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事実無根の南京大虐殺(何事も楽しく、過ごしたい。)
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/517.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 7 月 04 日 05:51:51: 8rnauVNerwl2s
 

何事も楽しく、過ごしたい。から
http://ameblo.jp/kojinadai/entry-11173746718.html


南京大虐殺なんて真っ赤な嘘だ。事実無根のデタラメだ。
そもそも帝国陸軍による南京侵攻の事前通知により、
約30万人の南京市民は大半が疎開済みだった。
呆れたことに、恐怖におののいた蒋介石をはじめ支那軍は南京から逃げ出していた。
支那兵の残党が若干いたので小競り合いはあったものの、南京はあっさり陥落した。
昭和12年12月17日、松井石根大将率いる帝国陸軍が
人気のない南京市に堂々入城行進した姿が映像に残っている。


南京で閲兵する松井石根大将
http://stat.ameba.jp/user_images/20120224/01/kojinadai/24/da/j/o0398025011812740322.jpg


南京市に入った皇軍将兵は品行方正だった。何しろ南京は支那の主都だ。
大日本帝国陸軍の動きは世界が注視しているし、現地には欧米人の商社マンやジャーナリストもいる。
日本兵が横暴な態度を取れば国際外交の場で袋叩きにされる。
いいか、紳士的に振舞え、蛮行はまかりならん、との松根大将の指示が全軍に行き渡った。

これを見て仰天して驚き、また大喜びしたのが、現地の支那人だ。
何だ、日本軍て随分優しいじゃないか。
支那の軍人と違って遥かに身なりもいいし、略奪や暴行もはたらかない。
あれれ、治安までよくなったぞ。食料は配給してくれる。医療サービスまで提供してくれる。
ななな何て立派な軍人たちなのだ。
日本兵の姿に接し感涙を流す婆さん、歓喜する子供たちまで現れた。
南京市民は日本軍熱烈歓迎に湧いた。

南京城入城式当日の様子
南京の避難民が、日本兵から菓子・煙草の配給を受け、喜んで日本軍万歳を叫んでいる。
http://stat.ameba.jp/user_images/20120224/01/kojinadai/d1/c4/j/o0400025511812740323.jpg


周辺に一時疎開していた民間人が我も我もと、あっと云う間に南京へ戻ってきた。
周辺地域から南京が暮らし易くなったと聞いて、流入していくる者もいる。
南京の人口が僅か1ヶ月で40万人に膨れ上がった。
日本軍が入城した途端、人口が差し引き10万人も増えた。
もちろん、日本兵と南京市民との間に暖かい交流もあった。
名古屋の河村市長が正直に指摘したのは、このあたりの事情だ。

信じられない人もいるだろうが、
もともと当時の感覚では日本と支那が戦争しているわけではなかったのだ。
支那では現代風の国民国家の意識すら希薄だった。
国民党や共産ゲリラが入れ乱れて内戦が続き、
民間人にすれば何処の軍隊が勝とうが負けようが、どっちでもよかった。
支那の軍隊やゲリラは武装暴力団みたいなものでガラが悪くて危ない。
近代的で真面目で礼儀正しい大日本帝国陸軍を拍手で迎えた支那民衆の気持ちがよく分かる。

いやいや、支那の民衆が歓迎したのは毛沢東率いる八路軍だった。
と、支那共産党政府は史実を捻じ曲げる。
大虐殺記念館をでっち上げ反日感情を煽り、憎い日本に勝ったのは共産党のお蔭だと嘘をつく。
何から何まで嘘だ。嘘だらけなのだ。

蒋介石自身は、昭和41(1966)年9月に、
台湾で日本人のインタビューに答えて、次のように述べている。

「南京には大虐殺などありはしない。
何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。
私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。
松井閣下は冤罪で処刑されたのです。」

と涙ながらに語っている。

 

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コメント
 
01. 中川隆 2013年7月04日 08:13:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
おまい、日本政府の情報操作を真に受けてるだろ。

「南京事件」と報道規制  

 「南京占領」当時の日本の新聞記事を持ち出して、「こんなに平和な風景なのだから南京事件などなかった」という不思議な議論をする方を、よく見かけます。そういう方は、当時、軍部に都合の悪いことは一切報道されなかった、という高校社会科レベルの「歴史の常識」すら、頭にないのでしょうか。

 当時の「報道規制」の実態についてはいろいろな資料で見ることができますが、ここでは、『国論』昭和12年11月号の記述を紹介しましょう。「日中戦争」初期のメディアに、このような「軍部批判」とも言える記事が掲載されたことに、ちょっと驚かされます。

 


『国論』昭和十二年十一月号 支那事変特集号より
 新聞往来 言論統制と新聞の単調

 広告収入減と紙飢饉の悩み 新聞は漸く淘汰されん

 

戦況報道

 日支戦争が始まつた当時、何れの新聞社も、読者も一斉に連想したのは、満州事変における新聞社の活躍と、其の間に於ける強弱新聞社の著しい等差を見せたことであつた。

 満州事変に於けるニユースの報道は一つは地理の関係もあつたらうが、其の機構設備の上から、平素張つてゐた通信網の関係から、大阪の二大紙、延いては東京の東日、東朝両大紙が群を抜いた活躍と、其の報道の迅速優秀であつたことである。従つて此の四紙は莫大な費用を使つたことが勿論であるが、その代り著しく発行部数の増加を見せたのであつた。

 其の例から推せば、日支事変に当面しても亦、大阪系四紙の活躍と其の発行部数の激増を見せ、其の勢力の増大著しきものあらんとは、大阪系四紙自らも、他の新聞社も、世間も斉しく期待したのであつた。

 然るに、事変報道に関する軍の意向は、厳粛に之を統制することに努め、軍の発表以外の記事は勝手に之を掲載することは許さなくなつた。事変始まるや、各社競ふて従軍記者を派し、又通信機関を強化拡大して之に備へたのであつたが、軍の統制の厳粛にして、記事を統制されたのには、何れも一驚を喫したのであつた。

 戦死傷者の名前及び其の郷実を一々報道することは、銃後の父兄、親戚、知人等に取つては非常に関心を持つことであり、従つて新聞読者拡張の上に資すること大なるものであつて、新聞経営の上からは極めて切要なものであるに拘らず、軍は之を掲載することを中途から禁じたほどに、微細に亘つての統制が行はるるやうになつたから、各新聞社に取つては其の独特の活躍を紙上に示す価値性を減殺さるること夥しいものとなつた。

 尤も戦場に於ける将士の美事善行、奮闘の跡などを詳報することは差支えないものとして、多少其処にユトリはあるにはあるが、大体に於て右の次第であるから、戦況報道に於ては、各社其の軌を一にし、何れの新聞を見ても同じものであり、其の間に特殊の優劣もなければ、新味もなくなつて、新聞は全く単調化されたのである。

(P73〜P74)

 

 大阪毎日新聞記者の五島広作氏 も、当時の「絶対的な軍命令の報道規制」について触れています。念のためですが、五島氏は、「南京虐殺は世界史のウソ」とまで言い切る、いわば「否定派」の嚆矢ともいえる人物です。
 

『南京事件の真相』(熊本第六師団戦記)より
  未検閲記事は銃殺だぞ

 藤原武情報主任少佐参謀が出発直前に、熊本駅長室に従軍記者代表として、大毎記者五島を命令受領に呼び出す。

 「五島、わが六師団はいよいよ出発征途にのぼるが、オレが情報主任参謀としていっさいの報道関係の責任者だ。従軍記者諸君に伝えろ。よいか、軍に不利な報道は原則としていっさい書いてはいかん。現地では許可された以外のことを書いてはいかん。この命令に違反した奴は即時内地送還だぞ。記事検閲を原則とし、とくに軍機の秘密事項を書き送った奴は戦時陸軍刑法で銃殺だ」

というわけで絶対的な軍命令の報道規制で、報道の自由どころか自由な従軍記事報道は許されない。

「銃殺」の厳命で三すくみにふるえあがるようにして、司令部とともに、二等車に乗って乗船地門司へ行く。

(P191〜P192)

 

