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関東大震災と朝鮮人虐殺のまぼろしー4(ながと忠恕) <なるほど!左翼・在日・労組・教組・反日キリスト教の起源>
http://www.asyura2.com/13/senkyo149/msg/631.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 6 月 21 日 06:30:40: 8rnauVNerwl2s
 

「今次の震災は地震の損害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる模様なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したる因るものなり。
我等は此の壮挙を喜び、時機を見て吾人も活動すべしと期待し居たる。
戒厳令布かれ遂に其の目的を達する能はざりしは、遺憾なりと同士間にて語り合う者あり」(震災当時の朝鮮人活動家の証言)
(『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(p277-280))


朝鮮人が自分で震災の最中、放火したと言うんだから確定でしょう。
朝鮮人の放火・殺人・暴動はデマではなく、『事実』だったと。

震災の中、放火・殺人を繰り返す朝鮮人を見て人々は恐怖した日本人は急遽自警団を組織した。


当時、「社会主義者及び之に類するソウル青年会、労働連盟会、朝鮮教育協会、天道教等」が反日活動を計画していたというが、これはそのまま、国籍不明の反日左翼、韓国青年会、労組、日教組、日本カトリック正義と平和協議会(正平協)につながる。

反日の歴史は古い、担い手も情報捏造の手法も同じということです。

ながと忠恕から
http://mshks1318.iza.ne.jp/blog/entry/1769747/


「関東大震災と朝鮮人虐殺のまぼろし」最終回です。

大正時代とは朝鮮人の移住民が日本に激増し、露西亜革命に因る社会主義思想や革命思想が蔓延る、渾沌とした時代です。そんな時代に起きた未曾有の大震災が、朝鮮人虐殺のまぼろしを生んだのでした。

あの時代に朝鮮人達社会主義者が策略したのは、皇太子殿下暗殺であった事実を知らねば為りません。

■Xデーは摂政宮御成婚式

大正12年11月27日には、皇太子殿下(後に昭和天皇)と久邇宮良子女王との御成婚が予定されていました。皇太子殿下は病弱な大正天皇に代わり、摂政官として未曾有の国難である大震災に立ち向かわれています。其の為に被災地視察の翌日、9月16日に自ら婚儀の延期の意思を侍従長に伝えられます。

糧秣廠を爆破し、膨大な避難民を殺害した朝鮮人の証言です。

「暴風雨襲来すべければ、その機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし、機の到来を待ち構えていた折柄大震災あり、これで御大典もどうなることか判らないから此の地震こそは好機、逸すべからずとなし此処に決行したのである」

朝鮮人テロリストの目標とは、11月27日に予定されていた御大典だったのです。震災発生直後には、摂政官と久邇宮良子女王との御成婚の日取りは変更されておらず、彼等は是を目標に動乱を起すべく決行したのでした。

活動家の本拠地は上海です。日韓併合後、上海のフランス租界へ脱出して作った「大韓民国臨時政府」、即ち「上海仮政府」の庇護の下にテロリストは生き延び、目標達成の為に日本への侵入を繰り返し、時機を虎視眈々と狙っていたのでした。

朝鮮人テロリストが自白していた例は枚挙に遑が有りません。

「鮮人達は東宮殿下御成婚の当日に一斉に暴動を起す事を諜合して、爆弾等を密かに用意して居たが此の震災で一斉に活動したのだと謂ふ。又二日には之に関する協議会さへ開く予定があったと謂ふ」『北海タイムス』

「小石川辺では鮮人が団体を組んで来るとか爆弾を投て、焼き払ふ計画を立てているとか、生きてゐる心持が有りませんでした。私共も一緒になって捜索の結果、私の家の而も附近の宮様の原で爆弾一個を発見しました」『北海タイムス』

「彼等は二百十日を期して蜂起する計画を樹て、8月28日に銀行や郵便局の預金を悉く引き出し準備した。若し二百十日が静穏であったならば、今秋の御盛典を期して行ふ事に決してゐたが、恰も震災に乗じて活動したものであると自白した」『北海タイムス』

もとより此の様な大胆な計画と資金調達は、組織力や上層指導部なしに実行できる事ではない。満州近辺の間島(カンド)に根を張る抗日パルチザンが、ロシアから北京、上海を自由に行き来するのは容易では有りません。其の上に、上海から日本内地への上陸を繰り返す実力は並大抵では出来ない筈です。

黒龍会主宰者内田良平は、震災時の朝鮮人の謀略をいち早く告発し、奇妙な符号の解析にも奔走し、政府に訴えています。内田は、朝鮮独立運動の背後に居るのは社会主義者であると指摘します。

「露西亜が日本の赤化運動に志し、日本の社会主義者及び鮮人達を煽動し、日本の社会主義者等が之に共鳴して妄動を志しつつある事、朝鮮の高麗共産党等が金品の供給を得て、之に操縦せられつつありしは事実にして、社会主義者と不平鮮人とは暗々裏に其の声息連絡を通じ居たるも事実なり」『現代史資料6』

一方、朝鮮半島於ける大震災の受け止め方は様々でした。朝鮮総督府警務部長丸山鶴吉の報告書です。

「(大震災は)強暴日本に対する天の責罰なり云々と洩らし、社会主義者及び之に類するソウル青年会、労働連盟会、朝鮮教育協会、天道教等は帝都の大惨禍及び山本総理の暗殺説等を吹聴し、社会の異変は之偶然の事に有らず日本革命の象徴なり。近く各地に内乱起こり、現在の制度は改革せらるあるべし」

