝時代を迎え、さらに十六国時代となり、北朝時代となっても、「戸籍」は編製され「戸籍」は定着していった。「西魏」時代の「戸籍」(547年)が敦煌から発見されている。ここで注目されるのは、年齢区分が緻密になっていることである(末尾の山本達郎の書籍)。

黄   1歳〜3歳    小   4歳〜9歳    中男  10歳〜17歳
中女  10歳〜結婚   丁男 18歳〜64歳   丁妻  結婚〜64歳
老   65歳以上

 年齢区分が緻密になっていることは、それだけ「戸籍」編製が発達していることを示している。この年齢区分は後の「唐」にも伝えられ、日本、朝鮮での模範となっている。
 長い間の群雄割拠時代を経て、「隋」という統一国家を迎えるが、当然、「戸籍」の編製に力が注がれ、その最盛期の「戸数」−8,907,536、「口数」−46,019,956、という記録が残されている(『随書』巻29 地理志 808頁)。

 ※ 「敦煌発見計帳様文書残簡(上)」山本達郎(『東洋学報』37巻2号
   1頁 1954年9月30日、「同(下)」同3号 同年12月31日 83頁)

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_china.htm


51. 2012年10月13日 23:20:32 : 6kuobrWeYc
>遺伝子解析ができる様になってから、それ以前は単に文化的な概念だった民族をDNA
>の差で説明できる様になったという事さ。 そして人種という分類法が間違いだとい
>うのが明らかになった。

遺伝子解析? あほかね。
「文化的概念」がどうしてDNAの差に変わるんだ。
それは「民族」とは概念の異なるものだろう。


52. 2012年10月13日 23:39:51 : HNPlrBDYLM
文化は言語で殆ど決まってしまう。

言語の系統は遺伝子の系統と大体同じだ。

従って、

文化=言語=遺伝子

民族差=遺伝子の差

になるのさ。

漢民族は川筋毎に言語が違うから、遺伝子も川筋毎に違っている。

中国人は肌の色の差とか容貌だけで人間を分類するから人種がどうこう言ってるだけさ。

人種で分類する方法は既に遺伝学によって否定されている。

漢民族は人種で分類すればすべて同じ人種だが、遺伝子で分類するとアジアの色々な所から来た全然違う遺伝子を持った何千という民族が混血ではなく混交している。

従って漢民族は民族じゃないのさ。

今の北京のあたりにいる自称漢民族は500年前は満州で雑穀栽培していた野蛮人の子孫だ。


53. 2012年10月14日 00:10:08 : HNPlrBDYLM

殷以前ですら中国はこれだけ複雑なのさ:


 2)黄河文明の代表的文化・仰韶文化の始まりが6,800年前と言われるが、当時黄河中流域にいて文明を起こした民族は、非漢系のミャオ・ヤオ族(苗族)であった。 長江中流域にも分布していた苗族は、彭頭山文化や大渓文化、屈家嶺文化を残した。

 3)長江上流域では、オーストロアジア系言語を話す民族が、龍馬古城文化や三星堆文化などを残し、長江下流域では、オーストロ・タイ語(含むタイ・カダイ語)を使う越系民族が、河姆渡文化や良渚文化を残した。

 4)チベット高原から一部の集団が黄河に沿って北東進して、今から3,000年余り前に黄河中流域に定着したのが後の漢民族(および中国語(漢語))の始まりと見られている。中国語の成立には、その地域の先住民であったミャオ・ヤオ(苗)族との間で激しい言語接触起こし、一種のピジン・クレオール化がおこっ
 たと考えられる。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_03_2nihonngo_no_kigenn-kyuusekkijidai.html#ad01


因みに、日本の弥生人は長江下流域にいた越系民族だから、長江下流域は中国から日本に返還して貰わなければいけないな。


54. 恵也 2012年10月14日 14:33:44 : cdRlA.6W79UEw : KoRhvrO8sc
>>52 文化は言語で殆ど決まってしまう。

間違い!
文化にもピンからキリまであり、同一国内でも言語の違うところはたくさんある。
あなたにはタッタ800万人の人口しかいないスイスの母国語は4ヶ国語もあるのに
文化は大して変わらんでしょう。

まあドイツ語が65%というけど2ヶ国語を小学校から習わしてるんだぜ。
小さな島国で1つしか母国語になってないから、日本を拡大解釈したのだろう。

ーーーー引用開始ーーーー
ドイツ語64%、フランス語19%、イタリア語8%、レト・ロマニシュ語が1%です。
そして、上記以外の言語を母国語としている人口がおよそ8%あります。

これら4つの言語の内、少なくとも2つの国語を小学校から習わなければなりません。
しかし、最近の傾向は「英語」の国際語化に伴い、小学校で英語を導入しようと
する動きが活発になっています。
(スイスはこんな国 より)

>> 漢民族は川筋毎に言語が違うから、遺伝子も川筋毎に違っている。

それは方言というの。
日本だって同じ九州で田舎の本物の鹿児島弁で喋られたら、同じ九州の熊本市
で暮らしたことがある俺でさえ、何度も聞き直さないと判らん。

ここでいう遺伝子というのは、簡単に変わり易い遺伝子でその変化から親密度が
判るという程度のもの。

>> 人種で分類する方法は既に遺伝学によって否定されている。

遺伝学を知らないド素人がそんな事を言ってもね、説得力ゼロ。
混血と混交が違うなんで俺にはまったくイメージが出来ん。

>> 因みに、日本の弥生人は長江下流域にいた越系民族だから、

こんな知ったか振りしても、アンタの品格が下がるだけ。
日本のお米が長江下流から伝わったというだけの話だろう。
拡大解釈するだけじゃ話にならん。


55. 2012年10月14日 15:16:32 : HNPlrBDYLM
アホだ


>タッタ800万人の人口しかいないスイスの母国語は4ヶ国語もあるのに

国家と民族の違いも理解できてないのか(呆れ)

スイスは3つの国の境界をひとつの国家にしたからそうなっただけ。
民族はあくまで三つだ。


>それは方言というの。

言語年代学も知らないんだ(呆れ)

言語学には言語間の距離を測る尺度があるのさ。
それによると中国で方言と言ってるものはヨーロッパで言うと英語とイタリア語位の差が有る。

>本のお米が長江下流から伝わったというだけの話だろう。

弥生人の遺骨の遺伝子が長江下流域のその当時の遺骨の遺伝子と一致したというのは日本では小学生でも知ってる事実さ。


知恵遅れの中国人には判断が不可能な事がよくわかった。
自称漢民族のおまいの先祖は500年前はシベリアで獣を追って放浪していた原始人なのさ。


56. 2012年10月14日 17:21:50 : HNPlrBDYLM

中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説があり、「魏略」逸文や「梁書」東夷伝には、倭人は「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)と記されています。

太伯(たいはく)は、中国周王朝(BC1046-BC256)の古公亶父(ここうたんぼ)の長男ですが、権力闘争に嫌気が差し、中国の南方に移り住み呉を建国した人です。

やはり、邪馬台国や大和朝廷をつくったのは、中国南部から海を渡ってきた、稲作と漁業をなりわいとする海人族だと思われます。

そして由緒ある官幣大社である鹿児島神宮には、太伯が祭神として祀られています。

社格 : 官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社


邪馬台国と卑弥呼-25  苗(みゃお)族 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1272.html

邪馬台国と卑弥呼-26  蛇信仰 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1273.html

邪馬台国と卑弥呼-27  苗族の天岩戸伝説
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1274.html


長江文明の担い手である苗族の祖は蚩尤とされていますが、漢民族の原型である華夏民族の君主・黄帝が蚩尤の民族の討伐作戦を行い、敗れた蚩尤族の一派、九黎族は敗走し、三苗族と分派しながら四散、長江文明の華南へと逃げ込みます。  そして黄帝は三苗族を追撃する余波で長江文明まで滅ぼしてしまいました。

三苗族の末裔ミャオ族は長江文明の遺臣(Y-O2a系)と協力して呉・越・楚を興し華北漢族と対抗します。 

苗家美
http://www.youtube.com/watch?v=_hLaJFjqjPQ&feature=related

汤灿家乡美 Tang Can : My Beautiful Hometown
http://www.youtube.com/watch?v=pQ3bSfr48u4&feature=related

美丽苗乡 Beautiful Miao Villages / 汤灿 Tang Can
http://www.youtube.com/watch?v=fSZGSaQphtI&feature=related

苗族歌舞(蛇舞)
http://www.youtube.com/watch?v=M6HledNO3aY


DNA鑑定の結果、現代の苗族は、中国華北漢族がほとんど保有しない、長江文明人Y-O2a系(11%)とチベット系Y-D1(7%)を保有しており、黄河文明人(Y-O3系)に滅ぼされた華北先住チベット系民族(Y-D1)が神話の蚩尤族かもしれないという説があります。

また、東アジアでYAP+というY遺伝子を持っているのは、チベット人と日本人だけで、中国・韓国にはおりません。  

これは、YAP+をもたない漢民族が中国・朝鮮を支配し、対抗勢力の男子を虐殺し、YAP+のY遺伝子が残らなかったと思われます。  

YAP+はアフリカや中近東に多く見られ、チベットの山奥の逃れた人々が、中国南部を経由し、日本にやってきた、そして中国南部の長江文明の人々は漢民族に滅ぼされ、極東の島国の日本ではガラパゴスの如く、様々な民族のルツボになったという事でしょう。
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1275.html


57. 2012年10月15日 10:44:11 : HNPlrBDYLM

句呉(こうご、くご)は、中国の周の時代に、太伯(泰伯とも)が、弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国である。紀元前12世紀から紀元前585年まで続いた。後に、太伯の弟の子孫である寿夢が国名を呉と改名する。国姓は姫(き)。


太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。姓は姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。

太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。

『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。

日本との関連

髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。

例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。

九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。

鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。

『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2


58. 2012年10月15日 10:57:25 : HNPlrBDYLM

弥生人は呉越人との混血によって形成された
 

弥生時代は紀元前300年から始まる。(一説には500年早まるという説もある)日本人の起源や現在に至る氏族を追いかけていくと朝鮮半島に始まるが、その前の稲作伝来まで数百年の隔たりがある事を忘れてはならない。

朝鮮半島の紀元前の歴史は殆どなく、中国がようやく半島の鉄資源を求めて鉄職人を送り込んできた時期である。稲作もその頃に半島南部に広がっており、日本列島まで渡来して先進文化を伝える状況になかった。

朝鮮半島からの渡来人は早くて2世紀まで遅れる。その間、九州、中国地方を中心に弥生の文化や技術を創ってきたのは間違いなく大陸の渡来人である。先行して大陸から渡来人が稲作、漁労、養蚕を伝え、拡げていったのが呉人である安曇族であるという説がある。安曇族はその後の奴国を作り、57年に大陸から金印を授かっている。


「海から見た日本列島」リンクにある以下の記事はそのくだりが書かれており、かなり信憑性が高いので紹介しておきたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【安曇族を解く鍵「金印」】

 博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。

中国大陸を制覇した後漢から奴国王が金印を授かったことは破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのかまたなぜ奴国王は遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだしまた 突然の訪問で金印を授かることは考えられないからそれ以前に奴国は中国大陸と交流があったはずである。

その交流にしても奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。
 


【安曇族はBC5世紀に呉から渡来。】

『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。またAD57年に洛陽へ行った奴国の使者は呉の祖といわれている太伯の後裔と述べたと記述されている。 
一方、中国大陸では春秋時代(BC770〜403年)に呉は越と30年ほど戦ってBC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦ってすぐれた航海術をもっていた呉人が日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した習俗、呉の後裔、呉人の亡命の3点から奴国の使者は呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。

北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は仇敵越への復讐を誓い志賀島を根拠地に中国大陸に出かけて越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。

 ところがBC334年には仇敵の越も楚に亡ぼされる。元々呉と越は同族で呉越同舟という言葉は両国は戦争をつづけているが何か呉と越に共通する敵が現れたら力を一つにしてその敵に向かうという意味である。このように呉越は兄弟のようなものだから越が亡びて困っていると呉の後裔の安曇族は得意の航海術を使って越人が日本列島へ亡命することを手助けした。

 またBC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると万里の長城を築いたり阿房宮をつくったりでそのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族はこれらに耐えかねて祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。


【亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋】

 亡命者たちは水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに水田稲作と養蚕に適した地へ漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。
 
その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで日本列島内においては水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。
 
こうなると倭国においては一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても光武帝から金印を授かることは円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説は成立するのではないか。

【安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった】

●水田稲作について〜稲のDNAを調べた佐藤洋一郎によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。


●養蚕について〜布目順郎は確定的とは言えないがと前置きして浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきたといっている。水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水、風通しがよいなど条件が重なっている。


●言葉について〜森博達は日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが呉音には濁音があるが朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。


これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには東シナ海を渡らねばならないからそこに安曇族が関与したことは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は日本列島内の交易と中国大陸との交易に結びつくし、安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上のように呉人である安曇族が航海技術に長けた海人としての特徴を生かして、中国から人、物、技術を運んできたと考える事は、その後の日本の海洋国家としての歴史を見ても頷けます。

また、弥生時代の最大の集落である吉野ヶ里遺跡に養蚕が盛んに行われており、中国とも交易をしていたという史実とも整合します。

一方、安曇族が越人を運んだと言われる北陸地方から関東にかけても同質の弥生文化は広がっていったと思われます。

朝鮮半島から来る渡来人第2波の前に既に相当程度、中国の先進文明を受け入れていた可能性があるのです。古墳時代を経て大陸の隋の時代に至るまで、日本列島が半島からの戦火を免れている背景には、弥生時代に構築した中国との関係は見逃せないのではないでしょうか。

戦争に明け暮れた朝鮮半島と戦争史がほとんどなかった日本、その対比を見ていく上で中国からの視点が必要になってくると思います。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202671
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202674


59. 恵也 2012年10月15日 15:29:34 : cdRlA.6W79UEw : utjAJXF1Zs
>>55 国家と民族の違いも理解できてないのか(呆れ)

文化と言語の話だろ。
「文化は言語で殆ど決まってしまう」というからそれは違うと言ってるの。
スイスという同じような文化の国で、4ヶ国語も母国語にしてるのが判らんのかね。

>> 民族はあくまで三つだ。

民族とは人間の集団をさす言葉で、同じ地帯に住み習俗や言語、文化が同じ
ような人の集団をさすけど、絶対条件じゃありません。
むしろスイス民族の完成までの途中経過が、今のスイスだ。

