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《チェルノブイリ原発事故》 第3回ウクライナ調査報告 2012 年9 月24 日〜10 月4 日
http://www.asyura2.com/12/genpatu28/msg/444.html
投稿者 taked4700 日時 2012 年 11 月 01 日 17:05:01: 9XFNe/BiX575U
 

《チェルノブイリ原発事故》 第3回ウクライナ調査報告
2012 年9 月24 日〜10 月4 日

「この10 年で外国人が2号炉運転室に入ったのは初めて」

 チェルノブイリ原発4号炉は、1986 年4月26 日1時23 分に、原発史上最悪といわれる爆発事故を起こした。この4号炉は3号炉と併設されており、それらと隣り合わせに建てられているのが、2号炉である。
 9月27 日、バスを降りて、担当の女性に案内され、原発の建物内に入り、白衣、白帽子を身に着け、ビニール製の靴カバーを履いて、放射能チェックを受けるまでは撮影禁止。
 そこから先の内部は、撮影が許可された。
 案内してくれた女性は、「この10 年で、外国人が2号炉運転室に入ったのは初めて」と話した。
 右に原子炉、左にタービン室がある間の、長い廊下を歩いて行くと、コンクリートの壁が途切れ、別の素材になっているところで放射線量が跳ね上がる。
 2号炉も危機に陥ったが、事故当日、運転室に入って無事、原子炉を止めたのが、運転員の、ユーリー・アンドレーエフ氏である。死と隣り合わせの運転室の中で、どのようにして危機に対処したのかは、5ページからの報告をお読みいただきたい。
 この話を伺った翌日に、停止に成功した2号炉運転室を見学することができ、さらにアンドレーエフ氏と元同僚で親友という運転員のポーリッシュ氏から、話を聞くことができたのは幸運だった。この報告は、10ページからお読みいただきたい。

目 次
2号炉運転室 …………………………………………………………
調査の概要 ……………………………………………………………
決死で止めた2度目の爆発(アンドレーエフ氏) …………………
2号炉運転室でポーリッシュ氏に聞く ……………………………
10 ベクレル食で子どもの7割に健康異常  ………………………
心臓と あちこち痛いのが治った26 歳女性 ………………………
ツアーと調査−全体の日程と概要 …………………………………
ツアー参加者からのひとこと ………………………………………
「チェルノブイリ断想」 ………………………………………………
調査のまとめと展望 …………………………………………………

調査の概要

福島原発の事故後、政府の専門家は、健康影響は出ないと言い続けている。
 本当にそうなのかを調べるには、チェルノブイリ原発事故が起きた国、ウクライナに行って調べると、最も正確な情報を得られる。遺伝的な影響を念頭に置きながら、実態調査することを決めたのが今年1月。2月末から1回目の調査を行った。
 ここで、いきなり遺伝的な影響が考えられるガンの子どもに出会ってしまった。
 そこで、「食品と暮らしの安全」の読者のみな様から、取材費と、ガンの子どもが適切な医療を受けられるようにするためのカンパをいただき、2回目の調査を5月末から行った。
 このとき、測定すると極低レベルの地域なのに、「足が痛い」という子が多いのに気づいた。
 そこで、3回目の調査を9月末から行うことにしたが、旅立つ前日にNHK のETV 特集で、ウクライナでは、健康疾患のある子が78%、健康な子は6%と、政府報告書に出ていることが紹介された。
 健康疾患は、医師にかかった子のデータをまとめたもので、ウクライナの経済状態では、単なる足痛、頭痛、のど痛だけでは、医者のところに行かない。私たちは、ほとんど医者に行かない健康異常を、約100 人の子どもを対象に調べたわけだが、ウクライナ政府のデータと見事に連動したと感じている。
 私たち「食品と暮らしの安全基金」の事務所は、さいたま市にあって、放射能の通常値は0.08 マイクロシーベルト/ 時である。これとほぼ同じ値を示すウクライナの「非汚染地域」で、子どもの半数が、ヒザが痛いと手を上げたのには驚いた。
 ウクライナの田舎は、自給的な食生活をしている人がほとんどである。これを、東京に当てはめれば、関東の食材だけを食べていると、同じような健康異常が起きる可能性があることになる。
 救いも、見つかった。足や頭や心臓が痛いと言う26 歳の女性を、汚染度がさらに低い地域に70 日間、保養に行って、安全な食事をしてもらったら、痛みがなくなったのだ。彼女は、常に持ち歩いていた心臓の薬・ニトログリセリンを、今は持ち歩かなくなっている。
 彼女がすごく健康になって幸せになっただけでなく、我われも大きな希望と、貴重な情報を得ることができた。
 今回の取材は、1回目の調査が終わったときに企画されたツアーを兼ねており、調査団に加えて、ジャーナリスト、放射能測定の専門家や、原発に関心のある方も加わっていただいた。
 行く先々で大歓迎を受けたので、皆さん驚かれたが、2回目に、一部の講演や訪問を予約し、あいさつ回りをしてきた私も、想像以上の大歓迎と、魂を揺さぶられる数々の話に、感動の日々を過ごすことができた。
 初訪問の方はもっと驚かれて、ウクライナが大好きになったようだ。その一端を、この報告書でお届けしたい。
             調査団長 小若順一(食品と暮らしの安全基金代表)


アンドレーエフ氏 講演・質疑

決死で止めた2度目の爆発

チェルノブイリ原発で爆発したのは4号炉でしたが、2号炉も全電源を喪失し、爆発寸前に陥っていました。福島のように連続して爆発が起きると、莫大な放射能汚染で、ヨーロッパ全体に人が住めなくなると懸念されていたのです。2つ目の爆発を食い止めた運転員のアンドレーエフ氏は、「自分も生きていられるとは思わなかった」と語ります。

講演会は1時間半を超えました。
 まず、地球温暖化が進んでいるので、CO2を出さない核エネルギーは現代文明を支え
るのに必要だと主張。
 フクシマでは、ヘリコプターで水をかける様子や、消防車がすぐに行かなかったこと、
原発の作業員を撤退させようとしたことにビックリしたとのこと。
 運転員や消防関係者が、当初の現場に行くべき時に行かなかったのは、第二次大戦中
にソ連で兵士が後戻りしたことに匹敵する失態だと、怒りを表明。後戻りした兵士は銃殺
されたとのことです。
 日本大使館に行って、経験者グループとして協力を申し出たのに無視されたとも話し
ました。
 技術的な解説では、ソ連製原発には格納容器がなかったが、アメリカ製原発には格納
容器があったこと。
 全電源喪失で冷却できなくなったソ連製2号炉は結果的に爆発しなかったが、アメリ
カ製は福島で連続して爆発した、と話し、それから、チェルノブイリ原発事故が起きる前
の状況が解説されました。

戦争を想定した訓練で爆発事故

当時、戦争が起きたことを想定する訓練があったのですが、当然、原子炉を直接攻撃することはあり得ません。放射能汚染が起きたら、勝って占領してもその土地を使えないので、あるとしたら、機械関係を攻撃し、冷却システムを狙うはずとの想定でした。
 冷却装置に最大の負荷をかけるテストをしていたのが、1986 年4月26 日の直前です。
 ここから質疑で、小若団長が代表質問を始めると、事故当日、どのようなことが起こっ
たか、驚くような体験談が語られたのです。
 事故当日、私は非番でした。前日の25 日、夜遅く帰ってぐっすり寝ていたので、深夜の爆発には気付きませんでした。
 朝9時ごろ目を覚ますと、市場から帰ってきた妻が「チェルノブイリ原発で事故があっ
て、爆発で何人か亡くなったらしい」と言うのです。「原発で爆発は不可能だ」と答えると、「正常ならいいわ、下の娘を散歩に連れて行って」と言われました。
 それで、2歳半になった娘の散歩に出たのです。それは私の一生で、一番愚かな行為
でした。
 私は150m ほど離れた町外れまで行くことにしました。原発を見ようと思ったのです。
娘は三輪車をこいでついてきます。
 原発が見える場所に着くと、4号炉の上にあるべき四角いコンクリートの建物がなく
なって、壁の一面しか見えません。
 発電所から出てくるバスには作業員たちが乗っているのですが、普段の服装ではなく、
軍服のようなものを着て、マスクもつけています。
 それを見て、ようやく大変なことが起きたのだとわかりました。
 私は娘を抱きかかえ、三輪車をつかんで、家まで走って帰りました。三輪車を捨て、踊
り場で娘の服を脱がせて置き、妻の服も同じようにさせ、すべての窓を閉め、絶対開けな
いように言い、カーテンも閉めました。そして、放射能のチリが床に落ちるから、定期的
に水で濡らした布で拭くよう妻に指示してから、家を出ました。
 家に電話がなかったので、郵便局から原発に電話すると、話し中でつながりません。
 そこで、私の両親と妻の両親に電話して、「こちらは大丈夫、近いうちに行くから」と
伝え、原発に向かったのです。

爆発した4号炉の惨状

 バスを降りて、私は職場である2号炉に向かって歩いていました。4号炉の壁は壊れ、
まるで原子炉の断面を見るような、あるいは建設途中のような有り様です。
 爆発で吹き飛ばされ、傾いた原子炉のフタも見えました。それは薄い緑色をしていま
した。しばらくして焼いたような色になりましたが、当時はまだきれいな色だったのを覚
えています。
 ポンプの容器も見えました。爆発で外に吹き飛んでしまっていたのです。
 私は恐怖を感じていました。歩いている道からわずか70m ほど先の4号炉から強力
な放射能が出ていることはわかっていましたから。
 そのとき頭に浮かんだのは、家に残してきた妻と子どもたちのことです。
 私がその場所から逃げたら、誰が原子炉を制御できるのでしょうか。技術を持つ運転
員としてやるべきことがありました。
 原発の入り口には大きな容器が置いてあり、その中にマンガン溶液が入っていました。
 事故の前は、「原発から外に放射能を出すな」だったのに、今度は「原発に放射能を
入れるな」ということです。
 発電所のとてつもなく長い廊下は無人で、誰も見えません。マンガン溶液の足跡だけが
赤暗く見え、それは恐ろしい光景でした。
 放射能漏れの警告ランプが光っていましたが、耳をつんざくような警報音は、すでに切
られていました。
 消防員らの服が山のように脱ぎ捨てられているのを目にしました。
 靴、上着、ヘルメット……。アスファルトがこびりついた服も。
 まるで亡くなった人々がそこにいるような思いに駆られ、それらの服を乗り越えて歩く
のが大変でした。
 長く続くタービン室に入り、4号炉のあたりの屋根を見ると、外からコンクリートの鉄
骨構造物が突き刺さって穴が開き、溶けて流れたアスファルトが、4〜5mの長さに流れ
落ちて固まっていました。

