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古来、日本では『嘘吐きは泥棒の始まり』で無かったのか!?小沢と野田、どちらが嘘吐きか!総理になれば平気の平左が日本人か!
http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/600.html
投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 5 月 28 日 13:52:46: UiY46YlCu.Moc
 

池田隼人は『私は嘘は申しません』と広島県呉市本通り小学校講堂で演説していた。凄い聴衆だった。その後のケネディー。政治家は尊敬される対象だと長く信じていた。
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私は同郷の池田隼人と角栄に憧れた。小さい造り酒屋と没落農家の倅が総理に、今太閤に。戦後、農家の8人兄弟の末子の父が復員して貧乏借家・自営商売の倅が中学から勉強出来だし、塾にも行かずに広島県立高から東大文一に入った。母親も『池田隼人は京大だ。角栄さんは高等小卒で、お前は貧乏人の倅でも東大だ』。それだけが励ましだった。それで教養部時代から角栄を研究した。工務店未亡人との結婚=『けもの道』的興奮を覚えた。しかし、立花隆を調べても材料は誰かにもらい書いた様に思っていた。今で言う推認??の連続だった。文芸春秋は今思えばCIAの出版社か?創業資金を出して貰ったのか?と思った。茶々を入れてぶち壊すイメージで正義を成就させてくれない売れれば良いだけの雑誌だった。
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角栄失脚以来、憲法判例の変更・逆コースに失望した。日本には法律(仏)は作っても法の精神(魂)は入れさせない国だと呆れた。東大教授の法解釈が分からなかった。いつも答えが逆になり、嫌気がさした。記憶力は苦手で数学の公式もその場で作った程だ。ロジックが筋道立たないと覚えられなかった。納得出来なかった。実学の医学部・医者から熟年・後年に政治家を目指すべきだった。こんなデタラメな21世紀の日本を見せつけられて本当に怒り心頭な毎日だ!!許せない!!
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口先言うだけ松下塾番長政治家に我慢ならない!!55歳永田偽メールを見抜けず、民主党を一旦潰した前原・野田執行部!!その直接の上司管理責任者・張本人が野田だ!!それが法緋仙石陰謀謀略で総理だと!?国民は誰も彼をそう呼びたくないと思う!!実父を平気で『花の落下傘部隊?』と嘯き!!戦後の一般隊員らしいのに!?平気の平左!?正統性が全くない嘘吐き野豚が白蟻退治諦め、消費増税!!日本は狂っている。国民を搾取し、生活困窮に陥れ、盗ったお金を欧米に貢ぐ。狂っている!嘘吐きは泥棒の始まりではなかったのか!!!???
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鳩山・小沢正統民主党は『消費税は4年間上げない』と言ってくれたのと、将来の孫達の為の『こども手当』に感心し、応援すべく投票した。鳩山【命を守りたい】・小沢【国民の生活が第一】の政治家の演説に57年で初めて感涙した。日本史上初めての出来事だった。西国武士の明治維新も当初そうだったのか?あの1年弱は本当にワクワクし感激した1年だった。
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だから、動かない官僚や岡田外務や羽田の元秘書上がり防衛大臣の行動に疑問を持った。辺野古事案は済州島に韓国空軍海軍が基地を作ると記事で知ったので、20年定期借地代を日本が払い普天間基地を移設提案方、毎月の様に党・官邸・国民新党・社民党にメールした。その時、岡田にもメールしたのが、CIAスパイに情報提供していた事になったのかと自分に我慢ならない。官邸から『必ず総理に伝えます』の返信もあった。

日中韓3国首脳会談を済州島でやる様に鳩山が提案したと聞き、済州島移設提案してくれるのかと期待した。中国も来るので、小沢さんに裏交渉して貰えば三者了解は可能だと思っていた。本当の東アジア共同体=古代倭国【山東半島・遼東半島・韓半島・済州島・日本列島西部】再生に思えた。
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脱線:
御存じか?秦の始皇帝は中国人に非ず。中央アジアから来た西秦・東秦・秦帝国は中国人では無かったから、焚書坑儒が出来たのだ。秦の始皇帝も中国語よりヘブライ語が得意だったから、中国語の書物を焼いたのだ!?農業と医学:科学を除いて。その理由は解かるでしょ。日本も仏教論争で書物が焼けたのではなく、聖徳太子が遠縁の秦の始皇帝の焚書坑儒を真似て自分達の王権の正統性:万世1系伝説樹立して王権の安泰を図ったのだと。
中国王朝も北方騎馬民族が中国人に成りすまし王朝樹立も多い。唐等多数。
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復帰:
心根の優しいお坊ちゃん政治家の限界だった。何?ムク鳥が窓に来て辞める決意?信じれなかった。それが民主偽装簒奪政権の誕生の初めだった。馬面官房長官も松下電器出身?だった。坊ちゃんはゴマすり出世命男を見分けられないのか?と落胆した。1千万円も鳩山家子供手当のお零れを貰って置きながら、もっと働け!百済系帰化人が最も多い関西人は本当に信用出来ない輩だと思った。
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今週から9月まで、私まで政局好きにさせられる。
さあ、前回はクーデターだったから、今回はもう一度だけ、国民はチャンスをくれるはずだ。私もそうだ。【国民の生活が第一】の小沢さんを総理にし、日本再建をやって欲しい。それがダメなら、シンガポールにでも行こうか?円高の時に行った方がいいか?小沢さん、民主党議員さん早く決めてくれ!野田非正統代表を辞任させて政権交代選挙時にリセットしてくれ!!
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東京直下地震が来たら今度は本当に円・国債大暴落だ。もう時間はない。

国民に集団自殺を迫られている民主党議員は今度が最後のチャンスだ。

小沢で1年3カ月なら、まだ浮かぶ瀬も有る!!決起せんか!!腑抜けばかりか!!戦争で死んだ数百万の人達がアメリカ命の日本にした奴らを恨んでいる。戦後の逆コースを止めさせ、日本人の日本人によるに日本人の為の政治=国民の生活が第一=を実践して下さい!!嘘吐きは泥棒そのものだ!!
 

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コメント
 
01. 2012年5月28日 13:54:31 : vttaCDgwDE
どちらも同じ穴の狢だろ

02. 天橋立の愚痴人間 2012年5月28日 13:56:51 : l4kCIkFZHQm9g : saCmvQLjSs
小沢総理が、この秋に誕生しても、貴方の願いは99%実現できない。

シンガポール行きの準備をされることだ。


03. 2012年5月28日 14:09:13 : pphEUA8yso
誤:池田隼人 正:池田勇人です。
嘘も方便と都合の良い言葉があるが、国益を損ない、国民生活の安全と安心、財産保全上、危険が伴う嘘は遺感ぜよ!その時(駅前演説)その時(首相)によって発言が真逆に変転するは、責任ある人間には許されない野田、君。

04. 2012年5月28日 14:22:12 : KbjUzFqPyw
羽田秘書上がりはこの方でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーーーーーーーーーーーーーー

