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世界は学歴・成績至上主義〜「東大」なんて学歴とは言えない  大学や専門家の「権威」は失墜したほうが良い
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投稿者 MR 日時 2012 年 5 月 22 日 00:37:46: cT5Wxjlo3Xe3.
 


日経ビジネス オンライントップ>アジア・国際>田村耕太郎の「経世済民見聞録」
世界は学歴・成績至上主義〜「東大」なんて学歴とは言えない

日本企業がグローバルに人材を求めれば、あなたの仕事はなくなるかも?!

2012年5月22日 火曜日
田村 耕太郎

 財界でも政府でも「グローバル人材」という言葉が大流行りだ。これはかって流行った「人間力」と同様で、適当な英語の訳が見当たらない。筆者も日本人だから、この言葉の意図するところはだいたい分かっているつもりだ。だが、結論から言うと、「グローバル人材」になるのは難しい。「世界は厳しい」と思う。

 今日のコラムは厳しく聞こえるかもしれないが、現実が厳しいのだから、ご容赦願いたい。

 2011年に日本政府が発表した「グローバル人材育成推進会議の中間まとめ」を通読した。日本の海外留学者数は、2004年には8万2945人だったものが、2009年には6万6838人に減少。米国への留学者数は2000年の4万6497人から2009年の2万4824人へとほぼ半減した。高校生の海外留学も1992年の4487人をピークに、2008年には3190名に減少している。

 留学生の減少は、学生の「内向き志向」が原因とよく言われる。だが、必ずしもそうではない。同調査はその原因をよく浮かび上がらせている、留学を断念した理由を学生に聞くと「帰国後の留年を懸念している」が67.8%。「経済的問題」が48.3%だった(複数回答)。大学の制度から奨学金まで、様々なバックアップ体制が不備なのだ。文科省は留学予算の98%を外国人の受け入れに消化している。日本人の送り出しに割いているのは2億円強にすぎない。

 留学生の減少を受けて、海外で働きたいと思う学生も減少している。2001年には「将来海外で働きたい」という学生は71%で、「働きたいと思わない」が29%だった。それが2010年には、「海外で働きたい」が51%に減少して、「働きたいと思わない」が49%にまで上昇している。

 2010年のTOEFLにおける日本人受験者の平均スコア、は163カ国中135位。アジア30カ国中、27位だった。スイスのビジネススクールIMDが発表した2011年の世界競争力ランキングで、「外国語のスキル」の部門を見ると、日本は59カ国中、58位とブービー。

 減る留学生と低迷する語学力。これが日本の現状だ。

 一方、世界の人材市場で起こっていることを紹介しよう。元グーグル日本法人社長の村上憲郎さんから聞いた話だ。まずは、採用される側に要求されること。

学歴そして成績至上主義が現実

1・世界はあきれるほどの学歴主義
 世界はあからさまな学歴主義だ。学歴と言っても東大とか早稲田とかではない。そういう大学名はよほど日本通の外国人でないと知らないだろう。世界に通用するブランド大学だけが「学歴」である。具体的には、ハーバード、エールなどのアイビーリーグにMIT、スタンフォード、カルテック、バークレー。米国以外ならオックスフォード、ケンブリッジくらいが「学歴」として認められる。

2・成績が良くて初めて学歴
 大学の成績は非常に重要だ。日本と違って、世界は卒業証書をだけを見ることはない。GPAと言われる成績表の平均点が3.5以上ないと相手にされない。目を引こうと思ったら、オールAを取り、最優等表彰を受けておくことが必要だろう。

3・最低でも修士号
 上記二つでも差別化に十分ではない。ブランド大学を成績優秀で卒業し、その後それらの大学院で修士号を得る必要がある。修士号と言っても、プロフェッショナルスクール(ビジネススクール、ロースクール、エンジニアリングスクール、建築・デザインスクールなど)でないと採用側に響かない

4・リーダーシップの証明
 仕切り屋が多いグローバルな舞台では、求められるリーダーシップ像はかなり具体的だ。「企業内で実際にチームを率いて実績を出した」とか「自ら資金や人材集めて自分のアイデアで起業した」とかである。他に、アメリカで最近人気なのは実戦経験のある軍人出身者だ。アフガニスタンやイラクで部下や仲間とともに作戦を実行し、銃弾をかいくぐってきた経験は高く評価される。