レト・ロマニシュ語が1%あり、母国語になってるということは昔のスイス人にはこの
言葉を使う方が多かったのだろう。民族なんて常に変化してるんだよ。

>> YAP+というY遺伝子を持っているのは、チベット人と日本人だけで、中国・韓国にはおりません。  

何人の遺伝子調査でそんな事を断言できるの?
遺伝子に多いとか少ないとかいう事は証明できるが、不在証明なんて不可能。


60. 2012年10月15日 16:30:06 : HNPlrBDYLM
<スイスという同じような文化の国で、4ヶ国語も母国語にしてるのが判らんのかね。

スイス文化圏は存在しない。

スイスには三つの文化圏があって、スイスの国民はそのどれかに属しているだけ。


中国もスイスと同じだ。

ただスイスと違って国を構成する民族・言語が何千とあるだけ。


61. 恵也 2012年10月15日 19:28:13 : cdRlA.6W79UEw : VFnAr40RK6
>>55 中国で方言と言ってるものはヨーロッパで言うと英語とイタリア語位の差が有る。

中国に行ったことも中国語を話せない奴がよく言えるね。
俺にはそんなことは断言できないよ。

今じゃネット環境も整ってきたし、テレビなどで標準語の北京の言葉でほとんど
標準語が通じるのじゃないの。
世界が狭くなったのだから、時間とともに標準語がドンドン多くなると思うけどね。


62. 2012年10月15日 19:59:08 : HNPlrBDYLM

標準語の北京方言というのが満州人が使っていた擬似中国語なのも知らないのか。

63. 2012年10月15日 21:14:58 : HNPlrBDYLM

要はこういう事だ:


中国四千年の歴史という馬鹿げた妄想


中国といえば、四千年の歴史という言葉がすぐに修飾語として浮かんでくるほど、いまどきの日本人は洗脳されているといえます。

しかし、中国は、四千年どころか、かなりその歴史は疑わしいものと断じざるを得ない、というのが今日のお話です。

平成12(2000)年のことです。

東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。

調査の対象となったのは、

1、約2500年前の春秋時代の人骨
2 約2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨
3 現代の臨シ住民

です。

これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨シ人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。

どういうことかというと、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近い。

約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近い。

現代の臨シ住民の遺伝子は、現代「東アジア人」の遺伝子と変わらない。

つまり、2500年前の支那大陸で、春秋戦国時代を築いていた集団は、現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団であった、すなわり、いまの支那人たちとは、まるで異なる集団であったということです。

言いかえれば、2500年前から2000年前の500年間に、支那では大きな遺伝的変化が生じた、つまり、支那大陸では、大規模な人類の移動があったということです。

そもそも中国語と英語を含むヨーロッパ系言語では、文法や語順のなどが、非常に似通っています。

たまたま文字が漢字であるため、見た目のイメージはまるで異なる言語にみえるけれど、語族として考えたら、日本語と中国語よりもはるかに支那語は、ヨーロッパ系言語に近い。

しかも、ひとくちに中国語といっても、支那は広大な大陸です。
さまざまな方言があり、外国語並みにたがいに言葉が通じない。
文法や語順、あるいは基本的名詞に至るまで、まったく違うものもあり、もはやその言語は、互いに別な言語というほうが、はるかに正しいです。

たとえば、我々が中国語口座を受けると、「声調」は「四声」と教わるけれど、これは北京語の話であり、広東語は九声、福建語は八声もある。
上海語と客家(ハッカ)語は六から七声です。

また、北京語には濁音がないけれど、南方語には、濁音が存在する(日本語の影響?)。

フランス語と、英語は、語順等は似ているけれど、母音の数がまるで異なります。当然、異なる言語とされている。国籍も別です。
支那にある諸方言を考えたら、これらをひとまとめに、同一言語であるとみる方が、むしろ異常です。

中国語の方言
画像

中国四千年の歴史なる言葉は、そもそもが、三皇五帝(さんこうごてい)なる支那の神話伝説時代の帝王からきている言葉です。

三皇は神、五帝は聖人で、それらは支那の伝説の時代である「夏」の時代(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)よりも古い時代の皇帝だというのだけれど、これも大載礼記、史記、戦国策、易経、礼記、淮南子、世経、三統経、資治通鑑外記などで、誰が皇帝であり、誰が帝王だったのかすら、全部言い分が異なっています。

炎帝(姜王)などは、礼記と准南子に登場するけれど、体が人間で、顔は牛だったというから、そもそも人類であったかどうかすら疑わしい。
要するに、これらは単なる神話とされ、いまでは、その実在は誰も認めていません。

三皇五帝のあとにくる「夏王朝」にしても、いまからちょうど四千年あたり前から470年続いき、その後「殷」に滅ぼされたとされているけれど、これも、その実在性がかなり疑わしいとされている。

結局支那で考古学的にはっきりとその存在が証明されているのは、「殷王朝」で、これは、紀元前17世紀頃から紀元前1046年の王朝です。遺跡もある。

そして遺跡があるおかげで、この時代の殷王朝を形成した人々が、いまの漢民族とは、まるで異なる遺伝子を持った別な民族であったということが立証されてしまっています。

時代が下って、西暦220年頃の三国志に登場する関羽とか張飛とかのを見ると、関羽は、髭(ひげ)の長い巨漢、張飛は、ずんぐりむっくりの巨漢です。

遺伝的特徴からしたら、髭(ひげ)の薄い漢民族の特徴というよりも、関羽あたりは北欧系のノルウェーの海賊(バルカン民族)の特徴をよく備えているし、張飛の遺伝的特徴も、漢民族的特徴はまったくなくて、どうみても、北欧系のドワーフです。

関羽や張飛の姿は北欧系のコーカソイド
の遺伝的特徴そのものである
画像

そしてこの時代の人骨からは、先に述べたとおり、明らかにヨーロッパ系の遺伝子を持った遺伝子・・・漢民族とは異なる遺伝子を持った人骨・・・が発見されています。


さらに時代をさかのぼると、支那の文明の始祖として、20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)遺跡が発掘されました。仰韶遺跡は、紀元前5000年から同3000年まで続いた文化です。

遺跡からは、彩文土器、竪穴住居、磨製石斧などが出土し、彼らが粟などの栽培や、豚や犬の飼育、鹿などの狩猟を行っていて、竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用していたことは、明らかになっています。

しかし、そこで発見された彩陶土器は、西アジア、中央アジアから伝来したものです。
つまり、どうやら工具的にも、ここの文化を構築した人たちは、東洋系の人種ではなく、コーカソイド系の人たちだったようです。漢民族的特徴を示す物は、残念ながら発見されていません。

コーカソイド系の人々
画像

これに対し、黄河文明よりも、もっと古い遺跡として発見されたのが、長江文明です。
これは紀元前6000年〜紀元前5000年ごろのもので、河姆渡(かぼと)遺跡などからは、大量の稲モミなどの稲作の痕跡と、高床式住宅、玉器や漆器が発見されています。
栽培されていた稲は、ジャポニカ種です。

どういうわけかジャポニカ米の原産地は、長江中流域などとされ、日本の稲作の起源が、支那の長江流域などと「決め付け」られているけれど、ジャポニカ種の米の栽培(稲作)に関しては、日本の岡山県の彦崎遺跡と朝寝鼻遺跡が縄文前期(紀元前6000年前)のものなどがあり、もしかすると成立年代的に、日本で始まった水田灌漑技術と、稲が、支那にわたって長江文明を形成した可能性も否定できません。

要するに、いまから約8000年前に、日本には稲作文化があり、7000年前には、支那の長江流域に、日本と同じ稲作を営む集団がいたということです。
そして、長江文明を営んでいた人骨は、明らかにモンゴロイド系の特徴を持っています。


そのモンゴロイド系の遺伝子を持つ長江文明を形成した人々は、その後西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイド系の人々によって滅ぼされてしまいます。

で、できたのが黄河文明です。

おそらくは、狩猟民族と農耕民族の違い、すなわち武器文化と非武器文化の違いで、武力に勝るコーカドイドが勝利した。

ただ、流れてきた人々よりも、農耕によって食を賄い、古くから住んでいた人々の方が、人口的には多かったであろうことが想像され、人口に勝るモンゴロイドが、軍事的政治的文化的には敗者となったけれど、結果として遺伝子的には黄河文明の人々をしのいだ。
それで漢民族が「黄色」になったとみることができます。

おもしろいのは、男から男に引き継がれるY遺伝子は、ほぼ完全に黄色人種の特徴を示すのに対し、女性から女性にだけ引き継がれるミトコンドリアの遺伝子には、コーカソイド系の特徴をそのまま残している、ということです。

つまり、戦い好きなコーカソイド系の男たちは、軍事的に結局は死に絶え、その遺伝子は女性から女性にのみ引き継がれた(ミトコンドリア遺伝子)という姿が見えてきます。
http://nezu621.blog7.fc2.com/?mode=m&no=815


64. 2012年10月15日 21:24:27 : HNPlrBDYLM

「中国人」とは誰か


1.緒言 歴史とは何か

 歴史とは単なる事実の羅列ではないし、またそれは不可能な作業である。歴史はある目的を持った物語である。問題はその目的が何であるかにある。「統治の指針」「人生の指針」という目的もあれば、地位や権力の正当性の証明のためであることも多い。昔の日本人が日本史ではなく中国史を学んだのは、政治や人の生き方に資するものを求めてであったと思う。今、国際問題になっている「歴史認識」は、自国の政治的立場や対外的行動の正当性、名誉や尊厳の由来、領土主張の正当性等々を目的にした論争である。特に民族のアイデンティティーをその歴史に求めることは殆どの国に共通である。この時、特に様々な「歴史的事実の恣意的選択や歪曲」がなされることが多いと思われる。今まで「日本人」とは何者かについて、従前の歴史学や考古学の恣意的な歴史上の事実の取捨選択と解釈について論じてきた。そこで、今回は「中国人」とは何者であるのかを論じてみたい。

2.中国語

 以前にも書いたが、漢民族が西方から渡来したとする説がある。体型、埋葬法、文法、発語法、古代文字の比較、考古学的発掘調査などによる、漢族の西来説である。

 中国語と英語の文法が、その語順の類似など、少なくとも日本語と中国語より遙かに似通っていると感じる人は多いと思う。もちろんこの二つの言葉は互いに異なる「語族」に属す別系統の言語とされているのであるが、アンダーソン(1874〜1960)は、漢民族は人種的にもメソポタミアの古代民族に起源すると説いた。

外国語と同じくらい違う中国語の方言

 しかし、一口に中国語と言っても、広大な中国にはさまざまな方言があって、何と外国語並みにたがいに話が通じないという。方言というより別の言語といってもよいと言われている。大別して北方語と南方語に分けられるがそれぞれにさらに細かな方言があり、文法まで異なるらしい。さらに、中国語の「声調」といえば四声とばかり思っていたら、何と、北京語は四声でいいのだが、広東語は九声、福建語は八声もあるといい、上海語及び客家(ハッカ)語は六から七声である。北京語には濁音がないのに南方の諸方言には存在するのだそうである。これで本当に同一言語と言えるのであろうか。さらに「民族」という概念のいい加減さをはっきりと見る気がする。

3.黄河文明と長江文明

 20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)文化が発見された。以来、黄河流域で多くの遺跡が見つかった。中国の文明の発祥は黄河流域であり、しだいに長江流域などの周辺地域に広がっていったと見られていた。

 黄河文明は、黄河の中・下流域の黄土地帯に、前5000年〜前4000年頃おこった。1921年、スウェーデンの地質学者・考古学者のアンダーソンは河南省の仰韶村で彩文土器を発掘した。翌年の発掘によって竪穴住居跡が発見され、また多くの磨製石斧・彩陶などの土器が出土した。この最初に発見された遺跡にちなんでこの農耕文化を仰韶文化と呼んでいる。

 仰韶文化を担った人々は粟・黍の栽培、豚・犬の飼育、鹿などの狩猟を行った。竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用した。彩陶は西アジア、中央アジアから伝来したものであると言うオリエント伝来説がアンダーソン以来唱えられている。

 1930・31年に山東省の城子崖遺跡が発掘され、黒陶文化の存在が明らかになった。この文化は、代表的な遺跡の竜山にちなんで竜山文化とも呼ばれる。黒陶は黒色の薄手の土器でロクロも使用され、鬲(れき)・鼎(てい)などの三足土器が特徴的だという。竜山文化期(前2000〜前1500頃)になると農具・農業技術はさらに進歩し、その結果、仰韶文化期よりもはるかに大きな集落(邑)が形成されるようになった。仰韶文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、都市国家を形成した殷・周の青銅器文化に発展していったとされている。

 一方、長江文明は、紀元前14000年ごろから紀元前1000年ごろ中国長江流域で起こったと考えられている。1973年・1978年の発掘調査で浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡が発見された。河姆渡遺跡は紀元前6000年〜紀元前5000年ごろのものと推定されている。大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見され、その住居は高床式であった。河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されている。

 河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものといわれている。稲作が中心の長江文明は、畑作中心の黄河文明とは全く別の発展を遂げた。また、稲(ジャポニカ種)の原産が長江中流域とほぼ確定され、日本の稲作の起源と見られている。

 中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。これは、黄河流域の人々により征服された結果と考えられている。後述する、黄帝による三苗の征服などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いが背景にあると考えられ、三苗はミャオ族の祖と言われる。

4.史書の伝える中華民族の始祖伝説

炎帝
 唐の司馬貞による補『史記』三皇本紀によると、姜水のほとりに生まれたことから姓は姜、火徳の王であったので炎帝と称したという。人身牛首の姿であった。
 神農氏は、百草を嘗めて毒か薬か、食べた時に体が冷えるか熱をもつか、またどんな香りや味をつけるのに適するかなどを調べ上げた。そのため医薬の祖とされる。また、鋤を使って農耕することを人間に教えたことから神農と呼ばれる。史記は、神農氏の子孫として州・甫・甘・許・戯・露・斉・紀・怡・向・呂という、姜姓の各諸侯の名をあげている。斉侯・許侯は春秋時代まで有力な諸侯として生き残っていた。


黄帝
 土徳を有するため黄帝と呼ばれる。『史記』によると、姓は公孫、軒轅の丘で生まれたので軒轅とも呼ばれる。史記は、春秋時代の中国の範囲を統治した開国の帝王として描いている。

 三皇五帝のうちの五帝の第一。礼楽婚姻・文字など多くを民に伝えた。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。黄帝から中国五千年の歴史が始まる。五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫である。漢民族はすべてこの黄帝の子孫であるとされる。

 黄帝は中国医学の始祖とされ、漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けられた。 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も、黄帝の著作とされている。

『入門 中国の歴史―中国中学校歴史教科書』小島晋治他訳、明石書店(2001)収載の図を一部改変

5.伝説の中華民族の敵 蚩尤(しゆう)

