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不老不死はどこにある
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投稿者 あやみ 日時 2013 年 2 月 19 日 07:07:08: oZZpvrAh64sJM
 

つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-110.htmlより転載


「長生きしたらあかん、いらん恥かくばかりやで。」
筆者がまだ学生の頃、京都の祖父がそういったのを覚えている。

頑固でへそ曲りの祖父だったが、「長生きしたらあかん」のはそれほど特殊な考え方とは思えない。むしろ「長生き」は父母やつれあいという大事な人がいつまでもそばに居てほしいという周囲の願いか、あるいは「はよう死ね」とはまさか言えない相手に対し使うことばなのかとも思う。

わが国の芸能にも長命を寿ぐ出し物は多く、「不老長寿」「千秋万歳」などは決まり文句として知られている。長く生きることは好いことであったに違いないだろう。
寿命の短い昔であればなおのこと、病を得ず、思い煩うことなく、人から謗られず恨みを買うことなく天寿を全うするのであれば目出度きことこの上ない。だがそういう生き方が難しくなった今は逆に医療が進み重い労働からも放たれたために寿命だけは延びた。「長生きしたらあかん」のは人にもよるのか、人をとりまく世の中によるのか。

 

秦の始皇帝のころ、「不老不死」の仙薬を探してわが国までやってきた人物がある。

その名は徐福、司馬遷の「史記」にその実在が証されている。
徐福は斉の国、今の山東半島のあたりに紀元前三世紀の後半に生まれた。この地方にもとよりあった神仙術、つまり呪術や祈祷,薬学,占星・天文学の師であり、その職を方士といった。神仙術は道教にも影響を与えたとされている。

方士たちは錬丹術をよく知る。丹とは水銀を原料とした丸薬のことで、この時代は水銀が「不老不死」をもたらすという考えから鉱物として出土する辰砂(硫化水銀)を用いてさまざまな薬が試されていた。錬丹術の手法は錬金術とほぼ同じものであった。神仙術を極めた方士は錬丹術によって得た仙丹を自ら服し不老不死の仙人になれると信じられていた。

絶大なる権力をその手にした始皇帝はこの神仙術にとり憑かれた。この世の全てを欲しいままにしながらも未だ唯一得られないものは「永遠の命」、自ら斉の国に赴き方士を探した。

中国の歴代の歴史家たちはこの方士に対して冷淡である。多くの権力者たちがこの辰砂のために中毒死したという事実がそれを裏付けており、方士とは「調子のよいことを言いつらね皇帝に媚び諂っては大金を巻き上げた」との酷評が残る。それは神仙術が道教に影響を与えていることと、歴史家の多くが儒教の思想を汲んでいることと無関係ではないとの指摘もある。

さて徐福は、「海の東にある方丈山,蓬萊山,瀛洲山の三神山には不老不死の仙人あり」と始皇帝に上奏した。喜んだ始皇帝は、すぐさま赴き仙人から仙薬を譲り受けるように命じ童男童女千人と三年分の食料・衣類・そのほかの支度をととのえた。しかし徐福は大魚に行く手を阻まれたなどと言い訳をし舞い戻る。あるいははなから出立せずにいた。苛立った始皇帝はさらなる船と装備を与えて急き立てた。いかにしても不老不死の薬がほしかった。

かくして童男童女千人、技術者百人、金、鉄、五穀の種、蚕、農具、工具を満載した大船八十五隻を連ねて朝鮮半島を経由し、徐福は我が国にやってきた。


 


日本各地に残る徐福伝説は枚挙に厭わず、徐福その名が神として祀られている。その背景には徐福一行の我が国にもたらしたただならぬ恩恵があるのだろう。その恩恵とは、いかに。


その頃の日本ではすでにはじまっていた稲作により各地に定住型の共同体が築かれつつあった。徐福一行はまだ黎明期の稲作に灌漑や農具の製造に関わる技術と暦法を与え、茶の栽培、養蚕そして絹織物を伝えた。なにより得意とする薬学を生かし生薬や鉱物薬を人々に知らしめた。錬丹術に欠かせないのは鉱物であるが、それを探し当てる技術といおうか、嗅覚のようなものが斉人たちには備わっていたのかもしれない。おそらくは水の味や土の色から解るのであろう。鉱脈を見つけるかたわら井戸や温泉をも掘り当てた。


