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亀井静香の”戦略家”であった楠正成と後醍醐天皇に似た苦しい選択。…「党分裂もどき」…滓ゴミはそれを囃し立てる。 
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/189.html
投稿者 新世紀人 日時 2012 年 4 月 01 日 11:22:08: uj2zhYZWUUp16
 

亀井静香は先にルース米国駐日大使と会談を持っていた。

それはルースを通じてオバマ大統領に伝えてもらいたかった話があったからではないのか。

会談内容のテーマには、郵政改革法案と消費税増税があったに違いないと私は考えているのであるが。

さて亀井の「分裂もどき」の選択は、この見に来る人数が極めて少ない昼休み版であるから書き易いのであるが(少ない故に読者の質が高いから。尤もそれは反対に諜報関係者の訪問も多くてそれで質が高いとも言えるが)、敢えて「二つに分かれて行動する事にした」とのものであろう。

それは、どちらかが消え去ると言う危険性を伴うものだ。

それは亀井静香の苦渋の選択であったはずだ。

いかにも自らを楠正成にたとえる亀井らしい作戦である。

亀井の作戦は殆どの日本人には理解されないだろう。

理解されないから成功するかもしれない。

理解されなかったのは建武の中興当時の後醍醐天皇と従う楠正成や新田義貞の考えや思惑であったろうが、理解されなかった故に挫折したのであろうが、それとは今回の亀井の事情は異なるので成功するかもしれない。

しかし、米国側の徹底攻撃により失敗するかも知れない。

亀井の側では、もしも米国側から郵政改革法案の成立までも潰そうとの動きがあればそれに対しては、消費税増税法案も潰して野田内閣を座礁させる戦術までも準備しているのではないのかと考えるのである。

極めて亀井の頭は緻密である。

楠正成を理解できるのであるから緻密である事は間違いないだろう。

楠正成は皇居前の銅像にまでなっているような日本人にはよく知られたある意味で「日本のヒーロー」ではあるのだが、彼は全く誤解されているであろうと私は考えている。

彼は酔狂な後醍醐天皇崇拝者の強い武将と認識されているのが一般的ではないのか。

全く違っているのであって、彼(楠)は、思想家・歴史家なのであって戦略戦術家は彼の他の一面であるに過ぎないのである。

彼はスメラミコトの意義に天皇側近の中では抜きん出て通じていたと考えられ、歴史の先を見通す事が出来たが故に、最後に弟と共に後醍醐天皇の御事業の挫折を知りつつも最大限の戦術的成果を求めて将来的歴史に役立つべく自己犠牲を選択できたのであって、これは何も判らない酔狂な陶酔家に出来る行いではない。

私は先の大戦で硫黄島の戦いを指揮した栗林中将を楠正成の生まれ替わりなのではないかと考えてきているのだ。

栗林中将が工兵隊の出身で要塞建設に長けていて戦いぶりが鬼人の如くであり米兵も日本兵をも徹底的に戦わせて多くの死傷者を出させるまで容赦ない戦いぶりであった事からその様に考えるのである。

楠正成の湊川合戦での自己犠牲的戦いの意味が判らない人は、栗林中将の硫黄島の戦いを見れば理解できると思う。

この戦いは、日本本土に対しての時間稼ぎでもあり、徹底した抵抗を米国側に示す事により米国の対日攻略戦略に大きく影響を与える目的を持ったものであったと考えられるのだ。つまり、硫黄島の戦いぶりはその後の戦局のみならず敗戦を向かえる運命においても日本側を出来得る限り有利に導く為に必要なものであったのだ。

湊川の後醍醐天皇側の戦いぶりにより天皇は京都を逃れる事が可能となった。マゴマゴしていたら極めて短期に京都は足利勢に占領されて天皇は捕われて幽閉されてしまったであろう。

