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セキュラリズム―刹那の現世主義 前編
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/715.html
投稿者 あやみ 日時 2014 年 2 月 23 日 18:00:09: oZZpvrAh64sJM
 

つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/より転載


セキュラリズム、「信仰―霊的な存在からの教え」に由来する思考から政治と社会契約上の判断を切り離すべしとする主義主張であり、いわゆる政教分離はこの産物である。一般には「世俗主義」と日本語訳されている。多民族、多宗教を抱えるインドなどがセキュラリズム国家と呼ばれる。

が、そこだけに着目していてはこのセキュラリズムの正体を見誤まる。その発生、背景、そして語源までを辿ればこの矛盾に満ちた「酷すぎる現代」の構造を見ることができる。日本は苦しい国である。それは日本が、日本人がセキュラリズムに染まったため、いっそ染まり切ってしまえばもはや苦痛を感じないだろう、いま日本人が覚える得体の知れない苦痛はセキュラリズムに憑依された部分とそうでない部分が引き裂かれる痛みである。たしかに現代は酷いが中世よりはマシ、いや現代は素晴らしいとお考えの方には尚のこと一読頂きたい。


セキュラリズム(英・secularism)の語源は中世教会ラテン語のsaeculumに遡る。今われわれが生きるこのかりそめの「現世」という意味にして、死後に往くであろうあの世「来世」の対義語である。社会・政治学でいう「世俗主義」とは実はライシテ(仏・laïcité)という「聖職者以外の人間」を意味するラテン語laicusに語源を持つ言葉に当てられた訳である。セキュラリズムの世俗主義という日本語訳は誤りであり正しくは「現世主義」とするべきである。

その場かぎりの至福に身をまかせる態度は「刹那的」などと呼ばれるが、「刹那」とは極々みじかい間のことである。人の一生は長いとも短いともいえよう、どちらにせよ世の営みという悠久を思えば瞬きほどに短い。ひとりにとっての現世はそんな刹那でしかない一生である。それをどのように生きようと世間に迷惑及ばねば「自由」とばかり好きに生き、来世などは自己責任、後は野となれ山となれ…誰も彼もがそう生きて死んだならば、どんな現世になるかは明白である。

セキュラリズムの前夜

暗黒時代の中世欧州、王権と結びついた教会勢力により社会は窒息する寸前であった。「地球」などと言い出せば異端審問をうけ火刑に処された。
天体を論ずるまでもなく教会にカンテラの灯りを点したというだけで「神の与えたもうた闇を侵した」罪を問われて投獄される。病気治療といえば司祭が聖水をかけるという程度、衛生観念に激しく欠けた環境にいて当然のごとく伝染病に罹った者と、その病を撒き散らす魔女の疑いがかけられた者は即ち炎に投じられた。

教会の審理が世の中を動かすことができたのも、ひとえに世の中の善悪・可否の判断がキリスト教に由来していたからである。いや、ただでさえ食うや食わずの民衆に敢えて読み書きすら与えぬ教会は世の判断力を一手に握っていたといえる。民衆はおろか王侯貴族でも教会の言葉を否定することは不可能だった。欧州では当然にこのような社会からの脱却が望まれ、そのためには「キリスト教」の束縛から逃れるしかないという結論に至る。契機となるのは仮想敵であり事実上の脅威でもあるイスラム勢力から流入した「科学」―古代ギリシア人の残した知的遺産を「神への冒涜」として焼き払ったキリスト教徒とは反対にムスリムが「神の賜れし叡智」として暖めた物理学や数学、哲学との再会である。欧州社会はコペルニクスからニュートンに至る数世紀を費やして(現代から考えれば恐ろしく長い時間だが当時の時間の流れはこのようなものであったのだろう)事象の可否を経験と因果性により論証するべきと結論し、判断を神学に委ねることから離れた。当初は激しい抵抗を見せた教会も次第にそれを認めこの流れは後のルネッサンス運動へと繫がることになる。

