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けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい…(アゴラが煽りに利用するもの)
http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/380.html
投稿者 無生物 日時 2012 年 1 月 27 日 06:43:19: ce0Ar6eaeTZ7w
 

(回答先: 国会議員をひっぱたきたい 37歳、墨田区民 希望はまともな投票 - 常見 陽平 アゴラ国民の魂は空白化 投稿者 gikou89 日時 2012 年 1 月 26 日 01:29:46)

(長文につきご注意を。あの話題になった議論を資料として。:投稿者)

http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama2.html

けっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──

1月号に掲載した「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」に対し、4月号で7人の論者が「応答」した。「ギャンブルに負けるのはあなただ」「戦争待望の妄言だけは許せない」といった厳しい批判を、筆者はどう受け止めたのか──。

「論座」4月号に掲載された、私の文章への応答を拝読させていただいた。
 いずれも高名な方々に、それぞれのスタンスを明確に表明しながら誠実に対応していただいたことは、非常に光栄に思う。また、ネット上でもさまざまなサイトで言及していただいた。私の論を肯定するにせよ非難するにせよ、そうした論争の源泉になれたことは、産みの苦しみに耐えながら文章を書きあげたかいがあったと思う。
 しかし、「希望は、戦争。」というキャッチがあまりに強烈であったために、私が本当に言いたかったことが十分に伝わっていないのではないか、と思うこともしきりである。そこで今回、私が「戦争」にどのような思いを込めているのか、そして、どうして戦争に希望を託さなければならないのかという点を、応答の言葉などを引きながら明確にしていきたい。
 まず前提として述べておくと、私は決して一直線に戦争へ至る道を志向しているわけではない。戦争を避けられるものなら避けたいし、戦争など望まなくても済むような方法があるのだとしたら、それに越したことはない。しかしだからといって、私の戦争への意思は、単なる脅しやレトリックではない。私の主張から手を伸ばした先には、戦争というカタストロフィーに対する願望が、しっかりと存在しているのだ。

