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無縁社会が拡大する原因としての“近世”の終焉  ( 江戸をよむ東京をあるく )
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/514.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 9 月 21 日 23:45:19: ulZUCBWYQe7Lk
 

http://skumbro.cocolog-nifty.com/edo/2010/02/post-590e.html

2010/02/12

 最近NHKがテレビやラジオでしきりにとりあげているのが、無縁社会というテーマである。家族や地域コミュニティとの関係を喪失した生活を送る人々の増加や、そうした人々がやがて迎える孤独死の問題が、番組で生々しくレポートされ、話題となっている。

 我田引水になるが、以前このブログで主張(とりあえずココhttp://skumbro.cocolog-nifty.com/edo/2009/03/post-4c05.htmlやココhttp://skumbro.cocolog-nifty.com/edo/2009/03/post-3d89.htmlを参照)した、現在の日本における“近世”の終焉、という歴史的な大変化を象徴する現象のひとつに、こうした無縁社会の拡大を位置づけうると思う。

■小経営の時代とその終焉

 ここでいう“近世”の終焉とは、小経営の時代の終焉のことである。小経営とは、本来的に、家族労働を中心とした、農家や「個人」経営の商工業者のことである。こうした小経営が主体となって社会を構成した時代が、小経営の時代であり、それが始まったのが、だいたい17世紀の前半、近世の成立期である。そして、それから400年が過ぎて、これらの農家や「個人」経営の商工業者が社会の中心的な構成主体ではなくなった現在のことを、近世の終焉、と呼んでみたのである。

 「小経営とは、本来的に・・・」と書いたが、それは、小経営の時代が終わる少し前、日本においては、本来的な小経営ではないものの、それとよく似た、いわば擬似小経営的なるものが登場し、社会の構成主体として成長したことにも注意したいからである。それは、農家などとよく似た存在形態の、擬似小経営的サラリーマンhttp://skumbro.cocolog-nifty.com/edo/2008/06/post_90ab.htmlの家庭である。この成長が本来的な小経営の減少を補った。それにより、小経営と擬似小経営的サラリーマン家庭とを横断するかたちで、「日本」的な「均質社会」・「一億総中流社会」も生み出された。こうして、しばらく先延ばしされた小経営の時代の終焉だが、それが今まさにやってきたのである。
 擬似小経営的サラリーマンとはいわゆる日本型雇用のサラリーマンのことで、その家庭は、外で働くお父ちゃんと、育児やら老人介護やらの家事労働やPTA・子ども会などの地域活動のほとんどを引き受けて働く専業主婦のお母ちゃんとが、二人三脚の「夫婦かけむかい」で維持していく家庭であるという点、つまり家族労働を中心として維持されているという点で、農家のような本来的な小経営の家庭との間で共通性をもつ。
 そして現在、日本型雇用制度が解体し始めることで、擬似小経営的サラリーマン家庭は減少し、すでに進行していた本来的な小経営の衰退と相俟って、小経営の時代の終焉は決定的なものとなったと考えられる。

■無縁社会

 小経営の時代においては、人々は小経営の維持のために「家」を必要とし、結婚して子供を作った。また、小経営の維持のために地域コミュニティを形成した。そして、小経営の時代が終焉を迎えた今、経営体としての「家」は解体し、地域コミュニティもその存在意義を著しく低下させた(擬似小経営的サラリーマン家庭が形成する、脆弱な擬似的コミュニティについては、過去記事を参照のことhttp://skumbro.cocolog-nifty.com/edo/2008/06/post_178f.html)。
 家族と共に守ってきた小経営を子供に受け渡し、小経営とそれが属する地域コミュニティのなかで余生を送る。そして、小経営のなかで介護を受け、やがては死を看取ってもらい、最後は地域コミュニティがその葬儀を営む。そんな小経営の時代のライフコースは、その時代の終焉とともに崩壊した。

 つまり、無縁社会といったときの「縁」とは、小経営が生み出す「縁」であり、小経営の時代の終焉とともにその「縁」は切れていくのだろう。

 少子化と非婚化・老人介護問題・地域コミュニティの解体、そして無縁社会。これらの諸問題は、小経営の時代の終焉、すなわち、近世以来400年続いた伝統社会の終焉において現れた、一連の問題群としてとらえられるであろう。  

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コメント
 
01. 2014年9月25日 11:00:16 : yBG3GAzvsY
それで、我々はどんな社会を目指したいのか、それがポイントだと思う。そして、どんな社会を目指せる可能性があるかを知りたいのだと思う。そんな社会への指向性の片鱗をも見せないのでは、論にならないのではなかろうか。

02. 2014年9月26日 04:00:13 : 358VeCXh4E

小経営の時代の終焉は、巨大産業資本による生産性上昇の必然であり

地縁・血縁社会と大家族徒弟制度の束縛と不自由を嫌う人々が、そこから抜け出すことを可能にした

つまり地域コミュニティの解体=崩壊による無縁化は、その必然だから

副作用としての弱者の貧困や治安の悪化を、公的コストとして支払っていく以外の選択肢はないだろう

それも払いたくないという人々が多いのであれば、貧困と悪い治安が無くならないという事態が必然となる



03. 2014年9月26日 14:29:14 : yBG3GAzvsY
携帯などによるネットワークコミュニティは、コミュニティではないのか。望まれるコミュニティ機能をこのデジタルネットワークが持てない理由はなかろう。

04. 2014年10月20日 16:38:30 : nJF6kGWndY

高齢出産で知的障害者も増え、今後も無縁化による治安悪化は進む

http://www.iza.ne.jp/kiji/events/print/141020/evt14102012000006-c.html
【衝撃事件の核心】首絞められ気絶…その後3時間「死んだふり」を続けた小6男児の恐怖
2014.10.20

 千葉県市原市で9月、男が小学6年生の男子児童(12)の自宅に押し入って男児を無理やり連れ去り、近くの竹林で首を絞めて気絶させるという凶悪事件が発生した。全治1カ月の重傷を負った男児は、気絶から覚醒した後も相当の恐怖からか、約3時間もその場で「死んだふり」をしていた。10月7日に未成年者略取と殺人未遂などの容疑で再逮捕された男は、近所の小学生と一緒にカードゲームなどをして遊んでおり、保護者から不安がられている存在だった。(山本浩輔)

■男児を自宅から引きずり出して首絞める

 千葉県警によると、逮捕された住居不定、無職の容疑者(37)は、男児を気絶させた直後とみられる9月26日午後6時35分ごろ、市原市内の公衆電話から「人の首を絞めて殺した」と自ら110番通報した。そして市原署で、事情を聴かれている最中に男性署員(41)の腰を殴打。公務執行妨害で現行犯逮捕された。「たばこを吸わせなかったから殴った」と供述したという。

 同日午後5時55分ごろ、容疑者は、面識があったという被害男児の自宅前で帰宅を待ち構えていたとされる。男児が家に入ると、同時に侵入してきた容疑者は、興奮して騒ぎ出した。家にいた男児の姉は母親に電話。捜査関係者によると、容疑者は電話を代わり、母親に対して言いがかりのようなことを口にしていたとみられるという。

 母親との会話でも容疑者の気分は落ち着かず、刃物のようなものを男児の首などに突きつけ、姉の目の前から男児を屋外に無理やり引きずり出したという。

 約250メートル離れた近くの竹林へ連れ去り、興奮状態のまま手で首を絞めたり顔を殴ったりする暴行を加え、男児は気絶。すぐに意識を取り戻したものの、男児は「近くにいるかもしれない」と恐怖におびえ、3時間近くその場に倒れたまま「死んだふり」をしていたという。

 午後9時40分ごろ自力で帰宅したが、首や顔にけがを負っており、病院へ搬送。その後、顔面打撲で全治1カ月と診断された。かなりの力で殴られたのだろう。

■子供たちと一緒に遊び、心配した保護者から相談も

 20〜30歳代くらいの男性であれば、小学生のころ、近所の友人と公園に集まって対戦型のカードゲームや携帯ゲーム機で遊んでいた人も多いだろう。当時を振り返ると、なぜか輪の中に「大人」がいなかっただろうか。平日の放課後、小学生と同じ遊びをして盛り上がる「大人」は、多くの男性の幼少期の記憶の片隅にいるはずだ。

 容疑者は、子供とのカードゲームなどの遊びの中でトラブルを起こしており、そうした児童の親などから県警に相談が4件寄せられていた。

 県警子供女性安全対策課によると、平成24年8月と11月の2回、「息子が(容疑者と)遊んで困っている」と、今回の事件とは異なる保護者から相談が寄せられていた。今回の事件直前の今年9月12日にも、近隣の学校の教員から「公園で児童が容疑者にゲームソフトを取られた」とする相談があり、後日、パトロール中の市原署員が容疑者に事情を聴くと「取っていない。データをあげて攻略法を教えてあげただけ」と答えたという。

 同13日には小学校低学年の子供を持つ親から「妖怪ウォッチのカードを1枚取られた」。しかし、被害届などは出さず、「息子は『いらない』って言っている。注意してください」と話したという。

 同課によると、容疑者は地元の小学生の間では有名だという。「ゲームに詳しい」などと肯定的な意見もあったというが、やはり保護者からすれば、子供たちと遊んでいる「おじさん」の存在は不安があっただろう。

 小学生の子供を持つ市内の会社員の男性(42)は「(容疑者は)十数年前から、小学生と遊んでいるのではないか。注意喚起の連絡網がまわった小学校もあるようだ」と話す。2歳の男児の母親(36)は「子供を狙った犯罪が多いとは思っていたが、まさか近所で起こるとは思わなかった。心配です」と不安げに話した。

■容疑者の家族が住民票の閲覧制限

 県警によると、容疑者の家族は住民票の閲覧制限をかけていた。ストーカー被害などに遭う女性を加害者から守るために同様の制限がかけられることがあるが、家族は容疑者から探されないよう、自ら住民票の閲覧制限をかけていたという。

 取り調べ中には「じっとしていられない」などと話した容疑者。男児を脅すのに使用した刃物については「落としたかもしれない」と供述し、捜査員が探している。殺人未遂容疑での取り調べは始まったばかりで、動機の解明が待たれる。

 記者(山本)は子供のころ、放課後に少し不気味だったが一緒に野球をやってくれる近所の“怪しい大人”と、楽しい時間を過ごしていた。しかし、最近では全国各地で児童の連れ去り事案などが発生し、社会問題化している。知らない“大人”とは話すな、関わるなといった風潮が強くなるのも、寂しいが仕方ないような気もする。


05. 2014年11月26日 07:20:21 : jXbiWWJBCA

「宗教崩壊」
住職が去り放置される過疎地の寺

島に若住職がやってきた(上)

2014年11月26日(水)  鵜飼 秀徳

 多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。
 僻地にある寺院や神社の多くが、住職や神職が不在となり廃墟と化している。「宗教法人の解散・合併」も水面下で進行中だ。大都市圏と僻地の「宗教格差」も広がっている。
 「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。
 「宗教崩壊」は私たちに何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろうか。
 文化庁の『宗教年鑑2012』によれば、日本の仏教徒は約8513万人。神道を信ずる者はさらに多い。しかし、現役のビジネスパーソンにその実感は乏しい。
 「今は、まだ親が生きていて、自分はお寺さんとは無関係」「兄弟に任せている」「葬儀は不要、散骨でいい」「永代供養にしてほしい」という人も多いのではないか。
 だが、「死後」はいずれ万人に、例外なく訪れる。その時、あなた自身を含め、多くの人は宗教と無関係ではいられないはずだ。
 既に不穏な前兆はないだろうか。「菩提寺にあるはずの祖父母の墓が忽然と消えていた」「最近、高額な霊園の勧誘が増えてきた」「実家に久しぶりに戻ったら、本棚に怪しい宗教まがいの本が並んでいた」「気がつけば自分の入る墓がない」……。
 宗教崩壊が社会の歪みをもたらすことも心配される。寺や神社が物理的に消えるという「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」も進んではいないだろうか。
 この連載では、崩壊が進む現場だけでなく各宗教教団本部にも取材し、「宗教崩壊」の実態を複数回にわたってリポートする。宗教関係者だけでなく一般のビジネスパーソンにも分かりやすく宗教界の真実を伝える。文中の仏教用語に解説を付けるなど、いざという時に役立つ仏教知識も得られるように構成する。
 第1回は、長崎・五島列島の現状を取材する。過疎の寺を守らんとする若き住職や島人に焦点を当てた。

宇久島より五島の島々を俯瞰する

 長崎県・平戸の沖合に浮かぶ宇久(うく)島は、佐世保港から高速船を使っておよそ1時間半の距離にある五島列島最北の島である。

 島の周囲は約38km。五島列島の中でもひと際小さい存在だが、有史以来、海の要衝としての役割を担ってきた。

 北方向に日本海が大きく開け、西の方向約200km先には韓国の済州島がある。その見晴らしの良さから、太平洋戦争時には島の中心にある城ヶ岳(標高258m)山頂に、電波探知施設と高射砲台が据えられ、旧日本海軍の前線基地となっていた。

 五島列島全体で見れば、多くの島は江戸時代、隠れキリシタンが幕府の弾圧を逃れて潜んだことでも知られる。各島にはカトリック教会が多く残された。現在、五島列島はユネスコ・世界遺産の候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に挙げられており、将来的には観光産業の盛り上がりが期待できる場所である。

 しかしながら列島の最北に位置する宇久島は、村おこしの資源となりうる教会が1つもない。

 それどころか、観光客の目当てになりそうなスポットや、ご当地の名産物はほとんど見当たらない。宿泊施設と言えば民宿がいくつかあるほか、ビジネスホテルが1軒。アクセスも至極悪く、佐世保から宇久島まで往復船賃が7200円(高速船、往復割引料金)かかることなど、観光目的でこの島に入る者はあまりいない。

