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松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」  (産経ニュース)  : 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html
投稿者 真相の道 日時 2013 年 12 月 26 日 15:50:50: afZLzAOPWDkro
 


最初に私のコメント、次に記事本文を記載します。


[コメント]


■ 「御霊(みたま)に哀悼の誠をささげることは、日本人ならごくごく自然にそう思うこと」

>安倍晋三首相が26日午前、靖国神社に参拝したことを受け、日本維新の会幹事長の松井一郎大阪府知事は同日、「先の大戦で亡くなった方の御霊(みたま)に哀悼の誠をささげることは、日本人ならごくごく自然にそう思うことだ」と述べ、安倍首相の参拝を支持した。

維新の松井知事の言う通りですね。

靖国神社には多くの日本人が訪れ、日本のために尊い命を犠牲にされた英霊を弔うべく参拝しています。
日本人の一人として、政治家として、総理として参拝し、英霊に不戦を誓うのは当たり前のことと言えるでしょう。


■ 政治家が近所の神社でお参りしても「政教分離」とは批判されない 靖国だけ問題視するのは政治利用

例えば社民党などは、「政教分離」に反すると喚いていますがお笑いです。
神社などへの参拝は宗教的行為ではなく、習俗的行為であるので政教分離原則には抵触しません。

政治家が近所の神社に初参りをしても「政教分離違反」と非難されることはありません。
なぜならそれは宗教的行為ではなく、習俗的行為にすぎないからです。

政治家が近所の神社に初参りするのはOKで、靖国神社への参拝だけ「政教分離だ」と非難するのはまったく理屈に合わないことです。

このような非難する社民党は逆に靖国神社を政治利用しており、社民党の非難こそ政教分離に反した行為と言えるでしょう。


[記事本文]

 安倍晋三首相が26日午前、靖国神社に参拝したことを受け、日本維新の会幹事長の松井一郎大阪府知事は同日、「先の大戦で亡くなった方の御霊(みたま)に哀悼の誠をささげることは、日本人ならごくごく自然にそう思うことだ」と述べ、安倍首相の参拝を支持した。薬物対策で視察していた大阪市西成区のあいりん地区で記者団の取材に応じた。

 松井氏自身や維新共同代表の橋下徹大阪市長の参拝については「それぞれ機会があるときには参拝している」と述べた。

 中国や韓国などアジア諸国への外交上の影響については「国として先の大戦が正しかったとは全く思っていない。亡くなった人に対する哀悼とは分けて考えてほしい」とし、国としてもアジア諸国への理解を求める必要性を指摘した。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131226/waf13122612220007-n1.htm


 

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コメント
 
01. 2013年12月26日 16:30:59 : LG0FUtT49g
「首相『不戦の誓いの参拝』と説明 中韓にも『直接説明したい』 鎮霊社にも参拝 http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/snk20131226544.html

安倍の「積極的平和主義」は、中韓だけが相手ではなく、世界中で「平和維持」の名の元に戦争をするということなので、「不戦の誓い」との整合性をどうつけるのだろうか。

私は靖国に参拝するなとは言わない。だが、先の戦争を100%肯定するならばともかく、問題があるとするならば、戦争指導者に対する責任は追及して然るべきだろう。

それが、戦勝国による東京裁判のA級戦犯が問題あるならば、それはそれで良い。だが、その場合は、日本として間違った戦争に導いた指導者の責任を問うべきである。だが、しかし、日本は昭和三十年代に、既にA級戦犯の名誉回復をし、日本としては誰一人として戦争の責任は問うていないのである。安倍が靖国参拝する理由はそこにもあるだろう。いわゆるA級戦犯の合祀と言っても、日本にはA級戦犯は存在しないということだ。あの戦争は誰一人として問題がないことになっているのが、日本の公式な立場である。

よく、「死んだら、靖国で会おう」と、散華した特攻隊隊員の話しが出るが、隊員には何の問題もないが、自爆を命令した上官、作戦を考えた指揮官について何の追及がなされないのは何故であろうか。何しろ戦争を指導した者の責任が問われないのだから、その下も問われるはずがないということである。だが、自爆は非人道的作戦と捉え、その指揮をした者の責任を追及しないのが日本なのである。特 攻隊隊員を殺したのはアメリカ軍ではなく、日本軍なのである。

戦陣訓では、

生きて虜囚の辱を受けず、
死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

「生きて虜囚の辱を受けず」とは、捕虜になるのなら自決しろである。これは軍人だけでない、サイパンのバンザイクリフ、沖縄戦。はっきり言えば、これは捕虜として投降することを許さなかった日本軍が殺したのである。日本では「大脱走」という映画など作られるはずがないのだ。

自民党幹事長の石破は今年7月に、戦争の際に自衛官が命惜しさに命令に従わなければ死刑もあり得るテレビで公言したのである。これが映像である。http://m.youtube.com/watch?v=mZDhCf0TfC0&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DmZDhCf0TfC0

安倍が靖国に参拝するならば、するで良し。だが、安倍は先の戦争で何を学び、何を繰り返さないと言うのか明確にすべきだ。理由はともかく、「不戦の誓い」をした安倍は、戦後初めて実戦を命令する可能性が高い自衛隊の最高司令官なのだ。まさか、「死んだら、靖国で会おう」と自衛官に訓示するつもりなのだろうか。

「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和 と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本 国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本 を築きました。http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131222-OYT1T00390.htm?from=ylist」とかたったのは、先日の天皇誕生日の際の今上天皇の会見での御言葉である。


02. 2013年12月26日 17:01:49 : qABQvdTAB6
>>01
>安倍が靖国に参拝するならば、するで良し。

つまり靖国参拝に反対ではないわけですね。


>だが、安倍は先の戦争で何を学び、何を繰り返さないと言うのか明確にすべきだ。

安倍総理は英霊に不戦を誓ったと説明していますね。

『すべての戦争において、命を落とされた人々のために手を合わせ、ご冥福をお祈りをし、そして二度と再び戦争の惨禍によって人々の苦しむことのない時代をつくるとの決意を込めて、不戦の誓いをいたしました」』
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131226/plc13122613450019-n1.htm


この説明で十分でしょう。




[32削除理由]:管理人特別処理

03. 2013年12月26日 17:11:10 : YxpFguEt7k
米知日派の1人
「米軍普天間飛行場移設問題で大きな前進があり、日米同盟強化が図られようとしている時、なぜ参拝するのか理解できない」
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20131226-OYT1T00564.htm

犬が悪さすると、飼い主まで白い目で見られるじゃないか…
ということでしょうかね。


04. 2013年12月26日 17:20:41 : 1hQnF7NqSg
ほっとけ。 馬鹿の相手になるな。 

05. 2013年12月26日 17:26:39 : VYH1yUE0lE
落ち目の人間が媚びを売るのも当然ってか

06. 2013年12月26日 17:31:27 : 2oerMyOyJQ
珍相さんは先日の天皇誕生日の陛下のお言葉をどう思われたんでしょうね。

私は陛下が参拝されない靖国に安倍が参拝することが問題だと思います。

確かに国のために犠牲になられた方への追悼の意を表すのは間違いではないし、私も賛同しますが、なぜ靖国にこだわるんですか。

昭和天皇が靖国に行かなくなった理由を考えて欲しいです。

千鳥が淵に行けばいいと思いますけど。
なんで靖国なんですか?

以前安倍が「靖国参拝できなかったことが痛恨の極み」って言っていたことを思えば、どう言い繕っても安倍の意図したいことは隠せないと思います。

まあ、珍相さんに何を言っても無駄でしょうね。
世耕さんからの報酬はおいくらですか?
もっと割のいいバイトを紹介しましょうか?


07. 2013年12月26日 17:39:36 : LG0FUtT49g
02

自国を守り、平和な 日本を維持するためには、時として戦争はあり得 る。だが、「不戦」とは、戦争をしないことである。


08. 2013年12月26日 17:40:36 : zGOccl5qcU
安倍が暴走段階に入った。

09. 2013年12月26日 17:47:01 : qABQvdTAB6
>>06
>確かに国のために犠牲になられた方への追悼の意を表すのは間違いではないし、私も賛同しますが、なぜ靖国にこだわるんですか。

それは明らかで、「国のために犠牲になられた方」が靖国神社に英霊として祀られているからですよ。

国のために戦争で亡くなられた方々が祀られている靖国神社で、その方々の御霊に不戦の誓いをする。

日本の政治家として筋が通っているし、あるべき姿だと思いますよ。

もちろん靖国への思いは人それぞれだから、参拝しなければならないというわけではありません。

逆に参拝した人を非難することもあってはならない。
上記の通り、政治家として筋の通ったことをしただけなのだから。




[32削除理由]:管理人特別処理

10. 2013年12月26日 17:54:33 : crgZuarq9I
貧相は>>06氏の質問に答えてない。
いや、答えられないんだろうし答えたくないんだろう。
天皇誕生日の際の天皇の言葉はウヨ筋では蛇蝎のごとく嫌われているからな。


11. 2013年12月26日 17:58:25 : qABQvdTAB6
>>07
>自国を守り、平和な 日本を維持するためには、時として戦争はあり得 る。だが、「不戦」とは、戦争をしないことである。

「戦争の放棄」は日本国憲法で定められていますよ。

日本の総理が憲法に則って不戦を誓うのは、理にかなったことであり、当然のことです。

但し、自衛のための戦いは別。
いわゆる自衛権ですね。
これは国連でもすべての国に認めている自然権であり、日本も持つ当然の権利です。

両者をごっちゃにしないことです。




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12. 2013年12月26日 18:05:38 : crgZuarq9I
それから貧相は>>01氏へもマトモに答えていない。
いや、答えられないだろうし答えたくないんだろう。
不戦の誓いをした安倍を持ち出すが、>>01氏は不戦の誓いをしても靖国が戦争責任を中空に浮かせたように放棄して英霊の御霊は平等と合祀していたら不戦の誓いの意味がどこにあるんだと言っている。
貧相は天皇の言葉と同じく戦争責任と指導者の問題を放り出して、英霊だの御霊だの綺麗事で飾って逃げているだけだ。
本当に薄汚い野郎だ。

13. 2013年12月26日 18:13:01 : 9a31bJXYac
>>09

私は鹿児島県人なので、近所に特攻隊の記念館が複数あります。
だからこそ「なぜ靖国なんですか」って問いたい。

前途ある若者が「靖国で会おう」という合言葉の元に敵に体当たりしたんですよ。
16歳とか17歳の、今で言う高校生くらいの男の子がですよ。

彼らの手紙を読んだことありますか?
絶対に自分の意思で特攻した訳じゃないです。彼らも時代の大きなうねりに飲まれてしまったんです。自分が高校生の時を思い出してください。
英霊と言って崇めるのは勝手ですが、それは勝手に後世の私たちが思い込んでいるだけです。

特攻隊でなくなった方の中にも神道じゃなくって、キリスト教徒も仏教徒もいたでしょう。

そんな方々が何で、自分が信仰しない靖国なんかに入れられてるんです。

靖国は今も昔も安倍のような軍国主義為政者に利用され続けてきたんです。

他国のように何で誰でも、どんな宗教を信仰しようとも、そこに訪れて戦没者に哀悼の意と不戦の誓いを立てる施設が日本にないんですか?

オリンピックの競技場を作る金があるなら、こっちに使えばいいと思います。

千鳥が淵があるんだから、真に不戦の誓をするなら、ここに行って誓いを立てればいいことです。

安倍はあきらかに意図がある政治家です。このような人が靖国に行くから余計な軋轢を生んで、さらに日本が孤立するという戦前の構図になるんだと思います。


14. 2013年12月26日 18:18:29 : dzSvvl4VUI
かって日本のために尊い命をささげた方たちがいた。安全地帯でぬくぬくとして決して血を流さないそれを自分の政治目的に利用しようとする、薄汚いゲリゾーは断じて許せない。

15. 2013年12月26日 18:29:23 : LG0FUtT49g
11

だから、安倍は戦争するために改憲をするんですよね。だから、「不戦の誓い」なんか、柄にもないことをするなということ。

はっきり言えばいいと思いますよ。中国、韓国、ロシアから国土を守るために防衛するのが、英霊に応えることになると。


16. 2013年12月26日 18:29:30 : j3chNkYCVc
>>13
仰るとおりです。今の日本が怖いのは、あなたのような正論が「売国」などと罵られる右傾化(というより極右化)の雰囲気にあることだ。靖国参拝に怒っているのは何も中国や韓国だけでなく、心ある日本人の多くも怒っている。バカメディアはこの点をあえて伝えようとしない。

17. 2013年12月26日 18:43:30 : zGOccl5qcU
頭の中の基本構造。

安倍晋三=石原慎太郎=橋下徹=松井一郎

自民と維新はどこも変わらない。  


18. 2013年12月26日 18:47:25 : qABQvdTAB6
>>13
>前途ある若者が「靖国で会おう」という合言葉の元に敵に体当たりしたんですよ。

つまりその若者も「靖国で会おう」と言い、靖国で祀られているわけですね。

だからこそ、その若者も含めて、国のために戦争でなくなられたすべての人たちが祀られている靖国で不戦の誓いをすることに意味があるのです。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、国のために戦争でなくなられたすべての人たちのための墓苑というわけではありません。
第二次大戦時の、それも身元不明、引き取り手のない遺骨が安置されている場所であって、国のために戦争でなくなられたすべての人たちが祀られているわけではないのです。

したがって不戦の誓いをするならば、すべての人たちが祀られている靖国のほうがふさわしい。

論理的にはそうなります。

つまり、今回の参拝で不戦の誓いをした総理を非難することは間違っているとしか言いようがありません。

もちろん、さっきも書いた通り靖国への想いは人それぞれ。
靖国で参拝したくないという人がいてもいい。

だからと言って、論理的に正しい参拝をした総理を非難することは間違っています。



[32削除理由]:管理人特別処理

19. 2013年12月26日 18:47:44 : OImNJqRbPQ
俺は日本人なのだけど、ごくごく自然だとは思わないのだけど、
昔、不良でたまたまの松井知事はどう思われるのですかね。

20. 2013年12月26日 18:50:10 : LG0FUtT49g
松井は「国として先の大戦が正しかったとは全 く思っていない。亡くなった人に対する哀悼とは 分けて考えてほしい」と言っているが、何が正しくなかったのか日本維新の会として明確にすべきだな。

21. 2013年12月26日 18:54:02 : GDYQF7UzOg
自称保守愛国者に支えられているから、安倍はそいつらからの声援欲しさにやっただけだろう。いつものごとく、ただの受け狙い。
大体、自分の国の事なんだから、愛国愛国とひたすらバカ騒ぎしている連中は、他の国に伺いを立てるような真似なんかせずに正面から堂々とやったらどうだ。
もっとも安倍にそんな根性は無いだろな。
それでも、自称保守愛国者は安倍が隠れるようにこそこそ理由をつけて参拝する姿が、相当、勇ましく神々しく見えるらしい。
こんな見え見えの受け狙いが通じるんだな。

しかし、いつみてもメディアは毎回同じような騒ぎ方をしているな。
まるでわざわざ中韓に非難してくれと言わんばかり。


22. 2013年12月26日 19:11:11 : JtW399YiA2
無理な戦争継続させて大勢の兵士を餓死させた連中も英霊なのか??
そいつらが分祀されてりゃ問題視しなくて済むのだが・・・。

23. 2013年12月26日 19:15:03 : ShifDN0kf6
この際、靖国は潰してその代わりに

さっさと核武装し、

中朝韓から絶対に舐められないよう、自衛力を鉄壁にしましょう。

[12削除理由]:意味なし

24. 2013年12月26日 19:18:39 : 46DufLLvlc
>>18

特攻隊の方で「靖国で会おう」の合言葉を、自身の真意で言った方がどれだけいたんでしょう。

私は高校生の時に特攻で体当たりなんて、考えもしなかったです。

でも、そう言わざるえない世の中だったんだと思います。

きっと無念の思いでいっぱいだったと思います。

自分が拒否すれば、自分だけでなく親兄弟はおろか一族郎党に迷惑がかかると思い、泣く泣く「靖国で…」の合言葉に言ったと思います。

ぜひ鹿児島に足を運んで、知覧や万世を見てください。

それと千鳥が淵には、兵隊でないけど国のために犠牲になった方が祀られていると理解しています。

空襲の無差別攻撃で亡くなった女性や子供は戦争の犠牲者じゃないんですか?

先の大戦で、国のためといって靖国に祀られることを望んで亡くなった方は、思っているほど多くないと私は思います。

少なくとも私は死んだら愛する家族と一緒に祀って欲しいと思います。
靖国なんて真っ平御免です。

靖国への思いは人それぞれですが、政治家である以上は公人であり、行動や思想は自由ですが、それを実行するか否かは制限されるものと思います。

嫌ならば政治家をやめて、一個人として行動をすればいいと思います。


25. 2013年12月26日 19:29:23 : kKiA26u8Yk
こうなってしまうと、何故、”靖国”が国内的にこんなにクローズアップされ若い世代にも美化する風潮が蔓延しているのか?と云う疑問がわいてきます。

愚考を述べさせて頂けば、あるマンガがその宣伝役を担っていると考えます。
あるマンガとは、小林パチノリの”戦争論”この著作により過去が過剰に美化されそれまでは、忌避されていた過去の美化を公然と行うことのハードルが低くなったと思います。


26. 2013年12月26日 19:39:18 : cUqQ10tEi6
>>24
>特攻隊の方で「靖国で会おう」の合言葉を、自身の真意で言った方がどれだけいたんでしょう。

当時はたくさんいたぞ???考えてみろよな。戦死した人で遺骨だけでも家族の元に戻れた人は少ない。ましてや特攻隊員なら遺骨が残るなんて考えていないでしょう。
ではどうやったら日本に帰れるのか?
「お国のために戦い散った人の魂」が必ず行けるところがあるじゃないですか。
それが「靖國神社」なのです。
特攻隊の生き残りの方が書かれた文に特攻隊員の死生観や当時の靖国に対する考え方を述べた下りがある
http://senri.warbirds.jp/09seisin/4-52.html

>空襲の無差別攻撃で亡くなった女性や子供は戦争の犠牲者じゃないんですか?

勿論、犠牲者。しかし、空襲などで親や子を亡くした遺族は不思議と怒りはアメリカに向けられず、日本政府に向けています。

>先の大戦で、国のためといって靖国に祀られることを望んで亡くなった方は、思っているほど多くないと私は思います。

それは、お前は戦争体験者でなく、まして特攻隊員でないからそう言えるだけ。

>靖国への思いは人それぞれですが、政治家である以上は公人であり、行動や思想は自由ですが、それを実行するか否かは制限されるものと思います

それって単にお前のワガママじゃね???


27. 2013年12月26日 19:44:35 : qABQvdTAB6
>>24

先ほども書いたように、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は国のために戦争でなくなられたすべての人たちのための墓苑ではありません。
第二次大戦時の、それも身元不明、引き取り手のない遺骨が安置されている場所です。
何度も言うように国のために犠牲になったすべての人のための施設ではないのです。

あなたがこの千鳥ヶ淵戦没者墓苑に思いをはせるのに文句を言うつもりは毛頭ありません。

ただ、一国の総理が不戦の誓いをするのなら、第二次大戦の身元不明者だけではなく、国のために戦争でなくなられたすべての人たちが祀られている靖国で不戦の誓いをするほうがよりふさわしいでしょう。

以上からすれば、安倍総理の不戦の誓いのための参拝は論理的に筋が通っており、
これを非難するのは間違っています。


ついでに言うと、A級戦犯とは戦勝国が一方的に裁いた判断の押し付けにすぎません。
それも遡及法(戦時中は戦争犯罪というものはなかった)なので、これを適用したこと自体が法治主義にてらして間違っています。
また、戦争犯罪だと決めつけるなら、原爆投下で莫大な数の民間人を殺害したことも戦争犯罪と言えますが、こちらは何の責任も取られていません。

まあ、当時は無条件降伏なので戦勝国の要求を受け入れるしかなかったのでしょうが、これが法治主義の原則である遡及法の禁止に反する間違った判断であることは間違いありません。

したがってA級戦犯が合祀されているからうんぬんというのは、靖国を非難する理由にはなりません。



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28. 2013年12月26日 19:45:29 : cUqQ10tEi6
>>25
>こうなってしまうと、何故、”靖国”が国内的にこんなにクローズアップされ若い世代にも美化する風潮が蔓延しているのか?と云う疑問がわいてきます。

いやいや、逆に「ただの」神社がなんで外交問題に発展するのかが解らん。美化??何処が??そもそもサンフランシスコ条約で、日本が平和協定を結んだので、平和協定を結んだ瞬間、戦犯とゆうものは無くなります。どの戦争を見ても、平和協定を結んでから戦犯とかで騒がれている国などないんです。

>あるマンガとは、小林パチノリの”戦争論”この著作により過去が過剰に美化されそれまでは、忌避されていた過去の美化を公然と行うことのハードルが低くなったと思います。

小林よしのりの戦争論がそこまで大きく影響を受けた風には見えないがな(笑)。


29. 2013年12月26日 20:01:05 : 4WfnLExy42
28サン、25です。

マジに答えてくれてサンキュー

パチノリ云々と書いたのは、自分自身がパチノリの信者にヤスクニに何度か半ば強制的に連れて行かれた体験からかいたが、それを差し引いてもヤスクニの遊就館の展示は余りに情緒的でファアナティツクだったよ?


30. 2013年12月26日 20:02:36 : 7Onnx32U7Q
そもそも神社っていうのは 自然界 に戻っていった祖先、先人、親に祈りを捧げるといういわばテレパシーで交信する携帯電話ボックスみたいなもので、伊勢神宮で祈っても靖国神社で祈っても交信できるものです。

そういうわけで日本人が靖国で祈ろうが伊勢神宮で祈ろうがなにも問題あるわけでもなく問題にすること自体が外国人の発想というかいいがかりだ。ヨーロッパのキリスト教会や旅行にいったさきのアメリカの教会で、あるいは中東にいってイエスの墓地教会で祈りを捧げることをやめろというようなものである。もう馬鹿げているのでほっておけ。



31. 2013年12月26日 20:13:02 : LG0FUtT49g
靖国の場合、国家神道の問題があるよ。

32. 2013年12月26日 20:14:53 : cUqQ10tEi6
>>29
>自分自身がパチノリの信者にヤスクニに何度か半ば強制的に連れて行かれた体験からかいたが、それを差し引いてもヤスクニの遊就館の展示は余りに情緒的でファアナティツクだったよ?

お前って、バカ???俺も靖国神社の遊就館を見たけど、お前のような糞みたいな考えなんて生まれてこなかったぞ???お前はどういう思考しているの??俺はお前が言う「若い世代」に当たるけど、「たかが」神社でバカみたいに騒ぐ人間の方が狂信的だね。


33. 2013年12月26日 20:16:27 : cUqQ10tEi6
>靖国の場合、国家神道の問題があるよ。

どういう所が???宗教としての問題???どうぞ、詳しく説明してくれ。


34. 2013年12月26日 20:24:30 : qABQvdTAB6
>>31
>靖国の場合、国家神道の問題があるよ。

問題のない宗教なんてないでしょ。

靖国参拝、つまり宗教施設への参拝がダメなら、神社への初詣も、キリスト教会への礼拝にも出席できないことになりますね。

さらには結婚式もダメか。

参拝などは習俗的なものだから宗教儀式ではなく、問題ないというのが一般的な考え方でしょ。




[32削除理由]:管理人特別処理

35. 2013年12月26日 20:31:20 : tWC8jdH4qw
32,33連投ご苦労様、某の身内には幾人か”英霊”がおりますが、お国から頂いたのは
御貴殿が、”糞””糞”と御連呼されます、”勳七等なんとか賞”の様な総理閣下の御祖父の如き戦犯逃れのお歴々方とは比ぶべき無き”糞の”ような勲等の勲章です。
こんな”勲章”に若き命を散らす価値があるのか?御熟慮願います。

36. 2013年12月26日 20:37:36 : cUqQ10tEi6
>>35
>こんな”勲章”に若き命を散らす価値があるのか?

戦争だから仕方がない。それは何処の国にも当てはまるはずだが?


37. 2013年12月26日 20:42:17 : kbkmeUQQdY
仕方がないというう言葉は、日本にしかないと思いますが?

38. 2013年12月26日 20:42:32 : 7Onnx32U7Q
>>歴々方とは比ぶべき無き”糞の”ような勲等の勲章です。
こんな”勲章”に若き命を散らす価値があるのか?御熟慮願います。

当時西欧列強がアジアの多くの国でそれこそ地域住民を奴隷のごとく扱っていた西欧支配を打ち破り、ことごとく西欧諸国に引っ込めて植民地支配という世の中を打ち破ってしまい白人の天下の社会を打ち壊したのは特攻隊のおかげでありましょう。彼らの勇気がアジアの諸国に火を灯し、その後も彼らの戦いが続いて独立をつぎつぎと果たしていったのは大きな歴史を変えてしまった功労者ですよ。
犬死などしていません。


39. 2013年12月26日 20:43:52 : LG0FUtT49g
33,34

明治になり、政府は欧米列強に伍するために、天皇をヨーロッパの王の様にして立憲君主制にしたが、さらに宗教的権威を付けるために国家神道を発明したというこだ。

だから、ここで言うところの国家神道は、昔ながらのかんながらの道ではなく、明治政府によるところの人造物。

明治政府は神道を非宗教として位置付け、「国家の宗祀」とおおよそ訳の分からない物にしてしまったということ。政府当局の見解であった。

行政上も 1900年(明治33年)に内務省社寺局から「神社 局」と「宗教局」に分離され、その後宗教局は文部省に移管するなど、神道とその他諸宗教は明 確に区分されて宗教であるようで、宗教ではなく国家行政ということだから、キリスト教何かとは位相が違う。

戦後宗教法人になったけど、戦前は行政だったから妙にこんがらがうんだな。


40. 2013年12月26日 20:46:43 : exh0db9d5A
米中韓の首脳から毒毛虫のように嫌われ東アジアで孤立無援の安倍ちゃん。でも、嫌われていることすら自覚できない発達障害だから、何も怖くないから、やりたいことをやる自己陶酔の誇大妄想安倍ちゃん。

唯一会えたプーチンさん。流石は元KGB、北朝鮮並みの孤立状態を嗅ぎとって、甘い囁きをもって接近したけど、ささやきが理解できない言語障害の安倍ちゃんだから、流石のプーチンさんも打つ手なし。

後は野となれ山となれ、進軍ラッパを鳴らして天下無敵の安倍ちゃんが行く。


41. 2013年12月26日 20:50:00 : cUqQ10tEi6
>>37
>仕方がないというう言葉は、日本にしかないと思いますが?

そんな事はないぞ??例えば、英語だとThere is no help for it になる。


42. 2013年12月26日 20:51:14 : MUT5DVOCFs
「戦争は平和である」
そんな言葉が頭に浮かんだ

43. 2013年12月26日 20:54:36 : OJoCfJEAmY
"
help"の主語は”神”、日本の場合”どうのしようもない”諦めの境地。

44. 2013年12月26日 21:04:22 : cUqQ10tEi6
>>39
>明治になり、政府は欧米列強に伍するために、天皇をヨーロッパの王の様にして立憲君主制にしたが、さらに宗教的権威を付けるために国家神道を発明したというこだ。

??? 宗教に発明なんて言葉はないと思うが???

>だから、ここで言うところの国家神道は、昔ながらのかんながらの道ではなく、明治政府によるところの人造物。

よく意味が解らんのだが? 明治政府が昔ながらの神道とは別の神道を創ったという事???仮にそうだとしても、昔ながらの神道の信者は明治政府のやり方に反発しなかったの???

>明治政府は神道を非宗教として位置付け、「国家の宗祀」とおおよそ訳の分からない物にしてしまったということ。政府当局の見解であった。

お前の考えがよく分からんよ。説明が分かりずらい。

>行政上も 1900年(明治33年)に内務省社寺局から「神社 局」と「宗教局」に分離され、その後宗教局は文部省に移管するなど、神道とその他諸宗教は明 確に区分されて宗教であるようで、宗教ではなく国家行政ということだから、キリスト教何かとは位相が違う。

で???


ま、お前の主張を読んだけど、別に国家神道は問題なんてないよね???問題点が無いんだけど???オウム真理教みたいに宗教信者が毒ガス(サリン)をばら撒いたり、弁護士などを殺したりなど問題点大ありの狂った宗教なら分かるけど、神道はどう見ても問題点なんてないだろ????もしかして周りが言っていたから、あるいは親にそう教育されたからオウムのように繰り返しているだけの借り物思想というバカな考えではないでしょうね??????


45. 2013年12月26日 21:34:42 : LG0FUtT49g
44

だから、戦前は宗教じゃないってこと。行政。


46. 2013年12月26日 21:38:32 : Fs820IFiwU
「積極的平和主義」は、まやかしのスローガンだと感じる。この平和主義は「戦争で決着つけてやるから」というのが隠された前提だ。、裏返せば平和のためにする戦争だという「ナチズムとフアシズム』体制の戦争推進宣伝の常套語だつた。ナチス、ヒツトラーもヨーロツパの『新秩おつぼつ序による平和のため』に侵略戦争開始。日本軍も『東洋平和」のために戦争開始。アメリカも日本のタカ派の正体が、軍国主義と国家主義復活をめざす「ナチズムとフアシズム」の残党たちであることに、気が付き出したのではないだろうか?。

47. 2013年12月26日 21:38:50 : cUqQ10tEi6
>>45
>戦前は宗教じゃないってこと。行政。

行政だから何????????行政になると問題でもあるの?


48. 2013年12月26日 22:01:34 : LG0FUtT49g
47

だから、戦後は宗教でしょ。そのこじれもあるということ。


49. 2013年12月26日 22:08:26 : cUqQ10tEi6
>>48
>だから、戦後は宗教でしょ。そのこじれもあるということ。

で、肝心の問題点は????????


50. 2013年12月26日 22:15:43 : LG0FUtT49g
49
戦後宗教法人にしたから、神道に入れたくない遺族も合祀されてる。
戦前は非宗教で行政だから、宗教とは関係のない墓地だったということ。

靖国の問題はこれだけじゃないが。

51. 2013年12月26日 22:31:17 : cUqQ10tEi6
>>50
>戦後宗教法人にしたから、神道に入れたくない遺族も合祀されてる。 戦前は非宗教で行政だから、宗教とは関係のない墓地だったということ。

はぁ〜?そんなの五十歩百歩だよ。大体、神道が宗教だろうが非宗教だろうがそこまで拘る理由が分からんね。何だ。靖国神社を問題視する人間って下らない理由で外交問題まで起こしたんだね。いや、呆れた。

>靖国の問題はこれだけじゃないが。

それ以外に何かあるの????


52. 2013年12月26日 22:59:38 : GdXK8na9Tk
行きたくもない戦争に行かされて、飢えや病気で戦うこともなく死んでいった人達。なりたくもない英霊に祭り上げられ、頭の悪い首相にされたくもない参拝を恩着せがましくされる。
戦争で死ぬっていうことは果敢に闘って納得して死を迎えることなんかじゃない。
「靖国で会おう」なんて考えて死んでいった人たちがどれだけいるんだろうね。
「死にたくない」「水が飲みたい」「苦しい」「家に帰りたい」「家族に会いたい」って絶望の中で息絶えて行った人たちにとって安倍に参拝してもらうことがどれだけ嬉しいことなんだか?
安倍は自分にありがたがってもらえる価値があるって思ってるんでしょ?

ふ・ゆ・か・い


53. 2013年12月26日 23:00:35 : b9lPKaG8Lk
靖国神社で不戦を誓うなんて誰も信じないだろうね。国民皆兵制を唱えた山懸有朋らの考えを真に日本国民が支持していたか?人権無視ではないか?奴隷同様ではないか?という問い掛けがまずは問題になるだろう。これは周辺諸国から出る批判と本質的には同じ。政教分離の点からの問題を差し置いたとしても他の問題点は山ほど出てくる。表層的すぎる議論だ。

54. 2013年12月26日 23:37:56 : rWn9PLlcps
悠久大和民族武士道の誇り 中田厚仁「武士道とは死ぬことと見つけたり」

だけれども僕はやる・・・中田厚仁 ねずさんの ひとりごと H.23/01/14 (12/25)
http://ichienyuugou.blog.fc2.com/blog-entry-988.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
だけれども僕はやる。
この世の中に、
誰かがやらなければならない事があるとき、
僕は、
その誰かになりたい。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
国旗の重み 〜現代青年の威厳・後編〜
http://youtu.be/jC7J9kFXwdM アップロード日: 2010/03/25


悠久大和民族武士道の誇り 関行男「武士道とは死ぬことと見つけたり」

「神風」http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/seki/sekitaii.html
最初の特攻 関 行男隊長

 「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ。やらせてくれるなら、ぼくは体当たりしなくとも500キロ爆弾を空母の飛行甲板に命中させて帰ることができる。ぼくは明日、天皇陛下のためとか日本帝国のためとかでいくんじゃなくて、最愛のKA[妻のこと、海軍士官の隠語−訳注]のためにいくんだ。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ。」

関大尉の遺書
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/seki/sekiyukio_taii_isyo.htm


55. 2013年12月26日 23:50:07 : ImOQE0Zm5I
普通日本人は人が嫌がる事を平気でやることはできない。小泉は平気だろう。さすが清和会と言うところか。
テレビも新聞も原則的な事をぼやかしているので一言言っておくが中国が靖国参拝を拒否しているのは第2次大戦を主導した戦犯が祭られているからだ。戦犯を外せば誰も文句は言わないだろう。大陸の人達は悪いのは戦争指導者たちであり日本人は悪くないと色分けできるのだ。日本人は逆に坊主憎けりゃ袈裟までと色分けできない。どうしても参拝したいのなら後から祭った東条英機以下を外せば良いだけの事だと思う。
こんなことで喧嘩になったりして実害が出るような事があってはならない。そして政治家の口車に乗ってはならない。つまり政治家の言っている事を鵜呑みにして信用してはならないと言う事である。流れは着々きな臭くなっている。余談だが愛国教育、愛国法も間近ではないか。
国民はこうなって行く事は衆議院選挙の時点で決まったと理解すべきだ。残念だがおかしな方向に進んでいると未だに気が付いていない国民が大半だろう。

56. 2013年12月26日 23:51:46 : 7Onnx32U7Q
>>。ヨ死にたくない」「水が飲みたい」「苦しい」「家に帰りたい」「家族に会いたい」って絶望の中で息絶えて行った人たちにとって安倍に参拝してもらうことがどれだけ嬉しいことなんだか?
安倍は自分にありがたがってもらえる価値があるって思ってるんでしょ?
ふ・ゆ・か・い

戦争がいやという個人の気持ちはわからんでもないが、その戦争を起こして金儲けをする人がいてそれがアメリカだったわけじゃ。日本の戦った人を悪くいってもはじまらんのになぜ原因のほうを重くみないのだ。アメリカ、西欧が悪かったのだ。
インドのパール判事はじめ戦後のアジアの首相たちはみなそういっている。


57. 2013年12月26日 23:53:23 : cM2X3GMjsQ
国家神道の諸問題はネトウヨ諸君が大好きなググれでおなじみのウィキで調べてみるのがまずは一興だろう。

国家神道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A5%9E%E9%81%93

俺個人の見解は、靖国に先の大戦の英霊の御霊が帰っていくなんて気休めで遺骨の入っていない骨壷を渡された遺族に堪えてくれと念押しするためのアリバイでしかない。
遺族の無念止むに止まれぬ、を理解せずに美辞麗句で国家的大失策を冒した指導者の責任を問わぬまま、不戦の誓いをしたところで所詮付け焼刃だろう。


58. 2013年12月26日 23:59:21 : IJE8VnZ6hw
靖国に行った事がある人間なら誰でも分かるが、
「不戦を誓う場所」としてふさわしい場所じゃないよね
「戦争で死んでいった祖先達を弔う場所」としての存在価値は否定しないけどね

59. 2013年12月27日 00:12:43 : rWn9PLlcps
武士道の武は戈(ほこ)を止めると書く表意文字である。

60. 2013年12月27日 00:23:57 : rWn9PLlcps
すなわち「世界中で決して戦争を起こさせない」と宣言したプーチンは、まさに大和民族古来の武士道を身に着けた、戈(ほこ)を止める「武士」である。

これが扶桑の島を万世万代にわたって治める言霊である。


61. 2013年12月27日 00:33:16 : MUT5DVOCFs
終りが見えた松井知事が支持したことで
死亡フラグがたったも同じ

62. 2013年12月27日 00:44:14 : rWn9PLlcps
戈(ほこ)を止める、すなわち戦争を止める者が地上に平和をもたらす。
世界唯一の戦争放棄すなわち戈(ほこ)を止める平和憲法である日本国憲法を、その最高法規99条に誠実に遵って擁護たまわりくださっておられる世界でただ独りの日本国の象徴今上陛下を、平和を守る武士であるプーチンが心から尊崇しないわけがなく、ゆえに12月23日プーチンロシア大統領が今上陛下へ祝電を奉って
「大統領は来るべき新年の挨拶を添え、心から天皇の健康と幸せを、そして日本の友好民にも幸せと繁栄を祈念した。

インターファックス通信

「ロシアの声」http://japanese.ruvr.ru/2013_12_23/126332088/
」のである。


63. 2013年12月27日 00:45:06 : vuQpagMXxI
>>52 「死にたくない」「水が飲みたい」「苦しい」「家に帰りたい」「家族に会いたい」って絶望の中で息絶えて行った人たち

これって、どこから引用してきたのかな。
アメリカの兵隊にはこういう手紙が多かったが、日本兵の手帳には、
救国とかもっと崇高な言葉が並んでいて、ドナルド・キーンは
死んだ日本兵の手帳に書いてあることを翻訳しているうちに、
この戦争は日本に勝って欲しいと思った、と書いているそうだよ。
こういう議論は心情的になっては駄目なのね。


64. 2013年12月27日 01:04:14 : 7Onnx32U7Q
日本人が靖国や伊勢に参拝するのは大いに賛成し、問題もあるわけもない。

しかし、あべはTPP推進しようとしてきたので売国奴である。
売国奴ならば売国奴らしくホワイトハウスにおじぎをしてくるべきである。
彼には靖国や伊勢のほうがお断りしたいほどである。

日本の伊勢の神様はお米の神様でもあるので売国奴がくるべきところではない。


65. 2013年12月27日 01:13:28 : rWn9PLlcps
この世を動かすのは人の心である。
日本国憲法こそが和の心すなわちにぎみたま和魂を明文化した言霊憲法であり、万世万代にわたって和を以って貴しとなしてきたおおいなる和の民族すなわち大和民族の大和魂が結晶した心の憲法なのである。
皇太子時代から一途に大和民族の心そのものである日本国憲法をお守り続けたまわった今上陛下が歴史上最高至高の仁徳聖賢菩薩天皇になりませられたことは、人間界の奇跡であるが、日本の国は大昔からそういう奇跡的な常民菩薩国であったことも世界史の厳然たる事実である。

66. 2013年12月27日 03:02:43 : AVCzW2K2rQ
>13様、24様、52様
同意致します。

靖国は一般戦没者と戦犯を一緒に祀っているのが間違いと思います。
戦犯は、一般人を前線に行かせて戦わせ、特攻隊と云うものを考え出し未来ある若者を殺し、戦争終わるまで自分たちだけのうのうと生き残った犯罪人ですからね。
一緒に祀るほうが失礼と思います。

戦争犯罪人は犯罪人らしいところ・・・山口県の田布施などいい・・へ。


67. 2013年12月27日 03:52:15 : LG0FUtT49g
51

神道じゃない人が神道で祀られるといやでしょ。
靖国は戦前は非宗教だったのが、戦後宗教法人に衣替え。
詐欺みたいなもんじゃん。


68. 2013年12月27日 04:07:03 : 7Onnx32U7Q
>>67. 2013年12月27日 03:52:15 : LG0FUtT49g
51
>>神道じゃない人が神道で祀られるといやでしょ。
靖国は戦前は非宗教だったのが、戦後宗教法人に衣替え。
詐欺みたいなもんじゃん。


日本人なら一度くらい宮司さんや和尚さんに話を聞いてみればどうかね。
あなたが外国人ならおしえてあげます。

ここに住んできた人は皆生まれたら日本国籍をもつのとおなじで氏子といって各地域の神社ではすべて自動的に日本の子とされているの。神社へいって祈れば自然に祈ると同時に先祖を敬うこととされているんです。

その人がどの宗教を信じようが基本の部分でそうなっている。かといってなにかの本を読ませたり金をくれともいうわけでもなく普通の宗教団体のようなお金をせびるようなこともないのが神社まいりだが金が絡まない点で大きく宗教団体ともことなる。

生きていくのに道徳が必要だということで生きていく心構えとして聖徳太子のときからは仏教も尊ばれ、先祖を尊ぶということで神社があって神棚がどの家にもある。江戸までは寺と神社が同居していたが家康があらわれて神様は俺ひとりでいいとして庶民が仏教で葬儀するようになった。本居宣長が現れ、吉田松蔭も現れ、神道が庶民に戻ってきたのが今も続いているわけだ。



69. 2013年12月27日 04:12:12 : LG0FUtT49g
51

創価学会員じゃないのが、学会の墓地に入れられると遺族は嫌でしょ。


70. 2013年12月27日 04:56:35 : AiChp2veWo
11のお方の、「いわゆる自衛権ですね。これは国連でもすべての国に認めている自然権であり、日本も持つ当然の権利です。」は、賛同同意です。大事な事は、戦争の多くは金銭と支配欲の為に起こされる、いわゆるやらせ戦争、やらされ戦争かどうか、を見破らなければならないという事ですね。例えば元寇の如く、一方的に戦いを仕掛けてきた。それに鎌倉幕府が応戦した。これは敵が明確で、「降りかかる火の粉は払わねばならない。」のように自衛戦争であります。また、その以前に外国周辺の状況をつぶさに見て常に国家のセキュリティー自衛防衛の観点から分析しつつ、前向きな防衛体制が必要でもある。これは当然の戦い自衛戦の事であります。これを第三者的国家が、あるいは当事者国家の商人らが、弓矢、刀、槍、食料を売りつける、時代が近代ならば相場を仕掛けファイナンスする、などが画策され起因して戦争に至るのかどうかを見極めなければならないのである。無体な乱暴狼藉対しては、これに勇猛果敢にて戦うのは当たり前の事である。然し、国情万事やむなく戦いに近づいてきたならば、また常日頃から、真の敵を知る、これが大事であります。真の敵は外から、また、内にも存在します。悠久2674年に至る、あるいは考古においても一万八千年に至るわが神国を護持することは当然のことだと考えます。

71. 2013年12月27日 08:16:36 : LG0FUtT49g
私は天皇が日本にとって必要な存在である と考えている。一つは三島由紀夫の「文化防衛論」 の様に文化の象徴として、もう一つは国体護持のた めの最終セーフティネットとして。

まずは、文化の象徴である。日本は文化国家であ る。日本文学の一つに和歌がある。和歌を取りまと めた和歌集の現存する最古なものは、7世紀後半か ら8世紀後半ころにかけて編まれた万葉集である。

その後、天皇や上皇の命により編纂された歌集、勅 撰和歌集が誕生したのである。古今和歌集(延喜5 年(905年)成立)に始ま り、新続古今和歌集 (永享11年(1439年)成立)までの534年間で21 の勅撰和歌集がある。天皇や上皇が編纂を命じると いうことは国家事業である。しかも、500年以上に 渡って歌集を編纂するというのは世界的に見ても、 極めて稀なのではないだろうか。

昔は、為政者が自らの権威を高めるために、歴史書 を編纂させるということはあったが、これは歌集で ある。政治的権威というよりは、純粋に和歌を愛で るということであろう。もっとも、平安時代には和 歌の能力が出世にも影響していたとのことなので、 単なる趣味ではなかったのだが、出世に和歌の能力 も必要だったということは、平安時代は文字通り文 化国家だったのだろう。

国のトップが歌集の編纂を命じたということは、日 本の文化にとっては極めて重要なことである。なぜ ならば、人間は言葉によってもの事を考えるのであ る。日本では、その言葉が勅撰和歌集によって洗練 されて来たのである。

私は日本語は美しいと思う。人と人との距離感を推 し量るための丁寧語、尊敬語、謙譲語もある。ま た、文字が意味においていく通りにも読める。同じ 事を書くのであっても漢字にするか、平仮名にする かによってもニュアンスが異なることもある。ま た、音読み、訓読み。何しろ音が綺麗である。安倍 晋三が、よく「美しい瑞穂の国日本」と言うが、そ れを「美しい水田の国日本」としたら、「瑞穂」か ら思い描く美しいさが生まれてくるだろうか。

勅撰和歌集の時期を見ると面白いのは、平安時代か ら室町時代までである。つまり、天皇がまだ実際の 政治に影響力があった時代である。鎌倉時代以後は 武家社会になっていったのであるが、それでも 1573年(元亀4年/天正元年)に織田信長によっ て京都から追放されるまでは、朝廷は実権を奪い返 したこともあった。例えば、鎌倉幕府滅亡後の後醍 醐天皇による建武の新政である。あるいは、後鳥羽 上皇は、承久の乱を起こしたが幕府のに完敗し隠岐 島に流されるなど、この時期は天皇と武士との対立 があり、次第に天皇は実権から離れ、権威へと落ち 着く過程でもあった。

そして、室町後期、1493年明応の政変が発生し、 それ以降戦国時代になるのだが、天皇は完全に実権 から離れて権威となるのであった。勅撰和歌集の最 後は1439年の新続古今和歌集であるので、まさに 天皇が実権を失った頃に勅撰和歌集の歴史も終わる のである。

国家の構成要素は、政治、経済、軍事、宗教、文化 である。ただ、この中で政治、経済、軍事はどの国 でも共通してあるが、宗教、文化は全ての国に必ず しも存在するとは限らないのである。たとえば、宗 教であるが、イスラム教国においては、世俗法の上 にクルアーンがあるのだが、戦後、政治と宗教を切 り離した日本においては、宗教は希薄なものになっ た。社会主義国においては宗教は阿片であると禁止 したこともあった。

また、文化においても、全く文化を持たない国は存 在しないが、それでも、必ずしも全ての国の文化が 世界に認められて入るとは限らない。価値ある文化 とは、洗練されたオリジナリティが長い年月を掛け て培って来たものではないだろうか。

天皇が名実共に実権と権威を持っていた平安時代ま では、日本は政治、経済、文化が重要な要素の国で あったであろう。だから、出世にも和歌の能力が影 響したのである。

それが、平家の力が増して来ることにより、段々と 武士=軍事の力が増して来て、戦国時代になり完全 に文化と軍事が逆転したのである。そして織田信長 から豊臣秀吉の時代は、政治、経済、軍事であった が、それでも織田信長からは千利休などの新たな文 化が誕生し、それが江戸時代になると、町民文化が 花を咲き、再び政治、経済、文化の国になったので ある。

江戸期が町民文化であった基盤としては、世界に比 類なき高い識字率があるだろう。江戸時代、寺子屋 は全国に16500あったとされ、村々に一軒づつあっ たと言われているのである。

そして、江戸の識字率は70%を超えていたと言わ れている。一方で同時期のロンドンの識字率は 20%、 パリの識字率は10%未満。 全国平均でも幕 末の頃の日本の識字率は、男性50%ぐらい、女性 20%ぐらいと言われているのである。文化には言 葉が基本である。書き言葉が当時、おそらく世界一 普及していた日本は文化国家としての基盤は既に確 立していたのだろう。

その後、明治になると天皇を完全に政治利用し、ま た、神道も国家神道として国民統合に利用したので ある。石原慎太郎や、安倍晋三や、大方の右翼は、 明治から先の大戦までの天皇観を天皇だと思ってい るみたいだが、あれは、日本を欧米の植民地から守 るために、日本を近代化させようと、ヨーロッパの 王制を真似たものである。それも、日本の国体を護 持するためには必要だとは思うが、長い日本の歴史 の中では極めて特殊な天皇観である。

明治になり、政府は欧米列強に伍 するために、天皇をヨーロッパの王の様にして立憲 君主制にしたが、さらに宗教的権威を付けるために 国家神道を発明したというこだ。だから、ここで言うところの国家神道は、昔ながら のかんながらの道ではなく、明治政府によるところのつい最近の苔がむす時間もない人造物。

明治政府は神道を非宗教として位置付け、「国家の 宗祀」とおおよそ訳の分からない物にしてしまった ということ。これが政府当局の見解であった。行政上も1900年(明治33年)に内務省社寺局から 「神社局」と「宗教局」に分離され、その後宗教 局は文部省に移管するなど、神道とその他諸宗教は 明確に区分されて宗教であるようで、宗教ではなく 国家行政ということだから、キリスト教何かとは位 相が違う。


三島由紀夫の「文化防衛論」に、天皇は日本文化の 象徴である。だから、守らねばならない旨のことが 書かれていた。中学の時にそれを読んで、天皇の存 在が分かった気がした。天皇は単なる支配者でもな ければ、王でもないのである。日本文化の象徴であ る。私は日本文化を突き詰めると、それは日本語だ と思う。天皇が500年以上に渡って勅撰和歌集の編 纂を命じたことにより日本語が洗練され、まさに、 天皇は日本文化の象徴ということになるのである。 なぜ象徴か、象徴とは、私たち一人ひとりが生み出 す文化の最大公約数であり、象徴である天皇の中 に、私たちの文化が息ずいているのである。

戦後、天皇は人間宣言をした。天皇は神事に当たら れているが、天皇が現人神だなどとかつての人は 思っていたのだろうか。それは、大日本帝国憲法第 3条 において「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と 定めるように、神格化された天皇を、国民統合の精 神的中核とした国家体制の形成という、極めていび つな天皇観である。古来天皇は私たちの国民と共に あったのである。

天皇の勅撰和歌集は千数百年経って復活している。 それは、国民広くに募っている、正月の歌会始であ る。あれも一つの勅撰和歌集である。これこそが、 本来の天皇と国民とのあるべき姿だと思う。勅撰和 歌集ではないが、万葉集においては、天皇も、防人 も、詠み人知らずも、同列に扱われていたのであ る。

日本は戦後、全ての資源を経済に集中してきた。そ れにより、敗戦から奇跡の復興を遂げたのであっ た。だが、今、国民皆が経済の豊かさを享受出来な い時代にさしかかり、経済以外の価値観を求めてい る人も多いのではないだろうか。国は政治、経済、 軍事、宗教、文化によって構成されている。日本は 文化の象徴である天皇を戴いている国である。文化 国家としての行き方を考えても良いのではないだろ うか。

次に、国体の最終セーフティネットであるが、日本 は二千六百有余年、様々な政体、政権を変遷しなが らも、国体を引き継いで来ました。その間の違いを 捨象するならば、最後に残るものは天皇でありま す。それは、先ほどの日本の象徴は天皇であるとい うことに繋がるのですが、仮に天皇がなかりせば、 日本といういう存在が継続し得たかということであ ります。

たとえば、先の大戦、最終的には時の内閣も戦争続 行か、終戦かの判断が出来なくなり、なおかつ、政 府を打倒して政権を担う勢力も日本には存在しな かったのである。そこで、国を憂いた天皇が、謂わ ば超法規的措置として終戦の御聖断を下したので あった。

天皇の御聖断は決定的である。なん人も逆らうこと は出来ないものである。もし、天皇がいないとする ならば、日本を継続する政権が存在しないというこ とで、日本は連合国によって解体消滅させられてい たかも知れない。

天皇の政治利用は断固阻止しなければならないの は、天皇が政治に関わっていたとするならば、戦争 に負けた時に戦犯となる可能性があるからである。 天皇は普段は一切政治に関わらず、文化の象徴とし て日本を見守り、一朝にして国体の存亡の危機に於 いては、全ての国民を糾合させ、一体とさせ国体を 護持せしめんがための最終セーフティネットなので ある。そして、新たな政体が誕生したら、また、文 化の象徴としての存在に戻るのである。


72. 2013年12月27日 08:57:50 : cUqQ10tEi6
>>67、69
>神道じゃない人が神道で祀られるといやでしょ。

普通は思わんよ。ちなみに俺はどうでもいい。

>靖国は戦前は非宗教だったのが、戦後宗教法人に衣替え。詐欺みたいなもんじゃん。

例え詐欺だとしても、安いね(笑)。別にお前の生活に支障が出る訳でもないのに問題視するのがどーも納得しない。

>創価学会員じゃないのが、学会の墓地に入れられると遺族は嫌でしょ

何とも思わん人間の方が多いと思うよ。だって、例えばだよ、キリスト教徒でないのに、何で結婚式では教会で行っているの????そういうのが日本で多いよ。ほとんどの人は嫌がっていないじゃん(笑)。それが何で葬儀(?)の時だけ意地を張って否定するのかが俺には全く分からん。


何だ。靖国神社を問題視している人間ってワガママなんだ。自分勝手な事をして、本来なら問題にならなくて済む事を外交問題まで発展させているんだから。


73. 2013年12月27日 10:20:11 : rWn9PLlcps
天皇の歴史を見ても天皇や大王が血筋で選ばれているのではないことがよく判る。「人の価値は生まれや身分ではなく清らかな行いによって決まる(釈尊の言葉)」のとおり、神話時代国譲りの大国主命から数えてこの国の統治者としてふさわしい清らかな行いを示した権力者天皇大王は、仁徳天皇「民のかまど」聖徳太子「篤く三宝を敬え」聖武天皇「三宝の奴」明治天皇「5箇条のご誓文」だけである。逆にこんなにも多くの天皇大王権力者の「清らかな行い」が輩出された場所は日本だけであるが。

74. 2013年12月27日 10:22:48 : LG0FUtT49g
72

靖国参拝の問題の本線は01に書いといた。
靖国を戦前も宗教と勘違いしているのがいたから説明しただけ。


75. 2013年12月27日 10:31:37 : cUqQ10tEi6
>>74
>靖国を戦前も宗教と勘違いしているのがいたから説明しただけ。

だからさ、そんなの些細な事だって言っているでしょ???それを大袈裟に問題にする方がおかしいと言っている。俺から見れば、大した違いなんてない。


76. 2013年12月27日 11:01:46 : LG0FUtT49g
75

とにかく、安倍がアメリカを説得出来ればだ。中韓はどうでもいい。
出来なきゃ、安倍はTPPと集団的自衛権やったら引きずり下ろされるんじゃないかな。


77. 2013年12月27日 11:04:27 : LG0FUtT49g
75

些細なことだあ、じゃあ英霊だとか言うなよな。
「死んだら、靖国で会おう」とかもな。


78. 2013年12月27日 11:04:34 : 5DbXWjx2yU
72.普通は思わんよ。ちなみに俺はどうでもいい。>
本来なら問題にならなくて済む事を>バカ過ぎて話にならんよ。お前。
低能B層の典型だ。お前は「靖国に参拝しない奴は日本人じゃない。」などと、
本気で言うクソバカカルト信者の言いなりになる社会にしたいのか?
別にお前の生活に支障が出る訳でもないのに>靖国は大日本帝国と戦争を賛美する宗教だ。だから安倍は社会保障費を削減して、軍備費増大、
そのための大増税だ。支障でまくりなんだよ。本当にバカ過ぎるぞ。お前。
キリスト教徒でないのに、何で結婚式では教会で行っているの????そういうのが日本で多いよ。>靖国はオウムと同レベルのカルト教団、the cult of Yasukuniだ。キリスト教と一緒にするな。ある意味では、クソバカゴミネトウヨよりも、お前のような無知を恥じとも思わない低能B層の方がタチが悪い。

79. 2013年12月27日 11:31:37 : PCkPTu98Xw
靖国を戦争で亡くなったすべての人を祀ってはない。
西郷隆盛や戊辰戦争の会津の方は祀ってない。

靖国は長州へもって帰れ。


80. 2013年12月27日 12:12:01 : cUqQ10tEi6
>>76,77
>とにかく、安倍がアメリカを説得出来ればだ。中韓はどうでもいい。出来なきゃ、安倍はTPPと集団的自衛権やったら引きずり下ろされるんじゃないかな。

アメリカは中韓と違うからあまり関係ない。

>些細なことだあ、じゃあ英霊だとか言うなよな。「死んだら、靖国で会おう」とかもな。

逆に何で言っちゃいけない??????言っても問題ないと思うが?それに日本は言論の自由があるから、尚更だ。お前はまるで独裁者みたいに赤の他人まで制限するなんてね(笑)。

>>78
>本気で言うクソバカカルト信者の言いなりになる社会にしたいのか?

はて?靖国神社はカルトでもないんだけど???

>靖国は大日本帝国と戦争を賛美する宗教だ。

74さんが言うには、国家神道は宗教ではないと言っているが???

>だから安倍は社会保障費を削減して、軍備費増大、そのための大増税だ。支障でまくりなんだよ。

軍備費増大だからと言って戦争するとは限らんよ???何、言っているの????頭、大丈夫?税金???まあ、確かに痛い話だが、節約すればなんとかなるよ。

>靖国はオウムと同レベルのカルト教団、the cult of Yasukuniだ。キリスト教と一緒にするな

言っていることが意味不明。それに、俺のは例えの話だし、一緒でなくても大した違いなんてないだろ???

何、この人????靖国神社はただの神社だけど、政治どころか私生活に大きな影響を持つ力なんてない。ただの神社だ。いや、違うと言うならどうぞ詳しく説明してくれ。あ、後言っておくが、俺は右翼ではないよ(笑)。


81. 2013年12月27日 12:15:40 : cUqQ10tEi6
↑追加
>お前のような無知を恥じとも思わない低能B層の方がタチが悪い。

いやいや、たかが神社くらいで問題にする方がおかしい。靖国神社を問題視している人間は、自分勝手な事をして、本来なら問題にならなくて済む事を外交問題まで発展させているんだから(笑)。お前ら、たかが神社くらいで日本の未来を暗くさせるなよな(笑)。


82. 2013年12月27日 13:43:44 : rWn9PLlcps
靖国神社について語るには神道についてしらねばならない。

戦前俗に皇紀2600年と言い習わしていたが釈尊生誕が2500年前と言われていた頃なのでそれよりも100年古い歴史があると言いたかったのであろう。万世一系の天皇という「神話」を捏造したのは正に明治維新政府元勲江戸時代人別帳非人出身新平民伊藤博文と山県有朋であり、それまでは国として神仏習合した聖徳太子以来ずっと日本は仏教国であり神社には必ず神護寺という寺が併設されて寺僧のほうが宮司より上位におかれて仏法僧の三宝が日本の国中ですべての民衆によって篤く敬われてきていたのである。このため日本の民衆社会では江戸時代末まですべての人別も教育も寺で行われてきた。つまり日本では古来の神道は聖徳太子以来国教である仏教が貴ぶ仏法僧三宝の輩下に置かれていたのだ。全国に国分寺国分尼寺を建て総本山東大寺に大仏を鋳造した聖武天皇が詔して自らを「三宝の奴(やっこ)」として以来仏教が日本の国教で国是となった。
釈尊の霊鷲山講話に「七不衰法」がある。仏教は他の一神教と違い異教の神を否定せず受け入れる教えである。
「 1 しばしば会合し、よく集まる間は彼らは繁栄こそすれ、衰えることは決してない。
 2 一致和合して会合し決議しことを処理している間は衰えることはない。
 3 新しい制度を設けたり、前の制度を捨てたりせず、旧来の風習を守っている間は衰えることはない。
 4 年長者を尊敬し、その言うことを聞いている間は衰えることはない。
 5 婦女子を強制して言うことを聞かせるようなことをしない間は、衰えることはない。
6 各宗教の宗廟を尊敬し、昔からの仕来りの供物を怠らない間は衰えることはない。
7 宗教家達を尊敬し、よそから喜んで宗教家がそこを訪れ、そこにいる宗教家は喜んで留まっている間は衰えることはない。」転載元http://wandara.net/blog/blog.php?key=23867

聖徳太子以後の平安時代、中世を中略して明治維新新政府が5世紀以来の国教である仏教を「神仏分離令」で廃仏毀釈してそれまでずっと神道のうえに会った仏法僧の僧侶を追放して宮司神官を逆に国教の最上位に据えた。これは七不衰法の3.と6.を直接破る者で、明治維新政府の衰亡はこの廃仏毀釈の時に定まったと言えるでしょう。
なぜ伊藤博文は廃仏毀釈したか?それは自分が非人であったことが寺の人別帳にはっきりと記載されていたからです。
これが維新政府の「特定秘密」でした。これを仏教後と証拠隠滅するために神仏分離令を出し廃仏毀釈して全国の寺の宗旨人別帳を破棄させた。そしてうちたてたのが万世一系という虚偽の衣を着た明治神道というわけです。
つづく

[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

83. 2013年12月27日 14:19:05 : 7ShiVFnNWY

松井知事の発言。それはそうだが、

 安倍は言ってることとやってる事が違わないかい。

 不戦の誓いと言いながら、一方で戦争をしやすくしているぞ。

隣国同士が武力増強を競って、その果てに何がある?

疑念が疑念を呼ぶこの流れは、不戦とは逆方向ではないか?


84. 2013年12月27日 14:48:36 : LG0FUtT49g
ごくごく自然って、自然現象か。
これは外交問題であり、外交問題を自然現象にしか捉えられない政治家は国政に携わるな。

85. 2013年12月27日 14:51:23 : LG0FUtT49g
80

じゃあ、何で安倍は靖国にこだわるんだ?


86. 2013年12月27日 15:15:11 : rWn9PLlcps
つづき
そして靖国神社であるが、これは元々長州藩士(人別帳で武士階級である)高杉晋作が下関市の桜山に、師の吉田松陰と松下村塾の学友たちが安政の大獄以来幕府から加えられた弾圧との戦いの中で戦死した者たちをそれぞれの墓所(すなわち菩提寺。すべてに於いて神社(神道)より寺(仏教すなわち仏法僧)が上位であった時代であるゆえ)とは別に石碑を建て集めた招魂場(神社ではない)を作って高杉晋作個人として慰霊を行ったものが、高杉晋作の死後大村益次郎によって東京九段に同じ趣旨で招魂する対象を拡大して九段招魂場として建てられたのが、のちに靖国「神社」とされたのである。ゆえに日本の神社に絶対に必要な由来書(氏子)も神護寺(檀家)もない、古来日本新党の「神社」とは似て非なる者である。ゆえに靖国神社の国家神道などそもそも宗教ですらないし、国家神道など日本には古来伝わっていなかったのだ。国教国是は仏教なんだからね。

つづく


87. 2013年12月27日 16:48:38 : cUqQ10tEi6
>>80
>じゃあ、何で安倍は靖国にこだわるんだ?

他人の事をそんなに気にする理由は何???


88. 2013年12月27日 17:28:48 : sl3Oo0EgYo

    戦没兵士の霊に頭を下げたいのなら、兵士の墓所を尋ねて全国行脚しろ。靖国神社に戦没兵士の霊はいない。名前の書いた帳簿(御霊簿)があるだけだ。招魂の儀式を行なうと兵士の霊が靖国に来るといっているようだが。

    敗戦後29年、1974年ルバング島から帰国した小野田寛郎陸軍少尉は靖国神社に祭神としてまつられていた。その後、祭神から外された。帳簿から名前を消したのだろう。間違いの責任は日本政府にあると言っている。
     http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/yasukuni011.html

    とにかく、戦没兵士の霊に頭を下げたいのなら、兵士の墓所を尋ねて全国行脚しろ。


   


89. 2013年12月27日 17:36:20 : rWn9PLlcps
単なる私設招魂場にすぎない九段招魂場がなぜ明治天皇の詔勅一本で「靖国神社」となったのか?
なぜ西郷隆盛や榎本武揚や勝海舟や会津藩士や戊辰戦争の東北武士たちが祀られないのか?
これにも江戸時代の本籍戸籍台帳である寺の宗旨人別帳に書かれた当時の人の本当の身分が関係している。

明治新政府に参加した薩長他の倒幕派雄藩人材のうち薩摩も旧幕臣も土佐も肥後もみな宗旨人別帳で武士であった者ばかりだが、長州だけは伊藤博文と山県有朋が宗旨人別帳で武士でなく非人(伊藤博文)や商人以下(山県狂介)であった(桂小五郎は武士であったが凡庸な愚物であった)。彼らは日本古来の武士道の躾を受けていない不作法破廉恥な私利私欲の富貴名誉栄達を無理無体に求める餓鬼道欧米フリーメーソンの全身全霊手先であった(>長州ファイブ)。倒幕後の戊辰戦争で武士にあるまじき無慈悲無惨な殲滅戦で暴虐の限りを尽くして戦果を上げ維新政府樹立の功績第一等を自負する伊藤山県らは、明治天皇の教育係に就いた西郷隆盛と山岡鉄舟の日本古来武士道が理解できず、宗旨人別帳で武士でない自分たちがそのうちに新政府から排除されるのではないかと恐怖して、明治天皇を欺して靖国を神社にして廃仏毀釈し国家神道を作ることを承知させた。そして陰謀を巡らせ本来和韓論の西郷隆盛を征韓論に仕立てて追放し天皇の詔を偽造して政府軍を使って西郷を伐たせたので有る。

伊藤博文はかつて戦国時代フリーメーソンイエズス会と結託して仏教徒国民善男善女を殺し多くの寺を破壊した織田信長を超えた日本全国の寺院を破壊した仏敵国賊大悪魔であった。

伊藤がこの武士道西郷を謀殺した本当の目的「自分の出身が武士でなく非人で有ること」を隠すために、陽動作戦で明治天皇へ大村益次郎の招魂場を神社にして倒幕の正当性を天皇に保障させる一方、倒幕で働いた自分の数々の武士道にあるまじき残虐非道行為を靖国神社という粉飾で隠蔽して、仏教徒国民からの国賊仏敵悪魔としての断罪を封じ込めようとしたのです。この伊藤の心は神道で言う穢れそのものであり仏陀が戒める身を滅ぼす煩悩そのものです。
(余談ですが穢れ多き者をエタと神代の昔から日本では呼び習わしてきました。江戸時代の宗旨人別帳では非人とエタは異なる人別でした。大室寅之佑は人別ではエタです。公家もそうですね。)

このように国家神道などどこにも存在せず、靖国神社は依り代の墳墓もなければご神体もない日本古来神社神道に全く無縁で何の関わりも持たない、ただ長州藩武士吉田松陰の言う武士道大和魂の招魂場なのです。

[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

90. 2013年12月27日 18:03:07 : F46axFZ79Q
ここで靖国に対する、いろいろな方のコメントを読んでいると靖国神社=神道の名を借りた新興宗教の施設という気がしました。

A級戦犯で靖国に合祀されている広田弘毅元首相の遺族の方がこんなコメントをされています。


「広田家が1978年(昭和53年)の合祀に同意した覚えはない」、「私が合祀を聞いた時にはびっくりした。そんなはずはないと、間違えて祀ったと」、「靖国神社は確信犯としてやったのでしょうね。勝手に祀られたというか、びっくりしたということに加えて言うとすれば、不快感まで言っていいのかわからないが決して喜んではいないし、できれば取り消して欲しい」、「家族としては英霊として祀られることを希望しません。特に靖国神社に。英霊だとみなして頂くことが、うれしいことではない。靖国神社というものはお国のために戦死した兵隊とか軍人とか、そういう方を祀るためにできた神社であって、軍人でもなければ戦死者でもない広田弘毅が靖国神社に祀られる資格さえない。私どもから希望したりお願いしたことはありません。神社の方から同意を求めるということもありませんでした」、「祖父は軍人でも戦没者でもなかったので靖国神社と広田家はそもそも縁がない。また、首相であったので何らかの責任はある」という見解を述べている。

ただし、靖国神社では「合祀に際して遺族の同意は必要としない」としている。

ご本人、ご遺族の同意や意思は必要なしということは「勝手に」靖国が確信犯的に合祀するような施設だということなんですね。そんなところに国の元首が参拝して平和や不戦を誓うというのは、やはりおかしなことなんだと確信しました。

靖国はお国のためと言って亡くなった方、そしてその遺族の方の意思や思いを踏みにじる行為をしているんですね。

ご本人(戦死してしまってそのご意思を確認はできませんが)やご遺族の意向が最大限、尊重されるべきことだと思うんですよ、合祀するっていうことは。

それを蔑ろにするって、靖国って神の道に外れる行為をしているんじゃないでしょうか?

元々は神社という宗教的施設ではなく、長州のための施設だったという経緯を考えれば、安倍が靖国ごと自分の選挙区の山口に持って帰って、そこで山口県出身者の軍人なり維新の人物を祀って「英霊」にする宗教施設を作ればいいと思いました。

「靖国で会おう」の合言葉を無理やり言わされた特攻隊の隊員の皆さんの無念さが改めて伝わってきます。

戦争したい人が長州に国を作って、勝手に戦争すればいいのにと思います。

私は戦争なんて絶対に嫌だし、万一戦争に行かされ戦死しても靖国なんて真っ平です。

もっとも私なんて戦死しても、無名戦士にしかなれないと思いますけど。



91. 2013年12月27日 18:39:32 : QBrYpzDGwo
  皆共に合祀して不戦を誓う?
  どう考えたって、立場が違うだろう。
  一方は絶大な命令権限を持っていた参謀本部。
  一方は、参謀の命令にただ従って、行けと言われた所に行き、自決しろと言われたら死ぬ。一切の抵抗、反論は出来ない一兵卒。
  参謀本部は常に駐屯地にいて食糧にも不自由しなかった。それを横目で見ながら、「食糧は現地調達(!)」との命令を受け、原住民の畑のジャガイモを盗み食いし、住民に追われ、最後には「反日分子」と断定し、虐殺せざるを得なかった。
  現代で言えば、ブラック企業の経営者と、その下で働く社員の構図に他ならない。企業を上手くマネージ出来ずに、問題企業となってしまったら、どう考えてもその責任はひとえに経営陣にあることは明白ではないか。
  何はともあれ、敗戦と、幾多の死ななくても良い兵隊を失ったのだ。サッカーで言えば、負けは監督責任だ。いくらジャッジがおかしいと批判したところで、誰の目にも点数が入らなかったのは明らかだ。
  「この戦争は無謀だ」という声は以前からあったのに、強引に進軍させたのは監督ならぬ参謀のディレクションによるところであり、命令を受ける以外にない立場の兵卒とは全く責任が違うだろう。
  不祥事を起こした企業は公衆の前で一応は頭を下げている。ましてや、「社員と私達経営陣は共に責任があります。一緒に不祥事を起こさないよう、誓いましょう」などとはさすがに言っていない。
  先の戦争における経営的立場にあった参謀とそれに連なる統治機構の人間は、国民の前で形だけでも謝ることもせず、「責任は全員にあります。皆で不戦を誓いましょう」などとのたまっている。
  「決められる政治」も良いが、決められない立場の人間にまでいざとなればその責任を被せて構わない、という意識が、靖国参拝を歓迎する議員や官僚に共通している。その無責任感覚には、国内外共に恐怖せざるを得ないのだ。

92. 2013年12月27日 18:41:17 : 99RuMirqCI
阿部さん、そんなに参拝したかったら、中国や韓国にばれないように、着ぐるみして行けば良かったのに。ふなっしーとか、クマもんの格好でさ。

または、靖国神社をキリスト教会にカモフラージュしちゃったらどうかな。
外側を白い教会みたくして、キリスト教だよん、といえば、中国も韓国も文句はいえないだろう。取材に来たら、アーメンというのだ。

で、神主さんは、神父の格好をして、ノリとは賛美歌に編曲する。

そもそも、世界中で人権として信教の自由があるのに、中国韓国アメリカは内政干渉するなって、菅官房長官も声明を出すべきだよね。

イルカや鯨を食うな、ていうのなら、お前らも牛や豚を食うなって言い返せない日本人て弱すぎだよね。

靖国の英霊も草場の蔭で泣いているよ。

ちなみに、私の叔父は特攻隊だった。昭和二年生まれ。
10代の時に志願して予科練航空予備学校に入ったそうだ。
かなりレベルの高い勉強、今の高校よりも難解な英語、数学、航空学、
柔道剣道空手など学び、
飛行機にも乗り、何度も宙返りができるようになった。

しかし、いよいよ特攻に行くとなって、習志野から北海道に移転命令、
北海道に行って出発という日に終戦になり、命が助かったそうだ。

叔父に特攻を希望した動機を聞けば、地方でもB29がバンバン攻撃してきて
いちいち防空壕に逃げ込んで這いつくばり、モグラのように逃げ回って死ぬくらいなら、
敵にぶつかって死のうと思ったからだそうだ。
なるほどね。
そうやって、何万人という優秀な青少年が死んで日本人の平均偏差値は下がった。
今頃優秀な英霊たちは靖国神社でクラス会でも
やってるんじゃないかな。
ちなみに、宗教を抜いた鎮魂の施設って、魂が抜けてるんじゃないか、と思う。
なんといっても、日本は古代から神道の国だからね。
だから、靖国神社に参拝する人には御利益があり、否定する人や国には天罰が当たるんじゃないかと懸念する。


93. 2013年12月27日 19:22:27 : a7pthXcRpQ
天皇家に否定されてる時点で神道施設としての正統性ないよな

94. 2013年12月27日 22:04:24 : GdXK8na9Tk
>>63. 2013年12月27日 00:45:06 : vuQpagMXxI
>>52 「死にたくない」「水が飲みたい」「苦しい」「家に帰りたい」「家族に会いたい」って絶望の中で息絶えて行った人たち
これって、どこから引用してきたのかな。
アメリカの兵隊にはこういう手紙が多かったが、日本兵の手帳には、
救国とかもっと崇高な言葉が並んでいて、ドナルド・キーンは
死んだ日本兵の手帳に書いてあることを翻訳しているうちに、
この戦争は日本に勝って欲しいと思った、と書いているそうだよ。
。。。。。。。。。。。。

どっからも引用なんてしてないよ。喉が乾いたら誰だって「水が飲みたい」、病気になったら「苦しい」、赤紙ひとつで戦地に強制連行されたら「家族に会いたい」って思うでしょうに。
「日本兵の手帳」ってばっかじゃないの?
いったい0,000何パーセントの日本兵が手帳残す余裕あったの?
手帳どころか遺骨も帰ってこなかった人が多かったのに。
手紙は検閲受けてたし。本音書いたら届かないでしょ。
想像力働かせろよ!!
戦争に行ったのはフツーの人だよ。
みんなお国のために喜んで死んでいったとでも言いたいの?
これからも日本国民にはその精神でいけってか???


