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年齢差別の世代交代論をやめ「脱年齢の時代」を模索せよ 学習性無力感が蔓延する職場に未来はない「賢いポジティブバカ」
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/648.html
投稿者 MR 日時 2012 年 9 月 19 日 01:33:26: cT5Wxjlo3Xe3.
 

【第248回】 2012年9月19日 山崎 元 [経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員]
年齢差別の世代交代論をやめ「脱年齢の時代」を模索せよ


政党の党首選で語られがちな
「世代交代論」は年齢差別か

 読者は、たとえば自民党の総裁選で、候補者が「世代交代」を熱っぽく語るのを聞いて、どう思われるだろうか。敢えて二択で問うなら、「もっともだ」と思うか、「バカだなあ」と感じるか、いずれだろうか。

 感じ方はどちらでもいいのだが、大政党のトップに立とうという政治家の場合は、世代交代論に「年齢差別」の要素が入っていることに対して、もっと敏感であるべきだ。本来チャンスが平等であるべき世界で「高齢だから、遠慮してください」とは言えない。それに、有権者にも高齢者が多い。

「若手にチャンスを」というところまではいいとして、「老人は去れ」というようなことを言った場合、その言葉の差別性を攻撃されて窮地に陥る政治家が近い将来出てもおかしくない。政治家もビジネスパーソンも、注意が必要だろう。「老害」などという言葉を安易に使うメディアも同様だ。

 とはいえ、これまで世代交代論には多くの人が賛成してきた。理由は、企業の年功序列人事や公的年金における優遇など、これまで高齢者があまりにも有利で不公平な既得権を持っていたからだろう。

「高齢者=不当に有利な人」という前提があれば、「高齢」を攻撃することを、それほど悪いことだとは思わなくなる。

 しかし、高齢者が急増しており、年金を考えても、企業を考えても、かつてのように若年者の稼ぎで高齢者を養うことが難しい。高齢者の既得権は着々と薄まりつつある。もちろん、高齢者が増えること自体が、単純な世代交代論に対して懐疑的な声を増やす効果もある。

 そういえば、今週初め、9月17日(月曜日)は「敬老の日」であった(筆者は、敬老の日は9月15日でないと感じが出ないが)。この機会に、人を年齢で区別することの問題点について考えておこう。

 結論を先取りすると、人を年齢で区別して扱わない方がいいし、半分期待も込めて言うと、今後「脱年齢の時代」に進むのではないか。

年齢差別の観点からも難しい課題
「定年」を廃止すると何が起きるか?

 政治の世界だけではなく、ビジネスの世界でも、年齢で人を区別することについて、改めて考えておくべきだろう。

 人事処遇にあって「年次」の影響は、成果主義やそれ以前のビジネス環境の厳しさによって低下しつつある。それ自体の合理性を考えると、この傾向は今後も続くだろう。「年齢差別」の観点で大きな問題となるのは「定年」だ。

 同じ給料で同じ働きができる65歳と64歳の社員がいたときに、65歳の社員が問答無用で解雇される制度は、年齢による差別だ。加えて、65歳の社員の方がより有能な人であるとした場合、差別であると同時に、会社側にとっての損失でもある。

 また、会社側では、たとえば65歳までの雇用義務の強化といった政策には、人件費増、人事の停滞による若手の士気低下などの弊害をもたらす恐れを感じているはずだ。実際、筆者は、ある経営者から、厚労省の方針について、「とんでもないことをしてくれるよ」という愚痴を聞いたことがある。

 公的な制度との兼ね合いがあるから、自在に制度を変えられるわけではないが、前向きで、合理的で、かつ非差別的なのは、「定年」を廃止することだろう。

 外資系の企業では、社員の年齢を個人情報として一切他人にわからないように扱う会社があるし、国によっては、採用の際に年齢を問うことを差別として禁止するケースがある。「定年」の廃止は、決して突飛な考え方ではない。

