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Re: 都立工芸高校  ものつくりの学校
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投稿者 彼岸楼 日時 2012 年 12 月 27 日 04:32:10: njbqC.Mf1PyZ2
 

(回答先: 都立工芸高校  ものつくりの学校 投稿者 あやみ 日時 2012 年 10 月 27 日 11:55:00)


 あやみさん、こんにちは。


 工芸高校と云えば、私は過去の何年かを高岡工芸出身の方と一緒に仕事をする機会がありましたが、その方も基本となる技術の大半は工芸時代に習得したものだと語っていたことが印象に残っています。しかし、美大(多摩美?)を卒業し大手の制作会社に就職してからは専らデザインマネジメント(主にデザインマーケティング)の方向にシフトして行った模様です。

 私は県庁所在地の市内に細工場を兼ねた小さな店舗を構える職方の家庭に育ちましたが、兄弟の誰も家業(建具店)を継ぐことはなく、父親亡き後に廃業し、すでに40年近くになります。
 中学時代には据え付けの現場での建具の搬入や襖・障子の搬出をよく手伝わされたものです。時折、祖父の仕事の足跡に触れることがあっても、それが県下にその名を轟かせたような代物なのかどうか、どんなところがそうなのか全く見当がつきませんでした。
 しかし、後に父と親しかった技能検定協会の指導員の方に祖父の仕事について伺う機会があり、疑問の幾ばくかが氷解したと感じたことがありました。微かな記憶を辿ってみますと、手早さは謂うに及ばず、例えば骨縛(?)等の下地造りを均質に、建具にたいする建具枠の歪みの割り付けを均等にと、斯く仕上げることだけが祖父の真骨頂であったようです。

 けれども、そうした祖父のものづくりの精神と才能を父がそのまま引き継いでいたとしたら、おそらく私を筆頭とする三兄弟が大学に進学することは叶わなかったでしょう。
 詳細なデータは手許にありませんが、戦前までは自前で資材を調達して建築業を営む職方の数はここ東京においても僅少であり、大工の棟梁でさえも数多ある手間賃稼ぎ達の頭目に過ぎず、請負主の多くは材木商等の材料問屋であったはずです。
 棟梁が自前で資材を購入、所謂工務店を営み商売ができるようになったのは戦後も60年代に入った頃ではないでしょうか。私の実家がそれなりの店構えになったのも、自己の才能を見切った父親が最新鋭の機械を導入したり金属製建具を手掛けるようになってからのことです。さらには、中規模程度の請負仕事を受注するための設備投資資金や運営資金を信金や信組等から借り入れられるようになり、それを一時的に学資に充当することによって、子息達の高校・大学への進学が可能になったと云うのが大方の職人家庭の実態だったのではないかと想われます。

 ところで、大学の卒業証書のホワイトカラー社会に参入のパスポート化が喧伝されてからかなりの月日が経ち、ものづくりの現場もデザインの過程の大部分がCAD・CAMに置き換えられ、人間は一介のオペレーターに過ぎぬ存在になりつつあります。
 以前、個人的な興味でロンドンのAAスクール[Architectural Association School of Architecture]の学校案内[Prospectus]を取り寄せたことがあるのですが、工芸学校の上級校として相応しいのかも知れないと、そんなことが思い当たったことや、そこにバウハウス[Bauhaus]とは違った躍動感溢れるチャレンジングな姿勢を見たような気がしたものでした。
 現在のことは判りませんが、70年代の英国の業界ではゼネコン受注のものと設計事務所受注のものとに、請負領域における棲み分けが旨く出来ていた様子で、能力のある卒業生ならば卒後の早い時期からコンペにエントリーすることもプロジェクトに参画することもできたと謂われます。

 相当前の古い記憶を振り絞っての返信ですので、多少の誤差や記憶違いを免れません。どうかご海容のほどを。

 Auf Wiedersehen.