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 このような「報道規制」 下にあっては、例えば、多くの目撃者が証言する「安全区の敗残兵狩り」などの実態も、日本に報道されることはありませんでした。(具体的な目撃談については、コンテンツ「敗残兵狩りの実相」および 「下関の光景」をご覧ください) 「連行現場」と「殺害後の大量の死体」を目撃した今井正剛氏の記述にも、「書きたい」が「当分は書けない」ことを嘆く記述が見られます。

 


今井正剛氏『南京城内の大量殺人』より
 
 何万人か知らない。おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であったほかは、その大部分が南京市民であっただろうことは想像に難くなかった。揚子江の岸壁へ、市内の方々から集められた、少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかなくて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びているのだ。

 「うっ、寒い」

 私たちは、近くから木ぎれを集めてきて焚火をした。

 「さっき、支局のそばでやってるとき、自動車が一台そばを通ったねえ」

 中村君がそういった。

 「毛唐が乗ってたぜ」

 「あれは中国紅卍(まんじ)会だろうと思うな。このニュースはジュネーブへつつ抜けになるな」

 「書きたいなあ」

 「いつの日にかね。まあ当分は書けないさ。でもオレたちは見たんだからな」

 「いや、もう一度見ようや。この眼で」

 そういって二人は腰をあげた。いつの間にか、機銃音が絶えていたからだ。

(『目撃者が語る日中戦争』P57〜P58 = 初出『特集・文藝春秋』昭和31年12月)

*「ゆう」注 上の今井氏の記述に対しては、「夜間に連行殺害したという記録が他にない」ことをもって、その信頼性を否定しようとする向きも見られます。しかし「他にない」ことだけでは「否定」の材料としては不十分であると思いますし、また、「安全区の敗残兵狩り」自体はあちこちで言及される否定のしようがない「事実」です。ここではその議論には深入りしませんが、とりあえずは、今井氏がこのような光景を目撃しても「当分は書けない」と認識していたことにご注目ください。
 

 

 さらに、「事件」直後に撮影された映画『南京』に、「虐殺」を思わせる場面がないことを「否定」の材料にしようとする方も存在します。しかし、映画『南京』のカメラマンであった白井茂氏自身が次の記録を残していることからも、この映画をそのような材料として使うのは無理なことでしょう。
 


白井茂氏『カメラと人生』より
  中山路を揚子江へ向かう大通り、左側の高い柵について中国人が一列に延々とならんでいる。何事だろうとそばを通る私をつかまえるようにして、持っているしわくちゃな煙草の袋や、小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私に哀願する。

 延々とつづいている。これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。だから命乞いの哀願だったのである。それがそうとわかっても、私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。


 柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が 真赤に血で染まって両手を上げて何か叫んでいる。いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない。何か執念の恐ろしさを見るようだ。

 とにかく家財道具から何から町の真中にみんな置きっぱなし。

 まだ城内ではどっか隅の方で兵隊は戦っていた。音がしたり、なにか気配があった。ぼくらは司令部の命令で南京銀行の三階へ陣取った。みんな、見当つけてピストル一挺持って探索に出かける訳だ。いつやられるか分からない。銃殺しているところだとか、いろんなところを見た。

 翌日から少し撮影を始め、飛行機の落ちていくのを撮影したり何かしている内に、松井石根の入城式になった。向うの住民も手を振って迎えている。しょうがないから手を振りまわす。メイファーズ( 没法子=どうしょうもない)というわけだ。

 見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある。

 さきの延々と並んでいる人たちに対し、兵隊が一人ぐらいしか付いてない。逃げ出したらいいだろうと思った。そうかと思うと、町の真中で、向うが川の所に、こっちへ機関銃一挺据えてある。兵隊一人で。で、向うに百人ぐらい群集がいる。

 あんなものは、一人か二人犠牲になったならば、みんな逃げ出せたと思う。それでも逃げないのはやっぱり、機関銃の前で怖いのか、逃げないのである。

 よく聞かれるけれども、撃ってたのを見た事は事実だ。しかし、みんなへたなのが撃つから、弾が当ってるのに死なないのだ、なかなか。そこへいくと、海軍の方はスマートというか揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴飛す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く、浮いたところをボンと殺る。揚子江に流れていく。そういうやりかただった。


 戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから幾日も幾日も心に焼付けられて忘れることが出来ないで困った。私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の眼にした一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。
 

(同書 P137〜P138)

 

 

 

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 しかしこんな状況でも、なぜか、「自由に報道できた」と感じていた新聞記者もいたようです。


『「南京事件」日本人48人の証言』より
  東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局次長の証言

―当時の報道規制をどう感じましたか。

「何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いてたよ」

(同書 P39)

*「ゆう」注 橋本登美三郎氏は、のち代議士となり、 田中角栄内閣の下で自民党幹事長を務めました。余談ですが、氏の名前はむしろ、「ロッキード事件」丸紅ルートにて受託収賄容疑で逮捕・起訴されたことで知られているかもしれません。
 

 
 上に紹介したような「報道規制」の実態から見ると、橋本氏の発言は、異様です。ろくな取材を行わず、日本軍の「大規模な軍紀の乱れ」「捕虜殺害」の事実を全く知らなかったのか。それとも、そんな事実を見聞してもそれには全く関心を持たず、報道しようとする気が起きなかったのか。 

 この発言を根拠に「報道規制はなかった」と発言する方を見かけますのであえて取り上げましたが、まあ、橋本氏はインタビュー当時83歳とのことですので、この発言を問題にすることは、あるいは酷なことかもしれません。


 

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 最後に、田中正明氏の記述を見てみます。
 


『南京事件の総括』より
  第十四の根拠 緘口令など布かれていない

 教科書には「日本国民には知らされなかった」とある。それならば、「南京事件」について喋ってはいけない、書いてもいけない、という緘口令が軍なり政府なりから出ていたのであろうか。答えは全然「ノウ」である。

(中略)

 戦時下の流言蜚語の取締りは、いずれの国においても当然の行政措置として行われる。

(中略)

 当時の規制をみると、十二月十三日に「海・陸軍省令による新聞記事取締に関する件」として「揚子江方面に於て我軍が第三国の艦船に被害を与えたるやの件」−すなわちパネー号、レディバード号事件の報道が規制されている(但し十五日に解除)。上海戦に参加した第十一師団が凱旋することになり、これに関しても記事の規制が行われている。

 このように前もっての規制の外、随時省令などが出されていたが、南京事件の報道についてはこのような陸軍省令、海軍省令、外務省令など全然出されていないのである。

(中略)

 筆者は取材中、参戦した将兵の方々に、最後に必ず次のような質問をすることにしている。

 「南京事件にかんして、喋ってはいけない、書いてはならぬ、といった緘口令のようなものが上官からありましたか」と。答えは一様に「とんでもない、なにもありませんよ」という返事であった。同じことを従軍記者の方々にもきいてみた。やはり同様「全然ありません、但し自主規制はしていましたがね、これは報道にたずさわる者の常識です」。これが特派員諸子の異口同音の声であった。

(同書 P225〜P227)
 

 

 ここまでお読みいただいた方にはもう解説の要もないでしょうが、一応、コメントしておきましょう。

 上の文を読むと、「一般的な報道規制」というものは存在せず、規制の対象は「流言蜚語」と個別の事件に対してのみに限定されているかのように読めます。しかし、「自由な報道が許されない」状況については、既に雑誌『国論』や五島氏の記述に見たとおりです。「軍に都合の悪い」ことは一切報道できない状況にあったことは、今さら言うまでもないでしょう。

 そして氏は、「南京事件にかんして」は何の「規制」も行われておらず、従って、もし「南京事件」なるものが存在するとしたら日本国内で報道されなかったはずはない、と言いたいようです。

 それではどうして、当時多数の人々の知るところとなっていた「民間人の誤認を含む下関での捕虜殺害」が日本で報道されなかったのか。あるいは、大量の捕虜殺害事件として知られる「幕府山事件」がどうして報道されなかったのか。おそろしい規模の「軍紀の乱れ」がなぜ報道されなかったのか。田中氏の記述は、問題外の暴論であると言えるでしょう。

