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増えすぎた秀才が日本の大学に危機をもたらす プログラミングは義務教育化すべきなのか?
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/566.html
投稿者 rei 日時 2015 年 4 月 15 日 10:26:21: tW6yLih8JvEfw
 


  世界の中の日本
時事・社会
増えすぎた秀才が日本の大学に危機をもたらす
物事をまず疑ってかかる「いちびり」が消え、発見する力が急低下
2015.4.14(火) 伊東 乾

〔2014年のノーベル物理学賞受賞決定後に会見する中村修二氏(2014年10月7日)AFPBB News〕
 できるやつ、というのがいます。
 だいたいは出る釘だったりして、いろいろ打たれたり、打たれても打たれていること自体に気づかないくらいに強靭だったり、まあいろいろなケースがありますが、ともかく仕事ができるやつ、常に創造的な人、どうやってもアイデアが枯渇しない人間といった人が一部に確かにいる。
 逆に、そうでない人も、まあ普通にいるわけで、特に科学技術や基礎研究に関しては、違いは歴然としています。
・・・いや、確かに歴然とした違いがあります。が、その違いが何か? と問われると、必ずしも明確に答えられるわけではない。
 いったい両者の何が違うのか?「研究倫理」を考える文脈の延長で「優等生」と「地アタマ」というポイントに光を当てて考えてみたいと思います。
必ずしも優等生の地アタマが良いわけではない
 東京大学で教えるようになってかれこれ16年、単に音楽家だけの生活であれば絶対に経験できなかったことがたくさんあります。その最たるものは「多数の秀才を教える」という経験でしょう。
 通算すれば1000と言うより1万のオーダーに近い、きちんと勉強すれば優秀であるだろう学生たちを教えてみて、正直に思うのは「近年、初見の問題に対処できる学生が減ってきた」という傾向です。
 どういうことか?
 事前に「傾向と対策」をしっかり教え、真面目にそれを復習してマスターしてくる、真面目で地道な努力家は、いまも昔もいるのです。
 が、減ってきた感があるのは、普段はスポーツとか部活とか、好きなことばかりしていて、あまり勉強しているふうには見えず、いわゆる秀才タイプという感じではないけれど、試験してみるとそこそこ以上の成績を取る。
 何より、とっさの判断ができ、初めて見る問題にもその場でアタマを使い、答案を真っ黒にしてくるタフで食えない「地アタマ」の持ち主が、以前より珍しくなった気がするのです。
 優等生が必ずしも「地アタマ」が良いとは限りません。むろん、地アタマ頼りでぴょんぴょんやってるのが良いとも言えず、地道に落ち着いた20年、30年で成し遂げられる業績も多い。
 ただ、アクロバティックなひらめきを感じさせる学生がいると、なんとなく嬉しくなりますし(概して生意気極まりなく、最初は手を焼いたりもするのですが)、そういう学生が減ってしまうと、正直どこか寂しくなります。
旧制高校は地アタマの世界
 しばしば私が言及する旧制高校・旧制大学は、これと大いに違った空気が支配していました。学生はバンカラ、高下駄、学帽、しょうゆで煮染めたような日本手ぬぐいで鉢巻していたり、まあ今日では一部応援団など除いてほぼ絶滅した「学生像」であったりしたわけですが、旧制時代の特徴に「授業に出ない」というのがあります。
 少し前まで新聞の「私の履歴書」みたいな欄には「学生時代はボートばっかり漕いでいて、授業は全く出ず、友達からノートを借りて一夜漬け」みたいな猛者の話がたくさん書いてありました。
 正直こういうものには私自身やや辟易しており、大学に入ったんだったら勉強しろよ、とか思ったりもするのですが、ともかくぜんぜん授業とか出ないのに、ノートを手に入れてそれなりの成績・・・ことによると相当好成績・・・を挙げて、役所に進んだり企業で経営責任を持ったり、大きく育った人たちが確かにいました。
 地アタマ、だと思うんですよね。その場で考え、何とかする。試験もそうだったのでしょう。そして会社や役所に入ってからも、その場その場で考え、問題を解決してきた。
 チャート式にあらかじめ正解が書いてあり、それを暗記して反復する、というような勉強とは明らかに違う、あたまの使い方がここにはあります。なぜそういうやつがいたのか?
 「それで何とかなってきた」という経験が、そういう学生のアクロバットを成功体験として増幅してきたと思うのです。
 逆に最近そういう学生が減っているのは、そういう成功体験ではなく、別のもの、もっと手堅く、よく言えば地道に、悪く言えばあまり発想を膨らませず、すでにあるものをしっかり学んで、それで中学、高校、そして大学と進んできた学生の割合が増えているのではないだろうか。
 そんなふうに思うのです。
ルールに関する考え方いくつか
 ここで、何か学校で教えられる内容、あて言えば「ルール」に対して、どのような反応を示すか、という違いで「地アタマ」の有り方をタイプ分けしてみたいと思うのです。
 例えばニュートンの運動法則というのがあります。「物体が運動するとき、その加速度は加えられる力に比例する」という、運動方程式F=ma(Fは力、mは物体の質量、aは加速度)を与えるものですが、これを学校で習ったとしましょう。
 ルールに対する第1の反応の仕方は「F=ma」とお経のように覚えて何も感じず、考えず、暗記した内容をペーパーテストに書いて丸がつき、過ぎ去って行くというパターンです。
 これはほとんど何も理解していない。仮に優等生だとしても、一切アタマを使っておらず、教科内容をほとんど理解していません。すれ違ったほどの縁もないでしょう。
 第2の反応の仕方は、本当かな?と思って調べてみるというもので、実験などしてみて「あ、ほんとだ。力は速度に比例する、みたいに思っていたけれど、実は加速度に比例するんだ」と理解して、それを血肉にするタイプです。これは悪くない。というかとても良い。
