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トルコ人とギリシャ人、ブルガリア人は医学的にほとんど同一人種
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/622.html
投稿者 中川隆 日時 2015 年 7 月 08 日 05:41:45: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 「モンゴロイド系」 vs. 「アーリア系」 投稿者 中川隆 日時 2014 年 10 月 24 日 09:01:33)


1-13. 中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか? rev.2
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/

ギリシャは長い間オスマントルコ帝国の支配下(約400年)にあり、その間徹底したオスマン帝国の混血政策で、現在のトルコ共和国のトルコ人(中央アジアのトルコ民族も基は一緒だが)と現在のギリシャ人は医学的にはほとんど同じ人種である。

異なるのは宗教と言葉と長い歴史とそれに基づく文化である)。
それが民族間のとくに征服されたギリシャ側のトルコに対する憎悪を際立たせている。


超短縮トルコ教養講座(2002年4月)

トルコ語はウラルアルタイ語族で日本語も一族、と言われている。日本語と朝鮮語はウラルアルタイ語族とは違うという学者もおり、学説はまだ完全には確立していない。トルコ人の発祥は古く中央アジアも中国よりのあたりと言われている。今ではトルキスタンと言われている地域だ。中央アジアの共通語は今でもトルコ語だ。 トルコ語人口は共和国を入れて約7000万人が話している。トルコ語だけでアジアを横断できると言われているくらいの広域言語だ。

  トルコはその後セルジュクトルコやオスマントルコとして発展しながら、アジアからすこしづつヨーロッパに移動をしていった。その間にイスラム教に改宗した。またその間に移動した先々で混血をしたため、本籍のモンゴロイド系に、イラン系、アラビア系が加わり、世界最大のオスマン帝国時代にアフリカ系やヨーロッパ人の血を入れた。 特にギリシャ人、ブルガリア人との混血はすごかった。共和国トルコ人とギリシャ人、ブルガリア人は医学的にほとんど同一人種と言われている。言語と文化と住む地域と歴史が違うため、区別ができるのだ。

    一方、共産ロシア時代にタタール人が黒海のクリミア半島からシベリアに強制移住されたことは有名だ。共和国にもタタール人はかなり移住してきている。彼らは混血が進む前のオリジナル・トルコ人の形態を強く残していると言われている。従って典型的モンゴロイド系の顔をしている。つまり日本人とも似た顔立ちだ

  小生の知り合いだった研究者はブルガリア人とのハーフだった。代理店の営業マンは典型的アラブ系だった。友達は典型的ギリシャ彫刻の顔をしていた。

  彫りの深かった会社の日本人同僚は、トルコ人に違いない、と言われた。夏に日焼けしていた小生はパキスタン人か、と言われた、何で!。

 トルコでどちらかというとアジア系の顔をしているのはタタール系だ。

ロシアの隔離政策で沿海州から黒海北部のクリミア半島に強制移住させられたタタール居住区がある。そこからの移住者だ。

共和国トルコ人は中東系にちかい。 しかし数百年もの間世界最大を誇ったオスマン帝国は多種多様な人種を抱えていたので様々な顔のトルコ人がいる。ハンガリーやオーストリーも支配下だったので白人そっくりな人も多い。 アラビア系も多い(アラビアのロレンスはアラビアを支配下においていたオスマン帝国末期の欧米列強による帝国解体時の実話である)。

中央アジアの標準言語テュルク語民族の遺伝子構成はどうなのか?

  共和国トルコ語を話せると中央アジアはほぼ通訳なしで旅行が出来ると言われており、かつてはシルクロード/中央アジアのことをトルキスタンと呼んだこともあったほどです。

  中国正史に出てくる四夷の北狄がテュルクの最初の記述と言われているようです。その後の丁零や高車は当ガラパゴス史観の若い頃40年前ぐらいには既にテュルクではないかと言われていました。

  そして明らかにテュルクと確認されたのが6世紀の突厥と鉄勒です。特に突厥はテュルク語・突厥文字で書かれた碑文でテュルクに間違いない証明されました。テュルクは6世紀には漢民族に対抗する大国を打ち建てるほどの力を持ったのです。

