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ラマダーン 断食月
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投稿者 あやみ 日時 2012 年 8 月 08 日 14:11:25: oZZpvrAh64sJM
 

つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-97.htmlより転載

イスラム世界は去る7月20日を以ってラマダーン−断食月を迎えた。星降る新月の夜から30夜数える次の新月までのあいだ、日中の飲食を絶つ。今年の断食月は夏の盛りにやって来た。

イスラム教国はみな、西暦とヒジュラ暦の両方を使っている。行政は西暦に沿って行われ、信仰に関わる行事はヒジュラ暦が用いられる。
日本の旧暦とおなじく太陰暦であるヒジュラ暦は新月から新月をひと月(平均29日半)とするために西暦よりも11日ほど早く一年が終わってしまう。しかし閏月を設けずに数え続けるので季節は次第にずれてゆく。33年で、一巡する。


断食といってもひと月丸ごと飲まず食わずで過ごすわけではない(無理)。教義にもとづいて飲食から遠ざかるのは空が白みはじめる時刻から日の入りまでである。モスクから響くアザーンの声がその時を知らせる。日没とともに飲食の禁は解かれ(イフタール)、一杯の水から食事を始める。そして真夜中にまた食事をとり翌日に備える(サフール)。

夏は日がながいので断食する時間も長くなる。ここトルコでは毎日およそ18時間、真昼は40℃の猛暑、今年を挟んだ数年は最もしんどい断食月を過ごすことになる。逆に南半球の国々では真冬である。こちらで渇ききっている頃にあちらでは寒さの中で空腹に耐えていることになる。そして16年ほど経てばこの季節は逆転する。なぜか公平にできているこの仕組みは地球が丸いことなど知られていなかった時代から守られている。


仏教の世界でも座禅や無言の行などとともに断食は精神修養のひとつにかぞえられており、日本人からしてみればそれほど受け入れがたい習慣ではなく一般人でも専門家の指導の下で体験できる。そして断食は体の働きを整えることもよく知られている。しかし大きな違いは、日本では断食がもともと僧の修行としての色が濃いのに対し、イスラームのそれは教徒すべてに義務として課されていることである。

断食の義務はイスラム教徒としての自覚が持てる年にまで育った男女のうち体と心に病がない者にあるとされる。妊婦や乳飲み子を持つ母親はその限りではなく、母子のどちらかに害が及ぶようであればしなくてもよい。産褥期と月経中の女性は体調に関わらず断食しない。日中も薬の投与を続けなければならない病人、断食することで回復が遅れる病人、怪我人、また虚弱者も断食してはいけない。そして気のふれたものが断食をしても、させてもいけない。

イスラームの断食は、クルアーンに神がそう望んだとのみ記されておりなぜ行うのかは触れられていない。もとより神の望みに勝るものはなくその理由を突き詰めるなど畏れ多いことではあるが、単に飲食から遠ざかるだけの行事と捉えていたのでは意味がない。

日没までの断食をどう感じるかは人それぞれ、しかしどんなに辛かろうが終りがみえている。日が沈めは食べ物にありつけるのだし、なにより断食月は次の新月になれば終わるのだ。いつ終わるか知れぬ飢えに苦しむ者たちがいるこの世、たったひと月の断食で彼らとその苦しみを「分かち合う」ことなどできまいが、しかし少なくともそれに思いを馳せることはできよう。ここが断食の入り口である。

一杯の水に喉が鳴る。これを堪えることができるならば、もはや奪うことから遠ざかることができる。
あと少しで日が沈む。これを待つことができるならば、もはや目先の欲に狂うことはない。
内側にある「欲」が爪を立てる、この獣を飼い慣らすことができれば、人の道を違うまい。

人々はそれを試されている。

心のありかの体はどうか。

心にくらべて体のほうはもっと賢くできている。十数時間の断食は最初の数日こそ堪えはするがその後はすんなりと慣れてしまう。消化器も泌尿器も、限られた水分と栄養で一日をどうやりくりするか勝手に考えてくれる。白く乾いてしまった唇も三日もすれば元に戻る。