 蚩尤は、四目六臂で人の身体に牛の蹄を持つといわれる。砂や石を喰い、同じ姿をした兄弟が81人いたという。また、優れた武器を発明したという。

 黄帝と琢鹿の野に戦った。濃霧を起こして黄帝を迷わしたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、遂に蚩尤を捕殺した。この時、蚩尤に味方したのは九黎族(苗族の祖先)と夸父族だった。戦いが終わると九黎族は逃れて三苗族となった。黄帝は三苗を皆殺しにしようとしたが、この南方の民を根絶やしにできず、その後、苗族は歴代の王を悩ます手強い敵となった。蚩尤は中国の苗族の英雄神であり戦神である。

史記卷一:五帝本紀第一の註釈より

正義龍魚河圖云:「黄帝攝政、有蚩尤兄弟八十一人、並獸身人語、銅頭鐵額、食沙石子、造立兵仗刀戟大弩、威振天下、誅殺無道、不慈仁。萬民欲令黄帝行天子事、黄帝以仁義不能禁止蚩尤、乃仰天而歎。天遣玄女下授黄帝兵信神符、制伏蚩尤、帝因使之主兵、以制八方。蚩尤沒後、天下復擾亂、黄帝遂畫蚩尤形像以威天下、天下咸謂蚩尤、不死、八方萬邦皆為弭服。」山海經云:「黄帝令應龍攻蚩尤。蚩尤請風伯、雨師以從、大風雨。黄帝乃下天女曰『魃』、以止雨。雨止、遂殺蚩尤。」孔安國曰「九黎君號蚩尤」是也。

6.臨シLinziの住民の遺伝学的研究

 2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝 WANG Liらは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表した。それによると、三つの時代の臨シ人類集団が異なる遺伝的構成を持つことが明らかになった。約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。

 この研究により、2500年前にユーラシア大陸の東端に現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が存在していたことが明らかになった。また、2500年前から2000年前の500年間に臨シ集団に大きな遺伝的変化が生じたことから、過去に人類集団の大規模な移動があったことを示唆している。

7.結論

 現在の中国語には、互いに外国語であるかのような種々の方言が存在し、北方方言と南方方言に二大別される。この南方方言の分布域が、黄河文明と対峙する長江文明の栄えた領域と大まかに重なり合っている。しかも、伝説上の南方の支配者蚩尤の統治領域ともほぼ重なる。そして歴史時代における中国文化は黄河文明を源流とするものであり、史書もまたはっきりとそのように記している。

一方、ミトコンドリアDNAの研究が示しているのはユーラシア西部に起源を持つ人々が黄河文明の南端付近にいたがその後現代のような「黄色人種」である漢民族に徐々に置き換わっていったという事実である。これらの諸事実を統一的に説明する仮説は以下のようになろう。


「長江流域にモンゴロイドが稲作を基礎とする文明を築いていた。一方、西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイドが黄河流域に定住した。武力に勝る北方黄河文明の支配者は、人口においては優勢な長江文明の人々と戦い勝利した。人口に勝るモンゴロイドは政治的軍事的文化的には敗者であったが、遺伝子的には黄河文明の人々をしのいで現代漢民族は『黄色』になった。」


 さらに追加するならば、戦士である長江文明の男たちの多くは殺されたが、残った女たちのミトコンドリア遺伝子が引き継がれていったことも大いに寄与したと思われる。また、中国の南方では長江文明を担った人々の言語の影響を未だに受けているのである。
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-61.htm


65. 2012年10月15日 21:44:41 : HNPlrBDYLM

DNA鑑定の結果、現代の苗族は、中国華北漢族がほとんど保有しない、長江文明人Y-O2a系(11%)とチベット系Y-D1(7%)を保有しており、黄河文明人(Y-O3系)に滅ぼされた華北先住チベット系民族(Y-D1)が神話の蚩尤族かもしれないという説があります。


また、東アジアでYAP+というY遺伝子を持っているのは、チベット人と日本人だけで、中国・韓国にはおりません。  

これは、YAP+をもたない漢民族が中国・朝鮮を支配し、対抗勢力の男子を虐殺し、YAP+のY遺伝子が残らなかったと思われます。  

YAP+はアフリカや中近東に多く見られ、チベットの山奥の逃れた人々が、中国南部を経由し、日本にやってきた、そして中国南部の長江文明の人々は漢民族に滅ぼされ、極東の島国の日本ではガラパゴスの如く、様々な民族のルツボになったという事でしょう。
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1275.html

日本人特有遺伝子、YAP+遺伝子について
mtDNAは女性からだけ(女性にも男性にも)伝わる遺伝子だが、
男性から男性に伝えられる遺伝子にY遺伝子がある。

日本人に特有なのがYAP+と言う遺伝子である。

Y染色体のYAP多型は東アジアでは日本人にしか見られず、
昔から日本にいた人たち特有のものと考えられている。
日本人で数パーセント見いだされ、それもアイヌ人、沖縄人で頻度が高い。

この遺伝子はアジアではチベットと日本にしかないと言われている。

日本列島と強く関係のあるはずの半島や、中国東北部に殆どないし、白人にもない。

インドネシアや中国の少数民族について詳しく調べればもっと有るかも知れないが未調査である。

南北アメリカ大陸で調査したデータもあるので一応述べておくと、そちらにもYAP+遺伝子は沢山ある。

私はインドネシアで発生してアジアやアメリカに広がった後、
アジアではYAP-に駆逐されチベットと日本にだけ残ったのではないかと考える。

YAP+はどうやら生殖能力がYAP-より劣るようだし、人口の過密な所では生き残れなかったのかもしれない。

日本でもYAP+が沢山ある地域は離島や山の中である。
沖縄やアイヌにも多くあり、アイヌでは88%に達すると言う。

台湾の少数部族でも山岳に住んでいる人々にある。

人種交流の多かった地域に少ない遺伝子である事が特徴。

http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/D/dna-04.html

現代日本人の一部と七〇〇〇年前に生きていた北米インディアンが、
遺伝的に共通基盤をもっていたことがDNAレベルで証明されたことになる。
日本人は、中国人や韓国人などと同じアジア系である。

アメリカ大陸の人間の住んだ可能性は早くても1万〜1万4千年前までにしか遡れない。

1万〜1万2千年前だとするとベーリング海峡を徒歩で渡る事はありえない。

またアメリカインディアンは、氷河期にアジアからベーリング海峡を渡って
アメリカ大陸に移住した、アジアに起源する集団の子孫である。
と言う宝来氏の考えは当たっていないだろう。

ただインデアンの習俗を見ると狩りを主体にした生活であり、
縄文人のように漁がメインではない。この事を考えると
北米の先住民は氷河期が終わって温暖化している最中で
まだベーリング海峡が完全に海水に沈む前の一時期、即ち、
一万四千年前から一万二千年前の間にシベリアで生活していた
アジア人が歩いて渡った可能性も否定はできない。


ビルマやタイの北方系HB抗原保持率が高いが、
古代チベットには羌族という遊牧民族(騎馬系)が住んでいて、
それが中国からの圧力を受けて南下したと言われている事と関係があると思われる。

羌族は匈奴と関係があるのだろう。匈奴から分かれた一派かもしれない。

北方系のHB抗原を持っていて、それが南下した結果、
ビルマやタイ、マレーシアへ移動したと考えるのが自然だろう。

日本の西日本で北方型HB抗原の保持率が高く、東北に行くと南方型が高くなる。

日本列島でも東南アジアと同じように北方系HB抗原を持った騎馬民族が、
九州からやってきて次第に東北へ侵食していった様子が見て取れる。

弥生人に追われた縄文人という通説にほぼ合致する結果である。

日本の男性は1万年以上前から日本列島に住んでいた縄文人、
縄文時代後期に大陸や朝鮮半島から移住してきた
弥生人にルーツを持っているのである。

太平洋を隔てたアンデスの先住民が、
日本のアイヌや沖縄の人々と非常に近いことを示したのである。
つまり、1万2千年前に日本列島に移動し、縄文の文化を築いた集団がいた。
それから1万年後、別の集団が再び日本列島に渡ってきて弥生文化を築いたのである
http://www.geocities.jp/taru638/page059.html
http://trinityin.blog.fc2.com/blog-entry-879.html


66. 2012年10月15日 22:00:49 : HNPlrBDYLM

Y-DNAの意義

  人間の設計図は核の中の46本の染色体にすべて書き込まれています。その中で性別を決めるのがXとYの性染色体です。受精時にXXなら女性、XYなら男性になるのが基本設計図なのですが、「基本」と言うとおりそれだけで男女別の分化が完成するわけではなく、受精から誕生後の幼児期〜思春期まで3回程の段階を経て男女分化が完成します。どこかの段階で分化が上手くゆかないと性不一致の問題が生じます。
  そのY染色体には膨大な遺伝情報(DNA)があり以前は技術が伴わず解析は無理だったため、より簡単だったmtDNAの解析が先に進みましたが、技術・手法の急激な進化で解析が急速に進みmtDNA解析に取って代わり民族の起源を調べる最有力な方法になりました。
  このY-DNA(男系遺伝子)情報を調べることでmtDNA(女系遺伝子)では分からなかった民族の移動がはっきりしてきつつあります。勿論日本人の起源もかなり調べられてきています。

  人類の移動には大きく2種類あるそうです。人類が集団で男も女も一緒に動いた場合、たとえば70000万年頃前の砂漠化したサハラ以北のアフリカ大陸から絶滅寸前だった現代人の祖先が出アフリカを決行した時を始めとして、その後まだ人類に種族や国家などの排他意識が完全に生まれる前の移動やモンゴロイドがアリューシャン列島を渡り、南アメリカの最南端まで到達したのは、この男女セットの集団移動によります。この場合は男系のY-DNA遺伝子も女系のmtDNA遺伝子もセットで動きました。また近い時代ではトルコ系のタタール人のように民族ごとクリミヤ半島に強制移住させられた集団もいます。

  一方、人類に種族や国家などの排他意識が完全に生まれたあとは、侵略・侵攻・征服など戦争による場合はほとんど男によってなされるため、侵略した男系のY-DNA遺伝子が一方的に動き、侵略された土地の女系遺伝子と交配し新たな遺伝子セットが出来上がります。ひどい場合はその土地の男系は根絶やしになり、男系遺伝子が完全に入れ変わる場合もあったようです。中南米の現代の地元集団・インディオの成り立ちは侵略者のスペイン系やポルトガル系などヨーロッパのY-DNAと先住民の女性遺伝子との混血でラテン系の新たな集団に生まれ変わっているそうです。本当の先住民(ネイティヴアメリカン)は結局アマゾンの奥地などにひっそりと隠れ住み、ベーリング海峡を渡った偉大な冒険者の面影はあまり残してはいません。

  という訳で、Y-DNAを追いかけると、民族の変遷、征服・侵略・侵攻など現代に繋がる近代国家の成り立ちが見えてくるそうです。残念ながらmtDNA遺伝子研究では民族性にかんして重要な寄与はできないと欧米の研究者は考えているようです。このため当ブログも情報量の多いY-DNAをメインに進めます。

  では日本はどうだったのでしょうか?意外に紀元前の古い年代のほうが推測できて、紀元後1000年間ぐらいがどうもはっきりしないのです。これまでの先達の研究で納得できる部分もありますが、まだわからない部分がかなりあります。この1000年間に日本民族性が形造られたようです。ガラパゴス的日本人の民族性が確立したのは江戸時代のような気がしますが、基層は日本人の持つ遺伝子の多様性に起因しているのではないかと思えるところまでわかってきました。
http://galapagojp.exblog.jp/i31


極東遺伝子度調査 Y-DNA「O」 rev.2


  ヨーロッパ遺伝子度調査で折角Globalで報告された論文がかなり入手できたので、おまけに極東遺伝子であるY-DNA「O」の頻度も再調査しました。

  長江文明の楚系と思われるY-DNA「O1a」、
         越系と思われるY-DNA「O2a」、
         呉系と思われるY-DNA「O2b」、「O2b1」及び
  黄河系の「O3」の頻度も併せてまとめました。ただし
   黄河系直系のY-DNA「O3a1」と
   黄河系と長江系の交配で分化した「O3a2」はデータが不十分なので見送りました。

  日本はGlobalで発表された12論文から試算した頻度と、県別のデータがあった5論文から県別の人口比率を頻度試算に盛り込んだ人口比率補正した頻度を合わせてリスト化しました。

  Y-DNA「R1b」と世界の覇権を争っているのが黄河系漢系遺伝子Y-DNA「O3」です。
http://galapagojp.exblog.jp/i31/


67. 2012年10月15日 22:11:07 : HNPlrBDYLM

Y-DNA「O」はどんな人種だったのか?

黄河文明系遺跡から発掘される人骨はモンゴロイド的ではなくむしろコーカソイド的形質を持っている骨が以外に多いということはそれほど知られてはいません。つまり今言われている人種が確立したのは「意外に新しい」ということです。

このブログで時折書いてきましたが

スタンフォード大学の調査で灼熱かしたサハラで2000人ほどに絶滅危惧種になるほど激減したらしいホモサピエンスの一部は原人や旧人などの古い人類と同様に出アフリカし、中東あたりで先住民の旧人・ネアンデルタール人と亜種間交配し1-4%の遺伝子を交配の明かしとしてもらいました。異種間交配は自然界ではめったにありませんが、人工交配ではライオンとトラの混血種ライガーなど生殖機能が損なわれており子孫が出来ないことが確認されています。さて亜種間交配ではどうでしょうか?

