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あの世はないという論理の破たん
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/743.html
投稿者 朝田宅朗 日時 2014 年 3 月 20 日 05:14:15: ckTOBbf.S37Sw
 

 死んだら何もなくなる。あの世はないとした時、認識主体である自分もいないのなら、やっぱり、あの世はなかった、と思う自分もいない。後悔する自分もいないし、今、生きている自分を覚えている自分もいない。自分がいなければ、全ては無意味である。
 すなわち、今、あるかないか議論していること自体無意味で、死んだらわかる、とする自分がいないから、まさに、死んだらおしまいである。

 次に、自分がある場合。
その時、自分だけしかなく、他は何もない場合は、暗闇の中に自分だけしかいない状態で、そのような自分が認識できる一つの状態があることになる。
普通一般に言われている、あの世はないと思うというのは、この状態を指して言っているのだろう。無いという認識を自分がするつもりなのであろう。もし、自分もないというのなら、今、自分がありながら想定している無は、あくまで自分がありながら想定しているので、自分がない中での想定は不可能であろう。

 そして、そこに、かすかな光があったり、何かに触ったりすれば、まさに何らかの在り方をしているあの世の姿に連なってゆく。
 この場合、あの世がどんな仕組みになっているのかが問題である。
 天国と地獄や、自分の意識がどの程度クリアーなのかとか、この世とどう関連しているのか、生き方とも関連しているのか、大問題である。
 あの世があると思って、有った場合は、その通りで問題なく、無かったとしても、後悔する自分もないのでこれまた問題ない。

 そして、あの世はないと思っていて、無ければこれも問題ない。あった場合のみが悲劇である。後悔することになる。

 すなわち、あの世は認識主体があるかどうか、認識客体があるかどうかの組み合わせとなる。
そこで、認識主体がなければ、客体がどうあろうとも、無でしかない。

認識主体があれば、客体の無も、単に一つの状態でしかないので、あの世がどんなあり方をしているのかの問題でしかない。
結局、あの世はあるとして考えるしかなくなる。

 

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コメント
 
01. 2014年3月20日 11:43:02 : BbxGhFcMPI
>後悔することになる。


悔い改めよ という言葉は、上記ことばによく相応していると思う。我々は、どうしても後悔の言葉に弱い。でも、信念があれば後悔もまた覚悟の道である。我々は主体的に生きるのであり、それを他から言われるのは社会からの要請や義務にすぎない。論理は様々な前提をもとにしている。それらの前提を理解してもらえて、もらえるようなコミュニケーションの中で始めて、議論が成立するであろう。


02. 2014年3月21日 07:39:45 : wdGtaZXnq2
あの世は、この世と違い物質世界ではないみたいです。

チベットの死者の書によれば、死んだ後、霊が肉体からでて、あの世に行くそうで

す、そして、霊は次の再生(転生)のチャンスを待つのです。

受胎のとき再生を待っていた霊が入りこみ、赤ん坊としてうまれてくるそうです。

で、今うまれて生きている人生は、自分自身(霊)が受胎(父母による)のチャ

ンスを選択したためで、すべては自己の判断によるそうです。

人間は霊+肉体、で出来ていて、肉体がこわれても、霊はこわれないで、残る、生き

続けるみたいです。


03. 2014年3月21日 12:53:14 : WzX8nPCmYM

  >>あの世   ですか。

いいテーマですね。生きてる人間が考えるテーマでしょ。考えることは現世に生きてる証拠でもある。

あの世に生きることでこの世に常住する方法を全ての人間に教えようとしたのが世界で唯一の人間、インドに生誕した釈尊である。

どこでどう間違って人類はその方法をゴチャゴチャニして誰も分からなくなるほどヤブ医者療法のようにこの世に蔓延らせてしまったんだろうか。

人間に生まれた限りどの人種であっても寿命というものがある。個人差があって


04. 2014年3月21日 12:55:07 : WzX8nPCmYM

削除
  >>人間に生まれた限りどの人種であっても寿命というものがある。
  >>個人差があって



05. 2014年3月22日 11:22:04 : TqNac9O3s6
そもそも、この世で生きることに取り立てて意味を見出せない者にとって、あの世があろうかなかろうか、期待もなければ諦めもない。
後悔はないのでどんな結末でも問題はない。

(ピ)


06. 2014年3月22日 13:08:23 : wdGtaZXnq2
この世に生まれてきた理由、何かあるんじゃない?

