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バルナバスの福音書
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/607.html
投稿者 あやみ 日時 2013 年 10 月 05 日 08:41:42: oZZpvrAh64sJM
 

つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-130.htmlより転載

1981年ハッカリ県ウルデレ村―トルコ東部に位置しシリアと国境に近いこの村であるものが発見された。
狩りの途中に猟犬を見失った村人はその犬を探して洞穴にたどり着く。そこで足の下のほうから―大洞穴に響き渡るような―吠える声を聞いた。その声を頼りに下方に降りてゆくとそこには地下都市が蟻の巣のように広がっていた。
彫刻の施された石棺を見つけると「お宝」の期待に胸を躍らせながら村人はその蓋を開ける。そこに見つけたのは遺骸とその腕に抱かれた書物―見たことのない文字でうめられたパピルスの束―であった。
村人たちはそのパピルスの束を持ち帰る。聖書であろうことは間違いなく、これを換金しようと考えた村人はシリア正教の司祭のもとへとそれを持ち込むのであった。現代はトルコ国境の内側にあるとはいえここではシリア正教徒のシリア系住民が僅かながら生活している。この地域は原初キリスト教徒たちがローマ帝国の迫害を逃れて隠遁生活を営なんだ中心地のひとつであり、その後シリア正教教会の確立とともにその勢力範囲に含まれた。

しかし司祭にもさっぱり読めなかった。このパピルスの価値のわからぬ村人はとにかく売却しようと客を探し回った。そのうちにある国会議員の注意をひき、専門家の鑑定を受ける運びになった。


ハムザ・ホジャギリ(Hamza HOCAGİLİ)は十数種の古代語に長けた、特にアラム語にかけては世界有数の識者であった。ハムザ師はパピルスの最初の二枚を食い入るように見つめると、それは古シリア文字で書かれたアラム語の文書であることがわかった。

―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―

洞穴の石棺に眠る者が胸に抱いていたのは、バルナバスの福音書であった。


炭素による年代測定によればパピルスが紀元前、使用されていたインクは西暦80年頃のものであることがわかった。イエスの生誕を紀元前四年とし、その昇天を西暦27年あたりであるとすれば「天空暦48年」というものを「イエスの昇天から48年目」と解釈することができ年代測定結果とほぼ噛み合う。このパピルスの束がいかに重大な意味を持つものかを知り、そして厳重に保護し記録に残さなければならないことを村人に説くが高額を要求され交渉は難航した。やっと出資者を見つけ出し契約までこぎつけ、いざ村人が師のもとに福音書を手渡すために村を出るとその車は軍警察の検問にかかり盗掘の疑いで身柄を拘束される。福音書は没収されてしまいその後この福音書はトルコ軍司令部の手に渡る。


聖バルナバス、イエスとほぼ同年代にキプロスに生まれた実名をヨセフというユダヤ人。バルナバスとは「慰め(ナバ)の子(バル)」を意味する霊名である。イエスの十二使徒の中には含まれないものの、イエスの傍に身を置きイエス昇天の後も使徒たちの布教に加わった。私財のすべてを手放して「イエスの言葉が少しでも遠くまで伝わるように」と布教のために身を尽くす。新約聖書に含まれる「使徒行伝」のなかに「聖なる魂に満ち溢れる者」と賞賛される。

「福音」とは「よき知らせ」、つまり創造主たる神が預言者に託した言葉である。イエスが神に預言を授かりそれはイエスの言葉、振る舞いを通して人々に伝えられた。そしてその昇天(新約聖書でいう磔刑)の後に弟子たちの口伝により福音として広められた。それをその後に集めて書き表されたものが「福音書」である。
イエスの母語は何であったか、宣教を始めた地ガリラヤでは当時アラム語が使われていた。イエスが使徒たちと交わした言葉は自然に考えればみなアラム語だった筈である。であるならばイエスを直接知る者がその言行を書き残そうとしたときに使われる言語はアラム語であるというのが考えやすい。しかし現存するの福音四書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ伝)の最古のもの(三世紀)はみな古ギリシア語である。ならばそれはアラム語から翻訳したものであるか、あるいははじめから古ギリシア語で書かれたものかのどちらかである。問題はイエスがこの世に在るうちにその言行が文字で綴られなかったことにあるのだが、口伝を繰り返した後に著された福音四書の内容と「イエスに託された天啓」の間には深刻な距離があると言っていい。

もしバルナバスが本当に福音書をアラム語で書き記していたのであれば、「天啓にいと近き書」にちがいない。

1986年、ハムザ師は当時政権にあったトゥルグトゥ・オザル首相に軍部が保管しているバルナバスの福音書の翻訳の重要性を説き口添えを願い出た。さまざまな駆け引きを経て一年後にやっと軍部が首を縦に振り最初の十数枚を撮影、軍司令部の中、いくつもの鉄の扉に隔てられた厳重な警備の元に翻訳が開始された。
ハムザ師によればそこにはまさにモーゼが神から賜りし預言と同じことを、つまりこの世を創造した唯一神のほかを神とするなかれ、人の子が手ずから偶像を作り崇めることなかれ、神の名をみだりに口にするなかれ、安息日に働くことなかれ、父母を蔑ろにするなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ、嘘をつくなかれ、隣人の家を、家人を、奴隷を、家畜を、ひいては全てをよこしまな目で見るなかれ…すなわち「十戒」を説いていたという。そしてソドムの罪への警告やイエスがマリアから生まれた人の子であること、預言者であることがはっきりと書かれていた。


