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マルク本位制EMSはなぜ崩壊したか
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投稿者 墨染 日時 2012 年 6 月 02 日 11:27:49: EVQc6rJP..8E.
 

http://electronic-journal.seesaa.net/

 欧州危機は、日に日に深刻さを増していく可能性があります。
6月17日のギリシャの選挙では、ユーロ離脱反対派が勝つとは限らないからです。そうなると、ギリシャのユーロからの離脱が一層現実味を帯びてきます。

 それから、昨日31日に行われたアイルランドの国民投票──
これは、EUが新たに定めた「財政協定」に参加するかどうかを問う選挙です。本日6月1日の朝から開票が行われ、2日の未明に結果が判明する予定です。
 この財政協定は、債務危機の再発防止に向け、加盟国の財政規律強化を図るEUの取り決めであり、財政収支の均衡と逸脱時の是正措置を国内法で定めることを義務づけ、対応が不十分な場合
にはEU司法裁判所が制裁金を課すという厳しいものです。
 この財政協定はEU27ヶ国のうち英国、チェコを除く25ヶ国が署名。ユーロ圏12ヶ国以上の批准を経て、2013年1月までに発効予定なのです。したがって、もしこの協定に批准できないと、必要な支援が受けられなくなり、ユーロはもちろんEUからの離脱も覚悟せざるを得なくなると思われます。

 ここで、ユーロにいたるまでのヨーロッパの歴史の振り返りに戻ることにします。
 1980年代後半になると、EMSの外部環境はかなり厳しさを増してきたのです。そこでEMS参加各国は、マルクを基軸通貨として確立する体制──マルク本位制に移行することにしたのです。すでにEMS/ERMという制度自体は、事実上のマルク本位制なのですが、それをもっとしっかりしたものにしようという考え方です。

 マルク本位制とは、どういうシステムなのでしょうか。
 マルク本位制では、基軸通貨国の西ドイツと他のEMS参加各国とは役割が次のように異なるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  基軸通貨国 ・・・ マルクとドルとの為替相場を調整
  EMS各国 ・・・ EMSの相場安定をコントロール
―――――――――――――――――――――――――――――
 基軸通貨国──西ドイツの役割について考えましょう。
 ドイツ連邦銀行は、EMSの中央銀行として、外国為替市場に介入して、マルクとドルの為替相場を調整するのです。マルク高にならないようコントロールするのがドイツ連邦銀行の役割ということになります。
 これに対してEMS各国の役割は、上下2.25 %の変動限度に達する前に積極的に介入して自国通貨を対マルクの変動限度内に維持することです。もし、2.25 %の限度まで下落すると投機筋に狙われる恐れがあるので、変動幅介入を行って変動幅内に収めるようコントロールするのです。

 もうひとつ、マルク本位制を本物に大きく近づけたのは、変動幅介入に使う通貨──介入通貨にマルクを使うことを西ドイツが認めたことです。それまでは介入通貨といえば、ドルであり、各
国はそのために外貨準備としてドルを保有していたのですが、欧州ではマルクを外貨準備として持つ国が増えたのです。
 なぜ介入通貨のドルをマルクに切り替えたのかというと、ドルでは本来の目的が果たせないからです。たとえば、ユーロ各国が変動幅介入を目的にドル売り、自国通貨買いを行うと、ドルが一
層下落してしまうからです。プラザ合意以後はドルの下落基調が続いていたので、そういう事態になるのです。
 ドイツ連銀は、変動幅介入通貨としてマルクを供給することを約束し、EMS諸国間の協調金利政策も取り決め、EMSの体制の強化を図ったのです。その結果、世界の外貨準備におけるマル
クのシェアは約30%に達したのです。