少し横道に逸れたが、しかし私はこれ等を知っても、亀井静香氏の今回の戦術には賛成しない。

何故ならば戦術が高級すぎて大多数の国民がついて来れないからである。

巧く行くかも知れないが、巧く行かないかも知れない。

そうであれば、日本国民にも判り易い戦術を採用したほうが日本の政治にとっては実りが多いのではないのか。

国民新党全員で連立を離脱する方が国民には判りやすいだろう。

閣僚は野田一派で固められる事になり、郵政改革法案も主導する国民新党が抜けたら採決への意欲が萎んで葬り去られることになるかもしれない。

それでも国民にはよく判るのである。

そして野田政権は国民からますます浮き上がって孤立してゆく。

とは言っても、やはり亀井静香にはこの選択以外には現実政治としては、対国民アッピールの不備は残るにしても無かったのだろう。

今回の事は、これで終わらないだろう。続きがあるに違いない。

簡単に勝者と敗者を判断は出来ないし、まだ勝負は全く決まっていないのだ。


楠正成の最後の選択に関する「太平記」の部分を紹介しておく。


http://www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html

(前略)

将軍筑紫より御上洛の事附瑞夢の事

 
 多々良浜の合戦の後は、九州一円尊氏に従はない者はなかつたが、中国には敵が充満し、東国には身方が少かつたので、たやすく京都へ攻め上る事は出来まいと、春の敗北に懲りて皆恐れてゐた所へ、赤松入道の三男則祐律師が筑紫へ馳せつけ上京を勧めたので、尊氏は仁木四郎次郎義長を大将として大友、少弐の二人を九州へ残し、四月二十六日に太宰府を出発し、急いで上京の途についた。五月一日には安芸の厳島へ立ち寄つて三日間参籠をした。其最終の日に京都から下向した三宝院の僧正賢俊が持明院殿から下された院宣を奉つた。尊氏はこれを拝覧して悦び、四国中国の軍勢を加へて五日に厳島を出発し、鞆の浦からは左馬頭直義を大将に、二十万騎の軍勢を分けて陸路を進ましめ、尊氏は一族の者、高、上杉らの一類をひきつれ、兵船七千五百余艘を漕ぎ並べて海路を進んだ。
 鞆の浦を出発する時に一つの不思議な事があつた。尊氏が屋形の中で一寸の間うと/\としてゐると、南方から光り輝いた観世音菩薩が飛んで来られて、船の舳へ立たれ、眷属の二十八部衆が各々矢や武器を持つてそれをお守りした。尊氏は夢がさめて見ると、山鳩が一羽船の屋形の上にゐた。これは観世音がお守り下さつて、勝戦をする夢のお告げだと、杉原(一)の紙を短冊の広さに切らせ、自ら観世音菩薩と書いて船の帆柱毎につけさせた。


備後福山合戦の事

  
 五月十五日の宵から、左馬頭直義は三十万騎の軍勢で、官軍の立籠る福山城を取囲んで攻め立てた。城中の大将大江田式部大輔はよく防いだが、衆寡敵せず、四百余騎に討ちなされた軍勢を集め、一方を打ち破つて五月十八日の朝早く三石の宿へ落ちて行つた。
 脇屋右衛門佐は三石から新田左中将に使を出して、福山合戦の様子を詳しく報告した所、義貞は西国の戦を止め、急いで摂津国まで引き退き、京都を後にして合戦をしようと云つて来たので、官軍は皆三石をすてて退いた。
 和田備後守範長、息子の三郎高徳は、西川尻に陣をとつてゐたが、福山城が落ちたと聞いて三石へ馳せつけた所、脇屋は播磨へ退いた後だつたので、三石の南の山路を夜通しに越えて、佐越(さごし)の浦まで出てきた。息子の高徳は此前の合戦で受けた傷がまだ癒えてゐないので、目がくらんで馬に乗る事が出来ない、佐越の近くに知合の僧のあつたのを探し出して預けてゐる間に、赤松入道円心がこれを聞きつけて、三百余騎をさし向けて那波辺で待伏せしてゐた。備後守は赤松勢と山陰で出合ひ、八十三騎の者が三百余騎の中へ懸け入つて、浜路を東へと逃げて行つた。赤松の軍勢は附近の野武士達を誘つて散々に射かけたので、備後守は那波から阿禰陀が宿での間に十八度も戦つて、主従は僅かに六騎に討ちなされた。備後守は或辻堂の前で馬を駐め、
「範長の討死すべき時が来た。今はもう遁れる事が出来ない。」
と云つて、馬から飛び下り、辻堂の中へ走りこんで念仏を唱へ、腹一文字に掻き切つて其刀を口にくはへ、うつぶしになつて死んでしまつた。


