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哲学ブームは『嫌われる勇気』から始まっていた? なぜ今“哲学”が求められるのか ?  ─自己啓発の源流「アドラー」の教え
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投稿者 軽毛 日時 2016 年 12 月 28 日 23:57:40: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

嫌われる勇気──自己啓発の源流「アドラー」の教え

【第37回】 2016年12月27日 岸見一郎 [哲学者],岡本裕一朗

哲学ブームは『嫌われる勇気』から始まっていた?
なぜ今“哲学”が求められるのか ?前編?

フジテレビ系(2017年1月12日(木)22時スタート)で連続ドラマ化が決定し、シリーズ累計が190万部に達した大ベストセラー『嫌われる勇気』とその続編『幸せになる勇気』。「心理学」や「自己啓発」に分類されてきたこの本のルーツは、実は著者の岸見一郎氏が専門とする哲学にありました。
一方、発売3ヵ月で4万部を達成した『いま世界の哲学者が考えていること』。著者の岡本裕一朗氏が、ポストモダン以後における21世紀の哲学の最新の動向を見事に分析した同書の人気は、いま多くの人が哲学に関心を抱いていることを象徴していると言えます。
そこで両書の著者お二人に、なぜ今これほどまでに“哲学”が求められているのかを語り合っていただき、現代社会とその向かう先を紐解いていただきます。前編では二人がなぜ哲学者を志したのか――その異なる歩みから、哲学を学ぶことで得られる「効用」を見つめ直します。

哲学を志すきっかけは「身近な人の死」だった

岡本裕一朗(以下、岡本)?岸見先生の『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を私も読ませていただいたのですが、論理が非常に明快で、人間理解というか、人間洞察が鋭くて、なるほどこれは多くの人に読まれるはずだ、ということを強く感じました。そもそも先生は、どのようなきっかけで哲学を志すようになったのでしょうか?

岸見一郎(以下、岸見)?私は小学生のときに、祖母と祖父、そして弟を次々と亡くしました。そのときに「人生には限りがある」「人間はいつまでも生きていられるわけではない」ということに初めて気づいたのです。今、こうして考えていることや感じていることがすべてわからなくなって、自分が生きたことすらわからなくなる。そういうことが自分にも起こる。そんな現実を目の当たりにしたときに、心に響き、死に関心を持ち始めたのです。

岡本?それは小学校の何年生のころですか?


岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者。1956年京都生まれ、京都在住。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。世界各国でベストセラーとなり、アドラー心理学の新しい古典となった前作『嫌われる勇気』執筆後は、アドラーが生前そうであったように、世界をより善いところとするため、国内外で多くの“青年”に対して精力的に講演・カウンセリング活動を行う。訳書にアドラーの『人生の意味の心理学』『個人心理学講義』、著書に『アドラー心理学入門』など。『幸せになる勇気』では原案を担当
岸見?3年生くらいだったと思います。そんなことをきっかけにして「死について学びたい」という欲求が芽生え始めました。ただそのときは哲学なんて知りませんから、漠然と「医者になれば死について学べるかな」くらいに思っていました。その後、高校生になって哲学という学問があることを知ったのです。

岡本?それは何か出会いのようなものがあったんですか?

岸見?高校のとき、倫理社会ってありましたよね?

岡本?ありました、ありました。

岸見?倫理社会の先生が京都帝国大学の出身で、あまりご自身のことは語らない方だったのですが、西田幾多郎とか、田辺元に直接習った人でした。その先生が授業のなかで哲学の話をたくさんされて、そのとき私は「自分が求めていたのはこれだ!」と思いました。

岡本?まさに哲学に出会ったという感じですね。私が哲学を志したのも、先生と同じく高校の頃なんですが、どちらかと言うと社会的背景や時代の空気みたいなものが大きく影響しています。学生運動など社会的な活動も盛んでしたし、当時は雑誌でも哲学的な特集がけっこうされていました。

岸見?岡本先生は、誰あたりから哲学の道に入ったんですか?