 蛇足ですが、他のコンテンツでもしばしば見てきたとおり、田中氏は「他人の発言を自分の都合のよいようにいいかげんに歪めて伝える」という悪いクセがあるようです。最後に見られる「将兵」「従軍記者」の発言は、既に紹介したような実態にそぐわない奇妙なものであり、田中氏が果たして正確な記述を行っているかどうか、疑問符をつけざるを得ません。

http://www.geocities.jp/yu77799/houdoukisei.html


02. 中川隆 2013年7月04日 08:22:02 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


日本における報道は当時から規制されていた


否定派の主張

南京入城には、100人以上の日本人の記者やカメラマンが同行した。当時はまだ報道管制が行われていない。しかし、戦後、日本人は東京裁判で報道されるまで誰も「大虐殺」を知らなかった。見ていれば、報道しただろう。また、陥落の直後の南京には、大宅壮一、西条八十、草野心平、石川達三、林芙美子らのジャーナリストや作家・文人が行っていた。しかし、戦後言論の自由が完全に保証されてからも、誰一人、「大虐殺」を書き記したり、発表した者がいない。(田中正明『南京事件の総括』pp225)


反論

確かに南京事件そのものへの箝口令があったわけではない。
しかし、昭和12年には新聞の報道内容を規制する通達が多数出されており、日本の大新聞は軍に批判的な記事、残虐行為の記事は書けなかった。軍に不利な報道そのものが禁止されていたのである。

小説家やミニコミ紙の記事には、残虐行為について記載したものがあり、取り締まりの対象となったケースがある。
たとえば石川達三は昭和13年に南京攻略戦後に南京に入城し、そこでの見聞を小説「生きてゐる兵隊」として雑誌「中央公論」に発表し、「新聞紙法違反」に問われて、発禁処分、禁固4ヶ月の判決を受けた。

また、旧軍幹部や外務省幹部のメモ、日記などに日本軍の残虐行為の事実、あるいはその報告があったことを伝えているものが数々存在する。
次項で述べるように、戦後になって、自らの見聞した「虐殺」について証言したジャーナリストも何人もいる。

大宅壮一は週刊誌の対談で「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね。」(「サンデー毎日」臨時増刊 1966年10月20日号 P78)と発言している。

「南京事件」と報道規制
http://www.geocities.jp/yu77799/houdoukisei.html


1937年7月13日、内務省警保局図書課通牒「時局に関する記事取扱に関する件」
(下記に該当する報道はすべて厳重な取締の対象となった)
・「反戦又は反軍的言説を為し、或いは軍民離間を招来せしむるが如き事項」
・「我が国民を好戦的国民なりと印象せしむるが如き記事、或いは我が国の対外国策を侵略主義的なるが如き疑惑を生ぜしむる虞ある事項」
・「外国新聞、特に支那新聞等の論調を紹介するに当り、殊更に我が国を誹謗し、又は我が国に不利なる記事を転載し、或いは之等を容認又は肯定するが如き言説を為し、延て一般国民の事変に対する判断を誤まらしむる虞ある事項」

1937年8月2日、憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」
(以下のような言論、文書を取り締まるよう各憲兵隊に通達している)
・「事変の経過又は戦地の状況等を論議するに当り、皇軍の名誉威信を損じ又は軍紀の厳正を疑わしむるが如き事項」
・「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」

(参考:吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』p55-56)

石川達三
「読売新聞」昭和21年5月9日
−兵は彼女の下着をも引き裂いた すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた。みごとに肉づいた、胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた …近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた …彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―
 "生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、
入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた
 また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した

大宅壮一 南京大虐殺の”真相”を聞く
(「サンデー毎日」臨時増刊 1966年10月20日号p78)
「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね。」
http://www.geocities.jp/yu77799/bunkajin.html

資料:軍機軍略記事の新聞紙掲載禁止
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%b7%b3%b5%a1%b7%b3%ce%ac%b5%ad%bb%f6%a4%ce%bf%b7%ca%b9%bb%e6%b7%c7%ba%dc%b6%d8%bb%df

http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%C6%FC%CB%DC%A4%CB%A4%AA%A4%B1%A4%EB%CA%F3%C6%BB%A4%CF%C5%F6%BB%FE%A4%AB%A4%E9%B5%AC%C0%A9%A4%B5%A4%EC%A4%C6%A4%A4%A4%BF


03. 中川隆 2013年7月04日 08:43:34 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

南京虐殺「ニセ写真」

  最近、大阪の博物館「ピースおおさか」で開かれた大虐殺否定派の「南京
大虐殺の徹底検証」集会は、中国をいたく刺激したようです。中国外務省から
抗議があったのをはじめ、意外にも運輸省など中央省庁のホームページ書きか
え事件に飛び火したようで、また日中間の巨大な焼けぼっくいがくすぶりだし
たようです。

  このような世相にあわせ、久しぶりに南京虐殺事件シリーズの続きを書き
たいと思います。今回は大虐殺否定派がさかんに批判する「ニセ写真」問題に
ついて、手紙形式でまとめてみました。

       *********************
Yさん、はじめまして。

  最近は南京事件の「ニセ写真」問題がかまびすしいようで、岩波新書『南
京事件』のように、写真の誤用が一枚でもあると、さもその著書全体がデタラ
メであるかのようなキャンペーンが雑誌『SAPIO』などで繰りひろげられ
ているようです(注1)。

  しかし、そうしたメディアが問題にしている「ニセ写真」は、多くは南京
事件と特定できないだけで、もちろんヤラセ写真や偽造ではなく、それどころ
か、それらは日中戦争のひとこまを記録する貴重な資料ではないかと思います。

  そうした写真をYさんは「ニセ写真」と決めつけておられるようですね。

>あなたのサイトを見た一高校生の意見なんですけど南京事件を証明するのに
>「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」を出すのはちょっと、変です。
>あの資料は誤報で出来たようなもので、使用されている写真はほとんどが
>ニセ写真なんですが・・・
>ニセ写真と言えば小林よしのり氏の「戦争論」にも一つありました

  私のサイト、半月城通信は南京事件を証明しようとしたホームページでは
ありません。それは、世界的に知れわたった南京事件とはどのようなものであ
ったのか、その真実にすこしでも迫るつもりで真剣にかわした議論を転載した
私の意見集です。

  そこで『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』とその著者アイリス・チャンを数
カ所引用したのは確かですが、それはもちろん「証明」に結びつくものではあ
りません。

  私はまだ『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』を見ていないので、その写真に
ついてはコメントできないのですが、こうした写真のとらえ方について、先の
誤用事件の当事者である笠原氏はこう記しました(注2)。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  南京安全区国際委員たちが南京事件の一端を撮影した写真の多くは、イ
ェール大学神学図書館に所蔵されていて、拙著『南京難民区の百日−虐殺を見
た外国人』(岩波書店、1995年)でも何枚か紹介した。

  ラーベ日記にも国際委員たちが撮影した多くの写真が収録され、中国語版
にはそのまま掲載されているが、日本語版『南京の真実』(講談社、1997年)
では残念ながら相当枚数省略されている。

  ラーベがヒトラーに宛てた報告書の附属文書には、安全区国際委員(主に
マギー牧師)が撮影した南京事件関係の写真80枚がそれぞれにラーベの丁寧
な解説をつけて収録されている。撮影者と出所と撮影現場が特定できる貴重な
南京事件写真資料である。
 ・・・

  日中戦争において日本軍が引き起こした多くの侵略、残虐事件の中で、こ
れだけフィルムと写真の資料が残されたのは、むしろまれな例であるといえる。
  それは、量的にも規模的にもはるかに被害が膨大であった「三光作戦」の
現場写真がいかに少ないかを想起すれば、容易に理解できよう。

  日本軍当局は、侵略、残虐事件の写真、フィルムを厳格周到に取締って撮
影させず、たとえ撮影したものがあれば、兵士個人の日記、郵便物、持ち物ま
で含めて厳密に検査、検閲したのである。

  いっぽう、被害者の中国人側には、戦火、戦場において、日本軍の残虐行
為を撮影、記録できる条件は皆無に等しかった。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  軍人がオールマイティであった軍国主義時代、日本人や中国人が皇軍兵士
の残虐行為を撮影することなど自殺行為に近かったようです。当時、陸軍は検
閲制度をもうけ「新聞掲載事項許否判定要領」で下記に該当する記事や写真は
不許可にしました(注2)。
 ・・・
(12)我軍に不利なる写真
(13)支那兵または支那人尋問等の記事写真中、虐待の感を与える虞(おそれ)
 あるもの
(14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支
 えなし

