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山本五十六の真実K       ミッドウエ―   
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投稿者 ♪ペリマリ♪ 日時 2012 年 3 月 08 日 15:38:03: 8qHXTBsVRznh2
 

今回は日米戦争の趨勢を一挙に逆転させたミッドウエ―海戦を検証する。
これによって前回検証した偽証者たちの実態をさらに究明する。

ミッドウエー海戦にまつわるロパガンダは、真珠湾奇襲攻撃ほど解明されていない。慢心していた日本海軍連合艦隊が、作戦段階から敵を侮り、情報戦を軽視し、結果アメリカ太平洋艦隊によって完膚なきまでに叩き潰された、という古いプロパガンダから、最近は山本五十六が真珠湾奇襲作戦を強引に敢行させた時と同じ脅しの手口を使って、ミッドウエ―作戦を強行させわざと負けさせた、というプロパガンダにすり替わった程度である。

真珠湾攻撃の手抜きもミッドウエー海戦の惨敗も、日米共同演出による八百長であることに異論はない。但し私はそこから山本五十六と南雲忠一を除く。ミッドウエー海戦について先ず結論を述べる。

◎日本はミッドウエー海戦に完勝している。


◎アメリカの『奇跡の逆転勝利』は詐術によるものである。


以前、百田直樹著『永遠のゼロ』を読んで感動した話を書いた。その際、百田氏がミッドウエー海戦で急降下爆撃したアメリカ兵の勇気をほめていたことに私も同調した。しかしここでそれを撤回して、自分の不明をお詫びしなければならない。彼らの勇気はヤラセに利用され、使い捨てににされただけである。

◎ヤラセの司令塔は吉田茂と昭和天皇である。

◎日本側の主役は源田実と淵田美津雄である。

二人とも仮病を使っている。

源田は肺炎にかかったフリ、淵田は虫垂炎の手術をしたフリをしている。

◎共演者は黒島亀人、渡辺安次、宇垣纏、三和義勇、藤井茂。

中でも黒島亀人は、吉田茂に直かに繋がるコネクションの一人である。

◎アメリカ側の主役はレイモンド・スプルーアンスである。


スプルーアンスは太平洋連合艦隊ではなく諜報組織に属している。

スプルーアンスを送り込んだのはヴィクター・ロスチャイルドだと考えている。

◎ミッドウエ―海戦の戦史資料・証言は改竄・捏造されている。


ミッドウエー作戦の構想が、ミッドウエ―島攻略とアメリカ艦隊撃滅の『二兎を追った拙策』と批判するのはプロパガンダである。この『拙策』なくして、ヤラセは完遂できない。連合艦隊司令部にミッドウエ―島攻略を主眼とする作戦を展開させ、ミッドウエ―島攻略の最中に敵空母を発見するシナリオである。『二兎を追う拙策』こそ、このヤラセを完遂させる要諦である。


『二兎を追う拙策』の第一義とされた、ミッドウエ―島攻略の戦略的意義について、

デーヴィッド・バーガミニ『天皇の陰謀』いいだもも訳 出帆社より抜粋する。


『二平方マイルの不毛で潮風に吹きさらされている低地が問題の島であった。ミッドウエイの二つの島、サンドとイースタンは、百マイル西にあるくれという名の未開で無住の岩礁とともに太平洋北西海域に横たわる離島だった。ミッドウエイの殺風景な土地を巡って行われた戦闘には、ルーズヴェルト大統領とその幕僚本部が認めていた以上の意義があったのである。実際、テルモピレー以来、これほど激しく、また確固とした理由のために行われた戦闘は少なかった。

もし日本がこの戦闘に勝利を収めていれば、彼らは一九四二年八月中にハワイを攻略するという作戦計画を実行したものと思われる。彼らはさらに進んで、パナマ運河を占領し、カリフォルニアを脅かすことで、合衆国にオーストラリア放棄を余儀なくさせるとともに、ヨーロッパ戦線への派兵を阻止し、そのすべての資源をアメリカ西海岸防衛に集中させるという意図を持っていた。


ミッドウエイの米軍は考えられないほどの幸運に恵まれ、それを最大限に利用した。』

シナリオはこういう流れである。日本が『二兎を追う拙策』を展開する→『ミッドウエイの米軍は考えられないほどの幸運に恵まれ、それを最大限に利用した。』そのために、アメリカ側では、『彼自身の責任で、ニミッツはミッドウエイ開戦のアメリカ側作戦計画を立案し、行動を開始していた』。つまりニミッツが『考えられないほどの幸運に恵まれ、それを最大限に利用した』という既定の筋書きに添うべく、行動を起こしていたのである。

バーガミニ続き(真珠湾奇襲攻撃の箇所の抜粋である)

『八月の第二週に、裕仁は海軍計画の検討に着手した。山本構想はまだ裕仁と高松宮の他には数人の連合艦隊幕僚しか知られていなかったので、山本は海軍軍令部ではなく、海軍大学校で説明を展開した。海軍大学校を選んだわけは、そこを管轄しているのが、かつて一九二一年(注 欧州外遊の折)に旗艦香取の甲板上で裕仁の体操教育にあたったこともある天皇家の一員、海軍少将・小松輝久侯爵だったからである。


九月二日、山本海軍大将と配下の将校達は再び小松高侯の管轄する海軍大学校に集まった。皇居から約五キロ離れた白金の皇室林のはずれにある海軍大学校は、今度は陸軍第八二軍の南進計画を支援する海軍側全作戦の予行演習の舞台となった。山本の計略はそこでは、開幕の夜に使われるかもしれないし使われないかもしれないような単なる余興として扱われたにすぎなかった。主要な関心事は、統制された部隊のマラヤ・フィリピン・ウエーク・グアム・ボルネオ・ジャワへの上陸を支援するための海軍側の作戦計画であった。(注 強奪財産ゴールデン・リリーの伏線である)


山本が自分の計画披露の機会を掴んだその九月八日の晩、海軍大学校校長の小松侯爵は、天皇家一族、親族を招待して祝賀の晩餐を開いた。木戸内大臣は、かつて内親王であった七十過ぎの母堂を伴って列席した。』

ミッドウエ―作戦で最大のヤラセの一つを請け負ったのが、この小松侯爵である。

バーガミニの続き

『巡洋艦と駆逐艦に護衛されたアメリカの空母を、山本提督は全く補足していなかった。作戦計画のなかで、真珠湾を監視する任務は先遣隊の潜水艦隊に割り当てられていた。潜水艦隊は、皇后の従弟で一九四一年の真珠湾計画当時は海軍大学校校長だった海軍中将の重臣小松輝久侯爵が司令官を務めていた。

小松侯はミッドウエイ作戦に大きな確信を抱いており、日本海軍の絶対的な優勢がその勝利を必然的なものにしているとの信念を持っていた。彼の潜水艦群は、開戦の八日前に真珠湾湾外の前哨偵察定点と、真珠湾とミッドウエイの中間海域の二つの警戒線に展開するということになっていたが、結果的にはミッドウエイ開戦の四日前にやっとこれらの定点への展開が行われたのである。遅延した四日の間に、エンタープライズ、ホーネット、そしてヨークタウンも、日本側の早期警戒水域を通過し、警戒の目を潜ってミッドウエイ北東海域へ接近した。』

つまり警戒線を張るのを四日も遅延させて、無事アメリカ空母を通してあげたのである。

『六月三日頃、小松は山本提督あてにアメリカ艦隊が真珠湾に留まっているかどうかを確認する任務に失敗した旨を通知した。しかし小松は、哨戒潜水艇が真珠湾とミッドウエイの間の警戒水域に遅れて到着した事実について、山本の注意を喚起しようとはしなかった。』

そりゃ四日も遅延した理由は言えない。

『これは重大な失策だったのだが、小松が皇族の一員であるという理由で、のちの日本の歴史家たちは間接的にそれをほのめかしているに過ぎず、またアメリカの歴史家は、その徹底的な事後の研究のなかでも日本の歴史家の主張にそのまま従っているように思われる。』

追及すれば、日米共同シナリオが露呈するからである。

『小松侯が北太平洋に展開したと山本が信じていた攻撃潜水艦の警戒線を突破しなければ、アメリカ艦隊は山本の出撃に反撃を加えることができない筈であった。ニミッツ麾下の空母三隻は、まだ自慢するに足る戦功を挙げていなかったが、ミッドウエイ北東海域をスコールにまぎれて隠密裡に航行しながら機会をうかがっていた。』