 たとえば、「定年は廃止します。当社は、何歳になっても有能な社員は雇い続けます」と宣言して、定年を廃止することができたら、何が起こるだろうか。

 定年がないということは、定年までの雇用義務がないということだから、企業は、客観的に見える別の基準をつくる必要があるが、コストに合わない社員をいつでも解雇できる。筆者は、国の制度として、補償条件を明確化した上で解雇を原則自由とすることに賛成だが、企業にとっては、より合理的な経営を行ない易くなる点で有益だろう。

 一方、雇われる側では、働く意志と力(体力も、スキルも)がある高齢者にとっては、「定年で雇用打ち切り」という、ある意味で理不尽な制約がなくなるのだから、好都合だ。

 こう考えると良いことずくめのようだが、解雇が下手な経営者の場合、「定年廃止」は、高齢社員の滞留と人件費の高騰を招きかねない。当然のことながら、定年廃止は、解雇規制の緩和と共に実施しなければならないということだ。また、組合が強い会社の場合、定年廃止は経営的に危険だろう。

「年齢」は平等か、不平等か?
フェアな扱いは状況によりけり

 それにしても、これまで、年齢によって人の扱い方を変えることや、他人の年齢を問うことが、「差別」や「失礼」としてあまり問題になって来なかったのは、なぜだろうか。

 1つには、能力や貧富を問わず、誰でも1個だけ年齢を持っており、1年経つと共通に1つ歳を取るという点で、「年齢は誰にとっても平等だ」という先入観があるからだろう。

 そして、この先入観の中には、年齢が同じなら人は同じように扱われるようであってほしい、あるいはそうあるべきだという、年齢に関する平等願望ないし平等主義があるように思う。

 この願望ないし主義の背景には、飛び級が原則としてなくて、落第もめったにない学校制度によって、日本人が年齢だけで差を付けられることに慣れていることがあるだろう。

 しかし、歳が同じなら人は同じだというのは大嘘だ。差別の危険を問題にした文章で、別の差別を指摘されるのは間抜けだから、具体例を挙げないが、人は年齢が同じでも、能力も容姿も持っている資産や知名度や家族、友人の数も異なる。

 何によって人の扱いが変わるのがフェアか、という点は、状況によって変わるだろう。たとえば、顧客の年齢によって価格を変える商品の売り手がいたら、不利な年齢の顧客はかなり腹を立てるのではないか。

「ゆとり」に見る年齢の足かせ
教育でも年齢差別をなくせ

 重要な公的サービスの1つである教育はどうだろうか。思うに、教育も年齢で「差別」されるべきではない。

 日本の学校では、もっと広範囲かつ柔軟に飛び級を認めるべきだろう。十分な学力を持っている児童・生徒を年齢だけを理由に本人にとって実りのない教育レベルに留め置くことは、本人にも、社会にとっても大きな損失だ。

 すでに時効の部類だろうから書いてしまうが、かつてある教育政策関係者から、ゆとり教育の導入について、「本当は、エリートにはエリート教育をしたいということが、ゆとり教育の真の目的の1つなのですが、(学力が)上の方の自由度から先に拡げると世間はうるさいので、戦略的な判断として、まず下の方から自由度を拡げるのです」とお聞きしたことがある。

 遠大な計画であり、果たしてこれで上手く行くのか、行かない場合に責任を取るのは誰なのかと、大いに気になったことを覚えているが、案の定、ゆとり教育は上手く行かなかった(と筆者は思う)。ビジネスの場合と同じで、良い戦略というものは、もっとシンプルでなければいけない。

 世間が今後、「年齢差別」に対して、いつ、どの程度敏感になるのかは予想できないが、「歳が関係ない社会」への準備をしておく方がいい。年齢差別は確かに「差別」なのだ。問題意識が拡がり始めると、伝播が早いかも知れないし、制度や企業の変化も早いかもしれない。

 ビジネスパーソン読者は、まずは、定年まで雇用とそこそこの給料が保証されているという前提がなくなる可能性に思いを馳せるべきだし、もちろん、思うだけではなく、個々に準備にかかるべきだろう。