イエスはユダヤ人である。そして使徒たちも含めモーゼの教えを守る敬虔なユダヤ教徒であり、礼拝は会堂(シナゴーグ)にてトーラー(モーゼ五書)に沿ってなされた。キリスト教はユダヤ教徒と寸分の違いなき同じ信仰であるはずであった。が、時とともに解釈を曲げ偽善で塗り固められたユダヤ教はモーゼの言葉を受け入れられないほどに堕落した。
エルサレムのユダヤ教徒たちはイエスを弾圧した。神殿を商業施設として使い私服を肥やし、神を尊ぶふりをして実は物質を拝する、そして論理で武装し堕落を指摘する隙を与えないユダヤ人たちの態度をイエスが激しく叱責したからである。唯一神とその神殿を利用して富を築いたユダヤ教徒にとって純粋な正論を語るイエスは憎々しい存在であった。ユダヤ教徒の中でもサドカイ派とパリサイ派による迫害は苛烈を極めた。

弾圧者の筆頭に在ったパリサイ人(びと)のパウロはローマの市民権をもつユダヤ人であった。ある日、天空にイエスの姿を見てさらにその声―汝を異邦人への伝道者とせん―を聞き改心してイエスの教えに帰依する。当初はかつての迫害の恨みからユダヤ人たちから強く拒絶されはしたが、故郷に近いアンティオキア(現トルコ・アンタクヤ)で多神教徒(古代神を祀る偶像崇拝者)たちに対し熱心な伝道を行った。
イエスがこの世を後にしてからはその兄弟のヤコブ(聖マリアがイエスの後にヨセフとの間に得た子)がエルサレムの信徒たち(エルサレム教団)の指導者となっていた。そのヤコブにアンティオキアの噂が届くと様子を伺うため使者を立てるが、それに選ばれたのがパウロと旧知であったバルナバスである。
バルナバスが見たアンティオキア教会はいまだ多神教の影を纏うおよそ一神教とは言い難い有り様であった。まず割礼を行わなかった。安息日を守らなかった。そして手製の偶像の前で犠牲を屠り、その血と肉を口にした。しかしパウロをエルサレムに連れ帰りヤコブに引き合わせると、新たにモーゼの教えに触れたのであれば直ちに全てを実践するのは難しいであろう、偶像に捧げた犠牲の血肉から遠ざかりさえすれば神は汝らを拒みはしない、と、ヤコブは周囲の反対を押してアンティオキア教会を破門せずに受け入れた。その後パウロとバルナバスは伝道の道を共に歩んだ。
しかし「イエス」の在り方について論争が起こった。バルナバスは「イエスは人の子」であるとし、パウロは「イエスは神の子」であるとし、二人は激しく争った末に袂を別つ。傷心のバルナバスは故郷キプロスに戻りそこで生涯を閉じたとの伝説が残る。

弁論に長けたパリサイ人のパウロはやがて使徒として迎えられ、イエスの言行の解釈を明文化する上で絶大な功績を残したとされる。パウロの名を冠した数々の手紙は「パウロ書簡」として福音四書とともに新約聖書に含まれる。


エルサレムは多神教を奉じるローマ帝国の一属州であった。一神教の立場からローマの古代神を敬わないユダヤ教徒社会のエルサレムは(神へ情熱だけではないが)帝国と反目することになる。西暦70年、ユダヤ戦争でローマ帝国に敗れたユダヤ人はエルサレムから追い出される。ヤコブの率いるエルサレム教会も今のヨルダンへと活動の場を移した。しかし地理的に遠いアンティオキア教会は戦渦を逃れてそのまま存続し布教活動を続け帝国内に膨大な信徒を獲得した。やがてローマ帝国がキリスト教を容認しさらに国教とするに当たって中心に存在したのがアンティオキア教会の流れを汲むものたち、つまり多神教の要素を多分に含むパウロの弟子たちとそれに教化された信徒たちであった。彼らの考えと後に結びつくのは「神」とは「父なる創造主、子なるイエス、父が子に吹き込んだ精霊」の三位を一体とする理論である。

四世紀に入り、無尽蔵に拡大したローマ帝国を一つの共同体として掌握するための決め手に事欠いたコンスタンティヌス一世は信徒の増え続ける「イエスの信仰」を共同体意識として利用することに目をつけた。そのために混乱した教義を整理し正当教義を明示する必要に駆られたのである。口伝により広まったイエスの言行が遠く離れた各地で拾い集められ収められた福音書のその数は数千に及ぶ。どれが正典で、どれが外典で、どれが異端であるかを審理し「キリスト教」を確立するため325年、ニカイア(現トルコ・イズニク)にて初めての公会議が行われる。

審理の争点は「イエスの存在について」「三位一体論」の二つであった。しかしこの時代にはパウロの流れを汲む「イエスは神の子」と「父と子と精霊」という考えがすでに権威を得ており会議の流れはおのずと決められていた。そして採択されたのが「ニカイア信条」であり、膨大に集められた福音書のなかでニカイア信条に適う福音書はたったの四書、聖マタイ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの名を冠するその四書のみである。しかし「冠している」だけで実際に誰がいつ書いたものであるかなどは学説ばかりで実は不明である。ただし共通項として「三位一体と神の子イエス」があることを踏まえればこの四書は「パウロの福音書」と呼ぶことが出来よう。こうしてモーゼの教えと決別して確立したのが「キリスト教」である。「イエスの信仰」とは別のものである。
異端とされたほかの福音書は炎にくべられた。異端として追放されたアリウス派をはじめとする諸派は隠し持った福音書を手に東方へと逃れ、岩窟に地下都市を築き隠遁の時代をすごす。