 良くも悪くも観光地化されていないのだ。

 だが、潮風と南国の陽に焼かれた木造家屋の集落は、独特の旅情を漂わす。

 村を俯瞰する高台に立てば、目線の先には褐色の和瓦の屋根が一面にうねり、その先の海原へと続く景色が、まるで映画のワンシーンのようだ。
ある老人は言う。

 「ここを訪れる人は戦後、貧しかった昭和の原風景を見るようだと言うよ」


平地区の木造家屋集落
 ご多分に漏れず近年は、少子高齢化の波が島を直撃している。

 1957年(昭和32年)の最盛期に1万2500人に上った人口は、直近では2330人にまで減少。このままでは2022年には2000人を割り込む危機に直面し、さほど遠くない将来、島そのものが存続できるかどうか、危うい状態となりそうだ。だが、同島を管轄する佐世保市などの行政サイドに聞いても、産業誘致やUターン、Iターンなどの効果的な策は見えない。

「悪魔のカフェ」店主から仏門に

 そうした、典型的な過疎の島に2013年10月、ある1人の若い僧侶がやってきた。

 佐々木浄榮さん(35歳)。きちんと5分刈りに整えられた頭に、作務衣、草履姿は見るからに折り目正しき若和尚さん、という印象である。

 佐々木さんは日蓮宗・妙蓮寺の新住職として島に迎えられた。そもそも宇久島とは、縁もゆかりもない。港の近く、平(たいら)地区にある高台の寺に、島民と寄り添いながら、妻の留美さん(38歳)と2人で暮らしている。

 その実、佐々木さんは寺の生まれではない。僧侶になる前は、福岡市の中心・大濠地区でハードロックカフェ「diablo’s cafe(悪魔のカフェ)」を営んでいた。

 カフェを始めて程なく、佐々木さんの運命を決める出会いがあった。常連客の日蓮宗の住職が、「接客態度といい、雰囲気といい、あんた、お坊さんに向いているよ。お坊さんにぴったりだ。出家しない? やる気あるんだったら言ってよ」とスカウトしてきたのだ。

 しかしその時は店の経営を軌道に乗せることで手いっぱいで、僧侶になることなど考えもしなかった。

 開店から5年ほど経ち、店はやっと軌道に乗ってきた。しかし同時に、佐々木さんは店の経営に日々、忙殺されていた。接客や、明日の売り上げのことで、頭が一杯になっていた。

 一方で、佐々木さんの聞き上手で人懐っこい性格を頼って、客が人生相談してくることも多かった。

 「世の中、悩んでいる人が多いんだな」。ふと立ち止まって考えることが増えた。
 本当の人の幸せとは何だろう、人生とは一体――。

 「お坊さんになってもいいかもしれない」

 そう思い始めると速かった。留美さんが「面白そうじゃん」と、背中を押した。スカウトした常連客の住職に弟子入りし、修行をするにもかなりの費用がかかるため、店を売却した資金で、修行に入ることにした。

 2011年、一から仏教の勉強をするため、日蓮宗の総本山・身延山久遠寺に入山(※)。仏教の知識や僧侶としての技量はゼロだった。

※にゅうざん=修行僧になること。
 小僧として1年1カ月間、勤め上げ、その後、日蓮宗の住職(教師)資格を得るための修行である「信行(しんぎょう)道場」に35日間入り、2013年5月に成満(※)する。

※じょうまん=修行を達成すること
 「もともと信心深いほうではあったと思います。神や仏、目に見えないものの存在は信じていました。仏教の持つ神秘的な雰囲気に魅力を感じていたんです。だから、発心した時も、ああ、うちのご先祖様が俺に『坊さんになれ』と言っているんだなと思いました」

 晴れて一人前の日蓮宗僧侶となった佐々木さんは、修行を終えたひと月後の2013年6月に宇久島へ引っ越し。妙蓮寺の檀家への挨拶回りを始める。

 妙蓮寺の檀家のある男性は、佐々木さんが来島した時のことをありありと思い出しながら、「ご住職が島に来る前のこの寺は、まあ、色々ありました」と、訥々と語り始めた。

「こんな寺には誰も来ないよ」

 実は数年前から妙蓮寺は、寺の存続問題に直面していた。

 遡れば先々代の住職だった頃。寺を守っていたのは佐々木さんと同じ在家の出身の和尚だった。しかし、島の不便な生活に耐えきれず、就任してわずか3年で本土に引き上げていった。

 檀家も黙ってはいなかった。住職の去り際、つかみ合いの騒動になった。すると住職は、去り際にこう言い放ったという。

 「こんなところ、誰も来ないよ! 俺じゃなくても、誰も」――。

 住職不在状態(無住寺院)となった妙蓮寺は、その後、本土に住む高齢の尼僧が、「兼務住職」という形で継承した。しかし、尼僧はほとんど島を訪れることなく、寺は事実上、放置された状態が続いていた。

 どうすれば寺を維持していけるか。檀家たちは「こんなところ、誰も来ないよ」と言われたことが、心底悔しかった。新たな住職を迎えられるように寺の整備に動き出した。

 妙蓮寺の檀家は島内が80軒、島外が30軒ほど。島にいる檀家が集まり、寺の存続問題について議論を交わした結果、ボロボロだった庫裏(※)を新調することにした。

※くり=本堂とは別にある、住職や家族が居住するための建物
 わずか80軒の、多くが年金暮らしの檀家だけで、いつ来るか分からぬ住職のために、最低限、居場所だけは整えようとしたのだ。

 そうして、檀家たちが新住職を待ち続ける中、まるで仏に導かれるようにして、やってきたのが佐々木さんだった。

 佐々木さんの晋山式(※)を迎えた2013年10月9日は、これまでの寺の数奇な運命を物語るかのようだった。前日、台風が島を直撃。式の当日も海は大荒れで、フェリーが出ず、結局は船をチャーターして来賓を迎えた。前出の檀家の男性は続ける。

 「そりゃあ、感動的でしたよう。檀家だけでなく島人みんなの心が震えた。老人ばかりの島に、若くてハンサムな若和尚さん夫婦が来てくれたんだ。住職がいない寺のままでは、檀家は死んだら、そのまま放ったらかしになってしまうんだから、これで安心して逝けるよ」

※しんざんしき=新しい住職を迎える儀式

佐々木浄榮さん(妙蓮寺にて)
位牌信仰の島

 佐々木さんが妙蓮寺境内を案内してくれた。

 案内と言っても、本堂と駐車場を兼ねた前庭しかない。駐車場の隅には歴代住職の墓が並び、彫られた文字は崩れて読めない。高台にある境内からは一望の集落、そして青い水平線が広がる。

 寺の裏手はムラの共同墓地になっていた。この墓地は妙蓮寺の所有ではないという。

 いくつかの墓石が倒れている。

 「これは、この島の実情を物語っています。島を去る人は、最後に骨をさらって、墓を倒していくのです。年々、その数が増えていきます」

 墓石の上に、木でできた小さな祠、霊屋(たまや)が載せてあるのは、この島が昭和末期まで土葬であった名残だという。古くは、貧しくて墓石を持てなかった島人は、死んだ際、大きな樽に納めて土葬にした。

 土を被せたその後に、墓石の替わりに霊屋を置き、中に位牌を収めた。30年ほど前に、島の火葬場が完成し、土葬がなくなっても、霊屋の風習だけが残った。


島を離れる際、倒された墓

霊屋
 こうした「位牌供養」は、島独特の信仰のカタチと言える。本堂の本尊に手を合わせるよりも、墓参りよりも、島で重要視されるのが「位牌」だ。

 妙蓮寺のように宇久島の墓地の多くは寺が所有していない。その替わりに、本堂の脇かあるいは本堂内に、位牌堂が建てられている。位牌堂の内部には檀家ごとに区切られた祭壇が置かれて位牌が祀られ、親族はそこに参る。

 各家庭の仏壇にも位牌は置かれているので、節目節目の供養の際には、霊屋・位牌堂・仏壇の最大3カ所の位牌に合掌する。

 一般的な仏式では、盆や彼岸などで檀家が寺を訪れる際には、「墓参り」が主目的になるが、ここ宇久島では「位牌参り」となるのである。


島の位牌堂
住職の生活の実情

 さて、佐々木さんの寺では檀家の数が島内外含めて110軒と述べたが、島の寺の中では中規模かやや多いほう。しかし、生活していくにはギリギリの数だという。墓地は寺所有ではないため、一般的な寺の安定的収入となる「墓地管理料」が一切、入らない。

 妙蓮寺が檀家に課しているのが、寺の維持・管理を目的にした「護寺(ごじ)費」が年1万円。この護寺費は、宗に上納する冥加金と光熱費などでほぼ消えてしまう。

 佐々木さん一家の生活を支えるのは、いつ発生するか分からぬ葬儀と法事のほか、福岡や長崎などの本土に散らばる檀家回りでのお布施だ。ちなみに佐々木さんが妙蓮寺に来てからこの1年で葬儀は4軒だった。

 そうしたお布施などの収入は一旦、宗教法人妙蓮寺に納められ、住職には所得税や社会保障費などを源泉徴収された上で、代表役員としての給与として支払われる。

 「お坊さんは無税では?」と思う人もいるかもしれないが、つまり、寺の収入に対する所得税は課税されないが、代表役員である住職や従業員に支払われる給与は一般サラリーマン同様、課税されるのである。ちなみに佐々木さんの月給は額面15万円だ。

 寺の収入を増やしたければ、檀家を増やせばよい。しかしそれができるのは、都会の立地条件のよい恵まれた寺だけで、僻地の寺にわざわざ檀家として入る人は少ない。

 離島であればなおさらだ。島民は島内の別の寺の檀家だ。新参の住職が別の寺から檀家を引き抜けば、「村八分」は免れない。

 「赤字ギリギリでしょうか。でも、この島の人は、ちょくちょくコメや魚を持ってきてくれる。贅沢はできないですが、夫婦2人暮らしてはいけます。でも子供ができれば、苦しいでしょうね。その時は、『悪魔のカフェ』時代を思い出し、カフェでも開こうかな」

 根っから明るい佐々木さんに悲壮感はない。

(次回に続く)

このコラムについて
宗教崩壊

多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。「宗教崩壊」は一般庶民に何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろう。寺や神社が消えることでの「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」へと広がっていく危険性もある。日経ビジネスオンラインでは、「宗教崩壊」の現場に足を踏み入れ、実態を調査。各宗教教団本部にも取材し、複数回にわたってリポートする。いざという時に役立つ仏教知識、教養も得られるような構成にしてあるので、参考にして頂きたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20141118/273997/?ST=print


06. 2014年12月03日 07:59:11 : jXbiWWJBCA

「宗教崩壊」
「若い人は内地に逃げていきました」

島に若住職がやってきた(下)

2014年12月3日(水)  鵜飼 秀徳

(前回はこちら)


宇久島の夕暮れ
 日が暮れて、辺りが漆黒の闇に包まれると、降ってきそうなほどの無数の星が、頭上に広がった。長崎県・宇久島の平地区のある民家から、和太鼓の心地よい音が響いてきた。

 「宇久島には伝統的に伝わる、祝いの歌があるんですが、その練習会に私は参加しているんですよ。この島は、かつてクジラ漁が盛んでした。歌は、クジラ漁に由来します。最近では調査捕鯨に替わり、クジラ漁を営む島民はほとんどいません。同時に、高齢化や祝い事が減り、歌は途絶える寸前になっています。このままでは完全に島の文化が消滅するという危機感を抱きながら、個人的には島に溶け込む意味で、島の人の輪の中に入れてもらっているんですよ」

 島の妙蓮寺の新しい住職として、2013年10月にやってきた若住職・佐々木浄榮さん(35歳)が誘ってくれたのは、島の伝統芸能の保存会「大唄(おおうた)ヨイヤサの会」だ。

 会場は、島で民泊を営んでいる島民宅。囲炉裏の部屋があり、立派な神棚が据えてある。その下には、豪壮な仏壇が鎮座している。別に火の神を祀った神棚もあり、この島の信仰深さを物語っている。

 男たちが「ヨイヤサ」を歌い出した。

 思たこちゃ 叶た末は鶴亀
 上に舞うのは鶴ではないか お宿繁盛と
 良かろ良かろよこれより先は ましてこの先ゃ


歌会の風景(左から3人目が佐々木さん)
かつてはクジラ漁やアワビ漁で栄えた

 宇久島では古くからクジラ漁やアワビ漁が盛んだった。唄の会に参加している佐世保市役所宇久行政センター産業建設課の福井樹夫さんが、宇久島の歴史について教えてくれた。

 「クジラ漁は富の象徴でした。2〜3年、南氷洋に出れば家1軒が建ったですよ。(クジラを射止める)砲手の報酬はさらに手厚く、1年、海に出るだけで家が建った。生涯で1000頭以上、仕留めた人がいます。同時に、アワビも宇久島は日本一の漁獲高を誇っていました。ですが、商業捕鯨が終わり、調査捕鯨に替わって、今ではクジラ漁に出るのは1人だけになりました。アワビも最盛期は干しアワビにして中国に輸出していました。しかし、それも平成の初めくらいまで。今ではアワビの漁獲高は当時の250分の1の水準にまで落ち込んでいます」

 島で最古の曹洞宗・東光寺には、クジラ供養の碑があり、隣接する神島神社にもクジラの石像が奉納されている。いずれも、クジラ漁やアワビ漁で財を成した島人が、この島の信仰を支えた証しである。

 漁業で羽振りのよかった時代は、寺への寄進や布施も多く、寺も潤っていた。しかし、調査捕鯨への切り替わりをはじめとする漁業の衰退が、寺の衰えに拍車を掛けているのである。


東光寺にあるクジラの石碑
 宇久島の郷土史によれば、現在、島には計11カ寺が存在している。人口2300人そこそこ、周囲38kmの島にしては寺の数は多いほうかもしれない。

 内訳は曹洞宗が5、真言宗が2、日蓮宗が2、浄土真宗が1、浄土宗が1。だが、享保年間までには25カ寺もあったという。曹洞宗が多いのは歴代藩主の五島家の信仰が曹洞宗だったからである。