  欧米では例えば、

Y-DNA「R1a」はスラブ系、
「R1b」はケルト系、
「I1」はノルマン系、
「I2」はバルカン系、
「E1b1b」はラテン系、
「J1」はメソポタミア農耕民系

等、民族と遺伝子がかなり密接に結び付いています。


  極東でも

Y-DNA「O1」/「O2」は長江文明系、
「O3」は黄河文明系、
「D1」はチベット系、
「D2」は縄文系、
「O2b」/「O2b1」は弥生系

など、やはり文化・民族と結びついています。

  では中央アジアの標準語であるテュルク語系民族は結びつく典型的な遺伝子が果たしてあるのでしょうか?今回調査をしてみました。

  実は当ガラパゴス史観がまだ20代の会社研究員だった頃、会社で初めてのイスラム圏の駐在員としてイスタンブ―ル大学に客員研究員として出向しました。トルコ人は日本人に対し特に親近感が強く(何と言ってもトルコと敵対していたロシアのバルチック艦隊を破り、   一方和歌山沖で難破したエルトゥール号乗員の救出などで)、当ガラパゴス史観も親しくしてもらったことと、もともとアジア系であったトルコ人には親近感があったことで、不自由のない駐在員生活を送ることが出来ました。   イスタンブールには駐在員の家族を入れても20人程度の日本人しかいなかった時代でした。

  と言う訳で、もともとテュルクにはかなり興味があるのですが、遺伝子的には良くわからない存在でした。そこでこれまで集めた海外論文を引っくり返し、テュルク語の4群分類に従って、Y-DNAデータを並べて見ました。   それなりに面白いデータになりましたので報告します。

  a) Siberian Turkic (Northeast) :
    主要遺伝子は、北部がY-DNA「N1c1」、南部がY-DNA「R1a」にはっきりと分かれます。
    恐らく最も古いテュルク語系と思われます。特にヤクート人はほぼ純系のY-DNA「N」
    遺伝子民族です。


  b) Karluk Turkic (Southeast)  :
    Y-DNA「N1c1」は少数派になり、Y-DNA「R1a」がやや優勢だが、遺伝子交配が進み
    ユーラシアの遺伝子がほとんど網羅されている。

  c) Kipchak Turkic (Northwest)  :
    東部のカザフはY-DNA「C3c」が主要遺伝子でモンゴル帝国の影響がくっきりと
    残っている。西部は明らかにY-DNA「R1a」が優勢。

  d) Oghuz Turkic (Southwest)   :
    テュルク代表のトルコ共和国が属するが、Y-DNA「J2」が優勢となる。


  e) 例外             :
    Bashkirはケルトやバスクと同じくY-DNA「R1b」が主要遺伝子。

  以上で、テュルク語群の典型遺伝子は存在しないが、居住する地域によって上記4タイプのY-DNAが主要もしくは優勢で、テュルクが西に進むに従い交配してきた遺伝子がはっきりと読み取れます。

  現在のY-DNA分布と中国正史に登場する殷周時代の四夷の位置取りを見ると


 ●北狄や続く丁零、高車、突厥など一群の草創期のテュルク系は恐らくY-DNA「N1c1」
    だろうと考えられますが、


  ・東夷の夷が弓を持つと言う意味ならY-DNA「C3c」騎馬民のモンゴル系・ツングース系
     しかいないはずですが、従順な集団だったらしいということになると
     該当は?です。

  ・西戎はY-DNA「D1」のチベット系しか候補はいないはずですが、Y-DNA「D」は、
     アンダマン諸島のY-DNA「D*」を見ると侵入者は皆殺しにするが、自ら侵略は
     しない穏やかな遺伝子族のはずなので、侵略・略奪を繰り返していたとなると
     むしろ当時既にY-DNA「O3」が交配して牛耳っていた可能性が高いです。
     もしくはY-DNA「R1a」/「R1b」に分化する前の「R1」か分化直後の「R1a」の
     可能性も考えられます。


  ・南蛮は?、現在も居住している長江文明の子孫のY-DNA「O2a」でしょう。

 