北澤 俊美(きたざわ としみ、1938年3月6日 - )は、日本の政治家。民主党所属の参議院議員(4期)、民主党副代表兼倫理委員長。参議院懲罰委員長。
長野県議会議員(5期)、参議院国土交通委員長、参議院国家基本政策委員長、参議院外交防衛委員長、防衛大臣(第7・8代)等を歴任した。
父は長野県議会議員を務めた北澤貞一。
目次 [非表示] 1 来歴1.1 生い立ち1.2 参議院議員1.3 鳩山由紀夫内閣1.4 菅内閣
1.5 野田内閣2 政策・主張3 人物4 所属議員連盟5 関連項目6 脚注7 外部リンク
来歴 [編集]
生い立ち [編集]
長野県長野市生まれ。長野県屋代高等学校、早稲田大学第一法学部卒業。早大卒業後、衆議院議員秘書を経て[1]、1975年に自由民主党公認で長野県議会議員選挙に出馬し、初当選。県議を17年にわたり務める。
参議院議員 [編集]
1992年、県議を5期目の任期途中で辞職。第16回参議院議員通常選挙に長野県選挙区から自民党公認で出馬し、当選した。翌年、同じ長野県選出の羽田孜に従い、自民党を離党し新生党結党に参加。1994年、羽田内閣で農林水産政務次官を務める。同年末、新進党結党に参加する。
しかし、新進党内では徐々に第2代党首の小沢一郎への反発が強まり、1996年末、羽田や北澤ら13人が新進党を離党し、太陽党を結成する。その後、1997年末の新進党解党により誕生した細川護熙元首相らのフロムファイブ、鹿野道彦や岡田克也、原口一博ら国民の声が合併し1998年に民政党を結成するが、間もなく民政党は旧民主党に合流し、新たに民主党が結成された。
2000年5月30日、森喜朗首相が「日本国は天皇中心にしている神の国であることを国民に承知していただく」と発言したことについて「明確な憲法違反、憲法否定であり、内閣総理大臣としての資格と資質を全く欠いたものである」とし、日本共産党、社会民主党と一緒に問責決議案を提出し、賛成討論を行った。また、「昨年の国旗・国歌法制定や昭和の日をめぐる動きをみると、自民党の思想的背景がかいま見える。21世紀の日本にとって危険な兆候であり、議会としてしっかりした対応をとるべきだと考えた」と意義を強調した[2]。
2007年9月、参議院外交防衛委員長に就任。
2009年7月14日、麻生太郎首相を「内閣総理大臣に不可欠な指導力、決断力、実行力のいずれに欠落し、国民に失望感のみ残したのが実情」と糾弾し、「解散時期のブレ、定額給付金をいったんはさもしいとまで言いながら結局受け取ったこと、党役員人事断念、日本郵政の西川社長を切らずに鳩山総務相を切ったこと、官僚任せ・好き放題の経済対策など」を理由に問責決議案を提出し、賛成討論を行った。また「あなたの人生最大の失敗は首相になったこと、いや首相になりたいという野望に取りつかれたことかもしれない。塩野七生さんは「虚栄心とは他者から良く思われたい心情であり、野心とは何かをやり遂げたい意志である」と言っている。(麻生は)首相になったとたんに野心を捨てて虚栄心だけの人になってしまったのではないか」と述べ、首相失格であると重ねて糾弾した[3]。
鳩山由紀夫内閣 [編集]
2009年10月21日、アメリカ合衆国国防長官ロバート・ゲーツ(左)に書を贈呈
2009年10月21日、アメリカ合衆国国防長官ロバート・ゲーツ(右)と
2009年9月、鳩山由紀夫内閣で防衛大臣に就任し、初入閣を果たした。当初、防衛大臣には野田佳彦の起用が報じられていたが、民主党内では比較的タカ派の傾向が強い野田の防衛相就任には、連立のパートナーである社会民主党や、民主党内のリベラル派からの反発を懸念する声が上がり[4]、北澤の防衛相就任に落ち着いた。北澤は参議院外交防衛委員長を務めた他は外交・防衛関係のポストには縁がなく、就任は意外感をもって迎えられた。
防衛大臣就任後、自衛隊インド洋派遣による給油について早々に中止する考えを表明したため、防衛省事務方の警戒感は強まったものの、のちに鳩山由紀夫首相退陣の引き金を引く普天間基地代替施設移設問題では、沖縄県外や日本国外への移設を志向する鳩山首相や福島瑞穂社民党党首、亀井静香国民新党代表らに対し、閣内ではいち早く県外、国外移設は不可能との結論を出し、従来の名護市辺野古沖に移設する案への回帰を打ち出し、岡田克也外務大臣と共同歩調を取る。2010年4月20日には鳩山首相に対し、机を叩いて従来の辺野古への移設案の受け入れを迫ったと報じられた[5]。
2010年4月29日から5月2日までの4日間「日印両国の防衛交流」を目的としインドを訪問[6]。4月30日にアントニー国防大臣と会談し、その中で北澤とアントニーは国防費増大を続ける中国に対し透明化を求めていく考えで一致し、北朝鮮の核開発・ミサイル発射などについて懸念を表明した。北澤がアントニーに北朝鮮による日本人拉致問題の解決に協力を要請した際、アントニーは「日本の考えや立場を共有している。全面解決に向け協力していきたい」と述べ協力することを表明した。会談後、北澤は中国の軍備増強に対抗し、南西諸島への陸上自衛隊部隊配備を表明し、2011年度予算案に調査費を計上する考えを表明した[7][8]。なお北澤は就任当初、日中関係への影響を懸念し、麻生内閣の浜田靖一防衛相の主導で検討された南西諸島への陸上自衛隊部隊配備を撤回する考えを示していた。
菅内閣 [編集]
2010年12月9日、アメリカ合衆国統合参謀本部議長マイケル・マレン(右)と
鳩山首相の退陣に伴い、2010年6月に発足した菅内閣でも防衛大臣に再任された。同年7月、第22回参議院議員通常選挙で4選を果たす。9月の民主党代表選挙では、北澤も所属する政権戦略研究会(羽田グループ)は、羽田孜を中心に小沢一郎支持を打ち出したものの、菅内閣の閣僚である北澤は早々に菅直人首相再選支持を表明し、対立候補である小沢一郎の外交・安全保障政策を批判した。菅の再選を受け、一時は枝野幸男の後任の民主党幹事長への就任も取り沙汰されたが、菅第1次改造内閣でも防衛大臣に再任された。翌2011年1月の菅第2次改造内閣でも防衛大臣に留任し、2009年9月の鳩山内閣発足以来、同一の職に留まる唯一の閣僚となった。防衛大臣として安定感ある仕事ぶりに省内の評価も高く、留任を望む声が多かったという[9]。
2010年末、菅首相らがたちあがれ日本に連立政権への参加を打診した際、当初は岡田克也幹事長が交渉の窓口であったが、連立協議が不首尾に終わると、菅は交渉役を岡田から北澤に切り替え、その結果たちあがれ日本から与謝野馨を単独で離党させ、菅第2次改造内閣で入閣させることに成功した[10]。
2011年3月11日に発生した東日本大震災において、震災当日東京電力の清水正孝社長は自衛隊に対し輸送機での東京への移動を要請したが拒否し、行き違いですでに飛び立った清水社長を乗せた自衛隊機に名古屋へ引き返すよう命じた。その結果、清水社長は翌朝になって東京に到着した[11]。3月14日大規模震災災害派遣を決定[12]。 同年9月2日、菅内閣総辞職に伴い防衛大臣を退任した。2009年の鳩山内閣発足以来、唯一同じ閣僚の職に留まり、連続在任記録は坂田道太防衛庁長官の746日に次ぐ第2位の717日であった(通算在任記録は防衛庁長官・防衛大臣の両方を経験した石破茂が坂田を上回るため、北澤は歴代第3位)。
野田内閣 [編集]
次いで成立した野田内閣では入閣せず、民主党副代表・倫理委員長に就任。しかし後任の一川保夫が失言や指導力不足で批判を浴びると、2012年1月の内閣改造で再任も取りざたされたが、同じ参議院の実力者である輿石東が反対したとも報じられ、実現しなかった。その後、参議院懲罰委員長に就任。
政策・主張 [編集]
2011年4月4日、空母ロナルド・レーガンにて日本駐箚アメリカ合衆国大使ジョン・ルース(右)と。前列左は杉本正彦海上幕僚長
2011年4月4日、空母ロナルド・レーガンにてトモダチ作戦に参加するアメリカ合衆国軍兵士から「OPERATION TOMODACHI」と書かれた旗を贈られる
静岡空港
2003年、静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている[13]。