この先は実行犯源田実、淵田美津雄のそれぞれの著書と、プロパガンダを書くためにG2戦史室長にされたゴードン・プランゲの『ミッドウエーの奇跡』をたたき台にする。訳者は三十余年にわたってプランゲに協力してきた千早正隆である。訳者あとがきによると、プランゲはすでに一九三七年、若干27歳にしてメリーランド大学の歴史正教授となり、一九八〇年に死去するまでその職にあったという俊秀である。大戦中は海軍少佐として、戦後は請われてGHQ戦史室長となり、昭和二〇年から二六年までマッカーサー戦史の編集に当たった。プランゲ個人のライフワークとして真珠湾攻撃を取り上げようと決心した時、同戦史室には千早正隆を含めて四人の旧海軍士官が勤めていたが、全員が協力したそうだ。


プランゲの研究・調査に対する情熱は『異常と思われるほど徹底的』で、『作戦に少しでも関係があった人は片っぱしから自宅に招いてインタビューし、在日中に会った人は二百名を超えた。』。その後、プランゲは役得で収集した資料も含め、厖大な量のそれをメリーランド大学に持ち帰り(プランゲの死後はプランゲ・コレクションとして保存)、昭和五十三年に真珠湾攻撃の全巻を脱稿した。本書の『ミッドウエーの奇跡』を完成したのは昭和五十七の秋である。凝り性で完璧主義のプランゲは、ヤラセを正当化する戦史を捏造させるには不向きな人材である。

ゴードン・W・プランゲ『ミッドウエーの奇跡』千早正隆訳 原書房より

『負け犬が勝つ話ほどアメリカ人の心に強く訴えるものはない。アメリカはその国力、その広大さおよびその地理的な関係から、過去一世紀の間、そのような立場に立ったことがほとんどなかった。が、ミッドウエーの戦いは、アメリカが負け犬の立場に立たされ、そして勝利を獲得したきわめて数少ない事例であった。』


序文の題名として『真珠湾の裏返し』とあるように、ミッドウエー海戦もヤラセである。同作戦と真珠湾奇襲は、いわば同じコインの裏表である。ヤラセの特徴の一つは、同じ役者を使い回しすることにある。中でも真珠湾攻撃隊長の淵田美津雄は特異な存在である。彼は真珠湾攻撃・ミッドウエー海戦・原爆投下のヤラセに加担し、戦後は伝道師になってビリー・グラハムに会っている。

プランゲ続き

『ミッドウエーは日本側の過信、杜撰な計画、不十分な訓練および下算の物語であり、それはまたアメリカ側の冷静、創意および情報がよく調和された物語であった。』

これは史実ではなく、シナリオのト書である。ミッドウエ―の物語は、あの手この手を使って、それ以外にはアメリカの勝機はない、という状況で行われた残酷な犯罪の物語である。

『ミッドウエーの物語には”ツー・レート(遅すぎた)”が数多く使われているが、・・・山本は、軍令部作戦部との協力の下に、第二段作戦計画の立案をすでに完了し、南雲部隊が真珠湾の攻撃を終わって帰航の途につくやいなや、それを発動すべきであった。連戦の南雲部隊の飛行機乗りたちは、広島湾の桂島泊地に居据ったままの戦艦部隊を“柱島艦隊”と呼んで皮肉っていた。とくにハワイ攻撃のときに飛行機隊を率いて偉功をあげた淵田美津雄中佐は、山本長官はアメリカがハワイで破壊された艦を修理するのを待っているのではないか、とまで思っていた。』

淵田美津雄と源田実はゴードン・プランゲの自宅に招かれて、夕食をはさんで前後死後時間ほどの聞き取りを70〜80回ぐらいされている。淵田美津雄のこの感想はそのときのものだろう。淵田はシナリオ演出の一員としてはしなくも真相を明らかにしている。『ハワイで破壊された艦を修理するのを待っている』、という筋書きだったのである。

『軍令部第一部長の福留繁少将(海平40期)はミッドウエー作戦に不同意であったが、強い反対意見を述べなかった。これに反して、第一課長富岡定俊大佐(海兵45期)は強く反対した。黒島亀人大佐(先任参謀 海兵44期)と渡辺安次中佐(戦務参謀 海兵51期)がミッドウエーはハワイ攻略の足掛かりとなりうると主張しても、富岡と航空作戦担当の三代辰吉(みよたつきち)中佐(海兵51期)は耳を貸そうともしなかった。』

(注 三代辰吉は三代一就の間違いである)


そこで渡辺は、桂島泊地の旗艦大和に電話して情況を報告した。報告を終わって富岡の席に戻った彼は、「山本長官はミッドウエー作戦案が認められないならば、長官の職を辞めると言っておられる」との爆弾発言を伝えた。山本五十六大将の地位と声望に押されて、軍令部はしぶしぶであったが、ミッドウエー作戦に対する反対を撤回せざるをえなかった。それは山本の真珠湾作戦計画に軍令部が反対したときに、山本が最後の手段として使った”脅し”の繰り返しであった(訳注=その当時に連合艦隊参謀であった有馬は、その時に山本が果たして渡辺にそのように指示したかを疑問視する証言を戦後にしている )。』


全文ガセである。渡辺安次、富岡定俊、三代一就の偽証である。以前私は、真珠湾攻撃の構想は第一次世界大戦終了直後の1919年から用意されており、1939年8月31日に連合艦隊司令長官に任命された者は、真珠湾攻撃を遂行する宿命を背負わされていることを説明する際に五十六の脅しについて言及した。これを撤回してお詫びしたい。

プランゲ続き

『山本のミッドウエ―を攻略すべしとの主張の正当性を証明するかのように、四月十八日ジェームス・H・ドリットル陸軍中佐の指揮するB−25爆撃機が、東京、横浜らの都市を通り魔のように爆撃して通り抜けた。日本海軍の当事者はアメリカ爆撃機による日本本土に対する攻撃の可能性について、相当前から憂慮していた。』

これを予告する日記を三和義勇が書いている。

『二月八日、連合艦隊の作戦参謀三和義勇(みわよしたけ)中佐(海兵48期)は、その日の日記に次のように書いた。「敵が東京空襲をする可能性があるが、大した問題ではない。しかし、東京は首都であり、我が神国の中心であることを考えれば、敵の首都空襲はいかなる状況でも許すべきではない」三和は物事を騒ぎ立てるようなタイプの男ではなかった。その当時に四十三歳であった三和が軍務局局員から山本の幕僚となったのは、開戦直前であった。彼の日本海軍航空における経歴と、その性格かつ迅速な判断力を買っていた山本が、とくに望んだからであった。』

三和はこれからも目迎証言者として再々登場する。三和と黒島のいさかいを仲裁した五十六が、せつせつと黒島に対する真情を述べ、感激に打ち震えた黒島が突っ伏して泣く有名な逸話など、五十六に関する重要なプロパガンダを書きあげた後、三和はテニアンに送り込まれ『戦死』する。良心の呵責に耐えかねて真相を話す可能性のある人間は、口封じされるのである。

プランゲ続き

『しかもドリットル隊は予想されたよりはるかに低空を飛び、陸軍の防戦戦闘機を出しぬいた戦法を、淵田やその部下の歴戦の搭乗員は素晴らしい戦法だと思わずにはいられなかった。さらに、ドリットルの攻撃が母艦を発艦してから中国に向かう片道攻撃であることがわかると、淵田は彼らに対して畏敬の念さえ持った、と淵田はインタビューで述べている。

黒島もそのインタビューで、ドリットルの空襲はその戦果こそ少なかったが、「日本に戦慄を走らせた」と述べている。日本海軍がアメリカの神国に近接を許したことについて、少なくない国民が幻滅めいたものを感じ、山本長官に非難の手紙を送った。空襲によってその矜持を傷つけられた山本は、天皇および皇室の安泰をより一層気にするようになった。』

山本五十六は成りすまし天皇家の素性を松平恒雄から聞いている。五十六が『天皇よび皇室の安泰を一層気にするようになった』ことはない。そういう筋書きにするために、ドリットル空襲が敢行されたのである。