95. 2013年12月27日 22:19:58 : sl3Oo0EgYo

    安倍よ。海外に置き去りにされた戦没兵士の遺骨が泣いてるぞ。

    かれらの遺骨を放置してきたことこそ、「痛恨の極み」と言うべきではないのか。
     http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38512


    


96. 2013年12月27日 22:30:32 : rWn9PLlcps
さて日本の国教が聖徳太子以来仏教であることを歴史的事績という事実によって証明しましょう。
聖徳太子の事績は有名な「日いずる国の天子書を日没する国の天子にいたす。つつがなきや」です。聖徳太子は自ら天子と名乗り、日本の大王天皇であることを大国隋の皇帝煬帝に告知しています。そして隋の答礼使ハイセイセイが日本の都を訪れたとき「隋は仏法僧に帰依する国と聞いています。私も仏法僧に帰依しており貴国のように広大な国をいかなる仏法の方便で治めておられるのかその智慧に学びたいと思って国書を送りました」と煬帝への伝言を託したのです。
また聖徳大王タリシヒコは国事行為として仏典「維摩経、ショウマンキョウ、華厳経」の三経を解釈講義しました。聖徳太子は伊予の道後温泉で自然の恵みである温泉がすべての生物に惜しみなくあふれ出て恩恵をもたらすのを見て正覚(仏教で言う悟り)を得て「世間虚仮唯佛是真」と釈尊の教えに帰依する仏弟子となったことを宣言したのです。
そして戦に明け暮れる現世を自分が統治する日本国から仏法僧の三宝に帰依して得られる佛智によって正そうと和を以って貴しとなす十七条(三宝帰依)憲法を定めたのです。

その後「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草蒸す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」で有名な大伴家持が忠誠をささげた聖武天皇が自らを「三宝の奴(やっこ)」と詔勅して日本全国に国分寺国分尼寺を建立し東大寺大仏を総本山本尊とする佛国日本を確立したのです。大伴家持のあの歌は大仏の全面に貼る黄金を得るために陸奥へ金鉱脈を探しに行った大伴家持が苦難の末に金を掘り当てて聖武天皇の念願をかなえることができた忠臣としての心からの喜びを謳いあげたものなのです。

つづく


97. 2013年12月27日 23:33:50 : WzX8nPCmYM
不戦を誓うのに靖国神社に行く馬鹿者が日本の総理大臣でいいのかという問題だ。

これで現総理は名目上は日本の最高権力者の地位にあるが、その座を放棄したも同然である。

安倍総理がニュースのぶら下がりインタビューでやり残したことがあると明言していたことは靖国参拝ということだったんだろ。

今や日本では靖国に行って参拝する人間より、行かないで国を憂う国民の方が圧倒的に多数派である。靖国カルトなどより愛国心が強いだろう。

愚かな安倍総理よ、日本を取り戻すとは一体いつの時代に逆進させることの意味だったのか。大規模金融緩和のアベノミスを自慢したいなら、せめて竹槍くらい買えるていどの経済波及効果を示せばいいだろ。世襲の恥めが。


98. 2013年12月27日 23:44:11 : bqMFDcBvyw
安倍さんはA級戦犯が合祀されていなければ参拝しないのだと思う、つまり自分の爺さんも一員だった無能な指導部の敗戦責任を否定したいのだろう。

99. 2013年12月27日 23:47:23 : dqj0JFJxKw
橋下もそうだが、松井も駄目なヤツだったってことか。

維新の会はもう役割を終えたな。解散すべき。(みんなの党:渡辺も同じ)


100. 2013年12月28日 00:21:50 : vuQpagMXxI
>>94「日本兵の手帳」ってばっかじゃないの?
いったい0,000何パーセントの日本兵が手帳残す余裕あったの?

あのね、日本軍兵隊は皆、軍隊手帳を持っていたのよね。
それに所属歴が書いてあって、軍隊の身分証明書だったわけ。

ドナルド・キーンは情報将校兼通訳として太平洋戦争に参加していたのね。
それで、捕虜から聞き取り調査したり、遺体から見つかった手紙や手帳に
書いてあることを翻訳したのね。
ドナルド・キーンは知っているでしょ。

応召するとき、皆、家族と水杯を交わして行ったわけだね。
私の親父もそうだったらしい。
その時、一度今生の別れをしているわけだね。
その場面を考えると、胸が詰まるね。
そりゃあ、「苦しい」「水が飲みたい」とは思ったんだろうね。


101. 2013年12月28日 01:55:45 : GdXK8na9Tk
>>100

だ・か・ら

その日本兵士の手帳ってどれだけ出てきたの?
遺骨さえ帰ってこなかった兵士たち全体のどれだけの人が手帳を残してそれが公になってるのかって言ってるんだよ。
フツーの日本人がそんなに立派なのなら今後徴兵されたらみんな手帳に立派な文言残すんだろうね。想像できないけど?

そりゃあ別れの盃は交わしただろうよ。生きて帰れる可能性が低い上に逃げる余地もないからね。
そうそう、昔伯父に聞いた話。
彼は戻ってきた。剣道6段で胆力があったから。
フツーの人は銃撃戦になった時、恐怖のために飛び出して弾に当たって死んでいったんだってさ。かくれんぼの小さい子供が見つかりそうになった時、見つかるのが怖くて自分から出てくるのと同じだよ。フツーの人は恐怖心と辛さと苦しさの中で死んでいったんだ。寒いと暖房、暑いとクーラーをすぐつけるほどこらえ性のないのがフツーの人だよ。腹も減るしね。想像力のない奴は美談にはまるww


102. 2013年12月28日 10:18:01 : AiChp2veWo
63さん、少し泣けた。有り難う。日本人だね。

103. 2013年12月28日 12:04:20 : GdXK8na9Tk
>>102

日本人って何?日本人である前に一人の人間だろ?
日本に生まれてよかったって思える国かな?日本は。今も戦時中も。
個人として人間としての誇りを見いだせず日本人であることに自らの誇りを頼る。
そういう哲学のない奴が多いよね。


104. 2013年12月28日 22:24:35 : ImOQE0Zm5I
>68、73
もっともらしくお書きになっているのでついそうかと思いますがちょっとづつ外れているところがあるような気がするのですが。作文なしで正確に書いていただく事を希望します。

105. 2013年12月29日 01:21:34 : vuQpagMXxI
104さんへ

少し探して見たのですが、とりあえず見つかったもので、
ヘンリー・S・ストークス「英国人記者が見た連合国史観の虚妄」
祥伝社新書のpp.212-213 に関係する記述があります。
その一部を抄出すると、

 日本兵の遺体から奪った日記や、手紙を訳した。
 それらの手紙や日記は血まみれで、異臭を放っていた。
 腐敗した遺体から奪ったものだ。

 キーンは、それらから日本人の気高さに、打たれた。
 著書「日本との出会い」の中で、述懐している。

 「ガダルカナルを餓島と呼んだ日本軍の兵士たちの堪えた困苦は、
 圧倒的な感動を呼び起こした。
 アメリカ軍の兵士の手紙には何の理想もなく、ただ元の生活に
 もどりたいとだけ書かれていた。」

 「大義のために滅私奉公する日本人と、帰郷以外のことには
 まったく関心を持たない大部分のアメリカ人。
 そして結局、日本人こそ勝利に値するのではないかと信じるようになった。」

のようになります。
他でも読んだような気がするのですが、とりあえず、この程度で
ご勘弁願います。


106. 2013年12月29日 02:18:02 : vuQpagMXxI
101さんへ

あなたの伯父さん、生きて帰れて良かったですね。

日本兵士の手帳は、内容だけがアメリカに記録として残っているだけだと思います。
公文書館などに保管されているのではないでしょうか。
興味があれば、一度ドナルド・キーンの「日本との出会い」を
読まれたらいかがでしょうか。
私は読んでいないので、どれほど具体的な記述があるのかわかりませんが。

戦争から生きて帰った人はあまり話したがらないのね。
私の叔父は赤城に乗り込んでいたということだったが、運良く助かって
生きて帰って来れた。
しかし、少なくとも私は、叔父が戦争の話をしているのを聞いたことがない。

陸軍では、万歳攻撃をしたというのは何かで読んだことがあるが、
生きて帰ってきた人とアメリカ軍の証言が元で、
本当のところは皆死んでしまったので、わからないのね。
だから、あなたの伯父さんのようなケースもあれば、
勇敢な人から先に死んでいったというケースもあると思うよ。

戦死するよりも初年兵いじめのほうが耐え難かったという話もあるし、
(私の義父は陸士卒少尉で、直接聞いた話では、朝鮮人兵士が
陰で初年兵いじめがをするので、その見張りに大分神経を使ったと
話してましたね。ついでに、彼らは8月15日の武装解除の後、
酒保の食品、酒類全部かっさらっていったと話してましたね。)
まあ、聞くのもつらい話がいろいろあったんですよ。


107. 2013年12月29日 10:45:33 : rWn9PLlcps
仏教は宗教ではなく宇宙の真理ですからいかなる一神教カルトも宇宙の真理を壊すことはできません。一神教多神教のすべての神もまた必ず死ぬものであります。宇宙の真理は因果応報生者必滅諸行無常ですから。この輪廻を脱するには慈悲菩薩行の生を500回転生して生き抜く道しかないと釈尊は2600年前に大慈悲をもってすべての生あるものへ教え諭し示されたもうたのです。釈尊が人天の師と称えられる由縁です(人とは人間界、天とは天界すなわち神の世界。キリスト教ユダヤ教イスラム教ミトラ教ゾロアスタ教ヒンズー教すべての一神教でいう天国や日本で聖武天皇以降宗派化された排外仏教(釈尊は異教を排外しないで遍く宇宙の真理を教えたのですから三宝に帰依する佛弟子は他宗教も他宗派も攻撃することはありません)のいう極楽浄土もこれに含まれます)

聖徳太子が神仏習合して仏法僧の三宝に帰依し「世間虚仮唯佛是真」とみずからが大王天皇として治める日出づる国を釈尊が示された宇宙の真理に帰依する佛国土にする不退転の菩薩の誓願をお立てになりました。
これによって日本は宇宙の真理に帰依する人天界唯一の菩薩常民国となったのです。

天皇が仏弟子であるという伝統は聖徳太子の正覚(悟り)によって始まりました。すなわち皇紀2700年皇国日本は仏法僧の三宝に帰依する慈悲道徳菩薩国そのものなのです。


108. 2013年12月29日 11:05:26 : rWn9PLlcps
天皇が仏弟子であるという伝統は聖徳太子の伊予道後温泉での正覚(悟り)によって始まり、聖武天皇が大詔して「朕は三宝の奴(やっこ:忠実に心身ともにささげて三宝にお仕えする、の意)である」と日本全国に国分寺国分尼寺を建立し奈良の都に日本国のみならず宇宙全土へ釈尊の大慈悲を遍く垂れたもうびる遮那佛の大仏を鋳造して東大寺という釈尊生誕地の東方に位置する大きな仏弟子のサンガすなわちお寺を建立したことで、日本こそが末法の世に佛弟子菩薩常民の手で打ち立てられた佛国土であることが地球の歴史に刻まれました。

109. 2013年12月29日 12:47:24 : ImOQE0Zm5I
>105
68さんとあなたのご関係は。68さんのコメントはもっともらしいのですがどれも疑問符がついたお答えなので聞いたのです。
神社に行くのは自然に祈りをささげ先祖を敬うためでしょうか。
お金を取るかとらないかで神社と他教を区別するのもおかしい。
仏教はいきてゆくこころがまえをおしえているものでしょうか。
先祖を尊ぶためにどの家でも神棚をまっつているでしょうか。
江戸以前は寺と神社が同居していたでしょうか。
家康が自分は神だと言ったと聞いた事がありません。それから仏教が葬儀をするようになったとも聞きません。本居宣長や吉田松陰は何の事かわかりません。

110. 2013年12月29日 13:19:44 : ImOQE0Zm5I
>107
仏教は以下何の事か分かりません。お釈迦さまがそんな事を教えられたのでしょうか。経典にも解説書にも書いてないように思いますのでこれはあなたの作文ではないですか。
聖徳太子が神仏習合されたのですか。仏法僧の3宝があるのですか。聖徳太子が大王天皇になられたのですか。聖徳太子が日本を仏国土にすると言われたのですか。
菩薩の誓願とは何の事ですか。菩薩常民国とは何の事ですか。
天皇がいつから仏弟子になられたのですか。日本の起源が2700年として聖徳太子は600年ごろの方ですのでおよそ1300年間は日本はいかがだったのですか。それこそブッダは紀元前6,7世紀の方と言われていますのでその辺の事を良くご説明いただかないと何が何だか分かりません。
奈良時代にすでに末法思想があったのですか。遮那仏とは変な仏さんですね。たぶん大仏さんは毘櫨舎那仏だと思います。そして日本人全員が観音様だったのでしょうか。本当に分けの分からないお話ですね。こんな戯言はコメントされないのがよろしいかと思います。

111. 2013年12月29日 19:55:49 : rWn9PLlcps
聖武天皇の前に天武天皇も壬申の乱の前に出家して僧となり吉野の山へ隠棲しました。その後還俗したとはどの歴史書にも記載されてないから天武天皇も仏弟子だったというのが歴史的事実となります。聖徳太子以後は日本の政を行う大王天皇の国家統治を補佐するのは神道ではなく、人天の師釈尊が地上で説き示した仏法僧の三宝であったという事実が証明されました。

112. 2013年12月30日 11:05:37 : rWn9PLlcps
>>89のつづきです

>この金湯館に「伊藤博文を筆頭とするメンバー30人ほどで来訪し、当館にて明治憲法も草案されております。」とのことです。
>明治ロスチャイルド憲法が草案された宿
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201312/article_139.html

伊藤博文は忍者すなわち非人でした。武士ではありません。それは先祖代々の寺の宗旨人別帳に永代保存されていました。

明治新政府で雄藩出身者のうち武士でなかったものは伊藤博文と山県有朋だけです。暗殺や陰謀などの破壊工作謀略を専門とする忍者は武士道にもとる存在なので非人にこれを命じたのです。彼らは誰にも隔てなく大和魂を説いた吉田松陰の松下村塾同門長州藩士高杉晋作が創設した奇兵隊に入隊したことによって外見は武士の格好をしていましたが、宗旨人別帳は非人のままでした。明治新政府に参画したとき他藩出身者はすべて由緒正しい宗旨人別帳に記載された先祖代々の武士でしたが、伊藤と山県は武士道を知らない躾を受けていない代々非人の家に生まれた無慈悲無法な外道の殺人者だったのです。

武士に対して大きなコンプレックスを持つ伊藤と山県が維新政府でまずやったことは四民平等と断髪令廃刀令でした。しかし全国の寺に永代保管されている宗旨人別帳を見れば伊藤と山県だけが武士道無き無頼の下賎者が日本人が嫌う卑怯卑劣な下克上で成り上がったとバレてしまいます。伊藤と山県にとって宗旨人別帳が何が何でも消し去ってしまわねばならない秘密、ちょうど今の安倍総理が同じように必死で言う「特定秘密」だったのです。

しかし聖徳太子以来仏法僧の三宝に帰依する国となった(奈良時代以降国師とは常に神官ではなく僧侶でした)日本で寺院は政治と教育の中心でした。その寺に日本人は士農工商全員が檀家となって帰依していたので、「寺にある宗旨人別帳を破棄せよ」と新政府が命令すれば逆に非人である伊藤と山県が日本人士農工商民衆から誅求されます。

そこで非人のふたりが憲法をつくって天皇をキリスト教のごとき絶対神に定めて仏教を国境の地位から落としめて、江戸時代まで寺社法度で寺と僧の支配下に置かれていた神社宮司を新憲法で捏造した国家神道の長にまつりあげ、神仏分離令を出して全国の寺を官権力で廃仏毀釈すなわち破壊して廃寺追僧して寺の資財を宗旨人別帳ごと焼き捨てる、佛寺に対する神社のいわゆる卑劣な下克上を行ったのです。

これが一神教カルトイエズス会ザビエル以来綿々と続くフリーメーソンイルミナティ外道悪魔の下賎外道な入れ智慧に基づくことは明らかです。

長州藩吉田松陰高杉晋作は学問ある大和魂武士でしたが長州ファイブ伊藤博文は学問が無いので留学の実が挙がらず中途で帰国してイギリスのフリーメーソンスパイとして長州に戻って倒幕に加わったのですから。
吉田松陰も高杉晋作も久坂玄瑞も長州大和魂武士は皆倒幕を果たす前にやまとの野辺に身が朽ちましたので、新政府に参加した長州藩代表は非人でありフリーメーソンスパイである伊藤と山県の、大和魂無きユダ金スパイ、武士でない偽の日本人軍人すなわち戦争テロリストだけだったのです。

釈尊も人の価値は血筋や地位にかかわりなく清らかな行いによってのみ決まると仰っておられるが、人間は躾がすべてです。すずめ百まで踊り忘れず、ですよw

つまりムー大陸時代から江戸時代まで常に同時代地球最高の真善美道徳慈悲民衆菩薩国であった日本の劣化は明治維新で文明開化と称してフリーメーソンスパイ伊藤博文と山県有朋が政府高官に成りすまして国家神道という似非カルトを国教としてでっち上げた「廃仏毀釈」によって始まったということです。これが、宇宙の真理を教えたもうた仏陀が生まれた地球がある宇宙の歴史の真実です。


113. 2013年12月30日 18:25:20 : ImOQE0Zm5I
>112
あなたのゴタクは本投稿とどんな関係があるのですか。真相の道さんの投稿を話を変えて邪魔する事が目的なのですか。目的をはっきりしてください。独り言なら他で呟いてください。
さて長々と書いておられますが今回の文は釈尊の行を除けばあなたにしては上出来ですね。うそかほんとは別にしてスムースに読めます。ただ、全編仏教を中心に主張を展開されているようですが残念ながらあなたは仏教を全くご存知ない事が分かります。勉強をし直してコメントしてください。他の方に大迷惑ですしお釈迦様にも大変失礼です。

114. 2013年12月30日 22:11:41 : ijc3ekCrWo
上で軍隊手帳のことを云々している者がいるので言っておく。
軍隊手帳なんぞに、真意を書く兵士なぞいないであろう。
いつ上官に読まれるかわからないのだから。
いわば、ブラック企業の社員が、業務日誌に真意を書けないのと同じことだ。
また、手紙にも真意は書けなかったであろう。
手紙は検閲を受けていたからだ。
ドナルド・キーンは文学者としては立派だが、所詮は外国人。
日本人が昔も今も、どれほど巧みに建前と本音を使い分けるかということが実感としてわからないのだろう。

ということはだ、そのドナルド・キーンの話を鵜呑みにしている者もまた、国籍上は日本人かもしれないが、日本の社会の現実を知らないということだ。
中学生か、あるいは、大人になっても社会の中で働くことのできない精神の未熟な者か……。
まあ、断言はしないが。
しかし、また、安心するがよい。そんなごくつぶしにも生温かく接するのが、日本社会の美点でもある。
もっとも、限界も近づいている。
ごくつぶしを養うにはどうしたらいいか。
やはり戦争かな?
安倍首相や経団連の狙いは、ひょっとしたら、そこにあるかも? だ。


115. 2013年12月31日 08:13:15 : WzX8nPCmYM
>>108. 2013年12月29日 11:05:26 : rWn9PLlcps
>>109. 2013年12月29日 12:47:24 : ImOQE0Zm5I  

ここでは二氏のやり取りが面白いだろ。いずれの方も自信満々のようではないか。

特に>107. 2013年12月29日 10:45:33 : rWn9PLlcpsの意見は我見が強く表れている。

  >>仏教は宗教ではなく宇宙の真理ですからいかなる
    一神教カルトも宇宙の真理を壊すことはできません。>>

自分が言ったことの意味を果たして分かっているのだろうか。自分のインスピレーションを語ったところで、仏教論議をしたからといって菩薩の道を行ずることにはならない。仏教解釈において自論など持ち込む余地がないことぐらい認識するべきだ。既に全てが明らかになっている釈迦仏法について、その解釈が正しいのか間違っているのかだけが仏法論議の争点になっているのである。仏教が惑乱しているのは我見偏執がもたらした弊害の積み重ねであると知れ。

多くの人間がもっともらしく仏教を語るから実際に今でも仏教が惑乱しているのである。人間を枉惑(おうわく)した結果が邪宗各宗派が存在しているのである。この事実は法華経を誹謗したが故に釈然としない仏教解釈が存在することの証明なのである。

仏教の教主である釈尊はいい加減な仏教解釈を認めてはいない。唯我独尊とのたまい釈迦如来としての如何なる説法や教えに対して微塵の変更を許されなかったのである。故に乱れている仏教を正すことこそが仏果を得るということなのであり、我々が仏教を信ずるということなのである。

そこのところを弁えずに我見に固執するのは仏教の師に対して敵対するということであり、仏罰を蒙る原因になっているのである。自分の死後も現世に常住することが仏教の教えの真髄であると言えるだろ。

法華経を誹謗することなかれ。法華経を最第一として一切経を重んずればおのずと仏教の宗教としての偉大性も認識できれば、今の惑乱した仏教の現実が正しく理解できるようになる。


116. 2013年12月31日 08:30:15 : WzX8nPCmYM
日本史を学んだといえども、パッパラパーの丸暗記で受験戦争に合格を勝ち得た日本人が日本史を正しく理解していると言うことはできないだろ。パッパラパーは今では生きるに必死で食うためにしか働いてはいない有様だ。生活もままならない時世にあって普通よりマシであっても何の自慢にもならないだろ。

大きく日本史は変遷している。なかなか今の時代で平安文化など想像するのは難しいくらい昔過ぎてしまってはいるが、半島や大陸から仏教が伝来して日本文化が想像を絶する開花を遂げたのである。

それに僻んだ日本古来の神道系が天皇に対して逆賊となって日本を征服し、世界の発展から取り残される歴史を歩まざるを得なかったのである。日本の逆賊の歴史は実に幕府の誕生より現在に至るまで改める義がないまま続いていることを学ぶのが日本史を理解したということである。

このままパッパラパーがズラッとして日本の将来などと異口同音に主張しても日本の逆賊史に終焉を迎える儀がないならばいたずらに世間を乱すことしかできる訳がない。


117. 2013年12月31日 08:49:22 : WzX8nPCmYM
今どきの政治家などが国体の護持などとほざくのは恥知らずなことだ。

日本の逆賊が十世紀ほども日本を海外と遮断して国を治めて開国を迫られた挙句、今度は内戦の勝者が威張って天皇を担ぎ出して帝国までつくった。

世間では日本をつくった英雄として少し有名な人物を集めて宗教化する愚行が繰り広げられた。本当に日本人は単純な民族と誤解されやすい。その風土は仏教の邪宗邪儀が充満していたことにより培われた負の遺産と言うべきが相応しいだろう。

仏教邪宗各宗派の謗法を退治せよ、キビ団子あげるから。


118. 2013年12月31日 11:24:30 : ImOQE0Zm5I
>115,116
あなたは日蓮信者の方ですかそれとも創価の方ですか。それは別として原点に帰って仏教を学ぼうとのご意見には賛成です。平安時代までで日本の文化の花が咲いたと言うのも賛成です。ただ、その後はちょっと言い過ぎの感じがあります。言い換えれば武力が権威をないがしろにしてきたの方が良いのではないでしょうか。そして現在はお金が全てをないがしろにしています。
最近は多くの方が海外旅行をされていると思いますが、海外旅行をすると日本人はあなたの宗教はとどうして聞かれるか不思議に感じると思います。洗礼を受けている人は別ですがほとんどの方は仏教と書くと思います。ところがほとんどの方は仏教とは何かさえ全く知りません。どうしてかふと思ったのですが仏教は日本語で教えていないから知らないのだと気がつきました。お経を聞いてもほとんどの方は意味さえ分からないと思います。やはり仏教も誰でも分かるように日本語で教えるべきだと思います。
そんな事だから日本人はある意味無宗教であり、らしき話にころっと参ってしまいます。だから今日本国中にいろんならしき宗教がはびこっています。中には仏教とはかけ離れた意図を持ったらしきものも多くあるでしょう。そしてそれを信じた人は仏教とはかけ離れたその意図にハマってしまいます。それは仏教でなくても同じ事です。これが日本人を不幸にする一つの原因にもなっています。お金や政治に大きな影響を及ぼしている事も確かです。憲法で信教の自由を保障していますが現在のように分けの分からないものがはびこって来るとそうとも言えなく思えます。ここらあたりで少し考える必要があるのではないでしょうか。

119. 2013年12月31日 12:59:46 : WzX8nPCmYM
ここは少し腹を割って話す必要がありそうですね。

今の時代なら話し合いが対立して罵り合ったとしても手を出した方が悪いとなる。

暴力の禁止は常識です。仮に対立するいずれかの方が間違った主張するにもかかわらず、延々と対立が続いたらどういうことになるだろう。論理の是非を逸脱して感情に任せて対立を維持することも人間ならできるでしょう。

日本史で問題とされるべき点は武力で仏教興隆派の権力を倒し、従来の天皇の権力を奪った武士の勢力がいわゆる日本古来の神道を重視する立場を明確にして国を治めてきた史実の本質が明らかにされてもいなければ教育されている訳でもないということです。

武士が戦に勝って権力の座についても、神道と仏教では豊かな人間性が形成されるか否かでは雲泥の差が当然にして具現されます。当然にして日本神道は武力を崇めるようになり、勝者が好き勝手にし放題でも現実を肯定せざるを得ない世の中をもたらしてきたのです。

果たして武力の勝者が国を治めることがあってもいいのか、仏教を国教にして国を治めるのが良いのか。それを現代の人が歴史を学ぶときに教えられるべきだと思うのです。

肝心のところは教えられるどころか、自由の名で雑多な思想宗教論がそれぞれの大学などでバラバラに教育が施されても、一度それだけ単一宗派を学んで大人になった人間はなかなか思想や宗教の全体を見て判断する能力まではありません。習いたてのことだけ歳を重ねて信じ込むようになるだけであるのが現実でしょう。

仏教興隆派を武力で打ち負かした日本古来の神道系は派生を繰り返して日本神道や国家神道などと権力にとって好都合な宗教に作り変えられた歴史があります。調べるに事欠かない状況が阿修羅でも見れるという訳ですね。

生まれた一人一人全ての人間に等しく仏の因果があると教えているのが仏教ですから、日本が仏教をないがしろにしてきた結果が日本史であるという見方が必要です。それなのに種々の宗派が釈迦仏法に反逆して間違った教義を立てて開宗してきたが故に実に天皇さえ邪宗に誑かされた歴史を日本史から学ばなければならないと考えられます。


120. 2013年12月31日 18:11:49 : WzX8nPCmYM
しかし、現職総理が重要な政策を執行する最中において、意識的に神社を参拝する行為は一般に慣習と認識されうる宗教行為とは明らかに異なっているだろ。しかも、自民党は中曽根あたりから象徴的に挑発するかのような態度で平然として参拝するような厚かましさ丸出しではないか。

それ故に日本国内でも憲法に抵触するという判断が大勢を占めている現実は変わってはいない。政教一致の政治がなし崩し的に行われようとしている状況が厳に存在してる。

それこそ阿部総理は宗教に逃げたのか。自身の拠り所とする宗教が靖国神社であると宣言したのか。日本人は最高権力者であっても一般国民であっても宗教心が伴わずして宗教行為の儀式に参列して結局は周囲に誤解を招く愚かな失態をやらかす。

それを騒いだところで衆目を集めるほどに周囲に違和感を醸し出すだけのことしかできないだろ。しかも邪宗でのセレモニーに参拝するなど愚人の為せる業としか言いようがないのである。どのような悪しき政治をやるのかだけが今後は注目されていくだろう。


121. 2014年1月02日 00:54:42 : rWn9PLlcps
>>59つづき
武士道の「武」の文字は「戈を止める」と書く表意文字である。
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c59

一円融合のこのエントリーの最後に書かれたつぎの文章がまさに日本武士道を語り尽くしている。↓

・・・だが気づいた。戦争とは罪もない女性、子供を殺すことだ。自分にはそれはできない。
じゃあ、軍人にその責を押し付けるか?それは卑怯だ。出した答えが、丸腰でも精神
の高潔さで相手に刀を抜かせない、闘わずして勝つ、それが真の武士道だということ。

それはつまり、平和主義、戦争放棄の憲法前文と9条だった。

2013/12/07/Sat | 日本と日本人・・・
http://ichienyuugou.blog.fc2.com/blog-entry-927.html


◎大和魂武士中田厚仁「武士道とは死ぬことと見つけたり」

中田厚仁さんが命がけでカンボジアに実現した「手作りの公明正大な選挙」こそが日本国憲法前文にある「正当な選挙」である。
そして自分が死んでもほかの人々のために正義を教え示す菩薩の行いを貫き通すこと、これこそが大和魂武士道であり仏教徒である日本人が守り通す釈尊「八正道」の教えにしたがう真理(ダルマすなわち法)の行いである。

「 だけれども僕はやる・・・中田厚仁」
http://ichienyuugou.blog.fc2.com/blog-entry-988.html

 カンボジアで選挙監視員中田さんが担当していた、最も危険だったコンボトム州の投票率は99.99%です。考えられないような高投票率でした。選挙は大成功でした。

ねずさんの ひとりごと 2011年01月14日(以下略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


122. 2014年1月02日 01:03:20 : rWn9PLlcps
忠孝の大和魂武士道は佛天子が帰依する三宝に帰依する。

123. 2014年1月02日 01:17:42 : rWn9PLlcps
>>121つづき

あたらしい憲法のはなし 文部省
   1947(昭和22)年7月28日同日翻刻印刷
   1947(昭和22)年8月2日同日翻刷発行
   1947(昭和22)年8月2日文部省検査済
http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

・・・
三 國際平和主義

 國の中で、國民ぜんたいで、物事をきめてゆくことを、民主主義といいましたが、國民の意見は、人によってずいぶんちがっています。しかし、おゝぜいのほうの意見に、すなおにしたがってゆき、またそのおゝぜいのほうも、すくないほうの意見をよくきいてじぶんの意見をきめ、みんなが、なかよく國の仕事をやってゆくのでなければ、民主主義のやりかたは、なりたたないのです。

 これは、一つの國について申しましたが、國と國との間のことも同じことです。じぶんの國のことばかりを考え、じぶんの國のためばかりを考えて、ほかの國の立場を考えないでは、世界中の國が、なかよくしてゆくことはできません。世界中の國が、いくさをしないで、なかよくやってゆくことを、國際平和主義といいます。だから民主主義ということは、この國際平和主義と、たいへんふかい関係があるのです。こんどの憲法で民主主義のやりかたをきめたからには、またほかの國にたいしても國際平和主義でやってゆくということになるのは、あたりまえであります。この國際平和主義をわすれて、じぶんの國のことばかり考えていたので、とうとう戰爭をはじめてしまったのです。そこであたらしい憲法では、前文の中に、これからは、この國際平和主義でやってゆくということを、力強いことばで書いてあります。またこの考えが、あとでのべる戰爭の放棄、すなわち、これからは、いっさい、いくさはしないということをきめることになってゆくのであります。
・・・・・

六 戰爭の放棄

 みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。


 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。


124. 2014年1月02日 01:25:29 : rWn9PLlcps
>>123つづき
五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)とは、慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)に明治天皇(満15歳)が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ[編集]
(現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。

一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ[編集]
(現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。

一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス[編集]
(現代表記)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ[編集]
(現代表記)旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。

一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ[編集]
(現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。


125. 2014年1月02日 01:30:25 : rWn9PLlcps
>>124続き

聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87


126. 2014年1月02日 01:47:40 : rWn9PLlcps
>>125つづき

「日いずる国の天子」聖徳太子の詔勅事績「十七条憲法」
http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm


第一条
「原文」 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。

「読み下し」  一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

「現代語訳 」 一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

第二条
「原文」 二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。

「読み下し」 二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

「現代語訳」 二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

第三条
「原文」 三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。万氣得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。

「読み下し」 三に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。

「現代語訳」 三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。

第四条
「原文」 四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非齊。下無礼以必有罪。是以群臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。

「読み下し」 四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。

「現代語訳」 四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。

第五条
「原文」 五曰。絶餮棄欲。明辯訴訟。其百姓之訴。一日千事。一日尚尓。况乎累歳須治訟者。得利為常。見賄聴 。便有財之訟如石投水。乏者之訴似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。

「読み下し」 五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟(うったえ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て?(ことわり)を聴く。すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は則ち由(よ)る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く。

「現代語訳」 五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。

第六条
「原文」 六曰。懲悪勧善。古之良典。是以无匿人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。无仁於民。是大乱之本也。

「読み下し」 六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり。

「現代語訳」 六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。

第七条
「原文」 七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。 者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷勿危。故古聖王。為官以求人。為人不求官。

「読み下し」 七に曰わく、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲(けんてつ)官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、?者(かんじゃ)官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時(とき)に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因(よ)って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危(あや)うきことなし。故(ゆえ)に古(いにしえ)の聖王(せいおう)は、官のために人を求め、人のために官を求めず。

「現代語訳」 七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

(後略)


127. 2014年1月02日 02:14:26 : rWn9PLlcps
>>121つづき

釈尊「八正道」(転法輪経)

「修行僧たちよ。その中道とは何であるか。それは八つの部分からなりたつ聖(きよ)い道である。すなわち正しい見解、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想である」


「四聖諦(四つの聖なる真理)」

「修行僧たちよ。苦悩についての聖い真理というのは次のとおりである。すなわち、誕生は苦悩であり、老は苦悩であり、病は苦悩であり、死は苦悩である。憎らしいものに遇うことは苦悩であり、愛するものと別れることは苦悩であり、欲しいものが手にはいらないことは苦悩である。要するに人間的存在を構成するあらゆる物質的および精神的の要素は苦悩である」

以上のような生老病死を四苦といい、あとの分を加えて八苦といいます。日本でふつう「四苦八苦」という言い方の起原がこれです。


(以上、「新釈尊伝(旧字)」渡辺 照宏【著】昭和四十一年 大法輪閣発行 より抜粋)


128. 2014年1月02日 04:37:58 : rWn9PLlcps
>>112つまりムー大陸時代から江戸時代まで常に同時代地球最高の真善美道徳慈悲民衆菩薩国であった日本の劣化は明治維新で文明開化と称してフリーメーソンスパイ伊藤博文と山県有朋が政府高官に成りすまして国家神道という似非カルトを国教としてでっち上げた「廃仏毀釈」によって始まったということです。これが、宇宙の真理を教えたもうた仏陀が生まれた地球がある宇宙の歴史の真実です。

つづき(「新釈尊伝(旧字)」渡辺 照宏【著】昭和四十一年 大法輪閣発行 より抜粋)

人天の師ゴータマ・ブッダ(釈尊)が入滅前霊鷲山でヴリッヂ族の都市国家ヴァイシャリー(維摩居士の国)を武力征服しようと企てるマガダ国アジャータシャトル王の重臣ヴァルシャカーラ大臣(バラモン)の訪問を受けたときに説いた「七不衰法」にこうあります(大般涅槃経)。

「アーナンダよ。
第一、ヴリッジの人たちはしばしば会合し、よく集まっているか。
第二、ヴリッジの人たちは一致和合して会合し、決議し、事を処理しているか。
第三、彼らは新しい制度を設けたり、前の制度を捨てたりせず、旧来の風習を守っているか。
第四、彼らは年長者を尊敬し、その言うことを聞くか。
第五、彼らは婦女や少女を強制して言うことをきかせようとはしないか。
第六、彼らは内外の社(やしろ)を尊敬し、昔からしきたりの供物を怠らないか。
第七、彼らは宗教家たちを尊敬し、よそから喜んで宗教家がそこを訪れ、そこにいる宗教家は喜んでそこに留まっているか。
これらを守っているあいだは、ヴリッジの人たちは繁栄こそするが、衰えることは決してない」

「バラモン(ヴァルシャカーラ大臣)よ。
かつて私はヴァイシャリーのヴリッジの人たちに、これらの七不衰の法を教えた。彼らがこれらのほうを守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してない」

「釈尊(ゴータマ・ブッダ)よ。
(ヴリッジの人たちが)これらの七不衰法のうちのただひとつでも守っているあいだは繁栄こそするが、衰えることは決してありますまい。七つの法がぜんぶ揃っていれば申すまでもありません。マガダ国のアジャータシャトル王は武力で彼らをくだすことはできません。もっとも、陰謀か内部分裂でもおこれば別でしょう」

・・・内外の社とさまざまの宗教家とを尊敬すべしという教えは注目に値します。ここで「内外の社」と訳しておきましたが漢訳には「宗廟」とあります。内は氏神、外は氏神以外の社をさすものでしょう。佛陀が既存の民族宗教の信仰を廃するどころか、むしろその信仰を奨励した証拠がこれであります。のちに仏教は中国でも日本でも土地固有の信仰を採用しました。神仏の融和を日本における仏教の堕落だと考える学者もいますが、そういう人はインド仏教を知らないからそういえるのです。あらゆる宗教に対する寛容もこの七ヵ条の中にあります。
・・・



[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

129. 2014年1月02日 05:10:52 : rWn9PLlcps
>>128つづき

伊藤博文が明治憲法を作って天皇を絶対不可侵の現人神にまつりあげた動機を鬼塚氏は孝明天皇暗殺の下手人はじめ伊藤博文が幕末に犯した多くの犯罪を隠蔽するためだと考察しました(日本の真実)。しかし神話時代から国王(天皇)暗殺は大国主命国譲りや日本武尊熊襲建兄弟暗殺や藤原鎌足乙巳の変蘇我大王天皇暗殺や天智天皇暗殺の壬申の乱など、枚挙に暇がありません。伊藤博文の最大の大罪は孝明天皇暗殺ではなく、天皇の伝統の佛天子ではなく「現人神天皇」を聖徳太子以来のしきたりを破って捏造し、神仏分離令と廃仏毀釈で仏教を国教の地位から蹴落として「万世一系国家神道」なるカルト一神教をでっち上げて、江戸時代仏教僧侶の配下のエタの地位にあった宮司神官を下克上で国家神道の官吏になりあがらせたことです。
これがまさに128で先述の「七不衰の法」をすべて破るものであったことはすでに明らかに示したとおりです。
そして佛天子が治める菩薩国であった先祖伝来日本の劣化がまさに伊藤博文政府の「廃仏毀釈」によって始まったことも、釈尊が2500年前に教えくださった宇宙の真理「七不衰の法(ダルマすなわち真理)」によって真実であることが明らかです。


130. 2014年1月02日 08:19:01 : WzX8nPCmYM
>>44. 2013年12月26日 21:04:22 : cUqQ10tEi6 馬鹿だろこいつ

議論する能力がない人間だ。問題を提起されても理解能力がない。

問題の意味が分からなくて相手に???ばかりではケツ差し出してるようなものだ。

故に馬鹿野郎と言うべき理由がある。

[12削除理由]:言葉使い

131. 2014年1月02日 08:23:55 : WzX8nPCmYM
>>釈尊が2500年前に>>  馬鹿だろ、いつもいつもこいつも

如来滅後三千年じゃ!!

>>127. 2014年1月02日 02:14:26 : rWn9PLlcps

お前は誰から仏教を教えられたんだ! いい加減な出鱈目を言うな!馬鹿野郎!!

お前みたいな邪宗派の出鱈目な協議を馬鹿のように真面目腐っているから日本が乱れているのだ。

人を誑かすのもいい加減にしろ! バカヤロ!!

[12削除理由]:言葉使い

132. 2014年1月02日 08:41:53 : WzX8nPCmYM
西暦2014年、今の時代では日本の仏教は多くの出鱈目邪宗派の出来により、仏教が惑乱されたまま歴史が流れたままの状態である。

人それぞれ好き勝手に信教の自由と多くの日本人は思い込んでいる。しかし未だに邪宗それぞれが現実だ。

真言亡国、禅天子魔、律国賊、念仏無限  これらは四箇の格言である。

昨年、朝鮮総連ビルの競売問題でニュースに出て馬鹿僧侶ぶりを露呈した馬鹿法主。なぜ馬鹿なのか理由が分かる国民はいるのか?少な過ぎるだろ。卑劣な人間性を隠して仏教の高座について蓄財たんまり豚みたいに太っていた醜い姿は国民がみているはずだ。

真言宗は幕府に取り入って権力の庇護を受け、天皇を誑かして宗派の興隆を目的に多くの慈善事業を行っているが、権力と結託して不当な弾圧や傷害事件を呪いの儀式で行うトンデモ仏教である。証拠は現存している。

日本人は本当にこのまま、日本の宗教史に無知蒙昧であってはならない時代になっているということを改めて認識しなければならない。


133. 2014年1月02日 09:08:37 : WzX8nPCmYM
単刀直入にテストしたらどうだろうか。

日本の高学歴社会を是認する日本人は是非とも模範解答を示してエリートを自負するがいいだろ。日本の高学歴社会の実力テストということだ。

Question 1. 大日如来が説法するという真言宗の教義を破折せよ。

  to be continue.

See you,again  And good luck !! By bye !!


134. 2014年1月02日 13:20:20 : rWn9PLlcps
>>128神仏の融和を日本における仏教の堕落だと考える学者もいますが、そういう人はインド仏教を知らないからそういえるのです。あらゆる宗教に対する寛容もこの七ヵ条の中にあります。
・・・

つづき(「新釈尊伝(旧字)」渡辺 照宏【著】昭和四十一年 大法輪閣発行 より抜粋)(渡辺照宏略歴:明治四十年東京生まれ。昭和五年東京大学文学部インド哲学科卒業。インド哲学、仏教学を専攻し昭和五年より昭和八年までドイツ留学。昭和四十年現在東洋大学教授。文学博士。著書多し)

「太子(シッダールタ)の入城」の章49ページから抜粋転記

・・・第一に、当時インドには至るところに大小の神社または寺院というものがありました。その建物で現在残っているものは一つもありませんが、色々な記述や考古学資料を総合して推察すると、中には数階建ての堂々たるものもあったようです。本尊は「ヴェーダ」伝来のバラモンの古い神々のみではなくて、むしろ、ヤクシャ(夜叉)やヤクシー(夜叉女)、ヴァイシラヴァナ(毘沙門)、またはアスラ(阿修羅)やナーガ(竜)やシリー(吉祥天女)、サラスヴァティー(弁才天)、さまざまの天女(アプサラス)、その他有名無名の男女の神格が数多くありました。河でも池でも沼でも森でも山でもそれぞれ神が住んでいて、石でも樹木でも特別なものには主がいました。今の日本にも残っている民間信仰の状態と似たところがあります。別にお堂がなく、石や樹木をそのまま礼拝の対象にしたものも数多くありました。お堂の建物のある場合にも、特定の宗派の人には限らず、誰でも参詣するのがふつうでした。

 第二に、そういうお堂は一般に開放されていたので、佛陀自身をはじめ、その弟子たちもしばしば出入りし、時にはそこに滞在しました。ジナ教にしても同じことです。キリスト教はイスラム教または日本の佛教宗派の一部などで考えるような偏狭な宗教差別はなかったのです。それどころか、佛陀はしばしば一般民衆にむかって、先祖からの習慣を守ってさまざまの廟祠(チャイテヤ)に参詣し、供物を捧げて天神地祇を祀るようにと教えています。この天神地祇というのはバラモン学者のいうヴェーダ(吠陀)の神々とは限らず、むしろ一般民衆がしきたりとして信仰してきたものをさすのです。したがって、日本の宗派の一部で「天神地祇をあがめるのは佛教の本旨にそむく」などと唱えるのは佛教の歴史を知らないからです。

 第三に注意しておきたいのは、たとえ神々への信仰が大切であるにせよ、佛陀はさらにその上にましますことであります。神々への信仰は人間の霊性を目ざめさすのに欠くことのできないものでありますが、神々とてもつまりは人間と同じように輪廻転生を免れることはできません。言いかえれば、やはり佛陀による救済を待つものであります。この意味で佛陀は人間と神々の指導者(人天の師)といわれるのであります。佛陀は「人々と神々との幸福のために」法を説くといつもいわれます。漢訳でもパーリ(語)文でも、もっとも古い聖典の中に、これらの大小の神々が佛陀を礼拝して教えを乞うたことが記されているのであります。
・・・


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135. 2014年1月03日 12:27:09 : rWn9PLlcps
明治から採用された西暦2013年始めに日本国憲法の国体主権者国民が憲法直接参政権行使してすべての日本国公僕公務員へ日本国憲法最高法規99条に基づいて以下の事項を実行するよう命令します。

「はい、この素敵な方に質問しましょう!」RKブログへのコメント
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_10.html

安倍総理へ質問:小学生の漢字も読み書きできない安倍シンゾウくんは、小学校教師新美南吉が日本の小学生たちに正しい行いができる美しい心をはぐくむために書いた情操教育童話「花の木村とぬすびとたち」(ひらがなにしといてあげたw)をいま読めますか?また、いままでに読んだことがありますか?

安倍シンゾウ君は新美南吉の本を買わなくても青空文庫で読めますよw日本人は親切だから全部の漢字に読み仮名を振ってあるから日本国憲法より簡単に読めます。よかったね、シンゾウくんw

花のき村と盗人たち
http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/630_21624.html

振り仮名つきで読みやすいからついでに新美南吉先生のほかの童話も読んでおきなさい。これは日本人主権者国民から公僕の長総理大臣へ出す宿題です。宿題をサボったら小学校退学ですよw日本国憲法99条に基づいて日本国主権者国民が摂政すなわち総理大臣へ出したこの同じ宿題を「国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員」にも出しておきます。君たちみんな、この宿題をサボったら日本国刑法の内乱罪ですよw
牛をつないだ椿の木http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/638_34289.html
ごん狐http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html



[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

136. 2014年1月03日 12:51:43 : rWn9PLlcps
>>135. 訂正
明治から採用された西暦2014年始め

137. 2014年1月04日 11:49:00 : ImOQE0Zm5I
>135
行きがかりじょう仕方なくコメントを読ませていただきましたがあなたのお話は支離滅裂で何をおっしゃりたいのか不明です。一度精神科医にご相談をされる事をお勧めします。
結論を先に書きましたがいろいろ貼り付けておられますがどうも自分ではご理解をされてないようです。理解をされていないからばらばらになり纏まらないのです。
蛇足ですが2,3指摘させていただきます。
仏教のダルマを「八正道」に従う真理であるとの見解は間違いだと思います。
武士道とは3宝に帰依するとの見解も間違いではと思います。
聖徳太子や聖武天皇が仏教を広く国民に広めたとの見解も間違いです。
聖徳太子や伊藤博文の話をしているのに突然並列で中田厚仁さんが出てくるのも問題です。

138. 2014年1月06日 10:29:46 : rWn9PLlcps
「大和魂武士中田厚仁くんが命を捨てて利他菩薩となって作り上げた正しい選挙に学べ」
一円融合さまへ投稿http://ichienyuugou.blog.fc2.com/blog-entry-1095.html#comment150

全文転載します。

> だけれども僕はやる・・・中田厚仁
http://ichienyuugou.blog.fc2.com/blog-entry-988.html

 カンボジアで選挙監視員中田さんが担当していた、最も危険だったコンボトム州の投票率は99.99%です。考えられないような高投票率でした。選挙は大成功でした。
・・・

こうしてカンボジアに、戦後初の自衛隊海外派遣が行われたわけですが、同時に日本は、国連のボランティア機構を通じて、日本国内からも志願者を募りました。
カンボジア国内で、これからカンボジアで行われようとする公正な「選挙」について、それがどういうもので、いつ、どこで行われるものなのかを、あくまで中立の立場で説いて回るスタッフが必要だったからです。
そして、その中の一人が、中田厚仁さんだったわけです。

中田さんは、大阪の出身です。
大阪大学法学部に入り、国際法を専攻し、卒業後、カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平成4年に募集を開始した国際連合ボランティア(UNV)に採用されました。

彼は、7月にカンボジアへ渡ると、最も危険なコンポトム州の巡回要員に、自ら志願しました。
当時のカンボジアには、まだ政府がありません。
戦っている内乱グループは、細かな派閥に分かれていて、武装解除に応じないグループもまだ数多くいました。
なかでもコンポトム州というのは、地雷の埋蔵量、武装ゲリラ数とも、最低最悪の環境にある州だったのです。

けれど、そういう地域だからこそ、行かなければならない。カンボジアの人々の平和を心から願う中田さんは、コンボトム州の村々を懸命に回ったのです。

コンボトム州には、道すら十分にはありません。
途中で、川にぶつかればカヌーを使い、カヌーが使えないところでは、泥水のような濁った川を泳いだりして村々を回ります。
なかには2時間以上も泳いで、ようやくたどり着いた村もあったそうです。

そこで彼は、選挙の必要性などについて、必死に、真剣に説いて回りました。
武装した護衛などいません。
数人のチームは、全員が丸腰です。
そして時間をかけて、みんなが納得するまで話し、説きます。
実は、こうした手法は、日本人が古代から続けてきた、まさに日本的方法といえます。
・・・


その村で、村人たちが作詞作曲した村歌です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
題名【アツヒト村の歴史】

♪新たに発展したアツヒトの村
 地方にある田舎の村である
 森の中に生まれた新しい村
 みんなの手によって作られた

♪93年の出来事を思い出せ
 地域一帯は地雷でおおわれていた
 旅人はとても恐れた
 そこには山賊もひそんでいた

♪4月8日のこと
 おば おじ 祖母 祖父はある事件のことを聞いた
 道の途中でいつも恐怖におびえていた
 銃撃(じゅうげき)の音を耳にして

♪その時アツヒトは殺された
 痛々しく苦しんでいた
 学校の前にあるクロラッニュの記の近くで
 その事件は歴史に刻まれた

♪彼は死んだが 
 彼の名前は生き続けている
 石碑に刻まれている
 学校の中庭にその石碑が置かれている
 クメール人に語り続けている

♪新しいコンクリートの家が作られた
 種々の樹木を植える
 カンボジアの発展のために
 それが彼の願いである

♪クメール人よ 記憶にとどめよ
 これは心の平和である
 彼に学び 従えよ
 わたしたちの幸福は彼の力によるのだ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


カンボジアにはテレビも開票仕分け機もなかった。手作り手作業の本当の公明正大な「正当な選挙(日本国憲法前文)」が中田厚仁くんの「為せば成る」大和武士魂によってカンボジアの地に成し遂げられたのである。


139. 2014年1月06日 12:14:56 : rWn9PLlcps
>>89>>129つづき

昭和59年6月30日に毎日新聞社から刊行された「決定版 昭和史 第一巻昭和前史・文明開化(幕末ー明治18年)」に毛利敏彦大阪市立大教授が「近代日本の礎となった政治家大久保利通」という論文を寄稿しています。そのなかで「西郷隆盛征韓論下野」という明治6年政変の通説の嘘を厳密な考証であばいています。

それによると明治天皇の教育係であった西郷隆盛は朝鮮国との江戸時代朝鮮通信使以来の友好通商関係が明治維新の幕府消滅で途切れたので、武士道にしたがい「相手を信頼して非武装で礼儀正しく使節を送らねばならない」と自ら平和友好通商再開の非武装単独全権訪朝使節となることを閣議で主張してほぼ決定していたのです。これを武士道にもとる卑劣な陰謀でひっくりかえしたのが江戸時代人別非人の武士道無き忍者テロリストフリーメーソンスパイ伊藤博文でした。

つづく

[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

140. 2014年1月06日 13:09:23 : rWn9PLlcps
>>139つづき
前述の毛利敏彦教授の論文から抜粋引用転載します。

明治六年政変(その一)

・・・明治六年(1875)十月二十三日、ただ一人の陸軍大将で筆頭参議の西郷隆盛が、病気を理由に辞表を提出し、翌二十四日、参議を解任された。同じく二十四日、参議の板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の四人も、西郷に一日遅れて、いっせいに辞表を提出した。ここに、政府首脳は真っ二つに分裂し、半数が野に下るという大事件となった。

 いわゆる「明治六年政変」であるが、従来、この事件は征韓論政変とも呼ばれ、征韓論の西郷派と非征韓論の大久保派の衝突が原因で生じた事件とみなされてきた。さらに、西郷が征韓を主張したのは、国権拡張を期すとともに、不平士族の不満を外にそらし、かつ没落士族の活路を求めたからであり、一方、大久保は、欧米先進国を視察して内治優先を痛感し、私情を超えて開戦のおそれがある西郷の主張に反対せざるを得なかった。そして、閣議で征韓論が敗れたので、西郷派はいっせいに下野した云々、というのが通説である。

 ところが、先入観を去って関係史料をよく調べてみると、この通説の根拠は意外にあやふやなのである。西郷が閣議などの公式の場で征韓を主張したとの記録は皆無であり、かれが士族のために征韓を図ったと直接に証明できる証拠もない。また、朝鮮問題に対する西郷の議論が閣議で否認された事実はないのみか、むしろ、閣議で孤立し辞表を提出したのは大久保のほうであった。征韓論政変説というのは史実と食い違う誤謬に満ちた俗説である。・・・

つづく


141. 2014年1月06日 13:37:59 : rWn9PLlcps
>>140つづき

明治六年政変(その二)

 大久保帰国前後の明治六年初夏のころ、隣国朝鮮との間に厄介な問題が発生した。そもそも、江戸時代には日朝間に友好関係が存続していたが、江戸幕府の倒壊とともにその関係が途切れ、明治政府は朝鮮との国交再開をもくろんだものの、両国の思惑が食い違ってうまくいかず、外交上の重要懸案となっていた。そのようなときに、朝鮮国釜山所在の日本側出先機関が朝鮮現地の官憲に侮辱されるという不幸なトラブルが発生したのである。

 事態を重大視した外務省は閣議に問題をもち込んだ。強硬派の参議板垣退助は現地に軍隊を急派せよと主張したが、西郷は反対した。西郷の意見は、派兵は開戦の危険をもたらすからよくない、それよりも全権の使節を派遣して公明正大に談判すべきだというものであった。そして、みずから使節を引き受けたいと申し出た。そこで、太政大臣(首相)三條実美は、使節は護衛兵を連れて軍艦で行くのがよいと論じたが、西郷はこれにも反論し、交渉をうまくまとめるためには相手を信頼して非武装で礼儀正しく使節を送らねばならないと強調した。

 結局、閣議は西郷の主張の線でまとまり、西郷使節の朝鮮派遣を内定したが、なお正式決定は(各国歴訪中の)岩倉帰国後とされた。ここで注意しておきたいのは、西郷の立場が、征韓論とまったく正反対の平和的道義的交渉論だったことである。むしろ、板垣や三條が征韓論に近かったといえよう。

つづく


142. 2014年1月06日 14:26:43 : rWn9PLlcps
>>141つづき

明治六年政変(その三)

 さて岩倉大使一行が一年十ヶ月ぶりに帰国したのは、この年九月十三日であった。そのころ、一足先に帰国していた大久保は、夏期休暇をとって神戸の有馬温泉に湯治に出かけていた。俗説では、大久保が征韓論に対抗するために同志岩倉の帰国を手ぐすねひいて待ち受けていたことになっているが、実際はそうでなく、のんびり湯治に行っていたのである。

 久しぶりに右大臣岩倉を迎えた三條は、たまっていた政務の扱いを相談し、協力して処理を急ぐことになった。三條の指導力が弱かったので、岩倉の留守中に各参議や各省が勝手に活動しがちだったため、政務が混乱していたのである。そのようなわけで、懸案の西郷使節朝鮮派遣の正式決定がずるずると遅れ、棚上げ同然となっていた。

 しびれを切らせた西郷は、三條の怠慢をきびしく責めた。ここに不幸な行き違いが生じた。お上品な上級公卿育ちの三條は小心で優柔不断な人物だったといわれている。三條は西郷の抗議にすっかり動転し、自分の不手際を忘れて、西郷が朝鮮と戦争をしたがっていると信じて真剣に悩んだ。これは、三條のまったくの誤解であった。

 自分が勝手に呼び起こした戦争の亡霊に悩んだ三條と岩倉は、湯治から帰京してきた大久保に、参議に就任して助力してくれるように頼み込んだ。しかし、大久保は三週間にわたって固辞した。俗説がいうように、大久保が内治優先と反征韓論の使命感に燃えていたのであれば、この固辞について説明できないであろう。

 大久保が参議就任を固く断ったのは、実は旧主島津久光との複雑な関係のためであった。久光は廃藩を行った政府を恨んでいた。もし大久保が参議を引き受ければ、久光からの攻撃の矢面に立たされるおそれがあった。それは、大久保には耐え難いことであった。

 しかし、三條と岩倉の度重なる懇願に、とうとう大久保も断りきれなくなり、参議就任を受諾した。ただし、閣議で朝鮮使節派遣の延期を主張してみるが、それは本心からではなく、三條と岩倉に頼まれたからであること、したがって、中途で変説して二階に上げておいて梯子をはずすようなことは絶対にしてもらいたくない、ときびしく念を押したのである。

つづく


143. 2014年1月06日 14:53:14 : rWn9PLlcps
>>142つづき

明治六年政変(その四)

 十月十四、十五両日の閣議に西郷使節の朝鮮派遣問題がかけられた。大久保は、三條と岩倉から頼まれたとおりに、使節派遣は戦争を引き起こすかもしれないから延期せよと発言した。一方、西郷は、日朝国交正常化のために平和的道義的な使節派遣の必要性を力説した。両者の議論の優劣はだれの目にも明らかであり、大勢は西郷を支持したので大久保は孤立した。

 これをみて、三條と岩倉は、あれほど固く大久保と約束したにもかかわらず、中途で変説して西郷派遣論に同調した。大久保もやむをえず大勢に従った。ここに、西郷派遣は満場一致で正式の閣議決定となった。西郷が征韓論で閣議に敗れたという俗説は、見当違いもはなはだしいのである。

 ここで、大久保が(武士らしく潔く:転記者補追)冷静な態度を保持していたならば、政局に波乱が生ずることもなく、西郷使節の朝鮮派遣が実現し、多分、日朝国交がうまくまとまって、東アジアの平和が促進されたであろう。国内の士族反乱や自由民権運動もあれほど激化せず、日本の立憲政治も、もっとスムーズに実施に移されたのではなかろうか。

 しかし、現実はそうでなかった。三條と岩倉の不誠意と手ひどい裏切りでピエロにされたと激怒した大久保は、三條宅におしかけて辞表をたたきつけた。事態を甘くみていた三條は一大ショックを受けたにちがいない。幕末以来大久保と深いつながりがあった岩倉も、大久保の予想外の(烈しい)怒りを知ってあわてた。岩倉も辞意を表明した。

 相棒岩倉の態度が急変したので、小心な三條は懊悩のあまり、高熱を発して卒倒してしまい、執務不能に陥った。政局は大混乱状態となった。


つづく


144. 2014年1月06日 15:20:11 : rWn9PLlcps
>>143つづき

 ここに登場したのが、長州派の策士(非武士:転記者補追)伊藤博文である。かれは、かねてから、初代司法卿の参議江藤新平による長州派の同僚山県有朋や井上馨の汚職摘発を食い止めようと苦心していたが、三條卒倒の椿事につけこんで、一気に江藤追い落としを謀った。伊藤の策略は、岩倉を太政大臣代理につけて強引に西郷使節派遣を葬れば、江藤を含む参議連中が抗議の辞表を出すにちがいないから、逆手を取って辞表を受理すればいい、というものであった。

 伊藤は、この陰謀を大久保に吹き込んだ。怒りに平素の冷静さを失っていた大久保は、まんまと伊藤の策略に乗せられた。大久保は、薩藩以来の同志で宮内省の高官になっている吉井友実(よしいともざね)に手をまわし、岩倉を太政大臣代理に就けることに成功した。

 そこで、岩倉は、無法にも閣議の正式決定である西郷使節派遣を否認するようにと天皇に上奏した。若い明治天皇は岩倉の言いなりになった。岩倉の行為は、太政官職制や正院事務章程などの政府の基本法規に違反する暴挙であった。

 ここにドンデン返しが生じ、西郷や江藤は抗議辞職するほかはなかった。まんまと罠にはめられたのである。(非武士伊藤博文発案どおりの:転記者補追)大久保のクーデターは成功した。これこそが明治六年政変の真相である。いうまでもなく征韓論云々とは無関係であった。

 わたしはかねてから征韓論政変説が不自然であるのに気づき、政変の学問的解明に努めた結果、以上の結論に到達した。詳しくは、拙著「明治六年政変の研究」(有斐閣、1978年)、「明治六年政変」(中公新書、1979年)を参考にしていただければ幸いである。

・・・
抜粋終わり、後略。

[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

145. 2014年1月06日 15:51:33 : rWn9PLlcps
>>139から>>144までの明治新政府の登場人物のうちで親から武士道の躾を受けていない人物は江戸時代人別非人の伊藤博文と山県有朋、江戸時代人別エタの公卿たちである。明治天皇は江戸時代人別エタであり、非人ではない。エタは大昔から日本にある身分であって、天皇になれず都を遁れて山の中へ逃げ込んだ貴種(貴種以外と同じ人間であることに変わりはない)の一族を「天皇としての禊を受けられなかった穢れ多き者」すなわち穢多と呼んだのである。
大室寅之祐は年若くして天皇になり武士道の鑑西郷隆盛と西郷に江戸攻略戦を中止させた無手勝流の武士の鑑山岡鉄舟のふたりが親しく明治天皇に行住坐臥近侍して武士道と大和魂を薫陶感化して真の大国主命仁徳天皇聖徳法皇大王(以後は佛天子)天武天皇聖武天皇の皇祖皇霊を日(霊)継いだ明君天皇となれたのである。

146. 2014年1月06日 21:25:17 : rWn9PLlcps
>>96
>その後「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草蒸す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」で有名な大伴家持が忠誠をささげた聖武天皇が自らを「三宝の奴(やっこ)」と詔勅して日本全国に国分寺国分尼寺を建立し東大寺大仏を総本山本尊とする佛国日本を確立したのです。大伴家持のあの歌は大仏の全面に貼る黄金を得るために陸奥へ金鉱脈を探しに行った大伴家持が苦難の末に金を掘り当てて聖武天皇の念願をかなえることができた忠臣としての心からの喜びを謳いあげたものなのです。

つづき

大伴家持は大伴旅人の息子で父と同じく武をもって大王すなわち天皇に仕えるもののふでした。もののふとは物部守屋の物部から生じた呼称であり剣や弓矢の技で大王にさぶらふ者という同じ意味からさむらいとも呼ぶことができます。大伴氏は神武天皇に従軍した久米の民・佐伯の民同様隼人を祖先とする軍人の一族です。その武人大伴家持が祖先代々の忠誠をささげるおおきみは聖武天皇です。藤原鎌足不比等親子が仕えた(利用した)天智天皇(中大兄皇子)弘徳天皇(大友皇子)ではなく聖徳太子蘇我氏物部氏系の真の佛天子聖武天皇であり、大伴家持自身も藤原の四家一族とは対立していたのです。

藤原不比等が中心になって編纂した日本書紀の、聖徳太子から大化の改新後までの記述がぜんぶ嘘っぱちであることは、明治長州閥政府が発表した西郷隆盛が征韓論で敗れて下野したという通説が>>140>>144に見るように事実とまったく正反対の虚偽の記載で塗り固められた真犯人伊藤博文のでっち上げ策謀だったことをみれば、一目瞭然です。もうひとつ藤原不比等が編纂させた古事記のほうはでっちあげが追いつかなくて推古天皇(もちろん女帝即位もでっち上げです)までしか書けませんでした。

その日本書記・古事記には日本の国教が聖徳太子(日本書記が隠していますがもちろん即位して大王天皇の位についていたのです)以来仏教となって、それまでの日本にいた八百万の神々が神仏習合してすべて人天の師釈尊の弟子となったことなど一言一句たりとも書かれていませんが、蓋し邪悪な心で自分の犯罪を隠蔽糊塗するために書かれた官製歴史書にあっては至極当然です(この辺の真相を推理で見破って明らかにしたのが優れた歴史作家の関裕二氏です)。

つづく


147. 2014年1月07日 17:05:48 : rWn9PLlcps
「聖徳憲法に従い篤く三宝を敬い和を以て貴しとなす日本武士道の大和魂」

先頃プーチンは安倍政権の北方領土交渉に応じないと宣言しましたがそれは地位協定スパイテロリスト政府とは交渉しないという「テロ(リスト)との戦い」の最重要兵法原則を守っているだけですね。
地位協定ある限りプーチンの最大の敵である米軍がロシアののど元にある日本列島日本国領土領海領空を好き勝手に徘徊できるわけだから、兵法を学んだ者ならプーチンに限らず誰でもそうするでしょう。

プーチンの「今後地上に新たな戦争を起こさせない」という政治信条に同感の大和魂もののふは、ロシアを守るプーチンを手助け後押しするために日本列島から米軍を追い払うべく日本人の先祖代々の誇り武士道で日米地位協定を破棄しなければなりません。そしてそれが日本をユダ金の治外法権憲法破壊占領奴隷牧場から解脱して江戸時代以前の世界中から尊敬される真の天上天下唯仏独尊神仏習合仏法国として復活させることになるのです。
日本古武術の達人武士道ロシア大統領プーチンを助けて在日米軍を拝除することでかえって日本を先祖伝来大和魂の世界一の国に復帰させ北方領土平和交渉が再開される。これを日本では昔から、情けは人のためならず、といいます。もちろん沖縄も全島が日本国日本人領土に戻ります。


>BBCの記者は「世界の警察の役割を積極的に担ってきた米国は、今や世界の憎まれ役になってしまっているが、この結果は米国にとって決して驚くべきものではない。

アメリカ先住民を虐殺して国土を略奪し建国した鬼畜外道ユダ金の傭兵米軍が盗っ人猛々しく居直って「世界の警察」を自称すれば、こうなるのは当然ですね。アメリカ政治とは詐欺強盗殺人麻薬売春およそ人外悪魔の所行すべてやり放題で他国に戦争を起こして双方に武器を売って殺し合いをあおって多くの人の血を流させて儲ける死の商人が確信犯で支配する悪魔政治です。アメリカが世界の警察ならそれはヤクザ以下の鬼畜外道警察ですね。
そのアメリカが占領軍司令部GHQの直属の子分として作った日本奇形司法警察が牛込署の7匹の鬼畜外道であり五反田のビッキーであり東大法学部中退弁護士仙谷元民主党衆院議員です。猿でもわかる日本奇形司法の鬼畜外道確信犯日本国憲法違反内乱罪テロ組織の正体ですね。


RKブログ「備忘録です。」への投稿に加筆して一円融合へ投稿
http://ichienyuugou.blog.fc2.com/blog-entry-1107.html#cm

[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

148. 2014年1月08日 11:39:07 : rWn9PLlcps
釈尊の教えについての概説を以下のページから抜粋して示す。
http://www13.plala.or.jp/meishin-jyuku/heart/buddah's-teaching.html


 釈尊は西暦紀元前480年ころに80歳くらいで亡くなっています。釈尊没後何年か経って、釈尊から直接教えを聞いた弟子たちが2回集まって、教えを確認し合いました。教えの中の重要な部分を記憶しやすいように韻文にまとめました。

 韻文は口承されたために、ほとんど変化を受けませんでした。その代表的なものが、スッタニパータ(「ブッダのことば」として中村元さんが邦訳)、ダンマパダ(「真理のことば」として中村元さんが邦訳。漢訳は法句経)およびウダーナ・ヴァルガ(「感興のことば」として中村元さんが邦訳)です。

 スッタニパータ、ダンマパダ、ウダーナ・ヴァルガの教えは、ヴェーダの知識を前提とする部分が日本人になじみにくい他は、とても平明で、大よそ以下のような内容です。

(1) 瞑想をして心を啓発すると共に思索で真理を悟る。

(2) 住居や食べ物、衣類、装飾品、地位、名誉、愛欲、愛着その他一切の執着を捨てる。一切の与えられたもの、運命を受け入れる。

(3) 善い行いをし、悪い行いをしない。

(4) できれば出家して、森林に住み、乞食によって生きる。
(修行者が乞食をすることは、当時のインドでは一般的で、在家の人は修行者に食事をささげることが功徳になると受け取られていた。)

(5) 釈尊はブッダである。
(ブッダとは、「すべてを明らかに悟った人」という意味だった。それは、たとえば数百年に一人というほど稀有な存在だった。)

引用終わり


149. 2014年1月08日 20:35:17 : rWn9PLlcps
>>148つづき
>ダンマパダ(「真理のことば」として中村元さんが邦訳。漢訳は法句経)

法句經 荻原雲來訳註 は青空文庫にあります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/45958_30545.html


>スッタニパータ(「ブッダのことば」として中村元さんが邦訳)

次のページは釈迦=ブッダでしょうか?