ここまではキリスト教会の暴力に喘ぐ欧州社会の切実な必要によるものとして一応受け取ることが出来る。しかしその先が悪かった。教会が科学と和解するためにはそれなりの見返りがあったはず、この運動を教会がなぜ受け入れたか。


まず教会が勢力を保てなくなっていた。重なる十字軍遠征の失敗とそれに伴う農村の荒廃、欧州の土から吸い上げるものは尽き、目はいやおうなしに外を向いていた。力学、数学、つまり戦争と増産の技術というものには総身が疼いた。現世に有用なことは教会にも魅力であった。

教会は何とか権威を維持しながら科学を社会に認める口実を聖書に求め、見出した。

イエスは言ひ給ひて曰く 『さらばカエサルの物はカエサルに、神の物は神に納めよ』 ルカの福音書 第20章25節


この世の富と繁栄、その所産の名声や権力も含めた物質的価値を「カエサルの物」になぞらえ、それは現世に納める(=帰属する)。対して神の御心に適うことで得る霊的・精神的価値は「神の物」であるとし来世に納める。それを互いに侵すことなかれ、福音からこういった解釈を導いた。
現世は神の領域に在らずとする大義名分、ここにあり。

本来のイエスの教えによれば、さらにモーゼもムハンマドも同じく説くところによれば現世を統治するのも人の子ではなく神である。それを無視している以上この引用は福音の意図的な悪用である。また現世とは来世(天国ないし地獄)のための修練の場でありこの二つの世界は最後の審判をはさんで確実に連続するという教えを知りながら、それを分断して現世と来世は並行して別々に存在するという思考へと人心を導いたのがセキュラリズムである。つまり、「神との別居」である。


そして夜明け

セキュラリズムという名が与えられたのは近代を迎えてからであるが、それに至るまでは特に形のある思想ではなく今も一言で定義するのは難しい。「神との別居」を目的としたあらゆる努力が神学者と科学者、聖と俗のそれぞれで行われた末に近代が生まれたとも言える。
まず13世紀の神学者トマス・アクィナスが神学の立場からセキュラリズムの土台ともいえる観念を引き出した。それによると創造主たる神の「永久の法」のなかに含まれる被造物たる人間が、その理性に由来する独自の「自然の法」を分有すると説いた。神中心の無限界の中に人間中心の領域を設けたのである。その領域では1+1が常に2であるように理論・視覚・経験の上で整然とした法、つまり科学や論理学に則る法則が求められた。そこでは科学と論理で証明できないものはその存在が認められない。よって神も存在しない。その領域の支配者は人間である。トマスによって科学は市民権を得たといえる。
トマスの後、イエズス会の「努力」で世界中に大学が設立された。科学、そして修辞学(言論・演説に関する学問)が広く学ばれ科学者と思想化が次々と輩出、ニュートン、カント、マルテス、マルクス、ダーヴィン、ウェーバー…科学者たちは神の領域を侵すことなく人間の領域の法を整える。そして思想家たちは神の干渉をうけずに「倫理」を確立、科学の擁護を展開した。
それが物質主義や合理主義、そして後に資本主義、個人主義、民主主義などと呼ばれるものと発展しセキュラリズムの遺伝子を世界に、未来に拡散した。

神を完全否定するアテイズム(=無神論)とは違い、セキュラリズムが敢えて神の領域と人の領域を分けたにとどまり神の存在を否定してはいないことに注意すべきである。これならば神の領域を侵さずに人の領域の運営に集中できることがひとつ。ふたつめに、信仰を科学に目覚めぬ暗黒時代の因習として軽視・蔑視の対象に据えることで人々を現世に没頭することへの罪の意識からほぼ開放したことを挙げられる。これは、「神の陳腐化」である。