新田殿兵庫を引かるる事

 
 新田左中将義貞は備前美作の軍勢を待つて陣容を整へようと、賀古川の西にある岡に陣をとつて二日間逗留してゐた。丁度五月雨が降り続いて河の水が増したので、馬の弱い軍勢や負傷者達を段々に渡して行つたが、水は一晩の中に減じ、又備前美作の軍勢も馳せつけたので、馬筏(二)を組んで六万余騎を一度に渡してしまつた。
 然し義貞の軍勢は足利兄弟の上京ときいて段々に逃げ失せ、五月十三日に兵庫へ着いた時は、二万騎にも足りない程になつてしまつた。


正成兵庫に下向の事


 尊氏、直義は大軍を率ゐてゐるから、義貞は要害の地で戦はうと兵庫まで退いた旨を、急使を立てゝ皇居へ御報告申上げたので、天皇は一方ならず驚かれて楠判官正成を呼び、「急いで兵庫へ下り、義貞と力を合せて合戦をせよ」と仰せ出された。そこで正成は畏まつて、天皇は比叡山へ行幸になり、義貞を呼び返して、尊氏を京都へ入らせ置き、四方から攻め立てゝこれを滅ぼさうといふ謀を申上げたが、坊門宰相清忠の反対によつて其謀が用ひられず、五月十五日、京都を出発して五百余騎で兵庫へ下つた。
 正成は心中、これが最後の合戦であると思つたので、今年十一歳になる長男の正行を櫻井の宿から河内に帰すことに決め、さて正行に向つていふには、
「獅子は子を産んで三日たつと、数千丈の石壁から其子を投げ落す。其子に獅子の意気込みがあるならば、教へなくとも跳ね返つて死ぬる事はないといふ。ましてお前はもはや十歳を過ぎてゐる。一言耳に留まつたならば、父の此誡めに違つてはならぬ。今度の合戦は天下の分れ目、今生(こんじやう)でお前の顔を見るのはこれが最後だと思ふ。正成がもはや討死をしたと聞いたならば、天下は必ず尊氏のものとなつたと考へてよい。ではあるが暫しの命を惜んで多年の忠義を失ひ、降参するやうな事があつてはならぬ。一族の者や若武者達が一人でも生き残つてゐる間は、金剛山に立籠り、敵が攻め寄せて来たならば、命を養由(三)の矢さきに託し、義を紀信(四)の忠に比べよ。これがお前の第一の孝行だ。」
と、泣く/\云ひきかせて、各々東西に別れた。
 正成は兵庫に着いて、新田左中将と対面した。義貞は天皇の御考への模様を尋ね問ひ、正成は自分の考へと天皇の仰せとを詳しく話し、夜通しの物語に数杯を傾け興じた。


兵庫海陸寄手の事

  
 五月二十五日の朝八時頃、沖の霞の晴間から、広々とした海面十四五里の間を漕ぎ連ねて夥しい兵船が近づき、陸路は須磨の上野と鹿松岡(しかまつのをか)、鵯越の方から五六百本の旗をさし並べて雲霞の如き大軍が攻め寄せて来た。海上の兵船、陸路の軍勢は聞きしにもまさる大軍であつたが、義貞、正成は少しも恐れる様子がなく、静かに手分けをして、一方、脇屋右衛門義助を大将に五千余騎を経島へ、他方、大館左馬頭氏明を大将に、三千余騎を燈爐堂の南の浜へ、又一方、楠判官正成がわざと他の軍勢を交へず、七百余騎で湊川の西の宿に控へて、陸路の敵に向つた。左中将義貞は総大将であるから、三万五千余騎で和田御崎に幕をひかせて控へてゐた。さて海上陸路の両陣は互ひに攻め寄せてきて、先づ沖の船から太鼓を鳴らして鬨の声を上げると、陸路の敵がそれをひきとつて声を合した。之に対して官軍の軍勢が、又鬨の声を上げた。


