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連帯という言葉
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投稿者 まとおせ 日時 2012 年 8 月 05 日 18:38:43: Me4k2P.uy0AaY
 

(回答先: 私が思うに 投稿者 まとおせ 日時 2012 年 8 月 05 日 18:23:16)

連帯という言葉、
連帯という言葉は、以前は、左翼用語で、マスコミにはタブー視されていた。

ポーランドの反政府運動のなかで、連帯労組とかいう言葉が使われ、一般に流通するようになった。
今は、福島との関連でつかわれていること多し。

しかし、連帯という言葉には、真実の追及、正義、非合理、不当なものに対する抗議等の意味が、その底に横たわっていると思います、浪花節ではない。

蛇足ですが、もっとその底には、「自立した個人」がある。

おれおれ詐欺の連中が、生涯この犯罪について口外しないと誓っても、「うるわしき連帯」とはいわないでしょう。

今、この言葉の使い方は、「ぶつぶつ、文句を言うな」あるいは、昔の「一億総ざんげ」と同様、没個人、責任をあいまいにする意味でしかあるまい。
 

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コメント
 
01. 2012年8月07日 02:07:50 : Xs0Gj9F23E
>今、この言葉の使い方は、「ぶつぶつ、文句を言うな」あるいは、昔の「一億総ざんげ」と同様、没個人、責任をあいまいにする意味でしかあるまい。

いわゆる連帯責任、というやつですか。
昔、小学校のクラスで一人が問題を起こしたことに対して、クラス全員が冷たい床に小一時間正座させられたことがありましたが、なんだか効果の意味がよくわからなかった記憶がある。
ある男児が学校外で起こしたトラブルについて、その状況を見ていたでも、参加したでも示唆したでもないクラスメイトがなぜ全員座らされるのか。
それを教師は連帯責任と呼んで、その一人の生徒の行為が、同じクラス全体を巻き込むことの重さを知って、反省を促すとかそんな理由だったと思うが、行為に巻き込まれたのはその教師の指示が初めてだったし、直接巻き込んだのは教師自身だ。軍国教育の名残りかな、と思った。

だから、これは目上には逆らえないということを叩き込むか、クラスの外で問題を起こした生徒を逆恨みさせ、いじめに向かわせるような効果を狙ってるんじゃないかと思った(結果そうはならず、みんなしらけたムードになっただけだったが)。

連帯保証人制度も、なんだかいかがわしい気がしたことがあるが、連帯責任などというと、もっと詐欺とか擦り付けっぽい。

私は連帯の意味が連帯責任という意味に主に使われ始めたのは、戦時中とかもっと古い時代からだと思っていた。
前向きな意味での連帯が左翼用語として定着したのは、戦後のレッドパージのころからかなあ、となんとなく思い込んでいた。浅間山荘は連帯を粛清に変えたというイメージがあった(或いはメディアに理由された)ので、連帯と言う言葉がメディアに避けられるようになったのは、テレビ放送開始後、内ゲバ事件とか浅間山荘事件ぐらいからなのかと漠然と思っていたが、どうなんだろう。
何分そういう事件のあった頃はまだ子供だったし、社会情勢も親に聞いてやっとイメージできるようになった程度なので、よくはわからないが、投稿を見て少し考えをまとめてみたくなりました。
連帯という言葉の使われ方の歴史について詳しい方がいたら、教えてください。


02. まとおせ 2012年8月07日 14:29:45 : Me4k2P.uy0AaY : ulsFpV1L3E
私はいつも書きっぱなしでが、小学校で同様の経験ありで、取り留めなく書きます。

支配する側からすれば、連帯という言葉を使って、個人の価値を貶め、個人の自由を制限することによって、効率よい支配、強い組織が可能になると思います。

(今回は、「みんなで」という言葉と同様、責任回避のキーワード。)

五人組、軍隊での教育がその典型です。
「お前が一人勝手なことすれば、みなお陀仏。、だから自由はいけないんだ。」, 敵中の前線では真理だとおもいます。

しかし、一般論として書くなら、私は、個人の意思の自由、判断の自由がないとこに、「真の連帯」はあり得ないとおもいます。

NOといえる強さ、そしてその個人のNOが受け入れられる連帯とでもいうのでしょうか、そういうとこに力強い作風、文化が謳歌するとおもいます。

軍隊的に組織された強いサッカーチームが感動を与えてくれないのも、真の連帯によるものではないからでしょうか。

強い軍も、企業も、社会運動も、一枚岩の団結を誇るところ、多くの犠牲者を道ずれにしながら、一旦、崩れるともろいと思います。

蛇足で書くなら、共産主義も、金融資本主義も、原子力エネルギー政策も、すべて、その内部のそのシステムの賞賛者達から壊されていく皮肉の歴史をここ十数年、みせつけられた。