 

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コメント
 
01. 彼岸楼 2012年12月27日 05:44:37 : njbqC.Mf1PyZ2 : VffiD18eEs
以下は以前にいただいたあやみさんのコメントの転載になります。


<引用開始>

01. あやみ 2012年12月26日 14:52:57 : oZZpvrAh64sJM : PF7fF4gF8I
彼岸楼さん こんにちは。

私の父方の祖母の妹の嫁ぎ先は戦前からの建具屋さんでした。
彼岸楼さんのご実家とは同業者ですね。都の千本という町の、古い町屋造りの家の奥で仕事をしていました。子供の頃は夏休みになると毎年遊びに行きました。狭い間口をくぐると見世と土間があり、土間から続く狭い通り庭をぬけるとその奥が工房でした。見世と二階が住居部分でしたっけ。あの独特の木の香り、カラカラと鳴る木の引き戸、煤のかかった台所、昨日のことのように覚えています。しかしもうその工房の主はとうに他界し町屋も人手に渡っています。ここ一帯が伝統建築物保存地区にでも指定されていたとすれば残っているでしょうが、そうでなければおそらくは壊されているでしょう。

>詳細なデータは手許にありませんが、戦前までは自前で資材を調達して建築業を営む職方の数はここ東京においても僅少であり…

これはやはり江戸時代の商業形態がふかく関わっているのだと思います。おっしゃるとおり材木問屋と呼ばれる豪商が普請を請け負い、腹心の棟梁たちを不定期に雇う形で建設業を営むのが普通でした。建具屋、表具屋、屋根屋は大工とは別でした。
江戸や大阪などの大都市では大工と町火消しの兼業が見られました(平時は大工、火事がおきると火消しとして活躍)。工務店を○○組と呼ぶのはその名残、やくざだか工務店だかよくわからないのもその名残です。それとは別に宮大工などの特別な職能集団も存在したようです。木曽職人などは律令時代から活躍する木造建築の大棟梁です。

美大、特に私大ですとデザインの現場の即戦力となることが求められてしまいます。「売れる」物を、いえ「儲かる」ものを開発するのは今の世の中で食べていくために進むべき道なのでしょうが、やはり工芸の精神とは別のものでしょうね。

融資や保険の査定には数字や認定書という価値基準がどうしても必要で、それは雇用人数や資本金額であったり、耐火・耐震構造の点数であったり、免許や資格であったりします。職人の腕はそういうものでは査定できないので社会契約上どうしても地位が下がってしまいます。

AAスクールには私の友人も何人か留学しており、中にはそこの講師になった先輩もいるのですが、彼らから聞いた話から感じたのはAAの出身者が強いのはコンペやプレゼンテーションまでで、その先の実施設計や現場管理という現実を迎えると途端に無力になり勝ちだということです。彼らの豊かで革新的な発想を実現させるためには、やはり材料や道具と対話のできる技術者や職人の力が橋渡しとして必要です。

私もCADを使っていますが、これは使用者の癖がにじみ出る面白いソフトだと思います。ただのオペレーションツールとはいい難いものを感じます。絵の上手い次男に使わせてみたら普段描く絵と同じ味わいの画面が出来上がっていくので驚きました。もちろんCADに使われている設計士のほうが圧倒的に多いのでしょうが。まあ何においてもそうかもしてません。

まとまりのない文章になってしまいました。
懐かしいことをいろいろ思い出させていただきありがとう存じます。

<引用終了>


 私(彼岸楼)コメント:

 >懐かしいことをいろいろ思い出させていただきありがとう存じます。

 こちらこそ、あやみさんのご投稿から想い出すことが多かったです。
 また、AAスクルールの出身者に関しては私も同じような印象を持っています。
 嘗て(80年代)の日本にも、MCH住空間研究所等のディベロッパーが主催するコンペが存在したのですが、今はどうなのでしょうか。

 Auf Wiedersehen.