 ちなみに、神社の数はもっと多く、28ある集落に1社ずつある。

 さらに観音堂、地蔵堂、野仏、縁起の分からぬ祠などを入れると、島には信仰の対象が無数にある。宇久島は遣唐使として唐に渡った弘法大師空海が、帰国の折に立ち寄ったとされ、弘法大師ゆかりの地が点在しており、巡礼できる「八十八カ所霊場」も存在する。

廃仏毀釈以来の窮地を迎える島

 五島列島の中で、宇久島だけにカトリックの教会がない理由としては、弘法信仰が根強いことや藩主五島家の菩提寺が曹洞宗であったこと、さらに土着的宗教などが混在していることなどから、キリスト教が入る余地がなかったからという説が有力である。


島に残されている野仏

藤原広嗣の乱に由来すると伝えられる石塚
 江戸時代、島の寺は興隆期にあったが、1868年(明治元年)、明治新政府が発布した神仏判然令による、いわゆる「廃仏毀釈」が大きな打撃を与えた。

 それまで神仏一緒に祀ることが多かった日本の仏教と神道だが、明治新政府になって、神道こそが日本の国教という思想の基に、全国の寺院が破壊され、神仏分離が進んだのだ。

 例えば、佐々木さんが住職を務める妙蓮寺がある場所には、1869年(明治2年)に廃仏毀釈によって廃寺とされた浄土宗寺院が建っていた。妙蓮寺の開山はそれから11年後の1880年(明治13年)のことである。

 時は流れ、宇久島の寺は廃仏毀釈以来の窮地を迎えている。現在、島の寺や神社は惨憺たる有様だ。

 島内11カ寺のうち、実際に活動しているのは7カ寺。残りの4カ寺は住職不在の「無住寺院」である。活動寺院の7カ寺ですら、住職が高齢で寝たきりだったり、後継者がいなかったりで、佐世保市役所宇久行政センターによれば、「このままでは5〜10年以内には、島の寺は5つだけになってしまう可能性がある」という。


島にある浄土宗の無住寺院
 島内に28ある神社はもっと厳しい状態で、神主2人だけが守っている。氏子も高齢化し、寺同様、存続が危ぶまれている。

 行政サイドも島の文化資源の保全のために、手助けしたいところだが、「政教分離の原則があり、特定の寺や神社に対して予算を付けることは難しい」(佐世保市役所宇久行政センター)。せいぜい、寺を島の観光資源ととらえて、PRなどの後方支援に留まるという。

古刹の檀家も減り続ける

 妙蓮寺住職、佐々木さんの案内で、島の集落にある寺院を見て回ることになった。その1つ、400年の歴史を持つ日蓮宗・妙覚寺を訪れた。

 「今年に入って、4軒、檀家が減ったですよ」

 住職(78歳)はそう言うと、寂しそうに寺の実情について明かしてくれた。

 妙覚寺の檀家数は現在21軒のみ。40年前には80軒あったという。妙覚寺は島では珍しく、自前で墓地を所有している。しかし、ムラは伝統的に共同墓地を利用しているので、自坊だけ「墓地管理料」を課金する訳にはいかない。

 檀家に対し、寺の存続のために、墓地管理料を納めてほしいと訴えたことはあるが、反対にあって実現していない。年間の寺院収入は100万円に届かない。それも、宗に納める冥加金や光熱費でほぼ消えてしまう。

 住職はかつては役場の職員との兼業で、今は年金だけが頼りの生活を送っている。

 住職には後継となる子供もいない。

 「この寺では仮に跡継ぎがいたとしても、到底、生活できないですよ。私の後は、本土の別の寺の住職に兼務(兼務住職)してもらうしかないです。檀家の子供に継いでもらう手段も考えたが、皆、内地に行ってしまって戻ってこない。田畑、家、財産、若い人はみんな捨てて、内地に逃げていきました」

 仮に兼務住職に入ってもらったとしても、普段の寺の管理は滞ってしまう。離島での無住状態は、事実上、寺の崩壊を意味する。

 ところが妙覚寺のように、そもそも檀家数が少ない寺だけが厳しいのではない。

 次に島外の在家出身という、佐々木さんとは同じ境遇を持つ住職の真言宗・毘沙門寺を訪れた。

寺を潰す覚悟

 毘沙門寺は、宇久島では最古の部類の名刹で、集落のランドマーク的な存在だ。檀家数は260軒。近くにある同じ真言宗で住職不在の大定院(檀家数約30軒)の管理も、毘沙門寺の住職の兼平徹成さん(39歳)が兼務している。

 その兼平さんは取材時、本土に出張していたため寺庭婦人(※)の奥さんが替わりに取材を受けてくれた。

※じていふじん=住職の妻を指す。「寺」と「家庭」を合わせた仏教用語
 兼平さんは、夫婦2人暮らしで、子供はいない。

 兼平さんは空海が開いた日本最古の大学、種智院大学を卒業後、総本山・高野山金剛峰寺の塔頭寺院(※)に入り、近年は執事を務めていた。言わば、真言宗における中央官庁勤めに等しく、兼平さんは、僧侶のエリートコースを歩んでいたと言える。

※たっちゅう=総・大本山クラスの基幹寺院に付属している寺院
 ところが、兼平さんは在家出身で、寺を持っていない。勤務先の寺には世襲の跡継ぎがいて、兼平さんはいずれ、寺を出なければならない立場にあった。

 そこで、2007年に前住職が死亡し、後継不在によって空き寺状態であった宇久島の毘沙門寺を紹介されたのだ。

 「この話が持ち込まれた時、そりゃあ、衝撃を受けましたよ」と奥さんは振り返る。

 奥さんは真言宗の出版部門・高野山出版社に勤務していたため、僻地の寺に入ることの抵抗感はあまりないほうだったが、しかし、離島の寺とは想定外だった。

 「調べれば調べるほど島が深刻な過疎状態にあることが分かってきました。島の住職は特別です。でも島で亡くなる人を送る役割が我々にできるのであれば、お役に立ちたいと思いました」

 兼平夫妻は最初、島の高齢者が話す方言が分からず、返事に窮することがあった。しかし、島人は信心深く、日常的に寺に足を向け、寺の行事にも積極的に参加してくる。そうした檀信徒との接点も多い住職夫婦が、島のコミュニティーに入り込むのに、そう時間はかからなかったという。

 しかし、次第に島の実情が見えてきた。1人、2人と島人がこの地を去っていく。それは若者だけではなかった。

 島には病院や充実した高齢者施設がなく、子供が親を都会に呼び寄せるのだ。若年層から老年層まで、全ての世代が、島を去っていく。

 「みんな連れて行かれるのです。島外出身者の我々ですら、島の人を見送るのは辛いものです」

 そうしていずれ、見送る人がいなくなる時期がやってくる。いや、それどころか野辺送りすらできなくなる未来が、遠くない将来、島に訪れようとしている。

 「寺は自分たちの代で潰す覚悟でやっています。年々、加速度的に檀家が減ってゆき、このままではいずれ寺が維持できない状態になるのは間違いありません。30年後になるか、40年後になるか、今のところは何とも言えませんが」

 「寺を潰す覚悟」という言葉の裏には、背水の陣で寺を再建するという奮起が込められる。過疎の寺を運営する者の正直な気持ちであり、先が見えない将来への不安があるのだろう。


宇久島にて
減り続る一方の収入

 毘沙門寺では檀家は260軒あるが、収入への不安もあるという。

 「うちの寺は島では規模は大きめですが、寄付は受けておらず、専業できるギリギリの数。しかし、年間5軒ほどのペースで減り、収入は減り続ける一方です」

 寺の経営については、この連載の中で追々述べていくが、寺が専業で食べていくには、通常、檀家数は200軒なければ難しいと言われる。それも地域差がある。200軒以下であれば、住職が副業を持たなければ、生計を立てていくのは難しい。

 奥さんは続ける。「檀家さんがいる限りは当然、島で寺の維持に心血を注ぐ覚悟ではありますが、ある段階で決断をせねばなりません。そうなれば、本堂は潰して更地にし、ご本尊は本山に移し、島の別の寺と一緒にする――。そういうことを、最近、夫婦で話し合うようになりました」。

 佐々木さんや兼平さんは島外出身者だが、島に骨を埋める覚悟が感じられた。だからこそ、「宗教崩壊」に強く危機感を抱き、打開策を探ろうと四苦八苦している。しかし、まだ、その光ははるか彼方にあって、見えていない。

 島では今宵も、男たちの「ヨイヤサ」が響き渡る。

 アッソリャ〜 島の歴史と文化を重んじながら 島の魅力を活かした
 皆様方に イチジャイナ
 アッソリャ〜 互いに 交流深める アイランダーは
 鶴と 亀とが 舞い遊ぶ ハイヤー ホイ

(宇久島編は終わります。次回は島根県石見地方の寺院の実情をリポートする)

このコラムについて
宗教崩壊

多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。「宗教崩壊」は一般庶民に何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろう。寺や神社が消えることでの「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」へと広がっていく危険性もある。日経ビジネスオンラインでは、「宗教崩壊」の現場に足を踏み入れ、実態を調査。各宗教教団本部にも取材し、複数回にわたってリポートする。いざという時に役立つ仏教知識、教養も得られるような構成にしてあるので、参考にして頂きたい。


http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20141121/274153/?ST=print


07. 2014年12月08日 07:13:35 : jXbiWWJBCA

「葬儀代を浮かすため」など本末転倒だ グラフで見る「献体」を支える哀しき高齢化社会
2014年12月8日(月)  鵜飼 秀徳

大学医学部で医者の卵を育てるために実施されている解剖実習。基礎医学を支える献体が最近、増えているという。その背景には社会構造の変化があった。杏林大学医学部の松村讓兒教授が、献体を取り巻く実情を解説する。
(取材・構成は鵜飼秀徳)

松村讓兒・杏林大学教授(肉眼解剖学)
 11月4日公開の記事「献体が増加する哀しい理由」でも紹介しているが、大学医学部の解剖実習を支える献体数が近年、増える傾向にある。
 1984年度に1528人だったのに対し、1995年度は2783人、2012年度では3639人まで増えた。かつては警察から提供を受けた身元不明体が使用されることが多かったが、近年では篤志(献体希望者)による献体でほぼ全てを賄うことができている。

 篤志の比率は1984年度で46.4%と半数に満たなかった。1995年度では73.2%、2012年では97.6%である。献体数の増加とともに、篤志比率も上がってきているのが特徴だ。
 献体が増えている理由の筆頭に、献体に対する抵抗感が薄れていることが挙げられる。そのきっかけの1つに1983年に成立した「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律(献体法)」において、「献体の意志の尊重」が明記されたことが挙げられる。
 それまでは遺族が拒否した場合は、大学側が遺体を引き取ることができなかった。ところが、本人の意志が重視されるようになって、希望者が増加し出した。
 そもそも、日本の解剖は江戸時代の「腑分け」に端を発し、刑死体を使用していた経緯から負のイメージが強かった。しかし近年、認知度の高まりとともに死後、学問に寄与できるひとつの選択として、献体を希望する人が増えてきたのである。
 意外なことかもしれないが、社会構造の変化が献体の世界に影響を与えている側面がある。核家族化、少子高齢化を背景にして独居老人が増えている。彼らの中には、孤独感・不安感ゆえに献体を申し出る人が少なからずいるのだ。
 前回の記事でも触れたように、生活保護受給者が献体を希望するケースも見られるようになった。ここのところアベノミクスの効果により景気が好転するなかでも、生活保護受給者は約215万人(2014年4月時点)まで増えている。

出所:厚生労働省社会・援護局保護課「被保護者調査」月次調査
2012年度出所:「平成24年度被保護者調査」月次調査/年次推移 第5表 被保護実人員(一カ月平均)
 また、2011年の東日本大震災以降、いつ何時、どのような形で最期を迎えるか分からないという無常観の高まりも少なからず影響しているとみられる。献体によって自分で自分の最期が決められる、ということで安心感が得られると語る人もいるほどだ。
葬儀代を浮かす目的の問い合わせが増加
 だが最近、「献体をすれば葬儀や埋葬の費用が浮かせられるから」という誤った理解による希望者も出現している。献体の本来の趣旨は医療への貢献であり、若き医師の育成にある。このシンプルかつ純粋な目的が、社会情勢の変化とともに曲解されてきているとしたら残念なことだ。
 献体数が確保される間は、基礎医学に影響が出ることはないだろう。だが懸念されるのは都市と地方の格差問題。献体希望者は少なからず特定の大学を指名するケースがあり、人口減少傾向にある地方の新設大学や歯科大学では献体が集まりにくい。
 一般的には知られざる献体の実情だが、そこにも世相が透けて見える。



ニュースを斬る
日々、生み出される膨大なニュース。その本質と意味するところは何か。そこから何を学び取るべきなのか――。本コラムでは、日経ビジネス編集部が選んだ注目のニュースを、その道のプロフェッショナルである執筆陣が独自の視点で鋭く解説。ニュースの裏側に潜む意外な事実、一歩踏み込んだ読み筋を引き出します。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20141204/274684/?ST=print 
 


08. 2014年12月10日 07:10:43 : jXbiWWJBCA

「宗教崩壊」
地図にもカーナビにもない路傍の寺

世界遺産の地で起きる「平成の法難」(上)

2014年12月10日(水)  鵜飼 秀徳


島根県・沖泊の港から銀が運ばれていった

 その昔、「銀の道」と呼ばれた街道がある。

 世界文化遺産に指定されている石見銀山(島根県)から掘り出された銀を日本海側へと運び出した総延長8.8kmの山間ルートである。

 銀の積み出し港として中世、賑わったのが大田市温泉津沖泊(ゆのつおきどまり)だ。銀の道の最終地点である。沖泊の港はリアス式の入り江となっており、深度もあって波が静かなことから、大型の船の停泊が可能だった。そのため江戸時代には、北前船の寄港地になった。