対イスラーム戦略

「神との別居」の出発点がイスラームとの攻防であったことを先に記した。その後も欧州がなぜイスラームと敵対したかは、物質主義や合理主義、そして金利の理念がイスラームの教義に反するそのためにキリスト教徒がセキュラリズムを通して立ち上げた資本主義経済網を富の溢れる東方に拡大できなかったことに拠る。現世と来世が連続しているとする一神教本来の教義を強固に持ち続けていたイスラム教徒を「どうにかする」にはセキュラリズムを感染させるのが唯一にして最も効果がある、と欧州は悟った。

東ローマ帝国を滅亡させ十字軍を追い返し続けたオスマントルコ帝国がどのように解体されたかは過去の記事で触れたとおり帝国内の民族主義を煽られたことによる。その後にふたたびイスラームとしての統合や団結が叶わなかったのも、帝国から独立したアラブ諸国・バルカン諸国そして新生トルコ共和国に「世俗主義政府」がそれぞれ打ち立てられ政治の領域からイスラームが駆逐されたためである。およそ独立国としての技量にかける新生国を裏から無理に支えていたのはもちろんイスラームによる結束を阻む欧州である。
新生世俗国家の教育はセキュラリズムを徹底し、信仰ゆえに抵抗を見せる学生は冷遇され社会の下層に留まることが強いられる。そうして信仰が貧困と暗愚の象徴になる。逆に上層、とくに政治・司法・教育界に参入できるのは優等生として出世街道を進んだセキュラリストのみとなる。こうなれば自動的に「神との別居」と「神の陳腐化」が国家単位で進む。セキュラリズムの遺伝子からなる民主主義は「信教の自由」を高らかに謳うが、嘆かわしくはこの欺瞞に気づく者が無いに等しいことである。


日本とセキュラリズム

世界中の国々を資本主義経済の網に取り込むためにはその国ごとのセキュラリズムの移植が不可欠であり、もちろん日本も例外ではなかった。
黒船でやってきた西洋人の碧い目には日本人と別居させるべき信仰が何なのか不明瞭で、当の日本人も実はよく分かっていなかったことが予想できる。日本共同体の土台となっていたものはいわゆるキリスト教のように体系付けられた信仰ではなく、自然の摂理の向こうにある不可視な世界への漠然とした畏怖心であった。誰かひとりの不心得が疫病、ひでり、嵐、不作などを以って共同体全体に跳ね返るとし、そして子孫は現世で生きる場を失い、黄泉の国の先祖は苦しむ事になる、そういった意識であった。だからこそ潔斎して生きることを心がけ、生きる場である共同体、つまり現世を穢さぬよう勤めたのである。わが国でのは神道や仏教ですら根底のこの意識の上にただ腰掛けたものだったと考えられる。この様相は西洋人には簡単には理解できなかったのであろう、彼らに言わせればこれはある種の「倫理」であり「信仰」の定義からは外れている。

それでは日本にセキュラリズムはどのように入り込んだのか結果から検証する。
あくまで「巫(かむなぎ)」の頂として神の意思を政治に反映させる存在であった天皇が、大政奉還後、お雇い外人の書いた大日本帝国憲法により「現人神」として祀られたことの意味を考えてみなければならない。具現的な信仰の対象をもたない日本人の前に「神」としての天皇が降臨した。異国人に踏み込まれ動乱する国の中でそれは救世主のごとく鮮烈であり、それまでの日本に残る精神遺産―史観や風習や道徳観―の多くを天皇と神道に結びつけ、恭順し、寺は廃され、神社は祀神を変えられ、日本には天皇中心の社会が始動した。

もしかするとだが、「国家神道」はセキュラリズムを浸透させる目的で設計された信仰だった可能性がある。ためしに上の文を少々変えると次のようになる。

「あくまで「預言者」として神に預けられた言葉を人々に伝える存在であったイエスが、その昇天の後、使徒パウロがイエスの昇天後に突然「神の御子」と宣言し、共通の信仰対象を持たない多神教徒の集まりであったローマ帝国市民に「神」としてのキリストが説かれた。ローマ人がそれまで多神教の神々に求めていたもの―救世主、大地母神、犠牲、再生―をキリスト教に結びつけ、熱狂し、ローマの神殿と神像は破壊され、地中海一帯にはキリスト教中心の社会が始動した。」

