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「日本こそが中国だ」と叫んだ山鹿素行
http://www.asyura2.com/12/senkyo133/msg/451.html
投稿者 大塩 日時 2012 年 7 月 24 日 11:02:08: .cSQld2Pk8LuA
 

裕仁親王殿下の仁政を願って伝授された『中朝事実』
 いまから百年前の明治四十五(一九一二)年七月三十日、明治天皇が崩御され、九月十三日青山の帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われました。
 午前八時、明治天皇の柩が、神宮外苑絵画館裏口に当たる臨時駅から、京都桃山御陵に向かってご発引の砲声が轟きわたると同時に、乃木希典将軍は赤坂の自邸で、静子夫人と共に自刃し、明治大帝の御後を慕っていったのでした。
 その二日前の九月十一日、乃木は東宮御所へ赴き、皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)だけにお目にかかりたいと語りました。当時、乃木は学習院長、御年満十一歳の皇太子殿下は学習院初等科五年生でした。以下、そのときの模様を大正天皇の御学友、甘露寺受長氏の著書『背広の天皇』に基づいて紹介します。
 乃木は、まず皇太子殿下が陸海軍少尉に任官されたことにお祝いのお言葉をかけ、「いまさら申しあげるまでもないことでありますが、皇太子となられました以上は、一層のご勉強をお願いいたします」と申し上げた。続けて乃木は、「殿下は、もはや、陸海軍の将校であらせられます。将来の大元帥であらせられます。それで、その方のご学問も、これからお励みにならねばなりません。そうしたわけで、これから殿下はなかなかお忙しくなられます。──希典が最後にお願い申し上げたいことは、どうぞ幾重にも、お身体を大切にあそばすように──ということでございます」
 ここまで言うと、声がくぐもって、しばらくはジッとうつむいたきりでした。頬のあたりが、かすかに震えていました。
 顔をあげた乃木は、「今日は、私がふだん愛読しております書物を殿下に差し上げたいと思って、ここに持って参りました。『中朝事実』という本でございまして、大切な所には私が朱点をつけておきました。ただいまのところでは、お解りにくい所も多いと思いますが、だんだんお解りになるようになります。お側の者にでも読ませておききになりますように──。この本は私がたくさん読みました本の中で一番良い本だと思いまして差し上げるのでございますが、殿下がご成人なさいますと、この本の面白味がよくお解りになると思います」
 自刃を決意し、乃木が最後の仕事として是非とも皇太子殿下に伝授しておきたかったのが、山鹿素行『中朝事実』だったのです。乃木は、その三日前の九月八日には、椿山荘に赴いて、山縣有朋(枢密院議長)に自ら中朝事実を抜書した「中朝事実抜抄」を手渡し、大正天皇に伝献方依頼しています。
 さて、乃木の様子がなんとなく、いつもと違った感じなので、皇太子殿下は、虫が知らせたのでしょうか、「院長閣下は、どこかへ行かれるのですか」とお尋ねになりました。
 すると、乃木は一段と声を落して、「はい──私は、ただいま、ご大葬について、英国コンノート殿下のご接伴役をおおせつかっております。コンノート殿下が英国へお帰りの途中、ずっとお供申し上げなければなりません。遠い所へ参りますので、学習院の卒業式には多分出られないと思います。それで、本日お伺いしたのでございます」と、お答えした。
 それから六十六年を経た昭和五十三年十月十二日、松栄会(宮内庁OB幹部会)の拝謁があり、宮内庁総務課長を務めた大野健雄氏は陛下に近況などを申し上げる機会に恵まれました。大野氏が「先般、山鹿素行の例祭が宗参寺において執り行われました。その際、明治四十年乃木大将自筆の祭文がございまして、私ことのほか感激致しました。中朝事実をかつて献上のこともある由、聞き及びましたが……」と申し上げると、陛下は即座に、「あれは乃木の自決する直前だったのだね。自分はまだ初等科だったので中朝事実など難しいものは当時は分からなかったが、二部あった。赤丸がついており、大切にしていた」と大変懐しく、なお続けてお話なさりたいご様子でしたが、後に順番を待つ人もいたので、大野氏は拝礼して辞去したといいます。
(坪内隆彦 「日本こそが中国だ」と叫んだ山鹿素行(明日のサムライたちへ)

『月刊日本』の許可を得て一部転載
http://gekkan-nippon.com/?p=4148
 

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コメント
 
01. 2012年7月24日 15:34:46 : 8hk0duzcU2
文明は日本からというこの説には勝てないだろう。

http://hexagon.inri.client.jp/floorA3F_hb/a3fhb301.html


02. 2012年7月24日 17:55:06 : Fx0DtAZW02
中朝事実
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F

中朝事実(ちゅうちょうじじつ)は、山鹿素行が記した尊王思想の歴史書。寛文9年(1669年)に著わした。全2巻。付録1巻。山鹿素行は儒学と軍学の大家である。

『中朝事実』の内容

当時の日本では儒学が流行し、中国の物は何でも優れ日本の物は劣る、という中国かぶれの風潮があった。また、儒教的世界観では、中国の帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、倫理的にも優れるという中華思想が根本にあった。素行はこの書で、この中華思想に反論した。当時中国は漢民族の明朝が滅んで、万里の長城の北の野蛮人の満州族が皇帝の清朝となっていた。また歴史を見ると、中国では王朝が何度も替わって家臣が君主を弑することが何回も行われている。中国は勢力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。中国は中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるというのが、この書の主張である。ただ、朝鮮の小中華思想は、中華から朝鮮への継承権の委譲とでも言えるものだが、素行の主張は攘夷や国粋といったスタンスである。

