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中国がアメリカに握られた最大の弱み
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/458.html
投稿者 三条久恒 日時 2013 年 3 月 04 日 11:29:40: QdbcoP7fn2cfs
 

NUEQ LABというサイトに中国の弱みに関して、次のような興味深い記事があったので紹介する。
<貼り付け>

        
      
                      ヒラリー長官の警告

     ヒラリー・クリントン国務長官が9月に訪中した際、支那の指導者に語った内容

クリントン長官は支那の指導者に対し、「 貴国がフィリピン、ベトナムおよび日本と開戦すれば、米国は6つの対策を考えている。一兵卒も使わず、中国を負かすことができるだろう 」と言ったという。 具体的な「 対策 」は下記の6項目。

 (1) 支那の政府高官が所有する海外の銀行口座の残高を発表し凍結
 (2) 米国のパスポートを持つ支那人官僚の名簿を公表
 (3) 米国に住んでいる支那人高官の家族の名簿を公表
 (4) ロサンゼルスにある「 妾村 」を一掃
 (5) 米国在住の支那人高官の家族をグアンタナモ刑務所に収容
 (6) 支那国内の失業労働者などの不満分子に武器を提供。

先ごろ、温家宝首相の不正蓄財がニューヨーク・タイムスで報じられたが、不正蓄財が噂されている支那高官は、

  習近平一族  1兆円 〜 2兆円
  温家宝一族  2100億円( 27億ドル )
  薄熙来一族  8000億円
  トウ小平一族 8500億円( 10年前 )
  劉氏一族   1500億円( 鉄道 )
  張曙光     2300億円( 鉄道 )

張曙光:元鉄道省運輸局長は、高速鉄道建設に絡む汚職事件で昨年に摘発され、米国で3軒の高級邸宅を持っているほか、米国とスイスで28億ドルの預金があると報道されている。

ハーバードに留学している薄煕来の息子や、習近平の一人娘を始め、政府高官の家族の多くはすでにアメリカ在住。 要するにアメリカから人質に取られているわけだ。

「 ロサンゼルスの妾村の一掃 」とは、多くの高官は妻を米国に移住させたほか、愛人にも米国の豪邸を買い与えている。それがロサンゼルス周辺に集中しているため、ネットでは「ロサンゼルスに支那の妾村ができた」と揶揄されている。妻よりも愛人を大事にしている高官が多いため、家族だけではなく愛人を一緒に刑務所送りすれば、支那高官たちへ与えるダメージはさらに大きい、ということを言いたいようだ。

支那国内では、土地の立ち退き問題などで毎年20万件以上の暴動が起きているとされており、不満分子に武器が提供されれば、人民解放軍を相手にたちまち内戦が始まりそうだ。

この「 戦わずにして支那(中国)に勝てる6つの方法 」は、支那国内のネットの書き込みによって話題となったもので、実態は中国人のネットユーザーによる作り話とみられるようだが、実際に効果のある方法であることは間違いない。  

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コメント
 
01. 2013年3月04日 14:54:44 : xEBOc6ttRg
執筆 : 田中 信彦(たなか のぶひこ)

− 第48回 −

あれから1年、烏坎村はどうなったか 〜「民主」への遠い道のり

 今から1年前、連載の第38回で「政府が天から降りてきた〜変わり始めた中国の統治者と民衆の関係」という文章を書いた。広東省汕尾市の傘下にある陸豊市(中国では上級の「市」の下に下級の「市」が所属する)東海鎮烏坎(うかん)村という農村で起きた、土地収用に関する「暴動」の話である。この問題の処理で中国政府は異例とも言える民主的な対応を見せた。これをきっかけに社会問題の解決に対する政府の姿勢が変わるのではないかとの期待が高まった。

 この時、文章の最後で私はこう書いた。「中国社会がいわゆる民主化の方向に動き出していることは間違いないが、数十年間続いた強権支配の仕組みを転換するのは容易なことではない。(中略)簡単な道のりではないが、すでに方向は定まっている。期待しつつ見守っていこうと思う。」それから1年の時間が経って、この村はどうなったか。

 結論から言えば、残念ながら事態は全く前に進んでいない。というよりむしろ中国社会で「民主化」というものがいかに困難であるか、その実現には恐ろしく長い、難しいプロセスを踏まなければならないことを実感させるものになりつつある。最近になってこの村に関する情報が少しずつ伝わり始めてきたので、今回はこの話を振り返りつつ、中国社会のこれからを考えてみたい。

「百姓一揆」に政府は譲歩したが……
 詳しくはその回の文章をご参照いただければありがたいが、事件の概要を簡単に振り返っておく。「暴動」以前の烏坎村一帯では、長らく不動産開発を狙う企業と地元の村政府が組んで農民から農地の使用権(耕作権および居住権)を安く買い取り、それを転売して巨額の利益を上げるという手法が横行してきた。怒った農民らは一昨年の2011年9月、数千人で村政府の建物や警察の派出所を包囲、一部は破壊行為に及んだ。同年12月、再び大規模な衝突が発生、この時、警察に拘束されたリーダーの1人が署内で死亡したことから村民は激昂、村の周囲にバリケードを作って立て籠もり、当局側は逆に村を封鎖して「兵糧攻め」にするという事態にエスカレートした。

 一触即発、全面衝突の危惧が高まったところで、突如として広東省政府高官が地元テレビに出演、同村の民衆の訴えに理解を示し、破壊行為に対しても逮捕や処罰しないことを約束した。前後して市の幹部が村を訪れ、政府の手法に不当なところがあったことを認めて謝罪する一方、過去の土地収容を見直し、交渉に応じる考えを伝えた。

 昨年2月には村の幹部を選ぶ選挙(中国では村レベルでは以前から条件付きながら選挙が行われている)が実施され、抗議活動のリーダーが村政のトップに就任、12月の「暴動」で警察に捕まった5人の村民のうちの1人が村の選挙管理委員会の委員に選出された。さらに警察署内で不審死した男性の娘が高得票で村民代表(村議会議員のようなもの)に選出されるという結果になった。かくしてこの現代版「百姓一揆」は、政府側の「完敗」で決着、農民との間で土地返還交渉に乗り出すことになった。

曖昧な農地の財産権。「土地の奪還」は不発に
 ここまではよかった。大変なのはここからである。新たな村指導部は農民が「奪われた」土地の返還もしくは相応の金銭的な補償を求めて交渉を始めたのだが、これがまったく埒があかない。土地を買い取ったデベロッパーにしてみれば、腐敗した指導部とはいえ、当時の正式な村政府の許可を得て「合法的に」買い取った土地を返さなければならない理由はない。もし村政府が「土地を返せ」と要求すれば、デベロッパーは投資した資金と損害賠償を請求するだろう。そんなカネが村政府にあるはずもなく、旧指導部の責任を問うたところでカネが出てくるわけでもない。 結局、村の新指導部が農民に土地を返そうにも、その土地の大半はすでに「合法的に」人手に渡ってしまっており、手が出せない。

 その背景にあるのが、中国の農村の土地制度の曖昧さである。都市部の不動産であれば、土地の所有権は国にあるが、都市部住民や企業は50〜70年といった期限付きではあるが、その土地の使用権が法的に財産権として確立しており、それが侵害されれば法律に基づいて抗議し、裁判に訴えることもできる。しかし農村部では、土地は法には「集団所有」といって村の農民全体に集合的な所有権がある建前になっている。「全体の所有権」とは事実上、誰にも所有権がないのと同じで、現実の管理者である国や地方政府に大きな裁量権が生まれる。正当な手続もないまま農民の土地がタダ同然で収用され、転売されてしまう事態が発生する根本的な原因はここにある。このあたりの制度改革なしに土地を取り返すことは難しいのが現状だ。

「民主化のせい」で開発がストップ
 一方で古い指導部からこれらの土地を獲得したデベロッパーが大儲けしたのかといえば、そうでもない。これらの土地はすでに開発されてマンションや高級戸建て住宅などになっているが、この村の「暴動」は全国的に有名になってしまい、いつ農民に取り戻されるかわからない。こんな物件を買う人も借りて住む人もいるはずがなく、開発された物件は塩漬けのまま放置されているという。デベロッパーとしては商売のアテが外れて大きな損害を受けた格好になっている。

 このことがさらに次の問題を生んでいる。仮に農民から正当な手続を経ずに収用された土地であったとしても、そこにマンションが立ち、リゾート開発がなされたりして新たな投資が入れば村の経済はそれなりに成長する。新たな住民や観光客が入り込むなどして経済が活性化することで地価がさらに上昇するなど経済的なメリットを得ることもできる。ところが今回の抗議活動のおかげで同村の新たな開発は事実上ストップし、新たな資本の流入は期待できなくなり、村の成長戦略が描けなくなってしまった。

 こうした事態に対して、村の中で意見の対立が表面化し始めた。不当な手続で土地を奪われた農民が抗議するのは当然としても、村民の間にも温度差はある。直接に大きな損害を受けていない村民にしてみれば、村外の資本による開発で新たに入るはずだった資金や地価上昇の期待、経済成長のチャンスが騒ぎのせいで水泡に帰したと映る。「余計なことをしてくれた」という感覚である。こうした村民たちは新しい指導部に対して「自分の土地を守るために村全体の利益を犠牲にしている」と攻撃を始めた。

 これには新しい村の指導部はかなり精神的にショックを受けたようだ。今回の村民たちの抗議活動の中心人物で、選挙後に村の党書記(村政のトップ)に選出された、村の長老格である林祖恋氏は最近のテレビインタビューで「自分が指導者になったのは村の人々のためであって、自分の利益など一切考えていない。そうでなければ誰がこんな損な役回りを引き受けるものか。今ではリーダーになったことをひどく後悔している」と語っている(東方衛星テレビ局13年2月14日放送 「烏坎前維権骨幹争奪権力村主任後悔維権 (*日本の漢字に置き換えています。)」)。

国内の政治的事件も影響か
 中央の政治的雰囲気もこの事件の「その後」に影響を与えた可能性がある。抗議活動が起きた11年9〜11月、事件の民主的な解決を主導したとされているのが、当時の広東省トップの汪洋氏である。改革派で豪胆な人物との評価が高い。「暴動」の初期段階で広東省の高官を村に派遣し、いち早く謝罪をさせて村民の怒りを鎮めたのは同氏の指示というのが定説だ。ところが翌12年に入ると、秋の党大会で中央政治局常務委員会入りを狙う同氏は突出した動きを控えたとみられている。最大の後ろ楯の姿勢の変化を反映してか、広東省政府は以後、烏坎村の問題に積極的な関与を少なくしていく。また12年2月には中国の政界を震撼させた薄熙来事件が発覚、クーデター説も飛び交う異常な状況に政府は民主化どころではない状況に陥ったこともこの問題解決の足を引っ張った。

 かくして村の期待を集めつつ民主的な選挙で選ばれた新指導部は村民からは「何の成果もない」「自己利益を図っている」と批判され、上級政府からは「面倒なことをしてくれるな」と疎んじられ、デベロッパーには損害賠償を求められかねないという孤立無援の状態に陥ってしまった。運動の熱が冷めてみれば、村の民主化のためにあえて立ち上がったはずの新指導部を支援する人は次々と消えてしまったのである。

仕組みが変わらない限り、何も変わらない
 どうしてそうなってしまったのだろうか。まず言えるのは「仕組み」が変わらない限りどうにもならないということだ。確かに今回の農民たちの抗議活動で村の指導部は民主的な手続で交代した。これは画期的なことには違いないが、新指導部を取り囲む制度や仕組みは何も変わっていない。農地の所有権の問題も、デベロッパーと地方政府の利害関係も、開発業者と発注する官庁の構造的癒着も、村の長年の姻戚関係も、何も変わっていない。そういう中で指導部の顔ぶれが変わっても、結局のところ何もできなかったということだ。

 確かに以前の村の指導部は腐敗しており、デベロッパーや建設業者などから不正な利得を得ていたとされる。だがこうした腐敗行為が深く経済活動に組み込まれていると、腐敗を前提にシステムが出来上がっているため、役人が腐敗しないと政府の仕事全体が動かなくなってしまう。住宅を建てるのも、学校や病院を建設するのも、結局のところ政府の投資である。役所の仕事が回らなくなれば人々の生活に差し支えるから村民は不満を持つ。その状態が長期化すれば、逆にそのことが攻撃の対象になってくる。つまり「民主化」への移行期にかかるコストを人々は本当に負担する意志があるのかという問題である。

 現時点では村民の意識はあくまで自らの損害の補償にあり、政治の民主化を望んでいたわけではないというのが現実だ。前述したリーダーの林祖恋氏は同じインタビューで「一部の村民たちは理性を失い、新しい指導部にいいがかりや無理難題をつきつけて責めたてている。新しい指導部を転覆させようとしている者もいる」などと語っている。本来、やっとのことで自分たちの力で新しい代表を選んだのだから、多少のことは我慢しても指導部を支持し盛り立てていくのが筋だろう。

 ところが現状はその逆になっているようだ。一時の熱気に駆り立てられて古い指導部を追い払うことはできるが、新たな政治の仕組みづくりに関与しようとはしない。それどころか自ら選んだはずの新指導者に無理難題を突きつけ、要求が実現しないと罵倒する。献身的に努力してきた指導者たちは村民たちの姿勢に嫌気が差し、新指導部の数人はすでに村政の場から去り、リーダー格の林氏も「後悔している」と公開の場で発言するまでになっている。新たな村政は崩壊寸前である。 

「民主化」か「経済的利益」か
 もっとうがった見方もできるかもしれない。これまで市民や農民が土地収用や公害問題などで抗議活動を起こし、それが大規模化すると、中国政府は表面上、その訴えを認めず力で押さえ込む一方、水面下でカネや利権を配り事態を収拾するのが通常のパターンだった。ところが今回の烏坎村の問題では、政府は村民を黙らせるための「つかみガネ」を出すことをしなかった。その代わり?に村民たちに自分でものを決める権利――「民主」を与えたと見ることができる。

 わかりやすく言えば「黙って言うことを聞くならカネをやる。やりたいなら自分たちの好きなようにやっていい。でもカネは出さない」ということである。もしかすると中国政府は、独裁政治とは維持に恐ろしくカネがかかるもので、それより「民主」にして責任を「民」に押しつけたほうが安上がりだと気がついてきたのかもしれない。

