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「ハイデガーと丸山眞男」−池田信夫・・目立ちたがり屋の老人が読みかじった雑哲学、と、その日本人社会観のお粗末さ!
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/150.html
投稿者 墨染 日時 2012 年 10 月 22 日 21:31:59: EVQc6rJP..8E.
 

http://blogos.com/article/48832/?axis=b:80

ここ1年ぐらい、いろいろな日本人論を読んで驚いたのは、ほとんど同じ特徴をさまざまな表現で論じていることだ。「タテ社会」論のころから変わらない日本社会の最大の特徴は、タコツボ的な小集団の求心力が強くて中心がなく、無原則な「空気」で動くことだ。しかしこの奇妙な特徴がなぜ生まれたのかについては、誰も系統的に論じていない。それはおそらく、個別の文化論を超えた問題なのだろう。

本書はハイデガーの存在論をめぐるエッセー集だが、1ヶ所だけ丸山眞男の「古層」論にふれている(pp.151〜2)。これは著者が『反哲学入門』で論じたのと同じで、ハイデガーはプラトン以来の西洋哲学が世界を人間のつくる存在と考え、自然を知性によって克服すべき物質的存在と見たことを批判し、ソフィストの自然観をこのように再評価した。
ギリシャ人にとって存在者とは、おのずから無為にして萌え上がり現われ出てき、またおのれへと還帰し消え去っていくもの、そのように現われ出てはまたおのれへと還帰していきながら場を占めているものなのである。(ハイデガー『ニーチェT』p.117)

これは丸山のいう日本古来のなる世界観に近い。そこには目的も設計もなく、なりゆきにまかせて世界は「創発」される。同じことは宇野邦一氏もドゥルーズ=ガタリに関して論じている。『千のプラトー』で彼らが近代社会のツリー構造に対するアンチテーゼとして出したリゾームの概念は国家を拒否する自生的秩序だが、中心も構造もない日本社会そのものだ。

若き丸山は、このような行動様式を「封建的残滓」と考え、そういうプレモダンの思考を乗り超える作為の思想を荻生徂徠に読み込んだのだが、晩年の彼は「古層」をポストモダン的なニヒリズムと見るようになった。それはバロック音楽の執拗低音のように、主旋律と混じり合いながらそれとは別の音型として、現代の日本社会にも継承されている。それを丸山は「未開社会の心性」だと示唆している。

これをカーネマンのモデルでいうと、日本人はシステム1で思考する部分が多く、西洋人は主としてシステム2で思考すると整理できよう。これはどっちがいい悪いということはなく、前者は高速でエネルギー消費が少ないが、後者は柔軟で目的合理的だ。人類の歴史の大部分では前者が行動のほとんどを占め、今でも思考の80%はシステム1で行なわれている。

ハイデガーはシステム2を偏重する西洋の「現前の形而上学」を批判したが、丸山はシステム1に依存する日本の政治を批判した。両者は対極の地点から出発しながら、晩年には交わっていたようにも見える。それは現代に受け継がれる「野生の思考」を追究したレヴィ=ストロースにも通じるテーマだろう。


**********異聞 comment
「吉本隆明」や「埴谷雄高」などが墓のなか・・「鬼の居ぬまの〜」何とやらのごとく、「池田信」某が鵺評論を物知り気に開陳しておるようだ。
「ハイデガーと丸山眞男」を論じているので、さも永長舌かと思いきや浅薄であった!
果たして、今頃、「ハイデガーと丸山眞男」を論じるべき時代的要請が存在するのか?
「池田信」某が受け入れられることのない・・処で・・異貌の視座が要請しているのは確かだが・・それは、日本知識人の誰もが超えられぬアポリアである。
吉本や埴谷らによって語りつくされた、焚き火の跡の灰をかき回して、泥人形でもこしらえているのかと思いきや・・何のことはない!かっての哲学青年が弄んでいた言葉いじりの域を出てはいない。
暇な、目立ちたがり屋の老人が読みかじった哲学雑感の域である。

>「ハイデガーはシステム2を偏重する西洋の「現前の形而上学」を批判したが、丸山はシステム1に依存する日本の政治を批判した。両者は対極の地点から出発しながら、晩年には交わっていたようにも見える。それは現代に受け継がれる「野生の思考」を追究したレヴィ=ストロースにも通じるテーマだろう。」

「反・一神教(キリスト教)近代主義」圏のハイデガーと「反・アジア的汎神論」圏の丸山真男が、形而上学的に何時かは、交鎖するのは、近代主義哲学のエゴーがもつ宿命である・・その自明のことを・・「レヴィーストロース」にリンクさせ・・あたかも・・池田某の慧眼だと言わんばかりである。
何のことはない!ハイデガーも丸山真男も近代主義者としての陰画を、西洋と東洋の土俵でメタフィジックに演じたに過ぎまい。
「おいおい、お前さんには語られたくない」と・・・
墓の下の「レヴィーストロース」「西田幾多郎」「唐木順三」たちが渋面してはいまいか?
さらに遡れば、京都五山の霊廟で「道元」が高鼾をかいているはずである。
果たして?池田氏の書架には「西田幾多郎 唐木順三 道元」の先学が祀られているのだろうか?その気配はない!  

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コメント
 
01. 2012年10月22日 23:39:10 : eBcgkpMCDk
>反・一神教(キリスト教)近代主義」圏のハイデガー

デタラメな書かないでください。
読みかじった雑哲学とはこのこと。

断っておくが池田氏を擁護するつもりなどまるでない。
こんな所に引用する価値などない。


02. 2012年10月23日 05:12:09 : Wg3S07Yplk
>01
ハイデッガーは厳密にはドイツ浪漫派の係累にあたる、ドイツ観念論哲学である。
だが、アングロサクソンのキリスト教文化圏で在ったことは確かである。

03. 2012年10月23日 13:48:21 : nRFBQ26AoI
>アングロサクソンのキリスト教文化圏で在ったことは確かである。
トートロジーですね。

ハイデガーは西欧近代思想や技術文明に抗って民族意識に向かったんですよ。
だからナチとある部分では共鳴していた。
それは歴史的に批判対象になったものの、
氏の思想には東洋思想と共起するものが多く含まれています。

西田もハイデガーも功績に比して、日独で隠蔽されがちなのはGHQのノンポリ
民製造の文化政策や戦後日教組教育の結果でしょう。
ハイデガーが評価されているのは当のドイツでなく、
フランスやアメリカという戦勝国側です。
西田も戦前は「善の研究」は夏目漱石に次ぐベストセラーで広く読まれていましたが、戦後は戦犯扱いで思想哲学専攻の者以外は読む機会を奪われています。


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