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あやみさん、以下に関してあなたには応答責任(=論証責任)があると考えます。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/576.html
投稿者 彼岸楼 日時 2013 年 8 月 28 日 22:49:05: njbqC.Mf1PyZ2
 

(回答先: あやみさんは「民主主義」をどう定義しているのでしょうか。 投稿者 彼岸楼 日時 2013 年 8 月 27 日 00:39:38)

 これは、コメント欄の[03. あやみ 2013年8月28日 20:49:05 : oZZpvrAh64sJM : N3tClO39CQ]にたいするレスになります。

 あやみさん、こんにちは。


 >>「民主主義」に関しての概念規定が無きまま、或いは「民主政・民主制」の構造と構造それ自体が内包する問題を解明せずして、その理非を問うことには違和感を禁じ得ません。
 >おっしゃるように「人類の歴史的所産(神を畏れることに背を向けた人類がその汚れた手で時間をかけて生み出したもの)」である民主主義です。これは真理などでないために普遍性も完璧性も携えていません。

 あやみさんの言説には余りにも多くの“予断”が鏤められていて、考察と云うよりは寧ろアジテーションと紛うものと化していると断じざるを得ません。
 [>]は、まさしく「論点先取の虚偽」の言説です。
 先ずは、「民主主義」について概念規定することがあやみさんの果たすべき責任の一端を成しています。それに続くのが「民主政・民主制」の構造と構造が内包する問題と原因の解明でしょう。

 冒頭の【仮初めにも此処は公開の場でありますから、“雑談板”とは謂うものの個人のブログを投稿(掲載)する以上はそれ相応の応答責任があると考えるのですが、如何でしょうか。】を踏まえつつ、以下の項目についてご回答(論証)をしていただければ幸甚に存じます。

 >>現状の「民主政・民主制」にはまだまだ不備な面が多々あり…
 >民主主義はいくら不備欠陥を補ったとしても人の世のための政治の制度になることはありません。なぜなら資本主義のゆりかごとして生まれたものはその本質が変わることはないのです。

 民主主義の本質とは何ですか、そして、それは何故変わることがないのですか。
 “本質だから変わらない”と云ったようなトートロジカルな論法はNGです。

 Auf Wiedersehen.

 

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コメント
 
01. オリハル 2013年8月29日 06:09:47 : 3eVpHzO3Pti46 : AmwoG4U4n2
「現行の民主主義の行使には修正すべき点がある」=自明のことでは?

02. 彼岸楼 2013年8月29日 15:02:09 : njbqC.Mf1PyZ2 : 08yK0sKAVQ

 オリハルさん、お久しぶりです。
 私のHNが“如往”だった頃の、【興味深いテーマです】
 http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/267.html 以来でしょうか。


 >「現行の民主主義の行使には修正すべき点がある」=自明のことでは?

 上記コメントが何方宛のものなのか判断がつきかねます。ただし、私に関してならば、無論、上記の事柄等を含意し“人類の歴史的所産”と概括した上で、検めて考察を深化させてゆきましょうとの趣旨であることは、続く後段からもご理解いただけるものと想っています。

 Auf Wiedersehen.


03. あやみ 2013年8月29日 20:06:02 : oZZpvrAh64sJM : N3tClO39CQ
こんにちは。

くどいようですが。

民主主義の本質、それは資本主義の幇助です。私が「ゆりかご」と表現したのをご理解いただけなかったようです。資本主義社会を取り巻く状況の変化(たとえば国家間の均衡、国家構成員や気象条件の変化に伴う生産力の変化、資源の発見あるいは枯渇あるいは資源権の移転)に伴い、資本主義社会の円滑な運営を助けるために振る舞いを変えるのです。

ですから民主主義だけに照準を絞り定義することは不可能です。定義らしきものをしたとしても詭弁にしかなりません。

「民主主義」について概念規定…は以上です。

「数の理論」であるため、絶対多数の支持を必要とする民主主義はその絶対性を信じさせる必要がありました。欧米が世界に「民主化」をごり押ししたのはその目的を達し民主主義を普遍的な政治手段に持ち込むためです。結果、多くの世界市民が民主主義を賛美し、信仰するようになり、民主主義は揺るがぬ地位を築きました。
しかし同時に差別、貧困、飢餓、紛争、戦争が生まれ現在進行形の「不幸」を生成しています。これは偶然あるいは失敗による結果ではく資本主義に欠かせない条件です。つまり民主主義という資本主義のゆりかごの中にはこれらの不幸も一緒に眠っているのです。

