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キライなことば―「信じる」
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/448.html
投稿者 あやみ 日時 2013 年 5 月 05 日 18:56:25: oZZpvrAh64sJM
 

つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-119.htmlより転載  
こういう美々しい言葉には気をつけたほうがいい。
「平和」「正義」「自由」などと同じく、耳にはじつに心地よいが。

「信じる」、なにやら得体の知れない押し付けがましさを感じる言葉、それは今流行りの「絆」にも似たものがある。ただでさえ言論というものが力を持ちすぎたこのご時勢、それに振り回されないためにもこの怪しげな言葉を疑ってみる価値はある。


いま我々が使う日本語は「現代日本語」である。それ以前のものをおおざっぱに「古語」という。「古語」は新しい順に「近世日本語」「中世日本語」「中古日本語」「上代日本語」というように別けられる。言語の様相が変わるからにはそれだけの理由がなければならなく、たとえば「現代日本語」が生まれた契機、それは明治維新にともなう西洋文化の流入つまり「ガラス」「ピアノ」のように外国語を外来日本語として輸入するか、「心理」「哲学」のようにそれまでの日本になかった新しい概念の対訳として新日本語を造語することで語彙がふえたことにある。
それ以前の転換期にも似かよったことが言えるのだが影響したのは西洋ではない。上代においては大陸の文物と渡来人の来日と律令制度、中古は遣唐使廃止と仮名文字発明による内的な熟成、中世は政治の担い手が近畿の公家から関東の侍へと変わったことによる「あずまことば」の開花と禅の影響、そして近世は天下泰平の中で多様化した社会・職業・身分においてそれぞれの言葉が独自に育ったことにある。

では、上代日本語以前のこの国の言語はどうだったのだろう、ということになる。

古代語、仮にそう名づけると、それを指して純粋な日本語というかは難しい。遠い昔は日本列島は大陸とは地続き同然であり、陸伝いに人々が、島伝いに舟々が行き来していたのであるから、大陸の影響を受ける前の時代などというものはもとより存在せずその意味で純粋な日本語というものもありえない。すると議論はなぜか日本が大陸の属州であったか否かに掏り替わり兼ねず喧嘩腰の方々を喜ばせるだけになる。それは本稿の目的ではないためそこは「そうっとして」おくことにする。
我々日本人の古代語は、漢字、かな、いかなる表記文字をも持たぬ「おと」によってのみ言い表すことのできることばである。その「おと」による太古からの一語一語に五世紀以降大陸からやってきた漢字を意味の上で対応させ、そうして日本語が表音・表意の両方に使うことのできる文字を得た。日本語固有の「おと」は「訓読み」として後世まで残ることになり、漢字の持っていた漢語音が日本風に訛ったのが「音読み」である。

漢字以前の時代から日本にあったことばを特に「やまとことば」という。漢字と出会う前であるためやまとことばに「音読み」は存在しない(とも言い切れないのが悩ましいのだがそれ別の機会に)。


そこで「信じる」というこの日本語、辞書では訓読みとされているが、漢語の「信―シン」に「する」という日本語の動詞がくっついた(膠着した)ものだ。つまり漢語外来語からの造語であってやまとことばではない。

この連作では明治以降に採用された「明治の新語」の生む悪影響を主に取り上げてきたが、今回の「信じる」は新語と呼ぶにはいささか古いといえる。
いったいどれくらい古いことばなのだろう、それはわからないが、とにかく「信じる」という行動を我々は古代から外来語に頼ってきた、さらに昔は「無かった」かもしれないというから、えっと驚く。


現代日本語での「信」は大きく分けて二通りの意味を持つようになった。一つは「通信」「音信」「信号」に見られる記号的な使い方である。情報を機械のように無感情に淡々と伝える方策であり、その情報が真実であるか否かはここでは問われない。
もうひとつは「信仰」「信心」「信頼」「信用」「信念」、つまり「本当と思う」こと、悪い言い方をすれば「思い込む」ことであり「信じる」といった方が美しげに聞こえるが意味は同じである。


「信」の文字は古くは聖徳太子の「十七条憲法」の中にみられる。

九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。

九に曰く。信これ義の本。ことごとに信にあるべし。それ善悪の成敗は。かならず信にあるべし。群臣ともに信あれば。何事か成らざらん。群臣ともに信なくば。万事ことごとく敗れる。

「十七条憲法」の原本は見つかっておらず全文が書き記されている最古の書物は「日本書紀」である。今の歴史家の間には十七条憲法は日本書紀の編纂時に改竄されたものであるという説があり、それどころか聖徳太子不在説まで囁かれている。つまり「信」の字の使用を飛鳥時代まで遡ることができるかどうかはいまひとつはっきりしていない。

とにかく、人としてとるべき道の根本、善悪の判別の根拠はことごとく必ず「信」にあるべきだとされている。そして遅くとも日本書紀の書かれた時代には「善悪の判別の根拠」とまで意味づけられるようになる。どうやら大変な文字である。


漢字のふるさとの大陸では「信」の字をどう扱っているのだろう。

「人」と「言」の会意文字、字源は「人が口に出したことを守る」。転じて「口に出したことを守る人」に対する形容になった。

動詞で使う場合はまず日本語同様「信じる」、それから「言を守る」「実証する」「知る」とあり
形容詞では、「真実の」「正直な」「偽りの無い」などである。
名詞になると「盟約」「割符」「標識」「使者」「消息」「書簡」となる。

「信」は儒教の五徳にも数えられる「言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること」である。ここで注意して見れば「信」とは言明をする、真実を告げる、あるいは約束を守るその人間あるいは媒体にかかわる問題であり、告げられる「真実」とは別の存在として考えられていることがわかる。この五徳の「信」は十七条憲法のそれに代入して読んでもとりあえず意味は成す。

何かしらの情報を発する側と受け取る側の存在があってはじめて成立する語彙のようである。つまり「情報の発信と受信」である。

しかし、「十七条憲法」の口語訳では「信」は「まこと」とされている。


日本語のまこと、それは「ま―真」と「こと―事、言」からなるやまとことばである。「ま」さしき「こと」、本当の事、真実といってもいい。ただしこれは「情報の真偽」ではなく「事の真性」を語ることばであるため中国語でいうなれば「信」ではなく「真」に近い。したがって「情報のやりとり」をあらわす「信」の字に「まこと」を対応させることも、「善悪の判別の根拠」としてしまうのにはかなり問題がある。なぜこのような矛盾が起きてしまったかは現代人が「信」という言葉に抱く感情に原因がある。

ところで、「信じる」の影で忘れられていたかのような「信―のぶ」ということばに触れておくことにする。これは辞書によって「信」の訓読みとしているものとしていないものがあるようだが一般には「まこと」とならんで人名漢字の読みとして受け入れられている。しかしこれは、やまとことばの草創期から使われるれっきとした動詞の一つである。

「のぶ―述・陳ぶ」、口をついて出たことばがあたかも泥水を流したように水平に「のび―伸・延び」ひろがる様を現わしている。そして人の上に立つ者、たとえば司祭や大王の「のぶ」ることばは「のる」と美化され「のり―呪・祝・宣・憲・法」となる。
言葉を受け取る側はこれを「のむ―飲・呑む」のである。この語源もまた「のむ―伸・延む」であり、ことばがのび広がる現象の一環であることがわかる。これこそ「情報のやりとり」に近いことばであろう。