キリスト教がローマの国教に採択されたのはローマの政治支配と軍事力拡大を目指した民意の統制という背景がある。「国家神道」をキリスト教に、「天皇」をキリストに重ねればここに相似形を見出すことができる。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」との大日本帝国憲法による「法定」は四世紀のニカイア公会議にて「イエスは神の御子」であるという審理に基づいた新約聖書と同じ臭いがする。彼ら西洋人は自らの歴史をよく識る者であり、それを外に対してどう利用するかを心得ている。

明治新政府が推し進めた殖産興業と富国強兵は国民に合理主義と物質主義、つまり近代思想を刷り込むことで成立した。そこで活躍したのが欧州で近代主義の洗礼を受け日本に啓蒙した知識人たちである。近代化の障害となる非合理な、されど古き良き在来の精神世界は知識人たちの罵詈雑言にて萎縮する。居場所を失った日本人としての生き方、日本人の意識や誇りは皇室という万世一系の神の系譜に集約される。その後は近代というものの中身を吟味する余地もなく、日本人のひたむきで疑うことを知らない気質が手伝い、追いつけ追い越せとばかり自らを駆り立てて近代化が進められたといっていい。忠孝心、愛国心、畏怖心、そういった意識は天皇とともに空高く舞い上がり、そして敗戦をうけて撃沈、昇天し現世から切り離された。そして現世は戦後という時代を迎えるが、そこに残るのはかつて知識人たちに因習そのものと定義された脱ぎ捨てる対象としての過去、そして輝ける近代思想に裏付けられた未来への期待であった。日本にはこうしてセキュラリズム=現世主義が定着した。疑いなく、我々は尊いものと引き裂かれた。

戦争やクーデターがおこり、国民が自失状態に陥った後などにセキュラリズムは浸透する。その効果を長続き、いや恒久化させるため、セキュラリズムは教育に埋め込まれるのが常である。
社会の細胞は個人である。個人の確立は「教育」と「教え」に作られた下地に実社会での経験が加わることで起こる。非道を働けばどうなるか、「教育」では法で裁かれ牢に繋がれると言い「教え」では神や仏に裁かれ地獄に落ちるとされる。「教え」つまり信仰を現世と絶縁させておけば地獄は不安材料にはならない。現世での不幸を「生き地獄」と比喩することはあるがそれは自分よりもむしろ他人の非道によることが多くやはり来世への畏れにはつながらない。ならば騙されるよりも騙すほうが得をする、もちろん現世での法の範囲では。また善行を行えば来世で天国へ迎えられるという教えよりも、善行の見返りには現世で名声や信用を得るとする教育が上に立つ。現世での罪への歯止めや善悪の根拠は「教育」へと傾き、そうした社会で経験しうるのは受けてきた教育の確認でしかない。この循環の中で来世は忘れ去られ、人の意識は有限な物質界である現世でのみ生きる。限りあるゆえに人は競い合い、奪い合い、騙し、謗り、罠と禍を仕掛け、傷つき、魂を穢し合う。しかし人はなぜかこの生き地獄を「自由」と呼ばされ崇めている。


セキュラリズムが世に与える苦痛とはなにか、なぜそこから脱却しなければいけないか、出来るのだろうか、そしてその術は、セキュラリズムと「自由」の関係は、それは次号後編に続けるとする。やや余談になるが以下に世間ではよく知られていながら議論には殆ど上らないことを記して前編を閉じたい。


GHQによって焼却処分されところであった靖国神社はローマ法王の口添えによりそれを間逃れている。こうして禍根としての靖国は残り、少しでもつついて揺さぶれば国論と国際世論を刺激し常に日本の外に利益をあたえる。現世の利益のためなら霊を来世から借用してでも悪用するというセキュラリズムならではの手法を以って、「靖国」は「エルサレム」と化した。禍根は残るものではなく、残すものである。

 