民主主義の真の姿
http://www.youtube.com/watch?v=DWnr27FvNhs


「民主政・民主制」の構造と構造が内包する問題と原因の解明は以上です。


私の文章が読者を攪拌するものとお感じになるのは、彼岸楼さんとは対象(ここでは民主主義)への評価があまりに遠いためであると指摘いたします。そして私の文章は論文ではありません。あくまで自身の経験と主観からひねり出したものです。また近代主義という数量や統計で物事を評価する思考法は私は断じて行いません。「予断」めいているのは近代主義的弁証法をとらないために文体が精神論の色を帯びているからだと感じます。
私の主張に賛同してくださる必要はありません。ただの読み物としてお付き合いいただくだけでも、またこうしてご教示いただくことも大変有難く思っております。

「良くも悪くも今の日本がある」とおっしゃいますが、民主主義を擁護なさる彼岸楼様は日本という民主主義国をどのように評価されているでしょうか?そしてそれは何と比較してのことでしょうか?お差し支えなければお聞きしたいです。


04. 彼岸楼 2013年8月30日 03:28:43 : njbqC.Mf1PyZ2 : 08yK0sKAVQ
 あやみさん、こんにちは。


>民主主義の本質、それは資本主義の幇助です。私が「ゆりかご」と表現したのをご理解いただけなかったようです。資本主義社会を取り巻く状況の変化(たとえば国家間の均衡、国家構成員や気象条件の変化に伴う生産力の変化、資源の発見あるいは枯渇あるいは資源権の移転)に伴い、資本主義社会の円滑な運営を助けるために振る舞いを変えるのです。
>ですから民主主義だけに照準を絞り定義することは不可能です。定義らしきものをしたとしても詭弁にしかなりません。
>「民主主義」について概念規定…は以上です。

 以前にも同じようなことを申し上げましたが、おそらく「ゆりかご」とは「市場原理主義」のことであって、政治学用語としての「民主主義」に対置するのはかなり無理があるのではないでしょうか。そもそも、「ゆりかご」にはその形成要件である、主体(主語)の所在が不明です。
 但し、上記について「民主主義」に関する属性(外延)の一つとして焦点をあててみることを排除するものではありません。すなわち、後に近代経済社会の担い手となるブルジョワジー(市民階級)の台頭は生産様式の変化を予兆するものであり、特徴的にはそれがアンシャン・レジーム(旧体制)に対し生産関係の変更を求めるための重要な経済原則になって行ったことです。

>私の主張に賛同してくださる必要はありません。ただの読み物としてお付き合いいただくだけでも、またこうしてご教示いただくことも大変有難く思っております。

 このサイトの管理者を差し置いて僭越なのですが、“雑談板”に話題を提供していただくことだけでも、あやみさんに感謝しなければならないと思っています。
 ただ、私としてはアジテーション化を回避しつつ、最もベースの処から、つまり原点に返りながら遣り取りを展開していきたいと願っているだけなのです。それには、先ず、お互いに自身を育んで来た戦後民主主義にきちんと対峙しなければならないでしょう。もちろん、歴史書や政治学関係の書物を渉猟することも、またその時々の自己の認識を披歴して評価を仰ぐことも重要だと考えています。

>「良くも悪くも今の日本がある」とおっしゃいますが、民主主義を擁護なさる彼岸楼様は日本という民主主義国をどのように評価されているでしょうか?そしてそれは何と比較してのことでしょうか?お差し支えなければお聞きしたいです。

 上記に関しては、以前のスレで大まかですが私見を開陳しています。しかしながら、wikiにもあるようなたとえ教科書的な解釈や見解であっても、あやみさんがそれらを加味しつつ「民主主義」を論じられないのならば、遺憾ながら生産的な展開は望めないのではと危惧しております。

 Auf Wiedersehen.