07. 2014年3月22日 17:57:49 : TqNac9O3s6
仮にあったとして、死がそれを意味のないものにしてしまわないか?
人生に何か意味を見出して、有意義な一生を終えた人間と、全く人生を浪費してしまった人間、その結末がどちらも永遠の無存在であるなら、どちらが勝ってるとも言えないと思う。

だから死後の命を信じるというのは、気持ちは分かるがそれは願望による創作だよね。

(ピ)


08. 2014年3月22日 20:11:54 : wdGtaZXnq2
(yahoo知恵袋より、仏教の輪廻転生 ベストアンサ−)

原始仏教における、「輪廻転生」についての質問です。

ブッダは「輪廻転生」を信じていなかった、という説があるように聞きましたが、そうなのでしょうか?。ベストアンサーに選ばれた回答

dedepoppo2009さん

輪廻転生の前に、ブッダは「確かめられないこと」と関わらないように指導していた形跡が多々あります。

有名なのは「無記」ですね。宇宙は永遠なのか、死後霊魂は存在するのか、といったいわゆる哲学でいう「形而上」に関することに、ブッダは言及しませんでした。

輪廻転生ですが、無いという人もいれば有るという人もいますが、「マッジマーニカーヤ(中部経典)」には、「人は死後、業によって○○へ生まれ変わる」といった記述があります。

また、ブッダの友人もであったビンビサーラ王が死後、ジャナヴァサバという神に生まれ変わったこともあります。

相応部という経典には、ひとつまみの土が「現世」、大地が「今まで転生してきた
生涯」として比較し、輪廻転生が膨大な数であることを述べています。

さらに悟りの初門に到達した「預流果」は、七度、天と人間を行き来して修行を続けることが述べられています。他にも輪廻を示唆する記述があります。

このように原始仏典を見ていくと、輪廻転生はあるとえいます。教理的にも、輪廻が無ければ「断見」にもなります。断見とは「人生は現世で終わり」とする考え方です。仏教では断見は誤りとしています(ただし完全に悟った阿羅漢は別)。

しかし輪廻転生に関しては、ブッダは「輪廻しているかどうか分からなくても、分からないままでいいので修行をしないさい」と言っています。輪廻しているかどうかは普通わかりません。確かめようがありません。ですので、「分からないこと(確かめられないこと)は、放っておきなさい」となるのだと思います。


09. 2014年3月22日 20:22:44 : vmDIaOAYsA
>結局、あの世はあるとして考えるしかなくなる。

あほ丸出しとはきみのような人間のことをいうのだ。


10. 2014年3月22日 22:21:02 : TqNac9O3s6
自由な意見交換のために
人格的な攻撃は抜きでいこう。

(ピ)