 車に乗って運転者が踏むのはアクセルつまりアクセラレーション=「加速」するペダルですね。その結果、車は動き出し、速度メータが上がって行く。そういう事実をきちんとつかめれば大したものですが・・・実はこのタイプは、ある理由があって多くはないのです。
 その理由を含め、第3の反応の仕方を考えてみます。本当かな?と思って調べてみるのですが、実は実験してみると、事実は法則に合わないことが多いのです。
 物体が空気中で運動すれば空気の摩擦があるし、車輪が回れば軸にも抵抗力がある。そもそも回転体を扱おうとすると物事は点(質点)のようにシンプルにはいかない・・・。
 そうした森にまぎれて行方不明になってしまうタイプ3-1というのもあります。
 また、そういう例外的なことを細かに調べて、実は突き詰めていくとニュートン力学が成立している、と新たに確認し、ニュートンは偉大だな〜、なんて思う。
 19世紀半ばまでの最良の物理学者のほぼすべてが、この3−2タイプに属していたと思うのです。ガウス、マックスウエル、ラグランジュ・・・すべてそうやって歴史を作ってきた。
 学校で言葉の上で習ったことを「そういう約束ね」と鵜呑みにするのではなく「本当かな?」と疑って、実際いに試して法則を確認する。そういう知のあり方が、大きく歴史を動かしてきました。
第4の反応:「あっかんべー」の“いちびり”精神
 しかし、これらのどれとも違う非常にクリエイティブな反応があります。それは「AはBである」と習った瞬間「ホンマかいな?!」とハナから疑ってかかる、かなり食えない性質の(やや困った)人間たちです。
 ニュートンの法則はかくのごとく成立している・・・はずだ・・・と思うのに、どうしたわけか原子核の周りを電子がいくら飛んでも、安定していて原子が崩壊したりする兆しは見えない・・・。
 荷電粒子が力を受けて運動すると、ニュートン力学的には光を出して失速して行くのですが、私たちが実験で確認できる多くの系で、物質は非常に安定していて、ボロボロ壊れて行く兆しは見えません。
 「何でやろ?」
 あくなき好奇心の塊である、やや精神年齢の低い人間たちは考えます。
 関西弁に「いちびり」という言葉があります。「ふざけてはしゃぎまわること、あるいはふざけてはしゃぎまわる人」とウィキペディアにはあります。
 「また人と違う変わったことをしている人を良い意味で褒める場合にも使われる」そうで「あの人はなかなかのいちびりやで」 (あの人はなかなか"人と違う工夫ができる人"だよ)などという使い方もするという。
 私は母方のDNAが関西人で、時に応じて関西弁を使うバイリンガルまがいでもあるのですが「いちびり」はこの「あの人はなかなかのいちびりやで」の意味で子供の頃から親しみました。
 19世紀末年以降、大きな科学革命を牽引したサイエンティストのほとんどすべてが、この「イチビリ」で常識をひっくり返すことで「革命」を成し遂げているように思うのです。
量子力学を建設した「いちびり」たち
 例えばアインシュタインがそうですね。あっかんべーをしている写真が有名ですが、ニュートン的な時間や空間なんて「ほんまにあるんかい?」といちびって「人と違う工夫」を徹底して推し進めた。
 先ほど書いた「原子の周りを回転する電子はどうして落ち込んで行かないのだろう?」というパズルは、幾人かのいちびりのリレーで解決されていきました。
 まずニールス・ボーアという相当変な人が量子論に先鞭をつけ、20歳そこそこのハイゼンベルクら「恐るべき子供たち」がやりたい放題の新量子力学を作り、もう少し大人ですがたぶん一番確信犯の大イチビリ、エルヴェン・シュレーディンガーが決定的な「波動方程式」の描像を与え、いちびりというか完全に世紀の変人というべきP.A.M.ディラックが相対論的量子力学を完成します。
 どれも実際は式を使って展開した方が、分かる人には面白い具体的なプロセスですが、ポイントは「人の言うことを絶対にそのまま鵜呑みにしない」という精神です。
 少し前に、物理学科の恩師である早野龍五先生が「物理学者は人の言うことを鵜呑みにしない」と話されるのを耳にして、内心密かに嬉しくなったものです。
 そう、相対論と量子力学以降の物理は、権威主義と完全に決別し、人の言うことを一切信用しない、鵜呑みにせず、きちんと跡付けて初めて納得するというメンタリティで、この100年の発展を遂げてきたわけです。
 ノーベル賞をもらった物理屋の9割以上、現存する人という意味では100%が、相当タチの悪いイチビリの集団と思って間違いない。素直じゃないんです。
 で、素直に人の言うことを断片的に鵜呑みにしていたら、絶対にサイエンスの新しい発見なんかできないんですね・・・。
 ということで、変なところから今回の結論が出てきました。
 今日、21世紀の先端科学で、なんであれ業績を生み出そうと思ったら、学校で習うことを唯々諾々とパターンで暗記し、何でも正解する優等生は、まずほとんどの場合、貢献できません。
 特に権威主義の人、理由を明示せずに煙に巻いたり、煙にまかれてもそんなものか、と思考停止してしまう状態、端的に言えば「いちびり」でない人は、自然科学の「基礎研究」で従来の常識を覆すような成果を挙げる期待値が必ずしも高くないでしょう。
 なぜなら、既存のものを打ち破る仕事は、既存のものを無批判に暗記する心根からは出て来にくいから。
 そして、この「いちびり魂」みたいなものの中に、研究を遂行する力と、研究不正を防止する倫理の一番の核心が詰まっていると、私は思うのです。        
 また、それは何も研究だけではなく、あらゆるR&D、社会的な仕事にも通低する骨法にも通じているのです。
(つづく)
ahttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43512