●テュルクが中央アジアに移動したときに、Y-DNA「R1」から分化したインド・アーリアン
    「R1a」と密に交配し新たな遺伝子構成に変化し、
 

●モンゴル帝国/キプチャク汗国のもとで征服者のジンギスカン遺伝子Y-DNA「C3c」が
    主要の集団に変化し、
 

●チムール帝国、セルジュクトルコ帝国、オスマントルコ帝国と西進するに従い、メソポタミア
    の農耕民遺伝子集団Y-DNA「J2」を取り込み農耕民化したようです。
    その際に既にアナトリアに居住していた、Y-DNA「R1b」も取り込んだようです。
    しかしBashkirの「R1b」の起源はまだ?です。

  しかし大きな謎は、テュルクと交配した集団は何故テュルク語を採用したのだろうか?と言う点です。   ブルガリアのBulgar人はもともとテュルク系の集団でしたが、「R1a」に取り込まれスラブ化してしまいました。   オスマントルコ帝国の征服時に再度テュルク化する機会はあったのですが、スラブを維持したようです。

  他の集団もスラブ化、モンゴル化、イラン化やアラブ化しても不思議ではなかったはずです。   最も合理的な推測では、イスラム教を取り込んだことがテュルク語を守ったことになったのではないかと考えられます。   トルキスタン=イスラム教と言うのが現代の状況なのです。   コーランの経典教育の共通言語としてテュルク語を採用した?と密接な関係があると考えるのが妥当でしょう。


  それでも何故アラビア語ではなかったのでしょうか?

テュルクの遺伝子構成にアラブのセム系Y-DNA「J1」が   極めて少ないことが結果として経典の単語はアラビア語でも教育システムとしてアラビア語と近縁にならなかったからかもしれません。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/  

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1. 2015年7月08日 10:11:21 : b5JdkWvGxs

10-5. Y-DNA「N」   ウラル度(シベリア度)調査 Rev.4
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


  Eupediaには今までY-DNA「N」の詳細が無かったのですが、やっと詳細説明が記載されたので翻訳転載します。

  Y-DNA「N」はユーラシア大陸を10000〜12000年前頃に東から西へ横断大移動を行った遺伝子のようですが、有史前の出来ごとになると該当する民族移動を探すのは難しいようですね。

  欧米の王朝先祖調査FTDNAプロジェクトによると、ロシアのリューリク王朝のウラジミールU世(1053-1125)はY-DNA「N1c1」だったらしいく、従兄弟のOlegT世はY-DNA「R1a1a」だったらしい。しかもこのリューリックのY-DNA「N1c1」(変異:DYS390=23)子亜型は現在ロシアのウラル語族内ではなくスカンジナヴィアで見つかるそうだ。歴史はなかなか複雑でまさしく小説より奇なりのようだ。

  以下、Eupediaの記事の翻訳です。

  Y-DNA「N1c」は、主として東ヨーロッパの北部、特にフィンランド(61%)、ラップランド(53%)、エストニア(34%)、ラトビア(38%)、リトアニア(42%)および北ロシア(30%)で高頻度に分布し、さらにロシア中央部(15%)、ベラルーシ(10%)、東ウクライナ(9%)、スウェーデン(7%)、ポーランド(4%)およびトルコ(4%)でも低い頻度で見つかります。

  Y-DNA「N1c」はヴォルガ-ウラル地域のウドムルト人(67%)、Komi人(51%)、マリ人(50%)およびモルドヴァ人(20%)を含むウラル語族の集団で顕著にみられるが、隣人のテュルク語族のチュバシ人(28%)、ヴォルガ・タタール人(21%)およびバシキール人(17%)でも顕著で、同様に南ロシアのノガイ人(9%)にも見られる。

  ヨーロッパのY-DNA「N1c」は、Y-DNA「N」のユーラシア西端の到達範囲を表わしていますが、全極東(中国、朝鮮、日本)、モンゴルおよびシベリア(特にウラル語を話す北シベリア住民の間で)の至る所で見つかります。