「信じる」は他動詞であるため必ず目的語をとる、つまり信じる対象が存在する。たとえば報道や評論などの言論、たとえば科学のもたらす研究結果、人、自分、金銭、権威、社会、未来、そして神、その他諸々をただの情報として受け取ることにとどまらず「まこと」と捉えてしまうことを「信じる」という。
やまとことばを話していた時代は「のぶ」と「まこと」は二つの全く異なる語彙であったが、大陸から輸入した「信」により一つに抱き合わされ、混同されたのである。

今日び、「信じる」ことの大切さや崇高さが高らかに謳われる。これはいわゆる美辞として使われている。しかし重きを置くべきはその対象に「まこと」が在ることの筈であり、そして「まこと」はそうはやたらに転がっているものではない。そこで「信じられる」ことを求める側はそこを突かれることを嫌うため自らに欠けた「まこと」を何かで補い激しく「発信」する。「信じろ」と発信するのである。彼らは「まこと」を装う方策に長けている。それに対し明らかに弱い我々は「信じぬ」ことを躊躇し、迷い、あらぬ「まこと」を見てしまう。それはやがて「妄信」につながる。

実は我々は信じるか否かをそのつど選んでいる。自らにとって喜ばしいことは受け入れ、そうでないこと、受け入れがたいことは拒む。情報と自らの願望の合体、これが「信じる」ことの構造である。

何かを信じることは安心につながる。大多数の意見を信じておけば社会から取り残されずにその恩恵に与れる。銀行を信じて貨幣を預けておけばいつの間にか増えてくれる。医者や薬を信じておけば痛みや病が進む恐れから逃れられる。惚れた相手の言うことを信じていれば傷つかずにいられる。大司教の説く神の言葉を信じていれば地獄に落ちない。信じる者はとりあえず救われるだろう。しかしその中に「まこと」が無ければ少しも報われないことになる。

信じたことが思い通りにならければまた別の何かを信じてみる。が、またしても当てがはずれ、それを繰り返すと経験的に疑うということを覚えるはずなのだが皆にできることではない。なぜなら我々の願望といというものは少しでも擽ればすぐに泡立ちいくらでも膨れ上がる。相手はそれをよく知っている。そして「信じろ」と、発信し続ける。

そうこうするうちに時は過ぎ、人は年をとり世も歳を経て今に至った。過去において信じさせる術をよく知っていた者たちの子孫、あるいは弟子たちが今のこの世で力を持つ者となった。そして今もなお、彼らを信じる我々がいる。


先祖たちにしてみればまるで与り知らぬ「信」の言葉は律令制とともに行き渡ることとなった。ではそれまでは何も信じることなく生きていたのだろうか。

「信じる」必要などなかった。巨石や巨木、地に山に海に宿る霊を、そして先祖の霊を「おそれ」「うやまひ」生きていたのである。こぼれた種から芽が出て親と同じ木となり、秋に落ちた木の葉は春になると再び芽吹く。これは他でもない「まこと」である。生まれた子には親の面影があり、その子にも、またその子にも受け継がれてゆく。ちから溢れていたからだも霊が抜け出てしまうと物言わぬ骸となり朽ち果てる。そこには木の葉のように再び霊が芽吹くことはない。先祖たちはこの厳粛な「まこと」を見つめ、それに抗うことなく自らの願望を何かに結びつけることもなく、「まこと」をつかさどる霊たちをただただ畏れ敬い生きたのである。

疑う、それはなにやら後ろめたさの滲む言葉である。信じることを美化した故におこる反作用なのであろう、信じる者には光が当たり疑う者には影が落ちるような気がする。これは動詞「たがふ―違ふ」に「う」がついたものである。心に生じた違う理解同士が対立することをいう。似たような意味の動詞「うたぐる」も「たぐる―手繰る」に「う」がついて、事象を手繰り吟味することをいう。そこに「まこと」が在るかをつぶさに見つめる方法のことであり後ろめたさなどは元々は無い。
動詞に「う」を頂くと別の新しい動詞が生まれることがある。「う」は「得」すなわち「知る」を意味する可能性があるが、今のところ確証は無い。「うながす」「うがつ」などもそうである。

ことばとは時とともに姿かたちをかえて永らえる生き物である。人がことばを作る傍らことばは人をも国をも作る。言語の構造が国民性に反映することは明白である。現代日本語は明治維新から数えてたった150年の歴史を持つにすぎない。近世日本語はいまから400年前、中世のそれは800年前、中古は1100年前、上代日本語はおよそ2000年前からのものである。それより昔の古代語であるやまとことばは少なくとも2万年以上の間話されていたことばであるからには日本の国と日本人の心の礎を築いたのは実はどの時代のことばであるかは明白である。しかしその後に外来の言葉を喜んで受け入れ、それが我々の暮しに入り込んだことで急速な変化を強要された日本人はさまざまな副作用に苦しんでいる。
新語と呼ぶには古い言葉ではあるが、古語辞典を開いても「信」の文字は仏教用語と僧の名前を含めたところでそれほど多くは見られず、むしろ明治以降におびただしい量の「信」が熟語として頻出するようななったといえる。やはり明治以前は「信」を外来語に近いものとして扱っていたと考えられる。そして開国とともに我が国に押し寄せた科学・近代思想への「信頼」じつは「盲信」を煽るあざとさが「信」に感じられてならないのである。

「アナタハ神ヲシンジマスカ?」
青い目の神父さんにそう訊かれれば、「信じない」という他ない。
「まこと」をつかさどる存在を神と呼ぶのであれば、ひたすらそれを畏れそして敬うだろう。
近代や科学などと同じように信じていい筈はない。
 

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コメント
 
01. 宮島鹿おやじ 2013年5月05日 20:47:10 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
こんばんわ。

拝読いたしました。

「負けないこと♪投げ出さないこと♪・・・・・信じること♪
・・・・それが一番大事。」

無条件に「良いこと」とされているような風潮ですね。

何かの対象を根拠もなく「信じてしまう」ことは「独断的」行為であるというラジニーシ師の言葉もあります。また、先ほど読み始めた正法眼蔵関連の本にも、禅は懐疑から入るとありました。


02. 2013年5月05日 22:02:51 : GloV5hQXnY
全面的に賛成。
「がんばればできる!」…できねーよ。
大東亜戦争かよ! 負けたじゃん!
ってことですよ。

03. あやみ 2013年5月06日 01:05:18 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
おやじさま、コメントありがとうございます。

信じる者は短期的には救われるんです。借金で借金を返済したり、痛み止めで凌いだり、ヘロインに手を出したりすれば「安らぎ」をその場で得られますがその先は地獄です。それによく似ているのです。

「信じる」という言葉から想像する画像があるとすれば、教会の天使像、いたいけな(金髪の)少女が祈る姿、空を見つめる子供たち、と、こんな感じだと思うのですが、なんかバタくさいんですよね。

懐疑するべきという考え方は、禅には前時代の密教への批判と反省があることも原因となっているのだと思います。


04. あやみ 2013年5月06日 01:12:09 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
02さま、賛成していただきましてありがとうございます。

何もかも前向きに、ポジティブに、信じあい、レッツゴー奈落です。
笑顔で暮らせば放射能も跳ね返すことができるという科学者もいるぐらいですからね。くわばら。


05. 2013年5月06日 03:40:01 : ZS7SKO0MFE
>こぼれた種から芽が出て親と同じ木となり、秋に落ちた木の葉は春になると再び芽吹く。これは他でもない「まこと」である。生まれた子には親の面影があり、その子にも、またその子にも受け継がれてゆく。

こういうのを科学とか物理と呼んでいるんじゃない?一般的には・・・ 一般的にはw
“まこと学”に変えちゃおうか!

