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縄文人は母系集団で妻問い婚であった 
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/377.html
投稿者 中川隆 日時 2014 年 1 月 05 日 21:24:38: 3bF/xW6Ehzs4I
 


縄文人は母系集団で妻問い婚であった 〜縄文人に学ぶ 上田篤著
 

実現論「採取時代の婚姻様式」

>採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した。・・・・

その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく。

の記述があります。

「縄文人に学ぶ 上田篤著」には、同類闘争圧力が高まった後、婚姻様式「交叉総偶婚」の変形型「妻問い婚」を縄文人は行っていたのではないかとの試論です。

縄文時代は、他集団との緊張緩和としての「妻問い婚」によって物資(加工されたヒスイ等)や情報が流通し、竪穴住居に始まり石器や土器などを含む多くの生活物資、土偶や石棒の呪物など驚くほど似かよったものになっていった、と考えたものである。

以降「縄文人に学ぶ 上田篤著」より
__________________________

【縄文人はどんな集落・社会をもったか】

考古学者は一般に、縄文人の居住地を村とみる。血縁社会でなくて、今日の村にも似た地縁社会である、と考えている。

 しかしわたしは、それはアメリカ北西海岸のハイダ族やオーストラリアのアボリジニなどのように苛烈な大平原での部族の生き残り策だったろう、山海の幸により超長期の定住を可能にした縄文人にはそんな必要性はなかったのではないか?

 とういのも、そういう地縁社会そのものにいろいろ疑問があるからだ。たとえば五、六戸の家からなる「村」があったとしたら、始めのうちの三十年、五十年はともかく、それらが他人同士の家々からなる村だったら、三百年,五百年もたったらどうなるか?当然そこに家どうしの競争・格差・貧富・不和・離散などが起きてとうていいつまでも元の形をとどめることなどできないだろう。

 ところが、縄文人の集落は何百年、何千年と続いているものが多く、そこにはあまり変化がない。抗争などの跡もなく、ずっと「平和な村」だったようなのだ。つまり、超長期間つづくがほとんど変化のない集落を「村」と言っていいのか?とういう疑問があらからである。

 そこでわたしはアメリカ先住民、いわゆるアメリカインディアンの社会を調べたいとおもい、十九世紀の人類学者ルイス・モーガンの著作を仲間達と翻訳した。

 その結果わかったことは、アメリカ東海岸で森林生活をしていたイロクォイ諸部族は文明時代の一歩手前、未開時代の前期の状態にあったが、その居住地はすべてクラン(氏族)という血縁で構成されていた事である。

 クランはわかりやすくいうと親族社会で、祖母・母・兄弟姉妹だけでなく、おじ・叔母・大おじ・大おば、いとこ又いとこなどを含む血縁の家だ。しかも百人を超すような大集団である。そこには他の氏族に属する嫁や婿もいたが、彼らには一時的に滞在するよそ者にすぎず「市民権」を持たなかった。そこではなにもかもその家の女達が取り仕切った。本格的な農業はおこなわれなかったが、トウモロコシをはじめとする食糧は潤沢で、縄や土器などの文物の発展も素晴らしかった。そしてそういうクランはイロクォイ族に限らず、その他のインディアン部族にも共通していたという。

 といったような事を知ると、わたしは「縄文時代も同様ではなかったか」と思う。おそらく縄文集落もイロクォイ族のような血縁集落だったろう。そうでなかったら、先ほど述べたほどの長期間の持続などとうてい起こりえまい。

 じっさい、先に述べた沖縄では十三世紀ごろまで縄文的な生活がつづいたが、集落という地縁社会でなく、たいていはマキョとよばれる親族集団だった。モーガンのいうクランである。

 ところでそのイロクォイ族の社会には、実は問題があった。

 彼らは自立自営の生活を送っていて不自由する物はあまりなかったが、血縁社会であるために家のなかに若い男女の互いの伴侶がなかったことだ。

そこで男達は、しばしば他の家の女たちのところに求婚に出かけた。中には長期に女性の家に泊まる男もいたが、そこは今述べたようにその家の女性が支配していて男性の関与する余地はほとんどなかった。男は働きが悪いと、子供が何人いようと直ちに追い出された。そして生まれた子供はすべて女の家に帰属した。

 縄文の男達も、同様に他の家の女達への妻問い、つまり求婚にでかけたことだろう。そしてそのとき見過ごせぬことがあった。というのは、男達は食糧をはじめ石器や土器さらにヒスイ玉などをお土産として持参したと思われることだ。