 

「ITエンジニアの生存戦略」
プログラミングは義務教育化すべきなのか?

プログラミングは教養の一つと捉えるべき

2015年4月15日(水)  片山 良平

 昨今、「Edutech」(教育のIT化)とともに、「義務教育にプログラミング教育を取り入れるべきか」についての話題が盛り上がりを見せてきている。

 佐賀県武雄市、ディー・エヌ・エー(DeNA)、東洋大学は、産官学連携で取り組んだ、小学校の1年生40人を対象としてプログラミング教育の実証研究成果報告会を今年2月に開催した。小学校からのプログラミング教育の義務教育化も少しずつ取り組まれ始めている状況だ。

 このコラムでも以前、「各国で始まるプログラミング教育必修化の波」の回でプログラミング教育について取り上げた。日本でも平成24年度(2012年度)の新学習指導要領により、中学校の「技術・家庭」において、従来選択科目であった「プログラムと計測・制御」が必修科目となっている。

 世界に目を向けても、イギリスでは2014年から5〜16歳でのプログラミング教育が必修化されている。2016年からは、オーストラリアでは8〜13歳、フィンランドでは7〜16歳で、プログラミング教育が必修化される予定だ。

 すでに、大きな成果を上げている先行事例として、イスラエルは他国に先駆け、2000年より高校のプログラミング教育を必修化している。その結果として、IT先進国へと変貌を遂げている。イスラエルは米国NASDAQへの上場数が約70で米国に次ぐ2位につけており、日本や欧州諸国より1ケタ多い。

プログラミング教育の必修化は賛否両論

 今や、IT技術はほぼすべての産業に関わる技術となっているのは論を待たないだろう。国としての競争力にも大きく影響を及ぼすため、国際的に見ても5〜7歳といった幼少期からのプログラミング教育の流れができつつあるが、プログラミング教育の必修化についてはまだまだ賛否両論がある。