乍併、震災に乗じた放火、強盗、強姦、殺人、井戸への毒薬投入、爆弾投擲など、凶暴行為の報せを聞き及ぶと、一般の朝鮮人も流石に同胞に因る非人道的暴挙に対して忸怩たる思いに変わり、世界各国からの非難を意識し始め、罹災難民救済慰問金の募集に参加する者が増えたと報告されています。

処が、過激な労働運動家は全く違う驚くべき反応を見せます。

「今次の震災は地震の損害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる模様なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したる因るものなり。我等は此の壮挙を喜び、時機を見て吾人も活動すべしと期待し居たる。戒厳令布かれ遂に其の目的を達する能はざりしは、遺憾なりと同士間にて語り合う者あり」

上海の抗日組織「義烈団」の団長金元鳳は、北京に滞在して居たが9月9日、震災に因る日本の民心動揺を好機と捉え、部下を集めて天津から東京へ向わせたとの報告が入ります。是に関連して「義烈団」は直接行動の用意に入り、保管していた爆弾五十個を安東に向け発送したと謂う情報も警務局に届いています。

上海の「大韓民国仮政府」の下では、表の顔の「独立新聞」と裏の組織「義烈団」が暗躍し、震災に乗じて様々なテロ計画が実行に移されようとして居たのです。

9月3日、東京淀橋署に朝鮮人無政府主義者朴烈と其の愛人金文子が連行されました。判事の尋問の結果、爆弾入手を図って摂政官(皇太子)を暗殺しようとした事が明確と為り、刑法73条、所謂「大逆罪」を以て起訴されます。

朴烈の証言です。

「俺は日本の天皇、皇太子を爆弾投擲の最重要なる対象にしていたのだ。それで、爆弾が手に入ったら何時でも機会を見て使用する心算だった。出来るだけ日本の皇太子の結婚式に間に合うように計画を進めてきた」

朝鮮人テロリスト達の目標日は、震災の混乱時に変更され、計画はばらばらに為ったもののテロの波は、横浜を発進して帝都を襲ったと考えられます。

有史以来の大震災に立ち向かっていた日本国民が、朝鮮人を「虐殺」したと謂われて88年が経過しました。日本人は途方も無い謀略宣伝の渦に捲込まれ、其の様に洗脳されていたのでは無いでしょうか。今こそ我々は捏造され歪められた歴史から解放されなければ為らないと思います。

参考資料:「関東大震災ー朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子著:産経新聞出版刊
・・・


<参考リンク>

・関東大震災の朝鮮人
 http://ccce.web.fc2.com/sinnsai.html


・作家、森村誠一の黒歴史【悪魔の飽食】は捏造本だった(細菌兵器731部隊の真実)
 http://matome.naver.jp/odai/2135806480175646701


・朝日新聞とプロ市民とイラク人の自作自演
 http://www.nekoyanagi.jp/ohisama/gmnk/gmnk51/jisakujien.html


・正平協の仲間たち
 http://www2.ocn.ne.jp/~antijpj/yamanouchi/jpj-yamanouchifile_03.html

 

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コメント
 
01. 中川隆 2013年6月21日 07:34:36 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

正力松太郎がデマを流したのは誰一人知らぬ者のない事実だよ。


デマを流して朝鮮人を虐殺させたのは正力松太郎警視庁官房主事


「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力


 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。

以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。

いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。

 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。

「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」

 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。


伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。

論理的な解明は不可能ではない。

ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。

「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。

字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。

 詳しい研究は数多い。

『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。


 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、

すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」


 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。

では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。


 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。


 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。

石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。

震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。

ところが食料がまったくない。

石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。


「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。


『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。

それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。

ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、


『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』


と頼まれたということであった」

 ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、


予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、

というのが下村の論拠だった。

下村は台湾総督府民政長官を経験している。

植民地や朝鮮人問題には詳しい。

そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html


東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見


 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。

内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。

『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。


『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。

この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。


 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。

わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。

念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。


 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。

報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。

各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。

各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。

戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。


 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。

要点はつぎのようである。


「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」


「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」


 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。


 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。

同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。

発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。

ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html


号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄


 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。

「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。

ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。

「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。


 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。

そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。

地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。

輪転機用の巻紙もない。

だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。

しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。


 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。

本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。


 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。

普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。

晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。

つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。


 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。

斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。

 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。

『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。

そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。

 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。

もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。

しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。

結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。


奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。

著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。

 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。

読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。

あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html


「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。

軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。


いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。

 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。

歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、

大森大尉は、

「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、

『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』

と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。


 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。

 なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。

「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。

前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。


「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。

これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」


 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。

ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。


 戒厳令には「敵」が必要だった。

警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。

 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。

その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。


 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。

 震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。

 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。

さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。

 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。

正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。


 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺


 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。

前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ

『こうなったらやりましょう』

といきまき、阿部信行参謀をして

『正力は気がちがったのではないか』

といわしめたと語っている」


 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。

これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。

正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。

「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。


森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。


だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。

だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。

警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。

その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html


02. 2013年6月21日 08:53:59 : AMNLRmzVnc
こんなことを言っていると、日本人は歴史でウソを捏造する国との評価が定着する。

南京大虐殺、従軍慰安婦に続いてこの関東大震災での朝鮮人虐殺。

いまだに原発事故で死んだ人はいないなどのたわごとがまかりとおる国の一部の人の主張など世界中の誰もが賛同しない。


03. 2013年6月21日 11:49:07 : lMdvbjt8yw

親日って何のこと。
教えて親日さん。

反日、親日って誰のこと。
教えてヘートスピーチさん。

ヘートスピーチさんここで名乗ってね。


04. 2013年6月21日 12:38:18 : BE7BuiAs7Y
01の馬鹿川長文マジうぜえ

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