防衛費の見直し
行政刷新会議の被服購入費について隊員の制服を海外調達などによる削減という結論に対して、防衛大臣として「軍服を海外に依存するなんて話は世界中で聞いたことがない」と国内調達を重要視する観点から述べた。また、所謂思いやり予算を見直すべきとの問題提起に対しても「相手のある問題だから、もう少し防衛省に任せてもらいたい」と苦言を呈している。
武器輸出三原則
2010年1月12日には日本防衛装備工業会の賀詞交換会にて「武器輸出三原則の基本的な考え方を見直していくべきだ」という趣旨の発言を行い[14]、連立相手の社会民主党が反発、鳩山由紀夫首相がこれを否定する騒ぎとなった[15]。
普天間基地代替施設移設問題
2009年11月2日の衆院予算委員会の質疑において、新進党在籍時の国会での橋本龍太郎首相に対する代表質問の中で沖縄県宜野湾市の普天間飛行場の移設計画をめぐり、辺野古への移設をはじめとする日米の政府間合意を「極めて現実的なプランである」「実現が遅れれば米国に不信感が生じ、日米関係に影を落とし、日米安保の土台が揺らぐ可能性がある」と述べていたことを自由民主党の町村信孝から指摘された。町村からの「現在もこのような認識を持っているか」との質問に対し、「危険を除去するという大きな観点で申し上げたことで、個々の処理について今と同じかと言われると、なかなか複雑なところがございます」と答弁した[16]。
2010年4月8日の参院外交防衛委員会で、米軍普天間飛行場移設問題の地元交渉に自信はあるかとの佐藤正久の質問に対し「オリンピック招致やバイパス道路を造るのではなく、一般的にいえば迷惑な施設としての米軍の駐留地を建設する。大変な反対の中で犠牲を払ってやっていただくわけで、並大抵のことではない」「自信があるとかないの話ではない。覚悟の問題」と述べた[17]。
鳩山由紀夫元首相が米軍普天間飛行場の県外移設を断念した理由として海兵隊の抑止力を挙げたのは「方便だった」と発言したことを受け北澤は16日の衆院予算委員会で「私の人生の中でも一、二を争う衝撃的なことだった」と述べた。なお、この発言を受け自民・公明両党は鳩山前首相の参考人招致を要求した[18]。
外国人参政権
2010年2月9日の衆院予算委員会において、外国人参政権に賛成かとの高市早苗の質問に対し「地方参政権であれば、しかも、それは被選挙権を除いて選挙権だけということであれば、賛成をいたしたいと思う」と答えた。また高市の「在日韓国人・中国人は母国に対し国防義務を負っている。地方参政権といえど日本の安全保障に影響が出ることは皆無か」との質問に対し「私は世代が皆さん方より上でしてね。だから、在日の方々、あるいは中国から来た人達が、戦前戦中とどんなに酷い目に遭っていたか、いささか承知をしている」「法は法としてありますけれども、そういう意味での危険性はないというふうに思っている」と答えた[19]。
日中関係
2010年7月25日、沖縄県与那国島への陸上自衛隊の配備について「アジア諸国と連携していく情勢のなかで、いたずらに隣国を刺激する政策はどうかと思う」と発言した。しかし、のちに一転して、南西諸島への陸上自衛隊部隊の配備に前向きな考えを表明した。
尖閣諸島中国漁船衝突事件
2010年11月11日、尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件の海上保安官が該当映像を流出させた件において、「きのう鈴木長官が動揺している姿はよく分かった。しかし、責任の所在は明らかにして、しかるべき責任を取っていくべきだ」と発言した[20]。
自衛隊と政治的主張
2010年2月11日、10日から始まった日米共同訓練の開始にて、第44普通科連隊長の1等陸佐が「同盟というものは、外交や政治的な美辞麗句で維持されるものではなく、ましてや『信頼してくれ』などということばだけで維持されるものではない」と述べ、訓練の意義を強調したが、複数のメディアがこの発言が首相に対する批判にあたると問題視した。2010年3月3日の参議院予算委員会にて、この問題に対して脇雅史から質問を受けた北澤は、「それは国家の意思である政治や外交を否定するがごとき発言である、さらにまた総理の発言をやゆするような内容の発言があった」「現場の指揮官が日米の合同のスタートのところで批判するというのは、組織、ましてや実力を持った自衛官の指揮官としてはあるまじき行為」と批判した[21]。防衛省は、この連隊長を文書注意処分としたのち、同年3月23日付で陸上自衛隊研究本部主任研究開発官とする事実上の更迭処分とした[22]。
2010年3月11日、衆院安全保障委員会において自民党の中谷元が連隊長処分に関して「自衛隊員は国のために一生懸命頑張っている。彼の真意を忖度(そんたく)してあげてもらいたい」と発言したのに対し、「私は、各施設を視察する中で、自衛隊員に対する愛情は日々深まっております。信頼もいたしております」と述べた上で、「服従の誇りというものを大事にして、組織を大切にする」「自衛隊を賛美して甘えの構造をつくることが最も危険だ。自衛隊が頑張っているからすべてがいいとなれば政治の存在がなくなる。昭和の陸海軍の歴史でも明らかだ」と答弁した[23]。
民間人への言論封殺
2010年11月3日に航空自衛隊入間基地(埼玉県狭山市)が開いた航空祭で自衛隊を後援する民間団体「航友会」会長の荻野光男(元陸軍パイロット)が挨拶の中で「菅政権をぶっつぶしましょう」と発言したことを伝え聞いて、北澤ら政務三役が激怒し[24]、平成22年4月4日付けで防官文第4206号なる事務次官通達[25]を行った。この通達では、発言を自衛隊法などの「政治的行為の制限」違反との誤解を招く「極めて不適切な発言」と断じた上で(1)政治的行為と誤解されることを行わないよう参加団体に要請(2)誤解を招く恐れがある場合は参加を控えさせる−などの対応策を指示している。これを受け荻野は当初「組織に迷惑はかけられない」と今後の行事では政権批判を自粛する考えを示したものの、その後の取材で「自民党政権時代から、自衛隊や政治に苦言を呈してきたが、今回突然、民主党政権が言論封殺に出てきた。民主党は『言論の自由』を奪い、日本をつぶす気なのか」と述べている[26][27]
2010年11月22日の参議院予算委員会で、北澤はこの通達について「言論封殺とは全く考えていない」と答弁し通達撤回を否定した[28]。しかし、11月26日の衆議院予算委員会では、自衛隊側が就職支援団体の会合に先立ち、これまでに民主党政権を批判する発言を行った民間人にあいさつさせないよう要請し、別の民間人に「発言に気を付けるように」と民間人への言論封殺ととらえかねない事例が明らかにされたにもかかわらず、北澤は撤回を拒否した[29]。
11月18日、この通達に関する参議院予算委員会の質疑で仙谷由人内閣官房長官(当時)が自衛隊を「暴力装置」と発言したことに対し、北澤は「誠に残念なことだ」と述べた。
人物 [編集]
2009年9月29日、アメリカ合衆国太平洋軍司令官ティモシー・キーティング(右)に旭日大綬章を伝達
2009年1月26日、両院協議会議長にクジ引きで当選したことに対し「人生最高の瞬間でした」とコメントした[30]。
鳩山由紀夫内閣にて防衛大臣に就任した際、首相官邸で行われた初の閣僚記者会見で国旗に一礼せず登壇・降壇したため、潮匡人から「防衛大臣が国旗に一礼しないとは何事か」と批判された。菅内閣発足時の首相官邸での就任記者会見では、北澤を含む全閣僚が国旗に対して一礼してから登壇した[31]。
菅直人首相の信頼が特に篤いことで知られる。1998年に菅代表の下、参議院国会対策委員長として国会対策を取り仕切った経験から、菅は北澤を「私の家庭教師」と仰いでいるという。
同じ長野県選出の羽田孜を師と仰いでおり、自民党、新生党、新進党、太陽党、民政党、民主党と常に行動を共にしている。現在も民主党内で羽田グループに所属している。ただし、2010年9月民主党代表選挙では、小沢一郎を支持した羽田らに対し、菅内閣の閣僚として菅首相の再選を支持した。