 よくある反対意見としては、下記のようなものがある。

プログラミングはITエンジニア以外は不要なので、教える必要はない。教養の方が大事なのでやりたい人だけがやればいいし、独学でも学べる。
問題解決の道具としてIT技術を利用できるようになることが大事。そのため、ITリテラシーの育成と実践的なアプリケーションシステムの利用を目的とした教育を行なうべき。
 筆者は、「IT技術は全ての産業に必須で、競争力の源泉ともなりつつあるため、プログラミング教育は必修化したほうがよい」というスタンスだ。ただし、小学校で学ぶには色々な面でハードルが高いため、中学、高校から必修化するのがよいのではないかと考えている。

なぜ、中学、高校からがよいのか?

 なぜ、小学校からでなく、中学、高校からがよいのか。それは、小学校では、プログラムを考える際の抽象概念の理解、論理的思考、プログラムの前提となる数学的知識、問題などを理解するための文章読解力など、さまざまな前提知識が足りないためだ。ごく基本的なことしかできず、プログラミングによる課題解決といったところまで進むのが難しいと考えている。

 一方、大学生から学べばいいのではないかという意?もあろう。情報系などのプログラミングを学ぶ現場では、ある論文によると3〜7割の脱落者が出るという世界でもある(ふたこぶラクダの論文を参照)。プログラミングは、適性も大いに影響するため、大学に入ってから初めてプログラミングを学ぶのではなく、大学以前でプログラミングに触れる機会があった方が適性を見極められ、進学後の無駄もなくなるため、よいと筆者は考える。

プログラミングはリベラルアーツ

 義務教育化を議論する際に必ず出てくる話として、「プログラミングのような新しい技術をすべて教えていてはキリがない」ということがある。

 「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」とは、かつて慶應義塾大学塾長を務めた小泉信三の言葉だが、この言葉は私も同感である。すぐに使える実学指向のティップス集、例えば、Word、Excelなどのアプリケーションの利用方法を教えるような教育では、応用が効かなくなってしまう。先端的なことばかり教えていても、5年もすれば先端的な事は陳腐化してしまう。専門性が高過ぎると多くの生徒にとっては無関係になってしまうため、これらを義務教育として教えるには不向きである。

 では、なぜ専門性の高そうなプログラミングを義務教育として実施した方がよいかというと、プログラミングやIT技術は、今やリベラルアーツ(教養)だと考えるからである。

 プログラミングやIT技術は、現代では、ほぼすべての産業において欠かせないものとなっており、インフラとして機能している場合もあれば、その産業の根幹を担う競争力の源泉となっている場合もある。そういった根幹となる技術について全く知らないということは、自分たちが生活し、働く社会の基盤について無知で理解がないということと同じである。

 例えば、私たちは基本的な生活インフラである水道について、川などから取水し浄水場で処理し、上下水道があり、水が使えている、ということについて、知識の偏りはあるにせよ、ほとんどの人が学んできているはずだ。しかし、インターネットの仕組みや、そこで使われている技術について理解している人はどのぐらいいるだろうか。

 インターネットは全産業および全人類に非常に大きなインパクト与えるイノベーティブな技術だ。しかし、そのことをインターネットが登場したときに理解していた人は少なかった。一方、プログラミングやIT技術を知っている人は、その可能性がどれほど大きいかをすぐに理解し、その虜になったのである。

 日本から米グーグルや米フェイスブックのような企業が登場しないのは、そういった大きな可能性が生み出されたことにビジネスサイドの人が気づかなかったり、気づいても技術を理解していないために、新しい発想が生まれてこないためだ。日本では学生のときに文系・理系とに分けられ、そのままビジネスサイドと技術サイドの人間に分かれてしまうため、技術者はビジネス感覚がなく、ビジネスサイドの人間は技術が分からなくなってしまう。

 新しい産業を生み出していくスタートアップ企業は、ビジネスも技術もデザインも分かった数人で回していかなければ新しい発想は生まれず、成功はおぼつかない。しかし、日本にはそういった専門分野をまたぐ、フルスタック型の複数専門分野を持つプレーヤーはおらず、手が動かない調整オジサン型のゼネラリストしかいないため、新しいものが生まれないのである。

 教養とは、単なる知的会話のネタではなく、新しいことを生み出すためのベースとして必要な、さまざまな領域を横断した知識及び経験である。または、自分の専門分野を生かし、他の専門分野と結び付け、コラボレーションするための橋渡しができるようになるための知識である。

 現代において、プログラミングやIT技術を知らなければ、時代遅れの発想しか出てこなくなる、というのは火を見るよりも明らかだ。つまりプログラミングはリベラルアーツと言っても過言ではないだろう。

プログラミング教育をするために何を削るべきか?