「三位一体」の構造をなぜ一神教が許さないか、それは正しい説明が広くなされていないのでここに記しておく。
「神」とは「在りて在るもの」である。その存在の原因は存在せず、その存在は何者にも依存しない。誰からも生まれず、そして誰も生まない。そして人の姿はおろかどのような姿をも持ち合わせない「みえぬ存在」、つまり「非物質」である。肉体を持ったイエスを神の子とするのはイエスを媒体として神を物質化することである。物質化された神と神格化されたイエスは「同質」となり人々は目に見えるイエスを直接「神」として見てしまう、ここですでにキリスト教が創造主をおいてほかに神はなしとする一神教の原則から外れたことになる。ユダヤ教、原初キリスト教、後のイスラ―ムにおいても預言者(アダム、ノア、アブラハム、モーゼ、ダヴィデ、イエス、ムハンマド、そのほか大勢)は神の言葉を託されただけであり神そのもの、或いは同質などとはされていない。また、神像やイコンのみならず偶像とはあらゆる物質がそれになり得るのである。肉体とてその内に入る。人の子が何物かに価値を置き固執し、そのために自己や他人を、社会を、国家を犠牲にささげることこそが偶像崇拝である。そして現代、最も身近な偶像は貨幣である。

じつは三位一体の構造は大昔からあった。

太古、地中海沿岸からオリエント、インドに根を伸ばす古代信仰や神話群に三神一体(三相一体)を多く見出すことが出来る。いずれも創造・繁栄・破壊の三相の循環の永遠性を意味する信仰であり、これは天と大地の恵み(創造)による収穫(繁栄)と枯渇(破壊)の営みに対する畏怖の形として農耕に深く関係している。その根にあるのは「再生」への強い願望で、収穫や繁栄を司る神はデーメーテールやキュレベーのような地母神として捉えられていた。ギリシア神話は特にその色が濃く、それをほぼそのまま踏襲したローマ世界にも「三神一体」と「地母信仰」が継承された。
そして信仰が信仰として在りつづけることはなく必ずや政治が影響する。古代国家の政治が神の名を騙ることでなされてきたことがそれを物語る。そこで漏れることなく見られる形が「支配者・神官・信託」、それは支配者の意向を神官の口から信託と偽って吐くことであり、キリスト教の「父・子・精霊」の関係の原型を見ることが出来る。

三位一体というラテン語を最初に使ったのは二世紀後半にカルタゴ(現チュニジア―北アフリカも多神教的地盤にキリスト教が浸透した地域である)で生まれたテルトゥリアヌス、彼はキリスト教徒であり法学者であった。ストア派哲学に基づく法精神をふんだんに盛り込んだラテン語のキリスト教著作が彼によって残され、その中にあった言葉が「三位一体−Trinitas」である。この構造を以って国家を統治することの有効さをよく知っていたローマ人たちがこれを見逃すわけがなかった。地中海の地にもとからあった三神一体構造がこうして三位一体として生まれ変わり、ニカイア公会議を機にキリスト教の礎石となった。

地母神と結び付けられたのが聖母マリアであった。「人を産むもの」か「神を産むもの」の論争が行われ「神の母」との決着がつけられたのは431年のエフェソス(現トルコ・エフェス)公会議であるが、この地はかつてのアルテミスを豊穣女神と崇める地母信仰の中心地でありキリスト教の浸透後はマリア信仰がそれに取って変わった場所でもある。マリアを「神の母」とするに明らかに有効な場所で持たれたこの公会議では「人の母」たる見解を崩さなかったネストリウスが異端とされエジプトに追われた。

一神教での「再生」とはこの世での仮の人生を終えたものは肉体を離れて真の人生を迎えることを指す。しかしキリスト教での「復活」の描かれ方はこの世での肉体の再生の意味が強い。これには古代信仰に脈打つ「再生への願望」が少なからず影響している。


1991年、ハムザ師の翻訳が突然中止された。政権や軍の幕僚が交代しそのほかの政治的な動きが複雑に絡んでのことだがその後ヴァチカン法王庁から買取の打診があろうとカーター本米国大統領が見せろと言おうと軍部は頑として受け付けなかった。バルナバス福音書は軍部の保管庫に閉ざされてしまう。
翻訳が済んでいない残りのパピルスのうち数枚のコピーがハムザ師の手に残るのみとなるも奇跡とはこういうものなのであろう、その中にはこの福音書の兄弟ともいえる写本の在り処が記されていた。

その場所はイスラエルに占領を受けるシリア領ゴラン高原、サウジアラビア北部にあるトゥル山の修道院、北イラクのザホの三箇所、つまり最初の一枚に書かれていたようにこの福音書は全部で四書あるという。