調査の結果

●Y-DNA「BT」は出アフリカせずかろうじて残った森林地帯に逆戻りした残留部隊のピグミー系「B」とネアンデルタール人の洗礼を受けた「CT」に分化しました。

●「CT」が我々の直接のご先祖で、交配をしなかったのが「A」コイサン族や「B」ピグミー族の先祖なのです。
そして更なる交配の結果「CT」は更に「DE」と「CF」に分化しました。この頃の現代人類はまだみなアウストラロピテクスの子孫らしく140-150cmぐらいの小柄なネグリートでしたが一部大柄なネアンデルタール人の影響をうけた大柄な個人も出現し始めたようです。

●Y-DNA「DE」は更に中東付近で「D」「E」に分化し、Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸で「C」と「F」に分化したらしいのです。「DE」はYAPという遺伝子特性を持った集団なのですが、どんな形質に現れるのか詳細はまだわかってはいないのです。まだ論文で確認をしていないのですが、アフリカンにも蒙古班があるらしいのです。黒いためわかりにくいのですがあるらしいと日本の情報に書いてありました。となるとYAPの表現形質の一つが蒙古班かも知れません。

●Y-DNA「D」はジャガイモ顔で色の黒い遺伝子集団です。「D」100%のOnge族やJarawa族が現在世界で最も黒い集団といわれている通りです。また典型的な小柄なネグリートです。 残念ながらネアンデルタール人との亜種間交配の結果Y-DNA「D2」に無精子症や乏精子症が起こるようです。徳島大学の故中堀教授の研究で明らかになりました。日本人で男性側に多い不妊症の原因はこの縄文男系の子孫の無〜乏精子症が殆どです。残念ながら遺伝子の問題なので無精子症の場合は対策の立てようはありません。

  Y-DNA「D」は幸い亜種間交配であったため、平均するとなんとか精子を形成する能力は低いけれどあるのですが、他の遺伝子の1/3〜1/4程度の精子数の乏精子症のようです。つまり人口増殖率が低い遺伝子なのです。昔の日本列島は圧倒的にY-DNA「D2」の土地柄だったのですが、明治維新後特に第二次大戦後のベビーブームなど急激な人口増加時に人口増殖能力が非常に高い渡来系「O3」が人口を一気に伸ばし現在の日本人の男性の頻度の19%を占めるまで増加しました。もともと「O3」より頻度が高かった弥生系のY-DNA「O2b1」「O2b」も29%を占めるまで増加しました。結局乏精子症で人口増殖能力の低いY-DNA「D2」は41%まで頻度を落としてしまいましたが、今でも日本人最大のY-DNAであることには変わりはありませんが、いずれ抜かれるでしょう。


●Y-DNA「E」は「D」と分化した後アフリカ大地に戻りアフリカ残留組の「A」や「B」と密接に交配し、現代アフリカンは全て3遺伝子の交配民族になっています。

●一方「CF」はネアンデルタール人との交配でやや眉間のでた奥目の彫の深い顔立ちに変化したようです。肌の色も色白で赤毛だったらしいネアンデルタール人の影響で黒から濃褐色に薄まっていたようです。また大柄な個人もいたかもしれませんが基本的にネグリート体質は維持していたようです。Y-DNA「CF」は欧米の研究者が言うように恐らく「D」と行動を共にしインド洋沿岸をひたすら東遷し途中のインドで「C」と「F」に分離したようです。

●そして「C」は「D」と一緒に更に東遷し50000年以上前にスンダランドに到着しました。恐らくここで「D」は「D1」「D2」に「C」は更に[C1」〜「C5」の亜型に分化したようです。「C」は50000年前頃にはすでに当時まだ繋がっていたサフールランド(ニューギニア−オーストラリア大陸)の到着していたようです。現在、Y-DNA「C2」がニューギニアに「C4」がオーストラリアに現存しています。サフールランドとスンダランド間は海で隔てられていたため「C」は既に渡海技術を持っていたようです。インド用沿岸の東遷も舟を使ったかも知れませんね。

  「D」はアンダマン諸島部以外のスンダランド周辺とサフールランド地域から見つかっていないため、スンダランドから北上をしたものと思われます。その時に「C1」と「C3」が「D」と一緒にスンダランドと陸続きだった東シナ海−黄海ランドに入ったようです。

●一方Y-DNA「F」は人類史上最も劇的に変化をしました。現代世界をリードする遺伝子を全て輩出したのです。現代世界の覇権を争っているY-DNA「R1b」「R1a」とY-DNA「O3」が分化してきたのです。

では各論に入ります。

●日本人男性の41%を占めるY-DNA「D2」は古代シーラカンス遺伝子です。しかもネグリートでした。他には世界でアンダマン諸島のY-DNA「D*」100%のOnge族、Jarawa族、Y-DNA「D1」23%の羌族や「D1」「D3」計38%のチベット(系)諸族だけなのです。勿論チベット高原、四川盆地の周囲にこぼれた「D」遺伝子は低い頻度で散見できますがイ族以外民族を形成してはいません。

●東ユーラシア大陸でもっとも古い遺伝子は大多数のY-DNA「D」でしょう。そして出アフリカ以来行動を共にしていたパートンバーとされる少数のY-DNA「C」です。そしてこの恐らく数万年前にスンダランドから北上し東シナ海−黄海ランドから内陸入りしたY-DNA「D」は中国古代神話では「羌族」として描かれています。しかしこの東ユーラシア大陸でもっとも古い民族であろうY-DNA「D1」の「羌族」やチベット高原に逃げ込んだ「チベット系諸族」も黄河文明「O3」や周囲の他の民族との交配が極めて進んでおり純粋な「D」はありません。それでも現在チベット中心部に住むチベット族の一部は「D1」49%、「O3」10%で「O3」との交配度が低く、しかも小柄なネグリートを維持しているようなのです。

  赤道付近に居住するアンダマン諸島民以外のY-DNA「D」遺伝子集団は既に高緯度地適応を受けメラニン色素色はすっかり薄くなっています。しかしもともと真っ黒であったため陽に焼けやすく黒くなっても剥けやすく皮膚へのダメージは殆どないのです。シミは出来やすいのですが。

  では縄文系の主役Y-DNA「D」系遺伝子集団はモンゴロイドでしょうか?「D」はもともとジャガイモ顔のネグリートでしたがネグリートは人種とは考えられてはいません。蒙古班があればよいならアフリカンもモンゴロイドです。ということは蒙古班はモンゴロイドの条件ではありませんね。
従って日本人の「D2」はモンゴロイドではありませんでした。では今は?あえて言えば肌色が薄く二重瞼なので古モンゴロイドに分類されるかも知れません。

●次に同じく縄文系の少数派Y-DNA「C」はどうなったのでしょうか?
  日本人の4%も占めるY-DNA「C1」は?現在でも赤道付近に居住する西ニューギニアの「C2」もオーストラリアの「C4」も見事にオーストラロイドです、ということは当然「C1」もオーストラロイドでした。特徴は濃褐色で眉間が出て、奥二重目で縮れ毛でいかつい彫深顔です。現在の日本人にも250万人もおり、交配程度によって特徴の強弱はありますが、歌手や俳優にもかなりいます。いわゆるソース顔の原型です。沖縄で発見されたオーストラロイドと解明された港川人は当然「C1」でしょう。「D」ほどではないのですがやはり陽焼けに強いタイプです。

  では日本人の「C1」はモンゴロイドでしょうか? いえオーストラロイドでした。では今は?あえて言えば奥二重瞼なので古モンゴロイドに分類されるかも知れません。

  日本人の約3%を占める縄文系少数派Y-DNA「C3a」はどう変化したのでしょうか?Y-DNA「C3」のみがY-DNA「D2」の一部と一緒に北上しシベリア大地まで進み「D2」の一部がサハリンから南下し北海道に住み着き原アイヌ民族になったのに対し、「C3」はまだナウマン象など大型食用獣が豊富にいたシベリアに定住し寒冷地適応をうけオーストラロイド系のソース顔から眉間などの凹凸が減り鼻筋がすっきりした端正な顔の「C3a」になり、14000年前頃に寒冷化した出シベリアを敢行しベーリング陸橋を渡り北米大陸でネイティブアメリカン(旧アメリカインディアン)「C3b」になりました。しかしアメリカインディアンはY-DNA「Q3」とも密接に交配しているため「C3b」の典型例はありませんが「Q3」もシベリアで寒冷地適応しているのでいずれにせよ端正な顔立ちになっているはずです。

  そして一部の「C3a」は寒冷化したシベリア大地から南下した大型獣を追って韓半島から日本列島に入り「C3a」として残りました。日本人俳優に多い面長顔で鼻筋が通った端正な顔立ちは典型的な「C3a」でしょう。

  では日本人の「C3a」はモンゴロイドでしょうか? シベリア大地で寒冷地適応しているということは新モンゴロイドの可能性大です。

●では日本人の計1.3%を占めるY-DNA「NO*」と「N1c」は?やはりシベリア台地で寒冷地適応を受けている典型的な一重瞼のフラットフェースでなので新モンゴロイドでしょう。そして日本人の計0.2%になる「P*」と「Q1」もシベリア台地で寒冷地適応を受けている典型的な一重瞼のフラットフェースなので新モンゴロイドでしょう。

●最後に日本人男性の48%を占めるY-DNA「O」はどうでしょうか?どんな人種だったのでしょうか?
  Y-DNA「O」は欧米遺伝子のY-DNA「R」と同様Y-DNA「K」から分化した遺伝子なので「R」同様コーカソイド的な形質を元々持っていたとしてもおかしくはないのです。29%を占める長江文明系弥生集団のY-DNA「O1」と「O2」は典型的な面長の二重瞼の顔です。同じ面長の「C3a」との違いは、鼻筋が通った「C3a」に対し低めの小ぶりの(団子)鼻であることです。また寒冷地適応を受けていないためやや凹凸が残っています。いわゆる東南アジアに多い古モンゴロイドといわれる遺伝子集団の一員です。つまり色が黒や濃褐色でなく、寒冷地適応しオーストラロイドのようないかつい顔でなくなったのが新モンゴロイドで、していないのが古モンゴロイドなのです。

  遺伝子的に表現すると典型的なモンゴロイドといわれるのはフラットフェースの肌の色の黄色っぽい集団でモンゴル族やツングース集団に多いY-DNA「C3c」と漢民族の主Y-DNA「O3」のことでしょう。いわゆる典型的な一重瞼のフラットフェースです。

  では日本人の19%を占め、漢民族の50%、韓民族の40%を占めるY-DNA「O3」は寒冷地適応してフラットフェースになったのでしょうか?
  「O」は「NO」から分化し「N」と別れましたが、「N」が古住シベリア系であるように「O」の中の「O3」も「N」と共にシベリアでやや寒冷地適応し黄河流域に南下したあと、黄砂適応も受けているらしいのです。最近日本でも被害をこうむる黄砂ですが、数万年黄河流域で黄砂を浴び続けると黄砂が体に付きにくい凹凸のない顔つきになったらしいのです。シベリア大地の寒冷化と同じ程度の過酷な環境を黄砂は人体に与えてきたらしいのです。恐るべき黄砂です。

  では「O1」「O2」「O3」の分化する前の「O」もしくは「O」と「N」に分化する前の「NO」はどんなだったのでしょうか?その前の「K」は?

  西欧遺伝子の「R」の親遺伝子の「P」は「O」の親遺伝子「NO」の兄弟遺伝子です。「R」の亜型の「R1a」はインドアーリアン人とスラブ民族の遺伝子で小柄な遺伝子です。西欧系遺伝子の中で大柄なのはクロマニヨン人の子孫のノルマン人「I」です。現代北欧人は女性でも平均身長が180cmあるそうです。大柄なネアンデルタール人の遺伝子が豊かな食環境によって解き放たれ充分発現しますます大柄になったのでしょう。そして西欧人は「I」との交配をとおして集団として大柄化していったと考えられます。しかし交配を嫌ったケルトやバスクなどの純粋に近い集団は意外に西欧のなかで小柄な集団として残っています。
 
  縄文人にも大柄の個体がいたことがつい最近の発掘でわかってきているため、ネアンデルタール人から交配で受け継いだこの大柄遺伝子は家系的に、個体として、発現することがあるようです。

  当方の知り合いの185cmはある彫深顔の友人の家系は親戚も一族全員背が高く、バレーボールの日本代表もでています。背高遺伝子もしくは背高発現系が遺伝しているのでしょう。恐らく古代から背高一族だったはずですが戦後の食料環境の大改善で更に背高になった可能性があります。この友人はどう転んでもモンゴロイドには全く見えません。面長でやや奥目で肌色の濃い目の彫深顔です。でもご先祖から日本列島に住んでいる日本人という単純な理由でモンゴロイドに数えられてしまうのです。

  東ユーラシア大陸=中華大陸に最初に出現したのは古代シーラカンス遺伝子のY-DNA「D」遺伝子集団の中国古代神話で呼ばれるところの恐らく始祖神共工率いる「羌族」の祖先でしょう。そこにY-DNA「R」と並ぶ新興遺伝子のY-DNA「O」集団が進出し数万年ちかく共存し交配しながら本来新興遺伝子体質だったY-DNA「O」は今言われるところの古モンゴロイド体質に変化していったものと思われます。同様にY-DNA「D」も古モンゴロイド体質に変化していったのでしょう。この時に蒙古斑などのYAP体質が「O」に持ち込まれたものと思います。

  これはY-DNAだけでなくパートナーのmtDNAにも当然同様に起きたことで、アジアmtDNAの中の最も新しいmtDNA「D」が分化し、ベーリング海峡を渡ったため南北アメリカ大陸にも蒙古斑がもたらされたのでしょう。でもネイティブ・アメリカンは古モンゴロイドに無理やり分類することはできても、どう見ても新モンゴロイドの外観をしてはいません。もともと古モンゴロイドなどという分類はなかったのですが、アジア人の半分は二重瞼で凹凸があり、モンゴル族の一重瞼の蒙古襞はなくフラットフェースでもないため苦肉の策で作った造語です。あえて言えば寒冷地適応・黄砂適応していないアジア・アメリカロイド人種です。

  少なくとも日本人の50%を占める縄文系はモンゴロイドではありません。あえて言うなら元ネグリートです。約30%を占める弥生系もあえて言うなら古モンゴロイドです。

いわゆる本モンゴロイドつまり新モンゴロイドは約20%の一重瞼のフラットフェースの渡来系Y-DNA「O3」と寒冷地適応系「NO」「N]と「P」「Q」です。遺伝子はばらばらですが、肌色の薄いフラットフェースという点で共通です。でも日本列島人の1/5でしかないのです。

やはりアジア・アメリカロイド人種なのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i8/


要するに、本物の漢民族は白人。

今の中国人は偽者の原始民族さ。

今の中国人の歴史はせいぜい 500年だな。


68. 2012年10月15日 22:42:50 : HNPlrBDYLM

遺伝子調査から見た中国古代神話考


  中国古代神話はギリシャ神話や記紀などと昔から何度も読んだ神話ですが、そこに欧米の研究者が言っている東ユーラシア=中華大陸の最初の現代人類はY-DNA「D」だったと言う、Y-DNA「D」の痕跡を探そうと以前当ブログで挑戦して挫折した過去があります。しかし往生際が悪いのが年をとった証拠で、再度チャレンジしてみました。

  海外の研究では長江文明系は母系集団(そうなら「O2」、「O1」の弥生集団も母系集団)、黄河文明系は父系集団(それなら「O3」渡来集団は父系集団)だそうです、では縄文集団のY-DNA「D」は?「C」は?

