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吉里吉里人民共和国 建国秘録
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投稿者 尊農耕道派 日時 2016 年 3 月 14 日 16:41:29: Fg4ZHLC5GyFN6 kbiUX41rk7mUaA
 

吉里吉里人民共和国 建国秘録

 ほんの一畝ばかりの4筋の大麦を踏み終えて、冷たい西風を吹き下ろす山々に目をくれながら冷えた両手をこすり合わせた。
既に午後の日射しは傾き始め、やがて来る夕暮れの兆しの中、ふと思ってしまうのは、この1年ばかりの出来事と、得体の知れない後悔に似た諦念だ。

 他人のことは知らないが、私には予測されたことだった。もう既にこの国も経済も終わってしまっているという諦めは数年来のモノだった。
フクシマで起ったこととその帰結、200万人以上の人々が汚染された大地に残置され、少なくとも200人を越える子どもたちや若者が甲状腺癌の不安に苦しんでいた。そんな人々の姿を見て、国民をゲットーのユダヤ人の様に閉じ込め切り捨てるこの国は、既に民主国家の体をなしていと思われた。この事実は恐らくソビエトロシア崩壊の引金となったチェルノブイリ事故同様に、この国をも崩壊させるだろうと予感させた。
そうで無くとも、1970年代の憑かれた様な高度成長と、一億総中流幻想の80年代、そしてバブルから失われた20年を越える無意味な足掻き。さらに、格差拡大の波々。
思えば1986年のチェルノブイリ事故以後も、この国で増えたものと言えば、オール電化住宅と街々に並ぶ自販機と終夜営業のコンビニ。街中のスーパーに加えて郊外にはさらに巨大なショッピングモールが建ち、地方の町々の国道バイパスに至るまで、ファーストフードチェーンやきらびやかなパチンコ店が居並んだ。あらゆるオフィスではエアコンと事務機器が電気を浪費し、ファーストフード店やスーパー・コンビニなどで排出される廃棄食品が実際に飲食される食品量と同量に達した。
このようなエネルギーも食糧も大量に消費=浪費する社会が永遠に続くはずもなかったし、
実際、世界の優れた知性たちは、早く1970年代から「成長の限界」を警告し、京都会議は化石燃料浪費を戒めCO2排出量削減を求めていた。また、持続可能な「新しいゆたかさ プレニチュード」な暮しや「縮小社会」の必要性も説かれていた。これまでの成長神話と際限のない欲望に追い立てられる消費スタイルでは、破局を迎えるしかないと警鐘は繰り返されてきたのだ。
この国においても、既に少子高齢化の波に呑まれて久しく、消費人口は縮小していた。少子化は育児用品業界から幼稚園・学校まで、学習・教育産業は全て縮小再編成を迫られていた。当然にあらゆる産業はその生産商品の需要を伸ばせず、肥大する老人人口の側にしても、実際に豊かな老齢者など一握りで、若齢から老齢人口まで消費力を失っていた。
そんな閉塞して行く社会の中で、若者たちには、努力が足りないからだとか、能力が低いからだとかの悪口が浴びせられてきたが、既に知能でも家庭の経済環境でも恵まれた若者が、長い努力の蓄積で博士課程を修了しても、職の無い博士が溢れだしていた。本人の努力が足りないのではなく、社会に受け皿が用意されていないのだ。一般の若い働き手にも正規雇用は狭まり、粗悪な食品・商品を供給する産業が、若者たちを雇用で搾取し、ジャンクフードで健康を脅かしていた。
新しいビジネスモデルとして提案されたのは老人介護ビジネスであったが、近い将来、圧倒的多数の高齢者は潜在的高齢破産者であり、老人介護施設においても高額利用者は望めず、将来展望の持てる職場でもビジネスでもなかった。そこでも非正規雇用の若者やシングルマザーなどが低賃金で酷使されるだけの場であり、その鬱積が入所者に対する虐待さえ日常化していた。入所者にもスタッフにも絶望施設でしかなかった。