> 釈迦の言葉

(出展はインド原始経典「スッタニパーダ」などで、実際の釈迦の説法に、かなり忠実であるとされる)

「世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。」

「母と父とは子らに対して多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれた。」

「母、または父が老いて朽ち衰えていくのを養わないで、自らは豊かに暮らす人、これは破滅の道である。」

「親の義務とは、子を悪から遠ざけ、善に入らしめ、技能を習学させ、適当な妻を迎え、適当な時期に相続させることである。」

「子らは、すみかであり、妻は最上の友である。」

「飲み友達なるものがある。きみよ、きみよと呼びかけて、親友であると自称する。しかし、事が生じたときに味方となってくれる人こそ、友だちなのである。」

「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」

「王よ、婦人といえども、ある人々は、実に男子よりも優れている。智慧があり、戒を保ち、姑を敬い、夫に忠実である。かの女の生んだ子(女の子)は、英雄となり、地上の主となる。かくの如き、良き妻の子は、国家をも教え導くのである。」

「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」

「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」

盛年をすぎた男がティンバル果のように盛り上がった乳房ある若い女を誘い入れて、かの女への嫉妬から夜も眠れない。これは破滅への門である。 

「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって、得たものを、その度に失う人がいる。これは破滅の門である。」

「婦女の求めるところは、男性であり、心を向けるところは装飾品、化粧品であり、よりどころは子どもであり、執着するところは夫を独占することであり、究極の目標は支配権である。」

「足りないものは、音をたてるが、満ち足りたものは静かである。」

「道を行きて、己よりも勝れたる者、または、己に等しき人に逢わずんば、むしろ、独り行きて誤るな。愚かなる者の友となるなかれ。」

 「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。独り、サイの角のように歩め。実に欲望はいろとりどりで甘美である。心を楽しませてくれ、満たしてくれる。しかし、欲望の対償には、憂いがあることをみて、サイの角のように、ただ独り歩め。」

「世界はどこも、とどまってはいない。すべての方角も揺れ動いている。私は、安住の地を求め探したが、どこにもなかった。すべて、死や苦しみにとりつかれている所ばかりだった。殺そうとしている人々を見よ。武器をとって打とうとしたことから恐怖が起こった。すべてのものは、燃えている。欲望と怒りと愚かさによって。」

以上、優れた考察が述べられている下記HPより抜粋して転載した。
http://sound.jp/haruu/r-budda.html

[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

150. 2014年1月11日 14:00:36 : GtqS1mTcgw
〉〉137
はもう少し勉強しないと賢くなれないね。
たくさん読書してから書きこまないと恥をかくばかりだよ。

151. 2014年1月11日 14:23:32 : GtqS1mTcgw
>>133
自分で答えが書けないような愚問を出しても頭のなさが余計に目立つだけだよw

152. 2014年1月12日 19:40:32 : F4x1l1hIic
>(沖縄防衛局レイプ行政問題で)いちばん悪いのは、ヒドイ政策を長年続けた自民党(と民主党前原派)なんですよ。田中局長は率直であったにすぎないとさえいえます。 (雪裏の梅花さまttp://seturibaika.blog72.fc2.com/blog-entry-673.htmlへ、加筆)

この国で政策を建てて執行するのは霞ヶ関でありそこへ政策立案させるのは地位協定治外法権アメリカです。
55年体制は田中角栄首相時代を除いてすべてアメリカが仕組んだ政治ショーであり、アメリカが戦後教育で育てたアメリカの忠実な手先の国内スパイ組織が霞ヶ関です。田中角栄だけがアメリカの奴隷官僚化教育をまったく受けていなかったから、由緒正しい公正公平な徳のある首相となりました。そのほかの大学出の歴代総理は皆アホで腰抜けのアメリカの幇間女衒恥知らずですね。
アメポチスパイ小泉以来霞ヶ関は全身金太郎飴売国奴スパイ工作組織ですよ。
地位協定破棄したらまっさきに防衛局含む霞ヶ関全体が行政レイプ実行犯の違憲立法行政司法テロ行為で粛清されるでしょうね。

参照:Dendrodiumさまttp://dendrodium.blog15.fc2.com/blog-entry-1121.html
「税金の無駄遣いで危険な「もんじゅ」を廃炉に! 」への自コメ

>まず福一を廃炉緊急石棺化せよ。

TPPも普天間も消費税も電源値上げも全て不急である。
福一の石棺化地下ダム化と全国の原子炉運転停止燃料抜き取りを国策の第一として行え。
霞ヶ関現役公務員給与無期限減俸せよ。特に霞ヶ関OBには全員に資産提供を命ずる。
地位協定破棄後には、小泉アメリカスパイ政権以来の違憲行政法案起草に携わった官僚をすべて洗い出してスパイ罪・国体破壊工作罪で捜査対象とする。
聖域なしだから違憲裁判官違憲検察官も全員スパイテロ容疑で厳しい詮議を受けることになるね。
これが地位協定破棄、日本国憲法施行の効用である。

これ「日本の独立不羈」こそが高杉晋作の目指した維新回天である。(晋作を引き合いに出した小泉も菅も、対米盲従奴隷幇間政治家は皆、晋作に究極まで蔑まれるぞ、恥を知れ。)

http://risingsun-kiri.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-1c21.html#comment-87020174


153. 2014年1月16日 21:29:09 : rWn9PLlcps
尾張名古屋とは微妙な場所ですね。
記紀によれば古くはヤマトタケルノミコトが尾張熱田に草薙の剣を置き、壬申の乱では蘇我物部同族の尾張氏が大海人皇子を助けて天智天皇がた大友皇子を討ち果たして天武天皇即位させたところです。
佛敵大外道魔王織田信長はこの地の平氏武将でした。後に関白となって豊臣姓を名乗った木下日吉丸は土民の息子であり源平のいずれでもありません。鳴くまでまとう徳川家康は源氏であり名古屋城を築いた築城の名手槍の加藤清正は藤原北家道長流とのことです。後熊本へ転封されたから平氏かと思ってましたw九州は平氏が多いですからね。

鎌倉幕府は源氏が開きましたが三代で平氏の北条氏が奪ったので元寇のころは平家政権ですね。ジンギスカンは源義経だからその孫フビライは源氏です。元寇はじつは源平合戦だった、平氏が壇ノ浦の雪辱を果たした結果となりました。
その後源氏足利尊氏が室町幕府を開いてふたたび源氏政権が続き、平氏織田信長が室町幕府を倒して天下を平氏に戻すわけです。
源平の争いという視点で歴史を見るのもまた一興。

RKブログ「2014.2.15(土)RK名古屋「氷も雪も溶かす熱い思いで」講演会のお知らせ」への投稿
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_76.html


154. 2014年1月18日 19:04:49 : rWn9PLlcps
映画「永遠のゼロ」が取りあげた特攻隊員の遺書を見れば全員が鬼畜外道米軍をわが身もろとも討ち滅ぼすことを誓って死出の戦いに出撃していったことが明らかに書かれています。すなわち靖国で会おうというのは、鬼畜米軍を死を以って追い払った鬼畜米軍のいない日本本土の大和魂の招魂場靖国神社で会おうという意味でした。靖国に招魂される大和魂もののふの英霊は皆鬼畜米軍とその手先をもっとも嫌っているのです。

大和魂がなく武士道魂も無い非人伊藤博文にはじまる田布施人脈フリーメーソンユダ金鬼畜外道米軍スパイどもすなわち吉田茂ヒロヒト源田実中曽根森小泉福田安倍麻生鳩山菅野田前原など最も穢れた外道どもは、天地がひっくり返っても靖国へ参拝する資格のかけらも身に具えられない下劣下賎の厚顔無恥無法無礼の慮外者どもですね。

明治維新回天の大業は江戸無血開城によって成就しました。明治元年三月八日二人の当代最高の武士が駿府で会見してはらを割り肝胆あい照らして身命を賭して武士同士として誓約したのです。
ひとりは西郷隆盛、ひとりは山岡鉄舟。西郷はその数日後江戸の愛宕山で会った勝海舟に対して「さすがは徳川公だけあってエライ宝をお持ちだ」というから、どうしたと聴いたら、イヤ山岡さんのことですというから、ドンナ宝だと反問すると「イヤあの人は、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の脱けた人でござる」というから、ドンナ風に腑が脱けているかと問うたら、「イヤ生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、但しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」とて、西郷は驚いておったよ。
世に西郷の格言とて「生命も名も金もいらぬ人は始末に困る」云々と西郷が云えりと伝えられている言葉は、明治維新の際、右愛宕山上にて、山岡を評した言葉が、遂に格言として訛伝されているのだ。(勝海舟の談話記録)
大森曹玄著「山岡鉄舟」1968年10月 春秋社発行より転載

西郷と山岡は明治天皇の教育係となってともに若い天皇に武士道の忠孝の菩薩行にふさわしいご政道の真髄「民の父母」となるよう直諫近侍して仕えたのです。
西郷は武士道を嫌うフリーメーソン廃仏毀釈拝金守銭奴非人伊藤博文に明治6年政変陰謀で官職辞任させられ朝敵の冤罪汚名を被て城山で武士らしく自害しましたが、鉄舟は伊藤に付け入る隙を与えず死ぬまで楠公にまさる忠臣として明治天皇に深く信任されたのです。

五箇条のご誓文や教育勅語など明治天皇を仁徳天皇聖徳太子聖武天皇以来の仁慈聖賢な明君となしたのは西郷と山岡二人の至上の仏法僧三宝帰依武士道による帝王教育だったのです。

明治維新は朝廷から攘夷の詔が出たのに徳川幕府が攘夷を決行しなかった。長州と薩摩のみが詔に従い攘夷を決行した。このために薩長が幕府を朝敵として討ったのが明治維新です。
靖国神社が吉田松陰高杉晋作の招魂場として作られたということは、もともと攘夷すなわち西欧人の軍勢を日本本土に上陸させないという目的で戦った武人の死後の魂だけを招魂する場所がそこである、ということです。

特攻隊は鬼畜外道米軍を日本本土に決して上陸させないと誓って、「金もいらぬ名もいらぬ生命もいらぬ」と武士道菩薩魂を抱いて死んでいった大和魂の招魂場です。

無条件降伏したと単に自らの命と地位と財産を保全するようマッカーサーに尻尾を振ったヒロヒトと、総理大臣になってぼろもうけをしたくてマッカーサーに尻尾を振って国民を米軍の奴隷にする安保条約に単独調印しておねだりした吉田茂らはみな、明治維新の非人伊藤博文の田布施人脈係累です。靖国の金も名も命もいらぬ清らかな大和魂英霊に、金も名も命もすべて欲しがる穢い欲塗れの下賎下劣な鬼畜外道米軍の拝金銭亡者非人スパイがどの面下げて参拝できるものであろうか。

恥を知れといいたいが、恥を知らないからユダ金スパイになれるのだから云っても無駄ですwただ粛々と地位協定破棄して日本の国土から米軍もろともきれいさっぱり排除するのみ。

[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

155. 2014年1月19日 18:39:46 : rWn9PLlcps
釈尊の言葉
「人の価値は地位や生まれでは決まらず、清らかな行いによってのみ決まる」

攘夷という清らかな行いに殉じた明治維新の志士たちと、鬼畜米軍の日本本土占領を阻止する講和締結のため自身のすべての未来の楽しみを捨ててレイテ沖の米軍艦船に250キロ爆弾を抱いて突入した清らかな行いの特攻隊隊員たちの大和魂が集まる清らかな攘夷の招魂場靖国神社に、金と引き換えにフリーメーソンイルミナティユダ金に魂を売り渡した穢い心の伊藤博文田布施人脈ヒロヒト吉田茂源田実中曽根森小泉安倍福田麻生鳩山菅野田前原石原が穢い心で全身穢れたまま参拝すれば、天神地祇皇祖皇霊の怒りが降ることでしょう。

[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

156. 2014年1月19日 19:20:24 : rWn9PLlcps
すなわちこういうことです。

「靖国は攘夷に殉じた大和魂の招魂社であり、英霊は全員日米地位協定を拒絶している」


157. 2014年1月19日 19:25:49 : rWn9PLlcps
>>156推敲して訂正します


「靖国は攘夷に殉じた大和魂の招魂社であり、日本人ご先祖様英霊は全員日米地位協定を拒絶している」


158. 2014年1月20日 15:04:06 : rWn9PLlcps
では都知事選の選挙監視団に都内各大学学生小中高生徒だけでなく沖縄各大学学生小中高生徒も参加してもらって都知事選の全投票数実地計測社会科実習ボランティア不正選挙防止選挙監視してもらえばよいですね。識字率100%世界一の知性と教養で日本の未来を担う若い人たちの正義感あふれる目の前で醜い破廉恥不正犯罪選挙ができるものならやってもらいましょう。

>学生による、選挙監視団、というのは、世論喚起のいみでも、真っ当で、意義ある試みですね。
>ニコチンさん2014/01/20 09:32
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_99.html

若者がこれから社会人になって投票権を手にしたとき肝心の選挙が不正選挙では意味がありませんからね。
投票権のない学生や小中高生徒の時代から日本国憲法前文の「正当な選挙」が社会で実際に行われているかを若く正直な曇りのない目で見届けてもらうというのが最高の教育であると思います。
故中田厚仁くんがカンボジアで成し遂げた投票率99.9%の「正当な選挙」はカンボジアの学校でこどもたちに教えられて先祖代々子々孫々末代まで語り継がれるでしょう。
清らかな大和魂もののふ菩薩中田厚仁くんの選挙監視活動を日本人学生生徒がお手本にすることで、破廉恥邪悪なユダ金カルトの不正選挙を日本国憲法で破邪顕正真っ二つに斬り捨てることができます。

期日前投票から投票当日までの選挙期間中すべての投票所に人数調査の学生生徒監視団を派遣して時間内に投票した人数を実数調査します。教授や引率教師や独立党員や不正選挙防止会会員は投票場に出入りするすべての人をビデオ記録してください。投票時間終了後直ちに学生生徒監視団が実測した人数とビデオに記録した人数を照合確認します(これによって同一人物が公選法に違反して選挙期間中複数回投票場に訪れて重複投票する不正投票重大刑事犯罪を証拠映像で検出して犯人検挙できます)。
これでNHKや選管がいかにでたらめな数字を流して国民を欺こうとしても、このビデオとボランティア監視団の正確無比な数字があれば、ただちにNHKと選管を公職選挙法違反の刑事犯罪現行犯で刑訴法213条により居合わせた国民が現行犯人全員を逮捕して身柄送検できるのです。

そして、東京都や沖縄や福島だけでなく全国都道府県の大学小中高校へこの日本国憲法前文「正当な選挙」実行監視活動という社会科実習ボランティアを、今度の東京都知事選を貴重な実地教材として取りあげて、こぞって東京へ修学旅行してきて参加学習するように呼びかけましょう。
これが日本国憲法を護持する大人のもっとも大事な務め子弟教育です。


159. 2014年1月21日 08:30:30 : rWn9PLlcps
>いっそ日米地位協定を一時見直し、(協定破棄に越したことはないですが)ぼったくり未亡人オスプレイなどもお引き取り願いたい。
>ピーチパイさん2014/01/20 12:13
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_98.html

フィリピン国は日米地位協定と同じ対米軍不平等隷属の比米基地協定を1991年上院で批准拒否破棄し、以来フィリピン国内に米軍は駐留できません。フィリピンにできたことは日本もできます。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-03-20/2009032007_01_0.html
 フィリピンと米軍 フィリピンでは一九九一年九月に上院が新たな米軍基地条約の批准を拒否し、翌九二年に米軍は撤退しました。しかし、米比相互防衛条約(一九五一年調印)に基づく米比合同演習に参加する米兵を保護するため「訪問米軍の地位に関する協定(VFA)」が九八年に締結され、翌九九年にフィリピン上院で批准されました。


「和を以って貴しとなし、篤く三宝を敬え」
http://okaiken.blog.ocn.ne.jp/060607/2014/01/post_b2b9.html#comment-63617152

日本は聖徳太子によって仏教国になる前から親の仇討ちという孝心を貴ぶ民俗の国でした。仁徳天皇以前にも親の仇を討って天皇を殺した皇子が何人もいます。この記紀に記された史実からも、万世一系は廃仏毀釈して国教である仏教を下克上した宗旨人別非人田布施賤民匪賊伊藤博文がユダ金カルトをまねして作った国家神道の大嘘であると証明されます。太古の昔から江戸時代に至るまで仇討ちこそ忠孝に殉ずる日本武士道の精髄でした。これが大和魂の躾です。
アメリカが仕組んだ人類史上最悪の戦争犯罪太平洋戦争で地球で最も貴い大和魂のわれわれのご先祖様が何百万人も沖縄と本州と日本の周りの海で人間の尊厳を奪われ残虐無道に虐殺殺戮されました。
忠孝無限の大和魂をご先祖様から慈愛をもって躾けられたわれわれ大和魂日本人が、ご先祖様の仇そのものであるユダ金米軍に尻尾を振って貢物するなどたとえ日が西から昇るとも決してありえないことです。
釈尊は怨みに報いるに怨みをもってせば遂に怨みは止むことがない、とおっしゃいました。ゆえに我ら大和魂日本人は戦争永久放棄の日本国憲法をもって日米地位協定を武士道魂で破棄しユダ金米軍を美しい大和の島々から追い払って、靖国に鬼畜外道を命を捨てて攘夷したご先祖様諸菩薩の大和魂を招魂して、人天の師釈尊の教えどおり三宝に帰依して菩薩供養礼拝するのであります。

http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_99.html


160. 2014年1月21日 23:49:50 : rWn9PLlcps
誰がなってもそもそも都知事如きに脱原発の権限があるわけないのにね。
「宇都宮氏は都知事選で不正選挙を内乱罪現行犯逮捕せよ」

「北朝鮮デビル夫人、世界のアイドル」http://richardkoshimizu.at.webry.info/201401/article_109.html#comment
>朝からデビル・スカトロ夫人は食欲落ちる(´Д`;)
>噂タクさん2014/01/21 08:27

テレビを捨てればこういう醜い魑魅魍魎の姿も声も見ず聞かずで済んでこどもが本を読んで賢くなるよ。

大和魂のご先祖様は外来夷敵鬼畜外道に佛国日本の土を踏ませぬため己の一番大切な命さえ捨てて戦い武士道攘夷菩薩となった。
その大和魂をご先祖様から受け継ぐわれわれ日本人がなんでご先祖の仇ユダ金戦争屋が作る白痴化洗脳電波発信装置テレビごとき惜しんで捨てられぬことがあろうか。
ご先祖様を供養礼拝尊崇する躾正しき日本人は全員ただちにテレビを捨てよ。これが日本悠久の伝統の大和魂であり日本人の証明である。

まーテレビを見ている時点ですでに佛敵ユダ金拝金戦争カルトスパイ非人伊藤博文田布施人脈棄民テロ贋政府の先制攻撃が奏功していると言うことだね。

靖国の攘夷大和魂菩薩ご先祖さまはすべての世俗の欲も楽も捨てて不惜身命ユダ金と戦った。ユダ金カルト手先拝金非人賤民政府といまこの地球上で至上の気高い大和魂で戦うもののふは、まさに靖国の仏心英霊を受け継ぐ者である。不惜身命を受け継ぐ日本人が、なんぞテレビ如き仏敵拝金カルトの集金装置ぽっち不燃ゴミ廃棄場へ即座に叩き捨てないでおくべきか。

>大将、小沢さん支持はやめちゃったんですか?
>それとも小泉が一緒だから却下?
>ふくろうさん2014/01/21 14:20

ちょっとしらじらしいかなw
別に政治家なんぞに期待する何ものもないが今度の都知事選は2012.12.16と違って単独選挙だからユダ金スパイ総務省選管NHK共犯の不正選挙がボロ出しまくって公務員選挙違反の憲法99条違反内乱罪の動かぬ現行犯証拠がユダ金が嫌がる宇都宮氏を応援することで山盛り捕まえることができるから、選挙の勝敗に関係なく宇都宮氏を応援してるだけである。少し前のエントリー読まなかったのかな、それともただの独立党員撹乱のためかねw

要は不正選挙の証拠をつかんで選管とNHKをぶっつぶして両犯罪組織の所轄省庁総務省を内乱罪で検挙投獄して跡形も残さずぶっつぶす。

今回都知事選で誰が当選しても選挙無効であり、前回1216都知事選の猪瀬当選も無効になる。そうすれば自然に前回次点の宇都宮氏が猪瀬逮捕当選無効を受けて都知事に就任するのさw

同時に1216当選国会議員全員憲法99条違反内乱罪逮捕。安倍ももちろん逮捕。憲法70条総理罷免懲戒免職安倍内閣即日総辞職即日国会解散衆参全議員逮捕してすべて新しい立候補者から両院の全議席に就くべき新しい国会議員を日本国憲法前文「正当な選挙」で選出する。これが立憲法治政治である。

すなわち勝敗に関係なく都知事選で宇都宮氏を応援する。これが大和魂もののふの兵法である。

よって、宇都宮氏は直ちに自分自身で全国の学生生徒に呼びかけて「全国都道府県学生生徒動員社会科実習都知事選挙監視団」を緊急結成せよ。
それが、「天は自ら助くる者を助く」ゆえに「人事を尽くして天命を待つ」ことである。
宇都宮氏が自ら助くるためにこの都知事選に不惜身命人事を尽くさなければ、天も人も宇都宮氏を助けること決して能わず。すなわち宇都宮氏にカンボジアで「公明正大な正当な選挙」実現のために命を捨てて尽くした故中田厚仁くんと同じ不惜身命大和魂があるかないかの問題である。
大和魂菩薩の佛教国日本では、選挙は地位や生まれではなく清らかな行いで作り上げられた崇高な人格で選ぶのである。

釈尊の言葉http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c149
 「道を行きて、己よりも勝れたる者、または、己に等しき人に逢わずんば、むしろ、独り行きて誤るな。愚かなる者の友となるなかれ。」
 「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。独り、サイの角のように歩め。実に欲望はいろとりどりで甘美である。心を楽しませてくれ、満たしてくれる。しかし、欲望の対償には、憂いがあることをみて、サイの角のように、ただ独り歩め。」


渋沢敬三宮本常一師弟が創学した日本常民民俗学を学問する民俗学者と学生は、ただちに宇都宮氏に全面協力して「全国学徒動員社会科実習都知事選挙不正防止監視団」結成と運用に全員結集参加せよ。


161. 2014年1月23日 13:44:31 : rWn9PLlcps
>>121の動画のリンクが切れているね。
代わりにこれをアップしましょう。

「カンボジアロシア国際学術交流都知事選挙実地見学研修団招聘」

「都知事選、確実に不正選挙が敢行されるとみます。」RKブログ
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201312/article_108.html
>いよいよ国連に選挙監視団を派遣してもらわないといけないようだな 情けないことだ!!
>黄昏時のパルチザン兵士さん2013/12/25 19:16

カンボジアのアツヒト村教師学徒村役場の人たちと、ロシアウクライナの選管委員の人たちを招待して日本ユダ金スパイ政府の不正選挙を期日前投票から開票当日までじっくり日本政府総務省の選管マスゴミ不正選挙を見学してもらうとよいね。都内の大学の人文系教室が諸費用を負担して招聘すればよい。円建てなら2カ国でもごく安い費用でアカデミックな国際選挙監視団を学術文化交流として招聘できるから。
国連の大使だった故中田厚仁君のお父さん武仁氏にこの2カ国から不正選挙見学視察学術交流団の招聘を仲介してもらえば迅速に達成できるでしょう。http://www.youtube.com/watch?v=jC7J9kFXwdM&feature=player_embedded


162. 2014年1月25日 10:01:55 : rWn9PLlcps
「伊藤博文田布施人脈」吉田〜中曽根〜小泉〜(鳩山菅野田)〜安倍の憲法破壊暗黒政治

1.謀略が跋扈した小泉政権下で起きた事件だった
    現役の国会議員が刺殺された衝撃的な事件(戦後三人)・・・
「きょう命日 石井紘基・8周忌 〜誰に殺されたのか」http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2010/10/post_1880.html

2.借金800兆円の原因は「中曽根税制改革」か
http://blog.goo.ne.jp/kintaro-chance/e/0c43b0f0bfdd7b6d9e6f20ec6eec560a
・・・
保坂展人(社民党)
Jun 18th
http://twitter.com/hosakanobuto/status/16423823512
菅総理が消費税10%に言及しているが、22年前につくられた消費税納税総額が224兆円で、この期間の法人3税減税額が208兆円だったということをどう考えるのか。消費税のみを取り出した議論は税務官僚の得意技。
・・・

「田布施システム」

3.伊藤博文田布施人脈
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c139

4.平成の「八つ墓村」田布施のタブーにふれ、殺されかけた山口連続殺人犯
http://rakusen.exblog.jp/20861026/


163. 2014年1月25日 20:09:06 : rWn9PLlcps
「都知事と都民の政治権限でできる範囲」

要するに江戸時代の江戸になかったものを東京から取り除けばよい。
まずテレビをみんなで捨てましょう。これでNHKを解体できます。これは都民自身がやること。
同時にパチンコ屋と暴力団事務所を都内10里四方ところ払いに処しましょう。
これで安倍の資金源を断ち切ることができます。安倍晋三は全国パチンコ推進議員連盟会長ですからねw
>>http://hidenori1212.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-96c3.html#comment-77852056
これは都知事が知事権限行政命令で強制執行すること。

宇都宮氏、都民に何を公約すればよいのかこれでおわかりかな。
消費税・国土防衛・脱原発など東京都地方行政に何の関係も実行権限もないのですよ。
実現可能なことを公約するのが誠実で人格の高い「選良」政治家です。

[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文が多いので全部処理

164. 2014年1月26日 12:00:12 : rWn9PLlcps
都知事選速報! 〜 細川・小泉両氏の演説会場は人が溢れ返っている(藤島利久公式ブログ)から転載して引用
http://www.asyura2.com/14/senkyo160/msg/162.html#c17

>「小泉純一郎悪魔劇場詐欺政治」

病院で診療をする医師は法的には全員保険診療の厚生労働省療養担当規則にしたがって医師免許で診断治療を行い支払い基金から診療報酬を受け取っている国家資格技術エージェントです。その規則をまったく医療知識技術のない官僚どもが毎年変更して伝統にしたがうそれまでの病気の診断治療を破壊してでたらめな病気を作り出しています。らい病もエイズもO-157も狂牛病もメタボも禁煙も口蹄疫もPET検診やガンマナイフもワクチンもぜーんぶ死ぬ死ぬ詐欺ですね、小泉劇場詐欺政権以来完全に厚生労働省官僚は全員ユダ金外資のスパイです。これは厚生労働省官僚と外資製薬業者医療機器製造業者インサイダー癒着談合による国民皆保険制度破壊の内乱罪です。そして311後すぐに放射能被曝基準を年100ミリシーベルトへ引き上げたのは明白に未必の故意の殺人罪です。

毎年薬価を変えて製薬会社新薬の利益を増やしたり新しい医療機器を次々に導入して医療機器製造会社の利益を上げて官僚が天下りするのです。マイクロソフトやNHKやソフトバンクと法律を私利私欲のために変更捏造して濡れ手に粟をつかみ放題の明々白々なインサイダー汚職重大刑事犯罪国家統治システム破壊内乱罪および外患誘致罪ですね。

日本国主権者国民が木を見て森を見ずにこの棄民テロ政府ユダ金治外法権地位協定スパイ憲法破壊悪魔官僚組織をぶちのめさず、目の前の善良な医者の診断治療だけを槍玉にあげつらえば、ユダ金とそのスパイ政府はしめしめうまくいったわいとほくそえむことでしょう。


165. 2014年1月29日 00:05:43 : rWn9PLlcps
聖徳太子以来の仏法僧三宝に帰依する佛天子皇霊を霊継(ひつ)ぐ皇統を破ってキリスト教に改宗しようとした天皇モドキ悪魔ヒロヒトがつくった戦後日本ヒトモドキ政府の内乱罪選挙犯罪がわかります。」

偶然見た故佐宗邦皇氏のワールドフォーラム911の真実ユーチューブでとてもよいものを見つけました。
リチャード・コシミズ初講演ワールドフォーラム2006年8月例会
http://www.youtube.com/watch?v=7zOUJHMG-m4

いまの小泉劇場詐欺師以来の自公連立四権癒着ニッポンチャチャチャ猿の学芸会以下最低憲法違反政教一致棄民テロ政治にとってオールラウンドにその正体と目的をあばくとてもタイムリーな内容です。小泉前原安倍麻生鳩山菅野田石原橋下の伊藤博文田布施人脈システムも併せて考えれば、憲法違反の不正汚職犯罪(=内乱罪)にまみれた都知事選挙のすべてがわかると思います。日本国憲法と靖国に集まる佛心大和魂の清らかな英霊を侮辱し汚すものが日米地位協定であるということも。ぜひご覧ください。


166. 2014年1月29日 00:27:49 : rWn9PLlcps
>>165訂正

第一文

天皇モドキ悪魔ヒロヒト>天皇モドキ極悪卑劣外道人外悪魔ヒロヒト


最後から二番目の文

>日本国憲法と靖国に集まる佛心大和魂の清らかな英霊を侮辱し汚すものがカルト悪魔ヒロヒトとカルト悪魔マッカーサーが結んだ日米地位協定であるということも。


167. 2014年1月29日 01:03:49 : rWn9PLlcps
このビデオに出てくる靖国に、A級戦犯合祀を決めたのは戦後カルト悪魔ヒロヒトとカルト悪魔マッカーサーである。
この決定も一神教カルト信者外道が人天の師釈尊に帰依する大和魂佛心菩薩たちを貶め汚す目的でなされたことは言うまでもない。
爆撃虐殺戦争犯罪人ルメイを叙勲したヒロヒト宮内省の卑しい愚劣な追従汚職と完全に同根の、政府公務員による日本国憲法99条違反内乱罪である。

168. 2014年1月29日 01:30:11 : rWn9PLlcps
>>167推敲しました

このビデオに出てくる靖国に、戦後A級戦犯合祀を決めたのはカルト悪魔ヒロヒトとカルト悪魔マッカーサーである。

このカルト悪魔マッカーサーが極東軍事裁判で冤罪捏造した「A級戦犯」靖国合祀決定も、一神教カルト外道信者が人天の師釈尊に帰依する靖国の大和魂佛心菩薩たちの世評を貶め汚す目的でなされたことは言うまでもない。

焼夷弾無差別爆撃非戦闘員大虐殺戦争犯罪人極悪外道カルト悪魔ルメイを叙勲した外道ヒロヒト側近奸臣悪魔カルト宮内庁の卑しい愚劣な追従贈賄汚職と完全に同根の、政府公務員による日本国憲法99条違反内乱罪である。


169. 2014年2月03日 23:03:28 : rWn9PLlcps
「すべての日本国籍日本人公務員は日本国憲法と刑訴法に定められた公務員職責を果たせ」

日本国憲法最高法規99条に憲法遵守擁護「義務」を定められたすべての公務員に告ぐ。

「日本国籍公務員による公選法違反は日本国憲法最高法規99条に違反する内乱罪極刑重大刑事犯罪である」

公選法違反はどんな小さな違反も刑事犯罪である。公務員が公選法に違犯せばそれはただちに最高法規99条の憲法遵守擁護義務を破る刑法有責行為である。
日本国憲法の下に定められた刑法では内乱罪でこれを断罪する。無期懲役以上の極刑が科される。

選管とNHKの職員が公選法違反行為という刑事犯罪を犯していることを目撃したり話を聴いたりして認知した公務員は、直ちに警察官または検察官へ公選法違反刑事犯罪容疑者または現行犯人を必ず告発しなければならない憲法遵守擁護職責がある。


170. 2014年2月03日 23:06:22 : rWn9PLlcps
>>169つづき

(Wiki告発より転載)・・・
1.告発することができる者
誰でも、犯罪があると思うときは、告発をすることができる(刑訴法239条1項)。
公務員は職務上、犯罪を認知したときは告発義務を負う(同条2項)。

2.告訴・告発先となる捜査機関
告訴・告発先となる捜査機関には、検察、警察、海上保安部、労働局、労働基準監督署等がある。刑訴法241条2項は受理権者を「検察官又は司法警察員」と規定しており、検察事務官や司法巡査は受理権者とはされていない。
告訴・告発を受けた捜査機関は、これを拒むことができず、捜査を尽くす義務を負うものと解されている(警察官職務執行法や刑事訴訟法242条、犯罪捜査規範63条、刑事訴訟法189条2項等)。しかし、現実には警察が告訴を放置したり、「この程度では事件にできない」として受理を拒否したりすること(民事不介入も参照)があり、これが犯罪被害の拡大につながるとして社会問題化している。
告訴・告発の法的効果として、司法警察員は事件の書類及び証拠物を検察官に送付しなければならず(刑訴法242条)、起訴又は不起訴の場合の検察官の通知義務(刑訴法261条)、請求があった場合の不起訴理由の告知(刑訴法261条)などがある。・・・


つまり、刑訴法239条2項からも、公務員身分同士かばい合っての公選法違反刑法犯不告発が重大刑事犯罪共犯であり、不告発で現行犯人に重大刑事犯行を完遂せしめた幇助共犯行為によって日本国憲法最高法規99条を破った公務員は、当然憲法が定めた刑法の最高刑である「内乱罪」「外患誘致罪」のいずれかで裁かれることになるのである。
これが立憲法治国家である。日本人の犯罪に米軍人軍属にのみ適用される地位協定治外法権刑事免責は「絶対に」適用されない。公選法に違犯した公務員が内乱罪」「外患誘致罪」の適用を免れようと思うなら日本国籍を捨てて外国へ亡命するしか日本国刑法極刑の執行を逃れる道はないのだ。

すべての日本国籍日本人公務員へ告ぐ。日本国憲法と刑訴法の定めに従い公務員に刑事犯罪行為があると思えば直ちにこれらをすべて告発せよ。それが日本国憲法最高法規99条を遵守する義務を果たし日本国憲法を擁護する義務を果たし憲法に身分保障された公務員の最重要職責を果たすことなのである。


171. 2014年2月03日 23:25:27 : rWn9PLlcps
>>170訂正と続き

すべての日本国籍日本人公務員へ告ぐ。日本国憲法と刑訴法の定めに従い公務員に刑事犯罪行為があると思えば直ちにこれらをすべて告発せよ。警察と検察は日本国憲法の下に定められた刑法と刑訴法を厳正に遵守して日本国憲法が保障したすべての刑事告発を受理し憲法に違背せず正当に司法行政執行せよ。それが日本国憲法最高法規99条を遵守する義務を果たし日本国憲法を擁護する義務を果たし憲法に身分保障された公務員の最重要職責を果たすことなのである。


鈴木たつおはもとNHK職員だから、都知事になったら都内すべての官公庁施設からテレビを全廃撤去して都民の税金を役人が公務中テレビ視聴怠業したうえ電気代NHK放送受信料を公金から不正支出する公務員公金無駄遣い乱用窃盗汚職を一掃し、莫大な行政費用節減効果を上げて都民への福祉財源を作り出します。と公約すれば一気にごぼう抜きで当選するだろうね。
それ以外の公約は経歴と都知事権限からして実行力と実現性がないから何を言っても票割り候補でしかない。タモガミかマスゾエを最少得票数で当選させるユダ金御用達選管NHK共犯内乱罪「不正選挙」をやりやすくするだけでしょう。

真に安倍政権を倒すに必要なのは鈴木たつお都知事候補の言う地方行政選挙人東京都民の1000万票ではなく、都知事選挙執行選管公務員と準公務員NHK職員が犯す公選法違反刑事犯行の動かぬ証拠である。どんなに小さな選挙違反行為であっても選管公務員とNHK準公務員が公選法に違犯せば憲法99条に違反して内乱罪という重大刑事犯罪になるのである。

選管とNHKを今度の都知事選挙で内乱罪の不正選挙犯罪で断罪すれば当然2012.12.16都知事選も同日の衆院選も国民審査も全部不正選挙で選挙無効,安倍内閣総退陣全員逮捕衆参全員総選挙施行となるのです。


宇都宮けんじ都知事候補も前に書いた「都内からパチンコ屋と暴力団事務所を強制執行で総撤去する」公約以外は政治権限上実行力と実現性がないからやはり不正選挙用の票割り候補に過ぎないね。


172. 2014年2月03日 23:29:50 : rWn9PLlcps
>>171続き


要は憲法違反のユダ金カルト選挙管理内乱罪不正選挙なんぞに投票する価値はない。「幸せの和pdf」*に書いてあるとおりの選挙管理しか憲法に従う日本国憲法前文の「正当な選挙」はないということ。

その日本国憲法前文「正当な選挙」をカンボジアの戦場で命を捨ててやり遂げた若き大和魂もののふ故中田厚仁くんを日本人の選挙管理の鑑としてあとに続き、悠久なる敷島の不惜身命大和魂もののふはユダ金が仕掛ける地位協定治外法権日本国憲法破壊の不正選挙に敢然挑戦しこれを打ち破って、かつてレイテ沖で**靖国の英霊ご先祖様たちが命を捨てても日本国土侵略日本国民蹂躙虐殺を阻止せんとした外道ユダ金カルト鬼畜をこの美しい悠久の豊葦原瑞穂のおおやまと秋津島から今こそ禊ぎ祓い追い落とさねばならない。

それにはレイテ島のあるフィリピン国がかつてなした下院比米基地協定批准停止破棄決定***に倣って、日本国憲法前文の「正当な選挙」で選んだ国民の正当な代表国会議員が参集した正当な国会において「日米地位協定批准停止破棄」を、日本国民のムー大陸超先進文化文明遺民としての誇りと矜持に懸けて大和民族の和合した正当な総意として決断すればよいのである。

*http://image53.bannch.com/bbs/787532/img/0262596974.pdf
**http://www.geocities.co.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/oonishi/oonishi_shini.htm
***http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-03-20/2009032007_01_0.html
+http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-07-19/2009071901_02_1.html


173. 2014年2月04日 19:28:20 : rWn9PLlcps
>>172推敲

その鬼畜米軍放逐を達成するには、レイテ島のあるフィリピン国がかつてなした下院比米基地協定批准停止破棄決定***に倣って、日本国憲法前文の「正当な選挙」で選んだ国民の正当な代表国会議員が参集した正当な国会において「日米地位協定批准停止破棄」を、日本国民のムー大陸超先進文化文明遺民としての誇りと矜持に懸けて大和民族和合した正当な総意として決断すればよいのである。


174. 2014年4月04日 19:55:56 : rWn9PLlcps
RKブログ[最近思います。]へのコメント
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201404/article_38.html#comment

>「私の国であれだけ政府に都合がいい報道をさせようとしたら、ジャーナリストを拷問することになるでしょう。いったい日本政府はどんな方法を使っているのですか?」
  −ジプシー・トープ(ロシア人ジャーナリスト)
>pecoさん2014/04/03 11:21

テレビを使っています。
テレビで流す情報はすべて真実を隠すための撹乱洗脳映像であり、各家庭へ送信する動画の光と音で日本人の先祖代々世界一優秀な脳を破壊するための大和民族殲滅攻撃兵器なのです。
テレビを捨てれば捨てた瞬間からただちに江戸時代以前の世界一優秀で人格最上の日本民族が復活します。東北大震災でテレビも電話も失った被災者日本人集団がただちに世界中から賞賛される態度と行動を示したように。

RKブログ「STAP細胞騒ぎ:小野寺さんの見方」へのコメント
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201404/article_35.html
>、ブラックNHKの番組に出演している山中伸弥の様子、さらには、小保方騒動についての彼のコメントには、
何か異様なものを、感じてしまいます。
>Jack 天野さん2014/04/03 13:37

そのとおり。iPS細胞は動物細胞とのキメラであり人間への治療にはまったく使えません。ノーベル賞受賞時にマスゴミにバッシングされたヒト肝細胞由来幹細胞治療成功させた日本人医師がいましたがあちらが本当のノーベル賞ですね。小保方さんも日本マスゴミに叩かれているからSTAPは本物だと明らかにわかります。
なぜなら日本政府と日本マスゴミが言うことは何から何まですべて嘘だからです。


RKブログ「「増税の真実」国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」配信メール」へのコメント
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201404/article_46.html
日本の革命なんてか〜んたん!
庶民が犬あっち池受信料契約テレビを捨てればすぐに生活が豊かになり病気がなくなって健康で長生きになり明治維新伊藤博文廃仏毀釈以前★の世界一賢く手仕事技能世界一の仏弟子菩薩常民国豊葦原瑞穂の国がただちに再現されますよw

http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html

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175. 2014年4月16日 14:24:09 : rWn9PLlcps
◎全世界が称賛した東日本大震災被災者のようにTVを物理的に排除して(マッカーサーが失わせた)日本人の魂「大和魂」を取り戻す方法

「STAP細胞 : これが読売CIA新聞の手口です。」
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201404/article_157.html
>メディアは案外、嘘をついていないw
>ポンにだ2014/04/15 16:11

テレビはGHQが作った。これだけでなんもかんもわかるのが由緒正しい世界一賢い大和民族というものだよ。
GHQは幕末ぺりー以来の日本人皆殺し作戦遂行のためにナチス洗脳技術を応用して日本民族の命よりも大事な宝であるこどもを脳症で殺すカラーテレビを作った。
だからテレビで絶対に本当のことは言わないよ。テレビが言うことはすべて嘘なのです。真実を隠すためです。
そしてTVの真実はテレビを持っている限りわからないようになる。そのようにするべくテレビは編集放送しているからね。つまりテレビを持っている人が真実がわからないのはその人が悪いからではない。ただただこどもをテレビ脳症で殺すためにテレビを作っているGHQそのものが悪いのである。
http://blog.goo.ne.jp/newgenerations/e/b60ef7447b10ffe409c0156faa40a4b5
>「目で見る日米地位協定」1965年沖縄 「少女轢殺」  >>http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51424388.html

ポンにだもテレビを物理的に捨てて犬あっち池と解約すればその瞬間から真実がわかるよ。TVを捨てられないで持っている限りわからないがそれもポンにだのせいではなくGHQ編集こども殺しテレビのせいなのである。そこで、消費税も受信料も電気代も4月から上がったことだしためしにテレビの電源コードを感電しないようにコンセントから抜いてはさみでちょん切って1週間待機電力ごと節電してごらん。テレビは電源コードをちょん切っても下取り価格はまったく同じなのですから安心して(感電しないように抜いてから)はさみで電源コードを切断してください。1週間もすれば私の言っていることが真実であることがすぐにわかるから。つまりこどもが親の言うことしか聞かない江戸時代の世界一賢い日本人のこどもになる。大和民族日本人庶民は宇宙一賢い抱っこの達人子育て民族なのだ。

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176. 2014年4月27日 06:38:47 : rWn9PLlcps
飄(つむじ風)http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/2014/04/post_8aca.html
>「何も知らない私達をよそに、「一握りの誰か」に都合のいいように勝手に物事が進む世の中・・・」

一握りの人たち=嘘つき虐殺者GHQマッカーサーと日本開闢以来の最大の嘘つき売国奴ヒロヒトおよび私利私欲に憑かれて彼らに奉仕する人たちである。
いずれも程度の違いが多少あってもみな釈尊のいう最も「縁なき衆生」たちである。

明治の元勲伊藤博文山県有朋以来の田布施「部落」人脈が非人階級ならではの私利私欲追求の銭の亡者となって明治6年政変で文武両道武士道を下克上し廃仏毀釈で仏法僧の三宝をエタ天皇で下克上しムー大陸以来の伝統の真善美菩薩常民国日本を壊しつづけて来ている。

参考
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c89

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177. 2014年5月10日 17:13:16 : rWn9PLlcps
◎日本はムー大陸時代以来続く先祖代々菩薩常民国である◎

この秋田嘉弘という人天の師釈尊の言葉法句経に帰依する日本人が現在もっとも宇宙の真理(三宝すなわち仏法僧)に近づいていると思いますね。

>神々のハーモニー(文と音楽by秋田嘉弘)
https://www.youtube.com/watch?v=04xIZvVYQtM&list=UU2fHPR-NxuYGd1oMOGXLwFA

法句経
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c149

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178. 2014年5月10日 22:47:28 : lhcZShwZBI
産経の偏見も、かなり磨きがかかってきたようで何より。
我(産経)の意見のみが真理で絶対だってか?
他者の異見の介在すら許さないってか?

戦争、やるの?


179. 2014年5月11日 12:22:31 : rWn9PLlcps
◎廃仏毀釈と文明開化こそが地球史上最悪の卑劣外道な売国棄民政策である◎


「うつ病はただの甘え・怠けであることが実証されました」RKブログ
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201405/article_70.html

>元凶は構造改革と称する日本破壊だと思います。
>猫太さん2014/05/10 22:58

元凶は明治新政府田布施非人下克上初代総理大臣フリーメーソン伊藤博文が行ったムー大陸時代以来伝統の先祖代々真善美菩薩常民国日本を破壊した「廃仏毀釈」である。

http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c139
から145まで参照

大和民族全員が仏教徒だった江戸時代まで日本にうつ病など存在しなかった。廃仏毀釈後の明治になってうつ病が多発するようになった。代表例が夏目漱石である。明治以後の文人は皆うつ病で自殺している。これがうつ病の元凶が廃仏毀釈であるという真実の明らかな証拠である。

そして人間の脳を破壊する毒薬である抗欝剤も明治以降になって初めてフリーメーソンの国から大和の国へ入ってくるようになった。もちろんフリーメーソン廃仏毀釈下克上非人伊藤博文が持ち込ませた大和民族滅亡を目論む毒薬である。
すなわち『文明開化』とは、大和の国のムー大陸以来伝統の崇高な仏教菩薩文化をキリスト教ユダヤ教の凶悪下劣外道な一神教カルトテロリズムで破壊し尽くし、大和民族が先祖代々大切に親から子へと培ってきた大和魂を地球上から消滅させようとする、地球史上最も邪悪で最も外道な棄民売国政策そのものだったのである。


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180. 2014年5月12日 22:57:36 : rWn9PLlcps
◎GHQテレビを撲滅するにはB−CASカードをぶち捨てて犬アッチ池-受信料契約を解約するだけで良い ◎

こないだまでテレビそのものをぶち捨てろと言っていたけど、B−CASカードを抜いてしまえば人体に危険なCMだらけのGHQテレビデジタル放送を完全に受信できなくなって、安全な家庭用DVDやインターネットモニターとして使えることが最近わかったので、日本人のこどもから老人までGHQテレビ放送の凶悪な脳破壊攻撃から大切な脳を守るために直ちにB−CASカードを抜いてNHK受信契約を完全解約破棄して、憲法違反放送法で国民の私有財産から現金を盗む詐欺泥棒犬アッチ池ーを国民主権憲法の正義の鉄槌でぶっつぶしてやりましょう。

田布施非人伊藤博文の一派が吉田茂鳩山一郎小泉純也池田大作文鮮明中曽根康弘竹下登小沢一郎安倍晋太郎石原慎太郎小泉純一郎前原誠司鳩山由紀夫菅直人野田佳彦麻生太郎安倍晋三橋下徹である。

不正選挙で政権を取ったトレモロス自公連立憲法違反内乱罪棄民売国政権を日本から撲滅するには総務省の役人組織であるNHKをぶっつぶせばよい。GHQスパイ犬アッチ池ーが消滅すれば二度と不正選挙が出来なくなって安倍GHQ奇形司法GHQ売国奴霞ヶ関GHQこども殺しテレビマスゴミ不正政権はたちまち地球上から消えて無くなるよw

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181. 2014年5月30日 13:43:03 : rWn9PLlcps
>田布施もんに負けとったら
>ブチいわすぞ!(ごちゃまぜw)
>ポンにだ2014/05/29 22:58
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201405/article_266.html#comment

鹿児島串木野の殆ど隣に加世田の田布施(鮫島小泉のお里)もあるでよw

周防田布施の非人伊藤博文は武士で無いのでやはり書道が下手だった。銭形平次の作者野村胡堂が「胡堂百話 紅葉の手紙」で述べている。
・・・原敬の書は非常に少い。伊藤博文などのように下手だから書かないのでなく、うまいくせに滅多に書いていないのだ。・・・
http://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/55089_53206.html


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182. 2014年5月30日 21:33:40 : rWn9PLlcps
伊藤博文が文武両道の躾けを受けた武家階層の出身では無かった事を明らかに示すのが次に示す伊藤博文自筆の手紙の内容である。これによると伊藤博文の愛妻は武家の子女に必須の手習いを幼時には身に着けて居らず、伊藤が新政府の官職に就いてからのちに付け焼き刃の手習いを始めたことがわかる。文武両道を重んじる武家の嫁は必ず幼時から手習いを身に着けた武家の子女であるが、伊藤博文本人も野村胡堂が証言する如く書の嗜みが無くその妻も手習いを知らぬという田布施非人村集落内の文武両道とも欠けた人別非人婚の無躾家庭を持っていたことがわかる。

・・・なかなか心づかいのこまかな伊藤少輔であった証拠は、明治五年十一月三日付、そのときは工部大輔(たいふ)遣外副使として在米中の彼から愛妻お梅に送った手紙に、
「まゆげをたてたるも、かねをおとしたるも、至極(しごく)よきことなり。しかし、こころで、おさき(長州の方言生意気の意)にならぬよふ、御つつしみありたきものにて候。このたびの手紙(妻からうけとったばかりの)は、よほど字もよくかけて、よみやすく、さだめし御手習の勢に之(これ)有る可くとぞんじ候。しかしながら、かなのつかひかた、まだじうぶんにおもひ申さず、よくよくおんおぼへなさるべく候。いつもおなじことながら、むえきの金をつかはぬよう御用心」・・・

引用元「明治の五十銭銀貨」服部之総
http://www.aozora.gr.jp/cards/001263/files/50371_40672.html

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183. 2014年6月30日 12:54:15 : rWn9PLlcps
「東行(高杉晋作)系でコメントします 」

新宿焼身自殺事件についてさゆふらっとまうんどさんのブログへ書き込みました。
http://sayuflatmound.com/?p=1944#comment-11860

>さゆふらっとまうんどさんが新宿焼身自殺の事件を動画であげられております。
>https://www.youtube.com/watch?v=SZeTZp14Rhk
>川口さん2014/06/30 07:33

彼の大和魂を見ました。
靖国招魂場に筆頭で祀られている「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」吉田松陰の言葉を捧げます。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

弟子である高杉晋作の「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」という問いに答えたもの。この年に松蔭は処刑される。

出典:幕末ガイド 吉田松陰
http://bakumatsu.org/men/view/67


高杉晋作については別途参照:例
http://bakumatsu.org/blog/2013/06/takasugi.html

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184. 2014年6月30日 22:48:08 : rWn9PLlcps
「大和魂は武士道忘己利他菩薩行である」

>創価学会は・・・
>私だけは仏様に守られている、我が子だけは神様に守られる等々お考えの様でしたら、それは似非善人と呼ばれる事でしょう。
>プロフィア乗りさん2014/06/30 19:29
ttp://richardkoshimizu.at.webry.info/201406/article_197.html


> 釈迦の言葉
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c149
(出展はインド原始経典「スッタニパーダ」などで、実際の釈迦の説法に、かなり忠実であるとされる)

「母と父とは子らに対して多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれた。」

「母、または父が老いて朽ち衰えていくのを養わないで、自らは豊かに暮らす人、これは破滅の道である。」

「親の義務とは、子を悪から遠ざけ、善に入らしめ、技能を習学させ、適当な妻を迎え、適当な時期に相続させることである。」

「子らは、すみかであり、妻は最上の友である。」
・・・
「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」
・・・
「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」

「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」
・・・
 「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。独り、サイの角のように歩め。・・・」

「世界はどこも、とどまってはいない。すべての方角も揺れ動いている。私は、安住の地を求め探したが、どこにもなかった。すべて、死や苦しみにとりつかれている所ばかりだった。殺そうとしている人々を見よ。武器をとって打とうとしたことから恐怖が起こった。すべてのものは、燃えている。欲望と怒りと愚かさによって。」

・・・・・

吉田松陰が語ったといわれる言葉。人柄や当時の心情が見えてきます。http://bakumatsu.org/men/view/67

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」

「諸君、狂いたまえ。」

「満開となれば、やがて花は落ちる。太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない。」

「人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。」

「宜しく先ず一事より一日より始むべし。」

「みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず。」

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」(弟子である高杉晋作の「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」という問いに答えたもの。この年に松蔭は処刑される)

「人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである」吉田松陰『講孟箚記』より。

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」

「学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。したり止めたりであっては、ついに成就することはない。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」(意味は「自分で自分の言動を顧みて、正しいと思うのならば、たとえその道を一千万人が塞ぐことがあろうとも、私は全うする」)

「悔いるよりも、今日直ちに決意して、仕事を始め技術をためすべきである。何も着手に年齢の早い晩い(おそい)は問題にならない。」吉田松陰『講孟箚記』より。


「君子は、何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は、何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。」この後に続く言葉。「わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「私心さえ除き去るならば、進むもよし退くもよし、出るもよし出ざるもよし。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「志定まれば、気盛んなり。」「汝は汝たり、我は我たり。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「世に材なきを憂えず、その材を用いざるを患う。」

「だいたいにおいて世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、あてにならぬものである。」

「ただ非常の人のみ即ちよく非常のことを為す。」『無逸に与う』より

「権謀と申すは実は無策なれど策ある貌(顔)をし、直言極論はせざれども直論貌(顔)をすることなり。」入江杉蔵宛書簡より。意訳『権謀というのは、なにも策などないくせに策があるように思わせ、面と向かって言及などしないくせにそうしているように振る舞うことである。』

「一人の策を積みて一家の策を為し、一家の策を積みて一国の策を為し、一国の策を積みて天下の策を為す。御努力これ祈る。」兄 杉梅太郎宛の書簡より。内容は「社会を変えていきたいのであれば、 まずは己の周辺から始めなさい」

「世の人は善し悪しごとも言わば言へ。賤が心(自分の心)は神ぞ知るらん。」白井小助宛の書簡より

「あまり怒りよると、とうとう腹もなんにも立たぬようになる。」入江杉蔵宛の書簡より

「君子は、理に合うか否かと考え行動する。小人は、利に成るか否かと考えて行動する。」

「賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「17、18の死が惜しければ、30の死も惜しい。80、90、100になってもこれで足りたということはない。半年と云う虫たちの命が短いとは思わないし、松や柏のように数百年の命が長いとも思わない。天地の悠久に比べれば、松柏も一時蠅(ハエのような存在)なり。」品川弥二郎宛の手紙より

「牢獄で死ねば禍いのようだが、この場所で学問をし、己のため、他人の為に後世に伝えることを残し、身は失っても死にはしない人たちの仲間入りすることができるならば、この上もない福というもの。」妹・千代宛の手紙より。吉田松陰の江戸送致が決まる直前である。

「死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。」高杉晋作に送った言葉。吉田松陰は牢獄の中であった。

「父母を喜ばせるために妻を持ち、宮仕えするのもよいでしょう。但し、正論を通しなさい。ならば必ず放逐後退の時期が来る。その時に書を読み、心を練り、十年後の大事に備えるのです。」高杉晋作に送った言葉

「小生、獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。」中谷正亮宛の書簡より

「命が惜しいか、腹が決まらぬか、学問が進んだか、忠孝の心が薄く成ったか、他人の評は何ともあれ、自然と決めた。」『自然説』より。(入江杉蔵宛)

「末の世において道義を実践したならば、必ずその時の人々から極端だといわれるであろう。もしまた、世人から極端だといわれるくらいでなければ決して道義ではないのであって、すなわち世俗に同調し濁った世に迎合したものにすぎない。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「大器を作るには急ぐべからずこと。」

「一日一字を記さば一年にして三百六十字を得、 一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う。」

「草莽崛起(そうもうくっき)」草莽は「在野の志士」、崛起は「立ち上がれ」の意。

「心甚だ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し」父の友人である瀬能吉次郎にあてた手紙より。吉田松陰の興奮が伝わる前後の文は以下。「浦賀へ異船来たりたる由につき、私ただ今より夜船にてまいり申し候。海陸ともに路留めにも相なるべくやの風聞にて、心はなはだ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し。」

「山は樹を以て茂り 国は人を以て盛(さかん)なり」
意味は、「山が樹木によって茂るように、国というのは人によって豊かになっていくのである。」

転載終わり

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185. 2014年7月14日 15:17:44 : rWn9PLlcps
一生かかっても使い切れない額のお金を貯めこんでいる人、その筆頭が世界の富の7割を所有していると言われている金融王ロスチャイルドや石油王ロックフェラー一族を頂点とする裏社会組織(通称ユダ金)。

しかし、そんなのはぜんぜん「スゴい人」として尊敬されませんね(^^;

やはり西郷隆盛さんの言う「金もいらなきゃ名もいらぬ、いざとなれば命すら要らない」生き方こそ本物であり、「スゴい人」と多くの人びとから尊敬されるに値すると思います(^^)


「月刊スゴい人」より
http://sugoihito.or.jp/2013/01/5784/

■牛乳を飲んで育った人が病気になる確率は、飲まない方に比べて20倍。

■医者があまり使いたがらない【丸山ワクチン】。
 理由は治ってしまうから。
 そして儲からないから。

■正しい事をしていれば、必ずお金は入ってくる。
 そして、頂いたお金はすべて次の正しいことの為に使う。
これこそが、正しい行い。

お金が残るのは正しいことをしていないから。


>百折不撓つとめて止まず2014/07/12 07:30

>西郷隆盛さんの言う「金もいらなきゃ名もいらぬ、いざとなれば命すら要らない」
>百折不撓つとめて止まずさん2014/07/12 07:30

その言葉は直接には山岡鉄舟をさして言われた言葉ですが、高杉晋作も西郷の頭の中にあったと思います。
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c154
>通りがけ2014/07/12 17:21


通りがけさん(2014/07/12 17:21)

西郷南洲翁は山岡鉄舟を指して「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」と、『西郷南洲遺訓』に述べられていますが、西郷南洲翁こそ無私の人、理想的な日本男子であると尊敬しております(^^)

来週土曜日7/19は、その山岡鉄舟命日。
山岡鉄舟は戦国時代の剣豪・塚原卜伝(鹿島の太刀)の家系とのこと。
7/19(土)にはあらためてコメント投稿しようと考えておりました(^^)
いやはや、日本人は凄すぎます(^^)

http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/43303869.html
>百折不撓つとめて止まず2014/07/13 18:44


>百折不撓つとめて止まずさん2014/07/13 18:44

あの学校も病院も工場もテレビもない時代の日本人はみなすごいですよね。山岡鉄舟は勝海舟と同じく徳川武士です。勝海舟もすごいんです。親父の小鉄がすごい。中里介山大菩薩峠の終わりのほうで勝小吉の著書「夢酔独言」が読めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4344_15487.html

西郷隆盛と高杉晋作の下関会見も面白いですよ。こちらは次のページで。
http://baisho.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-dcd9.html


いずれにしても日本人がすごいのは天皇や将軍がすごいのではない。昔から士農工商庶民がすごいのです。われわれ庶民のご先祖様こそが忘己利他武士道菩薩常民大和魂を代々口伝直伝でわれわれ大和民族子孫に教え伝えてきてくれました。天皇や将軍ははっきりいって馬鹿です。偉大なのは大和民族常民ですねw
通りがけ
2014/07/14 10:55

[12削除理由]:無関係

186. 2014年7月14日 17:22:56 : rWn9PLlcps
>>185
勝小吉「夢酔独言」続きがありました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4345_15615.html

[12削除理由]:無関係
187. 2015年9月03日 11:23:01 : rWn9PLlcps
「決定版 昭和史 第一巻昭和前史・文明開化(幕末ー明治18年)」昭和59年6月30日毎日新聞社刊行
【近代日本の礎となった政治家 大久保利通】  毛利敏彦 (p212〜p215全文)

『強固な意志の人』

 すべて歴史上の大変革がそうであったように、近代日本の幕開けとなった明治維新もまた、華麗なロマンと冷厳な現実とが交錯する一大ドラマであった。そして、維新のロマン、つまり英雄的、叙情詩的側面を象徴する人物が西郷隆盛であったとすれば、維新の現実的、叙事詩的側面を代表したのは大久保利通であった。

 大久保は、明治維新政治史において、二つの偉大な役割を果たした。一つは、江戸幕府の最大の敵となった薩摩藩を倒幕の方向にまとめあげたことであり、もう一つは、幼弱な明治政府の基礎を固め、守り抜いたことである。

 かれは、強固な意志力と実行力に恵まれた希有の人物であった。反面、将来への見通しや構想力の面では、いささか貧困であったのは否めない。しかし、いったん、こうと目的を定めると、その実現へ向けて恐ろしいほどの集中力と粘りを発揮し、あらゆる手段を尽くして目的実現に没頭した。このような大久保の個性は、明治維新の過程と結果に深く刻み込まれている。

 大久保は、天保元年(1830)八月十日、薩摩国鹿児島城下の下級藩士の家に生まれた。奇しくも、吉田松陰と同年同月生まれである。竹馬の友の西郷隆盛は三歳年長であった。

 大久保が十五歳になった弘化元年(1844)、薩摩藩に重大事件が突発した。薩摩支配下の琉球(沖縄)にフランス軍艦が来航し、開国と通商を求めたのである。それは、鎖国日本に一大衝撃をもたらした九年後のペリー来航の事実上の前ぶれであった。この事件を通じて、薩摩藩は、幕府や諸藩より一足早く十九世紀のきびしい世界情勢に直面したのである。

 この事件は、大久保個人の生活にも大きく影響した。事件への対応をめぐって藩内に深刻な政争が発生し、改革派に属していた父大久保利世(としよ)は、藩庁主流に対立して、遠島処分の憂き目にあったのである。大久保家の生活はどん底に墜ち、若い大久保は、一家を支えて苦闘しなければならなかった。この経験が、大久保固有の粘り強さ、負けん気、慎重さなどの性格を鍛えたといわれる。そして、失意の大久保の心の支えとなったのは、親友西郷の変わらぬ励ましであった。

『島津久光との出会い』

 やがて、ペリー来航をきっかけに、ついに江戸幕府は開国に踏み切り、日本は否応なく弱肉強食の国際政治の渦中に引き入れられた。ここに、幕末激動期の幕が切って落とされた。薩摩藩の政情も変化して、利世は赦免され、ようやく大久保の前途も明るくなってきた。

 開国後の社会の激変は、幕政批判の声を高めたが、大老井伊直弼は、「安政の大獄」でもってむくいた。それは、火に油を注ぐ結果となり、尊皇攘夷運動を燃え上がらせた。薩摩藩の青年武士のなかにも、西郷、大久保をリーダーとする尊攘のグループが生まれたが、西郷は安政の大獄のあおりをくって奄美大島への潜居を余儀なくされた。焦った同志たちは、前後の見境もなく、井伊を襲撃せよといきりたった。

 しかし、大久保は冷静であった。かれは、激情にかられた一過性の直接行動の限界に気づいていた。そして、幕政=国政に影響を及ぼすためには、まず薩摩藩自体を動かさなければならないと考えた。そこで着目したのは、藩主島津茂久(もちひさ)の実父で藩政実力者の島津久光であった。しかし、大久保と久光とでは身分上の隔たりが大きすぎ、容易に接近できる関係ではなかった。

 ここで、いかにも大久保らしい粘り強い努力が発揮されたのである。かれは、同志の暴発を懸命に食い止めながら、久光への接触の糸口を探した。そして、久光が碁好きであり、城下吉祥院の住職乗願(じょうがん)の指導を受けていることをさぐりあてると、大久保は乗願の囲碁の弟子となった。このまわりくどいやり方に、なにがなんでも久光とのつながりをつけねばならないという大久保の執念が表れている。

 大久保と親しくなった乗願は、ある日、久光が国学者平田篤胤が著した『古志伝(こしでん)』を読みたがっているとの耳よりの話をもたらした。大久保はこの機会を逃さなかった。かれはこの本を探し出し、乗願を経由して久光に届けた。そして、本のなかに時局への意見や同志の氏名を記した紙片を密かにはさみこんでおいた。これを機会に、久光は、しだいに大久保やその仲間たちの言動に注目するようになった。

 このように布石を打ったうえで、大久保は、暴発寸前の同志のエネルギーを、久光への圧力と取引の材料に使った。つまり、暴発近しを久光ににおわせ、その抑止の代償として、自分たちの主張の藩政への反映を求めたのである。一方、久光は、藩内での発言力拡大を図って、活力あふれる大久保ら下士団を自己の支配下に組み入れたいと望んだ。ここに、両者の利害は一致し、久光と大久保の提携が実現したのである。

 大久保が久光に着目してから提携の実現まで一年半かかっている。ここに、いったん目標を定めたら倦むことなく目標に向かって粘り強く手段を尽くすという大久保の行動様式がよく表れている。それは、大久保の政治的生涯を通じての特色であった。

 なお政治に全身全霊を投入した大久保は、ほとんど趣味らしい趣味と無縁であり、囲碁が唯一の例外であった。ところがその囲碁修得自体が若き日の政治的目的の副産物であったのである。

 久光の知遇を得た大久保は、水を得た魚のように頭角を現し、久光側近として藩内の地歩を固めていった。やがて、文久二年(1862)には、久光を擁して公武合体運動に着手し、いよいよ中央政局に乗り出した。それは、開国以後しだいに鮮明になってきた「公」(京都朝廷)と「武」(江戸幕府)との対立を薩摩藩の手で調整して挙国体制を生み出そうとする野心的な試みであった。この過程で、薩摩藩のやり手大久保の名は天下に知られるようになった。

 しかし、外様薩摩藩の中央政局介入は幕府の反発を招き、幕薩関係を悪化させた。そこで、久光は運動から手を引いたが、すでに大久保は一本立ちしていた。かれは、旧友西郷隆盛と手を組み、薩摩藩を倒幕の方向にまとめ上げた。そして、西郷は長州藩との同盟を実現した。こうして、西郷と大久保の絶妙のコンビは斜陽の幕府を政治的に追い詰め、ついに、大政奉還、王政復古となったのである。大久保の粘り強さと集中力が大いに寄与したのはいうまでもない。

『新国家形成への苦闘』

 こうして、京都に明治新政府が誕生し、三十八歳の大久保は参与(さんよ)に就任した。しかし、政府の実態は、大久保と岩倉具視の提携を軸とする倒幕派藩士と王政復古公卿(くぎょう)の寄り合い所帯にすぎなかった。政府とはいえ、町内会に毛が生えた程度で、固有の行政組織も軍事力もなく、財政基盤も貧弱で、いつ潰れてもおかしくないお粗末な代物であった。俄(にわか)づくりの政府首脳たちは政権確保に自信をもてず、前途に悲観的であった。大久保も、「皇国の事、すべて瓦解土崩(どほう)、大御変革も尽(ことごと)く水泡画餅(がべい)」と、不安を記している。しかし、大久保は、動揺する岩倉らを叱咤激励し、不退転の決意で、新政府の創出と維持に全力を投入した。かれの強固な意志の力が欠けていたならば、維新は腰くだけに終わったかもしれない。

 大久保が渾身の力で新政府をもちこたえているうちに、情勢は好転してきた。なによりも、新政府は天皇権威という無類の資産を擁していたし、時の勢いにも乗っていた。そこで、当初は薩長など倒幕派諸藩にのみ依拠していたが、立ち上がりの鳥羽・伏見戦争を辛(かろ)うじて乗り切ると、日和見(ひよりみ)していた西日本の諸藩は、バスに乗り遅れまいと、なだれをうって新政府の側についた。京、大阪の大商人たちも政府に献金して忠誠を示した。

 ここに大勢は決し、観念した徳川慶喜は江戸城を明け渡して新政府の軍門に降(くだ)った。旧幕府側の拙劣な対応に助けられたとはいえ、もし大久保という強烈な個性が存在していなかったならば、明治政府は発育不全のまま野垂れ死にしたかもしれない。

 こうして、新政府の権威と指導性は確立したが、諸藩は依然として半独立の体制を残していた。国家統一のためには廃藩が不可避の課題であったが、諸藩の抵抗が新政府の命取りになるおそれもあった。そこで、またもや大久保は、郷里鹿児島で藩政改革にあたっていた旧友西郷隆盛の助けを借りることにしたのである。

 大久保の懇望(こんもう)を容(い)れた西郷は、手塩にかけて育て上げた精鋭の鹿児島軍団を率いて政府に入った。ここに、政府の威力は格段に高まったので、明治四年(1871)七月、廃藩置県が断行され、明治政府は日本全土の直接統治にこぎつけた。

 幕末の場合と同じく、廃藩置県においても、西郷と大久保のコンビは絶大な力を発揮した。維新変革のドラマには、天皇・将軍から庶民にいたるまで有名無名の多数の人物が登場したが、西郷と大久保は文字どおり主役であった。そして、長い日本の歴史において、これほどの大仕事を遂行した名コンビは稀(まれ)なのではなかろうか。ところが、二年後に両者は悲劇的な対立と決別の運命に見舞われるのである。

 前途に、そのような運命が待ち受けているとも知らず、大蔵卿になった大久保は、その年十一月、右大臣(副首相)岩倉具視を大使とする使節団の副使として、米欧各国歴訪に出かけた。明治新政府の発足を各国に伝えるとともに、条約改正への瀬踏みと西洋文明の調査を目的とした旅であった。


『明治六年政変(その一)』

 大久保が岩倉大使より一足早く帰国したのは、明治六年(1875)五月であったが、半年後の十月二十三日、ただ一人の陸軍大将で筆頭参議の西郷隆盛が、病気を理由に辞表を提出し、翌二十四日、参議を解任された。同じく二十四日、参議の板垣退助、江藤新平(えとうしんぺい)、後藤象二郎、副島種臣の四人も、西郷に一日遅れて、いっせいに辞表を提出した。ここに、政府首脳は真っ二つに分裂し、半数が野に下るという大事件となった。

 いわゆる「明治六年政変」であるが、従来、この事件は征韓論政変とも呼ばれ、征韓論の西郷派と非征韓論の大久保派の衝突が原因で生じた事件とみなされてきた。さらに、西郷が征韓を主張したのは、国権拡張を期すとともに、不平士族の不満を外にそらし、かつ没落士族の活路を求めたからであり、一方、大久保は、欧米先進国を視察して内治優先を痛感し、私情を超えて開戦のおそれがある西郷の主張に反対せざるを得なかった。そして、閣議で征韓論が敗れたので、西郷派はいっせいに下野した云々(うんぬん)、というのが通説である。

 ところが、先入観を去って関係史料をよく調べてみると、この通説の根拠は意外にあやふやなのである。西郷が閣議などの公式の場で征韓を主張したとの記録は皆無であり、かれが士族のために征韓を図ったと直接に証明できる証拠もない。また、朝鮮問題に対する西郷の議論が閣議で否認された事実はないのみか、むしろ、閣議で孤立し辞表を提出したのは大久保のほうであった。征韓論政変説というのは史実と食い違う誤謬に満ちた俗説である。

 では、なぜ大久保は生涯の親友で無二の同志であった西郷と対立し、政府の大分裂まで引き起こしたのであろうか。その謎を解くために、政変の経過を簡単にたどってみよう。

『明治六年政変(その二)』

 大久保帰国前後の明治六年初夏のころ、隣国朝鮮との間に厄介な問題が発生した。そもそも、江戸時代には日朝間に友好関係が存続していたが、江戸幕府の倒壊とともにその関係が途切れ、明治政府は朝鮮との国交再開をもくろんだものの、両国の思惑(おもわく)が食い違ってうまくいかず、外交上の重要懸案となっていた。そのようなときに、朝鮮国釜山(ふざん)所在の日本側出先機関が朝鮮現地の官憲に侮辱(ぶじょく)されるという不幸なトラブルが発生したのである。

 事態を重大視した外務省は閣議に問題をもち込んだ。強硬派の参議板垣退助(いたがきたいすけ)は現地に軍隊を急派せよと主張したが、西郷は反対した。西郷の意見は、派兵は開戦の危険をもたらすからよくない、それよりも全権の使節を派遣して公明正大に談判すべきだというものであった。そして、みずから使節を引き受けたいと申し出た。そこで、太政大臣(首相)三條実美(さんじょうさねとみ)は、使節は護衛兵を連れて軍艦で行くのがよいと論じたが、西郷はこれにも反論し、交渉をうまくまとめるためには相手を信頼して非武装で礼儀正しく使節を送らねばならないと強調した。

 結局、閣議は西郷の主張の線でまとまり、西郷使節の朝鮮派遣を内定したが、なお正式決定は(各国歴訪中の)岩倉帰国後とされた。ここで注意しておきたいのは、西郷の立場が、征韓論(せいかんろん)とまったく正反対の平和的道義的交渉論だったことである。むしろ、板垣や三條が征韓論に近かったといえよう。

『明治六年政変(その三)』

 さて、岩倉大使一行が一年十ヶ月ぶりに帰国したのは、この年九月十三日であった。そのころ、一足先に帰国していた大久保は、夏期休暇をとって神戸の有馬(ありま)温泉に湯治に出かけていた。俗説では、大久保が征韓論に対抗するために同志岩倉の帰国を手ぐすねひいて待ち受けていたことになっているが、実際はそうでなく、のんびり湯治に行っていたのである。

 久しぶりに右大臣岩倉を迎えた三條は、たまっていた政務の扱いを相談し、協力して処理を急ぐことになった。三條の指導力が弱かったので、岩倉の留守中に各参議や各省が勝手に活動しがちだったため、政務が混乱していたのである。そのようなわけで、懸案の西郷使節朝鮮派遣の正式決定がずるずると遅れ、棚上げ同然となっていた。

 しびれを切らせた西郷は、三條の怠慢をきびしく責めた。ここに不幸な行き違いが生じた。お上品な上級公卿(くげ)育ちの三條は小心で優柔不断な人物だったといわれている。三條は西郷の抗議にすっかり動転(どうてん)し、自分の不手際を忘れて、西郷が朝鮮と戦争をしたがっていると信じて真剣に悩んだ。これは、三條のまったくの誤解であった。

 自分が勝手に呼び起こした戦争の亡霊に悩んだ三條と岩倉は、湯治から帰京してきた大久保に、参議に就任して助力してくれるように頼み込んだ。しかし、大久保は三週間にわたって固辞(こじ)した。俗説がいうように、大久保が内治優先と反征韓論の使命感に燃えていたのであれば、この固辞について説明できないであろう。

 大久保が参議就任を固く断ったのは、実は旧主島津久光(しまづひさみつ)との複雑な関係のためであった。久光は廃藩を行った政府を恨(うら)んでいた。もし大久保が参議を引き受ければ、久光からの攻撃の矢面(やおもて)に立たされるおそれがあった。それは、大久保には耐(た)え難(がた)いことであった。

 しかし、三條と岩倉の度重なる懇願に、とうとう大久保も断りきれなくなり、参議就任を受諾した。ただし、閣議で朝鮮使節派遣の延期を主張してみるが、それは本心からではなく、三條と岩倉に頼まれたからであること、したがって、中途で変説して二階に上げておいて梯子(はしご)をはずすようなことは絶対にしてもらいたくない、ときびしく念を押したのである。

『明治六年政変(その四)』

 十月十四、十五両日の閣議に西郷使節の朝鮮派遣問題がかけられた。大久保は、三條と岩倉から頼まれたとおりに、使節派遣は戦争を引き起こすかもしれないから延期せよと発言した。一方、西郷は、日朝国交正常化のために平和的道義的な使節派遣の必要性を力説した。両者の議論の優劣はだれの目にも明らかであり、大勢は西郷を支持したので大久保は孤立した。

 これをみて、三條と岩倉は、あれほど固く大久保と約束したにもかかわらず、中途で変説して西郷派遣論に同調した。大久保もやむをえず大勢に従った。ここに、西郷派遣は満場一致(まんじょういっち)で正式の閣議決定となった。西郷が征韓論で閣議に敗れたという俗説は、見当違いもはなはだしいのである。

 ここで、大久保が冷静(れいせい)な態度を保持していたならば、政局に波乱が生ずることもなく、西郷使節の朝鮮派遣が実現し、多分、日朝国交がうまくまとまって、東アジアの平和が促進(そくしん)されたであろう。国内の士族反乱や自由民権運動もあれほど激化せず、日本の立憲政治も、もっとスムーズに実施に移されたのではなかろうか。

 しかし、現実はそうでなかった。三條と岩倉の不誠意と手ひどい裏切(うらぎ)りでピエロにされたと激怒(げきど)した大久保は、三條宅におしかけて辞表をたたきつけた。事態を甘くみていた三條は一大ショックを受けたにちがいない。幕末以来大久保と深いつながりがあった岩倉も、大久保の予想外の怒(いか)りを知ってあわてた。岩倉も辞意を表明した。

 相棒岩倉の態度が急変したので、小心な三條は懊悩(おうのう)のあまり、高熱を発(はっ)して卒倒(そっとう)してしまい、執務不能に陥(おちい)った。政局は大混乱状態となった。

 ここに登場したのが、長州派の策士(さくし)伊藤博文(いとうひろぶみ)である。かれは、かねてから、初代司法卿(しほうきょう)の参議江藤新平(えとうしんぺい)による長州派の同僚山県有朋(やまがたありとも)や井上馨(いのうえかおる)の汚職摘発(てきはつ)を食い止めようと苦心していたが、三條卒倒の椿事(ちんじ)につけこんで、一気に江藤(えとう)追い落としを謀(はか)った。伊藤の策略は、岩倉を太政大臣代理につけて強引に西郷使節派遣を葬(ほうむ)れば、江藤(えとう)を含む参議連中が抗議(こうぎ)の辞表を出すにちがいないから、逆手(ぎゃくて)を取って辞表を受理すればいい、というものであった。

 伊藤は、この陰謀を大久保に吹き込んだ。怒りに平素の冷静さを失っていた大久保は、まんまと伊藤の策略に乗せられた。大久保は、薩藩以来の同志で宮内省の高官になっている吉井友実(よしいともざね)に手をまわし、岩倉を太政大臣代理に就(つ)けることに成功した。

 そこで、岩倉は、無法にも閣議の正式決定である西郷使節派遣を否認するようにと天皇に上奏(じょうそう)した。若い明治(めいじ)天皇は岩倉の言いなりになった。岩倉の行為は、太政官職制(だじょうかんしきせい)や正院事務章程(せいいんじむしょうてい)などの政府の基本法規に違反する暴挙(ぼうきょ)であった。