本間孫四郎遠矢の事

 
 新田、足利の両大将が互ひに近よつて未だ戦ひを始めない間に、新田勢の中から本間孫四郎重氏が唯だ一人進みいで、敵身方の共に見まもつてゐる中で、波の上に下りた●(「舟」へん+「鳥」)(みさご)が魚をくはへて沖の方へ飛んで行くのを、鏑矢をつがへて見事に射落した。本間はわざと生きたまゝを射落さうと思ひ、片羽を切つたばかりであつた為め、鏑は大内介の船の帆柱に立ち、●(「舟」へん+「鳥」)は大友の船の屋形の上へ落ちかゝつた。
 これを見た尊氏は名字を承りたいと問はした所、本間はこの矢で名字を御覧あれと、三人張の弓に十五束三伏の矢をつがへて遠矢に射た。其矢は六町余りを越えて、尊氏の船と双んでゐた佐々木筑前守の船の屋形に乗つてゐた兵の鎧の草摺(五)を裏まで通して突き立つた。尊氏が其矢を取りよせてみると、相模国住人本間孫四郎重氏と小刀の先で書いてあつた。
 本間は扇を上げて沖の方をさし招き、
「合戦最中の事故矢の一本さへ惜しまれる。其矢を此方へ射返して下されい。」
と云つたので、尊氏は、佐々木筑前守顕信に、それを射返さしめようとした。佐々木は固く辞退をしたが許されず、自分の船にかへつて、弓の弦をくひしめ、将に射返さうとした所へ何といふ出しやばりの馬鹿者だ、讃岐の軍勢の中から鏑矢を一本射た者があつた。其矢はしかし二町も射とどかず、波の上へ落ちてしまつたので、本間の軍勢ではしばしの間笑ひやまなかつた。そこで佐々木は遠矢をやめてしまつた。


経島合戦の事

  
 遠矢を射そこなつて敵身方に笑はれた者は、船一艘に二百余人も乗込んで経島へ漕ぎよせ、磯に飛び下りて攻めかゝつたが、脇屋右衛門佐の軍勢は一人も残らずそれを討ち取つてしまつた。細川卿律師はこれを見て、
「続く者がなかつた為めに討たしてしまつた。下場(おりば)の良い所へ船をつけて、馬を追ひ下し追ひ下し打つて上れ。」
と命令したので、四国の兵船七百余艘は紺部(こんべ)(六)の浜から上らうと、磯に沿つてのぽつて行つた。兵庫島の三箇所にゐた官軍は、船の敵を上げまいと漕ぎ行く船について海岸を東へと進んだ為め、新田左中将と楠との間は遠く離れ、兵庫島の船著場には防ぐ軍勢もなかつたので、九州中国の兵船六十余艘は和田御崎へ漕ぎよせて上陸してしまつた。