かつて、安倍や麻生を阿呆だ馬鹿だという言説はネット社会に溢れていたが、少なくともこれら無能な奴らを操っている偏差値の高い連中(経団連なのか、高級官僚群なのか、「日本会議」なのか、電通・読売・フジ産経などの支配メディアなのか、恐らくはその複合体)には、私にでも判るこの国や経済が終わってしまっている事くらい百も承知だっただろう。であるが故に、壮大な<嘘>のベールが、それまでの成長神話に増設され、この国の人々を覆った。その本当の中身は、「オ・モ・テ・ナ・シ」とは「裏ばっかし」という意味でしか無く、「Under control」の裏の意味は、全く手の付けようも無いという意味でしかなかった。
この「手の付けようも無い」事は、F1(福島第一原発)だけでは無く、バブルから失われた20年を経て、とどのつまりでの3.11大震災から東日本核汚染で本当は実体的経済までもが破綻を迎えていた。ただ、幻想という「裸の王様」カンフル剤がそれをゾンビのようにさまよわせていただけだった。
さらに団塊世代の年金受給年代への突入は、それだけで数年後の年金崩壊を射程に置ていていたが、そこに加えて年金積立金管理運用法人(GPIF)が株式運用枠を大幅に増やしギャンブル性を高めた後、あの株大暴落で破綻させた。既に福島県民200万人に加えて老齢世代の国民も棄民されたのだ。

誰もが知る事実をこのように見直してみれば、特に優れた知能の持ち主で無くとも理解できる事だった。実際のこの国の情報供給は、90%は全くにどうでもよい情報で、残りの5%はねじ曲げ逆解説された、名ばかりの<事実>の報道。最後の5%は全くの演出された虚偽報道でしかなかった。そのため、多くの人々はそんな簡単なことにも気づけなかった。
つまり、メディアに情報を依存するごく普通の人々は文字通り「Under control」されていた訳であり、これが国民オモテナシの実態だった。
当然に、40年もの長きにわたってバブル=成長神話の時代を謳歌させられた人々には、このモノもエネルギーも過剰に供給され、消費させられる暮しから離れる事など、想像すらできなかった。故に、脱原発を熱く語る人々にさえ脱成長の暮しまで想像することは不可能だった。
やがて、波打ち際の砂浜に立つかのように、格差拡大で足元をえぐられながらも<豊か>な生活維持の見果てぬ夢にふける人々だけで無く、脱原発を唱える人々まで共犯に巻き込みながら(深層では成長神話を否定できない)、原発再稼働の流れは確定していった。
その様な中で、漠然とした投げやり感しか無かった私の思いは、遙かにドラスティックな現実で打ちのめされた。

水野和夫は、この世界経済が既に資本主義の終焉にたどり着いてしまっていることを看破し、そのハードランディングモデルは中国経済のバブルの弾けから始まるだろうと警告した。そして、あの年の夏、それは始まった。
前年から上海市場の暴落が始まっていたが、まだ世界は耐えていた。
ところが、翌年初頭からの東京市場の落ち込みは日銀当座マイナス金利の導入でそれまでの国内金融株の低迷に拍車をかけた。さらに黒田日銀には既にバズーカの連発で弾が尽きている事を見透かされてしまい、原油暴落に苦しむ産油国マネーや、自国の不況で日本から資金を回収しようとする中国・韓国などが引金となって、ハゲタカを先頭に他の国外ファンドも引き上げ始めた。この日本売りの端緒をきっかけに信頼を失ったこの国の株式相場は、当初日経平均が16,000円を維持していたが、直ぐに週毎に乱高下する荒れた相場模様から13、000円を下回り、そこから一気に暴落が始まった。この株式崩壊から、最早、日本円の相対的安全性など全く信用できないとの判断を招き、ここで、株価が下がれば円高に振れるなどとのドグマも淡くも崩れ去った。
信頼を失った円は簡単に1ドル150円を超え、200円を伺い始めた。