 それに対して村民の側は、運動が高揚している間は「カネより民主」だったが、事が落ち着いて冷静になってくると「民主よりカネ」と言い出す人々が増えてきた――ということだろう。「民主」となればカネは自分で稼がねばならない。専制的な権力の下では、言うことを聞いていれば政府がなんとかしてくれる。もちろんそのプロセスで権力に連なる人々はさらに潤う仕組みになっているのだが、そこは見ないふりをしていればいい。

 権力者の言うことが多少気に入らなくても、腰を低くしてさえいれば後のことはすべてお上が考えてくださる。権利がないのだから自分では何も政治的な判断をする必要はないし、投票したわけでもないから責任を取る必要もない。貰えるものだけ貰って、充分に貰えなければ文句を言う。「民」としてはある意味で楽な仕組みである。

 こういう感覚が数十年にわたって持続してきた社会で、「自ら道を決め、自ら責任を取る」という「民主」の発想が根付くには想像を絶する変化を経なければならないだろう。そういう「民」の自覚の変化なしに指導層を取り替えても、政治の仕組みを多少変えてもどうにもならない。そのことは今回の烏坎村の問題の推移を見れば容易に想像がつく。

 怖いのは、中国という国全体が「烏坎村化」する事態である。「民」の意識も社会の構造も変わっていないのに、充満したガスが何らかのきっかけで爆発し、既存の仕組みが崩れる。もしかしたらそのきっかけは外国との武力衝突かもしれない。広東省の一農村で起きた小さな問題ではあるが、事の顛末は中国社会の改革の難しさを明瞭に示している。

(2013年3月4日公開)


02. 2013年3月04日 19:04:42 : ZuvBR3nj2c

 だが、中国は大量の米国債を持っている、これを叩き売られたら米国経済は崩壊する。

 日本も大量の米国債を持っている(ことになっている)が、ニューヨーク連邦準備銀行に拉致・幽閉されており、売ることはおろか触る事も見ることもできない。
 騙し盗られたのと同じだ。



03. 2013年3月04日 21:09:38 : GVYsLuFuCE
アメリカ連邦議会が運営するRadio Free Asiaは、中国大陸向けを中心に短波によるラジオ放送を連日12時間、行なっている。アメリカ連邦政府が運営するVoice of America、イギリスBBC放送など、中共体制を崩壊させることを目的とした短波ラジオ放送が行なわれ、アジア極東地区上空はさながら「電波戦争」の様相を呈している。

月刊短波2012年3月号(第2版)から関係分を紹介する。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~BCLSWL/TA1303.html

(一部転載します。)

◎VOA短波で新サービス 〜短波放送でテキスト送信 2版追加

VOAは危機的な状況にある地域に対して短波放送を利用した新しい通信サービスを開始する準備を整えた。このサービスは「Radiogram」といい、アナログ短波放送を通じてテキストや画像を送るものである。短波で送信されるのは往年のダイアルアップモデムのような「ピリピリ」音で、これを受信機・コンピュータで復調するとテキストや画像が現れる。技術自体は目新しいものではなく、アマチュアや海賊局が昔から行っているスロースキャンTVに似ている。通信が制限された地域にも生の情報を具体的に伝えたいというのがRadiogramの狙いである。短波放送は広い領域をカバーできる上に、ジャミング等で状態が悪くてもRadiogramの復調は可能である。復調にはコンピュータ上で走るソフトが必要であるが、簡単に稼働できるものを開発中である。VOA は現在Radiogram用の試験番組を制作中であり、世界中のBCLに復調して評価してもらいたいと思っている。最初のRadiogramの送信は GreenvilleのEdward R. Murrow送信所から行われる予定である。Mighty Radio KBCは同様のRadiogram試験放送をドイツのNauen送信所から3月に行う予定である。(DXLDyg 2/21)

Mighty KBCは2月24日の10:30頃、MFSK16形式によるRadiogramの試験を実施した。最も復調に適した音声周波数を選択するために、510、 1000、1500、2000、2500、2900Hzの音声が流された。また同日の11:00頃にはMF-63形式で、人間の音声と2000Hzのデジタルデータを同時に送信する試験も実施された。(DXLDyg 2/25)

3月1日からのVOA Radiogramの送信スケジュールは以下の通りである。送信所はすべてGreenville、出力は80kW。
 11:30-12:00 5745 190度 
22:00-22:30 6095 190度
 01:00-01:30 15670 17860 45度
(ブルガリア Ivo Ivanov氏)
http://voaradiogram.net/に詳細な情報が掲載されています。テキストの復調にはFldigi、イメージの復調にはFlmsg and Flampというソフトウェアが必要です。これらはhttp://www.w1hkj.com/より入手できます。政府等によってインターネットが遮断されても最低限の情報ルートを維持しようとするもので、短波放送の特質を良く生かしています。なおVOAは数十年前に短波でスロースキャンTV放送を行っていたこともありました。

◎中国BBC等の英語放送に対してもジャミング攻撃

インドの Alokesh Gupta氏によると、BBCはWorld Serviceの短波英語放送に対して中国がジャミングを発射していると発表した。ジャミングの発信地は正確には同定されていないが、中国政府により中国国内で広範囲で組織的にジャミング発射が行われBBC英語放送の聴取妨害が行われているとしている。BBCでは聴取者の情報アクセスの自由を妨げるものであるとして非難している。(DXLDyg 2/25)

NDXCの長谷川清一氏によると、中国の各国英語放送に対するジャミングは2月10日以降確認されており、対象はイギリスBBCの他にアメリカVOA、インドAIRなどである。これらのジャミングはDRM送信機によるものとも思われ、デジタルノイズ音を広帯域にまき散らしている。また発信源は中国南部と推測される。 (DXLDyg 2/27) VOAのRadiogramなどはその対抗策と思われます。

(一部加筆。転載終了)

Voice of Americaのサイトです。
http://www.voanews.com/

BBCのサイトです。
http://www.bbc.co.uk/

インドのAIRのサイトです。
http://allindiaradio.gov.in/


04. 2013年3月05日 01:38:46 : xEBOc6ttRg

社会主義体制の周縁で起きた「辺境革命」

『中国共産党と資本主義』第6章を読む(2)

2013年3月5日(火)  ロナルド・コース 、 王 寧

 中国の改革の物語を正確に表現するには、中国の市場転換における2つの改革の共存を認識しておくことが絶対に必要だ。そもそも、ポスト毛政権は明らかに国家主導の改革推進をもくろんでいた。毛沢東の社会主義体制の悲惨な経済実績は、かつて意気揚々としていた党を失望と挫折と屈辱にまみれさせた。

 この挫折感は、アジア近隣諸国や他地域の国々が急速に経済成長していると指導部が知ってから、いっそう深まった。しかし彼らは外遊中に技術革新や経済的繁栄を目の当たりにして奮起し、励まされてもいた。対外開放をして先進諸国から学びさえすれば中国は追いつける、と考えたのだ。中国指導部は承知していた。この先には道しるべがないと。行き先すら知らなかったかもしれない。それでも、断固として改革に臨んだ。経済の停滞から脱したくてたまらなかった。

華国鋒政権の「洋躍進」

 国家主導の改革が始まったのは1976年の末、華国鋒が経済を刺激する計画「4つの近代化」を復活させたときだった。もともとは64年に周恩来首相が提案したものだが、毛沢東の「社会主義教育」運動の発動と2年後の文化大革命ですぐ棚上げにされていた。

 華国鋒政権の中国は速やかに自滅的な階級闘争を終わらせ、社会主義的近代化に着手する。1年後、のちに批判者から「洋躍進」と呼ばれる野心的な対外開放の経済計画が始まった。20数件の開発プロジェクトの資金調達に外資を利用するものだったが、ほとんどは重工業と関連インフラだった。

 しかし「洋躍進」は長続きせず79年末に幕を閉じる。計画自体の欠陥のせいでもあり、78年12月の11期三中全会後、?小平と陳雲が政治の中枢に返り咲いた政権交代のせいでもあった。

 陳雲が中国経済の舵取りに戻ると、党中央委員会は1979年4月に当時「八字方針」と呼ばれた「調整、改革、整頓、向上」を打ち出して、ポスト毛政権による国家主導改革の第2ラウンド到来を告げる。この新経済政策で「洋躍進」は打ち切りとなった。

 新方針には「改革」も含まれていたが、基本的に経済の緊縮策であり、重点ははっきり「調整」に置かれていた。中国経済で調整が求められたものは何か。答えは簡単、「洋躍進」である。陳雲から見れば中国のマクロ経済的な問題をさらに悪化させたものだ。とくに重工業と軽工業、工業と農業の構造上のアンバランスを生んでいた。

最優先項目は農業

 新しい経済政策の最優先項目は農業だった。政府から見て「洋躍進」の最大の欠点は、農業を犠牲にして重工業に重点を置きつづけたことだ。そのため農業は、1978年コミュニケで認められたとおり苦境に陥っていた。

 食糧不足と飢餓は毛沢東時代に慢性的にはびこった問題であった。78年コミュニケは中国農業の暗澹たる状況に何度か言及し、農産物の買取価格を引き上げ、農村部への投資を増強すると約束した。この明確かつ緊急の農業重視策をもとに、政府はやがて、経済改革は農業から始まったと主張するようになる。

 これは重要なので、企業改革など他分野の改革も同時に始まったことを強調しておきたい。もっといえば、たしかに当時とられた農産物の買取価格の引き上げ、農民の食糧消費を増やすためのノルマ引き下げと食糧輸入増、副業の奨励、人民公社や生産大隊事業の発展といった農業政策は、このあと数年は農業生産を着実かつ大幅に増やし、農村部と都市部の不公平を軽減した。

 だが、これらは中国の農業改革として今日知られていること、つまり家庭請負責任制による私営農業をもたらした原動力ではなかった。私営農業は、飢えに苦しんでいた農民と地方幹部による草の根の改革だった。条件付きで承認された1980年には私営農業はひそかに多くの省に広まっていたが、ようやく国策となったのは82年のことだ。

 工業に関しては、調整政策の第一の目標は、重工業開発の速度をゆるめて軽工業への投資ペースを高めること、設備投資を削減して住宅や労働コストといった非生産関連の支出を増やすことだった。この経済的理由から、経済を消費支出へ向かわせ、とくに重工業の設備投資への依存度を減らそうとした。調整政策はすぐに農村でも都市でも、急速な生活水準の改善に変換されていった。

国有企業に対する「企業自主権の拡大」政策

 これ以外にも経済政策の一環として、中国政府は1978年に経済の非集権化のために策定した「権限委譲、利益譲渡」の改革計画を実行した。都市部の地方政府と企業に加えて、農村部の生産部隊にも自主性(「権限」)とインセンティブ(「利益」)をもっと与えるものだ。

 この政府主導の政策は、主に農業のほか、国有企業、国際貿易、財政の3つの分野で実施された。国際貿易については、この政策で事実上、貿易部の独占状態がなくなって、地方政府や国有企業が貿易会社を設立できるようになった。財政面では、この政策により地方政府が金融部から独立し、地方財政をほぼ自主的に管理できるようになった。

 この改革策の最重要ターゲットはむろん国有企業だった。新規プラント建設に重点が置かれた「洋躍進」とは違って、新政策では既存の国有企業の改善をめざしていた。企業改革は1978年12月の11期三中全会が召集される前に、まず省党委書記の趙紫陽が率いる四川省で試みられたが、79年には国策になった。目的は、主として経営上の意思決定権の大部分を政府から企業へ移すことで、民営化はしないで国有企業にもっと自主権をもたせることだった。

 この「企業自主権の拡大」は、停滞した工業セクターの再活性化のために政府が「洋躍進」に次いで着手した一大政策だった。中国はひきつづき社会主義を掲げていたため、企業改革は経済上の考慮よりもイデオロギーの厳しい制約を受けていた。結果として、改革は国有企業に活力を注入し、経営者も労働者もインセンティブを改善するのに役立ったが、国有企業を国から自由にすることはなく、かえって両者の入り組んだ関係をいっそう複雑にした。

 「八字方針」全般の効果は、政策の方向性が正しかったことは明らかなのだが、いささか限られていた。たとえば農業に関して中国政府がとった政策は、一定の範囲では多くの成功をおさめた。農民の生活水準に与えた好影響は即効性があって意義深いものだった。しかし農民を国家の締めつけから解放するには至らなかった。

 とはいえ、そんな国家主導の農業政策の厳しい制約が明らかになったのは、政府方針で断固禁じられていた私営農業が増大してからだ。同じように、企業改革は速やかに著しく労働者のインセンティブを向上させた。それでも、大きな限界が浮かびあがってくるのは国有企業が非国有企業と競争しだしてからだが、この改革だけでは足りないのは明白だった。

 政府が指導する公式の改革のほかに、別の路線の改革が存在した。これはいくつかの自発的な草の根運動の組み合わせだった。政府から、はっきり禁じられていたもの(1982年以前の私営農業、80年以前の都市の自営業)もあれば、政府方針で差別待遇を受けていたもの(80年以後の都市の自営業、郷鎮企業)もあり、北京から慎重に監視されていたもの(経済特区)もある。

 この路線は、飢えた農民が政府方針に逆らって私営農業をひそかに試みたとき、不完全就業の農民がもっと収入を得られる非農業の仕事を始めたとき、都市部の失業者が自営業や私企業設立を強いられたとき、何千何万もの不法移民がもっと良い暮らしを望んで、危険で多くは死に至る香港への国境越えに踏み切ったとき、中国全土で静かに前進した。この第二の改革は、私たちが「辺境革命(マージナル・レボリューション)」と呼ぶものから成っている。

社会主義体制の辺境にいる主体が主役の「革命」

 1980年代初めに市場改革を発動し、国有セクターをほぼそのままに保ちながら中国経済に活力ある私有セクターと弾性に富んだ市場の力を復活させたのは、この第二のボトムアップ式の改革だった。

 4つの「辺境革命」に共通していたのは、いずれも国の権限外で出現したことだ。4つの革命の主役は、社会主義体制の辺境にいる主体(アクター) だった。社会主義の誇りとして、国の手厚い保護と統制を受けている国有企業とは異なり、これら辺境の主体は、とくにその存在が社会主義の脅威でも害毒でもなければ、放置されていた。