その頃の秦は逆に乱れていた。始皇帝は自らの執政を最高のものと信じるあまり過去の政治の否定を徹底した。古書は焼き払われ、特に先帝たちの先例を重んじる儒家の思想は「焚書坑儒」を以って弾圧された。土木工事に明け暮れそれに使役されただでさえ疲弊した民衆は謀反の疑いをかけられただけで生き埋めにされた。始皇帝自身は不老不死にこだわり方士たちに作らせた水銀入りの薬をあおっていた。その身体は徐々に蝕まれていったのか、四十九歳という若さでこの世を去った。


徐福に従い来日した多くの斉人たちはその後日本で秦(はた)の姓を名乗りそのまま定住したとの説がある。朝廷は彼らにそのころに来日したであろう彼ら以外の大陸人たちとともに「伴造(とものみやつこ)」としての役職を与え職人集団として保護した。
徐福の名は日本の教科書には出ておらず「渡来人」たちが大陸文化を伝えた、とだけある。その但し書きの中で「記紀には西文氏(かわちのふみうじ)、東漢氏(やまとのあやうじ)、秦氏(はたうじ)らの祖先とされる渡来人について伝えられている」とある。
ご存知のように記紀は奈良時代初期の朝廷とその実験を握っていた藤原氏の都合で書かれたものであり日本の正史とは言いがたく、そこに記載されていることはそのまま理解するのではなく「なぜそう書かれたか」という目で読まなければならない。日本書紀によれば秦氏の祖は弓月君であり、百済からの亡命者とある。


史実と伝説と想像をかいくぐり、ちと問答をしてみよう。

徐福はなぜ帰国しなかったのか?

始皇帝の残虐政治を知る徐福はもとより秦を見限り来日したのかもしれない。そのまま秦に残っていたのでは先祖から伝わる術も一族もろとも焚かれ坑められることを見抜いており、始皇帝をあざむいて秦を逐電し、一族を率いて新天地であらたな共同体を築いて先祖の精神をそこに残そうとしたのではないか。


徐福一行と倭人との間に摩擦はおこらなかったのか?

仮に徐福に王国を築く野望があれば起きていたと思われる。が、斉人は戦闘とは縁の遠い人々であったらしく異国で覇王になるという気質があったかは疑わしい。それよりも神仙術を役立て実らせることこそが彼らの理想郷の実現であったというほうが彼らに似つかわしい。実際のところはわからないが、この頃日本にに興った数ある王朝のうちのいくつかは徐福一行かその子孫を王に戴いていたかもしれない。(福岡や福島の地名がその名残とする説あり)しかし大和朝廷がそれであったかという考えには反対である。なぜなら、朝廷の行動形式と神仙思想はどうも似ていないからである。


辰砂(硫化水銀)はからだによいのか?

悪い。毒と薬が紙一重であることは今の新薬も昔の生薬も変わらないのである。何であろうと使い方を誤れば人の命を奪う。水銀には鎮静効果が認められており現代の医薬品にも何らかの形で混入されている。水銀は「赤チン」に使用されていたし乳幼児に摂取するワクチンにすら今も混入されている。
鮮やかな赤色を呈するこの鉱物が主に防腐・防虫効果のある顔料として使われていたのはその毒性の効果を以ってのことである。このようなものを食前食後就寝前に服用していたのでは命取りになることぐらいは方士たちも知っていたに違いない。しかし、敢えて皇帝に献上していたのである。やんごとなき大君におわしますればその御命永々しくあらせられんことを…とかなんとか申し上げつつ内心では「はよう死ね」と思っていたのかもしれない。


徐福は日本を知っていたのだろうか?

最後の氷河期が終わるまでは大陸と列島は陸続き同然であった。当然のごとく、倭と大陸に住む者たちは気候の変動や資源の枯渇などが原因でその両方を移動していたことだろう。どこからが倭人でどこからが大陸人かという線引きは実は難しく、ひとつの共栄圏がある時代までに少しずつ海に阻まれ分断されたと考えるほうが説明がつきやすい。海の向こうに行った、あるいは残してきた同胞たちの記憶が子孫に伝わり、それが仙人の住む蓬莱山伝説に昇華したのではないか。海の東には木々と水に恵まれた、悪王のいないよい国があると語り継がれていたのではないか。


徐福は不老不死の薬を探したのだろうか?

