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「小さな天安門事件、今も」 故・趙元総書記秘書に聞く(朝日新聞)
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/511.html
投稿者 gataro 日時 2013 年 6 月 05 日 22:55:03: KbIx4LOvH6Ccw
 

「小さな天安門事件、今も」 故・趙元総書記秘書に聞く

朝日新聞 2013年06月05日05時28分

http://digital.asahi.com/articles/TKY201306050004.html  
                                                                             
写真・図版

北京の自宅でインタビューに応じる鮑●さん(●は丹へんに彡)=林望撮影


 中国で民主化を求めた学生らが弾圧された天安門事件から4日で24年が過ぎた。事件で失脚した故・趙紫陽元総書記の政治秘書だった鮑●(パオトン、●は丹へんに彡)氏(80)を記者は訪ねた。

■「小さな天安門事件、今も」

 北京市西部の住宅街にある古いマンションの一室。書架には趙紫陽氏の写真が飾られていた。

 「趙氏の遺族がくれたものです」

 趙氏の政治秘書を9年間務めた鮑トンさんは、張りのある声で話した。

 趙氏失脚の直後に逮捕され、国家機密漏洩(ろうえい)罪と反革命宣伝扇動罪で懲役7年の実刑判決を受けた。

 1996年に出所した後もマンションには見張りがつき、客の出入りに目を光らす。記者もロビーで呼び止められ、身分証を出すよう求められた。鮑氏との面会は認められたが、マンションにはすぐに3台の当局の車がやってきた。

 党大会や全国人民代表大会などの政治日程が近づくと、客は追い返されるか連行されるかし、自宅の電話も通じなくなるという。

 「習近平(シーチンピン)政権になって、そうした期間が延びた。指導者の肝っ玉が大きければ、部下たちが神経質になることもなかろうに」

 事件から24年。この間、中国が急速な経済発展を遂げた事実は、党や軍の選択の正しさを物語るのか。

 「それは違う。あの時から、この国では至るところで小さな天安門事件が起こり続けているんだ」と鮑氏は語気を強めた。

 中国では地方政府が経済開発のために庶民に立ち退きを迫り、警察力で反発を抑え込む事件が絶えない。

 「天安門事件が人々に刻み込んだのは、この国では民衆が腐敗した権力者たちを追及しても、最後は軍が出てきて民衆に銃を向けるという事実だ」

 習政権になってからも、官僚の資産公開を求めて活動する市民らが相次いで逮捕されている。

 「すべて天安門事件の後に各地に現れた『小さな天安門事件』だ。トウ小平(氏)が武器で学生を抑え込んだのだから、地方の幹部たちが武装警察を出動させられない理由はない」

 24年前、天安門広場を埋めた学生たちは40〜50代になり、社会の屋台骨として中国の発展を支える。豊かになった人も多い。中国の人々のなかに「軍による鎮圧もやむを得なかった」との見方もあるのは事実だ。

 「発展の波に乗った人はそう思うかも知れないが、事件の評価は受益者と被害者で異なる。中国の多くの人々は、たとえば大気汚染と民主の欠如がつながっていることを意識していない。経済的に豊かになった人も、実は天安門事件の潜在的な被害者なのだ」

■「私は負けた」と趙氏は言った

 学生たちの民主化要求運動に対し、趙紫陽総書記(当時)は、穏当な対応を求めたが、首相だった李鵬氏らはこれに反対した、とされている。

 89年5月17日の午後5時か6時ごろ、党中枢機関が集まる中南海の事務室に戻ってきた趙氏は、「今、トウ小平氏のところで、ある決定をしてきた。私が負け、(副首相の)姚依林と李鵬が勝った」と鮑氏に語ったという。

 鮑氏によると、この日、趙氏や李氏、姚氏ら政治局常務委員らは、最高実力者だったトウ氏の自宅に招かれ、民主化運動への対応を協議した。そのことについて、趙氏は「どんな決定かは君にも言えないが、私には執行できない。辞職しなければならない」と鮑氏に話したという。