 EMSは、このようにしてプラザ合意を乗り切ったことによって求心力が高まり、1989年6月にはスペインが、1990年10月にはイギリスがEMSに加盟したのです。
 さらにオーストリア・シリングとスイス・フランはマルクとリンクし、北欧3通貨──ノルウェーとスウェーデンの2つのクローナとフィンランド・マルクがEMSにペッグするなど、強化されたEMSを頼る国が増えてきたのです。これらの国は、EMSとリンクすることにより、為替相場を安定させ、金利の引き下げを実現しようとしたのです。このようにしてEMSは、1990年代のはじめには、北欧から南欧まで包含する大欧州為替相場圏として形成されるにいたったのです。

 ここまでは西ドイツの独壇場だったのです。まさに西ドイツは経済運営上のベストプラクティスを誇り、ヨーロッパにおけるマルクは基軸通貨としての機能を果たしつつあったのです。しかし1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年10月3日に東西ドイツが統一化されると、大きく事情が変わり、EMSは一転して危機に陥ってしまうのです。これに関し、浜矩子教授は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1990年をもってそれまでの西ドイツ・マルクが消滅し、それに代わって東西ドイツの単一共通通貨である統一ドイツ・マルクが出現した。西ドイツ・マルクは、安定性と競争力の両輪を備えた経済大国、西ドイツの購買力を代表する通貨だった。
 だが、統一ドイツ・マルクは、西ドイツの十分の一に満たない経済力しか持ち合わせない東ドイツを抱え込んだ統一ドイツの通貨である。(中略)統一ドイツ・マルクは、東ドイツの弱さ に足を取られて価値の行方が定まらない通貨だ。そのような通貨に、ERMの事実上の基軸通貨であった西ドイツ・マルクと同じ神通力が備わっているはずがない。
―――――――――――――――――――――――――――――

■「80年代における基軸通貨の大変動」
 現在のヨーロッパが置かれている状況を掴むためのユーロに至るまでの歴史の振り返りをさらに続けます。
 1981年5月、フランスではフランソワ・ミッテラン社会党候補がジスカールデスタン大統領と争い、勝利を収めたのです。
ちなみに、現フランス大統領のオランド氏も社会党出身です。オランド氏と同様に経済成長と雇用
の促進を公約にして当選しているのです。
 当然公約を実行しようとします。当然のことながら、インフレで貿易収支は赤字になり、物価は上昇し、EMS参加国内で物価上昇率格差が生じたのです。物価が上昇するとEMSでは、物価上昇率の高い国は中心レートを切り下げ、低い国は切り上げて、物価上昇率格差を調整することになります。
 その結果、マルク切り上げとフラン切り下げが何回も起きたのです。正確にいうと、1981年10月から1983年3月までの1年半の間に西ドイツは3回切り上げ、フランスは3回切り下げているのです。
 1983年3月の3回目の中心レートの調整にさいして、ミッテラン大統領は決断の岐路に立たされたのです。EMSから脱却して公約を実行するか、それともEMSに残留してインフレ抑制策に転換するかの岐路です。
 閣僚のほとんどはEMSからの脱却を支持していたのですが、ミッテラン大統領はEMSに残留する道を選んだのです。もしこのとき、フランスがEMSから脱却していたら、おそらく現在のユーロはなかったと考えられます。まさに、歴史的決断であるといってよいと思います。
 それでは、なぜ、ミッテラン大統領はEMSに残留することを決めたのでしょうか。
それは、世界経済の潮流を読み切った結果なのです。
―――――――――――――――――――
 81年に成立したレーガン政権は金融規制を撤廃し、金融自由化を大胆に進めた。イギリスでも79年に成立したサッチャー政権が金融の完全自由化政策を打ち出し、戦後イギリスの階級融和的な社会状況を徹底的に変革し、「金融立国」と自由競争のイギリスが出現した。「ミッテランの決断」は、おそらくこうした世界経済の潮流の転換を視野に入れていたのであろう。
 以後フランスはマネーサプライ増加率を抑制して物価安定をはかる西ドイツ流の物価安定方式を導入して、インフレ率を西ド イツ並みに引き下げていく。フランス政府は、労働組合、国民に「EMS残留がEC統合にフランスが主導的役割を果たす唯一の道」と説得し金融・財政両面で緊縮政策に転じた。失業率は上昇したが、1984年、フランス国民の「EC統合支持」は85%と高かった。国民は政府の説得を受け入れ、厳しい試練に耐えたのである。
―――――――――――――――――――
1980年代というのはどういう時代だったのでしょうか。
基軸通貨ドルの大変動の時代である──そのようにいうことができると思います。
真っ先に金融を自由化した影響で、海外から米国と英国に大量の資金が流入し、1980年代のはじめから英ポンドとドルの為替相場が上昇します。当時米国はインフレがかなり進行し、失業率も高かったのですが、レーガン米大統領は金融政策はFRBのボルカー議長にまかせ、軍事費を中心に財政支出を拡大させて景気を支えたのです。