そもそも不老不死をどうとらえていたのだろうか。肉体の存続のみに重きを置く現代医学と徐福のめざした神仙術は「命」への思いも違うはずである。もし仙薬を使って自らを永らえることに執心するならば病気快癒や五穀豊穣、そして子を産み育てるための国をつくることになど価値を置かないだろう。ならば呪術や薬学、農学のどれもが意味をもたなくなる。
その肉体という入れ物が滅びようと、共同体という入れ物を築きその中で、先祖から受け継いだ魂を朽ちることなく永らえることを「不老不死」と解いたのかもしれない。そうとらえたならば徐福たちはまさしくこの日本に不老不死を求めやってきたことになる。始皇帝はやはり欺かれたのであろう。

     

「日本書紀」や「古事記」はある意味疑わしいかわりに読みようによっていろいろ解釈ができる。
スサノオの子孫は数代にわたり開墾をつづけ国を広げ豊かにしていったが、オオクニヌシの代になると不思議なことが起こったという。


故、大國主~、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥、爲衣服、有歸來~。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸~、皆白不知。

オオクニヌシが出雲の海辺に佇んでいると、波の間から天之羅摩船に乗り蛾の皮をすっかり剥いで作った着物を着た神様が現れた。名前を聞いても答えてくれず、そばにいた神々に聞いてもみな知らないといった。天之羅摩船というのはガガイモという強壮成分のあるつる草の実を割って一寸ほどの船にしたものをさしている。小さい神様のようだ。蛾の皮とは繭のこと、それをすっかり剥いで着物を作ることは絹糸と絹布を作ることを暗喩している。また名前を聞いても答えず、ほかの皆も知らないという。どうやら異郷から来たらしい


爾多邇具久白言、此者久延毘古必知之、卽召久延毘古問時、答白此者~產巢日~之御子、少名毘古那~。

多邇具久(ヒキガエル)が言うには久延毘古(かかし)が知っているとのこと、早速かかしを呼び問うた。「こちらにおわすはカミムスビ神の御子のスクナヒコナ神にございます」とこたえた。ヒキガエルは田畑に雨を呼ぶ神の化身であり、かかしは田畑から鳥を追う神の化身である。この二神は土着の神(国津神)を思わせるが、カミムスビは世界の最初に現れた三神のうちの一柱(天津神)である。
スクナヒコナ(少名毘古那)の名にはオオクニヌシの名が「おおじぬし」の意であることへの対比、すなわち日本にまだ土地を持たない外来の神だということをほのめかしている。


故爾白上於~產巢日御祖命者、答告、此者實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。故、自爾大穴牟遲與少名毘古那、二柱~相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那~者、度于常世國也。

さてそうしてタカムスビノカミに申したところ、「まさに我が子、我が手指の間から滴り落ちた子である。ゆえに汝オオクニヌシと兄弟となり国造りを進めよ」とのたまわれ、このさきオオクニヌシとスクナヒコナの二柱の神は力を合わせてこの国を作り固めた。その後はスクナヒコナは常世の国へと旅立った。


オオクニヌシとスクナヒコナは共に日本各地を旅したらしく諸国風土記にもその名を残している。片方が土を担ぎ、もう片方は糞を我慢してどちらが先に音を上げるかを比べたなどの支離滅裂な説話もあるが、それは灌漑法と施肥術を広めたことと理解できる。素直にそう書けばよかったではないかとも思えるがそうは書残せない事情があったのかもしれない。記紀に徐福の名が出てこないのもそうかもしれない。ちなみに出雲周辺はオオクニヌシの国造り神話の舞台であり徐福伝説の空白地帯である。

いや、スクナヒコナを徐福と見なすのはちと乱暴なので控えておくが、少なくともこの説話は稲作が広まりつつある時代に大陸からの渡来人が多くの技をもたらした事実を示したものに違いなかろう。事実スクナヒコナは医術、呪術、農耕、酒造り、温泉、石、機織りの神に祀られており、どれも大陸の影響なしには語れないことばかりである。
そして、身の丈の大きい神であったなら威圧する力を感じるところを敢えて小さいと記されているのを見れば、それは此の国に圧力をかけた存在ではなかったと伝えたかったのだろう。
日本の神様たちはまともな場所から産まれることがあまりないので指の股から滴り落ちたというのも侮蔑には当たらない。しかしカミムスビが後であわてて認知したという印象はとうにもぬぐえない。のちに朝廷が渡来人たちに「「伴造(とものみやつこ)」という地位を与えたことに由来するのだろうか、「伴」の字にこめられたのは、オオクニヌシのときから伴に国を作り固めてきたことへの恩義かもしれない。

そしてスクナヒコナは忽然と姿を消し、「常世の国」へと渡りけむ。

                       

日本の先祖たちは「不老不死」を願ったのだろうか?