  これでは虐殺写真が残るはずがありません。残るのは「我軍に有利」なヤ
ラセ写真になりがちです。そのようすを南京安全区国際委員のマッカラム氏は
こう記しました。

 「1938年1月9日−難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、
ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影
していた。

  こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入
して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった(『南
京事件資料集1』青木書店、1992」

  また、報道管制とならんで言論弾圧も厳しいものがありました。その一端
を笠原氏は、作家の石川達三を例にあげ次のように記しました(注3)。石川
氏は、たそがれ小説「48歳の抵抗」で一躍有名になった作家です。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  ここでは報道管制と弾圧の一事例だけを紹介する。作家の石川達三は、中
央公論特派員として占領直後の南京に滞在、兵士からの取材をもとに、南京攻
略戦に参加した日本兵たちの捕虜、民間人の殺害、婦女暴行などの行為をリア
ルに描いた「生きている兵隊」(『中央公論』1938年3月号)を執筆した。
  同号は即日販売禁止となり、石川は禁固四か月執行猶予三年の判決を受け
た。同氏の編集長も起訴され、退社を余儀なくされた。

  弾圧に弱い日本のマスメディアにたいしてこの処分が脅しの意味をもち、
日本のマスメディアは南京事件を報道しなくなったのである。

  南京に派遣されていたカメラマンも虐殺現場を目撃しながら、撮影はせず、
報道もしなかった。東京日々新聞(現毎日新聞)の佐藤振壽カメラマンは、南
京市内で敗残兵約100人を虐殺している現場を目撃したが、「写真を撮って
いたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と述べている(『南京戦史資料集
2』偕行社)。

  南京事件が東京裁判でデッチ上げられたのではない証拠に、石川達三は
「裁かれる残虐『南京事件』」と題して、自分の見聞した残虐事件を述べ、
「南京の大量殺害というのは実にむごたらしいものだった。私たちの同胞によ
ってこのことが行われたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を
意義あらしめたいと思う」と語っている(『読売新聞』1946年5月9日)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  日本人や中国人にとって、南京にかぎらず虐殺現場の写真を撮ることは至
難なことだったようです。そのため残された写真は、日本軍の統制が利きにく
い欧米人によるものか、あるいは皇軍兵士が「勇猛果敢」を誇示する目的で撮
ったものに限られるようです。

  皇軍兵士がとった写真は写真屋で現像の際にこっそり残され、それが現在
中国に残っているようです。そうした写真はいきおい撮影場所や時間があいま
いにならざるをえません。そうした事情を笠原氏はこう続けました(注2)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  アイリス・チャンの本も含めて、世に出ている南京事件大虐殺写真には、
厳密な意味で南京虐殺の現場の写真でないものも多い。

  ただし、それらの多くは南京事件の最中に撮影されて現場写真と特定でき
ないだけで、首切りの瞬間や、中国人の刺殺場面、強姦被害の女性、中国人の
虐殺死体等々の写真が語る日本軍の残虐行為そのものは事実である場合が多い。
否定派の攻撃する「ニセ写真」とは意味が違う。南京事件とは違う場所と時間
の写真を南京大虐殺の写真であると「誤用」したのであり、他の場所で日本軍
の行った残虐行為の写真材料としての価値はあるのである。

 「ニセ写真」とは、被写体が現実とはまったく違い「ヤラセ」「合成」「創
作」などの詐欺的手段を使って撮影された事実でない写真のことである。

  中国側の発行する南京大虐殺写真集に掲載されている南京事件と特定でき
ない日本軍の残虐写真には、日本兵が南京の写真屋に現像・焼き増しを頼んだ
ものが中国人側にわたり、戦後の南京事件法廷で証拠写真として提出されたも
のもある。

 ・・・
  さらに日本軍将校の中には、中国戦場における武勇談の一つとして、中国
人捕虜を日本刀で斬首するところを記念撮影させていた者もいた。

  日本兵が所持していた日本軍撮影の残虐写真が、さまざまな経緯を経て中
国側に残され、戦後の中国において各地の革命博物館や抗日烈士記念館に展示
されたり、写真集に収録されたものが多く、それらの写真には場所や時期、撮
影者が特定できないものが多い。

  しかしそれらは「ニセ写真」ではない。間違いなく日本軍の残虐を記録し
た写真なのである。山東省の革命博物館の写真展示にある、中国人を斬首して
いる将校が誰か、部隊関係者が見てすぐ分かったという話を聞いている。
  小林よしのり氏が「南京大虐殺はニセ写真の宝庫」というのはウソである。
「ニセ写真」ではなく、南京事件そのものと特定できない写真や他の場所の写
真が使われているものがある、ということである。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  やはり多くの写真は本物のようです。しかし、撮影場所と時間がはっきり
しないと資料価値が問題になり、博物館などに展示すると思わぬ非難にさらさ
れることになります。

  非難する人たちは、多くの写真が真実かもしれないということには意識的
に目をつぶり、疑わしい数枚の写真の検証のみに汲々としているようです。そ
うした木を見て森を見ない流儀で、なかには南京虐殺は「まぼろし」であった
と短絡的に結論をだし、中国の憤激を買うありさまです。

  そんな輩の雑音を防ぐため、南京の「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念
館」では笠原氏たちのアドバイスを受け入れ、出展がはっきりしない写真は差
し替えられたようです。

  一方、調査が進むにつれ新たな写真や資料が発見される可能性はまだまだ
あります。つい3,4年前にラーベの日記がアイリス・チャンにより発見され
たのは記憶に新しいところですが、先日も南京関係の写真が中国・長春市で発
見されたとの報道があったくらいでした(注4)。今後もこうした発掘が続く
ことでしょう。

(注1)「謀略の“南京大虐殺”キャンペーン」『SAPIO』1999.7.14号
(注2)南京事件調査会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房)1999
(注3)笠原十九司「日本軍の中国人20万人大虐殺を否定したがる論者たち
  へ」『SAPIO』1998.12.23号
(注4)長春市で日本軍の南京大虐殺における新しい証拠を発見
    (ホームページ「中国情報局」http://searchina.ne.jpより引用)
  発信: 2000/2/3(木) 14:38

 新華社長春は「日本の右翼勢力が大阪の南京大虐を否定し、やかましく騒ぎ
たてる中、長春日刊新聞は南京大虐殺の現場を記録する8枚の写真を掲載し、
歴史のために証言した。」と報道した。

 《近代の百年の史》の画報が吉林長春市で偶然発見され、画集の上で当時の
日本の従軍記者が南京大虐殺の現場を撮影し、掲載した物が如実に当時の状況
を物語っていた。

 “南京が大いに虐殺する”を標題に掲載された8枚の写真は、中国の平民が
自動車で刑場に送られる様子を撮影した物、死体の血をすする猫を撮影した物
など思わず目を背けたくなるような写真ばかりであったようだ。

 (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)
  http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


南京虐殺 死体の行方

  RE:10897,
> 南京大虐殺が実在すれば、虐殺された死体が出てくるはずですね。物証がないの
>に写真だけで議論できるはずが無いし、写真などあるわけがないポルポトの大虐殺
>は白骨という物証がありました。
> ということで、写真で議論しても無意味だと思いますよ。

  こう書かれる真意がよく読みとれないのですが、南京事件では虐殺された
死体があまり出てこなかったので大虐殺はなかったと言いたいのでしょうか?

 それとも虐殺の写真を云々する前に、もっと重要な「物証」である死体はど
うなったのか、しっかり検証しろという趣旨でしょうか? 