連帯の言葉の語源、その発生の歴史は知りません、英語の「ソリダリテイ」solidarityは、ラテン語のsolidus, から派生しているようです。優雅さ、本物、強固という意味でしょうか。

「真の連帯」、思想性、語彙の不足を「真」という言葉でカバーします、あしからず。だらだら文章失礼。


03. 2012年8月07日 19:24:11 : Xs0Gj9F23E
レスありがとうございます。
真の連帯感ですか、いいですね。読んでいて、響くところがあったので、私も問題意識は横へ置き、つらつらとりとめも無く書いてみることにします。
昔、高校生の頃アメリカ西海岸に留学していたのですが、そこで強く心に残る体験をしました。
当時通っていた工業高校の先輩の誘いで、15の時に、市の歴史ある山岳クラブの、高校生中心のユース隊に所属していました(私は女ですが、元男子校で95%以上が男子だったので、先輩は男性です)。
その山岳クラブは、30数年前当時既に80年以上の歴史があり、毎年チョモランマはじめ数々の世界の高峰を踏破してきた歴史が飾られていましたが、その歴史の間(おそらく、何百、何千というメンパーがいた中で)、たった一人しか遭難死した人がいないとのことでした。安全面の指導や対処は、大変丁寧でしっかりしたものでした。
そういうわけで、最初の頃必須の、雪山トレーニング、40kハイキング、ロッククライミングトレーニングなどに参加するようになったのですが、そのロッククライミングのメニューの中に、絶壁トレッキングというのがありました。
先住民の遺した壁画が点在する、ミニグランドキャニオンといった趣の、恐ろしいほどの絶景が広がる中で、様々な訓練をしたあと、最も難関といっていいトレーニングだったのですが、岩山の頂上に辿りつくには、すぐ横の眼下に崖下50メートルから200メートルはある中で、道幅平均50cm前後、狭いところでは30cm以下なんてところを隊全員が通らなければいけません。まあ、いくら怖いもの知らずの普通足がすくみますよね。
でも、ベテランのリーダーの教えてくれた方法のお陰で、何故か全くといっていいほど怖い思いをせず、登頂することができたのです(帰りは、垂直の岩のクラックに杭を打ち込んでハーネスでストンストン降りたので、楽でしたが)。
その方法とは、まず、10人程の隊列の腰のハーネスを、1本のロープで結ぶこと。たったそれだけです。崖の道を進んでいかなくてはならないのですから、杭を打ち込んだり、誰かに助けてもらったりはできません。
ただ一本のロープで結ばれるだけではなく、確かこんな編成だったと思います。
まず、サブリーダーが先頭を行き、ガイドをします。その次の先頭は、隊の中で一番ペースの遅い(確か若干肥満気味の少年でした)初心者、次にあまり自信のない初心者、私は真ん中より前よりでした(つまり、初心者寄り)。後ろになるにつれ、足が速く山に慣れたメンバーとなっていき、最後尾にリーダーが全体をチェックし、重心のバランスなどの指令を送れる位置についていたと思います。
はっきり言いますが、これは、たった一人が足を踏み外して崖下に落ちれば、全員が一蓮托生にならざるを得ない、という構図です。
だれも置いてけぼりにならないよう、歩調に気をつけるために先頭の方に敢て足の遅い者を着かせるのです。私は私以外の唯一の女子と前後していました。隊列には顔見知りの人もいましたが、その時初めて顔を合わせた人も何人もいました。
当然慎重に、歩を進めてはいましたが、その時はっと気づいたのです。
初心者(もちろん自分も)も含めて、だれもびびったり、足が震えたりしている人はいない、ということ。
自分が落ちれば、他の人も当然巻き込まれて落ちてしまうのが分かっている状況の中で、初めて会った人も含めて、全員が完全にひとつの信頼で結ばれている、という実感。一人ひとりが、全ての仲間の命の責任を負っているという感覚を研ぎ澄ましているので、しっかりとした一歩一歩を進められているというわけです。
同じ目的を分かち合った、運命共同体。個々であっても、ひとつの命。
多分、落ちてもだれも恨まないだろうと思ったけれど、それより、まず、本当に落ちるという不安が頭によぎることもなかったわけです。
登りきって喜びを分かち合い、絶景を見ているうちに、とても清清しい、不思議な感覚につつまれていました。私だけではなく、そこにいるメンバー全員がそれを感じていることも分かりました。一見無謀に見えても、実に確かな経験則に基づいた合理的なトレーニング法だとも思った。
まあ、そのトレーニングは一にも二にも、その時っきり(雪山で少人数で同様のトレーニングをアイゼン着きで一度行ったけど)で、登山も、一度富士山より少し高い山に一度登頂に成功したっきり、殆どの装備を置いたまま日本に帰ったので、登山歴といっていいようなものは一切ありません・笑。