「信じる」きらいw 1qmOy4Hy0U


06. 2013年5月06日 08:30:07 : 5OXNt64MKI
キライなことば―「信じる」===============================
私は、つくづくソウ思っている者です。
 というのは余りに信じて生きている人が多いからです。小泉を信じたままの人、小泉のことを悪くいうと「小泉さんは素晴らしい人なんだから批判してはいけないですよ」という人がいまだに沢山いる。その人は小泉構造改革から何か素晴らしいものを貰ったのだろうか。
 でも明らかに、小泉改革により私の田舎町は財閥系工場企業城下町であるが、不景気が恒常化し、地域には空き店舗ばかりになりました。或るテナントビルのオーナーはビルが完成した途端に脳梗塞になり、ビルの一角に転がされていますが、ビル並びに隣の賃貸物件は空き室のままです。借金をして建てたビルを残された奥方、適齢期の子供達の人生を直撃していると思うけれども子供達、奥様は大の小泉ファンなのです。とても理解できません。
 或る人に郵政選挙の時に其の危うさを指摘したところ、「郵便配達人が税金から1000万円以上の年収を得ているのは間違いだから」小泉が正しいと言った自営業者がいました。
 其の人は今回のTPPについては、「反対するのは農業者だけ」と、モウ割り切っているのです。
 其の人は車体板金業者で、小泉構造改革により、下請けしていた、ディーラー数社全社が外注を一切出さなくなり、従業員が全部辞めてしまわなければならなくなったのに全然気付かないのです。何度も騙されているのです。
 私がこうして不信の哲学を語ると、強く反応する40歳年配の司法書士事務員さんが居ます。其の女性も独身ですが、地域にはとても沢山の独身女性従業員が居て、弁護士事務所など事務員さん郵便局窓口など独身女性が溢れていますが、相手になる独身男性は余り見当たりません。
 この方達のこうした状況を齎したものが小泉構造改革であると私は信じていますが、其れを述べるとこの其の女性は「貴方がそんなこと心配しなくても政府、関係機関のリーダーが考えることです」と何かしら信じている姿勢を示すものだから面食らいます。

07. あやみ 2013年5月06日 11:09:13 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
1qmOy4Hy0Uさま コメントありがとうございます。

一般的には・・・です。
科学や物理のやったことは「まこと」の明文化・視覚化であり「まこと」を作り上げたわけではないのです。ですから科学そのものは信じて崇拝する対象などではないのです。
さらに科学の影の役割のひとつには「無難なまこと」の中に「とんでもない嘘」を混ぜてわれわれの前に掲げ、「どーだ信じろ」と恐喝することがあると思います。


08. 2013年5月06日 11:24:59 : oh5QCDFPcv
あやみ さん

安芸ガラスです。

>一般的には・・・です。
科学や物理のやったことは「まこと」の明文化・視覚化であり「まこと」を作り上げたわけではないのです。ですから科学そのものは信じて崇拝する対象などではないのです。
さらに科学の影の役割のひとつには「無難なまこと」の中に「とんでもない嘘」を混ぜてわれわれの前に掲げ、「どーだ信じろ」と恐喝することがあると思います。


上記は信の構造ですね。
私たちの頭の中の信の構造です。
同意します。

信は、信の中に判らないことがあるから成立します。
ですから、その判らないことを、自分自身が崩したときに、信は消えてなくなります。


09. あやみ 2013年5月06日 11:31:35 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
06さま コメントありがとうございます。

>「小泉さんは素晴らしい人なんだから批判してはいけないですよ」という人がいまだに沢山いる。

えええ!?

複雑な政治を理解しきるのは皆にできることではないとは思いますが、目の前に大矛盾が転がっているのに少しも疑いの念がおきないのは「信じる」ことに依存しすぎたせいで日本人の皮膚感覚が麻痺してるとしか思えません。

「割り切り」も、信じる者の常套手段です。信仰を成就させ「救われる」ためにそうするのでしょう。


10. 2013年5月06日 14:10:49 : FrpXTmA0eo
  なるほど。
 私も嫌いな言葉です。確かに 信じる はその風土や歴史に培われてきたニュアンスも付随される場合もありそうですね。
 私自身はどのような場合に使うだろうか?と考えてみると、 自分の感覚を信じる、、だったら、使うかもしれない。
 それでは、どういう場合に使うかというと、外界の状況と自分自身の間に融合できない、もしくは認める事のできない違和感を感じた時に 信じる という行為によって、自分自身をなんとか維持しようとする時かなあ。
 1番さんの 「負けないこと♪投げ出さないこと♪・・・・・信じること♪
・・・・それが一番大事。」 個人的に凄く苦手な言葉、笑

 スポーツなどで、劣勢になったときに、なんとか 信じて  実際の状況を有利に変えよう という時にこの 信じる 効果ありそうですね。 無人島でサバイバルするような場合には 有効かもしれない。笑

 現実と自分自身の乖離を なんとか超えようとする時に自己暗示のように発動するのでしょうか。
 
 自分をゴマカスときにも便利な行為なのでしょう。

 ならば、信じようとする行為は、その状況、その対象によって崇高にも醜悪にもなるのかもしれません。

 肝心な所は、信じるという行為が、自分自身の必然に基ついているか?もしくは、何かに誘導された結果の行為なのか?によって全くとがったものになるところでしょうか。

 やはり、直感や、感覚で 自分自身で感じるという感覚が承認した場合以外の 信じる と言う行為は 誤摩化しだと思われます。 
 ン? 直感 や 感覚 が 生き生きと機能してる時には、信じる という行為が必要ではなさそうな気がする、、。 

信じる といえば、 子供 は信じていてあげたい。存在そのまま丸ごと信じてあげたい。やはり、大きなものにゆだねる託す、、という深い意味があるのでしょうね。  

 こんなことを考える機会を与えてくれた あやみ さんに感謝します。

 
 
 

 
 
 


11. 2013年5月06日 15:50:01 : EWu9EfUwpM
言葉の意味は(発信者・受信者双方にとって)、例えば発信者が「バカ」と云う表現を使って「愛してる」との意味を伝えようとする場合が有る様に、それが置かれている文脈によって決まるので、「信じる」に対する違和感は「信じる」を取り巻く今日的環境への不信の表れなのでしょう。