 脱年齢の時代に向けて、ビジネスパーソンがなすべき準備は、何よりも自分の人材価値の確立とメンテナンスだ。年齢による差別はいけない、という倫理的な原則論の一方で、「現在同じ能力なら、年齢が若い方が、雇う側から見て価値がある」という、加齢に対して厳しい人材価値の原則がある。

 有能な人材なら、歳が若い方がより長く使えるし、その間にスキルがより習熟することも期待できるからだ。年齢差別がなくなるとしても、歳を取るということの現実は厳しい。加齢と共に人材価値を落とさないためには、不断の努力が必要だ。

自分の仕事と稼ぎの機会を開拓
「脱年齢の時代」にどう備えるか

 ビジネスパーソンにとってもう1つ大事なのは、自分の仕事と稼ぎの機会を自分で開拓する努力だ。転職について要領を知ることや、自分のスキルセットを転職市場に適応させること、さらには、副業を持ったり、独立のための準備をしたり、といった諸々のことが、リスクを分散・低減し、いざというときに読者を助けるだろう。

 そして、年齢にこだわらない人間関係に慣れることが重要だ。自分よりも若い上司に仕えることが自然にできなければならない。その上司が、かつての自分の部下である場合もあるだろうが、それでも同じだ。

「歳をとっていれば(あるいは、若ければ)、偉いというわけではない」というのと同様に、「社長」や「部長」といった肩書きも、仕事に限定された単なる役割であって、それ自体として人の優劣とは無関係だということを心からわかっていれば、できるはずだ。気分的にもすっきりするだろう。

 つまるところ、個人として、人間として、普通の努力をしていれば、「年齢」や「肩書き」の効力がなくなっても慌てるには及ばないし、個人が能力や個性に応じて機会や報酬を得るのだから、さわやかでもある。

 総合的には、「脱年齢の時代」は、個人にとって厳しい面もあるが、自由でフェアな「今よりもいい時代」になるのではないか。楽観的に過ぎるかも知れないが、筆者はそう期待している。
http://diamond.jp/articles/print/24939

 
【第8回】 2012年9月19日 渡部 幹 [早稲田大学 政治経済学術院 客員主任研究員]
“学習性無力感”が蔓延する職場に未来はない!
閉塞状況を破る「賢いポジティブバカ」のつくり方
――処方箋G部下のヤル気を奪う「暗黒フォース型上司」になるな
こんな不景気で何をやっても無駄
日本社会に蔓延する「学習性無力感」

「色々やってもね、結局無駄なんですよ、今は不景気ですから」

 先日、某企業の営業の方から聞いた言葉である。

「こちらが提案しても、上が保守的で、結局何にも変わらない。公務員だからしょうがないのでしょうか」

 こちらはある国家公務員の方の言葉だ。

「これで70社にフラれました。さすがにここまで来ると凹みますね」

 就職活動をしている某一流大学の学生のセリフだ。

 これらの言葉に共通しているのは「無力感」だ。自分だけがあがいてもしょうがない、ヤル気を見せても報われない。ならば、何にもしない方がいい。新しいアイディアなど出さず、余計なこともせず、無事にお給料をもらえればそれでいい。就職もせず、引きこもって、当座はしのいでいればいい――。

 今の日本には、こんな「無力感」が蔓延しているように感じる。なぜだろうか。

 心理学の有名な研究に「学習性無力感」と呼ばれるものがある。無力感を学習するのである。無力感は実は学習されるのである。

  たとえば、ネズミを檻に入れておく。檻には仕切りがあって、2部屋になっており、仕切りを飛び越えれば隣の部屋に行くことができる。ここで片方の部屋の床に弱い電気を流す。これはネズミにとっては不快なので、ネズミは走り回ったあげく、隣の部屋へ移る。隣の部屋には電気は流れていない。

 これを繰り返すと、やがてネズミは電気を感じると迷いなく隣の部屋に移るようになる。自分にとって利益になる行動を「学習」するのだ。

 そんなネズミに、今度はどちらの部屋にも電気を流すように条件を変えて実験を行なう。つまり、隣の部屋に移っても不快な状態が変わらないようにするのだ。

 これが続くと、やがてネズミは移っても無駄だとわかり、電気刺激を与えても動かなくなる。ネズミは「やっても無駄」という無力感を学習してしまうのだ。

 そしてその後、当初のように隣に移れば電気刺激を回避できるような条件に戻す。しかし、無力感を学習したネズミはもう以前のように隣の部屋に移ろうとはしなくなり、「ひきこもり」となる。

 このように、体験から学習された無力感を「学習性無力感」「学習性絶望感」という。

ネズミだけでなく人間も同じこと
無力感に囚われるとチャンスを逃す!