ゴラン高原の文書の位置はダヴィデ王に纏わる遺跡の地図とともに記されていた。シリア領でありながらイスラエルに不当に占領されているゴラン高原でこの文書を探すためにハムザ師が協力を求たのはかつてイスタンブールの大学の研究室に勤務していたころ学生であったヴィクトリア・ラビン、在任中に暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘であった。彼女が発起人となりドイツ企業の提供をつけ遺跡探索・発掘が進められた。2002年、バルナバス福音書の「ゴラン写本」が見つかった。同じくアラム語の古シリア文字による記述、そして同じ内容、同じ神の言葉…

2007年にサウジアラビアにあるという写本もアラブの軍人によって発見された。北イラクのものはいまだ発見されていないという。


「ゴラン写本」をハムザ師が翻訳し、ユダヤ教徒であったヴィクトリアはそれを読むとイスラム教徒としての道を選ぶ。
そしてエチオピアから来たという何者かの手にかかりヴィクトリア・ラビンは命を絶たれる。

バルナバスの福音書を西洋は歓迎しない。ハムザ・ホジャギリはこの後に多くの死を目の当たりにすることになる。以下次号。

迷える魂に光を、迷わぬ魂に力を、迷わす魂に雷を与えよ―
 

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コメント
 
01. 2013年10月05日 10:58:39 : xYdU3Za0aM
あやみ さん

安芸ガラスです。

>じつは三位一体の構造は大昔からあった。

同意します。


02. オリハル 2013年10月05日 15:11:19 : 3eVpHzO3Pti46 : AmwoG4U4n2
そのような聖書が存在しており、しかも見つかったとはね。早く一般にも流れてきてほしいものである。ただ、気になったのは、別の点で、

> 人の子が何物かに価値を置き固執し、そのために自己や他人を、社会を、国家を犠牲にささげることこそが偶像崇拝である。

支配される側=被害者の側を悪く述べるという発想がとても気になりました。このような考え方を採る「人間のタイプ」というものがあるのかも知れない。というのは、以前、初心に帰るお天道様に恥じない生き方さんの発言でも似た概念構造があり、気になった私はコメントしました。
http://www.asyura2.com/13/cult11/msg/789.html

第一に問題点を指摘すべきなのは、人心を一手に掌握する目的の為に、例えば偶像を「使う人間=支配者の意図」こそ、最大の問題点となるべきです。確かに、偶像を「信じる側=被害を受ける側」にも問題があるという二義的な問題点もあるので、大勢の人が偶像崇拝=禁止事項とすることで防げる可能性が高まる。責めるべきは偶像の使用者であり、守るべきは信者側です。信者側を責めるのはおかしいと思う。

信者の側を「守るため」に必要な拡散すべき真実は、霊的な事と物質的な事を混同しないという真実です。例えば、原油も通貨も単にエネルギー源として物質的に使うものであって、信仰したり拝んだりするものじゃありませんよ。目的の為に使うものです。物質を霊的に扱ってどうする、と思います。逆も然りですね。これで(権力者から)被害を受けないように「守る」発言をしてみました。


03. 2013年10月05日 16:16:01 : xYdU3Za0aM
オリハルさん

安芸ガラスです。
オリハルさんの主張は以下ですよね。

>第一に問題点を指摘すべきなのは、人心を一手に掌握する目的の為に、例えば偶像を「使う人間=支配者の意図」こそ、最大の問題点となるべきです。確かに、偶像を「信じる側=被害を受ける側」にも問題があるという二義的な問題点もあるので、大勢の人が偶像崇拝=禁止事項とすることで防げる可能性が高まる。責めるべきは偶像の使用者であり、守るべきは信者側です。信者側を責めるのはおかしいと思う。

私のタイプは、『支配される側=被害者の側を悪く述べるという発想がとても気になりました。このような考え方を採る「人間のタイプ」というもの』かも知れません。

私は「信じる側」と「使う人間」が重なったときに暗示にかかると思います。
「暗示」とは、「信じる側」の「観念」への方向付けのことです。

オリハルさんの書かれたように「原油も通貨も単にエネルギー源として物質的に使うものであって、信仰したり拝んだりするもの」ではないのに、その都度、社会的に形成された「観念」をフィードバック(壊す)しないと、原油や通貨に憑かれてしまい、人間がコントロールできなくなってしまいます。

会議が終わり、そのまま食事会に流れることがあります。
私は食べたい物を食べます。
しかし、その場を観察しておりますと、栄養とかバランスなどで、食べる物を決めている人もおられます。
欠乏から要求が生じますが、これは、まさに頭の中にある「観念」で、自分が食べるものを決める、「偶像」ではないでしょうか。
すでに、肉体の内に入いっているのです。


04. あやみ 2013年10月05日 17:45:35 : oZZpvrAh64sJM : S4TOKLFhXo
安芸ガラスさま コメントありがとうございます。

三つの位相を利用した政治{宗教}システムです。
地母神、時として火炎神に「豊穣・安泰」の見返りとして「犠牲」を捧げます。本来二元的であるこの関係に、第三者である権力者が容易に割ってはいることが出来るようになるのです。私が本文で三位一体の原型と申し上げた三神一体も「生・繁栄・死」を象徴する信仰の形態ですが、これとて本来は「生と死」という表裏一体の循環の合間に人間側が勝手に繁栄をもとめて挿入したものだと理解できます。