『中朝事実』
http://www.asia2020.jp/sokou/index.html

 独自の武士道論を展開しただけでなく、国学に基づいて、素行は道義国家・日本の誇りを説いた。それが『中朝事実』である。「中朝」とは世界の中心の王朝の意味であり、日本を指している。このタイトルに明確に示されている通り、「聖人の教えが実現している」日本という考えは素行が終に行き着いた結論であった。
 「孔子の教えを聖教とし、これを中心に己れを省み、さらに国を省みるとき、その聖教が厳とした事実としてこの世の実現しているのは、聖教を生んだ漢民族の国ではなく」て、気が付いてみれば、それはまさしくわが国なのであったということへの、深い強い感動・感激によって得られたものが、この『中朝事実』である」(山鹿素行著、新田大作編著『中朝事実』中朝事実刊行会、1985年、13頁)。
 それを確信したときの気持ちを素行は、「五十年の夢、一ときに覚め申し候」と述べている。 ただし、『中朝事実』は単純な日本優越論として理解されるべきではなかろう。そこには、完全な道義国家たりたいという願いが込められているように見える。
 素行は、17歳の冬に両部神道の秘伝を伝授され、さらに壮年期に、天孫降臨の際に、天児屋根命とともに功労のあった忌部太玉命の後裔で、忌部流根本宗源神道を提唱した国学者、広田坦斎(坦斎には、忌部流の伝『神代巻神亀抄』『朱注の神代巻』『忌部流三種大祓』等の著書がある)から神道の奥義を残らず授けられた。
 この間、素行は極めて広範な知識を吸収しつつも、満たされないものを感じていた。だが、ついに寛文の初め(1660年代初め)になって、素行は後世の書物ではなく、直接、周公、孔子の書を読み、それを手本として学問の方法を正そうと思った。そして、聖人の書ばかりを日夜読み考えた結果、はじめて聖学の道筋が明らかに得心されたのである(『配所残筆』)。素行は真理の把握に近づいたのであろうか。
 いずれにせよ、素行の主眼は、日本が神国であることを言い立てるのではなく、日本が「天地の至誠」、すなわち宇宙の真理に合致した道義が貫徹される国であることを願うことにあったのではなかろうか。
 素行は「天地の至誠、天地の天地たるゆゑにして、生々無息造物者の無尽蔵、悠久にして無彊の道也。聖人これに法りて天下万世の皇極を立て、人民をして是れによらしむるゆゑん也」とも書いている(広瀬豊編『山鹿素行全集思想篇』第12巻(謫居童問、謫居随筆、配所残筆)、岩波書店、1940〜1942年、192頁、劉 長輝「『古学思想』に見られる異文化交流論――山鹿素行の学説を中心として――」)。

 さて、『中朝事実』は上皇統と下皇統から成り、それぞれ章構成は次のようになっている。

上皇統
 天先章(天地自然の生成について論ずる)
 中国章(風土の状況について論ずる)
 皇統章(皇統の万世一系なることについて論ずる)
 神器章(三種の神器について論ずる)
 神教章(教学の本源について論ずる)
 神治章(政治体制の基本について論ずる)
 神知章(人間を知ることの重要性について論ずる)
素行自筆本『中朝事実』(平戸山鹿家蔵)

下皇統
 聖政章(政治教化の基本について論ずる)
 礼儀章(礼儀の在り方について論ずる)
 賞罰章(賞罰の公正平明について論ずる)
 武徳章(武の意義について論ずる)
 祭祀章(祭祀の誠心について論ずる)
 化功章(徳化の功について論ずる)(新田編著『中朝事実』12〜13頁)。

 神治章では、皇祖天照大神のこの国を統治しようとされたときのみこころについて説いている。天地の恵みは至誠そのものであって君子もまた至誠そのものであり、自ら戒め、徳に向って進むとき、万民すべて安らけく、天下万国すべて平穏に無事なる状態になる。素行は、これこそが「天壌無窮」の神勅の意味であると説く(新田編著『中朝事実』76頁)。
 『中朝事実』において、素行の武士道論は建国の神話によって補強される。武徳章で、素行は神代紀の東征の記事に基づいて、威武の神髄を論じているのである。ここでは、道義に裏付けられた武が強調されている。
 「謹みて按ずるに、五行に金あり、七情に怒あり、陰陽相対し、好悪相並ぶ。是れ乃ち武の用また大ならずや。然れどもこれを用ふるにその道を以てせざるときは、則ち害人物に及びて而して終に自ら焼く」(新田編著『中朝事実』187頁)。

 素行の思想を継承した代表的人物が吉田松陰と乃木希典である。
 松陰は5歳の時に、山鹿流兵学師範・吉田家に養子となっている。すでに11歳にして、藩主の前で素行の兵学をよどみなく講義したという。
 一方、乃木は少年期に松下村塾の創始者・玉木文之進によって、『中朝事実』の精神を吹きこまれたという。乃木は『中朝事実』を愛読し、写本しては人に与えたという。司馬遼太郎『殉死』によると、乃木は殉死の2日前の大正元年9月11日、午前7時に参内して皇太子と淳宮、光宮の3人がそろうのを待って、人ばらいをした。そして、ふろしき包みから『中朝事実』を取り出し、誠心誠意の講義を行った。
 日本的道義を支える素行の思想の価値は、いまなお失われてはいない。

山鹿素行「中朝事実」における華夷観念
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/2886/1/kenjin594754.pdf

「万世一系」も「侵略されたことがない」ってのも誤りだが、言いたいことは解る。


03. 喜依 2013年3月04日 21:05:05 : HW2ujh.wJSeFI : WdaBRbivb2
ブログを拝見しました。 私は 垂加神道の元を山崎闇斎へ忌部流神道の口伝承した石出良深の末裔です。山鹿素行の門下。また、賀茂族でもあります。

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