 このときボルカー議長のとった政策が「新金融調節方式」という名前で知られる金融引締政策なのです。新金融調節方式を簡単にいうと、通貨供給量をコントロールすることでインフレの沈静化を図る政策です。
 しかし、これはかなりの荒療治で、政策金利が20%を超えるという高金利政策により、経済活動の停滞と物価の持続的な上昇が共存するというスタグフレーションのコントロールには何とか成功したものの、当時のニューヨーク株式市場は10%以上下落し、GDPが3%減少、失業率は11%になるという副作用を発生させたのです。そのため、これは「ボルカーショック」といわれているのです。

 何しろ世界中の資金が米国に集中し、ドル相場は高めに推移したのです。これにより、輸出は減少し、輸入は拡大するという貿易不均衡がもたらされたのです。
 この急速なドル高は、為替バブルを招き、そのバブル崩壊によるドル暴落の懸念から、米国は、G5各国(日本、西ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ)の協力により、急速にドル安に誘導するという「G5によるプラザ合意」が成立したのです。その結果、日本と西ドイツはドルを大幅に切り下げ、対米競争力で優位に立ったのです。

1980年から1987年の対ドル、対マルクのレートは次のようになっています。
1987年に円とマルクは急激に切り上がり、その結果、日本と西欧では通貨高により輸出が落ち込み、不況に陥ったのです。
EMSの環境も厳しさを増したのです。この構造的危機に対処するには、マルクをEMSの事実上の基軸通貨にする必要性が高まったのです。


■「欧州通貨統合までの歴史を振り返る」
 ヨーロッパ各国間の通貨協力の必要性が高まったのは、ニクソンショックからです。1971年8月、米ニクソン政権は金とドルの交換を停止することで、IMF固定相場制を一方的に放棄したのです。いわゆるニクソンショックです。

 なぜ、米国はその決断をしたのでしょうか。
 それは日本や西ドイツに工業部門で追い上げられ、ドル為替相場を切り下げて、競争力を回復しようとしたのです。しかし、ドルは基軸通貨であったため、世界の為替相場の状況は不安定化し1973年までには、先進諸国は次々と変動相場制に移行することになったのです。
 しかし、これによって1970年代の世界経済は混乱し、不安定になったのです。為替相場の浮動性が増し、金利の変動幅が拡大したので、経済を不安定化させたのです。
 こういう状況を受けて、ヨーロッパでも何らかの通貨協力が必要であるという認識が高まったのです。
 そこでECとしては、1973年にEC加盟が決まっていたイギリス、デンマーク、アイルランドを加えた9ヶ国で、1972年4月に固定為替相場制の「EC為替相場同盟」をスタートさせたのです。これは、相互に競争力を考慮して中心レートを決め、その上下2.25 %の変動限度を設定して為替相場の安定をはかるというものです。
 しかし、イギリスとイタリアは、あくまで自国本位の経済成長を目指したいとして、両国は早々にEC為替相場同盟を脱退してしまったのです。
 1973年3月にEC諸国は変動相場制に移行するのですが、EC為替相場同盟では、特殊なスタイルをとったのです。それは域内では固定相場制、対外のドルに対しては変動相場制という特殊なスタイルです。これを「共同フロート」というのです。