自尊心を満足させる「戦死」
 佐高信氏は「戦争によって自分が死ぬということを考えていないように見える」という。なるほど彼の頭の中には、戦争へのロマンを抱く30歳を過ぎた軍国少年の姿が浮かんでいるのだろう。
 しかし、私は戦争なんかで栄誉を得られるとは思っていないし、戦うこと自体に爽快感を感じたりはしない。さらに言えば、死ぬことすら私にとってはタブーではない。
 現状のまま生き続けたとしても、老いた親が病気などによって働けなくなってしまえば、私は経済基盤を失うのだから、首を吊るしかなくなる。その時に、社会の誰も、私に対して同情などしてくれないだろう。「自己責任」「負け犬」というレッテルを張られながら、無念のままに死ぬことになる。
 しかし、「お国の為に」と戦地で戦ったのならば、運悪く死んだとしても、他の兵士たちとともに靖国なり、慰霊所なりに奉られ、英霊として尊敬される。同じ「死」という結果であっても、経済弱者として惨めに死ぬよりも、お国の為に戦って死ぬほうが、よほど自尊心を満足させてくれる。
 もちろん、死んでたたえられたとしても、それが欺瞞にすぎないことは私もよく分かっている。本当なら、生きたまま十分な自尊心を得られる生活を送りたい。けれども、それはもはや私にとっては、リアリティーのかけらもない妄想にすぎない。30歳を過ぎたフリーターの人間が、今さら普通に生きていくことなど完全に不可能なのだ。
 福島みずほ氏は、柳沢厚労相の「女性は産む機械」発言を引き合いに出しながら、「国民は『駒』として扱われます。そして日本で真っ先にターゲットにされるのは、『フリーター』ではないでしょうか」という。だが、私のような年長フリーターはとっくに「低賃金労働の機械」でしかない。それに「産む機械」は公的扶助によって十分なメンテナンスを受けられるかもしれないが、「働く機械」は壊れるまで働かされて、壊れたらあっさり捨てられるだろう。だが、もしこれが兵士として「戦う機械」になるなら、死んでも先に記したように英霊として弔われるだろうし、生きていれば流動化した社会でチャンスも巡ってくる。また、軍務に就いていれば衣食住は保証され、資格もいくつかとれるだろう。今の日本で、年長フリーターが無資格で就業できて、賃金を得ながら資格をとれるような職業に就けるチャンスはどれくらいあるのだろうか? 映画「華氏911」で描かれた現実は、決してアメリカだけのものではない。福島氏にはきっと、私のような存在が見えないのだろう。
 また福島氏は、劣化ウラン弾による健康被害に苦しむ米国の帰還兵の例をあげているが、帰還兵の苦痛は「お国の為に戦って負傷した」という、社会的承認を得やすい苦痛であるからこそ、支援が集まるのだろう。一方、フリーターの苦痛には社会的承認も支援者もない。常に軽蔑の視線を差し向けられ、浴びせられる自己責任論に打ちのめされるだけだ。現に福島氏自身、いや、私に対して応答した人たちのほとんどが「年長フリーターであるあなたよりも、不幸な人たちはいるのだ」と言っているではないか。
 奥原紀晴氏は、自殺者が年間3万人を超え、その7割が40代以上であり、「この世代も『ぬくぬく』なんかしちゃいないのです」と指摘している。確かに彼らも不幸だろう。だが彼らの不幸をもって、私の不幸が相対的に軽減されるかのような言いようは、フリーターの苦痛を不当に軽く扱っているのではないだろうか。
 経済の世界ではバブル崩壊後の10年を「失われた10年」と言うが、私はその時代に人生そのものを奪われたと思っている。そして今後も決して報われることのないまま、ただの機械として低賃金の単純労働をこなし続けなければならない。彼らはどうして、そのような耐えがたい苦痛をくみ取ろうとせず「お前の不幸など、たいしたことではない」かのようなことを言うのだろうか。
 この決裂は、佐高氏の「『何も持っていない』私というが、いのちは持っているのである」という言葉によって決定的なものとなる。私なら、そんな状況を指して「いのちは持っている」などとは、絶対に言わない。私が欲しい、そしてすべての人がごく当たり前の尊厳として得るべきなのは、「人間としての『命』」であり、ただ心臓が動いているだけの「いのち」などではないはずだ。

多数派の祭り=革命 は成就しない
 ネットを中心に「戦争よりも、革命を志向するべきではないか」という疑問も散見された。しかし革命という思想は、主張や行動が受け入れられるという社会への信頼が前提となっている。私の現状は、そうした信頼をすべて奪い取られた上にあるのだ。
 努力がいっさい報われないという、私の側からの社会に対する不信もそうだが、社会の側も私のような人間に対して、「怠惰な人間」「犯罪予備軍」という不信を投げかけている。このような相互不信の中では、「弱者を救済するべき」などという社会的合意の形成など不可能だろう。
 先日の東京都知事選で、候補者だった外山恒一氏が「選挙は多数派の祭りなので、革命しかない」と訴えていたが、革命は「多数派の国民が、小数派の国家権力に支配されている」というような状況を逆転させるための手法である。少数派が多数派に対して革命を行ったって、十分な社会的承認を得ることなどできないのは明白だろう。ならば、選挙よりも革命のほうが「多数派の祭り」ではないか。
 正社員で、もしくは非正規社員でも生活に十分な給与を確保している安定労働層という多数派に、小さな企業の正社員や、派遣労働者や、フリーターといった貧困労働層という少数派が支配されている現状において、革命などは絶対に成就しない。つまり社会への信頼もなく、少数派であるしかない私が、革命という結論に至ることはあり得ないのだ。
 その一方で戦争は、信頼や肩書など関係なしに、ただ状況のみが突きつけられる。運が良ければ、これまでの人生における不利な「積み立て」をなかったことにして、一方的に押し流すことも可能である。
 斎藤貴男氏は「戦時中の日本でも、金持ちや有力者の子弟には赤紙が配達されないケースが珍しくもなかった」と、徴兵の不平等さを強調する。しかし、私が社会の流動性を高めるために戦争に巻き込まれてほしいのは、そうした一部の権力者よりも、私たちのような貧困労働層を足蹴にしながら自身の生活を保持しているにもかかわらず、さも弱者のように権利や金銭を御上に要求する、多数の安定労働層なのである。
 金持ちや権力者が恵まれているのは、血筋や家柄という固有属性を持っているからであり、彼らが戦争で死んだとしても、その利権は、固有属性を持たない私には絶対に回ってこない。一方で、血筋や家柄を持たない安定労働層と、我々のような貧困労働層との交換可能性は非常に高い。安定労働層は、「たまたま」安定した生活を得られているだけである。念のために言っておくが、私は「努力」などという、結果から遡及してはじきだされた、彼らに都合がいいだけの言い分を認めるつもりはない。