  いずれにせよ、死体はどうなったのかについて記したいと思います。その
まえに虐殺の写真ですが、メーリングリスト[aml] で日本人兵士により虐殺の
決定的証拠が撮影されたきわめて貴重な写真があるとのアドバイスがありまし
たので補足します(注4)。

  さて、本題の死体ですが、日本軍にとって虐殺の「物証」である死体をい
つまでもさらけだしたままでは南京占領統治上、好ましいはずはありません。
死体を見るたびに中国人の日本軍に対する憎しみがかき立てられることは容易
に想像されます。

  それに死体は長く放置すれば腐って悪臭を放つし、伝染病のまん延など衛
生上も問題があります。そのためか、日本の南京特務機関は新興宗教団体「道
院」の社会事業実行団体である紅卍(まんじ)字会をこっそり指導し、遺体の
埋葬を進めたようでした。

  その報告書『華中宣撫工作資料』(1938.2)には「紅卍字会屍体埋葬隊(隊
員約600名)は一月上旬来、特務機関の指導下に城内外に渉(わた)り連日
屍体の埋葬に当り二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を
挙げつつあり」とあり、意外にも日本軍の特務機関が関与していました(注1)。

  これからわかるように、虐殺後2,3か月たって急ピッチで遺体の埋葬が
行われたようでした。しかしながら虐殺は大規模であったために、遺体は3月
の段階でもかなり放置されていたようでした。
  そのようすは、盛文治という民間人が「南京市自治委員会救済組」にあて
た要請書に赤裸々にこう記されました(注2)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  私はこのたび郊外から(南京)城内にやって来ましたが、3月になるとい
うのに途中の馬家店・大定坊・鉄心橋は左右両側、人の死体と馬の骨が野に遍
(あまね)しという有様でした。

  ある者は小高いところで仰向けになって目を見開き口を開け、ある者は田
のあぜに伏せて肉と骨をさらしており、屍は鷹や犬の餌になっています。

  完全なものは少なく、足や腕がなかったり、頭がとれていたりで、たとえ
五体満足なものでも、黒褐色を呈し腐乱しはじめています。

  そのうえ悪臭が鼻をついて人をむかつかせ、伝染病を避けるため、現地の
人はみな鼻をおさえて歩いています。

  まだ日差しも弱く高くありませんが、もし炎熱多湿の気候になったらと思
うと、想像もできません。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  まったく目を覆いたくなるような惨状です。しかしながらこうした証言も、
中国側の資料と聞いただけで拒否反応を示し信憑性を疑うマボロシ派も多いよ
うなので、日本側の資料も添えます。先の特務機関の3月分資料にはこう書か
れました(注1)。

 「尚、各城外地区に散在せる屍体も尠(すくな)からず、然(しか)して積
極的作業に取りかかりたる結果、著大の成績を挙げ3月15日現在を以て既に
城内より 1,793, 城外より29,998 計 31,791体を城外下関地区並(ならび)上
新河地区方面の指定地に収容せり」

  この資料を補強するかのように『大阪朝日新聞』の「北支版」(1938.416)も紅卍字会の活動を記事にしました。同紙は、紅卍字会と南京市自治委員
会、日本山妙法寺の僧侶たちが遺体埋葬した実績をこう記しました(注2)。

 「最近までに城内で 1,793体、城外で 30,311体を片づけた。約 11,000円の
入費となってゐる。苦力(クーリー)も延5,6万人は動いている。しかしな
ほ城外の山かげなどに相当数残っているので、さらに8千円ほど金を出して真
夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」

  うえに紹介した紅卍字会の活動以外にも、惨状を見るに見かね、さまざま
な団体が遺体の埋葬に当たったようでした。最近、こうした研究も進んでいる
ようで、その成果の一端は南京事件60周年にあたる97年、東京で開かれた
シンポジウムの席上、中国江蘇省社会科学院の孫宅巍氏により発表されました。

  報告によると、遺体の埋葬は下記のようになされました。ただし、この中
には戦死した兵士も含まれるし、遺体収容・処理の重複もあると、孫氏はこと
わっています(注3)。

 国際委員会     30,000体
 紅卍字会      43,123体
 崇善堂      112,267体
 赤十字社      22,683体
 同善堂        7,000体
 湖南の材木商    28,730体
 城南市民       7,000体
 南京市第1区役場   1,233体
 南京市下関区役場   3,240体
 南京市衛生局     3,000体
 安達少佐     100,000体 長江に投棄や江北にて焼却・埋める
 南京侵攻部隊    50,000体

  合計      408,276体 (ただし、重複あり)
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  こうした研究を総合すると、東中野氏が「五等資料」とさげずむ極東国際
軍事裁判(東京裁判)の下記判決文は、その正当性があらためて浮きぼりにさ
れるのではないかと思います(注2)。

 「後日の見積もりによれば、日本軍が占領した最初の6週間に、南京とその
周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示され
ている。

  これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した
死骸が、15万5千人に及んだ事実によって証明されている。・・・
  これらの数字は日本軍によって、死体を焼き捨てられたり、揚子江に投げ
込まれたり、または他の方法で処分された人々を計算に入れていないのである」

  虐殺数20万人が正当かどうかは別にして、大虐殺があったことはあらゆ
る資料から明らかなのですが、それにもかかわらず大虐殺を否定するマボロシ
派の主張は、世界各国から日本の「過去への反省」にたいする疑念をますます
強固なものにし、いたずらに中国などを怒らせるだけで、得るところはまった
くないように思えます。

(注1)井上久士編『華中宣撫工作資料』(15年戦争極秘資料集13)
    不二出版、1989
(注2)南京事件調査会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房)1999
(注3)半月城通信<南京虐殺60周年(6),中国の主張>
(注4)井上久士氏は虐殺を撮影した日本軍兵士についてこう記しました(注
  2)。


  南京戦を取材した日本の報道カメラマンが軍部の厳格な検閲制度に従順に
したがって、自己規制的に南京事件の場面や現場を撮影しなかったなかで、日
本軍の大虐殺の一端をカメラに収めていた一兵士がいた。

  兵站自動車第17中隊の非公式の写真班を務めていた村瀬守保氏で、彼は
自分の中隊の各将兵の写真を撮り、それを自分で現像、焼付けして各将兵の家
族に送らせていた。

  戦闘部隊ではなく、輸送部隊であったため、戦火の直後をまわって、比較
的自由に撮影でき、かつ軍部の検閲を受けないでネガを保持できる恵まれた立
場にいた。

  『村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録−私の従軍中国戦線』(日
本機関紙出版センター、1987年)には、村瀬氏がキャプションをつけた南京で
の集団虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。

  これらの写真は、集団虐殺の現場から奇跡的に死を免れて逃げ帰った中国
人の証言にある、射殺・銃殺、再度生存者を点検して刺殺したあと、最後は薪
と石油で焼殺、焼却するという集団大量虐殺の手段が事実であることを証明す
るものである。

  その中に「虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほ
とんどが平服の民間人でした」というキャプションの写真が三枚ある。
  冒頭に引用した小林よしのり『戦争論』で「厳密な資料批判に耐え『これ
が日本軍による民間人大量虐殺の証拠』といえる写真はまだ一枚も出てきてい
ない」と、氏としては珍しく逃げ道を用意した慎重な言い方をしているが、そ
れもウソであることを村瀬氏の写真は証明している。

 (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)
  http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)
http://www.han.org/a/half-moon/hm067.html#No.441



04. 中川隆 2013年7月04日 08:45:02 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

『新版 私の従軍中国戦線』村瀬守保写真集〜今、この真実を知ってほしい!