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馬面官房長官、松下労組はこの方です。
和歌山は秦の徐福が上陸したと伝承された場所。明の豪商も清南下で新宮から上陸。中国人には徐福が神武天皇説あるらしい。
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平野 博文(ひらの ひろふみ、1949年3月19日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(5期)、文部科学大臣(第16代)、民主党大阪府総支部連合会常任顧問、雄志会会長(初代)。
内閣官房長官(第77代)、衆議院安全保障委員長、民主党国会対策委員長(第16代)などを歴任した。
目次 [非表示]1 人物2 経歴2.1 国会議員として2.2 内閣官房長官2.3 内閣官房長官退任後2.4 民主党国会対策委員長2.5 文部科学大臣3 脚注4 関連項目5 外部リンク人物 [編集]

身長179cm、体重72kg、血液型B型。鳩山由紀夫が信頼する側近の一人である。
経歴 [編集]

和歌山県伊都郡かつらぎ町出身。和歌山県立笠田高等学校、中央大学理工学部電気工学科(現・電気電子情報通信工学科)卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)入社。
国会議員として [編集]
日本社会党の中村正男衆議院議員の秘書を経て、1996年第41回衆議院議員総選挙に電機労連の支持を背景に無所属で初当選。
1998年民主党入党。党新潟県中越沖地震事務局次長に就任。党副幹事長、国会対策委員長代理、党幹事長代理を歴任。党大阪府総支部連合会代表。
2009年5月、党総務委員長代理(役員室担当)に就任し、代表の鳩山由紀夫を支えた。同年8月30日の第45回衆議院議員選挙では井脇ノブ子をダブルスコアで下し、5選を決めた。
内閣官房長官 [編集]
2009年11月13日、在日本アメリカ合衆国大使ジョン・ルース(左から2人目)、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ(左から3人目)、内閣総理大臣鳩山由紀夫(右から3人目)、外務大臣岡田克也(右から2人目)らと
2010年1月9日、嘉手納飛行場にて第五空軍第十八航空団司令官の空軍准将ケン・ウイルズバック(右)と
鳩山由紀夫内閣発足にともない内閣官房長官に就任した。当初は菅直人の就任が有力視されたポストだが、鳩山の最側近であることに加え、堀江メール問題や党衆議院議員前田雄吉のマルチ商法業界との癒着問題など、党を揺るがす事件で収拾に手腕を発揮、危機を救ったことで危機管理のエキスパートとして評価を高めていたことが就任につながった。
『週刊文春』によると、これまで歴代民主党代表は政権交代後もすべてのメディアに記者会見を開放することを公言していたにもかかわらず、官房長官に内定した平野は早々に既存の大手メディアの記者クラブと結託して、2009年9月16日の総理大臣鳩山由紀夫の就任記者会見を記者クラブと一部の雑誌・外国人特派員のみ参加を認めたが、フリーランスのジャーナリストやインターネットメディアの参加は一切認めずに排除したという[1]。
外国人参政権問題については、地方自治体での決議で外国人参政権付与に反対の決議が多数出されるなか、「自治体のみなさんの決議・意見は承知していないが、そのことと、この問題とは根本的に違う問題だ」、「地方自治体の問題ではなく、わが国に住んでいる住民の権利としてどうなのかという概念だ」と主張し、政権公約に掲げられている「地方主権」とは別問題であるとの見解をしめしている。
枝野幸男の首相補佐官人事が棚上げになっていることに関して、平野が嫉妬しているからではという報道がなされた[2](2月に枝野は行政刷新担当大臣に起用された)。
普天間基地代替施設移設問題において、沖縄県民の負担の軽減策として、普天間飛行場のヘリコプターの機数削減やヘリ部隊の沖縄県外などへの移転を挙げたほか、「極端な話」と前置きした上で、普天間飛行場周辺の住民移転(事実上の強制移住)も挙げた。2010年1月の沖縄県名護市の市長選で米軍基地移設に反対する稲嶺進が当選したことを受けて、選挙の直後、平野は「民意を斟酌しなければならない理由はない」と発言した。これに対して、当時の民主党と連立を組んでいた社民党の照屋寛徳は、「けしからんどころか、ぶん殴りたい。政治家としての感覚を疑う」と平野を激しく非難した[3]。1月26日の記者会見で「理解は求めなくてはいけないが、合意が取れないと物事を進められないものなのか。日本の安全保障にかかわってくる問題だ」と述べ、沖縄県民の同意の必要性はないとの認識を示した[4]。
2010年2月15日夜に非公表で東京を離れて地元の大阪に行っていた事が明らかになった。危機管理を担当する官房長官が非公表で東京を離れることは異例であり、問題視されたが平野はその後の記者会見で「コメントしない」と述べ、説明を拒否した[5]。
官房長官としては、新政権が志向した官邸主導の政治体制のなかで、政権交代後の政府・与党が抱えるさまざまな諸問題に対応した。特に困難を極めた普天間飛行場移設問題を巡っては中心的役割を果たし、徳之島移転案の策定と推進に深く関与したとされる。政権への批判が強まるにつれて、党との調整や国会答弁を巡って批判を浴びることもあり、党内の一部からは、内閣改造による更迭を求める声が起きていたが、具体化することはなかった。本人は批判を浴びた折にも、「俺の屍を越えて行け」、「自らの進退は首相にあずけている」と発言していた。
2010年5月28日、普天間基地代替施設移設問題で辺野古への移設に反対する福島瑞穂の罷免を受け、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)事務代理、内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)事務代理、内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)事務代理を兼任。6月4日の鳩山内閣総辞職に伴い、内閣官房長官を退任した。鳩山の退陣表明の前日、本人から直接最初に辞意を告げられた一人であり、その際は人目をはばからず号泣したという。
内閣官房長官退任後 [編集]
退任後一時的に表立った活動を控えていたが、7月の第22回参議院議員通常選挙で参院の与党の議席数が過半数を割る敗北を喫したため、徐々に菅ら執行部への批判を強め、9月の民主党代表選挙への小沢一郎擁立に向けて活発に動いた。当初は菅支持を示唆していた鳩山が小沢と連携するきっかけとなった8月24日の両者会談も平野が仲介したとされる[6]。9月1日の小沢の代表選出馬決起集会ではスピーチを行った。
菅改造内閣発足後、衆議院安全保障委員長に就任した。また、2010年12月14日には雄志会という政策グループを立ち上げ、平野は会長に就任した。一部マスコミでは「平野グループ」と紹介されることもある。2011年8月には民主党代表選挙への出馬を検討し、党代表選挙事前説明会に出席するも、結局出馬はしなかった。
民主党国会対策委員長 [編集]
2011年8月31日、野田佳彦代表の下で、民主党国会対策委員長に就任した。党内融和を図る野田の意向で、対立している鳩山グループからの起用となった。同年9月7日の与野党国対委員長会談では「今の内閣は不完全な状態で、十分な国会答弁ができない」と話し、物議を醸した。9月16日には国会の会期延長を巡り党内が混乱、松本剛明・加藤公一両国対委員長代理と松野頼久国対副委員長が辞表を提出する騒ぎとなった(その後撤回)。野党とのパイプが細く、根回し下手という声が党内外から挙がっている。
文部科学大臣 [編集]
2012年1月13日、野田改造内閣の文部科学大臣に就任する。なお、野田改造内閣発足にともない、マスコミ各社は新閣僚名簿を報じたが、一部のマスコミは平野が鳩山グループに所属していると報じた[7][8]。これに対し、所謂「鳩山グループ」と通称される「政権公約を実現する会」の事務局では、マスコミ各社に対して「平野氏は鳩山グループではない」[9]と訂正を申し入れる騒動となった。産業経済新聞社では「民主党は議員が複数のグループに所属する傾向があり、こうした混乱を招いたようだ」[9]などと釈明している。
1月28日、民主党大阪府連代表を辞任し、常任顧問に就任。辞任理由は、「閣僚になったことで、党と政府という関係になり、トラブルがあってはならない」ためである[10]。
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05. 2012年5月28日 14:28:44 : KbjUzFqPyw
秦の始皇帝の焚書坑儒は何故起こったか???非中国人だから以前の歴史を征服者が消し去ったのだ!!