11. 2014年3月22日 23:46:46 : wdGtaZXnq2
10>>さん、ありがとう、バカといって、議論させないのでは、面白みがなくなり

ます。あの世とか、神の存在とかは 形而上、人間の目には見えない存在なので、

それを否定する人がいて当然です。

他方、イスラム教徒やキリスト教徒等のなかに本当に神の存在を信じている人もい

うでしょう、人間の眼に見えないものを信じている、その意味ではどなたかが(09

)ヌカシテ、おっしゃるバカは多数存在しれません。

皮肉ですけれど。


12. 2014年3月23日 11:23:28 : WzX8nPCmYM

我々が生きているこの世は既に他界した人間のあの世だよね。

亡くなった人のあの世を今の我々は生きているということでは異論はないだろ。


生きている人間が自分の先祖でも歴史上の人物であっても、その人のあの世がこの世だ。


互いに生きている間に、親子でも子弟でも大先輩後輩の関係であっても、死に別れた瞬間からその人のあの世を生きている、この世はそれの繰り返し連続だろ。

死んでも生き残した全ての人間に教えを残すというのが仏教だ。だから教えは一つしかないということを悟るべきなのである。現実が惑乱した仏教が充満しているからだ。

一字一句たりとも違えず仏典の文字列を解読するだけで真実が明らかになるのである。

ほとんどの人々が目にし口にし分かったと思っていることが実は仏教の枝葉の部分なのである。


13. 2014年3月23日 21:35:02 : TjZBybKwYg
>結局、あの世はあるとして考えるしかなくなる。

こんにちは。
つまり思考停止と判断停止はどう違うか、という段階を踏まえて、判断不可能な場合にする、その選択は正しいと思います。過去の投稿で恐縮ですが、

思考停止と判断停止の大きな違い
http://www.asyura2.com/09/jisin16/msg/141.html

人は誰でも間違った思考に基づいて行動するミスを犯し易い存在である。
しかし間違って行動していても、それがリアルタイムで自分を苦しめる結果とならねば間違いとは認識し得ない。
むしろ正しかったとすら認識し、そして結論した時、思考停止するのだ。
あとはもう何を云っても聞く耳を持たない。
破滅の時まで。

ここ阿修羅でもそんな思考が花盛りだ。
政局、世界情勢、経済、スキャンダル、冤罪、暗殺、...それらすべての現場に居合わせる事は不可能だし、直接には知り得ない他人事ともいえる。
確かにそれはそれで自らの問題と云えなくも無い。悪い奴や陰謀や抹殺を野放しにしろとも云わない。
しかしなんともそれらが呑気な話に聞こえるのは何故だろう?

それらが大変重要な活動としても、己の足元は砂上の楼閣の上にあって、今まさに波に攫われようとしているのではないのか?

精神が狂うとか、アルツハイマーなどで、自己の世界に埋没している人を見る時、有りもしない幻想で現実の事象とは無関係な行動をするのと変わりはない。
水害で家がまさに濁流に飲み込まれようとしている中で食事を取っている様にしか見えない。

これを思考停止と云う。

判断停止とは真実の現場を知り得ない存在に残された最後の正気である。
知りえない事は想定するに留め、結論は保留するしかない。

白黒ハッキリしない事が山ほどある中で、では何を結論し、何に焦点、更には照準を合わせ行動するか。
簡単な事である。
万人に共通する現場があるだろう。
これを蔑ろにして高邁な思想など存在するわけがなく、言論活動だけという活動は活動とは呼ばない。
あなたは今息をしている。そして腹が減り、飯が食いたくなり、糞がしたくなり、眠りたくなり、水を求める存在である事が、あなたの現場を知らない者にもわかる。
己の現象であり、あなたの現象だ。
この現象に基づき、常に密接に結び付きながら活動する事だけが活動になる。
つまり、マンションや都市生活をエンジョイしながら、政局、世界情勢、経済、スキャンダル、冤罪、暗殺を語り、知識を切り売りしているだけのインテリなどに耳を傾ける必要は無いということ。

いずれは全てがご破算になる時事問題などをいくら論じても無駄だ。
本当に必要な事はそんな事ではない。
そしてそこからしか何ものにも揺るがぬ不滅の理想社会に至る道は通じてない。
他の道は全て行き止まり、行っても無駄だ。
一人権力に立ち向かう様は立派に見えても、ポーズでしかない。
そこに虚構を見る。

その道を行くという、判断を停止して、立ち止まれ!
そして己の立脚基盤に立ち戻れば、見破れるものもある。
今余裕のある内に少しでも想定し、訓練し、覚悟を決めておかねばならない事こそ、活動の焦点となる。
その照準は既に書いた。

で、結論です。
あの世もこの世に現出しております。
参考

第八話 パラレルワールド
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/630.html


14. 2014年3月24日 06:43:01 : VeUiJRcgHg
YHWHヤハウエイ(わたしは在って在るもの) ユダヤキリスト教ではこの神が全てなのですよね。http://homepage3.nifty.com/kiraboshi2/Abraxas/YHWH.html

我々異邦人である日本人からすると奇異な世界です。聖書の中の様々な奥義を解くのに一生掛かってしまう。それでも無理だ。


15. 2014年3月24日 18:37:16 : WzX8nPCmYM

チミたちは何だなぁー、そんな調子で一生のうちに何か分かると思えるのか?