2007年07月07日 | 好評発売中の本


 今日は盧溝橋事件70周年。中国への全面侵略戦争の発端となった事件が起こった日です。この事件を口実に日本軍は中国へ一気に侵攻を開始、国土と無数の人命を奪う暴虐の歴史に突き進んでいきました。
 この写真集には、巨大な狂気の渦に巻き込まれた日本軍兵士や中国民衆の姿が多数写しこまれています。侵略開始直後から2年半、中国各地を転戦しながら写した3000枚の中から厳選、南京事件2週間後の様子や従軍慰安婦や慰安所など貴重な写真の数々が、歴史の真実を証言します。
http://blog.goo.ne.jp/kikanshi-hon/e/33c003d16757c2626c696b884e369d4a


東中野修道のウソの暴露 村瀬守保氏の南京大虐殺の写真6枚 2008/7/4(金) 午前 1:00◆南京大虐殺>全般その他文化活動 ナイス!0 mixiチェック はてなブックマーク 東中野修道のウソの暴露 村瀬守保氏の南京大虐殺の写真6枚

●村瀬守保写真集  一兵卒が写した戦場の記録
「私の従軍中国戦線」
日本機関紙出版センター 1987/12/20初版 ¥2000−
見て感動しました。素晴らしい写真集です。

村瀬氏の「当時、私は戦争反対の意見をもっておりましたが、その事を他人に
洩らすことはできませんでした」と言う思いが、日本軍の残酷な戦争の事実を
人知れず写真に撮り続けたのでしょう。

●表紙の写真は、農家の土間で、壁を背にして、4人いる。
正面に、ぼさぼさの頭で、げっそりとした顔をした老婆が、
眼をカーと開けている(黒目がハッキリ見える)が焦点が定まらず、
垢にまみれた綿入れを着て、袖はぼろぼろになっていて、土間に座っている。
左隣に、4歳ぐらいの丸顔の子どもがいて、額にしわを結び強わ張った表情で、
口をキーと結んで、座っている。同じくぼろぼろの綿入れで、肩からも袖からも
綿が食み出ている。12月だからよっぽど寒い季節なはずです。
他に右隣に、肘を付いた別の老婆と2歳ぐらいの子がその老婆の膝に頭を横たえている。

●これは「誠に不思議な写真」でした。何故ならば…
自分の貴重な戦争体験を、平和を願って終戦後42年目(1987年)に、写真集と
して出すときの「表紙の最重要な写真」として、これを私たちに提示しているのです。

●そして、「第2部 上海から南京へ」の第15節(P42)でアット驚きました。

(その前の第14節が「南京に向かって」となっており、その後の部分で)
先ほどの「表紙の写真」が更に拡大され、1ページ半になって掲載されていました。
村瀬氏はそれだけ重要視している訳です。

その写真の説明は、…

「ある部落で昼食の大休止の時、逃げ遅れた老人と子供が、恐怖におののきながら、部屋の奥に身を隠しているのが、見つかりました。
子供にキャラメルをやろうとしたが、手を出そうともしません。
涙ながらに語る老婆の訴えを聞くと、八十にもなる老婆がつかまって、二人の日本兵に犯され、怪我をしたというのです。言うべき言葉もありませんでした。」

●ここまで読んでハッと気が付きました。1987年のこの平和な日本の時点で、

「この本の200枚以上の写真の中から、なぜこの1枚を、わざわざ選んで表紙にしたのか?」

が良く分かりました。(そして、それに気が付くと、知らずに涙が出てきました。)
同時に、この老婆の不幸に寄せる、村瀬氏の人間らしさ、人柄が良く伝わって来ました。
そして、「この人ならば、言う事は信用できる」と感じました。ウソではないと。

●次の第16節「南京制圧」では、以下の説明が続きます。


「・・・穴倉のようになっている奥の部屋に踏み込むと、薄暗い懐中電灯に照らされて、下半身裸の婦人が、下腹部を切り裂かれて死んでいます。

少し奥には、5〜6歳の子供がうつぶせで死んでいました。
プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。

翌朝、出発前に点検すると、奥の部屋に、もう二人、老人が殺されていました。
このような虐殺死体は随所に見られました。

婦人に暴行を加えて虐殺し、女性の性器に棒を差し込んでおくような、残虐な事例も何回か目にしました。」


戦うことの出来ない老人や子供や婦人が、平気に、虐殺されていっています。
これは、南京に行く途中の段階の虐殺です。ますます凶暴になってエスカレートし、最後は、南京大虐殺となって、暴発・現れた訳です。

南京での日本軍による「強姦の多発」は世界史で類はなく、当初から「レイプ オブ 南京」と呼ばれて世界に皇軍の恥知らずを暴露して行きました。

当時、中国は儒教の国で貞操観念は強く、この皇軍の強姦多発が、日本軍が来ると
自分の家族が(老女であっても、幼女であっても)強姦されるということで、中国人の抗日意識を大きく高めることとなり、また、中国と和平を進めることを出来なくしてしまったのです。

また、強姦は被害者の女性が申告しないと罰せられないので、申告できないように
被害者の女性を強姦の後に多く始末しました。つまり、虐殺しました。死人に口なし。

松井石根は、そのままでは大虐殺が起こる事は予測できたので、だから規律の警告を出したり、南京城内には限定された一部の部隊だけが入るように命令を出した訳です。
もしも、松井がこれをキチンと徹底していたならば、あのような大虐殺は起こらなかったはずです。

●東中野修道は、「ウソ付きの写真判定の本」、(松尾一郎氏の研究の盗用)を出していますが、どうしてもウソを付こうにも出来ない「村瀬氏の2枚の写真」は、なかったことにしています。


●東中野修道が、如何に日本国民を騙しているのか!

(この村瀬守保氏の写真を見れば、よっぽどの馬鹿な人でない限り、
一目瞭然です)

また、無知だから、如何に、若者、ネット右翼が多く騙されているのか!

本当の愛国心があるのならば、東中野修道を弾劾・排除する必要があります。
昔でいうと、東中野修道は国賊者です。日本国、日本国民を害しています。
人でなし、日本の恥そのものです。

更には、アジアの平和の実現のために害となっています。

(そして、日本の国と国民にとっては、東中野修道を利用している勢力が、
一番危険であり、恐ろしい存在であります。)

http://blogs.yahoo.co.jp/satoatusi2006/11645546.html


05. 2013年7月04日 19:44:15 : qXUiAj2Jp7
中川くんの引用長すぎで読むの大変です。
読み終えた感想ですがこれを引用して30万人殺害とは到底考えられないのですが。
(しかも反論などは論点をすり替えてますね)
そもそも残虐行為とは何でしょうか?
戦時下どこの国もやっていることと大差ないと思いますが。
私はたま〜にこのサイトに来ますが中川くんて、つまりどうしたいの?
もしくはどうして欲しいの?(誰に?)

06. 中川隆 2013年7月04日 20:19:17 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
被害者30万人というのは事件直後の欧米人の最も信頼できる調査の結果で、電報で世界中に発信された:


30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報

【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。

犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。

電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。

電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。 電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。

2002/12/21 09:31 【共同通信】


>もしくはどうして欲しいの?


僕は明らかな嘘を指摘してるだけだから。

日本がどうなろうと知ったこっちゃないしねwwwww


07. 2013年7月04日 22:42:23 : 7YwqSI4YXk
中川とやら、気持ち良かったかい?、
長々と気持ち悪いフィクション載せやがって
ニヤニヤしながら、何度も繰り返し 自分の
コメント見直してんだろ、、、変態が
南京大虐殺の証拠の動画でも載せてみやがれ
ボケ

08. 中川隆 2013年7月05日 00:34:18 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
日本兵が記録した南京大虐殺
http://www.youtube.com/watch?v=Qyw6esAMz9g
http://www.youtube.com/watch?v=l7Y_mFNHZ_I
http://www.youtube.com/watch?v=YJtXRzyAcDI
http://www.youtube.com/watch?v=Dq-SnsaJ_Ek
http://www.youtube.com/watch?v=goXt9_GVVfo
http://www.youtube.com/watch?v=

南京大虐殺 日本政府が隠している史上未曾有の強姦事件の全貌を読む
http://www.youtube.com/watch?v=pnU80VC2IV4&list=PLD2C309DF5CB3BFE3&index=5


南京大虐殺「史上未曽有の強姦事件」の全貌があきらかに!