05. あやみ 2013年10月05日 18:30:17 : oZZpvrAh64sJM : S4TOKLFhXo
オリハルさま コメントありがとうございます

>責めるべきは偶像の使用者であり、守るべきは信者側です。信者側を責めるのはおかしいと思う。

心情的にはまことに仰るとおりなのですが矛盾しているのです。信じてしまったものも偶像の使用となりかわります。そうなると守りようがなくなります。

例1 国政がめちゃくちゃなのは「アベノミクス」と名づけられた偶像を振りかざす自民党が悪いのであってそれを信じて投票した国民は悪くない。

そういう屁理屈に繋がりませんでしょうか?
酷なようですが、悪事を働くものは必ず加担するものを引き付けます。人は欲を刺激されることで血迷い、知らぬうちに悪事に加担してしまうのです。銀行に貨幣を預けるといつの間にか増えている、そんなバカなことがあっていけないのです。

例2 政府の意向で虚構の報道を繰り返す「マスコミ」を、安易な快楽と娯楽をあてがわれた挙句に問題意識が蒸発してしまった国民が真に受けたとしても悪くない。

じつは人間というものは、何を信じなにを信じないかは自分で選択しています。国民がマスコミの垂れ流す情報を鵜呑みにしているなどとは詭弁であり、「経済大国ニッポン」などの偶像虚構を待ち望んでいるのは当の国民です。

権力者はこれを十分承知しているからこそ利用するのです。

神の啓示が偶像を奉るなかれとするのはこのことです。

腑に落ちないことがおありでしたらいくらでもお付き合いいたします。


06. 2013年10月05日 21:11:37 : Ezl2LJ9Lwg
なんでこんな糞みたいなものを基軸にもの事を判断するんだ、ふざけんのもいい加減にしろ。

07. オリハル 2013年10月06日 06:56:41 : 3eVpHzO3Pti46 : AmwoG4U4n2
あやみさん

日本人はどうも「喧嘩両成敗」のように考える癖があるようで、私はそこに同意しません。第一原因を作った側がいるならば、その「最初に仕掛けた者」を追及すべきです。その者の内心の利己=加害の意図を知らなかった側=国民を責めるものじゃないと思いますよ。全ての原因はその者=加害者にある。

「国民が無知であり、問題意識がないため」に『問題』が拡大するのではないと思う。なぜなら、問題意識がなくても、必ずしも『問題』が拡大する訳ではないから。『問題』が拡大する理由は、加害者(何よりも利己を優先する発想)がいるからです。


08. あやみ 2013年10月06日 18:43:05 : oZZpvrAh64sJM : S4TOKLFhXo
オリハルさま

>第一原因を作った側がいるならば、その「最初に仕掛けた者」を追及すべきです。その者の内心の利己=加害の意図を知らなかった側=国民を責めるものじゃないと思いますよ。全ての原因はその者=加害者にある。

「法的観念」の中で解釈すればそうかもしれません。「法律」で裁き、「刑罰」を与えるべき相手がいるとすればそれは加害者でしょう。しかしそれは「喧嘩両成敗」も含めて制度上の問題に過ぎず現実におこる社会問題の深いところまでは到底及ぶことがないと考えます。

人間はなにかしらの問題意識を抱えていて当然です。しかしその方向が加害者によって意図的にまげられています。意識ってのは鉄筋じゃあるまいしちからずくでまげられる物ではありませんよね。加害者たちは人の心の中の利己的な部分、欲深い部分、淫蕩な部分を刺激して人を罪に抱き込むのです。そうして段階的に罪に関わっていく、そんな構図が大昔からあり、今も変わっていないのです。

その辺のことは「モーゼの十戒」が語ることに収束していきます。

加害者も長い目で見れば被害者であったかもしれません。
生まれた環境、貧困、性別、人種により受ける差別や迫害からその魂を守るために心に壁を築き暴力や嘘で武装したとすれば、第一加害者は誰でしょう。

偶像を仕掛け人々を迷わすものの罪がないなどとは、本文でもコメント欄でも、また過去記事でも申し上げてはおりません。どちらも罪深いと思います。



09. オリハル 2013年10月07日 13:31:19 : 3eVpHzO3Pti46 : AmwoG4U4n2
日本で福島の為に使うはずだった復興予算の流用みたいな記事
http://www.asyura2.com/13/senkyo144/msg/667.html
http://blog.goo.ne.jp/fuwa_toshiharu/e/d798ea373871b5392eb86b163feba77a
を読むと、私は(貧乏ですが)福島の人に大金をあげたくなりました。

何か似たようなロジックを見ると、つい指摘したくなります。

社会状況全般によって害を被って来た人は、そのような頭が硬い社会の通念を崩壊または入れ替えるような言論をしたらいいと思います。差別とか、実際、間違っている社会通念ばかりなのですから。人は、それがどのように間違っているか理解すれば、ほぼ全ての人は善へと向かって行くものだと思います。皆が声を上げる=タブーや社会通念の入れ替えをするといいと思います。

社会状況によって被害を被って来た人もそうですが、日本人にもしばしばいますが「無関係の第三者に対して復讐する人」というのがいます。このような性向は無意識のままであるから拡大し、繰り返されるのだろうと思います。「無関係の第三者に対して復讐しないで下さい」と社会的に明文化したりすれば、少しは減るかも知れませんが。


10. あやみ 2013年10月07日 20:39:24 : oZZpvrAh64sJM : W6rR6goHRw
オリハルさま こんにちは

コメントありがとうございます。

こういった議論は日本の中でもっと盛んに為されるべきなのですが、そのときの「枠」が、「西洋」つまりキリスト教の尺度で形成されてきた社会価値であっては、結局は「西洋」の思うままにしかならないのです。