 趙氏は2日後の19日早朝、天安門広場でハンストをしていた学生たちを見舞い、「われわれは来るのが遅すぎた」と語った。その後、公の場から姿を消し、総書記を解任された。05年に死去するまで自宅軟禁状態が続いた。

 鮑氏は「あの日の会議で、武力鎮圧も含めた厳しい対応方針が決まったと私は確信している。最後の決定を下し、趙氏を失脚させる力を持っていたのは、李氏や姚氏ではない。トウ氏だけだ」と振り返った。

     ◇

■鮑トン氏との一問一答

――事件から24年。中国は米国に次ぐ経済大国になり人々の生活も向上しました。欧米式の民主はマネしないと明言する習近平(シーチンピン)指導部に共感する人も多いのでは。

 天安門事件以降、確かに中国は成長を遂げて世界第二の経済大国になった。しかし、中国の国内総生産(GDP)が世界2位になることに大した意味はない。なぜなら、秦の始皇帝の時代から19世紀に列強の侵略を受けるまで、中国は世界に冠たる経済大国だったのだから。

 しかし、その間、中国人は幸せだったのか。一人の皇帝のために奴隷のような生活をしていたのではないのか。

 国家や民族にとって都合のよいことは、必ずしも個人にとって良いことではない。今後の中国が目指すべき幸福は、一人一人の中国人の幸福でなければならない。私が民主や自由といった「普遍的な価値」の追求を訴えるのは、それが個人の幸福を優先する価値観だからだ。

――天安門広場で民主化を求めた世代が、その後の中国の発展の中枢を担ってきた。軍の弾圧はやむを得なかった、と考える人も増えているように見えます。

 発展の波に乗った人はそう思うかもしれないが、事件の受益者と被害者で当然、答えは異なる。しかし、中国の多くの人々は、大気汚染と民主の欠如が底辺でつながっていることを意識していない。経済的に豊かになった人も、実は天安門事件の潜在的な被害者なのだ。

――天安門事件で中国はどう変わったのでしょうか。 この20年余り、地方の政府が開発のために土地を強制収用し、反発する民衆を警察力で抑え込んだ。GDPを膨らませることが評価につながるからだ。官僚たちは開発を競い合ったが、民主化運動が挫折したために、それを制止する力が存在しなかった。

 結果として生まれたのが腐敗であり、微小粒子状物質PM2・5に代表される環境汚染だ。天安門事件で幕が開けたのは、権力を監督する者がいない、腐敗と汚染の時代だった。

――習主席とその指導部の政治体制改革への姿勢をどう評価していますか。

 習氏の言葉からは改革への決意が伝わってこない。彼は就任以来、「中国の夢」という言葉を繰り返している。夢とは未来を語るべきはずのものなのに、彼の語っている夢は「民族の偉大な復興」など、中国が強大だった過去への憧憬(しょうけい)だ。

 同じように強調している「制度の自信、理論の自信」も、共産党が歩んできた道への肯定であり、満足でしかない。

 向こう岸に自分たちが目指すべきものがあり、こちら側にはないものがあると思うから、人は川を渡ろうとする。こちら側に満足しているなら、危険を冒して川を渡ろうとはしないものだ。

 習氏の発言を聞く限り、課題の自覚よりも自己満足に終始している印象が強い。自己満足からは、改革に向け前身していく原動力は生まれてこない。

――習政権は目標として、2020年には「小康社会(ややゆとりのある生活ができる社会)」の全面的な実現、2049年には「現代的な社会主義国家」の実現を掲げています。