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コメント
 
01. あやみ 2014年2月24日 00:22:00 : oZZpvrAh64sJM : rP6MWGu4ps
投稿者です。

誤→…イエスが、その昇天の後、使徒パウロがイエスの昇天後に突然「神の御子」と宣言し…

正→…イエスを、その昇天の後、使徒パウロが突然「神の御子」と宣言し、

すみません。


02. 2014年2月24日 00:43:52 : 0VjicbU2B6
わからないけど、私は使徒行伝の「知られない神」のくだりが好きです。
「知られない神」を自分なりに敬うようになったというだけですが。

03. 宮島鹿おやじ 2014年2月24日 03:31:43 : NqHa.4ewCUAIk : EuuBEGxsuc
あやみ様

こんばんわ。(おはようございます、でしょうか。)

お招きいただきありがとうございます。

大変刺激をいただいております。

天皇制とキリスト教の関係については、確かに、きわめて相似形をなしていると思います。(安芸ガラス様のご指摘にも同様のものがあったように記憶しています。)

私は例のスレッドの考察をまもなく終えようと思います。
こちらにも時折立ち寄らせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。


04. あやみ 2014年2月24日 05:38:59 : oZZpvrAh64sJM : QYtGOu44pE
02さま コメントありがとうございます。

「知られない神」をも崇めていたのは古代ローマの多神教徒たちで、彼らの神の捉えかたは一神教のそれとは違います。彼らの信仰の究極は「現世に転生」することで、つまり物質=肉体への執着です。多神教の神々は転生の望みをかなえてくれると信じられており、これはつまり来世の無視です。そしてイエスの教えはそれを完全に否定することに立脚しています。しかし結果として、パウロが多神教の土地から信徒を獲得する過程においてイエスの信仰は多神教化し、その後はローマ帝国の政治の道具と化してしまったのです。それが今のキリスト教です。

新約聖書のなかでイエスの信仰の原型をとどめている部分は限られています。オリーブ山の説教、そして山上の垂訓です。


05. 2014年2月24日 09:45:19 : 0VjicbU2B6
>>04

ローマ帝国のキリスト教が多神教化していたというのはおもしろいですね。しかし、本当の多神教は現在のような「セキュラリズム」をもたらさないのではありませんか。世界を創造し秩序をもたらした神は一つであるという信仰・信念が必要だったのでは。

記事の「信仰を科学に目覚めぬ暗黒時代の因習として軽視・蔑視の対象に据える」というところにもひっかかります。むしろ、現在でも神を信じていない人の方が軽視や蔑視にさらされるのではないでしょうか。日本は別として。

根拠は、昔読んだマックス・ウェーバーと村上陽一郎です。


06. 2014年2月24日 09:53:05 : wbpi3LdMME
あやみさん

安芸ガラスです。
面白い内容ですね。


07. あやみ 2014年2月24日 21:48:17 : oZZpvrAh64sJM : QYtGOu44pE
おやじさま ようこそ、コメントありがとうございます。

おやじさまのスレッドでも常に意識されてきたのが「神(不可視世界)との断絶」という現象でした。それは、自然発生したものではなく、こうしてある意図の下に計画されたものであったことを歴史上の事象を掲げて提示しようといろいろ模索していました。そこでようやく出会ったのがこのセキュラリズムという言葉です。
セキュラリズムという単語自体がまず一般に知られていません。知られているのはごく表層部分の「政教分離」の意味のみで、それも「聖なる」民主主義のお題目のひとつとしてです。不可視世界との繋本当の意味でのつながりこそが資本主義にとっての「アキレスの足首」であろうと、私は理解しています。

ご考察を閉じてしまわれるとは残念です。こちらにはいつでもお越しくださいますようお願いいたします。


08. あやみ 2014年2月24日 22:34:21 : oZZpvrAh64sJM : QYtGOu44pE
02さま、ありがとうございます。

まず、マックス・ウェーバーは著名なセキュラリストです。

>記事の「信仰を科学に目覚めぬ暗黒時代の因習として軽視・蔑視の対象に据える」というところにもひっかかります。むしろ、現在でも神を信じていない人の方が軽視や蔑視にさらされるのではないでしょうか。