 数多くの実務上の障害や露骨な政策上の差別にもかかわらず、地方の農民と失業中の都市居住者はすぐさま自分の得た経済的自由を私企業という形に転換した。拡大していく非国有セクターは、80年代以降の経済成長の最大の原動力となった。それにひきかえ、「洋躍進」と政府の「企業自主権拡大」策を含めた国家主導の改革は、国有企業を自由で競争力のある企業に変えるまでには至らなかった。

 政府が資本主義の実験のために創設した経済特区の成功にさえ、第二の革命の周縁性と大衆性が表われていた。第一に、実験区を設置するというアイデアは、香港との国境で不法移民の対応に追われていた広東省の地方政府のものだ。この解決策で、工場を設立するために香港の実業家を招致し、地元の労働力を雇うことが可能となった。

 第二に、工業団地や経済特区が開発された理由は、かなり不確かで政治的リスクの高い実験を社会主義経済の外で試行するための閉鎖された環境を作ることだった。社会主義がしっかり維持される傍ら、周辺で資本主義にチャンスが与えられた。

 1980年代には、庇護を受けた国有企業が生き残りに苦労していた一方で、これら辺境の勢力が急成長した。おかげで中国の経済改革は、ロシアや東欧の改革とは違って、当初は深刻な不景気に苦しむこともなかった。

 国有セクターの破綻が増加し、その規模が拡大していたにもかかわらず、経済全般は改革の開始後つねに成長を続けた。保護と特権とを有する国有セクターが衰退する一方だったのに対し、非国有セクターは目覚ましい発展を遂げていた。

(明日に続きます)


ロナルド・コース (Ronald Coase)

1910年生まれ。100歳を超えて現役の英国生まれの経済学者。論文の数は少ないが、そのうちの2つの論文 “The Nature of the Firm”(「企業の本質」)(1937年)と“The Problem of Social Cost”(「社会的費用の問題」)(1960年)の業績で、1991年にノーベル経済学賞を受賞。シカゴ大学ロースクール名誉教授。取引費用や財産権という概念を経済分析に導入した新制度派経済学の創始者。所有権が確定されていれば、政府の介入がなくても市場の外部性の問題が解決されるという「コースの定理」が有名。著書に『企業・市場・法』(東洋経済新報社)、『中国共産党と資本主義』ほか。

王寧(ワン・ニン)

アリゾナ州立大学政治国際学研究科准教授。


103歳のノーベル賞学者の 中国資本主義論

1910年生まれ、今年103歳となるノーベル経済学賞受賞者のロナルド・コース氏は、いまも現役の研究者である。肩書きはシカゴ大学ロースクール名誉教授だが、中国人の王寧アリゾナ州立大学准教授との共著で、中国社会主義の資本主義への制度変化を分析した『中国共産党と資本主義』(原題はHow China Became Capitalist)を2012年に出版した。この連載は、2013年2月に出版された邦訳の中でも、白眉である第6章「一つの資本主義から複数の資本主義へ」をまるごと公開するものだ。中国的特色をもつ資本主義の到達点と限界を独自の視点から分析する。


05. 2013年3月05日 19:20:06 : YxpFguEt7k
山岡賢次氏
「中国の外相に元駐日大使の王毅さんが就任した。かつて、小沢新代表の初外遊先として中国を選んだ。王元大使と私が水面下で秘かに交渉したが野党の党首である小沢さんを一国の元首扱いで招請してほしいというこちらの要請を本国につないでまとめてもらった。今後の日中間の大きな架け橋になる人だと思う」
https://twitter.com/yamaoka425/status/307742906523996160

中国新体制も、親小沢ですかね。
それだけに小沢氏は、ひきつづきアメリカからマークされるのかもしれませんが。
小沢氏が日本にいることが、きっと日本や中国の国益につながると思いますよ。


06. 恵也 2013年3月06日 11:29:24 : cdRlA.6W79UEw : 7uJdCeRClU
>> 習近平一族  1兆円 〜 2兆円
  温家宝一族  2100億円( 27億ドル )
  薄熙来一族  8000億円
  トウ小平一族 8500億円( 10年前 )
  劉氏一族   1500億円( 鉄道 )
  張曙光     2300億円( 鉄道 )

このニュースはアメリカのCIA系の謀略でしょう。
普通の人にはプライバシーの問題になり、一族の名前も資産も調査方法がない。

調査が出来るのはCIAであり、情報が握れるのは国務長官なのかね。
まずこんな情報は、確かめようとしてもその手段がない。
アメリカ政府の中国指導者に対する嫌がらせだろう。

>>05 中国新体制も、親小沢ですかね。

日本の政治家で本当の意味で民族派といえるのは、小沢一郎しかいない。
鳩山由紀夫も民族派だったが、あまりにもお坊っちゃん育ちだった。
俺が中国新体制でも、本音をぶっつけれる相手として小沢氏を厚遇するよ。


07. 2013年3月12日 00:39:55 : SNljMa86tM
尖閣で中国が負った「深い傷」

2013年3月12日(火)  坂田 亮太郎

外資の対中投資は減少が続く。人件費高騰に日本企業の投資減が追い打ちをかけた。日本製品ブランドへの消費者意識も回復は鈍く、投資を増やせる状況にはなっていない。中国が対日強硬姿勢を今後も続ければ、経済成長へ与える痛手は深刻になるだろう。

 「中国の総合力は上がり、国際的影響力が大きく向上した」

 3月5日、北京の人民大会堂で開幕した全国人民代表大会(全人代、国会に相当)。首相として最後となる「政府活動報告」を発表した温家宝氏は、在任中の成果をことさら強調した。

 それも無理はない。国際通貨基金(IMF)によると、中国の名目GDP(国内総生産)は2012年が52兆1837億元(約782兆7555億円)。10年間で3.8倍に拡大し、日本より4割以上も大きくなった。1人当たりの名目GDPは6094ドルで、自動車などの消費が急増する3000ドルを大きく超えた。

 既に共産党総書記である習近平氏は17日まで開かれる全人代で国家主席に、首相には李克強氏が就く。党、政府の体制が決まり、新政権は本格的なスタートを切る。だが、前途は多難だ。外資をテコに成長する中国の「勝ちパターン」が破綻しかかっているからだ。

外資の対中投資減少、深刻に


 四半期ベースの外資による対中直接投資額は2011年第4四半期から5期連続で前年同期を下回った。中国商務省が2月20日に発表した今年1月も前年同月比7.3%減。このままでは6四半期連続のマイナスとなる可能性は高い。

 大きな要因は人件費の上昇だ。農村部の安価で豊富な労働力を沿岸部の工場に集め、「世界の工場」として発展してきた。しかし、平均賃金は過去10年間で4倍以上になり、労働集約型製造業の採算は合わなくなった。独アディダスなどが工場閉鎖を決定。米アップルは米国への投資回帰を表明した。

 それに追い打ちをかけたのが、昨秋まで外資投資を下支えし、増え続けてきた日本企業の投資減速だ。昨年9月に各地で広がり暴徒化した反日デモと、日本製品への不買運動が原因であることは言うまでもない。

 今でも日本企業誘致を地元発展の牽引役にしたいと考え、誘致活動を続ける中国の都市も多いが、デモ以降は日本企業が慎重になり、投資減に歯止めが利かない。日本企業の対中投資は今年1月、前年同月比2割減となり、外資全体の対中投資の減少幅を大きく上回った。今後さらに減るとの見方がある。

 振り返ってみれば、中国の発展に日本が果たした役割は大きい。円借款を中心に対中ODA(政府開発援助)は3兆円以上。空港や港湾、発電所など大型インフラ整備に重要な役割を担ってきた。

 民間も投資に積極的。1989年の天安門事件後も、2008年のリーマンショック後も、欧米に先駆けて回復したのは日本企業による投資だった。

それでも対日強硬姿勢は続く

 だが、尖閣問題で後へ引けなくなった中国政府は今、日本に厳しい姿勢を取り続けている。全人代の傳榮報道官(外務次官)は4日の記者会見で、「領土紛争を巡る問題では断固対応する」と述べた。

 政府要人が繰り返すこうした発言は、中国人の日本製品への意識にも影響を及ぼしている。

 本誌は昨年9月以降、中国で日本製品の購入意識を調査している。1月18〜24日の調査結果を都市別に集計し、2月18日号で掲載した。今回、それをブランド別に分析したのが下の表だ。

自動車・小売りで回復遅く


調査概要

日経ビジネスは2012年9月以降、中国の主要12都市(北京、上海、広州、瀋陽、大連、青島、南京、長沙、武漢、深圳、成都、西安)で日本製品の購入意識を定点観測している。その中で上記50ブランドについて認知度と愛着度を尋ねた。調査はEmbrain Infobridge Chinaの協力の下、消費の中核となっている20代、30代、40代を対象にインターネットでアンケートを行った。各都市で男女比や年代がほぼ均等になるように回答者を集め、調査数は前回(昨年10月18〜24日)と今回(1月18〜24日)ともに約2400人。日本のブランドとして認知度が平均値よりも低かった28ブランドはランキングから除外した。
 「昨年9月に起きた釣魚島(尖閣諸島の中国名)を巡る事件の後でもこのブランドが好き」と回答した人の割合は、50ブランド平均で42.2%。前回(調査は昨年10月18〜24日)に比べて2.0%の向上にとどまった。

 特に厳しいのが自動車だ。反日デモの際、日本車の破壊が相次いだことも響いている。トヨタ自動車と日産自動車は今年1〜2月の販売が前年同期比2ケタ減った。一時期より戻ったとはいえ、本格回復には時間がかかる。安定して売れる見通しが立たなければ、対中投資を増やせる環境にはならない。

 今後、日本企業の対中投資を減少させる要因はほかにもある。急速な円安で、日本円に対する人民元の為替レートも急上昇し、ここ数カ月で対中投資は2割も負担が増えた。人件費上昇なども考慮し、東南アジアで投資する企業が増えている。

 中国は反日デモとその暴徒化を許したことで、格差拡大や役人の腐敗などへ不満を募らせる国民のガス抜きに成功したかもしれない。だが、日本からの投資急減という痛手を負った。それだけではない。欧米など世界に中国リスクを再認識させた。その傷は深い。

 5日の活動報告で温首相は2013年の経済成長率を昨年と同じ7.5%とした。高度成長期と比べると控えめだが、外国からの投資が先細れば、これすら達成は困難だろう。


坂田 亮太郎(さかた・りょうたろう)

日経BP社上海支局長。入社してから6年間はバイオテクノロジーの専門誌「日経バイオテク」で記者として修行、2004年に「日経ビジネス」に異動、以来、主に製造業を中心に取材活動を続けた。2009年から北京支局に赴任し現在は上海支局。趣味は上手とは言い難いがバドミントン。あと酒税の安い中国はビール好きには天国です。


時事深層

“ここさえ読めば毎週のニュースの本質がわかる”―ニュース連動の解説記事。日経ビジネス編集部が、景気、業界再編の動きから最新マーケティング動向やヒット商品まで幅広くウォッチ。





万5000円)以下。
2. 靴の値段は800元(約1万2000円)以下。
3. 結婚前のガールフレンドは3人以下。
4. 年末ボーナスは1万元(約15万円)以下。
5. “康師傅(Master Kong)”<注2>のペットボトルの緑茶を飲む。
6. “真維斯(Jeans West)”のブランド「361度」の服を着る。
7. 1箱(20本入り)で20元(約300円)以下の安タバコを吸う。
8. 価格が10万元(約150万円)以下の低価格の車を運転する。
9. 飲む酒は“白酒(アルコール度の高い蒸留酒)と“啤酒(ビール)だけ。
10. 最近3〜5年間は長距離の旅行をしていない。

<注2>中国で最大の台湾企業。中国のインスタントラーメン市場では第1位でシェアは約5割、飲料市場でもシェアはコカ・コーラに次いで第2位。

【2013年女屌絲の新基準】
1. 今までビキニの水着は買ったことがない。
2. 明るい色のマニキュアは持っていない。
3. 上下セットの下着は綿じゃないから着られない。
4. ヒールが5センチ以上の靴を履いたことがない。
5. 髪型は半年以上新しいものに変えない。
6. 年に5カ月以上はダイエットをしている。
7. 歯をむき出して大口を開けて笑う勇気がない。
8. 男性の後ろを歩くのを好む。
9. 鏡を見ることはあまり好まない。

 “女屌絲”は新標準9項目中の5項目がファッションに関連する内容で、正面から収入のレベルとかブランド物に言及していない。これに対して、“男屌絲”の新基準10項目はそのほとんどがカネに関わる内容となっている。これは若い男性たちの中で経済格差がいかに深刻かということを示しているように思われるし、若い女性たちはカネがあるなしには関係なく、おしゃれに関心を寄せているかどうかが“女屌絲”になるかどうかの分岐点になるようだ。

 本来、“屌絲”は農村出身で都市へ移り住んだ若者たちを指し、彼らにとっては住宅や車を持つことなど遥か遠い夢にすぎず、そうした彼らが自らを卑下した呼び名であった。ところが、ネットの流行語として“屌絲”が知られるようになると、農村出身でない若者もこれに共鳴して、自分たちも“屌絲”であると自認するようになったことからその人口は瞬く間に増大し、現在に至っている。

 だからこそ、2013年の“屌絲”の新基準が報じられると、その項目を見て納得し、自分も“屌絲”に該当すると認識を新たにする若者が増えているのである。外見上は世界第二の経済大国として繁栄する中国だが、そこに住む若者の多くが自らを“屌絲”であると自嘲気味に卑下するのはなぜなのか。そこには時代とともにより深刻さを増す格差社会の現実が大きく影を投げかけているように思われる。

周囲の人は不憫に感じている

 2012年4月11日付でポータルサイト“百度(baidu.com)”の掲示板に作者不詳で書き込まれた「“屌絲”とはどういう意味か」という表題の記事には次のように書かれていた。ただし、ここで言う“屌絲”は男性の“男屌絲”を指している。

【他人は“屌絲”をどう見ているのか】
1. 性格が内向的で、話をすることが苦手。
2. 内心は善良だが、自分および世界に対する正確な認識が乏しい。
3. 愛情はなく、あるのは悔恨と幻想のみ。
4. 仕事が比較的辛く、不満が充満している。
5. 夢はあるが、それを実現するための努力はしたくない。
6. 尊厳はあるが、自尊心はなく、ひたすら他人からの施しを渇望している。