  現在中国では2大古代文明+2古代文明の4古代文明がが考えられているそうです。


●最も古い長江文明 

  最も古い玉蟾岩遺跡は16000年前頃と考えられているそうですが、稲作農耕の確認されている最も古い仙人洞・呂桶環遺跡は14000年前頃と考えられているようです。西欧文明の農耕は肥沃な三角地帯:メソポタミアで発生し、その農耕民が西欧に拡散したと考えられています。つまり東西それぞれで独自に農耕は発展したと言うことが長江文明の調査でわかったのだそうです。そして日本人はその東の農耕文化を最も極めた後継者なのです。

  日本列島では縄文時代の草創期に当たる時代に既に中華大陸では文明が確立されたようなのです。と言うことはY-DNA「D2」と「C1」はその前恐らく旧石器時代には既に日本列島に到達していたのではないかと考えられます。「C3a」は「C3b」の出シベリアの時期を考えると縄文草創期頃に合流した可能性も大です。

  揚子江流域はこのようにかなり古い頃から稲作農耕文明だったようでY-DNA「O1」から分化した「O2」が揚子江中流域で文明と言えるレベルの文化をを興したようです。「O1」はかなり遅れて7000前頃から揚子江下流域に文化を立ち上げたようですが、「O1」が最初に分布したと考えられる最寒冷期の遺跡は今は揚子江河口の更に先の東シナ海-黄海ランドの大陸棚に沈んでいるはずなので「O1」文化は遺伝子から見ても当然中流域よりもっと古い可能性はかなり大です。


●黄河分明
  一方「O2」より新しく分化した「O3」黄河分明系は揚子江流域を先輩遺伝子の「O1」「O2」に既に占領されていたため、黄河流域に分布をしました。と言うより黄河流域に分布した集団が寒冷地適応や黄砂適応を受けながら分化し、7000年前頃から独自の文化を興すようになったのでしょう。

●四川文明

  四川文明は謎が多い文明のようです。長江の上流域にあるため、長江文明の系統もあれば、三星堆文化のように全く異質な文化もあります。Y-DNA「D」に関係があるとすれば三星堆文化の異質さしかないと思います。Y-DNA「O」は西欧遺伝子の「R」と同様、古代遺伝子の一つのY-DNA「F」から分化を重ねて生まれた新興遺伝子集団なので、古代特有の呪術性はかなり薄まっていたはずですが、「D」は「F」より古い古代遺伝子なのでその呪術性はかなりの高いレベルだったはずです。三星堆文化の異様な呪術性はぴったりです。

  欧米の研究者が中華大陸の最初の現代人類はY-DNA「D」だったろう、と書いていますが、現代チベット系民族として子孫がチベット高原や四川盆地など標高の高い地域に閉じ込められ現存している以上、古代神話にも痕跡が残っていると期待されるのですが、あまりの呪術性のため、特に孔子などは呪術性を嫌っていたため、史書から無視されていた可能性が高いそうなのです。

  四川省流域は諸部族が入り乱れてきましたがその後の吐藩王国などチベット系諸王国の存在や現在のチベット系集団が多く存在することから四川文明の中心はY-DNA「D1」「D3」の祖先の文明ではないかと考えるのが自然でしょう。

  中国古代神話では黄帝が蚩尤(羌姓、つまり現在のチベット系の祖先らしい)を討伐したそうです。つまり長江文明を滅ぼして拡大を続ける黄河文明が同様に中華大陸の先住民であったY-DNA「D1」遺伝子集団を追い出しチベット高原や四川盆地など黄河文明系が嫌う標高の高い地域に閉じ込め、その一つが四川文明でその代表が三星堆文化と考えられます。つまり呪術文化性の塊のような三星堆文化が41%が縄文人Y-DNA「D」の子孫である我が日本人の琴線に触れる感があるのは当然かもしれません。兄弟遺伝子なのですから。そうすると火焔土器のような極めて高い呪術性を感じる土器を縄文人が作ったのもなんとなく理解できます。


●遼河文明

  最後の北方の遼河文明は最近発掘調査が進み黄河より更に北方にも古代文明が栄えたらしいことが報告され始めています。遺伝子で考えると今でも韓半島に残る古代シーラカンス遺伝子のY-DNA「D1」(韓半島には今でも姜姓=羌姓が残っているが後世のチベット仏教布教時の移住かもしれない)の文明か一緒に行動したとされるY-DNA「C1]か「C3」の文明か、後の日本系沿岸・オホーツク海沿岸の諸族となった「C3c」ツングース諸族やモンゴル族の祖先かあるいはY-DNA「N」のヤクート族などのシベリア諸族の祖先かもしれません。

  ここは燕、渤海など古代中華周縁国家が起きたところで、箕子朝鮮、衛氏朝鮮などの古代朝鮮国家が起きたところです。つまり中華王朝から「東夷」と呼ばれた遼東半島を中心にした東夷諸民族の故地でもあります。遼河の河口は東シナ海-黄海ランドになりますのでこの水没した土地こそが本当の故地でしょう。

  遼河文明は遺伝子的には全くわかっていませんが「O3」の別働隊の可能性もあり、縄文晩期に陸稲稲作農耕文化を日本列島に持ち込んだ集団の故地の可能性も充分あるのです。1908年最初に見つけたのは日本の当時の有力な考古学者の鳥居龍蔵、1935年に大規模な発掘がされました。韓国のウリジナル思想では当然ですが古代朝鮮民族の国家だったと位置付けられているそうです。

いよいよ本題ですが、 

  復習ですが、中国の古代神話では長江文明の直系の子孫と考えられている苗族は稲作農耕民族であり、母系集団だったと考えられています。屈家嶺文化や石家河文化は三苗族の祖先の文化の遺跡と考えられています。となると、長江文明の子孫と考えられている弥生遺伝子集団Y-DNA「O2」と「O1」も母系集団だったと考えられます。魏志倭人伝の倭人は文字通り小柄なネグリートで縄文-弥生交配集団とガラパゴス史観では考えていますが、卑弥呼一族は弥生系の母系集団の女王呪術師だった可能性が大です。弥生系はもともと中華大陸から追われてきた長江文明の子孫なので古代性から抜けていない縄文集団に比べれば、やや近代的で国家を形成していてもおかしくはないのです。

  では本題の縄文人は母系制だったのか父系制だったのか?古代チベットの実態がわかると面白いのですが残念ながら今となってはわかりません。また現代チベット民族は「O3」と密に交配をしているため古代の風習は全く残してはいないようです。

  しかし中国古代神話では西王母や人類の創造神とされる女媧など女性が大活躍をするので母系制の名残もあったのではないかと思われます。しかも女媧は長江分明系三苗族の信奉した神で、、羌族が信奉する水神共工とは対立していたようなので長江文明系の苗族は文字通り母系制で、水神共工は男性神らしいので羌族は父系制だったのかもしれません。

  つまり縄文人大多数派のY-DNA「D2」は父系制だった可能性が大です。残念ながらY-DNA「D」系の羌族は長い間黄河文明族と対立していたため、中国古代神話では共工は洪水を興す悪神として描かれています。しかし中国古典の「国語」では天地を治める最高神が共工で、伏義と女媧の長江文明系が取って替わったことになっているので、もしかするとY-DNA「D」を中原から追い出したのはガラパゴス史観で考えていた「O3」遺伝子集団の黄河文明系ではなく、「O2」か「O1」の長江文明系の可能性が出てきました。

  つまり弥生遺伝子集団はかつて大陸から標高の高い地域に追い出した「D1」「D3」と同族の「D2」と日本列島で再開し驚いた可能性があります。また「D」遺伝子集団の風俗習慣も熟知していたかもしれないため、これ以上逃げる場のない日本列島で意外にすみやかに共存できたのではないかと推測できます。

  古典の「国語」は孔子の興した儒教的な思想で書かれていないため孔子に嫌われ中央では無視されてきた書物だそうですが、その分古代中国のことをそのまま書いていると言われているらしいのです。とするとやはり中国大陸の最初の先住民族は水神共工を信奉するY-DNA「D」遺伝子集団で後の羌族などのチベット系民族の祖先であるという可能性が極めて高く、これなら欧米の研究者が主張している東ユーラシア中華大陸の最初の現代人類はY-DNA「D」である、という説がかなり頷けるのです。勿論「O3」漢民族の中国の政府・と研究者は一切認めないでしょうが。

  遺伝子の調査で、中国古代神話はいろいろな読み方ができることがわかり、改めてY-DNA「D」は中国古代神話で水神共工族として伝承されてきたのではないか、という推測にたどり着きました。
http://galapagojp.exblog.jp/14892434/


69. 2012年10月15日 23:04:34 : HNPlrBDYLM

日本人の「O3」亜型の小亜型をご紹介します。日本列島の「O3」合計は約19%です。日本人男性の5人に1人は「O3」なのです。


O3      雲南省あたりで「O2」から分化した亜型 日本列島では2.2%
O3a
O3a1    漢民族の20%を占める。黄河文明の直系の亜型かもしれない。
O3a1c                             日本列島では5.7%もある。 
O3a2    漢民族の35%を占める。長江文明人と交配し分化した長江文明系「O3」
                                  日本列島では3.3%
O3a2b   長江文明の大溪文化(5000年〜7000年前頃)人と交配した遺伝子らしい。
O3a2b1a ミャオ族特有の「O3」
O3a2b1b シェ族特有の「O3」
O2a2b2  ヤオ族特有の「O3」
O3a2c1   シナ―チベット語族特有の「O3」     日本列島では約3.1%
O3a2c1a  漢民族系特有の「O3」           日本列島では約4.6%
O3a2c1b  チベット−ビルマ語系特有の「O3」

  

以上を見ると黄河文明人=漢民族ではないことがよくわかります。漢民族は黄河文明人を基盤に長江文明人と交配しながら出来上がり、周王朝辺りから自分たちを固有民族として自覚し始め、漢王朝辺りから漢民族として確立していったようです。中国の漢民族内の頻度的には55%の「O3」の中で、黄河文明系の直系が10%程度なのに対し長江文明との交配系は残りの45%を占め、漢民族は黄河文明系と長江文明系の完全融合体であることが良くわかります。文化的には北方系の黄河系文化が中国の主流となりましたが、遺伝子頻度的には江南系の南方遺伝子系の方がはるかに多いのです。

呉系長江人の行方考


  長江文明人は黄河文明に追われて四散する段階で既に越系の「O2a」と呉系の「O2b」に分化していたのではないかと思われます。欧米の研究者は「O2a」は満州辺りで「O2b」に分化したのではないかと推測していますが、満州辺りで分化する理由がいまいち想像できなかったのですが、長江にいた1万年にもなる長江文明の長期間の間に既に越系「O2a」と呉系「O2b」に分化していたと考えるなら、呉と越が対抗していた理由がわかります。異族集団間の抗争になるからです。漢民族から見れば同じなのでしょうが。そして我々弥生人の子孫は呉の子孫でもあるはずなのです。

  何故、「O2a」から「O2b」が分化し北へ向かったのかは、ただ推測するしかありませんが、当時の中華大陸の遺伝子構成を推測すると、恐らく「O2a」と「O3」の交配で「O2b」が分化したとした考えるのが最も自然です。だから江南系だったはずの「O2」に河北の遺伝子が入り込むことによって、北へ移動する抵抗が少なくなったのではないかと考えられます。しかし北には水田稲作農耕の適地が見つからず満州辺りから韓半島に南下し、そこで恐らく伽耶系稲作集団として定着し、馬韓、弁韓、辰韓の民衆レベルは長江系と考えられます。百済の民衆もやはり長江系と考えられます。つまり韓半島のY-DNA「O2b」は呉系長江文明人の子孫と考えるのが妥当でしょう。

  恐らく弥生時代の韓半島南部と九州は全く同じ呉系長江文明人文化圏だったと考えられます。韓半島でY-DNA「O2b」は小亜型に分化していないため、その後の支配遺伝子の「O3」は土着先住民だった「O2b」と棲み分けて、交配をしなかったようです。当然百済の支配層の「O3」漢民族もしかりです。

  韓半島には数%のY-DNA「D1」が残っていますが、スンダランド→東シナ海-黄海ランドと北上してきた「D」遺伝子集団がユーラシア大陸内陸の中華平原に入り込む際に留まった集団の子孫なのか、時代が下がってモンゴル帝国がチベットから徴用した軍隊で、元寇時に留まった集団なのか、チベット仏教の関係者の名残なのか等々、まだ全く想像がつきません。しかし2-3%という数字は小さくはありません。北朝鮮の調査結果があるともう少し推測しやすくなるのですが。牽強付会すると、韓半島の姜性は基本的にはY-DNA「D1」原型の羌族の子孫のはずなので、極東ユーラシア大陸最初の先住民と言われるY-DNA「D1」の中で、膨張する長江系、黄河系に押し出され周辺部だった韓半島に押し込まれた集団がいたと考えるのが最も自然です。あえて言えば羌族系でしょう。

  そして世界最先端の水田稲作農耕技術を開発した技術屋集団だったY-DNA「O2b」の一部は更にもっと水稲に適した土地を求めて海峡を渡り南下し日本列島に入ったものと考えられます。南琉球のY-DNA遺伝子構成はGlobal論文では全く報告されていませんが、ローカル論文ではY-DNA「O2b」が67%らしいのです、どうしても暖かい南に戻りたかった一部グループがいたようですね。

  しばらく前までは日本列島の弥生文化は百越族のもたらした文化と考えていたのですが、日本列島には越音がまだ見つかっておらず、それどころか日本列島は呉音の土地であることが不思議だったのです。南方に逃げた越系長江人に対し、北方に逃げた長江集団が呉系だったとすれば全て氷解します。日本列島にはこの時に漢字を受け入れる準備が全て整っていて、後に仏教と共に伝来した漢字を見た呉系の弥生人集団は呉音で発音したはずです。

  しかし越系が南方に逃げたのは、ヴェトナム等後世の越系国家の興隆結果からわかるのですが、呉系長江人が興した名のある国は全く残っていません。これは不思議でした。当ガラパゴス史観では、韓半島に30%ものY-DNA「O2b」が今でも残っている以上、同じ30%の日本列島と関連性のある歴史を見ると韓半島の3韓や伽耶系の集団、そして百済の民衆(支配層はまちがいなY-DNA「O3」の漢民族でしょう)は長江系と考えています。

  しかし今でもわからないのは楚系です。楚とは一体何?長江文明遺伝子で残っているのはY-DNA「O1」です。日本列島にも「O1a」は1.5%ほど存在し、1.6%の越系「O2a」と同程度です。(「O2b」+「O2b1」は29.6%もあり、これだけでも日本の弥生文化集団は呉系長江人の子孫であることがわかります。漢字の読みに呉音があるのは極めて自然のことです。