 ずっと後のこと、雄略天皇というから今から千五百年ほど前のことだが、彼が恋人の所に尋ねていく途中で白い犬を手に入れ、彼女の家へ行ったとき、此れは今日、道で授かった珍しい物で妻問いのお土産である、といってプレゼントをしている。(古事記)そういう風習は縄文の昔からあって、天皇のツマドイにも引き継がれたのだろう。

 しかもその縄文人のプレゼントは単なる物ではなく、魂だったと思われる。というのも、今日、日本人の贈答品に多く熨斗(のし)がつけられるからだ。ノシはノシアワビの略だが、アワビは美味である上に栄養があり、加工すると保存も利くから、昔から祭りのとき神さまに供える神饌とされた。そのアワビが縄文土偶にしばしばみられるからである。

 土偶というものは魂、すなわちタマを持つものの偶像である。タマとは、さきの沖縄のセジとおなじで超自然力をいう。だからイノシシの土偶はあるあが、シカの土偶はない。縄文人は強いイノシシにはタマがあるが弱いシカにはタマはないと見たのだろう。ところがアワビはしばしば土偶にされた。タマをもつからである。

 人類学ではこのタマのことをマナといい、そういう行動様式をマナイズムという。南太平洋のメラネシア人の中に広くみられた生活習慣で、人類学者ロバート・マレットによって文明社会に紹介された。今日。それは「万物に命がある」とするアニミズムより古い人類の宗教観念とされる。

 それをわかりやすく言うと「宝石のように自由に受け渡しができる霊力ないし超自然力」である。それを身につけていると物凄いパワーが得られる、とされた。いわば効力のあるお守りと言っていい。そうして縄文時代に「男女の愛の交流」がおこなわれたとき、タマとされるような物資の流通も進み、又情報の交換も行われたことだろう。おかげで辺ぴな所に立地していた家々もみな孤立せず互いに結ばれ、縄文社会なるものが出来上がったとおもられる。

 そういう物資や情報が流通した結果、竪穴住居に始まり石器や土器などを含む多くの生活物資、土偶や石棒の呪物など驚くほど似かよったものになっていった、と考えられるのである。

 もち社会が発達するにつれて分業や交易もすすんだろうが、それらの背後にこういう男女の愛の交流があっただろうことは十分考慮されていい。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=285545

「日本婚姻史1〜その2:日本人の原型を形作った縄文人を取り巻く環境」
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/02/000749.html


約1万年前、人類の雌雄(婚姻)関係は劇的に変化してゆくことになったが、豊かな山野や海辺に進出して木の実などの採集や漁労に転じた採集生産の部族と、従来通り獲物の豊かな森林で狩猟を続けた狩猟生産の部族では、全く異なる婚姻規範を形成する。
 
東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。
 
なお、その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく。何れにしても、期待・応望充足を最大の活力源とする採集部族は、総偶婚によって期待・応望(=共認)充足を破壊する性闘争を完璧に解消して終うと共に、総偶婚によって一段と期待・応望充足を強めたことによって、その充足を妨げる自我回路もほぼ完全に封印していった。


縄文時代(約16,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀))の日本人も採集部族でその部族は母系性の氏族集団(血縁集団;共通の祖先を持ち何らかの血縁関係のある人々による集団)と考えられます。

一方で縄文時代を現代的な一対婚家族の集団による他縁集団とする方々も居ます。

">「縄文時代の集団規模は、共同性規範が行き渡る範囲で決まる」
http://bbs.jinruisi.net/blog/2006/10/000028.html


に引用された鷲田豊明さん著作の「環境と社会経済システム」第5章 日本社会システムの起源
http://eco.genv.sophia.ac.jp/book/system/sys-5.html#back_13

によれば、

核家族が数単位集まることによって単位集団が形成されていたのである。単位集団という概念には、この核家族まで分解されず、かといって「20〜30人を大きく超える」ような大集団ともならない集団規模が、集団の構成単位として選好されたことを意味している。
(中略)

そして、集団の規模が増大にするにしたがって、全体的な共同性を維持することの困難もまた増大する。そして、原始社会の状況のなかでは、共同性を持続できる規模の上限がちょうど単位集団の規模だったと考えられる。

「縄文時代の集落が小規模のままであり続けたという事実から読み取るべきことは、社会的な格差や個人の権威の突出を拒否し、平等性原理にもとづいた社会関係を維持しようとする確固たる姿勢である。彼らにとっての集落の理想像は、より大きな集落を作ることではなく、少人数でしか維持できない人間関係が維持されることにあったのだろう。」