爆発を防ぐプログラムを作成

 2号機の運転室に入ると、原子炉とポンプの予備電源が切れていて、4号炉の爆発前
より危ない状況なのが一目でわかりました。
 2号機をどのように止めるのか、誰もわかっていませんでしたが、私にはわかりま
した。
 政府と学者による委員会がすでに発足していて、彼らから私たちに、停止プログラム
を作るよう指示してきました。委員会は、自分たちでは何もできなかったのです。
 1時間以上かかりましたが、私はプログラムを作りました。ガスの爆発とタービン室の
油の爆発を防ぐ方法です。
 ところが、委員会に提出してもサインしてくれず、現場で止めていいと言われました。
しかし、その電話は録音されていません。通常は、電話での話は、現場での会話も、運転
員との話はすべて録音されるものなのです。
 つまり上の人たちは、私たちの責任になるように、わざと手順マニュアルの違反をする
よう仕向けたのです。

死ぬか、刑務所に行くかの選択

 作業していると、センサーに水がかかって、すべての照明が消え、私の制御盤は同時に
150 ヵ所で緊急事態を知らせる警報ランプが点灯し、警報も鳴り出しました。
 もう、恐怖です。2号炉も爆発寸前だと思いました。
 マニュアルに従うと、150 の表示ランプについて、一つひとつ状況を記録し、それに対
して私がどのように対処したのかを記録しなければなりません。でも、そんな時間はありません。
 私に代る専門家は誰もいなかったので、私には2つの選択肢しかありませんでした。
 それは、死ぬか、刑務所に行くかの2つです。
 つまり、マニュアルどおりにやって爆発を起こして死ぬか、マニュアルを破って自分の
判断で処理し、マニュアル違反で刑務所に行くか、です。
 爆発すれば、家族も死ぬでしょうから、刑務所に入る方を選択し、規則を破って、警報システムを止め、それから自分で考えていたように対処し、停止させることに成功しました。
 それまで働いていて、マニュアルを破ったことは一度もありません。
 原子炉を止めることができてほっとしました。冷却水がなくても原子炉は耐えてくれた
のです。

同僚たちの悲惨な死

 原子炉は止まっても、安全システム、冷却システムを維持しなければなりません。それからも、原発の維持管理につとめました。
 また、爆発した4号炉のタービン室は、2号炉から続いているので、爆発しやすいものや火事になりやすいものを運び出すなど、数日間は横にもならず、働き続けました。
 高線量で被曝した同僚は、消化器官から出血して口から血を吐き、数時間で体から水分が抜けてミイラのようになって死んでいきました。体の組織と骨とが分離して、体が崩れてしまう苦しみの中で死んでいった作業員もいました。
 あのときは、数週間たったら私も死ぬと思っていました。この事故の処理も、できるとは思っていませんでした。
 その後、健康状態が悪くなり、数度、私は死線をさまよいました。

運転員のミスにされた

 事故後、運転員にミスがあったという作り話が広まり、消防士が英雄になりました。
 でも、タービン室の天井は白いままでした。
 消防士たちが決死で火を消したという美談が残っていますが、火事だったという話は、事実ではありません。
 生き残った消防士によれば、煙や灰のようなものが出ていた現場で、彼らは火事を予防しようとしていたのです。ところが、屋根に焼けたものが付着してアスファルトが溶けていて、足を踏み込めなかったと言います。
 それと、運転員を悪く言う話。
 この2つの作り話が事故後に広められ、消防士は英雄になりました。

プリピャチ市民に被害が少なかった理由

 4号炉の爆発でできた雲は、私たちが住むプリピャチに向かって流れて行きました。
 町と原発の間には大きな松の木があり、広がった太い枝は、第二次大戦中にナチスが
パルチザンを殺すために使ったので、そこに記念碑があります。
 その松のところで雲が2つに分かれたのです。放射能の雲が町を直撃していたら、子ど
もたちはみんな死んでしまったでしょう。雲が2つに分かれたのが救いでした。
 私は神を信じていなかったのですが、今は信じるようになっています。
 5月3日に情報統制が解かれ、報道機関が発信を始めました。
 その日、私がクワスジュースを飲んでいる写真が『トゥルード』紙に掲載されたのを見
て、母は私が生きていることを知ったのです。
 1986 年のうちに数百人のジャーナリストが現場を訪れ、ドキュメンタリー番組が数十
回放送され、撮影した写真の数千枚が公表されました。
 それでもソ連は、情報をオープンにしていないと非難されたのです。
 そのソ連よりも、日本政府はフクシマの情報をオープンにしていません。

コンクリートで核燃料の封印を

 古い石棺は、最初から気密に造ってはいません。それでも放射能があるので、作業は
大変でした。
 新しいシェルター方式のものは、バカバカしいものと思っています。30〜 50 年の臨時的な処置にしかならないので、まもなく、また新しいものを造らなければならなくなります。
 危険性が高いのは、石棺の中に入っている核燃料と、炉の下にある放射性物質やウラン溶液の酸化物です
 石棺の上にどんなものを建設しても、問題は解決しません。
 もっと安く、効果的なのは、核燃料と、その混合物の入っている箇所をコンクリートで固め、放射能の移動を止めることです。
 ただし、ガスを取り出す管が必要で、その管を残して、コンクリートで固めて、出てくる放射性ガスだけ処理すればいいのです。
 これで、すべての問題を解決できますし、この石棺なら数千年は存在できます。

IAEA(国際原子力機関)を解体せよ

 スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと原発の大事故が起きてきました。
 チェルノブイリにかかわった技術者としては、こんなに深刻な事故が何度もあったのに、そこから誰も勉強していないと感じています。
 IAEA は、核兵器の開発を止めることと、原発の安全な運転のために設置されました。
 ところが、まったく機能していません。
 IAEA が、イラクに核兵器があると間違った情報を与えた結果、戦争が起きて500 万人の子が親を失いました。
 原発の安全性についても、IAEA は何も活動していません。アメリカのスタンダードをサポートしているだけなのです。
 日本人は、アメリカの安全性のスタンダードがどの程度のものか、フクシマで体験していますね。
 私の意見は、IAEA を解体しなければならないということです。それから、まったく新しい民主主義的なアプローチで、新しい組織を創らねばなりません。
 IAEA は、チェルノブイリ後の医学的、生物学的な影響の発表を止めさせています。
 WHO とIAEA との間に締約があって、WHO は情報を発信する権利がありません。
原発事故の結果に関する情報は、IAEA の許可がないと公表できないのです。
 IAEA は国際的な原子力に関する同盟をサポートし、支援するための組織です。

 原子力でお金がかかる部分は、安全性です。IAEA によって、安全性にかけるお金を節約しているのですが、その結果、皆さんが体験していることが起きたのです。

質疑終了後、謝礼と土産を手渡そうとすると、アンドレーエフ氏は「君、下の娘(抱えて逃げた娘で、その後、甲状腺が腫れ、病気によくかかるようになったという)が最近、結婚したときに、前回くれたパールのネックレスを付けたんだ」と話しかけてきた。私は大変感動しながら、今回も、奥さん用と2人の娘さん用に違うデザインの3本を手渡した。(小若)

2号炉運転室で、運転員のアレクサンドル• ポーリッシュ氏に聞く

アレクサンドル・ポーリッシュ氏
 2号機は発電が停止されていて、今、左の建屋のタービンを撤去中です。
 ウクライナ・チェルノブイリ連盟代表のアンドレーエフさんとは親友です。彼は、タービン関係のメインの専門家として、ここで働いていました。ここで5〜6年働いた後は、タービン室を担当していました。
 チェルノブイリ原発労組委員長のベレツイン・ウラジミールさん(前日のディナーに奥さんと共に出席)も、同じタービン室で働いていました。
彼は運転員ではなく、タービン室の修理関係の代理の人でした。

――アンドレーエフさんが機械を止めたときは何人くらいいたのですか。
ポーリッシュ 普通の人数は5人です。出たり入ったりしますが、10 人以下だったわけですね。
運転員は3人なので、制御盤も3つあります。3人の上に、管理者がいます。
――事故の時、ポーリッシュさんは原発にいたのですか。
ポーリッシュ 事故の時は休憩中で、いませんでした。
――では、すぐに駆けつけたのですか。
ポーリッシュ 私のシフトでは、29 日にここに来る予定でした。私自身は、1年に1回の長い休暇をとっていたので、どうすればいいか不安でした。そうしたら、トップの人から家にいて、と言われたので、運転室に入ったのは5月6日でした。
――あなたはそれでずっと健康ですか。
ポーリッシュ まあ、だいたいね。
――入院したことはあるのですか。
ポーリッシュ 1回だけ、1ヵ月くらい。1988 年に放射線医療センターの病院に入院したことがあります。それ以降は元気です。
――そのときの病名は何だったのですか。
ポーリッシュ 心臓にちょっと異常がありました。それで、神経系部門に検査を受けるため入っていました。診断書がたくさん出ましたが、私はすべて無視しました。
――4号炉が爆発したとき、2号機は運転中だったのですね。
ポーリッシュ 1、2、3号機は運転していました。
――5年後の1991 年の火災が原因で、ここの廃炉が決定したのですか。
ポーリッシュ 2号機のタービン室で、4番目の発電機に問題があって、火災になり、屋根も落ちました。タービン室に入って天井を見ると、新しいものができているから、火災になったことがわかりますが、今回はそこには入れません。
 2号炉は、タービン室の火災で、原子炉を一応止め、その後は起動されず、止まったままになりました。
 廃炉になったのは、火災というよりは、放射線量が高くなったからです。1、2、3号炉は、それまで正常に運転できていました。
 あとは全体的な状況によって、止めることになったのです。
――ここは、今はどんな操作をしているのか。
ポーリッシュ 原子炉の制御の仕事はやっていません。制御に関係ある機械は全部オフになっています。ただし、燃料が入っているプールのコントロールをするので、そこからいろいろな情報が入ってくるわけです。
――「何十年も冷却しなければならない」と聞きますが、それをやっているんですか。
ポーリッシュ そうです。冷却プールの水位、温度はどのくらいかと、それらを全部コントロールしています。

――事故が起きることを予想や想像したことはありましたか。
ポーリッシュ 想像もしませんでした。私はなかなか信じられず、自分の目で壊れた4号機を見るまで、信じていませんでした。
 当時はソ連時代で、事故の情報が少しだけ流れました。4月28 日にモスクワのニュース番組で、事故があったけれども、部分的にちょっとだけ壊れたと放送されていました。