  楚は日本人から見ても呉越より神秘的に見えます。果たして「O1」なのでしょうか?興味がありますね。

呉系長江人「O2b」の弥生文化


10. もう一つの日本人の心の故郷は水田稲作農耕の風土です。

  縄文時代と同じ14000年前頃に始まった長江文明は、共工を祖先神とするY-DNA「D1」の羌族に取って代わって揚子江(長江)周辺の文明となったのです。狩猟採集+牧畜的な色彩の強い羌族に対し、長江文明人は穀類の栽培を行い定住性が強かったのでしょう。

  最も下流と言うより長江河口にいたらしいY-DNA「O1a」が稲作農耕をおこなっていたかどうかは定かではないようですが、 縄文後期の日本列島に熱帯ジャポニカ種の稲作を持ち込んだのはY-DNA「O2b」より一足先に中華大陸を追い出され台湾、海南島やオセアニアに拡がったY-DNA「O1a」かもしれません。

  長江文明も1万年以上続き、日本列島の縄文時代とほぼ同じ時期に繁栄していました。だから縄文時代が終わらないと弥生時代が始まらなかったのです。もし長江文明の終焉がもっと早かったなら、弥生時代ももっと早く始まり、縄文文化と共存した可能性は大なのです。

  長江文明はメソポタミア文明などよりも早く農耕文化を持っていたと考えられています。16000年前頃の遺跡から既に稲モミが発見され、14000年前頃日本列島で縄文文化が始まった頃の遺跡から既に栽培された稲が見つかっているほど稲作は古い歴史を持っているのです。

  7000年〜9000年前ごろには水稲栽培が始まったと考えられ、6500年前頃には既に大規模農耕が始まっていたそうです。このように長江文明人は世界で最も進んだ最先端の農耕技術を持つ農耕集団だったのですが、結局、戦闘好きの野蛮な黄河文明集団に中華大陸からほとんど追い出されてしまったのです。残った集団は現代の今でも少数民族として羌族などと同様、中国の国勢力の向上に全く寄与できていません。極めて残念です。

  世界でも冠たる水田稲作の先端農耕技術は本家中国大陸では発展せず、逃げ込んだ先の日本列島で華開き、水田稲作農耕民は少数民族化せず、日本文化と日本の国勢力の向上に大きな寄与をし続けています。結局逃げ込んだ先の環境の違いによって、同じ遺伝子集団でもその後大きな発展の違いになってしまったのです。

  長江文明の中心は長江下流域に拡がっていたとされるY-DNA「O2」遺伝子集団です。残念ながら「O3」の黄河文明集団に中国大陸から追い出され大部分は南に逃げ、江南から東南アジアそしてニコバル諸島へ、更に西に向かいインド亜大陸や南インドのドラヴィダ人と交配し稲作を広めて行きました。

  特に学習院大学の某教授が学説を表明し、一時ブームになったドラヴィダ人の中のタミール語族のタミール語が日本語の祖先であるという説はとても面白いものでしたが、残念ながら全くの誤りでした。ドラヴィダ人のY-DNA遺伝子の調査結果は見事に明快でなんとY-DNA「O2a」が14%も交配しているのです。中華大陸を追われたY-DNA「O2a」集団は結局、稲作の適した土地を求めて南インドまで移住してきたのです。そしてドラヴィダ人と交配をしながら南インドに根を下ろしたのです。このため特に水田稲作関連の単語の語源はアジア共通なのです。Y-DNA「O2」の単語なのです。

  黄河文明「O3」に追われた「O2」集団の大部分は水田稲作に適した都市を求めて南に逃げ、遺伝子は「O2a」に分化しましたが、一方やむを得ず稲作に適さない北に逃げた集団も一部いたのです

  欧米の研究者は北へ逃げた集団は満州辺りで「O2b」に分化したと考えています。満州族のY-DNA「O1a」は約5%、「O2a」は約3%、「O2b」は18%もあり、長江文明系遺伝子は26%もあるのですが、清王朝時代に統治部族としてすっかり漢化したため「O3」は44%もあり既に漢民族化したと言ってもよいほどです。しかしY-DNA「C3c」も22%もあるためツングース的な色彩もまだまだ残しており、長江人、漢族とツングース族の融合部族となったのです。

  しかし満州の気候は水田稲作に適しているとは言い難く、「O2b」集団は更に南下して韓半島南部に入ったのです。今でも韓半島南部は日本列島に似た農村風景がありますが、当然同じ長江文明人の子孫の「Y-DNA「O2b」が今でも30%も根付いていると土地だからです。この同じ長江文明人の農耕文化の子孫であることが日本人と韓国人の極めて近いところなのです。ところが稲作に適さなかった北部は恐らくY-DNA「O2b」はかなり少ないと思います。つまり朝鮮半島は必ずしも遺伝子的に一体ではないのです。

  韓半島南部にあったと考えられている古代国家の遺伝子はY-DNA「O2b」と考えて間違いないでしょう。特に3韓のどれかは長江文明の子孫国家と思われます。

  しかし「韓半島南部でもまだ充分な水田稲作農耕の環境ではなかったようです。このためY-DNA「O2b」はボートピープルとして日本列島に渡りやっと最適な水田稲作の土地を見つけたのです。ここで先住民だった縄文系のY-DNA「D2」と出会った「O2b」は、好戦的ではない「D2」と棲み分けながら緩やかに交配し「O2b1a」に分化しようです。勿論「O2b」のまま遺伝子を守った集団もかなりあります。一方「D2」も更に小亜型に分化しました。沿岸漁労遺伝子のY-DNA「C1」と山村系ハンター遺伝子の「C3a」は住む場所が「O2b」とはかなり異なるためあまり交配はなかったと考えられます。

  では世界に冠たる水田稲作農耕を興したY-DNA「O2a」長江文明人はどんな人々だったのでしょうか?アンダマン諸島に縄文人の祖形の直系子孫のY-DNA「D*」100%の遺伝子集団Onge族やJarawa族が現存しているように、同じ列島弧上にあるニコバル諸島には弥生人の祖形=長江文明人の直系の子孫でY-DNA「O2a」100%のShompen族が現存しています。勿論オーストロアジア語族です。

Shompen族のやや昔の写真です。

真ん中の人は誰かに面影が似ていますね!そーです!近藤正臣です。或いはむくんだキムタクかなぁ!?左側と右側の人も赤道直下なので肌はかなり濃いのですが、薄まれば日本を歩いていてもわからないでしょう。

  Y-DNA「O」は欧米遺伝子のY-DNA「R」と同じ親遺伝子「K」から分化した第2世代なので、縄文系「D2」ののようなジャガイモ顔のダンゴ鼻ではなく、「C」系のような彫が深くややいかつい顔立ちでもなく、鼻筋は通っていますが彫はそんなに深くなく、顎が細い顔立ちをしています。穀類が主食だったのでガッシリした顎は必要なく小さくなったのです。

  余談ですが縄文系の片親の遺伝で縄文人の歯並びを持った人が、もう一人の方親の弥生系の小さな顎を持つと、がっしりした歯が狭い顎内に配置するため、どうしても前の歯は押し出され更に前へ出てしまうのです。下顎自身が前に出てしまう場合も多いのです。昔は経験でそういうものだと知っていましたが、今ではそれが縄文系と弥生系の交配の結果であるとはっきりわかるところまで遺伝子の研究は進んできました。

  日本人の中に占める長江文明系遺伝子Y-DNA「O1a」+「O2a」+「O2b」+「O2b1」の頻度は約32%です。韓民族に占める長江文明系遺伝子の頻度は若干高く約37%ですが、お互い1/3は同じ遺伝子の子孫なのです。これがお互い感じる「近さ」の理由です。しかし前述のように日本人の約48%と半数を占めるY-DNA「D2」、「C1」と「C3a」が韓半島で完全に欠落していることが両民族の決定的な違い=遠さになっているのです。韓半島には1%程度のY-DNA「D1」がいますが、男性人口の約半分が全く異なる遺伝子だと言うことはかなり大きく、民族が全く異なると言うこととほぼ同じです

問題は「O3」ですが、それは次に.......。

  このように日本列島の農耕を請け負ってきた長江文明の子孫は、農村という代表的な日本の原風景の一つの担い手として縄文語の文法の上に農耕文化関連の単語を大量に上乗せし、縄文語を豊かなものにしたのです。日本列島の言葉を決してオーストロアジア語文法に代えることはしませんでした。なぜなら圧倒的に縄文人の人口の方が多かったからです。弥生人は自分たちのオーストロアジア語の文法を捨てて溶け込む道を選んだのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i34/


70. 2012年10月16日 00:00:30 : HNPlrBDYLM

Y-DNA「O3」は黄河文化直系のプロト漢族、

「O3a1」は華北の周辺民族との交配で生まれた黄河系(華北系)漢族、

「O3a2」は黄河系漢族と長江文化華南系との交配漢族になります。


漢族は単独遺伝子ではなく、約50%強の「O3XX」亜型群をコアに現在少数民族となっている「O1」「O2」「F」「P」「NO」N」「C3c」など50以上の民族との交配の結果生まれた複雑な遺伝子構成の集団ですが、支配階級は「O3XX」なので「O3」で代表されます(面白いことに他の遺伝子との交配を嫌った純粋「O3」の少数民族もいるのです)。

  長江文明の楚系と思われるY-DNA「O1a」、
         越系と思われるY-DNA「O2a」、
         呉系と思われるY-DNA「O2b」、「O2b1」及び
  黄河系の「O3」の頻度も併せてまとめました。ただし
   黄河系直系のY-DNA「O3a1」と
   黄河系と長江系の交配で分化した「O3a2」はデータが不十分なので見送りました。

台湾先住民

  台湾の一般市民は漢民族の「O3」系ですが、先住民は長江文明直系の「O1」75%の遺伝子集団なのです。日本列島とは全く異なるのです。にもかかわらず日本人が台湾人に感じる親近感はルーツの福建省など華南出身の台湾漢民族が持つ長江文明系の「O1」と「O2」遺伝子に起因するのでしょう。スンダランドから北上した「D2」「C1」は台湾部分には住み着かずにそのまま日本列島に進んだようです。山が迫っている地形なので避けたのかもしれません。

満洲族

  満洲族はツングース族の有力な一員(女真族)ですが、何となく親近感があるのは「清」の王族であることと、大日本帝国がデッチあげた満洲国の構成部族だったこと、愛新覚羅の名前が持つ悲劇が話題になった近代の状況があり、水田稲作農耕遺伝子「O2a」が弥生人の祖先である「O2b」に分化した土地であるため、今でも「O2b」が約15%含まれるからでしょう。遺伝子的に15%も共通なのです。

●長江文明系の楚系と思われるY-DNA「O1a」の出現する民族はそれほど多くはありません。台湾の先住民が最も頻度が高く、楚が滅んだ際に長江河口から台湾に逃げ込み、島の中で各部族に別れ先住民族化したようです。他に南下した集団もいたようです。


●長江文明系の越系と思われるY-DNA「O2a」は越が滅んだ際に江南に留まり少数民族化した集団もあれば、更に南下しインドにまで逃げた集団も相当多くいます。

ドラヴィダ民族の中のタミール系Asur地域民はなんと64%が越系「O2a」遺伝子になっています。この「O2a」がタミール人に水田稲作農耕系の文化と語彙を持ち込んだため、弥生系日本語彙と出自を同じくする長江農耕民系の単語がタミール語に多く残り、大野教授が日本語の祖先はタミール語と誤解する原因になりました。遺伝子調査による民族の逃避・移動がわかった現在では、残念ながらタミール語祖先説は成り立ちません、同様に東北アジア系騎馬民族(Y-DNA「C3c」)も日本列島には入ってきてはいません。


http://galapagojp.exblog.jp/i12/


71. 2012年10月16日 01:05:42 : HNPlrBDYLM

中華大陸最初の住民であるY-DNA「D1」は中国神話では「羌族」として描かれています。「共工」を祖先神とし、長江文明や黄河文明と対峙していたようです。しかし我ら縄文人とは本来最も近い兄弟遺伝子だったのですが、その後の長江文明との交配や特に黄河文明人との深い交配で独自の文化はまだ多少維持しているようですが遺伝子的にはY-DNA「D1」は18%に過ぎず、長江文明系Y-DNA「O1」が15%、「O2」も15%」に対し「O3」は36%もありもはや「O3」民族と言っても差し支えありません。

ではなぜそれだけの「O3」民族であるにも関わらず漢民族化しなかったのでしょうか?それは漢民族王朝に征服されてきたわけではなく、長い歴史の中で勢力争いに負けた「O3」が逃げ込んできた土地柄だったため落人達が隠れるため羌族化したためなのです。しかし漢民族は出自を重んじるため、羌族化した元漢族たちも自家の出自はひっそりと伝えられているかもしれません。

  中華大陸で最もY-DNA「D」を残しているのは黄河文明系「O3」が嫌っていた高度地域のチベット高原に逃げ込み独自性を保ってきたチベット族です。早くに漢族の目の届かない高原に逃げ込んだため中国の古代神話にも情報は今のところ全くありません。恐らく元々は羌族だったと考えられます。チベット族は吐蕃などの古代国家を興してきましたが、漢族王朝とは異質の存在として扱われてきたためたため、唐などの支配下に入っても独自分化を保ってきたようです。

  部族によっては氐族のように周辺民族との交配でY-DNA「D3」に分化してますが、「D1」、「D3」合計でおおむね50%以上の頻度を維持しています。しかし長年の漢民族との抗争で交配も進み「O3」もかなり高く31%にもなっています。しかし長江文明系のY-DNA「O1」や「O2」は1%もなく、羌族の中でも長江文明時代に交配を嫌いチベット高原に逃げ込んだようですが、結局王朝時代に入り大唐帝国など漢族大王朝の支配下に入り「O3」との交配はかなり進んだようです。勿論漢族間抗争で負けた集団が逃げ込んできた可能性も高いのです。またモンゴル帝国時代にモンゴル族も交配し、その後のモンゴル族のチベット密教化での交流でY-DNA「C3c」も5%強あり、またインドの遺伝子「F」も5%、「K」も7%と日本と同様多遺伝子集団化しています。このため純粋な「D」チベット族はもはや存在しませんが、チベット高原中心部に住む部族は今でも小柄なネグリート性を維持しているとのチベット民俗学者からの報告があります。

  ではY-DNA「D」の古代文化は何も残っていないのか?という疑問がありますが、最近の中国古代遺跡の調査が進むにつれて中国4大古代文明の一つの四川文明(他に長江文明、黄河文明と遼河文明)が、長江や黄河流域を追われたY-DNA「D」の逃げ込んだ先きでひっそりと立ち上げた文明ではないかと言われつつあります。そうです四川文明の代表が日本でも展示公開され話題を呼んだ三星堆遺跡の驚くべき呪術性はまさに古代遺伝子Y-DNA「D」の文化にぴったりです。火焔土器のような呪術性の高い独特の縄文土器文化を持つ日本人の琴線に触れるのは当然のことではないかと思います。
http://galapagojp.exblog.jp/i33/