05. 彼岸楼 2013年8月30日 17:34:11 : njbqC.Mf1PyZ2 : 08yK0sKAVQ
 あやみさん、こんにちは。
 以下は、コメント04にたいする補足になります。


 これまでまどろっこしい応答をして来たと反省していますが、あやみさんの一聯の論考における「民主主義」のterm(用語)は明らかに誤用なのです。
 「資本主義」=「市場原理主義」に通底する、「古典的自由主義」⇒「新自由主義」⇒「ネオリベラリズム」に関する考察と批判なら肯けないことではありません。
 しかし、以上のプロセスにおいて「民主主義」の概念では論理学的にみて周延することはありません。是非もう一度、上に挙げたtermに関するご自身の認識について再点検してみてください。
 「民主主義」について云々するのはそれからでもおそくはないでしょう。

 Auf Wiedersehen.


06. 蒲田の富士山 2013年8月31日 00:43:57 : OoIP2Z8mrhxx6 : DzjyYSEIXM
若いころ(40年ぐらい前)、福田恒存の本を図書館から借りて読んでみた。そのなかの、印象に残る言葉だが、「民主主義とは、貴族あるいはそれに類する者たちに対する、人民の防衛手段である。」それは、人民が主役であるような意味はもともと無いのだと、そういう文脈だったと思うが。
今のように、公明党が、「類する者たち」に加えられ、国際的秘密結社が「貴族」の地位を得て、跋扈する時代には、古典的民主主義の定義は、いったいどうゆう意味を持つのか?
私は仕事が明日、早番のため、「彼岸楼」様の過去のリンクは見れないけれど、時間が出来たら拝見いたします。
私が、阿修羅を拝見するようになったのは、5年ぐらい前に、なにかの記事を見ていてリンクに飛んでみたのが始まりですが、それ以前の記事は、なんか、読みづらい。

07. 彼岸楼 2013年9月01日 13:58:23 : njbqC.Mf1PyZ2 : OnCe8ynKVA
蒲田の富士山さん、こんにちは。


 >若いころ(40年ぐらい前)、福田恒存の本を図書館から借りて読んでみた。そのなかの、印象に残る言葉だが、「民主主義とは、貴族あるいはそれに類する者たちに対する、人民の防衛手段である。」それは、人民が主役であるような意味はもともと無いのだと、そういう文脈だったと思うが。

 明治期、洋行帰りの夏目漱石が西洋文明と日本的なるものとの摺り合わせに苦闘したように、大正デモクラシーの残影(西欧的な設計主義の潮流)と日本の大陸侵攻(対外膨張政策)を如何に受け留めるべきか格闘した人間の一人が福田恒存でしょう。
 “人民の防衛手段である。”とそれに続く文脈には、敗戦の事実(臣民の潰滅)をなかなか受け入れることができなかった、しかも市井の民を出自とするもう一方の人達の心象風景がよく顕れているのではないかと思います。

 国家経営の実質的駆動力(担い手)である、経済主体(資本家)にこそ資源の使用権や成果の分配権がありと自らを規定するブルジョワジー(市民階級)の勃興、斯かる現象事実を捨象して近代の民主主義を語ることはできないでしょう。
 この時点での民主主義は未だにブルジョワジーのためのものであり、それ未満の一般大衆(下層市民や大多数の小作農民)は対象から除外され、実態は賃金奴隷に他ならなかったのです。しかし、こうした構図は一見すると多少の階層の流動化現象を呈しながら、その一方で現代社会においては益々固定化を亢進させつつあるように観えます。

 >今のように、公明党が、「類する者たち」に加えられ、国際的秘密結社が「貴族」の地位を得て、跋扈する時代には、古典的民主主義の定義は、いったいどうゆう意味を持つのか?

 限定的な主権理念に基づく古典的民主主義がアンシャン・レジーム対ブルジョワジーの力関係を表象するものであったとしたら、より広汎な主権理念をメルクマールとする近代的民主主義の進展は産業資本(金融資本家)とその多くが賃金奴隷であるマルチチュードとの間に新たな関係性を生じさせるモメントになり得るのかも知れません。
 しかし、それがどんな体制の社会を現出させることになるのか、我々マルチチュードにとってあまり楽観はできないでしょう。
 何れにせよ、自らを実験の素材としつつも、現実対応(生存の可能性の追求)を図って行こうとするが、総じて今も変わることのない人類の在り様なのだと思っています。

 Auf Wiedersehen.