【“屌絲”は自分をどう見ているのか】
1. “窮(家庭が貧困)”“丑(容貌が醜い)”“矮(背が低い)”“挫(挫折した)”“苯(愚かな)”を一身に背負った存在である。
2. 人に跪いて額ずき、ご主人さまと呼ぶ、奴隷根性。
3. 女性にとっては予備タイヤ(=予備の恋人)でもなく、単なるジャッキでしかない。
4. 人に叩かれたらひたすら死んだふりをするだけで、死を恐れて反撃はしない。
5. 永久にうだつが上がらない。

 他人は“屌絲”にその人間としての不器用さに不憫を感じている。その当事者たる“屌絲”自身は自らを“矮窮挫(背が低く、貧しく、挫折した人間)”と呼んで卑下しているのが実情である。そして彼らは永久に社会で成功する見込みはないと考え、社会の底辺に生きることが宿命なのだと、自己の思い通りに行かない人生を諦めている。

対極の存在「高帥富」

 この“屌絲”の“矮窮挫”と対照的なのが、“高帥富(こうすいふ)”と呼ばれる若者である。“高帥富”とは、“高(背が高い)”“帥(イケメン)”“富(裕福)”の三拍子揃った若者を意味する。このような若者は当然ながら多くの女性に人気があり、恋愛も結婚も思いのままで成功率が高い。<注3>なお、“高帥富”は日本のアニメ「ガンダム」に影響を受けて中国で作られたアニメの主人公の名前である。“高帥富”は、身長1メートル85センチ、体重72.5キロ、イケメンで格好良く、一人っ子、両親は中国の高級官僚、家庭は裕福、某有名校卒業などの好条件を備えた理想の人物として描かれている。こうした条件を満たす若者が中国にどれほどいるのかは分からないが、“屌絲”の“矮窮挫”とは天地の差であることは明白な事実である。

<注3>“高帥富”の“帥”は“教師”の“師”とは漢字が異なるので注意。

 一方、“女屌絲”と対比されるのが“白富美(はくふび)”と呼ばれる若い女性である。“白富美”とは“白(色白)”“富(裕福)”“美(美貌)”の三拍子揃った若い女性を意味する。日本では「色白は七難隠す」と言われるが、中国ではもっと激しく、「“一白遮百丑(色白は百難隠す)”」と言うほどに肌が白いことを賛美する。それに美貌が加わり、家庭が裕福であれば鬼に金棒である。カネがあるから最新のファッションを装うことも、高級なエステで身体に磨きをかけることも、習い事で教養を高めることも自由自在。この好条件があれば、高級官僚や資産家の子息と結婚して一生安楽な生活が保障される可能性が高い。こちらも又、中国に“白富美”がどれだけいるかは分からないが、“女屌絲”とは天地の差であることは間違いない。

 “屌絲”の“矮窮挫”と“高帥富”、“女屌絲”と“白富美”。この対照的な若者像は中国のネット世界における流行語となっているものだが、大多数の若者は前者の“屌絲”と“女屌絲”に属すると自認しているのだという。大学を卒業しても就職できない若者、都市に出稼ぎに来ても生活は一向に良くならず、都市住民なら享受できる社会福利を受けられない若者、就職はしたものの希望の職業とは程遠く、低賃金にあえぐ若者。こうした若者には未来が見えない。ところが格差社会の対極には“高帥富”と“白富美”がいて、何不自由ない生活を謳歌している、それが中国社会の実像なのかもしれない。

 冒頭に述べたネットゲーム企業の上海巨人は“屌絲”と“屌絲網游”の商標登録が認可された暁には、どのような内容のゲームを作ろうとしているのだろうか。“屌絲”が多くの困難を乗り越え、艱難辛苦の末に社会の成功者となるようなゲームを是非とも作ってもらいたいものである。そうすることによって、“屌絲”と“女屌絲”に将来の夢を持たせ、その実現に努力するよう激励してほしいものである。


北村 豊(きたむら ゆたか)

中国鑑測家。1949年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。住友商事入社後、アブダビ、ドバイ、北京、広州の駐在を経て、住友商事総合研究所で中国専任シニアアナリストとして活躍。2012年に住友商事を退職後、2013年からフリーランサーの中国研究者として中国鑑測家を名乗る。中央大学政策文化総合研究所客員研究員。中国環境保護産業協会員、中国消防協会員


世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」

日中両国が本当の意味で交流するには、両国民が相互理解を深めることが先決である。ところが、日本のメディアの中国に関する報道は、「陰陽」の「陽」ばかりが強調され、「陰」がほとんど報道されない。真の中国を理解するために、「褒めるべきは褒め、批判すべきは批判す」という視点に立って、中国国内の実態をリポートする。





米国大学のウラ事情は、中国人が一番良く知っている

口コミで世界を席巻する「超国家コミュニティー」

2013年3月12日(火)  入山 章栄

 この連載では、米国ビジネススクールで助教授を務める筆者が、海外の経営学の最新動向について紹介していきます。

 さて、私は昨年11月に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』(英治出版)という本を刊行したのですが、そこで大きな反響をいただいた話題の1つが、「米国とアジア各国などのあいだで『超国家コミュニティー』とでも呼ぶべきものが出現しつつあり、それが各国の起業活動の活性化や国際化に寄与している」というものでした。

知識はインフォーマルなものこそ重要

 起業家が一定の地域に集積する傾向があることは、経営学ではよく知られています。米国ならシリコンバレーがその代表です。なぜなら、起業をするには、人と人が直接会うことを通じてしか得られない「インフォーマルな情報・知識」がとても重要だからです。文書のやりとりでは出てこないような「内輪の話」を得るために、起業家はシリコンバレーなどに集積するのです。

 「今の時代はインターネットがあるじゃないか」という方もいらっしゃるでしょう。確かにインターネットのおかげで、今は世界中どこでも同じ情報が手に入りそうに思えます。しかし考えてみて下さい。みなさんが「これは新しい商売のネタになりそうだ」と思えそうな情報を仕入れたら、それをわざわざネットで文書にして公開するでしょうか。むしろ信頼できる知人と食事でもした時に、「ここだけの話だけど」などと言って打ち明けるのではないでしょうか。

 このように商売のネタになるような情報は、人と人の関係を通じてしか得られない、口コミなどの「インフォーマル」なものが多いものです。さらに、いま起業が盛んなITやバイオ関係など知識集約型のビジネスでは、そもそも文書化が難しい、いわゆる「暗黙知」が重要になることも多いでしょう。

 また、起業では優秀な人材を獲得することも重要ですが、こういった人材は別の人を介したインフォーマルな「つて」で知り合うことが多いですし、また直接その人に会って「目利き」する必要もあります。したがって多くの起業家はインフォーマルな情報、暗黙知、そして優れた人材を求めて一定の地域に集積するのです。

 ところが、最近はたとえば米国のシリコンバレーと台湾、シリコンバレーとインドのバンガロールなどのあいだで、起業家やエンジニアが国境を越えてインフォーマルな情報・知識をやりとりするようになっています。これまではローカルだったインフォーマルな知識が、国を超越して行き来するようになってきているのです。

台頭する超国家コミュニティー

 そしてその牽引役が「移民ネットワーク」であることが、最近の研究で明らかになりつつあります。

 たとえば、米デューク大学の調査によると、1995年から2005年にシリコンバレーで設立されたスタートアップのうち53%は、設立メンバーに移民がいるそうです。このような人たちが米国で事業に成功して、やがて本国に帰り、その後も本国と米国を足しげく往復することで、これまでは一定地域に集積していたインフォーマルな情報・知識が、国境を越えて「飛ぶ」ようになってきているのです。

 拙著『世界の〜』でも紹介していますが、このような移民の起業家・エンジニア・研究者などが国境をまたいで活動することでインフォーマルな「超国家コミュニティー」が出現していることについては、米カリフォルニア大学バークレー校の社会学者、アナリー・サクセニアン教授の研究が有名です。同教授の著書「最新・経済地理学」や「現代の二都物語」(共に日経BP社)は日本でも出版されています。

 そして経営学でも、超国家コミュニティーを介して(1)これまで遠くに「飛ばなかった」知識が国と国をまたいで移動・循環しつつあること、(2)国境を越えたベンチャーキャピタル投資が促進されていること、そして(3)超国家コミュニティーに関係している起業家ほど本国で輸出ビジネスを成功させやすいこと、などが実証研究の成果として発表されるようになってきているのです(詳しくは拙著をご覧下さい)。

 ところで、超国家コミュニティーが興隆しているのは、起業分野だけではありません。実は、まさにアカデミックの世界、なかでも私がいる米国の「ビジネススクール業界」でその台頭が顕著なのです。

米国の大学業界を席巻するインド移民

 先月、米国の名門カーネギーメロン大学が、新しい学長として、現マサチューセッツ工科大学(MIT)エンジニアリング学部のスブラ・スレッシュ教授を任命することを発表しました。スレッシュ氏はインド・ムンバイの出身で、学部はインドの大学を卒業しています。

 実をいいますと、私のいるニューヨーク州立大学バッファロー校の学長も、インド出身の方です。このように、いま米国のアカデミアでは、すべての学問分野がそうというわけではありませんが、インド系の人々の台頭がとても目立ちます。とくにエンジニアリング関係などはそうかもしれません。

 そして、この状況はビジネススクール(経営学界)も同じです。インド人が席巻している、とさえ言えるかもしれません。たとえば、ハーバード・ビジネススクールの学長(ディーン)として2010年に就任したニティン・ノーリア氏は、米国の市民権は持たれていますが、そもそもの出身はインド・ムンバイです。実は、私のいるビジネススクールの学長もインド出身の方です。

 さらにいうと、ビジネススクール内で私が所属している学科長もインド出身の方でして、私をヒラ社員とすると、上司である「社長、部長、課長」が全員インド出身ということになります。当ビジネススクールの卒業式では、この学長と学部長が壇上に立つわけですが、ビジネススクールの学生(大部分は米国生まれの米国人)に、インド出身の2人がインドなまりの英語で「おめでとう」といいながら修了証書を渡すのは、なかなか興味深い光景です。

 みなさんも米国の有力大学のビジネススクールのホームページをご覧になれば、いかにインド出身の方が多いかお分かりになると思います。ちなみに私の場合は、博士号をとった母校の指導教官、今の共同研究のパートナー、仲良くしている同僚のいずれもインド出身です。(私の場合、特にインド人と親しくなりやすい個性があるのかもしれませんが)

 そして、私の肌感覚では、インド人の次に米国のビジネススクール業界を席巻しつつあり、今後さらに台頭するのは中国人で間違いありません。それに韓国人と台湾人が続く、といった感じでしょうか。

次に米経営学界を席巻するのは中国人

 実際、最近の米国ビジネススクールの教員や博士課程の学生に占める中国人を中心とした東アジア人(日本人を除く)の割合はすごいものがあります。たとえば、私は博士課程の授業で、教員・学生の全員が東アジア人かインド人で、アメリカ人は1人もいない、という状況を何度も経験しています(それでも授業はもちろん英語です)。

 また、私のいる学科は少し前に新しい助教授をリクルーティングしまして、先日、候補者の1人である韓国人の方が当校に来て研究発表しました。そのときに発表会場に集まった教授・博士学生の総勢20人のうち、アメリカ人は1人で、残りは大半が中国人、そしてインド人と韓国人が数人、そして日本人(=私)という構成でした。思わず「ここは本当にアメリカなのか」と言いそうになってしまいました。

 そして、これはあくまで私の肌感覚なのですが、インド出身の方と比べると、中国系の人たちの方が、同胞内での「インフォーマルなコミュニティー」をより活用している印象があります。

 たとえば、私が数年前に米国で就職活動したときに会った某大学の中国人助教授は、全米の多くの有力ビジネススクールの助教授の初任給を把握しており、「○○大学より、この大学の方が給料はいいわよ」などと私に教えてくれました。全米のビジネススクールに多くの若手の中国人教員がいるので、彼らは同胞同士でそういう情報を普段から交換しているのだそうです。

情報戦は出願前から始まっている

 実は、私は就職活動をしたときに、この中国人コミュニティーの情報にかなりお世話になりました。この連載の前々回で申し上げたように、米国の経営学界では日本人の教員や博士課程の学生がとても少ないので、アカデミア内での「日本人コミュニティー」がそもそも存在しません。私は、仲の良い中国人の友人が同じ時期に就職活動をしたので、彼から色々と中国人コミュニティーでまわっているインフォーマルな就職情報を教えてもらって役立てたのです。

 そして、起業家のコミュニティー同様、この学者のインフォーマルなコミュニティーも、国境を越えるようになってきています。「超国家コミュニティー」が経営学のアカデミアでも生じているのです。

 たとえば、私の友人の台湾人助教授によると、台湾では多くの学生が米国の博士号を目指すのですが、彼らの間では米大学院に出願する前から、たとえば「某M大学の経営戦略学科は、仲の悪いA教授の派閥とB教授の派閥に分かれていて、どちらの派閥に入るかで博士課程で生き残れるかどうかが違う」などといったインフォーマルな情報が交換されるのだそうです。私が10年前、日本から米国の大学院に出願したときは頼れる日本人がほとんどいなかったので、この話を聞いて「出願前からこんなに情報量で差がついていたのか」と愕然としたのを覚えています。

 さて、アジアではいまビジネススクールの設立・拡大ブームです。そして特に中国や香港のビジネススクール・ブームを下支えしているのは、この「超国家コミュニティー」ではないか、と私は考えています。

 香港の有力ビジネススクール(たとえば香港科技大学)や中国本土の有力ビジネススクール(たとえばCEIBS)のウェブサイトでそこにいる教員の経歴をみると、そのほとんどが欧米で博士号をとっており、中には米ビジネススクールでの教員経験がある中国人も少なくないことがわかります。

 こういった方々は、今も欧米の経営学アカデミアとのつながりを保ち、両国を足しげく行き来しています。そして、欧米に今いる同胞の若手教授や博士学生とのインフォーマルなコミュニティーを通じて、世界の経営学アカデミアの動向や研究動向など、最先端のインフォーマルな情報を母国語でやりとりして、それらを自国に取り入れていると推測できます。

日本の大学はどう立ち向かうべきか

 また、中国・香港のビジネススクールは資金力を生かして、いま大量の若手教員を欧米から採用したり、欧米の大物・中堅教授を引き抜いたりしています。このようなリクルーティング面でも、超国家コミュニティーを通じてのインフォーマルな情報が有用であることは言うまでもないでしょう。