岡本?私はサルトルです。サルトルの社会参加のスタイルに衝撃を受けました。そういうものに憧憬に似た興味を持って、わかっても、わからなくても『存在と無』なんかを読むのが高校の頃はかっこいいと思っていました。かなりミーハーなきっかけです(笑)
?それと、哲学をやることでさまざまなジャンルの問題を語れるというか、幅広く論じることができると思ったのも理由の一つです。社会問題はもちろん、芸術、宗教、科学などあらゆる問題に関わっていけるのが哲学だと。ですが、哲学に傾倒していく学生なんて、当時でもかなり少数というか、異端でしたけどね。

岸見?たしかに、私も異端でした(笑)。私は仏教系の高校で、宗教の授業があったのですが、たいていの学生は授業なんて聞いてないで、受験科目の勉強をしていました。クラスの中で熱心に聞いていたのは、私ともう一人だけでした。

岡本?やはり先生もかなり異端だったんですね。学生時代の話で言うと、私はサルトルから興味を持ち始めたのですが、「もっといろいろ語れるようになりたい」という思いから、ヘーゲルを勉強するようになったんです。ヘーゲル哲学を学べば、何でも理論化できるかなと思って勉強を始めて、いつの間にかヘーゲルが一つの専門みたいになってしまいました。岸見先生はどのようなところから研究を始められたんですか?

岸見?私の場合はギリシア哲学です。高校の頃からいろいろ勉強していたのですが、紆余曲折があって、ある先生から「哲学を学ぶのであればギリシアからやらないといけない。そうでないと、いつまで経っても当てずっぽうでしか考えられない」と言われまして、大学三年生のときに一からやり直しました。大学院の試験ではギリシア語がありますから、苦労したのですが、ギリシア語を含め、ギリシア哲学から始めました。本当は別の興味もあったのですが、「それは、ギリシア哲学をやってからやればいい」と言われ、そのまま抜けられずにいるという状況です。

岡本?興味のある分野に手をつけるには一生では足りませんね(笑)

岸見?本当にそうです(笑)

今、多くの人が『答え』を求めている

岡本?昨今は哲学が一種のブームのように世間的には言われていて、その一因が『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』という本の存在だと思うのですが、岸見先生は世間の反響の大きさをどのように感じていらっしゃいますか。

岸見?もともと哲学というのは敷居が高いのだと思います。初めから「難しいもの」というイメージを持っている人が多いですよね。でも『嫌われる勇気』が出てからは、哲学の本を読んだことがない人にも手に取ってもらえて、それだけ裾野が広がっているとは感じます。私はツイッターをやっていますが、「何ページの、○○についてなんですが……」と詳細な質問を投げかけられることもあります。今はそういう時代なのですね。


岡本裕一朗(おかもと ゆういちろう)
1954年、福岡に生まれる。九州大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。現在は玉川大学文学部教授。西洋の近現代思想を専門とするが、興味関心は幅広く、領域横断的な研究をしている。 著書に『フランス現代思想史―構造主義からデリダ以後へ』(中公新書)、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』(ちくま新書)、『ネオ・プラグマティズムとは何か―ポスト分析哲学の新展開』『ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち』『ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会』などがある
岡本?私の感じでは、哲学が求められる背景には「時代が根本的に変わり始めている」ということがあるように思われます。今までの発想というか、従来の見方では捉えきれない問題がたくさん出てきて、思考とか、捉え方に関する“揺らぎ”のような感覚を持っている人が多いように思います。私の本でも人工知能、バイオテクノロジー、宗教などを取り上げていますが、さまざまなジャンルにおいて、従来型の理解では処理しきれない事柄がたくさん出てきて、一つの叩き台として、もっと別の考え方であったり、ものの見方を求めているように感じます。

