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これからはすべてが一つ、分離される悲しさはなくなる、だから何でも手放せる
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投稿者 おどろき 日時 2013 年 1 月 09 日 22:59:25: cdMQTlXL/iMSs
 

占星術のジョナサン・ケイナーの今日のメッセージで、「今のあなたの人生で何がそれほど重要で、差し迫(せま)っているように思えているのであろうと、いずれはそれが何の意味も持たなくなる時がやってくると分かっているのは、本当に素晴らしいことではありませんか?  それを励みにしてください。そして勇敢でいてください。」なんて言ってる。

諸行無常を知り、受け入れることで、自分を励まし、勇敢にさせる… 今日はそんな一日でいてください、というわけだね。プラスのことにせよ、マイナスなことにせよ、諸行無常を受け入れた一段高いところに自分の視点を持っていくことが、大切なんだろうね。そして勇敢であろうとする心が大切なんだ。

だけど考えてみると、これからのアセンション後の世界では、諸行無常の意味は全然違ってくるはずだ。個々バラバラに切り離されている世界では、諸行無常を知ることは人生のむなしさ、はかなさを受け入れる断念、あきらめを意味するだろう。切り離される悲しさだね。それに対して、新しい世界では、すべてが一つ、すべてが全体と密接につながっているワケだから、切り離されるつらさとは無関係だ。逆にいえば、何かにしがみつく必要はなくなる。自由になって、のびやかにダイナミックな動きを楽しめるわけなのだ。

ということで、ジョナサンのメッセージは、次のように聞くのがいいのだろう。
… これからは、のびやかな気持で諸行無常のすべてを手放すことができる。人生のむなしさ悲しさとは無関係に。そのことを知って、それを励みに、勇敢に前進してください…

古いものを手放すこと、それがすべて、という今の自分の思いにくっつけてしまった解釈だけど、そんなふうに受け取らせてもらうことにしよう。何しろ、古いものを手放すのも簡単じゃなくて、苦労してるんだ。これからはすべてが一つ、分離される悲しさはなくなる、だから何でも手放せる、こだわりを捨てても大丈夫、… というように自分を励まし、古いものを手放すことに勇敢になろう。ジョナサンの言うとおりだよね。
 

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コメント
 
01. 2013年1月10日 02:11:19 : q931E3NW4E
「分離される悲しさ」というものは、本来この「大いなる(すべてなるひとつ)存在」から分離されることを意味するのであって、物質的なものだけを"現実的存在"として認識するうち(段階)は、到底理解出来ない"ものの見方"である。それらすべてを「古いもの(の考え方)」とする事が出来る。
自然界の法則といわれるものは"遵守すべきもの"などではなく、本来すべての「存在」は「法則と一体」であり、即ち「存在」は"法則そのもの"なのである。つまりそこに見出せる事実とは、「存在は即ち愛であり、そこに流れるエネルギーは倖せそのものでしかない」ということである。故に、これまで歴史の中に謳われた、「ルールや法と云ったものを我々は遵守すべき」と云った在り方自体は、自然ではなく、まったく自然に適さない事が理解出来る。故にどんな良い内容の思想であったり、今の現代的な流れに沿うものであると感じられようと、「何々すべき」と謳われるものであれば、やはりそこに必ず違和感は募るのである。(・・だが、現状を鑑みるに、段階的に新しいものに慣れ親しむ為のやり方は広く模索されるべきかもしれない・・)
「悲しみ」や「不安」を受け止めている状態()とは、その根源的な"一体感"のエネルギーを遮断し受け入れない状況、つまり、悲しみや不安といった「悲壮(ネガティヴ(実際には実存しない))な心理との一体化」により可能となる(故にこれらは持続する力を持たない)。終始望まない事に腹を立てる怒りは、これを持続させる為には嫌悪し続けるものを探し出すしかなくなる。そのように人間は方向付けられて来た。これはやめようと決断しない限り、永遠にやめる事ができない。単純に愚かしい事であると理解すれば、後は離れるだけである。
怒りを捨てる練習をしようと思い立てば、その為の経験が生まれ始める。つまり、あなたの前に経験として怒れることが、あなたの克服したいと云う願望に沿って絶えず生まれ続ける。この事を理解した上で、あなたはそれにトライしていく事が望まれる。そこに段階的な理解の進歩とは生まれていく。あなたが何かに嫌悪しない限り、あなた自身が"それ"を経験することはない。故に、分け隔てなく愛す、違和感を手放す、古い価値観や観念を新たな望ましい考え方、あなた方に喜びしか見出させない「ものの見方」と云うものを理解していく事になる。
古い価値観とは、これまでの永い歴史の中に続いた「教育やしつけの場での刷り込みに依る観念(怖れに因るもの))」や、これまでの社会的規範や道徳といったものを通じて、他者のドラマや周囲の観察を奨励し、そこに"危険を感じ取ることで安全が確保出来る"とした、「ネガティヴな反応」を"義務づけ"て来たことによるものなどである。こうしたものが、永く大衆心理の中に慣例化されてきた"古い価値観"とするものである。
古い考え方の柱となったものは、善悪の概念によるもの、つまり何かは正しくて何かは間違っているといった、自身の目に因る価値基準を他人に当てはめてコントロールしようとする考え方である。これは万人の持つ目(価値観)が一定でない限り(ロボットでない限り不可能)うまくいかない。無理強いをするから問題や争いが起きる(つまり他者に対する信頼や配慮がない)。そこでは常に心の目は閉じられ、故に存在としての自然な欲求が隠され、不満と抑圧の蓄積により"批判"が繰り返される。悪循環のスパイラル。
生に対しての死と云う概念。死はそもそも存在しない。姿は求めに応じて変化し続ける。すべての死はある種"自殺"である。
不安と恐怖の陰に在るものとは、物質的な幸福感のバロメータ。他との比較による価値観。物質的な生に対する執着。保身的な生き方。ものには限りが在ると言う考え方(水は何十億年も繰り返し循環し今尚我々は飲用している)。
解法としては、人それぞれにチャンスと望みは違う。人が人である限り、与えられたものに満足する事などはない。すべては満たされる分以上に行き渡る。それが法則だから。