 ニクソンショックではじまった1970年代は混乱の10年といわれたのです。2度の石油危機、世界不況、世界インフレが連続して起こったからです。とにかくドルとマルクの為替相場の変動は大きかったのです。
 フランスはマルクの変動についていけず、1974年1月に離脱しています。翌年に復帰したのですが、1976年3月に再び離脱しています。
 これに対して、この為替相場同盟の決まりに忠実に従うグループがあったのです。それは西ドイツを中心としてベネルクス3国とデンマークです。ベネルクス(Benelux→BNL) 3国とはベルギー、オランダ、ルクセンブルグです。
 これらの国は、西ドイツの影響を受けて、物価安定を重視した経済政策を取り、EC為替相場同盟というよりも、マルク中心の為替相場安定圏を形成していたのです。これをマルク圏と呼んでいるのです。これは西ドイツ中心の私的組織のようになり、ECとのかかわりは切れてしまったのです、
 EC為替相場同盟から離脱したフランス、イギリス、イタリアのうち、イギリスとイタリアは投機筋に通貨を売り込まれ、1975年に為替相場は暴落します。やがて外貨準備が尽きて、IMFに資金援助を申請し、その条件として緊縮財政政策を強制され
大変な不況になったのです。この煽りはフランスも受けて不況になり、西ドイツを中心とするマルク圏も、フランス、イギリス、イタリアの3大国への輸出が不振となり、1977年には低成長になったのです。
 これによって、やはりECレベルで為替相場同盟を結ぶことの必要性が高まったのです。当時の西ドイツのシュミット首相は、フランスのジスカールデスタン大統領に働きかけ、1978年2月のEC首脳会議で採択されたのが「EMS」──欧州通貨制度です。EMSは、現在のユーロのベースになる通貨制度であり、とくにその為替相場メカニズムは理解しておく必要があります。

 EMSは、イギリスをのぞくEC8ヶ国が参加し、1979年3月からスタートしたのです。EMSはスネークと同じように、参加国通貨相互に中心レートを決めて、その上下2.25 %に変動限度を置き、そのなかに収めるというものです。
 為替相場が限度の2.25 %に達すると、外国為替市場に介入して自国通貨を売り外貨買いを行うか、逆に外貨売り、自国通貨買いを行って限度を超えないように調整するのです。
 しかし、初期において最大の問題点は、参加国の物価上昇率の格差なのです。インフレ国は貿易収支は赤字になり、物価が安定している国は黒字になるので、外国為替市場での投機の対象になりやすかったのです。


■「チャーチルの欧州合衆国構想」
 今後ヨーロッパはどうなるのでしょうか。そのかぎはドイツが握っていると思います。現在ユーロ圏の中心国はドイツとフランスです。いやドイツとフランスは、もう一つ大きな「世界最大の国家」ともいわれるEUの中心国家でもあります。
 とくに現在のドイツの経済は堅実そのものであり、ユーロ圏はもちろんのこと、ユーロに入っていないEU諸国に対してもヨーロッパ全体を支える中心的存在になっています。

 しかし、EUやユーロにおけるドイツの存在は、他のヨーロッパの諸国とは微妙に違うポジションにあります。それは、ドイツが2つの世界大戦──第1次世界大戦(1914〜1918)と第2次世界大戦(1939〜1945)の敗戦国であることと無関係ではないと思います。

 ドイツは、実質上はユーロの中心国でありながら、一歩引いた感じのある国です。そういう意味でこれまでEUやユーロを牽引してきた国はフランスということになるでしょう。それはドイツがあくまでフランスを立て、他のEU諸国に対しても謙虚な態度で接してきているからです。それは、ヨーロッパ統合の歴史を調べてみると一層はっきりします。