岸見?哲学が求められている社会の状況という点では、私は岡本先生とは違う捉え方をしていて、昔から人はそんなに変わっていないと思うのです。私がやっているのは古代ギリシア哲学ですから、紀元前5世紀の話をしているのですが、時代を超えても、地域を越えても、受け入れられる。それは人間がそれほど変わらないというか、ずっと解かれない問題があるのだと思います。さきほど話した「人間は死すべき存在だ」ということもそうですし、そういった本質的なところで、疑問を感じている若者は多いのだと思います。
『嫌われる勇気』は韓国でも出版されていて、韓国の若者の前でも何度も講演しているのですが、彼らも悩んでいる。例えば、「自分の人生を生きなければいけない」と思っている一方で、親も無視できない。そんななかで「どうしたら親孝行ができますか?」なんて質問が出てくるのです。そんなふうに板挟みになって、迷っている若い人たちがたくさんいる。それは韓国でも、日本でも同じでしょうね。
?そして、彼らは答えを求めている。でもこれは難しい問題で、哲学に答えを求めていいのかということもあります。哲学というのは「愛知」すなわち「知を愛すること」であって、「知」ではないので、本来的に答えは出ない。残念ながら、自動販売機にコインを入れて、ジュースが出てくるみたいに答えは出ない。
?だから哲学に対して興味を持っても、離れていく人はいると思います。その一方で、「問いを探究する楽しみ」「そこに意味がある」ということに気づいた人は、これまで自分が接してきた学問とは違う哲学というものを受け入れられると思います。

岡本?たしかに、多くの人が答えを求めている、ということに関しては私もすごく共感できます。よく「日本人は答えを求めすぎる」と言われますが、それは日本に限った話ではなく、万国に共通するものだと思います。
?岸見先生の本を読んでいて感じるのは「ただ、わからない」「答えがない」というだけではなく、その場、その場においては力強い“答えのようなもの”をきちんと提示されている。そこに多くの読者が、一つの示唆を得ているのだと思います。でもそこで「わかったつもり」になっても、再び問いの中に入っていく。こんな哲学的な繰り返しが本のなかでも体現されていると感じます。
?岸見先生は、歴史的に変わらない問題、人間の本質の部分を取り上げられていて、私はどちらかと言うと、歴史的に変わっていく事柄を取り上げながら、哲学という思考のメガネを通して考えていく。それはどちらも哲学のあり方だと思いますし、そんな二つの側面が多くの人に受け入れられて欲しいと、私は願っています。

(後編に続く)※12/28公開予定です


http://diamond.jp/articles/-/112439



【第38回】 2016年12月28日 岸見一郎 [哲学者],岡本裕一朗

哲学ブームは『嫌われる勇気』から始まっていた?
なぜ今“哲学”が求められるのか ?後編?

フジテレビ系(2017年1月12日(木)22時スタート)で連続ドラマ化が決定し、シリーズ累計が190万部に達した大ベストセラー『嫌われる勇気』とその続編『幸せになる勇気』。「心理学」や「自己啓発」に分類されてきたこの本のルーツは、実は著者の岸見一郎氏が専門とする哲学にありました。
一方、発売3カ月で4万部を達成した『いま世界の哲学者が考えていること』。著者の岡本裕一朗氏が、ポストモダン以後における21世紀の哲学の最新の動向を見事に分析した同書の人気は、いま多くの人が哲学に関心を抱いていることを象徴していると言えます。
そこで両書の著者お二人に、なぜ今これほどまでに“哲学”が求められているのかを語り合っていただき、現代社会とその向かう先を紐解いていただきます。後編では日本における哲学研究者と「哲学者」の違いから、学問としての「哲学」のあり方まで議論は多岐に渡ります。

“哲学者”と“哲学研究者”は何が違うのか?

岡本裕一朗(以下、岡本)?哲学の学び方、あるいは哲学における教育のあり方についても語ってみたいのですが、そもそも哲学を学ぶ際には、過去の哲学者の学説を研究するということが伝統的に行われてきました。哲学の理論には何千年という蓄積があって、自分でオリジナルの考えを唱えたところで「それはプラトンが言っていた」「誰それの説の域を出ない」なんて話になるわけです。そんな自分勝手な論文を書く前に、巨人の肩に乗っているんだから、まずはそれを学びなさい、という教育システムは存在していると思うんです。