 学習性無力感は、人間にも当てはまることが多い。「どうせやっても無駄だからやらない」というのは、勉強、スポーツ、仕事、ダイエットなど社会生活の様々な場面で聞かれる。冒頭の言葉を発した人々も、学習性無力感に囚われている。

 学習性無力感自体は、実は意味のあるものだ。「コストをかけてまで無駄な努力をしない」というのは、個人の中では合理的だ。

 ただし、それが合理的なのは、本当に何をしても無駄な状況の場合である。社会環境は刻々と変わる。本当にチャンスが来ても、無力感を持ったままでは動けない。

 今の日本の社会や職場の状況を考えると、確かに無力感をもってしまいやすいだろうと思う。しかし本当に重要なのは、何かチャンスが巡ってきたときに、それをつかむために無力感に陥らないことだ。

 では、どうやったら無力感に陥らずに済むのか。

 これまでの研究では、非常にポジティブな思考を持った人は、無力感に陥りにくいことがわかっている。いわゆる「ポジティブバカ」だ。

 ポジティブバカの人には、利点と欠点がある。利点は、無力感に陥らないため、チャレンジ精神が旺盛で、性格的にも明るい。これは周囲にもいい影響を与えることが多い。

 しかし、ポジティブバカの最大の欠点は、無力感だけではなく、他の多くのことも学習しない場合が多いという点だ。無力感を学習しないということは、そもそもの学習能力も低い可能性があり、そのため同じ失敗を何度も繰り返したり、同じ人を同じことで何度も怒らせたりしてしまう。職場では、「同じ失敗を繰り返す無能なやつ」というレッテルを貼られてしまう。

 逆に言えば、学習能力の高い人は無力感も学習しやすく、落ち込みやすい。それが仇になって、学習性無力感に陥りやすくなるのだ。

無力感を学習すること自体は有意義
学習する「ポジティブバカ」になれ

 この無力感への対処法には、2つある。個人的なものと対人的なものだ。

 個人的なものは、「心の中で自分の失敗を状況のせいにして」「学習するポジティブバカ」になる、ということだ。

 時々、欧米人労働者に対する不満として「自分の失敗を人のせいにしたり、環境のせいだと文句を言う」といった話を聞く。これは、彼らが自尊心を守り、無力感に陥らないための防衛策なのだ。ところが、日本ではこういう「言い訳」は見苦しく、社会的な評価も低くなってしまう。

 かつては、こういう落ち込みがあったときには、自分を慰め叱咤激励してくれる上司や同僚が数多くいたが、今の雇用状況ではそういう人が少なくなっている。落ち込んでも相談できる人は少なく、無力感からの回復は難しい。

 ならば、欧米人と同様に「人や状況のせい」に「心の中」でしておくべきだ。自分のメンタルな健康を守るためには、その方がよい。表に出せば自分が不利になるので、出さない方がいい。

 しかし、そこで重要なのは「学習する」ことだ。人や状況のせいにするならば、その人や状況が変われば、自分は失敗しないはずである。人や状況のせいにするのは構わないが、考えるべきはいかに自分が失敗しない状況に持っていくか、そのための方策である。そのような方策について、常日頃から能動的に考える癖をつけることが重要だ。

「学習するポジティブバカ」とは、聞こえはあまりよくないかもしれない。だが、私がこのコラムで常々述べている「これからの日本社会のあるべき姿」にとって、このメンタリティは重要だと思っている。