『三和は四月二十日の日記に、山本の理由づけについて次のように書いている。「南昌に不時着し捕虜とした米軍機乗員の陳述によると、彼らは母艦から発艦したようである。とすれば、敵ながら、天晴れと言うべきだ。この種の企図を封ずるためには、ハワイを攻略する以外の策はない。そのためにはミッドウエ―の攻略が前提となる。連合艦隊がミッドウエ―に作戦を主張する理由も、ここにある」そればかりでなく、はじめミッドウエー作戦に参加することを拒否していた陸軍も、ドリットルの空襲後は同作戦に参加することを主張するようになった。一方、陸軍長官スチムソンは、日本人の自制心を失ったそれらの動きを、興味深く見ていた。』

一九四二年四月十八日に敢行されたドウーリットル隊による空襲が契機となって、恐懼した山本五十六がミッドウエー海戦を強行した、という筋書きは三和日記を初め多くの人間が書いている。私もこれを鵜呑みにしていた時期があった。撤回してお詫びする。山本五十六は一年後の同日、処刑される。四月十八日は日米共同演出の記念日である。

『南雲の有能な航空参謀源田実中佐(海兵52期)も、ミッドウエー作戦には真珠湾でうち漏らした母艦群を仕留めるチャンスがあると考えていた。「ミッドウエー作戦を実施することで、アメリカ主力艦隊に決戦を強要するチャンスがあると思ったので、私は作戦に賛成した」と彼は述べている。連合艦隊が将来作戦としてハワイ攻略を計画していることを知ると、源田はミッドウエ―はその第一歩として価値があると思った。が、彼はミッドウエー作戦における陸上作戦よりも海上作戦により強い関心を持っていた。源田の見るところによると、南雲の態度はあまりはっきりとしていなかった。

南雲の参謀長の草鹿隆之介(海兵41期)によれば第一航空艦隊幕僚の多くはミドウエ―作戦に反対であったという。彼自身その急先鋒で、次のように陳述している。「機動部隊は真珠湾作戦いらい各地で赫赫たる成功を収めたが、搭乗員は減耗し、艦船、迎きは修理を必要としていたので、私はミッドウエ―作戦に反対であった。・・・そればかりでなく、ミッドウエー島を攻略することについて多大の疑問を持っていた。作戦計画は連合艦隊司令部ですでに決定され、われわれはそれをそのまま受け入れることを強要されたのであった」と草鹿は述べている。同時に彼は、第一航空艦隊側もあまり抵抗しなかたことを認めていた。彼はその陳述で、「われわれはアメリカを下算し、緒戦の成功で慢心していた。換言すれば、敵がたとえ出撃したとしても、容易に撃滅できると思っていた。私と同じ意見であった南雲長官も、彼の部隊はいかなる任務をも立派に遂行しうると信じていた」と述べている。』

草鹿隆之介の父親は、成りすまし天皇家御用達財閥の住友本社理事である。お坊ちゃん育ちなのか、草鹿はかなり罪悪感に駆られているようで、プランゲのインタビューではひたすら自己正当化ばかりしている。

『南雲の参謀長の草鹿の頭には、“二兎を追うものは一兎を得ず”との日本の諺がこびりついていた。彼はこの諺がミッドウエ―作戦の第一航空艦隊の任務に当てはまるのではないか、と心配していた。「連合艦隊命令には二つの目的が掲げられていた。一つは主目的であるミッドウエ―攻略の先鋒となることであり、そのには敵艦隊が出撃してきたならば、敵の機動部隊を撃滅することであった。その中でも、全般の作戦計画からみて、第一の目的に重点がおかれていた。さらに敵の航空基地からの攻撃も考慮しなければならなかった。・・・・この点が私がもっとも心配したところであった。というのは、第一航空艦隊は二兎を追うことを求められていたことになるからであった」』

草鹿隆之介は自分は悪くない、連合艦隊司令部の作戦が“二兎を追うものは一兎を得ず”という致命的欠点を持っていたからだと言いたいのである。しかし二兎を追ったことは、致命的欠点ではない。空母を二つに分けて作業すれば済む話である。致命的欠点というのは、全ての空母で同時作業で兵装装転換させることである。転換した爆弾と爆装した飛行機をずらりと並べて、さあどうぞと爆撃させることである。

『作戦開始に当たっては南雲の補佐をもっとも必要とするこの期間に、草鹿は上京して、真珠湾で戦死した航空搭乗員を、特殊潜航艇の乗員と同じように、二段階進級させよと上層部にせっついていた。』

勅令とはいえ、草鹿はヤラセに嫌気が差していたのかもしれない。

『山本はミッドウエ―作戦に二百隻以上の鑑定を動員することを予定し、同島に対する上陸開始日(N日)を六月七日と決めた。N日は南雲および近藤の部隊が必要とする作戦準備期間と、上陸作戦を用意にする月明の期間を考慮して定められた。作戦計画によれば、第六艦隊司令長官小松輝久中将(海兵37期)の先遣部隊の潜水艦が、六がtる二日までにミッドウエ―の東方海域に三重の哨戒網を展開し、敵艦隊の動きを探ることになっていた。』

『三重の哨戒網』を四日も遅延させてアメリカ艦隊をスルーさせて上げた小松輝久は、昭和天皇の皇后良子の従弟である。

 

『戦闘が始まってから南雲はすべてを源田にまかせていた。それまでの成功はすべて源田によることを確信していた南雲はますますその手中の“青い鳥”に依存していた。源田はまたほかの幕僚連中からある意味では畏敬の念で尊敬されていた。口に遠慮のない者は公然と、南雲の機動部隊を源田艦隊と呼んでいたほどであった。が、源田は見られることを好まなかったし、時には恐ろしいことだと思っていた。』

源田実こそ、南雲忠一を攪乱させていた真犯人である。

『ミッドウエ―作戦に関する図上演習を終了する前に、山本は南雲に対して、アメリカ艦隊とくにその空母隊の索敵には最善を尽くすこと、それに対する反撃のため南雲の攻撃隊の半数は魚雷装備をするよう指示した。しかし先任参謀の黒島は航空参謀の佐々木彰中佐(海兵5を1期)に口頭で、山本の指示を命令に書き込む必要はないと言った。参謀間の意見の調整、起案の点検は、戦務参謀である渡辺の職務のひとつであったが、彼はこのことについて黒島または彼自身について弁明していない。が、黒島の理由ははっきりしている。南雲およびその幕僚は山本の指示を直接に聞いているし、彼らは過去の開戦の経験から山本の意見が正当であることを知っているから、戦術的な細部まで今更命令に書く必要はない、というのであったろう。』

ここにゴードン・プランゲの正体が浮き彫りになっている。何せ題名が『ミッドウエ―の奇跡』である。プランゲはヤラセを『奇跡』に仕立て上げる使命を負っている。そのためにプランゲは、五十六が敵空母の出現に備えて『攻撃他の半数は魚雷装備をするよう指示した』ことを、『戦術的な細部まで今更命令に書く必要なない、というのであったろう』と変な理屈をこねて、黒島を弁護しているのである。G2の厖大な史料やインタビューをもとに詭弁を弄することは、完璧主義者プランゲにとってさぞかし忸怩たる思いだったことだろう。

『図上演習が終わると、黒島と渡辺は連合艦隊の命令の起案、調整にかかった。しかし、それには南雲部隊の雷撃装備および潜水艦が散開戦の西方から帰航索敵せよとの明確な指示がされていなかった。これは重大な誤りであった、と渡部は認めてる。だが、潜水艦の問題はむしろタイミングの誤りと言うべきであり、現地指揮官を作戦の一か月も前から束縛するのは、戦争指導の懸命な策ではない、と言い得るであろう。』

言い得ない。索敵はミッドエ―作戦の命運を分けた重大なポイントである。本書の巻末ではプランゲ自身が索敵をいい加減にしていたことを非難し、そういう驕りが敗因だったと総括としている。ごまかそうごまかそうとして支離滅裂な論旨になっているプランゲは、ほぼ副島隆彦状態にある

『「作戦の重点をアメリカ艦隊の撃滅におくべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊もミッドウエ―に向けるべきだし、あらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五降航空戦隊(瑞鶴 翔鶴)が参加できるのを待っても、ミッドウエ―に集中すべきだ」と源田は主張した。それに対して黒島は、「連合艦隊司令長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウエ―攻略の支援だ」と答えた。』

『邪魔が入ることを望まれない』のは、五十六ではなく黒島である。若し彼がその言葉通りに連合艦隊司令長官の一度決めた方針を金科玉条にしていたら、魚雷装備も索敵も一字一句も漏らさず銘記しているはずだ。『運命の五分間』などというヤラセも存在せず、連合艦隊は楽勝している。事実、連合艦隊は『運命の五分間』以外は完勝していたのである。