――世界にたくさん原発がありますが、原発の安全性を守るのには何が一番大事だと思いますか。ポーリッシュ それは言いにくいです。というのは、すべて、何でも、細かいことでも、小さくても全部大事なので。
 原発の運転員などのスタッフは、何かしたら、その後がどうなるのかということをよく考えてしなければなりません。そうしないと大変なことになります。
 運転員にとっては、マニュアルが法律と同じで日常の仕事では、それを絶対に守らなければなりません。破ると犯罪です。
 私自身いろいろな体験をしてきました。1号機の運転室でも働きましたし、運転室の中でもいろんな担当で働きました。
 運転員が、ここではすごい責任を負っていますが、意外な状況で機械がコントロールできなくなって、どうにもできないときは大変です。機械はなかなか言うことを聞いてくれません。
――日本では「原発はトイレのないマンション」、つまり核の最終廃棄物を処理する方法がない、と言われているが、それについてどう思いますか。
ポーリッシュ これは日本だけではなく、すべての国々に共通する問題です。
 核廃棄物が出て、最終的にどうするかの完全な方法はどこにもありません。
 「トイレがない」ことは日本だけではなく世界中で検討、研究しなければならないことです。

――福島では今、現場で命を削って作業が行われています。ここでも線量が高いのですが、皆さんの保護はきちんと行われているのでしょうか。
ポーリッシュ 私はシェラーボ市に住んでいて、そこの病院で、1年に1度、時間のかかる精密検査を受けています。原子炉が動いていた時には、3ヵ月に1回で、他にも簡単な血液検査などを受けていました。


10 ベクレル食で子どもの7割に健康異常

足、のど、頭が痛い子は7割

 3つの学校で、足、のど、頭が、毎日のように痛くなるかどうかを質問し、合計101 人の子どもに挙手してもらうと、7割の子どもが痛いと言い、3割の子どもは、この3ヵ所は痛くないという結果になった。
 日本の常識ではあり得ないが、ウクライナで「健康な子は6%」と、政府が報告書を出しているから、多すぎる数字ではない。
 この調査結果を、日本が援助している放射線医療研究所のチュマク所長に見せると、今の子は、家でゲームをするようになったので元気がなくなり、タンパク質とヨウ素の不足で健康障害が起きている、と語った。
 ウクライナの専門家も、日本と同じように、放射能は心配ないと言ったのだが、これには疑問がある。
 NHK「ETV 特集・汚染地帯からの報告−ウクライナは訴える」(9月23 日)では、われわれの調査地より汚染度の高いコロステンの学校で485 人中、正規の体育の授業を受けられるのは14 人で、他の生徒は軽い運動しかできないと報告している。
 われわれの取材でも、学校の先生たちは、「昔の子は元気だったが、原発事故後に健康でない子が急激に増えた」と、一様に語った。

 原発の近くにあったプリピャチ市の事故前の写真集には、学校で、健康そうな生徒の様子が映っている。健康でない子はこんなに登れない。(*遊具の上に登っている生徒の写真がある)

 ウクライナの田舎では、地域の自給率が非常に高い。だから、食生活は日本のように急激には変わっていない。
 放射能の専門家が言うのは間違いで、健康障害の原因は、放射能以外に考えられない。

食品による内部被曝が原因

 調査した3つの地域とも、地上での空間線量は0.08μSv か、それより少し高い程度。われわれの事務所がある「さいたま市」と変わらない。
 線量が高い場所を探すと0.13μSv になるが、これも、さいたま市と変わらない。
 外部被曝による被害は、これで否定できる。だから、健康障害の原因は、食品から摂取する内部被曝しか考えられないことになる。
 そこで、食品の検査をしてみると、移住できる権利を持つ「第3種汚染地域」と、それと隣接した「非汚染地域」では多少の差はあったが、両方ともセシウム137 が検出された。
 第3種汚染地域のモジャリ村周辺では、ライ麦、ポテト、牛乳、チーズからも検出されたが、非汚染地域のコヴァリン村では、検出限界が高くてキノコしか検出されなかった。モジャリ村のキノコは200 〜 400 ベクレル/kg だから、コヴァリン村のキノコの2倍近い値になる。
 ウクライナの田舎には、村の回りに森がある。
ここでキノコやベリー類をとって、加工し、貯蔵しておいて、それを食べるから、日本では考えられないほど多くキノコを食べる。ベリー類が原料の飲み物も多い。
 非汚染地域のコヴァリン村でも、「ひざが痛い」という子が半数いた。
 この食事の5%をキノコが占め、そのキノコが200 ベクレル/kg 汚染され、他の食品が汚染されていないとすると、平均10 ベクレルの食事で、健康に障害が起きていることになる。

安全性のルールに反した放射能

 日本の基準の10 分の1で健康障害が起こるのは、放射能の安全ルールが変だからだ。
 化学物質は、動物実験で得られた「無作用量」に安全率の100 分の1を掛けて、人間の基準にする。
 ところが放射能は、ガンが出なくなった「無発ガン量」をそのまま基準にしようとする。
 しかも、「安全率」を掛けないのに、それを「健康に影響が起きない」と言い換えているのが、現在の日本だ。
 原子力ムラの科学者は二重のインチキを行っているのである。
 放射能を含む食品を、人に食べさせて実験すると、将来、ガンにかかるかも知れないから、内部被曝の人体実験はできない。
 ところが、チェルノブイリ原発事故では、広い地域が放射能で汚染され、事実上の人体実験が進行中なのである。
 ロシアやベラルーシも汚染されているが、取材し過ぎると逮捕されそうな国なので、われわれはウクライナで被害者を探し、丁重に取材させていただいている。
 放射能の危険性はガンだけに注目してきたから、「無作用量」が突き止められていない。
 われわれの調査で、5〜10 ベクレル/kg の食事で被害が出ていたから、無作用量はさらに、かなり低いことになる。

細胞分裂しない組織での放射線障害

 子どもの4割が、のどが痛いと言うのは、放射能で免疫力が弱っているからと考えられる。
 足痛と頭痛は、のど痛とは異なり、ダメージをカバーできないから生じると考えている。
 細胞分裂しない3大臓器が、脳、心臓、腎臓である。
 筋肉もほとんど細胞分裂をしない。
 神経組織はまったく細胞分裂をしないと考えられていたことがあるほど、細胞分裂をしない。
 こういう細胞の遺伝子が放射線で傷つくと、うまく機能しなくなるか、細胞死を起こす。
 細胞分裂が遅いから、そのダメージをカバーする能力が低い。だから、低レベルの内部被曝で臓器に異常が起きたり、神経や筋肉に障害が起きると考えられる。
 放射線の専門家は、細胞分裂しやすい組織でのガンのことを語り、ほとんど細胞分裂しない組織のことは語らなかった。
 これは、無知によるものか、原子力ムラから研究費をもらうために、意図的だったのかは知らない。だが、重要な危険性が、少なくとも日本ではまったく語られていないのである。
 このような体の異常は治らないのか。それを、確かめたので、次ページもお読みいただきたい。

心臓と あちこち痛いのが治った26 歳女性

 2回目の取材で、住民に健康被害が多いことを知り、汚染されていない場所で、きれいな食物をとりながら療養すると、どれくらい効果があるかを知ろうと考えた。療養期間は、セシウムの生物学的半減期である70 日間。
 療養に行ったナタリアさんは、原発から西へ約120 qの第3種地域にあるビグニ村出身で、1986年1月生まれ。
 『食品と暮らしの安全』読者のみな様の寄付金で、7月12 日から9月20 日まで非汚染地だけで療養し、体験を語っていただいた。
 ナタリアさんは村で大きくなったが、元々体が弱く、病気がち。特に心臓が悪く、手足も痛かった。甲状腺炎の2級だが、手術はしていない。軽い風邪をひいただけで、すぐ喉が痛くなった。
 20 歳だった弟は、1年前、骨ガンで死亡。
 以上が療養前の状態である。

非汚染地域で保養
 7月12 日にビグニ村を出発し、黒海に面したクリミア半島の小さな町の保養地に移動。
 ナタリアさんは村から出ることが少なく、今回訪れた黒海沿岸も小さいとき以来だった。
 温暖で環境のいいところだが、育った気候と違うことや、一人で過ごすストレスから、7月21 日に恋人が住むウクライナ北部のデスナの保養地に移動。デスナはチェルノブイリに近いが、東側の汚染が少ない「非汚染地域」だ。
 その後、東のスーミィに行き、8月1日からはドニエプル川沿いのスヴェトロボツクに滞在。

45 日目まではダメだったが
 8月27 日から、キエフの西にあるサナトリウム(療養所)に移り、治療した。いずれも非汚染地だが、45 日目でも体調は良くなっておらず、心電図でも良くないことが確認されている。
 それが、54 日目には体の痛みがかなり少なくなっていた。
 その後、療養所を出て、非汚染地で暮らし、70 日目を迎えたとき、痛みはすっかりなくなっていた。
 療養に行く前、ナタリアさんは心臓が痛くなったときのためにニトログリセリンをいつも所持していた。現在は持ち歩かなくなっていることが、良くなったことを証明している。
 ウクライナ独特の治療を受けているから、良くなった原因がすべて、放射能を含まない食品によるとは言えない。
 だが、60 日ぐらい非汚染地域で療養すれば、体の痛みがほぼ消えることがわかったのだ。
 療養を終えたナタリアさんはビグニ村へは戻らず、キエフで仕事を探している。また、元気になったので、来年、恋人と結婚すると言う。
 ここですぐ、われわれは結婚祝いのお金を集めて手渡した。
 これで、キエフで1ヵ月暮らすことができるし、非汚染地のキエフで仕事が見つかれば、体調が悪くなることはないだろう。
 こうして1人の女性が希望に満ちた人生を歩み始めた。
 彼女が良くなったことは、福島にも日本にも、希望と指針を与えたことになる。

ツアーと調査−全日程の概要
<9月24 日(月)>
 成田空港に17 人が集合。モスクワ経由でウクライナ共和国の首都キエフのボリスピリ空港に到着。
 チャーター・バスへ。以後、10 月30 日まで同じバスで移動した。
 同日深夜12 時近くにルーシ・ホテルに到着し、チェックインした。