仏教は既に確立されて断絶することはないが、惑乱して謬説が蔓延っている現実をどう思う?

考えただけでも釈尊の十人の弟子のうち、弥勒菩薩(みろくぼさつ)のように頭が星でチカチカしてきませんか?


そんなにね、現代人が面白おかしく、興味本位でフザケ半分に談義して明らかになることなど何もありませんよ。

NHKの心の時代という番組で馬鹿が代わる代わる仏教の邪説を気分よさげに話していても実際には世界中の人間が邪宗の邪義で迷惑しているんだ。

今の時代は仏教を学する人間の為に修行方法が確立されている。日本語でだ。

法華経誹謗の日本の仏教史を改めれば良いだけのことだ。

これを信じない愚かな人間が世の中を乱して十世紀。


16. 2014年3月24日 23:50:19 : 2f4eqyymkM

 お釈迦様の言葉は 「色即是空」です 小乗仏教

 ===

 日本に届いた仏教は 中国の景教(キリスト教)ですよね〜〜〜

 浄土(ジュー土)は エデンの園の事で メソポタミアの意味で

 ユダヤ人は 元々 メソポタミアに住んでいた人々で 

 失われた ユダヤの10士族の一つが日本に入ってきています

 それが 伊勢神宮です
 

[32削除理由]:アラシ

17. 2014年3月24日 23:55:33 : 2f4eqyymkM

 安倍は 山口の非民部落の出身で 元は百済(馬韓)の末裔ですね

 

[32削除理由]:アラシ

18. 2014年3月25日 04:09:57 : 5SRnRvW4NA
面白そうだと頑張って何回も読んでいたのですが、難解で私にはなかなか・・・
噛みくだいて説明してくださる方がいればありがたいのですが・・・


>その時、自分だけしかなく、他は何もない場合は、暗闇の中に自分だけしかいない状態で、そのような自分が認識できる一つの状態があることになる。

まず「自分意外に何も無い」という状態自体が、ありえない想定ではないでしょうか?
自分以外に何も無かったら、その自分を生んだのは誰だ?という疑問が生まれます。
そのありえない状態を土台から次々想定しても、あの世の証明には繋がらない気がしてます。

さらに自分を生んだものも無い、自分以外に草木も無いのであれば、
それ自体で輪廻の否定になってる気もします。
つまり「自分意外に何も無い」という想定自体に輪廻の否定が内包されてる→「あの世」の想定には繋がらないかと。
それとも、輪廻は関係なく、「あの世はある」という話なのでしょうか?


19. 2014年3月25日 06:35:48 : WzX8nPCmYM

六道輪廻とは生きている人間の気持ちが六道をぐるぐる回って繰り返しているという真実をお釈迦様が説いたものだ。いろんな邪説が多いが、よく人の生まれ変わることの意味で使うのは間違いだ。

しかし、お釈迦様が如来になることができた法華経の中身では現世に生まれて死ぬだけの一生だけではなく、過去の世にも人間やあらゆるものとして生きていたことが説かれている。法華経の義を信じるか誹謗するかの如何では六道輪廻の理解が人によって異なってくるのは当然だ。依法不依人ということ。

その六道とは、人間の境涯を十世間に分かつうち、最も低い境涯から地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の六世間を示し、輪廻とはそれらの境涯が人間の心の中にそれぞれ繰り返し回るように心に湧現する状態をいいます。