違和感に敏感であれということ。どんなものであれ違和感を無視しない。そこにあることこそが無視しつづけてきた"受け入れるほかない"一体性の為の自身の問題であり、そこに向き合う事で解決の糸口が掴める。信頼すべき直感とそれを伝える違和感。つまり、コインの一体性としての表と裏。望まぬ事の反対には必ず望める事がある。それを望めぬと考えるのは、つまり自身にそれを望む事を赦さぬのは、自身の中に定着を見せた古い慣習化された価値観によるものである。そこから生まれる感情は即ち違和感としてのものであり、あなたに対する気付きの為のものである。美徳を愛するのはいいが、その裏で無粋な者を見て悪態をつくのを楽しみにしてしまっては、同質も同然であり、それに気づかない。日本で世俗的な"笑いの文化"が発展を見せて来たのも頷ける事である。一方で世の矛盾を認めつつも、そこに後ろ髪を引かれるように葛藤を抱え続けるというのもまた、自称"賢人"にありがちな事で在る。

違和感を手放すには、言い換えれば目にするものに対しての反応を変えたければ、これ迄仕入れた価値観を変える事。望まぬ事を見続けて嫌悪する自身に、違和感をもって気づけたなら、その反対に在る望ましいと感じられる、自己にとって最も理想的な"ものの見方"(観念)に変える事。
全てに対し「心を開く」と云う事。心の目を閉じない事。それが出来ていれば、実際に胸をはじめとして身体が軽くなる。あらゆる違和感が消える。それは即ちなにひとつ誤りや間違いは起こらないという心理状態。愛情を誰に対しても抱くと云う行為が心を開くと云う行為に当る。何が起きたとしても、それは自然なのであり、それを誤りないものとしてあなたが受け入れられれば、万物に流れる波長とあなたは一体となる。万物はあなたに倖せと感じられるものを運びつづけてくる。あなたの想いが全く濁りなく純粋であれば、あなたからすべてに同様の愛は注がれる。