 かつて沖泊集落には回船問屋が立ち並び、今にその風情を伝えている。現在、最も古い家屋は築300年ほどが経過しているという。

銀で栄えた集落は6人の高齢者だけに

 しかし、集落を貫く銀の道を歩いてみると、その華麗なる時代は夢の跡、という印象だ。家屋の多くは空き家状態であることが分かる。ほぼ原形を留めない土蔵の痕跡も確認できる。

 現在、沖泊集落の住民はわずか5世帯、6人の高齢者のみ。つまり、1世帯を除いて全てが独居老人世帯ということになる。最高齢は97歳だという。このままではいずれ消滅へと向かう運命にある限界集落の典型と言える。


銀の道とは別にある手掘りのトンネルを抜けて沖泊に入る
地図にない寺

 この小さなムラには、1社(恵比寿神社)、1寺(正念寺)が向かい合わせに建っている。

 恵比寿神社は1526年(大永6年)建立で、県が有形文化財に指定している。恵比寿神社は銀の積み出しの際、海を鎮める神様として崇められ、今でも、「えべっさん祭り」が毎年4月3日に開催され、ムラの無形文化を伝えている。現在、社殿は築500年近くが経過し、崩壊の危機にさらされているため、解体修理に出されている(2014年12月時点)。

 一方で、正念寺のほうは、ここが寺だと言われなければ、間違いなく前を素通りしてしまうだろう。


左の建物が正念寺。かつては奥に見えるムラの墓地の場所にあった
 まず、山号額(※)が見当たらない。それどころか地図やグーグルマップ、カーナビゲーションを頼りにしても、正念寺の名を探すことはできない。電話も引かれていない。古地図を見るか、登記簿を取り寄せるしか、寺の存在を明らかにする術はない。

※さんごうがく=寺号額とも言う。寺の名前を記した看板。

 建物は伽藍というには程遠い、物置小屋と見紛うほどの質素さである。軒下の梁に辛うじて「卍」が掘られているのを見つけた。堂内は2間あり、本堂には小さな阿弥陀如来像が、古色蒼然とした厨子に入って祀られている。もう1間はムラの物置として使われている。

 集落で農作業をしていた70代の男性に話を聞いた。

もはや宗教施設の体を成していない寺

 「寺の住職を知る者は、ここには誰もおらん。ワシらが生まれた時から、寺には誰もおらんかった。寺は代々、ムラの集会場として使っておる。農作業で疲れた時に昼寝をしたり、近所の人間と酒を飲むための場所だワ」

 寺の裏手には、こぢんまりとしたムラの共同墓地がある。かつてはこの場所に元の正念寺があった。

 しかし老朽化が進んで崩壊の危険が生じたため約60年前、20mほど離れた現在の場所に移転した。移転・再建時も住職はおらず、ムラの人がカネを出し合って寺を存続させた。

 墓地の片隅には朽ちた墓石や地蔵が転がり、1907年(明治40年)に亡くなった正念寺最後の尼僧住職のものと思われる墓が確認できた。この尼僧以降、住職のなり手が見つからず、無住(※)状態が続いている。

※むじゅう=住職がいない寺。無住寺院。

 もはや宗教施設の体を成しておらず、地域の公民館に近い。文化財としての価値も見いだせないこの寺は、このままではいずれ廃寺になる運命にある。いや、実際、そうした話が持ち上がっている。

 「今、隣村のお寺さんに吸収・合併してもらう話が進んでおります。しかし、手続きには時間と手間がかかります」

 石見地区を取りまとめる浄土宗の教区長、極楽寺(島根県浜田市)の住職・本田行敬さんは困惑する。事は、そうは簡単ではない。

深刻な寺の“空き屋問題”

 というのも、正念寺は法律上、れっきとした宗教法人であり、解散もしくは合併の際には宗の本部や行政に書類を揃えて、届け出なければならない。

 その場合、住職や寺の責任役員(※)、檀家総代(※)、寺族(※)の所在の確認をした上で、仮に該当者がいなければ、形式的にでも別の寺から名義を借りるなどの必要が出てくる。

 その手続きを終えた後、宗教法人法に基づく正式な清算手続きとなる。しかし、残った伽藍や敷地、無縁墓の処理など、“現場”の問題が同時に発生する。

※せきにんやくいん=宗教法人法が定める寺には、事務運営のために3人以上の責任役員を置き、うち1人を代表役員として置かなければならない。一般的には住職が代表役員を務め、その家族や檀家総代が責任役員となるケースが多い。

※だんかそうだい=住職が選ぶ檀家の代表者。複数の総代が存在するのが普通。

※じぞく=住職とその家族。

 しかし、そうした処分費用は一体、誰が負担するのか。今、全国的に空き家問題が深刻化しているが、寺社仏閣も同様である。むしろ寺社は一般住宅に比べて規模が大きく、解体費用には数百万円〜数千万円単位の費用が必要だ。

 無住寺院のまま放置すれば崩壊や不審火等による不測の事態も想定される。従って、寺を維持管理できる手だてがない場合、伽藍は解体せざるを得ない。一方で、行政や各宗派の本部がその資金を肩代わりすることはできない。宗教法人の解体は一筋縄ではいかない。

 「解散せざるを得ない寺が浄土宗だけで全国に100カ寺以上あると聞きます。正念寺のすぐ近くにも、荒廃したままで放置され、境内をイノシシが走り回っている寺があり、ご本尊を宗務庁(※)が回収に来ました」(本田さん)

※しゅうむちょう=宗の行政を担う本部。各宗派によって宗務庁、宗務院などの呼び方がある。

 いくつかの仏教教団は石見地区の無住寺院の調査に乗り出しつつあるが、その実態はまだつかめていない。

世界遺産ブームの恩恵はどこへ

 ところで石見といえば、世界遺産ブームの恩恵に与っているはずではないのか。

 日本で14件目となる世界遺産に「石見銀山とのその文化的景観」が登録されたのは2007年7月のことだった。一時は、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(ICOMOS)から登録延期の勧告を受けたが、一転、産業遺産としてはアジア初の登録となった。

 島根県は出雲市と松江市などを除く、県の85.4%が過疎地域自立促進特別措置法に基づく過疎地、あるいは一部過疎地に指定されている。石見銀山の世界遺産登録は観光客の流入、雇用促進などの効果が期待されていた。

 石見銀山のお膝元・島根県大田市でも、世界遺産登録となった2007年、にわかに世界遺産ブームに沸いた。内外からの観光客を呼び込み、人口流出を食い止める大きな原動力になるかに見えた。

 しかし、もくろみは外れた。その恩恵を受けているのは銀山の観光ルートであるわずか3kmほどの街道沿いや、近隣の温泉地などに限られる。石見銀山はよく「1度訪れれば、2度は来る必要がない」と言われる。

 島根県観光動態調査によると、世界遺産登録前の2005年、大田地域への観光客入り込み数は192万人であったのに対し、登録年の2007年には226万人と17.8%も増加。だが、直近の2012年調査では、200万人と元の水準に戻りつつある。

 明らかに石見地方の世界遺産ブームは一過性のものであったことを示している。

 石見の寺社仏閣も、ごく一部の拝観寺院などを除いて世界遺産の恩恵とは無縁で、末端の寺はじり貧だ。石見地方は人口に比べて、寺院の数が特に多いのが特徴だ。つまりその分、経済基盤となる檀家の数が少ないのだ。

 その原因を知るには、銀山盛衰の歴史に遡ってみる必要がある。

 石見銀山の発見時期には諸説あるが、鎌倉時代末期(14世紀初頭)というのが有力だ。

 戦国時代に入ると、地元領主の小笠原氏と大内氏、さらに尼子氏、毛利氏らが入り混じった銀山争奪戦に発展。16世紀後半、毛利元就が銀山を手中に収めると、先述の銀の道を整備し、その後、慶長年間(1596年〜1615年)にかけて、銀の産出量がピークを迎える。

 銀山興隆期には周辺で130カ寺以上の寺院がひしめいたとされる。


石見銀山最盛期には130もの寺があったという
 当時の銀山界隈の人口は20万人で、銀で財を成した武家や商人が、寺社の建立から住職の生活までを支えていた。人口20万人に対し、130カ寺と言うと、寺院1軒当たりざっと1500人以上の檀家を抱えたことになるから、各寺院の経営はかなり安定していたと推定できる。

 しかし、元禄年間(1688年〜1707年)に入ると銀の産出は下火になり、幕末にはほぼ銀の生産は止まってしまう。すると廃寺や移転が相次ぐ。20世紀初頭までにおよそ半数が石見地区から周辺地域に移転し、あるいは消滅してしまう寺院もあった。

 それでも現在、周辺都市には、毛利氏の庇護を受けて発展した「石見門徒」と呼ばれる浄土真宗本願寺派の寺院を中心に、まだ数多くの寺院が点在している。

 大田市の場合、1カ寺当たりの人口は366人である(全国平均は1カ寺当たり1677人)。当地は人口に対して寺の数が多すぎ、しかも高齢化率の高さもネックとなり、構造的に地域が寺を支えられなくなっている。

秘境の祠が語る寺院の悲劇

 さて、明治以前の行政区である石見国は、西は山口県、南は広島県に接する5市3郡(広島県北広島町を除く)に広がり、その多くが過疎地域自立促進特別措置法に基づく過疎地、あるいは一部過疎地に指定されている。

 中でも高齢化率54.6%(内閣府の『高齢社会白書平成26年版』による全国総人口に占める65歳以上の高齢者比率=高齢化率は25.1%)という益田市匹見(ひきみ)地区は、市中心街から林道をクルマで飛ばしても2時間ほどかかる、日本でも最も不便な集落の1つである。同じ石見国でも銀山からは3時間ほどかかる。

 匹見は戦前から鉄道の枕木の製造などで栄え、高度成長期も林業と木材加工で賑わった。しかし、1963年(昭和38年)に襲った豪雪被害を境に急激に人口が流出。安い外材の台頭もムラの産業に追い打ちをかけ、島根県内でも特に深刻な過疎地となっている。

 この匹見全体で寺院は8カ寺あり、うち6カ寺が浄土真宗寺院だ。この辺鄙な地にも「石見門徒」の強い影響が見られる。

年に1度だけ住職が来る寺


祠だけが残る和田寺
 のどかな田園地区の片隅に、小さなお堂を見つけた。境内には1本の銀杏の大木があり、訪れた11月下旬、紅葉した銀杏の葉が掃き清められることなく地面に降り積もり、その美しい風景と相まって、不気味な静けさが漂っていた。

 門前の看板には「和田寺」とある。この和田寺をわざわざ訪れたのは理由がある。前出の石見教区長の極楽寺住職・本田行敬さんがこう教えてくれたからだ。

 「地元で教区長をしている私も行ったことがない秘境の中の秘境の寺です。噂では、小さな祠だけがあり、しかしながら浄土宗の寺院名鑑には住職がいることが記されています。つまり、宗教法人の体裁は整っており、宗が課す上納金もきちんと納められている。しかし、住職は京都に住んでいるということです。恐らくほとんどこの寺には来ていないと推測できます。私もその住職と会ったこともありません」

 先述の正念寺以上に、この寺を探すのは骨が折れた。ゼンリンの住宅地図を見ても当該地に寺らしき表記はない。集落に入って、和田寺の存在を聞いて回り、ようやくたどり着いた寺は、外からも無住寺院であることが歴然としている。

 本堂は木造1間の簡素な造りで、本尊の阿弥陀如来は瑠璃で着色された紫衣をまとっており、珍しいものだ。脇侍の1体はこの寺の創建主と見られる。


和田寺に納められている阿弥陀如来
 さらに本堂の裏手には歴代住職の墓と地蔵を見つけたが、これ以上の情報はこの場所には落ちていなかった。

 和田寺の門前に農家があり、住民の男性(62)に話を聞くことができた。

「生活は厳しく托鉢で食べていたようです」

 「和田寺の住職の息子とは同級生で、小学生の頃はよく遊びました。しかし、檀信徒が数軒しかおらず、生活は厳しく、托鉢(たくはつ)で食べていたようです。そうした時、『昭和38年豪雪』で裏山が雪崩を起こし、本堂が倒壊し、住職一家は出ていったのです。その後は無人になり、いつしか寺の名義だけ京都のお坊さんのものとなりました。その住職は毎年1回、6月頃、修行僧を連れて訪れて供養しています。それ以上のことはあまり分かりません」

 町の教育委員会などに残っている記録をたぐり寄せると、以下のようなことが分かった。

 開山したのは鎌倉期の高僧・記主禅師良忠(きしゅぜんじ りょうちゅう)で、時期は嘉禎年間(1235〜1237年)。本尊は1724年(享保9年)の作と伝えられている。

 元禄年間(1688年〜1707年)に石見三十三カ所の第14番札所になり、巡礼者で賑わいを見せた時期もあったようだ。だが江戸期には2度の火災の憂き目にあい、その都度、再建してきた。当時は江戸幕府の元での檀家制度が確立されており、ムラの信仰拠点としても重要な役割を果たしていたことなどから、再建が可能であったと思われる。

 だが、豪雪被害に巻き込まれ、雪崩で倒壊した後は、もはや再建する余力は残っていなかった。その後、名義だけの住職が置かれて、今に至っているようだ。

 和田寺の境内に、往時を偲ばせる歌が1首残されていた。

《高嶺より 光を向かふ火の谷の 山の峰より 声も絶えせぬ》

 誰も彼もが去ってしまった古刹に、人の声が響き渡ることは、もはやない。


草に埋もれた和田寺の歴代住職の墓と地蔵
(次回に続きます。次回は冒頭の地図中に記した、日貫・宝光寺、浜田・極楽寺についてリポートします)