でも、そこには、確かな、本物の「連帯感」というものの最初の実感があったと思います。
まあ、ストックホルム症候群なども、同じ文脈で起こってくるのかもしれませんが、敵味方なく、同じひとつのいのちを体験することに、いいも悪いもないと思います。真の連帯とは、シンプルに自他を超えた命の豊かさと素晴らしさを知るためのひとつの指標として経験され、継がれていくための礎なのでしょう。
強制されることからは程遠い所に存在する、純粋な「縁」なのだという気がします。


04. 2012年8月07日 19:28:11 : Xs0Gj9F23E
03訂正
×いくら怖いもの知らずの普通→○いくら怖いもの知らずの血気盛んな若者でも普通

05. まとおせ 2012年8月09日 04:45:20 : Me4k2P.uy0AaY : ulsFpV1L3E
どーも、どーも、恐縮。

愛は地球を救うとか、いかがわしい宗教もどきがはやるのも、連帯感を人は渇望しているのだと思います、しかし、お手軽や疑似から、深みに到達はできません。

生きる意味を「与えて」ほしければ、新興宗教に入信するが早いと思います。

人は、人と人とのつながりを実感するなかに、人の生きる意味を実感します。それは、人の生きる綱渡りに、多くは仕掛けられていない。あえて捕まえようとすると、ばばをつかまされることまれではありません。

僕は一度、道路工事で建築資材を下ろす作業中のレスラーのような労働者が、トラックから資材の下ろす位置を、離れた位置から、目と手で、指図をしていたのを目撃しました。車の数珠つなぎなんか無視していた。神々しかった。ブルーカラーもホワイトカラーも、給料の安い高いもない。仕事に対する神聖な人の姿に感動したのを覚えています。

五木寛之のあるエッセイに、浜辺で砂地から出られなくなった車を、誰が音頭を取ることもなく、通りがかりの数人が一緒に車を押して、やっとのことで砂地から解放するのを見て、将来の世の中のあり方のヒントを得たとか書いていたのを覚えています。

感動を受けたあなたの経験、そしてぼくや、五木の目撃からの感動、共通するものは、「無我」、「無心」、「無償」という言葉が当てはまると思います。

そしてそれらは、人の生きる意味にヒントをあたえる語彙群だと思います。

あなたの経験からの、「一蓮托生」、そして「弱いものにあわせる」思想も、それに加えていいと思う。

その対極にあるのは、「我欲」、「邪心」、「打算」、前者のグループの言葉だけで、生きられるわけでないし、後者のみで生きても生きる価値もない。

たいていは、人によって、調合は違うけど、無意識にミックスさせながら、生きていくのでしょう。小天使と小悪魔が同居しているといっていい。

「強くなければ生きていけない、やさしくなければ生きる資格もない」とはよく言ったものだ。

あなたは、
<真の連帯とは、シンプルに自他を超えた命の豊かさと素晴らしさを知るためのひとつの指標として経験され、継がれていくための礎なのでしょう>

びしっと、私がグダグダ書いたこと、茫洋として定義できなかったことを簡潔明瞭にまとめられている。

脱帽、そして感謝。


06. 2012年8月10日 03:29:08 : Xs0Gj9F23E
私の拙い文章お褒めいただき、こちらこそ恐縮です・笑

完全な善人など、この世に存在する筈もありません。
でも、人は自分こそ善意の人だと、世間に宣伝したがる。そして渇望の強い者ほど安直な自己満足を手に入れれば、その時はほっと胸を撫で下ろす。
何が善だ悪だということを問題にしてもきりがないので、今は問題意識さえ起こりませんが、なんか最近は、安っぽい感動話や薄っぺらい人間観や美学がやたらと切り売りされていることに、暑苦しさや息苦しさを覚えることが多くなりました。去年の311のあとの、ACとやらの洗脳的CMがしつこく流れるようになってから以降なんか特に、洗脳されない奴は非国民、みたいな観念までセットになって蔓延するようになった気がして、うんざりするやらシラケるやら。
まさに小学校の時の連帯責任で正座させられたあとのような不条理感が漂っています・笑