  Y-DNA「N1c」は、中央シベリア北部の2つのウラル語族、ネネツ(Nenet)族とガナサン(Nganasan)族で最大頻度の95%近くに達します。また中央シベリア東部のサハ(Sakha)共和国(Yakutia)に主に居住するテュルク語族のヤクート族では90%になります。

  ヨーロッパのY-DNA「N1c」の分布


  Y-DNA「N」は東アジアのY-DNA「NO」の子孫です。

  それは、およそ15,000〜20,000年前にインドシナか中国南部で始まったと考えられます。

  Y-DNA「N1*」およびY-DNA「N1c」は両者とも、中国北東部の西遼河の渓谷の新石器時代〜青銅器時代(4500-700 BCE)の遺跡から37%(70サンプル中26サンプル)の高頻度で見つかります(Yinqiu et al. 2013)。

  新石器時代のサンプルの中でも、Y-DNA「N1」が紅山(Hongshan)文化(4700-2900 BCE)と小河沿(Xiaoheyan)文化(3000-2200 BCE)から得られたサンプルの3分の2の頻度を占めると言うことは、Y-DNA「N1」集団は中国北東部および恐らくモンゴルとシベリアでも新石器時代のライフスタイルの拡散に主な役割を果たしてきたと推測できます。

  =========================================

 ㊟ガラパゴス史観註

  最近の古代中国史では中国4大古代文明は、長江文明、黄河文明、遼河文明および四川文明ですが、それぞれ主役のY-DNA亜型は異なり、

   ・長江文明はY-DNA「O1」と「O2」が主役、
   ・黄河文明はY-DNA「O3」、
   ・四川文明はY-DNA「D1」と考えられる、縄文人の中心の「D2」の兄弟亜型、
   ・遼河文明はY-DNA「N1」が主役と考えられます。

  Y-DNA「N」とY-DNA「O」はY-DNA「NO」から分化し、「O」は長江と黄河流域で発展したのに対し「N」は遼河流域で発展し結果的でしょうが棲み分けしていたようです。「D」は中国大陸/中原の最初の民族のはずでしたが「O」、特に「O3」に追われ「O3」が好まない標高の高い高原部に逃げ込み後の羌族やチベット族を形成したようです。

  ところが一大古代文明を築いたはずのY-DNA「N1」も結局、恐らく「O3」によって遼河からシベリアに追われ古住シベリア民としてひっそりと生きることになったようです。

  残った「O1」,「O2」も大部分は「O3」集団に取り込まれ長江文明系黄河遺伝子集団に変質し漢民族化したのですが、同化を拒んだ集団のうち、「O1」(恐らく楚民)は海南島や台湾経由で東シナ海や南シナ海に逃げ諸島の先住民化し今に至っています。

  「O2」の中で「O2a」(恐らく越民)は南に逃げ今日のヴェトナムや東南アジア民となり、更に西に進みインド亜大陸でモンゴル系先住民となり更に南下してドラヴィダ民族の中で水田稲作農耕民として生き残り、特にタミール人に水田稲作農耕文化の語彙を多く残し、大野教授が日本語のタミール語起源説を発表したのは有名である。

  一方北に向かった「O2b」(恐らく呉民)は満州辺りで「O2a」から「O2b」に分化し、水田稲作の適地を求めて南下し韓半島南部で稲作を発展させ現在でも韓国民の30%以上のY-DNA頻度をもたらすほど定着している(これが韓国南部が日本と極めて近い理由の大きな部分)。

  ところが「O2b」は更に水田稲作適地を求めて対馬海峡を南下し恐らくボートピープルのように小集団で繰り返し日本列島に移住したものと考えられ、先住民のY-DNA「D2」縄文人に恐らく敵対せず入り込み交配を重ね「O2b1」に分化し、水田稲作農耕文化を日本列島に定着させたものと考えられます。「D2」系縄文人の強い敵対がなかったため青森まで稲作が早いスピードで北上できたものと考えられます。

  「O2b」が長江文明系の呉民出自であったため後の漢字の導入に際し受け入れに抵抗がなく、導入時に「O3」の大和朝廷族が採用した唐音に加え「O2b」の持っていた呉音が日本語に残る結果になったものと思われます。