この円暴落が始まったところで、上場企業などの役員や高級官僚が最も早い対応を見せた。
かねてより準備していた不動産などの海外資産、海外預金・外資銀行への預金に加えて、国内の円もどんなに不利なレートでも、ドルやユーロやオーストラリアドルなどに変換して、家族をそれぞれに渡航させた。各国際空港はお盆や正月前のようにごった返し、本来の避難国へのチケットが獲れない人々は韓国でもタイでもフィリピンでもグァムでも、何処経由でも先ずは脱出することに血眼になった。あらゆる便が満杯だったという。
もちろんこのような光景はテレビには映されなかったし、あらゆる報道はそれらを無かったことのように無視した。当然で、大手テレビ局や新聞社、マスコミ企業幹部家族もその渡航者の群れに含まれていたのだ。
この家族脱出は大手企業の幹部家族が中心だった。つまり、企業幹部はまだ国内本社などに踏みとどまっていたが、当然にいつでも逃げ出せる準備は整えたわけで、その裏では企業資本の国外移転が進められた。
その後、企業もろともの移転を早くに準備し終えたのは自動車メーカー・家電・事務機などの海外生産拠点を整備していた製造業大手各社だった。主にクルマメーカーとその有力協力会社などの本店移転先は米国・カナダ・インドネシアなど、調印されたTPP環太平洋地域が中心だった。他の電機・事務機などの製造業もベトナムやタイ・マレーシア・フィリピンなど東南アジアなどに移転した。本社オフィスだけをシンガポールにおく例も多く見られた。それらの製造業では、反面国内工場の製造規模は縮小され、派遣労働者のほとんどは雇い止めされた。幹部社員とその家族だけが脱出を計り、立場の弱い従業員はフクシマの人々同様に残置された。
 なお、国外脱出準備は民間製造企業ばかりに限らなかった。高級官僚や与党国会議員なども外貨の為替変換に走った。外資銀行に口座を持つものは円を外貨変換して預託した。国内メガバンクの都市部各支店では外貨やトラベラーズチェックは不足気味の様相を呈し出した。その閉店直後、店内では店員から先を争って社内預金の円をドルなどの外貨に変換したために、翌日には各銀行本店でも外貨の準備不能になった。当然に本店では資産保全の意味を含めて為替市場での外貨への変換に邁進したが、これらの動きが、さらに円暴落に拍車をかけた。

40年間の実態のない金融信用バブルが弾け、事実上円が紙切れでしかなくなり、当然に国は予算執行などできるはずもなく、1週後には、高級官僚の日本脱出で全ての省庁の活動は停止したし、開期の国会も、与党議員を中心にした国外脱出で議会は閉鎖。踏みとどまっている公務員・議員もその日の食料確保のために登庁者の姿は絶えてしまった。
治安維持の防衛省も警察庁も幹部の国外逃亡で混乱したが、各地の中堅幹部がそれぞれの管轄で、地域のJA(農協)やJF(漁協)の協力を取り付け、隊員と家族への食糧確保を約束することでかろうじて組織を維持した。彼らの見返り任務は、都市住民の農村収奪から農地・農産物と漁師の操業を守ること、そのための略奪暴徒鎮圧と農林水産業用ガソリン・軽油共給の確保などであった。
これらの関係性では、食料とエネルギー、労働を中立つものは主に各JAのカントリーエレベーター・ライスセンターの備蓄米であり、江戸期から久しく米本位制が復活したかのようだった。
 また、フクシマ原発禍では当時の東電幹部一族が退職後ドバイなどで優雅な逃亡生活を送っていた前例のためか、エネルギー産業幹部の準備の早さと国外逃亡は目を見張るものだった。石油・石炭・LNGなどの企業はもともとそれらの産地国との関係は深く、現地法人も置いていたりしたために、横滑り的に国外脱出が謀られた。問題は日本国内が順調に稼働できるかどうかだけであったが、他の民間企業がほとんど機能停止して行く中で、産業エネルギー需要はほとんど失われ、最低限の設備と人員で備蓄資源を管理できた。もちろんこれらは各地方の自衛隊の管理下で保護を受ける形となった。
この産業エネルギー需要の喪失は、各電力会社でも再稼働させた原発の意義を明らかに失った。そのため、全ての再稼働原発は停止され、燃料は抜き取られた。けれど、使用済燃料プールからの移動はできないままだったので、冷却と水位維持は長期の保守が必要だった。
その要員と冷却のための外部電力の維持が実質本社機能が喪失して行く中で、何処まで可能なのか危ぶまれた。