<9月25 日(火)>

ウクライナ保健省所属・国立ガン研究所・小児科病院院長のグリゴーリー・グリムシク医師に案内され、子どもの遊戯室で話を聞く。
 「毎年1000 人の小児ガン患者が発見されている。その半分は血液関係のガンであり、それ以外のガンの患者がガン研究所・小児科病院に来ている。その他とは、腎臓・脳などの臓器のガンのこと。
 この病院には、臓器に関わるガン患者が毎年250 人入院しており、550 床、小児病棟は40 床ある。
 ここで行っている治療は、化学療法、セラピー、手術などだが、西側諸国では小児ガンの70%は回復するのに対し、ウクライナでは55%である。回復とは、5年以上延命する比率。
 ウクライナの治癒率が低い理由は、第一に予算が低いことがあげられる。不足しがちだが、薬はなんとか用意できても、医療機器が古く、設備が不足している」
 ウクライナの小児ガンの第一人者グリムシク医師に、ツアー参加者は積極的に質問した。
――治癒率が55%と低いのは遺伝が関係しているか。
グリムシク医師 答えるのは難しい。そもそも小児ガンの30%は非常に治療しにくいガンだ。
 よく知る医師は、「遺伝による不安はある」と言っているが、おそらく環境とも関係している。
最近の罹患率は安定している。ただ、同じ種類のガンなのに細かいところで違うタイプのものが増えている。5年以上延命できる子が55%。1年以上なら80%になる。
――チェルノブイリ原発の事故後、注意して小児ガンを発見しているのか。
グリムシク医師 小児ガンは発見しにくく、クリニックで別の病気だと診断されるケースが多く、発見までに時間がかかってしまう場合が少なくない。
――日本では甲状腺異常(ガン)のみが放射能の影響だと言われるが。
グリムシク医師 事故後に甲状腺ガンが急増したが、その後は安定している。罹患率は子ども10万人あたり12 人。事故当時、妊娠している母親がそれほど多くなかった。統計的にみて事故当時に妊娠していた人の子どもの小児ガン発生率が高いかどうかはわからない。
 そもそも事故直後はデータが秘密にされていたし、事故後は住民の移住が多く、被害者として登録されていなかったケースもある。
 したがって、データベースは当時のものは少なく、むしろ日本、あるいはロシアのデータを参考にするくらいだ。
 1950 年代は、ウラル山脈のチェリャービンスク近辺(ウクライナから3000 q離れている)で事故があり、チェルノブイリの90 倍もの放射能を出したことが、今はわかっている。
 そのときガンは急増し、小児ガンも増えた。しかし、現場は地図にさえ載っていなかったのである。

――山下俊一教授は、事故後4年は、ガンが増えたが、その後はあまり出ていないといっているが。グリムシク医師 私自身、1990 年代の初めごろからデータを調べ始めた。新しくガンにかかる人は年間900 〜 1200 人くらい。ウクライナで、ガンのデータがきちんとでき始めたのは1990 年代から。イギリスでは、子ども10 万人中14 〜 15 人、ウクライナで12 人くらい。
――白血病は多いのか。
グリムシク医師 80 年代後半に白血病についてよくわかるようになった。当時の検査技術は不完全だった。

2つの病室
 入院中の子どもがいる隣り合わせの2 部屋を見させてもらった。
 みんな恐るおそる覗いたが、抗ガン剤で髪の毛が抜け落ち、痩せていて目に生気がない子を見ると、胸がしめつけられる思いがする。
 子どもへのお土産を、みんなそっと渡した。

リハビリ室
 患者支援団体「ザポルーカ」はウクライナ語で「蝶々」。
 会長のナターリャ・オニプコさんに案内され、リハビリ室を見学。
 「この小児科病棟は、血液以外のガン患者が多いですが、とくに骨の病気が多く、手術を無事に終えても、その後にリハビリができるかどうかで、回復の速度が違う」
 このリハビリ室ができたのは2009 年。器具を使って身体能力を快復させる先生が1人、もう1人はマッサージを行う。
 こうしたリハビリを経て快復した子が、ガン患者のスポーツ大会に数多く出場している。「勝利者のクラブに入っている子どもたちが多い。これは病気との闘いに勝利したと言う意味で、これを一番の誇りにしています」と、ナターリャ会長は何度も強調した。

外来病棟の「ザポルーカ」オフィスで
 入院病棟と正面玄関を出て、隣の外来病棟に。ここの精神科の医師をザポルーカが援助しており、その部屋がザポルーカの出先事務所になっている。

 ザポルーカのスタッフであるオクサーナ・コバリチュクさんが常駐し、子どもたちをケアする。
 ナターリャ会長によると、精神科的サポートは子どもを回復させるのに非常に役立つ。
 しかし、精神科というと親たちが快く思わなかった。それを説得したという。

ザポルーカ本部で寄附金贈呈
 「食品と暮らしの安全」読者からの寄付金6000ドルを贈呈。5月に6000ドルを寄付しており、合計1万2000 ドルになる。
 「(今回の)6000 ドルは、主にクスリの購入に充当したい」とナターリャ会長。

「家族の家」(ザポルーカ運営)
 キエフ郊外のジュリャーニ村にある「家族の家」を訪問。
 田舎に住む人にとっては、子どもを連れて首都キエフまで往復する交通費と、医療費と宿泊代の負担が非常に大きいので、親子が無料で滞在できる施設は非常に貴重で、「家族の家」はザポルーカの活動の柱である。
 5家族が同時に宿泊できる。
 「泊まるだけでなく、子どもどうしが友だちになり、同じ悩みを抱える者として親たちも親しくなり、子どもたちは回復してからもまた“家族の家”に行きたいと言っているくらいです」(母親の1人)
 ツアー参加者は、2階に上がり、子ども用の土産をそれぞれが配った。この国の子どもたちは素直で、ノートとクレヨンをもらうと、すぐに絵を描き始める。
 取材スタッフの林は、2月〜3月、5月に次いで4度目の訪問になる。前回と違って、知っているお母さんと子どもはいなかった。

私は、ここでは淡水パールのネックレスをお母さん全員に配ることにしている。「パールのお爺さん」のことはよく知られているようで、当初のようにもらったパールをそっとしまうことはなく、喜んでかけてくれる。
9月末にしては暖かい日だった。通訳さんはバスの中で「お婆さんの夏」と言い、その理由を説明してくれた。この国では40 歳を過ぎるとお婆さんと言うが、女性は45 歳から元気になるので、「お婆さんの夏」と言うのだそうだ。日本の女性は若く見えるから、この国の事情を当てはめることはできない。だが、私は62 歳だから、無条件でお爺さんになる。ただし、「家族の家」では「お爺さん」と言われなかった。参加した男性は全員、お爺さんと言われるのかもしれないが、もしかしたら配慮されているのかもしれない。このあたりは、次回に聞いてみよう。

ナターリャ・オニプコ会長の講演
 スライドを使ってザポルーカの活動を紹介。
 2010 年に、優秀慈善団体としてウクライナ国内で表彰された。現在、医療機器や薬の支援、治療する親子が宿泊する「家族の家」の運営を中心に行っている。
 最近は精神医療の視点を取り入れることや、セラピーも重視している。
 老朽化した病棟では冬に冷たい隙間風が入ってくるので、最近、修復費を病院に寄付した。
 また、小児ガンなどにかかわる若手医師向けの教科書、病気の子どもを抱える親向けの本の出版にも協力している。
 「家族の家」は、小児ガンの子どもたちの複数の家族が出入りするが、そのことを家主は嫌がる。
この家は2軒目で、なんとか賃貸を続けてもらっているが、10 月に賃貸契約が切れる。新しい家を探しながら、今の家主とも交渉中。
 近い将来、寄附を募って自前の家を建てたいと考えている。

お母さんたちの手作りのヴァレーニキ(ウクライナ風餃子)を昼食としてご馳走になる。
 子どもたちも食事をしたが、病院より雰囲気が明るい「家族の家」で食べる方が幸せそうに見えた。

バイオリンコンサート
 通訳ヴァレンチーナさんの娘は、バイオリンのプロの演奏家。彼女自身3歳の子の母親で、2月に私たちが取材に訪れたことで「家族の家」を知り、ここでボランティア演奏をするようになった。今回が3度目のボランティア演奏。
 バッハを弾いてくれた。

庭でリハビリのための遊び 
 天気がよかったので、芝生で子どもたちのリハビリを促進するイベント。
 「ピエロ」という淡いピンクの衣装の女性が子どもたちを遊ばせる。
 最初は、ただの遊戯のような感じで、ツアー参加者は何となく見ていたが、子どもたちが本当に笑い、思い切り遊ぶようになって、笑顔が心の底からはじけるようになると、子どものガンを快復させるためには、心から笑える遊びが役に立つとに気づいて、輪の中に次々と入って一緒に遊んだ。

 プロの演技者が、子どもに歓喜を与えると、子どもに希望が芽生え、回復を促進することは間違いないだろう。
 感動した丸田氏は、帰りのバスの中では、「ボランティアのお姉さんは偉い!こういうプログラムを毎月実施しているザポルーカも偉い!」と大演説を行った。(詳しくは、感想文)

佐藤周子さんは、秘蔵のネックレスをお母さんたちに配ったが、地下室で待機していた「ピエロのお姉さん」にも気に入ったのを差し上げ、大変喜んでいただけたという。

子どもがかかえている症状
 屈託のない笑顔を見せて遊ぶ子どもたちも、次のように重い症状を抱えている。
 
1歳9ヵ月女児エフゲーニャ
 2週間前に腎臓ガンを手術し、9月29 日に行われる化学セラピーのため、母アナスタシア(21 歳)とともに家族の家に滞在していた。

6歳男児エフゲーニー・イリイン
 エフゲーニー君は左足に悪性腫瘍で手術待ち。母は下の子を産んだばかりなので、代わりに祖母のリュドミラがめんどうを見ている。ドニエツク市在住。

5歳男児ニキータ・ジェミガ
 背中にガン。3歳7ヵ月のときに病気が判明した。オデッサからやって来た。

16 歳男子 11 年生(高2)
 脚に腫瘍があり9月27 日に手術予定。

16 歳女子アーラ・メルニチュク
 2週間前に肩甲骨からガンの摘出手術。父ビクトルが付き添っていた。
ウラジーミル聖堂見学
 わずかな時間だが、ウラジーミル聖堂を見学。

<9月26 日(水)>
放射線の胎児影響研究で第一人者ウクライナ医学アカデミー放射線医学研究センター
コスチャンチン・ロガノフスキー教授講演会

・受胎から2週間に放射線を浴び、遺伝子が傷つくと死ぬ。

・8週から16 週は、そのときにつくられている臓器が強い影響を受ける。

・脳の影響は IQ に現れる。とくに左脳・言語系能力(数学の能力も)が著しく低下する。非言語能力は低下しないので、両者にアンバランスが生じる。

・5歳〜7歳の子どもの脳機能を調査。同じ子どもを10 〜 12 歳、23 〜 25 歳と、3回にわたり調査した。脳に損傷を受けても、適切な治療によって、左脳(言語系能力)と右脳(非言語系能力)のアンバランスが解消される例もある。

ウクライナ・チェルノブイリ連盟
 事故処理で被曝した「リクビダートル= 決死隊」と呼ばれるた人たちの権利を守り、救済活動を行っている団体を訪問。ビルは停電していたが、アンドレーエフ代表の講演と質疑。(5ページから)