岸見一郎(以下、岸見)?そういう部分がたしかにありますね。昔、梅原猛先生が田中美知太郎先生の演習に参加されていました。田中先生はギリシア哲学の第一人者で、原典を読むことを何より大事にされていて、ギリシア語を一字一句おろそかにしないで読むことを学生に求めていました。でも、それには飽き足らなかった梅原猛先生は、誰の学説もまったく引用しない論文を書いて、心境小説だと酷評されてしまった。そこで、梅原先生はギリシア哲学の研究室から飛び出ていったという話があります。
?哲学の理論を一から学ぶというのは学者、研究者として最初に踏まなければならない大事なステップではありますが、やはり若い人は悩みますね。「こんなことをしていていいのだろうか」「もっと大事なことがあるのではないか」という思いは、たしかに私も持っていました。


岡本裕一朗(おかもと ゆういちろう)
1954年、福岡に生まれる。九州大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。現在は玉川大学文学部教授。西洋の近現代思想を専門とするが、興味関心は幅広く、領域横断的な研究をしている。 著書に『フランス現代思想史―構造主義からデリダ以後へ』(中公新書)、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』(ちくま新書)、『ネオ・プラグマティズムとは何か―ポスト分析哲学の新展開』『ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち』『ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会』などがある
岡本?ある意味、これは「哲学者か、哲学研究者か」という話にも通じる部分があるのではないでしょうか?

岸見?そういう意味では、私は自分のことを哲学者だと思っています。1999年に『アドラー心理学入門』という本を書いたのですが、そのとき表紙に肩書きを入れて欲しいと出版社の人に言われました。当時は奈良女子大学の非常勤講師でしたが、別の肩書きが欲しいと言われて、「哲学者はどうですか?」と聞いたら、「それがいい」ってことになったのです。
?もっとも、その経緯を知った息子は「梅原猛だったらいいけど、君が哲学者を名乗ったら、ただのプータローだと証明しているようなものだ」と言ってましたけど(笑)

岡本?親子で、すごい会話をされるんですね(笑)

岸見?はい。息子は政治哲学が専門で、家に帰ってくるとあいさつ抜きで議論になります。妻も過去に哲学を学んでいたので、三人揃ったらえらいことになります(笑)

岡本?そうでしょうね(笑)

岸見?私としては「哲・学者」という学者ではなく、「知を愛する者」(愛知者)という意味で哲学者を名乗っています。もちろん、私は哲学の研究者でもあるわけですが、やはり愛知者としての哲学者、フィロソファーです。「愛知者」と対比されるのは「知者」ということになりますが、これは昔の言葉で言うソフィスト。知識を授ける人であり、職業教師という言い方もできます。現代に置き換えれば、人に何かを教え、それを習得させて、修了証なんかを出すような人がソフィストだと思うのですが、私自身のイメージとはやはりかけ離れています。私がイメージしているのは、さまざまな問題について一緒に考えるけれど、すぐに答えは出ない。そこではプラトンの対話篇のような方法、考え方が実践されていて、話を聞いて、一緒に考えを深めていく人。それが私がイメージする哲学者です。
?だから、大学に籍があるとか、研究をしているとか、そういうことは関係ありません。『嫌われる勇気』を読んで、人生を真剣に悩む人はすべて哲学者なのだと私は捉えています。

岡本?哲学者か、哲学研究者かという議論で言えば、「自分では定義しない」というのが私の基本スタンスですね。周りの人が私のことを哲学者だと言えば、そうだろうし、研究者だと言えば、それを受け入れる。もちろん、どちらが良いとか、悪いということもありません。
?当然のことながら、研究者というのはとても大事な存在です。ある学説を厳密に解釈してくれることで、私たちがハッとするような気づきを与えられることも多々あります。
?ただ同時に、その人が「目の前にある課題」「現実の問題」について、きちんと分析し、自分なりの理論を構築して論じることができるかと言えば、必ずしもそうではありません。研究者ではなく、哲学者たるには、やはりそれに即した訓練が必要なのだろうと思います。

「役に立たない学問」を安易に切り捨てていいのか?

