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1982年9月18日の光景−−シャロン死去の報に接して    西岡昌紀
http://www.asyura2.com/12/kokusai7/msg/857.html
投稿者 西岡昌紀 日時 2014 年 1 月 12 日 12:28:33: of0poCGGoydL.
 

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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7041733.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=6445842&id=1919700621

イスラエルのシャロン元首相が死去しました。

ひと口では言へない複雑な人物でした。もちろん、パレスチナ人にとっては憎むべき軍人であり、政治家でしたが、2000年代には、驚くべき事に、占領地からのユダヤ人撤収を行なおうとしました。


彼の死の知らせに接して、もし、彼が病気で倒れなかったら、今、パレスチナはどう成って居ただろう?等と思ひました。

(彼が首相在任中、その様な外交方針の大転換をした背景(理由)については、ジャーナリストの田中宇氏が、当時、非常に興味深い分析をして居ます)
       ↓
http://tanakanews.com/f1228mideast.htm

そのシャロン元首相の死去にあたって、少し長く成りますが、或る本の一節をここに紹介します。


1982年、9月18日、イスラエル占領下のベイルートに居会はせた日本のジャーナリストが見た光景です。


少し長い引用に成りますが、お読みください。


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 イスラエルがベイルートを完全に制圧したと発表したのは、82年9月16日午後だったと思う。翌17日、私はイスラエル赤三日月社で働いていたドイツ人医師の脱出を手伝った。その人を私の助手ということにして、一緒にベイルートを出たのである。包囲網はイスラエル軍とレバノンの右派キリスト教民兵によって、十重二十重(とえはたえ)になっており、何十という検問所が設けられていた。最後の検問所で追い返されようとしたとき、私は長い間使っていなかったヘブライ語で交渉し、通過に成功した。医師をベカー高原の病院に降ろしたあと、すぐベイルートに戻った。その日がイスラエルの新年で、そのためイスラエル軍のすべての検問所が閉鎖されることになっていたからである。
 その翌日、私はパレスチナ・キャンプに入った。早朝から気持ちが重かった。ベッドに体がくっついたようになっていた。イスラエル軍がベイルートに侵攻してから、すぐにパレスチナ・キャンプは封鎖されたことを私は知っていた。ジャーナリストも中には入れなかった。何がキャンプで起こっているのか、知る方法はなかった。いやな予感がした。パレスチナ人狩りによって、市街地から連れ去られたパレスチナ人の消息もわからなかった。
 北のサブラ・キャンプの入り口は、イスラエル軍の戦車によって封鎖されていた。入れろと叫んで、プレス・カードを見せたが、戦車の上のイスラエル兵は銃を構えて、手で私に立ち去れという仕草をした。そのとき銃声が連続して聞こえていたが、交戦の時の音ではなく、一方からの音だけだったことが、不安を増した。
 真っ黒に焼けただれた松の林の横を通って、シャティーラ・キャンプの南に出た。人影はほとんどなく、砲撃の直後らしく黒い煙が上がっていた。
 キャンプに足を踏み入れた。しんとしていた。余りに不気味で、出ようとすると入り口のところで一人の男が近づいてきて、首を切断するまねをして、中で殺戮が起こっていると言った。彼は足早に消えた。

 驚いて外に出た。そのとき私のすぐそばに、ものすごい音がして、砲弾が一発落ちた。息が止まるかと思った。ゆっくりと体をなぜたが、被害はなかった。
 下半身から完全に力が失せていた。のろのろと歩いては、立ち止まったり、建物の陰から様子をうかがって、また歩き出した。
 左にアッカ病院があった。パレスチナ赤三日月社のセンターである。入り口のところにキャタピラの跡があった。庭に放り出されたベッドはまだブスブスと煙を上げていた。放心した老女が座り込んでいた。声をかけても顔を上げなかった。
 そのまま少し行くとユーカリの大樹が立っている。シャティーラ・キャンプの入り口に出た。不思議なことに、イスラエル軍も右派キリスト教民兵の姿もなかった。
 ユーカリの木の下で、水道管が破裂していて、そこからちょろちょろと真水がこぼれていた。私は不思議なものでも見るようにそれをながめていて、そしてしかたないという気持ちでゆっくりとキャンプの中に入って行った。いやだけれども逃げられない、といった暗い気持ちだった。