まあ、そう感じている人も少なくないとは思いますが、私は「絆」という言葉はやっぱりどうも、好きになれないというか、しっくりこない方です。
そもそも、動物を逃げないように、或いはコントロールする為に縛り付けておく紐とか綱のことを「絆」と呼んでいたはずです。上の立場の者の都合で、懲罰的に条件付けされるというニュアンスの方をついつい想起してしまうのです。
愛の絆、家族の絆、みたいな言葉にもなんだそりゃ、愛の鞭の類の美談ごかしかいな、みたいな感じで、重苦しい。愛に絆はいらない!絆が必要だったらそんなのほんとの愛じゃない!とまではっきり言い切ってしまうたちなので、20年以上連れ添ってる夫共々、結婚指輪の交換とかだるいという所でも気が合った結果一緒になったというわけで、今までお洒落で買ったものはあっても、普段からつける結婚指輪がないため、夫婦かどうかの確認は傍からはしにくいかも知れないけれど、なんとなくほぼ常時一緒にすごしてるので、自分はもちろん周囲も関係に疑問を持ったことはないと思う。
お互いの自由意志を尊重した結果、自由意志で気がついたら一緒にいる方が安心できて気楽、という感じになってるんでしょう。真の連帯感、というほど高尚な感情ではありませんが、なんとなくだらだらつがいになってる方が自然だな感で、そうお見せするほど美しいもんではないのですが・笑

多少補足を兼ねて書いてみますが、03の中で、登山訓練の時、腰のハーネスを一本のロープで結ぶだけ、と書きましたが、正確に言うと(といっても正確な記憶、にすぎませんが)、確か結わいつけるのではなく、一本のロープを、それぞれのハーネスの輪っかの中に通しただけでした。当然、その気になってハーネスの接続部を緩めればいつでも離脱可能な状態です。まあ、余程の精神病者でもない限り(ひょっとしたら、そんな人でもあの体験でシナプスの回路が正常化するかもしれませんが・笑)、誰もわざわざそんな馬鹿なことを考えたりはしなかったでしょうけど。
だからかも知れないけど、絆なんて言葉より、「命綱」という言葉で連帯を表現した方が、私的にはしっくり来る。命綱というと、何か頼もしい感じ(若干仰々しいけど)がするんですが、絆と聞くと、妙にどこか諦めるか、さもなきゃどうせあたしゃ何の役にもたてませんよ、といじけて逃げ出したくなってしまうような感覚が漂ってくるんです。
日本という社会に、若干不適応を起こしているのかもしれませんね(それとは別に、この国の風土も文化も、人々も大好きです)・笑

まあ、そろそろだらだら書いてきたことをしめますが、文字通り、命を繋ぐ、結びあうという意味で、真の連帯というものが自然の縁であり、その究極は命綱なんだとしたら、それは、上から組織されたり、関係の持続を義務づけたり、漠然と助け合いとはこういうものだルールを押し付けあったり、ましてや責任の所在を曖昧にするために、分散してごまかしたりするもの、すなわちこれまで多く「絆」の名の下に定義されてきた「恣意的な関係性」とは全く次元を異なえたものだと思うのです。
私にとっては、真の連帯とは、すべて「一期一会」なのです。

かつて岩山でトレーニングしたメンバーとの交流は、登山隊にいた2年ばかりのわずかの期間に、数回か、多くは一回の出会いしか保っていません。それでも、繋がりあえたという確かな記憶は、今も色あせず残っています。
もちろん、関係が自然と続くこともありますが、それも、もとを正せば、やはり遍く在る一期一会がその都度顕現し、大きな輪を形成した結果なのだと思います。
静かなる、共鳴の連鎖といいますか・・・。
日々が一期一会なら、毎日が新鮮な発見と驚きと、そして感謝に満ち溢れることができると思っています(とか言ってる私も、最近はダレてるので、もう少し気を引き締めたいと思ってますが)。そんな気持ちになれれば、安易に新興宗教の救いの類や、絆スローガンにすがる心理的必要性依存性も、自ずから影を潜めていくでしょう。