一方、株価暴落・取引場の閉鎖と円貨幣の無効は実体経済をも確実に丸裸にした。そんなものはそもそもバブル=幻想でしかなかった。
襲い来たハイパーインフレはモノの価格を100倍にも上げてしまったが、そんな価格のものを購入できる層は全て国外に逃亡していた。つまり貨幣交換が成り立たなくなっていた。
また、国外脱出できない産業でも、外食などのサービス業での閉店が相次ぎ、また、その時の食品価格に見合う賃上げも期待できず、家族の食料調達が第一義となり、出勤サラリーマンの姿も見られなくなっていった。オフィス街は機能を失い、ベッドタウンの郊外都市では、突然のように食料を求める失業者・出勤拒否者の群れが出現した。そこには臨時・派遣雇用も正規雇用も差は無かった。もしも彼らが、実情賃金未払いだ、と言ってみたところで、労基署も裁判所もすでに機能を失っていた。つまり、国民保護機能の全ては失われていた。検察・警察の職員たちまでもが、その群れの中にいた。彼らの群れは、商店・食品工場・食品倉庫などを襲うことになったが、それまでこっそりと食品を持ち帰る事で、かろうじて職場に残っていた従業員たちが、自らこれら収奪者の群れに扉を開く事が多く、人々は整然とそれぞれに持てる量だけを持って帰ると言った、静かな収奪風景が繰り返された。

円暴落のために輸入食品も暴騰し、ほとんどの飼料を輸入に頼っている酪農畜産農家は行き詰まった。それまで自国産と言われていた肉も卵も牛乳も、その原料とする飼料は粗飼料(牧草)の多くまでが南北アメリカのコーンベルトや小麦地帯、或いは大豆粕や綿実粕などに依存していた。当初、既に家畜も家禽も飼育は不可能と判断した生産者たちが殺到し、各地の食肉センターや食鶏処理場は受け入れ制限を始めるしか無かったが、餌不足で乳量も産卵率も低下し、早くに乳製品や卵は品薄になり暴騰した。
食肉センターが比較的遅くまで運営されたのは、職員たちがブロックで家に持ち帰り現金の代わりに他の食品と交換したり、独身男性職員などは想いを寄せる女性の家庭などに貢ぎ、その家庭では大いに毎夕の来訪が歓迎された。もちろん、歓迎されたのは食肉であって、その男性では無かったのだが・・・。
一方、仕上げの悪い痩せた肉類は滞留し始めたが、この国の都市住民には、枝肉や丸鶏の処理技術も道具も失われていたために、手の出しようも無かった。一部の農村で闇で堵殺された豚や産卵鶏などが食肉利用されたが、一般の市民には届かない話だった。

戦後闇市・買いだし時代、或いはロシアルーブルが紙くずになろうとしていた時代のように、札束でその日の食品を買おうとする風景も当初は見られたが、もちろんそんなことは二週間も続かなかった。やがて都市のスーパーやコンビニは略奪し尽くされ、当然に、各店舗への共給も絶えていた。直ぐに略奪するにもモノが無くなっていた。また、略奪を受ける前に店員が率先して食料品を持ち帰ってしまう事がほとんどだった。
当然に商品も入らない、入れば略奪される。店員にも信頼して任せられない状態では、雪崩を打つように店々は閉店していった。
外食店はさらに食材が入手できずに閉店してしまい、日暮れ後の都市は治安の悪い暗闇でしかなく、先ず都市の住民から食糧難民化が始まることとなった。
自分で米を炊きおかずを作る生活習慣を持たない外食依存の若い世代やシングルの人々はいち早く食糧難民化した。ややずれて、三度三度の食事を自分で作る習慣のある世帯でも、家庭備蓄の米・味噌・醤油・冷凍食品・缶詰・レトルトを使い切ってしまうところでその後を追う形になった。
大都市郊外のスーパーなどでは、当初ホウレン草や小松菜などの葉野菜が一束1,000円を越えたところから、売り場は閉鎖された。近郊野菜農家がいくら高値になっても、その支払われたお金で買えるものが無くなってしまったうえに、親類縁者・知人から近くのニュータウンの住民などの直接買い出しに応えなければならず、紙幣との交換も無意味となっていた。
さらに、この円安・ハイパーインフレが起った当初の、札束を持って購入しようとする没落中流も、1週間も経たずにほとんどの銀行窓口が閉鎖され、暴騰高値の食品を買える現金を持つ人々もいなくなってしまったのだ。
こどものために、米を野菜を食べ物をとすがるように近隣住民が近郊農家に押し寄せた。その申し出に応えなければ、直接畑から持ち帰られてしまうような有様だった。農家が収穫する分には再生産を前提とした適期・適量収穫であったが、近隣非農家(サラリーマン)住民の収穫とは、根こそぎの収奪と踏み荒らしでしかなく、その農家の再生産意欲まで踏み荒らされる状態となった。