  日本列島へのY-DNA「N1c」や「NO」、「Q1」などの移動は恐らく、朝鮮半島の中華王朝の出先機関で生き残り抗争に負けて追い出された武装侵略者「O3」集団の大和朝廷族や物部などの他の天孫族や武士団族の配下や郎党として渡ってきたのでしょう。ただし縄文晩期に見つかる陸稲農耕は漢民族が形成される前の古い「O3」が持ち込んだと考えるのが合理的ですが(「O3」で最も古い「O3*」が日本人に見つかる)、その際に「NO」,「N1」や「Q1」が渡来した可能性もあります。
  =========================================

  ヨーロッパで見つけられるY-DNA「N1c1」子亜型は、12,000年前に南シベリアを横断し、10,000年前にヨーロッパ北東部に拡散したと考えられます。

  それはクンダ(Kunda)文化(8000-5000 BCE)および後の櫛目文土器(Comb Ceramic)文化(4200-2000 BCE)に関係し、フィン人やプレ-バルト人へ発展しました。

  インドヨーロッパ語族の縄目文土器(Corded Ware)文化(3200-1800 BCE)は、紀元前2,500年前頃からバルト海沿岸地域およびフィンランド南部に進出してきました。

  2つの文化の混合はハイブリッドKiukainen文化(2300-1500 BCE)を生じさせました。

  現代のバルト人は、ウラル語族とスラブ語族の文化の合併に起因する、Y-DNA「N1c1」とY-DNA「R1a」のほぼ等しい割合を持っています。

  低頻度のY-DNA「N1c1」は、すべてのスラブ語族やスカンジナビアの集団に見つかり、同様に北西部を除いたドイツの大部分でも見つかります。

  その起源は現時点ではまだ不確かですが、最も恐らくはロシア、ベラルーシおよびウクライナからドイツ東部に向かった鉄器時代及び中世早期のプロト-スラヴ種族の拡散によるものでしょう。

  スカンジナビア人のY-DNA「N1c1」は次の3つのオリジンの可能性があります。:

  1. 鉄器時代以来のスカンジナビア人/ドイツ人の集団による北部サーミ(Sami)人集団の進歩的な同化による。
  2. 最近の2000年の間に起ったドイツおよびポーランドからの移住。
  3. 特に8世紀間に渡るスウェーデンとフィンランドの政治的な結合の間でスカンジナビアの支配を受けた時、フィンランドおよびバルト海諸国との人口交換。

 ●ウラル語族のY-DNA「N1c1」

  Y-DNA「N1c1」はウラル語族に強く関係しており、代表的な言語系統図は下記のようになります(分類は諸説あり、それぞれ階層の詳細はやや異なるが、属する言語に違いはない)。

  サモエード語派(Nganasan語、Enets語、Nenet語およびSelkup語)。
    ガナサン(Nganasan)語
    エネツ(Enets)語(イェニセイ-サモエド)
    ネネツ(Nenets)語
    セルカップ(Selkup)語
  フィン・ウゴル語派
    Finno-Permic諸語
      バルト・フィン諸語
        フィンランド語
        カレリア語
        エストニア語など
      ペルム(Permic)諸語
        コミ(Komi)語
        ウドムルト語
      サーミ(Saamic)語
      ヴォルガ(Volgaic)諸語
        マリ(Mari)語
        モルドヴィン(Mordvin)語
    ウゴル諸語
      ハンガリー語
      Ob-ウゴル諸語
        ハンティ(Khanty)語
        マンシ(Mansi)語)

  北シベリアのサモエード語派で最も早く分離したのは子亜型のY-DNA「N1c1*」とY-DNA「N1c1a」に一致します。

  ペルム(Permic)諸語とヴォルガ(Volgaic)諸語の話し手は、Y-DNA「N1c1a1」(変異:L708)、Y-DNA「N1c1a1a」(変異:L1026)、Y-DNA「N1c1a1a1」(変異:VL29)、Y-DNA「N1c1a1a2a」(変異:Z1935)およびY-DNA「N1c2b」(変異:P43)を含む広く様々なY-DNA「N1c」の子亜型を持っています。