ディナー・交流会
 チェルノブイリ連盟関係者5人とツアー参加者17 人、韓国取材スタッフ3人、通訳の計26 人。伝統的なウクライナレストランで会食。
 ウクライナ・チェルノブイリ連盟の参加者と発言は以下のとおり。

ヴァシーリー・マカレンコ氏
 原発事故後、情報が閉ざされたため、空軍の知り合いに話し、ヘリで原発を撮影。
 モスクワが配信を拒否しなかったので、これが世界最初に流れた事故現場の映像となった。
 現在でも彼の取材映像がテレビやドキュメンタリーに流れる。
 「地上から近づくのを禁止されたので、空から近づけばいいと思った」
 「チェルノブイリもフクシマも同じボートに乗っているだけでなく、地球の中の兄弟だ」
 国が許可するか、社が許可するかの違いはあるが、ソ連でも「ジャーナリストの魂」は同じだった。

ヴラジーミル・ヴェレージン氏
(1949 年12 月6日生まれ)
 事故当時、原発労働者の組合委員長(1983 年〜 1988 年、組合員500 人)で、プリピャチにある文化会館の館長でもあった。
 1976 年から第2号炉の運転室でタービン関係の仕事をしており、福島の事故で過去が甦った。
 2000 年に福島原発を視察したときは、安全性はきちんとしていると思っていた。

ヴェレージン氏妻ガリーナさん
(1950 年4月7日生まれ)
 夫と共に原発に近いプリピャチ市に1976 年に移住。娘と息子がいて、輸血センターで働いていた。
 4月26 日は、電話に出ると、原発関係者に記号のような言葉を言われ、夫に伝えた。夫は何も言わずに現場に出かけた。
 朝が来て子どもは学校に行った。オープンサンドを食べていたらヘリコプターがたくさん飛んできた、と娘は言っていた。
 アパートの入り口にみんな集合してパニックなしで1200 台のバスで一時避難した。
 その後、子どもを実母の住むコーカサスに送ろうと空港に行ったがチケットがないと言われトラブルになった。12 時までに職場へ行かないといけないので、2人の子ども(13 歳と11 歳)に、お金を渡して、空港の場長室に残し、母に長距離電話をかけて「そちらに子どもをやる」と事情を話し、職場に行った。子どもは無事、母のところに着いた。
 その後、汚染地のポレースカ村へ向かい、線量計で人々を計測する仕事をした。

連盟職員エレーナ・ガチョーヴァさん
 1975 年プリピャチ生まれ。
 「両親は原発で働いていた。私の記憶にあるプリピャチは、明るい町のイメージがある。その記憶を消したくないので、事故後1〜2回行けるチャンスがあったのに一度も帰っていない」
 事故翌日、父は働きに出かけ、彼女はルガンスクという町に住む祖母のところに身を寄せた。

連盟事務局会計係カテリーナさんの挨拶
 「幸せはみんな同じですが、悲しいことはそれぞれ違います。でも、悲しいことは人間をつなぐので、私たちには悲しさを乗り越える力があります。次は、悲しくないときにお会いしましょう。みな様とご家族の幸せを祈ります」

スピーチに感動した照井さんが、事務局の2 人にスカーフをプレゼントしたところ、お礼に左手薬指にはめていた指輪をいただいた。

アンドレーエフ氏は体験談で、つらそうに何度も絶句しながら、それでも丁寧に質問に答えてくれた。「事故当時の現場を思い出すのは、つら過ぎる」と語っていたように、ここで力が尽き、ディナーの交流会は夫妻共に欠席。
 そこでマカレンコ氏が、近くで働いている娘さんを呼び出した。娘さんは、「父を尊敬しています」。

その娘さんにぴったりのペンダントを、佐藤周子さんがプレゼントすると、大喜びされた。この娘さんと浅野先生との間に英語のホットラインができ、ウクライナ・チェルノブイリ連盟と直接、連絡をとることができるようになった。

<9月27 日(木)>
チェルノブイリ原発と2号炉運転室見学
 8時30 分出発。10 時20 分ごろに30 q圏の入り口であるジチャートキ検問所に到着。この名称は廃村名。パスポートと名前を照合し、一人ずつバスに乗車する。

事故直後の状況
 ガイドは、軍人女性のヴァシリーナ。彼女による解説がバス内であった。
 1986 年4月27 日午前11 時に放送があり、プリピャチ市住民全員が避難開始。1200 台のバス
で午後2時から本格的に移送が始まった。同日午後5時に避難が完了した。
 当時のプリピャチ市は人口4万9343 人。
 数日後に範囲が拡大されて10 q圏の村が強制移住になり、5月9日には初期段階での最後の避難が終わった。
 92 村2町(プリピャチ、チェルノブイリ)で13 万人が退避。
 加えて近隣の村1500 人もほぼ同時に避難した。強制移住地域は2044 平方qだった。
 一度避難したが、高齢者で新しい生活になじめない人が10 q圏の外側30 q圏内に1200 人戻った。彼らをサムショーレという。
 現在でも100 人ほど残っている。
 現在30 q圏内では4000 人の原発関係者らが働き、これに加えて原発内では3100 人が働いている。合計7100 人。
 ほとんどはチェルノブイリ市に宿泊している。
 週に10 q圏内もしくは原発内で3日働き、3日は圏外に出て自宅に戻る。あるいは、15 日連続で働き、残り15 日を圏外の自宅で過ごす。この2つの働き方がある。

チェルノブイリ原発2号炉運転室見学
 バスが原発に着くと、担当の女性が出て来て案内され、原発の建物に入る。医療関係者が着るような白衣、白帽子を身に着け、ビニール製の靴カバーを履いて2号炉の運転室に移動する。
 ここはユーリー・アンドレーエフ氏が事故直後に停止作業を行った場所である。
 担当者(かなり地位の高い人)が知る限り、ここ10 年で外国人が2号炉運転室に入ったのは初めて。
 とてつもなく長い廊下をあるき、運転室に着いた。中は薄暗く、数人が作業をしていた。
 ときどき奥の方から白衣を着た人が通り過ぎる。壁やテーブルには様々なランプや制御盤があり、アンドレーエフ氏が150 ものランプが点灯し、一瞬、頭が真っ白になったという制御盤が、そのまま残っている。

アレクサンドル・ステパーノヴィッチ・ポーリッシュ氏(56)に挨拶をし、アンドレーエフ氏が担当していた制御盤を尋ねたら、その前でみんなが質問し、長時間のインタビューになった。
(10 ページから)

原発停止の状況
・1986 年4号炉、1991 年2号炉、1996 年1号炉、2000 年3号炉が停止した。

元の場所まで戻り、白衣を脱いで外に出て、バスで4号炉隣の展示室に行き、立体模型を使って係員による説明を聞く。
 展示室のすぐ隣では、新しい「石棺」が建設中だったが、撮影は禁止。
 出来上がった建造物を移動させて現在の4号炉石棺にかぶせる予定だ。
 現在、石棺では約250 人が働いている。説明後、外に出て、4号炉の前で記念撮影。

プリピャチ市見学
 原発で働いていた人が住んでいた町プリピャチを見学。遊園地のホットスポット68.71μSv/h。

原発食堂
 原発敷地から出てすぐのところに2階建ての従業員用食堂がある。
 ボルシチ、ジュース2種類、ジャガイモ、チーズ付牛肉カツレツ。
 従業員は無料だが、外部から来た人間が予約する場合、一食60 グリブナ(約600 円)。

巨大ナマズ
 原発近くの調整池には2mを超える巨大ナマズがいた。

コパチ村、幼稚園の跡見学(33 ページ)

廃村コロゴート村訪問
 バスで居住禁止区域の最大の村のコロゴート村へ向かう。ここにも黒い雨が降った。居住禁止区域内で最大の村であり、当時は約2800 人住んでいた。道の両側に樹木がうっそうと茂っており、事故から26 年経っているため道路の破損もひどい。幹線道路奥に家屋が立ち並ぶが、木が生い茂り近づくのが大変だ。
 空間放射線量は0.18μSv/h。
 2日後に行くコヴァリン村へ集団移住した人々の故郷であるノーヴィミール村は、この村からすぐ。宿泊するオブルチも、この道をまっすぐ行けば着くが、一度検問所にもどって外部に出なけれプリピャチ市文化会館ばならない。

夜8時 オブルチ市ゴスチーンヌイ・ドゥボールホテル到着
 ジトミール州オブルチ地区オブルチ市のホテルに宿泊。オブルチ地区6万人、オブルチ市1万7000 人。ソ連時代に戦車隊の部隊があった。
<9月28 日(金)>
学校訪問
ピシャニッツア村学校
 オブルチ市のホテルからバスで15 分。
 ピシャニッツア村学校では、1学年から11 学年まで92 人の生徒が学ぶ。
 建物は1964 年建築と比較的新しいが、学校創立103 年目。
 よく笑うミコラ・ヴァシーリエビッチ・スレピャンチュク校長が出迎えてくれ、2階建校舎に入ると、掃除されたばかりで、床を拭いた水分が残っていた。天井が高く、生徒の絵や作品が壁にかけられ、非常に整頓されて、しかも暖かく柔らかい雰囲気である。
 案内されて2階へ。

作曲家の肖像や音符のかざりが壁にほどこしてある音楽室で歓迎コンサート。椅子が固定されており、小さなイベントホールのようだ。
 女子生徒が歓迎の言葉を述べ、歌を歌い、司会役を務めながら、低学年女児4人の合唱、11 年生(高校2年)イリーナ・イオショベツがチェルノブイリの心を歌った『コウノトリ』、もうひとり11 年生のカテリーナ・スイシェフスカも歌う。
〈司会の生徒〉
 ウクライナは、私たちの生まれた国です。
 この国は、緑の多い素晴らしい国です。
 1986 年4月26 日、原発で事故が起こりました。
 そのときからウクライナ人にとって辛い日々が始まりました。
 チェルノブイリ原発事故はとても辛いことです。
 しかし、人々はすごく頑張っています。
 私たちには、とても苦しい、忘れられないことです。
 事故は、私たちの生活に、とても暗いものを残しました。
 私たちは今悩んでいます。
 もう26 年が経ちましたが、今も“チェルノブイリ” は続いています。
 まだ、毎年多くの犠牲者が出ています。
 短い朗読の後、明るい歌、短い朗読の後、暗い歌が続くので、ツアー参加者に泣く人が続出。
 韓国の取材チームも涙を流しながら撮影した。
校長:今回の準備はそれほど難しくありませんでした。学校にはいろいろなお祭りや行事があるので、そのためにいつも準備しています。
 チェルノブイリ事故の起こった4月26 日には必ず行事を行います。
 子どもたちは、日本の福島のことを、映像や番組を見てよく知っています。
 子どもたちは、福島とチェルノブイリと大きな関わりがあることを理解しています。