正成兄弟討死の事


 楠正成は弟の正季に向ひ、
「敵が前後を遮つて、身方は陣を隔てられてしまつた。今はもう逃げる事が出来ない。さあ、前の敵を一散らし追ひまくつて、後の敵と戦はう。」
と云ふと、正季も「さう致しませう」と答へて、七百余騎を前後に立てゝ大軍の中へ攻め入つた。左馬頭の兵はこれを取り囲んで討たうとしたが、正成、正季は東西南北に追ひ散らして烈しく攻め立て、二人は左馬頭に近づき、組んで討ち取らうと、七度出合つて七度分れた。左馬頭の軍勢五十万騎は、楠の小勢に攻め立てられて須磨の上野の方へと引き返した。直義は危ふく討たれようとしたのを、家来に助けられて漸くに逃げのびた。
 尊氏は此有様を見て、「新手を入れ替へて直義を討たすな。」と命令したので、吉良、石堂、高、上杉らの人々が六千余騎で湊河の東に出で、正成の後を遮らうと取りまいた。正成、正季は取つてかへして、今度は此敵に向ひ、烈しく攻め戦つた為め、軍勢は追々討たれてわづかに七十三騎となつてしまつた。これだけの軍勢でも攻め破つて逃げようと思へば逃げられたのに、正成は京都を出た時からこれが最後だと決心してゐたので一足も退かず、もはや戦ひ疲れたので、湊河の北に一村の民家のある中へ走り込んで、腹を切らうと、鎧を脱いで身体を見ると、斬傷を十一箇所も受けてゐた。七十二人の人々も皆傷を受けてゐない者はなかつた。やがて楠の一族の者十三人と家来の者六十余人は客間へ二列に竝び、念仏を十ペんばかり同時に唱へて、一度に腹を切つた。
 正成は上座にゐて弟の正季に向ひ、
「死際の心一つで、次の世に善くも悪くも生れるといふが、九界(七)の中お前は何に生れかはりたいと思ふか。」
と問うた所、正季は笑ひながら、
「七度同じ人間に生れてきて朝敵を滅したいと思ひます。」
と答へたので、正成は事の外うれしさうな様子で、
「罪深い願ひだがわしもさう思ふ。さあ、それでは生れかはつて此望みを達する事にしよう。」
と契つて、兄弟互に刺し違へ、同じ枕に死んでしまつた。


新田殿湊河合戦の事


 楠が討死したので、尊氏と直義とは一所になつて、新田左中将に攻めかゝつた。義貞はこれを見て、生田の森を後にして四万余騎の軍勢を三手に分け、三方に敵をうけた。二手の軍勢は入れ替り立ち替り烈しく戦ひ合つたので、暫くの間東西に分かれて人馬の息休めをしてゐた。これを見てゐた義貞は、もはや自分の出るべき時だと二万三千余騎を左右に従へて、尊氏の三十万騎に正面から向ひ、両軍共に命を惜しまず攻め戦つたが、官軍は小勢の為め大軍に攻め立てられ、わづかに五千余騎となつて生田の森の東から丹波路をさして逃げて行つた。
 義貞は追ひかけてくる敵に馬を射倒され、求塚で馬から下りて乗かへの馬を待つてゐたが、身方はそれに気がつかなかつた。敵はこれを見て取囲んで討ち取らうとしたが、近づく事が出来ず、ぐるりから遠矢を射かけたので、義貞は矢を十六本も切り落した。小山田太郎高家は遠くの山上からこの有様をみて馳せつけ、自分の馬に義貞を乗せ、迫ひかけてくる敵を支へ、大軍に取囲まれて遂に討死をした。其間に義貞は身方の軍勢の中へ馳せ入つて危ふい命を助つた。


小山田太郎高家青麦を刈る事


 小山田は義貞を自分の馬に乗せ、敵に囲まれて討死をしたが、元をたゞせば僅かの人情に惹かれたのであつた。去年義貞が西国の討手を承つて播磨へ到着した時、兵は多く、糧が少かつたので、若し軍に掟を作らなかつたならば、諸卒の乱暴が絶えないであらうと、一粒でも刈りとり、一民家でも掠め取つた者は、直ぐさま斬り捨てるといふ事を大礼に書いて道の辻々へ立てさせた。
 所が高家(たかいへ)は敵陣の近くへ行き、青麦を刈らせて帰つてきたので、侍所(八)の長濱六郎左衛門尉は高家を呼び出し、仕方なくこれを斬らうとした。義貞はこれをきいて、
「まさか青麦の為めに身を亡ぼさうとは思ふまい、敵陣であると考へ違ひをしたか、兵糧を得る方法がなくなつて、重い掟を忘れたか、二者の中のどちらかであらう。彼れの役所を見よ。」と使をやつて調べさした所、食物の類は一粒もなかつた。使者が此事を義貞に告げると義貞はひどく恥じて、
「高家が掟を犯したのは戦の為に罪を忘れたのである。士卒が先に疲れるといふ事は大将の恥だ。勇士は失つてはならず、法も亦乱してはならぬ。」
と、田の持主には小袖を二重(かさね)與へ、高家には兵糧十石を添へて帰した。
 高家は此情に感激していよ/\忠義の心を深め、大将に代つて討死をしたのであつた。
 