それを真似たのが聖徳太子で、古代文書は皇室に保管されている。世界遺産級の人類の大遺産だ。

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秦(しん、拼音:Qín、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は嬴(えい)。統一時の首都は咸陽。
目次 [非表示] 1 歴史1.1 周代1.2 春秋・戦国時代1.2.1 春秋時代1.2.2 戦国時代
1.3 統一王朝2 政治2.1 官制2.2 法制3 経済4 文化5 秦の歴代君主5.1 秦君5.2 秦公5.3 王5.4 皇帝6 関連項目7 外部リンク歴史 [編集]

周代 [編集]
紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子(中国語版)が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の張家川回族自治県一帯)であったという。伝説上では嬴姓は帝舜の臣伯益が賜ったとされている。秦は殷の紂王に仕えた奸臣悪来の末裔とされるが、後に秦が西戎の覇者となった事、非子が馬の生産に携わっていたことから西戎の一派であったという説もある。
紀元前822年に荘公が西垂(現眉県)の大夫になった。
春秋・戦国時代 [編集]
春秋時代 [編集]
紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、様々な人種(ギリシャや中東系などの混合?)で構成されていた国であった為か、中原諸国から野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍(現在の陝西省鳳翔県)に置いた。
九代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱(中国語版)で混乱すると、恵公を擁立するが、恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死んだ後に恵公の兄重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治世時には晋にやや押されぎみになった(殽の戦い(中国語版), 彭衙の戦い)。紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。それでもそれなりの力は保持していたものの春秋中期以降の主役は北の晋と南の楚であり、それに西の秦と東の斉が脇を固める変則的な四強時代を作っていた。
戦国時代 [編集]
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した(晋陽の戦い(中国語版))。この内の魏が戦国初期には名君・文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(陽狐の戦い(中国語版))。紀元前383年、献公は櫟陽(中国語版)(れきよう, 現在の西安市閻良区)に遷都した。
この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制へと生まれ変わらせた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の徹底的な法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に古都・陽(現在の陝西省咸陽市)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。
その後、孝公の子の恵文王が紀元前324年に王を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・燕・斉の五ヶ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い(中国語版))。紀元前316年に恵文王は蜀(四川省)を占領し、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃が行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の武王と張儀との確執があったために張儀が魏に亡命、さらに韓との激戦での辛勝により多くの兵を失った上に自身は突如事故死し、後継者争いが起きてしまい戦力が後退してしまう。
紀元前298年、斉の宰相・孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章(中国語版)を統帥として秦に侵攻した(三國聯軍攻秦之戰)。秦が函谷関に追いつめられると趙・宋も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、殷の末裔である宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。紀元前288年には田斉の湣王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、首都臨淄が陥落(済西の戦い(中国語版))。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉、西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。
恵文王の子で武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相・魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より逃亡した范雎を登用し、統一へ向かっての提言を次々と行なった。范雎は魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっていることを憂慮し、昭襄王に対し魏冄らを退けることを進言、実行した。次に范雎が進言したのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地が手に入り、それはすぐに秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。
紀元前260年に白起を趙に侵攻させ、白起は長平の戦いで趙軍を撃破し、趙の捕虜40万を坑(穴埋にして殺すこと)した。白起は大戦果を上げたが、そのため范雎に妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。翌紀元前259年、将軍を王齕に替えて趙を攻めたが、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君の活躍によって退けられた(邯鄲の戦い(中国語版))。この事態を打開すべく白起を任じようとしたが、先の件から不信を持ち王命を拒否した結果、自害を迫られ死亡した。
これと時を同じくして商人の呂不韋が趙でひもじく過ごす子楚を見つけ、子楚に投資をし荘襄王として即位させる。荘襄王は呂不韋の愛妾のひとりをもらい受け、子供を生んだ。それが政である。紀元前255年に完全に周を滅ぼしてその領地を接収した。周滅亡後の紀元前247年、魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦に攻めてきたため、王齕と蒙驁が迎え打ったが敗れて函谷関まで撤退した(河外の戦い(中国語版))。秦が信陵君に流言を流すと、魏の安僖王(中国語版)が信陵君を政治から離した為、秦は危機を脱することが出来た。
ーーーーーーーーーーーーーーー以下略・引用終わりーーーーーーーーーーーーー


06. 2012年5月28日 15:06:15 : KbjUzFqPyw
03の方へ:感謝します。息子のPC設定【ノートン】で変換が一段下がるのです。郷里の偉人を誤記・言い訳。この際、初めて履歴参照しておきます。
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池田 勇人(いけだ はやと、1899年(明治32年)12月3日 - 1965年(昭和40年)8月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。
目次 [非表示] 1 概説2 生涯2.1 生い立ち2.2 学生時代2.3 大蔵省時代2.4 政治家として2.5 内閣総理大臣3 語録4 逸話5 栄典6 家族・親族7 系譜8 著書9 脚注10 参考文献11 関連項目12 関連人物13 外部リンク概説 [編集]

大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りし、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の経済運営・安全保障政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。
首相としては所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家である。また、19世紀生まれの最後の首相でもある。
生涯 [編集]