はい、このご指摘は重要です。
まず記事でも書きましたが、無神論とセキュラリズムの違いはここです。おっしゃるとおり、キリスト教社会ではカトリコでもプロテスタントでも、神を信じない者は軽蔑の対象になります。ですから、神の領域を現世とわざと切りはなして形骸化した信仰を続けているのです。信仰とは現世の生活と倫理の規範です。現世で欲に導かれて生きながら時折聖書を読んでみたり巡礼にいってみたりすることは信仰とは無関係といわざるを得ません。しかしこれに正当性を与えるのがセキュラリズムです。キリスト教に限らず世界のどの進行も同じ道を歩んでいます。

信仰心のあるものが侮蔑の対象となっているのはイスラム社会、いまのエジプトを見ていただければわかると思います。セキュラリストの軍部と、そしてその銃弾に倒れる敬虔な教徒たち、その両方の口から「アッラーフアクバル」の声が聞こえます。これがセキュラリズムのもたらす状況です。 

キリスト教が「本当の」多神教かどうか、そこが焦点です。
キリスト教は一応は一神教の体裁を保つ必要があります。しかし実際は創造主をゼウスに、キリストをアッティスに、マリアをキュレベー(アルテミス)になぞらえておりその混乱は新約聖書に現れています。公会議で異端が乱発したのもそのせいです。セキュラリズムは信仰の深い部分には一切触れず、表層の偽善や虚構の部分により関係がある思想であるため、キリスト教の一神教としての大義名分が議論の対象となるのです。そこから「神のものは神に還す」に至ったのです。

世界に秩序をもたらす唯一神は「在りて在るもの」で、人の要求であらたに発見・発明してはならないのです。しかしキリスト教会(今のヴァチカン)のしでかしたことは明らかな発明です。そこから離れて神と対峙することが救いにつながるのだと思います。

                                                   


09. 2014年2月25日 00:01:43 : 0VjicbU2B6
私には、たとえばプロテスタンティズムの「禁欲」も「神の見えざる手」も「ミネルバのふくろう」も、立派な(必ずしも誉められるという意味ではなく)信仰の発露であるように思われます。
合理主義や物質主義には特殊な「信仰」とでもいわざるをえないような面がある。
しかし、あやみさんはそういうのを「信仰」とは認めない立場なんでしょう。
私も「セキュラリスト」ということなんだろうな。

10. あやみ 2014年2月25日 16:45:42 : oZZpvrAh64sJM : MuW8S1t0bQ
安芸ガラスさま コメントありがとうございます。

こちらは春の香りがただよう候となりました。


11. あやみ 2014年2月25日 18:23:33 : oZZpvrAh64sJM : MuW8S1t0bQ
02さま ありがとうございます。

>合理主義や物質主義には特殊な「信仰」とでもいわざるをえないような面がある。

合理主義や物質主義は「聖民主主義教」の信条みたいなものだといえます。これに関しては後編で書かせていただきます。

>「禁欲」も…信仰の発露であるように思われます。

そのとおりだと思います。根底に信仰がなければ現れない意識でしょう。さらにいえばセキュラリズムも信仰がなければ発生しません。無神論とて同様です。

日本で教育をうけた我々は多かれ少なかれセキュラリズムを刷り込まれています。そして、読書の量が世界一でもあるわが国で読まれている書物はその多くがセキュラリズムの見地からしたためられたものです。

しかし、それに染まりきれないのも日本人だと思うのです。

セキュラリズムは目に見える症状のない病気にたとえることができます。不定愁訴に取り付かれ、医者にかかっても病名が知れないために心身症やストレス症として片付けられてしまうような。しかしここではっきりと病名を掲げれば治療の手立てを生み出すことが出来る、そういう思いからこの記事を書いています。