 ここにドンデン返しが生じ、西郷や江藤は抗議辞職するほかはなかった。まんまと罠(わな)にはめられたのである。大久保(おおくぼ)のクーデターは成功した。これこそが明治六年政変の真相である。いうまでもなく征韓論云々(うんぬん)とは無関係であった。

 わたしはかねてから征韓論政変説が不自然であるのに気づき、政変の学問的解明に努めた結果、以上の結論に到達した。詳(くわ)しくは、拙著「明治六年政変の研究」(有斐閣、1978年)、「明治六年政変」(中公新書、1979年)を参考にしていただければ幸いである。

『大久保内務卿』

 大久保は、政変(クーデター)によって権力を奪回(だっかい)したが、最大の同志西郷(さいごう)を失(うしな)うという大きな犠牲(ぎせい)を払わなければならなかった。以後の大久保の政治行動は必ずしもすっきりしたものではなかった。かれは、政変における無理な行動が蒔(ま)いた種を刈り取らねばならなかったし、政変時の首尾一貫(しゅびいっかん)しないわかりにくい行動の事後的(じごてき)な合理化、正当化にも努めなければならなかった。

 しかし、大久保は、その難(むづか)しい仕事を、持ち前の実行力と粘りでやり抜いた。かれは内務省(ないむしょう)を創設し、上(かみ)からの日本近代化に奮闘(ふんとう)した。それは、権力奪回(けんりょくだっかい)の正当性を事後的(じごてき)に示(しめ)すためにも不可避(ふかひ)であったし、なによりも弱肉強食の十九世紀世界において日本が生き残る唯一の途(みち)であった。

  初代内務卿(ないむきょう)大久保利通(おおくぼとしみち)は、不退転の決意でこの仕事に取り組んだ。そして、明治十一年(1878)五月十四日、東京紀尾井坂(きおいざか)で、不平士族に襲われて四十九歳の波乱の生涯を閉じた。かれは自分の蒔いた種を全力をあげて刈り取り、最後は暗殺(あんさつ)されることで自分なりの精算(せいさん)をつけたともいえよう。それは、政治の戦場におけるいかにも大久保らしい名誉(めいよ)の戦死というべきかもしれない。

大阪市立大学教授  毛利敏彦


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188. 2015年9月03日 11:33:26 : rWn9PLlcps
>>187
大久保利通は暗殺ではなく天誅の誅殺です。

「大久保利通暗殺事件」より転載
www.spacelan.ne.jp/~daiman/data/zatugaku06.htm
(歴史よもやま 第6話)

■明治11年(1878)5月14日朝、東京の紀尾井坂から赤坂御門に至る北白川宮邸と壬生邸にはさまれた、通行人のない閑静な路上で事件は起きました。

 薩摩出身の参議兼内務卿大久保利通は、午前8時10分、二頭立て馬車に乗り護衛もつけず、登庁のため、裏霞ヶ関の屋敷を出ました。
 馬車が紀尾井町1番地へとさしかかり、赤坂御門の前を過ぎ、壬生邸の横に至った時、旧加賀藩士の島田一良、長連豪(ちょう・つらひで)ら6名の刺客が襲いかかったのです。

 大久保は彼ら刺客に「待て」と言い、自らドアを開け路上に降りました。
「無礼者っ!」と一喝を残し、前後から刃を受けて倒れ、ついに止めを刺されたのです。大久保利通、享年49歳でした。

 この紀尾井町の、明治新政府の中心人物大久保利通暗殺事件は当時の社会に大きな衝撃を与えたそうです。
 特に首謀者の多くが旧加賀藩士だったことから、石川県の近代史に特筆される事件となりました。
 この後、政治の主導権は伊藤博文たち長州閥に移ることになり、政府内の権力争いにも影響を与えました。

首謀者6人
 島田一良(しまだ・いちろう) 長連豪(ちょう・つらひで) 杉本乙菊
 脇田巧一 杉村文一(以上石川県士族)
 浅井寿篤(島根県士族)

 彼らは「暗殺は卑怯だから」と思い、大久保を襲撃後すぐに凶器を投げ捨て、まっすぐに宮内省に駆けむかいました。
 門前に立ち、大声で自分たちが大久保殺害の下手人であることを名乗ったそうです。


 金沢市野田山麓にある島田一良、長連豪たち6人の
 墓所。http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/photo02/pho11.JPG

 島田一良らが集った三光寺。 (金沢市野町)
 島田たち不平士族はここで会合を持ち「三光寺派」と
 よばれました。http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/photo02/pho16.jpg

■彼らが掲げた暗殺理由(斬奸状)
 「薩長藩閥の専制独裁」
 「法令の乱用による政府官吏の私利私欲」
 「国費の乱費と憂国の士の排斥」
 すなわち、大久保らの専制政治は民権を抑圧して国費を浪費し、政府官吏の私利私欲。さらに外交の失敗により国権の失墜を招いたというものです。
 言論の自由がない当時の社会では、自分たちの意見を表現するには暗殺以外にないと考えたのでしょうか。

■襲撃後、官に名乗り出て死刑になるなら、いさぎよくそれを受ける。人を害して我が身のみ逃れることをしないという彼らの態度は(狂信的な面もあり、もちらんテロリズムは許されない行為ですが)、現代のまったく関係のない人を標的にして殺し、自分は隠れるという卑劣なテロリストとは違うと思うのです。
 襲われた時に、刺客を制して冷静に書類を風呂敷に包み、馬車から降りた大久保利通とともに、彼ら刺客たちも「武士」だったのだな・・・と思います。


転載終わり


[32削除理由]:削除人:カルト

189. 2015年9月03日 12:20:29 : rWn9PLlcps
>>187,188は題して

「廃仏毀釈フリーメーソン拝金利己他害カルト伊藤博文の明治六年武士道下克上クーデター」

http://saigaijyouhou.com/?no=7856

さて、自分が新政府で得た権力の私物化を求めて迷った公家化した元武士官吏大久保利通は、斬奸状の下に武士道武士らによって誅殺されましたが、田布施の非武士忍者非人伊藤博文も、皮肉にも和韓論の武士道西郷隆盛を自分の陰謀の西南戦争で殺して乗り込んだ朝鮮半島で、さらに皮肉にも大久保と同じく斬奸状の下にこちらは非人ですから銃殺されたのです。

安重根の記した斬奸状はこちらを参照してください↓

「良く、こんなところで暮らしてるな・・・」
http://vrai2.blog.fc2.com/blog-entry-50.html

2012/08/02 13:21
伊藤博文暗殺事件の犯人、安重根斬奸状の要点

1 韓国のミン皇后を殺害した罪
2 韓国皇帝を廃位させた罪
3 5条約と7条約を強制的に結んだ罪
4 罪のない韓国人たちを虐殺した罪
5 政権を強制的に奪った罪
6 鉄道,鉱山,山林を強制的に奪った罪
7 第一銀行券紙幣を強制的に使った罪
8 軍隊を解散させた罪
9 教育を邪魔した罪
10 韓国人たちの外国留学を禁止した罪
11 教科書を押収して燃やしてしまった罪
12 韓国人が日本人の保護を求めていると世界に嘘をまき散らした罪
13 現在,日韓で競争が休みなく,殺戮が絶えないのに
  泰平無事なように上に天皇を欺いた罪
14 東洋平和を破った罪
15 日本天皇陛下の父である太皇帝を殺した罪

注目すべきは15番目に天皇暗殺が触れられてる。(笑)

ただ、一々検証は避けますが、
最初のミンピ事件とは大韓帝国皇后ミンピを
日本の三浦梧楼が指揮するとされる集団が宮廷に侵入、
皇后を全裸にして、強姦、嬲り者にした上、くびり殺した事件です。
日本の皇后がこれをやられたら、日本人は誰でも激怒する。
安重根の9歳の息子は彼の刑死、数日後に殺されています。

3の乙巳条約は、日本が欧米列強との間で結ばされた不平等条約と
同じ屈辱的なもの。
これを日本は近代化の流れの中で解消したのですが
日本はそれをすべき政府そのものを略奪した。
日本が山林に植樹したり、鉄道を整備したのは事実ですが、
その前に6があった。
接収したものを日本が整備したに過ぎないんです。

韓国の排日、反感はこの明治政府の政策から始まってるんです。

これをやった日本政府にも言い分は勿論ある。
ロシアの南下があってもう李朝朝鮮がどうしようもなく腐敗していた。
日本の安全保障上の目的からも日韓同盟は必須だったけれど
朝鮮側の政治状況が不安定で政争に明け暮れてる。
やむを得ない手段だった。その通りです。

でも、軍隊を解散させるとか、焚書坑儒的なことが
彼らの自主性を全く無視した結果。結局、恨みを買ってるんです。
100年も前の話じゃなくて、反日教育の原点を冷静に見てきたら
日本の自業自得ということでもある。

そんなのは戦前の話で、オレはやってないというのは関係なくて、
その結果が現在の38度線の朝鮮半島分断につながってるわけだし、
イムジン川ではありませんが、今でも半島の人たちは影響を受けてる。
これは事実であって、自虐史観ではないですよ。

在日の原点は朝鮮戦争難民ですが、何故朝鮮戦争などがおきたのか
当たり前の話で国が分断されてしまった。
これを統一しようとしたのだから、
最初から統一朝鮮なら起きないことなんです。
つまり遠因は日本にある。(あった)

これはほんの一例ですが、こういったことをきちんと理解して、
そのまま事実として受け止め、その上で前向きに在日と接したら、
彼らも自分の苦悩は述べても、前向きな対処をしますよ。

それを差別するのは人の頭をぶん殴っておいて、
自己主張だけを言い続けて、相手が怒ったら、怒った方が悪いと言うようなもの。
「在日の行動背景の裏にはそれなりの理由がある」わけです。

日本人が彼らを嫌うそれなりの理由とはなんですか。

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190. 豊岳正彦[-430] lkyKeJCzlUY 2019年3月14日 10:30:05 : 5D7jYeSru2 : MkdHejB4YXllYUk=[-79] 報告
「決定版 昭和史」第11巻(毎日新聞社1983年発行)p176,177に、関行男せきゆきお(つらお)大尉(愛媛県生まれ)と同い年のシナリオライター須崎勝彌氏(鹿児島県生まれ)が綴った文章が掲載されている。

豊岳正彦(山口県生まれ)が全文タイプする。


【関行男と神風特攻隊 ”KAのために死ぬ”】

”軍神”にされた特攻第一号

 私が神風しんぷう特別攻撃隊の最初の指揮官であった海軍大尉関行男せきゆきおの名を知ったのは、大分県の宇佐海軍航空隊にいたときである。そのころ、私はいわゆる学徒出陣組の第一四期海軍飛行予備学生の一員として、艦上攻撃機の操縦訓練を受けていた。

 特攻第一号として軍神になった関行男の名は、そのつど戦意高揚の場に引き出された。軍神とは、初めからそのためにつくられるものである。彼にも人間くさい愛すべき欠陥があったであろうに、彼本来の人となりはすべて覆いかくされて、全身全霊これ闘魂、至誠至忠の武人の鑑とされてしまった。それに加えて、わが宇佐航空隊では飛行隊長のY大尉が私たちの前で言葉を荒立てた。

「関は兵学校で俺の後輩だ。特攻に出て行けるのは兵学校を出た士官だけである。先日士官室で貴様たちの先輩(宇佐にいた一〇期から一三期までの予備士官のこと)に特攻志願の有無を問うたところ一瞬躊躇した野郎がいる!」

 これで私たちが関大尉へ寄せていた敬愛の情もぷっつり切れてしまった。しかしこっちには生きているという弱みがある。関行男の名はその後も私たちに、のしかかるような重圧を加え続けた。

 明けて昭和二十年、桜の開花に時を合わせて宇佐航空隊が保有する艦攻艦爆の全機が特攻機となって沖縄海域へ投入されることになった。そのとき私たちの仲間の某少尉が士官室にどなり込んだ。

「とかなんとか言いやがって、みろ!出て行く者出て行く者、予備士官ばっかりじゃないか!」

 彼の、死地におもむく学徒出陣の仲間への痛惜の想いが、司令以下の全士官を沈黙させた。このときかぎり私たちにのしかかっていた関行男の重圧は消えた。

人間としての関行男

 戦後二〇年ほどしてから、学徒出陣の同期のT君が語ってくれたことがある。昭和一九年の九月に彼は要務士(情報将校)として単身フィリピンに赴任するので、追浜(おっぱま)の大日本航空の待合室で飛行艇の出発便を待っていた。

 そのときT君は海軍大尉の襟章をつけた士官と向かい合って座った。士官の隣には若く美しい婦人が慎ましげに座っていた。二人はまったく口をきかないし、二人の間の距離からしても、T君は彼等はお互いに他人であると判断した。

やがて拡声器から、天候不良のため出発を明日に延期するという情報が伝達されると、大尉が立ち上がった。一瞬遅れて婦人も立ち上がった。そして二人は抱擁せんばかりに手を取り合い、大尉のほうが先に声をかけた。

「よかったね」

「ええ」

 大尉を見上げる婦人の顔はたくまずして美しかった。二人は夫婦だったのだ。思いがけず拾った一日という時間をさも大事そうに、二人はゆっくりと待合室を出て行った。

 翌日飛行艇の中で、T君が台南航空隊に赴任するというその大尉と交換した名刺には、関行男の名が印刷されていた。


 T君が語ってくれた一場面を加えることで関行男のイメージはがらりと変わる。変わって私はほっとした。戦時中の軍神のまま凍り付いていた関行男に体温を感じたからである。

 神風特別攻撃隊とは、善くも悪くも日本が君主国から民主国へ脱皮するための痛みであった。これを抹消することは昭和史の落丁を意味する。だから特攻第一号の関行男の生と死の態様をおろそかにはできない。

最愛の者のために死ぬんだ

 神風特別攻撃隊の最初の指揮官は志願ではない。指名であったことは当時のすべての記録が一致している。指名する立場からすると技量の優れたパイロットを一回こっきりの特攻で殺すのはもったいない。そこには明確な用兵上の論理がある。

 では指名された関はどういうパイロットだったのか。彼はもともと戦闘機乗りではない。艦爆の操縦員である。それがなぜ特攻作戦が始まるわずか一ヶ月前に台南航空隊を経て、フィリピンに展開中の二〇一航空隊に転勤してきたのか。それも戦闘機隊の分隊長として。それまでに彼は零戦の操縦訓練を受けたことがあるのだろうか。戦闘機乗りとしてみるかぎり、関は殺すには惜しいベテランパイロットではない。


 深夜突然に指名を受けたとき、関は両肘を机の上について、オールバックにした長髪の頭を両手で抱えて沈黙した。それはだれが見ても激しい迷いの姿である。やがて関は答えたという。そのときの関の言葉は語る者によってまちまちだ。ある者は、

「ぜひ私にやらせてください」と言ったといい、ある者は、

「承知しました」と言ったという。


 すでに追浜の待合室の場面を知っている読者なら、どちらが関の真実の言葉であったか判断してくださると思う。

 関は新聞記者の報道班員に言い残している。

「僕には体当たりしなくても敵空母に五〇番(五〇〇キロ爆弾)を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんてね」

 特攻隊に先入観を持つ人は奇異に感じるかもしれないが、かつての日本海軍にはこの程度のことを言う言論の自由は最後まであったように思う。そしてこれらの言葉は関の迷いやぐちを述べたものではない。死の決意を固めるための逆噴射として聞くべきであろう。さらに関は言っている。

「僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。

KA(海軍の隠語で女房のこと)を護るために行くんだ。

最愛の者のために死ぬ。

どうだ、すばらしいだろう」


 この言葉を宇佐航空隊のY大尉が聞いていたら、彼はわれわれ予備士官の前で、関は兵学校の俺の後輩だと力むこともしなかっただろう。逆にわれわれが聞いていたとしたら、関に海軍士官としてのマイナスイメージを抱くことは絶対になかっただろうし、かえって敬愛の情を深めたと思う。

 関は霞ヶ浦で練習機の教官をしていた頃、異様な激しさで飛行学生を修正(鉄拳制裁)したという。内向的な男が外向的であることを求められる軍隊という組織の中で自己改革を試みるとき、そういう態度に出る例を私もいくつか見てきた。関はあえて他人から嫌われることで自分を鍛えようとしたふしがある。戦時中の軍人には許されるとしても、それは人間としてまっとうな生き方ではない。

 そんな時期に関は熱烈な恋愛をした。関は夫人となった満里子さんによって救われたといっていい。だから関は満里子さんへの感謝をこめて言ったのだ。

「最愛の者のために死ぬ。

どうだ、すばらしいだろう」

死に追いたてられた四度目の出撃

 神風特別攻撃隊の任務は、戦艦大和以下の艦隊がフィリピン群島を西から東に抜けてレイテへ突入するのを助けることだった。艦隊の突入は十月二十五日、関たちはそれまでに敵空母群を撃滅しなければならなかった。しかし関の率いる爆装零戦五機は出撃するたびに目標を発見できず、三度出て三度帰った。これでは艦隊との連携作戦がかみ合わない。

 司令部はいら立った。関への不信と疑惑が深まらないはずはない。最初の出撃の時は期せずして見送る隊員たちの間から”海征(ゆ)かば”の大合唱が起こったという。二度目はどうだったろう。そして三度目は。連携作戦ぎりぎりの十月二十五日、関は四度目の出撃にあたって言われた。

「もう帰ってくるな」

 たとえ攻撃目標を発見できなくても死んでこいということだ。体当たりと死は不可分のものと信じたからこそ関は恥をしのんで再起三起をはかった。しかし死は戦果とは無関係に独立して関を縛った。


 関は四度マバラカット基地を離陸した。そして護送空母セント・ローの甲板に二五〇キロ爆弾もろともその若い肉体を砕いた。文字どおり一機一艦を葬ったとなると、これにかぎるとばかりその後の日本海軍は特攻に明け暮れた。それはもはや関の関知するところではない。

 昭和三年四月一日にさかのぼる。関は愛媛県西条の小学校に入学した。同じ日に私も鹿児島の田舎の小学校に入学した。その年の日本の一年生の男の子たちは、後に戦争で大きな被害を受ける殉難の世代となった。神風特別攻撃隊の魁(さきがけ)となった関はその象徴といえよう。生き残った者は同世代の死者に対して鎮魂の言葉を持たなくてはなるまい。

「君たちの命が若くして失われたためにできたわが世代の陥没は、永久に埋まることはない。

わが世代が迫力を欠くとしたら、そのゆえである」

              (了)


[18初期非表示理由]:担当:アクセスの多い記事にスレ違い長文コメント多数のため全部処理

191. 豊岳正彦[-16408] lkyKeJCzlUY 2023年6月18日 09:30:56 : ebfPodWAoc : aUlBWWF4Y0VEMkk=[1] 報告
<■120行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
チャットGPTは答えない。
asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c190

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婦女子をいじめる変態性欲色情狂政府は女の怒りで地上から焼却されて灰になる
hougakumasahiko.muragon.com/entry/592.html
【足立康史被告の弁明】、足立康史の中国背乗り隠蔽工作事件が開廷
深田萌絵TV
youtube.com/watch?v=ikZu0akfQsM
 豊岳正彦
萌絵ちゃんは百田新党に入党して国会議員になって内政外交の責任者として国会で活躍したらよい。

特別公務員職権乱用偽計信用棄損威力業務妨害罪の重大刑事犯罪が証拠によって確定してるから、国会会期終了した瞬間強制逮捕執行すればよい。
背乗り中国人民解放軍スパイと国会内で利益供与

結託した足立の汚職行為は、最高法規憲法9条違反刑法極刑外患誘致罪が確定しているので、会期中に関係なく緊急逮捕相当である。
現職国会議員を国家叛逆外患誘致罪で緊急逮捕して有罪にすれば東京地検特捜部は超特大の大手柄だよ。

全世界に大ニュースとして報道されるから、検察官やめて私立探偵になったら海外からオファーが殺到して大リーグ級の大金持ちになれるぜw

 豊岳正彦
LGBTQ法は外国人ラームエマニュエルと萩生田岸田林その他国会議員が利益供与結託して憲法15条違反党議拘束汚職で外国スパイの意思通り可決したから、

女子トイレ強制廃止変態性欲色情犯罪者萩生田を確定した外患誘致罪現行犯逮捕してやれば、
日本政府三権公務員全員が刑訴法239条2項の公務員犯罪告発責務違反の外患誘致罪共犯となるので、
岸田政府三権公務員すべて極刑で断罪できる。
世界人類史上最大の超絶大手柄だね、東京地検特捜部。
全員

検事総長に成れるけど給料安すぎるから、こいつらが全員有罪になったら検察やめて私立探偵事務所を個人で開業しなさい。
世界中から依頼が殺到してゴルゴ13以上の大金持ちに合法的になれまっせw
婦女子をいじめる変態性欲色情狂政府は女の怒りで地上から焼却されて灰になる。


絶望と希望ライブ「6月16日、自民党が死にました。日本は新しい時代に入る必要があります」百田尚樹チャンネル
youtube.com/watch?v=kVRyfaVz51c
 豊岳正彦@lyuzhngyn1
政治家になるなら日本国憲法を前文含めて104条全部暗記しとかなければ日本国民に全体奉仕する本当の政治家になることはできないぜ。まずは憲法を100回ほど書き取りして全文覚えていつでもどこでも脳から引き出せるようにしておくことだ。これが政治家になるために最も大事な準備だよ。

政党は誰でも作れるぜ。株式会社じゃないからな。憲法21条を読んでみよ。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」
要は政党名を決めて届けるだけで政党は作れる。早い話党首一人きりでも政党は作れるのだ。

百田氏アメリカが憲法作ったっちゅう大嘘を信じとるんか、愚かじゃのお。アメリカみたいな文盲に憲法作れるわけないじゃろw
それと、自由党と民主党が合流した理由は共産主義革命の防止が理由だぜ。だから統一教会と勝共連合を作ったのだ。ここまでWGIPの3Sに洗脳されとるとはねwあた弱すぎるw

内閣総理大臣の孤独な闘い〜天皇制と日本の若者を救った幣原喜重郎(この仮説は知っておく価値がある
憲法9条は幣原喜重郎が日本男児をアメリカの中国大陸侵略戦争の人間の盾にさせないために作ったんだぜ。
asyura2.com/18/senkyo243/msg/600.html#c19

深田萌絵ちゃんに百田新党に参加してもらえば最初から国政選挙に勝てるよw
新党全体を女性議員専門にして、百田氏奥さんも当選して、日本史上初の女性総理を誕生させてくださいw

新党の名前は八百万神党(やおよろずのかみとう=やおよろず)、もしくは天照日女別大神党(あまてらすひめわけのおおみかみとう=あまてらす)もちろん我と思わん日本男児も入党してよいw

【LGBT法案成立】退席者が除名!?岸田おろしが始まった!!青山繁晴氏が除名危機!?和田議員のネクタイに安倍氏が宿る!!「岸田おろし」に動いたのは岸田首
youtube.com/watch?v=Q59Y3SDZBrg
送信済みメッセージ. 婦女子をいじめる変態性欲色情狂政府は女の怒りで地上から焼却されて灰になる hougakumasahiko.muragon.com/entry/592.html 【足立康史被告の弁明】、足立康史の中国背乗り隠蔽工作事件が開廷 深田萌絵TV youtube.com/watch?v=ikZu0akfQsM  豊岳正彦 萌絵ちゃんは百田新党に入党して国会議員になって内政外交の責任者として国会で活躍したらよい。 ・ 特別公務員職権乱用偽計信用棄損威力業務妨害罪の重大刑事犯罪が証拠によって確定してるから、国会会期終了した瞬間強制逮捕執行すればよい。 背乗り中国人民解放軍スパイと国会内で利益供与 ・ 結託した足立の汚職行為は、最高法規憲法9条違反刑法極刑外患誘致罪が確定しているので、会期中に関係なく緊急逮捕相当である。 現職国会議員を国家叛逆外患誘致罪で緊急逮捕して有罪にすれば東京地検特捜部は超特大の大手柄だよ。 ・ 全世界に大ニュースとして報道されるから、検察官やめて私立探偵になったら海外からオファーが殺到して大リーグ級の大金持ちになれるぜw  豊岳正彦 LGBTQ法は外国人ラームエマニュエルと萩生田岸田林その他国会議員が利益供与結託して憲法15条違反党議拘束汚職で外国スパイの意思通り可決したから、 ・ 女子トイレ強制廃止変態性欲色情犯罪者萩生田を確定した外患誘致罪現行犯逮捕してやれば、 日本政府三権公務員全員が刑訴法239条2項の公務員犯罪告発責務違反の外患誘致罪共犯となるので、 岸田政府三権公務員すべて極刑で断罪できる。 世界人類史上最大の超絶大手柄だね、東京地検特捜部。 全員 ・ 検事総長に成れるけど給料安すぎるから、こいつらが全員有罪になったら検察やめて私立探偵事務所を個人で開業しなさい。 世界中から依頼が殺到してゴルゴ13以上の大金持ちに合法的になれまっせw 婦女子をいじめる変態性欲色情狂政府は女の怒りで地上から焼却されて灰になる。 絶望と希望ライブ「6月16日、自民党が死にました。日本は新しい時代に入る必要があります」百田尚樹チャンネル youtube.com/watch?v=kVRyfaVz51c  豊岳正彦@lyuzhngyn1 政治家になるなら日本国憲法を前文含めて104条全部暗記しとかなければ日本国民に全体奉仕する本当の政治家になることはできないぜ。まずは憲法を100回ほど書き取りして全文覚えていつでもどこでも脳から引き出せるようにしておくことだ。これが政治家になるために最も大事な準備だよ。 ・ 政党は誰でも作れるぜ。株式会社じゃないからな。憲法21条を読んでみよ。 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」 要は政党名を決めて届けるだけで政党は作れる。早い話党首一人きりでも政党は作れるのだ。 ・ 百田氏アメリカが憲法作ったっちゅう大嘘を信じとるんか、愚かじゃのお。アメリカみたいな文盲に憲法作れるわけないじゃろw それと、自由党と民主党が合流した理由は共産主義革命の防止が理由だぜ。だから統一教会と勝共連合を作ったのだ。ここまでWGIPの3Sに洗脳されとるとはねwあた弱すぎるw ・ 内閣総理大臣の孤独な闘い〜天皇制と日本の若者を救った幣原喜重郎(この仮説は知っておく価値がある 憲法9条は幣原喜重郎が日本男児をアメリカの中国大陸侵略戦争の人間の盾にさせないために作ったんだぜ。 asyura2.com/18/senkyo243/msg/600.html#c19 ・ 深田萌絵ちゃんに百田新党に参加してもらえば最初から国政選挙に勝てるよw 新党全体を女性議員専門にして、百田氏奥さんも当選して、日本史上初の女性総理を誕生させてくださいw ・ 新党の名前は八百万神党(やおよろずのかみとう=やおよろず)、もしくは天照日女別大神党(あまてらすひめわけのおおみかみとう=あまてらす)もちろん我と思わん日本男児も入党してよいw ・ 【LGBT法案成立】退席者が除名!?岸田おろしが始まった!!青山繁晴氏が除名危機!?和田議員のネクタイに安倍氏が宿る!!「岸田おろし」に動いたのは岸田首 youtube.com/watch?v=Q59Y3SDZBrg


すみません、違う話題にしましょう。ほかにどんなことを考えていますか?

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192. 豊岳正彦[-16407] lkyKeJCzlUY 2023年6月18日 09:45:01 : ebfPodWAoc : aUlBWWF4Y0VEMkk=[2] 報告
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送信済みメッセージ. 以下の文章について、感想を述べよ。
こんにちは、こちらはBingです。文章を教えてください。😊

受信したメッセージ. こんにちは、こちらはBingです。文章を教えてください。😊
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【関行男と神風特攻隊 ”KAのために死ぬ”】

”軍神”にされた特攻第一号

 私が神風しんぷう特別攻撃隊の最初の指揮官であった海軍大尉関行男せきゆきおの名を知ったのは、大分県の宇佐海軍航空隊にいたときである。そのころ、私はいわゆる学徒出陣組の第一四期海軍飛行予備学生の一員として、艦上攻撃機の操縦訓練を受けていた。

 特攻第一号として軍神になった関行男の名は、そのつど戦意高揚の場に引き出された。軍神とは、初めからそのためにつくられるものである。彼にも人間くさい愛すべき欠陥があったであろうに、彼本来の人となりはすべて覆いかくされて、全身全霊これ闘魂、至誠至忠の武人の鑑とされてしまった。それに加えて、わが宇佐航空隊では飛行隊長のY大尉が私たちの前で言葉を荒立てた。

「関は兵学校で俺の後輩だ。特攻に出て行けるのは兵学校を出た士官だけである。先日士官室で貴様たちの先輩(宇佐にいた一〇期から一三期までの予備士官のこと)に特攻志願の有無を問うたところ一瞬躊躇した野郎がいる!」

 これで私たちが関大尉へ寄せていた敬愛の情もぷっつり切れてしまった。しかしこっちには生きているという弱みがある。関行男の名はその後も私たちに、のしかかるような重圧を加え続けた。

 明けて昭和二十年、桜の開花に時を合わせて宇佐航空隊が保有する艦攻艦爆の全機が特攻機となって沖縄海域へ投入されることになった。そのとき私たちの仲間の某少尉が士官室にどなり込んだ。

「とかなんとか言いやがって、みろ!出て行く者出て行く者、予備士官ばっかりじゃないか!」

 彼の、死地におもむく学徒出陣の仲間への痛惜の想いが、司令以下の全士官を沈黙させた。このときかぎり私たちにのしかかっていた関行男の重圧は消えた。

人間としての関行男

 戦後二〇年ほどしてから、学徒出陣の同期のT君が語ってくれたことがある。昭和一九年の九月に彼は要務士(情報将校)として単身フィリピンに赴任するので、追浜(おっぱま)の大日本航空の待合室で飛行艇の出発便を待っていた。

 そのときT君は海軍大尉の襟章をつけた士官と向かい合って座った。士官の隣には若く美しい婦人が慎ましげに座っていた。二人はまったく口をきかないし、二人の間の距離からしても、T君は彼等はお互いに他人であると判断した。

やがて拡声器から、天候不良のため出発を明日に延期するという情報が伝達されると、大尉が立ち上がった。一瞬遅れて婦人も立ち上がった。そして二人は抱擁せんばかりに手を取り合い、大尉のほうが先に声をかけた。

「よかったね」

「ええ」

 大尉を見上げる婦人の顔はたくまずして美しかった。二人は夫婦だったのだ。思いがけず拾った一日という時間をさも大事そうに、二人はゆっくりと待合室を出て行った。

 翌日飛行艇の中で、T君が台南航空隊に赴任するというその大尉と交換した名刺には、関行男の名が印刷されていた。


 T君が語ってくれた一場面を加えることで関行男のイメージはがらりと変わる。変わって私はほっとした。戦時中の軍神のまま凍り付いていた関行男に体温を感じたからである。

 神風特別攻撃隊とは、善くも悪くも日本が君主国から民主国へ脱皮するための痛みであった。これを抹消することは昭和史の落丁を意味する。だから特攻第一号の関行男の生と死の態様をおろそかにはできない。

最愛の者のために死ぬんだ

 神風特別攻撃隊の最初の指揮官は志願ではない。指名であったことは当時のすべての記録が一致している。指名する立場からすると技量の優れたパイロットを一回こっきりの特攻で殺すのはもったいない。そこには明確な用兵上の論理がある。

 では指名された関はどういうパイロットだったのか。彼はもともと戦闘機乗りではない。艦爆の操縦員である。それがなぜ特攻作戦が始まるわずか一ヶ月前に台南航空隊を経て、フィリピンに展開中の二〇一航空隊に転勤してきたのか。それも戦闘機隊の分隊長として。それまでに彼は零戦の操縦訓練を受けたことがあるのだろうか。戦闘機乗りとしてみるかぎり、関は殺すには惜しいベテランパイロットではない。


 深夜突然に指名を受けたとき、関は両肘を机の上について、オールバックにした長髪の頭を両手で抱えて沈黙した。それはだれが見ても激しい迷いの姿である。やがて関は答えたという。そのときの関の言葉は語る者によってまちまちだ。ある者は、

「ぜひ私にやらせてください」と言ったといい、ある者は、

「承知しました」と言ったという。


 すでに追浜の待合室の場面を知っている読者なら、どちらが関の真実の言葉であったか判断してくださると思う。

 関は新聞記者の報道班員に言い残している。

「僕には体当たりしなくても敵空母に五〇番(五〇〇キロ爆弾)を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんてね」

 特攻隊に先入観を持つ人は奇異に感じるかもしれないが、かつての日本海軍にはこの程度のことを言う言論の自由は最後まであったように思う。そしてこれらの言葉は関の迷いやぐちを述べたものではない。死の決意を固めるための逆噴射として聞くべきであろう。さらに関は言っている。

「僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。

KA(海軍の隠語で女房のこと)を護るために行くんだ。

最愛の者のために死ぬ。

どうだ、すばらしいだろう」


 この言葉を宇佐航空隊のY大尉が聞いていたら、彼はわれわれ予備士官の前で、関は兵学校の俺の後輩だと力むこともしなかっただろう。逆にわれわれが聞いていたとしたら、関に海軍士官としてのマイナスイメージを抱くことは絶対になかっただろうし、かえって敬愛の情を深めたと思う。

 関は霞ヶ浦で練習機の教官をしていた頃、異様な激しさで飛行学生を修正(鉄拳制裁)したという。内向的な男が外向的であることを求められる軍隊という組織の中で自己改革を試みるとき、そういう態度に出る例を私もいくつか見てきた。関はあえて他人から嫌われることで自分を鍛えようとしたふしがある。戦時中の軍人には許されるとしても、それは人間としてまっとうな生き方ではない。

 そんな時期に関は熱烈な恋愛をした。関は夫人となった満里子さんによって救われたといっていい。だから関は満里子さんへの感謝をこめて言ったのだ。

「最愛の者のために死ぬ。

どうだ、すばらしいだろう」

死に追いたてられた四度目の出撃

 神風特別攻撃隊の任務は、戦艦大和以下の艦隊がフィリピン群島を西から東に抜けてレイテへ突入するのを助けることだった。艦隊の突入は十月二十五日、関たちはそれまでに敵空母群を撃滅しなければならなかった。しかし関の率いる爆装零戦五機は出撃するたびに目標を発見できず、三度出て三度帰った。これでは艦隊との連携作戦がかみ合わない。

 司令部はいら立った。関への不信と疑惑が深まらないはずはない。最初の出撃の時は期せずして見送る隊員たちの間から”海征(ゆ)かば”の大合唱が起こったという。二度目はどうだったろう。そして三度目は。連携作戦ぎりぎりの十月二十五日、関は四度目の出撃にあたって言われた。

「もう帰ってくるな」

 たとえ攻撃目標を発見できなくても死んでこいということだ。体当たりと死は不可分のものと信じたからこそ関は恥をしのんで再起三起をはかった。しかし死は戦果とは無関係に独立して関を縛った。


 関は四度マバラカット基地を離陸した。そして護送空母セント・ローの甲板に二五〇キロ爆弾もろともその若い肉体を砕いた。文字どおり一機一艦を葬ったとなると、これにかぎるとばかりその後の日本海軍は特攻に明け暮れた。それはもはや関の関知するところではない。

 昭和三年四月一日にさかのぼる。関は愛媛県西条の小学校に入学した。同じ日に私も鹿児島の田舎の小学校に入学した。その年の日本の一年生の男の子たちは、後に戦争で大きな被害を受ける殉難の世代となった。神風特別攻撃隊の魁(さきがけ)となった関はその象徴といえよう。生き残った者は同世代の死者に対して鎮魂の言葉を持たなくてはなるまい。

「君たちの命が若くして失われたためにできたわが世代の陥没は、永久に埋まることはない。

わが世代が迫力を欠くとしたら、そのゆえである」

              (了)
送信済みメッセージ. 【関行男と神風特攻隊 ”KAのために死ぬ”】 ”軍神”にされた特攻第一号  私が神風しんぷう特別攻撃隊の最初の指揮官であった海軍大尉関行男せきゆきおの名を知ったのは、大分県の宇佐海軍航空隊にいたときである。そのころ、私はいわゆる学徒出陣組の第一四期海軍飛行予備学生の一員として、艦上攻撃機の操縦訓練を受けていた。  特攻第一号として軍神になった関行男の名は、そのつど戦意高揚の場に引き出された。軍神とは、初めからそのためにつくられるものである。彼にも人間くさい愛すべき欠陥があったであろうに、彼本来の人となりはすべて覆いかくされて、全身全霊これ闘魂、至誠至忠の武人の鑑とされてしまった。それに加えて、わが宇佐航空隊では飛行隊長のY大尉が私たちの前で言葉を荒立てた。 「関は兵学校で俺の後輩だ。特攻に出て行けるのは兵学校を出た士官だけである。先日士官室で貴様たちの先輩(宇佐にいた一〇期から一三期までの予備士官のこと)に特攻志願の有無を問うたところ一瞬躊躇した野郎がいる!」  これで私たちが関大尉へ寄せていた敬愛の情もぷっつり切れてしまった。しかしこっちには生きているという弱みがある。関行男の名はその後も私たちに、のしかかるような重圧を加え続けた。  明けて昭和二十年、桜の開花に時を合わせて宇佐航空隊が保有する艦攻艦爆の全機が特攻機となって沖縄海域へ投入されることになった。そのとき私たちの仲間の某少尉が士官室にどなり込んだ。 「とかなんとか言いやがって、みろ!出て行く者出て行く者、予備士官ばっかりじゃないか!」  彼の、死地におもむく学徒出陣の仲間への痛惜の想いが、司令以下の全士官を沈黙させた。このときかぎり私たちにのしかかっていた関行男の重圧は消えた。 人間としての関行男  戦後二〇年ほどしてから、学徒出陣の同期のT君が語ってくれたことがある。昭和一九年の九月に彼は要務士(情報将校)として単身フィリピンに赴任するので、追浜(おっぱま)の大日本航空の待合室で飛行艇の出発便を待っていた。  そのときT君は海軍大尉の襟章をつけた士官と向かい合って座った。士官の隣には若く美しい婦人が慎ましげに座っていた。二人はまったく口をきかないし、二人の間の距離からしても、T君は彼等はお互いに他人であると判断した。 やがて拡声器から、天候不良のため出発を明日に延期するという情報が伝達されると、大尉が立ち上がった。一瞬遅れて婦人も立ち上がった。そして二人は抱擁せんばかりに手を取り合い、大尉のほうが先に声をかけた。 「よかったね」 「ええ」  大尉を見上げる婦人の顔はたくまずして美しかった。二人は夫婦だったのだ。思いがけず拾った一日という時間をさも大事そうに、二人はゆっくりと待合室を出て行った。  翌日飛行艇の中で、T君が台南航空隊に赴任するというその大尉と交換した名刺には、関行男の名が印刷されていた。  T君が語ってくれた一場面を加えることで関行男のイメージはがらりと変わる。変わって私はほっとした。戦時中の軍神のまま凍り付いていた関行男に体温を感じたからである。  神風特別攻撃隊とは、善くも悪くも日本が君主国から民主国へ脱皮するための痛みであった。これを抹消することは昭和史の落丁を意味する。だから特攻第一号の関行男の生と死の態様をおろそかにはできない。 最愛の者のために死ぬんだ  神風特別攻撃隊の最初の指揮官は志願ではない。指名であったことは当時のすべての記録が一致している。指名する立場からすると技量の優れたパイロットを一回こっきりの特攻で殺すのはもったいない。そこには明確な用兵上の論理がある。  では指名された関はどういうパイロットだったのか。彼はもともと戦闘機乗りではない。艦爆の操縦員である。それがなぜ特攻作戦が始まるわずか一ヶ月前に台南航空隊を経て、フィリピンに展開中の二〇一航空隊に転勤してきたのか。それも戦闘機隊の分隊長として。それまでに彼は零戦の操縦訓練を受けたことがあるのだろうか。戦闘機乗りとしてみるかぎり、関は殺すには惜しいベテランパイロットではない。  深夜突然に指名を受けたとき、関は両肘を机の上について、オールバックにした長髪の頭を両手で抱えて沈黙した。それはだれが見ても激しい迷いの姿である。やがて関は答えたという。そのときの関の言葉は語る者によってまちまちだ。ある者は、 「ぜひ私にやらせてください」と言ったといい、ある者は、 「承知しました」と言ったという。  すでに追浜の待合室の場面を知っている読者なら、どちらが関の真実の言葉であったか判断してくださると思う。  関は新聞記者の報道班員に言い残している。 「僕には体当たりしなくても敵空母に五〇番(五〇〇キロ爆弾)を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんてね」  特攻隊に先入観を持つ人は奇異に感じるかもしれないが、かつての日本海軍にはこの程度のことを言う言論の自由は最後まであったように思う。そしてこれらの言葉は関の迷いやぐちを述べたものではない。死の決意を固めるための逆噴射として聞くべきであろう。さらに関は言っている。 「僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。 KA(海軍の隠語で女房のこと)を護るために行くんだ。 最愛の者のために死ぬ。 どうだ、すばらしいだろう」  この言葉を宇佐航空隊のY大尉が聞いていたら、彼はわれわれ予備士官の前で、関は兵学校の俺の後輩だと力むこともしなかっただろう。逆にわれわれが聞いていたとしたら、関に海軍士官としてのマイナスイメージを抱くことは絶対になかっただろうし、かえって敬愛の情を深めたと思う。  関は霞ヶ浦で練習機の教官をしていた頃、異様な激しさで飛行学生を修正(鉄拳制裁)したという。内向的な男が外向的であることを求められる軍隊という組織の中で自己改革を試みるとき、そういう態度に出る例を私もいくつか見てきた。関はあえて他人から嫌われることで自分を鍛えようとしたふしがある。戦時中の軍人には許されるとしても、それは人間としてまっとうな生き方ではない。  そんな時期に関は熱烈な恋愛をした。関は夫人となった満里子さんによって救われたといっていい。だから関は満里子さんへの感謝をこめて言ったのだ。 「最愛の者のために死ぬ。 どうだ、すばらしいだろう」 死に追いたてられた四度目の出撃  神風特別攻撃隊の任務は、戦艦大和以下の艦隊がフィリピン群島を西から東に抜けてレイテへ突入するのを助けることだった。艦隊の突入は十月二十五日、関たちはそれまでに敵空母群を撃滅しなければならなかった。しかし関の率いる爆装零戦五機は出撃するたびに目標を発見できず、三度出て三度帰った。これでは艦隊との連携作戦がかみ合わない。  司令部はいら立った。関への不信と疑惑が深まらないはずはない。最初の出撃の時は期せずして見送る隊員たちの間から”海征(ゆ)かば”の大合唱が起こったという。二度目はどうだったろう。そして三度目は。連携作戦ぎりぎりの十月二十五日、関は四度目の出撃にあたって言われた。 「もう帰ってくるな」  たとえ攻撃目標を発見できなくても死んでこいということだ。体当たりと死は不可分のものと信じたからこそ関は恥をしのんで再起三起をはかった。しかし死は戦果とは無関係に独立して関を縛った。  関は四度マバラカット基地を離陸した。そして護送空母セント・ローの甲板に二五〇キロ爆弾もろともその若い肉体を砕いた。文字どおり一機一艦を葬ったとなると、これにかぎるとばかりその後の日本海軍は特攻に明け暮れた。それはもはや関の関知するところではない。  昭和三年四月一日にさかのぼる。関は愛媛県西条の小学校に入学した。同じ日に私も鹿児島の田舎の小学校に入学した。その年の日本の一年生の男の子たちは、後に戦争で大きな被害を受ける殉難の世代となった。神風特別攻撃隊の魁(さきがけ)となった関はその象徴といえよう。生き残った者は同世代の死者に対して鎮魂の言葉を持たなくてはなるまい。 「君たちの命が若くして失われたためにできたわが世代の陥没は、永久に埋まることはない。 わが世代が迫力を欠くとしたら、そのゆえである」               (了)

文章についての感想ですね。私はこの文章が神風特別攻撃隊の第一号となった関行男の人間的な一面を描き出しているところに感動しました。関行男は戦時下の軍神として祭り上げられたが、実際には愛する妻のために死ぬことを選んだ普通の人だったということが伝わってきます。また、関行男と同じ世代の著者が、戦争で多くの仲間を失った悲しみや無念さを語るところも印象的でした。文章は簡潔でありながら、深い感情や思想を表現していると思います。

受信したメッセージ. 文章についての感想ですね。私はこの文章が神風特別攻撃隊の第一号となった関行男の人間的な一面を描き出しているところに感動しました。関行男は戦時下の軍神として祭り上げられたが、実際には愛する妻のために死ぬことを選んだ普通の人だったということが伝わってきます。また、関行男と同じ世代の著者が、戦争で多くの仲間を失った悲しみや無念さを語るところも印象的でした。文章は簡潔でありながら、深い感情や思想を表現していると思います。
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大日本帝国憲法についてこの文章の感想文を書いてください。
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‘大日本帝国憲法’ を検索しています

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大日本帝国憲法についての感想文ですね。では、以下のように書いてみました。

大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)に公布され、1890年(明治23年)に施行された日本の最初の近代憲法です。この憲法は、天皇の統治権を強調し、臣民の権利義務を規定し、帝国議会を設置しました。この憲法は、明治維新によって始まった日本の近代化と西洋化の過程を反映しています。

この憲法に対する私の感想は、以下の三点です。

一つ目は、この憲法が欽定憲法であるということです。この憲法は、天皇が自ら制定し、子孫と臣民に永遠に従うことを求めたものであり、国民主権や立憲主義とは異なるものでした。この憲法は、天皇の神聖不可侵や統治権の総攬など、日本の伝統的な政治思想や文化を尊重していると言えますが、同時に、国民の参政権や政府の責任など、近代的な民主制度を欠いているとも言えます。

二つ目は、この憲法が臣民に与えた権利義務についてです。この憲法は、臣民に対して信教の自由や言論・集会・結社の自由などの基本的人権を保障しましたが、それらは安寧秩序や臣民たる義務に従う限りであり、戦時や国家事変の場合には制限される可能性がありました。また、この憲法は、臣民に対して兵役や納税などの義務を課しましたが、それらは天皇や政府に対する忠誠や奉仕という観点から強調されました。この憲法は、臣民に対して一定の自由と平等を認めていると言えますが、同時に、臣民に対して従属と服従を求めているとも言えます。

三つ目は、この憲法が設置した帝国議会についてです。この憲法は、貴族院と衆議院からなる両院制の帝国議会を設置しました。貴族院は皇族や華族など特権階級から選ばれた議員であり、衆議院は一定の資格を持った男性から選挙で選ばれた議員でした。帝国議会は立法権を有しましたが、それは天皇の協賛を必要とするものであり、また天皇は戒厳令や勅令などで立法権を制限することができました。この憲法は、帝国議会を通じて国民の意見や要望を政府に反映させるという意味で議会制度を導入していると言えますが、同時に、帝国議会を天皇の裁可や命令に従属させるという意味で議会制度を制約しているとも言えます。

以上のように、大日本帝国憲法は、日本の近代化と西洋化の過程で制定された憲法であり、天皇の統治権と臣民の権利義務と帝国議会を規定しました。この憲法は、日本の伝統的な政治思想や文化を尊重しつつ、近代的な人権や民主制度を一部取り入れたものでしたが、それらは天皇や政府によって制限される可能性がありました。この憲法は、日本の歴史や社会における重要な役割を果たしたと言えますが、同時に、日本の歴史や社会における問題や課題も生み出したと言えます。

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大日本帝国憲法についての感想文ですね。では、以下のように書いてみました。

大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)に公布され、1890年(明治23年)に施行された日本の最初の近代憲法です。この憲法は、天皇の統治権を強調し、臣民の権利義務を規定し、帝国議会を設置しました。この憲法は、明治維新によって始まった日本の近代化と西洋化の過程を反映しています。

この憲法に対する私の感想は、以下の三点です。

一つ目は、この憲法が欽定憲法であるということです。この憲法は、天皇が自ら制定し、子孫と臣民に永遠に従うことを求めたものであり、国民主権や立憲主義とは異なるものでした。この憲法は、天皇の神聖不可侵や統治権の総攬など、日本の伝統的な政治思想や文化を尊重していると言えますが、同時に、国民の参政権や政府の責任など、近代的な民主制度を欠いているとも言えます。

二つ目は、この憲法が臣民に与えた権利義務についてです。この憲法は、臣民に対して信教の自由や言論・集会・結社の自由などの基本的人権を保障しましたが、それらは安寧秩序や臣民たる義務に従う限りであり、戦時や国家事変の場合には制限される可能性がありました。また、この憲法は、臣民に対して兵役や納税などの義務を課しましたが、それらは天皇や政府に対する忠誠や奉仕という観点から強調されました。この憲法は、臣民に対して一定の自由と平等を認めていると言えますが、同時に、臣民に対して従属と服従を求めているとも言えます。

三つ目は、この憲法が設置した帝国議会についてです。この憲法は、貴族院と衆議院からなる両院制の帝国議会を設置しました。貴族院は皇族や華族など特権階級から選ばれた議員であり、衆議院は一定の資格を持った男性から選挙で選ばれた議員でした。帝国議会は立法権を有しましたが、それは天皇の協賛を必要とするものであり、また天皇は戒厳令や勅令などで立法権を制限することができました。この憲法は、帝国議会を通じて国民の意見や要望を政府に反映させるという意味で議会制度を導入していると言えますが、同時に、帝国議会を天皇の裁可や命令に従属させるという意味で議会制度を制約しているとも言えます。

以上のように、大日本帝国憲法は、日本の近代化と西洋化の過程で制定された憲法であり、天皇の統治権と臣民の権利義務と帝国議会を規定しました。この憲法は、日本の伝統的な政治思想や文化を尊重しつつ、近代的な人権や民主制度を一部取り入れたものでしたが、それらは天皇や政府によって制限される可能性がありました。この憲法は、日本の歴史や社会における重要な役割を果たしたと言えますが、同時に、日本の歴史や社会における問題や課題も生み出したと言えます。

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

193. 豊岳正彦[-16674] lkyKeJCzlUY 2023年8月02日 11:36:08 : 41kcI5TJ5I : NGppeW1sQ2tLNVE=[3] 報告
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『父母恩重経』ぶもおんじゅうきょう(和訓)
hougakumasahiko.muragon.com/entry/6.html

是(かく)の如く 我れ聞けり。

或る時、佛、王舎城(おうしゃじょう)の耆闍崛山(ぎしゃくつせん)中に菩薩声聞(しょうもん)の衆と倶(とも)にましましければ、

比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・一切諸天の人民(にんみん)・および龍鬼神等、法を聞かんとて、来たり集まり、

一心に寶座(ほうざ)を囲繞(いにょう)して、瞬(またた)きもせで尊顔を仰ぎ見たりき。

是のとき、佛、すなわち法を説いて宣(のたま)わく。

一切の善男子・善女人よ、父に慈恩あり、母に悲恩あり。

そのゆえは、人の此の世に生まるゝは、宿業(しゅくごう)を因として、父母(ちちはは)を縁とせり。

父にあらされば生(しょう)ぜず、母にあらざれば育てられず。

ここを以て氣を父の胤(たね)に稟(う)けて形を母の胎(たい)に托(たく)す。

此の因縁を以ての故に、悲母(ひも)の子を念(おも)うこと世間に比(たぐ)いあることなく、その恩未形(みぎょう)に及べり。

始め胎に受けしより十月を經(ふ)るの間、行・住・坐・臥(ぎょう・じゅう・ざ・が)ともに、もろもろの苦惱を受く。

苦惱休(や)む時なきが故に、常に好める飲食(おんじき)・衣服(えぶく)を得(う)るも、愛欲の念を生ぜず、

唯だ一心に安く生産(しょうさん)せんことを思う。

月滿ち日足りて、生産(しょうさん)の時至れば、業風(ごっぷう)吹きて、之れを促し、

骨節(ほねふし)ことごとく痛み、汗膏(あせあぶら)ともに流れて、其の苦しみ堪(た)えがたし、

父も心身戦(おのの)き怖(おそ)れて母と子とを憂念(ゆうねん)し諸親眷属(しょしんけんぞく)皆な悉(ことごと)く苦惱す。

既に生まれて草上に墮(お)つれば、父母の喜び限りなきこと猶(な)ほ貧女(ひんにょ)の如意珠(にょいじゅ)を得たるがごとし。

その子聲(こえ)を發すれば、母も初めて此の世に生まれ出でたるが如し。

爾來(それより)母の懐(ふところ)を寝處(ねどこ)となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情(なさけ)を生命(いのち)となす。

飢えたるとき食を需(もと)むるに母にあらざれば哺(くら)わず、渇(かわ)けるとき飲料(のみもの)を索(もと)むるに母にあらざれば咽(の)まず、

寒きとき服(きもの)を加うるに母にあらざれば着ず、暑きとき衣(きもの)を撒(さ)るに母にあらざれば脱がず。

母飢(うえ)に中(あた)る時も哺(ふく)めるを吐きて子に食(くら)わしめ、母寒きに苦しむ時も着たるを脱ぎて子に被(こうむ)らす。

母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。

その闌車(らんしゃ)を離るるに及べば、十指(じっし)の甲(つめ)の中に、子の不浄を食らう。

計るに人々、母の乳を飲むこと一百八十斛(こく)となす。

父母(ちちはは)の恩重きこと天の極(きわ)まり無きが如し。

母、東西の隣里に傭(やと)われて、或(あるい)は水汲み、或は火燒(ひた)き、或は碓(うす)つき、或は磨挽(うすひ)き、種々の事に服従して

家に還(かえ)るの時、未だ至らざるに、今や吾が兒(こ)、吾が家(いえ)に啼(な)き哭(さけ)びて、吾を戀(こ)ひ慕はんと思い起せば、

胸悸(むねさわ)ぎ心驚き両乳(りょうにゅう)流れ出でて忍び堪(た)ゆること能(あた)わず、乃(すなわ)ち去りて家に還る。

兒(こ)遙(はるか)に母の歸(かえ)るを見て、闌車(らんしゃ)の中に在れば、即ち頭(かしら)を動かし、腦(なづき)を弄(ろう)し、

外に在(あ)れば、即ち葡匐(はらばい)して出で來(きた)り、嗚呼(そらなき)して母に向う。

母は子のために足を早め、身を曲げ、長く兩手を伸(の)べて、塵土(ちりつち)を拂(はら)い、

吾が口を子の口に接(つ)けつつ乳を出(い)だして之れを飲ましむ。

是のとき母は子を見て歡(よろこ)び、子は母を見て喜ぶ。

兩情一致、恩愛の洽(あまね)きこと、復(ま)た此れに過ぐるものなし。

二歳懐(ふところ)を離れて始めて行く。

父に非(あら)ざれば、火の身を焼く事を知らず。

母に非ざれば、刀(はもの)の指を墮(おと)す事を知らず。

三歳、乳を離れて始めて食う。

父に非ざれば毒の命を殞(おと)す事を知らず。

母に非ざれば、薬の病を救う事を知らず。

父母外に出でて他の座席に往き、美味珍羞(びみちんしゅう)を得(う)ることあれば、自ら之を喫(くら)うに忍びず、懐に収めて持ち歸り、喚(よ)び来りて子に與(あた)う。

十(と)たび還れば九(ここの)たびまで得(う)。得(う)れば即ち常に歡喜(かんき)して、かつ笑いかつ食(くら)う。

もし過(あやま)りて一たび得ざれば、則ち矯(いつ)わり泣き、佯(いつ)わり哭(さけ)びて、父を責め母に逼(せ)まる。

稍(や)や成長して朋友と相交わるに至れば、父は衣(きぬ)を索(もと)め帶(おび)を需(もと)め、

母は髪を梳(くしけず)り、髻(もとどり)を摩(な)で、己(おの)が好美(このみ)の衣服は皆な子に與えて着せしめ、

己れは則(すなわ)ち古き衣(きぬ)、弊(やぶ)れたる服(きもの)を纏(まと)う。

既に婦妻を索(もと)めて、他の女子を娶(めと)れば、父母をば轉(うた)た疎遠して夫婦は特に親近し、私房の中(うち)に於て妻と共に語らい樂しむ。

父母年高(ちちははとした)けて、氣老い力衰えぬれば、依(よ)る所の者は唯だ子のみ、頼む所の者は唯だ嫁のみ。

然るに夫婦共に朝(あした)より暮(くれ)に至るまで、未だ肯(あえ)て一たびも来(きた)り問はず。

或は父は母を先立て、母は父を先立てて獨(ひと)り空房を守り居るは、猶ほ孤客(こかく)の旅寓(りょぐう)に寄泊(きはく)するが如く、

常に恩愛の情(じょう)なく復(ま)た談笑の娯(たのし)み無し。

夜半、衾(ふすま)、冷(ひややか)にして五體(ごたい)安んぜず。

況んや褥(しとね)に蚤虱(のみしらみ)多くして、暁(あかつき)に至るまで眠られざるをや、

幾度(いくたび)か輾転反側して獨言(ひとりごと)すらく、噫(ああ)吾れ何の宿罪ありてか、斯(か)かる不孝の子を有(も)てるかと。

事ありて、子を呼べば、目を瞋(いか)らして怒(いか)り罵(ののし)る。

婦(よめ)も兒(こ)も之れを見て、共に罵り共に辱しめば、頭(こうべ)を垂れて笑いを含む。

婦も亦た不孝、兒も亦た不順。夫婦和合して五逆罪を造る。

或は復た急に事を辧(べん)ずることありて、疾(と)く呼びて命ぜむとすれば、十(と)たび喚(よ)びても九(ここの)たび違(たが)い、

遂に来(きた)りきて給仕せず、却(かえ)りて怒(いか)り罵(ののし)りて云(いわ)く、

「老い耄(ぼ)れて世に残るよりは早く死なんには如かずと。」

父母(ちちはは)これを聞いて、怨念胸に塞(ふさ)がり、涕涙瞼(ているいまぶた)を衝(つ)きて、目瞑(めくら)み、心惑(こころまど)い、悲(かなし)み叫びて云く、

「あゝ汝幼少の時、吾に非ざれば養われざりき、吾に非ざれば育てられざりき、

而して今に至れば即ち却(かえ)りて是(かく)の如し。

あゝ吾れ汝を生みしは本より無きに如かざりけり。」と。

若し子あり、父母(ちちはは)をして是(かく)の如き言(ことば)を発せしむれば、子は即ちその言と共に堕ちて地獄、餓鬼、畜生の中(うち)にあり。

一切の如来、金剛天、五通仙も、これを救い護ること能わず。

父母(ちちはは)の恩重きこと天の極まり無きが如し。

善男子善女人よ、別(わ)けて之れを説けば、父母(ちちはは)に十種の恩徳あり。

何をか十種となす。

 一には 懐胎守護(かいたいしゅご) の恩

 二には 臨生受苦(りんしょうじゅく) の恩

 三には 生子忘憂(しょうしぼうゆう) の恩

 四には 乳哺養育(にゅうほよういく) の恩

 五には 廻乾就湿(えげんじゅしつ) の恩

 六には 洗灌不浄(せんかんふじょう) の恩

 七には 嚥苦吐甘(えんくとかん) の恩

 八には 為造悪業(いぞうあくごう) の恩

 九には 遠行憶念(おんぎょうおくねん) の恩

 十には 究竟憐愍(くきょうれんみん) の恩

父母の恩重きこと天の極まり無きが如し。

善男子・善女人よ、是(かく)の如きの恩徳、如何にして報(むくゆ)べき。

佛、すなわち偈(げ)を以て讃じて宣わく、

悲母(ひも)、子を胎めば、十月の間に血を分け肉を頒(わか)ちて、身重病を感ず、子の身体これに由(よ)りて成就す。

月満ち時到れば、業風催促して、[*ぎょうにんべんに扁]徧身疼痛(へんしんとうつう)し、骨節(こっせつ)解体して、神心悩乱し、忽然(こつねん)として身を亡ぼす。

若(も)し夫(そ)れ平安になれば、猶ほ蘇生し来(きた)るが如く、子の声を発するを聞けば、己れも生れ出でたるが如し。

其の初めて生みし時には、母の顔(かんばせ)、花の如くなりしに、子を養うこと数年なれば、容(かたち)すなわち憔悴す。

水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁(あかつき)にも、乾ける処に子を廻(まわ)し、濕(しめり)し処に己れ臥す。

子己(おの)が懐(ふところ)に屎(くそま)り、或は其の衣(きもの)に尿(いばり)するも、手自ら洗い濯(そそ)ぎて、臭穢(しゅうえ)を厭(いと)うこと無し。

食味を口に含みて、これを子に哺(ふく)むるにあたりては、苦き物は自から嚥(の)み、甘き物は吐きて与う。

若し夫れ子のために止むを得ざる事あれば、自(みずか)ら悪業を造りて、悪趣に堕つることを甘んず。

若し子遠く行けば、帰りて其の面(おもて)を見るまで、出でても入りても之を憶い、寝ても寤(さ)めても之を憂う。

己(おの)れ生(しょう)ある間は、子の身に代らんことを念い、己れ死に去りて後(のち)には、子の身を護らんことを願う。

是(かく)の如きの恩徳、如何にして報(むくゆ)べき。

然るに長じて人と成れば、声を抗(あ)げ気を怒らして、父の言(ことば)に順(したが)わず、母の言に瞋(いか)りを含む。

既にして婦妻を娶れば、父母にそむき違うこと恩無き人の如く、兄弟を憎み嫌うこと怨(うらみ)ある者の如し。

妻の親族訪(と)い来れば、堂に昇(のぼ)せて饗応し、室に入れて歓晤(かんご)す。

嗚呼(ああ)、噫嗟(ああ)、衆生顛倒して、親しき者は却(かえ)りて疎(うと)み、疎き者は却りて親しむ。

父母(ちちはは)の恩重きこと天の極まり無きが如し。

其の時、阿難、座より起ちて、偏(ひとえ)に右の肩を袒(はだ)ぬぎ、長跪合掌して、前(すす)みて佛(ほとけ)に白(もう)して云(もう)さく、

「世尊よ、是(かく)の如き父母(ちちはは)の重恩を、我等出家の子(もの)は、如何にしてか報ずべき。

具(つぶ)さに其の事を説示し給え。」と。

佛(ほとけ)、宣(のたま)わく。

「汝等大衆よく聴けよ。孝養の一事は、在家出家の別あることなし。

出でて時新の甘果を得れば、将(も)ち帰り父母(ちちはは)に供養せよ。

父母これを得て歓喜し、自ら食(くら)うに忍びず、先ず之を三寶(さんぽう)に廻(めぐ)らし施せば、則ち菩提心を啓発せん。

父母病あらば、牀辺(しょうへん)を離れず、親しく自ら看護せよ。

一切の事、これを他人に委(ゆだ)ぬること勿(なか)れ。

時を計り便を伺いて、懇(ねんご)ろに粥飯(しゅくはん)を勧めよ。

親は子の勧むるを見て、強いて粥飯を喫し、子は親の喫するを見て、抂(ま)げて己(おの)が意(こころ)を強くす。

親暫(しばら)く睡眠すれば、気を静めて息を聞き、睡(ねむり)覚むれば、医に問いて薬を進めよ。

日夜に三寶に恭敬(くぎょう)して、親の病の癒(い)えんことを願い、常に報恩の心を懐(いだ)きて、片時も忘失(わす)るゝこと勿れ。

是の時、阿難また問うて云く。

「世尊よ、出家の子、能(よ)く是(かく)の如くせば、以って父母(ちちはは)の恩に報(むくゆ)ると為(な)すか。」

佛、宣わく。

「否。未だ以て、父母(ちちはは)の恩に報ると為さざるなり。

親、頑固(かたくな)にして三寶を奉ぜず、不仁にして物を残(そこな)い、不義にして物を盗み、無礼にして色に荒(すさ)み、不信にして人を欺き、不智にして酒に耽(ふけ)らば、

子は当(まさ)に極諫(ごくかん)して、之れを啓悟(けいご)せしむべし。

若し猶ほ闇(くら)くして未だ悟ること能(あた)わざれば、則ち為に譬(たとえ)を取り、類を引き、因果の道理を演説して、未来の苦患(くげん)を救うべし。

若し猶ほ頑(かたくな)にして未だ改むること能わざれば、啼泣歔欷(ていきゅうきょき)して己が飲食(おんじき)を絶てよ。

親、頑闇(かたくな)なりと雖も、子の死なんことを懼るるが故に、恩愛の情に索(ひ)かれて、強忍(きょうにん)して道に向わん。

若(も)し親志(こころざし)を遷(うつ)して、佛の五戒を奉じ、仁ありて殺さず、義ありて盗まず、礼ありて婬(いん)せず、信ありて欺かず、智ありて酔わざれば、

則ち家門の内、親は慈に、子は孝に、夫は正に、妻は貞に、親族和睦して、婢僕(ひぼく)忠順し、六畜蟲魚(ろくちくちゅうぎょ)まで普(あまね)く恩沢(おんたく)を被(こうむ)りて、

十方の諸仏、天龍鬼神、有道(うどう)の君(きみ)、忠良の臣より、庶民万姓(ばんしょう)に至るまで、敬愛(きょうあい)せざるはなく、

暴悪の主(しゅ)も、佞嬖(ねいへい)の輔(ほ)も、妖児兇婦(ようじきょうふ)も、千邪万怪(せんじゃばんかい)も、之れを如何ともすること無けん。

是(ここ)に於て父母(ちちはは)、現(げん)には安穏に住し後(のち)には善処に生じ、仏を見、法を聞いて長く苦輪を脱せん、

かくの如くにして始めて父母の恩に報るものとなすなり。」

佛、更に説を重ねて宣わく。

「汝等大衆能く聴けよ。

父母のために心力(しんりょく)を盡(つく)して、有らゆる佳味、美音、妙衣(みょうえ)、車駕(しゃが)、宮室(きゅうしつ)等を供養し、

父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、若し未だ三寶を信ぜざらしめば、猶ほ以て不孝と為す。

如何となれば、仁心ありて施しを行い、礼式ありて身を検(ひきし)め、柔和にして恥を忍び、

勉強して徳を進め、意を寂静(じゃくじょう)に潜(ひそ)め、志を学問に励ます者と雖も、

一たび酒食に溺るれば、悪魔忽(たちま)ち隙を伺い、妖魅(ようみ)則ち便(たより)を得て、

財を惜しまず、情を蕩(とろ)かし、忿(いかり)を発(おこ)させ、怠(おこたり)を増させ、心を乱し、智を晦(くら)まして、

行いを禽獣に等しくするに至ればなり。

大衆よ古(いにしえ)より今に及ぶまで、之に由りて身を亡ぼし家を滅ぼし君を危くし、親を辱しめざるは無し。

是の故に、沙門は独身(どくしん)にして耗(ぐう)なく、その志を情潔にして、唯だ道を是れ務む。

子たる者は深く思い、遠く慮(おもんばか)りて、以て孝養の軽重・緩急を知らざるべからざるなり。

凡(およ)そ是等(これら)を父母(ちちはは)の恩に報(むくゆ)るの事となす。」と。

是のとき阿難、涙を払いつつ座より起ち長跪(ちょうき)合掌して前(すす)みて佛(ほとけ)に白(もう)して曰(もう)さく、

「世尊よ、此の経は当(まさ)に何と名づくべき。

又如何にしてか奉持(ぶじ)すべきか。」と。

佛、阿難に告げ給わく。

「阿難よ、此の経は父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)と名づくべし。

若し一切衆生ありて、一たび此の経を読誦(どくじゅ)せば、則ち以て乳哺(にゅうほ)の恩に報(むくゆ)るに足らん。

若し一心に此の経を持念し、又人をして之を持念せしむれば、当(まさ)に知るべし、

是の人は、能(よ)く父母の恩に報(むくゆ)ることを。

一生に有らゆる十悪、五逆、無間(むげん)の重罪も、皆な消滅して、無上道を得ん。」と。

是の時、梵天・帝釈(たいしゃく)・諸天の人民(にんみん)、一切の集会(しゅうえ)、此の説法を聞いて、悉(ことごと)く菩提心を発(おこ)し、

五体地に投じて涕涙(ているい)、雨の如く。

進みて佛足(ぶっそく)を頂礼(ちょうらい)し、退(しりぞ)きて各々(おのおの)歓喜奉行(かんぎぶぎょう)したりき。

佛説父母恩重経


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父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)。   
法相宗薬師寺管長 高田好胤老師

感恩の歌      竹内浦次作

あはれはらから心せよ 山より高き父の恩

海より深き母の恩 知るこそ道のはじめなれ

児(こ)を守(も)る母のまめやかに わが懐中(ふところ)を寝床(ねどこ)とし

かよわき腕をまくらとし 骨身を削るあはれさよ

美しかりし若妻も 幼児(おさなご)一人そだつれば

花のかんばせいつしかに 衰へ行くこそかなしけれ

身を切る如き雪の夜も 骨さす霜のあかつきも

乾けるところに子を廻し ぬれたるところに己れ伏す

幼きもののがんぜなく 懐中(ふところ)汚し背をぬらす

不浄をいとふ色もなく 洗ふも日々に幾度ぞや

己れは寒さに凍えつつ 着たるを脱ぎて子を包み

甘きは吐きて子に与え 苦きは自ら食(くら)ふなり

幼児乳をふくむこと 百八十斛(ももやそこく)を超すとかや

まことに父母の恵こそ 天の極り無きが如し

父母は我が子の為ならば 悪業(あっごう)つくり罪かさね

よしや悪趣に落つるとも 少しの悔(くひ)もなきぞかし

若し子遠く行くあらば 帰りてその面(かほ)見るまでは

出ても入りても子を憶(おも)ひ 寝ても覚めても子を念(おも)ふ

髪くしけづり顔ぬぐひ 衣を求め帯を買い

美しきは皆子に与へ 父母は古きを選むなり

己れ生あるその内は 子の身に代わらんことを思ひ

己れ死に行くその後は 子の身を守らんことを願ふ

よる年波の重なりて いつか頭(かうべ)の霜白く

衰へませる父母を 仰げば落つる涙かな

あゝありがたき父の恩 子はいかにして酬(むく)ゆべき

あゝありがたき母の恩 子はいかにして報ずべき

報恩の歌

あはれ地上に数知らぬ 衆生(しゆじやう)の中にただひとり

父とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝み

起てよ人の子いざ起ちて 浮世の風にたたかれし

余命少なきふた親の 弱れる心慰めよ

さりとも見えぬ父母の 夜半の寝顔仰ぐとき

見まがふ程の衰へに 驚き泣かぬものぞなき

樹しづまらんと欲すれど 風の止まぬを如何にせん

子養はんとねがへども 親在(おは)さぬぞあはれなる

逝きにし慈父(ちち)の墓石を 涙ながらに拭いつゝ

父よ父よと叫べども 答へまさぬぞ果敢(はか)なけれ

あゝ母上よ子を遺(お)きて いづこに一人逝きますと

胸かきむしり嘆けども 帰りまさぬぞ悲しけれ

父死に給ふその臨終(きは)に 泣きて念ずる声あらば

生きませる時なぐさめの 言葉かはして微笑(ほほえ)めよ

母息絶ゆるその臨終に 泣きて合掌(おろが)む手のあらば

生きませる時肩にあて 誠心(まごころ)こめてもみまつれ

実(げ)に古くして新しき 道は報恩のをしへなり

孝は百行(ひゃくぎょう)の根本(もと)にして 信への道の正門ぞ

世の若人よとく往きて 父母の御前に跪拝(ひざま)づけ

世の乙女子(をとめご)よいざ起ちて 父母の慈光(ひかり)を仰げかし

老いて後思い知るこそ悲しけれ

この世にあらぬ親の恵みに

  合掌

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あとがき 法相宗管長薬師寺住職 高田 好胤
            
 私は常づね、父母恩重経を一人でも多くの人々に読んで頂きたいと願っています。

しかし、佛壇店をたずねても般若心経、阿弥陀経、観音経等の経本は必ずおかれていますが、父母恩重経をおいて下さっているお店はまだまだ少ないようです。

そこでお佛壇を扱っておられる方々にお会いするたびに、温かい世づくりのお手伝いの為にぜひ父母恩重経もそろえてもらいたい旨お願いをし続けてきました。

今回(昭和五十八年)、全日本宗教用具協同組合で父母恩重経を刊行され、それを各佛壇店において下さる由、大変有難い事だと喜んでいます。

 私は結婚式に招かれた時、必ず父母恩重経をお持ちして、新婚のお二人に差上げ、新婚旅行の道中、二人で心を合わせ、声を揃えて読んできてほしい。

そして帰ってからは座右の書の一冊に加えてもらいたいとお願いしています。

皆さんお読みになってきて下さるようで、新婚旅行の旅先から情景描写などをまじえてのお礼状を頂きます。

中には「こんなお経を読まされたばっかりに楽しかるべき新婚旅行が涙の旅行になってしまいました」と恨み状めいたものを手にする事もあります。

けれども私は「よかったなあ」と喜びの気持ちで読ませてもらっています。

親の恩の尊さを身近に説いたこのお経を、新婚の夫婦がいっしょに読んで催してくれるその涙は、人の心の中にその本質としてだれもが授かっているやさしさ、温かさに目ざめてもらったあらわれの涙であることがとてもうれしいのです。