生い立ち [編集]
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)に父・池田吾一郎、母・うめの二男として生まれた。父は酒造りと郵便局長をやっていた[1]。生家が造り酒屋というのは、当時の政界進出者の一典型で、地元では素封家ということになる[2]。
学生時代 [編集]
旧制忠海中学校、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業。
高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作(のちの首相)と同じ宿に泊まり合わせた[3]。池田は忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れた[4]。
なお、この時期の高等学校受験は「総合共通選抜制」と呼ばれる共通試験制度によって行われていたため、池田は試験には合格したが希望していた旧制第一高等学校ではなく五高に回された。池田は1年休学して再び一高を目指したが翌年も一高には入れず五高に進学。佐藤栄作は一度目の受験でそのまま五高に進学したため、一年先輩となっている。大学も東京帝国大学には入れず京大に進学したが、ここでは成績はトップクラスだった[5]。なお、学生時代の同窓によれば、池田はそれほど勉強家というわけではなかったが、試験の山勘は異常に鋭かったという[6]。
大蔵省時代 [編集]
1925年(大正14年)に大蔵省へ入省した。入省同期に山際正道などがいる。
入省後は地方を廻り、1927年(昭和2年)から函館税務署長、1929年(昭和4年)から宇都宮税務署長を務める。しかし宇都宮税務署長の時に落葉状天疱瘡を発症したため、大蔵省を休職する。病気はなかなか治らず、1931年(昭和6年)2年間の休職期間が切れたため大蔵省を退職することとなる。
生死を彷徨った5年間には、直子夫人との死別、看病に献身した遠縁の大貫満枝との再婚といった出来事もあり、長い闘病生活は池田の人生観に大きな影響を与えた。 1934年(昭和9年)に奇跡的に病気が完治。大蔵省を退職していたため池田自身は日立製作所への転職を一度は決めていたが、大蔵省からの勧めで同年12月に新規採用という形で玉造税務署長として復職した。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。
復職後は病気での遅れもあり、税制関係の地味なポストを歩み続けたが、末っ子で気儘に育てられ呑気な性格だった池田が、復帰後は一転凄まじい勉強と仕事に打ち込み、厳しい徴税ぶりは「鬼」と渾名されるほどであった[7]。やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長、主税局経理課長を経て、1941年(昭和16年)に主税局国税課長となり、ようやく遅れを取り戻した形となった。本人は後に国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。東京財務局長を経て、1945年(昭和20年)2月に主税局長となり、そのまま終戦を迎えた。1947年(昭和22年)2月、第1次吉田内閣で石橋湛山大蔵大臣の下、主計局長だった野田卯一を飛び越す形で大蔵次官に就任。終戦、公職追放などによる人事の混乱に加え、池田の政界入りの野心を見てとった石橋の親心も作用したようである[8]。
政治家として [編集]
1949年、ジョゼフ・ドッジ(手前右)と
1956年、内閣総理大臣石橋湛山(最前列中央)ら石橋内閣の閣僚と
1948年(昭和23年)に大蔵省を退官し、翌1949年(昭和24年)の第24回衆議院議員総選挙に出馬し初当選を果たす。
選挙後の同年2月16日、1年生議員でありながら、吉田茂が党内の反対を押し切って第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢。宮島清次郎や桜田武といった財界人の推薦があったといわれる。第3次吉田政権は、その後内閣改造を計3回行ったが、いずれの内閣改造でも池田は大蔵大臣に留まった。大蔵大臣としては(後の所得倍増計画に見られる積極策ではなく)引き締め政策を採り、同年3月1日にジョゼフ・ドッジと会談し、6日後の3月7日に共にドッジ・ラインを実施した。また同年、吉田の密命を受けて訪米し、独立後の基地提供について米国と協議した。なお、1950年(昭和25年)2月17日から同年4月11日まで通商産業大臣を兼務した。
1952年10月30日に発足した第4次吉田内閣では、通商産業大臣と経済審議庁長官を兼務し入閣した。
しかし、第3次吉田内閣にて大蔵大臣・通商産業大臣を務めていた1950年(昭和25年)3月1日、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」との発言が問題となる。また、第3次吉田第1次改造内閣にて大蔵大臣を務めていた同年12月7日、「貧乏人は麦を食え」と発言したとして話題となる(実際は、参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎の質問に答えた中で、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたい」という発言を当時の新聞が改ざんして報道した言葉。)さらに、第4次吉田内閣にて通商産業大臣・経済審議庁長官を務めていた1952年(昭和27年)11月27日、日本社会党加藤勘十の「中小企業発言」の確認に対し「経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と再度発言したため、翌日に不信任案が提出・可決され辞任に追い込まれた[9]。
しかしその後も党・政府の要職を歴任する。1953年(昭和28年)に自由党政調会長に就任し、池田・ロバートソン会談で再軍備を巡る交渉を行う。1954年(昭和29年)7月26日に自由党幹事長(12月29日まで)、1956年(昭和31年)12月23日に成立した石橋内閣では大蔵大臣[10]、1958年(昭和33年)6月12日に成立した第2次岸内閣では国務大臣[11]。
1959年(昭和34年)6月18日の第2次岸内閣改造内閣では通産大臣にそれぞれ就任した[12]。岸内閣のころから、下村治をはじめとするエコノミストや官僚系議員たちとともに「所得倍増」のもととなる政策構想を練り上げていく。1957年には自らの政策集団・派閥である宏池会を結成した。
内閣総理大臣 [編集]
日本全国を争乱の渦に巻き込んだ60年安保で岸政権が倒れると、1960年(昭和35年)7月14日に自由民主党総裁選挙に立候補して当選し、自民党第4代総裁に就任した[13]。5日後の7月19日、内閣総理大臣に就任し、第1次池田内閣が発足した[13]。池田は第1次池田内閣で中山マサを厚生大臣に起用し、日本初の女性閣僚が誕生した。池田が総理となると、池田は政治的論争となりうる課題を極力避け、「所得倍増」をスローガンに掲げて経済重視の内政主義を打ち出した。そして国民の怒りを一身に集める結果となった前政権の反省から、池田政権は徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を全面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。「寛容」は宮澤喜一、「忍耐」は大平正芳の発案によるという[14]。
政権発足早々の同年10月12日、日比谷公会堂で行われた自由民主党、民社党、日本社会党の党首立会演説会の壇上、社会党の浅沼稲次郎委員長が暴漢によって目前で刺殺される浅沼稲次郎刺殺事件が起こった。この事件の直後に池田が衆院本会議で行った追悼演説は今日でも名演説として知られている(後述)。
同年11月20日の第29回総選挙で自民党は60年安保の影響もなく議席数を伸ばし勝利する。これを受けて同年12月8日に第2次池田内閣が発足すると、以前から言及していた「所得倍増」を目指す構想を実行に移し、12月27日に所得倍増計画の閣議決定をする。
外交ではアメリカ合衆国・東南アジア・ヨーロッパ・オセアニアを歴訪した。1961年(昭和36年)6月19日に訪米し、ジョン・F・ケネディ大統領と会談。同年11月11日に非公式来日した朴正煕国家再建最高会議議長と会談した後、16日から東南アジア4カ国(パキスタン・インド・ビルマ・タイ)を訪問した。1962年(昭和37年)は11月4日からヨーロッパ七カ国(西ドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・イタリア・オランダ・バチカン)を訪問した。フランスとの首脳会談の際にシャルル・ド・ゴール大統領から「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されながらも、イギリスが日本に対し最恵国待遇を保証した日英通商航海条約を11月14日に調印するなど、成果を挙げる。1963年(昭和38年)9月23日からは東南アジア(フィリピン・インドネシア)・オーストラリア・ニュージーランドの4カ国を訪問した。
また、池田政権では経済成長により日本の国際的地位も向上した。1963年(昭和38年)2月11日、OECD加盟申し込みを言明し、翌1964年(昭和39年)4月28日にOECD加盟を果たした。さらに同年、日本はIMFの8条国(国際収支上の理由で為替制限ができない国)へ移行。同年9月7日のIMF東京総会で池田は演説を行い、日本の経済成長を誇り、それを資金面で支えたIMFに対し謝意を示した。ほかに、1963年8月14日、部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印し、1964年6月15日に批准した。
1961年(昭和36年)
4月17日に来日した『ララミー牧場』・主人公ジェフ役のロバート・フラーを招く。
6月12日、農業基本法公布。
7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第1次改造内閣[15]。
1962年(昭和37年)
7月14日、自民党総裁選再選[16]。
7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第2次改造内閣[16]。
1963年(昭和38年)
7月18日、内閣改造。第2次池田内閣第3次改造内閣。
11月5日、郡山市で遊説中、右翼に襲われる。
12月9日、第3次池田内閣発足。
1964年(昭和39年)
7月18日、内閣改造。第3次池田内閣改造内閣。
9月9日、国立がんセンターへ喉頭癌の治療のため入院。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表された。東京オリンピック閉会式の翌日の10月25日に退陣を表明し、11月9日に後継総裁として佐藤栄作を指名した[17]。
その年の12月に退院するが、翌1965年(昭和40年)7月29日、東京大学医学部附属病院に再入院する。8月4日に手術を受けるものの、8月13日、術後肺炎により死去。65歳没。
葬儀は自民党葬として行われた。葬儀委員長は佐藤栄作。戒名は大智院殿毅誉俊道勇人大居士。墓所は故郷の広島県竹原市と東京都港区青山霊園にある。
語録 [編集]
池田勇人の語録には、後世に歴史的失言として記憶されているものや、当時の流行語にまでなった有名な発言などが多い。
貧乏人は麦を食え
第三次吉田内閣で吉田は一年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。