中が空になると胃は何か溶かすものはないかと盛んに働き出す。このときの違和感が空腹感である。溶かすものが見つからないとやがて停止する。腸も胃が動かなければ仕事をやめる。食べる暇がなくて空腹をやり過ごしてしまうのはこれである。しかし自らを維持するために常に栄養を求める体は胃腸からの栄養補給に見込みがなければ別の行動に出る。

血や臓器の中の脂肪や毒素を分解し栄養として消費し始める。体に停滞し濁った水分を絞り出す。

たとえば日本の子供たちの多くは空腹を知らない。それだけ食べ物が有り余る証拠だが、過剰な栄養を摂り続けた子供たちの体には消費しきれなかった養分が居座り、その子の体のつくりによって肥満や虚弱、あるいは病の種となる。いずれ成長した彼らはすでに物騒なものを体の中に抱えており、その体がいつ襲われようが不思議ではない。さまざまな成人病、あるいは癌がそれである。

ほとんどの病は生活習慣病であって、癌を体質だの遺伝だのとするのは大きな誤解である。遺伝するのは体の特徴であって癌ではない。生まれた後の悪習慣に作られた毒素が親から受け継いだ体の弱いところを選んで虐め、そうして病をつくる。体質などというものは自分の体をよく知ってさえいればいくらでも作りかえられる。
月経中や産褥期の女性が断食を許されないのは穢れた存在として差別しているというのもまた誤解である。この時期に古い血は失われ新しく作られる。すなわち体の浄化が行すでに行われている最中に無用な負担をかけないためである。


「たべる」こと、人にとってこれほど重要なことはない。
しかし今やこの行為と上手く付き合うことのなんと難しいことか。世界を見れば、戦争や旱魃あるいは貧しさからひもじい思いをする者の数と、そして飽食による肥満と病に悩む者の数はほぼ等しい。この世から飢餓をなくすためと銘打たれて世に出た遺伝子組み換え食品はその恐ろしい正体が暴かれつつある。農業から離れた市民は地球の裏側から農薬でまぶした食べ物を買い付ける。食品産業は消費者の味覚と視覚を刺激するために手をつくし、その後は医療産業がいろいろと手をつくしてくれる。そのときにはもう限られたものしか口にできない。
かつては土地のもの、季節のものしか手に入らず、収穫期には冬を越すための保存食を家々で作った。食べられないところは牛にやるか、肥やしにするか、乾かして焚きつけにした。
かつては医者もいなければ、病人もそれほどいなかった。

断食には、身に余るものを使い果たし、血を清め、穢れを体から押し出す力がある。
日没までに幾度か感じる空腹などは、そのときに体の悪が退治されていることを思えば、心地よい。

しかし胃や腸の壁が荒れている人はこの退治がはじまる前に降参してしまう。胃腸が自身を溶かしだすからである。言うまでもなく胃腸の荒れは生活の荒れの現われであり、ここを正さない限りは始まらない。だから酒や煙草、過食、好色、過眠、怠惰、体に害を為すほど働くこと、悪感情を抱くこと、これらはクルアーンに「避くべきこと」として記されている。この世で生きるための体は神からの「預かり物」であり、それを粗略に扱えば病という形で罰が与えられる。それでも悔恨せぬ者はあの世でさらに痛い目をみると、そう記されている。

絶えず何かを飲み食べする、煙草が離せない、そういう癖があると人よりも辛い思いをする。断食の辛さは日ごろの悪癖の裏返しとも言える。そして夜明けの礼拝を欠かさない者は食事のために真夜中に起きることも苦にはならない。