≪足が痛い子の調査≫(別掲)

健康調査 1日1回、もしくは時々痛むかどう
かを、第1 学年から第7学年まで、学年ごとに質問。
対象生徒総数45 人 足首27 人 ひざ10 人 ひざ下筋肉10 人太もも2人 頭痛21 人 のど16 人 一度も手を上げなかった生徒は16 人。
校長:昔はこういうことはありませんでした。私が子どものときは、寝込んでも、病気なのか風邪なのかわからないほど、元気がありました。今の子どもたちは、よく風邪を引きます。
 子ども1人ずつの病気の診断書や、先生の資料があります。
 私の生まれた村は原発から60 q離れていましたが、強制的に移住させられました。
 福島と共通することがあるので、これからぜひ交流しましょう。

モジャリ村学校訪問
 前回取材(6月1日)のとき、校庭で行われていた「お絵かきコンテスト」に飛び込み訪問し、女性副校長から「子どもたちは、みんな健康でないわよ」と聞き、女性校長とも知り合いになっていた。

校舎正面入り口で生徒・教師が出迎え
ミニ講堂でミニコンサート
 生徒の歌に加え、先生方の民謡合唱。

健康状態アンケート(別掲)
対象生徒32 人(第1学年〜第6学年)
足首8人 ひざ13 人 ひざ下筋肉8人 太もも9人 頭痛26 人 のど19 人 一度も手を上げなかった生徒は5人。

給食室で食事
 酢漬けのトマト、スープ(ジャガイモその他の野菜)、サバの酢塩漬け、ヴァレーニキ(中身ジャガイモ)、ハンバーグとジャガイモ。キノコ料理もある。ジュースとウォッカで乾杯(小学校でウォッカを飲むのは、当然、この国でもダメだが、外国からのお客だから特別扱い)。

別れの歌と踊り
 食堂を出たホールで、再び先生らの民族合唱。手をとって踊り出す。
 玄関を出たところで、小雨の降る中、さらに見送りの合唱。
 われわれは『故郷』などを合唱。
 別れを惜しみながら、訪問団が道路まで歩きながら、何度も何度も振り返る。そのたびに、先生方はもちろん、2階の教室からも生徒たちが手を振ってくれる。ツアーの女性たちは涙、涙だ。
 人生で、こんなことがあるとは。忘れがたい体験になった。

オブルチ地区衛生疫学研究所放射能部門
 事前の要請に応えて、モジャリ村学校の先生が12 種類の地元の食材を集めておいてくれた。
 これを「オブルチ地区衛生研究所・放射能部門」に持ち込み、検査を依頼した。
 担当者のナターリャ・ベトローヴナ・コヴァリチュクさんが、2時に渡した素材を、夜9時までかかって検査してくれ、結果を印刷したものを夜ホテルまで持ってきてくれた。

70 日療養し、体の痛みがなくなった(16 ページ)
槌田さんが、ナタリアさんの放射線量を測定。

<9月29 日(土)>
 午前8時コヴァリン村へ向け出発。この朝はめ
ずらしく冷えていた。
 途中、ガソリンスタンドで休憩。
 午前8時コヴァリン村へ向け出発。この朝はめずらしく冷えていた。
 途中、ガソリンスタンドで休憩。調査終了後、生活クラブふくしまがプレゼントした日本の絵葉書を持つ生徒たち

昼1時半にコヴァリン村到着
 コヴァリン村は、1992 年に、原発から西へ約35 qのノーヴィミール村の住民約1000 人が集団移住した村。

ヴァレンチーナ・(ペトケーヴィッチ)・グーシャ(55 歳)さん宅の中を見せていただき、庭で昼食会。
 夫は画家のヴラジーミル・(ヴァレンチーノヴィッチ)・グーシャさん。 
 ヴァレンチーナさんは原発事故当時プリピャチ市在住だった。
 家を訪れると、花が咲き乱れる庭にすばらしいテーブルセット。自家製ウォッカで乾杯。ボルシチ、ジャガイモ、こけももジュース。魚ペースト乗せたパン、サラダほか。

公園で村祭り開催中
 この日は村祭り。
 会場の公園に来ていた村の議長に挨拶。

ステバンチュー• ヴァレンチーナ議長の話
――事故の後、移住してきた人は何人ですか?
議長 530 世帯で1000 人です。今は270 家族が残っています。
――議長は移住してきたのですか?
議長 プリピャチからの移住です。
――移住してきた人の住居はどれくらいの大きさですか。
議長 移住者が受け取った住宅敷地は平均350uくらいです。(農地を除く)。以前から住んでいた人々は、200 uの庭があり、希望に合わせて、追加されました。

移住した夫婦の話
ミハイル・コワルチュクさん(73 歳、元校長で数学専門)、妻はガリーナさん(61 歳、かつてはコルホーズと村役場で会計係)
 コヴァリン村に移住した当時は、住宅や移動にかかる費用・設備は準備されたが、補助金(生活費のようなもの)はなし。
 政府によって建設されたこの移住者用住宅は、数えたら4部屋あったが、ガリーナさんは「3部屋」という。
(夫) 当時は、あまり仕事に空き(募集)がありませんでしたが、数学の教師が定年で、私が学校に入れたわけです。
――仕事のない人もいたのですか?
(夫) 1992 年はまだ大丈夫でした。働きたい人は必ず仕事がありました。1994 年から、仕事が少なくなりました。
――仕事がないと、補償がありましたか。
(夫) 当時は、まだ補助金はありませんでした。
 今なら仕事がなければ登録する制度があるのですが。制度や補助金は1998 年からです。
 仕事がないと、自給自足の生活でした。ここの畑は400 uあって、ガチョウ、ウシ、ニワトリを飼ってなんとか生活できました。
――仕事に就けなかった人はどうなりましたか。
(夫) 当時は大丈夫でした。問題は、大学で専攻した仕事がなかったこと。希望や専攻とは違う仕事であれば、ありました。トラクターの運転とか、畑で野菜を作るとか。
――健康問題はありましたか。
(妻) 主人は1994 年に心筋梗塞を起こしました。
 私は、1986 年12 月に甲状腺を手術し、2005年に線維筋腫の手術を受けました。2.5kg の腫瘍がありましたが、良性でした。
 まだ生きる希望があるから、頑張っていますよ。
――ご家族に、甲状腺の病気を持った方は。
(妻) 孫が甲状腺の手術を受けました。娘は、母と同じ婦人科の問題があります。

――ここの暮らしはどうですか。
(妻) 私は引っ越しする気持ちがありませんでした。今はそうでもありませんけれど。
 もう一つの問題は、元々ここに住んでいた住民は、新しい住民が来たことを少し嫌がっていました。「また私たちの土地に住み着いた」とか「チェルノブイリ人」とか。
 今もちょっとこういう感じがあります。
 助かったのは、当時は仕事がたくさんあったから、お互い働きながら何とかなりました。もしあの当時、仕事がなかったら、大変だったでしょうね。
(夫) 村の指導者たちは、まったく大丈夫と歓迎していたのですが、一般の村人は態度がよくなかったです。(泣きながら)「これは我々の土だよ、これは我々の川だよ、これは我々の魚だよ」と言われました。

移住者リィボーフ・ポタペンコさん宅
 夫はピョートル(65 歳)、妻リィボーフ(62 歳)。
 1986 年にパールシフ村に親(1922 年生まれ)が避難。その後ベラルーシの方に避難したが、再びパールシフ村に戻った。1992 年にコヴァリン村に移住。
 父親は胃ガンで2004 年に死亡。
 息子は40 歳(その娘は15 歳)、娘は33 歳(その息子は10 歳)。
 ポタペンコ夫妻は、2000 年にコヴァリン村に移住した。父親が死ぬ間際、もうろうとして「ほら、クルマが来た。パールシフに帰ろう」とうつろな状況で言っていた。
 妻は2年前に良性腫瘍の手術。血管にも問題がある。夫は足に痛みがある。
 妻によれば、他の人も骨が痛いと訴える人が多い。

村の墓地を訪問
 移住者が短命であるのが墓石の年月日をみてわかる。

午後5時頃 ツアー参加者はバスでキエフに戻る。小若、槌田、館野、林の4人はコヴァリン村にとどまり、宿泊場所で打ち合わせ。
 
<9月30 日(日)>
コヴァリン村近郊の森でキノコ狩り
第1の森(0.05 〜 0.09μSv/h、線量の違いは機械による)
 朝9時ごろ、タチアナ・アンドロシェンコ(汚染地のノーヴィミールからコヴァリン村へ移住)と、その三女14 歳のオーリャ、前日に訪問した移住者のガリーナとともに近くの森にキノコ狩りに行く。松林が多く緩やかな起伏が続く。谷になっている道路は白砂で、これは近くを流れる大河ドニエプル川の川砂。
 検査に出すためには1s(1ℓ)必要なので、みんなであちこちに行き、森の中ではぐれ、落ち合うまでに時間がかかった。

第2の森(0.03 〜 0.08μSv/h)
 車に乗って第2の森へ。実際の距離は近いが道路を迂回するため15分程度かかった。
 ここではやや種類が違うキノコを採った。

ナタリアからの礼状
夕方、通訳者のヴァレンチーナ、コーディネーターのタチアナと、4人組みが打ち合わせ。
 このとき、体調が良くなったナタリアの日記にお礼が書かれているのが見つかった。

 感謝の言葉
みな様に、私は心から感謝しています。
知らない人に同情してくれて本当にありがとう。
休めて治療を受ける機会をいただけたことは、
私には、たいへん楽しいうれしいことでした。
最初は少し緊張しましたが、
70 日後、私は元気で健康になりました。
みな様の活動を尊敬し、感謝しています。
みな様、ありがとうございます。

< 10 月1日(月)> 
ペレヤスラフ・フメリニツキー衛生研究所訪問
 朝9時、衛生研究所着。前日採集したキノコ、地元でとれた食材(豚肉、鶏肉、魚、ジャム2種、牛乳、チーズ(牛乳を凝固させたもの)、サワークリーム、ジャガイモ、小麦、トマトを検査依頼。

同研究所主任医師 イワン・ペトローヴィッチ・ブリーリ氏 
 「事故直後は非常に高い放射能が検出されたが、その後は低くなっている」
 検査を直接担当したのは、ミロスラフ・ミハイロビッチ・デミキーフ医師。