08. あやみ 2013年9月01日 22:13:47 : oZZpvrAh64sJM : FKHYrpcdSo
こんにちは

議論の様相が「ひとつめのくに」という童話に限りなく近いと感じています。

まず「西洋人の二枚舌」というものがあります。
上の舌は「wikiにもあるようなたとえ教科書的な解釈や見解」で民主主義を語ります。
下の舌は私がくどくどと書いていることそのままです。

上の舌で言っていることがより多くの信者を獲得しただけです。なぜなら、彼らは信者をどう獲得するかをよく知っている。大航海時代にはすでに教会の名の下に世界機構の下絵を描くことに成功しています。

彼岸楼さん、近代を語るなら、近代以前をもっと知らなければなりません。私もこの地中海世界の真ん中に移住して、何年もしてからやっと学んだことのほうが多いのです。西洋人の二枚舌に舐めるように教えられたことは西洋人以外には意味を持ちません。


09. 蒲田の富士山 2013年9月01日 23:24:07 : OoIP2Z8mrhxx6 : M1eCFiHfAo
私は時々、ウルトラな発言をすることがあります。
そんなときには、「多分、職場でいやなことがあったんだろうな。」と、推測されていただければ、ありがたいです。
「矮小な敵とは、戦わない。」
職場の敵とは、「矮小な敵」です。
もっと、大きな敵と、戦わなければいけない。
非正規の労働組合をつくるとか、考えないのは、この「矮小な敵」との泥沼の闘争になることが、いやなのです。
彼岸桜様、福田恒存の全集(10巻ぐらい)があるはずなので、そこいらへんをまた再読してみます。記憶まちがえが、多分あると思います。
「ウルトラ」にコメントいただいて、ありがとうございます。

10. 彼岸楼 2013年9月01日 23:43:09 : njbqC.Mf1PyZ2 : OnCe8ynKVA
 
 あやみさん、こんにちは。


 >彼岸楼さん、近代を語るなら、近代以前をもっと知らなければなりません。私もこの地中海世界の真ん中に移住して、何年もしてからやっと学んだことのほうが多いのです。

 その通りでしょう。私も学部程度の知識ならば相応にあるつもりですし、また自身のビジネス・キャリアの中でも、アドミのマネジャーとして主に英米人と一緒に仕事をして来ていますので、彼らの伝統的(?)な思考様式と云ったものに関しては十分承知しています。
 民主主義を楯にしての私の反撃を受けて抑え込まれた体験を持つ彼らは、二度と私にたいして民主主義を持ち出すことはありませんでしたが、もう既にビジネスの現場ではそのようなレベルのナイーブな話が介在する余地はありません。
 そんな自身の拙い体験からみても、相手と伍して遣って(戦って)いくためには相手の戦法に通じることばかでなく、実践的な研究と修練を積んでいくことが肝要だと思います。
 けれども、それを避けたがるガラパゴス化の傾向にある最近の日本の若者達にたいしてどのようにはたらきかければよいのか、そんなことが主体形成を視野に入れた場合の原初的なテーマになるのではないかと考えています。

 Auf Wiedersehen.


11. 彼岸楼 2013年9月01日 23:56:53 : njbqC.Mf1PyZ2 : OnCe8ynKVA
 
 >10

 上記コメント内に脱字がありましたので、下記、訂正させて頂きます。


 [訂正前]戦法に通じることばかでなく、⇒ [訂正後]戦法に通じることばかりでなく、

 
 以上です。
 失礼しました。


12. 彼岸楼 2013年9月02日 22:42:31 : njbqC.Mf1PyZ2 : OnCe8ynKVA
 
 あやみさん、こんにちは。
 以下はコメント10にたいする補足になります。


 >議論の様相が「ひとつめのくに」という童話に限りなく近いと感じています。
 >まず「西洋人の二枚舌」というものがあります。上の舌は「wikiにもあるようなたとえ教科書的な解釈や見解」で民主主義を語ります。下の舌は私がくどくどと書いていることそのままです。