02. 彼岸楼 2012年12月29日 12:23:34 : njbqC.Mf1PyZ2 : Atkkutbst2
 あやみさんへ、

 何かの手違いで、レスに不首尾が生じたのにも拘らず、細やかに意を尽くされた返信をいただきありがとうございます。
 尚、こちらへの再投稿に際し、あやみさんのレス(コメント)については代理投稿(本人の許諾がないままの転載)ができませんので、引用とさせていただきました。ただし、引用にあたり第一段目のタグの位置を入れ違えてしまいましたが、ご容赦のほどをよろしくお願い申し上げます。


 さて、AAスクールの出身者や留学経験者も結構いるようですし、断じてその方たちを揶揄したり貶めようとしたりするつもりはありません。
 むしろ、その作品群の中には“もの”表層(皮)を剥いで表の部分を裏にして縫い合わせては“反転したもの”を新たに生成させようとするような、たとえば“メビウスの輪”に擬えられるような発想が見られ、それが私には非常に新鮮に感じられたものでした。
 プレゼン(基本設計)と云うことでは、現在ではそのための様々な技術・手法が進歩していますが、AAスクールでは早くからモデリング技術のカリキュラムを取り入れていたようです。
 ところが、実施設計から施工計画についてはどうかと云うと、80年代、日本にもAAスクールの出身者の手になる作品が存在したようですが、聞いたところによると、工期は無期限に近い状態で施行計画は無いのに等しく、設計者自ら型枠工事の開始から現場に張付き、内装のかなりの部分を直接関与して仕上げた模様だと、或る作品の見学に行った友人が語ってくれたことがあります。
 しかし、職人や工芸高校出身者ほどに施工技術やプロセス技術に長じてはいなくても、机上の設計を本にただ単に施工の管理監督をするのではなく、絶えず現場に立ってものづくり・手造りの可能性を探求して行こうとする姿勢や精神は捨てがたいものがあると思います。
 後に他の方の作品を作品集や現場で直に見る機会がありましたが、その何れも外観に比べて室内には西欧風や和様折衷と云った言葉で簡単に言い表すことができないような異空間が広がっていました。でも、けっして居心地が悪いことはなく、何か自分が宇宙へと繋がる回路で結ばれているような、どこか懐かしい気持ちになったことを今でもよく憶えています。

 Auf Wiedersehen.


03. 彼岸楼 2012年12月30日 06:29:01 : njbqC.Mf1PyZ2 : Atkkutbst2
 ↑コメント(02)の誤植の訂正

 [誤]“もの”表層(皮)を剥いで⇒[正]“もの”の表層(皮)を剥いで
 [誤]和様折衷⇒[正]和洋折衷

 失礼いたしました。


04. あやみ 2012年12月31日 18:32:22 : oZZpvrAh64sJM : PkFj5K8G76
彼岸楼さま

「Re」という不思議なタイトルだったので気がつきました。この元記事は雑談版一覧のだいぶ下のほうにさがっているので、通常通りにフォローアップをいただいていても分からなかったと思います。
その後突然「Re」が見あたらなくなったのでさらにこちらを見つけました。

>工期は無期限に近い状態で施行計画は無いのに等しく、設計者自ら型枠工事の開始から現場に張付き、内装のかなりの部分を直接関与して仕上げた模様

もちろんそういった方もいらっしゃるでしょう。経済効率の面から考えると大変そうですが、もし状況が許すのならば憧れますねえ。昔の日本の普請道楽にも通ずるものがあります。

施工技術や工程に長じれば長じるほど、異空間を構築する発想は遠のいていってしまいます。残念ですが普通はそうです。伝統が伝統の中で凝り固まってしまうのと同じ原因です。職人や技術者たちと心を通わせることのできる作家あるいは建築家が現れたとき、新しい風は吹くのでしょう。違う役割を背負って生きる人々が互いを補い合って世の中をつくっていくのだと思います。建築の世界の面白さは業種のちがう職人がそれぞれ自分の役割を果たしていく過程にあります。その調和の結果が心地よい空間となるのだと思っております。


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