そして日没、空になった胃袋は思ったほど食べ物を受け付けられない。まず水を飲み、そして水分の多い食事を少量とる。胃腸を疲れさせないよう獣肉や卵はなるべく避けチーズやヨーグルトなどの発酵食品をえらぶ。野菜と果物は季節のものを摂るとよい。夏、スイカやきゅうりの繊維は腸にとどまり水分を長時間保持してくれる。体を冷やす夏野菜を天日で干すとその効果が 逆になり、冬に体を温める食材になる。そして柑橘類は冬の渇きを潤してくれる。

そのひとくちを噛みしめるたび、日々の糧に感謝を、そして事欠く者たちのために祈りをささげる。

世の中を人の入れ物と考えるとどうなるか。

働いて富を得ることを悪とはしておらず、むしろ奨励するのがイスラームである。ただしひたすら蓄財することは堅く禁じられている。世の中の富とは体にとっての栄養のようなものであり、滞れば脂肪や病巣にしかならないのである。富めるものは喜捨(ザカート)をして弱者を助け、寺院や学校、井戸や道を作らねばならない。そこで雇用がうまれればその富は分配されて世の中が成長する。弱者たちは世の中に守られる。

富める者、力のある者が欲に任せて富を掻き集めれば、弱い者は虐げられ彼らの中にも恨みの火がともる。それは鎖となり世の中は腐れゆくだろう。だからこそ神は富を吐き出すことを命じている。

断食月のあいだ人々は貧者に施しを惜しまない。近所衆や親戚のなかで困っている者はいないか、食べられない者がいないか調べて助け合う。モスクの前の広場には仮設の食堂が設けられ、誰かしらの寄付によって毎晩のように食事が振舞われる。日々の暮らしに事欠かない者たちも勿論この食事に加わることができる。賑わえば、賑わうほど神は喜び、あまたの加護が降り注ぐからである。

常に神の加護を求めて行動することこそがイスラームの根本であり、どうするべきかはクルアーンにすべて記されている。厳しい修行で悟りを開くことは求められておらず、生き方に対する回答を最初から与えられている。どうあるべきかは預言者ムハマンドの生涯がその手本として示されている。

「ラマダーン」は「断食」そのものと解されがちだが元は太陰暦第九月の呼称である。六世紀の終わりにメッカに生まれたムハマンドは毎年ラマダーン月になると山の洞窟で瞑想をするようになっていた。610年、齢40を迎えたムハマンドがこの年も洞窟に篭っていると、ジブリール(大天使ガブリエル)があらわれてムハマンドが神に預言者として選ばれたことを告げ、そして最初の啓示が与えられた。ラマダーン月も終わりに近づいたある日のことである。その後22年にわたりムハマンドを通してこの世にもたらされた神の啓示をまとめたものがクルアーンである。イスラム世界は今もこの日の前夜を「宿命の夜」と呼び深い祈りのなかで朝を迎える。ひと月近い断食が終わろうとする頃、醜い穢れが拭い去られようとする頃である。

クルアーンは決して難解な書ではない。イスラム教国に生まれさえすれば誰でもその文章を理解することができる。しかし文章を解するのと心のなかに刻むことは同じではない。石油太りで身動きのとれない王族も、痩せた体で痩せた土を耕す民衆もいずれもイスラム教徒である。欲に羽交い絞めにされた心は、蝕まれた体に逆らえない心は、富を生み出すためだけにある世に生きる心は乾き萎縮し固く閉ざされる。そこに何かが沁みわたる筈もなく、父の声、母の声さえ届かない。ましてや姿の見えない神の声がどうして聞こえようか。


「人々よ、なぜわからぬのか」「いつになればわかるのか」

預言の書クルアーンは始終そう問いかける形で書かれている。あたかもこの世が神の望まぬ姿に向かって変わりつづけるであろうことを示すかの如く。それがこの世の宿命であるならばそこに生きる人も宿命を共にする他ない。しかし逆らい得ぬ宿命の中にあっても神の加護を求め穢れを断ち切ろうとする者たちは必ずや、あまねく慈悲につつまれるであろう、クルアーンにはそう記されている。
 