12. 2014年2月26日 04:35:18 : CAKB2YrqbA
あやみ さん

安芸ガラスです。

私はマルクス(・レーニン)主義者です。
この主義者の特長は自然からの贈与を感じます。
社会の豊かさの根源はこの贈与があるからです。
豊かさはけっして「経済」での生産の量(数)の拡大ではありません。
肉体も労働も自然からの贈与の発現です。
主義者は人間は社会として自然との関係をとりむすぶことが大切だと認めています。
ですから、人間が生きていくことを、すでに先行する社会と個体を、どのような条件で、使っていくのかを見ております。

使っていくとは、自分の要求がわかること、これを実現するための行動を起こすこと、そのさいに自己規制をしないこと、などです。
自分に対しての行動は命令、強制、説得ではありません。
動きますと、他者との連振と共振関係が生じてきます。
他者に対しても、これをやってはいけない、このようにしなさいと指しずしますと、連振と共振が止まってしまいます。

いろいろありますが、基本的人権や権利の拡大、さらに賃上げなどはブルジョア的権利として押さえているのです。
いのちは自然からの贈与ですから、このいのちを通して、社会と自然との交流ができます。
このことが行動で体得できるまではあいだはブルジャア的権利なのです。

ブルジャア的権利とセキュラリズムは同じ現象を指しているように思われます。


13. 2014年2月26日 04:55:58 : CAKB2YrqbA
安芸ガラスです。

12の補足をします。

日本のセキュラリズムについてです。
福島の現状ですね。

86年のチェルノブィリでの旧ソ連邦と13年の福島での日本政府の対応を比べて見ますと日本のセキュラリズムが捉えられると思います。

旧ソ連邦は17年のロシア革命を経て結成されます。
自然からの贈与に気が付いたレーニンは『量より質』と云う政治論文を書きます。
そしてロシアの大地とむすびついた「偉大な土曜労働」となるわけです。
この2〜3世代の「偉大な土曜労働」で形成された人達が事故の収束に志願をしました。

事故から3年を経過をしますが、日本は、どうでしょうか。
蓋も、水脈の切断もできないのです。


14. あやみ 2014年2月26日 16:53:01 : oZZpvrAh64sJM : MuW8S1t0bQ
安芸ガラスさま ありがとうございます。

現世と来世を含めた「世の全体」を人の次元に微分すると「自己」になると思うのですが、ひとりの人間の「自」が現世部分で「己」が来世部分になるのでしょう。「自-みず」から支配する世界と「己-おのず」と支配される世界からなります。しかし「自」は「己」とともにあることに、また分断も別居もあり得ないことに気づかなければなりません。それをあたかもあり得るように説くのがセキュラリズムです。

マルクス、レーニンの説くものが、この「自」と「己」の共鳴を語るものであるならば、セキュラリズムとは水と油であるといえるでしょう。

マルクスの言は世界で正しく理解されていないのでしょうか、それとも悪用されているのでしょうか?私にはそう思えてなりません。おおくの共産主義を掲げる国でもセキュラリズムが台頭しているのです。

福島、学校崩壊、グローバル、少子化、孤独死、家庭崩壊、それぞれにセキュラリズムの手跡がついています。


15. 2014年2月27日 10:13:18 : LV3TyRpRmU
あやみ さん

安芸ガラスです。

>おおくの共産主義を掲げる国でもセキュラリズムが台頭しているのです。

この通りですね。

89年に社会主義世界体制が、91年にソ連邦が自壊しました。
共産主義は忌むべき現実を破棄する運動です。
制度としては社会主義国になります。
この社会主義を掲げているのは、ヴェトナム、朝鮮、中国、キューバです。
中国と朝鮮の文脈は自由貿易体制への参入と中華的世界の形成でしょうか。
ヴェトナムの文脈は自由貿易体制と中華的世界からの独立でしょうか。
キューバの文脈は独立と自由でしょうか。