 私は自分のポケットに、マイクロカセットレコーダーを入れ、スイッチをオンにした。自分の足跡を残すことは、ここからは不可能になるだろうから、せめて記録が残るようにと思ったのである。
 後で聞くと、テープにはイスラエル軍事基地からのパレスチナ・コマンドの投降を呼びかける拡声器の声と、私の足音に混じって、遠くの銃撃音とブルドーザーの音が入っていた。キャンプの奥の方ではそのときまだ処刑が続いていたのだ。
 最初に見つけた死体は、瓦礫の間から手足がのぞいていた。二番目の死体は、頭を斧か何かで割られたように、横たわっていた。
 三番目と四番目の死体は、しんとした道路のわきに、頭を撃ち抜かれて倒れていた2人の老人だった。1、2時間前に殺されたばかりのように見えた。杖が転がっていて、1人の老人の膝(ひざ)の下に、奇妙な物が見えた。それはピンを抜いた手投げ弾だった。体の重みでピンを押さえてあり、遺族や国際赤十字の者が死体回収に来て、体を動かすと、爆発するようになっていたのである。
 五番目の死体は、鉄の扉の前の窪地に体を丸めて死んでいる老人で、かたわらに杖と、マルボロとバドワイザーの空きかんが転がっていた。横には穴だらけになったベンツが止まっていたから、その写真を見て後にジャズ評論家の平岡正明は、この老人はまるで今の世界を支配している権力に殺されたようだ、と感想を述べたことがある。
 六番目の死体は、やはり道の真ん中で殺されている、小さな少年と少女だった。この日は晴れ渡っていて、強い風に真っ白な洗濯物がばたばたと騒がしい音を立てていた。女の子はチェックのスカートと赤い上着を着て、耳におもちゃのイヤリングをしていた。
 その近くに道をブロックするように瓦礫が積まれて、その下にこの少女たちの家族と思われる人々の死体がのぞいていた。一軒の家の庭にも、ブロックが積まれ、その陰から目隠しをされた女性が、腕を突き出すような格好で、死んでいた。ブロックの上には、たたきつけられて死んだような赤ん坊が、うつむけになって死んでいた。

 後になってこの瓦礫の中から、腹を切り裂かれて胎児を取り出され、死んだ若い女がいたと知らされる。彼女は幼い頃から言語障害者で、学校にも行けず、ずいぶん苦労したらしかったが、性格の明るいすばらしい少女として育ち、そして十八歳でみそめられて結婚し、初めての子供の誕生を待つばかりだったという。
 ガレージの下には、老人たちが針金でつながれて横たわり、ここに連れてこられて射殺された跡があった。壁が銃弾の跡だらけになったところには、やはり針金で手首や足を縛られた男たちが殺されていた。
 私がキャンプに入った頃にはほとんど人影がなかったが、正午近くになってジャーナリストや国際赤十字が駆けつけてきた。それを見てほっとしたのだろう、それまで身を潜めていた住民が、少しずつ姿を現した。みんな泣き叫んでいた。
 死んでいった人の数は正確にはわからない。シャティーラ・キャンプ入り口近くに集団墓地がつくられ、そこだけで300人が埋められた。こうした集団墓地はあと何ヵ所かあり、また連れ去られたまま行方不明になった人々が、飛行場近くで穴の中に投げ込まれているのが発見されたりした。
 死者の数をPLOは約3000人と発表した。誰が殺されたのか調べる調査機関もできたが、調査が進む前にキャンプは再び恐ろしい封鎖と、誘拐と、砲弾の嵐に見舞われ、人々もちりぢりになり、実数はわからないままだ。
 私は国際赤十字が入った後でキャンプを出て、知り合いの通信社にこのニュースを伝えた。そのあと、悔しくて部屋の中でぽろぽろ泣いた。