「夢と感動を与える為に・・・」と高らかな宣誓を聞く度に、いつ頃からこの様な本末転倒な台詞が流行りだしたのだろうか、と、果てしない曇天を眺め続けているような気持ちにさせられますが、この不快感は「信じるに対する違和感」に低通するもののようです。


12. ねこてつ 2013年5月06日 16:29:56 : Tl9VvwRQnUnm2 : Yi0Ycw4bug
「信じる」というのは、思考停止と自己欺瞞の言葉だと思っています。
とりわけこの国のメディアと政府が言うときには特に。

13. あやみ 2013年5月06日 22:34:41 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
安芸ガラスさま いつもお世話になっております。

>信は、信の中に判らないことがあるから成立します。
ですから、その判らないことを、自分自身が崩したときに、信は消えてなくなります。

「判らない事」を外からたたみこむために「信じる」のですね。
「判らない事」のなかには「こうだったらいいなあ」「こうじゃなきゃだめだなあ」がかなりの比率で混ざっているように思えます。なぜなら、「判らない」だけならそのまま放置しておいても自分に危険はないのですが「こうじゃなきゃ困る事」はそうはいかないからです。


14. あやみ 2013年5月06日 22:58:01 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
10さま こちらこそありがとうございます。

>信じようとする行為は、その状況、その対象によって崇高にも醜悪にもなるのかもしれません。

そうですね、そうともいえます。行為自体は「食べる」や「飲む」と同じく単なる他動詞なので対象によって生命維持にも自殺行為にもかわるでしょう。しかし上に立つ者、たとえば施政者が国民を誘導するためにこの言葉を恣意的に使うようになったのがこの言葉の役割を決定付けたのだと思います。「何かに誘導された結果の行為」とおっしゃられる所以はここです。我々の「直感・感覚」はすでに萎えさせられており、それすらなにかに誘導されることもあると思うのです。残念なことです。

私にも子供がたくさんいます。
子供はかわいい。しかし嘘もつけば、子供ながらに残酷なところももちろんあります。しかしそれを承知で「信じよう」としてしまうと子供の犯す過ちまでも肯定してしまいかねません。ここで親たちは更なる過ちを上乗せしてしまいます。
おっしゃるように「存在そのまま丸ごと」を「受け入れる」しかないのです。「信じる」と似ていますが、本質は違うと考えます。


15. あやみ 2013年5月06日 23:54:22 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
11さま コメントありがとうございます。

「バカ」≒「愛してる」は、もう不文律といいましょうか、決まり文句ですからね。受信側の「信じる」が発信者の「信じろ」に呼応するという関係に共通点していそうですね。

ただ世の中あまりに複雑になりすぎて、これは単なる送受信の問題にとどまらなくなりました。善か悪かの二元論に陥りやすいという欠点を利用し、まず「不信」を生成してその対極にあるものを信じさせる、時が来ると別の不信を作り上げてまたその対極に…と、それを繰り返された挙句、我々の「まこと」とするべきだったものが見えなくなってしまったのではないでしょうか。これを不快感と感じられるうちはまだ生き返ることができる、と思います。


16. あやみ 2013年5月07日 00:04:43 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
ねこてつさま コメントありがとうございます。

政府が発「信」者、メディアが通「信」媒体、我々が受「信」者です。
「信じろ〜」→「「信じろと仰せじゃ〜」→「へへ〜っ」です。

発信者は米国政府だったり、国連だったり、WHOだったりもしますね。


17. 2013年5月07日 01:53:21 : FrpXTmA0eo
10です。

 ーー信じる といえば、 子供 は信じていてあげたい。存在そのまま丸ごと信じてあげたい。やはり、大きなものにゆだねる託す、、という深い意味があるのでしょうね。ーー

 これは、たまたま、あやみさんの 都立工芸高校 ものつくりの学校 というタイトルのテキストを読んで、あやみさんのお父様の気持ちになって書いたのでした。笑  
 こういった 信じる 気持ちはやはり貴重なものだと思ったのです。このようなテキストを書ける大人に成長したのですから、、。工芸高校に進もうと選択したあやみさんを信頼しようっていうより、信じてあげようという、サラッとしてても本気の覚悟がお父様にもおありになったのだと思います。


18. あやみ 2013年5月07日 04:15:34 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
10さま、ありがとうございます。

私は工芸高校の後、美大に行くと言い出して二浪し、一留して卒業し今度は外国人と結婚して日本の外に移住しました。父はその都度「あっそう」とばかり許してくれました。今考えれば後先なしの滅茶苦茶な行動です。
何年かしたあと父が、「お前が短大を出てサラリーマンと結婚してくれていたら親としてどんなに気楽だったことか」と本音をこぼしてましたっけ。やっぱり気が気じゃなかったのだろうと思います。悪かったと思いつつ感謝してます。
子供たちがどんな人生を進んでゆくのか、親としてどこまで関わるべきなのか、そのとき世の中はどうなっているのか、どんな世の中を作ってきたのか、考えることだらけです。難しいですね。


19. 2013年5月07日 11:50:00 : Zs4hKV2AgY
>15 あやみさま

>11です。

送受信が上手く捗っていませんが(コミュミケーションとは送信者が何を言ったかではなく、受信者がそれをどう理解したかということでしょうね)、言葉の意味はそれが置かれている「文脈の中」できまる、ということを理解されれば、それで良しと思います。


20. あやみ 2013年5月07日 16:09:45 : oZZpvrAh64sJM : gW2rUp3Gyk
11さま 再度のコメント感謝いたします。

>言葉の意味はそれが置かれている「文脈の中」できまる

現代はそうです。この記事はそれに対する問題提起のようなものです。

わたしは、今日まで日本語にはぐくまれた日本人が言葉の変遷によって受けた内的な「痛手」を探ろうと、このような駄文を書いております。その道しるべにと「やまとことば」に照らし合わせることを試みています。

やまとことばはそれ自体が霊力(=ことだま)を持っています。ことばの意味はすなわち「ちから」であり、人に、世の中に作用します。不用意に話すと災いが降りかかるので先祖たちは口を慎むことに勤めました。「縁起の悪いことを口にださない」というのはこの時代からの流れを汲んでいるのです。

かつては、言葉の意味は文脈の中でそのつど変わるものではなかったのです。もし変わるときは母音が変わることで、また格助詞を採ることで微妙な使い分けがされました。言葉に対する気遣いと畏れが明らかにあったのです。

言葉の利用(もしくは悪用)が顕著になったのは明治維新からです。明治の新語の開発の理由は近代思想の導入にあり、これは日本人の過去と現在の間にに深刻な亀裂を生むことになります。新語とはいえやはり(おそらく低級な)霊力があり、それを不用意に話す今の日本はやはりろくなことになっていません。

言葉は共同体の共通概念でなければなりません。しかし現代の日本を共同体と呼べるとは、私には到底思えません。

>コミュミケーションとは送信者が何を言ったかではなく、受信者がそれをどう理解したかということでしょうね

これについては私にはよくわかりません。「コミュミケーション」自体が明確な意味を持たない言葉で、理解する側がすきに理解している類の言葉に思えます。


(わたしは外来語や新語に対して相当に攻撃的であると自覚しております。11さまのおっしゃることもよくわかっているつもりなのですが、どうしてもこのような口調になってしまいます。どうか堪忍してください。コメントありがとうございます。)