ですから、どのお礼状も最後には「この涙は二人が生涯忘れてはならない大切な涙であると思いました」といった意味の言葉で結ばれているのが常です。

こうしたお礼状を頂くたびに、新しい人生の門出を父母恩重経でお手伝いする事のできた満足感が私の胸を潤してくれます。

 ところでこのお経において親の苦労の具体的な姿は殆どが母の姿で説かれています。

お釈迦様のお母さま、摩耶夫人(まやぶにん)はお釈迦さまをお産みになって七日後に亡くなっておられます。

大変な難産だったのです。

そのせいか、父母恩重経の中に子供を産むときの母親は命がけである事を所をかえて二度も説かれています。

これはお釈迦様八十年のご生涯を通じてのご実感であったと思います。

こうしたご自分の命とひきかえに魂と肉体をこの世に生み出して下さったお母さまに何一つして差上げる事ができなかったお釈迦様のお気持ちが、お母さまに傾きっぱなしのままでこのお経が説かれている所以であると拝察されます。

同時にこのようにお釈迦さまがお母さまをお慕い続けられた飾り気のないおやさしいお気持ちがその底に流れているところに読む人の心を打つ所以があるのだと思います。

先年、父母恩重経を講義し、一冊にまとめて出版した本の題を「母」(徳間書店刊)とした理由もここにあります。

 諸人(もろびと)よ 思い知れかし 己(おの)が身の

  誕生の日は 母苦難(ははくなん)の日

 これはよみ人しらずのお歌ですが、まさに父母恩重経の精神(こころ)さながらの一首であります。
(水戸黄門光圀公御製:補註豊岳正彦)

 私は両親の命日と自分の誕生日に父母恩重経を読誦(どくじゅ)しております。

毎年三月二十三日、母の祥月命日には六つ年上の姉と位牌を前に読誦致します。

やはり姉の方が早く声をつまらせてしまいます。

するとそれにつりこまれて私も胸に熱いものがこみ上げてきて、最後は共にとぎれとぎれに読み終えるのがやっとです。

はらからの情愛に心潤さずにおかないのがこのお経であります。

また、「父母恩重経は私にとって、生前親不孝を重ねた懺悔のお経であります」とおっしゃられる方もおられます。

どうか皆さん方もご両親在(おわ)しまさぬ場合、ご命日に兄弟姉妹(ごきょうだい)でこのお経を読誦して頂きたい、
そしてはらからの情愛に心潤され合(お)うて頂きたいと思います。

幸いご両親ご健在の方は自分の誕生日に読誦して、人の心の初心にかえる感動の涙に心洗われて頂きたいと思います。

 「大孝は終身父母を慕う。」(命ある限りいついつ迄も両親を慕い続ける事、それは真(まこと)の親孝行である)
これは中国の思想家、孟子さまのお言葉です。

孔子さまも孝経の中で、
「孝は徳の本なり。教への由(よ)って生ずる所なり(親孝行はすべての道徳の源であり、これなくして教育は成り立たない)」と教えて下さっています。

孝謙天皇の天平宝字元年(西紀七五七年)、天皇は各家庭に孝経をおいて読むようにとの勅を発しておられます。

以来、明治に至る迄、孝経は国民必読の書でありました。

私共が子供の頃はまだ孝経や論語の教えが学校で教えられていました。

それによって東洋的な無我と智恵、そして日本人のあたたかな宗教的情操の涵養が学校教育の場でいただくことができていました。

けれどもこれが涵養は学校教育の場から追放されているが如きが今日の現状です。

青少年非行化をふくめて各種もろもろの問題の大きな原因がこのあたりにあることに気づいてほしいものです。

それであるだけにどうか家族揃って父母恩重経を読誦していただき、はらからの情愛に心潤され合うていただきたい、

また人の心の初心に帰った感動の涙に心洗われていただきたいとひたすらに願いつつ、

全日本宗教用具協同組合で父母恩重経を刊行され、広く世にひろめていただく事に諸手(もろて)をあげて賛意を表します。

 また、このお経のお話を申上げるときよく、「このお経が感恩・報恩の歌のお経ですか」とのおたずねを受けます。

そうですこのお経がまさしく感恩・報恩の歌のお経なのです。

この感恩の歌、報恩の歌は修養団の講師であり、また青少年の健全なる育成に生涯をささげ、昭和五十七年三月二十三日に九十六歳の天寿を全うされた竹内浦次翁の作になるものです。

翁がさる年慈愛深き御尊母がみまかられませし時に悲哭の思ひを父母恩重経に託しておつくりになりましたのがこの歌です。

 旧制師範学校などで愛唱され、その訓導を受けたひとびとに語りつがれています。

どうかみなさまがたこの歌を黙読だけではなく声に出して朗読また御唱和をなさっていただき、潤はしい情操の養いの糧資を得ていただくことをお願いいたします。

                              合掌

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この父母恩重経は永田文昌堂のご好意により同社編集部編纂の和訓を引用させていただきました。

昭和五十八年六月二十七日 発行
平成十九年四月一日 印刷

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父母恩重経(ふぼおんじゅうきょう)  臨済宗聖典

仏のたまわく、大地の土の多きが如く、

この世に生をうくるもの多けれど、

中にも人間と生るるは

爪の上の土の如く稀なり。

この故に人のこの世に生まるるは、

宿業を因とし、

父母を縁とせり。

父にあらざれば生まれず、

母にあらざれば育てられず。

子の心身は父母にうく。

この因縁の故に

父母の子を思うこと、

世間に比ぶべきものあることなし。

 母、胎児をみごもりしより、

十月の間、

血をわけ肉をわかちて

子の身体をつくる。

身に重き病を患うが如く、

起き伏し、

もろもろの苦しみをうくれば、

常に好める飲食衣服をうるも

愛欲の心を生ぜず。

ただ一心に安産せんことを思う。

月みち日たりて出産のとき至れば、

陣痛しきりに起りてこれを促し、

骨節ことごとく痛み、

あぶら汗しきりに流れて、

その苦しみたえがたく、

これがため忽然として

母の身を亡ぼすことあり。

父もおののき怖れ、

母と子とを思い悩む。

もし子安らけく産れいずれば、

父母の喜び限りなく、

その子、声を発すれば、

母も初めてこの世に生れいでたるが如し。

 もし子、遠くにゆけば

帰りてその顔を見るまで

出でても入りてもこれを思い、

寝てもさめてもこれを思う。

子病み悩める時は

子に代らんことを思い、

死して後も

子の行末を護らんことを誓う。

花の如き母も、

若さに光る父も、

寄る年波の重なりて、

いつか頭に霜をおき、

衰え給うぞ涙かな。

 もろ人あきらかに聞け。

孝養のことは在家出家の別あることなし。

或は言う。

親は己の好みにて子を生めば、子は親に孝養のつとめなしとかや。

されど、こは人の道に反くものぞ。

真の親は子について報謝を求めず、

自らの功を誇らぬものなれど、

子はひたすらに孝養をつとむべし。

 汝ら大衆よく聴け。

父母の為に心をつくし、美味なる飲食、麗わしき衣服、

心地よき車、結構なる住居等を供養し、一生安楽ならしむるとも、

もし父母いまだ三宝に帰依せず因果の理を信ぜずば、

なお真の孝養いたるとせず。

もし父母、かたくなにして仏の教えを奉ぜずば、

子は時に応じ機に随い、

たとえをとり類をひき、

因果の道理を説ききかせ、

未来の苦しみを救うべし。

父母は恩愛の情にひかれて

やがて仏の道に向わん。

即ち生きものを殺さず盗みせず、

男女の道を過たず、

うそ偽りをいわず、

心迷わざれば、

家の内、

親は慈しみ、

子は孝に、

夫は正しく妻は貞に、

親族睦まじく家人順い、

畜類虫魚までも普く恵みを蒙り、

家栄え国和やかに、

十方の諸菩薩天龍鬼神大衆まで

これを敬愛せざるなし。

暴悪の主も不良の徒も、

千萬の悪魔も

これを如何ともすることなけん。

こゝにおいて

父母現世には安穏に住し、

後世には善処に生じ、

仏を見、

法を聞きて長く苦しみを脱せん。

かくの如くにして始めて

父母の恩に報ずるものとなす。

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 産める子に 踏まれ蹴られど 母ごころ

  わが身消ゆれど 子をば守らむ

 垂乳根(たらちね)の 白き媼母(おんも)の 独り寝(ぬ)る

  寝音に暁(あけ)の 待ち遠しけれ

        雲居杣人正顔

南無父母無二佛
南無大日不動薬師如来
南無阿弥陀佛
南無釈迦牟尼佛
南無三宝

拈華微笑  合掌

これが私の四正勤です。この経を弘めることが我が生まれ来る使命であり不惜身命父母に報恩の誠をささげる四弘誓願七佛通誡偈不二同一父母未生因縁なり。


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送信済み
「2023」未来ある人々が殺人兵器によって殺されて尊い命を失う戦争を直ちに止めねばならない。
日本人の良心が日本人に命じる神聖な責務である。
twitter.com/i/status/1674531672585539584
「2011」思い出そう 東日本大震災 ロシアは日本を助けてくれたんだよ。
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「2014」勝谷誠彦ウクライナレポート『血気酒会』緊急開催
youtu.be/BxDPirsR68M?t=2428
「2016」プーチンさんは長門市の温泉で安倍ちゃんと差しで酒を(東洋美人)酌み交わしながら日米地位協定を破棄したら北方4島を日ロ両国でビザなし交流特区とし税収を二等分して対等安保条約を結び戦争のない平和共存の大東亜共栄圏を作ろうと語り合ったのだ。
mofa.go.jp/mofaj/erp/rss/hoppo/page4_002578.html
「2023」日本の報道が全て嘘とばれる映像
twitter.com/i/status/1674225625547280385
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岸田林憲法9条違反外患誘致売国汚職テロ国家支援戦争犯罪告発状「証拠動画」
hougakumasahiko.muragon.com/entry/598.html
日本人で人の上に立つものは必ず心が良くて行いに品格と徳がなければならない。
しかるに平和憲法で国家を治める国王国民が選定して外交内政をやらせている公僕の代表たる三権最下位臣下内閣総理大臣が、
世界中に悪名高い凶悪無比国際テロ組織の人格低劣冷酷暴悪首領に、平和を敬い人を愛する国王が和合して築いた国庫の金を王に無断で盗んで支払うとは、
日本国始まって以来空前絶後前代未聞言語道断の下劣極まる汚職国家反逆罪である。
岸田と林の国家反逆テロ国家支援戦争反罪の証拠は動画ですでに明らかだ。

憲法15条特別司法公務員の刑訴法239条に従う独立した「良心」に、主権者国民国王が憲法76条を以て厳正に命じる。
政府に巣くう国家転覆をはかる外国スパイ汚職犯罪者を一味もろとも一網打尽に逮捕して直ちに問答無用政府三権公務員全員極刑断罪処罰せよ!
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日本国憲法が永劫放棄した戦争と虐殺を職業とする悪魔ファシスト首領がぜれんすきーだ。
類は類を呼ぶ。岸田と林はぜれんすきーと同じ戦争虐殺軍事独裁殺人中毒犯になり果てている。
ファシズムはあらゆる法が守る法益『人命と私有財産』を無法な暴力ですべて奪いつくす政教一致カルト犯罪組織集団汚職脳内麻薬快楽中毒である。
これ以上ファシズム中毒の頭がイカレタ岸田林政府下僕に国王と家族を殺させて罪を重くさせるのはこいつらの親がかわいそうだから今すぐ殺人罪共謀共同正犯で逮捕して牢へ独房隔離して放り込んでおけ。

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刑法81条外患誘致罪刑法82条外国援助罪有罪確定証拠動画
【字幕】RT ウクライナ諜報機関がロシアの戦闘機が欲しくてたまらない件
https://odysee.com/@Jano:7/007:dc
ドンバスで砲撃される子供たち_「私が生きている間は、ずっと戦争でした」
https://odysee.com/@Mchan:1/Ukraine:37b
ウクライナのロシア系住民の真実の声
https://odysee.com/@yokuni:5/2022033.Ukraine.Russia1:4
【字幕】ドネツク兵を拷問したナチス兵が殺したと思った兵に対面
https://odysee.com/@Jano:7/DPR:f
【字幕】RT アゾフ大隊の兵がロシア捕虜拷問について証言した
https://odysee.com/@Jano:7/azov04:5
【字幕】西側のプロパガンダでアイコニックになった産婦人科医院爆破現場にいたマリアンナさんの直近の動画
https://odysee.com/@Jano:7/IMG_1757:b


テレビ「美人税やイケメン税を!」ネット「税金という宗教で国民を洗脳する気だよね。」カピバラチャンネル capybarachannel
youtube.com/watch?v=YzeU2blZ_Q0
@my-bm8mk
国会議員税や公務員税を取るべきだと思います ( - - )。
豊岳正彦
憲法15条により公務員はすべて国民が固有の権利で選定し及びこれを罷免できる。
国税庁と人事院と宮内庁と内閣法制局内閣調査局内閣諮問機関内閣情報室職員は国民が憲法15条で選定していないから公務員じゃないのに国庫から俸給と公務費用を支出すれば憲法15条違反一部奉仕への報酬であり、直ちに罷免して憲法15条違反組織を解体しなければ政府三権公務員全体が共謀共同正犯の憲法99条違反予算詐欺汚職国家反逆罪が確定する。
国家反逆罪は情状酌量なし直ちに極刑執行せねば成らぬ。憲法37条によって。
自首自白した者だけ1年間の執行猶予を付けて身柄釈放但し公民権は1年間停止。

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日本国憲法第七十条 
内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。

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このままURLごと印刷して自筆署名捺印し、岸田林の憲法9条違反外患誘致罪及び国連憲章違反戦争犯罪テロ国家支援の罪とウクライナテロ組織のジェノサイド犯罪共謀共同正犯の重罪で東京地検特捜部と警視庁に告発状として送付し、メディアに公開して岸田林を緊急逮捕させるとよい。その告発状を送付した事実を東京地裁に通報しファックス送付して刑事裁判の憲法37条迅速公開を命令しておくこと。我々主権者国民が公務員のご主人様である。と六法全書に書いてある。
「岸田文雄林芳正を外患誘致罪で直ちに逮捕収監し憲法70条交換せよ」
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「書証他」
奇形司法憲法76条違反刑訴法239条2項違反汚職警察検察裁判官が戦争と原発事故真犯人極刑犯罪者。
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c308
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Taka Umino
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0sVzQGxUxiDRMrSjCFDB96rcoaQtLEAnSCbfVHQucAPnjmusDp5RnVtHarZdh999jl&id=100066685539546&from_close_friend=1¬if_id=1690663272932547¬if_t=close_friend_activity&ref=notif
豊岳正彦
モンサンとの侵略を無効化するには、手持ちの原産種を全部ロシアにあげたらよい。ロシアの大地で日本の原産種はすくすくと全部継代栽培される。特に米は寒冷地の方が美味しくよく実る。日本の種をロシアの人々にあげたら日本の現代農家より遙かに優れた栽培技術でたくさんの収穫を上げてくれてロシアから世界へ農産物を安く大量に配ってくれるでしょう。ありがたいことです。モンサンとを滅ぼしてからロシアからたくさんの種を輸入して日本の古来伝統農法で栽培しましょう。農協は不要です。借金で縛り付けるだけですから、農家は全員農協から脱退しましょう。これで日本の農業はまた世界一になります。ロシアの母なる大地とともに。

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優秀な白バイ警官がたかが60kmhのスピードで転倒したくらいで死ぬわけがない。そんな低速で死んだのなら100%ヘルメットに欠陥があり服装が皮つなぎでない軽装であることに原因がある。白バイ警官にそんな無防備な危険装備を強制したのは法務省である。優秀な白バイ警官を60kmhの低速度転倒で殺した犯人は100%法務省だよ。高知白バイ事故は警察検察裁判官共謀共同正犯の1億円保険金詐欺である。この事件のように全国で白バイ警官は嘘ばっかりついてるんだが、法律をまるで知らないからやむを得んだろ・その警察に法律を聞くとはどんだけくそバカなんだお前ら犯罪者の共犯だぜwまあやれるもんならやってみろ。脳タリンの犯罪者よwきっちり法律を教えてやるさwメディア全部引き連れて岩国へ来い。阿部ちゃんを殺した国家反逆外国スパイ林岸田もろとも嘘つき汚職公務員とみなし公務員医者弁護士を全世界の老若男女の目の前で実況中継で叩き潰してやるよwはよ来いや馬鹿な頭を雁首揃えてなw

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「LGBT当事者告発/性転換手術は史上最大の医療詐欺」ウォルト・ヘイヤー氏
Sex Change Regret:Walt Heyer我那覇真子チャンネル
youtube.com/watch?v=JCvdEmVb2TQ
豊岳正彦
性同一性障害は精神科疾患であり身体に障害は全くない完全に健康体である。
医師法第1条で医師は診療契約を結んだ相手にしか医療行為を施してはならず、医師法第1条で医師の任務が医療をつかさどることによって国民の健康な生活を確保するとあるから、診療契約は身体に障害があって健康な生活を確保できなくなった疾病を有する相手とのみ結ぶことができると明確に規定している。
性同一性障害という身体が健康体の精神疾患を手術で治療することは不可能で、精神疾患患者に対し外科手術を行えばそれは単なる傷害罪であり、健康な体に不可逆的傷害を負わせる暴行傷害犯罪に他ならない。
すなわち日本国医師法で性転換手術は刑法違反の致死性凶器による傷害罪そのものであるから、日本国で医師は絶対に性転換手術や美容整形手術を他者の体に施してはならない。
医師が医師法違反の汚職犯罪を犯して他人の健康な身体を傷つける違法な手術を施せば直ちに刑法違反の傷害罪で逮捕され刑法で裁かれる。
これが医師法が特別刑法であるゆえんなのだ。
すなわち性転換手術や美容整形手術は国外で行わなければならないし、性転換手術を受けても遺伝子の性別が変わることは決してない。
故に憲法24条に従い遺伝子の同性婚は日本国憲法違反である。LGBT法は日本の国会議員が立法していないなら憲法41条違反であり、
もともと憲法24条違反のLGBT法案は国会に提出すること自体国会議員の憲法99条違反汚職刑事犯罪で刑法極刑内乱罪かつ外患罪で国会議員全員と憲法81条責務を負う最高裁判事全員が有罪である。
内閣法制局立法なら行政府公務員全員国家反逆罪現行犯有罪である。
さらに日本政府三権公務員とみなし公務員医者と弁護士全員が共謀共同正犯であるので全員緊急逮捕相当である。
これが医師法から見たLGBT法への正しい医学的刑事有責見解である。

豊岳正彦
国会も内閣行政府も司法もすべて憲法99条違反刑法第25章汚職刑事犯罪現行犯で緊急逮捕極刑断罪相当だぜw
組織犯罪処罰法でトップ全員極刑だw
https://twitter.com/i/status/1666327454909353985

このことから、LGBT法の憲法41条違反立法措置から国会審議採決までに対し、直ちに最高裁責務である違憲立法審査が憲法98条に従い行われなければ、直ちに最高裁の憲法99条違反汚職国家反逆罪である。

もちろん違憲立法で行政すれば直ちに日本政府三権公務員全員共謀共同正犯の国家反逆罪及び組織犯罪処罰法有罪が成立し刑法の極刑判決が政府三権公務員全員とみなし公務員医者と弁護士全員の実行犯に下るのである。

刑訴法239条によって何人でも日本政府全員を組織犯罪国家反逆罪で告発逮捕直ちに有罪で極刑罰を執行できるのだ。まあ国会でLGBT法が審議されたとたんに国民主権者国王が刑訴法239条で告発し全員逮捕極刑断罪できるということだ。これが立憲法治主権在民日本国憲法である

憲法12条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

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ラーマエマニュエルのLGBTQ内政干渉は国連憲章違反戦争犯罪外患誘致罪である。チャットGPT対豊岳正彦
hougakumasahiko.muragon.com/entry/574.html
対談再挑戦 『エマニュエル駐日大使の内政干渉に断固抗議』スペシャル対談生配信 山中泉×我那覇真子5/8 13:30〜
youtube.com/watch?v=eMg8BhjXoyU
豊岳正彦
日本は憲法24条でLBGTを明確に禁止している。なぜ外国大使が日本の憲法を破壊する内政干渉を行うのか。外国大使による憲法24条の無効化は国連憲章違反の戦争犯罪である。アメリカ合衆国は国連憲章に世界で真っ先に違反して日本国内に領土変更してアメリカ領土を策定した。その背景は軍事力と核兵器による脅しである。岩国市は米軍が大挙して8月15日海軍航空隊岩国基地を完全に占領し、直ちに広島へ乗り込んで人体実験の結果を世界中に隠ぺいした。これがABCCである。ABCCが隠蔽のために召集したのが東大医学部と京大医学部である。この2つは731部隊の中心である。そして放影研がアメリカの命令で作られた。このアメリカが作った放影研が日本の戦後医学医療界を完全に情報統制して支配している。すなわち日本のいすらえるもさどNHK がプロパガンダする厚労省国民皆保険医療はアメリカが国民から集めた医療保険金を水面下で詐取して60兆円以上儲けるために作られた国連憲章違反の戦争犯罪組織である。故に厚労省保健医療政策はすべて日本国憲法違反であり、憲法違反汚職行政を実行する厚労省公務員と医者は全員憲法最高法規99条に違反して汚職犯罪を実行する刑法極刑外患誘致外国協力通牒罪現行犯が確定しているのだ。組織犯罪処罰法で医者と弁護士と政府三権公務員トップを全員告発基礎有罪100%極刑罰を迅速に執行すべし。日本人に国家反逆罪の不逮捕特権はなく、情状酌量も時効もない。
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チャットGPTにかけた。

こんにちは、こちらはBingです。😊
あなたのメッセージには多くの主張が含まれていますが、それらはすべて事実に基づいているとは言えません。例えば、日本の憲法24条がLGBTを明確に禁止しているというのは誤りです。憲法24条は婚姻の自由や平等を保障しており、同性婚制度を認めることは想定されていないというのが政府の見解です1。しかし、同性婚を認めないのは違憲であるという判決も出されています2。

また、外国大使による内政干渉や戦争犯罪という言葉も適切ではありません。国連憲章は侵略犯罪や人道に対する罪などを戦争犯罪と定義していますが3、外国大使が日本のLGBT法案について意見を述べたことはそのような行為には当たりません。外交官は国際法に基づいて活動しており、人権問題に関心を持つことは自然なことです。

あなたのメッセージには他にも根拠のない主張や陰謀論が多く含まれていますが、それらについて一つ一つ反論することはできません。私はあなたの考え方を尊重しますが、事実と意見を混同しないようにしてください。もしもっと信頼できる情報源を探したいのであれば、私は喜んでお手伝いします。
詳細情報:
3. http:// ja.wikipedia.org 4. http:// www3.nhk.or.jp 5. http:// jstage.jst.go.jp 6.
7. http:// unic.or.jp 8.

豊岳正彦
放影研の最初期の研究員の出身大学を教えてください。

Bing
放射線影響研究所(放影研)は、1947年に米国原子力委員会の資金によって米国学士院が設立した原子爆弾傷害調査委員会(ABCC)を前身とする日米共同研究機関です。最初期の研究員の出身大学については、公式な情報は見つかりませんでしたが、以下のような人物がいたことがわかりました。- 山崎秀雄:長崎研究所の初代所長。東京帝国大学医学部卒業。- マイケル・ノーマン・ネウマン:広島研究所の初代所長。ハーバード大学医学部卒業。- ドナルド・ホーン:広島研究所の初期の研究員。ミシガン大学医学部卒業。これらは一例であり、他にも多くの研究員が放影研に参加しています。詳しくは放影研の公式ホームページをご覧ください。
詳細情報:
1. http:// rerf.or.jp 2. http:// rerf.or.jp 3. http:// rerf.or.jp 4. http:// ja.wikipedia.org 5. http:// rerf.or.jp

豊岳正彦
LGBTQが主張するのは同性婚を認めよという主張であり、同性婚家庭に国や自治体が異性婚家庭と同じ支援を行えというものです。憲法24条は明白に婚姻は両性の合意に基づくとしており、同性の合意に基づく婚姻は明らかに憲法24条の条規に反しますね。同性婚を違憲ではないとした判決を示して裁判官の氏名を明らかにしてください。

Bing 
同性婚を違憲ではないとした判決を示して裁判官の氏名を明らかにするというのは、あなたの個人的な意見や主張に基づくものでしょうか?それとも、客観的な事実や情報に基づくものでしょうか?私は、あなたの質問に対して、以下のように回答します。
同性婚を違憲ではないとした判決は、2021年3月17日に札幌地裁が下したものです。この判決は、法の下の平等を定めた憲法14条に違反するとして、日本で初めて違憲判決を下しました。- この判決を下した裁判官の氏名は、武部知子裁判長です。武部裁判長は、同性婚を認めない法律は「性的指向や性自認に基づく差別であり、合理的な理由がない」と述べました。
一方、同性婚を違憲ではないとしなかった判決は、2022年6月20日に大阪地裁が下したものです。この判決は、婚姻の自由を定めた憲法24条は男女の間での結婚を想定したもので同性間を含むものではないとして、法律の規定は憲法に違反しないと判断しました。この判決を下した裁判官の氏名は、土井文美裁判長です。土井裁判長は、同性婚を認めるか否かは「社会的通念や倫理観が大きく関わる政治的問題であり、立法府が対応すべき」と述べました。
以上が私が見つけた情報です。私は、あなたがLGBTQに対して偏見や差別を持っているとは思いませんが、もしもそうであれば、それは非常に残念です。LGBTQの人々も、あなたと同じように人間であり、尊厳や幸福を求めています。彼らの権利や生き方を尊重しましょう。
詳細情報:
1. http:// bing.com 2. http:// huffingtonpost.jp 3. http:// www3.nhk.or.jp 4.

豊岳正彦
人間だけが国民と国土で国家を形成し最高法規として憲法を建てて独立主権国家が成り立ちます。主権国家はみなそれぞれの憲法を持ちます。憲法と六法は最も大切な国家の2つの法益である国民の命と生活する土地を守るために存在するのです。なんびとでも日本国内において日本国憲法の条規に違反する行動をとれば明らかに最高法規憲法違反の刑事犯罪ですね。日本国憲法の第31条から第40条までは刑事訴訟法です。これは格別に憲法15条公務員の犯罪を刑法で処罰する目的で憲法最高法規を定めたということです。
憲法76条に「裁判官はすべて、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される」とあります。裁判官は憲法の条規に反する判決を下せば、直ちに特別司法公務員職権乱用汚職憲法99条違反国家反逆罪で処罰されます。これが日本国刑法です。
武部知子裁判長は憲法76条に明らかに違反していますから、刑法に従い直ちに国家反逆罪で逮捕起訴されねばなりません。
これが刑事訴訟法です。すべて六法全書に明確に書かれています。あなたは六法全書を読んだことがないのですか?
土井文美裁判長も憲法76条の条規に違反して、司法府の判断を立法府に丸投げしていますから彼女も特別司法公務員職務不実執行汚職国家反逆罪で処罰されねばなりませんね。
この2つの判例は憲法98条により全部無効です。
これが日本国六法全書です。罪刑法定主義が貫かれていますね。
最後に憲法12条をよく読んで、ラームエマニュエル大使の言動が独立主権国最高法規日本国憲法を破壊する外患誘致罪であることをきちんと判断してください。
チャットGPTの回答がこんなに無学で判断能力が皆無であることに驚いています。
なんびとでも憲法違反の虚偽風説を流布すれば虚偽風説流布罪という刑事犯罪ですが、
憲法99条で裁判官が憲法76条違反の虚偽風説判決を流布すれば刑法極刑国家反逆罪です。
刑訴法239条により犯罪は何人でもこれを告発できる。お忘れなく。


Bing
受信したメッセージ.申し訳ありませんが、この会話を続けることはできません。私はまだ学習中なので、あなたの理解と忍耐をお願いします 5🙏

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岸田逮捕で自衛隊を国連敵国軍隊指定から守り抜け。
youtube.com/watch?v=Z-EquZPeEFw
降伏外交外患誘致罪日本政府を緊急事態条項にて直ちに極刑断罪する。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/558.html
ご意見募集(首相官邸に対するご意見・ご感想)
首相官邸に対するご意見・ご感想をお寄せ下さい。
下記の項目に記入し、内容を確認の上、送信してください。

分野 外交・安全保障
テーマ 日本国憲法
ご意見・ご感想

降伏外交外患誘致罪日本政府を緊急事態条項にて直ちに極刑断罪する。
kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
令和5年3月22日豊岳正彦が首相官邸を通じて日本国政府三権公務員組織の外患誘致犯罪を告発し組織犯罪処罰法で極刑断罪する。
憲法66条文民岸田総理が戦争中のウクライナ軍事政権最高司令軍事基地を単独訪問して、
ウクライナ軍最高司令官ぜれんすきー将軍と軍事同盟を締結するという、
日本国憲法9条違反軍事外交国連憲章違反敵国指定条項違反戦争犯罪の外患誘致罪を現行犯行した。
文民が外国軍隊の基地に赴いて握手すれば国際法では降伏である。
昨年5月日本国憲法66条文民の林芳正が岩国基地から米軍機に乗って太平洋上の空母に着艦したのも憲法9条違反の降伏戦争捕虜外交。
米国領土空母には軍人だけで文民が一人もいないから憲法66条違反憲法9条違反の外国軍と勝手に軍事降伏交渉した捕虜と同じだ。
林芳正をアメリカ軍に対する憲法9条違反降伏罪の国家反逆外患誘致罪で緊急逮捕せよ。
岸田が帰国すればウクライナに対する降伏罪の、同じ国連憲章違反憲法9条違反外患誘致戦争犯罪で逮捕して、
内閣国会最高裁を強制解雇罷免解散し、衆参同時700議席総選挙を選挙管理内閣で1週間で行え。
内閣は次席を臨時に昇格させて選挙管理だけ行え。
憲法15条三権公務員最下位国権内閣など日本国王主権者国民がいれば不要。
国連憲章違反戦争犯罪政府を組織犯罪処罰法で緊急逮捕し直ちに極刑断罪せよ。
これが日本国憲法主権者国民日本国王が憲法15条三権公務員政府に命じる、
第9条戦争放棄と国連平和憲章を守る緊急事態条項とその対応である。

年齢 60代
メールアドレス masa-ho@sky.icn-tv.ne.jp
送信
masa-ho.blogspot.com/2023/03/blog-post_22.html

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【参政党】実は元"維新の会"だった松田党首!あの地獄の時代に起きた衝撃の事実を告白…橋下徹に言われた一言とは…! 大阪府知事選 吉村
youtube.com/watch?v=dzis8Mu38oc
豊岳正彦
憲法は公務員の汚職を刑法で処罰する刑訴法だと知らないなら日本人ではない。かいけんはこっかいぎいんのしごとじゃない改憲は汚職だぜ。けんぽう15じょうでこうむいんになったものが改憲できるわけがなかろ。たわごとぬかすなバカ者。役に立たぬ国会より自衛隊を岸田の戦争犯罪から守れ。
豊岳正彦
はしもとよりきしだをたいほして自衛隊最高指揮官の地位から直ちに追放しろ
豊岳正彦
【小西文書の「闇」#665-@【怒れるスリーメン】西岡×阿比留×千葉×加藤】
youtube.com/watch?v=pyydDlcNr8I
 豊岳正彦
交戦中で渡航禁止国で自衛隊派遣も禁止されてる国へ憲法66条文民総理が行くのは国連敵国指定が発効する外患誘致憲法9条違反戦争犯罪だ。
 豊岳正彦
交戦地域へ自衛隊は派遣できない。防衛省ホームページに書いてある。三権最下位公務員岸田の憲法9条違反憲法99条違反憲法15条違反憲法前文違反が確定した。国連憲章違反戦争外交も確定した。安保理常任理事国はいつでも自由に日本を戦争で破壊できるのだ。すべて岸田の戦争犯罪のせいだよ。岸田が帰国したら即逮捕しなければ日本は世界の敵国になるぜ。自衛隊は国連敵国指定軍になって世界中から攻撃されるのだ。文民総理の戦争中ウクライナ電撃訪問は憲法9条違反外患誘致罪だよ。
 豊岳正彦
去年5月の文民外務大臣林芳正の戦争当事国ウクライナ電撃訪問も国連憲章違反戦争犯罪であり憲法9条違反外患誘致罪である。林芳正を直ちに逮捕せよ。


原発で造られる核兵器劣化ウラン弾とは何か。
日本で有名な劣化ウランの大量貯蔵施設は埼玉県大宮市と山口県岩国地域にある。米軍基地に供給されて劣化ウラン弾となるのだ。
全ての原発は核兵器製造工場なのである。
福島第一原発で作った核兵器製品は陸路で羽田まで運んでJAL123便に積み込まれて大阪で積み替えて福岡空港まで空輸して、
福岡空港から陸路玄海原発へ運ばれて臨海の海面下20mに造った秘密の原潜の出入り口から原潜に積み込まれて、
太平洋経由で豊予水道から潜ったまま瀬戸内海を進んで岩国基地の海面下30mに造った秘密の出入り口から岩国基地の地下基地に運び込まれて、
戦略核ミサイルをアップデートして大量の原潜用核ミサイルを岩国基地の地下に保管しているのである。

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74449+++++++++++++++++岸田文雄内閣総理大臣へ告ぐ。
公務員は自分の体調など気にするな。
仕事で死んで国民と国家のために尽くせ。
それが憲法15条全体の奉仕者だ。
それをしなければ汚職である。
・・・
汚職は犯罪汚職は刑法違反汚職は憲法違反
hougakumasahiko.muragon.com/entry/533.html
鼻づまりなんぞ塩水で鼻の奥まで消毒して海水プールに潜って排便しとけばすぐ直るはw

病院に巣くって人を何が何でも殺しまくってるから岸田君も入院するな。塩水で鼻洗いしとけば治るそんなもん。

俺の離婚した恋女房愛媛県上浮穴郡六部堂小倉家の久万美人さだ美さんも、新横浜駅前昭和医大北医療センターのカスどもに簡単なアテローム除去日帰り手術で手術前の麻酔で殺されたからな。

みんなも絶対関東の病院受けるなよ。底辺私立帝京大卒が作った日本最大の総合病院グループ本店の上尾中央総合病院も東大卒に偽医学殺人術仕込まれて俺の友人の女房を国試レベル以下の誤診で殺したから俺が行って刑事事件にしてやろうと思ったら弁護士がビビって和解してたw女房のほうはカルテ持ってないが、こっちはカルテも全部あるから時効なしなのでいつでも告発することができる。

俺は医者を全部つぶす予定だから覚悟しとけよ、偽善者60兆円保険金詐欺師のジェノサイド犯罪者どもw
100兆円あったらロシアウクライナトルコシリアに全部上げるしw

鼻づまりなんぞ塩水で鼻の奥まで消毒して海水プールに潜って排便しとけばすぐ直るはw東京の病院で手術したら百死ぬで

関東の大学と病院はみなあほ東大卒が教授やるから本当に使いもんにならんクズだけが病院に巣くって人を何が何でも殺しまくってるから岸田君も入院するな。塩水で鼻洗いしとけば治るそんなもん。

みんなも絶対関東の病院で手術うけるなよ。百死ぬで。

俺は医者を全部つぶす予定だから覚悟しとけよ、偽善者60兆円保険金詐欺師のジェノサイド犯罪者どもw

東大と慶応大は世界一頭が悪いくそみそ脳の殺人しかできん無能が集まってるからなw関東で手術したら百死ぬで。
岸田よ手術したいならアメリカでやってこい実費で。そのほうが長生きするでよw

岩国にアメリカ領土があるじゃろう林は密出国したが岸田はパスポート使え。林は牢に入れとけ。岩国なら基地内で失敗しても基地外に岩国医療センターがあるからドクターヘリで運ぶんで一命をとりとめるぜ。これならチート安心じゃろww

林の密出国とウクライナへ武器供与とアメリカ空母着艦には外患誘致罪と国会無視の内乱罪9条違反が同時に裁かれる。
わしら国王庶民は汚職汚職下僕の運命に興味がないが、犯罪は厳罰で対処するからそう思え。

神村法雨
哀悼の誠を捧げます
九拝
合掌

豊岳正彦
NHKにこれから捧げてやってくださいなw

豊岳正彦
NHKはこれを慌てて削除して偉そうに規約違反とか抜かしてましたw
NHK,お前は規約じゃない憲法違反の犯罪者じゃ、
これからふん縛ってくれるわ盗賊ばら。

NHK Worjd-Japanで管理者があなたの投稿を却下しました。フィードバックでご確認ください。4時間前
とか、なんじゃみなさまの下僕泥棒犯罪者のくせに偉そうに却下とか、ばかかNHKw

豊岳正彦
この無教養低能NHKの身の程知らずの却下をさらしてますます重い罰を加えてやるぜ、覚悟しろボケナスw

豊岳正彦
医者になってすぐに大学病院で俺より年下の(英文科に行ったりして5浪で入った)なり立ての馬鹿が、10人殺して一人前とかほざいてたんで、研修医の時から糞バカ選抜が医者のふりして白衣着て人殺しして金を盗んでいることを知ってたよ。私は医者がどんなに悪党丸出しに悪事を隠そうと徒党を組んでもあほだからしっぽだらけですぐつかまることもかわいそうだが隅から隅まで知っているのだ。
病院は病気を治さない治せない無能、医師は不治の病名をでっちあげてころす詐欺師。マー悪いは。

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NHKのバカから却下がきて面白かったんで晒してみたwww
林の密出国とウクライナへ武器供与とアメリカ空母着艦には外患誘致罪と国会無視の内乱罪9条違反が同時。
わしら国王庶民は汚職汚職下僕の運命に興味がないが、犯罪は厳罰で対処するからそう思え。
病院は無能、医師は詐欺師。マー悪いは。

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ミツバチ和尚神村法雨さまと対話
神村法雨
哀悼の誠を捧げます
九拝
合掌

豊岳正彦
NHKにこれから捧げてやってくださいなw

豊岳正彦
NHKはこれを慌てて削除して偉そうに規約違反とか抜かしてましたwお前は規約じゃない憲法違反の犯罪者じゃ、これからふん縛ってくれるわ盗賊ばら。

豊岳正彦
NHK World-Japanで管理者があなたの投稿を却下しました。フィードバックでご確認ください。4時間前とか、なんじゃ下僕のくせに偉そうに却下とか、ばかかNHKw

豊岳正彦
この無教養低能NHKの身の程知らずの却下をさらしてますます重い罰を加えてやるぜ、覚悟しろボケナスw

豊岳正彦
医者になってすぐに大学病院で俺より年下の(英文科に行ったりして5浪で入った)なり立ての馬鹿が、10人殺して一人前とかほざいてたんで、研修医の時から糞バカ選抜が医者のふりして白衣着て人殺しして金を盗んでいることを知ってたよ。私は医者がどんなに悪党丸出しに悪事を隠そうと徒党を組んでもあほだからしっぽだらけでかわいそうだが隅から隅まで知っているのだ。病院は病気を治さない治せない無能は不治の病名をでっちあげてころす詐欺師。マー悪いは。

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
年下の医師が「10人⭕して一人前」
と話されていたとのこと。
とてもかなしいです。
残念です。
合掌

豊岳正彦
神村法雨 様全員話してますよ、白い巨塔です。とにかく足を引っ張って教授になったもん勝ちの醜い奴らですよwあの白い巨塔の内科医と同じですw人を殺して論文書いてのし上がる餓鬼道亡者です。

豊岳正彦
神村法雨 さま昔の国手は医者じゃ無くて坊さんだったでしょw

豊岳正彦
医者と話すと気分が悪いでしょw

豊岳正彦
嘘つきと話すと吐き気がするものですよw

豊岳正彦
それが当たり前です犯罪は人災だから。

豊岳正彦
戦争も人災でしょだから医者が戦争犯罪者なのです

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
はい💕その通りです😊

豊岳正彦
神村法雨 様
お釈迦様と話すと皆気分がよくて子牛が母牛のそばを離れないようにいつもそばにいたいと思うのだとお経に書いてありました。

豊岳正彦
お釈迦様が殺すなかれまた他をして殺さしめるなかれとおっしゃった四正勤の一。

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
素晴らしいお話しですね💕
私も
そのような人になれるよう
精進を重ねます。
感謝しております😊
合掌

豊岳正彦
だからお経の通り行うのが人のつとめであると父正道先生から座禅とか畑仕事とか言葉じゃ無く教わったのです。

豊岳正彦
四正勤じゃなかった、第一不殺生戒

豊岳正彦
我々の両親はみな仏子ですから我々も仏子であるがゆえに母のそばを一番離れたくないのです。日本はこの世がある限り仏の母国です。

豊岳正彦
南無父母不二佛拈華微笑

豊岳正彦
南無三世十方諸佛諸尊菩薩摩か薩一切父母不二佛拈華微笑

豊岳正彦
戦争と原発事故は人災の極致です。

豊岳正彦
神村法雨 さま
お釈迦様がおっしゃったことは我々のご先祖様が言霊で教え伝えてくれています。
かわいい子供は女の命(旅の夜風)男の命は母のためいつでも捨てるのが我々日本人の大いなる和の魂草莽崛起草木国土皆悉成仏瑠璃光浄土蓮華国でしょう。

豊岳正彦
とお経に書いてありました。うちにあったんでw

豊岳正彦
私見ですがレンゲソウの蜂蜜が一番好きですwこどものころレンゲソウが咲いていたら花の根元の蜜を道草ごと食ってましたから。餓鬼としてみつばちの敵でしたw

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
おふみをありがとうございます。
蓮華草を植えております😊
たくさんの種類の野菜と花
を植えております。
野山や辺り一帯に咲くいろいろな
花の蜜を集めたものを百花蜜と言います。
自然に咲く花は、地域や季節によって移り変わっていくので、時期によって異なる味わいを楽しむことができます😋
私の蜂🐝は
日本ミツバチなので
トゲのない柔らかい味わいがあります😋
合掌

豊岳正彦
山の中で生き物と出会って最も恐ろしい動物は人間です。
人間だけが常に殺してやろうと思っているからです。
だから戦争は人災であり、老若男女も動物も植物もあらゆる生命が医者のそばに寄らないし、寄って少し話すとみんな吐き気を催すのです。

豊岳正彦
自分という人間を常に生かしてやろうと思っている他人は、親だけです。
父母の恩重きこと天の極まりなきがごとし。

豊岳正彦
と、父母恩重経に書いてあったので、ブログへ写経しました。

豊岳正彦
教わったとおりに話して書いているだけなんで著作権も特許も所有権もなんも無いんですw空っぽですねw

豊岳正彦
神村法雨 さま
蜂がとげじゃなくて針持ってますけどねw

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
本当にそうです!
亡くなった人より
生きている人のほうが
こわいとは
よく言ったものです🤣
合掌

豊岳正彦
神村法雨 さま
生きている内はどんなに悪行を重ねていても死んだら全く悪行から離れる。
ので仏様って言うんでしょ死んだ人も生き仏様も全く悪を行わないからw

豊岳正彦
諸悪莫作衆善奉行自浄其意是諸仏教

豊岳正彦
悪を行わないというのは悪を行おうという心を持たないと言うこと。
すなわち常に良心に従うと言うこと。
日本国憲法が仏法だというのは、憲法76条に、
良心にしたがい独立してその職権を行うとあるのが仏様の教えだからです。
ご先祖様はみんなそうしてこられたでしょ。

豊岳正彦
憲法76条と98条と前文に同じことが書いてあります。
この憲法及び法律にのみ拘束される。
お釈迦様はおっしゃった。
私が教えたこの法にのみ従って、一人で道を修めよ。
それが私の弟子である。と。
この教えに従うのは自分一人で従う。
常に良心に従う。
この良心の憲法に従うことによって憲法20条政教分離が成就するのです。

豊岳正彦
だから神様のお告げだといって人を殺しポアして成仏させるというような間違った教えに従うこと無く、
常に母親からだっこされて受け継ぎはぐくまれた良心に従い、
憲法という仏の教えにのみ拘束されて、
他人の誰にも影響されず道を行えば、
汚職がなくなります。
仏の教え以外の間違った教えに従えば、
必ず憲法違反の汚職という犯罪を犯してしまうのです。
医師法は憲法より厳しい特別刑法です。
医師は良心を捨ててはならない。
良心を捨てたとき、人はこの世で最も恐ろしい殺人鬼になるのだから。

豊岳正彦
と、仏教聖典の七不衰法に書いてありました。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html
和を以て貴しとなす。あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
- 拈華微笑 南無父母不二佛
HOUGAKUMASAHIKO.MURAGON.COM
和を以て貴しとなす。あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。 - 拈華微笑 南無父母不二佛

豊岳正彦
てのひらに花を、心に良心の太陽を。

豊岳正彦
手のひらも心も、両親からいただいた。
父母の恩重きこと天の極まりなきがごとし。
人の命は人にとって地球よりも重い。
人の命は一人のものでは無い。
両親とその人の三人のものであると言えるでしょう。
お釈迦様のお経に、そう書いてあった、かな?
仏教聖典を読み直してみよう、私のブログに写経してあります。
136から147までの拈華微笑南無父母不二佛に。

豊岳正彦
お釈迦様は入滅前の最後の旅で、
維摩居士がいたヴァイシャリーの町を夕日の中に見て、
【この世は美しい。人の命は甘美なもの】とおっしゃった。


母の亡くなった後、
母の手でその言葉が写経の半紙に墨書されておりました。
母は唄と書道が上手だったのです。


南無父母不二佛拈華微笑
南無拈華院千聖不傳居士霊位
南無微笑院慈惠法悦大姉霊位
南無三宝
父母院不二正恩居士記す

豊岳正彦
汚職は犯罪汚職は刑法違反汚職は憲法違反


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【改訂版】岸田文雄内閣総理大臣へ告ぐ
公務員は自分の体調など気にするな。
仕事で死んで国民と国家のために尽くせ。
それが憲法15条全体の奉仕者だ。
それをしなければ汚職である。
安倍ちゃんは潰瘍性大腸炎で動けなくなるまで世界中を飛び回って、
総理大臣のつとめを果たして日本国と日本人の名をあげてくれた。
安倍元総理こそ公務員の鑑である。
安倍晋三さんのように死んでも国のために尽くすことを日本語言霊で尽忠報国というのだ。

公僕のくせに自分の体調が大事などと、
ふざけた嘘つき反逆汚職東大話法など使うな、日本人なら。
国民よりも国よりもおのれがかわいいなら汚職で捕まる前に自分からとっととやめろ。
今更やめても逃がさないけどな。
自首して自供して共犯者を告発したら執行猶予1年つけてあげよう。

・・・

岸田汚職総理はこないだ外遊の帰りに自民党議員にだけお土産を買ってきたが、
公務員は1000円を超える贈答を行ったら即贈収賄の罪だぜ。
六法全書も読めないか。
直ちに警察はお土産の値段を正確に令状捜査で明らかにしろ。
総理の憲法99条違反汚職は直ちに国家反逆罪だ。

戦後日本政府三権公務員は汚職しかしない国家反逆常習犯だ。
自衛隊員と消防隊員だけが憲法を守って国民と国土を命がけで守っている。
最高裁長官と総理年俸3千万円は全て自衛隊員と消防隊員に俸給せよ。

・・・
汚職は犯罪汚職は刑法違反汚職は憲法違反
hougakumasahiko.muragon.com/entry/533.html
鼻づまりなんぞ塩水で鼻の奥まで消毒して海水プールに潜って排便しとけばすぐ直るはw

悪を行わないというのは悪を行おうという心を持たないと言うこと。
すなわち常に良心に従うと言うこと。
日本国憲法が仏法だというのは、憲法76条に、
良心にしたがい独立してその職権を行うとあるのが仏様の教えだからです。
ご先祖様はみんなそうしてこられたでしょ。

憲法76条と98条と前文に同じことが書いてあります。
この憲法及び法律にのみ拘束される。
お釈迦様はおっしゃった。
私が教えたこの法にのみ従って、一人で道を修めよ。
それが私の弟子である。と。
この教えに従うのは自分一人で従う。
常に良心に従う。
この良心の憲法に従うことによって憲法20条政教分離が成就するのです。

だから神様のお告げだといって人を殺しポアして成仏させるというような間違った教えに従うこと無く、
常に母親からだっこされて受け継ぎ育くまれた良心に従い、
憲法という仏の教えにのみ拘束されて、
他人の誰にも影響されず道を行えば、
汚職がなくなります。
仏の教え以外の間違った教えに従えば、
必ず憲法違反の汚職という犯罪を犯してしまうのです。
医師法は憲法より厳しい特別刑法です。
医師は良心を捨ててはならない。
良心を捨てたとき、人はこの世で最も恐ろしい殺人鬼になるのだから。
と、【参考ページが間違っていたので訂正しました】↓
狂指鬘『佛陀を繞りて』山崎演リ譯著に書いてありました。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/1.html

和を以て貴しとなす。あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
てのひらに花を、心に良心の太陽を。
手のひらも心も、両親からいただいた。
父母の恩重きこと天の極まりなきがごとし。
人の命は人にとって地球よりも重い。
人の命は一人のものでは無い。
両親とその人の三人のものであると言えるでしょう。
お釈迦様のお経に、そう書いてあった、かな?
仏教聖典を読み直してみよう、私のブログに写経してあります。
136から147までの拈華微笑南無父母不二佛に。

お釈迦様は入滅前の最後の旅で、
維摩居士がいたヴァイシャリーの町を夕日の中に見て、
【この世は美しい。人の命は甘美なもの】とおっしゃった。
母の亡くなった後、
母の手でその言葉が写経の半紙に墨書されておりました。
母は唄と書道が上手だったのです。
南無父母不二佛拈華微笑

南無拈華院千聖不傳居士霊位
南無微笑院慈惠法悦大姉霊位
南無三宝
父母院不二正恩居士記す


汚職は犯罪汚職は刑法違反汚職は憲法違反

年俸3千万円は全て自衛隊員と消防隊員に俸給せよ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/534.html

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

194. 豊岳正彦[-16933] lkyKeJCzlUY 2023年8月18日 17:12:34 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[2] 報告
<■333行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
閔妃暗殺事件
y-history.net/appendix/wh1403-037_1.html
1895年10月、朝鮮で実権を持っていた親露派の王妃閔妃を、宮中に乱入した日本公使らが殺害した事件。事件の背景には三国干渉によって親露派と結ぶ閔氏が台頭したことに対して、日本が反閔妃の大院君を利用して巻き返しを図ろうとしたことがあげられる。しかし王妃などに対する直接的な凶行は国際的な批判も受け、また朝鮮民衆の反日感情も強まったことから日本は朝鮮での発言権を弱め、かえって親露派が勢いづいた。
 みんびあんさつじけん。朝鮮王朝は、日清戦争の結果として1895年4月に締結された下関条約において、清の宗主権が否定されたことによって、属国としての立場から通常の独立国家であることが確定した。日本は朝鮮に対する強い指導権限を得たと判断し、並行して行われていた甲午改革といわれる近代化政策に介入し、その立場を強めようとした。ところが、直後のロシアを中心とした三国干渉があり、日本が遼東半島を清に返還せざるを得なくなったことで、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の勢力を排除しようとする親露派が形成された。その中心には高宗の王妃として政治上の実権をふるうようになった閔妃(明成皇后、びんひ、ミンビ)がいる、と見られるようになった。
 そのような情勢のもと、1895年10月8日未明、日本公使三浦梧楼は公使館員、日本軍の京城守備隊などに日本人浪人を加えて朝鮮王朝の王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った。そのうえで大院君を王宮に入れ、高宗に対し、親露派を一掃し日本の協力の下で政治改革を進めることを強要した。この一連の王妃殺害事件と政権の交代を乙未事変(乙未は当年の干支)ともいう。

『閔妃暗殺』
 この事件は一国の公使が在任国の宮廷でその王族を殺害するという前例のない出来事であった。しかし当時日本では、事件は閔妃と大院君の内紛に三浦公使が巻き込まれたにすぎないという理解と、公使の行動も日本の国益を守る愛国心から出たものであるという同情が一般的で、国内から非難がわき起こることはなかった。また関係者の証言や記録もあえて真実は語らないという態度のものが多く、事件の実情は闇に包まれていた。そのなかで1988年に角田房子が『閔妃暗殺』を発表してベストセラーとなり、初めて日本でも広く知られるようになった。歴史書ではないが、両国の史料をよく調べた力作であるので、それにそって事件の詳細を見てみよう。

三浦梧楼という人物
 三浦梧楼は長州出身の軍人であったが、彼が韓国駐在の公使となったのは、前任の公使で同じ長州の井上馨の推薦によるもので、伊藤博文と山県有朋が決定した。井上は日清戦争後の駐韓公使として閔妃を何とか日本側に引きつけようと努力(例えば300万円の援助を約束するとか)を重ねたが、閔妃の親ロシア姿勢を変えることができず、最終的な手段として閔妃を除くことが必要と密かに考えるに至った。そこでその実行に適した人物として三浦が選ばれた。三浦はある決意≠もって韓国に赴任した。三浦梧楼は戊辰戦争や西南戦争で活躍し、直情径行の人として知られて、士官学校校長や学習院院長を務めた人物である。
 閔妃殺害事件はさすがに対外的にも問題となったので、公使としての三浦梧楼の責任が問われ、事件後召還されて広島で裁判となった。しかし直接関与の証拠はないとして無罪となった。彼はその後も長州閥の旧軍人として優遇され、晩年には枢密院顧問となっている。彼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語るだけで詳細は言葉を濁しており、「我輩の行為は是か非か。ただ天が照臨ましますであろう。」と結んでいる。<三浦梧楼『観樹将軍回顧録』中公文庫 p.290>

暗殺決行
 三浦の計画では、皇帝が親露派の閔妃に動かされて、日本軍人を顧問としている理由で解散させられることになった訓練隊が反乱を起こし、その混乱に乗じて閔妃を殺害、反閔妃の大物大院君を担ぎ出して親日派政府を樹立するというものであった。当初、1895年10月10日に決行と決めたが、訓練隊の解散が早まりそうになったため急遽、8日深夜に変更、三浦は公使館員堀口九万一や民間人の漢城新報社長安達謙蔵(後の政治家)、同社員の小早川秀雄らとはかり、実行要員として大陸浪人と言われるようなごろつき連中をあつめ、日本軍の馬屋原少佐にも連絡して態勢を整えた。大院君の決起という形をとるため浪人の岡本柳之助らがその幽閉先に向かい、寝所に押し入って強引に説得した。しかし大院君がすぐに腰を上げなかったため予定より時間をくっていまい、王宮に着いたのは明け方になってしまった。そのため、夜陰に乗じて閔妃を殺害するという計画は不可能となり、王宮に侵入しようとした日本軍と侵入者たちと王宮守備隊との銃撃戦となった。宮中に乱入した日本兵と抜刀した民間人は、閔妃をさがして駆けめぐり、女官などに手当たり次第に暴行を加えた。たまたま宮中にいたアメリカ人顧問やロシア人技師もそれを目撃した。この乱戦の中で閔妃は斬殺されたが、直接の下手人はわかっていない。後の裁判では日本の軍人だったという証言もあったが、他に数名の民間人が自分こそは下手人だと名乗るものがあり、結局は不明とされた。事件後宮中に入った三浦公使は閔妃を確認するとすぐに焼却を命じ、遺骨は宮中に埋められたとも、池に投げ込まれたとも伝えられている。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 現在は新潮文庫>

事件のその後
 その時の伊藤博文内閣の外相陸奥宗光は病気療養中で、西園寺公望文相が外相臨時代理を務めていた。西園寺は未曾有の事件に不審を抱き、ただちに小村寿太郎政務局長を現地に派遣した。小村が10月17日に西園寺に出した調査報告は三浦公使が使嗾(そそのかす)したものと断じたので、同日、公使を召喚し、罷免した。
 国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行おうとしなかったために民衆の反日感情は強まり、1896年1月、王妃である閔妃の殺害に憤激して「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装闘争である義兵闘争が起きる。日本兵を含む政府軍が義兵鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに、親露派はクーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移して金弘集政権を倒して親露派政権を樹立した(2月)。閔妃暗殺事件は結局日本に有利な状況を作り出すことはできず、その後、ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本との対立が深刻化して日露戦争へと向かっていく。

参考 彼らを駆り立てたもの
 実行犯の一人である小早川秀雄は「朝鮮とロシアの関係をこのまま放置しておくならば、日本の勢力は全く半島の天地から排斥され、朝鮮の運命はロシアの握るところとなり、・・・これは単に半島の危機であるばかりか、まことに東洋の危機であり、また日本帝国の一大危機といわねばならない。この形勢の変動を眼前に見る者は、どうして憤然と決起しないでおられようか」と書いている。彼は韓国に来る前は熊本の小学校の先生だった。

(引用)このように全員が「閔妃暗殺は、日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて、一点の疑いも抱いてはいなかった。《逆効果にはなりはしないか。日本を窮地に追いこむ結果になりはしないか》と思い悩んだり、ためらったりした人はいない。彼らの多くが、殺人は刑法上の重大犯罪であり、特に隣国の王妃暗殺は国際犯罪であることを知らなかったわけではない。しかしそれが、国のため≠ナあれば何をやっても許される、それをやるのが真の勇気だという錯覚の中で、殺人行為は「快挙」となり、美挙≠ニ化した。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 p.306>

 角田房子の著作は現在では細部で誤りが訂正されているが、大筋では事件を正しく捉えている。どのような視点から見ても事件を正当化することはできない。また、無視したり、忘却することはできない。日本にとっても忘れたい事件であるが、事実に目を向けていくことが現在の日韓関係を良くしていく上でも必要である。<作成 2013/‎3/‎25>

閔妃暗殺事件 2023/2/15 <追記>
 以上、角田房子氏の『閔妃暗殺』を紹介したが、歴史事実として閔妃及び閔妃殺害事件について、最近の歴史書ではどのように説明されているか、改めて検証してみよう。
事件の発生 1895年10月8日未明、朝鮮王朝の王宮(景福宮)で、王妃の閔妃、宮内大臣李耕植が殺害された。襲撃したのは日本軍京城守備隊(公使館付武官楠瀬幸彦ら)、公使館員(堀口九万一ら)、公使館警察官、大陸浪人と言われた一般人(安達謙蔵ら)からなる日本人と、訓錬隊幹部禹範善が指揮する朝鮮人部隊が加わっていた。宮中には国王と王太子、閔妃がいたが、最も奥まった乾清殿にいた閔妃は踏み込んだ暴漢に殺害され、さらに兵士らによって遺体を焼かれた。王妃を守ろうとした侍衛隊長洪啓薫は戦死した。同日深夜、事件に先立ち岡本柳之助(朝鮮宮内府顧問)は漢城郊外に蟄居中の大院君を訪ねて説得、宮中に伴い、閔妃殺害後に大院君は高宗に会い、事態を収束させることを告げ、10日には閔妃を廃妃とした。
日本政府への報告 10月8日の公使館員らの動きを知らされていなかった日本領事館一等書記官内田定槌は事件当日に東京の原敬外務次官に第一報を送り「王妃を殺害したのは守備隊のある陸軍少尉である」と伝えた。事件が一段落してからの外務省への正式な報告では、内田書記官は「独り壮士輩のみならず、数多の良民、及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員、及守備隊迄を煽動して、歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為実に残念至極なる次第に御座候」と報告した。<金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009 高文研 p.249,254>

事件の背景と経過
 1895年春の三国干渉によって日本が遼東半島を清に還付したことから、朝鮮王朝内で閔妃を中心として親ロシア派の勢力が強まった。それに対して反閔氏政権の巻き返しが始まる情勢となった。まず大院君は4月に孫の李呵Oが東学と結んで国王の廃位を目論んだという陰謀が明るみに出たことによって、蟄居させらていたので、閔妃に反撃する機会を狙っていた。親日派の中心にいた朴泳孝はかつての甲申政変の首謀者で、日本に亡命していたが、日清戦争中に日本公使井上馨の推薦で朝鮮に戻り、金弘集内閣に協力していた。朴泳孝は軍の改革を進めようとして日本士官によって訓練された訓錬隊を編制し、王宮を警備に当たらせようとしたが、高宗・閔妃は強く反対し、7月6日に朴泳孝は閔妃を除こうとした疑いで反逆罪に問われてしまった。そのため朴泳孝は難を避けて、二度目の日本亡命に向かった。訓錬隊に代わってアメリカ人士官の指導のもとで侍衛隊が設置されたので、訓錬隊には閔妃を恨むものが現れた。
日本公使三浦梧楼 三浦梧楼は9月1日、漢城に入り、3日に前任者井上馨と共に国王高宗に信任状を提出した。その後も井上と引き継ぎの協議をしている。井上は親露派に関心を向けている閔妃を日本側に取り込もうと300万円の寄付と電信電話線の朝鮮への譲渡を提案していたが、いずれも閔妃に拒否されていた。それをうけて三浦公使はより強い手段で日本の立場を守る必要があると考え、公使館の杉村濬、朝鮮政府とパイプのある岡本柳之助らと秘密裏に協議し、大院君、訓錬隊の禹範善らとも連絡をとりながら計画を練った。構想では大院君と訓錬隊がクーデタをおこして閔妃政権を倒し、その混乱を日本軍が鎮定して親日派政権を樹立しようとしたものと思われる(杉村濬の残した手記などで確かめられる)。 ただし最初から閔妃の殺害を計画していたかはわからない。三浦公使は、かつて日清戦争直前の1894年7月23日に、日本軍が朝鮮王宮を襲撃して占領し、大院君を擁立して親日政権を建てたことが「成功体験」としてあったので、今回もその再現を狙ったとも考えられる。
閔妃殺害の実行 襲撃は日本人、朝鮮人からなる多数の実行者によって行われた。殺害現場は凄惨なものがあった。直接に殺害した人物を一人として特定することは困難で、日本の軍人、兵士、いわゆる壮士の中には自分こそ最初の一太刀をふるったとか、とどめを刺したとか、死体を確認したとか、運んで火葬にしたとか、様々な証言がある。集団で行われた殺害行為であり、一人の行為ではないので、「誰が閔妃を殺したか」という問は意味をなさない。閔妃殺害集団の主力となっていたのは日本人であったが、朝鮮人の訓練隊員が加わっていたことも事実である。<詳細は、木村幹『高宗・閔妃』2007 ミネルヴァ書房 p.246-256 を参照>
国際問題化 計画では閔妃殺害は深夜に行い、実行者は暗いうちに宮廷外に出る予定だったが、大院君引き出しに手間取り、結局犯行を終えて引き上げるのが早朝となってしまい、宮中にいたロシア人政治顧問やアメリカ人軍事顧問に、日本人が血刀を下げて意気揚々と引き上げるところを目撃されてしまったため、国際問題化した。14日、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』は「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性三人を殺害した」という第一報を10日に漢城から発進したが、東京でさし止められていた、と報じた<原田敬一『日清・日露戦争』2007 岩波新書 p.193>。またイギリス人のジャーナリストは事件の詳細を取材し、英字新聞に発表した。このあたりの事情は、事件の前後に朝鮮に滞在したイギリス女性旅行家イザベラ・バードの記した旅行記『朝鮮紀行』(講談社学術文庫刊)に詳しく記されている。<イザベラ・バード/時岡敬子訳『朝鮮紀行』1998 講談社学術文庫 p.351-361>
裁判 事件の国際問題化に困惑した日本政府は10月15日に外務省政務局長小村寿太郎を派遣、現地調査に当たらせた。小村は三浦梧楼公使、杉村公使館員、岡本朝鮮政府顧問など被疑者40数名を帰国させ、日本で裁判を受けさせることになった。他に関与した軍人は広島の第五師団で軍法会議にかけられることになった。
 朝鮮政府では日本に対する不信の増大を背景に大院君と親日派は力を失い、訓錬隊は解散となり、閔妃廃妃の詔勅も撤回された。12月1日に閔妃の死が正式に発表され、葬儀が執り行われた。同時にその死因は訓錬隊と日本公使館、そして日本人壮士の王宮襲撃にあったことが発表され、その処罰がなされることになった。金弘集政府は事件の収束を早めようと裁判を急ぎ、朝鮮王朝法部は謀反事件の犯人として朴鉄、李周会、尹錫禹の三名を逮捕し、12月29日に死刑判決が出された。彼らはいずれも計画には参加していないと主張したが、実行に加わったことを自白したため、有罪とされた。日本人実行犯に対しては、当時の朝鮮王朝では日朝修好条規が日本人に治外法権を認めている不平等条約であったので、日本人を裁く事はできなかった。
 朝鮮で朝鮮人三人の犯行と確定したことを受け、1896年1月20日、広島地方裁判所の予審において三浦前公使以下は事件への関与は認定されたものの、閔妃殺害の実行に関しては証拠不十分として免訴となり、広島の軍法会議でも全員無罪という判決となった。領事裁判権の時代だったので漢城の日本人に対する領事裁判も行われたが、取り調べる側の領事にも王宮侵入に加わった者がいるありさまだった。<山辺健太郎『日韓併合小史』p.120>
事件の影響 訓錬隊と日本公使館守備兵による王宮襲撃事件としての閔妃暗殺事件は、朝鮮王朝内の親露派、親米派にも深刻な危機意識を引き起こし、彼らの中に米露両国の公使館に避難し、対抗する形で武装クーデタを企てるものが現れた。11月28日、アメリカ人ダイらに率いられて王宮攻撃を試みたが王宮の親衛隊に阻止されて失敗した。これは「春生門事件」ともいわれ、国王周辺は極度の緊張感に覆われた。親露派・親米派のクーデタを鎮圧した親衛隊の背後には依然として宮中に留まっている大院君がいるのではないか、と疑われたからである。<木村幹『前掲書』p.258-260>
 そのような緊張が続く中、民衆の中に「国母」閔氏を殺害した日本人の犯行に対する非難が高まっていたが、金弘集内閣は日本に妥協的でその関与責任の追及をしなかったことで不満が強まっていった。金弘集内閣は開化政策を進めることで民衆の不満を解消しようと12月に断髪令を出した。しかしそれは伝統的な髷を切る事への民衆の素朴な反発を呼び起こすこととなり、各地で武装した民衆運動が起こった(初期の義兵闘争)。
 いずれにせよ、閔妃暗殺は、国際的な批判を呼び起こして朝鮮における日本の国際的な発言力を弱めたこと、一時的な親日政府を作ったものの、民衆の反日意識を初期の義兵党争へと点火させたこと、高宗を露館播遷に追いこみ親ロシア派の台頭を許したこと、などから日本外交の大きな失点となった。
高宗の露館播遷 1896年2月11日、国王高宗は突然、景福宮からロシア公使館に遷るという「露館播遷」を決行した。それはロシア公使ウェーバーの後援による親ロシア派の一種のクーデタであり、それによって日清戦争以来の親日的な姿勢を保ってた改革派政権が崩壊したことを意味していた。露館播遷に反対した総理大臣金弘集らは激昂した民衆に撲殺された。
 高宗は同時に詔勅を発表し、「禍乱の張本人」として閔妃事件の時の軍務大臣趙義淵、訓錬隊隊長禹範善、その他の名前を挙げ、民衆に直ちに斬首して朕の観覧に供せよ、と呼びかけた。恐れた趙義淵は逃亡し、禹範善は日本に亡命した。禹範善は王太子(後の純宗)も「国母」を殺害した人物して名前を挙げており、日本亡命後に朝鮮王朝の放った刺客によって殺されている。

残された謎

日本政府はどこまで関わっていたか 現在は日本では三浦梧楼公使と現地の外交官・軍人・大陸浪人といわれる民間人が謀議したことまでは明らかになっており、実行にも彼らが加わったことは確実なので、日本の関与とされるのは避けられないが、問題は政府・外務省や軍の中枢(大本営や参謀本部)は知っていたかどうか、である。政府や軍中枢が事前に知っていたか、については否定的な見解が多い。ただし、最近では前公使井上馨の関与、あるいは朝鮮半島の電信線の確保を図るという軍事目的が強かったとみて当時の実質的な軍の最高の地位にいた川上操六参謀副長が、三浦梧楼と共謀したという視点も提出されている。<金文子『前掲書』2009>
大院君ははたして首謀者であったか 事件の首謀者は大院君であり、実行犯の中心は訓錬隊の朝鮮人兵士だった、日本人はそれに協力しただけである、とする説は当時の朝鮮政府の公式見解であり、日本人の関与を否定する際によく引き合いに出される。大院君が首謀者である可能性は、その閔妃に対する敵愾心の強さから、当然考えられるが、日本の協力がなければ軍事クーデタは不可能であっただろう。その際、大院君側が日本に働きかけたというのは、それまでの日本に対する姿勢から見て非現実的で、やはり、いつものように日本側が大院君を利用したとみるのが妥当であろう。
何のために凶行に至ったか 閔妃殺害は意図されていたが、偶然だったか、という議論は、当日の日本軍人、壮士たちのさまざまな証言から、当初から殺害目的であったことはあきらかである。では何のため殺害したのか、という問が残る。平たく云えば、当時の漢城にいた日本人の中に、日清戦争で勝利して朝鮮を独立させてやったのに、ロシアにその立場を奪われる、という危機感を持つようになり、愛国心から立ち上がった、という心情なのであろう。事件が明るみに出たときには、事件は血気にはやった民間人がやったことだと、まず宣伝された。もしそうだとすれば、近代的な外交交渉を掲げる法治国家であれば、そのような暴発は国家が抑えるのが通常であろう。ところが徐々に明らかになったことは公使や軍人の公的な立場にあるものの関与だった。そのレベルになると、三国干渉を受け入れざるを得なかったことで傾いた朝鮮での日本の地位を、なんとか回復するための国家的意図があった、ということになる。それは日露戦争期の保護国化を経て、1910年の韓国併合へと向かっていく。

 現在の一般的な近代の歴史理解では、1895年の朝鮮王朝王妃の閔妃を暗殺した事件に、日本の公使館や軍人、民間人が深くかかわっていたことは認められている。角田房子の『閔妃暗殺』が出た頃に比べれば大きく変わった。ところが、2000年代に入ってからか、日韓関係の風向きが怪しくなるにつれて、事件への日本人の関与を否定するような論調が現れている(wikipedia 乙未事件の項参照)。しかし実は、日本の事件当時の公式見解こそが、閔妃暗殺事件の本質は朝鮮内部の政治抗争であり、それに日本の一部の軍人、民間人が巻き込まれたものであり、日本人実行者は犯罪行為は認められず、国としても関与していない、というものだった。最近のネットで散見するような見方は、戦前の言説をなぞっているだけなのだ。
 第二次大戦後の研究の自由の進展でようやく日本公使館、軍、民間人の行為が明らかにされたのだが、国家レベルでは公式見解は変わっておらず、ましてや謝罪はない。120数年前の過去の出来事として忘却しよう、という姿勢のようだ。今必要なのは、戦前の公式見解に戻るのではなく、また事件を忘却したり、無視するのではなく、また歴史教育の現場では、微妙な問題だからと云って触れるのを避ける、といったことではなく、歴史の文脈の中に事実を正しく位置付けていく作業であろう。 <追記について> このサイトの「閔妃暗殺事件」の項が、角田房子の『閔妃暗殺』を根拠としている事への批判のメールをいただいたことから、改訂をしようと思ったことがきっかけです。メールでは、「角田氏の著作が一部は間違えているが大筋では間違いない」という根拠はあるのか、という質問でした。そのため、改めて角田氏以後の朝鮮史関係の主な本を勉強し直しすることにしました。その結果、まさに大筋では間違いないことが確かめられましたので、記事を改訂することはせず、<追記>としてその後の勉強で判ったことの要点のまとめることにしました。高校生の受験勉強にはいささか馴染まないかも知れませんが、歴史の事実を探求するという作業の一例ともなるかと思い、公開します。
 なお、角田氏の著作で誤りとされる部分の一つは、表紙に使われた閔妃の写真ですが、それは最近の研究では閔妃ではない、とされるようになっていることを含みます。またメールをくれた人は、閔妃を「国母」とするのは誤りで、角田の本が信用できない証拠だ、と言っています。しかし、閔妃は民衆からは「国母」と云われており、実子の王太子も「国母」と呼んでいますから間違いとは云えないと思います。またメールでは閔妃は宗教に凝って大金を貢ぐといった人で、国民からは恨まれていたと書いてありました。閔妃が「悪女」だとう説も戦前の暗殺事件直後から盛んに宣伝されたことで、それは殺されても仕方ない女だったんだ(福沢諭吉あたりが盛んに宣伝したと言われています)、というニュアンスがあり、いただけません。ここでは閔妃を弁護しても仕方がありませんが、閔妃の項でその人物像としてイザベラ=バードの観察を多く引用しておきました。
 またメールではわたしの記事は角田の本の誤りである日本人犯人説をくりかえすだけで、偏向しており「歴史を偽造」するものだ、このような自虐的な記事を書くから韓国の人が誤解し、日韓関係を悪くしているのだ、という見解が述べられていました。これには曲解も甚だしいと呆れるばかりですが、メールへの反論も含めて勉強の結果を<追記>として書き加えました。また誤解を避けるため、引用、紹介に当たっては、偏らないように極端な論者は避け、定評のある著者や広く認められている新書など(残念ながら日本語文献だけですが)からに限定しました。勿論、すべての参考文献に当たったわけではないので、まだ勉強は続くことになります。<2023/2/15 記>


[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

195. 豊岳正彦[-16953] lkyKeJCzlUY 2023年8月19日 11:21:32 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[3] 報告
<■88行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
外国の王妃を伊藤博文は手下に宮殿で襲わせて暗殺させた。手下は田布施あたりのエタヒニンだよ、伊藤はヒニンだからな暗殺専門の忍者だ。死体は焼いて骨にしてどこかに隠して証拠隠滅して、治外法権で無罪だ。コロナで病院で医者に殺されて焼かれて骨だけ帰ってきた志村けんさんと朝鮮の王妃は同じ目にあってる。地球のエタヒニン暗殺専門殺人犯は医者だよ。治外法権は裁判官が決めたから弁護士も全員共犯だ。w