 ポジティブバカになるには、常に「自分はやればできる、それをいつか証明する」と考えていることが重要だ。しかし冒頭のセリフのように、頑張っても報われないことが多いのが現実だ。だから、前向きになれるもの、なれることを探しておくことも重要となる。

小説を読む、散歩する、カフェでお茶
「ポジティブになれる刺激」を用意せよ

 そのためには、自分をポジティブに考えられる刺激を用意しておくとよい。たとえば、好きな小説や映画だ。私は落ち込んだときには、村上龍氏や舞城王太郎氏のお気に入りの小説を読むことにしている。彼らの小説にある過剰な攻撃性や全能感は、自分のポジティブを刺激してくれる。

 カルトにハマらなければ、自己啓発本も良いと思う。それで自分が元気になれるならば、基本的に何でもいい。

 何か儀式的なものを自分で決めておくのもよい。私の場合は、自分の気に入った神社や寺に行き、心を鎮めながら参拝し、周囲をゆっくりと散歩することにしている。

 べつに、神社や寺などである必要もない。気に入ったカフェでコーヒーを飲むとか、居酒屋で決まったメニューを頼むとか、バーでとっておきのお酒を飲むとか、自分をポジティブに捉えられる手助けになる場所ならば、どこでもよい。

 しかし、このような刺激や場所に依存してはいけない。特にカルト宗教などは、いくらメンタルヘルスのためには良くても、「それがないとポジティブに生きていけない」という状況になってしまっては意味がない。あくまでそういったものは、「無力感に陥りそうなときにだけ使う薬」と位置付けるべきである。

 ただし、前述の個人的な解決法は対処療法に過ぎない。無力感が学習されるものならば、本当に重要なのはそんなものを学習させてしまう環境にある。ネズミが移動しても変わらずに電気刺激を受けてしまう状況こそが、問題の本質だ。

 もしあなたが管理職ならば、自分の部署をそのような「無力感生成所」にしないようにすることが重要である。

 拙著『フリーライダー』で詳しく述べているが、そのような無力感を生み出す「暗黒フォース型上司」について取材したことがある。

無力感を醸成する「暗黒フォース型上司」
勘違い部下のヤル気を見守る姿勢も大事

 暗黒フォースとは、スターウォーズに出てくるセリフからとったものだが、その名の通り、無力感という暗黒フォースを使い、部下や同僚を無力感に陥らせてしまうものだ。

 新しい提案や改革案について、文句ばかり言い、良い部分よりも悪い部分ばかりを気にかけ、せっかくヤル気のある若い社員にどんどん無力感を与えていく上司だ。このタイプが問題なのは、その上司の下で無力感を学んでしまった部下が、将来また同様の暗黒フォース型上司になってしまうという点だ。

 ここまで極端でなくとも、いわゆる「ことなかれ主義」の管理職はこのタイプに近いと言える。往々にしてこのタイプの管理職の下では、部下は新しい試みやチャレンジを諦めざるを得なくなるからだ。

 したがって、部下に無力感を与えないためには、少なくとも以下のことが必要となる

・ヤル気と能力は別に評価し、基本的にはヤル気は常にポジティブに捉えてやる。

・失敗はきちんと本人に分析させる。状況や他人のせいにしても、頭ごなしに否定しない。本人に無力感を与えると感じるならば、多少間違っていても、そのままにさせておき、状況が改善したらどのように実力を発揮できるかを表明させた上で、実行プランを一緒に考える。

 重要なのは「俺は(私は)もうダメだ」という方向にはもっていかないことだ。現在の部下の失敗を見て、「お前はもう将来もダメだ」といったフィードバックは、最もやってはいけないことである。

 そのためには、部下が多少間違った思い込み(自分の失敗を状況のせいにする)があっても、むやみに矯正せず、次の仕事へのモチベーションを優先することも、時には必要となる。社員教育とは、学習させることだけではない。

 現在の日本の社会や経済の状況を考えると、多くの人にとって、ここしばらくは無力感との戦いになると思う。無力感に打ち勝てる人が少しでも増えることを願っている。
http://diamond.jp/articles/print/24935  

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