21. 2013年5月08日 13:52:35 : 0NDxHIn1Qo
あやみ さん

安芸ガラスです。

>>言葉の意味はそれが置かれている「文脈の中」できまる

>現代はそうです。この記事はそれに対する問題提起のようなものです。

牛、馬、猫、犬が人間の言葉を聞くと、どんなものなのかなぁ?
モ―、ヒヒ〜、ニャ〜オ、ワンワン、と同じように「オギャ〜」かもしれないぁ。
使う場所、使うときで「オギャ〜」の分子がちがうのではなかろうか。
つまり、分子とは「寒い」「腹が減った」「寝たい」「大便をしたい」との主張のことです。

ですから、言葉はその人の体の状態が憑いているから、照らし合わせ理解するのではないでしょうか。


22. 2013年5月10日 00:04:13 : FrpXTmA0eo
 堀 茂樹 ‏ さんのツイートに
 日本中世史の専門家と話し、日本の数々の一揆において宗教心(神さま信心)の果たした役割について話を聞くにつけ、反抗とは畢竟、連綿たる社会的連続性の中に断絶を持ち込む事であり、そのためには何らかの超越性を信じる事が不可欠だという私見への確信を深めました。
とありました。
 ーーー
私も、知り合いの中世史の専門家に日本の中世で、神さまを信じる ということばはあったのか?
と聞いた所、百姓も領主もみんな当たり前に信じていたから、信じると言う言葉は必要ではなかった。

なるほど、信じなくなったときに 信じる という言葉が生まれたのでしょうかね? 



23. あやみ 2013年5月10日 04:35:21 : oZZpvrAh64sJM : FI6NlmDEfm
安芸ガラスさま

くうう、また難しいことをおっしゃいます、二日も悩みました。


>>言葉の意味はそれが置かれている「文脈の中」できまる

現代では、この「文脈」そのものが恣意的・扇動的なのでしょう。
「寒い」「腹が減った」「寝たい」「大便をしたい」、人間にとってもっとも単純な主張であるこれらは、発する側も受ける側も本来照らし合わせの可能性も高いはずです。同意します。

「寒いですよね、うん、体に悪いですよね、もっと暖房しませんか?原発があれば電気使い放題ですよ」
「腹減ってるでしょ、ね。もっと動物を養殖して、価格を下げて腹いっぱい食べませんか?」

商売人や政治家は人の単純な主張を利用し文脈の流れをつくりだす、そして我々は素直に「その気」になるか、変だと思いつつも「これが政治というもん」「経済とはこういうもん」…などと納得しようと努力してしまう。

少数派になりたくないからかもしれないですね。歴史上、少数派はいつも痛い目にあわされて着ました。


24. あやみ 2013年5月10日 05:10:23 : oZZpvrAh64sJM : FI6NlmDEfm
22さま コメントありがとうございます。

>百姓も領主もみんな当たり前に信じていたから、信じると言う言葉は必要ではなかった

そのとおりだと思います。この記事は連作になっていまして、過去記事で扱っているのは「平和」「自由」「正義」「健康」です。かつてはいずれもあえて言葉にする必要などなかった概念でした。しかし政治家連中がこの言葉を駆使することで世の中を好き勝手にしようとし、そしてそれは明らかに成功を収めています。
ですから、信じなくなったときに信じるという言葉が生まれたという考えももちろんできますし、信じさせる必要が出てきたからこそ信じるという言葉を開発したのだとも言えると思います。

>何らかの超越性

これはもともとは疑うことなき存在の筈です。しかし世界中でそれは担ぎ出され、大いに利用されました。その際に注入される「不純物」つまり権力者の「私利私欲」が超越性から乖離しないようにまとめて「信じさせる」必要が出ていたのだと思います。キリスト教社会ではローマの国教になった時点からすでにこの現象が現れたと思います。
日本の仏教では伝来時は宗教性よりも政治色のほうが強かったものの平安時代末期から内的に変質をとげある意味で超越性が取り戻されました。このことの根底には仏教伝来以前から我々が持っていた、超越性に対する「畏れ」「敬い」の精神が影響しているのだと思います。


25. 2013年5月10日 06:58:19 : WVTaP8trPh
あやみ さん

安芸ガラスです。

>商売人や政治家は人の単純な主張を利用し文脈の流れをつくりだす、そして我々は素直に「その気」になるか、変だと思いつつも「これが政治というもん」「経済とはこういうもん」…などと納得しようと努力してしまう。

そうです。
政治とは、権力担当者たちが、私たちの要求と欲望をコントロールする装置なのです。

文脈もそれに重なりますね。
同意します。


26. 2013年5月10日 16:02:58 : jIXGsuy8aA
あやみ さん

「開国」と云われています。
「近代化」「明治維新」でしょうか。

「開国」「近代化」「明治維新」も、何かを捉えていないような気がします。
でも、何かが変わった?

何だろうか!

変わったのは「うつつ」の流れが破棄されたのでないだろうか。


あやみ さん
むかしの言葉で「空間」は、どう言うことばですか。

腹が減った、でも時計の時間だから食べています。いろいろありますね。


27. 2013年5月10日 17:21:04 : FrpXTmA0eo
 
 あやみさんのように捉えている人たちが、私もそうですが、世界中で、本当に本当に多いと私は思ってます。
 発信者は米国政府だったり、国連だったり、WHOだったりもしますね。などや、
政治とは、権力担当者たちが、私たちの要求と欲望をコントロールする装置 など。

 私は、ヨーロッパ在住ですが、公立高校に通う高校生の息子の、歴史のテストに、正義、裁判の歴史についての小論文があり、私が忙しかった事もありそれをチラッと聞かされたときに、強く記憶に残ってるのは、いかにして、正義、裁判が特定の階級のものであったか?という感じのところでした。

 そして、それと闘って来た民衆の歴史もある。

 そうして、キリスト教から離れて 無信教になった人たちに、フリーメーソンが伝わったとも聞きます。

 ことば はそれに意味を吹き込む人々によって、全く違う意味になったり、微妙なニュアンスになったり、生命を感じるものになったり、噓そのものになったり、平和 や 正義 という ことば に問題 があるわけではなく、その言葉 に誰が、どういう人たちが 意味を 吹き込むかによって違ってくるのでしょうね。ならば、偽善者たちから、平和 正義 を取り戻しに行かなければならないのではないでしょうか?
 