労働者の分断を放置、利用しつづける左派
 私は平和への執着こそが、我々弱者を貶める原因ではないかと「論座」1月号で書いた。このときの「平和」という言葉は、単なる戦争の対義語ではなく、いわゆる「平和な家庭」などというときの平和、すなわち「好ましい安定性」という広い意味で使っている。
 経済が右肩上がりの時代には容易に達成できたはずの好ましい安定性が、不況によって達成できなくなる。その時に安定性を守ろうと思えば、どこからか、そのための金銭を調達してくる必要がある。では、その金銭はどこから生まれているのか。
 若松孝二氏は「フランスでも若者が立ち上がったんだから、お前も立ち上がれ」という趣旨のことを言っている。若松氏は、26歳未満なら2年間は理由なしに解雇できるという新雇用制度(CPE)に反対する多くの学生と労働者が繰り広げたデモのことを言っているのだろう。
 なるほど、確かに政府が企業に都合のいい待遇切り下げ法案を出したことに対し、学生と労働者たちが共に手を取り合って立ち上がり、政府にこれを撤回させたというのは、左派的なスタンスからすると実に美しい情景であろう。
 しかしこのCPEに対するデモは、決して若者や移民、失業者の不遇に対して真っ向から異を唱えるデモではない。つまりこのデモと、このデモへの単純な翼賛からは、現に失業しているフランスの若年層や移民が直面している状況への配慮を読み取ることはできない。これは、日本における既存の左翼がいわゆる「労働者」という名前の安定労働層の利益確保ばかりに注力し、私のような貧困労働層の問題を正面から取り上げないという配慮のなさと同質のものであるように思える。
 フランス人が移民を正社員のための調整弁として利用してきたのと同様に、労働組合は「偽装請負」などの違法な雇用に対し、正規雇用を保持するための調整弁として、長らく黙認の態度をとってきた。最近になってようやく非正規社員にも目を向けるポーズを見せてはいるが、やはり「正規が先、非正規は後」という姿勢が変わったようには見えない。
 正規社員優先の賃上げ闘争が、安定労働層と貧困労働層間の経済格差をこれまで以上に拡大させているという事実から、労組関係者は目を背けつづけている。また左派もこうした労組の姿勢を本気で批判することはない。
 それに対して、昨年12月、政府の経済財政諮問会議のメンバーである八代尚宏・国際基督教大学教授が、「正社員の待遇を非正規社員の水準に合わせる方向での検討も必要」という趣旨の発言をし、左派陣営から非難されていたが、私は、この発言にわずかながらではあるが、「本気で弱者を救おうとする意図」を感じた。経済学者として、短期には経済拡大が難しいという状況を認識し、早急に弱者を救う方法論として所得の下方修正を考えているのだとすれば、たとえ出てきた結論がトンチンカンに見えたとしても、それは労働者層の分断を放置、利用しつづけた左派よりも、よっぽど誠実な態度ではないだろうか。