 どうやら私はあやみさんのことを少々買い被っていたのかも知れません。西洋人が、とりわけ英国の上層部にある者達が本音と建前を上手に使い分ける狡知に長ける現実主義者であることぐらいは極々一般的な常識でしょう。
 中世に財を成し近世の荒波を掻き分け近代を乗り越え来た彼らのEthos(精神構造)に占める民主主義が如何ほどのものなのか、その成立ち(構造や機能)を解明せずして、表層の現象のみを論ってみても詮無きことではないでしょうか。何故と問い返すこの基本的な手続きは、“一つ目の国”の不条理を包摂して“プラトンの洞窟”に内在する闇の克服に資するべき端緒になり得ると思っています。

 >>彼岸楼さん、近代を語るなら、近代以前をもっと知らなければなりません。私もこの地中海世界の真ん中に移住して、何年もしてからやっと学んだことのほうが多いのです。
 >その通りでしょう。私にも学部程度のものならばそれ相応の知識はあるつもりですし、また自身のビジネス・キャリアの中でも、アドミのマネジャーとして主に英米人と一緒に仕事をして来ていますので、彼らの伝統的(?)な思考様式と云ったものに関しては十分承知しています。
 >民主主義を楯にした私の反撃を受け抑え込まれた体験を持つ彼らは、二度と私にたいして民主主義を持ち出すことはありませんでしたが、ビジネスの現場では最早そのようなレベルのナイーブな話が介在する余地はありません。

 実は、在外の外国企業や日本に来てまだ日の浅い企業には、日本の会社の総務部に相当するようなアドミ(管理部)のセクションはあまり見られないようです。けれども、私が勤務していた会社は当時(80年代)でも既に20年以上の在日年数があり、オペレーション(経営本部)の直下にアドミが置かれ、限定的ではありますが日本的な組織運営法が導入されていたと謂えます。
 そこで、下段の[>]の体験の後日談として、彼らは殊更に民主主義に拘っているようには見えませんでしたし、民主主義を穿つ彼らの視線の根に潜むのはシニシズムと云うよりは寧ろある種のニヒリズムに近いものだったような気がします。
 本当は西洋人のこうした心性に真面に対峙することの方がより困難であり、究極的には己の非力を認めざるを得なかったのですが、ゲームと割り切り彼らの手口を逆手に取るなどして対処すれば業務上は何ら差し障りはありませんでした。

 Auf Wiedersehen.


13. あやみ 2013年9月03日 04:52:08 : oZZpvrAh64sJM : zMgooNEOvc
こんにちは

>その成立ち(構造や機能)を解明せずして、表層の現象のみを論ってみても詮無きことではないでしょうか


申し上げますが、「表層の現象」は「根」なくば断じて現れません。さらにはその現象を以って根にある問題を雄弁に語ります。ただし私は「表層の現象のみ」を語っているわけではありません。彼岸楼さんが認めてくださらないだけのことです。私の解明する機能や構造がお気に召さないのであればそれでよろしいかと存じます。

「ひとつめのくに」が描くのはは不条理などではありません。並行する二つの、あるいは複数の価値観が掠ったときにおこる当然の摩擦と、その摩擦を一方がねじ伏せようとするときに起こる非道を説いています。ねじ伏せる(正当化する)手続きは民主主義に担保されます。

(資本主義=自由経済主義 ⊆ 民主主義)


14. 彼岸楼 2013年9月03日 10:26:37 : njbqC.Mf1PyZ2 : OnCe8ynKVA

 あやみさん、こんにちは。


 >申し上げますが、「表層の現象」は「根」なくば断じて現れません。さらにはその現象を以って根にある問題を雄弁に語ります。ただし私は「表層の現象のみ」を語っているわけではありません。彼岸楼さんが認めてくださらないだけのことです。私の解明する機能や構造がお気に召さないのであればそれでよろしいかと存じます。

 多分、“お気に召すか、召さぬか”と云った問題ではないことぐらいはあやみさんも先刻承知のことでしょう。けれども、私が不明なるがためか、一向に根の部分が見えて来ないので苛立ちを覚えていると云うのが正直なところです。
 民主主義はその政体(政権)の成立過程に着目するならば、米国・英国・仏国等、其々に様態や構造が違っていて当然であり、それらは地政学的関係性と時間的差異によって構成されてもいます。この辺のことについて、何処で詳細に触れられているのかご案内いただければ幸いに思います。