 当然、国連やWHOも、様々なネットワークが拮抗したりしてるのではないでしょうか。日本の検察問題があったときに、当時、国連関係の情報を調べたものでした。 
 そういえば、ブッシュは、戦争犯罪人として起訴されるために、スイスに来る予定を直前に取り消したことなどありましたね。

 ジャーナリズムもアカデミズムも、企業として、ネオリベの米国スタイルが進んでますが、抵抗している国も人々も随分いると思われます。少なくとも、生活の為に言いたい事がいえなくても内心強く抵抗している人たちも含めて。
 
 日本の放射能のことをと言った途端にデマとしてマージナルな人たちにされてしまうような極端な雰囲気も所々ある感じで、とても心配してますが、敵愾心を両方サイドでもつことが、余計に、酷いムードを作るのではないかなあと思います。 といっても、私自身少数派でそのように考えるのも最近のことですが。

 TPPなど、陰謀論ではなく、陰謀そのものと思ってる人々が、安倍信者に訴えても、逆効果になってます。

やはり、信じる人たちというのは、自分の信じるもの以外を ある意味、迫害,排除 するような行動を取るのでしょうかね。

他スレッドで、確か、ろうし力学さんだったと思いますが、人体を救うためガン細胞とどうつきあうか?いうコメントが面白かったですが、
 ガン細胞たちと、敵対しないで、平和、正義の 欺瞞を超えて 人間の必然性に基ついて、ニュートラルな気持ち、まっさらさらな気持ちで、平和、正義に意味を吹き込めたら、、と思うのです。もちろん、怒りの感情もあり、難しいことでがありますが、、。 
 私自身も、随分前から、ネオリベの雰囲気のするものをドンドン避けていくようなところがありました。無意識的な敵愾心がかなりあったかもしれないと思ってます。
 この両サイドの敵愾心を巧くつかって、分断させ、民衆の力を失わせようとしてるところもあると思うのです。
 
 政治とは、権力担当者たちが、私たちの要求と欲望をコントロールする装置 とありますが、その装置として機能するのには、、政治、金融、正義 などの分野を境界を超えて行き来する人たちの交流がなければ不可能です。
 そういったロビー活動をさせない、分断させるために、 ジャーナリストたち、こうしたネットの優秀なブロガーたちが活動してるものと思います。
 フランスの サルコジやオランドの予算大臣の不正を暴いた ネットメデイアとテレビでも活躍するジャーナリストが、街を歩く人々が賞賛と握手を求めてる映像をテレビで見ましたが、共感を持ちました。
 
 現在、こういうことが、実はどんどん影響を与えているのは確かな事のように思われるのですが、、。

日本には、中世から 抵抗して来た民衆の歴史 があります。  日本独特の 正義の 歴史もあるのではないでしょうか。その辺をヒントにするのがますます重要と思われ、あやみさんの お仕事、ますます期待してます。

 



28. 2013年5月10日 19:20:40 : FrpXTmA0eo
 29ですが、ガン細胞に敵対心をもつと、ガン細胞がますます活性化するような面が、確かにあるのかもしれない、、という点が抜けてました。
 様々な事象を、常に変化してる有機体として捉えて、常に全体を感じる目を持ちながら、身近の問題にも 理性だけで排除せず、正し過ぎずに、誠意を持って関わって行こう、、そんなふうに思うのです。

29. 2013年5月10日 19:22:14 : FrpXTmA0eo
27を29と間違えました。誤字脱字が多く、申し訳ありません。

30. あやみ 2013年5月10日 20:16:58 : oZZpvrAh64sJM : FI6NlmDEfm
>「開国」「近代化」「明治維新」も、何かを捉えていないような気がします

はい。これらの言葉は歴史事象を評価・学習する上での「アドレス」に過ぎません。その内容と意味はこの字面からは引き出せません。。

「開国」は「鎖国」の対語です。秀吉から家光の時代になぜ鎖国したかはいろいろと議論されていますが、もし鎖国をしていなければこの頃すでに「近代化」は強いられたでしょう。当時の政権は「近代」が何たるかを見逃さなかった、そして跳ね返したのだと思います。イエズス会の思惑、鉄砲の効果と毒性、貨幣経済の落とし穴、それらは日本に取り返しのつかない災いをもたらすことを察知したのだと思います。

「空間」は「時間」と対比される言葉ですが、昔はその境殆どはなく不可分であったと考えられます。たとえば「いま―今」とはすなわち「いま―居間」であります。「ま―間」とは時空ともに「領域」という意であり、つまり「いま」とは「自分という存在の居る領域」です。

「時間」および「空間」の外側は「うつはー器」、空っぽの状態を「うつほ―空」「うつろ―虚」、そこに何かを入れることを「うつ―打つ」、内側は「うち―内」です。「うつり―移・写・映り」行く時空間は「うつつ」であり、過去現在未来の継続です。

1868、日本の時空は根から断ち切られたといっていいと思います。近代という土に移植されたのかもしれません。


31. 2013年5月10日 20:20:20 : jIXGsuy8aA
27 さん

安芸ガラスです。

>ことば はそれに意味を吹き込む人々によって、全く違う意味になったり、微妙なニュアンスになったり、生命を感じるものになったり、噓そのものになったり、平和 や 正義 という ことば に問題 があるわけではなく、その言葉 に誰が、どういう人たちが 意味を 吹き込むかによって違ってくるのでしょうね。ならば、偽善者たちから、平和 正義 を取り戻しに行かなければならないのではないでしょうか?

同意します。

人間は本当も嘘も言えません。
言葉は唯一つ「オギャー」です。


32. 2013年5月10日 20:34:30 : jIXGsuy8aA
あやみ さん

安芸ガラスです。

>1868、日本の時空は根から断ち切られたといっていいと思います。近代という土に移植されたのかもしれません。

焦点は時間です。
では、「明治の新語」の背景は、空間からですね。

明治生まれの人から聞いたことがあります。
むかしは、間合いだったのに、最近は距離とか空間になったと。

「明治の新語」を時間からの読替えが必要です。


33. 2013年5月10日 21:22:23 : jIXGsuy8aA
あやみ さん

安芸ガラスです。

「近代」について一言。
友人宅で諸星大二郎の漫画を読みました。

彼は、私より上の世代です。
構想、アイデア(図案)、シナリオ(脚本)、吹き出し(構図と人物と発言の記入)をひとりでやるそうです。

そのために体と頭を使う場所、かかる時間の、すべて違います。
「近代」は、これらの行程を、ラインに配置します。

ラインと言う空間で時間を平準化します。
無駄がなくなるのです。

私は文章を起草するさい、一般的には無駄だと思われている時間が必要です。
「近代」とは、頭の中に構想が浮かんでくるまでの時間を、無駄な時間として切り捨てられます。(収奪される)

この「近代」が、清、李、日本に船できたのだと思います。


34. 2013年5月11日 10:29:10 : 0uakbCRtKo
信じるものは騙される。

信じない心、疑って疑って、石橋叩いて石橋叩いて人生を渡りきる事だけが己の命を護る唯一の方法。

イヤナ世の中にしてくれたものだね自民党は。


35. あやみ 2013年5月11日 13:26:16 : oZZpvrAh64sJM : FI6NlmDEfm
27さま、安芸ガラスさま、みなさま、

どうしようもなく強大な力に対し抵抗する、たとえ精神的にだけでも抵抗しようとしている人たちがこのまま増えるということは喜ばしいことです。ただし仰るとおり、そうでない人たちに「敵愾心」を抱いてしまうとそこで別の病が生まれてしまうでしょう。それでは連中の「思う壺」、実際に陰謀論者と呼ばれる人たちの中には間者も多いと思います。

通信技術を駆使して人をいかに信じさせ、あるいは不信を煽り政治の道具にする研究が大学・国家機関で国家予算によって行われている国々があることを認識しなければなりません。そんな世の中であればこそテレビ報道だけでなくフェイスブックなどを含めた全ての媒体に対しどう間合いを取るかはさらに慎重にならざるを得ません。