コヴァリン村学校健康調査
 汚染地のノーヴィミール村からの移住者どうしの夫婦の子・孫が11 人、もともとのコヴァリン村住民どうしの夫婦の子・孫が13 人。
 両者の違いも知るため、左右に分けて座り、これまでと同様の質問をして、生徒たちに挙手してもらった。数字は人数。カッコ内は移住者の子ども。
 足首3(2) ひざ7(5) ひざ下0(0) 太もも2(2) 頭痛3(2) のど3(4) 一度も手を上げなかった子は6人。

 移住者と元からの住民の子・孫の間には、まったく差がなかった。

子どもの症状

母親たちの話(子どもたちは退席) 子ども自身が自分の病気や健康を知らないこともあるので、退席してもらったあと、保護者たちに集まってもらい話を聞いた。

祖母A  孫は10 歳。見た目にも手足がやや不自由であるとわかる。7歳のころ発症し、脚が痛い。診察の結果、鉄分が異常に多いことがわかったが、医者はどうすればいいか言わない。また、コヴァリン村は汚染地でないから、と暗に放射能の影響ではないと言われた。

母B  10 歳の娘は生まれつき膀胱炎で膀胱の形が少し違う。医者は治療できないと言い、脂肪分や塩分の多い食事を控えるように注意している。

母C  10 歳娘は風邪をひきやすい。1年前にアセトンが体内に多い時期があり、1ヵ月学校を休んだ。炭酸ミネラルウォーターを飲みチーズを食べて4日後に腹痛と嘔吐、口からアセトンの匂いがした。

母D  20 歳の息子は、頭痛がひどく、就学開始から虚弱であり、医者は精神的なものと指摘。歩行中に気を失ったこともある。

母E  13 歳息子と12 歳娘。第3級汚染地イヴァンコフの元住民で、食品に含まれる放射性物質が基準に比べ、キノコ13 倍、肉10 倍、野菜7倍だった。
 2000 年にコヴァリン村に移住。娘は7歳から肌がひどく乾燥し大変で、医者の勧めで7月に黒海周辺で14 日間保養したら改善。
 2人とも足が痛く、息子は泣き出すほど。フランスで1ヵ月保養する機会に恵まれ改善した。

母F  13 歳の娘は先天的に肺が悪く、9歳から喉の痛みもともなうようになった。左肺の肺葉・嚢胞性発育不全。少し風邪をひいただけで40 度近く発熱することもある。

祖母G  孫娘は風邪をひきやすく、半日鼻血が止まらないこともあった。以前は心臓が弱かったが、幸い今は症状が改善されている。甲状腺異常でもある。

< 10 月2日(火)>
ウクライナ医学科学アカデミー放射線研究センター
アナトーリー・チュマク放射線医療研究所所長
 同研究所発行の放射能による健康の影響をまとめた本(2010 年発行)を贈呈してくれた。
 山下俊一 大学院教授が序文を寄せていた。
 小若団長が、ウクライナ語を付けたデータを見せて、@3ヵ所の学校で生徒を調査して健康被害が大きいことがわかった。A地元の食糧を検査して高い値は出なかった。B低いレベルの放射能でも、内部被曝で子どもに健康異常を起こすが多いことがわかった、と伝えた。
 チュマク教授は、 「ライフスタイルの結果です。子どもの健康状態が悪いのは、決まった時間にきちんとした食事を採っていないからです。若い親たちは食べ物に関する関心と知識が少ないから、甘いものを多くとって、タンパク質が少ない。海産物の摂取も少なく、ヨウ素も足りていない。汚染地では、チェルノブイリ事故以前からヨウ素が欠乏していたので、各地で親と先生に健康と食事のことをきちんと話すべきです。
 現に、タンパク質とヨウ素を子どもたちに飲ませる調査をしたところ、顔に赤みがますなど、健康上の改善が見られました」と答えた。
 日本から援助を受けているこの研究所では、「今は、放射能汚染による健康影響はない」というのが基本見解のようである。
 体調異常の子を多く抱える学校の先生や親は、一様に、原発事故後に子どもの体調が急激に悪くなったと話したのとは、まったく違う見解だ。
 2011 年にウクライナ政府がまとめた報告書とも違うようなので、どのように整合性をとっているのか、そこを読み解く必要が出てきた。

「家族の家」(ザポルーカ運営)に立ち寄り
 最後に、予約なしで、ザポルーカが運営する「家族の家」を再訪問した。
 先日いた親子は、一組を残して入れ替わっており、やはり、頭に毛のない子どもばかりがいて、部屋は満杯だった。
 残っていた土産をすべて置き、ビーズセットを子どもに渡すと、小さな子がビーズを糸に通し始めた。
 お母さん全員と職員に淡水パールのネックレスを配ると、お礼の後で、「先日、いただいた日本製の爪切りは素晴らしいので、すべての部屋に置いていますよ」と言われた。

< 10 月3日(水)>
 キエフのボリスピリ国際空港からモスクワ経由で帰国の途へ。

< 10 月4日(木)>
 午前11 時、成田空港に到着。


ツアー参加者からひとこと

移住した人々の話を直に聞けた
                 黒田節子
(子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク)
 「ザポルーカ」や「家族の家」で、毛髪のないたくさんの子どもたちと会うことができました。その中には、現在21 才の母親から生まれた女の子も。つまり、チェルノブイリ事故から数年後に生まれた人の、その子からも病気が出ているのです。一見、元気だが様々な病気を抱え、これから手術という子もいました。遺伝の被害もありそうです。
 フクシマの当事者として、また「ふくしま集団疎開裁判」関係者として、チェルノブイリ原発近郊の村から移住した人々の話を直に聞けたことも大きなトピックの一つです。
 「それなりの環境へ、ソ連はともかくも移住をさせた。その逆をやっている日本という国は、犯罪を犯し続けている」という小若団長の意見は、事故の時、2号炉に行って緊急処理したアンドレーエフさんが日本の原発従業員が逃げようとしたことに怒っていたのと通じるところがあります。
 29 日のコヴァリン村、最高に気持ちの良い光と風の中、ランチタイムに手造りのウオッカで誕生日の祝いを受けたことも忘れません。
 皆さん、スパシーバ! See You!未来を見ることの辛さがあった

    土山雄司(生活クラブふくしま専務理事)
 ウクライナで現在も続いている被曝による発症や、遺伝子問題と向き合うことは、福島に暮らし、ここに住み続けようとする者にとって、未来を見ることの辛さがあった。
 しかし、将来の予見と、現在の私たちがどうすべきかを考えた場合は、この事象から目をそむけることはできない。現在のウクライナから、26 年後の福島を見つめなければならない。
 ウクライナは、健常の子が1割に満たないとの話を聞いた。子どもたちには確かに頭痛・喉の痛みや足の痛みがあり、大人には甲状腺・心臓病・足の痛み・ガン等の症例が多くあった。

 26 年後の福島を鑑みて、国会で成立した「原発事故子ども被災者支援法」を活用して親子で体内のセシウム137 が半減期となるまでの期間、福島から離れて生活する事を検討すべきではないか。
 私たちは、過去に盲目になることなく、未来の為に現実へ目を向けなければならない。
 そのためには、市民としての自己決定権を常に自らが保てるようにして行く必要がある。為政者に自己決定権を委ねたときに、被害を被るのは市民であり、一番影響を受けるのは子ども等の社会的弱者であるからだ。

忘れられない光景
             青山晴江(東京都)
 忘れられない光景がたくさんあります。
 小児病棟の子どもたちの目。闘病する子どもと家族を支援する「家族の家」の女性の情熱。ウクライナの平原と森の美しさ。
 チェルノブイリ2号炉運転室までの果てしなく長い廊下。4号炉石棺と付近の高い線量。原発排水路の巨大なまず。事故当時を語る運転員が一瞬目をつぶり沈黙する、語ることのできない闇の深さ。プリピャチの錆びついた観覧車。保育園の床に散らばるおもちゃ。伸び放題の木々。荒廃した森と朽ちた家屋。
 これは、現実?過去? それとも原発のあるすべての地の将来?
 訪れた村の小学校の温かな人々と素朴な村の暮らし。子どもたちの笑顔を見るにつけても、日本で今日も被曝している福島の子どもたちを思わずにいられない。
 強制移住村で「チェルノブイリ人」と呼ばれながらも、生きる希望を失わずに暮らしてきた人々から、あきらめなくてもいいんだと希望をもらった。 


日本の閉鎖性を再認識させた1週間
                 浅野健一
   (ジャーナリスト、同志社大学大学院教授)
 チェルノブイリにいつか行ってみたいと思っていた。参加してよかった。
 チェルノブイリ事故は旧ソ連の末期に起きたが、共産党独裁体制下のソ連の方が松下政経塾政権の日本より「知る権利」を大事にしていた。
 事故8日後に外国プレスを現場に入れ、86 年だけで多数のドキュメンタリーが制作された。日本では外国人記者どころか、国内の記者クラブメディア34 人に現場を見せたのは事故から8ヵ月後だった。
 また、日本政府が事故に対応したウクライナの技術者や医師の来日希望を事実上、無視したことも分かった。チェルノブイリ連盟は、福島「事件」翌日、キエフにある日本大使館に、福島で手伝いをしたいと申し入れたという。また、ロガノフスキー博士が勤務するウクライナ国立放射線医学研究センターの所長も、放射能が住民の健康に与える影響について情報提供するなどの支援をしたいと申し出たが、いい反応はないと聞いた。
 キエフの日本大使館員は外務省本省にこれらのオファーを伝えたのだろうか。何とも惜しい。チェルノブイリの専門家に今からでも遅くないので、福島へ来てほしいと願う。

日本と対比させられた旅
           桜田節子(FFC 普及会)
 エキサイティングな旅をありがとうございました。
 何かしら、行く前より丸味のある“心” になったように感じています。
 それは、ウクライナの雄大な大自然の中で、すべてを受容して現実と取り組み、決してあきらめてはいない民族性に触れたからでしょうか。
 「私たちはウクライナに誇りを持っています」と言う子どもたちの笑顔や素直さは、出会った大人たちの生き方を通じて、本音のように思います。
 日本のようにあふれる「物」の中で、価値のない競争に明け暮れ、心を病んでいる貧しさと対比させられる旅でもありました。


娘さんの体調が良くなったこと
             佐藤周子(岩手県)
 事務局の周到なねらいと計画により、放射能について深い知識と実情を知ることができました。
 体調の悪い娘さんを、放射能で汚染されていない地域で保養させた結果には驚きました。環境と食事の改善で良くなることの実証は、今後の福島にとても参考になると思いました。