72. 恵也 2012年10月16日 21:42:14 : cdRlA.6W79UEw : TwdlziUQns
>>62 標準語の北京方言というのが満州人が使っていた擬似中国語なのも知らないのか

当たり前の話を言い換えてもね。
そんな偏見じゃなく、まともに言えば満州人が北京で中国の支配権を握ったのだから
満州で使う方言がメインになり中国全体の標準語になるのは当たり前だろ。
おまけに今の首都も北京だから、北京で使う言葉が標準語になるの。

日本も同じようなものでしょう。
江戸時代の首都は東京だから、そのまま明治維新を向かえて東京が政治の中心に
なったから東京の方言がメインになり標準語になったの。

擬似中国語なんてものは中国には存在しません、満州の方言も広東の方言も中国語。
すべては変化するものだから満州の方言も今では北京の標準語とはもうずいぶん
違ってるでしょう。

それから内容の不確かな長い文章を読む気がしない。
2000年以上昔の遺骨なんて、ヨッポド運がよくなければ残らないものでそれも権力者
のお墓などであり、全体的にどれだけ信頼できるかわからん。

あなたの長い文章では、何体の遺骨調査なのかさえほとんど書いてない。
それじゃ信用できないし俺は読む気がしないよ。


73. 2012年10月16日 23:39:34 : HNPlrBDYLM
<あなたの長い文章では、何体の遺骨調査なのかさえほとんど書いてない。

人類学雑誌に掲載された論文が信用できないというなら、中国人には学問が理解できないという事だ。


<日本も同じようなものでしょう。

日本語は方言の違いしかない
中国の方言は言語学では方言ではなく全く系統が異なる言語だ。

中国人には学問が理解できないのが良くわかった。


74. 恵也 2012年10月17日 08:24:39 : cdRlA.6W79UEw : uV1gvzRo4s
>>73 人類学雑誌に掲載された論文が信用できないというなら

論文の形式があったら真実と思うのが、アンタは子供並の知能。
韓国で次期ノーベル賞候補といわれる人が出した論文が、部下に書かせたもので
それも実験もしてない空理空論で組み立てたものだったという。

どんな論文でも批判的な目で見ないと大人じゃないよ。
あなたの出した論文とやらは読む価値がない。

ネイチャーでさえトンデモ記事がずいぶんあるというし、捏造データがバレタ話もある
俺にはあなたの”学者の定義”が間違ってるように思える。
疑似科学というのがあり、本当に信頼できる論理なのかのポイントを掴まなくてはね。

−−−−−(引用開始)−−−−−
ネイチャーには、これまでにノーベル賞クラスの画期的な業績が多数掲載され
てきた。一方、現在から見れば、ほとんどトンデモでしかないような論文や記事
も何本か掲載されており、疑似科学側の重要文献になっていることもある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC

>> 中国の方言は言語学では方言ではなく全く系統が異なる言語だ。

そんな結論になるほどあなたが中国語を調べて、研究してるとは思えません。
誰かの又聞きで書いてるのじゃないかな?
知らないことを簡単に断言しないように。

中国で大きな国家が断続的にでも数千年間存在したのを考えれば、標準語
という言語が伝わらないような世界とは思えません。

日本が朝鮮や満州、台湾を占領した時、日本語教育を計画的に子供に行い
どこでも共通語として日本語を通じるようにしたことを忘れたのかな?
国内の貿易や税金の取立てなど、政治権力が言葉を統一するのは当たり前のこと。


75. 2012年10月17日 09:49:30 : HNPlrBDYLM

アホは何度言ってもわからないみたいだけど:

外国語と同じくらい違う中国語の方言

 しかし、一口に中国語と言っても、広大な中国にはさまざまな方言があって、何と外国語並みにたがいに話が通じないという。方言というより別の言語といってもよいと言われている。大別して北方語と南方語に分けられるがそれぞれにさらに細かな方言があり、文法まで異なるらしい。さらに、中国語の「声調」といえば四声とばかり思っていたら、何と、北京語は四声でいいのだが、広東語は九声、福建語は八声もあるといい、上海語及び客家(ハッカ)語は六から七声である。北京語には濁音がないのに南方の諸方言には存在するのだそうである。これで本当に同一言語と言えるのであろうか。さらに「民族」という概念のいい加減さをはっきりと見る気がする。

しかも、ひとくちに中国語といっても、支那は広大な大陸です。さまざまな方言があり、外国語並みにたがいに言葉が通じない。文法や語順、あるいは基本的名詞に至るまで、まったく違うものもあり、もはやその言語は、互いに別な言語というほうが、はるかに正しいです。

たとえば、我々が中国語口座を受けると、「声調」は「四声」と教わるけれど、これは北京語の話であり、広東語は九声、福建語は八声もある。
上海語と客家(ハッカ)語は六から七声です。

また、北京語には濁音がないけれど、南方語には、濁音が存在する(日本語の影響?)。

フランス語と、英語は、語順等は似ているけれど、母音の数がまるで異なります。当然、異なる言語とされている。国籍も別です。
支那にある諸方言を考えたら、これらをひとまとめに、同一言語であるとみる方が、むしろ異常です。
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-61.htm


因みに、日本語と琉球語とアイヌ語は言語学では別言語になってるけど、語順も母音の数も発音もすべて同じ。

それは日本人と琉球人とアイヌ人は遺伝子が同じ同系の民族だからさ。


76. 恵也 2012年10月18日 16:47:20 : cdRlA.6W79UEw : sumhtVwXtc
>>75 北方語と南方語に分けられるがそれぞれにさらに細かな方言があり、文法まで異なるらしい。

「らしい」なんて無責任な書き方だ。罵詈雑言の部類。
俺の持ってる地図帳では中国の主要言語は中国語だけだ。
マレーシアなんてマレー語、中国語、タミール語、英語と4ヶ国語もある。

文法が異なる方言なんて存在するのかね、俺には信じられん。
専門用語の声調なんて知ったかぶりをしてるが、まったく自分では中国語が話せず
聞き取れず何も知らない部類の人間じゃないの。

巨大な国が断続はあっても続いているんだから、国語の統一もある程度できてるはず。
出来てなければおかしいわけで、今じゃテレビもあるんだしずいぶん方言も差がなくなったでしょう。

>> 「民族」という概念のいい加減さをはっきりと見る

確かにいい加減だけど、外敵が出来たら民族とは団結し統一てしまうもの。
尖閣問題もその狙いがあるんでしょう。
民族の差別感というのは大きなもので、軍事力に直結してしまう。

沖縄の女性を強姦した米兵にも、民族差別感と仲間の軍人が守ってくれるという
安心感で帰国の直前に強姦をしたんだろう。

日本軍兵士が中国の占領地で強姦三昧を楽しんだのと同じ現象で、米軍兵士も
同じ気持ちだったのじゃないかね。

ーーーー引用開始ーーーー
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。
憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事
の身辺が危いとさえ報ぜられた。一九三八(昭和一三)年一月六日の日記にいう。

上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられ
ぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。
日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/ishii1.html

>> フランス語と、英語は、語順等は似ているけれど、母音の数がまるで異なります。
>> 当然、異なる言語とされている。

まったくイギリスの歴史を知らないようだ。
今のイギリスとはフランスの地方豪族がイギリスを占領し、豪族のフランス語方言と
イギリス土着民語が融合して出来たもので、まったく異なるわけではない。


77. 2012年10月18日 18:45:00 : HNPlrBDYLM
英語はドイツ語から分かれた言語だよ。

文化と遺伝子・言語は全く違うものなのさ。

日本にはアメリカの文化が入ってるけど、日本人がアメリカ人と混血した訳じゃないからね。


78. 恵也 2012年10月18日 20:19:19 : cdRlA.6W79UEw : 67pDgBL4bg
>>77 英語はドイツ語から分かれた言語だよ。

アンタの知識はいい加減なものが多すぎる。
1000年くらい昔に、イギリスはフランスのノルマンディー公に占領され支配階級が
激変して、その系統が今のイギリスを支配してます。

支配階級と領民とは、数百年もたてば混血するだろ。
イギリス民族とはフランスの田舎の豪族が占領して、混血し民族になったもの。
これはあなたの好きな誰かの空想的な定説なんてものじゃないぜ!

ーーーー引用開始ーーーー
1066年にフランスのノルマンディー公ウィリアムによって征服され、
イングランドの支配層はフランス系貴族に交代した。

その結果フランス語がイングランドの支配言語となり、英語の語彙に
半分はフランス語起源とされるほどフランス文化の影響を受けた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


79. 2012年10月18日 21:11:31 : HNPlrBDYLM
あなたは調べる能力に致命的な欠陥がありますね。


これが言語学の定説:

言語学上、英語もドイツ語と同じインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、2千年ほど前に共通の祖先から分かれたと考えられるため、共通点が多い。しかし、両語がたどった歴史的背景から(とりわけ中世以降)、相違が広がった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%AA%9E


語彙は後からいくらでも増えるけど、母音の数とか文法は変わらないからね。

今の中国語の語彙の半分は日本語からの借用だけど、中国語が日本語の方言だとは誰も言わないだろ。


80. 恵也 2012年10月19日 10:07:54 : cdRlA.6W79UEw : ESAKOBg9wQ
>>79 これが言語学の定説:

定説を信じてしまうのがアンタの限界なんだね。
宗教集団で人を殺した主犯が同じように「定説」というトリックで人を誤魔化してたね。
あなたも定説で誤魔化される部類の方のようだ。

言語学って、確認する方法が少なく言いっ放しと聞きっ放しになりやすい。
科学が発達したのは、何度も多くの人が確認する方法があったからなんだよ。
まったく関係のない人が興味さえあれば、確認し自分で信じることが出来る。

言語学には、現代であればともかく過去の言語は文章に残されてる極わずか
な情報だけであり、科学的にはあまり信用できません。

>> 語彙は後からいくらでも増えるけど、母音の数とか文法は変わらないからね。

諸行無常で変わらないものはこの世に存在しません。
とくに言葉なんて一世代違っても、ずいぶん変わってくるし流行には勝てない。
日本語では「俺がそれを食べる」といっても「俺食べるそれを」と言ったって判る。

母音も平安時代から比べるとずいぶん減ってると言うよ。
「ゑ」と「え」のと発音の違いなんて、あなたは知ってるかな?

それに日本語の語彙はほとんど中国から伝わったものが変化したもの。
現代は英語の影響が非常に大きくカタカナ語が、巾を利かせてきたけどね。
若い人間の流行が主流派を変化させてしまう。


81. 中川隆 2012年10月19日 10:37:34 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM
要するに中国人は科学は信じないという事だね。

どうせ滅びるのが確定しているアホ民族だからどうでもいいけどwwwwww

”それに日本語の語彙はほとんど中国から伝わったものが変化したもの。”


中国人は科学だけでなく万人が知っている事実さえも認めないんだね:


日本から中国へ伝来した和製漢語

1.日本から中国へ“和製漢語”が伝来した背景


 日中両国は、その長い歴史の中で、早くから文化関係を持ち、その交流が連続して繰り返し行われてきたことは日中両国の多くの国民が知るところであろう。だが、その交流が「中国から日本へ」の一方的なものと捉えられがちなのが実情である。

中国人だけでなく、日本人すら「日本から中国へ」伝えられた文化についてはほとんど知らない。

南ドンは「交流に一方通行はありえない」と一貫して考えてきた。例えその交流が征服者と奴隷の関係であったとしても、征服者側だって奴隷から受ける影響はゼロとは言えないはずだ。


 日中両国の"文字"交流史は、後漢の光武中元2年(57年)、漢の皇帝が日本へ「漢委奴国王」と彫られた金印を贈ったことから始まったと広く認識されており、「史記」によれば、秦始皇帝28年(219年)には徐福が日本へ渡った。また、三国時代には日本の邪馬台国が4回に渡って使節を魏に送り、魏もこれに応え、二回にわたり使者を送っている。

 晋の武帝太康5年(285年)、百済の王仁が「論語」と「千字文」を日本に朝鮮半島経由で伝え、日本も推古天皇が630年から200年あまりにわたり、遣隋使を派遣、仏教文化や中国律令制などを積極的に吸収、その結果、大量の漢字が日本へ輸入された。

このような過程の中で、日本は3世紀より漢字の使用を始め、7世紀には漢字の音と訓を利用して日本の発音を表現する方法を創出するに至った。この所謂「万葉仮名」が後の9世紀に登場する「カタカナ」と「ひらがな」の元となり、日本で皇族文化だけでなく、庶民の文化までもが発展する大きな原動力となった。


 894年の遣唐使廃止によって、日本の中国からの"漢語"摂取は一時休止したものの、鎌倉時代に入ると中国から朱子学が入り、江戸時代には朱子学は官学にまでなった。つまり、日本的価値観=武士道を誇る武士の時代になっても、日本の中国からの"漢語"摂取は已然として続けられていたと言ってもいい。


 この「中国から日本へ」の流れが大きく変わったのは19世紀後半である。

1868年に明治の新体制に突入した日本は1881年には詔勅により1890年に議会を開催することを世に知らせたが、中国は1907年にようやく清朝が立憲の詔勅を出し、26年の遅れをとった。また、日本は1889年に大日本帝国憲法を発布したが、中華民国臨時約法は1912年の発布であり、23年遅れている。そして、清朝末期から中華民国初期にかけてのこうした流れを促進させたのは言うまでもなく清朝の日清戦争での大敗北(1905年)である。


 日清戦争以後の中国は「北はロシア、西は英国、南はフランス、東は日本、四方を列強に囲まれ危機迫る」(*1)という状況で「救国のためには維新が必要であり外国に学ばねばならず、西洋に学んで成功を遂げた日本を中国も見習いたかった」(*2)。

そして当時の中国維新派は欧米の書籍だけではなく、日本のものを大量に翻訳したのである。  

特に、康有為は「維新から今に至るまでの30年で欧米の政治、文学、武備など新しい知識の良書が翻訳されている。(中略)

日本の書籍を翻訳したほうがいいのは、文字の8割がわれわれの漢字であり、翻訳が時間をかけずに簡単にできるからだ」(*3)と主張し、

梁啓超は「西洋の政治、経済、哲学などに関する書籍を読もうとするなら、速くとも5、6年を費やさなければならず、踏み込んでやろうとすれば更に10数年かかる」(*4)、