すべての物質的な"死に方"は個性的であり、つまり個性の在り方そのものであり、そこには到底物質的な側面からは理解出来ない間違いのない存在としての「望み」がある。

あらゆる違和感に対して自らを解放する事。望ましくないものを見ても反転し、自身にとって"望ましい"観点をもって万象を見る術を会得する事。そしてその眼差しをもって万象を受け容れ愛でる事。
存在に間違ったものなどなく、それはそれまでの人の目をしてそう認識されていただけのこと。全ての存在は法則と一体であり、倖せの感情のエネルギーで繋がっている。そこに繋がりを断とうとしない限り、苦しみの一切は感じないと云う事。物事を観察しても、そこに必ず望ましいものを見、そしてそのことを深く味わう事。受け入れるべき事が難しいものであれば、そこに"観念"する事。諦める事。これは怒りを押し進めた後に到来する虚無感ではない。すべてを捨て去り新たなものを受け入れるスタート地点である。それは自然のエネルギーと一体となる事。万物を受け入れる事。感謝する事に当る。
その一歩は例えて、凍った路面に不安なき一歩を置くと云う事。それが場の一体感であり、そこに調和が生まれる。それが違和感を消していく、と云う事になる。すべてを信頼し愛すると云う事に当る。
そのように人の一挙手一投足は、常に法則と一体であると云う事。それが現実としての経験をつくり出す。最終的には、すべては自然と一体となると云う事が喜びであることを意識的に理解することとなる。

すべての個性としてのあらゆる側面を受け入れると云う事。
死という"形"はなんら間違いの無いものであると云う事。
聞こえぬものがあり見えぬものがあるのも、それも間違いでは無いと云う事。見たければそれを求めるという事。求めたものは叶えられると云う事。
つまり何一つ、怖がらないと云う事。怖がりたければその体験は可能で在ると言う事。

これらの事をひとつひとつ自身に言い聞かせる迄もなく、あなたが倖せのエネルギーの流れから切り離された事はこれ迄一度たりとも無いと云う事をそこに思うということ。
すべてはそのようでないと見えたとしても、それもまたあなたの目でそのように見ている間そうであるということ。すべては個性的で、すべてはそれぞれの価値と基準をもつ。


02. 2013年1月10日 20:58:45 : 3SLJiB28y2
つまり、全てが一つに成る前に古い物を捨て去ってしまうのは、愚の骨頂と言うわけだ?。

03. おどろき 2013年1月11日 07:18:42 : cdMQTlXL/iMSs : LGBK3k4Gmo
古いものに囲まれたまま、じっとしているだけだったら、何も起こらない。
まずエンジンのキーを回す。そうすれば、車は動くようになっている。
捨てようと思うことが、エンジンのキーらしい。

04. 2013年1月12日 00:36:39 : q931E3NW4E
>02
いつの時代でも、"古いもの"が生まれるのは、"新しい価値観"を得たときであり、自ずと新しいものにとって代わって古いものは捨てられる。あなたの言う"愚の骨頂"という言葉の価値は、勿論"新しい時代"に生きる者にとっては、まったく響かない無価値なものとなる。批判的なものの見方は役に立たなくなる。
ここで言う「新しいものに変化していく」の"新しさ"とは、何も目新しいことであるのではない。謂わば、それが自然の本来の姿で在っただけのことがこれ迄久しく続いた価値観の所為で新鮮なものとして感じられるだけのことであり、実際はそこに本来の姿を取り"戻していく"と言えることなのである。

物質的な世界の生活で培われた"限界"という境界線に囲まれた「固定観念」が、何ら意味を持つことのない"世界"に、我々は今この状態のまま足を踏み出していく。密教(仏教に非ず)や神道で言われた世界に、徐々に一般的な認識が理解を示し近づきつつ在ると言う事である。我々は元々そうした存在で在るという事実をこの段階に自覚する様になる。つまり物事への執着が薄れていく(限界が消え、恐れや不安がなくなる)。そこへは、これから"全てが一つに成る"のではなく、「今迄も実はずっとそうだった」と云う事に、段階を経て僅かずつ気づき(根源的な記憶を思い出し)始めて行く、という手順が踏まれる。そこで、あらゆる違和感は消えていく方向性のみにある。