『一方、その当時、ハワイのニミッツはどうしたであろうか。彼はどの程度にまでこれらの日本の企図を知っていたであろうか。初めのころ彼は情報参謀のレイトンや戦術情報室長のロチェフォートの状況判断を全面的には信用していなかった。日本の情報部がニセの情報を流してアメリカを落とし穴に入れようとする策略家もしれない、と彼は思っていた。が、彼は、「深く考えた末、私はこれは本当だと思うようになった」とインタビューで答えている。そう心に決めるとニミッツは疑ったり、迷ったりすることはなかった。』

「そういうシナリオなんだよ」とレイトンに聞かされると、ニミッツは疑ったり迷ったりすることはなかったのである。ここから本格的な日米共同演出がスタートする。

『五月二日(日本時間では三日)大和の艦上で山本やその幕僚が図上演習で作戦を練っているころ、彼はミッドウエ―に飛び、一日中かかってミッドウエ―環礁を視察した。ついで日本のとるであろう作戦およびその兵力の概要を述べ、でき得る限りの援助をすることを約束した。』

ニミッツは確信犯として行動を開始したのである。

『五月五日、軍令部総長長野修身は山本に対して次のように指示した。「連合艦隊司令長官は、陸軍と協力し、西武アリューシャン列島の要地およびミドウエ―島を攻略、占領すべし」』

この作戦指示が『運命の五分間』のヤラセに必要不可欠だったのだ。アリューシャンに武力を分散し、ミッドウエ―島の攻略に全爆撃機を投入させる。さらにミッドウエ―島を二次攻撃させ、その最中に敵空母を出現させる。友永大尉が『第二次攻撃の必要を認む』と送信したというのは、これはガセである。プランゲ自身が真相を書いている。第二次攻撃のために爆弾装備を転換させるために、友永の具申を装ったヤラセである。第二次攻撃用に装備を転換させている最中に敵空母を出現させ、さらにまた転換させるという状況にするためである。これに恐慌をきたした南雲が爆弾装備を二転三転するように、傍で唆していたのが草鹿龍之介であると私は確信している。これによってのみアメリカの奇襲は成功し、ラクダがハリの穴を通るような『勝利』を得たのである。

『本書は珊瑚海海戦の詳細を述べるものではないから、同海戦に関し記述するのは、同海戦がミドウエ―作戦にいかに影響したかに限られるが、その影響はきわめて重かつ大であった。五月八日の朝、あとから珊瑚海海戦と呼称された日本とアメリカの空母間ンお初の海戦の幕が切って落とされた。日本が沈めたと報じたサラトガはその頃シアトルに近いピューゼット・サウンドで修理中であった。日本がサラトガ級空母を間違えたのは、これで二度目であった。その年の初め日本の潜水艦がレキシントンを沈めたと報じたが、雷撃で損傷したのは実はサラトガだった。この時の第五航空戦隊の報告は、その戦果を過大評価していた。一方、レキシントンの被害も日本が報じたよりもはるかに少なかった。戦果を過大評価した報告と希望的な思考に基づいて、大和の連合艦隊司令部は、五月五日からの一連の戦闘の成果を次のように推定した。(略)(訳注=実際に敵に与えた損害との間に大差を生じたのは、主としてラバウルから作戦した基地航空部隊の戦果報告が全くと言ってよいほど間違っていたからであった。どうしてそんなに大きく狂ったのか、いまだによくわからない)』

戦果報告が『全くと言ってよいほど間違っていた』のに、『どうしてそんなに大きく狂ったのか、いまだによくわからない』というのは、プロパガンダ以外に理由などないからだ。例えば白洲次郎の古巣であるジャパン・タイムズ・アンド・アドヴァタイザーは、紙上でさかんに誇大戦果報告を喧伝して煽って助長させていた。こういう風潮を下地に作っておいて、後にミッドウエ―作戦は海軍の驕り症候群の産物であったというプロパガンダを流布したのである。

『南雲がアメリカ太平洋艦隊の作戦企図を知らなかったことを、日本はあまり気にしていなかった。たびたび引用するジャパン・タイムス・アンド・アドヴァタイザー紙は五月二十七日の紙面に、次のように書いている。「敵が防衛しなければならない広大な区域を眺め、太平洋に目を転じると、敵は太平洋にはごく僅かな兵力しか充当できないことに気付くのである。太平洋にいる敵の残存兵力は、戦艦数隻および空母エンタープライズ、ホーネットを中心とするにすぎないであろう。その空母部隊がいかなる行動をするかが、現在においてもっとも注目されるところだが、それはわが無敵艦隊の敵ではない。珊瑚海海戦を転機として全太平洋海域はわが帝国海軍が支配するところとなったと言ってよい。」』

こういうガセネタを仲間内に書かせることが、珊瑚海海戦の『どうしてそんなに大きく狂ったのか、いまだにわからない』くらいに『全くと言ってよいほど間違っていた』誇大戦果報告の効用の一つである。それを草鹿自身が煽っていたことは想像に難くない。

『参謀長の草鹿が「五月二十七日に豊後水道を出撃したとき、わが機動部隊が先陣に立てば、向かうところ敵なしとの自信に溢れていた」と言ったのは、無理なかった。』

草鹿は驕り症候群を吹聴する役目だから、『無理なかった』以外に何があるというのだろう。ここに至って淵田美津雄が突如『急性虫垂炎』にかかる。

『その頃、飛行隊長の淵田は病室に臥せっていた。多忙の日が続いた彼は、それより少し前にさすような痛みを感じ、基地付近の陸軍病院で診察を受けたところ、放縦によるものと診断され、病室に入れられた。その夜、淵田は激痛に襲われた。従兵が軍医長を呼ぶと、軍医長は「これは急性盲腸炎だ。すぐ手術をする」と淵田に告げた。』

私は淵田美津雄は仮病を使っていて、玉井軍医長はグルであると確信している。松本重治が徴兵忌避のために仮病になり、武見太郎に偽の診断書を書いてもらったのと同じ手口である。淵田は手術などしていない。さらに源田実も『肺炎』にかかる。源田はいかにも苦しげにゴホゴホと咳をするポーズの裏で、南雲を脅し続けている。それが源田の任務である。

『不運を加重するかのように、淵田が手術を受けて数日後、こん度は源田が肺炎にかかり高熱を出して病臥した。この二重の不運は、それが真珠湾への途上であったならば、南雲を限りなく悩ましたであろうが、こんどは彼はさほど動揺したようには見えなかった。一方、禅に帰依していた草鹿はいつものように平静を保っていた。』

淵田が『急性盲腸炎』になったのも、源田が『肺炎』になりかかったのも、ヤラセである。淵田美津雄が仮病を使って友永丈市を代役に立てたのは、ミッドウエー海戦で飛行隊長を務めるものは死ぬ運命にあるからである。淵田美津雄が病室から抜け出してヤラセを観戦していたのは、病室にいたら閉じ込められて死ぬからである。源田の『肺炎』も同様である。南雲部隊は『源田艦隊』と呼ばれるくらい、源田の存在は大きかった。『肺炎』になって第一線の戦列から退いて、責任の所在を追及されまいとする保身の策である。

『「今やその時である。本日の午後、日本の艦隊が行動を起こしたとの情報があった。彼らがわれわれのどこに攻撃をかけてくるかが、われわれが次に知るべきことだ」と陸軍長官スチムソンは五月二十七日の日記に書いていた。』

スチムソン日記の翻訳⇒『今やその時である。彼らがわれわれのどこに攻撃をかけてくるかが、われわれが次に知るべきことだから当然知っているのである。』

『全機動部隊および各戦隊司令官に対するニミッツの作戦計画は、すでに用意されていの索敵機の圏外に位置し、一方、ミッドウエ―からの索敵機は基地から七百浬を索敵して、敵よりも先に日本の空母部隊を発見することになっていた。』

『先に日本の空母部隊を発見することになっていた』シナリオについて、戦争情報局長のレイトンは後に著書の中で重大発言をしている。彼ら日本の暗号文のAFが何を指すのか探ろうとして、『ミッドウエ―には真水が不足している』という平文を打電して罠を仕掛けた一件は、作り話だと証言しているのである。


http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/samejima.htm様より以下転載。


『「ミッドウエ―島は水不足」と謂うニセ電報を平文(ひらぶみ)で発信して「AF」がミッドウエ―島の地点符字である事を確認したと一般に信じられている有名な話がある。当事者である米太平洋艦隊情報参謀のレイトン中佐は著書の中で「ミッドウエ―について書いた全ての歴史家がこの件に就いての解釈を取り違へている」と断定的に述べている。しかし米海軍が奇しくも「AF」をミッドウエ―島の地点表示に使っていたのは偶然の一致とはゆへ何か運命的暗示を感じさせる。』