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コメント
 
01. 2012年8月09日 22:43:54 : 8hk0duzcU2
ラマダーン 断食月のこと詳しく知ることができました。こんなに深い意味があるとは吃驚します。


>あたかもこの世が神の望まぬ姿に向かって変わりつづけるであろうことを示すかの如く。
それがこの世の宿命であるならばそこに生きる人も宿命を共にする他ない。
しかし逆らい得ぬ宿命の中にあっても神の加護を求め穢れを断ち切ろうとする者たちは必ずや、あまねく慈悲につつまれるであろう、クルアーンにはそう記されている。

クルアーンとはコーラン(聖書)のことですよね。
イスラム教・・・良い教えだと思います。

日本には、仏教、神道・・・たくさんの宗教がありますが聖書のような神様からの教えが書かれた教典はないように思います。

教典はなくても本来の日本人が持っている気質・性質は他の民族に劣っていないと思います。
怨霊になったといわれている菅原道真さえも神に劣らず人の道を教示しています。

「心だに 真の道に かなひなば 祈らずとても 神や守らむ 」

時が過ぎ江戸時代にもなってくると、脇坂義堂さんが言うには↓のような人が多くなってきたようです。

「欲深き人の心と降る雪は 積もるにつけて道を忘るる。」

さて〜〜現在の日本人はどうなんでしょう。頑張らなければ!!!


02. あやみ 2012年8月10日 08:04:55 : oZZpvrAh64sJM : EEkKogixMY
01さま コメントありがとうございます。

はい、日本ではクルアーンをコーランと呼んでいました。
ラマダーンの意味を全て書くのは不可能ですが、とりあえず。

おもうに、日本は宗教や信仰を政治の道具として使いすぎました。だから政治と信仰いずれも背骨がなくなってしまいました。

日本には絶対神も預言の書もありませんが、別の形で何かが存在していました。それが森羅万象に宿る霊、あるいはホトケであり、それへの畏れから自らを戒めていました。われわれの気質はこれに育まれました。

私がクルアーンを呼んだときに違和感を感じないのは、日本人の先祖の記憶が残っているからに違いないと確信しています。欲を掻いて自由放蕩に生きることを嫌い、むしろ与えられた宿命になかで心の自在を求める、これは日本人、そしてイスラム世界の意識の底にあるものです。

われわれ日本人が苦しんでいるのは、血の中の先祖の記憶と欲に支配された現代社会との不協和音です。切り売りした魂の片割れが泣いているのかも知れません。


03. 2012年8月10日 09:19:29 : mhCaiFHwiA
砂漠の地で誕生した宗教で、宗教らしい戒律が残っているのがイスラム教であると聞いています。日本人は戒律がきらいで、日本の仏教はきびしい戒律のほとんどを捨て去りましたが、仏教の教えの根本は煩悩(欲、貪り、怒りなど)をなくしなさいというきわめて優れた教えです(なくしたらもう人間でなく仏になる)。戦後は祖先の築いた良き伝統を捨て去り、個人主義、物質主義、欲のかたまりになってるのかな。

04. 2012年8月10日 10:01:55 : gbDQ5Xxm9Q

いいお話を、ありがとう

この投稿に拍手を送りました
.


05. 2012年8月10日 22:26:24 : PkZMe8Evdo
ラマダーンは昔、一度だけ経験しましたが、日没からの街の賑わい・ざわめきが今も懐かしいです。
特にその時期だからというわけでも無いのでしょうが、旅人ということで行く先々での人々の親切も忘れられません。
困ったことに西側ではイスラームは不当に悪いイメージが植え付けられています。
そんな中でこういういい記事に出会って嬉しいです。
イスラームに興味のある方がいらっしゃいましたら、井筒俊彦さんの著作などお薦めします。