このコラムについて
宗教崩壊

多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。「宗教崩壊」は一般庶民に何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろう。寺や神社が消えることでの「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」へと広がっていく危険性もある。日経ビジネスオンラインでは、「宗教崩壊」の現場に足を踏み入れ、実態を調査。各宗教教団本部にも取材し、複数回にわたってリポートする。いざという時に役立つ仏教知識、教養も得られるような構成にしてあるので、参考にして頂きたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20141204/274662/?ST=print
 


09. 2014年12月17日 08:04:51 : jXbiWWJBCA

「宗教崩壊」
葬儀の度に檀家が減っていく

世界遺産の地で起きる「平成の法難」(下)

2014年12月17日(水)  鵜飼 秀徳


邑南町日貫の宝光寺

 「葬式をやる度に檀家が減っていくんです」

 島根県の山間部、邑南町日貫(おおなんちょうひぬい)集落にある宝光寺住職、山本昌利さん(59歳)はそう話し始めると、ため息をついた。

 この集落では独居老人が人口の3分の1と高い割合で占め、独居状態の檀家が亡くなれば、そのまま寺との縁が絶えてしまうことが多いという。その檀家に子供や親族がいたとしても、親の遺骨を引き取り、自分たちが暮らす都会の霊園に納骨してしまう。

 そうして山本さんが住職になって、この20年で10軒以上の檀家が消えていった。

 現在、宝光寺の檀家数は71軒。ここ数年は加速度的に減少しているという。

 「それでも頑張って(20年間で)2軒増やしたんですよ。しかし、限界があります」

もののけ姫の世界

 その昔、この界隈はたたら製鉄で栄えた。宮崎駿監督の映画『もののけ姫』にも出てくる、日本古来の製鋼法だ。ふいご(=たたら)を踏んで空気を送り、砂鉄を玉鋼にしていく。江戸時代はこの製法で数多くの名刀が生み出された。1000年以上も歴史があるとされる、たたら製鉄の本場が、ここ日貫を含む石見地方なのである。

 石見地方は江戸時代、津和野藩と浜田藩の2つに分かれていた。日貫は津和野からははるか東方にあるが、浜田藩より先に国造りが進んだ津和野藩が、たたら製鉄の拠点である日貫地区を真っ先に組み入れた史実がある。この辺りは江戸時代における、経済と防衛の要であった。

 だが明治以降、近隣の石見銀山が閉山し、西洋から入ってきた近代製鉄法がこの日本固有の製鉄を脅かし、石見地方は衰退の一途をたどってゆく。産業を失ったムラからは若者が去り、高齢者ばかりが残った。

 「世界遺産のブームもここいらはあまり関係ないですね」


石見銀山の坑道跡
 近年の邑南町全体の人口動態で見れば、1970年には1万7919人を数えた人口は、1990年代半ばには1万5000人を割り込み、2014年は推定値1万1200人ほどと、右肩下がりを続けている。

 中でも日貫地区は過疎化と高齢化が深刻だ。現在214世帯、524人が暮らし、人口に占める65歳以上の割合を示す高齢化率が47.5%と全国平均(2015年10月時点で25.1%)の2倍近い。

 そうした高齢化の波に、山本さんの寺は飲まれている。


宝光寺の山本昌利さん
「食べていけるように」副業を紹介

 山本さんは北九州の在家に生まれた。島根大学在学中に出会ったボランティアサークル仲間が僧侶で、就職の際、「おまえ、坊主にならんか」と誘ってきたのが、仏門に入るきっかけだった。

 松江市内の寺で随身(※)として20年間務め上げ、40歳を期に宝光寺の住職に就任した。山本さんが来た当初の宝光寺は無住状態(浜田市にある寺の住職が兼務していた)であった。

※ずいしん=住職を補佐する役割の僧侶。

 「いい雰囲気の寺だったので、ここで暮らすことを決断しました。でも、檀家が80人そこそこの寺では生活は厳しいことは分かっていました」

 たまたま寺の檀家総代が町の助役をしており、「食べていけるように」と副業を紹介してくれた。山本さんは知的障害者施設にカウンセラーとして勤務することになり、現在も社会福祉法人の管理職に就いている。山本さんは平日は朝7時半に出勤し、午後6時頃帰宅。寺の仕事は休日・祝日がメーンとなる。

 妻(57歳)は小学校の養護教諭だった経験を生かし、現在は保育所勤め。つまり収入源は、寺の収入に加えて、山本さん夫婦のサラリー2人分ということになる。

 山本さんのように住職が副業を持つケースは多い。兼業の大半の理由は、「寺の収入だけでは生活していけないから」である。

 宝光寺の場合もそう。寺の収入はたかが知れており、「副業のほうが年収は多い」(山本さん)という。

葬儀相場のウソ

 ここで少し、寺の収入構造を解説する。例えば宝光寺の収入の内訳は、まず墓地管理料(※)が1軒あたり年間3000円〜5000円。護寺費(※)が5000円〜1万円。これが経営上のストック(固定収入)に当たる。檀家が多ければ多いほど、経営基盤が安定していることになる。

※ぼちかんりりょう=菩提寺に墓所がある檀家に課される年会費。

※ごじひ=寺の維持運営のために墓地管理料とは別途、護寺費を設けている寺が増えている。大規模な寄付を避けるために、護寺費を修繕積み立て金に充てるケースもある。

 さらに、フロー(一時収入)がある。つまり法事や葬儀の際に生じる布施である。日貫集落の法事の相場は1回当たり1万円〜3万円ほど。葬式の布施は戒名代を含めて3万円〜5万円だという。フロー収入は多い年もあれば少ない年もある。

 「この辺りは『講中(こうじゅう)』という信仰の組があって、ムラ人が亡くなると講中が葬儀を取り仕切り、帳場が任されることになっているんです。寺への布施は講中から払われる。だから、導師(※)なら5万円、脇(※)なら3万円というふうに、相場がきっちりと決まっています。でも、たまに(講中制度のない)広島の檀家から葬儀を頼まれると、20万円〜30万円のお布施を頂けることがある。広島の葬式だと内心、嬉しくなってしまうのが正直な気持ちです」

※どうし=本尊の正面に座り、法要の中心的役割を担う僧侶。

※わき=脇導師とも言う。導師を補佐する役割。地方によっては葬儀や法要の際、導師のほかに複数の脇導師が付くこともある。

 葬儀や法事の相場は、地域性で決まる。たまに雑誌などで仏事の相場が出ていることがあるが、その法外な金額に驚かされることがある。しかしそれは東京における「袋の中身」であることが多く、地方の相場感とはかけ離れている。

 あくまでもざっくりとした数字ではあるが、ここで東京、京阪神と名古屋、地方都市の3つのカテゴリーに分けて、布施の相場を紹介したい。


宝光寺から日貫集落を見渡す
 葬儀の場合、東京ではスタンダードな額といわれる50万円を布施の1つの基準としよう。

 京阪神や名古屋などではその半分の水準(20万円〜30万円)とされ、地方都市だと10万円を切るところも多い。宝光寺のある石見地方では、先述のように3万円〜5万円という。東京の10分の1以下の水準だ。

 一方で県境を越え、広島市内に入れば「20万円以上がもらえて、嬉しくなってしまう」(山本さん)というのは正直なところだろう。

 東京の布施の値段があたかも全国の寺のスタンダードかのように語られ、「お寺さんは裕福だ」「坊主丸儲け」との誤解を生んでいる面は否めない。

墓30基の移転

 宝光寺では現在、ある檀家の大規模な改葬(※)の局面を迎えている。

 ※かいそう=墓を移転すること。通常、骨をさらって墓石を撤去し、移転する。行政・菩提寺に対する手続きが必要で、トラブルも起きている。

 この檀家は元は江戸時代から20代ほど続く庄屋で、最後に残ったおばあさんが2013年2月に死去。子供は娘4人だったが、いずれも都会に住んでいる。埼玉県内に住む四女の婿が次の当主に指名されている。

 おばあさんの死後、親族会議が持たれた結果、一族はこの地から撤退するということになった。不動産や動産のやりくりが終わり、そして財産処分の最後に残った問題が、「墓」であった。

 田舎の名家では先祖代々の墓がいくつもあるケースがある。当家の場合、なんと30基がずらりと残っていた。しかも、そのほとんどが土葬時代のもの。土葬墓は墓の中にきちんとした納骨スペースがなく、墓の撤去は大掛かりになる。

 結局、墓30基を撤去し、更地にするのに180万円かかったという。

 「先祖が頑張って暮らしてきた故郷を完全に失うのは忍びない、ということで、両親のお骨のみ関東に持っていき、先祖代々のお骨は当地で小さな墓にまとめるということになりました」(山本さん)

 核家族に集約される都市部と、高齢化が進む地方の郷里という2項対立の中で、改葬が今後、全国的に急増することは間違いない。人と街とが分断されていく時代の象徴、それが改葬なのかもしれない。

海難による身元不明遺骨を長く供養

 「悪あがきをしているんですよ」

 今、山本さんは地区の教区長をしている浜田市の極楽寺住職・本田行敬さん(65歳)らと共に、今後、さらに悪化が予想される過疎地の寺院対策に乗り出している。

 ここで少し本田さんの寺を紹介する。

 浜田市は6万人都市でその中心にある極楽寺は比較的大規模な寺だ。檀家は300軒ほど。経営は安定しているほうだ。しかし、この10年で100軒も檀家が減ったという。

 「まさに昨日も性根抜き(※)をしてきたところです」

 本田さんも山本さん同様、「葬式をする度に、檀家が減っていく」と嘆く。

※しょうねぬき=改葬や仏壇を処分する際に、死者の魂を抜く儀式。逆に、墓や仏壇を設置する際には「性根入れ」がある。

 明治期以降、輸入木材の荷揚げで賑わった浜田港にほど近い極楽寺は、1576年(天正4年)に開かれたという言い伝えがある。築100年以上が経過する納骨堂はこの寺を象徴する存在だ。

 「うちの寺は長きに渡って、海難に遭った身元不明の遺骨を引き受けてきた寺です。遠く大陸からの遺体が海流の影響で日本側に流れ寄せられ、漁の網にかかる。そうした引き取り手のない遺骨を、納骨堂を建ててそこに納め、供養してきました。毎年お盆の頃になると、市長が慰霊に訪れていました」

 極楽寺がある浜田市もまた人口減少に喘ぐ地方都市である。2010年の国勢調査では総人口が6万1713人で、5年前と比べて2.1%減少し、かつ、65歳以上の高齢化率は32.8%(同年全国平均23.0%)と人口動態的にも、未来は決して明るくない。

東京で出張法要

 そうした中、檀家減少を食い止めようと、本田さんや山本さんらの浄土宗石見教区の52カ寺が集まって、8年前から取り組んでいるのが、「石見教区東京法要」である。

 毎年9月の第1週目の日曜日、東京・港区にある浄土宗の大本山、増上寺で実施している。これは、郷里を離れて上京し、菩提寺と疎遠になっている石見地区の檀家のために、寺のほうから東京に出張して合同法要を行うというものだ。毎年100人規模の参加者があるという。

 本田さんは力を込めて言う。

 「東京に出た人とは疎遠になる一方です。ひたすら田舎に戻ってくる檀家を寺で待つのではなく、これからの時代は、我々のほうから檀家のいる都会へと出向くことも必要になってくるのではないか。何か行動を起こさなければ、地方都市の寺は間違いなく滅びます。だから、『ムダな抵抗』と言われることもありますが、やるしかない。私は過疎地の寺ほど頑張っていると思っています」


極楽寺の納骨堂
(この項終わり。次回は、波に飲まれた陸前高田の寺の悲劇をリポートします)

このコラムについて
宗教崩壊

多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。「宗教崩壊」は一般庶民に何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろう。寺や神社が消えることでの「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」へと広がっていく危険性もある。日経ビジネスオンラインでは、「宗教崩壊」の現場に足を踏み入れ、実態を調査。各宗教教団本部にも取材し、複数回にわたってリポートする。いざという時に役立つ仏教知識、教養も得られるような構成にしてあるので、参考にして頂きたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20141205/274755/?ST=print


10. 2014年12月25日 22:14:40 : hhSA9meW9Q

「宗教崩壊」
「戒名」が重複、「布施」が減額

被災寺院の復興、道険し

2014年12月25日(木)  鵜飼 秀徳

 東日本大震災で被災した寺院が窮地だ。寺の再建の前に「政教分離の原則」が立ちはだかり、資金調達に支障をきたしている。「戒名」が重複したり、非常時に定めた低額の「布施」の相場がいまだに「元に」戻らないなどの混乱状態が続き、寺院経営を圧迫している。岩手県・陸前高田の現場を回った。

土壌をかさ上げするために設置されたベルトコンベア
 津波に飲み込まれた街はあれから4年近くが経ち、街全体が巨大工場と化していた。

 岩手県・陸前高田市。今、かの復興のシンボル、「奇跡の1本松」を目視することが難しくなっている。

 訪れた2014年10月、市内の居住地を最大12.5mかさ上げする工事の真っ最中だった。周辺の山を切り崩して土砂を運ぶために、総延長3kmのベルトコンベアが高所に張り巡らされている。

 大型トラックが絶え間なく走り回り、轟音が響き渡る。あたかもSF映画に出てきそうな光景が広がっていた。

 2011年3月11日、押し寄せた津波は市の西側を流れる気仙川に沿って7km以上も遡上。沿岸に甚大な被害を与えた。その気仙川沿いに車を走らせると、山の斜面に立派な寺の屋根が見えてきた。地図上では、龍泉寺(曹洞宗)とある。


破壊された龍泉寺
 縁起によれば龍泉寺の開山は1315年(正和4年)で、元は市内の別の場所(旧矢作村)にあった。ところが寛文年間(1661年〜1672年)に起きた山津波(土石流)によって寺が破壊されたことで、現在の高台に移転したという。

 陸前高田市の震災前の地図を見れば、古い社寺はいずれも海抜10m以上の山手に集まって建てられているのが分かる。『岩手県災異年表』によると、岩手県沿岸部は、869年(貞観11年)に発生した大地震以降、幕末までの間で計8回の津波に見舞われている。