また、一期一会とは、真の「誇るべき仕事」にも生かされてきたベースなのではないかと思います。
登山隊のリーダーや、長老のコーチ達にも、そういう姿を感じました。
私は高校で、いろいろな専修コースについたあと、機械工を専攻していましたが、ブルーカラー労働者に本気であこがれていました。ですが結局そういう仕事にはつけず、普通の女性がやるような仕事を転々としたあと、結婚し、子育てに惚れ込んでしまいました(もっとも、育てた女の子は2人とも、見た目は可愛い方だと思いますが、上は元スポーツやゲーム万能のガキ大将だった声優、下の子は、バイクとエレキ含むギターと釣りと、昆虫や爬虫類を含めた生き物全般が趣味のフリーターと、ちょっと女子離れした腕白娘になったのは、私に似たからか)・笑
あなたの目撃した、労働者の方の姿は、本当に体の隅々に、仕事の安全と効率をはかる為の優雅な、経験に裏打ちされた動きが染み渡っていたのだと思います。格好は土方(差別用語すみません。ただ、大好きな美輪明宏の、ヨイトマケの歌に敬意を表して)然としていた可能性もあるかもしれませんが、まるで、大きなコンサートホールで、タキシードを着て素晴らしい演奏を紡ぎだす、名指揮者のようなオーラを放っていたのではと想像します。そういう姿を見て、美しいとか、神秘性を感じられることこそ、本当の豊かな感性なのだと思います。

とまあ、ここでのやりとりも、やはり、一期一会でしたね^^。


07. まとおせ 2012年8月12日 19:42:38 : Me4k2P.uy0AaY : ulsFpV1L3E
「自分の利益」になるから人は連帯するのだと思います。

利益のための言うのは、新自由主義義者のマネージャーたちの、
俺は、「労働者首切りして人件費、10ミリオンの利益出したのだから、5ミリオンボーナスもらって何が悪い」というのではなく、自分自身の存在、尊厳を守るために(自分の利益)立ち上がり、連帯するということだと思います。

それをはっきりさせないと、連帯が「滅私公奉」、「絆」が、言葉は悪いですが「ヒモと情婦の関係」、あるいは、「敵前逃亡銃殺」と同じことになってしまいます。

私はなぜ、個人にこだわるのかというと、その一つに、私の先輩に、正義感の強い勉強のできる人がいたんです。あなたが子どもの頃テレビで見た事件に、巻き込まれはぐったんです。その人は、幸い、事前に逮捕されて運動を離れたんですが そのまま、強い「きずな」のもとに「連帯」していたかと思うと、いい気持ちはしません。

私の小学校時代、M君がささいな悪戯をして、先生を怒らせたんですね。懲罰はクラス全体にわたり、次の体育の授業がつぶれ、教室に残って自習になりました。今でも覚えているくらいだから、相当がっかりしたのだと思います。その女の先生、校長に理不尽な小言もらって、機嫌が悪かったのか、家で面白くないことがあったのか、いまだ不明。

宗教が生活の原理になる暮らしというのは、うらやましい部分もあるのだけれど、私自身は、多少の混乱は受け入れても、個人の自由が基盤になる暮らしを選びます。今の日本は、どちらでもないと思います。近代主義と伝統主義が世を仕切る者たちに恣意的に取捨選択されている。

プライベートな人間づきあいで、真の連帯って、それほどインテンシブなものでないかもしれませんね。君子の交わり水のごとしという言葉もあるくらいだし、自身の「群れない」という強がりもあってか、私も精神的に頼りにしている人とは頻繁に会いませんし、たいした話もしません。それでもつながりを感じます。

男女の関係でも、たいていは日常茶飯事で一日が終わりますけど、何年単位ぐらいで振り返って、その関係が分かるぐらいかな。一日30分ぐらい、あるいは一言、一しぐさでもいい、インテンシブな情緒的、精神的な交流があればいいとおもう。今死なれると互いに途方に暮れると思います。一姫二太郎ですけど、どちらも成人で、「一応」独立してます。

以前、生き方のこと、将来的なことで、あれこれ考えたり、くよくよしたりしたことありましたけど、最近は「世の中、不安定が当たり前」と思い、明日がどうなるかわからないのだから、刹那主義や享楽主義とは違うんだけど、「今、ここで」楽しめるんだったら、集中できるんだったら、集中して、そして楽しむことにしてます、

一期一会のバリエーション(?)。読んでて書いててエンジョイした。


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