「弱者」はどこにいるのか
 こうして考えてみると、安定労働層とそれに結びつく左派が、貧困労働層を極めて軽視しているという現状が改めて見えてくる。左派は平等を口にするが、その認識は「富裕層と労働者」という、いわゆる昔ながらの対立軸でしかない。だから富裕層の利権を労働者に分配することによって、平等を達成しようとする。
 しかし、経済格差という現状の背景には、まず「富裕層」が存在し、その下に富裕層によって安定した役割を与えられている「安定労働層」がいて、さらに安定労働層のための調整弁にされる「貧困労働層」が存在するという構図がある。左派はこの構図を自覚していないのか、結果として安定労働層と貧困労働層間の格差を押し広げてしまっている。
 こうした状況で、私は左派が想定する救済対象に「弱者であるはずの私」が含まれるとは決して思えない。いわば左派は「基本的な平等」をないがしろにしているのではないかとさえ感じてしまう。
 オウム真理教(当時)に対する破壊活動防止法適用に始まり、盗聴法や児童ポルノ法などに対して、反対の意思を自身のウェブサイトで表明してきた私ですらそう感じるのだから、私と同じような状況に貶められている普通のフリーターたちが、さっさと左派に見切りをつけて右傾化するのは、当然といえよう。
 森達也氏は、私が「安定した職を欲しており、ギャンブルをしたいわけではない」とする一方で、戦争という「国民全体に降り注ぐギャンブル」を求めていることを「安易な書き飛ばしだ」と指摘する。
 しかし私は、この記述を間違えたつもりはない。
 団塊ジュニア世代が「就職時に不況であった」という理由だけで、本来得られるべき安定した生活を得られない。そして「自己責任論」のもとに、再チャレンジなどというギャンブルに身を投じるよう強いられる。その一方で富裕層はもちろん、安定労働層を含む既得権益層は、バブルを崩壊させた責任も取らずに、これまでの安定した生活が今後も保証されることを「当然である」と考え、反省の色を見せない。なぜバブルの恩恵を受けた人間が焼け太り、我々のように何の責任もないはずの人間が、不利益だけを受容しなければならないのか。
 左派の理論はそうした疑問に答えてくれない。左派の認識する「弱者」は私たちとはまったく別の場所にいる。私のような人間はその人権を尊重されない。
 このような左派の態度が、個人を尊重しない「無責任な態度」として映る一方で、「拉致被害者を救え」「国際貢献のために、自衛隊を派兵するべきだ」という右派の言説は、「国としての責任ある態度」と映る。
 右派の思想では、「国」や「民族」「性差」「生まれ」といった、決して「カネ」の有無によって変化することのない固有の 「しるし」によって、人が社会の中に位置づけられる。経済格差によって社会の外に放り出された貧困労働層を、別の評価軸で再び社会の中に規定してくれる。
 たとえば私であれば「日本人の31歳の男性」として、在日の人や女性、そして景気回復下の就職市場でラクラクと職にありつけるような年下の連中よりも敬われる立場に立てる。フリーターであっても、無力な貧困労働層であっても、社会が右傾化すれば、人としての尊厳を回復することができるのだ。
 浅ましい考えだと非難しないでほしい。社会に出てから10年以上、ただ一方的に見下されてきた私のような人間にとって、尊厳の回復は悲願なのだから。
 その意味で、鎌田慧氏の「クビが飛んでも動いてみせる、それがフリーターに与えられた自由ではないですか」という言葉には、ただでさえお金のないフリーターに人間の土台である経済的基盤を欠いてまで戦わせようとする左派の傲慢を見る。
 貧困労働層にとっては、不安定なまま活動を強制されるよりも、むしろ右派の論理で、人間の評価軸を「経済」から、日本人や性別などの固有性を重視する「道徳」に移し、社会的基盤を安定させるほうが手っ取り早い。
 さらに右派は、この国の現状を憂えて批判してくれる。戦後民主主義に立脚することによって、自覚なきままに貧困労働層の貧しさを必然としてしまう左派よりも、「戦後の日本はおかしい」と戦後民主主義そのものの誤りを批判し、社会道徳を復興させようとする右派の社会認識は、自身の現状に不満を持つ我々の考え方とうまくシンクロする。
 上の世代の人間が裕福で、私たちがこれほどまでに貧しいのは、「行き過ぎた個人主義」が一部の人間によるズルを容認してきたからではないのか。戦後民主主義を批判し、私が貧困状態にあるという「歪み」を責任をもって正そうとする右派的な考え方こそが、本当の弱者にとって有益なのではないか、との考えに私は至ってしまうのだ。