 このことから、当地の社寺は災害を避けるように自ずと「安全地帯」へと移転が繰り返され、現在の位置関係になったと推定できる。確かに多くの宗教施設は、沿岸部を避けるように点在している。

 では今回の大震災でも、陸前高田市内の寺や神社は、大津波から逃れることができたのだろうか。

全壊寺院の現実

 龍泉寺の境内に入ってみて、その惨状に言葉を失った。

 一見、しっかりと建っていると感じられた、お堂の屋根の軒先が無惨に破壊されている。

 陸前高田市の津波の最大遡上高は21.5m(東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する調査会調べ)とされている。津波は、お堂の壁を駆け上がって、下から跳ね上げるように軒部分を破壊したのだろう。

 震災前、龍泉寺の境内には鐘楼を兼ねた山門と、樹齢400年を誇り市が天然記念物に指定した「唐傘もみじ」が寺のシンボルだった。まるで唐傘のように枝葉が広がる老木のその先には、立派な本堂や庫裏、東司(便所)があったが、それも跡形もない。

 現在、唯一残っている施設は、位牌を納めた位牌堂だ。この位牌堂だけでも、本堂と見紛うような堂々たる仏教建築物である。

 地域の人に話を聞くと、「陸前高田は雪が少ないこともあって、(大きな屋根が造れるため)市内の寺の伽藍の規模は大きい」という。在りし日の龍泉寺も、相当な規模だったと想像できる。

 無人化した寺には墓参りの人影も見えず、しんと静まり返っている。現在、住職は陸前高田を離れて暮らしているという。果たして龍泉寺の再建には今後、相当な時間と費用が必要になることは間違いない。


神社も破壊された。手前には津波で流された灯籠などの巨石が転がる。
政教分離が阻む再建

 被災寺院――。

 東日本大震災における宗教施設の被害については、取り上げられることは少ない。しかしながら、寺や神社が津波に飲み込まれ、跡形もなく消えた施設は少なくない。

 伽藍や墓が流されただけでなく、住職やその家族が亡くなったケースもある。

 そうした宗教施設は、震災から3年半以上が経過した今でも、ほとんど再建できていないのが実情だ。

 というのも、一般家屋であれば、被災の程度によって自治体などから住宅再建のための助成金を受けることも可能だが、宗教団体は公の支援を受けることはできない。

 いわゆる「政教分離の原則」があるからだ。政教分離は、日本国憲法20条第1項・3項と同89条を根拠にしている。

 「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」(日本国憲法20条第1項)

 「国及びその機関は、宗教教育その他、いかなる宗教活動もしてはならない」(同第3項)

 「公金その他の公の財産は、宗教上の組織、若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは、博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」(同89条)

 そこで、各仏教教団は独自に被災寺院に対し、震災後、震災対策事務局を立ち上げ、義援金等や無利子の貸付金などの援助を実施している。

 だが、東日本大震災における被災寺院数は少なくとも287カ寺(全日本仏教会『東日本大震災支援中間報告書』における寺院支援先)にも及ぶ。到底、宗からの義援金で全てが賄えるものではない。


手前は浄土寺。奥に見える災害公営住宅には浄土真宗の寺があった。
 陸前高田における被災寺院の1つ、浄土宗・浄土寺を訪れ、住職から話を聞くことができた。

 浄土寺は、NPO法人「桜ライン311」(岡本翔馬代表)が2012年から実施している津波の到達点に桜の苗を植え、後世の教訓とする事業における、最初の植樹場所でもある。

 本堂が建っている地面より数m高い斜面に、4本の桜が植えられている。その位置関係を見るだけで浄土寺が大きな津波被害を受けたであろうことを、容易に想像させる。

 「隣に災害公営住宅が見えるでしょう。そこは震災前には浄土真宗の寺があり、うちとも遠縁の関係でしたが、住職と奥さん、副住職の奥さんの3人が亡くなっています」

 住職の菅原瑞秋さんによれば、浄土寺は隣寺よりも7mほど高所にあったため、本堂は床上浸水したものの、辛うじて崩壊は免れた。だが、本堂は使い物にならなくなり、支える大きな柱が押し流され、柱は約30m離れた山門近くで発見されたという。

 浄土寺は「全壊」の次に被害が大きい「大規模半壊」と認定された。ちなみに市内20数カ寺のうち、全壊したのは先述の龍泉寺を含めて、3カ寺であった。

 浄土寺は1574年(天正2年)開山。本堂脇には樹齢300年以上の老松が存在していることから、少なくとも過去300年間で最大の被害であったことが伺える。


浄土寺の菅原住職。菅原さんの前の桜のある場所が津波の到達点
301人の檀家が犠牲に

 菅原さんは3年半前の悲劇を、昨日の事のように話してくれた。

 「あの日、301人、220軒に当たる檀家さんの命が一瞬にして奪われました。301人というのは過去帳に記載した数ですから、実数はもっと多いと思います。震災直後は、私自身が被災者になっていましたから、中学校の体育館に避難していたんです。うちの檀家は600軒ほどあり、400軒が同じ高田町内にあります。ちなみにその400軒のうち、被災した割合はおよそ75%に上ります。体育館では『ご住職は目立つところに居てほしい』ということで、私は体育館の舞台の上に陣取ることにしました。『ご遺体が見つかった』という知らせを受ければ、火葬場に向かうという日々を暫く送っていたのです。震災から1週間も経った頃、戸板に載せられた人や軽トラの荷台に載せたご遺体が火葬場にどんどん届き出しました。(他宗の檀家さんだろうが)片っ端から供養していく。そうした修羅場が6月くらいまで続きました」

 菅原さんは3.11から数えて「四十九日」を経て、ようやく合同葬儀を実施。檀家を地区ごとに3つ分けて、3日間連続で執り行った。浄土寺の本堂は被災していて参列者を収容できないため、菅原さんが兼務していた同じ市内の正覚寺の本堂で実施した。正覚寺の本堂は手狭であったので、檀家1軒につき3人までという制限付きであった。

 だが菅原さんは、この時のことを「まずかった」と振り返る。檀家から「親戚、みんな参加したかった」という声が上がってきたからだ。

 その反省もあり、一回忌と三回忌の法要は個別に対応。2012年1月から5月までの間の休日祝日を全て使って、1日あたり6座から7座も務めた。

 「三回忌が終わってようやく、一息ついたという印象です」

 震災後、相当な時間が経過してから、DNA鑑定の結果が出て、ようやく身元が判明した檀家もいた。

 「この人は絶対に見つからないだろうという人が、震災から1年後に判明したケースもありました。子供がいない70代の女性で、兄弟も既に亡くなっていました。この人は筆まめで、よく知人に手紙を出していたんです。その時、切手を舐めて張っていたおかげで、唾液からDNAが採取でき、照合が可能になりました」

 それでもまだ見つからない人もいる。浄土寺の檀家のうち、12名が行方不明のままだ。

戒名が重複

 非常事態は仏教の現場に多くの問題を生じさせた。1つは戒名の問題だ。

 浄土寺の場合、ひとときで301人もの檀家が死亡したのである。

 平時ではこの地域では人が死んだ際、死亡→枕経→火葬→通夜→葬儀といった流れが基本。東京や関西とは違い、通夜や葬儀の前に火葬するのが特徴だ。

 菅原さんは檀家の戒名を301人分、一気に付けることになった。

 戒名は通常、住職が過去帳を見ながら先祖代々の戒名と照らし合わせ、信仰の厚さ、寺への貢献度なども鑑み、本人に適した文字を考える。

 基本的には経典の中から文字を選ぶが、故人の趣味や仕事にちなんだ文字を、あえて選択することもある。

 「もちろん、そういう手順は踏めませんでした。過去帳は流れてしまい、照合するなんて到底、無理でした。そこで例えば、高校生以上ならば(最もグレードの高いとされる)『居士(こじ)』、『大姉(たいし)』にし、全て6文字に統一しました。つまり『安誉○○居士(大姉)』というフォーマットを決め、○○のところの1文字は、亡くなった人の名前から文字を拾いました。浄土宗の場合、通常『誉(よ)号』を付けられるのは、五重相伝(※)を受けた檀信徒だけです。しかし、当時のような混乱状態では誰が五重相伝を受けているのは分からない。特例的にルールに従って、機械的にやらざるを得なかったのです」

 しかし後日、菅原さんが戒名を精査して見ると、過去、別人に付けた戒名と同じになったケースがあったという。

※ごじゅうそうでん=浄土宗の念仏の教えを、5つの順序に従って伝える儀式。この儀式を受けた檀信徒には戒名で『誉』の1字が与えられる。
行政も決断できない

 浄土寺ではいまだ、ハード、ソフトの両面で震災前の状態には戻っていない。そもそも安全面が担保されていない。浄土寺も将来を考えれば、隣の災害公営住宅と同じ高さ12.5mまでかさ上げが必要だが、行政の判断待ち状態だという。

 「当初はこの場所も浸水したということで、かさ上げ対象区域に指定されて、行政も『工事をやります』と言っていました。ですがその場合、今建っている本堂を一時的に移動させなければならず、巨額の費用がかかかる。うちの寺の場合は、かさ上げの高さは数10cm程度。行政も、その費用対効果を考えているようで、やるかやらないか一向に話が前に進んでいません」

 これが一般住宅であれば、難なく工事に着手しているだろう。だが、先述した「政教分離の原則」があり、宗教法人ということで行政が決めかねている側面はありそうだ。

 このままでは、「庫裏の再建もできず、やりたい事業も何もできない」と菅原さんは憤る。

布施の相場が戻らない

 ハード面の再建は厳しいが、もっと大きな問題は寺院の経営面だ。

 浄土寺の場合、震災以降、都会などへ引っ越しを決めたおよそ10軒が離檀。一方で、震災由来で新たに30軒が浄土寺の檀家になったという。

 檀家は増えたが、資金面での苦境は続いている。

 本堂の修繕には多額の費用がかかり、うち1000万円を菅原さんが拠出し、さらに支援金や、共済から下りた資金で何とか修復を終えた。震災後、檀家も経済的に逼迫したことから、寄付を募ることは心情的にできなかった。

 だが、もはや菅原さん側にも、余裕はない。浄土寺で寺院活動を再開するためにも、流された庫裏を新築しなければならない。だが、その際には、檀家に寄付を募らざるを得ないが、被災した檀家も同時に苦しく、容易ではない。

 さらに菅原さんは「こんなこと言うのは、本当に嫌な気持ちになるんだけれど」と前置きしながら、震災後の寺院収入の原則が崩壊している実情を話してくれた。

 浄土寺では震災後、最初の合同葬儀は非常時であったため、1軒当たり一律5000円と供養料を定めた。だが、それがその後、「何かにつけて5000円」になってしまったという。本来であれば震災前のこの辺りの1軒の葬儀の布施相場は、20万円〜30万円の水準である。

 布施の中身は「お気持ち」であることは確かだが、地域には「常識的な布施」の相場感があって、寺院経営を維持してきた。

 震災直後、一時的に布施や葬儀代の金額が下がるのは致し方ないにせよ、時間が経過した今でも「元に戻っていない」(菅原さん)と嘆く。収入面が安定しなければ、寺院活動を継続するのは不可能だ。

 浄土寺のような問題は、東北沿岸の多くの被災寺院で見られることだ。

 「地域の氏子が支える神社の再建はさらに厳しいだろう」(菅原さん)。

 街は復興が進み活気を取り戻しつつある。しかし、宗教施設の復興は完全に置き去りにされている実情がある。東北沿岸の街から、物的にも精神的にも、宗教が消えようとしている。


震災後、荒廃が進む神社の社殿


このコラムについて
宗教崩壊

多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。「宗教崩壊」は一般庶民に何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろう。寺や神社が消えることでの「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」へと広がっていく危険性もある。日経ビジネスオンラインでは、「宗教崩壊」の現場に足を踏み入れ、実態を調査。各宗教教団本部にも取材し、複数回にわたってリポートする。いざという時に役立つ仏教知識、教養も得られるような構成にしてあるので、参考にして頂きたい。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20141224/275550/?ST=print


11. 2015年1月21日 22:41:18 : jXbiWWJBCA
 
寺と僧侶が「完全消滅」した数字でたどる宗教の系譜(下)
2015年1月21日(水)  鵜飼 秀徳



鹿児島市内を俯瞰しても寺の屋根はあまり見えない
 鹿児島市内を歩いて、どれだけの人がこのことに気づくだろうか。
 「寺が少ない」――。
 文化庁の『宗教年鑑』によれば、鹿児島県内の寺院数は489カ寺だ。例えば、鹿児島とほぼ同等の面積の山形県では1485カ寺、また広島県では1737カ寺である。
 鹿児島県の人口10万人に占める寺院数(寺院密度)は、29.1カ寺。全47都道府県中の順位で言えば、寺院数が42番目、寺院密度が44番目と、確かに低水準ではある。
廃仏毀釈が激しかった鹿児島県
 それには理由がある。
 「鹿児島と言えば、西郷隆盛や大久保利通など、明治維新を主導した偉人を輩出した土地柄で一見、華やかな印象があります。ですが当時、この地域が大きなタブーを犯したことは、県民ですらあまり知らない事実なのです。いわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)です。今でもその後遺症を、鹿児島は引きずっています」
 こう語るのは鹿児島県民俗学会会員の名越護さん(72歳)だ。
 廃仏毀釈とは、幕末から明治9年頃にかけて全国的に実施された仏教弾圧のこと。多くの寺院が廃寺になり、仏像などが破壊された。僧侶は還俗(げんぞく)させられた。
 特に鹿児島県は、廃仏毀釈が最も激しかった地域として知られている。
 鹿児島県史によると、県内には江戸末期まで寺院が1066カ寺あり、僧侶が2964人いた。ところが1874年(明治7年)には双方ともにゼロになった。にわかには信じ難いことだ。廃仏毀釈が終わり、1876年(明治9年)に鹿児島県に「信教の自由令」が出されるまで、廃仏毀釈は続いた。
 廃仏毀釈が収まり、一部の寺院が復興し、また浄土真宗が鹿児島県における布教活動に力を入れたことから、現在では数の上では廃仏毀釈以前の半分の水準まで寺院数は回復してきている。
 そうした歴史的経緯があり、鹿児島県内には古い寺は存在しない。真新しい鉄筋コンクリート造りの伽藍ばかりが目立つ。
 鹿児島の街を歩くと、「○○寺跡」という看板が目につく。廃仏毀釈で廃寺になったことの証しだ。その寺院跡を訪ねてみても、そこには寺の跡形もない。共同墓地になっていることが多い。
 跡地が学校になったケースもある。
 鹿児島市立玉龍高校は、元は玉龍山福昌寺という僧侶1500人を抱える大寺院だった。福昌寺は島津家の菩提寺で、当家6代〜28代までの墓を残して、1869年(明治2年)に取り壊された。現在、校舎裏に島津家の墓所だけが残されている。