責め苦にあって逃れられない状態は地獄界の境涯を湧現しているだろうし、天界は有頂天でハイな気分の状態といった具合ですね。


20. 2014年3月25日 11:48:13 : wdGtaZXnq2
「ブッダは「確かめられないこと」と関わらないように指導していた形跡が多々あります。」

神の存在だとか、死後の世界について、お釈迦様は普通の人に言っても、理解はえ

られないと考えられ、積極的に説明しなかっのではないでしょうか。

しかし、仏教の経典や、特にチベット仏教の教えの中には輪廻転生はあるものとし

ています、チベットのダライラマは、前のダライラマが転生してきたとチベット人

は信じているそうです、眼に見えるものしか信じられない人に、それをいくら

信じろといってみてもしょうがないでしょう。阿修羅の投稿者をみてよくわかりま

した、別に無理に信じる必要はないので、興味ある人が色々自分で調べてどのよう

に思うかでしょう、現世で終わりならそれもよし。


21. 2014年3月25日 12:58:41 : FBs1blEbls

  >>神の存在だとか、死後の世界について、
  >>お釈迦様は普通の人に言っても、理解はえられないと考えられ、
  >>積極的に説明しなかっのではないでしょうか。

まったくの間違いですね。そもそも思い込みがある。自由研究中ならそれでもよい。

しかし仏教を語るという意思があるなら我見であり、謬見です。

そんなことが許されるなら教義を無数に作れるでしょ、思惑で通説や定説を。根本が間違っていますね。新興宗教の教祖でも信者でもないんですから。

惑乱しきって邪宗各宗派が真実お構いなしに飯を食うという浅ましい姿と現実が見えないなら、何を自由に言っても虚言しか言うことはできないだろう。

簡単なことだが、惑乱した仏教の現実を宝の宝庫のように思う間違いが多くの人間を迷わせているだけ。

お釈迦様の教えの中にも正直捨方便(しょうじきしゃ)といって、方便の権教(ごんきょう)を捨て、お釈迦様が随時意に説いた法華経を真実の教えであると説いている。まさに法華経は仏教の闇を照らして迷いの中にある衆生を正しく導かんとする如来の本懐の教えということでしょう。


よくよく考えると、仏教は人間の理解を最も大切にしていると思われます。歴史を振り返るなら仏教は武力に一旦は征服された。しかし人間の心がその史実を許すことはないだろう。これは如来が全ての人間に分け隔てなく光を当てようとする証拠とも言える。だからこそ、時代が進むにつれて仏を渇仰するようになっていくんだろう。

今の世に生きている人間であるならば、素直に正直に如来の言葉を真に受けるべきであろう。間違っても逆心を起こすべきではない。

いかにも説得力がない老婆心を語ってるようなものだな。


22. 2014年3月25日 14:57:26 : wdGtaZXnq2
仏教の歴史から見て、釈迦の教えの伝承の過程で「結集」といわれる聖典編纂会議があったそうです。多少ながながとウイキペヂアより引用しますが・・。

「結集」とは、比丘たちが集まって釈迦の教えを誦出(じゅしゅつ)し、互いの記 憶を確認しながら、合議のうえで仏典を編集した事業を結集と呼んでいる。

 釈迦の死後、その教えはもっぱら記憶や暗唱を頼りとして受け継がれたため、そ の散逸を防ぎ、異説の生じることを防いで教団の統一をはかる目的で、弟子たち が各自の伝聞にもとづく資料をもちよって聖典の編纂がなされた。


 仏典結集は史上4度行われた。
 第1回 伝承によると、ブッダ入滅後、王舎城(ラージャグリハ)郊外に500人の 比丘(阿羅漢)達(すなわち、五百羅漢)が集まり、最初の結集が開かれたとい う、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ経(経典)と律(戒 律)の編集責任者となった。
 
 第2回 仏滅後100年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、毘舎離(ヴァイシャーリー)で700人の比丘を集めて開かれたとされる。
 第3回 南伝によれば、ブッダ入滅後200年にあたるマウリヤ朝第3代アショーカ王(阿育王)の治下、華氏城(けしじよう、パータリプトラ)で1000人の比丘を集め て行われた(千人結集)。
 第4回 紀元後2世紀頃クシャーナ朝のカニシカ王のもとで、カシミールの比丘500 人を集めて開かれたという伝承がある。