 >「ひとつめのくに」が描くのは不条理などではありません。並行する二つの、あるいは複数の価値観が掠ったときにおこる当然の摩擦と、その摩擦を一方がねじ伏せようとするときに起こる非道を説いています。ねじ伏せる(正当化する)手続きは民主主義に担保されます。

 現実(時間的差異に伴う)の捩れをどの様に解消(回収)すべきか、それが力によるのならばそれを非道と謂うことができましょう。しかし、一方が自発的に受け容れようとする場合、かかる諦念の発生原因として不条理(実存的二律背反)を措定することも可能ではないでしょうか。
 さらに、“ねじ伏せる(正当化する)手続きは民主主義に担保される”を加味して再度変換を試みるならば、(資本主義⊇自由経済主義⊃民主主義)と云う図式が成り立つ可能性を排除できないと考えます。
 要するに時間概念を加えるならば民主主義には米国流も英国流も仏国流もあり得るわけで、それ等の差異を精査せぬまま一括りにして論じることはできないと云うことです。

 Auf Wiedersehen.


15. あやみ 2013年9月03日 17:47:23 : oZZpvrAh64sJM : zMgooNEOvc
>一向に根の部分が見えて来ないので苛立ちを覚えていると云うのが正直なところです。

苛立ちの必要はありません。ときは無常に流れているものであり、人はそれに囚われる必要はありません。

>民主主義には米国流も英国流も仏国流もあり得るわけで、

これはおっしゃるとおりその国の持つ歴史と諸事情により差異が生まれます。いうなれば、異なる出発点から共通の目的地に到達するためには同じ道を歩まないでしょう、するとそれぞれの軌跡は異なるものとなります。その軌跡がその国流の民主主義にあたります。目的地は西洋を中心とする世界の枠組みです。悲しいかな日本も同じ目的地に向かい歩かされてきました。中東もアフリカも銃口を突きつけられながら、同じ目的地に歩かされています。

差異の根源はこのとおりです。それぞれをひとつずつ検証することの意義はもちろんあるでしょう。しかし根源のほうが重要です。

その逆をいくのが学校教育です。学校教育は生まれた年度以外には何一つ共通点のない子供たちに同じ軌跡を描けと強制するに近いものです。出発点のそれぞれ違う子供たちの到達点は当然変わります。しかしその到達点を成績というたった一つの座標で表し、評価するのが民主国家で行われる学校教育です。


>現実(時間的差異に伴う)の捩れをどの様に解消(回収)すべきか、それが力によるのならばそれを非道と謂うことができましょう。しかし、一方が自発的に受け容れようとする場合、かかる諦念の発生原因として不条理(実存的二律背反)を措定することも可能ではないでしょうか


この段は疑問符だらけです。「現実(時間的差異に伴う)の捩れをどの様に解消(回収)すべきか」というのは、民主化先進国と後進国の間の摩擦が先行して存在しており、時間の違いはあろうともいずれは全世界が民主主義を受け入れるべきであるというお考えが根底にあるのでしょうか?

そのために力を使えば非道であり、力以外の方法であれば非道でない、つまり資本主義は何があろうと崇高なものでありできれば非道を行わずに「自発的に」受け入れさせる必要があるとのお考えでしょうか?

もしそのようにお考えでしたら私の書くものなどは珍説でしかありません。


自発的とはいえ心の中に残る疑念を切り捨てる場合、過度の「否定」が必要となります。日本が近代化するにあたり先祖の時代の価値観をばさりと切り捨てることを政府は押し進めました。かつてわれわれが大事にしてきたものは「非合理」と揶揄されました。この政策は世俗化するイスラム社会でも同様に、西洋の外圧によって自発的にとられました。

http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/468.html


私はこのような記事を書き続けています。「民主主義」という単語はとくに毎回意識して使っていませんが(むしろ敢えて使わなかったことのほうがおおいのですが)、主張は変わりません。



16. 2013年9月11日 04:32:55 : 3PJAqRzx3M
「史的システムとしての民主主義」

>> http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%B2%E7%9A%84%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90%E3%80%81%E7%99%BA%E5%B1%95%E3%81%A8%E5%A4%89%E5%AE%B9%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A6%8B%E5%8F%96%E5%9B%B3-%E6%9D%91%E7%94%B0-%E9%82%A6%E5%A4%AB/dp/4771011141

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