ゴールを明快に設定し評価をフェアにせよ

 今度は採用する側に要求されることを見ていこう

I・年齢、性別、人種、国籍などは一切問わない
 これらの差別は原則として禁止されている。日本のようなあからさまな年齢差別はないし、面接や履歴書でも尋ねてはいけない。というより、グローバルに競争できる企業は、年齢や性別や人種や国籍や宗教よりも、「あなたは何ができるのか?」により強い関心があるのだ。もっと言えば、関心があるのはそこだけだ。

II・明快な目的設定とフェアな評価
 これがなければ、採用する側は人材に見向きもされない。日本企業が良い人材を取れないのは、英語や報酬の問題よりも、こちらができていないことが理由として大きい。「よろしく頑張ってくれ」とか「徐々に慣れていってくれればいいよ」では、良い人材は「私に何を求めているの? バカにしてるのか? 期待していないのか?」と感じるだけだ。人材は寄りつかない。企業は、「いつまでに何をどうなすべきか?」そして「それをどう評価するか」を明示する必要がある。

 グローバル企業において、年齢や性別や国籍による差別はない。そんなもので差別していたら人材獲得競争に敗れる。しかし、学歴による差別は明らかに存在する。グローバル企業は、積み上げてきたグローバル化の実績の中で、国籍や年齢ではなく、学歴や成績に、仕事上の成果との相関を見出したのだろう。

登っている転職か?下り坂の転職か?

 次に職歴について見よう。企業は転職経験を細かく評価する。

1・説得力ある実績
グローバルビジネスの世界で転職は珍しくないが、やたら転職ばかり繰り返している印象を与えるのはNG。目に見える実績を残しながら、企業内や企業間の階段を上ってきた印象を与えることが大事だ。

2・積極的なチャレンジの結果としての、失敗は高く評価される
 転職歴に対する評価は厳しい。採用側は落ち目になっている転職歴は即座に見抜く。転職の内容から、「組織不適合な人格どうか?」も透けて見える。

 会社やタイトルが変わるのは、それが上り坂の印象を与える場合のみ、企業は評価する。ポジションが上がり、部下が増え、使える予算も増す。企業が変わっても見るべきポイントは同じだ。こんな実績を高く評価する。

 企業はもちろん失敗より成功を評価する。だが、内容によっては失敗も評価する。価値ある目標を実現するために、計算してリスクを取りながら、精一杯努力した場合の失敗は高評価を受ける場合がある。リスクを計算せずに起こした失敗は問題外だ。何でも失敗が評価されるわけでない。

グローバルな採用は他人事ではない

 最後に、グローバルな人材採用は「遠い世界の話」ではないということを強調したい。グローバルに人材を採用するとは、日本人は世界のあらゆる人材と競争せねばならないということだ。そしてグローバルな人材採用は日本の外でだけ起こっているのではない。国内でも起こっている。

 楽天には、世界中の一流校から人材が集まってきている。北京大や国立シンガポール大、インド工科大学といったアジアの一流校はもとより、アメリカの名門エール大学からも集まる。同社の幹部はこう言いながら胸を張る。「英語を公用語化したことで、日本人の有為な人材に敬遠されている可能性はある。その一方で、世界の一流の人材が振り向いてくれるようになった」。

 日本企業は、世界のエリートを採用すること、そして彼らを登用することに苦戦している。だが、グローバル採用の流れは加速するだろう。日本企業が明快な目標設定とフェアな評価を導入するようになれば、あなたは、多様な国籍、年齢、政治信条、信仰の人間と勝負していかなければならない。

世界のエリートは厳しく育っている

 グローバル人材について考えるなら、話は簡単だ。世界の真のエリートがどんな教育を受けているか知ればいい。これを知ると世界は甘くないことが分かる。

 欧米のエリートは日本のエリートに比べて、中高時代に勉強していない印象が一般的にある。それは大きな誤解だ。真のエリートは中高時代から日本人が驚くような教育を受けている。

 それはボーディングスクールから始まる。片田舎の巨大なキャンパスで、世界から集まった同世代と全寮制の生活をしながら、哲学、歴史、数学、宗教、科学などを徹底的に叩き込まれる。先生が寮に住み込んでいるので、勉強はいつでも教えてもらえる。