運命的暗示を感じさせる→共通のシナリオの存在を感じさせる。

「AF」を地点符字にしている日米共通のシナリオが存在していたのである。

 


ゴードン・プランゲ前掲書続き

『ニミッツはレイトンに向かって、「敵と接触するのはいつ、どこでと考えるか」と訊ねた。それに対してレイトンは、「敵との最初の接触は、六月四日午前六時(ミッドウエ―時間)、ミッドウエ―からの方位三百二十五度(北西)、距離百七十五浬の地点で、わがミッドウエ―からの索敵機によってされると思います」と答えた。』

細部に至るまでシナリオは決められていた。アビー・ウオーバーグの金言のように、神は細部に宿るのである。

『会議に列席した面々は、その会議は冷厳な事実を冷静に検討すべきものであることを知悉していた。ミッドウエ―を日本に占領されたならば、ハワイに対して日本の鉄の矢じりをつけた矢がつきつけられたも同然であろう、と感じていた。そうなれば、ハワイが攻略されることは単なるフロックではなく、日本が奇襲ではなく強襲でアメリカ本土を空襲しても、アメリカはそれを阻止できないであろうことは、単なる幻想ではないであろう。列席した誰もが、日本は予想もしない攻撃を仮借なくかけてくる手強い強力な敵だと、身にしみて感じていた。』

アメリカ側はミッドウエ―作戦を正当に評価している。後世日本人がこれをぼろ糞に言うのは、プロパガンダによる洗脳である。

『ニミッツは次のように強調した。「情報によれば、日本の空母部隊はミッドウエ―の北西方からせまって来ると思われる。アメリカの執るべき策はこれに奇襲をかけることだ。アメリカ艦隊は敵とミッドウエ―の間に挟まれてはならない。全力を尽くして、敵の翼側から、それも先手をとって、攻撃をかけなくてはならない」。この戦法のカギは奇襲が成功するかどうかにかかっていた。劣勢なフレッチャーおよびスプルーアンスの部隊が、尋常な迅速性に乏しい攻撃に出たならば、惨敗に終わるであろう。』

プランゲの文章を添削しておこう。

『この戦法のカギは敵空母の全ての甲板上に爆装した飛行機が整列している状態に奇襲が成功するかどうかにかかっていた。尋常な謀略性に乏しい攻撃に出たならば惨敗に終わるであろう』。

スプルーアンストフレッチャーが合流する地点はニミッツによって『ラック・ポイント』と名付けられた。『幸運の地点』という意味の謀略地点である。

プランゲ続き

『当然のことだが、フレッチャーとスプルーアンスがもっとも望んだのは、先制をかけて、南雲部隊の飛行機が母艦の飛行甲板に並んでいるときに攻撃をかけることであった。航空出身の指揮官であっても、このような瞬間的なタイミングを決めるのは、至難のことであったであろう。一九四二年に出されたリポートで、ニミッツは次のように述べている。「わが空母隊にとってこれ以上ない微妙なタイミングを必要とするきわめて困難な状況であった」』

本来ならば『至難のことであったであろう』『瞬間的なタイミング』『これ以上ない微妙なタイミング』を創出することが、ミッドウエ―のヤラセの眼目である。『瞬間的』と形容されている『タイミング』は、実際には二時間半の幅があった。『これ以上ない微妙なタイミング』、すなわち全ての敵空母の甲板上で兵装転換させ急降下爆撃するまで発艦させない『タイミング』を現出するまで、二時間半かかったということである。

兵装転換をすべての空母で行なわせるには、ミッドウエ―島攻略から帰還した攻撃隊を着艦させておく必要がある。混乱状態の中、二時間以上もかけて『瞬間的なタイミング』が用意されたのである。限りなく幅がある『瞬間的タイミング』なのである。その最大の決め手はミッドウエ―島の第二次攻撃を友永大尉が具申し、南雲がそれを決意したというポイントにある。前述したがこの『友永大尉の具申』というのは責任転嫁のガセねたである。

『隊長の友永が被弾したその乗機をなだめながら帰艦の途についた時、彼の攻撃隊がミッドウエ―にどれだけの損害を与えたか、正確には知らなかった。彼はその後の海戦で戦死したので、彼がミッドウエ―の損害をどう見たか、知ることはできない。が、友永は明らかにその攻撃の成果に満足していなかった。彼の部隊は強力だと思われていた敵の爆撃隊および索敵隊に出会わなかったし、航空基地の滑走路はほとんど無傷のようであった。また、その対空火器はまだ盛んに撃ち上げていた。日本の上陸部隊が手洗い反撃に会うのは確実であった。友永はそう結論したに違いなかった。被弾で送信機を使用することができなくなっていたので、彼は小さな黒板に通信文を書き、それを二番機の橋本敏男大尉(海兵66期)に差し出し、彼の名前で送信するよう命じた。時間は午前七時であった。「第二次攻撃の要あり」』

証言したのが友永自身ではなく、橋本敏男大尉になっている。私はこれ自体が捏造であると考えている。友永は黒板に書いていないし、橋本敏男大尉も打電していない。

『南雲が友永の「第二次攻撃の要あり」の電報を受信したのと、ミッドウエ―からのTBFおよびB−26隊が魚雷攻撃を開始したのは、ほとんど同時であった。それは、あたかも友永の電報の意味するところを実証するかのようであった。この時点では、アメリカの海上兵力が近くにいるという兆候を、南雲は全く得ていなかった。その時までには、索敵機は予定された索敵線の先端に到達していたはずだが、まだ何の報告もなかった。そこで南雲は、友永の意見具申にそって、ミッドウエ―に対して第二次の攻撃を加えることに決定した。』

これが大混乱の序章である。

『この南雲の決定は、多くのことを大至急に完成することを要求するものであった。敵艦隊を発見した時に備えて、赤城と加賀の甲板上に準備されている雷撃機と、飛龍と蒼龍の甲板上の艦爆隊の兵装を、艦船攻撃用から陸上攻撃用に転装しなければならない。そのためには、飛行甲板上に準備された全機を、一旦その格納庫に降ろして、雷撃機は魚雷を陸用爆弾に、艦爆機はその爆弾を艦船攻撃用から陸上攻撃用のものに取り換えなければならない。その転換作業はどんなに急いでも二時間以上を要するのである。しかも、敵機がミッドウエ―に帰着したところを狙って攻撃をかけるためには、一刻の猶予も許されない。』

一刻の猶予も許されない、さもないととんでもないことになる、と南雲を脅したのは草鹿隆之介だろうか源田実だろうか。

『源田は急いで信号文を起案した。「第二次攻撃隊の兵装を陸上攻撃用とせよ」。南雲がこの命令をその空母に発信したのは午前七時十五分であった。この意思決定こそは、常時その搭載機の半数を雷装にするということが、機動部隊の命令に明示されていないことを知った黒島と渡辺が警告したところのものであったが、源田はそのような硬直した考え方に反論して、次のように言っている。「そのような考え方にこだわると、適当な敵が発見されない限り、攻撃兵力の半数が有効に使われないことになる。情況によって、決定はされなければならない」』

『また、第一航空艦隊参謀の草鹿も次のように言っている。「山本長官が第一航空艦隊の兵力の半数を、敵の空母隊に対して備えるよう望んでおられることは、南雲長官もその幕僚もよく承知していた。事実、情況の許す限り、そうしていた。が、敵のミッドウエ―基地の航空兵力がわれわれに対して攻撃を開始し、敵の空母部隊がまだ発見されない情況では、いるのかいないのかわからない敵に対して、その兵力の半数を無期限に控置しておくのは、前線の指揮官として、ほとんど耐えられないことであった」たとえ、その決定が後で問題になったかもしれないが、「あの当時の情況では、南雲長官の決定は正当であった」と草鹿は著者とのインタユーで述べている。』

驚くべき正当化である。敵空母が発見される可能性が残されている限り、雷装を備えておくことは必須である。思えばこういう屁理屈がまかり通るように、小松輝久が哨戒網を遅延させ敵空母をスルーさせていたのである。