 私は、「日本の大学やビジネススクールも同じように超国家コミュニティーを育てるべきである」と短絡的には考えていません。たとえば欧州の有力ビジネススクールは、欧州内で比較的「完結した」コミュニティーの中でも競争力を高められているように見えます(それでも、最近は多くの欧州有力校が米国から教員を引き抜いていますが)。

 しかしながら、もし日本の大学やビジネススクールがこれから国際化を目指すのであれば、当然ながらその主戦場はアジアになります。そしてアジアで競争するということは、こういう「超国家コミュニティー」の恩恵を十分に受けた大学・ビジネススクールと戦うことである、という点は念頭に置く必要があるでしょう。


入山 章栄(いりやま・あきえ)

1996年慶応義塾大学経済学部卒業。1998年同大学大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所で主に自動車メーカーや国内外政府機関への調査・コンサルティング業務に従事した後、2003年に同社を退社し、米ピッツバーグ大学経営大学院博士課程に進学。2008年に同大学院より博士号(Ph.D.)を取得。同年よりニューヨーク州立大学バッファロー校経営大学院のアシスタント・プロフェッサーに就任し、現在に至る。専門は経営戦略論および国際経営論。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』(英治出版)がある。


米国発 MBAが知らない最先端の経営学

ピーター・ドラッカー、フィリップ・コトラー、マイケル・ポーター…。日本ではこうした経営学の泰斗は良く知られているが、経営学の知のフロンティア・米国で経営学者たちが取り組んでいる研究や、最新の知見はあまり紹介されることがない。米ニューヨーク州立大学バッファロー校の助教授・入山章栄氏が、本場で生まれている最先端の知見を、エッセイのような気軽なスタイルでご紹介します。



http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130305/244514/?ST=print
『月(ゆえ)とにほんご』に見る、中国人にありがちな誤解
『月とにほんご』監修の矢澤真人筑波大学教授に聞く
2013年3月12日(火)  中島 恵


 当「再来一杯中国茶」は「中国の人と」「お茶を飲みながら」「じっくり話し合う」コラム。私がさまざまな縁で知り合った一般の中国人との会話を取り上げてきたのだが、今回は日本語学が専門の日本人、筑波大学・矢澤真人教授にお話をうかがうことにした。
 矢澤教授は、大人気ブログを書籍化したベストセラー『中国嫁日記』と同じ作者による『月(ゆえ)とにほんご 中国嫁日本語学校日記』(井上純一著、アスキー・メディアワークス)で日本語の監修をつとめた方で、もちろん中国にも詳しい。このマンガは40歳オタクの日本人男性のもとに嫁いできた20代の中国人嫁が、都内の日本語学校で日本語を学ぶ中でのとまどいやドタバタを描くもの。主人公の中国人嫁、月(ゆえ)さんが「なんで日本語は○○なの?」とか「日本語の○○な表現はおかしい!」と素朴に感じた疑問を、マンガとマンガの間で矢澤教授が解説するという形になっている。

『月(ゆえ)とにほんご』(井上純一著、アスキー・メディアワークス)
 今や在日の全外国人登録者数の中で、中国人は韓国・朝鮮人を抜いて最大の約70万人。居酒屋やコンビニだけでなく、日本企業で働くビジネスマン、ビジネスウーマンにもずいぶんと中国人のホワイトカラーが増えてきた。
 そんな私たちのすぐ隣にいる在日中国人が、どんな日本語に躓き、どんな点を不思議に思うのか、ひいては、日本人とのコミュニケーションにどんな齟齬を感じ悩んでいるのか、について紹介したい。「なるほど、中国人はそういうふうに考えるのか!」と、外から見た目線を知ることで、我々日本人も日本について再発見することができるし、日中間の意識のズレの一端も理解するヒントになるのではないかと思っている。(※なお、以下に引用する月さんのセリフは原文のママです)
以前香港に留学していたとき、日本のマンガ家の家に修業に来る予定の香港人マンガ家の卵たちにアルバイトで日本語を教えていたことがあって、日本語教育にはとても関心があるのですが、『月とにほんご』を読んで改めて、日本語の難しさについて考えさせられると同時に、一生懸命日本語を勉強する月さんの言動に、心がほんわかと温まる気持ちになりました。そもそも、中国人が来日して日本語学習する際、最初にびっくりすることや、ぶち当たる壁は何なのでしょうか?
矢澤:日本語と中国語は共通する漢字や単語も多いことが、かえって戸惑いの元になっています。中には意味がまったく違うものがあったり、微妙にずれているものもありますから。日本語の「勉強」は中国語では「無理強いする」だし、日本語の「手紙」は中国語では「トイレットペーパー」、日本語の「娘」は「お母さん」という意味になります。「湯」は中国語では「スープ」ですから、中国人が日本の銭湯や温泉に行ってこの大きな一文字を見ると、ぎょっとするわけですね。

 あと、中国語の「愛人」は「奥さん」であって、日本語でいう「愛人」は「情人」といいますので、ややこしい(笑)。
中国語と日本語は、一見同じように見える漢字でも、どこかが突き抜けていたり、一画少なかったり、よく見ると違う字だったりしますね。
矢澤:中国人の場合、中国語の漢字が“本家”だという意識が強いので、つい「中国語が正しくて、日本語がおかしいのでは?」と思ってしまうこともあるようです。
私は月さんが「なんでカタカナありまスカ」「一種類で十分デス、どちか捨ててクダサイ!!」と怒っている場面に笑っちゃいました。確かに、中国人に限らず、日本語を学ぼうとする外国人にとって、ひらがなとカタカナの使い分けは難しいのでしょうね?


矢澤:そうですね。日本人が聞くとびっくりしますが、月さん同様、多くの日本語学習者は、学び始めるときの素朴な疑問として「どっちか一つでいいんじゃないの?」と思うらしいです。こんなにたくさん覚えるのは大変だと。
 実は、日本語の大きな特徴のひとつが、この「文字種が多い」という点。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットの4種類を使い分けるということです。いちばん面倒なのが漢字の読み分けで、一つの漢字で漢音、呉音、訓読みがあることが大変なんです。中国語では原則、一つの漢字は一音なので。

月さんも指摘していますが、中国人にとって、日本語って不思議のかたまりなんですね。たとえばこの4コママンガにあるように、日本語の「ビルが建っている」「お茶が入りました」っていう表現は、中国人にとっては変なのか、と私もびっくりしました。
矢澤:日本語ではほかに「砂糖が入っている」「木が植わっている」という言い方も自然にしますが、これらも中国人は変だと感じるようです。中国語では“人”が関わったことは他動詞を使うのが普通です。
「(私が)砂糖を入れた」「(あなたが)木を植えた」でないと、おかしいだろうと。


日本語は「誰がやるのか、やったか」の扱いが難しい
矢澤:中国語では「誰がやったか?」が重要で、たとえば、“私”がお茶を入れたのだから、日本語でも「お茶を入れましたので、飲みますか?」と強調する中国人が少なくないのですね。ですので、日本人が「お茶が入りました」というと、誰かがわざわざお茶を入れてくれたのに、なぜやった人を明示せず、あたかも空中から沸いて出たように「入りました」と曖昧にするのか、混乱するようです。
それはおもしろい違いですね。日本人は出しゃばらず、自分のやったことをことさら表沙汰にしないからでしょうか。一方、中国人はちょっとしたことでも、私がやった、私がやった、と騒ぐということにもつながるのでしょうか?
矢澤:一概にそうとはいえないと思いますよ。基本的には、その言語でどのような言い方が好まれるのかという違いだと思います。中国人にも控えめな方はたくさんいらっしゃいますし、日本人でも小さな手助けを大げさに言いつのる人はいますのでね。ただ、日本語は行為のあとの「結果」に注目する言語なので、誰がやったかとわざわざ言わないのだと思います。
  日本語では、誰がやるのかを表さなくてはならない場合、表さなくてもよい場合、表してはいけない場合があります。たとえば、自分の責任が問われる場合には、行為を表す「する」型が望まれ、変化や出来事の発生を表す「なる」型を使うと、ときには無責任だと叱られてしまいます。
えっ、具体的にはどういう場合でしょう?
矢澤:日本語では自分が間違ってコップを落としてしまった場合は「コップを落としてしまいました」と言いますよね。うっかりバスに乗り遅れた場合も「バスに乗り遅れてしまいました」と主体行為を表す他動詞に非意図的な実現を示す「〜てしまう(〜ちゃう)」をつけて言わなくてはいけません。これによって、自分の責任を自覚していることを表すわけです。
矢澤:しかし、中国語ではうっかりの場合でも、わざとじゃない場合は自動詞を使うので「コップが落ちました」という表現になります。
 もし中国人アルバイトのウェートレスさんがこのように言ったら、マスターから「落ちたじゃないでしょ! あなたが落としたんでしょ!」と怒られてしまうかもしれません。「落ちた」というと、日本人にはまるで他人事のように聞こえてしまいますから。でも、中国人にしてみれば「あれはわざとじゃなかったのに……」という、嫌な気分になります。
 また、お店でモノが壊れているのを見つけたとき、「これ、壊れています」と言わなければいけないところ、中国語をそのまま日本語に訳すと「これ、壊れました」という表現になる。すると、すごく嫌な顔をされてしまうようです。
 中国語では「壊れた」(変化の発生)も「壊れている」(状態)も同じ表現なので。こうした間違いはけっこう重要で、コミュニケーション上、心のしこりにもなりかねませんが、案外、日本語上級者もやってしまうミスなんです。
う〜ん、ありそうな話です。そういう場面が目に浮かんできます。私も日本語がかなり上手な中国人を取材することがありますが、それでも、記事化するときに細かい点を確認すると、中国人から「少し違う」と指摘されることがあります。日常会話より数段時間を掛け、細心の注意を払っても、母国語が違う人と100%理解し合うのは難しいですね。
 ところで、知り合いの中国人から、最もおもしろい日本語は「雨に降られた」という表現だと言われたことがあるのですが、これは日本語学的にはどういう説明になりますか?
「相手に直接指示」を非礼と考える日本人
矢澤:英語や中国語では、受け身は他への働きかけを表す他動詞しか作れません。「太郎(A)が花子(B)を打つ」の場合、「花子(B)が太郎(A)に打たれる」が一般的な受け身です。日本語も同様です。
 しかし、日本語では、働きかけだけでなく、事柄の影響関係からも受け身を作ることができます。「雨が降る」「赤ん坊が泣く」のような自動詞では、英語や中国語では受け身は作れないのですが、日本語では、その事柄によって、迷惑を受けたものを主語にして、「(私は)雨に降られた」や「(私は)電車の中で赤ん坊に泣かれた」のように影響関係を表すことができるのです。
おもしろいですね。私たちはふだん自然に使っていますが、英語や中国語にそういう表現はないんですね。そういえば、私は『月とにほんご』の中ですごく好きなシーンがあります。「キレイに使ってくれてありがとう」というシーンなんですが、月さんが中国では「『綺麗シテ下さい』トカ、して欲しコトばかり書いてありマスネ。いつも自分下にスる!!日本人らし好きデスヨ」とニコニコしながら日本を褒めてくださっているところです(笑)。

矢澤:日本のお店ではお客様に対して「来て下さい」という言い方をするのを避けるのです。「相手の行動を直接指示するのは失礼」という日本人独特の意識からなんですね。そこで、「お越しいただけたら幸いです」という言い方をするわけです。「もし〜だったら」という仮定の世界で感謝を表すのです。
あ、私も日本で働く中国人から、仕事上のメールで「〜していただけたら幸いです」と日本人は書くけれど、「〜しない場合も想定していいのか、しなくてはいけないのか、一体どっちなんだろうと悩んだ」と聞かされたことがあります。日本人の婉曲な表現は、日本で働く中国人にとってわかりにくいようですね。私たちは「もしお忙しくなかったら、お越しください」なんて日常的に使っちゃっていますが。


矢澤:そうそう、そうですよね。日本人にとって、前半の「もしお忙しくなかったら」の部分は意味のない枕言葉のようなもの(笑)。いわば相手の方への「気遣い」の部分です。本当に言いたいのは「お越しください」、つまり本当は「ぜひ来てください」と言いたいのですが、直接的に言わないのが日本人なんですね。
私は以前『「すみません」の国』(日経プレミアシリーズ)という新書を読んで、日本人が頻繁に口にする「すみません」には単なる謝罪や「ありがとう」の意味だけでなく、相手に対する「思いやり」が込められていると書いてあって、まさにその通りだと納得したのですが、今回、本書を読んで、「すみません」は相手に「負担をかけたのではないですか?」と気遣って詫びる言葉だと書いてあって、さらに日本人への理解が深まった気がして、感動しています。それにしても、日本人の気遣いってすごいんですね。
矢澤:ははは、そうですね。ひとつ、中国人がわかりにくい日本的コミュニケーションの例として、私が体験したエピソードをご紹介しましょうか。
 私が北京に行く際、ある地方都市に住む日本語がわかる中国人の先生から「こちらにも来てください」というお誘いを受けました。私は日程的にかなり厳しいので、申し訳ないけれど、お断りするつもりで「……でも、○○まで行くとしたらかなり忙しくなりますよね」とメールに書きました。こう書けば、日本人なら「ああ、断りたいのだな」とすぐにわかってもらえます。
小さな誤解が大きなギャップにつながりかねない
矢澤:日本人はメールや電話などによる相手との会話のキャッチボールの中で、常に本音を打診し合っているのです。そこには“本音”と“気遣い”が見え隠れしていますが、それは外国人にはなかなかわかりにくい。中国人の先生は私の返信を見て、「忙しいけれど無理して来てくれるんですね、よかった」と解釈してしまったのです。
 結局、私は「少し大変な思い」をしてその都市まで行くことになったのですが、日本人と中国人がコミュニケーションする場合、気を遣っているからこその行き違いは日常茶飯事的に起きていると思います。
私にも何十回も身に覚えがあります(笑)。最近、日本にも本当に外国人が増えてきて、彼らとコミュニケーションすることも多いですが、今ご指摘されたような問題を始め、さまざまな場面でコミュニケーションギャップが生じていることは容易に想像できます。慣習の差もありますが、やはり言語の違いは大きい。
矢澤:お互いの母国語にはもともとない表現や、あるいはあったとしても、表現方法や、どの深度で意味を言語化するかなどが違う。そうした微妙なズレは大きな誤解につながる可能性があります。最近、日本には中級の日本語話者がずいぶん増えてきたと感じていますが、日本で育った外国人の子どもは、ある程度日本語は話せるものの、実は母国語を日本語に翻訳しているだけというケースもあるように思います。
日本語を話していても、発想は中国語ということも多い。たとえば、中国語には「給(gei)」(〜してあげる)という表現がありますが、これをそのまま日本語に訳してしまうと、(立食パーティーのときに)「先生、お料理を取ってきてあげましょうか?」と言ってしまう。気持ちは「先生にお料理を取ってきて差し上げたい」と思っているのでしょうが、ただ自動的に頭の中で中国語を日本語に翻訳しているから、こういう表現になってしまう。こうした問題から生じる小さなギャップはそこここに存在していると思います。
おっしゃる通りですね。日本国内の問題もそうですが、昨年は中国で大規模な反日デモが起きました。そうした影響により、中国人で日本語を学ぶ学生というのは減ってきているのでしょうか?
矢澤:残念ながら、減ってきていると思います。中国の日系企業のプレゼンスが落ちてきていることも関係していますね。日本語を学んでも中国で仕事に結びつかないとなれば、学ぶ人のモチベーションも下がってしまいますので…。
 日本人がビジネスの観点から見て、中国にはリスクがあるから東南アジアに行くという選択肢があることは理解できます。でも、中国はお隣の国なんだし、既成概念に捉われないで、バイアスをかけないで中国を見てほしいと思います。私は昨年末、北京、重慶、成都に10日間行き、現地で5回講演会を行いましたが、一度も嫌な思いはしたことはありませんでした。中国には、心の中では親日と思っていても、歴史的背景から、それをおおっぴらに人前で言えない人もまだ大勢いる。そういうことを少しでも理解していただけたらと。
我々は「東アジアの常識」を根底で共有している
 日本人は高校時代に漢文を勉強しますよね。漢文では「論語」や「史記」に代表される東アジアの古典を学びます。私は、これは「東アジア共通の常識」を学ぶことだと理解しています。ヨーロッパでいえば「聖書」がそれに当たるでしょう。中国人、韓国人、日本人はこの漢文を学ぶことによって「東アジア共通の常識」を持っていると思いますが、違いもある。その違いは言語にも端的に表れています。そこがおもしろいところでもあり、難しいところでもあると感じています。