聖主又山門へ臨幸の事

  
 宮軍の総大将が僅かに六千余騎となつて京都へ帰つて来たから、京都では大騒ぎをして、五月十九日に天皇は三種の神器を先に立て比叡山へ臨幸遊ばされた。今度は公家にも武家にも御供をする者が多かつた。摂政関白を始め、外記(九)、史(一〇)、官人(一一)、北面(一二)、瀧口(一三)、官僧、官女ら、我も我もとお供をした。武家では義貞、義顕の父子、脇屋義助らを始め、都合六万余騎の軍勢が御乗物の前後を囲んで今路越に落ちて行かれた。
 

持明院、本院、東寺に潜幸の事

  
 持明院の法皇(一四)、本院(一五)、新院(一六)、春宮(一七)の方々も皆比叡山御幸遊ばされることになり、太田判官全職(たけもと)がお供をしてゐた。ところが本院は、先頃尊氏に院宣を下されたので、二度御治世を遊ばされるやうな事もあらうかと、北白川の辺から俄に御病気だと云ひ立てられ、御乗物を法勝寺の塔の前に舁き据えさせて、わざと時間を過してゐられた。全職はさう何時までも待つてゐられないので、お供の人々に急いで比叡山へお供をして来いと云ひ残して、法皇、新院、春宮を先に東坂本へ御送り申した。本院は全職が引返して来てはと恐しく思はれ、日野中納言資名と三条中将実継とを連れられ、急いで東寺へおいでになられた。尊氏は一方ならず悦び、東寺の本堂を皇居と定めた。これは確かに尊氏の運の開ける瑞兆だと人々は囁き合つた。
 

日本朝敵の事

  
  日本開闢の始めより、先づ神武天皇の御代に於ける紀伊国名草郡の蜘蛛を第一に、天智天皇の御代の藤原千方、朱雀天皇の御代の将門、其他、大石山丸、大山王子(一八)、大伴真鳥、守屋大臣(一九)、蘇我入鹿、豊浦大臣、山田石川左大臣、長屋右大臣(二一)、豊成(二二)、伊予親王(二三)、氷上川継、橘逸勢、文屋宮田、恵美押勝、井上皇后(二四)、早良太子(二五)、大友皇子、藤原仲成、天慶の純友、康和の義親(二六)、宇治悪左府(二七)、六条判官為義、悪右衛問督信頼、安倍貞任、宗任、清原武衡、家衡、平相国清盛、木曾冠者義仲、阿佐原八郎為頼、時政九代の後胤たる高時法師に至るまで、朝敵となつて天皇の御心を悩まし、仁義を乱した者は、いづれも皆刑罰に苦しめられ、屍を獄門に曝さぬはない。それ故尊氏もこの春、関東八箇国の大軍をひきつれて上京したが朝敵であつた為め度々の合戦に負け、九州を指して逃げて行つた。今度は前非を悔いて一方の皇統を立て、院宣を賜つて行動したから、威勢の上に一つの理由がついて、大功は直ぐさま成就するであらうと、人々は皆さゝやき合つた。
 さて東寺が院の皇居となつたので、四方の壁を城郭の構へにつくり、尊氏、直義は共に此寺に立籠つた。