『南雲のこの決定はその後に激しい批判の的となった。高い外野席からの結果論からいば、南雲のこの決定は重大なミステークであったと思う読者は、きわめて多いかもしれない。が、筆者は、草鹿や源田と同じく、当時の情況からして、南雲の決定は妥当なものであったと信ずるものである。ミッドエ―を攻撃した友永が再攻撃の必要があると意見を具申したこと、ミッドウエ―基地の航空部隊がまだ攻撃を続けていること、彼がもっとも信頼している源田が同意したこと、南雲は彼自身の常識に基づいて決定を下したからえる。しかも、その前日に東京から「わが企図画的に察知された兆候全くなし」という電報を受信していたのである。』

私は南雲の重大なミステークだとは思わない。南雲に第二次攻撃を決定させたわずか十三分後に索敵機から敵空母発見の報告が入ったと言って混乱させ、源田が『同意』したからだと思う。南雲は彼自身の常識に基づいて決定を下したとは思わない。源田が傍らで脅しすかしていたと思う。プランゲが『南雲の決定』を肯定するのはヤラセを正当化するためである。完璧主義者のプランゲとしてはさぞかし苦痛だったことだろう。

『「長官も幕僚も足をすくわれたように感じた。同時に、情況をどう判断してよいかわからなかった」と源田は回想している。参謀長の草鹿は報告された海域に空母を伴わない敵部隊がいることはあり得ない、空母がどこかにいるに違いない、と思った。と同時に、彼はミッドウエ―に対する第二次攻撃をどうしたら取り消すことができるか、思いつかなかった。というのは、“敵らしきもの見ゆ”だけでは、ミッドウエ―に第二次攻撃をかけるという先の決定を変更するには不十分であったからであった。また、草鹿は出撃前に“二兎を追う”問題で口論し、ミッドウエ―攻撃が第一優先と言われたことが、その念頭から去らなかった。』

目前に迫った危機よりも、こんなことを念頭に置いて屁理屈をこねているボケ参謀が、ヤラセ以外にどこにいるのか。こんな言い訳を書くプランゲもプランゲである。草鹿とプランゲはインタビューと称して共謀しているのである。

『そして午前七時四十五分、南雲は全部隊に対して次の命令を出した。「敵艦隊に対する攻撃を準備すべし。爆装に転換をいまだ終わらざる雷撃機の兵装はそのままとせよ」その時点までには、赤城と加賀の雷撃隊の魚雷から爆弾への兵装転換は、ほぼ半分完成していた。兵装の転換を終わった爆撃機はふたたび甲板に掲げられ、その数は量感とも十機程度に達していた。もちろん、そのままの兵装で敵艦隊に対して爆撃を加えることは可能であったが、雷撃の方がはるかに正確であり、その破壊効果も大きかった。そのような時間との戦いのさ中に、兵装の転換の指令が出されたのであった。南雲の書く母艦はそのために大混乱に陥っていた。その大混乱を増幅するかのように、南雲部隊に対するミッドウエ―からの再度の攻撃が始まった。』

爆撃効果の問題以前に、このような大混乱を起こさせないことの方がよほど重大である。

大混乱の戦闘模様を『太平洋戦争 陸海軍航空隊』成美堂出版より抜粋する。


『敵は二波に分かれて来襲した。第一波が去った直後に、上空警戒機(零戦34機)の約半数が着艦して燃料と弾薬の補給を行っており、第二波の来襲とともに各母艦で使用できる戦闘機の全部が発進したほか、ミッドウエ―島攻撃を終えて母艦上空に帰ってきた零戦も戦闘に加わった。』

第二波来襲にゼロ戦を全て投入したのである

『この間、各母艦の格納庫内では艦攻の兵装を雷装から爆装へ、そしてふたたび雷装へと変更する作業が繰り返されていた。』

戦闘機を全て使って応戦している緊急事態において、爆撃機はというと格納庫で兵装転換させていたのである。見え見えのシナリオである。

『これは南雲第一機動隊長官が、敵機動部隊の出現に備えて魚雷を搭載していたものを、ミッドウエ―島の第二次攻撃を行うため爆弾に変更したが、その途中で敵機動部隊発見の報告が入ったため、再度、魚雷に積み替えることを命じたためで、魚雷と爆弾の積み替えは普通でも時間がかかるうえに上空警戒機の発着のため飛行甲板は使用できず格納庫で行われたことや、敵の空襲という悪条件が重なったため作業は進捗しなかった。この不手際が索敵のミスなどとともにミッドウエー海戦の敗因につながったことは、しばしば指摘されているとおりである。』

『この不手際』の内訳をもう一度確認してみよう。

@友永大尉の第二次攻撃の意見具申を受けて再度攻撃を決定する。

A索敵機からの報告を待たずに爆装を陸上攻撃用に転装させる。

Bその13分後に索敵機から報告があり衝撃を受ける。

Cしかし艦の種類が判明しないという屁理屈をこねて転装を続行させる。

Dついに敵空母であることが判明して大恐慌をきたす。

Eしかし爆撃機を即時発艦させず転装を続けさせる。

F敵の第一波が来襲する。

G日本側はすべてのゼロ戦が応戦する。

Gその間隙を突いて敵の第二波が来襲する。

Hこれに対する迎撃は何もしないようにする。

Iたった二発の命中で全てのかたがつくのを見守る。

再度プランゲの前掲書抜粋に戻る。プランゲのコジツケと草鹿の韜晦に注目されたい。彼らの本性が剝き出しになっている。

『「敵はその後方に空母らしきものを伴う。」午前八時二十分に第四索敵線の利根機が打電してこの上告は、その朝に投下されたいかなる爆弾よりも大きな衝撃を、日本の関係者に与えた。「そのような可能性を考えないではなかったが、私は心底ショックを受けた」と草鹿は回想している。』

私は草鹿隆之介に言いたい。あなたは南雲長官の参謀長なのだ。何千人もの兵士の命を預かる責任ある立場である。心底ショックを受けたなどと文学的修辞で済むような場面ではない。あなたの口からは自己正当化のための言い訳と責任転嫁の言葉しか出てこない。せめて口をつぐんでいられないのか。このような読むに堪えない恥知らずなインタビューをどうしてできるのか。

『「一瞬は長官もショックを受けられたに違いないが、誰でもそのような思いがけない場面に直面すれば、一瞬はショックを受けるであろう」と草鹿は述べている。利根機による空母らしきもの発見の電報の受信と、友永隊が同時に帰還したことは、南雲の意思決定の選択をこれ以上なく困難なものにすることになった。敵の空母部隊を攻撃することについては、何も問題はなかった。この点に関する限り、南雲のなすべきことは明々白々であったが、問題はどうやってやるかであった。』

何も問題はなかった。草鹿参謀長が、パニックになっている南雲に対して現装備のまま即時攻撃するべきことを進言すれば。兵装転換を命令した13分後に敵空母発見の情報を入れてパニックにさせた南雲を、源田とグルになって脅し、めちゃくちゃな命令系統を出させることが草鹿参謀長に与えられた任務である。

『その時、第二航空戦隊司令官の山口は、駆逐艦野分を中継して、「即刻攻撃隊を発艦せしむるを可と認む」と赤城に信号してきた。それは余計なおせっかいと言うべきであった。南雲が彼の意見を必要とするなら、すでに求めていたであろうからであった。』

プランゲはミッドウエー海戦の詐欺犯罪を粉飾するために本書を書いているのだから、山口の具申が至当であることを認める訳にはいかないのである。山口はこの後もプランゲの不当な攻撃を受け続ける。

『山口はどちらかと言えばせっかちの性格で、早く敵と一戦を交えたいと燃え上がっていた。さらに彼は南雲と肌が合わず、山内の級友であり連合艦隊参謀長であった宇垣が、「第一航空艦隊司令部は誰が握りいるや」と山口に質問したのに対して、「長官は一言も言わぬ、参謀長、先任参謀等どちらがどちらか知らぬが臆病者揃いである」と答えた、と宇垣はその日記に書いていたほどであった。』

プランゲは宇垣纏の日記『戦藻録』に誰よりも早く注目して翻訳権を入手し、千早正隆が翻訳している。前述したように宇垣も勅令を受けた工作人の一人である。連合艦隊先任参謀の黒島亀人は、宇垣の遺族からこの日記を借りて、山本五十六が暗殺された前後の三か月分ほどを破り捨てている。「どこかにいってしまった」と言って遺族に日記を返してきたそうだ。そういう黒島亀人が唯一応じたのが、このプランゲのインタビューである。プランゲは黒島から破り捨てたページの内容を聞き取っているだろう。