福昌寺跡は高校になっていて、島津家の墓所のみ残る
頭部のない仏像
 廃仏毀釈の痕跡をたどって、鹿児島市内からクルマで1時間の日置(ひおき)市を訪ねた。
 のどかな田園地帯に「園林寺跡」があった。園林寺は、鹿児島藩家老で、明治維新でも重要な役割を果たした小松帯刀の菩提寺で知られる、曹洞宗の古刹だった。
 だが1869年(明治2年)、鹿児島藩の命で廃寺対象となった。伽藍は解体されて、本尊の阿弥陀如来像も失われた。現在、園林寺に残されているのは小松家の墓所と細い参道だけである。
 園林寺の参道脇に、頭部と右腕が欠落している仁王像を見つけた。
 廃仏毀釈の際に、ハンマーで打ち砕かれたのだ。辺りを見回すと石造りの観音や地蔵はことごとく首が飛んで、無造作に草むらに転がっている。
 地面に埋められた後、長い歳月を経て一部、地上に露出したと思われる石仏もある。恐ろしく、哀しい光景だ。

頭と腕が破壊された園林寺の仁王像
 「園林寺の仁王像ように頭や腕だけ取られたのはまだいいほう。多くは、ちんぐゎら、壊されたんです」
 前出の名越さんは言う。
 「ちんぐゎら」とは、薩摩弁で「滅茶苦茶に」「徹底的に」という意味だ。
 名越さんが言うには、廃仏毀釈は隣県の宮崎県でも激しかったが、宮崎の場合は「ためらいがあった」という。宮崎における仏像の破壊は、ナイフで切られたような切り口が特徴で、後に復元できるように“やさしく”壊したと。
 だが、鹿児島県の場合、多くはバラバラにし、山や川などに遺棄した。県内では、今でも土木工事や山作業の際、廃仏毀釈の際に打ち捨てられた仏像の一部が出てくることがある。
 ここでは150年前、「仏殺し」があったのだ。
 思い返せば、2001年。イスラム過激派タリバンがアフガニスタン・バーミヤン遺跡の石仏を爆破し、世界中の人々はその行為を非難した。
 だが、明治初期の日本人もタリバン同様、大規模に、過激に、「仏」を破壊した。破壊の実行者は下級武士らだが民衆もそれを容認した。
 そうした負の歴史から、我々は目を背けてはいけない。

園林寺跡地にて。首のない地蔵が放置されたままになっていた
 廃仏毀釈とは、一体何だったのか。そもそも徳川幕府は、キリシタン排斥を目的として、仏教を国教化し、庇護していたはずではないのか。少し歴史をさかのぼって説明する必要がある。
 江戸幕府は1671年(寛文11年)に藩主を通じて各寺院に「宗門人別改帳」を作成させる制度をスタートさせた。宗門人別改帳とは、地域住民がどこかの寺に所属し、仏教を信仰していることの証であり、戸籍の役割もあった。
 同時期、幕府はキリスト教および日蓮宗不受不施(※)派を禁制とするおふれを出し、いわゆる「寺請制度(※)(寺檀制度)」が確立していく。
 この寺請制度によって、日本人はどこかの寺の檀家に属することになった。こうして幕府は仏教を“国教化”し、一部の行政権を寺院に移譲し、異教を排除しようとした。
※ふじゅふせ=日蓮宗の法華経の教えを守らない者からの布施を受けたり、与えたりしないこと。
※てらうけせいど=キリシタン禁制を推し進めるために、幕府が敷いた「国民総檀家制」のこと。だが鹿児島では例外的に寺請制度が存在しなかった。そのため市民と寺との結びつきが薄く、大規模な廃仏毀釈に発展したとの専門家の見方もある。
 一方で、日本には古来の神道も存在していた。聖徳太子時代の仏教伝来以降、神道と仏教は共存共栄の道をたどってきた。
 今でも寺院境内に神社があったり、その逆があったり、あるいは仏壇の上に神棚がある家庭も多いが、この「神仏習合」こそが、日本独特の信仰のカタチである。これほど寛容な宗教形態は世界的に見ても珍しい。
 キリスト教やイスラム教が「一神教」であり、互いに混じり得ないのに対し、仏教や神道は「多神教」で“混じりやすかった”との見方もできるが、日本人の国民性が神仏習合をつくり上げたと言えばそれまでか。
 しかし、幕末になると諸外国からの開国要求が激しさを増し、尊王攘夷論が生まれる。そうした中、天皇を中心とした中央集権国家の樹立を理想とした江戸末期の国学者・平田篤胤の思想が盛り上がりを見せる。日本は「神の国」であるという国学思想が武士らに浸透し、神道と仏教を切り分ける思想へと発展していく。
僧侶の世俗化で弱体化図る
 1868年(慶応4年)、新政府によって出された神仏判然令(神仏分離令)が決定的となり、いよいよ寺院や仏像、寺宝に対する破壊行為が全国に広がった。僧侶は還俗させられ、中には兵士になる者も多かった。廃仏毀釈の強弱は、藩主ら権力者の胸三寸で決まることも多く、破壊行為が実施されなかった地域もある。
 続いて明治新政府は1872年(明治5年)「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」との太政官布告を出す。つまり江戸幕府では禁制であった、僧侶の「肉を食べる・妻をめとる・髪を生やす」を解禁にしたのだ。また、住職の世襲も明治以降、認められるようになっていく。
 一見すれば、僧侶に対する規制緩和措置だが、これも神仏判然の一環であり、明治新政府の狙いは僧侶の世俗化、弱体化を図ることであった。
僧侶が肉を食べていい理由
 さて、一般の人の中には「お坊さんが肉を食べてもいいのか」「結婚してもいいのか」という疑問を抱いている人は少なくないはずだ。
 従来より「肉食妻帯」を認めていた浄土真宗を除き、江戸時代までそれらの行為は御法度だった。しかし、明治に入って僧侶の肉食、妻帯などを「国家が」認めるという、新たな局面に入る。
 伽藍などの物的破壊に加え、僧侶を俗化していく一連の弾圧によって、みるみるうちに仏教は骨抜きにされてゆく。葬式の際にだけ寺を必要とする「葬式仏教」化が始まるのもこの頃からだ。
 一方、「守られた」はずの神道も、大きな岐路を迎えることになる。天皇を中心とする中央集権国家への流れは、その後の戦争へと舵を切っていく。
 こうした一連の廃仏毀釈について、哲学者・梅原猛氏は著書『神殺しの日本』の中で、こう語っている。
 《殺されたのは仏ばかりではない。神もまた殺されたのである。(中略)明治政府はこのように伝統的な神仏を全て殺した後にただ一種の神々のみを残し、その神々への強い信仰を強要した。それは天皇という現人神と、アマテラスオオミカミをはじめとする現人神のご祖先に対する信仰であつた。(中略)敗戦によって新しい神道も否定された。現人神そのものが、実は自分は神ではなく人間であると宣言されたことによって、この神も死んだ》
甕に仏像を隠した
 実は廃仏毀釈に関しては、よく分かっていない。
 寺が壊された際、過去帳など寺の記録も一緒に焼かれ、近代以降はその事実がタブー視されて、調査すらあまりされていないのだ。
 特に、「寺がゼロ」になった鹿児島では、県や鹿児島市の文化財担当者に問い合わせても、「実態がよく分からないし、行政サイドには詳しい人もいない」と言う。
 また廃仏毀釈後、復興したいくつかの寺に取材依頼をしたが、「話したくない」「知らない」と拒否されることが多かった。

島津家の菩提寺の1つ、感応寺住職の芝原祥三さん
 だが、ある寺の住職が取材に応じてくれた。
 鹿児島県出水(いずみ)市野田町の感応寺(臨済宗相国寺派)の住職・芝原祥三さん(40)だ。感応寺は1194年(建久5年)、島津家初代の忠久によって創建され、臨済宗の開祖・栄西が開山したという名刹である。先述の福昌寺と並ぶ島津家の菩提寺であり、初代〜5代までの墓がある。
 芝原さんはこう切り出した。
 「うちは奇跡的に本尊が守られた寺なんです」
 感応寺は1869年(明治2年)11月24日、廃仏毀釈の総仕上げとして、最後に廃寺の名前が挙がった寺だ。だが、幸運にも当時の住職・梅嶺和尚は事前に廃寺にされるという情報を入手。仏画などとともに本尊を大きな甕(かめ)に入れて納戸に隠し、難を逃れたと伝えられている。
 本堂は壊され、境内にあった石仏の首は刎(は)ねられた。だが最も大切な本尊だけは、命がけで守ったのだ。本尊が壊されていれば、寺の復興は実現しなかったかもしれない。

感応寺の仁王像の首には「接着」した跡がある
 寺の破壊から11年後、感応寺は梅嶺和尚によって再建された。廃仏毀釈から逃れた十一面観音像は1963年(昭和38年)、県文化財に指定された。同像は1445年(文安2年)、仏師院隆によって、玉眼嵌入(※)の技法で造られた貴重な仏像だ。
※ぎょくがんかんにゅう=仏像の目を作成する際、水晶の玉をはめ込む技法。平安期以降の仏師がリアリズムを求めて玉眼嵌入を取り入れた。
 かつて県内には国宝級、重要文化財級の寺宝が相当数、存在したと言われている。だが感応寺の十一面観音像などごく一部を除いて、貴重な文化財の多くが廃仏毀釈によって葬り去られたのである。
 文化財の数が極めて少ないため、県の文化財関連予算の規模は小さく、廃仏毀釈に関する調査・寺院の復元などが進んでいないのも実情だ。
 宗教に対する破壊行為が、後世の文化財保存や教育の機会をも失わせたと言える。

難を逃れた感応寺の十一面観音像
 だが、大きな疑問が残る。「なぜ、鹿児島市民は廃仏毀釈に抗わなかったのか」
 名越さんは「県民性もあるのでは。鹿児島県人はよく言われることですが、全体主義で、常に新しいものを欲しがり、古いものをあまり大事にしない。お上の命に逆らってまで、仏教を守ることはなかったのでしょう」。
 言い換えれば、仏教が市民にとって「守らなければならない存在」ではなかったということだ。江戸時代の僧侶の堕落は著しく、「破戒僧」が多かったと伝えられている。民衆の、堕落する僧侶に対する不満が、廃仏毀釈を容認したとさえ言われている。
宗教の選択肢がない
 多くの寺が壊され、信仰が失われたことでどんな影響が出たのか。芝原さんは言う。
 「野田町は現在人口5000人を数えますが、廃仏毀釈の影響で、寺はうちを入れて2カ寺しかありません。もう1カ寺は浄土真宗の寺です。臨済宗の隣の寺までは車で1時間半かかるほど離れています。もっと言えば県内に臨済宗寺院は5カ寺しかありません」
 廃仏毀釈後、再建できたのはごく一部。それも感応寺のように大規模な寺は復興できても、地域の末寺は失われたままになっている。
 だから多くの市民は、寺の選択肢がない。「この宗派の教えを知りたいので、この宗派の檀家になろう」「この寺は環境が良いので、この寺の檀家になりたい」といった動機がない状態で檀家になっているという。
 「『ムラにはこの寺しかないから』という理由で地域の寺に所属しているため、確かに檀家さんの信仰心が薄いな、と感じることも少なくありません」
 芝原さんが言う「信仰の薄さ」とはどういうことか。
 例えば我々が寺を訪問する目的は大きく、2つに分けることができるだろう。
 1つ目は、「教え」に接すること(信仰)。「教え」とは、釈迦や宗祖の説いた「仏説」であり、菩提寺や住職、経典などを通して知ることができる。本尊に参ったり、花祭り(※)に参加したりすることなども教えに接する機会だ。
※はなまつり=釈迦の誕生日を祝う年中行事。
 2つ目は、「墓参り」である。「先祖供養」とも言える。また三回忌、七回忌といった法事への参加や、盆や彼岸に始まる墓参りなど、故人に接する機会もある。自宅の仏壇に手を合わせるといったことも、先祖供養の1つのカタチだろう。
 鹿児島における寺檀関係の特徴は、「教え(信仰)」の部分が抜け落ち、「墓参り(先祖供養)」が主になっていることだ。
 言い換えれば、「お寺はお墓参りをするところ。手を合わせるのは、お寺やお坊さんではなく、ご先祖様」ということかもしれない。