正成が首故郷へ送る事


 湊川で討死をした楠判官の首を六条河原にかけた所、去る春にもにせ首をかけたので、これも亦にせ首であらうと云ふ者が多かつた。
 其後尊氏は楠の首をとりよせ、
「公事にも私事にも、長い間交つた旧い友達だ、哀れな事をした。後に残つた妻子達もさぞかし顔を見たく思ふであらう。」
と云つて、郷里へ送つてやつた。
 楠の後室は、正成が兵庫へ出発する時、色々と誡めを残した上、今度の合戦には必ず討死をするからといつて、正行を留めて行つたのであるから、出て行かれた時が最後の別れだと、前々から考へてゐたものゝ、さて、面(まのあた)り御首(しるし)を見ると、如何にも正成に相違はないが、目はつむり、色は失せ、変り果てゝゐる有様に胸が一杯になり、悲しみと歎きの涙がとめどもなく流れた。今年十一歳になつた正行は、父の顔が生前とは似ても似つかないものになつてゐるのを見、又母のやるせなげな歎きの有様を見て、流れる涙を袖でおさへ、持仏堂の方へ立つて行つた。母は怪しんで妻戸の方から行つてみると、父が兵庫へ行く時形見に残した菊水の刀を抜いて右手に持ち、袴の腰を押し下げて自害をしようとしてゐた。母ほ急いで走り寄り、正行の腕に取りつき、涙を流して云ふには、
「栴檀は二葉より芳はしと昔から云はれてゐる。お前は幼くても父正成の子であるならば、これ位の道理がわからぬ事はあるまい。幼心にもよくよく事の有様を考へて見よ、亡き父が兵庫へ行く時、お前を桜井の宿から帰したのは、父の亡き跡を弔へといふのでもなく、又腹を切れと云ふのでもない。自分はたとへ武運がつき戦場で討死をしても、天皇が何処々々においでになると聞いたならば、生き残つた一族の者や若侍らを扶持しておいて、今一度軍勢を集めて戦を起し、朝敵を滅して皇位を護り奉れと云ふ意味であつたのです。其遺言を詳しく承つて、此母に話して聞かせたお前が、それを何時の間に忘れてしまつたのです。こんな有様では、父の名を汚すのみか、天皇の御役に立つ事も出来ますまい。」と抜いた刀を奪ひとつて、泣く/\諌め止めたので、正行は腹を切る事が出来ず、礼盤(二九)の上から泣き倒れ、母と共に歎き合つた。


(一)紙の名、奉書紙の類。
(二)馬を繋ぎ合して先立て、川を渡る事。
(三)支那の楚の国の将、弓の名人。命を惜むなといふ事にたとへたもの。
(四)漢の高祖の忠臣で、高祖の命にかはつて死んだ人。義を重んじて忠義をつくせよといふ事にたとへたもの。
(五)腰の辺に垂れた短い裾。
(六)今の神戸。
(七)地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩の九つ。
(八)兵刑を司る役所。
(九)今の書記官。
(一〇)記録を司る役。
(一一)太政官の役人。
(一二)院の御所の武士。
(一三)宮中の武官。
(一四)後伏見院。
(一五)花園院。
(一六)光厳院。
(一七)豊仁親王、後の光明院。
(一八)應神帝の第二子大山守。
(一九)物部守屋。
(二〇)蘇我蝦夷。
(二一)高市皇子の子、天武帝の孫。
(二二)藤原武智麿の子、藤原仲麿の兄。
(二三)桓武帝の第二子。
(二四)聖武帝の皇女、光仁帝の皇后。
(二五)光仁帝の皇子。
(二六)八幡太郎義家の長男。
(二七)左大臣藤原頼長。
(二八)甲斐の人、小笠原の流。
(二九)仏前にある礼拝の臺座。

(攻略)


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コメント
 
01. 2012年4月01日 18:51:26 : tVjI2Wv9Cs
。「今やるべきことは国の政治をひっくり返すことだ。小沢元代表とも手を握ればいい」と述べた。

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