06. あやみ 2012年8月10日 23:39:27 : oZZpvrAh64sJM : EEkKogixMY
03さま コメントありがとうございます。

平安時代、戒律を守ることは僧に押し付け、中央の貴族は農民から絞り取った年貢を仏像や寺院に変えることで功徳を得(たつもりになっ)ていました。僧も僧兵として武装したり酒色や稚児遊びにふけるものも現れ、農民はといえば疲弊の末に土地を捨てて流浪するものもありました。教えの根本とはかけ離れた煩悩だらけの時代でした。この頃までは仏教は貴族のためにあるもので庶民には馴染みのないものであり、すなわち戒律を嫌って捨ててしまったのは寺院を含める中央政府だということになります。

教えの根本を自分の、とくに権力者の都合で変えてしまうことは、きっとこの上なく罪深いことなのでしょう。

>戦後は祖先の築いた良き伝統を捨て去り、個人主義、物質主義、欲のかたまりになってるのかな

共感します。しかし戦後に先立って明治維新があります。ここが日本の地獄の一丁目。現代の閉塞し腐敗した社会は平安時代にどことなく似ています。国の枠組みを変えないことには変わらないでしょう。ちなみに平安時代の幕が下りたのは武士の登場によってです。

きたれよ さむらい。


07. あやみ 2012年8月10日 23:43:00 : oZZpvrAh64sJM : EEkKogixMY
04さま 05さま ありがとうございます。イスラームについては私などが書ききれるものでは到底ありませんが、またいつか別の話を書いてみようと思っています。

08. 上葉 2012年8月11日 08:39:47 : CclMy.VRtIjPk : DNWvQRrSmM
>>06
 仏教を大衆に手渡した法然・親鸞のことを忘れていますね。『選択本願念仏集』に曰く……

 もしそれ造像起塔をもつて本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望を絶たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多し。もし智慧高才をもつて本願とせば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たむ。しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し。もし多聞多見をもつて本願とせば、少聞少見の輩は定んで往生の望を絶たむ。しかも多聞の者は少なく、少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもつて本願とせば、破戒無戒の人は定んで往生の望を絶たむ。しかも持戒の者は少なく、破戒の者は甚だ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
 まさに知るべし。上の諸行等をもつて本願とせば、往生を得る者は少なく、往生せざる者は多からむ。しかれば即ち弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を摂せむがために、造像起塔等の諸行をもつて、往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつて、その本願としたまへるなり。


09. あやみ 2012年8月11日 10:52:58 : oZZpvrAh64sJM : EEkKogixMY
08さま コメントありがとうございます。

法然時代でいえば平安時代の終わりの荒みきった世に現れました。この時になり大衆に仏教が行き渡り始めます。ただでさえ地獄の苦しみを強いられていた民衆に更なる戒律や苦行は求められる筈もなく、称名念仏一行による「ただただ信じること」を教えた、と、そう解釈しています。


10. 2012年9月06日 11:42:37 : zWFIX8z9m6
あやみ さま
安芸ガラスです。

>ほとんどの病は生活習慣病であって、癌を体質だの遺伝だのとするのは大きな誤解である。遺伝するのは体の特徴であって癌ではない。生まれた後の悪習慣に作られた毒素が親から受け継いだ体の弱いところを選んで虐め、そうして病をつくる。体質などというものは自分の体をよく知ってさえいればいくらでも作りかえられる。

「生活習慣病」、そうですね。
「遺伝するのは体の特徴であって」、その通りですね。

私の生活習慣病は、冬の「喘息と食中毒」でした。
それは、一昨年までです。
知り合いに、「もうあきたでしょ。」と云われ、その癖を薄くすることに発奮しました。

その癖が現れる特徴の体は、3代分の共同作品です。
3代とは、両親、その親、またその親のことです。
私の器官の特徴は、呼吸器官と生殖器官です。
対象物がない冬になると、腰が硬くなります。

ここが、生活に不便な処でした。
使ったら、休ませる、使ったら、休ませるようにします。
そうすると、「喘息と食中毒」が改善され、その生活習慣病を生み出す体の構造が変化し、仕込まれていた3代分の生活しやすい癖が現れてきました。

同じように感じられた人がいたのには驚きました。


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