近代以降、世界に共通する人権、平和、正義、平等、自由、民主主義の精神はキリスト教社会の産物です。そしてその運営も西洋人の手からは決して離れません。

前回の記事で「西洋」がキリスト教を手段として侵略・略奪を繰り返してきたことを、そして物理的な攻撃だけではなく非西洋の国々の土着の理念や魂をも破壊するということを書きました。さらに今回の記事は、そのキリスト教がイエスの信仰から如何に離れていったか、その確立にどのような背景があったかを書きました。次回はその続きです。

>「無関係の第三者に対して復讐する人」というのがいます。

復讐対象として無関係の第三者を用意しているのも政府です。かつては幕府であり、その前は朝廷です。東北は歴史的にに日本人の重荷を背負わされてきましたが、その大義名分つまり偶像とは天皇であり、開国後は文明を、そして現代は経済です。
経済は日本の中で完結する筈もなく世界の大きな歯車の一部となっていますが、その歯車も西洋のルールで回っています。


11. オリハル 2013年10月08日 07:10:29 : 3eVpHzO3Pti46 : AmwoG4U4n2
あやみさん こんにちは。

> 今回の記事は、そのキリスト教がイエスの信仰から如何に離れていったか、その確立にどのような背景があったかを書きました。次回はその続きです。

マリア・ワルトルタが幻視体験を受けて著した著作をいつも推薦しております。
http://oriharu.net/limit/jsuisen.htm

多分、バルナバスの福音書の内容がマリア・ワルトルタの著作をバックアップするのではないかと思ったりします。

次回の情報も楽しみにしています。


12. 2013年10月08日 12:57:35 : lzttL2TrNs
あやみさん、こんにちは。

西暦3世紀以後のキリスト教会が、様々な異教思想を征服してきたのであれば、教会もまた異教思想によって腐敗させられたというのも真実ですかね。

キリスト教の三位一体やマリア崇拝が、イエスの死後、数世紀のちに教会の教理になったことはそのとおりだと思う。
ただ、三位一体の教理は325年のニカイア公会議で公式の教理になったわけではない。このとき集まった300人ほどの司教たちは、だれも三位一体を推奨しなかった。というのもこの教理はまだ発展途上にあり、教会内では広く知られたものではなかったからだ。
会議を招集したコンスタンティヌスは、司教たちがイエスの神性について結論を出せない中、イエスと父とは「同一実体」(ホモウシオス)であるという曖昧な概念を採択するよう提案する。この非聖書的なギリシャ哲学用語がその後の三位一体の教理の基盤となり、後のコンスタンティノープル公会議(381年、テオドシウス帝が招集)では、そこに聖霊を加え三位一体の形式が完成した。

でも、三位一体の教理がイエスやそれ以前のユダヤ人の教えにはなかったことを説明するのに、偽典や外典の類を持ち出すまでもないと思うんだけど。
たとえば、ニカイア信経は神とイエスの関係について、「我らは信ず。・・・・・・父の同一実体、神の神、光の光、まことの神のまことの神なる、ひとりの主イエス・キリスト・・・・・・を」とある。
けれど、聖書の述べることは次のようだ。
 「父はわたし[イエス]よりも偉大な方」(ヨハネ14:28)。
 「わたしの父であり、あなた方の父である方、また、わたしの神であり、あなた方の神である方のところへわたし[イエス]は上る」(ヨハネ20:11)。
 「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ(る)」(コリント第一8:6)。
 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(ペテロ第一1:3)。
 「アーメンである方、・・・・・・神に創造された万物の源である方が、次のように言われる」(黙示録3:14)。

聖書は神とイエスを別個の存在として扱っている。そして両者は同等ではなく、イエスは下位の立場であり、神により創造された存在としているのがわかる。

そんなわけで、コンスタンティノープル公会議後も三位一体は広く受け入れられた信条とはならなかった。反対する信者は多く、激しい迫害も起こり、正式な信経として定式化されるまでその後何世紀もかかることになる。

(ピ)


13. あやみ 2013年10月08日 17:54:04 : oZZpvrAh64sJM : W6rR6goHRw
オリハルさま こんにちは

ご推奨の書籍、ぜひ読んでみたいのですが、何しろ日本の外に居るもので日本語で本を読むことはあきらめざるを得ない状況です。アマゾンなどはクレジットカードがない限りは利用できず、そのカードも神様から禁止されているので持ってません(笑)。

もし書評などがネット上にあればお教えください。ありがとうございました。


14. あやみ 2013年10月08日 18:48:29 : oZZpvrAh64sJM : W6rR6goHRw
ピノキさま こんにちは。

>教会もまた異教思想によって腐敗させられたというのも真実ですかね

まあそういうことなのですが、しかしこの表現はかなりキリスト教会側に立ったものです。教会はかなり積極的に異教徒化していったものと思われます。

コンスタンティヌスという一人の人間の信仰心はわかりませんが、皇帝という立場からは「キリスト教」を(大和朝廷が仏教を利用したように)政治の道具に使ったに違いなく、そのためにキリスト教の中の一神性を壊す必要があったのです。剥奪・姦淫・虚飾を許さない唯一神の性格と、誰の目にも明らかなローマ帝国の様相(および以後のキリスト教世界)が対極にあるのが、ローマの必要により生まれた宗教がキリスト教であったことを指し示しています。