 勉強に加えて、スポーツ、チャリティー、音楽芸術にも取り組む。これらの活動を忙しく行いながら、時間管理術を身に着け、自分のスタイルや長所を見つけていくのだ。強烈な詰め込み教育の中で初めて、真の個性や創造力やリーダーシップが獲得できる。グローバル企業や世界各国の政府の幹部はこういう教育を身に着けた連中ばかりである。

 多様な人種や信仰に囲まれながらも、歴史や哲学、科学や宗教の知識を正確に幅広く披露できれば、同僚や部下に対して好ましい印象を与えることができる。「この人物は知識の蓄積がある深い人間で、リーダーとして正しい判断ができる」と。

自らを追い込み知識を詰め込め!

 これからの時代、大量の知識をストックしておくことがとても大事だ。それなのに、今の日本の学生の多くはそれをすることなく過ごしている。教育制度の犠牲者になっているのだ。人口減少で大学は全入時代を迎えた。「自らを追い込んで、受験戦争を勝ち抜く」経験をしたものが極端に少なくなっている。

 知識が詰め込まれていないところには、創造力も個性もない。ストックのない人間にアウトプットはできない。そして、自らを追い込んだ経験を持つ人間は危機や変化に強い。

 芸術や音楽やスポーツも重要だ。ゴルフやテニス、スカッシュや乗馬のように社交の場で使えるスキルはビジネスでも生きる。審美眼も養える。パーティーで、社交ダンスや、ピアノやバイオリンの演奏を即興で披露すれば、ネットワーキングにつなげられる。

 今の国内の教育インフラでは、世界で戦える人材を育成することはできない。日本の受験戦争をいかに勝ち抜いても、残念ながら世界では評価を受けない――村上さんのこのような具体的で説得力ある話を間近でお聞きして、強くそう思った。常に目線を高くして、知識やスキルを、自分を追い込んで詰め込み、世界で戦う準備に励まなくてはならない。


田村耕太郎の「経世済民見聞録」

政治でも経済でも、世界における日本の存在感が薄れている。日本は、成長戦略を実現するために、どのような進路を選択すればいいのか。前参議院議員で、現在は米イェール大学マクミラン国際関係研究センターシニアフェローを務める筆者が、海外の財界人や政界人との意見交換を通じて、日本のあり方を考えていく。

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田村 耕太郎(たむら・こうたろう)

前参議院議員、元内閣府大臣政務官(経済財政政策担当、金融担当)、元参議院国土交通委員長。早稲田大学卒業、慶応大学大学院修了(MBA取得)、米デューク大学ロースクール修了(証券規制・会社法専攻)(法学修士号取得)、エール大学大学院修了(国際経済学科及び開発経済学科)経済学修士号、米オックスフォード大学上級管理者養成プログラム修了。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20120518/232259/?ST=top


IT・技術>伊東 乾の「常識の源流探訪」
大学や専門家の「権威」は失墜したほうが良い

あれから1年、正しく怖がる放射能【8】

2012年5月22日 火曜日
伊東 乾

 よく、大学の中で・・・あるいは外の一般の会合でも・・・話題になるのですが、3.11以降、専門家の「権威」が失墜した、という話を耳にします。

 とりわけ「理工系」「医学系」の専門家、もっとハッキリ言えば原発や放射能関連の話が圧倒的に多いわけですが、これに関わる「大学教授」あるいは明確に「東大」の権威が失墜した、とか何とか、そういう話がしばしば出てきます。

 そこから、どうしたら「権威」を回復できるか、という話が出てきたりするのですが、今回は、一応現役の東京大学教員として、そんな「権威」など回復しなくてよろしい、犬にでも食べさせてしまいましょう、というお話をしようと思います。

対立する複数見解を冷静に検討する大切さ

 いま、文学部哲学科関連で開かれている「死生学」講座のオムニバス講義「応用倫理教育プログラム」のために準備をしています。毎月一回開かれるもので先月は初回、医学部放射線科の中川恵一さんと文学部宗教学科の島薗進さんが厳しい議論を交わされましたが、今月は5月24日の夕刻に東京大学本郷キャンパスで開かれる第二回で、僕が当番に当たってお話をすることになっています。