「がん細胞とどう付き合うか…」
私もこの議論は大切なものだと思います。人体を世の中の雛形として考えたものであります。
世の中の弱者・少数派は自分が悪くて発生したのではなく、世の中というひとつの全体が機能する上で、人という不完全な生き物がどうしても犯してしまう過ちを背負ったために痛めつけられ病となった細胞である、という考え方です。
例のスレッドには「目の見えない少女はその存在を以ってわれわれに光を与えてくれる」というすばらしいコメントがよせられました。そのとおりだと思います。また交通遺児や犯罪被害者、被差別者、砂漠地帯の飢餓に苦しむ民衆は、我々に犯してはならない過ちとは何かを雄弁にかたり、警告してくれます。

しかしこの解釈はもっともっと広げなければ綺麗ごとで終わってしまう。

飲酒運転をするのも、凶悪犯も、性異常者も、みな同じように痛めつけられた細胞であるということです。彼らを憎んで疎外し、社会から抹殺してしまうことは可能ですが、それが世の中全体を守ることにならないのはもはや明白です。がん細胞を切除し、放射線で焼き殺してもまたいくらでも病気になるのです。「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」は伊達ではなくこの世を正確に形容しているのです。

>ガン細胞に敵対心をもつと、ガン細胞がますます活性化するような面が、確かにあるのかもしれない

まさしくそのとおりです。原子力ムラ、東大、東電、マスコミ、日本政府を生んだのも、権威を持たせたのもこの世の中です。ひいてはハーバードやスタンフォード、国連、アメリカなども同様、これらはみな地球の癌細胞です。悪と罵り敵愾心を抱けば抱くほど癌細胞はそれを餌に分裂を繰り返し巨大化するでしょう。


=========================


「時間」と「空間」の話ですが、かつて不可分だったものが結果的に分離されたことでこの二語が生まれました。その証拠に「間合い」は距離においても時間においても通用する語彙です。間合いは武道や歌舞音曲の命とも呼べるものだと思います。
この分離は意図的なものか、この語句の運命だったのかはわかりませんが、かつて我々が保っていた「時」のかわりにニュートン時間がニュートラルな時間を刻むようになりました。季節・日照時間・それに司られている筈の体調に関わらず、九時から五時まで均一な時間労働を強いられるようになりました。発達の違う子供たちを「年齢」というたった一つの基準で束ねて均一に教育を行うようになりました。こうして、「時」すらも「量」として(たとえば賃金、効率、成果として)物質換算されるようになったのです。


===================


>人間は本当も嘘も言えません。
言葉は唯一つ「オギャー」です。

しかし我々人間は「大脳」を担がされてしまいました。何百万という語彙を解釈し記憶し再生できる「大脳」をです。
仏教では「業」と、キリスト教では「試練」と、イスラームでは「インティハーン」といわれるもののひとつでしょう。

男と女が好き合って子を儲け、その子に食べさせ雨風から守り必死で育てるだけの、その繰り返しだけの人生、人類でいつづけることができたのならばどんなによかったか、しかし禁断の果実を口にした我々は子宮という楽園からこの世に生れ落ちてしまいました。「何でこの世に生まれちまったのか、と、赤子は泣きながら生まれる」、トルコにはそんな言い回しもあります。

「平和」「正義」「自由」そして「信じる」を造語したのは偽善者たちであり、著作権も所有権も彼らにあるという気がしてならないのです。奪いとることはできるのか、奪い取ったその瞬間に自らが偽善者と化すころはあり得るか、そんな予感があります。 そしてこんな言葉を使わないですむ世の中であればどんなにいいか…でもそんなことをいっている場合ではないのでしょう。


======================


背負った業は背負い続けることになります。どう背負うかをまだまだ考え続けなければならないでしょう。人類全体の業を全体で背負う道は、どこかにあると思います。


36. 2013年5月11日 19:11:03 : FrpXTmA0eo
35、あやみさんの 
 奪い取った瞬間に自らが偽善者、、とありますが、27ですが、ポジションやポストではなく、その意味のことを私は言ってます。奪い取るっていうことばではなく、意味を取り戻しにいく。

 平和、正義、自由、信じる、、これに敢えて加えるなら時に 人権 も、そのうさん臭さは、多くの民衆が感じてます。 ーある特定の人たちのための、と言う言葉が最初にくるからですが。これがブルジョワのものであるということも感じてますが、高等教育を受ける民衆が増えてそのへんが曖昧になってるのではないでしょうか。このへんの曖昧さも、一つの可能性のような気がしてますが。ー

 このような言葉が西洋的な概念や歴史に基ついているのでしょうが、
その他のそれぞれの地域にだって、平和をどのように取り戻したか?どのように正当性を獲得して行ったか?
 どのように自らの権利を獲得して行ったか?
 それぞれ様々な歴史があるはずです。
言葉はそれぞれ違っても、概念は普遍性をもったものだと思います。

 ブルジョワ階級が自分たちの利益を守ろうとするとき、同時に以前のロワイヤリストも復活、してきたようななんとも嫌な時代ですが、彼らのネットワークが至所に存在していても、
実は、 世界ではどちらにも関係のない、どちらの利益にも係わり合いたくない、もしくは関わってるけど機会があるなら転換させたいと願ってる高等教育を受けた民衆こそ、本当は圧倒的に多いと思うのです。

あやみさんがおっしゃる、どうしようもなく 巨大な力 それが自律的に存在している訳ではないと思います。自らの権利を捧げる人たちの力を束ねていってるのではないか? と思うからです。
 そう、現在、世界には、自らの権利を捧げる 民衆が思いのほか多いのでしょう。
もしくは、あやみさんのおっしゃっるように支配者の術が長けているとも。

 
 35 あやみさんのー「平和」「正義」「自由」そして「信じる」を造語したのは偽善者たちであり、著作権も所有権も彼らにあるという気がしてならないのです。奪いとることはできるのか、奪い取ったその瞬間に自らが偽善者と化すころはあり得るか、そんな予感があります。ー
に関しては、もちろん彼らが作り所有権も彼らにあるかもしれない。

しかし、それをいくら探っても、民衆の権利に繋がらない。
逆に、彼らからの視点で捉えた瞬間、所有権も彼らにあるかもしれない、と考えた途端に、彼らの枠組みに組み込まれてしまう危険性さえあると私は思うのです。
 彼らの思惑が透けて見えてきそうな感じであればあるだけ、愚直でも、民衆からの視点にこだわるべきだと思うのです。
 民衆からの視点で、自分たちにどうしても必要なものをどうやって取り戻すか?