岸見?岡本先生がおっしゃるように、哲学の研究者も大事な存在だと思います。そういう意味では、大学では研究者を育てるための、きちんとした授業がもっとあっていいのでは、とは感じますね。最近は、文系学部はどんどん削られてしまう傾向にありますから。

岡本?本当にそうですね。英文学科も、いまや英語学科に取って代わられる時代ですから。


岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者。1956年京都生まれ、京都在住。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。世界各国でベストセラーとなり、アドラー心理学の新しい古典となった前作『嫌われる勇気』執筆後は、アドラーが生前そうであったように、世界をより善いところとするため、国内外で多くの“青年”に対して精力的に講演・カウンセリング活動を行う。訳書にアドラーの『人生の意味の心理学』『個人心理学講義』、著書に『アドラー心理学入門』など。『幸せになる勇気』では原案を担当
岸見?過去に悔しい思いをしたことがあって、大学でギリシア語を教えていたときのことですが、ある年、突然「来年からは来なくていい」と言われました。古代ギリシア語を学ぶ学生が少ないという事情はわかります。多いときで5人、少ないときは2人でしたから。でも、それを理由にやめてしまって本当にいいのか、という思いはありますね。
?英文学科でも同じで、シェークスピアを読んだからと言って、社会に出て役に立つのかと言えば、おそらく役には立たない。でも、社会に出て役に立つ、立たないという安易な考えだけで判断していいのか。それはむしろ、大学が自分の首を絞めることになるのではないかと思うのです。

岡本?この傾向は日本だけのものではなく、世界的にそうですよね。ヨーロッパでも、ヘーゲル、ハイデガー、フッサールなどドイツの伝統的な哲学を扱うポストはどんどん削られていって、ロジカル・シンキングやクリティカル・シンキングといった、何か「役にたちそう」というものばかりが残る傾向があります。

岸見?私の母は49歳のとき脳梗塞で亡くなったのですが、当時私は大学院生で、看病できるのは私しかいなかったのです。その頃、私は大学の講義とは別に、先生が自宅でやっているギリシア語の読書会にも参加していたんです。でも事情が事情ですから、「母の看病をしなければならないのでしばらく参加できません」と電話で連絡をしたら、「こんなときに役に立つのが哲学だ」と先生はおっしゃったのです。その言葉は私にとってすごく新鮮で、衝撃的でしたし、実際役にも立ちました。

岡本?それはとても象徴的な話ですね。現代でも、脳死や臓器移植の問題であったり、出産前に新生児に障害がないかを確認する検査など、さまざまな場面において、哲学的に考えるべきテーマがありますからね。

「生きる価値」を生産性に求めてはいけない

岸見?以前、私は生命倫理の講義を長く担当していたことがあって、そのときによく学生たちに聞いていました。もし、60歳の私と30歳の息子が同じ病気になり、移植できる臓器が一つしかないとしたら、どちらに移植するべきだろうか、と。すると、学生は何のためらいもなく「息子さん」と答えるのです(笑)

岡本?学生はそう答えますよね(笑)

岸見?でも私は、人間の価値を決める基準など存在せず、人はみな対等だと考えています。たとえば、(2016年7月の)相模原の障害者施設で起こった殺人事件でも、重度の障害者に対する「生きる価値」に関する犯人の告白がありました。重度の障害を持った人は生きる価値がないのか。あるいは、年老いて、自分では何もできなくなっている人は、生きる価値が下がってしまうのか。それは違うと私は思うのです。
?人間の価値というのは「何かができるから」というところにあるのではない。そういった生産性に「生きる価値」の基準を求めてはいけない、生きているということ自体に価値を求めなければいけない。そう私は思います。
?でも、するとまた「人は死んだら価値がないのか」という問いも新たに生まれる。亡くなった人も生者に間違いなく貢献していますから、死ねば人間に価値がなくなるわけではありません。

岡本?やはり、そう簡単に答えが出るような問題ではありませんね。そしてもちろん、それらの問題は哲学者だけが向き合うものではありません。というより、むしろ岸見先生がおっしゃったように、社会の問題や自分の人生について真剣に悩む人はすべて哲学者なんでしょうね。

岸見?そう思います。

岡本?私の本では哲学というテーマのなかで、科学者や社会科学者も登場するので、ときに「彼らは哲学者じゃないだろう」と言われることもあるんです。でも、そんな紋切り型の哲学者枠など取っ払って、ごく一般の人たちの中に哲学があって、哲学者がいるということの方が、はるかにすばらしいと思います。


(終わり)
http://diamond.jp/articles/-/112442  

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