 この連続講座は哲学科の一ノ瀬正樹さんと宗教学科の島薗進さんがコーディネーターとして進めておられ、上記の中川さん、僕など数名で昨年の7月8日、福島第一原発事故を巡る緊急シンポジウムを文学部哲学科で開きました。

 この日の内容は、おのおの大変に踏み込んだもので、かつ重要だと思ったのは、意見がまっこうから対立する複数の東京大学教員どうしが、準備を整え礼を尽くしながら、正面から「ガチンコ勝負」的に学術的な議論を交わしたことでした。さらにその方向で強化して8カ月ほど時間をかけ『低線量被曝のモラル』(河出書房新社)という書籍に編んで出版しました。

 逆に、ダメだなぁ、意味がないなぁと思うのは、一般のメディア上、マスコミを通じて、きちんとした大学専門人であれ、そうでない人であれ、まともな議論や批判ではない非難、あるいは罵詈雑言、流言飛語などをすっ飛ばしてるのを見ます。あれは、ハッキリ言いますが、やめたほうがいい。また、原発事故を始め、科学や技術的な内容を正確に扱う必要のあるところで無用の感情を持ち込む人(多くの場合不安をあおる)や、基本的な人間としての礼儀をわきまえないようなものは、僕は一切相手にしないことにさせてもらっています。誰も時間のないところで毎日生活をしている訳で、案件は選ばなければいくら寿命があっても足りません。

 一刻、一秒を争うような緊急の事態のときほど、落ち着かねばなりません。「何を悠長なことを言ってるんだ〜!」なんて、あまりうるさいのが居たら、本当に大変なときは少し黙らせておく必要があるかもしれません。そんな映画が昔ありました。ワーワー言うだけで役に立たないコミカルなオッサンを、猿ぐつわかませて横に転がして、その人も含めみんなが救出される米国製、ハリウッド映画だったような気がしますが、洒落でなくソレに近いものも見る気がします。

 大切なのは、意見が一致するような状況でないところで、たがいに対立する見解同士を、おのおの落ち着いて、極めて冷静に比較検討しつつ、何が正しいのか、私たちはどうするべきなのか、を、本当にシリアスに考えることです。

 嵐の海で難破しかけた船長室での冷静な会合を無用に邪魔すれば、全員の乗っている船自体が沈むリスクが高くなってしまう。

権威主義は大学をダメにする

 話がやや「専門家の権威が地に落ちた」的な話からずれたように見えるかもしれません。がそうではないんですね。ここが問題なのです。僕は34歳までただの音楽屋で、大学というのは限られた所しか知りません。「務め」をしたことがあるのは東京大学だけですので、以下は東大のケースでお話したいと思います。

 東京大学の中で、複数の異なる専門の先生が集まり、そこで議論をしているとしましょう。そういう場はいたるところにあります。

 このとき、複数の人が違う見解を述べることがあります。A先生は「甲」だといいB先生は「乙」だという。

 そのとき、この「甲乙」をきちんと見比べ、みんながまともな意見を率直に出し合って議論できるような会議は、建設的・生産的に機能する場合が多い。

 何でそんなことを言うかというと、そうでない会議もあるんですね。C先生がとてもお偉いということになったりして、そのご意見と反駁するような話をD先生でもE先生でも、誰かが口にしたりすると、それ自体が何か良くないことのように見る空気があるような会議。

 こういうものは、まあ、ハッキリ言ってダメな会議です。こういうところに「権威主義」という堕落の目があるのですから。

 僕が育った理学部というところには、こういう権威主義はほとんどありませんでした。例えば南部陽一郎先生のような偉い人が毎週金曜日の夕方に開かれる談話会でお話になります。そのとき計算に疑問があると、院生でも学部学生でも普通に手を挙げて

「先生、そこ、よく判らないのですが・・・」

と指摘します。先生のほうも

「ええと・・・」

とその場で黒板で計算をしなおしたりする。その結果

「・・・あ、そうですね、間違っていました。ご指摘ありがとう」

といったやり取りが普通に交わされます。僕は、ノーベル物理学賞などを受賞した大研究者が、目の前で計算ミスをしたり、それを指摘されて気持ちよく感謝の言葉を述べたりするのを、少なからざる回数目にしてきました。ちゃんとした本物とはそういうもの、だと思っています。権威主義で不正確なものがまかり通るようになったら、大学はおしまいです。というか、実際問題として3流以下の知的レベルと診断するのが適当でしょう。