 私が『月(ゆえ)とにほんご』の中で最も好きなシーンは、月さんのクラスメートだった中国人と韓国人が、現実世界の延長として、ネットゲームで会話しているところでしょうか。バーチャルな世界で、現在の居住地や国籍を超えて、中国と韓国の若者が「日本語で」意思疎通しながらゲームをしているなんて、けっこういい風景だと思います。
月さんが日本語を学びながら、日本社会や日本文化への理解を深めていったように、日本や中国に住む日本語学習者の日本への理解も深まればいいですね。今日はどうもありがとうございました。



中島 恵(なかじま・けい)
フリージャーナリスト。1967年、山梨県生まれ。1990年、日刊工業新聞社に入社。国際部でアジア、中国担当。トウ小平氏の娘、呉儀・元副総理などにインタビュー。退職後、香港中文大学に留学。1996年より、中国、台湾、香港、東南アジアのビジネス事情、社会事情などを執筆している。主な著作に『中国人エリートは日本人をこう見る』(日経プレミアシリーズ)。



再来一杯中国茶
マクロではなく超ミクロ。街中にいる普通の人々の目線による「一次情報」が基本。うわさ話ではなく、長時間じっくりと話を聞き、相互に信頼を得た人から得た、対決ではなく対話の材料を提供する企画。「中国の人と」「差し向かいで」「お茶を一緒に」「話し合う」気分を、味わってください。



権利の線引きと移行が一度に行われて迅速に市場経済へ

『中国共産党と資本主義』第6章を読む(6)

2013年3月12日(火)  ロナルド・コース 、 王 寧

 中国経済は1990年代以降、市場転換を桁はずれに加速させる。毛沢東以来の非集権化された政治構造と経済におけるし烈な地域間競争がその背景にあった。伝統的な経済学の理解では、国家は所有権の線引きをしたあとは経済から手を引く。しかし、中国では地方政府同士が個別企業のように激しい競争を展開していった。
 『中国共産党と資本主義』の本節では、マーシャルの「内部経済」の損失が「外部経済」によって補完されるプロセスとして中国の市場転換のユニークさを捉えている。
 1990年代になって国内共通市場が構築され、国有企業が民営化されたあと、地域間競争が復活した。80年代には地方の保護主義やさまざまな国内取引の障害により事実上、国内経済は分裂状態にあった。経済は非集権化したが、地域間競争は抑制されていた。

 90年代に国有企業がますます財政負担になるにしたがい、地方政府はイデオロギーにこだわらず私有セクターに接近した。ほどなく地方経済の基盤として認めることになった。地方財政の視点からいえば、94年税制改革後には増殖税と地代とが地方政府の主な収入源となった。どちらも明らかに地方経済の成長と結びついていた。

 同時に、国内共同市場の発達によって、地方間競争はいまや厳しい市場原理に支配されていた。90年代以降の地方間競争は、経済改革の最大の牽引力となっていく。

 非集権化した政治構造と経済の熾烈な地域間競争との強固な結びつきは、大いに注目されてきた。地方政府の役職は、地方の経済実績をもとに結局のところ北京が任命するため、地方政府は自らの管轄区である省、市、県、郷、鎮を会社のように運営する。

 政府が演じる積極的な役割は企業幹部のそれに似ている。また政府はいまだに国家独占部門へのアクセスのほか、銀行貸付など多くの重要な経済資源を掌握している。中国政府が経済改革の決定力として、しかるべく重視されてきたのも当然のことだ。

市場の規律に従っていた郷鎮企業

 台頭する市場経済で国家の優越が続いたのは、中国経済改革の独特の性質の産物だった。前章まで(※『中国共産党と資本主義』の5章まで)に詳述したとおり、この改革は青写真に沿ったものでなく、草の根の策と国家主導の政策実験との組み合わせで進められた。市場経済の発展は、一部の所有権の経済学者が示した道をたどりはしなかった。

しかし中国の市場転換の経験が、市場経済運営の法的基盤としての所有権の保証と明確な定義に疑義を呈しているわけではない。郷鎮企業の成功は私的所有権の重要性を否定するものではなかった。郷鎮企業の多くは実際には私有だったからだ。地方政府所有の郷鎮企業でも、国有企業と比べれば、所有構造はより明確だった。しかし本当に重要なのは、郷鎮企業は市場の規律に従っていたが、国有企業はそうでなかったことだ。郷鎮企業の所有構造に注目したのはむしろ誤りだった。

 中国が特殊だったのは、まず所有権の線引きをし、他の関連する制度の規則を具体化して、それから市場原理で最高入札者に権利を割り当てさせたのではなかったことだ。

 農民の農地に対する自由裁量権、国有企業経営者が保有した残余請求権など、経済主体に認められた権利を行使する際に直面する制度上の制約が示されたのは、国が支配権を私的経済主体に譲渡したときだ。権利の線引きと移行とは同時に行われた。

 改革の最初の20年間、中国はまだ社会主義にこだわって、あからさまな私有化に反対していたから、私的な経済主体が国から与えられる権利は個別交渉にゆだねられた。

 権利の線引きと権利の委譲または分配を同時にした最大のメリットは、市場の力の経済への導入が迅速になったことだ。国が権利の線引きを終えるまでビジネスの交渉がいっさいできなかったとしたら、国は、企業家間の競争で経済価値が明らかになる前に権利を正さなければならないという知恵の試練にみまわれ、私企業経営者は、国がすべての権利を線引きするまで待てるかどうかの忍耐力を試された。

 前者の試練は、所有権の市場価値の情報がほとんどないまま、権利の線引きについて、いきなり正しい判断を国に求めるものだ。このあまりの難題には、経済改革は頓挫しないまでも、たちまち失速していたことだろう。

経済学の伝統的な説明と矛盾する改革

 この改革への取り組みは、経済学における国家の伝統的な説明と矛盾している。一般に経済学で想定される国家が経済で果たす主たる役割とは、所有権を線引きしたあとは経済から手を引き、私的な経済主体どうしで自由に取引するに任せることだ。相反する権利主張が起こって解決を求められるのでない限り、国家は経済から距離を保つ。

 中国の場合には、権利の線引きと移行が一度に行われたから、どの権利が重要で線引きに値するのかの判断は、経済主体と国家との交渉に依っていた。国家から委譲される権利の大半は、初めは譲渡不可とされた。たとえば家庭請負責任制では農民に土地使用権の譲渡を認めなかったし、国有企業の経営者はその権利を譲ることができなかった。そのため、権利者が変わるたびに国は交渉の場に呼び戻された。

 さらに、時とともに経済状態が変わるにつれ、元の交渉では除外された権利が経済的に重要になることもあり、元の契約に含められた権利も重要性が大きく変わってしまい、改定が認められることもあった。国は権利構造の改定と再定義のために必要とされた。

 加えて、元の契約が更新されるときにも、国は再交渉の場に引っぱり出され、権利の明細の再規定にもかかわった。多くの土地売買契約のように75年もの長期契約もあったが、もっと多かったのは、国有企業経営者と監督当局、企業と工業団地が結んだ請負責任契約の5〜10年契約だった。中国では国家が重要な経済主体でありつづけたのも当然だった。

 しかし中国の経済改革が、市場原理に対する国家の干渉の勝利を表わしている、というのは誤解である。たしかに地方政府は、地方経済の運営に深く関与している。たいていは、地元の状況にとって最善の経済開発モデルを見つけるべく、地方政府どうしで生産要素の用意を競い合っている。

 この働きは本質としてはアルフレッド・マーシャルが組織(オーガニゼーション)と呼んだもの、独自に唱えた第四の生産要素である。地方政府が新たに工業団地を開設し、投資を募るとき、そこで土地を切り拓き、舞台をしつらえ、私企業の始動と成長とを促進している。地方政府は計画の構想や主体の選択にはかかわるだろうが、事業を運営するのは企業である。そして工業団地の運命は、そこを拠点とした企業が生き残って成長できるかどうかは、政府が握っているのではない。市場競争が決めるのだ。

「外部経済」に補われた「内部経済」の損失

 地域間競争に地方政府が与えた最大の貢献は、中国の国土の広さと国内の多様性を利したことだ。地方政府の行動が、広大な国土という強みを工業化の桁はずれのスピードに転換している。

 中国の地方政府のそれぞれが、32の省級政府、282の市政府、2862の県政府、19522の鎮と14677の郷の政府が、地方経済の開発のしかたを実地に試みるとき、無数の異なる実験が同時に、競い合うように行われる。試行錯誤にもとづく集団学習の時間が大幅に削減され、成功した慣行がすぐさま簡単に広まる。

 地域は1990年代半ば以降、資本と労働の移動性がますます高まった生産要素市場と生産物市場だけでなく、地方の公共財提供、政府と企業の関係構造、地方の生産組織でも競い合っている。投資が重複反復することは不可避であり、むしろこの過程には不可欠だ。

 これは資本の過小利用による規模の経済の低下を招いたが、工業化を大幅に加速普及させ、30年とたたないうちに中国を無敵の世界の工場に変えた。アルフレッド・マーシャルのいう「内部経済」の損失は「外部経済」に補われて余りあった。これが90年代以降の中国市場転換の桁はずれのスピードを理解するカギである。

(次回に続きます)


ロナルド・コース (Ronald Coase)

1910年生まれ。100歳を超えて現役の英国生まれの経済学者。論文の数は少ないが、そのうちの2つの論文 “The Nature of the Firm”(「企業の本質」)(1937年)と“The Problem of Social Cost”(「社会的費用の問題」)(1960年)の業績で、1991年にノーベル経済学賞を受賞。シカゴ大学ロースクール名誉教授。取引費用や財産権という概念を経済分析に導入した新制度派経済学の創始者。所有権が確定されていれば、政府の介入がなくても市場の外部性の問題が解決されるという「コースの定理」が有名。著書に『企業・市場・法』(東洋経済新報社)、『中国共産党と資本主義』ほか。

王寧(ワン・ニン)

アリゾナ州立大学政治国際学研究科准教授。


103歳のノーベル賞学者の 中国資本主義論

1910年生まれ、今年103歳となるノーベル経済学賞受賞者のロナルド・コース氏は、いまも現役の研究者である。肩書きはシカゴ大学ロースクール名誉教授だが、中国人の王寧アリゾナ州立大学准教授との共著で、中国社会主義の資本主義への制度変化を分析した『中国共産党と資本主義』(原題はHow China Became Capitalist)を2012年に出版した。この連載は、2013年2月に出版された邦訳の中でも、白眉である第6章「一つの資本主義から複数の資本主義へ」をまるごと公開するものだ。中国的特色をもつ資本主義の到達点と限界を独自の視点から分析する。


08. 2013年3月12日 01:24:55 : SNljMa86tM
2013年 3月 11日 17:21 JST
西太平洋の小島、ヤップ島に押し寄せるチャイナマネー

By ALEX FRANGOS

 西太平洋に浮かぶ小島、ヤップ島。かつてこの島の住民は苦労して金を手に入れた。彼らは石を削って巨大な石貨を作り、それをカヌーに乗せて外洋を渡って島に持ち込んだ。

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Corbis
伝統的な衣装をまとい、ヤップ島で今も使われる石貨の前に立つ男性
 グローバル経済の中でいかにして金を手に入れるのか。西太平洋まで押し寄せてくる中国マネーにどう対処すればいいか。今、ヤップ島ではこうした問題をめぐって住民の間で意見の対立が起きている。

 中国人不動産開発業者のケ鴻氏はこの島に10億ドルをかけてカジノとゴルフ場を併設した客室4000室のリゾートを建設したいと考えている。リゾートホテルを建設すれば、ヤップ島の年間の経済生産額は現在の4倍の2億ドルに増える、とケ氏は言う。

 しかし、火山岩でできた広さ101平方キロメートルのこの島の住民が心配しているのは、リゾート建設によって手に入れるものは失うものに見合っただけの価値があるのか、という点だ。中国人観光客や外国人労働者の流入でヤップ島の人口は倍増するだろう。リゾート用に土地を空けるために、住民の中には海岸に草ぶき屋根の家が立ち並ぶ先祖伝来の村落を出て、開発会社が用意した新しい住居に移らなければならないだろう。