 しかし、子供にとっても誰にとっても1日は24時間しかないため、プログラミングの授業を増やすためには何かを削る必要が出てくる。

 何の授業を削るかというと、さまざまな意見が出るだろうが、時代の流れと合わせて考え、昔は必要だったが、今の時代やこれからの時代には合わないものを除外するというのが自然だろう。

 戦後の教育は、敗戦からの復興のため、経済力向上、国力充実について財界から強く要求され、それを取り入れる形で作られていった。企業における中堅従業員の育成に大きく舵を切っており、結果的に高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力で、日本は高度経済成長期を迎えたのである。

 戦後はハード中心の加工貿易が中心だったため、「言われたことを言われた通りに正しくやる」というような、従順で高い生産性を持った人材が必要とされていた。分かりやすく言うと“サラリーマン製造装置”が教育システムの一つの役割だったと言える。

古典の読解よりプログラミング?

 しかし、現在は答えのない問題に対して、さまざまな専門領域を持った人たちとコラボレーションしながらよりよい道を探り合う、というクリエーティブな仕事の方が重要性を増している。

 世界がグローバル化し、ネットの登場により情報がフラット化してきているため、世界のルールが大きく変わり、スピードも速くなってしまったため、新しいシステムを作っていくことが各産業で求められている。例えば、農業や教育のIT化や、食糧問題やグローバリゼーションによる弊害の解決などである。

 一方で、単純作業は、より安い賃金の国の労働者やロボット、人工知能にどんどん置き換えられるため、先進国で暮らすにはよりクリエーティビティーが求められるようになっている。例えば、米アマゾンの登場で、本屋はどんどん潰れているし、駅の改札の切符切りは機械化され、DTPの登場によって写植屋はなくなっている。

 その流れを踏まえて考えると、技術家庭で金属加工をしたり木工などをやるよりプログラミングに時間を割いた方がよいのではないだろうか。現状も中学校では技術家庭の時間にプログラミングを教えているため、妥当な判断ではないかと筆者は考えている。

 また、古文や漢文などについても、中身を知ることは重要であるが、古文漢文の文法や原文読解は、多くの人にとってクリエーティビティーが低く、専門的に後に学べばよいものだろう。古文漢文は中身を知ることにフォーカスを当て、時間を短縮してもよいのではないかと考える。

 冒頭でも紹介した論文からの類推になるが、古典の読解とプログラミングは、一定の規則に従い状況を理解するという面で類似性があると考えられる(IBMでは古典専攻の学生の方が優れたプログラマになる可能性が高いとしている)。それであれば、多くの人にとって役に立たない古典の読解よりも、プログラミングを教えた方が有用ではないだろうか。

 また、プログラミングは数学や物理とも相性がよいため、それらの授業と組み合わせて教える、または授業内でプログラミングを利用する、ということを検討してもよいだろう。

 教育の効果はすぐに分かるものではないため、慎重な議論が必要である。同時に、プログラミングを教える教員が不足しているということも、どう解決していくかを考えていかなければならない。

 その一方で、各国でのプログラミング教育は既に始まっていたり、すぐにも開始される状況にあるため、ぐずぐずしている時間があまりないのもまた事実である。私自身もこれらの解について、まずは自社の動画学習サービスで解を示していきつつ、日本の教育に貢献できればと考えている。この記事をきっかけに、さまざまな議論が広がってくれれば幸いである。

このコラムについて
ITエンジニアの生存戦略

 インターネットが世に出て久しいが、日本には、ビジネスモデルのレイヤーからIT、ウェブをベースに組み立てられている企業はまだ少ない。日本のソフトウエア領域での国際競争力の低さは、企業のマネジメント層がIT、ウェブを理解しておらず、技術力の高いITエンジニアを正しく評価できない事に大きな原因がある。

 本コラムでは日本のITエンジニアを取り巻く状況や潮流を紐解き、今後世界を変えるエンジニアを日本から輩出するために、企業としてどうしていくべきなのか、またITエンジニアは何を考えればいいのかについて考察していく。


http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150401/279485/  

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