ウクライナの良き日々
             佐藤朋子(岩手県)
 学校訪問では子どもたちの友情、礼儀正しい教育、お金ではなく、心の育ちの大切さを思いました。子どもはとても素直でキュートです。街でもどこでも。
 今回、出会えた16 人と通訳さん、韓国の3人、皆様方に感謝感謝でいっぱいです。私は心の財産をいただきました。チェルノブイリ、ウクライナの良き日々をと思い出します。


ダイヤの指輪
 照井モト(元校長・釜石安心石けんを広める会)
 ウクライナ・チェルノブイリ連盟と交流するディナーの席で、女性たちは事故当時の様子や、夫や子どものことを話しました。
 連盟事務局のカテリーナさんの立派な挨拶に感動した私が、事務局の2人の女性に日本のスカーフをプレゼント。すると、すぐに開いてとても気に入り、肩にかけて食事をしていました。
 帰り際に、私と一緒にカメラに納まろうと言うので、2人の間に並ぶと、私の左手の指に、ご自分の指輪をそっとはめてくださった。私は中指に指輪をしているので、薬指にちょうどよく入ったのには驚きました。
 明るいところでよく見ると、それはダイヤの指輪でした。この指輪は、チェルノブイリ旅行の思い出深い貴重な宝物になりました。

意識の高い参加者
     柴田圭子(前千葉県白井市議会議員)
 旅行社のお仕着せのツアーではとても実現できない貴重で得難い経験をさせていただいたのは、これまで2回の訪問で3人の調査団が培った人脈があったればこそ。しかし、参加した人たちも、意識の高い人ばかり。福島で暮らし高線量の中にある子どもたちを何とかしようと活動する人、ジャーナリスト、福島で活動する生協関係の人、低線量被ばく地域である関東において、国の「大丈夫アピール」で実態が揉み消されないよう活動する人等々…皆の共通した思いは、「真実は現場にある」、その現場を見に行き、自らの肌で感じ学びたいということで、調査団長が一般から公募した狙いも多分そこにあるのではないかと勝手に思っている。
 映像や文献でしか知ることのできなかったチェルノブイリは、ぐっと身近な存在となった。


現場を踏む大事さを再確認
 徳丸威一郎(毎日新聞「サンデー毎日」編集部)
 福島第1原発と同じレベル7級の事故を起こしたチェルノブイリ原発とその周辺地域を初めて訪ねる機会を得、記者が現場を踏むことの大事さを再確認しました。
 チェルノブイリ原発近隣の村で行った放射能影響調査では、ウクライナにおけるヒト遺伝子の損傷が子、孫世代の健康に重大な被害を及ぼした証拠を把握することがメインテーマであったものと思料いたします。
 小学生に対して「挙手」による自己申告を求める簡単な調査方法では立証には不十分でしたが、今後これを丁寧に調べることで重大な結果が判明する可能性を感じ、ひそかに戦慄しました。
 「福島の復興なくして日本の復興なし」と民主党政権は言いますが、そうだとすれば、福島の子どもたちの健康管理に力を注ぐことは、いかなる政策課題よりも優先順位が高いはずです。だが、果たして現状はどうか。小若調査団の意義は大きく、今後も取材を続けます。


日本も風化していくのか
             林 量一(歯科医師)
 今回のツアーの収穫は、なんといっても現地の人の話を直接聞けたことでしょう。
 原発自体の視察は現地の旅行会社が行っているようですし、実際おんぼろバスでしたが、別のグループの姿をみかけました。
 小若さんのあらかじめの周到な仕込みとパールテクニックのおかげで、いろいろな立場の人の熟した話を聞けたことが有意義であったと思います。
 26 年たって事故が国レベルでは風化しつつあるウクライナのように、日本も風化していく可能性は多いにあることだと思います。残念ですし、そうなってはいけないと思いますが、歴史を振り返り、彼の地の現状を見るとそう思わざるを得ません。
 真摯に原発反対活動をされている皆様に、水をかけるような言い回しになってしまっていることと恐れていますが、貞観地震を忘却した民ですから、あえてそのように危惧していたいと思います。


ガンの子どもたちの目の輝きと笑顔
             丸田輝夫(埼玉県)
 「ザポルーカ」の「家族の家」でのこと。昼食のあと外に出ると、広場にイスが並べられていました。
 日本から来た私たちを歓迎するために何か催しがあるのかと思い、座っていると、ピンクのドレス着た女性が現れ、子どもたちを相手にいろいろな遊びを始めました。
 風船を使ったり、縄跳びのロープを使ったり、テントを広げて真ん中に子どもを入れたりと。子どもたちはすぐに笑い声をあげ、はしゃぐようになりました。目が輝いています。
 このとき、ようやく女性のパフォーマンスの意味を理解できた私は、テントの端をつかんで遊びの輪に入っていきました。
 「ザポルーカ」は、この子どもたちの目の輝きと笑顔を治療に生かそうとしていて、それを私たちに見せたのです。
 半数の子どもたちが亡くなっていく現実。そこで月に一度、行われるボランティアの本気のパフォーマンス。それを支える「ザポルーカ」。
 その素晴らしさに感動しました。

チェルノブイリ断想  ―廃墟の保育園で― 詩人 青山 晴江

草深い入り口の陽だまりに
棄てられていた裸ん坊の人形
金色の髪で片足がもがれたまま
26 年前 この人形を抱いていたのは
幼いカーチャかしら ユーリャかしら
もう 子どもたちはいない
はしゃいで駆け回る声は途絶えたまま
チェルノブイリ原発の黒い雲に追われて
離れ離れに逃げたまま

どれほどの辛抱強さで
 子どもたちは日々を耐えたろう
 ふいに変えられた暮らしのなかで
 あるいはチェルノブイリ人と疎まれ
 あるいはひとり病院の硬いベッドに身を横たえて
 どれほど夜明けを待ち望んだろう

薄暗がりの荒れた保育室には
小さなベッドが核の埃にまみれたまま
26 年前 このなかですやすやお昼寝していたのは
幼いナターリャかしら イヴァンかしら
もう 子どもたちはいない

草深い入り口の陽だまりで
人形は青い目を見開いて視ている
さわさわと風が白樺を揺らし
さびしい音をたてた
子どもたちの
か細い声のように
またさらに 地上に増えてしまった
この底知れぬ哀しみを嘆く
子どもたちの声のように

調査のまとめと展望

 食品が5〜10 ベクレル/kg 程度汚染されているだけで、足が痛い子が7割、頭痛が2割、のど痛が3割もいることが、今回の調査でわかりました。
 食品汚染がもっとひどい地域では、頭痛とのど痛の割合がさらに高くなります。
 その理由は、細胞分裂しない細胞が、食品汚染による内部被曝で傷ついているからです。
 遺伝的な影響があるかどうかも、親が汚染地で生まれた11 人と、非汚染地で生まれた13人に子どもを分けて調べましたが、有意差はありませんでした。
 人の遺伝影響を調べるには、最低でも10 万人の規模が必要なことを認識させられたので、自分たちで調査するのは中止します。
 これからは、信じられないほど多い「痛み」などの健康障害にしぼって取り組みます。
 ウクライナでは、移住できる権利を持つ第3級汚染地帯でも、食品に気をつけている人には出会いませんでした。
 基準に対する信頼度が日本より高く、食品基準を超えていなければ、本当に健康に影響はないと考えているようなのです。
 ところが、基準を超える食品はもうないので、食品衛生検査所では、放射能の検査部門が閉鎖されようとしていました。
 ウクライナでは、多数の健康被害が出ているという報告書を国が出しました。
 ところが、日本が援助する放射線の研究機関と専門家が、基準以下の放射能による健康影響はないと主張し、ウクライナ国内で説が分かれています。
 影響がないという専門家に対抗するには、健康障害のある子や親に放射能を含まない食事を食べさせて、治して見せることです。
 とりあえず、1人を治しましたが、専門家からは、「偶然」と批判されるでしょう。
 そこで次は、多数の人が治るような取り組みを、食品で行いたいと考えています。
 汚染されているキノコなどの備蓄食料を捨ててもらい、その代りに、汚染されていない食糧を60 日間提供する調査を、学校か村ごとで行いたいのです。
 キノコだけ捨てればいいコヴァリン村なら、学校ごとで150 万円ぐらいの予算でできます。
 ベリー類、ライ麦、牛乳、チーズ、ジャガイモまで汚染が確認された第3級汚染地域なら、数百万円が必要になります。
 それでも、多数の子どもと大人を健康にすれば、ウクライナ政府は放射能の基準を引き下げて、国民の健康を守ろうとするでしょう。
 これが成功すれば、福島にも、日本にも大きな朗報になります。
 そこで、また、みな様にカンパをお願いする次第です。
 みな様が加入している団体にも呼びかけてカンパを集め、次の春の調査に同行して、直接、学校や村、ザポルーカに手渡すようにしていただいても結構です。どのような形でも結構ですので、ご協力をお願い申し上げます。
 なお、基金にいただいたカンパは、村や学校やザポルーカに半額を渡し、取材に半額を使わせていただきます。
調査のまとめと展望
食品と暮らしの安全基金代表 小若順一

ホームページ http://tabemono.info/  

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コメント
 
01. taked4700 2012年11月02日 00:04:33 : 9XFNe/BiX575U : lLo25cR80A
記事投稿者です。

http://tabemono.info/report/chernobyl.html
にある報告書です。

上のリンク先のほうが、チェルノブイリ原発の写真や図表などがあってずっと読みやすいです。


02. 2012年11月02日 07:22:01 : cvRaAknd7E
>つまり、マニュアルどおりにやって爆発を起こして死ぬか、マニュアルを破って自分の判断で処理し、マニュアル違反で刑務所に行くか、です。
 爆発すれば、家族も死ぬでしょうから、刑務所に入る方を選択し、規則を破って、警報システムを止め、それから自分で考えていたように対処し、停止させることに成功しました。

白人男性らしい考え方だ。
今、日本にはこれが必要だ。


03. 宮島鹿おやじ 2012年11月02日 08:01:13 : NqHa.4ewCUAIk : E9tPpsOr22
Taked4700様
おはようございます。
ご無沙汰してます。宮島です。
大変貴重な投稿をありがとうございます。
現地での様子がよくわかります。

04. taked4700 2012年11月02日 10:08:32 : 9XFNe/BiX575U : lW4FlUMVoA
>>03

宮島鹿おやじ様
おはようございます。

上の報告書は以前「日本子孫基金」のという団体のもので、すでに2回同様の報告書を出されています。まだ実をいうと自分も読んではいません。

チェルノブイリと日本では食糧事情がかなり違うので一概に比べられないのでしょうが、日本の場合は依然としてかなりの量の漏れ出しが続いています。また、サーベイメーターなどが細工されている可能性が強く、農産物の線量がどうもはっきりしません。その意味で、とても危惧せざるを得ない状況ですね。


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