 さて、EUとユーロは不可分な関係にあります。フランスの前大統領のニコラ・サルコジ氏は、EUとユーロの関係について次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ユーロという制度は絶対に崩壊させてはならない。もし、崩壊すればEUも崩壊することになる。 ──ニコラ・サルコジ氏
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、そのサルコジ氏は選挙に敗れ、社会党のオランド氏がフランスの大統領になっています。オランド大統領とドイツのメルケル首相とは、経済財政の考え方がかなり異なり、ユーロ圏内の政策について意見の一致が見られるかどうかが不安視されています。先のEU首脳会議では、オランド大統領の提案するユーロ圏共同債について意見が合わず、激しいやり取りがあったことは昨日のEJで述べた通りです。

 このように、あまりにも意見が合わないことが続くと、最悪の場合、ドイツのEUからの離脱もありうるのです。離脱の恐れのあるのはギリシャだけではないのです。

 そもそもヨーロッパ統合の構想の原点は何なのでしょうか。
 それは、1946年にウィンストン・チャーチルが「ヨーロッパ合衆国構想」を唱えたことにはじまるのです。チャーチルとしては、鉄のカーテンの向こうにはソビエトを中心とする巨大な社会主義陣営があり、大西洋の向こうには超大国に成長したアメリカが君臨する。こういう状況において西ヨーロッパ諸国は統合し一体化する必要がある──このように考えたのです。

 このチャーチルの構想にしたがい、1949年には「欧州評議会」が設立されています。欧州評議会は、初めての汎ヨーロッパ機関ということになります。
 そして、1950年5月9日、当時のフランスの外相のロベール・シューマンは、戦争の兵器の素材として不可欠な石炭と鉄鋼に関する産業を統合することを目的とした共同体の設立を趣旨とする「シューマン宣言」を発したのです。

 1951年に、このシューマン宣言に基づいて、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、西ドイツの6ヶ国は、「欧州石炭鉄鋼共同体」を設立するパリ条約に署名しています。実はこのとき、ドイツは工業生産を厳しく制限されていたのですが、この共同体の発足によって、その制限は緩和されることになったのです。

 この欧州石炭鉄鋼共同体の発足により設置された「最高機関」と「共同総会」は、それぞれ後の「欧州委員会」、「欧州議会」となっていくのです。その後この欧州石炭鉄鋼共同体に加えて、さらに2つの共同体ができたのですが、これら3つを「欧州諸共同体」(EC)と呼ぶのです。

 1973年1月にデンマーク、アイルランド、イギリスが欧州諸共同体に参加したのです。さらに1981年にはギリシャが、1986年にはスペインとポルトガルが参加します。このようにECには全部で12ヶ国が参加したのです。
 現在、ECという言葉に代って「EU(欧州連合)」という言葉が使われており、EUの前身はECといわれています。これは別に間違いではないのですが、そうかといって正確な表現であるともいえないのです。
 結論からいうと、ECの3つの共同体のうち、欧州石炭鉄鋼共同体は2002年7月に消滅したのです。なぜかというと、その共同体の設立条約第97条において、存続期間は50年と定められていたからです。この共同体の設立は1952年であり、50年後の2002年に廃止されたのです。しかし、他の2つの共同体──欧州経済共同体と欧州原子力共同体については存続期間が定められておらず、もちろん現在も残っています。
EUは1993年に発足したのですが、EUには次の3本柱というものがあり、ECは、「超国家的共同体」の第1の柱として現在も残っているのです。


●「ユーロ圏共同債は実現するのか」
 欧州危機が一段と深刻化しつつあります。米シテイグループは5月23日付のりポートで次の予測を出しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ギリシャは2013年1月1日にユーロ圏から離脱する可能 性は50〜75%ある。──米シテイ予測
―――――――――――――――――――――――――――――
 22日にはギリシャ・パパデモス前首相が米紙のインタビューに答えて、「ギリシャはユーロにとどまる必要はあると思うが、離脱の可能性を排除し切れない」と述べたことで、市場には一層緊張感が高まったのです。
 それに加えて、5月23日、ベルギーのブリュッセルで行われたEU首脳会議では、今後のEUの戦略を巡って、フランスのオランド新大統領とドイツのメルケル首相の意見が対立する場面が目立ったのです。なかでも、最も対立したのは、「ユーロ圏共同債」の導入を巡ってです。これに関してはドイツは絶対に反対の立場なのです。