  バルト・フィン諸語は、Y-DNA「N1c1a1a1」(変異:VL29)がヴォルガ-ウラル地域からカレリア、フィンランドおよびエストニアへの移住時に分化したように見えます。

  VL29(Y-DNA「N1c1a1a1」)およびその子亜型もバルト・スラブ集団で見つかったY-DNA「N1c1」の子亜型群です、インド・ヨーロッパ語族の亜型Y-DNA「R1a」が吸収し後に中央・東ヨーロッパのあたりでY-DNA「N1c1」から分化したことを確認します。

  西シベリアのKhantyとMasiの言語と同様に、ハンガリー語を含むウゴル諸語はY-DNA「N1c1a1a2b」(変異:L1034)子亜型に相当します。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


2. 中川隆[-10939] koaQ7Jey 2018年4月22日 07:27:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11788]

2013年3月3日 トルコ系民族考

現在中央アジアの歴史に関して興味を覚えておりその中で重要な要素となるトルコ系民族に関する現時点での見解をまとめておく必要があり記事にした。


 語族とは、言語学上同一の起源(祖語)から派生・発達したと認められる言語群の集まりを言います。かつてインドヨーロッパ語族、ウラルアルタイ語族、セム語族を世界三大語族と呼んだそうですがその後研究が進み見直しをされています。

 本記事で取り上げるウラルアルタイ語族に関しても、ウラル語族とアルタイ諸語の関連性が否定され別々に扱われているそうです。

 アルタイ語族も大きく三つに分類されます。トルコ諸語、モンゴル諸語、ツングース諸語です。これを民族として分ける見方もありますが東洋史家宮脇淳子先生によると言語と人種の分類はあいまいで、遊牧民族の特性として優れた一族に雑多の民族が結集して一つの集団をつくるのですべてが同じ民族集団とは一概には言えないそうなのです。宮脇先生の言では、極論するとトルコ諸語、モンゴル諸語といっても方言のようなものだそうです(苦笑)。

 という事で、トルコ系民族といってもトルコ諸語を話すふんわりとした民族集団、一応ルーツはモンゴロイドではあるが西へ行くにつれコーカソイド(白人種)との混血が進んでいると思って下さい。

 アジアではアルタイ語族、セム語族の他にシナチベット語族(支那、チベット、ビルマ)やオーストロアジア語族(ベトナム、クメール)、タイ・カダイ語族(タイ、ラオス)などもあります。特にシナチベット語族など支那だけで13億いますから相当な数です。

 さてトルコ系民族ですが、学問上はトルコ共和国と区別するためチュルク系民族と表記する場合が多いです。しかし私は突厥(とっくつ、とっけつ)や鉄勒(てつろく)などトルコ系民族を漢字表記した支那人の言語感覚に倣ってあえてトルコ系民族と呼びます。

 トルコ系民族の発祥の地はどこなのでしょうか?これにはいろいろな説がありますが同じアルタイ語族に属するモンゴル系、ツングース系民族の発祥の地を同時に考えなければ解決しないと思っています。


 古代支那の史書では、トルコ系、モンゴル系、ツングース系民族を総称して北狄という蔑称をもって呼んでいました。中でモンゴル系とツングース系は東胡と総称していたような気がします。これには資料的な裏付けがなくあくまで私の個人的な見解ですが…。


 というのもモンゴル系民族の代表である鮮卑族(北魏や隋、唐を建てた)のルーツが東胡にあるとされるのです。東胡はトルコ系と目される匈奴に攻撃され一時滅ぼされます。その生き残りのうち烏丸山に逃れたのが烏丸、鮮卑山に逃れたのが鮮卑と呼ばれるようになったと言われています。


 このうち烏丸は長城線からほど近い熱河のあたりだと分かっていますが、鮮卑の場所が分かりません。おそらく興安嶺山脈の西麓当たりではなかったかと想像しています。


 私はこの事からモンゴル系民族のルーツは興安嶺山脈西麓からモンゴル高原東部にかけてだったのではないかと考えます。一方、ツングース系民族は旧満州のうち興安嶺の東側から日本海にかけての地域。というのは遊牧に適した興安嶺からモンゴル高原までと違って、公安嶺の東側は森林が多く狩猟民族であったツングース民族に都合のよい地形だったのです。というより地勢によって民族の生態が決まったと言っても良いでしょう。