1950年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した。
翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言のように伝わってしまい、各方面から強い批判を受けることになった。[18]
中小企業の五人や十人…
2年後の第三次改造内閣で池田は通産大臣になっていたが、1952年11月27日の衆院本会議で右派社会党の加藤勘十の質問に対し、池田は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」と答弁した。
これに対して野党からは「中小企業を倒産させてよいのか」というヤジと怒号が飛び、議場は一時騒然となった。翌日の新聞はまたしても「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」とこれを報道。
これを受けて野党が提出した池田通産相不信任案が自由党反主流派の欠席によって可決されると、池田は辞任に追い込まれた。その後池田は自宅に引きこもってしまったが、宮沢喜一秘書官の証言では「これで終わった。明日は土曜日だな。週末旅行でもするか。」と話して[19]さばさばした様子であった[20]。なおこの辞任記者会見の際に「私は正直すぎた。政治家として終戦以後色々あったが政治家には向いていないのかもしれない。」という政治の道を諦めるかのような発言をしている。
低姿勢
1960年11月20日の第29回総選挙に先立っては自ら自民党のテレビCMに登場して、本音しか言えない池田というイメージを逆手に取って「私はウソは申しません」と言い切った。これらいずれもが当時の流行語となり、これが世論を背景にした政権運営という新しいスタイルに先鞭を付けるものともなった。
君は…
浅沼稲次郎暗殺事件の発生をうけて池田が衆院本会議場で行った追悼演説は、故人に対して「君」とよびかけ、大正末年に浅沼の友人が浅沼のことをうたった詩「沼は演説百姓よ、よごれた服にボロカバン、きょうは本所の公会堂、あすは京都の辻の寺」を引用するなど型破りな演説で、社会党議員が涙を拭うほどだった。池田のこの演説は今日でも国会における追悼演説の傑作のひとつに数えられる名演説として知られている[21]。
逸話 [編集]
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広島県広島市の広島城跡に建立された池田像
広島県竹原市に建立された池田像。銘は吉田茂による
神奈川税務署員殉職事件の殉職税務官顕彰碑の碑文は池田の筆によるもの
旧制五高在学当時、池田は趣味と実益を兼ねてそば屋と一杯飲み屋の屋台を開業することを発案。「池田屋」と称した。友人達にツケで飲ませ本人も飲むといった調子のため3ヶ月でつぶれた[22]。
池田が最も心を許したのは、同じ明治32年の亥年生まれで集まる亥の「二黒会」のメンバー、小林中、水野成夫、小池厚之助、堀田庄三、東畑精一で、池田が総理になってからも「おまえ」「おれ」と呼び合う仲であったが、この中でも池田が一番の酒豪であったという[23]。
占領時代に蔵相だった池田は、国家予算などの重要な話し合いをするためGHQを頻繁に訪問。GHQ経済科学局の局長・ウィリアム・フレデリック・マーカット少将に面会するためで、そんな時、まず約束の二時間前に白洲次郎は、マーカット少将の副官で通訳だったキャピー原田中尉に電話をかけ「マーカット少将のご機嫌はいかがなものか」と尋ねる。原田が「今日はあんまり良くないね」と答えると、白洲の横で話を聞いていた池田が電話を横取り、「今からそちらへ伺います。原田中尉、それまでに少将の機嫌を直しておいてください」と頼む。そして1時間前になると、今度は秘書官だった宮澤喜一から確認の電話があり「間もなく大臣はそちらへ伺います。よろしくお願いします」と念を押す。原田はこういう時、マーカットにさり気なく野球の話題を投げかける。往年の大リーグ選手などの話題を持ち出すと、マーカットは機嫌が悪いことも忘れてスイッチが入り、野球の話に夢中になっていく。最高潮に達するとバットを手に持って上機嫌になり、ちょうどその頃、池田がオフィスに現れて、厄介な話もうまく進むというのがお決まりの段取りであった[24]。
根津嘉一郎が死去した際、故人の遺志で遺産は寄付されることになっていたが、まず相続してから寄付せよとの税務署の意向に、東京国税局長として故人の遺志を尊重させ、それが甲州系の実業家を動かし吉田内閣への蔵相入閣につながった。
蔵相時代の池田の秘書官を務めていた頃の大平正芳は陽明学者の安岡正篤に歴史上一番偉い秘書官は誰かと質問したところ、安岡は織田信長の草履とりを務めていた間に信長の欠点を知り尽くした豊臣秀吉であると答え、以後、大平は池田の欠点を知り尽くして政治家になるための経験を積んだという[25]。
私邸に新聞記者を集めては、経済政策、所得倍増を熱心に語った[26]。
首相になるにあたって、放言癖や前岸内閣で傷ついた政府のイメージを払拭し、親しみやすさをアピールすることに努めた。例えば、スーツはダブルからシングル[要出典]に、メガネは黒縁から銀縁に替えたり[要出典]したことなどが挙げられる。
池田は各界の著名人を私邸に招いて交遊を図っていた。特に俳優の石原裕次郎を気に入り、石原裕次郎と私邸の風呂に一緒に入浴したこともあったという[27]。
先述のように、池田と会談したフランスのド・ゴール大統領が、池田を「トランジスタラジオのセールスマン」と評したことは良く知られている。当時は首脳が経済について語ることが珍しかったため、ド・ゴールも意外に思ったのである。しかし、今日では経済について語ることが出来ない首脳など使い物にならなくなっているし、当のフランス大統領は、エアバス機や武器のトップセールスを世界中で行っている。こうした点を捉え、八幡和郎は、池田勇人を「経済重視の首脳の先駆として、世界的な偉人である」としている。
1960年代にインドネシアのスカルノ大統領と池田をつなぐ仲介役を務めたのはデヴィ夫人という。デヴィ夫人は池田と家族ぐるみの付き合いがあったといい「日本外務省にはこき使われました」と話している[28][29]。
大平は、総理総裁たる者は「徹底的に庶民」にならなければならないとして、お茶屋とゴルフには行かないことを池田に約束させた[30]。
中曽根康弘は、2008年9月3日付の読売新聞朝刊(13面)に、同年9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べ、その例えとして、がんで入院して生命力もないという段階においてぎりぎりまで耐え抜いて後継に佐藤栄作を指名した池田を挙げ、政治家としての最後までの志、執念を持つべき、と記した。
首相在任中の1964年、戦後の歴代総理が果たせなかった生存者叙勲を復活させ、白羽の矢を立てた内の一人が"電力の鬼"と呼ばれた松永安左エ門。しかし松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と怒りこれを拒否。困った池田は松永に可愛がられていた永野重雄に説得を頼んだ。小田原の松永宅に尋ねた永野だが、松永に立ててもらったお茶の懐紙で鼻水をかんだ上、「あなたが叙勲を受けないと、生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたくてたまらない人たちに、迷惑がかかる。それに、あなたはどうせ老い先が短い。死ねばいやでも勲章を贈られる。それなら生きているうちにもらった方が人助けにもなりますよ」と、相当失礼なことを言った。しかし松永はこれを了承した[31]。
かつての大蔵省の正門の銘版は昭和39年当時首相であった池田の筆によるものである[32]。
戦後の総理大臣の中で、東京都以外に位置する日本の大学を卒業しているのは池田のみである(宇野宗佑は神戸商業大学中退)。
苦難の多い前半生もあって、大蔵官僚出身とは思えないほどさばけた気さくな性格だった。池田を「ディスインテリ」という造語で評した宮沢によれば、池田は「(本当はそんなことはないのだが)自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」。そのことが、高い地位にあっても、自然に周囲に有能な人物を集めることになった。
郷土広島愛が強く、広島カープ後援会の名誉会長を務め、南海入りが決定的だった山本一義を呼びだし熱心に説得してカープ入りさせたり[33][34]カープが負けると国鉄時代の豊田泰光の自宅に電話をかけ、「ワシは池田勇人じゃ。今日はよくもカープを負かしてくれたなあ」と脅したという。豊田は一国の総理が野球の試合結果について電話をかけてきたことにびっくり仰天したが、同時に自身が影響力のある仕事に携わっている喜びがこみあげたと話している[35]。
忠海中学校の1年先輩にニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝がおり、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。竹鶴が「私の履歴書」に記したところでは、池田は竹鶴(当時寮長)に対して「こわい」という印象を抱いていたという。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続いた[36]。
カレーライスを好物とした。
神奈川税務署員殉職事件の殉職税務官顕彰碑の碑文に筆を寄せるとともに慰霊祭に出席している[1]。
栄典 [編集]
1965年(昭和40年)8月13日:贈大勲位菊花大綬章
家族・親族 [編集]
前妻・直子(元伯爵で貴族院議員だった広沢金次郎の三女、元参議広沢真臣の孫、昭和4年死去)
後妻・満枝(医師大貫四郎吉の二女、母の従姉妹の娘にあたる)
満枝は医者の娘で広島の名門山中高女、名古屋の金城女専を出た才女だった[37]。
長女・直子(元近藤商事会長近藤荒樹の長男近藤荒一郎の妻)
長女・直子の嫁ぎ先は、戦後の“金融王”といわれた近藤荒樹の長男荒一郎[37]。いわゆる庶民金融の草分けで、池田が岸内閣の蔵相として活躍していた昭和32年(1957年)頃は、高額所得番付で全国六位にランクされるほどの資産家だった[37]。この2人の結婚は昭和33年(1958年)1月[37]。当然ながら世間から、“池田は資金源を身内に入れた”と見られた[37]。また、この婚姻で池田家は、荒樹の後妻が元伯爵の明治神宮宮司甘露寺受長の長女・績子という関係から旧皇族の北白川家まで繋(つな)がり箔(はく)をつけている[38]。
二女・紀子(官僚、政治家池田行彦(旧姓粟根)の妻)
三女・祥子(元日本ゴム会長石橋進一の長男で元ブリヂストンタイヤ会長石橋正二郎の甥にあたる石橋慶一の妻)
この結婚で池田家は、さらに閨閥を広げ、鳩山一郎、石井光次郎、三井財閥の団一族とも“血の連鎖”を結ぶようになった[39]。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーーーーーー
武富士長男脱税海外送金の抜け穴は池田が後援者の日本の金持ちに考えたプレゼントだと思います。それで彼は大閨閥を作れたのでしょう!!
日本だけの非常識です。世界とワザワザ違える。この抜け穴を塞がなかったのです。1997年に知らされ、大蔵委員長:村上誠一郎にFAX,6カ月非居住を3年?5年?になったのが2000年前後!可笑しいでしょ。その間の武富士長男1審有罪、2審有罪、後の最高裁で逆転無罪です。寝たふり最高裁での騙し打ちです。1400億円が国庫から出て行きました。これで大蔵財務省が悪の総本山と知りました。それ以来、アンチ自民でしたが、民主党も簒奪されました。日本は狂っています。