に意識を集中させて 試行錯誤、それぞれが 創意工夫 する、残念ながらそれしか思いつきません。
でも、それを諦めずに続けていけば、、、。どこかにチャンスがあると思いたいです。

 こうして、ますます巨大になるアンバランスの作用で想像される大惨事 をも防げたら と。

 もちろん、現在の所、酷い状態なのは確かです。しかし、そのより酷い状態に関わろうとするのも、改善しようとするのも人間です。国連や様々な機関もそれに関わる人たちも常に変化して新陳代謝しています。
アンバランスが強くなると、それを改善しようという力も必ず働いてくるのではと思うのですがね。善悪という意味ではいってません。

 勝ち目がないから、勝ち馬に乗る、、というような人間ばかりでもないと思います。

 それでもなんとかして、改善できないものか、知恵を絞って行かなければと思うのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 二つのものの 境界 で、この境界で こちら側に引きつけられる人と、あちら側に引き込まれる人。ガン細胞とそうではない細胞、、。この 境界 が どちらでもないものに変化する可能性があるような気がするのです。
 新しい 脈絡 を発見できないものだろうか? そうして、現在の津々浦々に拡がるネットワークの上にもう一つ、質感のまったく違ったものを作る事ができないものだろうか?

 


 

 

 

 


37. 2013年5月11日 19:57:22 : wrjafLF2rk
36さん

安芸ガラスです。


>二つのものの 境界 で、この境界で こちら側に引きつけられる人と、あちら側に引き込まれる人。


これは以下が焦点(綱引き)ではないだろうか。

市民社会(万人の権利・形式)とブルジョワ社会(特権)。
ブルジョワ社会が市民社会を飲みこんでいるが、形式から実質への要求。

科学(言葉)の階級性・党派性・客観性と科学の社会的前提を問うこと。
社会通念(発明)を解体し、新しい価値を創造する(発見)こと。


38. 2013年5月11日 21:17:43 : wrjafLF2rk
36さん

安芸ガラスです。

追加です。
われわれプロレタリアートは、本来はブルジャワジ―の下層です。
ですから、上昇思考が強いのです。
だから、形式的平等から、実質的平等へ行くには、自己解体、つまり、社会通念を解体し、新し価値を創造する自己変革が必要とされています。


39. あやみ 2013年5月12日 05:33:44 : oZZpvrAh64sJM : FI6NlmDEfm
34さま、まあそう仰らないでください。

そこらじゅうに無駄な石橋をかけてあるのがいけないんじゃないでしょうか。しかも渡らなきゃいいのにわざわざ叩いてまで渡ろうとすることが世の中を複雑にしています。

本当に叩いてわたるべき橋はそんなにたくさんはないと思います。


40. あやみ 2013年5月12日 06:21:07 : oZZpvrAh64sJM : FI6NlmDEfm
36さま

>ポジションやポストではなく、その意味のことを…

はい、わかっております。
あくまで自論ですのでご了承くださいね。自由や正義という言葉に期待をしてはいけないと思うのです。これらの言葉は、阻害・妨害・搾取されたときに発生する「かげぼうし」です。戦争が起こるから平和を求め、懲罰すべき悪があるからこそ正義を叫び、命と財産を奪われないために人権を唱えます。ですから私が言葉の所有者と言った意味、それは戦争を起こしておきながら平和を叫ぶ偽善者どもを指しており、逆に言えば「平和の創造主」になるために戦争を起こしているとも言い換えられます。
人権、人としての権利といわれています。。化学兵器の使用は人道に外れるとして国際法で禁じられていますが、使われています。それは「相手は人じゃないから使っていい」という詭弁が根底にあるからです。ならばこの詭弁の支持者たちは相手が人でないからという理由で人権侵害をもするでしょう。現代の偽善者たちの造語した言葉などはこのように粗悪で鼻持ちならないものです。

「権利」も、けとばしてひっくり返せば「利権」になります。

我々がこのようなチャチな言葉に求めていることは、別の言葉で、もっと普遍な概念として存在している筈です。それを主義や主張を超えたところで共有できるようになるためにはもっと視点を変えていかなければならないでしょう。

安芸ガラスさんの「社会通念を解体し、新し価値を創造する自己変革」、これがうまい具合に「共有」されることが可能なら、しめたものです。「現在の津々浦々に拡がるネットワークの上にもう一つ、質感のまったく違ったものを作る事」には不可欠なことだと思います。


41. 2013年5月12日 16:33:03 : FrpXTmA0eo
38、安芸ガラスさんの

 ー市民社会(万人の権利・形式)とブルジョワ社会(特権)。
ブルジョワ社会が市民社会を飲みこんでいるが、形式から実質への要求。ー
 ーわれわれプロレタリアートは、本来はブルジャワジ―の下層です。
ですから、上昇思考が強いのです。ー

 私は、形式から実質へ というより、 実質から実質のない形骸に向かおうとしてる最中のような気がします。 日本の戦後から1970年代、80年代まで、なんだかんだいっても、今にして思うと、バランスがとれていたいい状態だったように思われます。日本の民衆は一概には言えませんが、闘って勝ち得てきたのだと思う。弱者 のことも想定された社会 を望んでいたと思います。 戦後 っていうこともあったからでしょうが、、。
 
 中小企業、ファミリー企業が元気な国は、なんかそこに生きてるひとも明るかったと思います。 それが誰がオーナーかわからない欧米型企業にどんどん様変わりし始め、殺伐とした雰囲気になり、極一部の繁栄 と、大多数の貧民 になる社会へ向かってる最中が今だと思います。
 人々は、そんな社会望んでないのに、望んでいる事にされてしまう。
 多くの権力権威への不信。
 この大きな不信の流れの中で、
 私たちはどんな社会を望むのか? 私たちはどんな世界を望むのか? そのためにはどううればいいか?
 自分さえよければいいと思う人たちにはなりたくない人々、施政者の思い通りにないたくないという人々 は 知恵をしぼり、チャンスを見つけなければならないのでしょう。

 伝える ことば はとても大事ですね。  見えない高い霊性をかんじさせる ことば、、深く確実に伝わる ことば。 世直し のときは どうだったのかなあ?って想像します。

 あやみさん、そういった ことば を 再発見、もしくは発見 してほしいなって思うのですが、、。

 その、ことば を 正しく 発声 して伝えていく、、。キャッチフレーズとかとは違った質感で
効果と力を備えた物かもしれない。

 汚い言葉を口にだして言わないか、酷いことを口にだして言わないって、本当に大事ですね。
ことばを美しく発するというのも、随分重要なことかもしれない。

あやみさん、ありがとう。
  
 

 

 
 


 
 
 

 
 


 


42. 2013年5月12日 17:05:34 : FrpXTmA0eo
 41です。どうしてなのかわかりませんが、コメントの最後、余白が多くなって申し訳ありませんでした。

43. 2013年5月31日 08:47:07 : GQrN4nKkaL
貴女の言いたいことは理解した上で。私には、取り立てて嫌いな言葉、というものはありません。
全ては使われるその文脈次第、ということで。

ただ、大きなメディアほど、そのことばが本来使われるべきサイトを、歪めてしまうものであるということは、一旦陰謀論論を受け入れた上での一目瞭然たる真理であろうかと。
いかに、ダサくて壮大な、いや誇大妄想としての深慮遠望、要するに犯罪的陰謀を見抜いた上で軽々と微笑んで越えられるか・笑。
それがことばを本義(しかるべき場所)へ還すかという、チャレンジ(試練、人類共通の進化への)ということになってくるのでは、ありますまいか、と。。

ただ、とても良いテーマの投げかけだと思いました。


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