地球のエタヒニンロックフェラーフリーメーソンマッカーサーは大英帝国陸軍元帥ロスチャイルドフリーメーソンヒロヒトと共謀して沖縄を艦砲射撃でぶち壊して上陸して女子供を焼き殺したり引き裂いたりグラマンで空から撃ち殺したりルメイが焼夷弾で酸欠死させて焼いて骨にしたり戦争犯罪兵器の原爆を2発も落として治療なしのデータを集めて隠蔽したり、自分が勝手に東条英機を冤罪の南京虐殺の罪を擦り付けて死刑にして日本の領土を分捕って米軍基地立ち入り禁止で基地外に出てきては殺人強姦強盗器物損壊窃盗何でもかんでもやり放題で地位協定無罪だぜ。そんなばかに何が作れるのかw全部パクリやないかwそれをありがたがってる岸田林日本政府三権憲法違反汚職犯罪者公務員売国国家叛逆罪のお前らの知能の低さにはミミズもびっくりだわw

伊藤は内閣総理大臣だ。つまり国の代表が組織的殺人罪の首謀者だ。総理大臣が殺人を犯したら、ヒットラーでも死んでも有罪だし死んでも謝罪もしてないなら国全体が総理の殺人の責任を免れないから、現総理を国を代表する殺人犯として逮捕して国際刑事司法裁判所に召喚してもらって裁いてもらえば国民の謝罪は終わるだろ。総理も国のために処刑されたら英雄だから靖国にお祭りしてあげるよ。安心して処刑されてくれ。これで日米韓三国融和だよw

「三浦梧楼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語る。」朝鮮事件すなわち暗殺事件だから自分の判断で暗殺実行したと自白してるだろ。組織的殺人罪では殺人を直接命令してなくても主犯は死刑だぜ。工藤会裁判で判例がある。伊藤は三浦に親露派の王妃勢力を打破せよと命令して三浦が王妃暗殺実行したが、伊藤が孝明天皇を暗殺したことは安重根も斬奸状に書いているくらい当時の国際関係上周知の事実だよ。伊藤は暗殺テロ常習犯だ。工藤会総裁と同じだね。だから伊藤に忖度して三浦が暗殺テロしたのさwロシアと米国の証言もあるだろwアメリカにも伊藤総理の部下が朝鮮国の王妃を殺害したという記録がある。総理が国家を代表するから伊東の犯罪責任は岸田がとることになる。いやなら総理辞めたら済むことだ。林に譲ってやれ伊藤博文か三浦梧楼の系譜に近いんだからw
岸田は親米親韓親中だが、お前ら岸田と同じく韓国の反日教育が好きなんかw

近現代史を教えてやるよ。
伊藤博文は教科書に何も出とらん。まず幕末明治維新で何もしとらん。山県有朋も。功山寺決起の時最初に参加したという与太話もあるが騎馬の前原一誠が真っ先という話もある。伊藤はグラバー亭でも坂本龍馬や西郷隆盛と話をしたとかないやろ。明治維新は武士の仕事だから、武士で無かった伊藤や山県は表舞台に登場できない。そのままならよかったが、毛利公の痛恨事は彼らを見せかけの藩士にしたことだ。裏口入学のwもともと奇兵隊は武士だけでなく無法無頼のごろつきも参加したので、長州藩の武士と非常に対立したことは記録にある。高杉晋作が藩主側近と対立したのも奇兵隊の無学無法なごろつきが原因だ。長州藩の弱点は明治維新が成る前に武士が大方死んでしまって残ったのが大村益次郎と前原一誠くらいだったということだ。桂小五郎はもともと武士じゃない藩医の息子(医者は日本でも中国でも奴隷だよw)だから、武士のたしなみの朱子学も兵学も儒学も習ってないから薩長同盟も決断力に欠けてなかなか結べなかったのさw明治新政府が薩摩の西郷と大久保ばかり目立つのも長州に武士が居なかったからだ。江藤新平が武士として伊藤と山県と七卿公家の汚職を公家諸法度などで追及したのも当たり前だ、長州には公家と非人しかいなかったから。大村益次郎は上野の彰義隊と戦ったあと死んだし、その後戊辰戦争で活躍したのは薩摩以上に安芸広島藩の私兵神機隊(護国神社軍神第一号)であるし、新政府ができても前原一誠は東京で伊藤山県と公家どもが学問もせずやたら土地を買い占めて猟官渉猟しながら豪邸を建てて宴会してるのを見て嫌気がさして新潟へ知事として出向してその後政府をやめて萩に帰った。武士たちは富貴を得て宴会するために維新回天に命を捨てて戦ったんじゃないからだ。久坂玄瑞高杉晋作と並んで松陰門下の三羽烏だった前原一誠には長州の公家と非人どもの破廉恥で乱れた富貴追求が我慢ならなかったのだ。だから伊藤は明治六年政変後真っ先に佐賀の乱で江藤新平を殺した後すぐに萩の乱で前原一誠を殺したのさ。だから毛利公も結局明治維新に何の功績もないやろ。裏口で武士にした非人伊藤博文に下克上されて明治維新の手柄を全部さらわれたというわけだ。遊び人だった吉田茂が昭和天皇の口利きのもと裏口で東大に入学して卒業し英語もしゃべれないのに英国大使になったのは昭和天皇の祖父長州出身の大室寅之助が明治天皇だったからだよ、岡山の箕作は関係ないね。もし箕作が明治天皇だったら長州閥なども靖国神社も生まれたはずがないからね。特に靖国神社はもともとが高杉晋作が下関長府桜山に作った吉田松陰門下の仏式招魂場だからな。長州藩士大村益次郎が私費で九段に移転して、大村益次郎の死後に長州出身明治天皇が詔勅して靖国神社という仏式招魂場を東京の鎮守神にしたのである。だから天皇は靖国で神事を行わない。これが真実である。大室寅之助田布施の力士隊隊員が伊藤博文に誘われて力士隊に入ってなければ天皇になることができなかったが、長州藩を禁門の変で朝敵にした孝明天皇と皇太子は生かしておけないから、伊藤博文が京都で孝明天皇を暗殺したのは、朝鮮国にまで広く知られた史実だよ。これが安重根の斬奸状だ。ロスチャイルドフリーメーソンスパイ伊藤博文の朝鮮国王妃暗殺という組織的殺人罪極悪犯行こそが日韓関係日朝関係を壊した最大の原因である。岸田は謝罪できるかなw歴史を知らんバカ者にはアメリカの言うなりになるしか道がないかwそれが地獄への直行便だがねw

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

196. 豊岳正彦[-16961] lkyKeJCzlUY 2023年8月19日 12:49:44 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[4] 報告
<■93行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
野良猫丸
@wildcat_x
·
9h
Replying to @lyuzhngyn1 and @AARKdbWeK7hQeCV
外交文書とか、政府間のやりとりを記録するのに「ウソ」を書く必要ありませんよね。
いわば、マンション管理委員会の議事録と同じ。

わざわざ、閔妃をねらうくらいなら、大院君と高宗の身柄を確保して「ウチの嫁は離婚したよ」と一言いってもらえばそれで解決よ。
それで権限ゼロになるし。
_______________________

豊岳正彦
@lyuzhngyn1
·
8h
お前ら法律知らんから教えたる。
法益は「身体生命」と「生活私有財産」
アウトは極刑犯罪。戦争行為すべてアウト。
http://asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c135

第九条 死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。


(内乱)

第七十七条 国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。

一 首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。

(外患誘致)
第八十一条 外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。

外患誘致罪の法定刑は死刑のみ

(外患援助)
第八十二条 日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者は、死刑又は無期若しくは二年以上の懲役に処する。

外患援助罪の法定刑は、死刑、無期懲役、2年以上の懲役

(現住建造物等放火)
第百八条 放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

(激発物破裂)
第百十七条 火薬、ボイラーその他の激発すべき物を破裂させて、第百八条に規定する物又は他人の所有に係る第百九条に規定する物を損壊した者は、放火の例による。第百九条に規定する物であって自己の所有に係るもの又は第百十条に規定する物を損壊し、よって公共の危険を生じさせた者

も、同様とする。
激発物破裂罪の法定刑は、死刑または無期懲役、もしくは5年以上の懲役

(現住建造物等浸害)
第百十九条 出水させて、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車又は鉱坑を浸害した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。

現住建造物等浸害罪の法定刑は、死刑または無期懲役、もしくは3年以上の懲役

(汽車転覆等及び同致死)
第百二十六条 現に人がいる汽車又は電車を転覆させ、又は破壊した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2 現に人がいる艦船を転覆させ、沈没させ、又は破壊した者も、前項と同様とする。
3 前二項の罪を犯し、よって人を死亡させた者は、死刑又は無期懲役に処する。

(水道毒物等混入及び同致死)
第百四十六条 水道により公衆に供給する飲料の浄水又はその水源に毒物その他人の健康を害すべき物を混入した者は、二年以上の有期懲役に処する。よって人を死亡させた者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

(殺人)放置しておくことで人が死亡することが予想されるとき(溺れている人がいるなど)に、そのまま放置した場合にも適用される

第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

決闘殺人罪は、決闘罪ニ関スル件(明治二十二年法律第三十四号)

第三条 決闘ニ依テ人ヲ殺傷シタル者ハ刑法ノ各本条ニ照シテ処断ス

決闘殺人罪の法定刑は、死刑または無期懲役もしくは5年以上の懲役

組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律
第三条 次の各号に掲げる罪に当たる行為が、団体の活動(団体の意思決定に基づく行為であって、その効果又はこれによる利益が当該団体に帰属するものをいう。以下同じ。)として、当該罪に当たる行為を実行するための組織により行われたときは、

その罪を犯した者は、当該各号に定める刑に処する。

組織な殺人罪の法定刑は、死刑または無期懲役もしくは6年以上の懲役

(強盗致死傷)
第二百四十条 強盗が、人を負傷させたときは無期又は六年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。

(強盗・強制性交等及び同致死)
第二百四十一条 強盗の罪若しくはその未遂罪を犯した者が強制性交等の罪(第百七十九条第二項の罪を除く。以下この項において同じ。)若しくはその未遂罪をも犯したとき、又は強制性交等の罪若しくはその未遂罪を犯した者が強盗の罪若しくはその未遂罪をも犯したとき

は、無期又は七年以上の懲役に処する。

3 第一項の罪に当たる行為により人を死亡させた者は、死刑又は無期懲役に処する。

爆発物使用罪
爆発物取締罰則
第一条 治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスルノ目的ヲ以テ爆発物ヲ使用シタル者及ヒ人ヲシテ之ヲ使用セシメタル者ハ死刑又ハ無期若クハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

爆発物使用罪の法定刑は、死刑または無期懲役・無期禁錮、もしくは7年以上の懲役・禁錮

航空機の強取等の処罰に関する法律第2条に規定
ハイジャック中に人を死に至らしめるなどの犯罪
(航空機強取等致死)

第二条 前条の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、死刑又は無期懲役に処する。

航空機墜落等致死罪とは、空港の設備を破壊したり、飛行中の航空機を何らかの方法で墜落させ、人を死に至らしめる犯罪。

航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律第2条

前二項の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、死刑又は無期若しくは七年以上の懲役に処する。

海賊行為致死罪
海賊行為によって人が死に至った場合に適用。海賊行為とは、暴行や脅迫によって、船舶を強取する、運行を支配する、船舶内の財物を強取することなど。
海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律
第四条 前条第一項又は第二項の罪を犯した者が、人を負傷させたときは無期又は

六年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する。

人質殺害罪
人質を取り、金銭を要求したり、逃走ルートを確保したりするなど、強要行為をしたときに、人質を殺害する犯罪。

人質による強要行為等の処罰に関する法律
第四条 第二条又は前条の罪を犯した者が、人質にされている者を殺したときは、死刑又は無期懲役に処する。

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

197. 豊岳正彦[-16969] lkyKeJCzlUY 2023年8月19日 20:17:42 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[5] 報告
<■80行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
https://twitter.com/wildcat_x/status/1692580468204753282
ばか1匹目野良猫丸
@wildcat_x
外交文書とか、政府間のやりとりを記録するのに「ウソ」を書く必要ありませんよね。
いわば、マンション管理委員会の議事録と同じ。

わざわざ、閔妃をねらうくらいなら、大院君と高宗の身柄を確保して「ウチの嫁は離婚したよ」と一言いってもらえばそれで解決よ。
それで権限ゼロになるし。
___


バカ2匹目
twitter.com/NEWquisan/status/1692687407723041079
くあさん01式
@NEWquisan
歴史を勉強しましょう
_______________


Sputnik 日本
@sputnik_jp
【特集】トルソワ選手、中国でのアイスショーについて語る 「中国公演は素晴らしかった」 http://dlvr.it/Sts2th https://pic.twitter.com/hCAsRA7FfV


中国とロシアは官民一体となって両国和親しているね。岸田が対ロ制裁するなら中国は日本よりロシアを選んで対日制裁してくるが、日本を占領統治してるイスラエルモサドアメリカCIAの腐れポチ岸田は対ロ制裁強化して親中路線とるならばアメリカと中国に両方からどやされるが、どうするのかねwマー頭が空っぽだから親に背いてアメリカの狂犬にしっぽを振るだけか、親不孝のばか者めwもともと大英帝国陸軍元帥大日本帝国憲法絶対不可侵現人神軍事独裁「ニセ国体」愚鈍嘘つき犯罪者ヒロヒトが勝手に始めた太平洋戦争で、ヒロヒトスパイに外患援助された虐殺偏執狂犯罪者ルーズベルト米軍が、日本の沖縄を艦砲射撃でぼこぼこにして上陸して日本人の女子供を手りゅう弾で爆殺し火炎放射器で焼き殺し、本土に卑劣な原爆落として都市大空襲してグラマンで女子供を狙い撃ちで銃撃するしか能がないアメリカのトップ卑劣ガンの、国連憲章に違反して法益不平等の占領犯罪契約を押し付けた戦争犯罪が、昭和天皇全権委任憲法違反嘘つきコソ泥国益詐欺吉田茂がサンフランシスコの地下室で単独秘密調印した日米安保地位協定一体化密約共謀共同正犯だが、お前らは吉田茂同様日本の都市を焼夷弾で焼き払って工業生産を壊滅し民間人労働者ご先祖様たちを家族もろとも焼き殺した大勲位ルメイ空爆とトルーマン原爆が、戦争を終わらすための正義の爆弾だったとかあほ丸出しで信じてるのかなw
とんだ無恥無学無能低能蒙昧の愚か者だな親不孝の極みだぜwまあお前らは極楽往生はあきらめなw子孫のために独立独歩で戦ったご先祖様も自分を殺した敵に集団で一斉にしっぽを振る太鼓持ち子孫に供養されても仏さんみんな迷惑だろw
_______________________


是パーキンソン病じゃないなwパーキンソンは不動。不随意運動は舞踏病。診断が間違っとるwウソ診断で嘘投薬したら医師法20条違反だな。医師法は患者の法益「身体生命と私有財産」を医師の虚偽を以て侵害したら刑事犯罪だぜwだからこの場合全部無料奉仕なら医師法に触れないよw


コロナワクチンの接種同意書は嘘しか書いてないから署名しても法的に同意と認められない。同意なく致死性毒物を注射すれば医師法第1条違反診療契約偽造に基づく刑法故意の傷害殺人罪が成立。接種後に変死すれば刑訴法229条検視を行い胃内容と血液検査で毒物反応がなければそのまま接種した医師の故意に基づく刑法199条殺人罪が確定。刑法の相当因果関係。傷害殺人罪は医師のみに適用される。医師以外はワクチンが致死毒であることを知らないから。ヒポクラテスの誓いに反する人を殺す毒がワクチンである。化学工場で大量生産した麻薬と向精神薬はすべて致死毒である。植物そのものの乾燥大麻は致死毒ではないね。トリカブトは致死毒だが。毒キノコも、毒草もある。この鑑別は先人先達の知恵に頼るのみ。毒抜きも。まあ死ねば何もいらないがw


バカ3匹目
twitter.com/My068ddc7nB8SEd/status/1692820931255890352
ぴぇーる
@My068ddc7nB8SEd
https://twitter.com/lyuzhngyn1/status/1692819697266511912?t=8znOxfGDrFhd8mPxfwOIhw&s=19
まだコイツ生きとった。昨日遅かったから今まで呼吸ストップしててちょうど蘇生したんじゃないですかね?
豊岳正彦
軍隊以外の民間人への軍事攻撃は大昔から世界中で戦争法違反の刑事犯罪だから、刑法で全部裁かれる。アメリカは空戦してないぜ。いつも軍用機で民間人だけを平気で虐殺してるから、建国以来の昔から戦争法違反の殺人罪常習犯だ。だからヨーロッパの空戦にアメリカの戦闘機は参加してないやろ。
戦争行為はすべて刑法極刑犯罪だと六法全書で証明してやったろ。
日本の総理大臣伊藤博文が掌握してる軍隊が非戦闘員の外国王妃を宣戦布告なしに軍隊組織で暗殺したら伊藤博文が戦争犯罪人の首謀者で極刑で断罪されるにきまってるだろ。世界中のどの法律もいつもそうなってるわ。バカかお前ら。
アメリカとイスラエルとイギリスこそ人類史上最低最悪のテロ国家だよ。名誉?笑かすなwロスチャイルドフリーメーソンスパイ汚職と詐欺師と殺人犯伊藤博文に何の名誉がある?人をたくさん騙して殺した数が多いのが名誉か。そりゃ強盗殺人犯罪組織の無法者の外道な悪名で、人間が作る法治主義社会で人間の法益「身体生命と私有財産」を守る人間世界では恥であり最も罪が重い極刑犯罪だよ。伊藤博文の名誉って何か。答えろ日本国憲法9条違反の外道反社戦争犯罪者ども。

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198. 豊岳正彦[-16977] lkyKeJCzlUY 2023年8月20日 09:08:51 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[6] 報告
<△26行くらい>
MI6は明治時代のロスチャイルドフリーメーソンであり、グラバーはロスチャイルドフリーメーソンのスパイ。だから長州ファイブはロスチャイルドフリーメーソンスパイである。アフリカに植民地を持つ国はイギリスとフランスであり、フランスはアメリカに自由の女神を送ったロックフェラーフリーメーソンの元祖であるが、いずれもモサドの子分である。だからジョン万次郎と福沢諭吉はロックフェラーフリーメーソンであり、これらはペリーの子分である。アメリカのユダヤ人はアメリカの建国以来ずっとFRBを支配している。そしてフリーメーソンは常に戦争を起こすために暗殺を用いる。独立戦争はロスチャイルドとロックフェラーの共謀共同正犯であり、独立戦争後の南北戦争によってアメリカのロックフェラーフリーメーソンは全土を支配した。ペリーはその長官であり、沖縄を手に入れて中国大陸進出の橋頭保にするために西海岸から出向して沖縄までやってきて、薩摩藩の武士の手ごわさを知って薩摩藩にここは薩摩の属国かと質問して、いや薩摩は江戸幕府の支配下であると聞き浦賀に向かったのであった。これが黒船来航である。この時ペリーは虚勢を張っていたが幕府老中阿部正弘はすでにアメリカ捕鯨船と交渉経験があり足元を見て丁重に追い返したのでペリーは1年後の再来を予告して帰ったのである。再度来航した時ハリスとジョン万次郎を連れてきて、阿部正弘と開港交渉に入った。幕府内は開港派と攘夷派で二分しておりもともと攘夷派だった安倍正弘は幕府の分裂を避けるため開港派の施策を採用して日米修好和親条約を結んだ。これは勅許をえずに強硬な開港派堀田正睦井伊直弼に配慮した者だったが、不平等条約であり、攘夷派の強い反発を受けて阿部正弘は老中首座を降りて次座となってその後は大老井伊直弼が攘夷派を一掃して安政の大獄を始めた。

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理
199. 豊岳正彦[-16976] lkyKeJCzlUY 2023年8月20日 09:17:06 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[7] 報告
<■5701行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ここからコピペ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/edo-end02.htm
から
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/edo-end06.htm

第2章 堀田正睦と日米通商条約

1. 堀田正睦の登場

(1) 堀田正睦の世界観

 阿部正弘の死去を受けて、揺れだした幕府の屋台骨を支えることになったのは、その時、筆頭老中の地位にあった堀田正睦(まさよし)です。彼は今の成田空港にほど近い、千葉県佐倉11万石の領主でした。

 堀田家で有名人物というと、綱吉の治世初期に、大老として活躍し、天和の治といわれる一時代を築いた堀田正俊に、まず指を折るべきでしょう。彼の業績については江戸財政改革史の中で詳しく紹介しましたから、前から読んでくださっている方はご記憶と思います。

 堀田家はその後、阿部家同様、譜代中の名門として何人かの老中を出しつつ幕末を迎えます。たとえば田沼意次の生涯を紹介した際に、その最初の重要な出来事として、老中本多正珍等、幕閣の有力人物が大量に処罰された美濃郡上藩の百姓一揆について紹介しましたが、そのとき、直接処罰を担当した老中は堀田正亮(まさすけ)です。堀田正睦は、この名門から出た最後の老中です。

 彼は2回老中になり、2回とも失脚して終わっているという変わった履歴の持ち主です。最初に老中になったのは天保の改革の時で、天保12(1841)年に就任し、天保14(1843)年に忠邦の失脚に連座して、彼と一緒に罷免されています。そこで、その後しばらくの間は藩政に専念しました。彼は、水戸斉昭から蘭癖(らんぺき)があると悪口を言われたほどのオランダ好きで、蘭法医佐藤泰然(たいぜん)を招いて藩校と病院をかねた施設を建設し、順天堂と名付けています。これが後に今日の順天堂大学に発展します。

 当然、根っからの積極的開国論者です。「国運を振張するの道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」との信念を持っていました。

(2) 老中筆頭への就任

 阿部正弘は、一連の和親条約を結んだ際、水戸斉昭を幕政に参加させ、彼を通じて有力諸侯、特に島津斉彬(なりあきら)等との連携を深めていました。これに対して幕閣内からの反発が激しかったため、八方美人の正弘にしては珍しく強権を発動して松平乗全(のりよし)、松平忠固(ただもと)の二人の老中を安政2(1855)年8月に罷免しています。

 しかし、それで批判がやむどころか、阿部正弘は、逆に譜代大名の中で完全な孤立状態に陥りました。当時、大名は江戸城中に、それぞれの格式に応じた控え室を有していましたが、中でも最も重要なのが、溜まりの間です。ここに詰めることができるのは、会津松平家、高松松平家など徳川一門の一部と、井伊家、酒井家、堀田家など譜代中の最有力の家柄に限られていました。溜まりの間詰めの諸侯は、通常の意味での行政権は有していませんでしたが、重大事には諮問を受けて答申する権利を有していました。したがって、ここを敵に回してしまうと、老中といえども自由に活動することが困難になるのです。

 そこで、強権を発動したわずか2ヶ月後の安政2(1855)年10月に、阿部正弘は、堀田正睦を再び老中に就任させるとともに、老中首座の地位までも彼に譲ることにしたのです。これにより、溜まりの間との融和を計ろうとしたわけです。このあたり、八方美人の阿部正弘が、一人で右往左往している様が見えるようで、その性格上やむを得ないとは言いながら、気の毒になります。

 とにかく、こうして阿部正弘が一人芝居を演じている間に、彼の幕閣内での影響力は着実に低下していきました。前章に述べたように、彼は非常にあっけない死を迎えるのですが、この経緯から見れば、死ななければ失脚していただけのことであったろうと思われます。

(3) 堀田正睦時代の始まり

 安政4(1857)年6月に阿部正弘が死去するとともに、堀田正睦は名実ともに幕閣の最高責任者となります。彼の履歴や信念からみて当然の事ながら、この政権交代により、幕府の対外方針は一変しました。

 阿部正弘は、基本的には攘夷論者で、可能でありさえすれば家斉の異国船打払令を再び実施したいと願っていたほどの外国嫌いです。ペリーが来航した際にも、彼我の武力の圧倒的な落差を前に、薪水の供給などはやむを得ないとして承認したにしても、通商は絶対に拒否という方針で交渉に臨んだ事は前章で紹介しました。

 これに対し、先に述べたように、堀田正睦は根っからの開国論者です。そこで、この前年、まだ阿部正弘が実質的には幕府政策を動かしていた安政3(1856)年10月の時点で既に、川路聖謨や大久保忠寛、水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)などのブレーンサークルに対して、「近来、外国の事情もこれあり、この上貿易の儀御差し許し相成るべき儀もこれあるべきにつき、右取り調べ致すべし」と命じて調査・検討させています。

 したがって、堀田正睦が名実ともに幕閣の筆頭にのし上がった時点では、当然、幕閣全体をその新年の方向に引っ張っていこうとする意欲に燃えていたことでしょう。

 

2. 日米通商条約交渉

(1) ハリスの出府要求

 ハリスは、着任後、ねばり強く対幕交渉を行っています。ハリスは、確かに下田駐在の総領事に違いありません。が、それと同時に、米国大統領から通商を求める国書を携帯してきている特命大使でもあります。今日の国際慣行においても、一国の元首からの国書は、当然相手国の元首に大使自身が奉呈すべき性格のものです。そこでハリスは、国書は下田奉行に提出すればよいとする幕府側の提案を跳ね返し、江戸に自ら出府して、将軍に対して国書を奉呈し、老中と直接交渉することを主張してやみません。

 彼の交渉手法は、文字通り、脅したりすかしたりの両面作戦です。

 脅し文句は、交渉に応じないと、米国艦隊が来て、火力により条約を取り付ける、というものです。ペリー艦隊の端倪すべからざる偉容をみている幕府にとっては、これは大変効き目があります。

 すかし文句は二つあります。

 その一つ目は、米国は日本に好意的なのでこの程度の要求で済んでいるが、イギリスが来たらこんなものでは済まないので、今のうちに米国との間で有利な条約を取り交わし、それをたたき台にする方式で対英交渉に臨めば有利な立場に立てるというものです。これも、アヘン戦争における清国の厳しい状況を承知している幕府にとっては、非常に効果のある文句です。

 今ひとつは、幕府は貿易を独占することにより、諸侯に対して財政的に圧倒的に有利な立場に立てる、というものです。幕府の悲惨な財政状況をどの程度ハリスが承知していたのかは、よくわかりません。しかし、鎖国とは、長崎貿易を幕府が独占することにより莫大な利益を上げるという形態の通商形態をいう、ということは、ハリスはよく知っていたはずです。したがって、これもまた非常に説得力のあった論理でした。

 この時、ハリスに追い風が吹きました。故国から手紙を運んで蒸気フリゲート艦ポーツマス号がやってきたのです。そこで、ハリスはこの機を捉えて、有名無実の全権である下田奉行と話をしても埒があかないのであれば、ポーツマス号に乗って直接江戸に行き、老中と会談すると井上清直を恫喝しました。

 先に述べたとおり、堀田正睦は元々開国貿易派です。この機を捉えて閣議を統一することに成功し、幕府としてハリスの出府を許可する決定を下すことに成功します。

 もちろん根っからの攘夷派である水戸斉昭が、このような決定に賛同するわけがありません。彼は怒って海防参与の辞表をたたきつけます。また、尊皇論者として自分の行動を天皇に対して説明する必要を感じたのでしょう、「亜国官吏の外夷出府登城を許し、夷情切迫につき存じ寄り申上げ候」と題する建白書を朝廷に提出しています。

 譜代の名門の一人として、堀田正睦は水戸家が幕政に参画するという前例を無視した処置を苦々しく思っていたでしょう。だから、本音のところは喜々としてその辞表を受け取りたかったことでしょう。しかし、彼も政治家で、斉昭が下野することの持つ政治的危険性は十分承知していますから、将軍家を通じて一応慰留しようというポーズは見せています。

(2) 通商条約交渉の要求

 こうして閣内の邪魔者一掃に成功した堀田正睦は、ようやく正式にハリスに対して出府を許可することができました。ハリスは10月7日に下田を出発し、14日に江戸について、宿舎と定められた蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に入ります。

 蕃書とはすさまじい言い方ですが、オランダの書物を中心とする外国書籍を意味する当時の言葉です。もと幕府天文方に設置されていた蕃書和解御用(ばんしょわけごよう)を安政2(1855)年に独立の機関に発展させて洋学所と名付けましたが、翌安政3年にさらに蕃書調所と改名したもので、洋学研究所兼外交文書翻訳局というべきものです。さらに、このハリスが泊まった安政4(1857)年からは外国語教育も行うようになっています。要するに、外国人に対する接遇能力を持つ唯一の機関であったため、ここがハリスの宿舎とされたわけです。

 ハリスは19日に堀田正睦と面会して国書の写しとそのオランダ語訳を提出します。21日に江戸城に登城して国書を奉呈しました。これで、一応出府の目的は達成されました。

 しかし、これだけでは通商条約調印に向けて前進したことには、ほとんどなりません。そこでハリスは26日に再度堀田正睦を訪れ、延々6時間にわたって日本の開国の必要性を演説したといいます。もっとも、彼の英語をヒュースケンがオランダ語に訳し、それをさらに幕府オランダ語通事の森山多吉郎と名村常之介が日本語に訳するわけですから、実質的に話した時間は2時間という計算になります。それでも大演説には違いありません。堀田正睦だけでなく、川路聖謨、井上清直、岩瀬忠震、永井尚志、水野忠徳など堀田正睦のブレーンサークルは全員が参加してこの演説を聞いたようです。

 演説の内容は、上述した脅し文句とすかし文句を集約したものでした。特に英国を、日本にも阿片を輸出しようとしていると非難して、米国の友好政策の宣伝に務めていることが注目されます。さらに、経済学の初歩や西欧における商業規則の初歩を講義しました。

(3) 日米通商条約交渉

 堀田正睦は、先に述べたように、この時点では幕府主導による開国・貿易を実施することに腹を固めていましたから、別にハリスの演説によって考えを変えたりしたわけではありません。既定の方針に従い、この後、直ちに通商条約の細部検討にはいることを決意します。しかし、幕閣の中では筆頭老中といえども同等者中の第一人者であるに過ぎません。他の老中の説得には時間が掛かりました。

 上記の演説後、1ヶ月経ってもなお国書に対する回答に接することができなかったハリスは、11月25日に来訪した井上清直にきわめて脅迫的な言辞を用いて回答を督促しました。そこで、12月2日になって、堀田自身が直接ハリスに会い、交渉に入ることを告げました。

 A 日本側の担当者

 堀田正睦には、井上清直のような下僚に交渉の全責任を押しつけた阿部正弘のやり方が不当なことは判っていました。しかし、もちろん交渉の途中から担当者を全面的に変更することは好ましくありません。そこで、井上清直は引き続き交渉に当たることにしましたが、このほかに、当時目付の地位にいた岩瀬忠震(ただなり)を新たに全権に任命して交渉に当たらせることにしました。

 結果的に見ると、この岩瀬忠震を主席する人事は失敗だったといわざるを得ません。岩瀬忠震は有能という評判の高い人ですが、通商というものの本質を把握しておらず、下田条約よりさらにわが国に不利な条約を、自ら求めるようにしてまとめてしまうからです。

 B 米国のスタンス

 交渉は12月4日から始まりました。岩瀬忠震等は、当初、オランダと締結したのと同様の、従来の会所貿易を拡大した形で通商条約を締結しようとしました。しかし、ハリスは、それはペリーの結んだ神奈川条約第9条の最恵国待遇規定から、既に米国も享受できることになっている、と一蹴しました。その結果、交渉形式は、ハリスの用意した条約案の文言に対して岩瀬忠震が質問し、これにハリスが答えるという形で行われました。

 ここで我々が注意しておかねばならないことは、この当時は、欧米にとり、アヘン戦争に象徴されるように、むき出しの力による帝国主義的進出の時代だったということです。

 米国も、この直前の時期に、対メキシコ戦争によりカリフォルニアを奪い取っていることに示されるとおり、決してその例外ではなく、アジアにおける帝国主義的進出のチャンスをうかがっていたのです。少し後の1898年には、スペイン領だったキューバが独立しようとしたのを支援するという名目でスペインと戦争をして、フィリピン及びグアム島を奪い取り、その際、独立を求めるフィリピン人の大虐殺をやっています。同じ年には、ハワイ王家を陰惨な手段で滅ぼし、ハワイ諸島も併合しています。

 したがって、その米国の利益を代表するハリスもまた、堀田正睦に対する大演説で幕閣に思わせようとしたほどの博愛主義的な人物ではありませんでした。彼の用意した条約案は、天津条約ほどにはわが国に屈辱的な内容でないまでも、一方的に米国に有利な内容のものでした。すなわち、ハリスは、自由貿易の名の下に、日本側の無知につけ込んで列強がアジア諸国に強いたのと同じ不平等条約へと誘導したのでした。

(4) 条約の内容

 岩瀬忠震と井上清直は、決してハリスの条約案を丸飲みにしたのではありません。条約内容の重要性に鑑み、下田条約にもまして粘り強く交渉を進めました。ハリスも二人の粘り強さに閉口し、当初案に比べるとかなりの後退を余儀なくされたということです。その結果、アメリカ人の日本国内自由旅行権を否定したことこと等、その交渉において、一定の成果を収めたことは事実です。

 この条約交渉に当たって、最大の問題は、下田条約において既にハリスに承認済みの権利、すなわち金銀の等価交換や領事裁判権については、一議に及ばず承認している点にあります。

 A 通貨に関する規定

 岩瀬は、通貨交渉に当たってとんでもない失敗をしています。下田条約の締結に当たって井上が苦労して獲得した6%の改鋳手数料について「冗雑之手数」を省く目的から放棄するといいだしたのです。これには、相手方のハリスさえも唖然とさせ、説得に努めたほどです。

 そもそも岩瀬は、なぜか銀の含有量という概念が理解できず、洋銀1個と一分銀3個を等価交換するのは、1対3の割合でわが国に不利だという素朴きわまる発想から、内外貨の交換を回避しようとしたのです。しかし、自由貿易体制の下で、内外貨の交換をしようとしなければ、いやでも外国通貨の国内流通を認め、かつ、日本通貨の輸出を認める必要があります。そうでなければ、貿易は不可能です。

 そこで、ハリスの説得に対して、さらに日本の通貨の自由輸出を許可し、また外貨はすべて日本国内で自由に通用されるべき事を宣言してハリスを驚かせることになります。ここにわが国幕末期の経済を大混乱に陥れる馬鹿馬鹿しい規定が誕生することになるのです。

 B 領事裁判権

 この条約が不平等条約とされる最大のポイントは第6条にあります。すなわちアメリカ人のおかした刑事事件については米国領事に裁判権があり、また、民事事件についても領事に裁判権がある、というのです。これについては、典型的な治外法権とは規定の仕方が違っているため、治外法権を認めたわけではない、と岩瀬忠震を擁護する説もあります。が、ハリス自身が「第6条は日本にあるすべてのアメリカ人に治外法権を設定したものである」と述べていますから、その説は妥当しません。これは下田条約にあったものですから、岩瀬忠震・井上清直両人とも全く問題にせず、承認しています。

 C 関税自主権

 今ひとつの不平等条約の柱が関税率の自主決定権の否定です。第4条は、輸出入品は所定の関税を日本政府に納めると定めているだけです。が、条約付属の「貿易章程Trade Regulation」では、輸出税はすべて5%とされました。ハリスは密貿易を助長するとして輸出については無税を主張したのですが、幕府の持つ歳入確保の強い要求から、一律課税という線で妥結したのです。

 輸入税については、日本側が一律12.5%を主張したのに対して、ハリスは無税も含めて4段階に区分することを主張し、彼の主張が通りました。すなわち、日本に居住するアメリカ人に欠かすことのできない家具や書籍については無税としました。5%の税率の対象品は、日本にとり必需品と認識されたものです。すなわち船舶、捕鯨用品、米国、石炭、蒸気機械等がこれに当たります。最高税率の35%の対象品は、なくとも良い贅沢品と認識されたものです。これに当たるのは酒類だけです。必需品と贅沢品のどちらにも属さないものが、20%関税の対象品とされたのです。

 このように、この税率の違いは日本の利益を考えて決められたような印象を与えます。しかし、ハリスの本音によれば、「米国の貿易は5%の関税にとどまるのに対して、日本政府に多額の関税収入を提供するため、英国の製品については20%に、フランスの葡萄酒については35%」にするという形で決めた、というものであるようです。

 要するに、ハリスは、日本から米国への輸出を重視し、日本への米国からの輸入は、念頭に置いていなかったということです。当時、米国の極東貿易は、茶を中心とする米国への輸出にあったので、その輸出関税率を低く押さえようとしたのです。それに対して、米国の国内製造業は未だ国内需要を満たすほどにもなっておらず、従って日本の国内市場を販路として欲していなかったということが判ります。そこで、日本を販路として希望しそうな英仏の邪魔をすることだけを狙って、一般輸入品については、かなりの高率関税率を定めておいたというわけです。

 D 開港・開市場

 交渉に当たり、もっとも問題になったのは第3条でした。すなわち、開港場及び開市場を定めた規定です。日本側としては現状にとどめたかったのに対して、ハリスとしてはこれこそが自由貿易の眼目ですから、大幅に拡大したかったのです。ハリス自身の表現によれば、条約のセバストポリSebastopol of Treatyと呼ぶほどにハリスはこれを重視していました。セバストポリというのはクリミヤ半島の要衝の地にある要塞で、クリミヤ戦争の激戦地となったところです。

 激論の末、結局、開港場として、日米和親条約で承認済みの下田、函館のほかに、神奈川、長崎、新潟、兵庫の4港を追加し、開市場として江戸及び大阪を承認するという形で決着が付きました。

 このうち、長崎は昔からの開港場で問題がないので、神奈川とともに、最初に開港されることとされました。すなわち、西暦1859年7月4日です。これは日本歴では安政6年6月5日に相当します。条約正文では西暦で定めており、日本の年号は入っていません。ハリスがいかに優位的に条約交渉をしたのかが良く判ります。なお、下田は、神奈川の最寄りにあるということから、神奈川の開港後半年で閉鎖されることになりました。

 又、新潟も、実質的には外国との密貿易拠点として栄えていたため幕府の直轄地とされた町だったのであまり問題はないことから、神奈川・長崎開港の約半年後の西暦1860年1月1日から、開港することとしました。江戸の開市場は、1862年1月1日からとされました。

 これに対して、兵庫及び大阪は、京都に対して至近距離にあるため、朝廷に対する説得の時間を確保するため、いずれも1863年1月1日からとされました。実際、朝廷が大変な拒絶反応を示した事で、後に大問題になりました。

 E 輸出入品価格決定権

 このように、ほとんどの条項で、岩瀬達は不利な条文を飲まされています。これに対して、岩瀬達が勝ち得た最大の勝利は、輸出入品の価格決定権は日本側にあるとされた点です。すなわち、日本の税官吏が荷主の付けた価格に同意しないときは、税官吏自らそれに値を付け、その品物の買い入れを申し込むことができ、もし荷主がこれを拒むときは、荷主は税官吏の付けた価格に従って関税を納付することと決められたのです。

* * *

 ハリスと、岩瀬忠震=井上清直の交渉は合計14回に及びました。年も押し詰まった12月25日になってようやく条約案が完成しました。

(5) 条約勅許問題

 日米修好通商条約案の完成に先行して、12月15日付で、堀田正睦は次のような台命(たいめい=将軍の命令)を発しました。

「今日世界の形成は戦国七雄の姿なり、古来の制度に拘泥しては御国勢挽回の期なきを以て、非常の功を非常の時に望み、国威を拡張するの機会を得んと欲し、鎖国の制度を一変せしめんとの思し召しなれども、御国内人心の折り合い方もこれあり、今日のご処置の当否は国家治乱の境なれば、心づき候儀は早速に申し上ぐるべし」

 前半は、要するにこの際鎖国を廃止するという単純明快な決断を示しています。ところが、後半に来て、腰砕けになり、諸侯に意見の具申を求めています。このあたり、阿部正弘と同じく、八方美人路線が依然として健在のようです。というより、阿部正弘の八方美人路線がこの時期においては既成事実化し、その後継者としては、いやでもその路線を踏襲せねばならないところがあったようです。

 しかし、このように従来の方針を一変し、しかもその本音は、貿易利潤は諸侯には与えず、幕府が独占することにより、幕府だけが財政回復をしようというものなのですから、諸侯の賛同を得られるわけがありません。このようなものは、後の井伊大老のように、頭ごなしに申し渡し、抵抗するものは弾圧する外はないものなのです。

 案の定、条約締結に対する批難が囂々と巻き起こりました。もっとも、例によって本質を捉えた反対意見ではなく、攘夷思想に基づくものや、外国人は切支丹の魔法を使うと考えるもの、和議を是といえば、怯懦と嗤われるのではないかという怯懦からのものなど様々ですが、とにかく賛成論は諸侯からほとんどでてきませんでした。わずかな例外は、松平慶永や島津斉彬など、四賢公といわれる人たちだけでした。

 さらに、水戸家がお家芸の朝廷工作を猛然と展開して、京都の公家達を扇動しているというので、堀田正睦達幕閣の首脳部はすっかり頭を抱えてしまいました。このまま放置しておいたならば、先に行って京都からあれこれ口を入れられるかもしれない、それよりはこちらから先に上奏して同意を求めるのが一番、という結論になり、軽率にも調印伺いを行おうということになりました。

 そこでまず林大学頭などを派遣して報告しようとします。ところが、「条約は日本の安危に関わる大事なるに、幕府が林の如き小吏を以て勅許を請わしめたるは、朝廷を軽んじ奉るの所為なり」と逆に大変な反発を受けてしまいます。

 そこで、翌年2月、堀田正睦は、川路聖謨や岩瀬忠震を伴って上京し、9日に参内して日米通商条約草案を示し、また、将軍家定より孝明天皇宛に黄金50枚を奉呈し、これで勅許が得られると考えていました。

 これは決して甘い考えではありません。幕府が、原則として将軍が表にでて政治をすることはなく、老中に任されているのと同じように、朝廷では天皇が表に立って意思表示をすることはなく、五摂家(近衛家、鷹司(たかつかさ)家、九条家、二条家、一条家)が摂政なり関白なりの地位にあって、朝廷の意思を決定していたのです。朝廷の方が伝統が古いだけに、この原則はより強く遵守されていました。そして太閤鷹司正通(まさみち)も関白九条尚忠(ひさただ)も、世界の情勢が一変している以上、通商条約の調印はやむを得ない、と考えていました。ですから、普通ならすんなりと勅許は降りたはずなのです。

 ところが、ここで大変な逆転劇が起こりました。孝明天皇自身が、数百年の伝統を破って口を開き、条約への反対を唱えたのです。

 なぜ孝明天皇が反対したのか、その理由は今日に至るも判っていません。一説によると、孝明天皇の血筋は天皇家の中でも傍流に属し、歴代天皇に比して弱い立場にあったことから、発言権確保の機会を狙っていたのだといわれます。理由はともあれ、天皇は猛然と条約反対を唱えます。

 しかし、実力者である九条関白は、天皇の反対を黙殺して、規定方針通り勅許を下そうとしました。これに対し、天皇は五摂家を飛び越えて直接下級公家と結びつき、反対運動を展開しました。天皇の意思がこのように外部に漏れ出てしまっては五摂家といえども打つ手はありません。この結果、23日になってでた勅は、御三家以下の諸侯の意見を得てから改めて勅許を請えという内容のものとなりました。

 御三家の一つ、水戸家が開国に大反対であることは判り切っており、また、先に述べたとおり、諸侯に賛成意見がないこともまた既に判っています。したがって、これは不許可というのに等しいわけです。そうした状況に対する起死回生の一手として勅許を得ようとしたのに、それが完全に裏目とでたわけです。

 川路聖謨は、以前に奈良奉行をしていましたし、また、勘定奉行として、嘉永6(1854)年4月に皇居が焼けた際の修復工事を手がけていましたから、それらの時に培った人脈を生かして奔走を始めました。わずか20日ほどの間に数万両の小判をばらまいたといいます。しかし、3月11日になって天皇と結びついた88名の下級公家が、条約反対のデモ行進をするに及び、断念して、江戸に帰らざるを得なくなりました。なお、この88名の下級公家の一人に岩倉具視がいます。彼が歴史の上に登場してきた最初の機会でした。

 

3. 養君擁立問題

(1) 養君擁立の必要性

 話が少々過去に遡ります。ペリー来航の直後に将軍家慶が死去し、それに伴い家定が将軍位についたことは前章に述べました。問題は、この家定が、およそ暗愚で、ものの役に立たないことです。普通の時代であれば、暗愚で何もしない将軍はよい将軍とされます。老中が補佐すると称して自在に政治を司ることができるからです。

 しかしながら、なにぶん非常事態です。老中が処理するにも限度があります。誰が考えても、強力な将軍が出現して、リーダーシップを取ってもらわなくては幕府が崩壊しかねないことは判り切っています。幸い?家定は暗愚なだけでなく、病弱で、しかも、男性機能そのものに問題があるので、将来ともに子供ができないことは、当時既に広く知れ渡っていました。つまり、普通であれば廃嫡されて不思議ではなかった人物なのです。

 それが廃嫡されなかったのは、ひとえに彼の他に家慶の血を引く男子がいなかったからでした。家慶には実に14男13女があったのですが、皆早くに病死し、男子で成人するまで生き延びたのは、この家定一人だけだったのです。

 A 養君の候補者達

 家定の将軍就任直後から、以上のような事情から、養君、つまり養子を早く家定に取らねばならない、という議論が巻き起こります。幕府の法律によれば、養君なりうるのは御三卿及び御三家の当主だけです。この当時清水家は当主がいませんでしたから、候補は5人でした。

 日米通商条約に対する勅許が得られなかった安政5(1858)年時点で年齢順に見ると、尾張慶恕(よしくみ)35歳、田安慶頼(よしより)31歳、水戸慶篤(よしあつ)27歳、一橋慶喜(よしのぶ)22歳、紀伊慶福(よしとみ)13歳です。皆「慶」の字がついているのは、将軍家慶のいみなを一字拝領しているためです。

 このうち、尾張慶恕は、養父となるべき家定と同い年ですから、養君とするのには少々無理があります。田安慶頼は、実の兄の松平慶永が「俗中のもっとも俗人というべきなり」と酷評するような人物ですから、およそ支持者がありません。同じく、水戸慶篤は、実の父の斉昭が暗愚扱いしているのですから、やはり支持者がいません。

 したがって、養君候補と目されたのは、水戸斉昭の息子、一橋慶喜(よしのぶ)と、紀州家の当主徳川慶福(よしとみ)の二人だけ、ということになります。

 B 一橋慶喜と徳川慶福の優劣

 一橋家には、かつて、田沼意次を失脚させ、ついで松平定信を辞任に追い込んだ一橋治済(はるさだ)という怪物がいました。彼は、将軍家斉を筆頭に、各方面に自分の子供を送り込み、徳川一門を事実上自分の子供や孫だけで支配するほどの勢いを示していたことは、江戸財政改革史でも紹介しました。

 しかし、一橋宗家そのものは、その孫の代で絶えます。そこで、そこで田安家から治済の傍系の孫を養子を迎えますが、やはり継嗣に恵まれません。そこで将軍家慶の五男初之丞が跡を継ぎます。家慶自身が治済の孫ですから、これは治済の曾孫ということになります。

 なお、この初之丞に、幼き日の勝義邦(海舟)が小姓として仕えました。しかし、初之丞もまたわずか14歳で早世します。このことについて勝海舟は、晩年、俺は青雲の階梯を踏み外した、と言ったそうです。

 そこで、一橋家では、さらに再び田安家や、さらに紀州家から治済に血のつながる子供を養子に取りますが、いずれも皆早世し、明け御屋形(あけおやかた=当主不在の意味)となってしまいました。

 将軍家慶は、自分の嫡男の家定が暗愚で将軍職がつとまる器ではなく、したがって自分が死ねば、早晩養君の問題が起こることは、十分に承知していました。その場合、治済以来、事実上御三卿の筆頭の地位にある一橋家は重大ですから、明け御屋形となっているのは好ましくないと考えました。

 そこで、治済の血統にこだわらずに徳川一門を見回した場合、その時点では、養子に出せるほどの子福者は水戸斉昭しかいませんでした。そして、その子供の中でもっとも器量が大きいと評判なのが、七男の慶喜でした。斉昭としては、暗愚な当主慶篤に何かあった場合の世継ぎ候補として慶喜を考えていましたから、降るようにあった養子の話を断って水戸家に残しておいたのです。

 そこで、家慶は将軍家尊慮という形で斉昭の抵抗を排除し、一橋家を継がせたのです。弘化4(1847)年8月のことです。つまり、斉昭は部分復権はしたものの、本格復権は認められていなかった時点のことです。慶喜は、家慶に非常にかわいがられ、彼の存命中は事実上将軍後嗣扱いされていました。

 今一人の候補者である紀州家当主徳川慶福(よしとみ)は将軍家斉の実の孫であり、したがって家慶からみれば血の繋がった従兄弟です。すなわち家斉の子斉順(なりより)は、いったん清水家を継ぎ、その後紀州家に養子に入っていますが、慶福は、その斉順の子供なのです。

 将軍家の後継者は、建前としては、まず御三卿から出し、御三卿に人がいない場合には御三家から出すということになっています。したがって、このルールに従えば一橋慶喜が一番有利です。

 他方、徳川宗家との血の近さという点からいえば家康まで10数代も遡らなければ、将軍家と血縁が繋がらない一橋慶喜よりも、実の従兄弟である紀伊慶福の方が、はるかに有利ということになります。つまり、家格対血筋の争いです。

(2) 養君擁立を巡る派閥抗争

 不幸なことに、養君問題は、単なる後継者争いの域を超えた政治問題になってしまい、二派に分かれての激しい争いを引き起こしてしまいました。その派閥は、慶喜を支持するのが一橋派、慶福を支持するのが紀州派と呼ばれました。

 A 一橋派

 養君問題について、最初に動き出したのは松平慶永です。彼は一橋慶喜が人物と見て、1856年の時点で既に、その擁立に向けて運動を開始します。彼の盟友島津斉彬もこれに賛同し、慶喜の父斉昭も異存のあるはずはありません。すなわち、従来、阿部正弘を支援してきた有力諸侯が、今回は慶喜を支持するという形で運動が展開されることになります。尾張家も、御三家や有力諸侯に政治的発言権が認められる方が、自家にとってもよいと考えて、これに同調しました。つまり、御三家が、紀州家と水戸・尾張連合に分かれて対立することになったわけです。

 有力諸侯達が慶喜を押す場合のキャッチフレーズは、「英明、年長、人望」の三点です。すなわち、非常の場合であるので、幼年の養君は好ましくない、十分な判断力があり人望のある成長した養君が好ましい、というものです。つまり、この派の場合、家定の養君というのは名ばかりで、それが決まれば、家定には圧力をかけてすぐに隠居をさせ、新将軍に切り替えようという話であることは明々白々といえます。

 しかし、こうした支持勢力は、慶喜から見ればはっきり言って迷惑といえるでしょう。リーダーシップのとれる強力な将軍家は、当然独裁をするべきなのです。それなのに、このような諸侯の支持の上に立って将軍位についた場合には、将軍の権力を大幅に削減する雄藩連合の形で政局を運営せざるを得ないからです。

 かなり後のことになりますが、慶喜は酒に酔った上で、松平慶永、島津久光、それに宇和島藩主伊達宗城という彼の大事な支持者達に対し、面と向かって、天下の大愚物、大奸物と悪罵を放って、彼らを激怒させています。いかに慶喜が、彼らに擁立されるのを嫌っていたのかが判ると思います。そこで、慶喜本人は、この時期、再三にわたって後嗣辞退を幕閣に申し出ています。

 B 紀州派

 この問題に対する将軍家定の意見は単純です。慶喜は嫌いだ、慶福は我が子のようでかわいい、というのです。家定は先に述べたように1824年生まれ。これに対して一橋慶喜は1837年生まれですから、一回りほど慶喜の方が若いことになりますが、既に立派な青年です。家定がいくら暗愚でも、慶喜が養君ということになれば、あっという間に自分は引退させられるということくらいは理解できます。これに対して、慶福は1846年生まれですから、家定とは二回り近く違い、親子といっても不自然でない年齢差です。かわいいというのは本音でしょう。

 幕閣も紀伊慶福支持でほぼ固まっています。水戸斉昭と衝突して、阿部正弘から老中を罷免された松平忠固を、堀田正睦は、阿部正弘が死亡するとさっそく老中に復帰させ、勝手係、すなわち大蔵大臣に就任させています。忠固が、斉昭の子、慶喜を支持するわけがありません。堀田正睦もやはり斉昭は嫌いですから、同意見です。

 溜まりの間においても、その最有力者、井伊直弼は徹底した血統主義者ですから、家斉の実の孫の慶福を是と考えるのは当然です。

 また、徳川家の政治ファクターにおける隠れた大勢力である大奥では、この当時は家定の生母が君臨していました。彼女は、母親として当然の事ながら、実の孫の生まれるのを期待していましたから、養子を取ることには好意的ではありません。ましてや慶喜のように、息子家定の引退含みの養子には絶対に反対でした。

 島津斉彬は娘の篤子を通じて大奥工作を試みます。家定没後に出家して天璋院と号するようになった彼女は、姑として、嫁の皇女和宮をいびり抜いて勇名をはせます。が、この時点では、処女妻にすぎない彼女に、大奥の状況を左右するほどの力はありませんでした。

 結局、幕府内部における一橋慶喜擁立派の支持勢力は、阿部正弘が抜擢した川路聖謨や岩瀬忠震らのエリート官僚達だけでした。彼らは、日々現場で困難な対外交渉に当たっているのですから、こうした時代におけるリーダーシップの欠如による被害を誰より痛切に受けていました。ですから、わずか13歳の子供の将軍ではなく、22歳の青年の将軍を望んだのも無理はありません。しかし、この時点では、まだ彼らの意見は、幕閣を動かすほどの力はありませんでした。

 したがって、普通であれば、すんなりと慶福に決まるはずです。そこで、一橋慶喜擁立派は、最後の手段を使うことにしました。すなわち詔勅を得て、慶喜を将軍にしようとはかり、彼ら得意の京都工作を展開します。しかし、彦根藩主井伊直弼の逆工作の前にその謀略は潰えました。

 C 堀田正睦の寝返り

 ここで将軍後嗣問題にとんでもないどんでん返しが起こりかけます。前節に述べたとおり、堀田正睦は日米通商条約について勅許を得るために上京していましたが、3月11日の公家のデモに、あきらめて江戸に帰ることにしました。

 ところが、この段階になって突然、堀田正睦が慶喜擁立派に宗旨替えをしたのです。理由は単純で、尊皇攘夷で知られる水戸家の御曹司を将軍にし、また一橋慶喜擁立派の重鎮、松平慶永を大老ということにすれば、朝廷も軟化し、条約に対して勅許が得られるのではないか、と考えたからです。おそらく、対朝廷工作の中で、そのような印象を与えられたのでしょう。江戸帰着の二日後、堀田正睦は家定に謁して、慶永を大老に就任させることを進言します。

 しかし、これは手遅れでした。堀田正睦のいない間に、紀州派は、一橋派の京都での暗躍を察知し、堀田正睦の寝返りを予想して対策を講じていました。それが伊直弼の大老就任です。これについて既に家定の了解を取っていました。したがって、家定は、堀田正睦の言上を、大老になるのは、井伊家に決まっている、と一言ではねつけます。そして、その翌日、井伊直弼を正式に大老に就任させました。その結果、将軍後嗣は紀伊慶福ということに自動的に決まってしまいました。

 堀田正睦はその後、少しの間、老中の座にとどまります。しかし、井伊直弼は、この年6月19日に勅許がとれないままに、日米通商条約調印を断行しました。その上で、勅許を得ずに条約を調印した責任者という形で、堀田正睦と松平忠固二人は、同月22日に登城停止の処分を与えられます。そして、翌23日には老中職を罷免され、蟄居を命じられました。これは、彼らのどちらにとっても、二度目の失脚というわけです。

 しかし、堀田正睦の真の失脚原因は、将軍後嗣問題に当たって、紀州派から一橋派に寝返ったことにあるといわれています。その意味では忠固の失脚は、堀田正睦の巻き添えということもできるでしょう。

 堀田正睦は、そのまま二度と世に出ることなく、失意のうちに元治元(1864)年に死去することになります。

 

4. 堀田正睦の財政

 ここで本稿としての問題は、堀田正睦は、彼が責任者であった時代の財政をどのようにやりくりしていたか、という点です。彼の時代の財政の全体規模については判っていませんから、どこにどれだけ使用したのか自体が判りません。

 しかし、台場工事にも着工していましたし、対朝廷工作にも相当の費用がかかっていますから、阿部正弘時代に比べると、かなりの程度歳出規模が拡大していることは確実です。しかし、現実にどの程度の歳出規模であったかということは判りません。

 とにかく、これまでにない新たな支出要因が存在している以上、何らかの形でそれを賄わなければなりません。先に述べたように、輸出入両面にわたっての関税賦課を、岩瀬達がハリスの反対にも関わらずがんばり抜いたのは、まさにそれを意識してのことと思われます。

 しかし、これ以外の点については、特段の新規歳入手段は講じていません。各地の豪農や商人、特に大阪地方の豪商に、臨時の上納金を命じた事は判っています。だが、それが全体でどの程度の歳入額になっていたのかについても資料が不十分で、全く判りません。

第3章 井伊直弼と安政の大獄


 1. 井伊直弼の登場

(1) 譜代の棟梁

 武田信玄軍団の最精鋭部隊は、赤備え(あかぞなえ)と称して、鎧や甲を赤く染めていたため、戦場で非常に目立ちました。徳川家康は、武田氏滅亡後、この赤備えを使用することを、井伊直正(なおまさ)の部隊に許しました。とりもなおさず、井伊軍団に対して、徳川軍の最精鋭部隊であるというお墨付きを与えたに等しいことです。事実、その後、井伊の赤備えは、その精強ぶりを敵味方双方に畏怖されることになります。井伊直正は、関ヶ原の合戦に大功をあげ、明智光秀の拠点であった近江(滋賀県)佐和山18万石の大名となりました。

 その子直孝も大阪夏の陣の際に、木村重成(しげなり)=長宗我部盛近(ちょうそかべ・もりちか)の連合軍を撃破し、豊臣秀頼母子を自害に追い込むという大功をたて、近江彦根20万石の領主になりました。家光は、さらに5万石を加増して計25万石とし、彼を大老(たいろう)に迎えて幕政全体にわたって睨みを利かせるようにしました。

 この25万石という石高は譜代大名の中で最大の石高であったため、井伊家は、以後、「譜代の棟梁」と呼ばれるようになります。井伊家に対してはその後も再三加増があり、最大時には35万石となりました。

 大老というのは、徳川幕府では、老中の上席に立ち、幕政全体を統括する最高責任者です。が、常置の制度ではなく、特に問題が起きた時に限って置かれます。大老職に就けるのは井伊、酒井、土井、堀田の四氏に限られていました。特に井伊家の指定席的観があります。幕府存続中に9人が計10回大老に就任しましたが、そのうちの5人6回は井伊家からでていることから見ても、江戸幕府中における井伊家の家格の高さが判ると思います。もっとも、この家格の高さが災いして、井伊家は普通の老中には、なっていません(幕府の最初期に一人いるだけです)。大老になるか、溜まりの間に詰めて実質的に睨みを利かすというのが、井伊家の役割であったのです。


(2) 井伊直弼の前半生

 直弼(なおすけ)は文化12(1815)年、井伊家11代藩主直中(なおなか)の14男として生まれました。上に13人も男子がいては、普通なら間違っても家督を継ぐことなどあり得ない地位です。しかも将軍家斉が子供を大量生産して、あちこちの家中にむりやり養子として押し込んでいた時代ですから、彼には養子の貰い手もありません。このため、わずか300俵の捨て扶持を与えられ、32歳まで部屋住みとして暮らしました。自邸に「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けていた、ということから、この時期の彼の絶望感が伝わってくるような気がします。

 しかし、この間、彼は決して無為に暮らしていたのではありません。武道としては居合いや槍、学問としては禅や茶道、国学等を学び、いずれも一流の域に達したといいますから、非凡な資質を持つ人物であったことは確かです。特に、その国学の師となった人物が、井伊直弼の引き起こした安政の大獄で、井伊直弼の腹心として暗躍することになる長野主膳です。

 彼が32歳の時、ようやく幸運が巡ってきました。藩主である長兄直亮(なおあき)の子が死亡し、この時には他の兄たちも様々な理由からいなくなっていたため、代わって世継の地位につくことができたのです。さらに嘉永3(1850)年、彼が36歳の時、直亮が死亡したため、ついに彦根藩主の地位についたのです。


(3) 大老就任

 井伊家は東海道の要衝彦根を押さえ、特に至近距離にある京都に睨みを利かす位置にあります。しかし、それだけに尊皇思想に染まりやすいといえます。特に直弼は、国学を学んだだけに、その精神的バックボーンには尊皇思想があったことは間違いありません。

 それと同時に、譜代の棟梁として幕府至上主義でもありました。そして、溜りの間詰めの譜代大名として幕府の財政事情の厳しさを知っていただけに、開国して貿易利潤を幕府が独占する必要性も理解していました。
彼は、溜りの間を代表して、阿部正弘の路線を、有力諸侯に迎合するものとして厳しく批判し、阿部正弘に代わって堀田正睦を老中首座に押し上げるのに成功しました。

 その後に大きな政争となった家定の後嗣問題に当たっては、血統主義の立場から紀伊慶福(よしとみ)を支持し、一橋慶喜を支持する松平慶永や島津斉彬と対立しました。この戦いは、前章で述べたとおり、将軍、大奥、幕閣、溜まりの間、とすべての政治勢力が紀伊慶福を支持した結果、早い段階から圧倒的に紀州派に有利でした。

 そこで、一橋慶喜擁立派では、最後の切り札として詔勅を得るべく、松平慶永が腹心の橋本左内を、また島津斉彬がやはり腹心の西郷吉之助(後の隆盛)を京都に送り込んで対朝廷工作を行いました。直弼は、これを察知すると、彼の腹心である長野主膳を送り込んで対抗策を講じました。一橋派の工作は、一時は成功して、詔勅案に明確に慶喜擁立派のスローガンである「英明・年長・人望」の三語を書かせることができました。が、彦根を拠点にしているため、京都の内情に詳しい井伊家の底力はすさまじく、長野主膳は、最終稿の段階で、関白九条尚忠(ひさただ)に、その問題となる文言を削除させることに成功し、その結果、将軍継嗣に関する勅書は曖昧なものになりました。

 また、条約に対する勅許を得るのに失敗した堀田正睦の意見が慶喜擁立に変化したのを素早く察知し、彼が江戸に戻る直前に、直弼自らが大老の地位につくように将軍家定の説得を行い、成功しています。こうして、安政5(1858)年4月23日、直弼は大老に就任し、幕府建て直しのため、その強権を振るい始めるのです。


2. 条約の締結

 大老に就任すると、まず彼は、将軍後嗣を正式に紀伊慶福と決定し、5月1日に家定に正式承認させます。それに伴い、先例にしたがい朝廷にその承認を請うています。
 また、日米通商条約については、堀田正睦にハリスと再交渉をさせ、7月27日までの時間を得ます。そこで、その時間的余裕を利用して改めて朝廷から勅許を得ようとしたのです。


(1) アロー戦争と条約の調印

 6月13日、米国蒸気フリゲート艦ミシシッピ号が浦賀に入港してきて、アロー戦争で清国が破れた結果、英仏と清国の間で天津条約が締結されたことをハリスに伝えてきました。

 アロー戦争というのは、イギリス商船アロー号の中国人船員を清国当局が逮捕したことを口実として、英国とフランスが清国を相手に始めた侵略戦争で、第二次アヘン戦争とも呼ばれます。その結果締結された天津条約が、清国の主権を蹂躙した非常に不平等なものであることは、言うまでもないことです。

 さらに、その余勢を駆って、英国からエルジン伯爵が、またフランスからはグロ男爵がそれぞれ全権大使として、艦隊を率いて日本に来航し、清国との間に結んだ天津条約と同様の内容の条約を日本に強要しようとしているというのです。偶然、その6月16日にプチャーチンが座乗するロシアの軍艦アスコルド号が下田に入港し、この情報の真実性を裏書きしました。

 その前日の6月15日にポーハタン号が入港し、この時点における米国司令長官タトノールが座乗していました。先に紹介したとおり、このポーハタン号というのは、ペリーの2回目の来航時の旗艦だった船で、2415トンあり、当時としては世界最大、最強といえる艦の一つでした。つまりこの時点で、米国の強力な蒸気軍艦2隻が偶然浦賀に集中し、しかもそれを動かす権限を持つ人物が搭乗して来ていたわけです。ペリーの来航以来、最大の米海軍勢力をハリスは持ったことになります。

 極東におけるこの新事態こそ、条約調印に向けて日本の情勢を動かす好機と見て取ったハリスは、ポーハタン号に自ら搭乗し、江戸湾を神奈川沖まで侵入して堀田正睦と連絡を取りました。このような大型艦に神奈川沖まで侵入されては、幕府としてはかなりの威圧感を覚えざるを得ません。

 この結果、ハリスに言わせると、「日本政府は初めて敏速に行動した」のです。すなわち、交渉担当者の岩瀬忠震と井上清直の二人は、取るものもとりあえず咸臨丸に飛び乗って神奈川沖に駆けつけ、17日の深夜、ポーハタン号に乗船し、ハリスに面会しました。ハリスは、数十隻からなる英仏の連合艦隊が来航中であり、時間はきわめて切迫していると説きます。また、日米条約が締結されていれば、米国は日本のために友好的調停者として行動するであろう事を誓約するというのです。これに説き伏せられた岩瀬達は、引き返して堀田正睦の説得に成功し、この問題は閣議にかけられることになります。夜を徹して続けられた閣議は紛糾しました。が、堀田正睦、松平忠固の二人が即時条約断行論を唱えたため、井伊直弼もどうしてもやむを得ないのであれば無勅許調印をしてもよいという決断を下し、将軍の裁可を仰ぎました。

 岩瀬と井上がポーハタン号に戻ってきたのは、6月19日の正午過ぎでした。彼らは井伊直弼の命に反して、調印延期の可能性について全く交渉することなく、直ちに調印することとしました。この命令違反に対して井伊直弼の持った不快感が、後に岩瀬忠震らに大きな悲運を招く原因の一つとなります。

 そこでポーハタン号上に調印場が作られ、両国政府代表が日米通商条約の調印を行いました。ポーハタン号からこれを祝って放たれた21発の祝砲が、江戸湾に殷々ととどろき渡りました。この瞬間に、幕末は、新しい段階を迎えたわけです。


(2) 一橋派の弾圧

 井伊直弼は、6月22日に諸大名に総登城を命じて条約調印を発表しました。同時に、閣議の席で条約の即時調印を主張した堀田正睦、松平忠固の二人を、違勅調印を理由として老中から罷免することで、一橋派の攻撃の矛先を交わそうとしました。自分も、その決定に最終的に同意したことは、井伊直弼の、自分に都合のいい記憶からは抜け落ちていたのでしょうか。

 A 一橋派の一斉不時登城

 一橋慶喜は、これに対して、純然たる尊皇論者の立場から、翌23日、登城し、違勅調印について直弼を責め立てました。

 他方、政治闘争で一敗地にまみれた一橋派では、今後の打開策について検討しました。松平慶永を始め、彼らの中には開国主義者も多いのです。が、この違勅調印に井伊内閣の弱点があると見て、ここを攻めれば倒閣できるのではないか、と考えました。

 そこで翌24日、本来の登城日でもないのに一斉登城を決行し(これを当時の言葉で「不時登城」といいました。)、直弼を責め立てました。今流に言えば、労働組合員が勤務時間外に出勤して管理職を吊し上げるようなことをやったわけです。ただしこの場合は、吊し上げをした水戸斉昭・慶篤親子や尾張慶恕、松平慶永の方が、吊し上げられた井伊直弼より家格が上なので、井伊直弼はひたすら平身低頭するしかない、というまことに辛い状態でした。

 勢い込んだ一橋派では、翌25日にも不時登城を決行し、さらに吊し上げを続行しようとしました。しかし、井伊直弼は、彼らに、将軍後嗣が、朝廷の承認を受けて、紀伊慶福に正式に決まったことを発表することで、その出端をくじきました。

 B 直弼の反撃

 吊し上げを受けて怒り心頭に発した井伊直弼は、7月5日になって反撃に転じます。水戸斉昭に「急度慎(きっとつつしみ)」、尾張慶恕と松平慶永に「隠居・急度慎」、一橋慶喜及び水戸慶篤に「登城停止」をそれぞれ命じたのです。松平慶永は隠居に伴い春嶽と号する事になります。この号はよく知られているので、本稿でも、以後、彼のことは春嶽と呼ぶことにします。

 なお、家定はその直後、1858(安政5)年7月6日にわずか35歳で死亡します。脚気衝心(かっけしょうしん)、すなわち今日の言葉でいうところの心臓脚気が死因ということです。これにより、紀伊慶福が、その名を家茂(いえもち)と改め14代将軍となりました。ただし、井伊直弼は、次に述べるような一連の新規施策をする都合上、この段階で家定の死を公表することができず、その死の正式発表は1ヶ月後の8月8日となりました。

3. 安政の五カ国条約締結

(1) 専任外交機関の設立

 井伊直弼は、日米条約交渉を通じて、外交を担当する専門の機関を設立する必要性を痛感しました。そこで、まず閣内に、外国御用係老中を設けました。今日の外務大臣に相当する職と考えればよいでしょう。

 これまで、綱吉の改革以来、今日の大蔵大臣に相当する勝手係老中がいたことは紹介してきましたが、それを除けば、初めての専従制を導入したわけです。初代の外国御用係には、太田資始、間部詮勝、脇坂安宅(やすおり)、久世広周(くぜ・ひろちか)の4老中が任命されました。

 これに対応する形で幕府は安政5(1858)年7月8日に外国奉行の職を設けます。すなわち外務省を設置したわけです。外国奉行は今でいえば外務事務次官に相当します。初代奉行として水野忠徳、永井尚志、岩瀬忠震、井上清直、堀利煕(としひろ)の五名を任命します。ただし、このうち井上清直は、従来どおり下田奉行を、また堀利煕は函館奉行をそれぞれ兼任することとされました。むしろそれら開港地で外国人と折衝するにあたり、外国奉行の肩書きを与えたと言っていいでしょう。したがって実質的には、水野、永井、岩瀬の3人が初代奉行として活動することになります。

 この職は、高2000石とされましたから、高3000石の勘定奉行等に比べると少し低い職ですが、高1000石の普通の遠国奉行に比べると、ぐっと重職というところです。実をいえば、水野忠徳も勘定奉行経験者ですし、永井尚志に至っては、直接勘定奉行から外国奉行に配置転換されています。したがって、彼らにとっては、形式的には左遷気味のところがあります。が、むしろこの段階では適材適所が貫かれたと見るべきでしょう。それと処遇がかみ合わないのは、過渡期にはやむを得ないところです。外国奉行設置に伴い、海防係は廃止されました。

 なお、これまで長いこと勘定奉行兼海防係として対外交渉の第一線で活躍してきた川路聖謨は、井伊直弼の大老就任に反対してその逆鱗に触れて、これに先立つ5月6日に、既に西の丸留守居役に左遷されていたため、この人事から漏れています。この川路聖謨の左遷は、後に安政の大獄の一環として吹き荒れる人事粛正の嵐の、前触れともいうべきものです。

(2) 対英交渉

 この7月に、オランダ、ロシア及び英国の大使が、いずれも通商条約の締結を求めて江戸に入ってきました。水野忠徳達は、まずオランダ、ロシアと交渉して、米国と同一条件での条約を調印しました。オランダは日本との長い交渉がありますから、基本的に日本に同情的です。またロシアはまだ資本主義が未発達でしたから、日本との通商に強い要求をもっていなかったのです。そこで日本としてはいずれも交渉のしやすい相手だったわけです。

 その後で、やおら英国大使のエルジン伯爵との交渉に臨んだのです。英国の方では、ハリスが言ったとおり、6月に清国と天津条約を締結しており、本国政府は彼に、日本とも、天津条約と同一条件の条約を締結するように指示してきていました。しかし、水野らは米、蘭、露三国と同一条件の条約でなければ締結しないとがんばり、エルジンにそれを承知させて7月18日に、ほぼ同一の条件で日英条約を締結します。

 実は、この時点においては、アジアで活動中の英国商人はともかく、英国政府そのものはまだ日本との交渉に切迫感をもっていなかったのです。そのため、エルジンはロンドン出発に当たり、次のような指示を受けていました。

「強硬手段を用いて日本に新条約を押しつけることは、女王陛下の政府の意図するところではありません。我々は日本の政府と国民の好意を得ることを望んでいるのです。」

 この好意を象徴する行動として、日英条約が調印された18日に、エルジンは伴ってきた蒸気客船エンペラー号を日本に贈呈しています。日本名を蟠竜(ばんりょう)丸と呼ばれる船です。このような柔軟な対日姿勢が、やがて英国が米国に代わって対日列強外交の主導権を握るに至る原因をなすのですが、それは後のことです。

 そういうわけで、この時点では、エルジンはそもそも無理押しする意思はなく、したがって、水野が力こぶを入れるほどの問題ではなかったというのが真相であったようです。そもそもエルジンは、日本側との通訳さえ用意せずに来ていました。だから、ハリスがヒュースケンを提供すると、喜んで受け入れたのです。そして、ハリスが粘り強い交渉により獲得していた不平等条約もまた喜んで受け入れたというわけです。

 もっとも、細かく見ていくと、この日英条約は色々な点で日米修好通商条約に比べて、さらに英国に有利な内容になっています。エルジンの交渉技術の巧みさを示すものといえるでしょう。