 ヤップ州議会の議長、ヘンリー・ファラン氏は「ヤップの人々は大金を持ってやってくる中国人ほど強引ではない」と話す。10人の議員からなるヤップ州議会はこのプロジェクトを阻止するための法律を可決したところだった。「自分たちの土地について自分たちの気持ちを抑えることに未来はない」と語った。

 しかし、プロジェクトに反対する人々でさえ、ヤップ島は経済的自立を学ばなければならないことは認めている。1万1000人の人口を抱えるヤップ島は長い間、米国からの援助に頼ってきた。その援助も2023年に終了することが決まっている。

 ヤップ島は1915年に日本の統治下に置かれ、第2次世界大戦が終わると米国の保護領になった。ミクロネシア連邦の州として独立したのは1986年だ。それ以降、米国は補助金を出し、ヤップ島はその補助金で公共支出の70%を賄っている。2011年の米国の補助金は1550万ドルに上った。条約に基づき、ヤップ島は米国の軍事的支配下に置かれている。

 「ヤップは何か手を打たなければならない」。ヤップ州のセバスチャン・アネハル知事は昨年夏の開発合意書の調印式でこう述べた。

 米国の援助が支えるヤップ島の現代の生活は、携帯電話や自動車、加工食品といった現代的な側面とのんびりした文化が入り交じってできている。島の文化はたくさんの魚が泳ぐ海、熱帯雨林、そしてビンロウという軽い麻薬がもたらす快楽のおかげで約3000年にわたって生き残ってきた。ビンロウは現在もまだ広く使われている。

 ヤップ島には信号も小売りチェーン店もない。ほとんどの住民が自分が所有する土地に住み、その生活は新鮮な魚やカニ、ニワトリ、バナナ、ココヤシの木、タロイモ畑に支えられている。失業率は6%で、労働者の約半数が学校や警察、道路工事、医療といった公共部門で雇用されている。米国内で働くヤップ島出身者から仕送りを受けている家族もいる。ヤップ島の人々は米国に査証(ビザ)なしで入国できる。多くの人が米軍で働いている。

 最高首長の1人のAloysius Faimau氏は「ここでは一生懸命働くことはしない。誰からもこき使われることはない」と話した。最高首長とは古くからある肩書で、土地の所有や所属村落と結びついた複雑な社会階層に基づいている。「金を稼ぎたいなら、グアムやハワイ、米国に行けばいい」と66歳の最高首長は言った。

 米国がミクロネシアやその他近隣の太平洋島しょ国に実施している援助は年間で1人当たり1000ドルを超えており、世界で最も高額だ。米国政府はミクロネシアが援助に依存している現状を懸念して、太平洋島しょ国に対して民間投資を呼び込むように促した。

 2007年には、当時の米内務省島しょ局の副次官補だったデイビッド・コーエン氏が講演の中で、島の住民は現代的な投資を受け入れるべきだと話した。内務省島しょ局はミクロネシアとの関係を監督する部署だ。

 コーエン氏は前例があると言った。キリスト教のことだ。キリスト教は「19世紀まで太平洋地域には無縁のものだった」と言い、「今では太平洋地域のほとんどの文化に欠かせない要素だ」と指摘した。

 ヤップ島は16世紀後半にスペイン領となり、1899年にはドイツに売却され、1915年に日本の統治下に置かれた。第2次世界大戦が終わると、米国に降伏した。そのヤップ島は中国に頼ることで今抱える難題を解決しようとした。2011年初め、北京のミクロネシア連邦大使館はヤップ島をリゾートにするというアイデアを売り込み始めた。

 中国でコンベンションセンターやリゾートを開発するケ氏は2011年8月、調査のためにヤップ島を訪れ、その風景を気に入った。そこには、人が少ないビーチ、透明な水、生い茂るマホガニーやココヤシの木、そしてシダや熱帯の花々があった。

 ヤップ島にリゾートが建設されれば、ケ氏の会社、会展旅游集団(ETG)にとって初の海外投資案件となる。

 父親が空軍将校だったケ氏は北京の市場で衣類を販売していた。その後、輸出入業者としてサンフランシスコに渡り、そこで米国人と結婚した。帰国後、急増する富裕層向けにリゾート建設を行い、財産を築いた(中国のメディアの試算では8億7000万ドルとされる)。チベットの首都ラサにインターコンチネンタルホテルを建設するプロジェクトもケ氏のものだ。ETG 傘下の旅行代理店が中国人旅行者向けに手配する旅行数は年間で100万件に上る。

 ヤップ島を選ぶのは簡単だった、とETGのヤップ島現地代表を務めるYang Gang氏は言う。Yang氏はヤップ島のアパートの自室で「中国に近いからだ」と話した。部屋は裸電球で照らされ、キッチンのテーブルに置かれた空き缶からはたばこの吸い殻があふれていた。

 米国本土からヤップ島に行くには2日がかりだが、ETGが計画している上海からの直通便に乗ればたった3時間半で到着する。中国人観光客にとって、ヤップ島はバリやシンガポールより近くなる。

 ケ氏はリゾート計画への支持を得るため、費用を出してアネファル知事や村長らを人口700万人の四川省成都市でETGが行っているプロジェクトの現地視察に招いた。ヤップ島でデング熱が発生すると、ケ氏は2万ドルを寄付した。ETGは現地の学校に鉛筆やメモ帳を寄贈した。

 ETGはリゾートの設計に向けてフロリダの設計会社HHCPと契約した。HHCPはドバイの人工島「パーム・ジュメイラ」を開発した会社だ。パーム・ジュメイラは空から見ると巨大なヤシの木のように見える。HHCPはヤップ島のために、島の伝統的な建築様式から着想を得た急こう配の草ぶき屋根のホテルを海辺に建てようと計画している。

 ケ氏はヤップ島に水深の深い港や病院、学校を建設すると約束している。将来、中国との間で毎日、直行便を飛ばすために、空港に長い滑走路も建設するだろう。現在、ヤップ島からは週にグアム行き2便とパラオ行き1便の計3便の深夜便が運航されている。

 ETGは全ての住民に年間400ドルを支払うことも予定している。昨年、ヤップ島にはスキューバダイビングを楽しむ人たちを中心に4000人の観光客が訪れ、数少ない小規模のホテルに滞在した。ETGはリゾートが建設されれば、年間に100万人の観光客が訪れるとしている。

 ケ氏はプロジェクトをスムーズに進めるため、コーエン氏を含む数人の米国人コンサルタントと契約、コンサルタントはケ氏の自家用ジェット機に乗ってケ氏のもとを訪れた。コーエン氏はヤップ島プロジェクトについて地域支援の評価を手伝っていると話した。コーエン氏は2008年に内務省を退職し、現在はロサンゼルスで弁護士をしている。

 「私の役割は弁護士というより、顧問だった」とコーエン氏は話した。

8月、ETG側の交渉団とヤップ州の司法長官代理を務めるテネシー州出身の32歳の弁護士が中国側による今後の進め方をまとめた開発合意書を仕上げた。しかし、合意文書の調印以降、事はスムーズに運ばなくなった。

 計画によって島が観光客用の地域と先住民用のコミュニティーに分割されることを知った住民が反発したからだ。先住民用のコミュニティーには、住む土地を失った住民のためのアパートが建設されることになっている。住民はこのプロジェクトによって、先祖代々続いてきた村落との絆が断ち切られるのではないかとのいら立ちを感じている。

 主要反対派グループ「Concerned Citizens of Yap(ヤップの懸念する市民)」の指導者、Nicholas Figirlaarwon氏は「自分たちの土地を失ってしまう。私たちが一歩踏み出したのはそのときだった」と話す。

 Figirlaarwon氏が住む村落では、高さが2メートル40センチもある石貨が電柱に立てかけられている。石貨は石灰石でできていて、丸い形をしている。世界で最大かつ最も重い通貨だ。この石貨は18世紀と19世紀に切り出され、450キロ離れたパラオから主にカヌーで運ばれてきた。石貨は今でも、現地の人が土地を取引したり、いざこざを解決したりするときに使われている。ヤップの人々は石貨を新しい所有者のところに運ぶことはせず、誰がどの石貨を所有しているかを覚えているのだと話す。

 ヤップ島では外国人が土地を所有することはできないため、開発業者は村落の土地の所有者と99年間のリース契約を結ばなければならない。締結されたリース契約の数は明らかになっていない。ETGが提案したリース契約のコピーを入手した反対派は賃借料が安く、時間とともに減っていく内容だとして不満を訴えた。

 ETGの現地代表のYang氏によると、リゾート建設に十分な土地はまだ確保していないという。Yang氏は説得を続けるよう指示を受けていると話した。

 「なぜ私たちが彼らの土地を奪うと考えるのか、わからない」。Yang氏はプロジェクトが住民にもたらす利益を数え上げるとこう言った。「私たちは乗っ取ることはできない。私たちは日本兵ではない。許可を取って、全てのビジネスを合法的に行っている。誰にも土地を貸せと強要していない。全て自由意志に基づいている」とYang氏は言った。

 現地の反対派は島を中国人向けのリゾート地にすれば、島の文化がさらに失われると話す。ヤップ島の文化は米国からの支援の下で既に衰えている。ヤップ州が別の島からやって来たJohn Hagileiram神父は「人々は自分で育てることができる食物、自分で捕まることができる魚を食べて生きている」と話す。「ゴルフ場やカジノを持ち込むことでどうやってヤップの人々の文化を強化するのか、私にはわからない。むしろ逆効果だ」とHagileiram神父は指摘した。

 軍事アナリストは中国が海軍を強化するにつれて、第2次世界大戦で奪い合いになったヤップ島など太平洋の離島が再び戦略的な重要性を持つ可能性があると警告する。

 ヤップ島ではあちこちに大破した戦闘機の残骸がある。その近くには、戦死した米国の爆撃機の操縦士にささげた記念碑が置かれている。米国はミクロネシアとの安全保障条約に基づき、この地域を軍事的に支配している。

 「チェスの駒のように世界の地政学的条件があちこちで動き始める中で、中国がヤップに狙おうと決めた理由は明白だ」と話すのはグアム準州の知事を務めるエディー・カルヴォ氏だ。グアムは米国の領土の中で中国に最も近く、米国の軍事施設を抱えている。ヤップ島からは約800キロの距離にある。「しかも、中国人観光客が訪れる美しい場所としても、ヤップ島はちょうどいい位置にあるようだ」とカルヴォ知事は言う。

 米国政府は中国の提案について、表向きは中立的な立場をとっている。駐ミクロネシア米国大使のドリア・ローゼン氏は昨秋に出した声明の中で、「米国はヤップの人々に長期的な利益をもたらす合法的な投資家や投資に反対しない」と述べた。

 10月には反対派はヤップの最高権威である最高首長の会議を開催し、プロジェクトを中止して島の文化を守るよう命じる書簡をアネファル知事に送った。支持派は書簡を書いた3人は会議の正式なメンバーではないと主張した。この会議は100年以上、活動していない。

 その直後にアネファル知事は反対派に屈し始めた。反対派は知事に解職をちらつかせた。知事は10月末にケ氏に書簡を送り、リゾート計画を再検討するよう求めた。ヤップ州議会はETG に計画の推進を断念させようと外国からの投資を規制する法律を成立させた。

 しかし、ETGが態度を変える様子はない。Yang氏は引き続き土地のリース契約を結んでいると述べ、最近、駐ミクロネシア中国大使がヤップ島を訪問したことについて、支持の表れだと指摘した。 

 プロジェクトは「スムーズに進んでいる」とYang氏は電子メールで回答した。


09. 2013年3月14日 00:16:04 : xEBOc6ttRg
資本主義と共存する中国共産党の謎

『中国共産党と資本主義』第6章を読む(7)

2013年3月14日(木)  ロナルド・コース 、 王 寧

 中国共産党は、中国の政治権力を独占する唯一の政党である。中国型資本主義は西側の資本主義とは異質であり、対立するものと考えられてきたのは、市場経済化によっても共産党が存続したからだ。
 『中国共産党と資本主義』の本節は、資本主義と共存している中国共産党という存在の謎を解き明かす
 今日、中国共産党はこの国の唯一の政党でありつづけている。過去30数年間に多くの観測筋や解説者が、中国はいずれ西洋型の資本主義へ向かうだろうと期待を寄せた。その過程で中国共産党は、市場改革が進展するにつれ重要性を失うか、共産主義とともに廃れるか、民主化を受け入れて台湾や韓国と同じ道を歩むだろうと見られた。

 しかし今日、中国共産党に、その一党支配体制を改める用意があるとの兆しは見当たらない。その割合を高めている私企業家や大学卒業者も含めて、あらゆる職業の8000万人以上の党員(2011年末現在)をかかえる党は、かつてないほど強大に見える。共産党が存続して、中国型の資本主義はますます異質で好戦的な勢力、西洋の資本主義を打倒しないまでも、これと対立する勢力に見える。

経済の自由化と共産党支配の継続とのややこしい協調関係

 中国における共産党の存続は、経済改革の最も顕著な特徴に違いないが、それは多くの人に改革の始めから終わりまで、中国の党国家としての一見誤りのない役割に目を向けさせた。旧ソ連圏のように、これまでの与党・共産党が次々に崩壊して、市場主導の改革への道が拓かれた移行経済(トランジション・エコノミー)とは違って、中国は共産党と市場経済がともに繁栄できるように見える唯一の例として際立っている。

 この経済の自由化と共産党支配の継続とのややこしい協調関係は、中国の市場転換の驚異的な記録を理解する手がかりとして一般に認められている。広く流布している単純化された説によると、市場改革のうらやましい実績は主として中国の全権を有する共産党の一党独裁国家のおかげである。

 中国の経済モデルは、政府と党の担う役割を強調して「権威主義的資本主義」とか「国家主導資本主義」と呼ばれている。中国経済にはびこる国と特殊利益団体の腐敗した関係、批判者が「縁故資本主義」とか「権貴 (クアングイ=パワーエリート )」資本主義などと呼ぶものさえ、中国の経済改革の国家中心の見方が正しいと立証しているかに見える。

 中国がどのように資本主義化したかについて本書の説明をここまで辿ってきた読者が、中国の経済改革を共産党の自己宣伝と見なす国家統制主義的な解釈をはねつけるのは当然である。中国指導部でさえも、とくに1980年代にはこの改革を「石を探りながら川を渡る」試みと評していた。