「ユーロ圏共同債」とは何でしょうか。
ユーロ圏のなかで一番経済が堅実であるのはドイツです。ドイツ国債とPIIGS諸国のそれの金利差は5〜6%、イタリア債やスペイン債は7%近くに達することもあり、そこには大きな差が生まれています。これに対してドイツはほぼ2%前後に収まっており、これらの金利差は域内の国々に対する市場の信頼度をストレートに反映しています。このようにユーロ圏ではドイツが突出しているのです。

 ユーロ圏共同債というのは、ユーロ圏各国が共通の国債を出し同じ金利で資金を調達できるようにしようという構想です。欧州委員会委員長のマヌエル・バローゾ氏はこの構想の推進者として知られています。バローゾ委員長は元ポルトガル首相であり、域内の小規模加盟国の利益を重視しています。

 しかし、これはドイツにとって不利な話です。ドイツが単独で国債を発行するよりも金利負担は増すことになり、条件は不利になります。メルケル首相はもとより、ドイツ国内ではこの構想に絶対反対の雰囲気があります。
 EU首脳会議で、ユーロ圏共同債を提案したオランド仏大統領に対し、メルケル首相は次のように反論しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ユーロ圏共同債は、経済政策の統合が前提で、EU条約上  も困難であり、成長の促進とは無関係だ。それに金利を同  じにしたら、改革努力が鈍り欧州の競争力が向上しない。─メルケル独首相
―――――――――――――――――――――――――――――
 現在のユーロ圏の諸国では、ドイツの信用によって財政運営が行われているようなところがあります。もちろんドイツにとっても多大のメリットがあるのですが、PIIGSだけでなく、フランスを含む他の国もドイツの信用力に頼っているのです。

 ギリシャを例にとります。ギリシャは2001年にユーロに加盟しましたが、これによってギリシャ国債の利回りはドイツ国債のそれに向かって急降下したのです。これを受けて世界の投資家は一斉にギリシャ国債を買いに出たのです。

 どうして投資家はギリシャ国債を買いに出たのでしょうか。
 それには2つの理由があります。1つは、発行通貨がドラクマからユーロに切り替わったことです。ドラクマとユーロでは信用度がまるで違うのです。2つは、仮にギリシャが債務の返済が困難になってもEUから支援が行われると判断したことです。
 しかし、ギリシャは求められた緊縮財政に取り組んで構造改革を熱心に行わなかったので、そのため財政は破綻をきたし、危機を起こしてしまったのです。

 はっきりいって、オランド大統領とメルケル首相の政策は「水と油」です。メルケル首相は構造改革を重視しているのに対し、オランド氏は次のような構造改革に逆行する政策を掲げて大統領に当選しているからです。
 選挙時点の公約とはいえ、明らかに構造改革に逆行する政策であり、市場の信任は得にくいと考えられます。とくに公的年金の受給開始年齢を下げる公約については、人気取りの政策といわれても仕方がないでしょう。ユーロ圏共同債について、同志社大学大学院教授の浜矩子氏は
次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ユーロ圏共同債、あるいは欧州共同債構想というのは、この間 ては消え、消えては出てきた考え方なのである。厳しい環境 中で、ユーロ圏の財政事情を安定させるためには、これしか道はない。この主張は、それなりの支持を集めて来た経緯がある。EFSF構想は、ある意味で共同債に向けての布石だった といえるだろう。(中略)反対を表明するメルケル首相の語気 の荒さ、表情の厳しさには、誠に格別のものがあった。鬼気迫 る雰囲気が出ていた。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ユーロ圏共同債の構想は、金融政策の統合に加えて財政統合を進めることを意味します。ドイツの頑強な反対のなかで果たして実現するのかは不透明です。共同債を巡るEU各国の対立によって金融市場には失望感が広がっています。ユーロに対する円相場
は一時100円を切ったのです。

 

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