16. あやみ 2014年2月27日 22:26:49 : oZZpvrAh64sJM : mYTM9xJzeQ
安芸ガラスさま

>89年に社会主義世界体制が、91年にソ連邦が自壊しました。

このときに近い現象がいま起きています。昨日ウクライナ騒乱がクリミアに飛び火しました。この国々はかつてソ連領でいた。ソ連は自壊したのではなく自壊を誘発させられたのです。その結果、国家として立ち行かない国家が15カ国も誕生しました。いまその各国で流血惨事が起こり始めました。争点はEUとロシアのどっちに面倒を見てもらうかという戦いです。残念ながらこうしたイデオロギーの犠牲はこの先も尽きることがなさそうです。

主義=イズムというものは人間社会の約束事であり、時とともに変化します。そうでなければ壊れて時代に埋もれます。社会主義のように形骸化することも、民主主義のように意味不明の宗教となることも当然だと思います。やはり信仰を追い出してそこにイデオロギーを座らせたとしても、中世となんら変わりはないのです。


17. 2014年2月28日 10:52:13 : ke7Ds9d5cM
あやみ さん

安芸ガラスです。

>主義=イズムというものは人間社会の約束事であり、時とともに変化します。

そうですね。

主義にはもうひとつあるのです。

人間が生きていくための主義です。

自分の要求を追いかけること、そしてお互い性です。


18. あやみ 2014年2月28日 19:34:18 : oZZpvrAh64sJM : mYTM9xJzeQ
安芸ガラスさま

>自分の要求を追いかけること、そしてお互い性です。

それは何によって律せられるのか、だと思います。
この世に生を受けたもの全ての命運、それは一人では、一匹では、生きていけないということです。ごく原初的にはすべて自然の摂理の向こう側にある存在に律せられていました。生命の共同体の全体の均衡は保たれていました。この条件化にあれば自分の要求とお互い性は毒性を発揮しないでしょう。しかしアダムとイヴが禁断の実を口にした以上はそうもいかなくなりました。

いま何によって律せられているかといえば、法や倫理というものですが、この立脚地こそがイデオロギーです。セキュラリズムによって「自然の摂理の向こう側にある存在」から隔離された「理論」に支配される世界の理屈です。

同じようなことを繰り返し書いてますね。申し訳ありません。


19. 2014年3月01日 13:20:22 : HRpHGyE3oo
あやみ さん

安芸ガラスです。

>いま何によって律せられているかといえば、法や倫理というものですが、この立脚地こそがイデオロギーです。

はい、そうですね。
私たちが暗示にかかっているのですね。

マルクスは現在の国家を人間が類としての「生命の共同体」へ経る過程の中間項として捉まえています。

私も同じです。


20. あやみ 2014年3月01日 17:29:50 : oZZpvrAh64sJM : mYTM9xJzeQ
安芸ガラスさま たびたびありがとうございます。

>マルクスは現在の国家を人間が類としての「生命の共同体」へ経る過程の中間項として捉まえています。

このことは、かつてからの安芸ガラスさまとのやり取りの間でなんとなくわかってきました。ならば、西欧は「マルクスの思想」をも現世から切り離す必要を感じ、セキュラリズムの文脈の中で「他界」させたと考えられます。つまり西欧はマルクス主義を信仰と同じように扱ったのではないでしょうか。
事実上、共産主義と宗教は、資本主義社会からは同等の扱い(冷遇、迷信、半ば軽蔑)を受けています。


21. 2014年3月02日 09:45:10 : mFUUPE91eE
あやみ さん

安芸ガラスです。

>西欧は「マルクスの思想」をも現世から切り離す必要を感じ、セキュラリズムの文脈の中で「他界」させたと考えられます。つまり西欧はマルクス主義を信仰と同じように扱ったのではないでしょうか。
事実上、共産主義と宗教は、資本主義社会からは同等の扱い(冷遇、迷信、半ば軽蔑)を受けています。

同意します。
マルクスの国家への捉えかたです。
国家と宗教は同質です。
マルクスは国家を地上における天国の役割として暴露しています。


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