 政府は何度となく不意を打たれた。飢えた農民が私営農業と郷鎮企業の優越を証明したとき、元失業者の都市住民が「鉄の飯碗」をもつ国有企業の従業員より高収入になったとき、小さな漁村だった深センがたちまち中国南部の都心、資本主義の中心へと変貌したとき、不意を打たれた。国有企業の再生を何度試みても果たせず、何百万という労働者を解雇せざるをえなかったとき、指導者は失望し困惑してもいた。中国の新興経済大国への転換は、断じて全知全能の政府の周到かつ持続的な設計がもたらしたものではない。

 中国共産党の存続とその政治権力の独占は、2つの重要な変化を隠してしまった。1つ目は、中国経済における国家の重要性がどんな基準に照らしても、徐々に弱まってきたことだ。経済改革以前、中国人民にほとんど経済的自由はなく、国家が経済のあらゆる面を、製造から小売、はては消費までを統制していた。

 今日では、私企業活動が中国経済の第一の推進力である。経済に占める国有セクターの規模は、非国有セクターと比べて大幅に縮小した。多くの国際比較研究では、それでも国有セクターはかなり大きいため、中国経済を国家主導資本主義と特徴づけてきた。

 しかし改革の過去数十年間に、国家が中国経済から徐々に手を引いていったことは否定しがたい事実である。たとえ国家が中国経済の台頭に貢献したように見えたとしても、中国の市場改革が成功したのは、政治指導力があまねく存在したからとか、強力だったからというより、政府が徐々に経済から離れていったからにほかならない。

 2つ目は、現在の中国共産党はもはや革命の前衛を自任していないことだ。「天命」が共産主義に取って代わっていた。一党独裁国家・中国はその正統性を、効果的な統治と国民の生活水準向上に置いている。2002年のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議がメキシコのロスカボスで開かれた際、当時の江沢民国家主席は次のような声明を発表した。

 「国際社会はたくさんの問題に直面しており、将来さらに多くの問題が不意にもちあがることだろうが、平和と発展に味方する歴史の流れは逆戻りできないし、すべての国の民が生活の向上へのあこがれを変えることもない。どこに住んでいようと人々は世界平和と安定が続くことを、万国共通の繁栄と持続可能な発展を望んでいる。世界平和と全体的発展を確実にするには、すべての国の為政者が国民の意思に応え、歴史を前進させるのに必要なビジョンと勇気を示すことが求められる。」

 「我々の成功のカギは、各国のさまざまな利害や関心に照らして、多様性を尊重できる力に、相違は棚上げにして共通の基盤を求めることに存する。世界は多様で多彩な場所である。アジア太平洋地域はなおさらだ。各国の歴史と文化の多様性とそれぞれの発展への道のりや手本を尊重することは、全体的発展と繁栄を達成するための重要な基盤である。歴史を通じて異なる文化が融合し相互に影響を与えあうことは、人類の文明の発展の原動力となってきた。歴史の法則にのっとり、文化交流をさらに活発にし、お互いの強みをもっと意識的に引き出すことで、あらゆる人間社会の全体的発展を手に入れなければならない。」
 
 2008年4月12日に海南島で開かれた博鰲(ボアオ)アジアフォーラム年次総会の開会式典で、国家主席だった胡錦涛同様に経済発展を強調した。

 「この競争が激しくなる一方の世界で、ある国が発展しようとするならば、時代とともに前進し、改革と開放を推進し、開発を促進し、国民第一に調和を図らなければならない。これが、改革と開放という偉大な運動から引き出した結論である。」

 「世界のすべての国にあてはまる出来あいの、また不変の開発の道筋や手本などはない。中国の国内事情に合わせた開発の方針やモデルを探求し改良していかなければならない。そうしながら国内でも国外でも新たな趨勢に適応し、ますます高まる国民の生活向上への期待に応えねばならない。中国社会をもっと活気づけなくてはいけない。そして時代の趨勢に対応して、国民と運命を共にすることである。」

「共産党宣言」を知らない学生たち

 共産主義に傾倒しているか、または、せめて詳しいという新参党員は、いるとしてもごく少数にすぎない。カリフォルニア大学サンディエゴ校のリチャード・マドセン教授が2007〜2008年に復旦(ふくたん)大学に派遣されていたとき、ある担当クラスの成績優秀な学生が、入党していながら『共産党宣言』についてはほとんど聞いたこともなかったという。

 共産党が労働者と資本家の階級闘争とともに社会主義と資本主義の対立をわきにどけて、実事求是に没頭していったならば、それはもはや西洋の理解している共産党ではない。この意味で、中国を共産主義政体と扱いつづけるのは誤りのもとである。

 経済改革が始まる前にも中国がどの程度まで共産主義政体だったのか、というのは未解決の問題だ。少なくとも毛沢東の中国は、とうてい共産主義の範疇には収まらなかった。中国におけるマルクス主義の歴史は、1921年の中国共産党設立をその出発点としても、中国文明の悠久の歴史と継続している儒教支配のことを考えると、あまりにも短い。

 マルクス主義は毛政権下で公式のイデオロギーと認められたので、歴史の浅さから想像されるよりも重大な影響を経済と社会に与えていた。しかし中国の政治思想を何千年にもわたる思想の蓄積と見るなら、マルクス主義はうわべだけの装飾にすぎない。

 もっといえば、マルクス主義は毛やその同志に、もしされたとしても、ほとんど真剣に研究も理解もされなかった。マルクス主義をもっと体系的に研究していた人は、1949年以前に国民党政府の手で葬られたか、共産党内でくり返された権力闘争で毛沢東に斃された。

 毛が権力の座について以降、中国共産党はつねに共産主義というよりむしろ中国的だった。たとえば毛の共産主義観は、ごく限られた範囲のマルクスやレーニンの著作の読書よりも、身にしみついた中国古典にもとづいていた。毛は何度となく中国の伝統を根こそぎにしようと試みたが、この国の社会主義は依然として連綿たる社会と政治の歴史に深く影響されていた。社会主義の中国は中国的でありつづけた。

 たとえば、社会主義は公有制と中央計画に基礎をおいているとされたが、中国ではこの二本柱が同等には見られていなかった。公有制の不可侵の位置づけによって毛沢東の中国では私的所有権がつねに攻撃されたのに対し、中央計画は第一次五カ年計画のわずか数年しか実施されなかった。

 この中国社会主義における公有制と中央計画の歴然たる差は、歴史に深く根ざしたものだ。公有制にもとづく理想社会という概念は、中国思想史に古くから存在した。孔子の時代にまで遡れる。伝統的な法思想・政治思想には、「私」に対する凝り固まった偏見がある。この公と私の対比は、19世紀末から20世紀初頭に康有為が強力に再定式化した。

 康は、儒教用語の小康に対する大同の世界(ユートピア)を広めた。康の見方では、公有制が理想の大同世界の土台だった。この見方は毛や他の中国人共産主義者に消えない影響を与えた。しかし歴史的には、非集権化もまた中国政治の際立った特徴だった。中国の政治的権威主義の化身たる皇帝でも、中国ほどの巨大で多様な大陸は細かい点まで統制しきれなかった。

毛沢東の中国はもう一つのソ連ではなかった

 共産主義は西洋の知的伝統から生まれたものだから、西洋が毛沢東の中国を共産主義のレンズを通して見ようとしたことは驚くにあたらない。毛が共産主義の教義にのっとって中国の再建に努めたことや中国の文化的伝統の根絶に奮闘したことも、そのような見方を促した。

 さらには、ソヴィエト連邦が最初の社会主義国だったため、中国をソ連と似たものと考えるのが西洋には都合がよかった。毛の中国は鎖国状態だった一方、ソ連は近づきやすかったから無理からぬことだった。しかし社会主義が最高潮に達した時期でさえ、中国とソ連はイデオロギーも組織もはっきり違っていた。毛沢東の中国は断じてもう一つのソ連ではなかったのだ。

 中国を共産主義と呼ぼうが資本主義と呼ぼうが、この国の急速な経済改革とその今後の展望に対する理解を深めるためには、中国史の遺産について承知していなければならない。中国は資本主義になじみが深く、もちろん自由貿易や私的事業活動にも精通している。

 中国史の学生には周知のことだが、遠隔地貿易、紙幣の流通、盛んな市場活動は、中国の過去のいつの時点でも存在した。これは唐王朝末期や宋王朝、明清の時代にとくにあてはまる。マルコ・ポーロは13世紀に中国を旅したとき、急成長する商業や洗練された工業に強い感銘を受けている。なかでも興味をそそられたのは紙幣が流通していたことだった。西洋では17世紀まで登場しなかったものだ。

 だが、このような早い時期の商業のつぼみは全面的な近代産業革命を生み出しはしなかった。世界に冠たる文明は、まさしく西洋の隆盛が始まるころに停滞しだした。にもかかわらず、中国史における資本主義の先行例は、現代中国の市場経済の復活に直接かつ重要な関連がある。

多様な文化的伝統のうえに資本主義を発展させるだろう

 過去30年間に中国がどうやって資本主義化したかについてのこのような説明では、中国の長く複雑な歴史を正しく評価できはしないが、中国文明がつねにきわめて開放的だったことは強調しておくに値する。紀元前221年に秦が統一する前の中国では、諸子百家が現われては関与しあって、「百家争鳴」という格言を生み出した。

 漢から唐王朝の時代には、シルクロードが世界につながる通商路となり、中国はインドや中央アジア、その向こうから多くの思想を吸収することができた。中国文明が継続していると考えると、3世紀に仏教と出合って以後この国の文化は長く重要な転換期を経てきたことを忘れがちである。

 儒教が仏教を吸収して、宋王朝期に新儒教(朱子学)を生み出すまでには何世紀もかかった。今日の中国は、西洋との対等の条件での交流をやっと始めたばかりだ。従来とは異なる形の資本主義を、西洋その他の諸外国と広く関与しあいながら持ち前の多様な文化的伝統のうえに築いた資本主義を、発展させていくだろう。

 どんな社会や文明も、開放的で寛容で政治的に安定した環境に生じる相互交流とハイブリッド化で栄え、偏狭な考えと政治的混乱をこうむったときに滅びる。地域中心の見方を捨てて、グローバルな視点から人類史を眺めれば、中国は過去に世界を支配したことがなかったし、現在の西洋も世界を牛耳ってはいない。開放的で寛容な文明だけが広く行き渡ることができたし、これからも広まっていく。地理的な起源や民族的な様相などの他のよく知られた特徴はすべて偶然であり、必然性のあるものではない。

 中国共産党の強力な見える手のもとで、新興の中国市場経済は自由主義の市場秩序とは異なるばかりか、対立している別種として幾度も扱われる。たしかに中国の市場経済は英米その他既存の資本主義モデルとは異なっている。これは歴史の影響とともに他にも数多い中国の目立った特徴である人口と国土の巨大さ、中国共産党の役割などが理由であり、中国がグローバル市場経済では後発国で、他の資本主義モデルから学べるからでもある。

 中国と先進諸国とではテクノロジーと生産可能性フロンティアに大きな差があった。中国人民はイデオロギーのくびきから脱するや、すぐさま追いつくことができた。時を同じくして、中国はその市場の巨大な潜在能力から、世界じゅうの外資の格好の投資先とされる。例を挙げれば、1990年代からは上海がグローバル資本主義のモデル都市となった。

 しかし中国経済をグローバル市場秩序の脅威とする非難は、根拠があってのものというより恐怖心や誤解による。むしろ、ポスト毛沢東体制の経済改革は、共産主義の崩壊の始まりを告げていた。毛沢東の死後、中国がふたたび市場原理を受け入れたことが、20世紀初頭にソヴィエト連邦で始まった社会主義の実験に致命傷を負わせた。

 経済特区の設置や海外直接投資の流入などの市場志向の改革は、たちまち何百万という国民を貧困から抜けださせ、人類の4分の1の生活水準を引き上げた。こうした目覚ましい成果がインドやベトナムなど他国に、市場の恵み深さと国家計画の愚かさを確信させた。

非西洋社会が市場を受け入れる手本を示している

 そのうえ、中国の市場転換はグローバル資本主義の新たな地平を拓いた。いまや新興の経済大国として、中央アジアや東南アジア、中南米やアフリカで、経済がますます中国市場と統合されつつある多くの国の発展に寄与している。中国経済の大転換は、すでに成長著しいグローバル市場経済の柱となっていた。

 もっと重要なことには、中国の活気ある独特の市場経済の運営は、明らかに非西洋社会でも資本主義は根づき、繁栄できるという説得力ある主張となっている。中国的特色をもつ資本主義は、やはり西洋と文化も歴史も異なる他の発展途上国が市場を受け入れるための手本を示している。

 中国は、西側諸国の資本主義の独占を破ることで資本主義をグローバル化し、資本主義の文化的環境を広げて文化的多様性を加えることでグローバル市場の秩序を強化している。資本主義が西側諸国にとどまらず、多様な文化的背景と政治体制のもとでも花開くとすれば、自由主義のグローバル経済の秩序は、いまよりはるかに回復力に富み、持続可能なものになるだろう。

(次回に続きます)


ロナルド・コース (Ronald Coase)

1910年生まれ。100歳を超えて現役の英国生まれの経済学者。論文の数は少ないが、そのうちの2つの論文 “The Nature of the Firm”(「企業の本質」)(1937年)と“The Problem of Social Cost”(「社会的費用の問題」)(1960年)の業績で、1991年にノーベル経済学賞を受賞。シカゴ大学ロースクール名誉教授。取引費用や財産権という概念を経済分析に導入した新制度派経済学の創始者。所有権が確定されていれば、政府の介入がなくても市場の外部性の問題が解決されるという「コースの定理」が有名。著書に『企業・市場・法』(東洋経済新報社)、『中国共産党と資本主義』ほか。

王寧(ワン・ニン)

アリゾナ州立大学政治国際学研究科准教授。


103歳のノーベル賞学者の 中国資本主義論

1910年生まれ、今年103歳となるノーベル経済学賞受賞者のロナルド・コース氏は、いまも現役の研究者である。肩書きはシカゴ大学ロースクール名誉教授だが、中国人の王寧アリゾナ州立大学准教授との共著で、中国社会主義の資本主義への制度変化を分析した『中国共産党と資本主義』(原題はHow China Became Capitalist)を2012年に出版した。この連載は、2013年2月に出版された邦訳の中でも、白眉である第6章「一つの資本主義から複数の資本主義へ」をまるごと公開するものだ。中国的特色をもつ資本主義の到達点と限界を独自の視点から分析する。


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