「不死」は漢語、つまり大陸からきた外来語である。日本語の「死ぬ・死す」も漢語の「死―シ」から作られたものでさはど古くない。では昔は何と言っていたかといえば、じつは漢字とともに漢語が流入するまでに我が国で使われていたやまとことばには「死」に相当する語彙はなかった。
「ゐぬ―去ぬ」「うす―失・亡す」「かくる―隠る」「ゆく―逝・行・往く」「たぶ―渡・度ぶ」などが「死」に近い言葉であった。
先祖たちにとって「からだ」とは「たましい」をいれる袋のようなものであったという。その袋は脆いもので永らえることはできない、そしてあるとき「たましい」がそこから去り、どこかに往き、目に見えぬ処に隠れてしまう。すると袋は朽ちて土になる。これを死とは呼ばず、ただ体を離れた魂がどこかにわたりゆくと考えられていた。そのゆきつく処を「とこよ―常世」と呼んでいた。

常世、それはあの世をさす。四季の花々が枯れることなく咲き乱れ、それは時がながれぬ故であり、時の流れぬ国ゆえに常世という。故に老いることも、死ぬこともない。ここに至ることが我々の先祖にとっての「不老不死」であった。
倭人に出会い、そのたましいに触れた徐福は何を思っただろうか。「嗚呼 是也不老不死、此在蓬莱之国!」と喜んだか、あるいは逆に落胆したか、それはもう想像から出ることはない。どのみち始皇帝が暴政をふるう秦への帰国はありえなかった。日本の土になることを選んだ徐福であった。

やがて漢字と漢語が伝来し、そのなかの「死」の文字と概念が倭人のなかに染みわたり、また仏の教えは「彼岸」を説いた。そしてそれを「常世」と同じことと捉えた先祖たちはそのあとも、不老長寿を求めこそすれ不老不死は請わなかった。


「長生きしたらあかん」と言った祖父はスクナヒコナがやってきたという出雲の生まれであった。里子にだされ幼い頃に里親とともに台湾に渡り、そこで終戦をむかえて京都に引き上げた。京都で生き、そして十年前に常世の人となった。筆者の頑固でへそ曲がりなところは祖父譲りである。不思議な縁である。
 

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コメント
 
01. 2013年2月19日 15:48:38 : 70wQImzvlP

ガンダーラ だわな。

悟りを得て、ここに言う「常世」に至る。

早く悟れば早く行ける。
つまり、「長生きしたらあかん」ということだ。

この世は修行の場。
つまり、「長生きは修行をせよ」ということだ。

不老不死とは、そういうことだ。


02. 2013年2月19日 21:15:30 : 4Pxgk4127Q
肉体は物質、物質は壊れる、魂(霊魂)は物質ではない、霊魂不滅と言われる。
肉体が壊れても、霊魂は壊れない、天に帰り次の再生(受胎の時に再生を待っている霊魂が天から降りてきて肉体に宿る);チベットの死者の書)の機会を待つと言われております、再生の理由は人間の欲望にるもの、例えて言うとビフテキの好きな人は好物のビフテキをまた食べたくなって再生してくる、天(霊界)にビフテキはありません、地球のこの現世にしかないので、ついでに悟りを開いて欲望がなくなった人はもう再生してこないそうです(例、お釈迦さま)。
ま、死んで見ないとわかりませんが・・・・。

03. あやみ 2013年2月20日 04:36:23 : oZZpvrAh64sJM : qeEgQQxoV6
01さま、コメントありがとうございます。

>この世は修行の場。

はい、そう思います。修行は仏教を思い起こさせる言葉ですが、一神教の世界では試練、またはそれに近い言葉で説かれており同じことだと思います。

この世ですごす時は、別れや苦しみ、理不尽に満ちており、また裏切りや横取という罪と常に隣り合わせです。これが人の修行・試練の場であり、ある日嫌になって投げ出してしまいたくなります。投げ出し方もいろいろあって、罪を犯すか、酒色に溺れるか、世をはかなんで虚しくするか…

修行が辛い、長いと感じる度合いは人によって、時によっても違うでしょう。課された試練の重さも然り。不公平だけが目に止まります。さらなる失望に襲われます。それが現世といっても過言ではないと思います。

有史以来この失望の穴埋めを、権力や物質、肉体の賛美をすることで行ってきました。それは常世を忘れさせ現世こそすべてという錯覚を生みました。不老不死は現世で生き続けることと曲がって解釈されました。また、始皇帝のような愚行に及ぶぶまでもなく、現世こそすべてという世に迎合しその温存に加担しながら生きることを選んだわれわれも修行を怠り試練に唾を吐く者の中に数えられているでしょう。