私は戦いたい
 しかし私は、左派に絶望しつつも、決して右傾化するつもりはない。
 いくら右派が責任を持つフリをしたとしても、しょせんは左派と同じ穴のムジナだからだ。左派が我々に不利益を押しつけるのと同じように、右派はナショナリズムをもって、マイノリティーに不利益を押しつける。
 結局、自分以外の他者に不利益を押しつけようとする卑劣な姿勢は、右左両派ともに同じである。いわばどちらも、特定の誰かの平和を維持するために、別の誰かに不平等を押しつける「平和・不平等」の考え方に立脚しているといえる。
 私は、そうした一方的な「不利益配分」の現状を問題視して、平等の観点から、公平な再配分を実現することを考えている。その一つの形が、好ましい安定性であるところの「平和」に対する不利益配分、すなわち「戦争」の配分である。
 誰かに安定性を欠くギャンブルを分配しなければならないのならば、ある一部の人たちだけではなく、全員にギャンブルを分配するべきであり、それは極力平等でなければならない。
 だから「あなたが戦争に巻き込まれるのだ」と言われたところで、それは当たり前だとしか思わない。自らが自らに不利益を配分することを了承して初めて、他人に対しても不利益を分配することができる。それが私の考える社会に対する責任の取り方だし、不利益を分配せざるを得ない時代の「平等」のありようではないのか。
 そうした考えから、左派に自らを位置づける私は、現在の右左両派のような「平和・不平等」ではなく、「戦争・平等」という方向性、すなわち「国民全員が苦しむ平等」を視線の先に据えているのである。
 だが本当に戦争のようなカタストロフィーが起きて、もし国民全員が苦しむ平等が達成されたとしても、そのような流動は極めて一時的なもので、安定を求める人たちがこうしたシステムを額面通り流動させたままにするとは思わない。戦争によって一度流動化したシステムも、やがてまた硬直化する。その時にはまた硬直化したシステムからはじきだされた人たちが、私と同じように異議を唱えることだろう。
 そこで私は自分にいくつかの宿題を押しつける。

1 戦争は、それ自体が不幸を生み出すものの、硬直化した社会を再び円滑に流動させるための「必要悪」ではないのか。戦争がなくなれば社会が硬直化、すなわち格差が発生し、一部の人に不幸を押しつけることになる。ならば、戦争がなく、同時に皆が幸福な社会というのは、夢物語にすぎないのだろうか?

2 成功した人や、生活の安定を望む人は、社会が硬直化することを望んでいる。そうした勢力に対抗し、流動性を必須のものとして人類全体で支えていくような社会づくりは本当に可能だろうか?

 これは一生モノの宿題であり、おそらく一生解けることはない。
 だが、少なくとも今後私がこの宿題を考えていけるかどうかは、私のようにフリーターになるしかない立場の人間に対して、社会が手を差し伸べるのか差し伸べないのかにかかっていることは間違いない。
「社会と戦え!」「もっと考えろ!」と言われるが、私は社会から逃げているつもりはないし、考えを放棄するつもりもない。私は社会と戦いたいし、もっと考えたい。
 しかし、いまのままでは、問題を考えようにも単純労働や社会の無理解に疲れ果て、酒やテレビなどの一時的な娯楽に身をゆだねるしかない。
 考える時間を得るためには、生活に対する精神的な余裕や、生活のためのお金がなによりも必要不可欠であり、それを十分に得られて初めて「考える」という行為をすることができる。
 そうした人間が、考えて活動するための「土台」を整備することこそ、私に反論する方々の「責任」ではないだろうか。

(赤木智弘)
朝日新聞社 「論座 2007年6月号」  

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コメント
 
01. 無生物 2012年1月27日 07:05:57 : ce0Ar6eaeTZ7w : 8cmLjyQH4H
「議論」というよりも「論争」としたほうがよいかもしれません。

小難しそうだから読むのも面倒で気にしていませんでしたが、朝日が出所だったのですね。

やはり朝日に煽動されていたのだろうか?


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