西田氏は、ある程度高い水準の共同性が集団内の平等性を確保するための必要条件とみている。


これらの説は本当でしょうか?疑わしいのは大きく以下の3点であると思います。

@縄文時代の集団規模が20~30人とする点

A集団内の構成単位が一夫一婦制の核家族であるとする点

B集団規模の抑制が平等性という共同性にあるとする点


 
●縄文集落の集団規模 
 
これらを検証する為に集団規模について検討します。

社会実情データー図録 人口の超長期推移サイト名
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1150.html

 
縄文時代・弥生時代の人口数は遺跡数等からの推計によっているが、単純な増加ではなく、早期(8100年前)・前期(5200年前)から中期(4300年前)にかけて急増した後、後期(3300年前)・晩期(2900年前)にかけて急減し、その後、弥生時代(1800年前、西暦200年頃)に入って、再度、急増している。

(中略)

こうした温暖化により東日本を中心に日本の人口は急増したといわれる。

4500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。


この推計の根拠は、文化人類学者 小山修三氏による推計のようです。

こちら日本人の源流を探して
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_12.html

に紹介されています。
 
遺跡数を集計し1遺跡当り24人として全人口を計算された様ですが、1遺跡(1集落)の人数が多くなれば全人口も多くなります。

縄文遺跡とはどのようなものだったのでしょうか?

Wikioedia縄文時代より引用します。


鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡(略)

加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居(略)

東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。


同じくWikipedia三内丸山遺跡より引用します。


遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。集落は住居・墓・捨て場・住居・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されている。

(略)
遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

(略)
最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいたのではないかとの発言があったが、異論も出た。


16棟から46棟、三内丸山では780棟の住居跡が発見されています。1棟に一人しか居ないということは考え憎いので20〜30人と言う規模は小さすぎるのでしょう?
更に遺跡数について検討します。

縄文遺跡の立地性向(枝村俊郎・熊谷樹一郎)
http://www.gisa-japan.org/dl/17-1PDF/17-1-63.pdf

によれば、
 
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縄文中期に全国で507の遺跡が有ります。一つの遺跡(集落)の人数を24人とすると僅か12,168人にしかなりませんので、先の人口推計とは異なります。

更に面的分布も図示されていますが、20平方km(東京都港区とほぼ同じ大きさ)の範囲で3〜13個しか無い地域も有れば229個以上ある地域も有り、地方によるばらつきはかなり大きいものとなっています。
 
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このような密度の違いにより、集落ごとの人数もかなりばらつきが生じる=20〜30人という想定はかなり荒っぽいのではないかと思われます。

加えて先の核家族的見方の中に、20〜30人という規模は平等性という共同性の維持のため、と言う主張も有りましたが、何故平等性=共同性となるのでしょうか?外圧が緩んだとは言え、集団である以上成員には能力や経験などによるヒエラルキーが存在すると考える方が自然です。全くの平等など現代人の架空の観念でしかないと思います。

結局は核家族的な見方によって全ての推論に狂いが生じるのだと思います。核家族とは一対の男女が結婚、出産を行い子育ても行うもので全く集団的では有りませんし、事実として現代社会にしか存在しない婚姻様式です。
 
敢えて一対婚を選択する理由は、縄文時代には全く無かったというしか有りません。


 
●縄文集落は血縁集団による集落
  
当時の集落はどの様な人々によって構成されていたでしょうか?
 
密度の低い集落では、族外婚はほぼ不可能で殆ど全員が族内婚=血縁集団となります。密度が高い地域でも近隣集団との交叉総遇婚で、やはり結果として氏族血縁が殆どではなかろうかと思います。

集団内に構成員に他縁のものが混入するのは、異民族が流入する弥生時代以降ではないかと思います。

更には、こうした縄文時代の婚姻は、様式といえるほど制度的、儀礼的的なものはなく生殖のみの全員婚であったのでは無いでしょうか?それは、婚姻を制度化する必然性が薄い※婚姻の制度化は、異民族が流入し婚姻関係を結ぶことで異部族集団と連合する、或いは部族の長の系統を重んじる、などによって必要となってくるように思います。


 
●まとめ
 
縄文時代とは、これまでの過酷な自然外圧に対して、気候が温暖化し比較的採集による生存が容易になった時期で、かつ異民族の侵入が無く同類闘争も余り無かった時代と考えられます。そうすると上位集中婚が崩れた族内婚か、周辺集落との交叉総遇婚であったと言えるでしょう。結果として集団内はほぼ血縁の氏族集団となっていた、と考えられます。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2013/12/001181.html  

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