 ところが、大学というのも広いところで、所変われば何かが変わり、必ずしもそうではないんですね。無用に事を荒立てる気もないので、具体的には記しませんが、長年そこで育った理学部・物理学科とは別の空気の場所では。こういう自由闊達な議論があるとは限らないようです。

 C先生が何か主張し、D先生がソレは違うと指摘すると、不快そうな顔をしたり、周りが何か抑圧的なことを言ったり、はなはだしい場合には怒り出しちゃう人とか、まったくジェントルにアカデミックな話をしているはずだけなのに、そこに感情を持ち込んで思考を混乱させる人というのも、現実に大学の中で目にしたことがあります。

検討する価値のある情報を選ぶこと

 実際、「批判」に弱い人、というのは世の中に存在していて、何か自分の考えと違うことを言われると、その事自体で湯気が出てしまうというケースがあります。いやしくもアカデミシャンであるならば、それは本来は失格だと思うんですね。

 きちんと礼を尽くして、議論に疑問点がある、と指摘を受けたら、そしてそれに回答する必要があると判断されたなら、ちゃんとアカデミックに応えるのが、大学人としての最低限のマナー、ルールであって、これが出来ない人は『幾何学を知らざる者はこの門をくぐるべからず』、円卓に参加できないと思うわけです。

 むろん、そうでなくていいケースもあると思います。例えば十分に推敲したり、下調べなどが不足したまま、不正確な話をしてくる人。こういう人には「もう少し準備してから出直してください」でよいと思うし、きちんとしたマナーをもてない人、これは普通の社会でも回避しますよね。駅前で何か一人で大声を出してる変な人がいたら、第三者に危険を及ぼしそうなら通報など考えたほうがいいし、そうでなければ、また急いでいれば、そっと道をよけて通るのが大人というものでしょう。何にしろ、暇でもないのだから、いちいち取り合う必要はない。

 で、そういう意味で「取り合う価値」のある議論が、社会にどれだけあるか、と考えたいわけです。あるいは、そもそも顧慮する価値のない情報、もっといえば、時間の無駄という以上にマイナスになる雑音というのも、たくさんあると思うのです。

 検討する価値のある情報を選ぶこと。これがとても大切です。むろん、必要な情報に目をつぶったり耳を貸さなかったりするのはいけません。その取捨選択が重要になるわけですが、こうした取捨選択を含め、情報の受け手の側が、何を考え、何に気をつけるべきか、をよくよく真剣に検討する必要があると思うのです。

 このとき、医学の例が参考になると思うわけです。

再び、インフォームド・コンセントから考える

 例えば自分や家族が病気になったとしましょう。ガンの疑いがあります、糖尿病の症状が見られます、などなど。告知という「情報」は、なかなか重いものです。私も子供の頃父を肺ガンで失い、また母は長年糖尿を病み、晩年は脳梗塞とそこからのリハビリテーションなど、いろいろな局面を家族として経験してきました。

 ここで「告知」を受けたとき

「わかりました。私たち素人は何もわかりません。どうか先生、一番いい治療を受けさせてやってください」

という患者の姿勢は、ほめられるものだといえるでしょうか?

 僕はそうは思わないのです。というか、21世紀の日本の医療制度の中では、この姿勢は患者として、あるいは家族として、極めて困った状態であるとされています。なぜなら「インフォームド・コンセント」が成立しないから。例えばこんなやり取りを考えてみてください。

医師「ええ、お父さんの治療についてなのですが」

家族「はい」

医師「治療法には三つの選択肢があります」

家族「はい、お任せします」

医師「第一は手術ですが、これは年齢を考えると危険が伴います」

家族「はい、よく判りませんが、お任せします」

医師」「第二は薬物を使う療法ですが副作用が出ることになります」

家族「はい、難しい事は解りませんので、お任せします」

医師「第三は放射線治療なのですが・・・」

家族「はい、全部お任せします」・・・

 話にならないわけです。ここで、やや解りやすくキャラクター的に書いてみた「家族」の姿勢は、お医者さんへの盲従というわけですが、これが『権威主義』そのもの、に他なりません。

 ここで、最初の「大学の権威」にお話を戻しましょう。

 もし、2011年までの日本社会で、大学とか(あるいは『東京大学』でもいいと思います)あるいは専門家という人たちが、社会全般にとって、いま上で戯画化して書いた「家族」にとっての「医者」のように見えていたら?