04. あやみ 2013年2月20日 07:31:14 : oZZpvrAh64sJM : qeEgQQxoV6
02さま コメントありがとうございます。

大変おおきな命題なので、寄せていただいたコメントに対する回答ではなくあくまで雑談としてご理解ください。

輪廻転生というものはあるのでしょうか。私はないと思っています。なぜ、この世にまた戻ることが許されるのでしょう。修行は一度だけその機会を与えられるのだと思います。

この世の欲が断ち切れないまま人生を終えた者はその欲ゆえにこの世に舞い戻る、そうであるならば、欲深いものほどこの世にしがみ付いていられることになります。それでは強欲者の思う壺ではありませんか。

刑務所の塀の守衛に「二度と戻ってくるなよ」と声をかけられた出所者が、また何年か食らって舞い戻るのと似ています。

強欲者がこの世という苦界の輪廻から抜けられない無間地獄にある、という解釈も当然あるでしょう。しかし転生を「苦行」といったところで衆生にはご馳走にしか見えません。ご馳走が用意されているとしたら欲を断ち切る術がありません。すべての衆生にお釈迦様級の悟りを求めるような、仏教やヒンドゥーとはそのような無体な教えなのでしょうか。

死んで見なければわかりませんね。とにかくその時に問答無用で地獄行きになったのでは何もわからないので、少なくともそうならないような生き方をせねば、などと思っております。


05. 2013年2月20日 11:21:23 : 4Pxgk4127Q
04>>、輪廻転生はあるのか、ないのか二つの考え方があると思います。私も生まれ変わってきましたという人に会ったことはありません。
しかし、@生まれ変わり(輪廻転生)の実例はあるとして研究、実例調査をしている人はいます。Aその根拠になるかどうかいわゆる科学的説明にはならないかもしれませんが、人間生まれて幼いうちからものすごい才能を発揮する人がいます、それはなぜかという答えのひとつが、その人は前世でいろいろ経験をつんだ記憶を持って再生してきているからだ、というものです。人間現世に生まれおちた時点ですでに天と地ほど違う環境、能力差をもって生まれてくる。、それは本人の記憶にはないけれど、前世になした行い、経験(業)によるものだという、仏教的考えです。
釈迦は神については(あえて)触れておらず、因縁因果、原因と結果の関係を説いている、イエスがいわれた、撒いた種を刈り取るであります。

06. 2013年2月20日 11:50:42 : 70wQImzvlP

あやみ様

結論は、やはり「死んでみないとわからん。」(笑)
あなたも私も死ぬばわかる。
だから安心して死のう。

この世はあるがままに生きれば良し。
修行が足らねば輪廻転生すると言われている。
つまり、悟らねばいつまでも転生する。

ここで言う「常世」は本当の天国らしい。
酒も美味いし姉ちゃんも綺麗だと・・・。

早く行けるように瞑想して悟れとお釈迦さまは
仰せになっている。


07. あやみ 2013年2月21日 03:41:16 : oZZpvrAh64sJM : qeEgQQxoV6
05さま 06さま、かさねがさね、ありがとうございます。

そういえば昔ドリフの西遊記の人形劇がありましたが(覚えてますか?)、そこでカトーがなぜか死んでしまい天国に行きました。しかし酒ばかり飲んでいるので神様に叱られて現世に返されてしまいます。これって転生ですかね?
(カトーは懲りない男なので、また修行の場所に送り返されてしまったとか)

一神教で禁忌とされている「輪廻転生」の考えが古代インドの宇宙観の流れを汲む仏教ではその基本となっていることは着目すべきことだと思います。
さらに、一神教のなかでも地域の古代信仰と結びつき独自の輪廻思想を展開する宗派も見られます。その古代信仰というのはほとんどが火炎(火山・太陽)神を信仰するものでゾロアスター教や古代カルタゴの火炎神信仰などがそれにあたります。

古代インドの転生にも火神の存在が関係しているようで(あまり見識がないので深くはわかりません)、これも興味深い。

輪廻転生は後代、人の「肉体の生命」への固執につながってゆきます。何が何でもこの世に生まれ変わりたい、手に入れた富と名声が離せない。死後の世界に背を向け、そして人類の唯物主義への傾倒の原因となりました。皮肉なことです。

>この世はあるがままに生きれば良し

これを自在といいます。今に生きる人々は自在から遠いところにあります。


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