 私は全く興味がない。なぜなら、具体的な内容が何もないからだ。党が掲げる具体的な目標は20年に一人当たりの国内総生産(GDP)を倍増させる、ということだけだ。

――習指導部は、官僚の腐敗対策には熱心に取り組んでいるように見えます。

 腐敗対策も、民主がなければ徹底されない。党内にも清潔な指導者はいる。しかし、彼らにも家族がおり、その全てが清潔とは限らない。党内の誰かが腐敗対策に手をつければ、恨みを買って反撃される。民意の明確な後ろ盾がない腐敗対策は、政治的な暗闘に発展しやすい。それは共産党が繰り返してきた歴史だ。

――共産党が目指す「党内民主」は実現するのでしょうか。

 地方の基層レベルから選挙の範囲を広げていくのは、趙紫陽元総書記が進めた民主化プランのひとつだ。党内民主は社会全体の民主の一部分であればいいが、党内民主が社会の民主化を妨げる言い訳になってはいけない。

――今日もマンションの入り口には見張りがいましたが、習政権になって待遇は良くなりましたか。

 党大会や全国人民代表大会(全人代)、そして天安門事件の起きた6月4日前後などの敏感な時期は、我が家の電話は一切つながらなくなり、アポなしで訪れてきた人は当局者に連行されるか追い払われる。

 今年3月の全人代が終わった後、そういう状態が1カ月以上も続いた。江沢民氏や胡錦濤氏の時代は、大会が終わればすぐに厳戒態勢は解かれたのに。実際に決定しているのは末端の幹部かも知れないが、指導者の肝っ玉が太ければ、部下たちが神経質になることもなかろうに。

――最近、天安門事件で亡命した知識人らがネット上で準備している「天安門民主大学」の発起人の一人に名前を連ねましたね。

 80歳になった私にできることは少ないが、賛同の声を上げることはできる。私自身、初級クラスから民主とは何かを学んでみたいと思っている。

 中国で今、民主を実践することは高望みに過ぎるだろうが、民主とは何かを学び「啓蒙(けいもう)」することには差し迫った必要がある。官僚や大学の研究者を含め、欧米の民主国家に留学して帰国したエリートは増えているが、私に言わせればその多くはうわべだけを見て本質を理解しないままだ。

 先日、北京や上海の大学に、(人権や民主などの)「普遍的価値」や「党の歴史的な過ち」などを授業で取り上げることを禁じる「七つの語るべからず」という通知が出回ったのはその典型。民主に対し、目を閉じたままでいる者たちがこの国を率いているのが現状だ。

――共産党は、89年当時の民主化運動を「動乱」と位置づけたままです。評価が覆ることはあるでしょうか。

 私は事件の再評価や名誉回復が簡単に実現するとは思っていない。私が求めているのは2点だけだ。一つは、真実を人々に知らせることだ。弾圧は誰が決定し、何人が殺され、何人が職場を追われたのか。もう一つは、人々が事件について語る自由を認めることだ。皆が意見を交わす中で、事件の再評価も含めたあらゆる問題は解決されていくだろう。

     ◇

 〈天安門事件〉1989年4月に死去した改革派指導者、胡耀邦・元総書記の追悼集会を機に、学生らが北京の天安門広場を埋めるなど大規模な民主化要求運動を起こした。トウ小平氏ら指導部は「動乱」と位置づけ、6月3日夜から翌朝にかけて軍の戒厳部隊を投入した。当局は治安側を含め319人の死者が出たと発表したが、実際の死傷者数はこれよりはるかに多かったとされる。

     ◇

 〈鮑トン氏〉 1932年生まれ。浙江省出身。党中央組織部勤務を経て、80年から当時首相だった趙紫陽氏の政治秘書となる。87年から党中央委員となり、党中央総書記弁公室主任、党中央政治体制改革研究室主任を兼務。89年の天安門事件直前の5月28日、軍が戒厳体制を敷くことを外部に漏らしたなどとして逮捕され、国家機密漏洩罪と反革命宣伝扇動罪で懲役7年の実刑判決を受けた。96年に出所後も、北京市の自宅で事実上の軟禁状態にある。


 

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