イエスの神性も、正典とされた福音書の正典たる理由も、キリスト教会は今日になっても結論らしい結論は出せていません。


>というのもこの教理はまだ発展途上にあり…

教義というものを、時代や状況とともに変化するものと捉えたのではそれはすでに政治でしかありません。一神教は審判の日まで一神教です。
三位一体は信条というよりも制度です。多神教時代から使い続けてきた宗教システムです。そのシステムを取り戻すために多大な努力が払われたというわけです。もちろん教会側はそんなことを認める筈はないのですが。

>三位一体の教理がイエスやそれ以前のユダヤ人の教えにはなかったことを説明するのに、偽典や外典の類を持ち出すまでもないと思うんだけど。

いや、あの、この記事の主体はキリスト教会側から外典とされたバルナバスの福音書であって、キリスト教成立の話ではないのです。ただしユダヤ教徒のユダヤ人であるイエスが広めた教えがどのようにして多神教化していったかは抑えておく必要があると思います。


15. 宮島鹿おやじ 2013年10月10日 08:18:14 : NqHa.4ewCUAIk : DocNDonHXH
あやみさん、おはようございます。

大変貴重なご投稿をありがとうございます。

また、皆さんのコメントも勉強になります。

なお、現在、空間線量の定点観測をやっています。
明らかに異変を示す数値を示すことがありました。
水の汚染だけでなく、大気中への大量放出も事実として起きていると考えています。
大気中への放出は東電も認めているところですが、その程度ではなく、2年半前の事象に準ずる程度の事が起きはじめているように思います。

話題がそれました。
ご容赦ください。


16. 2013年10月10日 13:42:30 : yMQEIHxEhk
あやみさん、コメントどうもです。

”この教理はまだ発展途上”と言ったのは、キリスト教会内でのことです。
三位一体の起源はバビロニアの時代まで遡りますよね。

コンスタンティヌスの信仰心はどんなものであったか。彼のクリスチャンへの改宗というのはちょっと疑わしく思ってる。
彼の伝記を書いたエウセビオスは、臨終の間際にクリスチャンになったと言うけど、その前日にはゼウスに犠牲を捧げているしね。それに、臨終の間際でどうやって洗礼を受けたのか? 確かにキリスト教会は彼により優遇されたが、それは信仰心からじゃなく政治的な方便に過ぎない、と思う。

ところで、コンスタンティヌスは神とキリストの関係をめぐるギリシャ神学の論議ついて、基本的には全く理解していなかったらしい。この皇帝が理解していたことは、帝国の分裂に至りかねない教会内のゴタゴタをなんとしても収拾することだった。短気で気性の激しかった皇帝は、大司教(ポンティフェクス・マクシムス)の名目で会議に介入し、同一実体に関する信経を採択するよう提案する。司教たちは、皇帝に威圧され全員その信経に署名はするが、二人を除き、彼らの多くは甚だ不本意ながらそうしたといわれている。
「ギリシャ国民の歴史」という本は、ニカイアで起草された最終文書に関し、「これは、[皇帝が]教理上の事柄には無関心であったこと、また是が非でも教会内に一致を取り戻そうと執ように食い下がったこと……、そして最後に、宗教上の事柄は何でも“教会外の人々の司教”である自分に最終決定権があると確信していたことを示している」と書いている。

でもね、教会側もコンスタンティヌスから学ぶこともあった。
宗教上異議を唱える声が上がったなら、権威主義的な方法で直ちに圧殺すべしってことだ。一致した信仰を作り出すには説得や議論では不十分、てことを彼のやり方で学んだ。
ちなみに、ポンティフェクス・マクシムスという称号は元は異教のものでありながらも、現在でもローマ法王の肩書きとなっているよ。

(ピ)


17. 2013年10月10日 16:36:26 : 34Sk9khaKW
あやみ さん

安芸ガラスです。
「三位一体」、これは大変、関心があります。


人間が生きていくには、要求を追いかける私を観察する私だけで十分です。
しかし、学校教育では「あれをやってはいけません」「こうしなければなりません」「あの人のようになりなさい」と必要以上の私を作らせます。
あやみ さんが指摘されているように「三位一体は信条というよりも制度です」ね。


私たちはいま、「三位一体」にぶち当たっています。
国家と学者(科学者や医者)と会社(東芝、三菱、日立)の「原子力ムラ」です。
これについては、宮島鹿おやじ様が「シュレディンガーの猫の代わりにされたこどもたち」のコメントで原子力ムラの構造に陽をあててくださいました。
もとは以下です。
「科学技術新体制確立要綱」 1941年5月27日 閣議決定

やはりこの三位一体は制度です。

ではまた。


18. 2013年10月11日 02:07:59 : yMQEIHxEhk
こんばんは、安芸ガラスさん。

>人間が生きていくには、要求を追いかける私を観察する私だけで十分です。
>しかし、学校教育では「あれをやってはいけません」「こうしなければなりません」
>「あの人のようになりなさい」と必要以上の私を作らせます。

それは至極ごもっともです。でもそれって三つじゃ足らない ww
でもねキリスト教の三位一体の教義では、それぞれがまた別個の個人としている。ところが実体としてはひとつ(?)。よく分からない不思議な教義です。今風に言えば「解離性同一性障害」などと診断されちゃうでしょうか。
三位一体の教義がキリスト教に為したことというのは、あやみさんが言うような一神教の持つ高い道徳基準の破壊というよりも、神をイエスと交換可能な立場とし、その個性を曖昧にし理解不能な存在としたことだと思うんです。(例えば、神の名前を知っているクリスチャンってどれほどいます?)