(広河隆一「パレスチナ/瓦礫の中のこどもたち」(徳間文庫・2001年)155〜161ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E2%80%95%E7%93%A6%E7%A4%AB%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1-%E5%BE%B3%E9%96%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E6%B2%B3-%E9%9A%86%E4%B8%80/dp/4198914591/ref=sr_1_9?s=books&ie=UTF8&qid=1347997536&sr=1-9

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世界は、広河氏が見た光景を忘れる権利を持ちません。

2014年1月12日(日)

西岡昌紀

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■シャロン・イスラエル元首相死去 対パレスチナ強硬派
(朝日新聞デジタル - 01月11日 22:33)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=2720054シャロン・イスラエル元首相死去 対パレスチナ強硬派
朝日新聞デジタル - 2014年01月11日 22:33

 イスラエルのアリエル・シャロン元首相が11日、入院先のテルアビブ近郊の病院で死去した。85歳だった。2006年1月に脳出血で倒れ、約8年間意識不明の状態が続いていた。01年から06年まで首相を務め、対パレスチナの強硬派として知られた。


 英委任統治下の1928年に現イスラエル中部のロシア系移民家庭に生まれた。英国からの独立を目指すユダヤ人武装組織に参加。48年のイスラエル建国後の4次にわたる中東戦争すべてに参戦し、数々の戦績を上げた戦場の英雄だった。


 政治家に転身後は、強引な政治手法で「ブルドーザー」の異名を取った。国防相時代の82年に故アラファト議長率いるパレスチナ解放機構(PLO)の拠点を一掃するためレバノン侵攻を指揮。レバノン民兵によるパレスチナ難民大虐殺事件に関与したとして国際的な非難を浴びた。住宅建設相などを歴任し、国際法違反の占領地でのユダヤ人入植地拡大を推進した。


 右派リクード党首だった2000年9月には東エルサレム旧市街のイスラム教の聖地訪問を強行し、パレスチナ人による第2次インティファーダ(民衆蜂起)の引き金を引いた。


 01年に首相に選ばれてからは、テロ掃討作戦としてパレスチナ自治区へたびたび侵攻した。イスラム組織ハマス幹部らの暗殺も繰り返した。パレスチナ人のテロを抑えられない故アラファト議長を「敵」だとして軟禁下に置き、自治政府を「テロ支援体制」と認定して議長府を爆撃した。イスラエルの治安維持では譲らず、「自爆テロ犯の侵入防止」としてパレスチナ人の街や村を分断する分離壁の建設を強行し、国際社会の非難を浴びた。


 パレスチナとの和平対話を一方的に打ち切り、ガザの入植地を撤去しイスラエル軍を撤退する計画を05年8月に実行。結果的には和平の方針に沿う英断だとして国際社会からも評価された。


 同年11月、突如パレスチナとの2国家共存を目指す方針を打ち出し、リクード党を離党して中道政党カディマを結成。政界を揺るがした。その直後に倒れ、シャロン氏がパレスチナとの和平の実現にどれほどの決意と構想を持っていたのかは謎のままに終わった。


 ペレス大統領は11日、「国を愛し、国に愛された勇敢な兵士であり、勇気あるリーダーだった。難しい決断をし、実行するすべを知っていた」と死を悼んだ。


 生前のシャロン氏と確執があったネタニヤフ首相は同日、「一番勇敢な兵士であり、最も偉大な軍司令官の一人だった。彼の記憶は国民の心に永遠に残るだろう」とたたえた。


 一方、ハマスのバルフーム報道官は「暴君に神が与えた運命だ。手がパレスチナ人の血で汚れた犯罪者が死んだ歴史的瞬間だ」と述べた。(エルサレム=山尾有紀恵)

 

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