各農村集落では、当初は高齢化した消防団が農地の作物を守る自警団に役割を変えたが、近隣住民の数には太刀打ちできなかった。
やがて都市で食い詰めた子や孫、或いは、それまで会った事もなかった見知らぬ親戚までが農村に戻ってきたために、文字通りの青年団も復活した。
この現象は一時限界集落と呼ばれていた奥深くの山村にも及び、爺々婆々の多くは独居住まいだった農家も、いきなり四世代同居に復活した。
この様に、郊外サラリーマン家庭も、かつての忘れられていた故郷を思い出すかのように帰村していったのでその数を減らし、さらに近郊農家でも帰村世代に阻まれ、食料調達の場所では無くなってしまった。
最大の悲劇はこのように還る村を持たない都市住民世帯だった。もちろん、作物を根絶やし収奪され、圃場を踏み荒らされた農家の体験は、彼らへの同情心を一切呼び起こさせなかった。
 その様な中で、最も悲惨だったのは老人施設や障がい者施設入所者と入院患者たちであった。医薬品もさることながら、とにかく食品が入手できない。職員も出勤率が下がり、入所者・入院患者のケアも給食も滞る中、ある老人施設の若い女性福祉士は数少ないスタッフで手の回らない中、お腹が空いたとの老人たちの訴えを黙殺しながら、とりあえずの排便の処理だけを黙々とこなした。けれど、二十数人目で突然耐えられずに泣き崩れた。ひとしきり嗚咽を繰り返した後、制服の着替えも忘れて放心したように施設を立ち去ったという。その後その職員の姿は地域にもみられなかったらしい。
数日後、まだ夏であったため、猛烈な死臭と腐敗臭が施設周辺に漂った。
まさに、現在の姥棄て山、或いは絶滅収容所(アウシュビッツ)再現の悪夢であったという。
また、医薬品企業の操業停止は、インシュリンを必要とする在宅患者たちのいのちを蝕み、フクシマを筆頭に甲状腺切除した人たちの甲状腺ホルモン剤の供給停止が、あっという間に健康を蝕んだ。日本の経済破綻と公共サービスの崩壊に対して国連難民高等弁務官やWHOも重大な関心を持っていたが、日本政府の崩壊と日本赤十字も機能不全に陥る中、窓口の不在から、それらの救援も遅れてしまっていた。そもそも、当の日本の医師たちの多くも国外逃亡を果たしてしまっていた。
他方、多くが農家・漁師の出身者で、とりあえず糊口をぬぐえる職員を抱える地方行政機関だけが機能を縮小しながらも保持していた。これらの機関では当然に予算の執行能力はなく、職員は無給状態であったが、本来の地方公務員の本分に立ち返って市民生活の維持に懸命であった。同じく農家・漁師の子弟職員で維持されていた同地域のJA・JFとタイアップして配給制での食糧供給を復活させ、公立病院・診療所が指導して、市民の健康と各施設収容者への給食・医療サービスを維持していた。それらの地方では都市の暮しを早々と見限ってUターンしてきた家族で人口爆発していたが、反面、生活物資の配送や医者・看護師などの医療関係者、福祉士・教師などがボランティアとして豊富に労働力を供給したために、最悪の事態は避けることができた。
やがて、このような地方機関が窓口となって、抗生物質・インシュリン・甲状腺ホルモン剤・降圧剤・人工透析に関連する薬剤等々の医薬品共給をWHOから受ける窓口となった。
後日判明したのは、老人や持病のある人々、新たな感染症患者などで、栄養や医療・介護の不足による犠牲者は、その人口比を勘案しても都市と近郊、そして早々と知事を筆頭に地方行政幹部が逃げ出し、住民サービスが破綻した福島県に集中していた。