何をあなたに赦すのも、あなたの意思だけがそれを可能にするのであって、これは"周囲"があなたに働きかけ、"強いる"類いのものではない。そしてまた、これまでのあらゆる全てが捨てられるべきである訳でもなく、これ迄通り基本的な「生きる」生活の為のスタンスを崩すような変化が待ち受けている訳でもない。しかし実際大きく変化するだろう。誰も他人に何かを強いる事は不可能だと悟る様になる。これまでの普段の生活の中に在ったものは、よりポジティヴな見方のものとして変化し、実感を伴う経験の質や内容は大きく変わってしまう事になるだろう。勿論ポジティヴな意味で。あらゆる面で変化を受け容れるに伴い、"自分と云う存在"の価値の再発見はそこに積み重なっていくものと予測される。

これ迄も個人の力は大いにそのように働いていたのであり、個人の判断が常に自身の見る世界を動かし変えて来た。それはしかしその殆どが、「周囲へのネガティヴな反応」に拠るものに限られていた、と云えるのである。

>03

20:13時の計時周波数の変化

意識が変わり、時の境界が融ければ、これ迄の概念で言われていた時は消える。
過去も未来もすべて同時に起きている。つまり因果率などそこには無い。すべては存在する。思えばそれはすぐに形になり、物事はただ生まれ続けるだけである。
「すべては始まりであり終わりである」というような矛盾性も、容易に万人に受け容れられるようになると、物事の変化が加速度を増していく。
そのことにより意識がポジティヴに変化しはじめていく。それに乗るか乗らないかは各自の性格、そして段階、そして意識の差に依って、存在するだけ数限りない道をそれぞれに歩んでいく事になる。が、ほぼ概ね人は自身の魅力が増す方向性に飛びつく事になるだろう。それが一律同じ道ではない事も確かである。
無論、これ迄の強制的な社会観や論調が好きなのならそれを追い求める事も出来る。しかし、それは新しい価値観の下ではなんら意味を持たないものになるだろう。本来の人の心には響くことはなくなるから。そしてまたもうしばらくは古いまま続くだろうが、いずれはまったく違ってしまう事だろう。それはしかしかなり近い将来である。

人本来の自由とは、一人一人の意識の働きかけ(境界線を持たない意識:つまり嫌悪したり批判したり、正しいとか間違っているといった基準によって、身の回りの出来事を決めつけ判断することが無意味である事に気づき、ただすべてありのままに見つめ、受け容れ、阻害せず、ただ感謝し尽くすと云う事)によって実感することが出来る。執着しないからこそ捨てられるのであり、良かった出来事も思い出さずとも、消える事はなく存在しうる。その「すべてただ在る」の状態を"そっとそのままにして"於くからこそ、愛でられるのであり、故に「執着しない」事が可能なのである。改めてそこに言えることは、「同時に全く正反対とも言える波長に自身が存在する事は不可能である」。
自身の「感情の価値」(本当は何が平和を維持して、何が負の連鎖を生み出しているか) に気づき、理解さえすれば、あなたが問題に巻き込まれ、あなたの行動が如何に間違って居らず、正しいと主張したい衝動に駆られても(つまり他者を批判したい現場に出くわしたとしても)、あなたはその「けして人として"無視出来ぬ"問題」(いずれ古い価値観に属するようになる)を考えるのを"後回し"にすることで、嫌悪な状態に反応してしまう事を防止することができる。あなたが嫌悪する対象と同質に陥るのを踏みとどまる事が出来れば、ただ「倖せな状態のあなた」と一体である事だけに集中し、維持、持続する事だけが重要な事であると感覚に理解していく。それが慣習化されれば、あなたは神性としてのあなたと一体となる事になり、更に理解が深まる出来事が起きる。いづれは、ただどんな時でも眼前の空(くう)を見つめ、心の姿勢を立てて、穏やかに"神降ろし"と言えるような張りつめた空間に自分を置き、「倖せ(健康、豊かさetc.)な状態(バージョン)の自己」を絶えず自身に"合わせる(一体化)"事だけを望む様になる。そこにパワフルなあなたが絶えず生まれる。そうなれば、あなたは易々と嫌悪するような事はなくなり、変化した自分の日常に良い意味でおどろきたじろぐ事が増えていくだろう。自身のその力を信頼し、あらゆる問題を波立てる事無く、解決していく事があなたの本来の力である。それが可能となる。
それは求めるものに約束された結果であり、祝福されると云う事が何を意味するか増々理解する様になる。そしてあなたは世界を受け容れていく。
よってそれをただ受け入れる事。そうした中に新たな価値観は絶えず転がり込んでくる。


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