「連隊長藤原保中将が、その状況を見て、この町の女も­強姦で消滅すべきだと言いまし­た」

2010年12月29日発表

宮本大尉の手紙
戦地郵便


吉川資君・・

 僕は死にませんでした。十二月十二日、三方面に分かれて南京を包囲しました。南京政府­と軍隊が潰走したにもかかわらず、われわれは十三日に予定通り攻撃を始めました。

 今日は、僕は最初に中華門から南京城に突入した一人です。道々には、手を挙げて降参し­た中国兵と難民であふれていました。

 午後、秋田の藤田一郎が住民宅に隠れている一人の少女を強姦しました。小隊長はビンタ­を食わしたが、視察で通りかかった連隊長藤原保中将が、その状況を見て、この町の女も­強姦で消滅すべきだと言いました。

 この話が伝わるや否や三分足らずして、僕たちは二十人の女を家の中に押し込みました。­正直な話、最初は多少不安だったが、うまくやっている仲間たちを見ているのがばからし­くなり、臆病者ではないかとさえ思いました。

 僕が不器用そうに一人の中国人娘と争っているのを見て、小隊長は近寄ってきて、足をあ­げ、革靴で彼女の腹部を思い切りけっ飛ばしました。彼女は悲鳴をあげて、争うのをやめ­て、地面に倒れ、額に冷汗をたらしていました。

(中略)

 みんなは激しい戦闘に身を投じているように、わめきながら地面に倒れた女に飛び掛かっ­て行きました。とても刺激的なので、みんなは先を争う精神を呼び覚ましていました。

 ついに僕も名の知らないこの女をやっつけました。彼女は、顔をそむけ、泣き続けていま­したが、争うのをあきらめました。年齢はせいぜい十五歳でしょう。しかし、抵抗の力は­なかなかのものでした。僕は体を起こして他の女を見たら、ほとんどただ泣いていて、我­が軍の兵士の思うままにされていました。

 北支の至る所で見かけた貞節の石碑から、中国人女は気性が激しいと思っていたが、ここ­では、そのような様子は感じられませんでした。しかしその後、つまり皆が終わりかかっ­た時、僕の下にいた娘が、急に裸のまま飛び上がり、山田の腰の刀を抜き取りました。彼­女が刀を持って立ち向かってくるのを防ぐべく、僕たちも裸のまま飛び起きました。わけ­の分からない叫び声をあげながら、彼女は狂った雌犬のように刀を振り回しました。その­間に他の女も起き上がり、背をこっちに向けて、裸のまま抱き合っていました。

 その状況がすこぶる刺激的であったため、僕たちはまた興奮しだし、彼女らに向かおうと­しました。

 その時、刀をもったあの女が、その刀を自分の首に当てて斬り付け、倒れました。皆が、­びっくりしている間に、女たちは次々と刀を手に取り、首に当てました。先を争って彼女­らはその刀を奪い、刀を手にすると躊躇することなく自刃し、地面に倒れました。目は大­きく開き、傷口から、血が泡のように湧き出し、ももは痙攣していました。

 僕たちは、裸の女たちが地面でのたうちまわり、死んでいくのを驚いて眺めていて、十何­分ほども息をつくことさえできませんでした。軍法による制裁は免れないのではないかと­恐れています。

 しかし、家から出て、街の光景を見て安心しました。町は、兵士に追われて走り回ってい­る裸の女、地面には死亡した男、六人の兵士に輪姦されている少女でごった返していまし­た。一人の将校は、反抗する妊婦の腹を切り裂いて、こぶしの大きさの胎児を取り出して­いました。
 集合の号令が聞こえてきたので、この辺で。

宮本
昭和十二年十二月十三日
南京にて

(孫宅魏主編「南京大虐殺上・下巻」より)

「史上未曽有の強姦事件」の全貌 つづきを全部読む
http://nanjingforever.web.infoseek.co..links:
A tribute to "Nanjing Heroes"
http://www.youtube.com/watch?v=aK5pHn..南京大虐殺1/4 巨匠チャン・イーモウが動く
"Nanjing Heroes" by Zhang Yimou
http://www.youtube.com/watch?v=jUCEPT...


09. 2013年7月05日 00:44:09 : W18zBTaIM6

人間性のかけらもない強姦事件
http://nanjinggenpatsu.com/sontakugi3.html

10. 2013年7月05日 00:52:42 : W18zBTaIM6

Nanking Massacre-Concrete Evidence
http://www.youtube.com/watch?v=TiqHbEaRSG8
http://www.youtube.com/watch?v=8fIIs8fnVXg
http://www.youtube.com/watch?v=GdX2BXBSxCk
http://www.youtube.com/watch?v=vx7ZjHJchG8
http://www.youtube.com/watch?v=5059XQDmVQY
http://www.youtube.com/watch?v=2RBPV0FNV7M

11. 2013年7月05日 00:59:13 : FumIzHpHFY
中川、妄想しながら チンコ立てるなよ
ちゃんと手洗えよ 女にもてない 捌け口に
阿修羅使うんじゃねえぞ!
ハーブきめすぎなんちゃうか?

12. 2013年7月05日 07:44:12 : zSEV0wVP5g
中川さん、あなたがなにをおもってコメントしているのか知りませんが、
とにかく長すぎます。これじゃとても読めない。コメントは短いことばで
要点だけを申し上げればいいのでは?
こんな長文、見ただけで読む気がしない。
失礼ですが、ふつうの人は頭がおかしいとしかおもいませんよ?
だれからも相手にされない半基地のような人たちが集まるところだとは
聞いていますが、いくらなんでもひどすぎますよ。

13. 中川隆 2013年7月05日 08:46:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
>要点だけを申し上げればいいのでは?


僕は参考資料を提示しているだけです。

僕の様な素人が自分の意見を言う事に意味は無いですからね。

それにアホは聞く耳もたないから何を言っても無駄だしね


14. 2013年7月05日 22:42:40 : oQJzB8qFvE
こちらにも「政治版」と同様なモノを張っておきます。

少しは勉強してからものは言いなさい。

「南京大虐殺」が確定した事実となったのは極東軍事裁判=所謂「東京裁判」です。
従って、この「確定した事実」にケチをつけるのなら、「裁判」を一貫して主導したアメリカにこそそれは向けられるべきでしょう。
歴史的事実として、「日本の戦争犯罪」は、アメリカ主導の下で、中華民国が支持し、共産党(政権)が追認したに過ぎない。


15. 2013年7月05日 22:52:11 : W18zBTaIM6

またアホが出て来た。

南京大虐殺は発生直後から世界中で喧伝されて、報道管制されていた日本人以外には誰一人知らぬ者の無い話だったけどね。


16. 2013年7月14日 10:57:43 : GQrN4nKkaL
昨日とある読売テレビの番組で、
waveという60年代のアメリカの高校での、マインドコントロール実験が取り上げられていたが。
中川氏の挙げた話は、極限状態の中では誰しもが陥る「蓋然性」が高い話であると、納得させられた。人間(人種、国籍、年齢、性差の別なく)とは、概してそういうものだ。

ついでに、世界不思議発見を見たのだが…。
日本人は、戦後ロシア、アメリカ、イギリス、中国という大国に分割統治で植民地化されそうになったのを、一人のスリ・ランカ大統領の宗教的言説によって救われた事実を、知らなかったことを知った。
原爆を落とした酷いアメリカには媚びたのに、教育の中で知ることさえ無かった事実。まさに、救世主だったのに…。
よっぽど、ありもしない大国意識をかさに着て奢りたかぶってたんだろう、日本の首脳部は(今も昔も…)。

涙。


17. 2013年7月14日 11:09:23 : 1DBqSRXSGc
>日本人は、戦後ロシア、アメリカ、イギリス、中国という大国に分割統治で植民地化されそうになったのを、一人のスリ・ランカ大統領の宗教的言説によって救われた事実を、知らなかったことを知った。

大日本は戦勝国によって分割されたよ。


18. 2013年7月14日 12:11:52 : GQrN4nKkaL
>17

実質的に、史実的に、いつ、どうよw


19. 2013年7月14日 12:23:14 : GQrN4nKkaL
それさえ(スリ・ランカ大統領の言辞)も利用して、日本を実効支配できたのは、当時のアメリカオンリー。

日本は、只の恩知らず、神仏の心知らずだっただけやん。


20. 2013年7月14日 12:55:49 : 1DBqSRXSGc
>実質的に、史実的に、いつ、どうよw

以下の地図を参照してください。

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9C%8B#mode%3Ddetail%26index%3D12%26st%3D255

敗戦の結果、戦勝国によって大日本は分割され、領土は日本に限定され、行政権が及ぶ範囲も限定され、国民も日本と政府の行政権が及ぶ範囲となって、再出発したのである。


21. 2013年7月16日 05:55:52 : GQrN4nKkaL
>20
まあ、深読みすれば、実質的に分割統治されたとみてもいいやw

だが、なんとか、スリ・ランカのおかげで名目・面目は保てたのも事実な。それをしっかり報道も教育も無視して、恰も日本国民の優位性が勝利したが如く、けんでんしてきたようだが。
恩知らずもいーとこw