 お話にならないわけですよね? ここが重要なポイントだと思うのです。

 まともな大学人であれば、従来だって、いくつものわからないことがあるとき、あるいは決定する上で社会とコンセンサスを取りたいと思うような場合でも

大学「いくつか可能性があるのですが・・・」

社会「難しい事は解りませんので、専門家の先生に全部お任せします・・・」

と遣られているだけだったとしたら・・・?

 これは、大学の側ももちろんですが、むしろ大学をどのように社会が見るか、というレベルで、大問題だと思うのです。

大学ってそうい うものではない。妄信・盲従したり、権威だといって崇め奉ったりする対象であるわけがない。

 そうではなく、今本当に必要なことが何なのか、複数の異なる見解があるなら、それを一切の値引きなしに、冷静に紳士的に議論し合える、知の円卓であるべきだし、そうでなければならない、と僕は思います。で、実際に哲学科のシンポジウムでも、徹頭徹尾そのような立場で努力しましたし『低線量被曝のモラル』を編集する際にも、異なる複数の見解を鳥瞰して、その異同や意義が明確に見えるよう、できる限りの努力をしたわけです。

 大学は『権威』なんて持つべきではない。というより、従来持っていたへんな「権威」があるとしたら、きれいさっぱり洗い流してしまったほうがいい。それは医者が「権威」を持つべきなのではなく、真摯に患者と病気と向き合い、患者さん本人はもとより家族とも、うらおもてなく情報を共有し、きちんと事態と立ち向かって行く「専門家」として、ケジメをもって共に協力してゆくことが、一番基本だし何より大事なことだからです。『お医者さま、治してやってください』ではなく、治すのは患者本人の自己治癒能力であって、医師はその環境を整えることしかできない、というのは、21世紀の近代医療の基本的なコンセンサスと思います。

 大学は「権威」など持つべきなのではありません。というか、これは政府でも裁判所でも同じで『権威主義』などというものはろくなものではない。

 真摯に問題や事態と向き合い、例えば天災や原発問題であれば、被災者など関係のさまざまな人と、うらおもてなく情報を共有し、きちんと事態と立ち向かって行く「専門家」として、ケジメをもって共に協力してゆくことが、一番基本だし何より大事なことだからです。

 『先生、どうにかしてください』ではなく、問題を解決してゆくのは当事者にほかならず、専門家は解決に向かって環境を整えることしかできません。あまりに当たり前のことですが、主体は当事者にあって、専門家は脇役に過ぎません。

 では、もし大学がいま失っているものがあるとしたら、そこでまた、回復を努力しなければならないとしたら、それは何になるのか?

 専門人としての、あるいは社会的な意味での「信頼」こそが問われるのではないか? 僕はそう思うのです。

(つづく)


伊東 乾の「常識の源流探訪」

私たちが常識として受け入れていること。その常識はなぜ生まれたのか、生まれる必然があったのかを、ほとんどの人は考えたことがないに違いない。しかし、そのルーツには意外な真実が隠れていることが多い。著名な音楽家として、また東京大学の准教授として世界中に知己の多い伊東乾氏が、その人脈によって得られた価値ある情報を基に、常識の源流を解き明かす。

⇒ 記事一覧


伊東 乾(いとう・けん)


1965年生まれ。作曲家=指揮者。ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督。東京大学大学院物理学専攻修士課程、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授。東京藝術大学、慶応義塾大学SFC研究所などでも後進の指導に当たる。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社)で物理学科時代の同級生でありオウムのサリン散布実行犯となった豊田亨の入信や死刑求刑にいたる過程を克明に描き、第4回開高健ノンフィクション賞受賞。科学技術政策や教育、倫理の問題にも深い関心を寄せる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)『知識・構造化ミッション』(日経BP)『反骨のコツ』(朝日新聞出版)『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新聞出版)など。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120521/232358/?ST=top  

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コメント
 
01. 2012年5月22日 00:59:01 : EypVuclbbY
昔は東大教授が偉く然も地位は上で中央官僚を愚弄していたんですが……。

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