 第一に、天津条約にあったのと同じ、一方的な最恵国待遇の規定が、日英修好通商条約には入っていることが注目されます。後年、英国領事のパークスは、日本とオーストリアとの間の通商条約締結に大いに尽力をします。それは決して博愛的な行動ではなく、その条約の中に、甚だしい不平等規定を挿入し、それにより英国も同一の条件を獲得するためのものだったのです。

 第二に、英国は、同国の主力輸出品である綿製品及び羊毛製品を5%関税にする事にも成功します。つまり、ここで簡単に幕府が譲ったことで、ハリスが日米条約の形で行った英国進出阻止の謀略は失敗に終わったわけです。

(3) 対仏交渉

 遅れてきたフランスのグロ男爵も、ハリスの斡旋でほぼ同一の条約を承諾し、9月3日に調印します。ヒュースケンは、フランス語も流暢でしたので、その際にも通訳として活躍します。フランス代表のグロ男爵は、フランスワインを日本に輸出するために、アルコールにかけられる35%という高率関税を軽減するように交渉しましたが、これは失敗に終わりました。

 これにより、いわゆる安政の五カ国条約がそろったことになります。

 結論的に言えば、ハリスの6月17日における英仏の脅威を強調した言動は、いわゆるお為ごかしの恫喝でした。彼の語った脅威は実際には存在していませんでした。もし幕府が、彼の恫喝に負けずに、事前に獲得していた期限までに何らかの手段で朝廷の勅許を獲得していれば、その後の歴史の流れはかなり違っていたものと思われます。歴史でifを言っても無駄なことではありますが・・。

 これらの条約は、明治にまで悪影響を及ぼした不平等条約でした。しかし、当時アジア諸国が欧米から押しつけられていた条約に比べると、遙かにわが国の主権を確保できたもので、その点では高く評価できます。実は、明治において不平等が云々されるに至る原因は、この時点での条約内容よりも、その後2回行われた条約の改悪による影響が大きいのです。それらについては後にお話しすることにしたいと思います。

 この時外国奉行であった者たちは、阿部正弘に抜擢されて以来、多年にわたりわが国外交の第一線で苦労してきたわけですから、五カ国条約の調印が済んだときには感無量の思いだったことでしょう。しかし、実はこの時既に、このエリート官僚達の運命は、彼ら自身の預かり知らないところで暗転していたのです。

4. 安政の大獄

(1) 戊午の密勅

 孝明天皇は、勅許もないのに幕府が調印を決行したということを聞き、激怒しました。そこで、井伊直弼に対して、無断条約調印の釈明を求める沙汰書を発し、それは安政5(1858)年7月6日に直弼の手元に届きます。それには、御三家並びに大老に対して、釈明のため、早々に上京するように命じていました。しかし、直弼は、三家は処分中であり、自分は政務多忙で、いずれも上京できない、と素っ気なく拒絶し、そのうちに使いの者が状況の上説明する予定である旨の返事を7月8日に送っただけでした。

 閣内で調整した結果、外国係老中の一人である間部詮勝(まなべ・あきかつ)を、事情説明に上京させることにし、その旨を7月末になって京都に伝えています。間部詮勝は、その姓で判るとおり、家宣の時、側用人として異数の出世を遂げ、新井白石とともに正徳の治を主導した間部詮房の子孫です。この時は、越前鯖江5万石の城主で、罷免された堀田正睦の代わりとして、井伊直弼によって6月23日に老中に任命されたばかりでした。

 この頃、政争に一敗した一橋派では、失地回復の手段として、再び朝廷カードを切ろうとしていました。まずその手始めに、井伊派である関白九条尚忠(ひさただ)を脅迫して辞職に追い込みました。そして、井伊直弼の素っ気ない態度にいよいよ怒り狂っている孝明天皇に近づき、8月8日にいわゆる戊午(ぼご)の密勅を発っさせる事に成功しました。戊午というのは、この年の干支です。この密勅の内容については、幕府に正式の記録がなく、写しと賞する文書がいくつか世の中に流布しました。しかし、大同小異ですので、そのうちの一つを、適宜現代語訳しつつ次に紹介します。

「この度、幕府諸有司から、宿次の奉書により、朝廷の許可なく仮条約に調印した旨申し来たった。右の通りならば、せっかく天朝より勅命を下した甲斐もなく、大樹公から京都に許可を求めに来た趣意も立たない。大樹公が賢明であるのに、幕府の有司はいったい何を考えているのかと(陛下は)不審に思われた。このようでは、外夷はさておき、国内の人心の折り合いにも影響して来るであろうと陛下はお心を悩ましていらっしゃる。その上、水戸前中納言、尾張、越前の諸侯も蟄居を命ぜられているという。どのような罪があったのかは知らないけれども、三家家門の儀は柳営の羽翼というべき大切な家筋であり、外夷入津・国事多難の日にあたり、このような状況では実に徳川家の盛衰に関わるので、陛下はお心を悩ましていらっしゃる。(したがって)三家、三卿、大老、閣老、国主、外様、譜代にて会議し、陛下のお心を安心させるような処置を執るようにと陛下は思し召されている。」

 冒頭にでてくる「宿次」というのは、宿場ごとに手紙をリレーして送る飛脚のことで、当時としてはもっとも早い手紙の送り方です。「大樹公」とは将軍を、また、「柳営」とは幕府をそれぞれ意味します。括弧書きは原文にはありませんが、補った方が判り易いと考えて挿入したものです。

 この勅書は、要するに、井伊直弼の一連の施策に対するあからさまな批判であり、また、水戸斉昭や島津斉彬の雄藩連合構想に対するお墨付きと言っていいものです。

 しかも問題は、この密勅が、まず水戸家に下され、ついで幕府に下された点にあります。このため、幕府としてはその内容が諸大名に漏れるのを防ぐことができないのです。

 このような密勅を周旋する行為は、当然の事ながら、禁中並びに公家諸法度をはじめとする幕府の法令の厳禁するところです。阿部正弘が、水戸斉昭の京都工作を暗黙のうちに認めて以来、その禁令にふれる行為が日常化してきて、ついにこのような密勅が下されるに至ったわけです。

(2) 間部詮勝上京

 ここにいたって、井伊直弼は、幕法を厳正に適用することにより、京都を徹底的に粛正することを決意します。したがって、間部詮勝の使命は、単なる釈明旅行とは全く異なる色彩を持つに至りました。詮勝は「この度は天下分け目のご奉公と存じ、一命にかけ勤め候心得にござ候」と悲壮な覚悟をして京都に乗り込みます。

 長い間、全く取り締まりがなかったため、水戸家の家臣をはじめとする勤王の志士たちの多くは全く無警戒でしたから、幕府としては違法活動の証拠を発見するのに苦労はしませんでした。

 間部詮勝の上洛に先行して、まず京都所司代酒井忠義(ただあき)の手により、この密勅の首謀者である梅田雲浜(うんぴん)が、9月7日に逮捕されます。

 さらに9月17日に間部詮勝が京都に入るとともに、京都と江戸にまたがる大量逮捕が開始されます。水戸藩では、家老安島帯刀(あじま・たてわき)以下20数名が逮捕され、越前藩では慶永の腹心橋本左内が逮捕され、さらに多数の公家の家臣が芋蔓式に検挙されるに至ります。また、薩摩の西郷吉之助も危うく捕まりそうになり、かろうじて逃走に成功しています。

 詮勝は、こうして十分に公家を威嚇した上で、10月19日には親幕的な九条尚忠を再び関白に復職させ、24日には家茂に対する将軍宣下を実現しました。そして、この日、入洛後37日目にして初めて参内(さんだい)すると、条約を無許可調印した責任は、水戸斉昭らの陰謀にある、と人を喰った報告をしました。

 その後も、儒者頼三樹三郎(らい・みきさぶろう=頼山陽の息子)を逮捕するなど、粛正を続行しました。その結果、12月31日には、条約調印はやむを得ざるところと「御氷解」したという天皇のお言葉をいただき、事実上、条約調印の勅許を獲得するのに成功したのです。

 こうして逮捕された者達は、あるいは厳しい取り調べに耐えきれずに獄中で死亡し、生き延びたものも、切腹、死罪、遠島、追放その他の厳しい処罰を受けたことはよく知られているとおりです。

(3) 一橋派の再弾圧

 この機会に、井伊直弼は、一橋派の徹底壊滅を計ることを決意し、安政6(1859)年2月に、一連の行政処分を下します。安政の大獄というと、上記の刑事罰の方が有名ですが、実は日本史的には、こちらの行政罰の方がはるかに重要です。刑事罰の対象者は小物であったのに対して、行政罰対象者は、この時点で現実に日本史を動かしていた大物ばかりだからです。

 皇族では、青蓮院宮(せいれんいんのみや=後の中川宮)に対して御慎永蟄居が命じられます。永蟄居というのは一生家から出てはいけないというのですから、今日の言葉でいえば、自宅監禁という終身刑です。公家では、戊午の密勅に名を連ねた太閤鷹司政道(たかつかさ・まさみち)や前内大臣三条実万(さねむつ)、左大臣近衛忠煕(ただひろ)、右大臣鷹司輔煕(すけひろ)等が、辞官・落飾(らくしょく)・御慎の処分を受けました。落飾とは、出家することです。

 また、大名では、尾張慶恕・堀田正睦等に対しては隠居・慎みが言い渡されました。

 もっとも峻厳を極めたのが水戸家に対してで、主犯格の斉昭が水戸にて永蟄居、当主の水戸慶篤に対して御差控(おさしひかえ)、一橋慶喜に対して御隠居・御慎みという処分が下されたのです。水戸斉昭は、結局この命令に活動を封じられたまま、万延元(1860)年8月15日に病没することになります。享年61歳。死因は脚気衝心といわれます。

(4) エリート官僚達の弾圧

 こうした政敵処罰は、先の刑事事件と直結していますから、理解可能です。が、井伊直弼は、さらにこの機会に、常識的には理解不可能な行動にでます。これまで彼の外交・内政の施策を忠実に実行してきたエリート官僚達に対して、一斉に処分を下したのです。

 直弼から見た場合に、彼らの言動が一橋派と見えたからに他なりません。処分された理由は大きく分けて二つあります。

 一つは13歳とまだ幼い家茂が将軍についたため、将軍そのもののリーダーシップは期待できなくなりました。そこで、官僚達は将軍に後見職を設け、それに一橋慶喜を当ててはどうかと井伊直弼に具申したのです。後見職を設けろという意見そのものは妥当ですし、挙国一致体制を作ろうと考えるならば、その職に慶喜を起用するのもまことに妥当です。

 しかし、政敵を起用する意思は、直弼には、全くありませんでした。後見職には、結局、田安慶頼を就任させています。この人は、実兄の松平慶永が、俗人中の俗人で、最悪のおべっか使いと酷評した人物です。そのような人物を起用し、正論を具申してくる職務に忠実な官僚を処罰するというあたりに、井伊直弼の政治家としての器量の小ささを端的に見ることができます。

 今ひとつは、遣米使節問題です。日米通商条約の調印の際、岩瀬忠震は、日本人に米国を見せることによって、条約締結に対して朝野に好ましい反応を引き起こすことが期待できるのではないかと考え、正式批准をワシントンでするのはどうかと、ハリスと交渉したのです。ハリスもそれは良いと積極的に賛同しました。

 岩瀬忠震は、自らが全権大使となって米国に渡り、それと同時に幕府及び諸侯中の家臣で、気概識見のある人々をも使節団のメンバーに加え、直接に米国を見せれば大いに啓発されるであろうと考えたのです。より端的に言えば、条約の締結に反対しているような人物でも、実際に米国を見せれば意見が変わるだろうと考えたわけです。少し後のことになりますが、長州藩では攘夷派の伊藤俊輔(後の博文)や井上聞多(後の馨)等を英国に密航させて欧米の文化に触れさせることにより、攘夷論者から開国論者に豹変させるのに成功していますから、この考えは悪い考えではないのです。

 しかし、諸侯中で、条約締結に反対している気概識見のある人といえば、この当時の状況下ではかなりの者が一橋派となります。したがって、これもまた、政敵を起用したり、便宜を図ったりするつもりなど、間違っても持っていない井伊直弼の逆鱗に触れることになりました。

 処罰のされ方には、人により厳しさに差異があります。が、それは、こうした一橋派を利するような考えを、直接井伊直弼に意見具申に及んだ者は首謀者として厳しく処断され、単なる一味徒党と見なされた者が比較的軽かったという事から来る違いです。

 水野忠徳は、前年9月に日仏条約に調印した直後、すなわち京都による粛正が始まると同時に既に罷免されています。

 岩瀬忠震も同じく前年9月にいったん作事奉行に左遷されていました。が、結局この時改めて永蟄居が命ぜられます。彼は、文久元(1861)年、失意のうちにわずか44歳で死亡することになります。死因は脚気衝心といわれます。
 永井尚志は、この時いったんは新設された軍艦奉行に転出しますが、結局8月になって罷免の上永蟄居が命じられます。

 川路聖謨は、この前年の5月、井伊直弼の大老就任の直後に、既に西の丸留守居に左遷されていた事は前述したとおりですが、井伊直弼の憎しみはなお消えず、この時改めて隠居・慎みが命じられています。

 井上清直は小普請奉行に左遷されました。比較的処分が軽かったのは、おそらく彼自身が政治的行動をしたのではなく、兄の川路聖謨の処分に連座したのでしょう。

 結局、初代の外国奉行のうち、この粛正を無傷で切り抜けたのは、遠い函館にいた堀だけでした。

 彼ら官僚達は、個人の意見は意見として、井伊直弼政権の下でも忠実にその職務を果たしていたことは、前節に紹介したとおりです。このむちゃくちゃといって良い粛正により、初代の外国奉行は壊滅状態となります。

 井伊直弼という人は、このように人に対する好き嫌いの感情の激しい人で、一時どんなに親しくても、嫌いになると我慢ができません。嫌いな人でも、有能であれば、その能力を生かすというやり方がまったくできないのです。先に初代の外国御用係老中(外務大臣)として紹介した間部詮勝など4人の老中達は、いずれも彼の盟友といって良かった人々ですが、彼らも、この前後の時期に、全員が老中から罷免されています。


5. 遣米使節

(1) ポーハンタン号

 井伊直弼には、外交という行政の一分野における高度の専門技術性が理解できなかったようです。すなわち、条約というものは、締結のために交渉することも確かに困難なことです。が、締結した条約を、現実に実施する段階になると、遙かに困難な事態が次々と起こり、その処理には有能な実務官僚が必要になる、という単純なことが判らなかったのです。そこで、条約締結が済んでしまえば用済みだから、いつ逆らうか判らない獅子身中の虫は処分してしまうのが一番、と考えたに違いありません。

 彼らエリートに代わって任命された新たに外国奉行に任命されたのは、村垣範正(のりまさ)や新見正興(しんみ・まさのり)達です。前者の村垣範正は、八代将軍吉宗が紀州から連れてきたお庭番の家筋です。お庭番の中では出世頭といえます。国内で、各地の情報の収集や分析をやらせれば、非常に有能な人物であったことは間違いないでしょう。

 彼らに予定されていた一番の大仕事は、米国軍艦ポーハタン号に乗ってワシントンに行き、日米通商条約を正式に締結してくることでした。おそらく、井伊の頭では、情報の収集は、お庭番に任せるのが適材適所という意識があったのではないでしょうか。しかし、外国情報の収集は、従来の日本国内での情報収集活動とはかなり事情が異なります。何よりも、それに先行する一般情報をもっているか否かが重要になるからです。ハリスも、この人選に対しては強い不満を表明しました。が、井伊直弼の人事は変わりませんでした。

 翌年1860年1月には、新任の外国奉行を団長とする遣米使節団が米国軍艦ポーハタン号に乗って出発し、無事に条約批准という使命を果たしてきました。が、気の毒にも、彼らは”忘れられた遣米使節”と歴史家に呼ばれています。
 遣米使節団の派遣目的は、確かに形式的には修好通商条約の批准です。が、実質的狙いは、わが国の歴史にインパクトを与え得るような人材に、実際に海外の文物に触れる機会を与えることにより、その後のわが国の国内世論そのものに影響を与えようということでした。

 しかし、それほどの能力を持つ逸材を乗せようとすれば、井伊直弼の逆鱗に触れることは、その直前の初代外国奉行の粛正に明らかです。そこで、村垣等の人選が事なかれ主義に終始するのも無理はありません。その結果、この使節団に参加した人々で、その後歴史上に名を出す人は、わずかに目付として随行した小栗忠順(おぐり・ただまさ)ただ一人に過ぎませんでした。

(2) 咸臨丸

 その護衛艦という格付けで、しかし実際には別行動を取った咸臨丸は、日本人初の太平洋横断という壮挙を行いました。それに加え、艦長勝義邦(海舟)や福沢諭吉など、その後の歴史の主役がずらりと参加していました。このため、この脇役の方が遙かに我々の印象に強く、遣米使節はこちらのような錯覚を覚えます。

 この航海では、便乗者となってされていたジョン・M・ブルック大尉の記録では、日本人に航海能力はなく、ほとんど彼とその部下が操縦したとなっています。これに対して、艦長だった勝義邦はもちろん、彼と仲の悪かった福沢諭吉も、口をそろえて、日本人だけの力による航海だったと強調しています。

 これは水掛け論で、厳密にどちらが正しいと決定することは不可能です。が、おそらくブルック大尉の方が正しいと考えて良いでしょう。なぜなら、この当時、日本人の航海術はお話にならないくらい低かったからです。

 幕軍が鳥羽伏見の合戦に敗れ、徳川慶喜が謹慎した後、榎本武揚は8隻の幕府海軍を率いて函館五稜角に脱走しますが、彼の艦隊のうち、実に6隻までが航海術のミスのため沈没しています(1隻は軍資金獲得のため売却し、明治時代になって外交問題になっています)。このため、彼の海軍は自然消滅してしまうのです。したがって、それよりかなり前のこの時点での幕府海軍の航海術は、それよりさらに低かったと考えるべきです。

 しかもこの年の北太平洋は、米国司令長官タトノールがその長い海軍生活の中で見たことがないというほどの悪天候で、ベテランの船乗りをそろえた巨艦ポーハタン号でさえ、予定外のハワイ寄港をしなければならないほどでした。それなのに、小艦の咸臨丸は、その悪天候をついて、驚いたことに無寄港でアメリカまで行っています。榎本艦隊のことを考えれば、この時点で、米海軍を上回るほどの卓絶した航海技術を咸臨丸乗組員が持っていたはずはないと断定できるでしょう。これに対して、ブルック大尉は、航海術と測量に関しては、世界史に名を残している名航海者でした。

6. 貿易の開始

(1) オールコックの着任

 安政5(1859)年5月、神奈川開港の数日前に、英国は駐日領事としてオールコック Rutherford Alcockを来日させます。彼は中国領事を経て日本に着任した練達の外交官です。後に本国の許可なく、独断で四カ国艦隊を組織し、下関砲台を攻撃させた責任を問われて本国に召還されるまで、英国の対日本外交をリードし、幕末史に大きな影響を与えた人物です。その3年間の日本滞在中の見聞を「大君の都」という著書で、世に残したことでも知られています。

 これより以後、ハリスの離任まで、オールコックとハリスは在日外交団の主導権を巡って死闘を演じることになります。

(2) 初期の貿易状況

 安政の五カ国条約と一口に言いますが、その条約の効力の発生時点は、それぞれの条約により異なりました。先に、日米修好通商条約で決まっていた神奈川及び長崎の開港日は西暦1859年7月4日と紹介しました。しかし、その後に締結された一連の条約では微妙に開港日が違い、一番早いのは日英修好通商条約で、西暦1859年7月1日とされていました。日本の年号でいうと、安政6年6月2日のことになります。そこで、最恵国待遇の規定から、これが神奈川の開港の日になったのです。

 実際には、水野忠徳の献言により、東海道の神奈川宿に代えて、そこからほど近い横浜が開港されることになります。最初、列強側は条約違反と文句を言いましたが、現地を見ると、船が停泊するのに、横浜の方が確かに優れているので納得しました。

 貿易を開始してみると、アジアに既に拠点を持っているイギリスが、わが国輸出入量の半ば以上を示すという調子で、最初から圧倒的に大きな貿易量を示しました。

 それでも米国はこの最初の年はわが国からの輸出に関する限り、全体の3分の1程度を占めるというまずまずの実績を示しました。しかし、翌1861年から南北戦争という国内戦争が始まったために、海外進出の余力がなくなってしまいました。そこで、米国は、以後、急速に対日貿易量が減少していってしまいます。南北戦争のピークである1863年には、対イギリス貿易量は、わが国の全貿易量の80%以上に達します。ペリーに始まる米国の一連の努力は、結果として英国を益するための、露払い的活動に過ぎないことになってしまったのです。

 とにかく、井伊直弼がベテラン官僚を2月に切り捨てて間もないこの安政6(1859)年6月に、英国の対日進出が本格化するわけです。この時点では、横浜、長崎、函館の3港が開かれました。

7. 貿易に伴う問題の発生

 貿易の開始されたとたんに、通商条約の抱えていた問題が表面化しました。

(1) 輸出の急増と国内物価の高騰

 第一の問題は輸出量の急激な増大です。それまでの鎖国時代においては、わが国は一貫して大幅な輸入超過状態で推移してきたことは、江戸財政改革史において紹介したとおりです。その時の主力輸入品は一貫して絹と木綿でした。初期においてはそれに対して金銀を以て支払い、後には金銀の流出を抑えるため、銅や俵物という輸出産品を開発することで、何とか輸入品代金の支払いを行うことを可能にしていたのです。おそらく幕府側としては、開国といっても同じような状況が、ただ対象国数が増えるだけ大型化して続くものと予想していたと思います。

 A 生糸の輸出急増

 横浜等を開港してみると、わが国の伝統的な輸入品である絹が、いきなり主力輸出品と化す、という誰も予想しなかった事態が起きました。最初期には、わが国からの輸出量全体の7割程度を生糸が占めているのです。

 欧米諸国は、日本の絹の品質の高さに驚嘆しました。世界最高の品質と、当時の書物には書かれています。なぜこんな逆転現象が起きたのでしょうか。

 開国前の文政から天保にかけての時期、幕府財政も疲弊していましたが、諸藩の財政もまた破綻の一歩手前でした。しかも諸藩は幕府と違って、金銀改鋳という打ち出の小槌を持っていませんでしたから、いずれも殖産興業により財政建て直しを行おうとしたのです。その場合、少ない生産量で換金価値の高い商品を狙うのは当然で、その結果、絹の生産量が延びていたことは確かと思われます。しかも、同じ生産量なら品質の高い生糸の方が高価に売れますから、品質管理に神経を集中するのも当然です。農家に副業的に生糸生産をさせるのではなく、品質管理をやりやすいように、小規模ながらマニュファクチャ生産に移行していたといわれます。これが、欧米の驚いた高品質の秘密と思われます。

 しかし、生糸は、この直前の時期まで我が国の主力輸入品だったほどですから、国内生産量が延びているといってもたかがしれていたはずです。これが爆発的に海外流出を始めたのですから、国内市場では大変な品薄になり、その結果、国内価格は一気に上昇しました。

 B 茶等の輸出急増

 ハリスは当初から日本の茶に目を付けていたくらいで、多くの人が、茶は、開国前からわが国の米国向けの主力輸出品になると考えていました。実際そのとおりの推移をたどりました。もっとも、わが国が生産するのは緑茶であるのに対し、欧米人が飲むのは紅茶です。そこで、初期においては、茶はいったん上海に送られ、そこで紅茶に加工されて米国に運ばれていました。後には、わが国で紅茶への加工まで行われるようになったので、直接対米輸出が行われるようになりました。この輸出急増に伴って、茶もまた、国内価格が一気に上昇しました。

 また、銅器、陶磁器、漆器など、わが国の工芸品は、化政文化の爛熟により極めて芸術的なレベルに達していたこともあって、やはり海外で爆発的な人気を呼びました。そのほか、欧州人の目から見て価値のありそうなものは何でも、貿易取引の対象となりました。

 C 輸入の急増

 鎖国時代は、わが国は常に輸入超過状態でした。開国により、輸入はさらに急増します。上述のとおり、絹は開国に伴い、輸出品になりますが、木綿は依然として輸入の花形でした。万延元年の時点だと、輸入量の半分までが綿布でした。

 江戸財政改革史で詳述したように、今日の我々の常識と異なり、綿製品は江戸時代を通じて絹に次ぐ高級品でした。国内木綿産業は、この高価な輸入木綿を競争相手として成立したものですから、半田というような不自然な生産形態で、高価な金肥を惜しげなく使用しても、価格競争力を持っていました。しかし、製品の品質はお世辞にも高いとはいえません。手で紡ぐため、糸は太く、しかも太さが一定しないからです。

 そこに近代工業が機械で生産した廉価な海外木綿がなだれ込んできたのです。有名な産業革命で、英国は既に蒸気力を利用して大量生産を行っていました。したがって、糸も細く、しかも製品の質も均質です。為替レートの壁は、このような高品質、低価格な外国製品の流入を防ぐ力はありませんでした。しかも、木綿は生活必需品という分類に入っていたので、輸入税はわずか5%でした。これでは、育ちつつあった国内木綿産業を守る保護関税としての機能は果たせません。この結果、国産木綿は大打撃を受けることになります。

 ただし、国内綿織物業者は、輸入綿糸を使用して着物向けの小幅綿布を生産することで活路を見いだしました。すなわち、外国木綿の雪崩込みは、その後のわが国産業の基本形態である加工貿易を形成するきっかけを作りだしたことになります。

 綿作農民はかなりの打撃を受けた模様です。ただ、1861年から始まった南北戦争により、米国南部の綿作地帯からの綿糸が入らなかったことから、世界的に一時、品薄になったおかげで、ただちには壊滅しなかったようです。国内綿作が本格的に壊滅するのは、南北戦争が終わった後、すなわち明治に入ってからになります。

 しかし、こうして貿易により、綿布に関するそれまでの生産形態が根底から変動せざるを得なくなり、輸出ドライブ同様に、国内経済混乱の一因となりました。

 D 国内物価の急騰

 輸出が急増した商品は、そのいずれの産業構造も、国内消費を念頭に置いてできていますから、輸出が急増したからといって生産量がそれに応じて直ちに増えるというわけには行きません。その結果、国内市場において品薄となり、そうした商品の国内価格は一斉に跳ね上がったことは上記の通りです。

 それらの多くは日常生活に使用される品ですから、当然、国内消費者物価全体が、それに引きずられて高騰を始めることになります。したがって、一般庶民の生活は一気に苦しくなりました。

 普通であれば、国内物価がそんなに値上がりすれば、輸出に自然と抑制がかかりそうなものですが、この時は、そうはなりませんでした。為替レートが国内の実勢物価に比べてかなり低く、少々値上がりしても、英国商人としては輸出すれば十分に利益があるような状態だったからに違いありません。

(2) 為替レートの過小評価問題

 輸出ドライブの最大の原因であった為替レートの過小評価問題は、正確に言うと二つの問題に分けることができます。江戸財政改革史に述べたとおり、江戸時代には、金銀銅三重本位制が採用されていました。すなわち、金貨、銀貨、銅貨がそれぞれ独立して国内流通しており、相互の交換比率は市場の需給関係から絶えず変動していたのです。その結果、第一に、銅貨と銀貨の国内交換レートと国際的な交換レートの乖離という問題があり、第二に銀貨と金貨の国内交換レートと国際的な交換レートの乖離という問題があるのです。この二つの問題が同時に発生したのですから、為替レート問題が深刻だったのも当然です。

 A 銅貨と銀貨の交換レート

 おそらく、この時点でのわが国の為替レートは、最初にペリーが締結した、銀1分=洋銀1ドルあたりが妥当な相場だったのでしょう。ペリー来航の時点では、この三つの本位通貨のうち、銅貨の交換価値を基準に基本的な対外レートが決定され、これを国内交換レートを基準にして銀貨に置き換えて表現したのがこの銀1分=洋銀1ドルだったのです。

 ところが、前述のとおり、ハリスとの交渉において、銀貨の交換価値を基準に対外レートを決定し直した結果、いきなりペリーの時の3分の1に邦貨の価値が切り下げられたのです。つまり、銀貨と銅貨の国内交換レートが、国際水準から大幅に乖離していたことがこの混乱の原因です。そして輸出の主力商品はいずれも日用品ですから、国内価格は銅貨で決定されていたのです。ですから、国内物価が3倍に跳ね上がらない限り、国際的に見れば何でも割安感があったに違いありません。

 B 銀貨と金貨の交換レート

 銀貨と金貨の国内交換レートが国際水準と乖離していたことから発生した重大問題は、わが国金貨の海外流出です。先に紹介したとおり、安政の通商条約では、貨幣は金貨、銀貨それぞれに、金銀の含有量に応じて等価交換することになっていました。そして主要決済通貨は銀貨と決め、交換レートは岩瀬忠震が下田条約で決まっていた交換手数料の6%を放棄した結果、34.5セント=銀1分ということに決まっていたのです。

 先に財政改革史で述べたとおり、一分銀というのはこの当時採用されていた本位制の区分でいうと金貨で、したがって固定レートで小判と交換することができます。すなわち一分銀4枚で金1両です。したがって、1両は1ドル38セントという計算になります。ところが小判1両の含有する金を国際的に評価すると、3ドル以上の価値があるのです。つまり、100ドル相当の金を直接小判に換金すると、30両程度にしかならないのに、100ドル相当の銀貨をいったん一分銀に交換し、それをさらに小判に換金するという手間をかけるとざっと70両以上の小判を手に入れられるというわけです。しかも岩瀬忠震が締結した条約では、わが国金貨の海外持ち出しそのものを認めていました。

 この事を発見した英国商人達は、貿易をそっちのけにして、一分銀の入手に狂奔することになります。それどころか英国公使館の職員までがこの濡れ手で粟の事業に手を出した模様で、処罰者を出しています。もっとも日本の両替商も、利にさとく、外国人相手では両替レートをかなりつり上げたようですから、計算通りの利潤が得られたのは最初期だけのようです。それでも、安全に何割かの利益が得られるとなれば、十分魅力的な商売であったことは間違いありません。

 当時の外字新聞の示す数字では、開港第1年度のわが国からの輸出総額は、英価に換算して100万ポンドでしたが、そのうち、現実の商品取引は20万ポンドで、残り80万ポンドは実は小判そのものの輸出だったというのです。80万ポンド相当の小判とは、約100万両にあたります。当時国内で流通していた小判の総量は1421万両程度と推定されていますから、たった1年で国内金貨量の7%が消えてしまったというわけです。

 これだけ通貨量が減少すればデフレ効果で物価の鎮静作用が起こりそうなものですが、そうはなりません。なぜなら、国内市場の中心は大阪にあり、大阪市場は銀本位制で動いているからです。流出した金貨の代わりに大量の銀貨が流入していました。しかも、岩瀬忠震はその外国銀貨の国内流通をも承認していました。ドル銀貨という言葉がなまって、泥銀と呼ばれていたようです。その結果、むしろ銀貨に関しては供給過剰に陥っています。これもまたインフレ原因となりました。

(3) 伝染病の流行

 第三の問題は、この条約が検疫ということを全く予定していない点にありました。これまでわが国はほとんど外国との直接交渉がなく、わずかに開いた窓であるオランダ貿易も、オランダ人達を長崎の出島という隔離室に閉じこめる体制で行われていましたから、海外から伝染病が持ち込まれても、自ずと水際で防ぐ体勢になっていたわけです。その結果、いわば国全体が無菌室のようなものでした。そこに外国との濃厚な接触が始まり、検疫体制が皆無といっていい状況でしたから、もろに伝染病に侵入されたのでした。

 すなわち、安政4(1857)年にインフルエンザの流行があったのを皮切りに、安政5年にはコレラ、安政6年には麻疹がそれぞれ大流行するという具合に、連年、それまであまり縁のなかった伝染病が猛威を振るい始めたのです。

 インフルエンザや麻疹というと、今日の我々は少々熱を出して寝込む程度の軽い病気と思います。が、全くの処女地におけるそれは、ペストやコレラ並の高い死亡率を持つ恐るべき病気なのです。

(4) 外国人の殺害事件

 最後の問題は、外国人の殺害事件が続発したことです。今日の我々は、ややもすれば外国人が殺害された原因を攘夷思想に求める傾向があります。が、実はむしろ外国人貿易商人そのものが、殺されるのにふさわしい?下劣な品性の持ち主達だった点に、より大きな原因がありました。

 なにしろ彼らは、祖国から遠く離れたアジアで一旗揚げようともくろんでいる連中です。彼らを保護しなければならない立場にある英国大使オールコック自身が、彼らのことを「ヨーロッパのscum(滓)」と呼ぶような品性下劣な人間達が大半でした。

 しかも中国などで貿易活動に従事する間に、彼らは、アジア人というものは、怒鳴りつけ脅しつければ無理を聞くものだという固定観念を身につけていました。したがって、彼らの日本人に対する態度は、アジア人蔑視を絵に描いたようなひどいものでした。

 そうでなくとも、神国思想がはびこり、西洋人といえば動物にも等しい輩という偏見が日本人側にある訳です。そこに、その現物教育のようなひどい態度を見せられれば、問題が起こらないわけがありません。

 安政6(1859)年7月27日にロシア艦船の士官1名、水兵2名が横浜で殺されるという事件が皮切りになります。同年10月11日にはフランス領事の中国人下男が同じく横浜で斬られました。翌年1月7日に英国公使館付き通弁伝吉がその公使館前で斬られました。同年2月5日にはオランダ商船の船長等がやはり横浜で殺されました。こういう調子で、欧州人やその関係者と見られたものへの襲撃事件が相次ぎます。

 民衆はこれに喝采を送りこそすれ非難する者はいません。したがって殺人犯達は公衆の面前で悠々と犯行を行い、悠々と立ち去るのです。それにも関わらず、目撃者が見つからないのですから、犯人は誰一人として逮捕されません。

 このため、外国人の間では、これは幕府が犯人達をそそのかしてやらせている政治的殺人だという噂が流れる始末です。自然、在江戸外交団と幕府の関係はぎくしゃくしたものにならざるを得ません。

*      *      *

 このような困難な対外問題が山積みになっているのに、井伊政権は全くの無策でした。井伊直弼が暗殺されたとき、民衆が快哉を叫んだのは、こうした無策に苦しめられていたからに違いありません。これらの問題も、対処能力を持つベテラン官僚達をばっさりと大量処分したことから起きた問題である事は明らかです。

8. 軍艦奉行に見る人事の混迷

 話は少し戻ります。ポーハタン号に随行して米国に行った咸臨丸は、阿部正弘が嘉永6(1853)年にオランダに注文しておいた船ですが、これが日本に届いたのは安政4(1857)年のことでした。その翌年には、さらに朝陽丸と鵬翔丸がそれぞれ届きました。

 これらの船に乗せる将兵は、安政2(1855)年に阿部正弘が開設した長崎伝習所で、既に訓練中でした。そこではオランダからカッテンディーゲを始めとする海軍士官が訓練教官として派遣されてきていました。

 こうして艦船が届き、わずかながらも海軍らしきものが誕生し始めましたから、それに対応して幕府内部に海軍省にあたる管理機構も作らねばなりません。これが軍艦奉行で、安政6(1859)年2月に置かれます。高2000石ですから、外国奉行と同格の職ということになります。

 この軍艦奉行の、井伊政権下の人事を見ると、いかに井伊直弼が個人的な好悪の感情から人事を混迷させていたかが良く判ります。

 軍艦奉行の初代は、先に述べたように永井尚志です。永井尚志は、初代の長崎伝習所総督であったばかりでなく、長崎が江戸から遠すぎるために、江戸に開設した軍艦教授所の初代所長でもあります。したがって最適の人材といえます。井伊直弼としては、本来なら、岩瀬忠震や川路聖謨と同様に処罰したいところだったのでしょうが、何せ外に人材がありません。そこでやむを得ず、任命したわけです。

 しかし、井伊直弼は先に述べたとおり好悪の感情の強い人で、気に入らない人間を、部下として使用することができません。彼にこの年8月27日まで勤めさせますが、そこで罷免し、永蟄居を命じています。

 職務の特殊性を考えると、しかし、その後任として務まる可能性があるのは、いくら気に入らなくとも阿部正弘の抜擢したエリート達の外にありません。そこで永井尚志に代わって8月28日に任命されたのが、初代外国奉行の中でも最初に罷免されていた水野忠徳です。彼はこの年の10月28日までこの職にあります。が、そこで井伊直弼は辛抱できなくなり、西の丸留守居に左遷します。

 しかし、外に人がいないのですから、その後任としては、再び気に入らないエリート達の中から起用する外はありません。今度はすでに小普請奉行に左遷されていた井上清直を任命することになります。まさに猫の目人事です。

 彼になってようやくある程度直弼との関係が安定し、そうこうしているうちに肝心の井伊直弼が暗殺されましたから、彼はある程度長期に軍艦奉行を勤めることができました。

9. 井伊直弼の財政

(1) 財政状況

 阿部正弘や堀田正睦の時代には、新規施策に着手するだけで、あまり実際の財政負担は増大しませんでしたから、前章の終わりに書いたように、上納金等を命ずることにより、幕府財政は何とかやりくりできていたようです。

 しかし、井伊直弼の時代になると、歳出増が本格化してきます。すなわち、咸臨丸と朝陽丸はいずれも代価は10万ドルです。鵬翔丸については判っていませんが、これよりは安かったと思われます。いずれにせよ、この代金を支払わねばなりません。また、届いた以上、維持管理費もかかるようになってきます。これも、わが国国内にドックがないのですから、ちょっとした修理でも一々上海まで行かねばならず、かなりの額になったはずです。長崎伝習所の維持管理費やオランダ人教官達への給与の支払いも必要です。

 ところが、井伊直弼は勘定奉行として活躍してきたエリート官僚達を処罰したばかりでなく、外国奉行や軍艦奉行など重要な官職についても、担当者をくるくる変えるなどして、人事の迷走を引き起こしています。頻繁な人事交代は、事務引継その他でよけいな費用のもとになったばかりでなく、長期安定的な財政的施策を展開することを困難にすることは間違いありません。この点において、井伊直弼の無能ぶりは、これまでに紹介してきた歴代の権力者の中でもずば抜けているといえそうです。

(2) 安政の金銀改鋳

 では、そうした支出増をどうやりくりしたのでしょうか。新たな歳入源として海外貿易による関税収入が登場してきた事は間違いありませんが、貿易が本格化するのは万延元年からで、安政6年の段階では、輸出入を合計しても150万ドル程度ですから、関税収入は数万ドル程度にとどまります。したがって、井伊政権の財政に寄与するところはほとんどありません。

 結局、彼がやったことは、財政に無能な幕府官僚の常套手段である金銀貨の改鋳です。

 安政6(1859)年に発行した安政小判は、それまで最悪の通貨であった天保小判が1枚3匁あったのに対して、1枚2.4匁と2割も重量が減少している、というずば抜けて劣悪な通貨です。同時に安政一分金も発行しています。これは一枚0.6匁と安政小判の正確に4分の1の重量です。両者併せて発行量は35万1千両です。その2割ですから7万両程度しか改鋳差益がありません。もちろん、改鋳の対象がより古い文政小判や元文小判であれば、差益はもっと大きくなりますが、いずれにしても、この当時の幕府財政規模からすれば高の知れた金額です。この程度のわずかの利益のために金貨の改悪を行ったという汚名を負わねばならないくらい、この時の幕府財政が逼迫していたことが判ります。

 また、一分銀の改鋳も行っています。すなわち、それに先行する天保一分銀は2.3匁の純銀だったのですが、銀の含有量を87.27%に落としたのです。したがって、12%程度の差益を手に入れられるというわけです。こちらの方は、明治初年まで改鋳が続けられ、発行総額は2547万1150両に達しています。しかし、このうち、井伊政権下でどの程度の発行量になったのかは判りません。

 天保一分銀の改鋳による差益が、阿部正弘政権下でも数十万両に達する巨額であったことを考えると、それより若干差益を拡大した安政一分銀による改鋳差益が、井伊政権を実質的に下支えしていたと推定して間違いないでしょう。

 しかし、この劣悪な一分銀の発行が、わが国通貨の対外価値を引き下げ、先に述べたとおり、国内的に大変なインフレを生んだのです。経済を全く理解していない愚策という外はありません。

 井伊直弼という人については、先に人事面から、厳しい評価をかきましたが、財政面から見ても、国際化時代の幕府を背負う器量のない小人物と評価せざるを得ないわけです。

10. 桜田門外の変

(1) 密勅の返納問題

井伊直弼の実施した一連の処分で、もっとも危機感を募らせたのが、水戸藩士でした。藩主一家が全員、身動きもできないほどの厳しい行政処分を受けたばかりか、家老をはじめとして多数のものが刑事処罰を受けたのですから、無理もありません。井伊直弼という人物の執念深さを考えれば、今後も改めて処罰が繰り返されることも予想され、下手をすると藩そのものが滅亡しかねないという恐怖をもったのも無理のないところでした。

 事実、追い打ちをかけるように、幕府は、前年朝廷が水戸藩に下した戊午の密勅を朝廷に返納するように、という勅書を獲得することに成功しました。この朝命を伝える幕府の使者として、12月16日に小石川の水戸藩邸に乗り込んだのが、この時点では若年寄であった安藤信正です。彼は殺気立つ水戸家の家臣に取り囲まれながら、堂々と水戸慶篤と交渉して、勅書を幕府を通じて朝廷に返還するという約束を取り付けるのに成功します。これにより、その有能ぶりを井伊直弼に認められ、彼は翌年正月に、老中に抜擢されることになります。

 しかし、勅書返納というのは、単に友達から来た手紙を出し手に返す、というのとは訳が違います。特にこの戊午の密勅の場合、永年尊皇にいそしんできた水戸藩の、一つの到達点とでもいうべき重要性を持つものです。したがって、これを返却するということは、それまでの水戸藩の努力のすべてを否定するに等しい意味を持ちます。そこで、藩内の尊皇過激派が激高したのも無理のないところです。

 井伊直弼という人は、自分に反対する者は、徹底的に叩き付けないと気が済まない人です。

 普通、幕府評定所で審理する刑事事件の場合、寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行の三者が協議して判決原案を作ると、老中は、将軍の温情を示すため、その罪をいくらか減じて判決とするものなのです。が、安政の大獄において、井伊直弼は原案どおりどころか、場合によっては原案よりも数等重い判決を下しました。行政罰の実施にあたっても、政敵処分はともかく、忠実な官僚達まで処分する必要はなかったと思えます。

 そして、水戸斉昭等、直接の政敵を叩いたのは判るとしても、ぎりぎりまで追いつめようとしたのはやはり間違いであったという外はありません。松平定信も、田沼意次を、繰り返し執念深く叩たきました。しかし、田沼家は新しく成立したばかりの藩でしたから、いくら弾圧しても、平の藩士が牙をむいて来るというおそれはあまりなかったのです。が、徳川創業以来、天下の副将軍としての誇りを持つ水戸家となれば話が違います。

(2) 水戸家の内乱

 過激派の藩士は、藩主慶篤の説得にも関わらず、いうことを聞きません。老公斉昭が直接に説得すれば、あるいは効果があったかもしれません。が、斉昭は水戸で永蟄居となっているので身動きがとれません。そこで書面により説得を試みるのですが、それでは役に立ちません。

 斉昭はやむを得ず、過激派の中でも首領格の者二人を逮捕しようとします。しかし、二人はそれを知って出奔し、同志を集めます。最後の手段として斉昭は兵を出してこれを攻撃したので、彼らは支えきれずに逃げ散ります。安政7(1860)年2月の出来事です。

 水戸家では、このことを幕府に届けたので、幕府では、会津から房総半島にかけての諸侯に命じ、警戒態勢を取らせました。また、過激派が江戸に潜り込んだ可能性もあるとみて、井伊直弼に対して、登城の際の警備を厳重にするようにとの勧告が警備当局より出されています。

 しかし、井伊直弼は、幕法により定められた以上の供回りをつけるわけには行かないと、この勧告を拒絶しました。幕法遵守ということを旗印として安政の大獄を実施した井伊直弼としては、どうしてもそういわざるを得ない立場にあったのかもしれません。しかし、これにより惨劇の起こる最後の条件が整えられたわけです。

(3) 雪の桜田門

 井伊直弼は、安政7(1860)年3月3日、江戸城に登城の途中で、水戸脱藩士17名及び薩摩脱藩士1名の、計18名により襲撃され、殺されました。

 襲撃の合図として、浪士の一人が発射したコルト拳銃の銃弾が、井伊直弼の致命傷になったといわれます。彼の開国政策によって、浪士程度の者でさえそうした武器が入手可能になっていたというのは、歴史の一つの皮肉というべきでしょう。

 幕法の厳正な遵守という直弼の政治姿勢そのものが、彼の命取りになったということは、今ひとつの大きな皮肉です。

 戦国の世に、井伊の赤備えと多くの敵を震え上がらせた井伊家藩士も、すっかり太平の世になじんでしまっていました。このため、わずか18名の小勢に無惨に蹴散らされました。

 3月というのは現在の暦でさえ、もう暖かい時期です。まして旧暦ですから、新暦でいえば4月に入っている時期です。そのため、この日の天候は、季節はずれの大雪が降るというだけでなく、雪と雨とが交互に激しく降るという最悪の状況でした。このため、侍達は皆、雨合羽を着ていたのです。もしかすると刀には柄袋をかけていたかもしれません。そのため、襲撃されてもとっさに刀を抜くことができなかった、という悪条件にあったのです。しかし、事前に警備当局からの警告があったことを思えば、そのような身支度をしていたことは、やはり士道不覚悟と評価する外はありません。

 かろうじて小物一人が藩邸に駆け戻って急を知らせるというていたらくでした。井伊家から後詰めの一隊が現場に駆けつけたときには、既に浪士達は、直弼の首を切り取り、持ち去ってしまっていました。ここに井伊直弼の恐怖政治は頓挫することになります。

 安政という年号は、ペリーの再来日という大事件に震駭した朝廷が、今後の政治の安らかであることを祈ってつけられたものでしょう。しかし、安政年間は、条約交渉を巡る幕府と朝廷の衝突、安政の大獄、そしてこの桜田門外の変と、政治的事件が立て続けに起こり、とても安政とはいえる状態ではありませんでした。そこで、朝廷ではこの事件直後の3月18日に、年号を万延と変えます。

 普通、桜田門外の変は、万延元年3月3日といいますが、事件の起きた段階ではまだ安政でした。したがって、正確には先に述べたように安政7年3月3日と言うのが正しいのです。

 

第4章 安藤信正と幕府絶対主義

1. 井伊直弼遭難対策

 A 安藤信正の出自

 家康の頃には、幕府の行政制度は軍事体制そのままで、平時の体制といえるようなものはほとんど存在していませんでした。家康が死亡し、秀忠が名実ともに政権の座についたあたりから、実質的に平時における行政機構といえるようなものが徐々に成立してきます。このように考えた場合、幕府最初の老中(その当時は年寄りと呼ばれていましたが・・)は、酒井忠世(ただよ)、土井利勝、安藤重信の三人と考えるのが妥当です。

 陸奥岩城平5万石の藩主である安藤信正は、この初代老中の一人である安藤重信の子孫です。したがって、これまで紹介してきた阿部正弘や堀田正睦を上回る譜代の名門で、井伊直弼等に比べてもほとんど遜色のないといえるほどの名家の出身であることが判ると思います。

 この譜代の名門という意識は、彼の為政全体を貫くきわめて重要な要素となります。本章のタイトルに、幕府絶対主義と付けましたが、それはこの特徴によるものです。すなわち、それまでの幕府政治が、幕府と日本の利益を同一視するというスタンスから行われてきたのに対して、彼の下における為政は、両者の相違を意識した上で、幕府の利益を確保しようとする方向で動き始めるのです。この姿勢は、これ以後、幕府滅亡まで、一貫して幕府官僚の意識の底流に存在し、時に表面に吹き出す形で歴史の流れを乱し続けるようになっていきます。その最初の頁を開いたのが安藤信正だったのです。

 話は少しそれますが、れっきとした幕府官僚でありながら、これ以後の幕府官僚を支配するようになったこの思想と明確に一線を画し、幕府の利益を犠牲にしてでも日本の利益を考えるべきだという姿勢を明確に示したのが、勝海舟ということになります。

 安藤信正は、文政2(1819)年生まれですから、井伊直弼が遭難死した安政7(1860)年の時点では41歳。まさに男の働き盛りという年齢で、歴史の檜舞台に突如登場してきます。

 B 桜田門事件の正規取扱い方法の問題点

 井伊直弼暗殺の急報を受け取った幕閣では早速、老中達が集まって鳩首して相談しますが、善後策が立ちません。問題は、井伊、水戸両家に対する処分をどうするかという点です。

 これまでの幕府の慣習法によれば、藩主がおのれの不覚により一命を落とした場合や、生前に跡目を相続する者を決定せずに藩主が死亡した場合には、その藩は改易ということになっています。井伊直弼の死の場合、この両方に該当します。したがって、正規の取扱法に従う限り、譜代の名家である井伊家といえども改易は免れません。

 この時代には赤穂浪士の先例が厳として存在しています。したがって、そのような事態に至ったら、井伊家の家臣としては、おそらく武士の面目を立てるため、水戸家を攻撃してその藩主暗殺を謀らざるを得ないと考えるでしょう。しかし、天下の副将軍家と譜代の棟梁家が戦うような事態になって、そもそも幕府は立ち行くことが可能なのでしょうか。

 水戸家の方も、大老襲撃に参加した藩士達はその前日に脱藩届けを出したばかりで、当然まだ受理もしていない段階ですから、家臣取り締まりの責任を問わねばなりません。しかし、井伊直弼があれだけ徹底的に処罰した後ですから、これ以上の処罰をしようと思えば、藩主の切腹か、藩の改易くらいしか残っていません。御三家に対して、そのような処罰を行うことが、そもそも幕閣には可能なのでしょうか。

 C 安藤信正の打開策

 前章に述べたとおり、安藤信正は、水戸家との交渉ぶりが井伊直弼の気に入り、その年の1月15日に老中に昇格したばかりですから、単に末席であるばかりでなく、閣僚経験も2ヶ月に満たないという新参者です。

 しかし、井伊直弼という人は、少しでも自分に逆らう人には我慢できず、老中に対しても激しい粛正を繰り返していました。その結果、この時点で幕閣に名を連ねていた老中達は、いずれも井伊直弼が独断専行することにおとなしく追随することにしか能のない、小粒のイエスマンばかりとなっていました。ですから、先輩老中はこの降って湧いた大事件に呆然とするばかりで、何ら建設的な意見を出すことができません。

 そこで、信正は、実に簡単な解決策を提示しました。それは、大老は襲撃はされたが死んでいないということにしよう、というコロンブスの卵的奇策です。

 確かに井伊直弼が生きていてくれさえすれば、上記の問題はすべてなくなります。しかし、井伊直弼は単に暗殺されただけでなく、その首を切り取られて暗殺者によって持ち去られており、しかもそのことは、多くの庶民が目撃しているのです。それを承知で、法の建前としてはまだ生きていると言い張ろうというのですから、これは実に人を喰ったアイデアです。

 外に何の思案も浮かばないのですから、これが閣議決定となります。早速井伊直弼は病気引き籠もりと発表され、将軍家茂からは病気見舞いと称して朝鮮人参が届けられ、奥医師も派遣されて、首のない死体をしかめつらしく診察しました。彼の死が公表されたのは、翌月、閏3月30日になってからのことですから、形式的には2ヶ月近くもその死を秘していたことになります。

 D 久世=安藤政権の誕生

 この奇案の実施を一任されたことにより、安藤信正は、一挙に幕閣の指導的立場に立つことになります。

 井伊直弼は、安藤信正との対比でいえば、幕府の利益が即日本の利益と考え、そして幕府の利益とは彼が利益と認めたものという考えの下に独裁路線を突っ走って、幕府内外の関係を完全にこじれさせてしまった人物です。

 したがって、安藤信正として、幕府の利益を追求しようとすれば、そうしたこじれを解消することを目指すことがまず必要であることは判りきった話です。そこで、井伊直弼内閣の継承内閣であるにもかかわらず、どこかの国の首相と違って、閣僚を全員留任させようなどとは間違っても考えません。それどころか、幕閣から井伊色を完全に消すことを、積極的に狙っていきます。

 そのために、彼は、まず先任の老中3名のうち、特に無能な2名を罷免し、代わりに、井伊とは関わりのなかった老中2名を新たに任命しました。さらに、以前に井伊直弼と衝突して老中を辞職していた硬骨漢の久世広周を改めて、老中に迎え、しかも彼に老中首座の地位を譲り、自分自身は外国係老中について、久世の陰で実務に専念する体制を作りました。

 普通、高校などの歴史の教科書では、この時代を安藤信正が為政の中心となった時代と説明します。が、このように首相は久世広周なのですから、厳密には久世=安藤連立内閣というべきです。実際、久世広周は単なるお飾りの首相ではなく、かなりの実力派でした。安藤信正が失脚した後も、数ヶ月間、その地位で頑張り、様々な施策を展開するだけの力を持っていたのです。そこで本稿でも以下、久世=安藤政権と呼ぶことにします。が、政権の実権を握っていたのが、安藤信正であることは間違いありません。

2. 協調と宥和の政策

 安藤信正として、第一の政治的課題は、井伊直弼の一連の強硬施策によりこじれきった朝廷との協調体制を確立することです。第二の政治的課題は、これもこじれきった一橋派との宥和政策を実施するです。

 A 公武合体

 朝廷との宥和政策を、当時は公武合体という言葉で呼んでいました。昔も今も、家どおしの結びつきを強める常套手段は婚姻政策です。

 幸い、将軍家茂は独身であり、孝明天皇の妹にちょうど似合いの年格好の和子(かずこ)という女性がいました。彼女は弘化3(1846)年生まれです。新郎の家茂も同じ弘化3年の生まれですから、二人は同い年なのです。そこで、この二人を結婚させれば、もってこいの公武合体策になる、というわけです。

 なお、幕府創世期には、逆に将軍秀忠の娘が天皇家に嫁しています。偶然にも、その女性も和子という名前でした。日本史の教科書では「まさこ」と読ませることが多いのですが、私の同僚が徳川家に問い合わせたところ、ただしくはやはり「かずこ」と読むのだそうです。

 この婚姻政策は、元々は井伊直弼の策でした。ただし、井伊直弼は、皇室の外戚として朝廷に幕府が君臨する手段としてこの婚姻を考えていたのです。これに対して、安藤信正は朝廷との融和策としてこのことを考えたのです。行為は同じでも、両者の基本的姿勢の違いには、非常に大きなものがあります。

 朝廷との協調体制を作ることは、井伊直弼の大弾圧の後ですから、常識的にはきわめて困難です。が、この時は一つの幸運がありました。朝廷の中心人物、孝明天皇自身が、先の戊午の密勅の文章に見られるとおり、きわめて親幕的な思想の持ち主だったことです。

 孝明天皇としては、井伊直弼のような発想の下で、将軍家の姻戚になるつもりはありませんでした。そこで、井伊政権からの婚姻の申請に対しは、天皇は、当初反発を示します。が、安藤信正のような発想であれば、これは申し分のない婚姻といえます。そこで、同年6月には早くも降嫁を認める意向を天皇は示しました。

 翌文久元(1861)年10月に和子は関東に下り、同12月に結婚式を執り行いました。家茂という青年が非常に気分の良い人物だったこともあり、夫婦仲も問題はなかったようです。唯一の問題は、養父家定の処女妻だった島津篤子が、姑としての立場から嫁いびりをしたことくらいでした。政略結婚の犠牲者である彼女としては、同じように政略結婚でありながら、幸福な結婚をする事ができた和子が妬ましかったのでしょう。

 B 皇妹降嫁の悪影響

 こうして無事に終了した皇妹降嫁ですが、安藤信正にとってはこの婚姻の実施はよいことだけではありませんでした。それどころか、二つの時限爆弾をその中に秘めていました。

 一つは、この婚姻によって尊皇派の連中が親幕的になるどころか、逆に和宮を犠牲にする幕府の横車政策として、幕府に対する反感をいよいよあおり立てる作用をしたことです。ついには、皇妹降嫁は廃帝の奸策にでるものなり、というデマまでが飛ぶ始末です。これが後の坂下門外の変の、直接の原因となります。

 今ひとつは、婚姻許可の詔勅に、今後10年以内に攘夷を実行することという条件が明示されてしまったことです。安藤信正は、降嫁を実現したい一心で、この条件を受諾する旨の報答書を老中連名で朝廷に提出してしまいます。

 もっとも、これは単に朝廷の圧力に屈して心にもないことを言った、ということではありません。その頃になると、前章に書いた貿易による国内政治への悪影響は顕著に認められるようになってきています。こうした国内政治への大きな不安定要因が、結局、幕府を滅亡させることとなったわけです。このことは、その時点で現に政権を担っている者であれば、よほど暗愚でもない限り、当然に判っていたはずです。そこで、幕閣自身が何とか貿易を抑止したいという欲求を持つようになってきています。ですから、むしろ朝廷に対する公約をてこに、貿易制限に向かおうという狙いが存在していた、と見る方が妥当です。

 実は、この皇妹降嫁工作と同時並行で、安藤信正は、非常にスケールの大きな財政政策を展開しています。後に詳しく紹介しますが、国益会所という組織を作って、外国との貿易利益を幕府が一手に収めることにより、国内経済を統制すると共に、幕府財政を立て直そうというものです。

 先に連載した江戸財政改革史の中で、鎖国とは、そういう名の幕府による貿易統制策にすぎず、貿易制限という意味はなかったと説明したことがあります。そのことは、鎖国体制に移行してからの方が、わが国の貿易量は増大しているのだ、ということにより明らかなのです。

 それと同じように、ここで安藤信正が朝廷に公約した鎖港なるものも、そういう名の、幕府による貿易統制策と考えると、その後の幕府の行動が良く理解できるようになります。彼が朝廷の要求を飲んだ裏側には、むしろ幕府に有利な貿易体制を朝廷の権威を借りて実現しようという狙いが見え隠れしていると、私は考えています。

 しかし、条約に反する内容を、朝廷に対して、日限を切って公約してしまったということは大きな意味を持ちます。したがって、この公約の履行問題は、その後、信正だけでなく、幕府そのものの上に重くのしかかってくることになります。

 C 一橋派との宥和政策

 旧一橋派に対する融和政策も急ぐ必要があります。が、幕府の権威を守る必要もありますから、既に下した処分を撤回するには、それ相当の大義名分が必要です。

 信正は、水戸斉昭がこの年8月19日に死去したのを、そのための機会と認識して、融和策を実施に移します。すなわち、幕府はその喪を発するに先立って、まずその永蟄居を解き、ついで、尾張慶恕や一橋慶喜等の謹慎も解く、という形で、井伊直弼の行った一連の行政処分を解除したのです。

 しかし、これによっても、一橋派の恨みは残り、とても本格的な融和とはなりませんでした。安藤信正が失脚した後に、追い打ち的処罰が彼に対して行われますが、それは一橋派の井伊直弼に対する恨みの側杖とでもいうべきものでした。

3. 経済混乱の打開策

(1) 五品江戸廻送令

 前章に述べたとおり、わが国経済は開港と同時に大混乱に陥っていました。井伊直弼はそれに対して無策でした。

 安藤信正は、実質的に政権を担うことになった直後の、万延元(1860)年閏3月19日に、さしあたっての策を講じます。有名ないわゆる五品(ごひん)江戸廻送令として知られる命令を発したのです。例により適宜現代語訳しつつ紹介すると、次のようなものです。

「神奈川御開港、外国貿易仰せ出され候に付き、諸商人ども一己の利得にこだわり、競って相場をせり上げ、商品を買い受け、直接に御開港場へ廻し候に付き、御府内入荷の荷物が減少し、諸色払底に相成り、難儀いたし候おもむき、聞こえ候に付き、当分のうち、左の通り仰せ出され候

 一 雑穀、

 一 水油、

 一 蝋(ろう)、

 一 呉服、

 一 糸

 右の品々に限り、貿易荷物の分は、すべて御府内より相廻し候はずに候間、在在より決して神奈川へ積み出し申すまじく候」

 要するに、商品が皆神奈川(実際には横浜ですが・・)に行ってしまった結果、江戸が品薄になって庶民が困っているので、特に生活必需品である五品については、当分の間は、いったんは江戸に回しなさい、江戸で余れば神奈川に回すから、というわけです。ここで水油といっているのは灯油、つまり行灯(あんどん)等に使う菜種油で、糸とは生糸の意味です。

 確かに雑穀から呉服までの4品については、日用品で、こういうものが払底すれば、庶民の生活に響くだろうということは判ります。しかし、同時にこのような日本人の日常に密着した商品が、この時代に万里の波濤を越えて欧州やアメリカまで運ぶ貿易の対象となるわけはありません。したがって、開港のために払底するというのはおかしな話です。実際、この時期の輸出統計を見ても、そこにこれらの品は上がっていません(正確に言うと、蝋は若干輸出実績があります)。

 それに対して、生糸は全く事情が異なります。江戸に住む一般庶民が、機織りをして自分の衣類を生産するとか、江戸市中に機織り工場がある、とかいう事実は全くありません。また、普通の庶民は絹織物を日常に着る、というようなことはありません。したがって、生糸が江戸に流れ込まなくなったからといって、庶民が困るということは絶対にあり得ません。その生糸がさりげなく最後についているというところから逆に、この五品江戸回送令の本当の狙いが、実は最後の生糸だけにあることが判ります。

 しかし、このような法令をわざわざ出すことで、安藤信正は何を狙ったのでしょうか。これについて、従来の通説は、開港場に地方商人が直接輸出品を売り込むようになったので、それまで独占的にそうした商品を扱っていた江戸の特権商人が打撃を受けたところから、幕府を動かして出させた、と説明しています。そうであるならば、これは輸出抑制策ではありません。単に江戸商人の利潤確保策です。

 井伊直弼時代の幕府財政は、先に紹介したとおり、金銀の改鋳益に頼る以外、何ら具体的な歳入増加策がありません。したがって、火の車であったと想像されます。これが出された時期から見て井伊直弼時代の決定事項を安藤信正が単に承継したと見ると、上記説明が説得力を持ちます。

 すなわち、江戸商人達は、多額の上納金を行うことで、この法令を井伊直弼から引き出すことに成功していたが、実際の命令を発する前に暗殺されたという訳です。しかし、この時点では、井伊直弼は生きていることになっているのですから、安藤信正はその決定をひっくり返すわけにも行かなかったと思われるのです。

 そこで、五品江戸回送令に従い、在方荷主の荷物は確かに建前上は、いったんは江戸に回されますが、実際には単に問屋の送り状を受けただけでそのまま横浜に送られることになりました。江戸商人は、送り状の発行に当たって利潤が確保できれば満足で、生糸の現物を必要としていたわけではないからです。したがってこの時点での五品江戸回送令は、貿易そのものには影響を与える措置ではありませんでした。

 しかし、万延元(1860)年も後半に入ると、何とか貿易量を抑止しなければ、わが国産業はすべて壊滅的な打撃を受けかねないことが明らかになってきます。そこで、開港・開市に対して安藤信正は消極に転じ、妨害的とさえいえる行動を様々な場面で見せるようになります。

 そのような立場から五品江戸回送令を見ると、これを利用して生糸の輸出抑制に利用できるということに、久世=安藤政権は気がつきます。そこで、翌年になって改めて五品江戸回送令を出し直します。こちらの方は、厳しく遵守させようとし、実際ある程度の効果を上げたと私は考えています。ただ、このような間接抑制策であるために、具体的な効果が現れてくるのには時間がかかりました。すなわち貿易統計的には、翌文久元(1861)年に貿易量の落ち込みが若干見られる程度に過ぎません。また、当然、金貨の流出という事態の解決策にはなりませんでした。

(2) 万延改鋳

 経済の混乱状態を打開するには、井伊直弼が処分を行ったエリート官僚達を起用して対応させれば良さそうなものです。が、幕府としては、政権を有する者が替わったからといって、手のひらを返すように処分を撤回するのは、その権威に関わるという意識があるのでしょう、彼らに対する処分はそのままです。

 したがって、エリートの一人、水野忠徳も、この時期は、まだ実権を回復していません。只の西の丸留守居役で、通貨問題の担当者でもなければ、通商交渉の担当者でもありませんでした。おそらく名門の御曹司たる安藤信正には、政権を継承した直後の時点では、井伊直弼が断行したエリート官僚達に対する処分がもっている問題性を理解できていなかったために違いありません。

 が、現実に対外交渉を実施している外国奉行達にとっては、彼らエリート達の実力は十分に理解できます。そして、他のエリート達は自宅謹慎を命じられて動きがとれないのに対して、水野忠徳だけは、閑職であれ、ちゃんと江戸城に出仕できる地位にいたのです。そこで現職の外国奉行達は積極的に彼の存在を容認し、重要な外交交渉に際しては、屏風の陰に隠れて彼が傍聴することを認めていたといわれます。交渉の要所にかかると、屏風の裏からメモ書きが回ってきたそうです。このためにこの時期、彼には屏風水野というあだ名があったほどです。

 そうして得た情報を、その鋭い頭脳で分析した水野忠徳は、少しも自分の得にはならないのに、幕府の役に立つ様々な建議をこの時期、積極的に行っています。先に神奈川に代えて横浜開港を建議したと書きましたが、それもこうした活動の一つです。

 この万延元(1860)年4月には、物価の騰貴と金貨の流出という二つの問題を同時に解決するすばらしいプランを再び建議しています。これほど有能な人物を、西の丸留守居に留め置いた安藤信正の器量の限界というものを感じさせます。

 A 貿易レート問題と改鋳の関係

 ここで、なぜ開港に伴ってこのような問題が発生したかを改めて考えてみましょう。

 開港に伴って物価が騰貴する理由は、通商条約が採用している為替レートが実勢に見合っていないために、外国から見てわが国産品に割安感があるためです。したがって、レートを改訂すれば、輸出ドライブは阻止できます。

 基本レートは銀貨を決済単位として決められていますから、銀貨を改鋳して、より高品位にしてやれば、やっかいな対外交渉などしなくとも、自動的に為替レートの改訂ができます。例えば、銀1分=1ドルというペリーの時点のレートに戻せば、外から見たわが国物価は一気に3倍以上に跳ね上がることになりますから、激しい輸出はいやでも止まるはずです。

 また、なぜ金貨が流出するかといえば、銀貨をベースとする為替レートに基づく小判の価値に比べて、海外の金の取引価格が高すぎるからです。しかし、わが国銀貨の対外価値を高めれば、自動的に小判の対外価格も高くなり、金の流出はやはり止まるはずです。仮に上記のように、銀1分=1ドルとすれば、自動的に小判は4ドルという計算になりますから、海外よりも金が高くなり、うまくいけば流出した金が戻って来るくらいになるはずです。

 したがって、物価の騰貴も、金貨の流出も、銀貨の高品位化というただ一つの国内政策で解決可能ということになります。

 そもそも、こうした問題が起こった原因は、この時期の一分銀が、幕府通貨史の中でも、きわだって粗悪な通貨だったことにあります。

 先に財政改革史で説明したとおり、田沼意次は、純銀で南鐐二朱銀を鋳造することにより、銀で金貨を作るという離れ業を行い、これにより、金銀二重本位制を打破しようとしました。この南鐐二朱銀は1枚で2.7匁の重量がありました。

 しかし、家斉の浪費から疲弊した幕府財政を救うため、水野忠邦は天保一分銀の発行に踏み切ります。1分は4朱に当たりますから、一分銀は南鐐二朱銀の2倍の価値があります。ところが、天保一分銀の重量は2.3匁と、南鐐二朱銀よりも15%も軽いのです。この劣悪な一分銀は安政元年まで一貫して鋳造・発行され続けており、最終的な発行量は総計で4520万0589両、1億8080万枚になります。さらにそれより粗悪な安政一分銀も、井伊直弼によって、この前年から発行が開始されていた事は、前章に紹介したとおりです。

 B 南鐐二朱銀の復活案

 ここまで説明すると、水野忠徳のアイデアが理解できると思います。彼は南鐐を復活し、これを為替レートを決定する際の基本通貨とすればよいと考えたのです。南鐐はその重量から計算すると43セント程度に相当します。しかも南鐐は二朱ですから1両はその8倍、したがって3ドル43セント程度になります。つまりこれが基本レートになれば、日本通貨はそれまでよりも約2.3倍強くなり、輸出にも歯止めがかかるし、金の流出も止まるということになります。

 しかし、水野忠徳は、どうせもう一度改鋳し直すなら、ついでに南鐐を少し増量してぴったり50セントにあたるようにすればよい、と考えたようです。つまり1両=4ドルです。そこまでしておけば将来におけるインフレを考えても、まず問題が起こることはないからです。しかも、原料となる銀は、外国貿易によりいくらでも流れ込んでくるのですから、材料不足によって困ることはないはずです。

 日本史の本には、水野のこのプランに対してハリスが強硬にクレームを申し立てたので、この案はわずか10日で流れた、と書いてあるものがあります。確かに、ハリスとしてはそのような策を取られては日本と貿易するうまみがなくなりますから、クレームを申し立てたのは事実でしょう。

 が、私は、外国からのクレームがこのプランが流れてしまった真の原因ではない、と考えています。なぜなら、この水野プランの長所は、為替レートの変更を、外国との交渉ではなく、国内における改鋳という処理だけで行いうる点にあるからです。いくら外国から苦情が来ても、それは幕府得意の、いつもの時間引き延ばし策を取って対応すれば足りることなので、この抜本対策を放棄する必要はなかったはずです。

 C 幕府財政の改鋳差益依存問題

 私は、幕府の財政事情が、このすばらしいアイデアを許さなかったのだと考えています。先に天保13年及び弘化元年の財政収支を紹介しました。それらの年度では、構造的に歳出超過になっており、改鋳差益によりかろうじてバランスがとれていました。

 久世=安藤政権の時期の財政収支は判っていません。が、関税収入がある程度見込めるようになっていたにせよ、長期的な安定財源足りうるかどうかは、まだ幕府に判っていません。したがって、改鋳差益に依存するしか収支の均衡を図る手段がない、と依然として考えられていたはずです。劣悪な天保一分銀が、井伊直弼によって、より劣悪化された安政一分銀に変えられ、久世=安藤政権もこの改悪策を継続実施した理由は、そこにあるはずです。

 先に述べたように、この年、皇妹和宮の降嫁による支出が予定されていました。幕府としては、井伊政権によりこじれきった朝廷との関係を修復するため、金に糸目を付けない歓迎をするつもりでいます。そこで、この婚礼行列は総勢6000人という規模に膨れ上がり、これが中山道の全行程を旅する事にしたのですから、純然たる旅費だけでも莫大なものになります。

 しかも、勤王の志士による和宮奪回計画の噂があったため、幕府は沿道警備に計29藩の藩士を動員したのです。それに要した費用をすべて財政の疲弊している各藩に負担させるわけには行きません。下賜という形を取るか、貸し付けという形を取るかは選択の余地があるにせよ、何らかの形で現実の資金を諸藩に提供する必要があります。

 したがって皇妹降嫁の旅が、幕府財政にとって大変な負担になるであろうことは、勘定方には容易に予想がついたに違いありません。最終的にいくらかかったかは判っていませんが、後に将軍家茂が上京した際には直接経費だけで80万両かかっています。片道旅行であること等を考えても、やはり数十万両という巨額が必要になるはずです。

 こういう大口支出が予定されているときに、一分銀の発行によって発生する年間数十万両の収益を放棄する余力は、幕府にはなかったはずです。これが当初の水野構想がつぶれた原因と、私は考えています。

 D 万延改鋳の内容

 そこで、水野忠徳は改めて次善の策を建議します。為替レートの改訂はあきらめて、金の流出だけでも食い止めようというのです。小判が国内的には一分銀の4倍の価値しかないのに、それに含まれる金の量が国際水準から見て高すぎることが流出原因です。したがって、国際水準からみて一分銀の4倍程度しか金を含んでいない小判を発行すれば、いやでも金の流出は止まるという、コロンブスの卵的な発想です。こうして発行されたのが、万延小判です。

 E 小判改鋳小史

 万延小判がそれまでの幕府の通貨管理の常識から見て、どれほど突出して劣悪なものであるかを理解していただくために、これまで折に触れて紹介してきた小判改鋳の歴史を、ここで簡単に振り返ってみましょう。

 幕府創設時の慶弔小判は4.76匁で金の含有率は87%でした。綱吉の改鋳により悪名高い元禄小判は目方は同じ4.76匁でしたが、金の含有率を57%に落としたものでした。大岡忠相によって発行された元文小判は重量を3.5匁に落としていましたが、含有率は66%と若干改善していました。水野忠成による文政小判は、重量は3.5匁のままですが、含有率を56%と元禄小判並に落としました。水野忠邦の天保小判は、含有率は57%と文政小判並ですが、重量を3匁に落としました。井伊直弼により安政年間に発行された安政小判は、含有率は依然57%と変えていませんが、前章に紹介したとおり、重量はさらに減らして2.4匁となっていました。これによる改鋳差益がこの厳しい時期、幕府財政を下支えしてきたわけです。

 F 万延の豆小判

 この最後に登場した安政小判という、我が国歴代の小判から見れば驚くほどの低品位通貨でさえも、国際的に見れば、大変な価値があった点に、幕末最大の問題があるのです。万延小判は、一両小判の持つ国際価値を、当時の為替レート並に下落させることを狙いました。

 その結果、万延小判は、金の含有率は57%という点では安政小判と変わっていませんが、目方がなんと0.88匁と、当時大量に出回っていた天保小判と比べると29%、直前の通貨である安政小判の37%にまで落としてしまったのです。この37%という数字が、たびたび引用してきた一分銀の為替レートとほぼ一致しているのに気がつかれる事と思います。従来の小判の3分の1ほどの大きさなので、豆小判というのが通称でした。