 貨幣崩壊=ハイパーインフレに見合う実質的な無給状態で従業員が離脱した各食品販売を担うスーパー・コンビニ・生協などが営業停止した大都市近郊で、農作物強奪も阻まれてしまうようになった人々の中で、それでも食糧供給を維持できたのはCSA(Community Supported Agriculture)と呼ばれた実験的産消提携農場だけだった。これらの農場は農業生産に関わるコストを先払いのうえで、翌年一年間生産物を受け取る制度であったために、このハイパーインフレの弊害を免れた。さらにサポーターと呼ばれる提携消費者=多くは都市労働者の職場が崩壊してしまったために、毎日が日曜状態となり、農場で労務する人たちが一躍増大した。CSA農場では前払いと同時に、できるだけの農耕参加を唱っていたため、これらの人々はその日の糧を得るうえでも、農場へと日々参集した。
やがて耕作ばかりでなく、近隣住民の作物強奪にも備えて、鋤・鍬・鎌・フォークなどの農具で武装して自警団的様相(あるいは百姓一揆のいでたち)まで帯び、実際多くは夜警当番もこなすようになっていた。彼らは実際に暴力的な作物強奪者たちに立ち向かうこともあったが、子連れでよろよろ歩く欠食家族たちには、近所の顔見知りではなくとも優しかった。1kg程の精米とその日の残り物の収穫物を与えて、「あなたも毎日ここで草むしりにでも参加しなさい。そうすればその日の食べ物くらいは差し上げられますので・・・。」とサポーターを増やしていった。やがてエネルギーインフラも順次絶えて行く中、都市近郊住宅でソーラーパネルを持っている家庭は何とかなったが、都市ガスが途絶えた各戸では、カセットコンロのボンベも使い果たし、アウトドアや山登りを趣味とする人の家庭にはガソリンバーナーなどもあったかも知れないが、とにかく各家庭での調理エネルギーにも事欠きだした。そうなりだして、いつしか農場は共同炊事の場所にもなり、特に夕刻ともなれば、毎日サポーター家族で賑わう様になっていった。そんなときには女性たちの能力が大いに歓迎された。
また、近くの漁港に知り合いのいる人が農場のお米と少しの野菜を持って、トロ箱一杯の魚と交換してきたり、餌をやれないという養鶏場から鶏をもらってきたと言って、農場で見よう見まねで絞めて羽をむしり出す人など、それぞれに秘められていた能力を発揮するコミューンのような様相に発展しだした。
 私が参加してる農場も、CSAの様な制度整備はなかったが、近隣ニュータウンの住民が農耕ボランティアに集まる農場だった。草取りや草刈、苗の定植や収穫手伝いなど様々な農耕作業を手伝いつつ、その日の収穫物の格外品を持ち帰ったり、害獣駆除の猪や鹿が獲れればメンバーから村内の農家さんも加えて、鍋をつつくような集まりをなしていた。
また、寒の時期には麹造りから味噌仕込み、果ては濁酒造り。また、時には炭焼きなどの農事クラフトを普及し楽しむ拠点でもあったが、市民参加型の農業の例に漏れず、円や経済の破綻につれてボランティア参加者も増え、レンブラントが描いた「夜警」のように、夜な夜な集まっては地域農地の夜回りをこなした。
農産物略奪の都市住民とは敵対しながらも、近隣ニュータウン内の老人世帯やシングルマザー家庭の支援などを行なっていた。
やがて生産地に田舎を持つ人々が帰って行き、地域も落ち着き出した。そんな中で、私たちも農村集落やJA支所単位でのコミュニティを再建させる中に組み込まれながら、農村自給圏的なものも形成されてきた。
今回の国家・経済破綻劇を乗り越えて郊外田園ニュ−タウン地域の新旧住民の融合を進めた希有な一例と言えるだろう。ただそれも農家側の人口回復とニュ−タウン側の人口縮小を背景にしていた事は言うまでも無い。都市サラリーマン人口がそのままであったら、この郊外農村の収穫量では曲りなりの自給すら不可能であったろう。
この経済破綻の直前まで、安価な輸入食料に依存して、国内農業不要論やそれに近い心ないことが言われ続け、都市近郊農地は次々と破壊され宅地化されてきた。
しかし、そこにできたニュータウンなどは、周囲に残された農地なくしては食料保障すら得られない、幻の勤労者<生活>タウンでしかなかったのだ。