07. 2012年5月28日 19:28:56 : KbjUzFqPyw
ユーラシア大陸を西から東に屁ブラう人を頭に諸民族が民族移動。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーーーーーーーーーーーーーーー

イスラエル王国の誕生 [編集]
士師の時代から王政へ [編集]
紀元前830年代のレバント地方の勢力図
ユダ王国 イスラエル王国 ペリシテ都市州 フェニキア人 アモンの王国
エドムの王国 アラム・ダマスカスの王国 アラム人 アラブ族 ナブアツ族
アッシリア モアブの王国
サムエル記によると、紀元前1080年ごろペリシテ人が北部のガリラヤを制圧し、その地域のイスラエル人が奴隷となると、最後の士師で預言者でもあったサムエルは、サウルをはじめてのイスラエルの王として任じた。この王はペリシテ人との戦いの必要からでた軍事的な指導者であった。
サウル王の死後、サムエルに見出されたダビデは南部のユダ族をまとめて王となり、都ヘブロンを中心とした王国を建てる。これに対して北部イスラエルの11部族はサウルの死後、その子イシュバールを王とし、都マハナイムを中心に王国を建てた(サムエル下2:9-11)。これら二王国の内紛は7年以上続くが、イシュバールの死後、両国はダビデを王として認めることで和解した。
紀元前995年頃、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムのエブス人を倒し、以後、ここを拠点にペリシテ人らを退け、イスラエル王国(統一王国)を築いた。
ダビデの死後、紀元前963年にその子の一人ソロモンが国王を継ぐ。ソロモンは引き続き国の体制を整え諸外国との交易を盛んにし、またエルサレムに大きな神殿(エルサレム神殿)を建てた。この神殿は後世、第一神殿と呼ばれることになる。
ソロモンの死後、部族間の抗争により統一体制は崩れ、やがて10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のエルサレムを中心とするユダ王国(南王国)と分離することになる。以後両国は盛んに争ったが、この戦争によって国力が衰えた。
===北王国の首都サマリアは紀元前721年にはアッシリアによって陥落した。===アッシリアのサルゴン2世はサマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として連れ去りまたは追放して、===その土地にメソポタミアなどからの異民族を移住させた。ここにイスラエル王国は滅亡する。このとき故地から引き離されたイスラエル人たちは後に「失われた十部族」と呼ばれている。またサマリアにはアッシリア支配下の各地からの移民が移り住み、イスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれるようになった。サマリア人は、混血したことや移民たちの信仰をユダヤ教に混交させたことから後に差別される存在となった。
貢納国としてのユダ王国 [編集]
一方の南部のユダ王国はアッシリアの貢納国として独立を保った。ヒゼキヤ(前715?-686年)が王のときにアッシリアとの間に戦争を起こすが、前701年にはエルサレムが包囲され陥落されそうになり、和議を結んで再び貢納国として独立を保った。 前612年にアッシリアが新バビロニアに滅ぼされたため、旧北王国の領土が解放された。これを受けてヨシヤ(前647-609年)は国内の宗教改革に取りかかった。前622年に祭壇から発見されたとする「申命記」の記述に従って、国内の祭儀と司祭制度を中央集権化した(申命記改革)。
===前597年、新バビロニアのネブカドネザルがエルサレムに侵攻し、ヨヤキン王を含めた1万ほどのイスラエル人をバビロンに連れ去り捕虜とした。これは第一回の捕囚と呼ばれる。その後ユダ王国は新バビロニアの貢納国となったが、10年後にゼデキア王が完全独立を試みる。だが紀元前586年にはネブカドネザルによってエルサレム城壁が崩され神殿は破壊された。ここにユダ王国は滅亡。===このときもバビロンに多くが捕虜とされて連れて行かれたが、これは第二回の捕囚と呼ばれる。捕囚されたユダヤ人たちのバビロンでの生活はかなり自由であった。
ユダヤ人のエルサレム帰還 [編集]
新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝(ペルシア)のキュロス2世(前600年頃-前529年)は、紀元前538年にイスラエル人を解放する。だがバビロニアでの生活を捨ててエルサレムに帰還したユダヤ人は2〜3割と言われている。それ以外の多くは自由意志でバビロニアに残留した。 ペルシア王ダレイオス1世治下の紀元前515年、ゼルバベルの指導でエルサレム神殿が再建された。これは第二神殿と呼ばれている。紀元前458年にエズラの指導のもとで二度目の集団帰還が行われた。またネヘミヤとエズラとがこの時期、国の整備とユダヤ教の形式とを固め、これが現代のユダヤ教またはユダヤ文化へ直接に影響している。ユダヤ人の民族外結婚を禁じたのもこの時であり、これによってユダヤ民族の独自性が今日にまで保たれている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーーーーーーー


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