 で、歴史的事実から見て、釈迦滅後1000年もあとに成立した、「法華経」は
 非佛説(いわゆる大乗非佛説)、仏陀の直説でないという考え、事実があります 。
 法華経自身はすばらしい教えと言われる学者が多数おられるのですが、法華経の み、唯一絶対の仏教経典といわれるのは、歴史的事実から見ていかがなものかと
 おもいます、優れた仏典のひとつと考えるべきかと思います。


23. 2014年3月25日 15:24:07 : wdGtaZXnq2
補足、大乗仏教を否定するのではなく、この仏教経典(法華経)のみが一番正しいとする、支那天台大師の五時八教の教判は歴史的事実からは、正しくないと思うからです。
法華経は釈迦滅後1000年もあとに成立しておりますので。
小乗と呼ばれる南伝仏教のほうが釈迦滅後200年のあとの成立であり、見方によれば
お釈迦様の考えに近いという人もいますので。

しかし、法華経が優れた大乗経典であることは、仏教界のお墨付きがあることからも明らかなのでしょう。

小乗、大乗というあとからとって付けた、呼称にとらわれる必要はないと考えます
それぞれ、よい面があり、小乗と呼ばれる南伝仏教;セイロン、ミャンマ−)にも優れた修行方法が伝わっているようですので・・・・。


24. 2014年3月25日 19:14:27 : WzX8nPCmYM
>>22. さん
>>23. さんもですね

決定的な誤解があるようです。

  >>この仏教経典(法華経)のみが一番正しいとする

このような考えはあるから言ってるのでしょうが、間違っています。

お釈迦様は仏語実不虚(ぶつごじっぷこ)と説いています。仏語(ぶつご)は実にして虚(むな)しからずの意で、お釈迦様がといたすべての御経、即ち一切経はお釈迦様自身の実語であると説いている訳です。

すべての人間が仏教を考えるとき、アプローチで失敗する訳にはいかないと思います。三千年もの時代を超える点と線を間違って引いてしまったら間違いの数だけ、勝手に自由なら人の数だけ点と線が出来上がってしまうでしょ。

そのようなメカニズムで現代の仏教が色々複数も複数、あまりにもありすぎて分からなくなってるでしょ。それが仏教が惑乱しているという現実であり、仏教の教主である釈尊の言葉、仏教の教えを蔑ろにしている証拠であるという訳なんです。

皆もっともらしく言ってるが全然違うことを言ってる場合をどう思うのでしょうか。その違いに疑問を抱く普通の人間に対して愚弄して雑多な答えでもって宗教活動をしているのが邪宗各宗派やら多くの新興宗教です。お金集めが目的です。世界の人間を益する目的で一切使っていないでしょ。

法華経は十九歳で出家したお釈迦様が七十二歳のときに八年間かけて説いた教えです。

法華経のみが正しいという考えは間違っています。一切経はみな真実の教えである。

考えるべきことは、法華経を誹謗したが故に、邪宗の邪師らが面目を失って逆心を起こしたが故に、法華経を無視したが故に、お釈迦様と衆生との間に正しい点と線を描けなくなり、如来の本意を違える宗教活動が日本に充満したことを考えなければ釈迦一代の教えを大局的に考えることができないという真実を見誤ってはならないということなんでしょう。


25. 2014年5月13日 13:09:56 : egbTKCzIXo
あの世がない=消滅
あの世がある=認識主体がある
であっているが、表題の論理の破綻はしていない。
宗教の話は関係ない。

26. あの世はありません[1] gqCCzJCigs2CoILogtyCuYLx 2018年10月29日 03:11:13 : e9bDw9HYJw : 5sF0aI1W@pQ[1] 報告
いやいや。現実的にあの世があるという理論の方が大いに破綻してるでしょうw
物理的に雲の上にも地下のそこにもあの世はないことが証明されています。
よってあの世は人間の脳内イメージ意外に存在しないことが証明されていますよ。

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