『南雲してはそのような意見具申を必要としていなかった。真珠湾の勝利者である彼以上に航空攻撃の奇襲性を迅速性の価値を認識している者はいなかったと言ってよい。』

プランゲは宇垣の日記を重視しているのにもかかわらず、宇垣の記述と正反対の見解を述べている。ヤラセの核心に近づくにつれ、プランゲの文章がだんだん副島隆彦化していきつつあるのがお分かりだろうか。晴れときどき曇り、のち雨、ところによっては霰、雹、もしかしてブリザードか竜巻になるでしょう・・・。かなり恣意的な文章になっている。

『その戦闘機の問題については、草鹿は次のように考えていた。「私は攻撃隊をすぐ発艦させよとの(山口)の意見には、全面的に反対ではなかったが、戦闘機の掩護なしでも攻撃に出せとの意見には反対であった。なぜなら、戦闘機を伴わない攻撃隊がわが戦闘機によってほとんど全滅させられていたことは、現に目撃した通りであったから、私は攻撃隊にはどんなことをしても、戦闘機をつけたいと思った」と彼は述べている。』

私はここに『運命の五分間』を演出した真犯人の一人が語られていると思う。敵側は掩護をつけないまま急襲してきているのである。それに対して草鹿隆之介は『どんなことをしても攻撃隊には、戦闘機をつけたいと思った』という。これが即時発艦させなかった理由だという。類を見ないほど馬鹿げたコジツケである。結果、発艦を待機させられた甲板上の爆撃機の群れに、掩護機を伴わない敵爆撃機が急降下爆撃をして、甲板は手が付けられないほど炎上し、かけがえのない熟練航空兵の半分と整備兵の大半、及び千名近い機関科兵が地獄の業火に包まれ焼死した。草鹿隆之介は第一航空艦隊参謀長でありながら、敵側に味方の兵を処刑させたのである。それが勅令だったからだ。

『そればかりでなく、戦闘機を伴わない攻撃は無意味であるとの草鹿の意見に、同感であった源田は、南雲と草鹿に対して、第一次攻撃を収容した後で、敵に対する攻撃隊を発艦するよう進言した。燃料がなくなりかけていた第一次攻撃隊の機を収容するため、すでに飛行甲板に並べられていた水平爆撃機は急いで格納庫に降ろされ、その兵装をふたたび魚雷に取り換えられた。』

ここに敵の急降下爆撃を受けるまで、何としても味方爆撃機を発艦させないという草鹿と源田実の意思を感じる。

『これらの切迫した状況下で、南雲は、シェークスピアのハムレットのように、橋の上で右するか左するか考える余裕もなかった。源田も、「南雲長官はすぐ決断した」と述べている。利根機の電報を受信してから間髪を入れず、南雲は次の命令を下した。「艦上爆撃機は第二次攻撃(注 ミッドウエ―島攻撃)に備えよ。二百キロ爆弾を装備とせよ」「また兵装転換だ」と普段はおとなしい赤城の飛行長の益田中佐も大声を上げた。「これではまるで兵装転換の競技をさせられているようなものだ」と。』

南雲の言動は、草鹿と源田の著書やインタビューによるものである。私は彼らが死人に口なしで創作していると思う。南雲はサイパンで複数の士官に山に連れ去られ、彼らの幇助で『自害』させられている。南雲が生きて証言していたら、ヤラセが判明するような草鹿と源田の言動が明らかにされたからである。

『一方、各母艦の格納庫では半袖、半ズボンの防暑服を着た整備員が、汗まみれになって、爆撃機から八百キロ爆弾を降ろしていた。機から降ろした爆弾は、それを下の弾薬庫に降ろす時間がないので、格納庫の側面に仮に積み上げられていた。』

かくして大混乱の中、味方空母を撃沈するに十分な八百キロ爆弾が積み上げられたのである。

『大和の連合艦隊司令部は、これらの電報を受信して、情況の推移をかなりよくつかんでいた。彼らはアメリカの空母が南雲部隊の攻撃圏内にいるということについて、少しも心配していなかった。その瞬間まで山本およびそのスタッフは、アメリカの空母がミッドウエ―の北方の海域に作戦しているという情報は何ら得ていなかったのにもかかわらず、このような無責任の反応は、むしろ唖然となるばかりである。そればかりでなく、それは、彼らの作戦の大甘の予想に反して敵が出現いたという機微さ良い現実に、目を閉じたことを示すものであった。』

大甘の予想をしていないからこそ、敵艦隊の動向を掴むために小松輝久に三重の哨戒網を展開させたのである。もちろん小松輝久は哨戒の予定日を四日も遅延させ、敵艦隊を無事にスルーさせてあげたことを報告していない。小松輝久は田布施村王朝の皇后の従弟であることは前述した通りである。プランゲはさらに黒島と共謀して、山本五十六の言動を捏造している。

『「アメリカ艦隊を速やかに攻撃せよと南雲に命令すべきだ、と思うが、君はどう思うか」と山本は黒島に訊ねた。その山本の問いに対して、黒島は「南雲長官はその攻撃兵力の半数をアメリカ空母部隊に対して準備しておりますから、すでに攻撃を準備中だと思います」と答えた。そこで山本はその提案を引っ込めた。黒島はその死にいたるまで彼の責任を痛感していた。黒島が山本長官の意見に同意して、山本長官の名前で出された命令は、南雲にすぐ攻撃をさせるようになったかもしれない。「南雲長官が、連合艦隊司令部が望んでいたように動かなかったのは、私の責任である」と黒島は嘆いた。「ミッドウエ―作戦の第一目的は、アメリカ空母隊を叩くことである」ことを、南雲は十分に理解し、それに対して十分な対抗策を講じている、と黒島は思っていた(訳者注=以上の会話や所見は、黒島が一九六四年に著者とのインタビューで述べたものである)。が、それは黒島の思い違いである。4章で見たように、黒島はミッドウエ―の攻略が作戦の第一目的であると明らかにしていたのである。南雲の機動部隊はそれにもとづいて判断して行動して、初め雷装から爆装に取り換える決定を下したのである。南雲の攻撃が遅れたのは、アメリカ空母部隊を攻撃することを渋っていたからではなくて、十分な兵力で効果ある攻撃をかけようと思っていたからであった。』

黒島による山本五十六とのやり取りの証言は偽証である。黒島の自己申告は、いかにも信憑性があるように見せかけるためのものである。案の定、プランゲは優しく黒島を庇ってあげて、南雲は(つまり草鹿や源田は)当然のことをしたのだという結論に導いている。当然のことをした結果、どのような事態が引き起こされたかを見てみよう。

『その瞬間に加賀の見張りが「急降下」と叫んだ。それを見た同艦の飛行長天谷孝久中佐(海兵51期)はそのプロ的な感覚から、雲を利用し太陽を背にして突っ込んでくる、これは相当なものだと感じた。一方、赤城の艦上では準備の出来上がった第二次攻撃隊の発艦がまさに始まろうとしていた。飛行長の増田は白旗を振り、戦闘のゼロ戦は飛行甲板を走り始めた。その瞬間であった。見張りは「急降下」と叫んだ。それを聞いた淵田が見阿ガエルと、敵の艦爆三機が矢のように艦橋に向かって突っ込んでくるのが見えた。彼は弾除けに装備されていたマントレットの陰に身を伏せた。』

それまでは使い捨ての囮として、『指揮官は彼らが滑走路を離れた瞬間に死んだものと思うべきである』というような特攻をさせていたアメリカは、詐欺犯罪のクライマックスにとっておきの手練れを投入したのである。共同演出者の淵田は安全な避難場所から一部始終を眺めていた。広島原爆投下の時も同様であった。

『源田がまだ事態を楽観していたのは、理由のないことではなかった。普通の状態ならば、二発の被弾を受けただけで、致命的な損害になるようなことはなかっただろうからであった。が、加賀と赤城が被弾を受けた時、両艦の状態は普通ではなかった。両艦の飛行甲板には燃料を満載し、魚雷または爆弾を装備した航空機が翼を連ねて並び、その下の格納庫にも同様の状態の機が飛行甲板に揚げられるのを待っていた。なお悪いことには、先に攻撃機から取りはずした爆弾が、まだ格納庫内に裸になって残っていた。航空機のガソリンが燃え、搭載した魚雷、爆弾が誘爆し、さらにそれが格納庫内の爆弾を誘爆し、赤城は間もなく、草鹿の言によれば、“燃えさかる地獄”と化することになるのであった。』

