【ガイベルク（ドイツ）】ウルリケ・ベルガーさん（55）はある晴れた朝、痛み止めの薬を買いに出かけ、めまいを感じながらコインを数えて薬局のカウンターに近づいた。持っていたのは薬代をやっと払えるだけの額で、31.09マルクだった。

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1マルク硬貨
　居間のソファの隙間に落ちていた薄汚れたコインを両方の手のひらに乗せながら、ベルガーさんは「再び手にしていい気持ちだ」と感じ、「まだまだ価値があるのだ」と思った。このドイツ南部の村のロルフディーター・シェッツレさんが経営する薬局のカウンターの後ろには、1カ月分の売り上げであるマルクの紙幣とコインでいっぱいになったトレーが置かれている。

　ドイツ人はまだ、ユーロを放棄していない。しかし、欧州の債務危機が広がる中で、多くのドイツ人は再びかつての通貨マルクで買い物をすることでその懐古の情にひたり、小売業者も喜んでそれに応じている。

　今でも「古き良きマルク」と親しみを込めて呼ばれているかつての通貨は死んでしまったわけではない。ドイツでは公式には2002年1月1日からユーロ紙幣とコインが流通し、マルクは法定通貨としての地位を失った。しかし、連邦銀行（中央銀行）によると、132億マルク、つまり67億5000万ユーロ（6500億円）相当のマルクがマットレスの下や古い祈とう書の間、コートのポケットの中などに眠っている。この額は他のユーロ圏諸国16カ国で眠っている旧通貨を合わせたより多い。

　イタリアやフランスなどの近隣諸国は過去1年の間に旧通貨のリラとフランを公式に無効としたが、ドイツではマルクからユーロへの交換の期限を設けていない。このため、小売業者やその他の企業などはマルク受け入れを決めれば、収入として得たマルクをドイツの連銀の支店でユーロに替えることができるのだ。マルクは現在、1ユーロ＝1.96マルク程度のレートで交換されている。

　西独の国旗や国家、それに基本法が制定される前に、連合軍が占領したドイツの西半分の地域で1948年に発行されたドイツ・マルクは単なる通貨ではなかった。それは、第2次世界大戦の余塵（よじん）がまだくすぶる中で西独の奇跡の経済復興の象徴となり、ドイツ人が誇りをもって示せる数少ない国家的誇りの一つとなった。

　ドイツの元外務次官で、現在はミュンヘン安全保障会議の議長を務めるウォルフガング・イッシンガー氏は「国旗は受け入れられなかった。ヒトラーも旗を持っていたから」とし、しかし「ドイツ・マルクはクリーンなドイツの成功物語だ。これを放棄するのはつらいことだった」と語った。

Vanessa Fuhrmans/The Wall Street Journal
独ガイベルクのパン屋ではマルクも使える
　ガイベルク村は毎年5月、「あなたの最後のペニヒ（100分の1マルク）をガイベルクに」との標語の下で、マルク紙幣やコインを村内のレストランやその他の店で使うよう呼び掛けるキャンペーンを展開している。薬局のシェッツレさんは「われわれは人々のためだけにやっているのではない」とし、「おそらく90％のマルクは、こうしなければお目にかかれないものだったはずだ」と話した。今年5月にはガイベルク村には遠く離れたフランクフルトから訪れた人もいて、使われた金額は1万5000マルクに達した。

　国際的な衣料品店でドイツが最大の市場となっているC&Aは2003年、マルクでの支払い受け入れを始め、国内500近い店舗でのマルクでの月間収入は最大15万マルクに上っている。ドイツ・テレコムのコイン投入式公衆電話の約90％はマルク・コインが使えるようになっている。

　旧通貨はドイツ経済の異例の分野にも息を吹き込んでいる。健康増進をうたい文句にしている室内設置型赤外線キャビンを販売するビタテルム社のオーナー、マルティン・ブツバッハさんは、2500ユーロを超える同社製品にマルクの市場があり得るなどとは考えたこともなかった、と話した。ブツバッハさんは「残っているマルクはコインばかりだと思っていた」としている。

　ブツバッハさんによると、昨年秋に、亡くなった祖母の家に隠されていたというマルクの札束を持った人が現れ、「5000マルクあるが、マルクで払えるか」と尋ねた。これに触発されてその後にマルク・キャンペーンを始めたところ、マルクで支払った客は20人に上ったという。

記者: Vanessa Fuhrmans