どの墓にも花が供えてある
花で飾られた墓地
 芝原さんが墓地を案内してくれた。訪れたのは盆でも彼岸でも正月でもない、12月初旬の平日であったが、どの墓にも鮮やかな花が供えてあるのが驚きだった。造花ではなく、全て生花だ。
 墓の周りも奇麗に掃き清められている。墓地を見る限り、鹿児島県人は仏教に冷徹ではないように思える。
 「鹿児島は1人当たりの生花の消費量が日本一と言われていますが、これはご先祖様に対する思いがひと際強い県民性を表していると言えるでしょう。鹿児島県人は、信仰心は薄い一方で、お墓参りへの意識がとても高いのが特徴です。もっと言えば、『寺がなくても墓参りができればいい』ということなのかも知れませんね。僧侶の立場としては辛いものがあります」
 鹿児島市内には広大な市営墓地がいくつもある。廃仏毀釈後、寺を失った墓地が、市民墓地として再編されたからだ。寺と墓が切り離されているのが、鹿児島の特徴だ。
 「仏教は崇拝しないが、祖先は大切にする」――。鹿児島のケースは、少子高齢化、過疎化で全国的に寺院が減り、仏教への信仰心が失われつつある昨今、「日本の宗教」の未来を先取りしているかのようにも思える。
宗教なき社会の歪みは起きる
 しかし、「それでも良い」と言う人は多いと思う。
 戦後日本は豊かさを手に入れ、我々は寺や僧侶を必ずしも必要としていない。仏教者も、時代の恩恵を受けると、「寺の私物化」を進めていく。本来、寺が持つべき公益性が失われている。
 寺が滅び、墓だけが残る時代の到来が避けられない中で、宗教なき社会に歪みは生じないのかと危惧を覚える。
 梅原猛氏は前掲書『神殺しの日本』の中で、廃仏毀釈の影響をこのように指摘している。
 《この神仏の殺害の報いは今徐々に表れているが、以後百年、二百年経つと決定的になるであろう。道徳を失っているのは動機なき殺人を行う青少年のみではない。政治家も官僚も学者も芸術家も宗教心をさらさらもたず、道徳すらほとんど失いかけているのである。政治家や官僚が恥ずべき犯罪を行い、学者、芸術家も日々荒廃していく世の動きに何らの批判も行わず、唯々諾々とその時代の流れの中に身を任せているのは道徳の崩壊といわねばなるまい》

広大な市営墓地から桜島を望む
(注)本文では江戸時代、島津家が統治していた旧薩摩国、大隅国、日向国の一部を「鹿児島藩」として表記します。



宗教崩壊
多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。「宗教崩壊」は一般庶民に何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろう。寺や神社が消えることでの「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」へと広がっていく危険性もある。日経ビジネスオンラインでは、「宗教崩壊」の現場に足を踏み入れ、実態を調査。各宗教教団本部にも取材し、複数回にわたってリポートする。いざという時に役立つ仏教知識、教養も得られるような構成にしてあるので、参考にして頂きたい。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150115/276274/?ST=print


12. 2015年1月21日 22:43:28 : jXbiWWJBCA

「宗教崩壊」
寺とコンビニ、どちらが多い?

数字でたどる宗教の系譜(上)

2015年1月14日(水)  鵜飼 秀徳

 寺とコンビニの数はどちらが多いか、ご存知だろうか。

 文化庁の『宗教年鑑2013年度』によると、全国に寺院は7万7342カ寺存在し、僧侶は約33万8895人に上る。

 一方で日本フランチャイズチェーン協会が発行する『コンビニエンスストア統計調査月報(2014年10月版)』は、全国のコンビニ数を5万1476店と報告している。寺院のほうが2万5000軒以上、多いのである。

 だが、我々はコンビニほど、寺を必要としているだろうか。

 都会に住んでいれば、あまり寺を意識して生活することは少ない。生活レベルが保たれ、幸福が得られるのであれば、どこに仏教を求める理由があるだろう。

僧侶専門の人材派遣会社も

 気付けば「死後」は、“誰でも買える”時代になっている。

 仮に大切な人が亡くなったとしても、葬儀社に電話1本すれば、お墓の面倒まで見てくれる。そこに必ずしも寺や僧侶が、主体的に介入する必要はない。

 葬儀社の「雇われ僧侶」なるものが既に現れている。数年前から僧侶専門の人材派遣会社が存在し、そこに登録する僧侶が葬儀会場や墓地に派遣され、経を読んで、さっさと帰っていく。依頼主と僧侶とは1回限りの関係で、後の寺檀関係を構築することもない。

 派遣会社に登録する僧侶の多くは、自坊の檀家が少なくて「食べていけない住職」や、一般企業に就職できない寺の子弟たちである。

 寺の貧困が、結果的に民間の葬祭業者を利し、さらに寺が困窮するという悪循環に陥っている。

 だが、「それはお寺さんが経営努力をしてこなかったから。寺がなくなっても困らない」という冷めた人は、多い。

 だったら、社会から寺が消滅しても何ら問題ないのではないか――?

 この問いに対しては次回、本当に寺が消滅してしまったある地方都市の例を詳細にリポートすることで、答えを探ってみる。その前段階として今回は、全国の寺院分布図を元に、江戸期以降の仏教史を概観しておきたい。


江戸時代、徳川家の菩提寺として栄華を極めた増上寺
賃貸マンションで食べていく寺

 先ほど寺はコンビニの数よりも多いと述べたが、東京都内だけでも2871カ寺もある。都内に寺が多いのは江戸時代、徳川幕府が寺檀制度を整え、寺を整備したことに由来する。

 地方都市の寺院分布を俯瞰してみると、1村○カ寺といったように比較的、計画的、合理的に散らばっているところが多い。これも幕府の寺院政策の名残で、1カ寺当たりの檀家数などを考慮しながら寺院編成していった経緯がある。

 だが、東京の場合、寺の配置構造が田舎とは異なり、寺が一カ所に集中する「寺町」を形成しているところがいくつもある。こうした寺町は京都市中京区や大阪府野崎町、広島市中区などにも存在するが、東京ほどいくつもの寺町が点在する例はあまり見ない。

 東京における寺町の形態は主に2つだ。1つは大寺院(大本山クラス)の門前に塔頭寺院(※)が広がっているケースだ。こうした寺院の歴史をたどれば、軍事的な役割を担って1カ所に集められたケースなどがある。外敵から攻められた時の前線基地として寺が利用されたのだ。

※ たっちゅうじいん=総・大本山などの大寺院に付属している寺院
 例えば徳川家の菩提寺・増上寺の周辺には、およそ30カ寺が並ぶ。

 しかし、それらの寺院を1つひとつ探そうとすると、かなり骨が折れる。増上寺門前寺院の多くは、「寺らしさ」が微塵も感じられない近代ビルの中にあるからだ。自動ドアもオートロックになっていて、気軽に寺に入れるような雰囲気ではない。

 増上寺の塔頭群の成立は、歴史をたどると江戸期にさかのぼる。

 徳川家の庇護を受けていた増上寺はかつて2000人もの僧侶が所属し、学問所としての役割を担っていた。当時、門前の塔頭寺院は現在よりも多い50カ寺に上り、僧侶たちの学寮やエリート僧侶が集う場としての役割を担っていたとされている。

 元は僧侶のための寮などであったため、増上寺門前の寺は檀家を持たないところが多い。檀家収入が見込めないため、これらの寺は敷地を切り売りしたり、敷地内にビルを建て、一部を賃貸オフィスや賃貸マンションにし、賃料収入で寺の経営を支えたりしているというわけだ。

 東京都心ならではの寺院運営形態と言える。


増上寺門前の通りは、オフィスビルやマンションが並ぶが、そのオーナーの多くは寺である
寺の集団の謎

 東京の郊外に目を転じれば、別の形態の寺町を形成している地域がある。

 京王線の千歳烏山駅(世田谷区)から甲州街道を越えれば、一帯に26軒もの寺が並んでいる地区がその1つだ。核となる大本山や本山はなく、いろいろな宗派の末寺がひしめきあっている。


住宅案内板を見ると、世田谷区の一角に寺の集団が存在しているのが分かる
 1923年の関東大震災後で焼け出された、浅草を中心とする下町界隈の寺が集団移転して、現在の千歳烏山の寺町を形成しているのである。

 同じように遊園地としまえん(練馬区)に近い住宅地にも、不自然に11カ寺が集まる地域があるが、これも関東大震災時の集団移転で形成された。

 余談ではあるが、テレビ番組「笑点」の司会者でお馴染みだった五代目三遊亭圓楽(2009年没)の生家は易行院という浅草にあった寺だが、やはり、関東大震災がきっかけで足立区竹ノ塚に集団移転している。

 このように、関東大震災がきっかけでできた寺町のほか、第2次世界大戦中の東京中心部への空襲を避けるために、当時の郊外であった多摩地区などに「疎開」して現在に至る寺もある。

 寺は、時代の局面に応じ、場所を変え、時には宗旨をも変えて、変態しながら生き長らえてきた歴史がある。「宗旨も?」と驚く人もいるだろうが、江戸期以前を開山とする古刹の多くは宗旨を変えていることが多い。現在の増上寺は浄土宗だが、元は真言宗だった寺が室町時代に改宗し名前を変えたものだ。

 そして現在、全国の過疎地にある寺は存続のために、移転や改宗すら視野に入れなければいけない局面にあるのだ。


千歳烏山の寺町
最も宗教と密接なのは滋賀県

日本の中央部ほど宗教色が強い

出所:文化庁「宗教年鑑平成25年版」より作成
 さて、ここで上の地図を見てみたい。古来の寺の分布が近年の都市化、過疎化によって過密気味になったり、寺の“空白地帯”が生じたりしている。急激な社会構造の変化に、寺がついていけていないことが分かる。

 都道府県別に寺院数と、人口10万人あたりの寺院数(寺院密度)を色分けしたものだ。ここでは寺院の絶対数(赤)と密度(青)の両方が重なり合う地域を「宗教色が強い」、逆に薄い地域を「宗教色が弱い」と定義づけたい。

 こうして見ると、関西を中心とする日本列島の中央部は宗教色が強く、北日本や四国・九州は宗教色が弱い傾向なのが一目瞭然だ。

 寺院数の上位を紹介すると、最多が愛知県で4611カ寺。さらに大阪府の3398カ寺、兵庫県3284カ寺と続く。愛知県に寺が多いのは、「御三家」の1つ、尾張徳川家の庇護を受けて、寺院が増えていったためなど、複数の理由がある。

 最下位は沖縄県で79カ寺と極端に少ない。

 当地は琉球王朝が支配してきた歴史があり、幕府の檀家制度が及ばず、寺が根付かなかった。

 次に人口10万人当たりの寺院数(寺院密度)の多さで見れば、1位が滋賀県(226.9カ寺)、2位が福井県(213.1カ寺)、3位が島根県(186.2カ寺)だ。

 青く色分けした地図で見れば、滋賀県から新潟県まで延びる北陸本線(JR西日本)の路線と青が濃い部分が、面白いように重なり合う。

 寺院密度の下位は、45位東京(21.6カ寺)、46位神奈川県(20.8カ寺)、最下位は沖縄県(5.6カ寺)となっている。ちなみに世界的な宗教都市、京都府は13位(117.8カ寺)とさほど高くない。

 なぜ北陸本線沿いの都市が、宗教色が濃いのだろう。それは過去、宗教上の拠点になっていたことと、過疎化が影響している。

 仏教教団の最大勢力である浄土真宗は開祖・親鸞が越後(新潟県)に流され布教活動をしたことで、北陸地方が信仰の拠点になった。また、曹洞宗は総本山である永平寺が福井県にある。寺院密度1位の滋賀県には天台宗の総本山、比叡山延暦寺や延暦寺に比肩する規模の三井寺(園城寺)がある。

 多くの寺が開かれた中世には大寺院が地域の拠点となり、人の流れが生まれ、門前町は賑わいを見せていた。しかし、日本海側は近年、深刻な過疎化傾向にあり、人口に対して寺院数の割合が上がってきているのだ。

 寺を支えるのは地域経済やマンパワーだ。寺の所在地に人が少なければ、それだけ寺は困窮する。

 寺は、客数や売り上げが減れば自然と淘汰されていくコンビニのようにはいかない。檀信徒との結びつきが残っている以上、寺は供養・信仰の場を継続する責務を負う。

 また、地域の人口動態などを反映した組織改編ができるかといえば、それも不可能だ。全国7万7342カ寺のそれぞれが宗教法人格を有しており、解散手続きは容易ではない。

 これまで本コラムでは、こうした地方の寺院の生の現場をリポートしてきた。

 寺の存続を巡る様々な問題の背景には、過疎化や少子高齢化など日本の構造的問題がある。従って、国レベルで大胆な地方再生政策を打たない限り、寺はどんどん消えていく運命にある。

鹿児島が迎えた宗教崩壊

 寺が地域から完全に姿を消す――。

 仮にそうなった場合、どんなことが起きるのだろうか。先祖の供養や自分の墓はどうなる? 宗教なき風土は、道徳観や倫理観の崩壊をもたらし、社会に歪みを与える原因になりはしないのだろうか。

 実はおよそ150年前、鹿児島県がこの完全なる「宗教崩壊」を迎えたことはあまり知られていない。鹿児島では明治初期、県内の寺と僧侶の全てが忽然と消えたのだ。

 なぜ、寺が消えたのか? 今でも鹿児島県には宗教が存在ないのか? 

 過疎地で寺の存続が危ぶまれている昨今、まさに日本の未来図を先取りした鹿児島県の仏教事情について次回、リポートする。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150108/275958/?ST=print


13. 2021年7月18日 04:06:00 : FoP2Dr9OdQ : aTNodDdDUFdFdEk=[-2686] 報告
transimpex_ochd(スコットランド・ケール語で8です)で投稿しています。

異物が体の中に入り込んだら、如何なるか。

其処から体が駄目になるか・追い出すか?

戦前も? だったのが 戦後外人・害人が入り込み。

文学も何もかも滅びてしまいましたとさという事でしょ。

馬鹿を放っておいた責任は誰にある?

異質な外人を崇めている・万歳と叫ぶ(何も考えずに)

その結果です。

腐った人間がのさばるなら、滅びたら良いのです。

必要ないという事です。

まともな人間のみ残るべき・保護するべきでしょう。

如何に顔の汚い・心の汚い外人・害人が増えたか。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数のため全部処理


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