「日本語なら学ぶのに数カ月で初歩まで達することが可能であり、日本の学問はすぐにでも我々のものとなる」(*5)と日本語書籍の翻訳の重要性を説いている。


 1896年、日清戦争が終わって間もなく清朝は駐日大使の新任にあわせて13人の留学生を日本に派遣した。これがおそらく近代中国初の日本への公費留学生であろう。

また1898年には、張之洞が『勧学篇』の中で「留学先としてはその便宜性において西洋は東洋(日本)には及ばない。近いために旅費を節約でき、多くの留学生の派遣が可能であり、また視察にも便利である。そして日本語は中国語に似ており、容易に理解できる。

西洋の本は膨大過ぎて要領を得難いが、日本人はそれらを既に取捨選択してくれている。

日本の風俗も中国に似かよっており、模倣も容易で、これに勝るものはない。

それで尚、更に詳しい知識を得たいと考えるなら、その時に改めて西洋へ渡ればよいのである」(*6)と説き、清朝も1903年にこの意見を取り入れて『遊学卒業生奨励規定』を制定、結果、日本への留学が大ブームとなったのである。


当時の日本への留学者数について正確な数を知るのは困難だが、馬祖毅氏は「20世紀初め、日本への留学生は最も多かった」とし「1905年は8000人」、「1906年は13000人」と推定している(*7)。


 こうした背景もあって、清朝末期から中華民国初期にかけての中国国内の日本語書籍の翻訳本は西洋の書籍数を大きく上回った。

楊寿椿は『訳書経眼録』の目録に基づき、光緒年代末期(1902年〜1904年)に翻訳された533の書籍のうち60%以上の321が日本語書籍であったとしている。(*7)

そして、これらの翻訳書から日本で生まれた"和製漢語"が中国で広く使用されるに至ったのである。


________

2.現代中国語における“和製漢語”の重要性


 中国には1982年に出版された『漢字外来語詞典』という辞書がある。

この辞書は「劉正炎、高名凱、麦永乾などの学者が1960年から22年の歳月をかけて編纂した」(*8)もので約一万の外来語を収録しているが、日本語はその内、896で全体の10%を占めている。

この比率は、中国の漢語外来語吸収の歴史の長さや、英・仏・独・露などの外国語のみならず、朝鮮語・カザフ語・ウイグル語・モンゴル語といった少数民族の言語も含んでいることを考慮すれば、決して小さな数字ではないと言えよう。

ここで、『漢字外来語詞典』に紹介されている"和製漢語"896をその「成り立ち」から分析すると、次の六種に大きく分類し、南ドンが中国で中国人が使用したのを一度でも聞いたことがある"和製漢語"を中心に具体例を幾つかご紹介する。


)、漢字を利用して欧米の語彙の音訳が中国へ伝わったもの

瓦斯、基督、基督教、倶楽部、珈琲など


2)、漢字を利用して欧米の語彙の意訳が中国へ伝わったもの

亜鉛、暗示、意訳、演出、大熊座、温度、概算、概念、概略、会談、会話、回収、改訂、解放、科学、化学、化膿、拡散、歌劇、仮定、活躍、関係、幹線、幹部、観点、間接、寒帯、議員、議院、議会、企業、喜劇、基準、基地、擬人法、帰納、義務、客観、教育学、教科書、教養、協会、協定、共産主義、共鳴、強制、業務、金婚式、金牌、金融、銀行、銀婚式、銀幕、緊張、空間、組合、軍国主義、警察、景気、契機、経験、経済学、経済恐慌、軽工業、形而上学、芸術、系統、劇場、化粧品、下水道、決算、権威、原子、原則、原理、現役、現金、現実、元素、建築、公民、講演、講座、講師、効果、広告、工業、高潮、高利貸、光線、光年、酵素、肯定、小熊座、国際、国税、国教、固体、固定、最恵国、債権、債務、採光、雑誌、紫外線、時間、時候、刺激、施工、施行、市場、市長、自治領、指数、指導、事務員、実感、実業、失恋、質量、資本家、資料、社会学、社会主義、宗教、集団、重工業、終点、主観、手工業、出発点、出版、出版物、将軍、消費、乗客、商業、証券、情報、常識、上水道、承認、所得税、所有権、進化、進化論、進度、人権、神経衰弱、信号、信託、新聞記者、心理学、図案、水素、成分、制限、清算、政策、政党、性能、積極、絶対、接吻、繊維、選挙、宣伝、総合、総理、総領事、速度、体育、体操、退役、退化、大気、代議士、代表、対象、単位、単元、探検、蛋白質、窒素、抽象、直径、直接、通貨収縮、通貨膨張、定義、哲学、電子、電車、電池、電波、電報、電流、電話、伝染病、展覧会、動員、動産、投資、独裁、図書館、特権、内閣、内容、任命、熱帯、年度、能率、背景、覇権、派遣、反響、反射、反応、悲劇、美術、否定、否認、必要、批評、評価、標語、不動産、舞台、物質、物理学、平面、方案、方式、方程式、放射、法人、母校、本質、漫画、蜜月、密度、無産階級、目的、目標、唯心論、唯物論、輸出、要素、理想、理念、立憲、流行病、了解、領海、領空、領土、倫理学、類型、冷戦、労働組合、労働者、論壇、論理学など


3)、日本が独自につくった漢字が中国へ伝わったもの

腺、糎など


4)、漢字を使用してつくった日本語が中国へ伝わったもの

味之素、入口、奥巴桑(オバサン)、海抜、学会、歌舞伎、仮名、簡単、記号、巨星、金額、権限、原作、堅持、公認、公立、小型、克服、故障、財閥、作者、茶道、参観、支配、支部、実権、実績、失効、私立、重点、就任、主動、成員、銭、組成、大局、榻榻米(タタミ)、立場、単純、出口、手続、取消、内服、日程、場合、場所、備品、平仮名、広場、服務、不景気、方針、明確、流感、和服など


5)、古代漢文の中にあった語彙を使った欧米の語彙の意訳が中国へ伝わったもの

胃潰瘍(周礼)、医学(旧唐書)、意義、階級、綱領、労働(三国志)、意識、専売(北斎書)、遺伝、右翼、教授、共和、経費、交通、左翼、主義、侵略、生産、天主、博士、輸入(史記)、印象(大集経)、衛生(荘子)、演習、投機(新唐書)、演説(尚書)、鉛筆(東観漢記)、会計、具体、交際(孟子)、革命(易経)、科目、経済(宋史)、学士(礼儀)、学府(晋書)、課程(詩経)、環境(元史)、機関(易林)、記録、抗議、自由、柔道、神経、節約、分析、分配、理性(後漢書)、気質、身分(宋書)、気分(孔子家語)、規則(李群玉)、規範(孔安国)、偶然(列子)、計画、同情、理事(漢書)、現象(宝行経)、憲法(国語)、交換(魏志)、時事、信用、封建、保障(左伝)、思想(曹植)、事変(詩序)、資本(釈名)、社会(東京夢華)、主食(通鑑)、消極(周書)、条件(北史)、世紀(晋皇甫謐)、精神(庄子)、想像(楚辞)、相対(儀礼)、組織(遼史)、素質、白金(璽雅)、知識(孔融)、登記(斎民宝要)、道具(釈氏要覧)、能力(柳宗元)、発明(宋玉)、反対(文心彫竜)、美化(南史)、悲観(法華経)、標本(劉伯温)、服用(礼起)、物理(晋書)、文化(束哲)、文学(論語)、文明(易・乾)、分子(殻梁伝)、法則(周礼)、法律(管子)、保険(隋書)、民主(書・多方)、民法(書・湯誥)、予算(耶律楚材)、理論(鄭谷)など


6)、古代漢文の中にあった語彙を使い、日本が自ら創り出した概念が中国へ伝わったもの。

浪人(柳宗元)など

 "和製漢語"の掲載は全体の半分くらいにとどめたが、それでも今これらの言葉がもしなければ中国語での日常会話すらほとんど成り立たなくなることが分かる。

それほど"和製漢語"は現代中国人の日常生活に溶け込んでいると言えよう。


__________


3.「中華人民共和国」、「中国共産党」は“和製漢語

 多くの読者の方は前章における"和製漢語"の分類で「漢字を利用して欧米の語彙の意訳が中国へ伝わったもの」について、多くの社会思想用語が含まれていることにも気が付かれたことだろう。


 日本では1881年に早くもキリスト教の『六合雑誌』上にて小崎弘道が社会主義を紹介し、1897年には社会主義研究会が片山潜、幸徳秋水らによって設立された。そして1900年には社会主義協会が成立し、一年後には日本初の社会主義政党「社会民主党」が成立した。

1904年、マルクスの『共産党宣言』が幸徳秋水、堺利彦によって翻訳され、これが当時の革新的中国人留学生に啓蒙的影響を与えた。

呉玉章は「1903年、私は東京で幸徳秋水の『社会主義神髄』を読み、人間の平等、貧富の消滅などの大きな理想に感動を覚えた」(*9)と述懐している。


 こうした歴史から見れば、「中華人民共和国」、「中国共産党」という中国語も"和製漢語"がなければ成り立たないという状況も別段おどろくべきことではない。


________


4.“和製漢語”を忘れた日本人


 中国人が現在に至るまで多くの"和製漢語"を使用し続けてくれている反面、皮肉にも日本ではカタカナによる外来語化が進んでしまっている。

先に紹介した「漢字を利用して欧米の語彙の音訳」などはその最たるもので瓦斯はガス、基督はキリスト、倶楽部はクラブ、珈琲はコーヒーと表記するのが今は普通になっている。

これら簡単なものならともかく、デフレーションは「通貨収縮」、インフレーションは「通貨膨張」のほうが分かりやすくないだろうか。


 日本では昨今、分かり難い外来語を漢字表記に戻そうと国立国語研究所が躍起になっていると聞く。中国ブームと言っても過言ではない今、日本人は対中投資だけに夢中になるのではなく、漢語の"再輸入"を検討すべき態度が必要なのかもしれない。

 同時に中国人読者の方には以上の歴史を通して、経済のみならず、身近な言語文化においても日中双方が“影響し合って”きたのだということを認識していただきたい。「交流に一方通行はありえない」…日中両国民は古(いにしえ)から今日に至るまで“相互”交流を続けてきた。そして将来も互いに影響を与え合い、共に成長していくべきなのである。


参考文献
*1 『康有為詩文選・強学会序』 陳永正 広東人民出版社 1983年
*2 『毛沢東選集(四)』より「人民民主独裁を論ず」 毛沢東 人民出版社 1991年
*3 『変法以致昇平―康有為文選』より「請広訳日本書派遊学折」 謝遐齢 上海遠東出版社 1997年
*4 『飲冰室合集(四)』より「東籍月旦」 梁啓超 中華書局 1936年
*5 『飲冰室合集(四)』より「日本語を学ぶ益を論ず」 梁啓超 中華書局 1936年
*6 『勧学篇』 張之洞 中州古籍出版社 1998年
*7 『中国翻訳簡史(上)』 馬祖毅 中国対外翻訳出版公司 1999年
*8 『漢字外来語詞典』 劉正炎、高名凱、麦永乾 上海辞書出版社 1984年
*9 『呉玉章回憶録』 呉玉章 中国青年出版社 1978年
http://freett.com/nandon/lunwen1.htm



82. 2012年10月19日 17:30:47 : 8cT6RdHJSI
中国は56もの民族からなる多民族国家
そのうち漢民族が全人口の96%
そのほかの55の民族は約6%

ちなみに共産党員は全人口の約5%


83. 2012年10月19日 17:51:24 : HNPlrBDYLM
ここで問題になっているのは

その漢民族と言われているのが実は遺伝子や言語の系統が全く異なる何千もの民族の総称だという事

中国では王朝が変わる度に前王朝の人間の8割を殺して、その代わりにシベリアや満州に住んでいた原始人を強制連行して働かせていた。

従って今の中国にいる自称漢民族はシベリアや満州の原始人の子孫だったという話


84. 恵也 2012年10月20日 20:56:05 : cdRlA.6W79UEw : 4lyghvOIpM
>>81 日本から中国へ“和製漢語”が伝来した背景

なんかコピペしているようだが、こんな難解なものは読む気がしないけど極一部
を見たけどあまりにも翻訳の仕組むを知らないのじゃないかね。

明治時代の外国語の翻訳を熱心にしたのは中国より日本の方だと思うが翻訳
は誰か一人の偉人の鶴の一声で決まるものじゃない。

たとえばデモクラシーを日本語では民主主義と現在は翻訳してる。
しかし明治の翻訳者はこの言葉を民本主義と翻訳したり、共和主義と翻訳したり
その他たくさんありましたが、自由競争の中で民主主義という翻訳が勝ったわけだ。

日本で主流になったのは民主主義であり、中国にも同じように翻訳の自由競争
のなかで民主主義が勝利を納めたんじゃないかな。
だから”和製漢語”という表現は間違いで”共通漢字”と表現すべき。

でも今の中国は漢字自体が簡略化されて、日本の漢字と極端に変わったでしょう。
和製漢語どころか、今の中国語はまったく俺には読めない文字ばかりだ。


85. 2012年10月20日 21:27:55 : HNPlrBDYLM

中国の事何も知らないんだね。

戦前の中国の学校では日本の国語の教科書を使って言葉を勉強させてたんだよ。

日本人を中国に呼んで漢字を中国人に教えさせていたんだ。

今の中国で使っている言葉の半分はそうやって日本語から取り入れたのさ:

さくらじ#31 宮脇淳子再び登場!
http://www.youtube.com/watch?v=tUY_Siu-BFk


86. 2012年10月20日 23:19:15 : HNPlrBDYLM

1931年の満州事変前後の時期に中国大陸で空前の日本・日本語学習ブー
ムがおきていた


34年12月28日付『読売新聞』に掲載された米村取二「近頃支那の種々相」(その一)として「日本語万歳!」と題した記事を紹介している。

「日本語!日本語!いまや世界を挙げての,わが日本研究熱の旺なことはどうだ一といふも過言ではあるまい。特に,新興満州国誕生以来,そして,華北停戦協定の成立を契機に中学生を中心とする若き支那の青年男女の間における日本語熱は文字通り素晴らしいしいものである。」

実藤恵秀はその他にも1934年〜1936年間に発行された日本語学習書目録を取り上げている(【表1】を参照)。日本語学習熱を支えた学習書の出版が,活発であったことをうかがうことができよう。
klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/.../3803/.../kana-12-15-0016.pdf


要するに当時の中国語の語彙では欧米の文献を翻訳できなかったので、まず日本語を勉強したのさ。


  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
  削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告する?」をクリックお願いします。24時間程度で確認し違反が確認できたものは全て削除します。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 中国3掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 中国3掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