 ここでようやくトルコ系民族の考察に入るのですが、消去法からトルコ系民族のルーツはモンゴル高原西部にあったのではないかと推定されます。そして突厥の発祥の地を考えてバイカル湖周辺もそれに含めて良いでしょう。さらに匈奴がトルコ系民族だったと推定するなら河北省の北辺から西の内モンゴル地区も有力候補地になります。

 実は、トルコ系民族は支那本土に入り込んでいたという説があります。というのは史書で登場する狄がトルコ系民族ではなかったか?と言われているんです。赤狄、白狄が匈奴に発展したという説です。

 東胡モンゴル系民族説を取れば必然的にそうなりますね。一方、陝西省甘粛省以西にはインドヨーロッパ語族(アーリア人)と推定される月氏がいました。古代世界では印欧語族の広がりは世界的規模だったと言われます。楼蘭王国の遺跡で見つかった若い女性のミイラも明らかにコーカソイドの特徴を持っていたそうですし。

 古代においてはトルコ系民族はバイカル湖周辺からモンゴル高原の西半分、支那のオルドス地域(黄河の湾曲部内部)、河北に渡って存在していたと考えます。


 そのうち、支那本土では漢民族の数が増えたため追い出されモンゴル高原に本拠を移したのでしょう。これが匈奴です。匈奴は強大化し漢帝国を脅かす勢力になります。

 次に台頭してきたのは丁零です。「ていれい」という名前からトルコの漢字表記だと思われます。丁零はバイカル湖周辺から発祥したと言われ、匈奴の勢力が漢の攻撃や内紛で衰えた後勢力をのばします。しかし間もなくモンゴル系の鮮卑がモンゴル高原に進出し丁零を降したそうですから、この時以来モンゴル高原という呼び名は確定したのでしょう。


 モンゴル高原がモンゴル族の支配下となったあとトルコ系民族は西遷します。これが高車です。鮮卑が支那本土への侵攻に力を注いだため一時空白になったモンゴル高原を奪い返す事もあったそうですが間もなくモンゴル系の柔然が強大化したため再びこれに服属しました。


 東アジアはモンゴル系の鮮卑が建てた北魏と柔然の南北朝時代に突入します。鮮卑は支那本国の南北朝とモンゴル系民族における南北朝を同時に戦っていたのですから面白いですね。

 柔然は、555年支配下民族で製鉄奴隷として酷使していた突厥に独立され滅亡します。突厥もトルコの漢訳です。この突厥がトルコ系民族全盛時代でした。


 突厥は東では支那の北朝、隋唐と抗争し西では一時中央アジアで猛威をふるったエフタルを滅ぼしササン朝ペルシャを圧迫します。

 この突厥も東西に分裂した後、東突厥はモンゴル高原に興った同じトルコ系のウイグルに滅ぼされます。ウイグルは唐朝とは友好関係を保ってシルクロード交易で繁栄しました。西突厥も内紛分裂を繰り返した後一部はウイグルに服属しました。


 トルキスタンと呼ばれる地域はこのころトルコ系民族が定着して以降の呼び名でしょう。

 ちょうどそのころ西アジアではイスラム教が台頭していました。トルコ系民族でもイスラム教に改宗する者たちが出始めカラハン朝(9世紀中ごろ〜1211年)が成立します。


 トルコ人の中には、軍人奴隷としてイスラム諸国に仕える者たちが出現しそのなかで権力を握った者たちはインドの奴隷王朝やエジプトのマムルーク朝のように自分たちの王朝を建てる者たちもいました。


 トルコ民族の西遷で一番の大きな流れはセルジューク朝(1038年〜1157年)の成立でしょう。セルジューク朝の時代にトルコ人たちは現在のアナトリア半島(小アジア)まで達します。この中からオスマントルコ(1299年〜1922年)が登場し現在に至るのです。
http://houzankai.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-ee44.html


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