私自身は、南京虐殺は当たり前に存在したと思っている。
実際、戦死とされた兵士の多くは、餓死だったという。
貧すれば鈍する、ではないが、どんなに崇高な理想を叩き込まれ、当初は実行してようが、愛する者と引き離され、いつ帰れるという当てもない状況で更に腹をすかすようになり、更に上官からの不条理なシゴき(=イジメ)にでも会わされれば、犯す、略奪する以外の生き残る道がないと観念し、ケダモノに転ずるだろう。
私自身その状況に遭ってたら、そうなってただろうと、いくらでも想像がつく。
実際の獸とて、人為での異常な狩りにあったり、棲みかを追われたり、はたまた人為なり自然環境条件でなりの飢えに瀕したことがなければ、つまり絶滅の危機に瀕することがなければ、滅多に人を襲ったり、共食いしたり、近親相かんしたりはしないという。

既に絶滅した種も尻目にそういう歴史を繰り返した人類こそが一番、絶滅種としての、獰猛で本能が狂ったケダモノとして地上に君臨してきたということだろう。
しかも、どーみても他の生物種と比べて、一番懲りねーし、学ばねーや、なぁ…。


22. 2013年7月16日 06:46:02 : GQrN4nKkaL
因みに、前項で南京「大」虐殺と敢えて書かなかった訳は、虐殺したのが3人だろうが、3億人だろうが、「虐殺」の事実が存在してることには変わりねーだろうがっつうことで。
虐殺したことがあれば、それが日本人だろうが、中国人だろうが、韓国人だろうが、アメリヵ人だろがヨーロッパ人だろうが変わりなく、人類共通の問題としてるからという以外の他意はない。

ただ、まあ当時日本が自らを「大日本帝国」と称していた分だけの、「大規模」なソレ(虐殺)があったことは、弁証法的にみても存在がうかがえますがね…。


23. 2013年7月16日 10:57:47 : TfAB9muC2Y
>だが、なんとか、スリ・ランカのおかげで名目・面目は保てたのも事実な。

敗戦で日本は、領土は分割され、政府の行政権が及ぶ範囲も限定され、国民も再定義されて、出発した。

その日本のことだが。

戦勝国の米国には甘え、戦勝国の台湾、中国、韓国、朝鮮、ロシアに対しては威張っている。
だから、いまだ、平和条約も締結ができていない。

日本は、他の国や被占領国に対しては、ダイレクトに当事国に謝罪をするのではなく、国連の枠を利用しての「経済援助」で済ませてきた。

この行動は、日本が敗戦と云う事実を隠すために行なっていると推察できる。
日本の政府を支えているのは国民である。

国民が敗戦を受け入れていないのか、政権党が敗戦を隠しているのか、どちらかである。

鶏が先なのか、卵が先なのか、と云う関係のことだと思うが。

つまり国民が歪んでいるのだろ。


24. 2013年7月17日 08:48:53 : GQrN4nKkaL
日本は史実上、即ち事実として敗戦している。その認識なくして、元(卵)も子(鶏)もない。

妄想国家で終わりたい程自尊心なき国民性なのか。


25. 2013年7月17日 10:16:17 : gbPKxHetME
>日本は史実上、即ち事実として敗戦している。その認識なくして、元(卵)も子(鶏)もない。

そうだと良いのですが。
日本は被占領国との「手打ち」を国連の枠を利用しました。
これは、当事国が日本を「悪く」思っていると日本が推しているからです。
最近の例では、朝鮮との戦争終了の確認と、平和条約締結への共同声明で、現れました。
日本は、自意識が劣等感を抑えて、グルグルと回っていると推察しております。


>妄想国家で終わりたい程自尊心なき国民性なのか。

同意します。
他人が自分のことを、どのように思っているのか、を気にしているのです。


26. 2013年7月19日 08:27:19 : GQrN4nKkaL
アメリカが仏だというつもりは、毛頭(一瞬、毛唐と変換し間違えたw)ないが、
ただ、いまの日本が、アメリカの垂らした蜘蛛の糸(どういうレベル慈悲かはともかく)にすがりつきながら、後に続く者を叩き落とした挙げ句、結局糸を切られて地獄に突き落とされた様がよぎった。
芥川が、若かりしおりに何故この蜘蛛のメッセージ(予言?)を遺した上で、更なる生死を見詰めるメッセージを畳み掛けた上で、老いを待たず自死を選択したのか。

宮崎駿の、「風立ちぬ」がかわきりされたが、そこに何らかのヒントがあるのではと、注目。


27. 2013年7月19日 08:43:17 : GQrN4nKkaL
とにかく、もうぼちぼち覚悟を決めた上で、仕切り直すのが最善ではないかと。

28. 2013年7月19日 13:33:58 : rwgORSmgTI
ここには会員番号4153番のような naïve な人が多いんだね。
それとも確信犯ともいうべき信念を持って語っているのかな?
両サイドの文献を冷静に読み比べて判断してほしいものだ。

ン!オレ? 
数の問題は多少あるし若干の間違いはあったにしても大虐殺を否定することはできないようだな。



29. 2014年4月23日 15:04:20 : BmAgLVtujc

戦争自体が尋常なものではないし、人は極限状態になるとどうなるかわからないから
日本軍による一般人への蛮行が全くなかったとも思えないが
何十万人もの大虐殺は明らかにでっち上げだろう。
でなければ、あの子供たちの笑顔はない。
自虐史観で育った人間としては、その写真を見て誇らしく思った。

三笠宮殿下(御年97歳)は「人数の問題ではない」的なことを仰ったと言う。
しかし、犠牲者の数を針小棒大に喧伝されて良い訳はない。
まだお元気なら、今現在の御意見をお伺いしたいものだ。


昭和天皇の弟・三笠宮崇仁親王は、南京事件に関してこんなことを読売新聞で述べて..http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1082558880

殿下のお言葉

==================================


「南京大虐殺」は
捏造ねつぞうだった
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm

南京の日本軍がなした多くの人道的活動
日本兵による犯罪は少数あったものの、日本軍による「大虐殺」はなかった
非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった


=====================================


2012年 03月 01日

中国政府は「南京大虐殺」ねつ造責任と「通州大虐殺」の賠償を行え!
http://quasimoto.exblog.jp/17448388/

「南京大虐殺」などというものは、終戦後大分経ってから中国共産党とそのシンパの日本人(本当は在日だが)がねつ造した大ウソに過ぎないのである。

今では「南京大虐殺という概念は、朝日新聞社がねつ造して作った」ことが事実であったことも分かっている。

1970年代当時、朝日の記者であった本多勝一と社会党の田辺誠書記長が中国と仕組んでやったことが真相である。

2008-01-16-Wed
靖国問題、南京大虐殺、従軍慰安婦、教科書問題 実は朝日新聞記者の捏造が発端
(本田勝一は即刻逮捕して尋問すべきだろう。)

むしろ、虐殺にあったのは、中国人ではなく、敗戦して日本に帰還しようとしていた、日本人婦女子や老人たちの方であったのである。

当時の中国人たちは、何の責任もない、そして非武装の民間人の老弱男女を極めて残酷な方法で殺害したのであったという。

その時の極めてショッキングな写真が残っているが、その時に凌辱され、虐殺された、帰国しようとした日本人婦女子の写真を使って、さも自分たち中国人が虐殺されたと、騒ぎ立てて今日に至るのである。


=====================================
右翼風のブロガー氏

永田町カフェ7

J誰が「南京大虐殺」をねつ造したか  古荘光一著
http://blog.goo.ne.jp/nagatachoucafe7/e/a7d10c34a4c9686f0b4c831123cb15fb

「南京大虐殺」のでっちあげの主犯は、蒋介石(しょうかいせき)だったことがよくわかりました。

蒋介石の残したでっち上げの事件からいまだにぬけだせない日本。なぜ抜け出せないかとえば、金銭欲と名誉欲と色情欲を中国にあやつられているからです。

それは、日本を命をかけて守るという”魂”がぬけているからでしょう。

ゼロ戦にのって、戦った日本兵たちは、みな10代や20代だったではないですか!これからまだまだ長い人生が残されていたはずの若者たちが、命をかけて、愛する家族と日本の未来発展のために戦ったのです。


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