政治や社会制度に三位一体の構造を当てはめることに別に異存はありません。
でも、キリスト教会における三位一体の教義とはちと異なるかなと思う次第なんですよね。

(ピ)


19. あやみ 2013年10月11日 18:05:47 : oZZpvrAh64sJM : WTzuSZtzAU
おやじさま こんにちは。

いったん冷え込みもう冬かと思いましたが今週は暖かく、子供たちと外をぶらつき往く秋を惜しんでいるところです。日本はまだ暖かいと存じますが如何でしょうか。

ノアの息子の一人は、高い山に登れば洪水に飲まれることなく助かると言い張り頑として方舟に乗ろうとせず、溺れてしまいます。危機を経済で乗り切ろうとする現代人の姿がそこにあるように思えます。


20. あやみ 2013年10月11日 20:20:29 : oZZpvrAh64sJM : WTzuSZtzAU
ぴ軒さま こんにちは。

興味深いお話をありがとうございます。

多神教徒(偶像崇拝者)にとって一神教の教義などは「てやんでぇ」といえるものであり、ましてや搾取の上に王座を築いた権力者にしてみれば「まっぴら御免」な教義です。死ぬ間際でもなけりゃ受け入れられなかったのかもしれません。そうでなければゼウスの怒りに触れて現世にいるうちに罰を受けることが本気で恐ろしかったのかもしれません。

>神をイエスと交換可能な立場とし、その個性を曖昧にし理解不能な存在としたことだと思うんです。(例えば、神の名前を知っているクリスチャンってどれほどいます?)

これには賛同します。キリスト教の宗教学が壮絶に難解なのはこのためです。神とイエスを無理矢理こじつけたことから起こる矛盾を神学者が説明できないというだけはなく、あえて理解不能な迷宮に封じ込めたともいえます。

>政治や社会制度…キリスト教会における三位一体の教義とはちと異なるかなと思う次第なんですよね

私もこのあたりのことはずいぶん思案しました。無い知恵で考えた結果ですが、過去から現代にかけて成り立つ政治や社会の制度の構造は多神教的三位一体構(支配者、司祭、お告げ)を忠実に踏襲するものであり、キリスト教のそれは模したつもりで失敗したのではないか、と思うのです。政治や社会などは人間の手で作るものでしかありませんが、神様を作るというのはさすがに相手がまずかったのでは…と思う次第です。


21. あやみ 2013年10月11日 20:43:11 : oZZpvrAh64sJM : WTzuSZtzAU
ピノキさま、失礼なことに>20でお名前を変換ミスしました。ごめんなさい。

安芸ガラスさま コメントありがとうございます。

開国後、日本が西洋(文明)という偶像を追いかけ日本を逸脱していった経緯があります。その分子が「必要以上の私」あるいは「一旦自分を反故にして全く別の私」だと思います。

原子力エネルギーは自然の摂理からの逸脱行為です。その大義名分がやっぱり「経済」なのですから情けない。


22. 2013年10月11日 21:31:24 : vCtirbsSRg
ピ)さん
あやみ さん

安芸ガラスです。

>政治や社会制度…キリスト教会における三位一体の教義とはちと異なるかなと思う次第なんですよね

>私もこのあたりのことはずいぶん思案しました。

三位一体は、マルクスの「資本論」第3巻に出てくるのです。
この3巻は、マルクスの遺稿をエンゲルスが編集したものです。
「価値」(交換価値)の増殖を説明するのに、父と子と聖霊(増殖する価値=利子)で、「経済的三位一体」と書いています。

私はこの三位一体をマルクスの「聖家族批判」でしりました。
要求とそれを獲得する行動の間に、価値増殖をいれたのです。



23. あやみ 2013年10月13日 07:26:57 : oZZpvrAh64sJM : WTzuSZtzAU
安芸ガラスさま

土地または資本のあるものが不労所得によって肥えてゆく。労働=収穫という純粋な等価交換を狂わせるものですね。

そもそも誰のものでもない地面に境界線を引いて所有権の主張をするという所に故障があるのでしょう。ユダヤ人は土地(=国)を持つことを神から禁じられた民族です。正統ユダヤ教徒たちはそれを甘受し不労所得に触れずに生きていますがシオニストたちは正反対、金融業界を牛耳りイスラエルを建国しました。


24. 2013年10月13日 13:01:30 : DvY6vawRac
あやみ さん

安芸ガラスです。

>土地または資本のあるものが不労所得によって肥えてゆく。労働=収穫という純粋な等価交換を狂わせるものですね。

そうですね、自然と労働は富の源泉です。

しかし、経済や人間の行動原理に三位一体を挿入いたしますと、人間を豊かにするはずの富が、人間の生活から切り離されるのです。

私も100円ショップで代替品を探しますが、その品物は最初から価値増殖を想定して生産されています。
生産に従事している人は技能が要求されないで、その労働は価値増殖となり、いいし仕事になりません。
商品を消費する私たちは感性が荒廃します。

感性の荒廃とは、宮島鹿おやじ様のコメント欄で明らかになった、「言葉にならない領域」のことです。

ではまた。


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