南雲はかたくなに赤城を退艦することを拒んだが、草鹿が『飛龍』に移って戦闘指揮を続行するべきだと説いて駆逐艦に避難させ、そのまま大和に連行した。南雲に死なれては参謀長の草鹿も生き恥を晒すわけにいかない。もちろん淵田も源田も一緒に避難した。淵田は『搭乗員が全員退艦するままで退艦する予定になっていなかったが、そのような状態ではどうしようもなかった』。『同じ頃、源田の従兵をしていた水兵が駆けつけてきて、彼に彼の印判と預金通帳を手渡した。火災を冒して源田の部屋から取り出してきたものらしかった』。よくも源田はこれを受け取って避難したと思う。

『日本側の記録によれば、蒼龍は、午前十時二十五分から左舷側に整然と並んだ飛行機の列の中に直撃弾三発の命中を受け、そのため飛行甲板は火の海となり、次いで爆弾および魚雷格納庫、弾薬庫、ガソリン貯蔵庫が誘爆した、としている。全艦がすぐ火に包まれた。蒼龍の艦上では誰ももう長く生きのびられないのは、明らかであった。第一弾が命中してから三十分後に、柳本艦長は「総員退去」を命じた。かつてスマートでその威容を誇った蒼龍は、僅か三十分で、焼け落ちた火葬場と化していた。艦長が見当たらないので、乗員が探し求めると、彼はまだ信号台に立って、下にいる生存者を励まし、「バンザイ」を叫んでいた。』

『アメリカの急降下爆撃隊は、それより前の数波にわたる攻撃が三時間かかってもできなかったことを、わずか三分で達成したのであった。この驚嘆すべき大勝利の原因としては、次の三つのことが考えられるであろう。その一つは、マッククラスキイが臨機応変にその索敵を続けたことであり、その二は、たくまざる協同でエンタープライズとヨークタウンの漢学隊がほとんど同時に目標上に殺到したことであった。第三は、日本のゼロ戦が先行した雷撃隊への対応に追われて低空にいたことだった。』

完璧主義者プランゲよ、自分で書いていて空しくないのか。誇らしげに掲げて見せる三つの要素が、アメリカの勝因でないことを百も承知しているのは誰よりもあなた自身だ。そのような要因が全部完遂されても、依然として連合艦隊は勝利していたことは明らかである。アメリカが勝利したのは、空母が索敵機に発見されたにも拘わらず、その後二時間以上にわたって日本側の爆撃機が兵装転換し、さあどうぞとばかりに火薬庫のような状態にしてくれたところに、急降下爆撃して数発で命中で全てを吹っ飛ばすことが出来たこと以外にない。この詐欺犯罪に対して雪辱戦をただ一人挑んだ指揮官山口を、プランゲは徹底的に攻撃する。

『山口はすぐ「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」と信号で返答した。情況は向こう気の強い山口の描いたシナリオにぴったりであった。それは不敵にも第一航空艦隊に手をかけてきたアメリカ機動部隊に対して仇討の痛打を加えて、局面を逆転させ、独力でミッドウエ―作戦を復活させて、それまでの敗戦の責任を負う南雲に顔色をなくささせよう、というのであった。このメロドラマ的な構想は、山口の性格にこれ以上なくぴったりとしていた。』

山口はプランゲのヒステリーの八つ当たりを受けているのである。『現装備のまま即時攻撃』することの正当性を実証してしまった山口が、あの手この手を使って詐欺犯罪を正当化しようとしたプランゲの努力をブチこわしたからである。

『山口と艦長の加来は、艦橋で出撃する搭乗員のすべてと握手し、短い言葉を述べていた。そばにいた機関参謀の久馬武勇少佐(海機38期)によれば、それは「君たちだけを死なりたりはしない」という意味合いであった。久馬が見ていると、出撃する隊長の小林道雄大尉(海兵63期)が歯をガタガタ鳴らしていた。それは明らかに、死を賭してもその任務を遂行するという彼の固い決意の表れであった。「私はそのような感動的なシーンを見たことはかつてなかった」と彼は回想している。』

いわゆる武者震いである。本当にそういう状態になると私も読んだことがある。

 

『山口は雷撃機の準備のできるのを待って攻撃を遅らすより、現有の兵力でできるだけ早く攻撃をかける途を選んだのであった。この山口の阿部(注 第八航空艦隊の指揮を一時的に引きついでいた)に対する要請には次の二つの点できわめて興味がある。(二つともくだらないイチャモンなので第一は略して第二だけ以下に抜粋する)第二は、山口の語調には、先任序列に関係なく、命令口調の影が見られることである。その当時に彼がいかにいらいらし、かつ野心に燃えていたかを示すものと言えよう。』

山口にどんな野心を持つ余地があるというのだ。彼は死を賭して部下に命令をしているだけではないか。そこにあるのは部下と運命を共にするのでなければとても命令できない、必死の逆襲への壮絶な覚悟があるだけである。だから部下たちは山口の命令を受けて武者震いし、生還を帰さずに突っ込んでいったのだ。

『友永機はミッドウエ―攻撃の時に、その左翼の燃料タンクに被弾していたが、その修理はまだ終わっていなかった。半分の燃料では帰る燃料に事欠くであろうことは明らかであったが、友永は乗機を換えようとの部下たちの再三に申し出を断り、被弾機で出撃する決心を変えなかった。友永はどちらかと言えば孤高の男であり、その考えなり感情を他人に打ち明けるようなことはしなかった。が。友永をよく理解し、かつ尊敬してやまない橋口は、友永のミッドウエ―に対する再攻撃の進言が、間接的に大災害を生んだことに対して、彼がその責任を痛感したのではないかという強い印象を受けたとしている。また、橋口はそのような責任を感ぜずに死地に赴いた友永の隊員の心情を思うと、その胸に突きささるものを覚えた。』

友永による第二次攻撃の進言自体がガセである。よって第二次攻撃の進言が大災害を間接的に引き起こしたというのは、責任転嫁もはなはだしいプロパガンダである。これは氷山の一角に過ぎない。プランゲは厖大な史料を恣意的に用いることで、詐欺犯罪を『ミッドウエ-の奇跡』と形容する欺瞞の書を完成させたのである。

黒島亀人の臨終の言葉は「飛行機が南の空に飛んで行く」だという。南の空へ飛んで行く五十六を乗せた飛行機が待ち伏せ攻撃をされた後、太平洋戦争は様相を一変する。早期講和のシナリオは完全に握りつぶされ、黒島は学徒出陣した若者を狙い撃ちにする特攻兵器を次々に考案していく。東京大空襲を皮切りに非戦闘員のジェノサイドが始まり、原爆投下で大団円を迎える。だからこそ五十六暗殺直後に、日米間のヤラセの連絡係りを務めていた白洲朗次郎は、家族だけ連れて鶴川村に疎開したのである。  

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コメント
 
01. 2012年3月09日 05:23:51 : md3lgmxky2
向こう側の騙そうとする連中は嘘のなかで生きてきた連中だからたちが非常に悪いということを前提として考えないといけないですね。てにおえんれんちゅうでしょう。

戦後のwgipの真相箱で騙されたように現在も同じ手を使って騙されてるのかもしれない。理由は日本人は最期まで人の言う事を疑わないからね。

これが真実だと騙したnhkがネットの工作員アルバイター書き込み要員に変わっただけで本質は同じでしょう。組織で文章を作って多くの在日ciaがチームで書きこんでいる。悪意を通りこして何かの胡散臭い意図を感じる。

山本のことは検証につぐ検証ですよ。それが変なことのネットのあちこちで山本主犯裏切り者プロパガンダが行われてる。こんなのは真実は反対の事だというのは経験からは明らかですが、まあ疑ってかかって信用せずに検証をすすめるべきだと思う。決定的な証拠なんてないのですから。

とにかく再び騙されないようにしないとね。


02. ♪ペリマリ♪ 2012年3月09日 12:03:09 : 8qHXTBsVRznh2 : BFfzyuTKmA
>>01


同意です。
日本人はプロパガンダに非常に染まりやすいと思います。

NHKはまったく怪しいですね。
白洲次郎のプロパガンダ番組の他にも、
淵田美津雄の礼賛もやってますね。


近衛家の跡継ぎの忠大君は、NHKに勤めているようです。
でもって取材班と組んで近衛文隆の特番を製作しています。
取り込まれてしまったんですね。


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