況してや都心にはすさまじい飢餓が襲い、食糧難民がぞろぞろと都心から郊外へ、さらに地方へと流れ行き、その過程で老人や幼子が幾人もはかなくいのちを閉じたという。
また、病院、老人や障がい者施設などでの酸鼻を極めた大量遺棄致死事件は国連人権理事会と国際刑事裁判所から重大な関心をもたれており、調査対象とされた。その結果はまだ出ていないが、国外脱出日本人を受け入れた各国でもその事は問題となり、政治家、公務員や医師などには持ち込んだ財産の没収や、国外退去を命じられたりしている。それらの国によっては強制送還している国もあり、追い返された連中がそう自白しているそうだ。
確かに、一見消極的な不作為の様に見えるが、彼らが守らなければならなかった具体的な命があり、それら身体的弱者(患者・障がい者・高齢者・幼児・妊産婦等々)の保護責任者であった彼らが、それらの人々を見捨てて国外逃亡を謀ったことは、糾弾されるべき事だった。
また、国外脱出を試みた企業においても、その役員の多くの国籍が与えられず、企業の役員就任資格を剥奪される例も少なくなかったようだ。それらの企業では、その国の国籍を有する人々主導で経営されることとなったが、つまりは避難国での企業乗っ取りであった。また、この国家破綻劇が始まる前からシンガポールに脱出していたMファンドが、脱出企業の持ち株率を10%確保したところから、「発言する株主」と称していくつかの脱出企業に役員を押し込み始めた。同ファンドの資金持ち主は既に外国人主体となっていたために、ここでも形を変えた乗っ取り準備が始まっていた。もちろん各種各様の産油国や欧米ファンドも日本脱出企業の乗っ取りに参加しだした。護送船団方式で日本政府の庇護下で温々と育ってきた日本企業が、国外に出た途端に生き馬の目を抜くような外国資本に取って食われるのは時間の問題だった。

 多大な混乱と犠牲の上に、この列島でもようやく再生の芽が育ちだした。昨年の獲れ秋には米の収穫と共に食糧自給体制が整い始め、地域自給食糧を基にした各地域コミューンは自主的な地方自治体・議員報酬無給の地方議会などの再建が始まった。それらでは各地域通貨の試みも始まり、先進的な地域ではそれを地域住民全体に公平に配布するベーシックインカム制度も目立った。また、これらの地域自治体の横断的協議も始まっており、インフラ再建と新たな国家再建が話し合われている。かつての日本国憲法を採用しようとする意見が多数派な様に聞いているが、第一章だけは早くに皇室一族がベネルクス三国の各王室の庇護を受けて脱出したためもあり、皇室の再建や帰国要請などを発言する者は無く、序文と新たな第一章が起案される見込みだという。この1年、最大の問題だった自給食糧の重要性が公知となり、神道とも天皇制とも関わり合わないこの列島の自然環境保全をベースにした「農本主義」的な案が勘案されているらしい。
これまで、最低限の国連を中心にした国外支援には助けられてきたが、今は諸外国も資本主義的終焉に対面しており、この日本の経済破綻に引きずられる経済危機の予感に悩まされている。
また、既にこの列島には主立った企業も機能する都市も存在していないために、経済的な価値も貨幣換算される資産もない。だから当然に、IMFもWTOも介入の余地を持たなかった。下手に救助に向かえば抱きつかれて二重遭難にあいかねないと思われているようだ。その事が幸いして軍事支配も経済支配も受けずにゆっくりと自立再建を果たして行けば良い訳だ。
 そんな風に、とりあえずの列島コミュニティ(国家)再建の端緒にはたどり着いた模様で、落ち着きを取り戻しつつある。


そんな中で、私は数年前から始めた濁酒に次ぐビール醸造を目論んで、この二条大麦の栽培と、真夏の日射を避けるグリーンカーテン代わりのホップ栽培に取り組んでいるのだが、ビール醸造がうまくできなくとも、少なくとも麦芽水あめでもできれば、この農場に出入りしている子どもたちの可愛い笑顔が見られるだろう。

そう想像していると、何だかそれまでの西風に金属臭、いや、呼気なのだが何か舌に感じる金属イオン感覚だ。その途端、溢れるように鼻血が吹き出した。
私の身体を言いしれぬ戦慄が貫いた。川内か伊方か? どこかで使用済み燃料プールが空焚き状態になったのではないか。
 経済破綻の後に、やっと落ち着いた本来の人の暮らしが再建されるのかとの安堵を、その不安は落ちたグラスが砕けるように私を襲った。

                                     <完>

 これは極近未来のお話しで、当然にフィクションです。
数ヶ月後にはそんなことは起きなかったじゃないかと言われるでしょう。
でも、何時起きるかではなく、その危機は今もこれからも直ぐそこそこにあるよ、
というお話しです。
 

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