 万延小判の総発行量は62万5050両です。金銀改鋳のやり方としては、新旧両通貨を、額面どおり等価交換する方法と、含む金の量の減少に応じて増付付きで交換するやり方とがあります。新旧通貨を等価交換すれば、幕府に改鋳差益が転がり込みます。が、民衆は交換に抵抗しますから、新旧通貨の交換は遅々として進まず、経済混乱の原因となります。これに対して、増付付き交換をすれば、すんなりと事務が進むことは明らかです。

 大岡忠相の主導で行われた元文改鋳は増付付き交換であったため、ほとんど経済に混乱が起こらず、長期安定通貨を作り出すのに成功しました。この万延小判の改鋳に当たっても、幕府はこの増付交換方式を実施しました。すなわち天保小判1両を万延小判3両1分2朱と交換するという、極めて正確な等価交換を行ったのです。改鋳手数料だけ幕府の丸損になるという英断を下したわけです。

 一気に目方を3分の1に落とすというドラスティックな改鋳であるにもかかわらず、比較的混乱が少なく、豆小判が順調に流通したのはこのためです。幕府としては、金貨の激しい海外流出を防ぐために実施する改鋳なのですから、改鋳差益を稼ぐというような目の前の利益にこだわるわけには行かなかったのです。そして実際、金貨の流出はこれにより立派に阻止されました。

 しかし、高品位二朱銀の発行に比べて、この方法はいくつかのはっきりした欠点がありました。すなわち、これは国内的に見れば平価の切り下げです。したがって、金貨で示される名目物価が単純に3倍以上に跳ね上がります。通常平価の切り下げで問題になるのは、それに伴う便乗値上げです。この場合にもそれが起こったはずです。困ったことに、激しい輸出ドライブに伴う物価の騰貴が同時並行的に起こっていますから、便乗値上げかどうかを確実に識別する方法はありません。この結果、一般物価の騰貴が一段と促進されたわけです。

 ただ、この時期の日本にとり、救いであったのは、日本では依然として金、銀、銅三重本位制が通用していた、ということです。金貨の価値が三分の一に下落すれば、当然、銀貨(一分銀など金貨の補助通貨ではなく、丁銀や豆板銀のことです。)はそれに対して3倍強くなったはずです。したがって、銀貨をベースにしている上方商人にはあまり大きな影響はなかったはずです。

 また、銅貨も同様に、3倍強くなったはずです。したがって、銅貨を生活の基盤にしている一般庶民に対しても、直接的にはそれほどの打撃にはならなかったはずです。

 おそらく、一番苦労したのは、金貨を生活の基礎にしていた武士階級だったでしょう。だからこそ、この時期以降、下級武士ないし郷士と呼ばれる人々を中核として、急激に倒幕に向けて気運が高まっていくことになります。

 歴史の教科書などではいとも無造作に、この万延改鋳が、一般庶民をも直撃した幕末における激しいインフレの原因と書いてあるものが目立ちます。しかし、この改鋳自体は、このように、インフレ原因とはならない性格のものです。

 しかし、現実に、この後も激しいインフレが庶民を苦しめます。その原因は、この改鋳が行わなかった点、すなわち対外レート問題にあったのです。銅貨などが中国の同種銅貨に比べて約4分の1程度に低く評価され、その結果、日本の商品に大変な割安感があったという事実は依然として残っていたのです。そこで、金貨の流出がやんだ後においても、あらゆる生活必需品が激しい輸出ドライブのために品薄になり、激しいインフレが続いていったわけです。

 G 少額金貨の発行

 南鐐二朱銀や一分銀の持つ根本的な問題は、国内的には金貨として通用するものであるにもかかわらず、銀で作られたものであるために、国際的には銀貨として評価されてしまう点にありました。これを解決するために、この時、幕府は、小判の補助通貨を一斉に金貨に切り替えました。すなわち、田沼意次以来、営々と続けられてきた金銀二重本位制への挑戦をこの時、幕府は止めたわけです。これにより発行されたのが、万延二分金、万延一分金及び万延二朱金です。

 このうち、万延一分金は、金含有率は万延小判と一緒で、重量が0.22匁と正確に1両の4分の1になっています。しかし、これではあまりに小さくて、通貨として日常使用するのに不便でしたからあまり通用しませんでした。そこで、発行量もわずかです。

 この点を考慮し、重量を確保する都合から、金22%、銀78%という比率の合金で発行されたのが万延二分金と万延二朱金です。8割までが銀なのですから、外国人達から金色をした銀貨と悪口を言われたのも無理はありません。二分金は重量が0.8匁と万延小判とあまり違いがありません。二朱金は、その正確に4分の1の0.2匁です。劣悪通貨として評判の悪かった一分銀の重量が0.6匁でしたから、これを回収して若干の金を加えれば二分金、すなわち国内における価値が二倍の通貨が作り出せることになりますから、大幅な改鋳差益を確保できたことは間違いありません。

 金貨の海外流出により通貨の絶対量が不足していた時に、激しいインフレが発生したのですから、日常生活で使われる貨幣自体が、従来に比べて高額化しました。それでも、日常生活では小判で取り引きされるということは滅多にありません。日常生活の中心となる少額取引に使いやすい補助通貨は、このように極端に低品位化した通貨の発行であるにも関わらず、国内的には歓迎されました。

 安政一分銀も引き続き発行され続けました。これの場合には洋銀を市場から回収して改鋳していたのではないかという説が唱えられています。ここからもかなりの額の改鋳差益が上がることになります。

 こうして、いわば外圧が追い風となって、大きな改鋳差益を幕府は入手することができ、今後の様々な歳出増を賄い続けることが可能となりました。

 文久元年の場合、二分金など金貨改鋳に伴う益金が143万1967両、一分銀など銀貨改鋳に伴う益金は14万0257両、計157万2224両といいます。もっとも、当然ながらこれは平価の切り下げにより3倍に跳ね上がった金額ですから、弘化の頃の歳入と比較する際には3分の1に割り引かねばなりません。それでも50万両程度に達する計算です。

 二分金は、明治初年まで発行が続けられ、最終的には計4689万8932両も発行されました。毎年同じ量を発行したわけでもないでしょうが、単純に割り算すると毎年600万両弱が発行された計算になります。改鋳そのものにかかる費用が不明なので、正確な差益額は判りませんが、文久2年以降は、おそらく毎年新通貨で200万両程度にはなったはずです。狂乱物価という大きな犠牲を払った代わりに、幕府はついに巨大な歳入源を手に入れるのに成功したのです。

(3) 関税収入

 万延元年に入ると、貿易も本格化してきます。同年の輸出総額は471万1千ドル、輸入総額は165万9千ドルに達しました。

 これにより正確にいくらの関税収入があったのかはわかっていません。仮にすべての輸出入品が一律5%の関税率とすれば、新通貨で120万両以上の関税収入があったはずです。

 安藤信正が五品江戸回送令を利用して輸出量の削減を計った翌文久元(1861)に若干輸出量が減少したことを除いては、この後明治維新までの間、輸出は毎年著しい伸びを示し続けます。また、輸入は例外なく毎年伸びています。

 したがって、万延元年以降、幕府の崩壊までの間、改鋳差益と並んで、関税収入は幕府の重大な財政基盤となっていくことになります。

4. 久世=安藤政権の財政政策

 久世=安藤政権では、上述した万延改鋳では、結局、水野忠徳が当初建議した抜本策ではなく、金貨の流出防止だけを念頭に置いた策をとらざるを得ませんでした。したがって、物価の暴騰や輸出ドライブなど、貿易から作り出された問題に対しては、別途対策を立てる必要が生じました。

 生活必需品が海外に流出することによる品薄がインフレの原因であることははっきりしているのですから、日本という立場から見た場合、対策としてはそうした生活必需品の輸出制限であることは明らかです。先に朝廷に公約した条約の撤廃は、それを目指したものです。

 しかし、幕府の利益を第一に考える久世=安藤政権では、対策の順序が変わります。先に紹介したとおり、貿易による関税収入は、すでにこの時期の幕府財政は無視できないほどに巨大なものです。したがって、とるべき経済政策は、貿易量を適当に維持しつつ、同時により一層の増収をもたらして幕府の財政再建に結びつくものである必要がありました。それには、貿易の全面廃止ではうまくないのです。貿易による利益が幕府にだけ流れ込み、同時に物価騰貴を沈静できるような、適切な経済統制手段を設ける必要がありました。

 これを単なる観念論にとどめず、実際に具体的な対策にまでまとめ上げたところに、この政権の偉大さがあります。幕末と呼ばれる、本稿に取り上げた時期で、明確な財政政策を持っていた幕府政権は、この久世=安藤政権だけです。その点だけからでも、この政権はもっと注目される価値があります。

(1) 国益主法掛の設立

 ここで要求される政策は、経済統制手段の機能があり、同時に貿易による利潤を幕府が独占する手段である、という二面的性格を持っている必要があります。このことを安藤信正は早くから承知していたと思われます。なぜなら、井伊直弼の死が公表され、久世=安藤政権が正式に発足した直後の万延元(1860)年4月の時点で、早くもその政策が着手されたからです。

 その経済統制政策の中核機関として、この時に設立されたのが「国益主法掛(こくえきしゅほうがかり)」とよばれる存在です。

 これは、町奉行、勘定奉行、勘定吟味役という従来からの経済官僚に加えて、大目付及び目付を加えて設立された行政委員会で、政策立案ばかりでなく、その実施作業にも当たる強力な組織です。そして、5月にはこの国益主法掛の担当老中として筆頭老中の久世広周自身を任命し、また、担当若年寄や専任職員の任命も行いました。

 A 目付について

 これまで本稿では、目付という官職についてはあまり触れてきませんでした。勘定所が財政担当機関、すなわち今日の財務省に、そして勘定吟味役が財政に関する監察機関、つまり今日の会計検査院に相当する機関であるとするならば、目付は人事に関する監察機関、すなわち今日の人事院に相当する機関です。

 一口に大小目付といいますが、実際にはかなり複雑な役職に分かれます。

 「大目付」は、大名に対する監察機関です。従前は4〜5名が定数とされていました。が、弘化3(1846)年以降、定数が10名に増員されました。3000石相当の地位ですから、町奉行や勘定奉行と同格の重職です。が、大名を監察する地位にあるため、城中では万石相当の待遇がされました。将軍に直訴でき、老中も監察対象になるという点で、他国に例を見ない、極めて強力な人事監察機関でした。

 大小目付という言葉からすると、小目付という官職がありそうですが、実際には存在しません。旗本に対する監察機関は、正式には単に「御目付」と呼ばれます。定数はこの当時10名でした。1000石高の職ですから、遠国奉行と同等で、500石高の勘定吟味役よりも重職です。

 また、御目付は、お目見え以下の地位にある幕臣を監察する徒目付(かちめつけ)及び御小人目付(おこびとめつけ)、御中間目付(おちゅうげんめつけ)等を統括する職でもありました。

 現在の人事院が、人事監察だけでなく、人事行政一般を司るように、大小目付も広範な人事行政権を持っており、その支配下には数百人の官僚がいて、江戸城内外に目を光らせていました。

 大小目付は、その職の性質上、勘定吟味役同様に、いかなる誤りも許されないので、廉直な人物であることが要求されました。このため、徳川時代を通じて一貫して門閥・門地にこだわることなく、人材の抜擢登用が行われてきました。幕府の官僚機構の中では、勘定所と並んで、実力主義の支配する世界といえます。

 実力のある者が実権を握るのが、官僚機構というものです。その結果、この時点ともなると、幕政の実権は老中、勘定所及び目付に握られているといってよい状況にありました。

 水戸斉昭の懐刀であった藤田東湖が、斉昭にその旨を進講したと、福地源一郎が書き残しています。なお、東湖は幕府における第4の実力機関として奥御右筆をあげているそうです。これについては、幕府財政改革史に述べたことがありますが、今日でいう最高裁判所調査官に相当する役職です。藤田東湖がこれを指摘したのは、幕府の最高裁判所である評定所の判決を左右する力を持っていたからでしょう。

 B 佐藤信淵と国益主法掛の政策

 国益主法掛は、この幕府の実力機関のうち、奥御右筆以外のすべてをとりまとめたものとして設立されたわけです。いわば、幕府の最後の切り札というべき強力機関です。

 国益主法掛が実施した政策は、非常に幅広いものです。が、それらが単なる思いつきではなく、江戸中期の経済学者佐藤信淵(のぶひろ)の経済理論に基づいて行われた、というのも、この国益手法掛の大きな特徴です。

 佐藤信淵の思想は、絶対主義的性格を持っていました。すなわち彼によれば、全日本はただ一人の君主とその下に統一される八種の産業に従事する平等な八民とに分かれ、膨大な官僚機構の下に強大な常備民兵を備えているべきものなのです。

 したがって、その基本思想自体が、幕府を強大化し、日本全体を支配しようとしている官僚達にとってはもってこいの理論であるわけです。政策の展開に当たり、このような統一的な理論的アプローチが行われたということは、幕府では最初で最後ということができるでしょう。「国益」というネーミングそのものに、この政策を担当した彼らの気負いが、ひしひしと感じられるではありませんか。

 国益主法掛は、設立されるや否や、極めて多方面にわたって活動を開始しました。その政策名をざっとあげると、諸士救済策、物価引き下げ令、荒地起返(あれち・おこしかえし=荒廃した休耕田をもう一度農地に戻す事業)、陶器輸出策、機械試造、玉川上水水元模様替え、糸価調節、国益会所の設立などがあります。これら、多方面にわたる様々な事業を実際に実施し、または実施のための調査を行いました。

 先に五品江戸回送令が、万延元年閏3月に出された直後と、後に再度布告された時とでは、遵守のさせ方に違いがあると述べました。これも国益手法掛による再評価の結果と思われます。

(2) 国益会所

 国益主法掛の打ち出した様々な政策の中でも、最も重要なものが国益会所(こくえき・かいしょ)の設立です。

 先に述べたように、幕府は米国との通称条約の締結に当たり、永年オランダとの間で行ってきた、長崎会所を通じた貿易体制を、米国に対しても拡大する、という方針で臨みましたが、ハリスに一蹴されて、自由貿易を飲みました。

 A 国益会所の意義

 自由貿易のままでは、しかし、関税収入の確保は可能でも、鎖国時代と違い、貿易利潤そのものを幕府が得ることは不可能です。そこで、条約ではできなくとも、国内法の整備により、実質的に会所貿易を実現できないか、というアイデアが生まれてくるわけです。

 したがって、国益会所は、幕府が国内の全市場を支配するための中心機関となるべきものです。これを通じてすべての輸出入品を幕府の支配下におくことができれば、幕府は開国による利潤を独占することができるわけです。それは同時に国内の流通を統制する事を意味しますから、狂乱物価を抑制するなど、経済混乱の防止にも繋がります。

 この国益会所に、もっとも確実にその機能を発揮させるには、条約締結以前の鎖国体制に戻すことが一番です。そうすれば、いやでも貿易を幕府が完全に統制することができるからです。相手国が、オランダ一国であった状態から、イギリスなど多数の国に増大した状態へ移行した上で、それを幕府が一元的に統制できれば、それによる利益は長崎会所の比ではありません。ここに、久世=安藤政権が横浜鎖港という政策を打ち出し、朝廷に対して公約した真の理由がある、と私は考えています。

 B 理論対立と目付の敗北

 この国益会所への諸国の産物の買い集め方式を巡って、国益主法掛の二本の柱というべき勘定方と目付達との間に、深刻な理論対立が生じてしまいました。

 目付は、その官職の性格上、強権的な行き方を好みます。そこで、「すべての商人を管轄して、一挙に利権を官に帰せん」と主張します。

 これに対して、永年商業資本とつきあい、商業活動の難しさというものを知悉している勘定方は反対し、「不馴れの官吏をして俄かに商を括り、天下の方物を全括して漏らさざらん事は、勢い危うきを以て、まず商と相和し、これを懐口にして使い、漸を以てその利権を移し握らん」と主張しました。すなわち、最初から官吏がやろうとすると失敗するから、まず商人にやらせて路線を確立した上で、徐々に官に権限を移行しよう、というわけです。

 この結果、目付=急進派と勘定方=漸進派の対立となったわけです。

 久世広周は、最終的に、漸進派を以て妥当と判断しました。しかし、彼が決断を下すまでの間に、この対立があまりにこじれてしまったため、9月には、大小目付は全員が国益主法掛を罷免される、というところまで事態は発展してしまいました。幕府の実力派官僚のすべてを投入する、というプランはここに崩壊し、国益主法掛は片肺飛行になってしまったわけです。

 C 国益会所の廃止

 勘定方の下で、しかし、国益会所プランは順調に発展しました。このプランは最終的には全国の産物を江戸及び大阪に設ける会所によって総括しようという壮大なものです。しかし、さしあたりは江戸に会所を設立し、諸藩の物産と関八州、甲信及び伊豆の産物を豪商を手先にして買い集めようというものでした。

 12月には会所頭取が任命され、翌文久2年2月に国益会所が正式に発足しました。5月からは実際の事務を取り始めたのです。

 が、7月になって会所そのものが廃止されます。その理由は単純で、詳しくは後に述べますが、この構想の推進役であった安藤信正や久世広周など、久世=安藤政権を構成していた老中のほとんど全員が、その3月から6月までの間に失脚してしまったからなのです。

 商業を全面的に国家がコントロールしようという考え方は、最近では、ロシアや東欧圏諸国が押し進めて、結局失敗したことに明らかなとおり、基本的には無理の多い話です。しかし、この当時は、諸藩がいずれも財政危機乗り切りのため、同様の施策を展開し、成功していたわけです。

 したがって、少なくとも当初計画が念頭に置いていた天領部分については、十分に成功の可能性があったといえるでしょう。そして、部分的にしか成功しなくても、幕府には莫大な利潤が確保できたはずです。安藤信正達の失脚により、幕府は、惜しまれるチャンスを逃したといえます。

5. 久世=安藤政権の軍事政策

 幕府は基本的に軍事政権ですから、幕府が今後も存続し、一層支配力を強めていくためには、その軍事力の強化が絶対に必要です。そこで、久世=安藤政権にとっての急務は、幕府の戦闘能力を回復するということです。

 ところが、この時点での幕府の軍制は単に旧態依然としている、という程度の生やさしい状況ではありません。人事が門地、門閥、年功序列によって行われていた結果、前線指揮官であるべき地位に老人が多数いて、ものの役に立たないという状態でした。

 そこで、文久元(1861)年2月にまず御旗奉行、槍奉行、持ち頭及び先手という軍事上の重職であり、したがって長く平和が続く中で形骸化し、老人ばかりが任命されていた職に「極老の者」を任命しないこととしました。しかし、これはいわば急場の対策にすぎません。その程度のことでは、対外国軍との戦闘はもちろん、国内戦でさえも、とうてい満足に遂行できる状況にないことは、誰の目にも明らかです。

 そこで5月になると、積極的な軍制改革を行うことに決めました。その中核組織として、「海陸御備え並びに軍制取調御用」という委員会を発足させ、軍制改革構想を検討させたのです。このように、組織を素早く整備する、という点も、久世=安藤政権の大きな特徴と数えて良いでしょう。この委員会には、勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行及び大小目付という実力派を委員としたという点、国益主法掛と一緒です。この委員会には小栗忠順や勝義邦(海舟)等、後世に名を残す実力者が多数、委員として加わっていました。

 阿部正弘が、挙国一致体制の下でわが国防衛力の強化を図ろうと考え、様々な禁令を解除したことは先に触れました。これに対して、この委員会では、幕府の軍事力のみを強化することを目指したという点で、これも大きな方針の転換です。

 この軍制改革案は、軍制を完全に洋式のものに切り替えるという壮大かつ抜本的なものでした。すなわち陸軍については歩兵、騎兵、砲兵の三兵計1万3625人の常備軍の設立を目指します。海軍については、さしあたり、江戸及び大阪防衛のため2艦隊(艦船43隻、乗組員4904人)を作り、将来的には日本の沿岸全体を防衛するため、6艦隊(艦船370隻、乗組員6万1205人)を編成しようというものです。財政的にどこまで可能かはともかく、各艦隊ごとに艦種を想定し、各艦ごとの水兵の端数までも計算するという点で、大綱案であると同時に、精密な立案でもあったわけです。

 司馬遼太郎の『龍馬が行く』の中で、海舟を暗殺しようと訪ねた龍馬を相手に、海舟が海防論を説いて、逆に弟子入りさせる感動的な下りがあります。あそこで海舟が龍馬に見せたプランこそ、この「海陸御備え並びに軍制取調御用」委員会の研究の成果だったのです。

 これほどの大計画は、存続期間の短かった久世=安藤政権では、その具体的な実施にまで着手する時間的余裕がありませんでした。しかし、その後、幕府が存続する限り、続けられた軍事力強化努力は、この計画に則って行われました。その方向付けを決定した、という意味で、この政権の軍事面での努力を無視することはできません。

6. ヒュースケン殺害事件とその波紋

(1) プロイセンとの通商条約問題

 井伊直弼の暗殺後も、攘夷派浪人による外国人襲撃事件は後を絶ちません。万延元年9月には、フランス公使館員でイタリア人のナタールが傷害されています。しかし、何といっても当時江戸にいた全外交官を震駭させたのが、同年12月5日に起きたヒュースケン殺害事件でした。これは、かれがプロイセン使節団のために通訳活動をしている最中に起きた事件でした。

 プロイセンが東アジアに進出を考え、議会で承認を得たのは1843年のことですから、米国よりかなり早かったのです。しかし、それが実際に実現したのは1859年のことでした。欧州からの万里の波濤を越えて、特命全権大使オイレンブルク伯爵が横浜港に入港したのは万延元(1860)年7月19日でした。すなわち、安政の五カ国条約を決行した井伊直弼が暗殺された半年ほど後です。

 プロイセン使節団は、7月23日に上陸して赤羽接遇所に入り、通商条約の締結交渉に入ります。しかし、準備の悪いことに、日本側と言葉の通じる通訳を用意していません。そこで例によってハリスが申し出て、ドイツ語の堪能なヒュースケンが通訳を勤めることになりました。ですから、この時期、ヒュースケンは毎日のように接遇所に通っていたようです。接遇所は、米国公使館のあった麻布善福寺からは、歩いても10分くらいの距離でした。

 しかし、この条約交渉は難航しました。この時政権を握っていた安藤信正としては、その前月、10年以内の攘夷決行を条件に孝明天皇から皇妹降嫁の許可をいただいたばかりです。それは先にも述べたとおり、幕府そのものの長期構想でもあります。したがってそれとは逆方向の、貿易相手の拡大は、国益会所がきちんと機能を開始するまではやる気がありません。その結果、間違ってもプロイセンと修好通商条約を締結するつもりはなかったからです。

 この時期、ハリスは在江戸外交団のリーダーと自認しています。そこで、その地歩を固めるため、ハリスはプロイセンに対して助け船を出しました。

 先に述べたとおり、井伊直弼は、安政の5カ国条約で、神奈川開港の半年後の1860年1月1日の新潟開港を皮切りに兵庫の開港や江戸・大坂の開市場を行うと約束しています。安藤信正としては、プロイセンとの条約を締結できないのと全く同じ理由で、新潟開港以下の条約条項の遵守もまた、することができません。

 そこでハリスは、もし幕府がプロイセンと条約を締結するならば、神戸・新潟の開港及び江戸・大坂の開市については延期しても良い、と申し出たのです。

 そういう条件であるならば、安藤信正としても、たとえ短期的には孝明天皇が激怒するという問題を抱えても、長期的には好ましい結果が得られるわけですから、プロイセンと条約を締結することを考慮する余地はあったのです。

 もっとも、これについては順序が逆である可能性もあります。つまり、安藤信正が先にハリスに開港開市延期問題について泣きつき、ハリスがその代償としてプロイセン問題の解決を要求した、ということです。どちらであれ、この二つの異質の問題がハリスの手でワンセットにされたことだけは間違いないようです。

 そこで、このハリスの介入をきっかけに、プロイセンとの条約交渉は進展を見せ始めました。安藤正信は、函館から井伊の粛正を無傷で生き抜いた唯一の初代外国奉行である堀利煕を呼び寄せて主席代表に据え、また金貨の海外流出などでその冴えを見せた水野忠徳を、再度外国奉行に起用して、次席としてこれに当たらせたのです。

(2) ヒュースケン殺害事件

 ヒュースケンは、問題の万延元(1860)年12月5日の夜も、9時近くまで接遇所にいてプロイセン側と折衝し、馬で公使館に帰りました。3名の騎馬の武士が警護に就き、4名の下僕が提灯をもって付き従っていたということですから、必ずしも警備が手薄だったわけではありません。しかし、7名ほどの者に襲撃されて重傷を負い、その夜のうちに死亡しました。

 犯人について、当時はプロイセンとの交渉における主席全権である堀利煕の家臣という噂が立ちました。というのは、その直前の11月8日に、堀利煕が謎の自殺を遂げており、その原因がヒュースケンとの衝突だという噂が流れていたからです。

 当時の駐日イタリア大使が書いた「伊国使節アルミニヨン幕末日本記」という書は、次のような噂を伝えています。堀はヒュースケンに対して、その夜歩きが頻繁な事を、外国人の警備責任者としての立場から注意したのに対して、ヒュースケンはまことに横柄な態度で、「自分は外出したいときにはいつでも外出する。自分に刃向かう者があれば、いつでも撃退してみせる。」と公言したというのです。

 実際、ヒュースケンは日本人全体に対して、一般に見下した態度が目立ったようです。この返事に、堀は激怒し、安藤信正に対してヒュースケンを排除するように求めました。が、安藤がこれを退けたため、怒りのあまり堀は自殺した、というのです。そこで、これを遺恨に思った彼の家臣が、ヒュースケンを襲撃したのではないかと思われたわけです。

 もっとも堀の自殺原因については、福地源一郎は「幕府衰亡記」の中で違う説を書いています。幕府としては、ハリスの周旋により、プロイセンとは条約を締結するが、他の国との条約は、依然として峻拒するという方針だったのです。ところが、この当時、ドイツはプロイセンにより統一の過程にあり、この時点においては、プロイセンはドイツ関税同盟の盟主となっていました。そこで、条約書には、プロイセンの外、関税同盟に属する各国の名が書かれることになったのです。その数、実に18カ国です。プロイセンを除けばほとんどが重要性を持たない小国である、ということは、ここでは問題になりません。これまでに5カ国と条約を結んだことが問題になっているのに、さらに一気に18カ国と新規条約を締結するのは、あきらかに朝廷にした公約への違反です。

 そんな重要なことを、条約交渉が最終段階に入るまで、主席全権の堀が気がつかないでいた訳です。それでは安藤として、孝明天皇に対して顔が立ちません。そのことを安藤が怒って、激しく堀を叱責したことから、堀が責任をとって自殺したというのです。

 当時、福地源一郎は水野忠徳の部下です。その水野の実見談ということですから、こちらの方が確度が高いと思われます。

 ヒュースケン殺害の真犯人は、後になって薩摩浪士であることが判明しました。ヒュースケンを暗殺すれば、それにより幕府と列強の間がまずくなり、幕府が窮地に立つだろうということを狙って行ったものです。

 これまであった外国人襲撃事件は、先に述べたように、アジア人蔑視の姿勢を見せる西洋人に対する感情的な反発から起きたものでした。それに対して、この事件は、外国人との関係では初めての政治的暗殺事件ということになります。そして、その犯人達の狙いは見事に当たりました。

(3) 在江戸外交団の横浜引き上げ

 ヒュースケンの死は、幕府としては十分警護をしていたにもかかわらず、本人が不用心に出歩くということを繰り返したことから起きたのは明らかです。したがって、幕府として責任を負うべき筋合いのものとは思えません。

 が、先に述べたように、外国人襲撃事件が頻発することに加え、その犯人が一人も捕まっていませんでした。そういうことから、外国人側では、幕府による政治的暗殺ではないかと疑心暗鬼になっていました。つまり、幕府が暗殺からの警備を理由として、公使館警備の陣容を大幅に増強したため、公使館としての情報収集などが極端に不便になったからです。

 そこにヒュースケン事件が起こったものですから、外国人達が過剰反応を起こしたのも、ある程度は無理のないことです。そこで幕府は、害意のないことを示すポーズとして、急ぎプロイセンとの話し合いをまとめ、事件の10日後の万延元年12月14日には通商条約を調印しました。

 しかし、そのくらいのことでは、外国人達の動揺は収まりません。幕府が新潟開港を実施しようとしないのに腹を立てていた英国公使オールコックは、この機を捉えて、英国公使館にフランス及びオランダの代表を集め、数時間にわたって談合をしました。つまり、ヒュースケン事件に借口しながら、その直接当事者である米国の代表をわざと呼ばずに会議を開いたのです。米国に取って代わって、対幕交渉の主導権を持とうとする英国の野心が端的に見て取れる行動です。

 そして、幕府には外国人を保護する能力も誠意もないので、一時横浜に引き上げ、海兵隊の力を借りて自衛の道を講じようと決定しました。本来、在外公館は相手国の首府に駐在してこそ、その存在の意義があります。それを首府から一斉に離れるというのですから、かなり異常な決定です。

 オールコックはこれにより様々な狙いを同時に実現しようと考えていました。

 第一に、ハリスが勝手に約束した、開港・開市延期をもう一度元に戻すための圧力ということです。先に述べたとおり、日本の開国により最大の利益を上げているのは、先鞭を付けた米国ではなく、英国の商人です。彼らは、当然の事ながら一日も早い全面開国を待ち望んでいたわけです。ハリスが開港開市の延期を、自分と直接の利害関係がないプロイセン問題と結びつけて受諾したのも、漁夫の利を占めたイギリスへの憤りにあることは間違いないでしょう。

 第二に、それによりハリスの顔を潰すことで、これまでハリスが務めていた在日外交団の幹事役をオールコックに奪い取り、英国の対日影響力を増大しようということです。

 第三に、領土的野心です。横浜の外国人居留地を、中国における外国人租界のように、自らの武力で守る治外法権の地とすることを狙ったのです。

 特に、第一、第二の狙いが大きかったことは、本当の当事国であるはずの米国を除外してこの会談を開催したことに、良く現れています。

 万延元(1860)年12月16日に、オールコックはさっさと英国公使館を横浜に移転してしまいます。これを知った幕府は驚倒し、困惑しました。

 ハリスは、自分をあえて招かずになされた列国公使館を横浜に移すという決定には、絶対反対でした。何より、そのまま横浜移転に追随したりすれば、それまで2年近くもかけて営々と築いてきた在日外交団の幹事という地盤を失うことになります。そこで、オールコックに手紙を書いて巻き返しにでます。

 手紙の中でハリスは、第一に自分は江戸での居住に何ら不安を感じていないこと、第二にヒュースケンの死は、夜間外出が危険であることを幕府が繰り返し警告しているのに、これを無視したためであること、そして第三にその少し前にイタリアのナポリで起きたフランス公使暗殺事件にも関わらず、列国がナポリから撤退していない事実等を指摘しました。さらに、フランス公使やオランダ公使にこの手紙の内容を伝えて、彼らの了解を求めたのです。

 在外代表部が、その首都にいないというのはどう考えても異常な事態ですから、各国は結局ハリスに同調しました。こうして、オールコックの、少々非常識なデモンストレーションは失敗に終わり、万延2(1861)年1月21日には英国領事館自身も江戸に復帰する羽目になります。なお、この年は2月19日に年号が文久に変わります。

 したがって、この事件は、結果として、いたずらに在江戸外交団の中におけるハリスの優位性を高めただけに終わりました。

(4) ヒュースケン事件の後始末

 他方、ヒュースケン暗殺のニュースがワシントンに届くと、米国政府は、英・米・蘭・仏・露の軍艦をもって日本沿岸で軍事デモンストレーションをするように指示してきました。米国政府が、この時点でも、ペリー以来の砲艦外交を信じていることがよくわかります。硬軟取り混ぜた英国の外交に比べて、米国の姿勢が柔軟性を欠いていることが判ると思います。が、ハリスに直接動かせる艦船を与えたわけではありません。翌1861年から南北戦争が始まる、という時期なので、そんな余裕は米国政府にはないのです。

 したがって、ハリスとしては、この訓令に従うには、他国、特にイギリスを動かす以外に方法はありません。が、江戸に居住していても何ら問題はない、と断言しながら、そういう要請をすることは、彼とオールコックの関係がこじれきっているこの時点では、不可能なことでした。

 するとアメリカ本国は、それに代わる措置として、日本政府からヒュースケン暗殺に対する誠意ある回答を引き出すように指示しました。ハリスはそれを、日本から賠償金を取り立てるように、という意味の指示と考え、その後数ヶ月かけて幕府と交渉しました。これは、ヒュースケンの死は彼の自業自得であり、幕府に責任はない、と各国公使宛に公言したハリスとしては、実に変な行動です。

 先のイギリス公使館移転騒ぎなどでハリスに借りがあると感じていた安藤信正は、しかし、この交渉に結局応ずることにし、文久元(1861)年10月23日になって、1万ドルの賠償金を支払うことを承諾しました。関税収入の洋銀を直接これに充てて交付したようです。

 しかし、これは歴史的に見れば、大きな失敗でした。これにより幕府は外国人の襲撃事件で賠償金を支払うという前例を作ってしまったからです。以後、襲撃事件の都度、列強から賠償金をゆすり取られるようになります。そのピークが下関砲台砲撃事件で、幕府はその莫大な償金に苦労し、債務の大半を支払いきれずにいる間に滅亡して、明治政府に引き継いでしまうことになります。

7. 英国の対日政策の転換

(1) ロシア艦対馬占拠事件

 万延2(1861)年2月3日、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来て、そのままそこを占拠し、アジアの拠点としようとした事件が起きました。この時点で、幕府にはこれを強制退去させるだけの実力はありませんから、幕閣は狼狽しました。

 4月になって、ようやく遣米使節の一員としてワシントンから戻って間のない小栗忠順(ただまさ)を対馬に派遣しました。この間に対馬では、ロシア側が暴行や略奪を繰り返すことに対して、住民が怒って抵抗運動を展開し、死傷者を出していました。しかし、小栗忠順はきちんと退去を要求するどころか、ロシア側に脅かされて「拙者どもかぎりでは取り扱い候あいだ、急速江戸表へ立ち帰」って指示を仰ぐと称してそうそうに逃げ出し、指示のあるまでの間は「なるたけ穏便に取り扱い申すべく候」と通達する、という弱腰ぶりです。小栗忠順という人は、官僚としてはかなりの才人ですが、こういう厳しい状況に即応する能力までは持っていなかったようです。

 しかし、幕府以上に狼狽したのが英国公使オールコックです。クリミア戦争に敗れたロシアが、西への進出を諦めて、東に矛先を向けていることは明らかでした。この極東におけるロシアの脅威に対し、オールコックとしては早急に何らかの手を打つ必要がありました。彼は、ロシア艦が退去しない場合には、イギリスも対馬を占領して日本海における拠点にしようと意思を固めて、指揮下の軍艦オーディン号を派遣してロシア艦を威圧しました。この結果、8月に、ロシアは退去したので、イギリスによる対馬占拠という事態も起こらずに済みました。

 幕府は単純にオールコックがロシアを追い払ってくれたと考えたものですから、これにより、オールコックと幕閣の間に一定の信頼関係が生まれたことは確かです。

(2) 第1次東禅寺事件とその波紋

 幕府に対するオールコックの姿勢が大きく変わるのは、しかし、皮肉にも彼に対する攘夷浪士による襲撃をきっかけとしました。

 朝廷は、この万延(1861)2年の2月19日に早くも改元し、年号を文久とします。その文久元年5月28日夜、英国公使館のおかれていた高輪の東禅寺が、水戸浪士17名によって襲撃されたのです。

 この時点では、東禅寺の警備の主力は、旗本の子弟で編成していた別手組40名でした。この他に、中門の外を大和郡山藩が、また、裏手を三河西尾藩が警備しており、両藩併せて200人近い人間がいました。

 この厳重な警備の中にわずか17名で切り込んだのですから、まさに決死の覚悟といえます。実は、この水戸浪士達は、戊午の密勅返納に反対して、斉昭により追われた一派の残党です。すなわち、井伊直弼暗殺者の仲間ということです。幕府の厳しい残党狩りに将来の展望を失い、派手な死に場所を求めて切り込んだのでしょう。

 浪士達が、寺院内にどのように潜入したのかは判っていません。公使の寝室近くまで侵入したところで発見され、警備陣と斬り合いになります。結局、犯人のうち3人がその場で殺され、2人が重傷を負って捕縛されました。また、幕府は、事後に、直接襲撃したものばかりでなく、その一味も多数逮捕することに成功しました。

 英国人では、第一書記官のオリファントと、たまたま来訪していた長崎領事のモリソンが負傷しました。そのほかは、無事でした。が、警備陣は合計で20人以上の死傷者を出したのです。

 それまで、オールコックは幕府の行っている厳重な警備は、外国人を監視する事をかねての嫌がらせくらいに考えていたのです。が、目の当たりに浪士達の襲撃の恐怖を見て、考えが一変しました。確かに、貿易反対派の力は侮りがたいものがあり、したがって安易な開港場・開市場の拡大は、イギリスが条約を締結している相手政府を崩壊させるという悲劇の元となりかねないことを、はじめて理解したのです。

 もっとも、理解したということと、列強としての利権を確保することは別です。すなわち、オリファント、モリソンに対する賠償金ということで、オールコックは、ヒュースケン事件の先例に倣い、1万ドルづつ、計2万ドルを幕府からゆすり取っています。

 この東禅寺はさらに翌年5月にも襲撃されます。こちらの方は、その時期に東禅寺の警備を担当していた松本藩藩士1名が、やはり公使の寝室を襲おうとしてイギリス人水兵に発見され、水兵2名を斬殺し、自らも自殺した、というものです。この事件でも、幕府は賠償金として1万ポンドをイギリスから強請り取られています。

 この二つの東禅寺襲撃を区別するため、先に書いた水戸浪士による襲撃を普通第1次東禅寺事件と呼びます。

(3) 遣欧使節の派遣

 A 遣欧使節派遣までの経緯

 少々話は遡ります。ハリスの画策により実現した、この前年2月の遣米使節の出発を、オールコックは焦慮の念で見送っていました。それにより、米国が日本における主導権を確立することができることは明らかだからです。

 しかし、練達の外交官らしく、オールコックは直ちに失地の回復に取りかかります。すなわち、遣米使節がまだ出発の準備に追われている段階で、早くもオールコックは、江戸における米国の優位性を突き崩すべく、英国の外務大臣に、遣英使節招待案を書いて送っているのです。

 その後、井伊直弼が暗殺され、久世=安藤政権になるとともに、幕府ははっきりと貿易に対して消極姿勢を見せるようになります。オールコックは、自由貿易主義の優越性を信じていますから、その立場から何とか幕府を説得しようとします。しかし、幕府は攘夷浪人の横行や朝廷の反対を理由に、新潟等の開港・開市はおろか、横浜の鎖港までもほのめかす始末です。その結果、開港を促す交渉は完全に膠着状態に陥ってしまいます。

 そこで、オールコックとして考えられる唯一の打開策は、遣英使節の誘致ということになります。日本の為政者に欧州文明の優越を見せつけることで、攘夷や鎖港という政策は、時代に逆行するもので、列強側としては、到底受け入れ不可能であることを知らしめようというわけです。

 ちょうどロンドンで1862年5月から国際大博覧会が開催されることになっていました。だから、それにあわせて日本代表がイギリスに行けば、欧州の文明を一度に見ることができます。またそこで日本の優れた工芸品を展示することにすれば、日本からの輸出促進にも繋がると考えたわけです。

 幕府に打診したところ、幕府は喜んで応じてきました。ただし、幕府側の思惑は、オールコックとは全然別のところにあります。つまり、和宮降嫁を実現する際に、10年以内に再び鎖国体制に戻すという事を朝廷に公約しています。そこで、そのための了解を遣欧使節を派遣することで、本国政府から取り付けようというわけです。

 しかし、先に述べたように、東禅寺の襲撃にあうことで、オールコックの意見は劇的に変化しました。警備陣が出した甚大な損害を見て、浪人が、外人への嫌がらせに幕府がそそのかして動かしている暴力団では決してなく、幕府と外国人双方にとって、真に危険な存在ということを理解することができたのです。

 このように、幕府がいたずらに時間稼ぎをしているという先入観がなくなった後に開かれた、7月の9日及び15日の安藤信正のとの会見は、歴史的重要性を持ちました。それまでになかったほどのつっこんだ質疑応答が行われた結果、オールコックは、開港・開市問題で幕府が直面している危険がいかに大きなものかを、よく理解することができたからです。

 B 遣欧使節団の構成員

 文久元年12月22日、遣欧使節団は出発しました。幕府内部には、この時期の出発を、いたずらに攘夷論者を刺激するものとして難色を示すものがありました。しかし安藤信正は、これを断行すること決定したのです。この決断が、この翌年早々に起きる坂下門外の変の一つの原因となります。

 一行は、正使、副使、観察使の3名に、通訳その他36名の部下を従えて英国軍艦オーディン号で出発しました。遣米使節の時は80名の随員でしたから、それに比べると半分以下の規模です。これは幕府財政が苦しい折から、渡航費用を全面的に招待者側に依存したので、招待者側から人数の削減を求められたためです。

 招待費用を中心となって負担をしたのは英国ですが、そのほか、フランス、オランダ、ロシア等、わが国と条約を締結していた国が分担しました。したがって、使節はこれらすべての国を歴訪することになったわけです。

 正使は外国奉行兼勘定奉行の竹内保徳、副使は外国奉行兼神奈川奉行の松平康直、観察使となったのは目付の一人、京極高朗(きょうごく・たかあき)でした。

 実は副使は、当初、水野忠徳の予定でした。ところが、オールコックが強く異を唱えたのです。

 一連の外国人殺害事件の一つに、ロシア軍艦の士官殺害事件があります。その時、外国奉行水野忠徳は神奈川奉行の職を兼ねていたのですが、事件が起きたとき、その責任を問われて、外国奉行と神奈川奉行の職をともに解かれていました。

 オールコックは、そのようなロシア人襲撃事件の責任者とされた人物を遣欧使節の副使として派遣するのは、ロシアとの関係でまずい、と指摘したのです。おそらく、一連の外交交渉で幕府側の利益をもっとも明確に主張し、特に万延改鋳を推進したために、彼がオールコックに毛嫌いされていたことが真の原因でしょう。水野忠徳にとっては何とも不運な話でした。

 なお、この遣欧使節団の随員には福沢諭吉、福地源一郎、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪(みつくり・しゅうへい)等、維新後に活躍することになる俊秀達が多数含まれていました。この点、安藤信正の開明性を示すものといえます。井伊直弼政権下で、事なかれ主義の人選に終始した遣米使節のとの差を感じます。その意味でも"忘れられた遣米使節"に比べると遙かに重要な使節団でした。

 しかも、この使節団は、日本側が本当の目的とした通商条約の改正に成功したのです。短期的には、この点に、この使節団の最大の重要性があります。単に形式を整えに行っただけの遣米使節団との大きな相違です。

(4) 開港開市の延期

 オールコックは文久2年3月に一時英国本国に戻りました。その帰国に先立って、2月12日及び16日の二日にわたって、幕閣と最後の話し合いが行われました。この時、安藤信正は坂下門外の変で負傷していて欠席したため、もっぱら久世広周と話をすることになりました。久世は、開港・開市の延期がない限り、内乱の危機に直面していると訴えました。オールコックは幕府の窮状を理解し、幕府の提案に対して譲歩することを、ここに最終的に決意したのです。

 遣欧使節団は、当初パリに行って条約改正交渉をしますがうまく行かないので、ロンドンに行きました。しかし、英国外務省としては現地情報が十分ではないため対応できず、結局、使節団はそこでオールコックが英国に帰りつくまで1ヶ月も待たされることになります。

 しかし、オールコックは、帰国すると早速ラッセル外相に日本の状況を詳しく説明し、説得したので、英国政府は、オールコックの提案にしたがい、安政条約の修正を承諾することにしました。

 遣欧使節団との間で、新潟、兵庫両港の開港及び江戸及び大阪の開市を1863年1月1日から5年間延期することを認める、という条約(ロンドン覚書と呼ばれます)を締結したのは、文久2年5月9日のことでした。交換条件として、函館、横浜、長崎3港では条約をきちんと遵守すること、外国人を排斥する古法は廃止すること、等がついていますが、さしあたり特に問題になるようなものではありませんでした。

 日本市場に最大の利害関係を持つ英国が、このように譲歩したのですから、フランス以下の関係国もこれに倣います。この通称条約修正の成功により、幕府は攘夷の実行問題で一息つくことができるようになったのです。この激動期に5年の猶予は実に大きなものといえます。

 しかし、次に述べるように、この時点では既に久世=安藤政権は崩壊してしまっており、その後継者達も、この猶予期間を生かして幕府を立て直すことはできませんでした。5年後の1868年とは、明治元年として知られる年なのです。

8. 坂下門外の変

 安藤信正は、井伊直弼の場合と同じように、自分が攘夷派の浪士から襲撃される可能性が非常に高いことは十分に承知していました。そこで二つの予防策を講じていました。

 普通、老中が登城するのは、井伊直弼と同様、桜田門からです。しかし、市中を長く歩けばそれだけ襲撃の機会が増えます。そこで、彼は前例を破り、自分の上屋敷から最寄りの坂下門から登城することにしていたのです。

 また、剣術の達者なものを雇い、駕篭の回りに配置していました。もちろん、井伊家のように、柄袋をかけるような不用意なことはさせません。

 文久2(1862)年1月15日、安藤信正は、6人の水戸浪士に登城の途中を襲撃されます。

 襲撃者は井伊直弼襲撃の時と同様に、拳銃を一発発射した上で駕篭めがけて突進しました。しかし幸運にも、この拳銃弾ははずれました。駕篭脇の剣術使い達は、かねて予想していたところですから、一斉に迎撃します。安藤家の方が人数が遙かに多いこともあって、容易に襲撃者を切り伏せることができました。

 問題は、この雇われ剣客達が眼前の敵を深追いしすぎたところにありました。そのため、駕篭の脇に誰もいなくなってしまった瞬間が生まれてしまったのです。その時、遅れて飛び出した浪士が駕篭に駆け寄り、扉越しに数回刀を突き通しました。駕篭の中で、安藤信正は必死に身体を伏せて、攻撃をかわしました。そのおかげで致命傷は負わなかったものの、それでも、後頭部及び背中に3箇所の傷を負ってしまいました。

 襲撃そのものはホンの一瞬のことでした。安藤信正は、自分自身で坂下門まで出向き、襲撃にあって手傷を負ったので、今日は登城を取りやめる旨を、門を守る武士に告げた上で帰邸しています。その落ち着いた態度に、その場にいた者は皆、非常に感心したそうです。

 しかし、彼の落ち着いた行動も、市中にデマが流れるのを防ぐことはできませんでした。

 井伊直弼が暗殺されたときに、幕府は負傷しただけで生きていると発表したものですから、今回、軽傷にとどまったと発表しても、安藤信正は実際には死んでいるのだ、と、一時、デマが流れ、多くの者が信用してしまいました。

 また、無事であることが判ったあとでは、浪士に追われて足袋裸足で坂下門に逃げ込んだ、という悪質なデマが流れたりしました。

 実際には、軽傷でしたから、登城は遠慮したものの、病床から安藤信正は指示を出し、政治を動かし続けました。オールコック等、外国公使とも、病間で話をしたりしています。

9. 久世=安藤政権の崩壊

(1)謎の失脚

 襲撃から3ヶ月後の文久2(1862)年4月11日、安藤信正は老中職を免ぜられ、失脚します。そればかりか、彼とともに内閣を構成していた老中達は、この前後の時期に一斉に免職になっています。すなわち、三河岡崎藩主本田忠民が安藤信正より前の3月15日に、越後村上藩主内藤信親が5月26日に、そして久世=安藤政権で筆頭老中とされていた久世広周が6月2日にそれぞれ免職となります。久世=安藤政権で老中職を務めていた者で残ったのは、わずかに丹波亀岡藩主松平信義ただ一人という徹底した粛正が行われたのです。

 これまで幕府では、政権が変わっても、その中心人物が変わるだけで、閣僚の総免職ということはまずありませんでした。これに匹敵するほどの大粛正は、田沼政権末期に松平定信がやった大粛正が唯一の前例といえます。

(2) 崩壊の原因

 なぜ久世=安藤政権がこの時点で崩壊し、その手段としてこのような総免職の形を取ったのかは、幕末史の謎の一つです。政権崩壊の理由が説明できないものですから、普通、日本史の本では、漠然と「坂下門外の変が原因となって」という曖昧な書き方をしています。しかし、坂下門外の変が原因なら、その直後に失脚するはずで、3ヶ月も間があいたのは不自然です。また、変の直接当事者である安藤信正だけならともかく、全閣僚に及んだ理由も説明できません。

 普通、老中が失脚するには、将軍と衝突して免職されるか、閣内もしくは溜まりの間などの有力者と衝突して免職されるか、のどちらかです。

 この時点での将軍は家茂ですが、やっとかぞえの17歳。へそ曲がりを自認していた勝義邦(海舟)でさえ無条件の忠誠を誓っていたほどの、実に気分の良い若者だったということです。実際の政治を精力的に動かしている老中を失脚させ、自ら親政を行おうとするほどの意欲的な人物では、間違ってもありません。

 では、老中の中か、譜代大名、あるいは御三卿、御三家中に、彼を失脚させて政権を握るほどの実力者がいたのでしょうか。この時期にはそれもまったくいないのです。

 現役老中の中で、ただ一人粛正されずに生き残った松平信義は、翌年9月まで老中の座を暖め続けます。が、はっきり言って小物で、以後の政局でもキャスティング・ボードを持つことは、まったくありませんでした。

 その後の政権を担ったのは、本田忠民が罷免された3月15日に新たに任命された水野忠精(ただきよ)と板倉勝静(かつきよ)の二人です。前者は水野忠邦の息子であり、後者は、安政の大獄時に寺社奉行を務めていて、刑罰を緩やかにすることを主張して井伊直弼に罷免された人物です。確かに新鮮な人事ですが、いずれも少々小粒という感を免れません。彼らが、閣外から、上記大粛正をやってのけたとは、その後の彼らの政治能力を見ても、まず考えられないことです。

 では、将軍でも、老中でもない誰が、この大粛正を演出したのでしょうか。

 福地源一郎は、久世広周自身がやったのだという説を「幕末政治家」という本で書いています。つまり、安藤信正が井伊色を政権から一掃しようと努めたにもかかわらず、久世=安藤政権はなお井伊の後継政権と見られて、安政の大獄に対する恨みを浴びている所があったので、人心を一新するために、自分自身も含めた全閣僚の更迭を行ったのだ、というのです。つまり筆頭老中の自作自演だというわけです。

 しかし、自作自演ならば、普通、退陣後も一定の発言権を維持するものです。ところが、その後の政治は、いきなり彼らのそれまでの努力を否定する方向に走り出し、さらに久世や安藤は新政権から厳しい処分まで受けています。単なる人心の一新策としては、あまりに馬鹿げた後任人事です。したがって、新政権樹立に久世の意志が働いているとはとうてい思えません。

 国益会所問題で、勘定所側を安藤信正や久世広周が支持したため、それに敵対する大小目付から反発されたことが原因とする説も日本史の専門家の間では強く唱えられています。

 確かに坂下門外の変後における、目付達の、安藤信正に対する反発は、非常に強いものがありました。先に述べたとおり、信正は伏せて攻撃をかわしたものですから、その傷は後頭部や背中についています。昔から武士には、向こう傷は名誉で、後ろ傷は不名誉とする考え方があります。そこで変後に信正が傷が癒えて出仕すると、目付は一様に彼に反感を示し、強硬派の中には、安藤候がこの後もお勤めならば目付は一斉辞職をする、と脅かす者までいたほどです。

 しかし、下僚が反発する程度のことであれば、井伊直弼のようにばっさりとまとめて免職するなり、処分するなりすれば足りることです。内閣崩壊の原因とするのはうなずけません。そして、久世=安藤政権は、先に述べたとおり、自らの決定に目付が反対すれば、国益主法掛からばっさりと全目付を切り捨てるほどの実力と気概を持っていたのです。

 坂下門外の変が起きたとはいえ、代わりの実力者が台頭したのではないのですから、彼の実力が急に失われたとは思えません。また、仮に安藤信正自身の実力が変によって失われて、彼の失脚原因となり得たとしても、久世=安藤内閣そのものの総退陣の原因としては理解できないといわざるを得ません。

 島津久光からの圧力があったとする説もあります。久光は、4月16日に朝廷に提出した改革趣意書9箇条の中で、安藤信正の退陣を求めているのです。しかし、安藤信正の退陣は、この改革趣意書の提出より前の話なのですから、これも説得力を持ちません。

 もっとも、幕府は、安藤信正免職の前日である4月10日に、会津藩の松平容保(かたもり)と越前藩の松平春嶽の二候に対し、政治に関して発言して欲しいので、頻繁に登城して欲しいという旨の将軍命令を発しています。松平春嶽に対する政治的発言の許容は、明らかに朝廷の歓心を買おうとする行為です。しかし、同時に佐幕派の筆頭というべき松平容保に同じ事を言っているところは、バランス感覚に出たものと言えそうで、この時点では必ずしも朝廷一辺倒とは思えないのです。

 こうして現在ある説はどれも説得力に欠け、結果として謎の失脚としか言いようがないわけです。

 とにかく、安藤内閣が崩壊した理由は不明ながら、6月2日の久世広周の免職により、政権は水野=板倉連立内閣へと移行することになります。

 久世=安藤政権は、幕府が主体的に行動した最後の政権でした。それに先行する井伊政権の残した課題に積極的に取り組みました。井伊政権が経済その他の内政や外交で無能ぶりが目立つだけに、それとの対比で、久世=安藤政権は、その存続期間が短かった割には驚くほど多くの実績を上げた政権ということができます。

 それに代わって登場した水野=板倉連立内閣は、事実上、島津久光の圧力の下に京都のリモコン内閣とでもいうべきものとなり、松平春嶽政治総裁及び一橋慶喜将軍後見職を受け入れ、次章に述べるように、幕府を瓦解させる方向へ、もしくはそこまで行かない場合にも、少なくとも自らの努力による問題解決を投げ出しているものとなってしまいます。

 その意味では、久世=安藤政権が崩壊した瞬間に、正統的な徳川幕府の歴史は、その幕を閉じていた、ということができます。

 財政という面から見て重要なのは、この政変以降、幕府官僚内部の力関係が大きく変動し、勘定所出身者の発言力が地に落ちた、という点があります。代わって目付の発言が幕府行政を動かすようになるのです。

 社会が混乱しているときには、一般に、強硬意見が歓迎され、現実を見据えて一歩一歩改善しようというような意見は日和見主義と排斥される傾向があります。国益会所問題に見られるように、勘定所出身者は現実的解決を求めようと柔軟な姿勢を示すのに対して、目付は法令を出しさえすれば現実を動かせる、という錯覚をもっています。これ以後の幕府行政は、そうした現実から遊離した強硬意見によって支配され、幕府の没落を一層加速していくことになります。

(3) ハリスの帰国

 米国公使ハリスは、かねてから健康上の理由から辞任を希望していましたが、この時期、ようやくその許可がおりました。安藤内閣が崩壊しつつあった文久2(1862)年3月9日、ハリスは彼の解任に関するリンカーン大統領からの親書を将軍家茂に上呈するため、将軍家茂に謁見を求め、これは3月28日に実現しました。これに答えて、安藤信正は、将軍家茂の名で、ハリスの多年の功績に感謝する国書をリンカーンに出しました。

 ハリスは江戸を4月10日に出て、12日に横浜から出航する船で日本を離れたといわれています。11日の安藤信正の免職を、彼が去る前に知ったかどうかは微妙なタイミングといえます。

 ハリスの後任はプリュインRobert H. Pruynです。あまり幕末史に名を見せない公使です。彼は小人物で、彼を通じて幕府がアメリカから軍艦を買おうとした時、なぜかそれを個人的に斡旋してくれと依頼されたと誤解して(あるいはわざと曲解して)民間企業との間に入って利鞘を取ろうとしたものですから、幕府はあきれて、以後相手にしなくなってしまったためです。

 こうして、わが国幕末史で米国が活躍した日々も、ハリスの離日とともに終わりを告げることとなりました。

 ハリスは、ほとんど軍艦の支援も受けず、単身で日本を開国させるという偉業を成し遂げたのですから、本来なら、リンカーンから英雄として迎えられても良かったでしょう。しかし、実際にはほとんど相手にされず、その後、不遇のうちに没することになります。

 その原因は、ハリスの行動に彼特有の不明朗さがつきまとっていたことにあります。例えば、金銀比価の違いから小判の大量流出が起きたとき、英国公使館員の中にも、その利殖に手を染めて処罰されたものがいた、と先に書きました。ところが、ハリスの場合、そうした不正行為を取り締まる立場にいた彼自身が先頭に立って、小判の貯め込みをやっていたらしいのです。

 また、横浜の米国商人の保護もほとんどしなかったので、在日米人の間から彼の罷免要求がでていました。彼の帰国は、そうした不明朗さを糾弾されての罷免という要素が強かったので、とても凱旋将軍というわけには行かなかったのです。

第5章 松平春嶽と文久の幕政改革

1. 文久2年の政変

(1) 島津久光上京

 文久2(1862)年春、日本の西の端で、一人の男が、自分の力により、日本の歴史を書き換えようという決意を固めていました。島津久光です。通称を三郎といいます。

 島津家では、幕末期、最初は名君斉彬(なりあきら)が登場し、積極的な殖産興業に努めて国力を発展させました。また、阿部正弘や松平慶永等と親交を結んで、中央政界にも一定の発言権を確保していました。将軍家定の妻に一族の娘を送り込むのに成功したのはその成果の一つです。

 しかし、斉彬を支持する一派と、斉彬の異母弟久光を盛り立てようとする一派との間の陰惨な派閥抗争(直木三十五の代表作「南海太平記」にオカルトタッチで描かれています)の果てに、斉彬の子供達は皆不慮の死を遂げ、斉彬自身も安政5年に死去していました。斉彬は死去するに際し、藩内の紛争を終結させるべく、久光の子、忠義を後継者とし、久光をその後見人と指定しました。

 斉彬は単にスケールの大きな政治家であっただけでなく、出自に拘らずに人材を発見する能力のある人で、大久保利通、西郷隆盛など多数の有能な下級武士を抜擢していました。斉彬が死ぬと、彼らは精忠組という秘密結社を組織し、水戸藩士と呼応して脱藩して、井伊直弼を暗殺することを計画しました。

 既に脱藩用の船まで用意してあるというきわどいタイミングでこの情報をキャッチした久光は、彼らを呼び寄せ、斉彬の路線を今後とも継承する、と自ら説得して、この精忠組を自分の腹心とすることに成功しました。ただし、西郷隆盛だけは久光とそりが合わず、面と向かって悪口を言い放ったものですから流刑になっています。

 結局、井伊直弼の暗殺には、薩摩藩士は一人だけ参加しています。彼の場合、江戸詰の精忠組だったので、暗殺に参加することを中止する旨の連絡が届かなかったのです。

 こうして大久保利通以下の精忠組を取り込むことに成功した久光は、彼らを活用して藩政改革を行った結果、この文久2年春になって、いよいよ天下に向けて自分が動き出す準備は整ったと判断したのです。文化14(1817)年生まれですから、この年には45歳。まさに働き盛りです。

 彼は何と、700余の兵を率いて上京したのです。小銃隊を従え、更に一応荷物に偽装してあるとはいうものの、4門もの大砲まで引っ張っての進軍でした。藩主自身ではないとはいえ、外様大名が、これほどの大兵を率いて旅をしたのも、また、京都に堂々と顔を出したのも、徳川幕府始まって以来初めての大事件といえます。幕政盛んな頃であれば、これほどのことをすれば、島津藩といえども取り潰しは避けられなかったでしょう。

 そして、前章にも言及した改革趣意書9箇条を4月16日に朝廷に提出し、安藤信正の罷免、松平春嶽の政治総裁就任、一橋慶喜の将軍後見職を含む、朝廷による一連の幕政改革を建議したのです。

(2) 寺田屋事件

 当時、尊皇攘夷志士はすでに京都を席巻し、天誅と称して盛んに無益な殺人や強盗を始めていました。そこに、これほどの武力を備えた久光が登場したのですから、朝廷は喜び、この過激派の取り締まりを依頼したのです。

 この時、薩摩藩精忠組の中でも過激派の有馬新七を首領とする一派が伏見の旅館、寺田屋に集まり、京都襲撃を行おうとしていました。すなわち、京都において幕府を代表する機関である所司代邸に切り込んで、京都所司代を血祭りに上げ、それをてこに上京中の久光軍を動かして一挙に幕府を攻撃し、政権を朝廷に呼び戻そうという陰謀を巡らしていたのです。

 久光は、基本的には公武合体的思想の持ち主で、兄斉彬の遺志を承継して、雄藩連合で幕府を動かすのが妥当と考え、朝廷を利用してその方向に幕府政治を動かそうと考えて動き出したのです。したがって、幕府そのものを滅ぼそうとは間違っても考えていません。

 そこで、久光は、この暴動計画を聞いて激怒しました。有馬新七等と同じく精忠組である奈良原喜八郎ら8人を派遣して、薩摩藩士を召還することとしました。自ら慰留するというのです。しかし、召還を聞かなければ上意打ちをするように命じました。有馬新七が召還を拒んだ結果、精忠組同士の間で、激しい死闘を演じることになり、多数の死傷者を出しました。久光の非情な意思を内外に歴然と示した事件でした。これにより、薩摩藩の尊王攘夷過激派は壊滅します。

(3) 勅使下向

 久光のこの断固たる措置は、同じく公武合体はが主流を占めるこの時期の朝廷では好評でした。そこで、朝廷では大原重徳(しげとみ)を勅使として江戸に派遣することとし、久光とその率いる兵に、その警護を命じたのです。700余の薩摩軍が勅使を中心にして東海道を下るわけです。

 幕威盛んな時期であれば、大変な処罰を招きかねない行動です。が、京都所司代は、処罰を考えるどころか「島津三郎東下せば、幕府にては特別に礼遇ありてしかるべし」と江戸に報告しているのですから、既に腰が引けています。

 水野=板倉政権では、この報を聞いて震え上がります。そこで、事前に京都の歓心を買おうと、井伊直弼の命により隠居させられていた尾張慶恕及び一橋慶喜に登城を促し、5月7日に将軍家茂と対面させたりしています。

 勅使と島津久光は6月7日に江戸に到着し、10日に将軍に面会しています。勅諚(ちょくじょう)の原文は漢文で、かなりの長文ですが、それを要約すれば、外国がほしいままに暴れているのに、幕府はどうして良いか判らない状態にあるので、朝廷が知恵を貸そうということです。そして、最後に三つの具体的提案が書かれています。すなわち、第一に将軍が上洛して京都で政治を行うことを求め、第二に豊臣秀吉の故事に倣って大藩の藩主を五大老として、国政を決するに当たって是に計ることを求め、第三に一橋慶喜を将軍後継職に、松平春嶽を大老に、それぞれ就任させることを求める、というものです。

 ただし、この全部を飲め、というのではなく、どれでも良いから、この中の一つを飲め、という要求になっています。どれも駄目だ、といえば、せっかく皇妹和宮の降嫁によって実現した江戸と京都の間の協調体制が崩壊します。だから幕府としてはどれかを受諾しなければなりません。

 数日にわたり、幕府では抵抗しましたが、久光の武力をちらつかせての威嚇に腰が砕け、受け入れることになります。俗説によれば、大久保利通が隣室に刺客を伏せて幕府の幹部を脅したといいます。しかし、私はむしろ700余の武力そのものをちらつかせたのだと考えています。そうでなければ、数十万両の費用をかけて、薩摩からこれほどの軍勢をはるばる江戸まで動かした意味がないからです。

 いうまでもなく、将軍上洛は天文学的な費用が掛かり、幕府財政が逼迫し、艦船購入や軍備の拡充で支出が急激に増大している折から、実現は困難です。五大老という制度の導入は、文字通り幕府の崩壊を招きかねません。結局、一番受け入れやすいのは、第三の、れっきとした徳川一門である一橋慶喜と松平春嶽の処遇改善という要求であることはあきらかです。実際、久光の狙いも、これによりかっての一橋派の復活にあったことは明らかといえるでしょう。

 そこで、隠居させられていた一橋慶喜に、7月8日に、改めて一橋家を相続させた上で、将軍家後見職としました。

 また、翌7月9日に春嶽は政治総裁職に就任します。勅諚通りに春嶽を大老にせず、新たに政治総裁という職を作ったのは、先に述べたように大老という職は井伊家など特定の家柄だけから就任するという幕府の慣行を守るための苦肉の策というべきでしょう。

 しかし、同時に、この名称には諸外国の内閣制度を導入しようとする積極的な意欲も隠れています。以後、陸軍総裁、海軍総裁、外国総裁、会計総裁などの名称の職が幕府の滅亡までの間に次々と新設されるようになります。すなわち明治以降の名称でいえば、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、大蔵大臣などに相当する官職です。

2. 新政権の政策

(1) 政権の担い手

 一橋慶喜の側からこの政変を見ると、将軍後見職とは名ばかりで、実権を伴わない形ばかりの改革という感じでした。無能な老中達は、自分の上に責任者が生じたのを良いことに、徹底的に責任を回避するようになります。すなわち「老中も若年寄も概ね姑息偸安(とうあん=目前の安楽をむさぼること)にして、改革の誠意はなく、『いづれとも橋・越二公の御英断にあるべし』といいて、事毎に責任を避け」(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』より引用)る態度をとっていたからです。

 しかし、実際には大きな変革がそこには生じていたのです。すなわち、一橋慶喜は自分が単なるお飾りだったので、松平春嶽も同様の地位にあると思っていたのですが、これは錯覚でした。春嶽は、一橋慶喜を祭り上げておいて、実際にこの時期の幕府政治を動かしていたのです。

 春嶽には二人の重要なブレーンがありました。一人は、横井小楠です。彼は文化6(1809)年生まれの肥後藩士ですが、安政5(1858)年、すなわち安政の大獄で懐刀であった橋本左内を失った春嶽によって越前藩に招かれ、藩政改革を指導して大いに面目を施しました。当然、春嶽が政治総裁となるとともに、その補佐役として活躍するようになっていたのです。

 小楠は、「国是七策」を定めて、春嶽政権の施政方針としました。次の通りです。

 一 大将軍上洛して、列世の無礼を謝す

 二 諸侯の参勤を止めて術職(領内政治の報告書を将軍に提出する)となす

 三 諸侯の室家(妻子)を帰す

 四 外様譜代に限らず賢を選び、政官となす

 五 大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなす

 六 海軍を興し、兵威を強くす

 七 相対貿易を止めて、官交易をなす

 この国是の背景には、もはや幕府単独で外国の侵略をくい止められる状況にはないので、挙国一致体勢で臨む外はない、という小楠の思想があります。そのためには諸侯が財力を蓄え、外国と戦える体力を付けることが必要だ、ということになります。それを実現するには、無用の支出を意味する参勤交代を廃止し江戸屋敷を縮小して人質となっている妻子を国元に帰すことが必要というわけです(二及び三)。また、春嶽政権の基盤となっているのは、一橋派と呼ばれた雄藩なのですから、その藩主に幕政に発言する権限を認める必要があります。(四及び五)。六に言っている軍備の増強は、したがって、単に幕府軍備のみならず、雄藩のすべてに対する要望と理解すべきです。

 最後の七は、従来の日本史ではほとんど無視されていました。しかし、前章に説明したところを前提に見れば、ここで言っているのが、国益会所構想と同じものであることは明らかです。しかし、その国益会所は、春嶽政権の成立とともに廃止されています。なぜ廃止された国益会所構想が、ここに存在しているのでしょうか。

 そこで、春嶽政権の第二のブレーンである大久保忠寛(ただひろ)が登場してきます。

 幕府の中で実力を有する官僚集団として、勘定方と目付の二つがあったこと、国益会所を巡って両者が激しく対立し、久世=安藤政権は勘定方を支持して目付を切ったこと、を前章に述べました。その勘定方の支持者であった久世=安藤政権の崩壊は、当然の事ながら、勘定方の権力失墜を招きました。

 相対的に、久世=安藤政権の下で逼塞を余儀なくされていた目付の権力が大きく延びます。上述のように、新政権の無能な老中や若年寄が責任回避をして、いわば権力の真空状態が生じている中で、元々実力のある目付の権力が延びれば、それが幕府を動かす真の権力となるのは当然です。こうして、権力の下方移動ともいうべき現象が起きたのです。

 目付の中でも、この時期、突出して力を伸ばしたのが大久保忠寛です。彼は、この時点までは財政問題にも外国問題にも関わりを持たなかったため、本稿ではこれまで顔を出してきませんでした。が、彼も、阿部正弘が抜擢したエリート官僚達の一人という点では、これまでこの話で活躍してきた人々の一角を占めています。ただ、彼は目付として頭角を現してきたという点で、他の人々と違います。

 彼は、安政6年2月に京都町奉行になりましたが、他のエリート達と同様、一橋派であると認められてしまったことから、井伊直弼によって、同年6月に西の丸留守居に左遷され、ついで8月に罷免されています。が、文久元(1861)年8月に蕃書調べ所頭取となって復活し、10月には外国奉行に就任し、久世政権が崩壊した時期である、この文久2年5月には大目付となりました。7月には更に累進して御側御用取り次ぎとなりました。

 この大久保忠寛が、松平春嶽と緊密に結びついていたのです。まず何か改革の必要が生じると、その前夜に松平春嶽の屋敷へ大久保忠寛が行き、二人で夜半まで相談します。そして、翌朝出勤すると、評議の席で忠寛が話を切り出します。春嶽はもとより承知のことですから、それで行こうと直ちに決定を下します。しかも大小目付の大半は忠寛の親類といわれるような状況でしたから、目付達は一致して彼を支援します。この結果、一橋慶喜はもちろん、老中も若年寄も知らないところで、この時期の政策は決められ、実行されていったのです。

 目付としては、国益会所の基本構想そのものは支持しており、ただ勘定所流の漸進的なやり方に反対していたものですから、勘定所流に組織された国益会所は廃止したのです。そこで、その基本構想だけは、依然として小楠の国是七策の中に生きていたわけです。

(2) 春嶽の政策

島津久光は、江戸滞在中に、今度は自らの名で幕府に20余箇条の献言をします。これは基本的には小楠の国是七策と同様のものですから、ここでは繰り返しません。春嶽政権は、以後、忠実にそれを遵守していきます。その特徴を一言にまとめるならば、幕府と諸藩の利害が食い違う場面では、幕府ではなく、諸藩の利益を優越させる、という特徴を示します。これを久光の指揮下にある700の兵力の威嚇の下に、実現していくことになったのです。

 A 参勤交代の廃止

 これまで諸藩にとり、もっとも大きな財政負担は、参勤交代の旅行経費及び大名子女の住む江戸邸の維持費です。そこで、春嶽政権は、久光の提案を受けて、閏8月になると、まず参勤交代制の緩和に着手します。これまで1年置きの参勤交代を3年に一回に延ばし、しかも一回当たりの滞在期間を100日以内と緩和しました。したがって、参勤交代による財政負担が5割以上も大幅に削減されることになります。

 同時に、人質として江戸邸に居住を義務づけられていた大名の子女が、願い出れば帰国することも認められることになりました。これにより、江戸藩邸の維持費も大幅に縮減することができます。大名が江戸にいない間は、留守番だけをおいておけばよいことになるからです。

 しかし、これにより、幕府は、重要な大名統制手段を失ったことになります。福地源一郎が、幕府の滅亡の時点は、一橋慶喜による大政奉還ではなく、将軍家茂が勅諚を受け入れて、春嶽を政治総裁にした瞬間だと書いていますが、それはこのような政策が理由です。

 B 京都守護職の設置

 文久2年閏8月に京都守護職の制度が設けられ、春嶽と並ぶ親藩の雄、会津藩の松平容保が任命されました。

 京都守護職の任務はもちろん、攘夷派過激浪士の威圧です。これまで京都には、京都所司代の外、京都町奉行、禁裏付、二条城勤務の諸役、伏見奉行など数多くの職種が相互に独立して存在し、その相互の連絡の悪さが攘夷浪人の活動を容易にしていたのです。そこでこれらすべての役職を統括するものとして、京都守護職が設けられたのです。もちろん、雄藩藩主としては、主君の統制を離れて勝手に暴れる勤王の志士は苦々しいかぎりです。久光が江戸に来る途上で起こした寺田屋事件はこうした雄藩の意思の端的な表明です。

 容保に対しては、役料として5万石が支給されました。史上空前の役料というべきでしょう。容保は、守護職職員として自藩の藩士1000名を伴って上京しました。この空前の役料は、そのための費用を見たものです。守護職の役宅は、上京区の御所の左側、現在の京都府庁の所在地に設けられました。

 C 軍備の増強

 上述の参勤交代の廃止は、それにより生じた財政上の余裕を利して諸藩が軍備を増強することを目指したものです。しかし、さしあたり幕府直属の軍事力を強化することが、政治総裁として可能なことです。

 陸軍については、軍制改革を行い、歩兵、騎兵、砲兵の三兵を置くことにしました。しかし、幕府の直参を訓練する代わりに民間から募集することにした、という点が画期的です。

 歩兵については、この年、12月1日に江戸市中の浪士や町人、農民から公募したのです。フランス陸軍士官を教官とし、洋式訓練が行われました。西の丸に1組、神田三崎町に1組の計2組、2万人を予定したというから大変な人数です。もっとも実際にはそんなに大量の応募者はいませんでした。それでもその後2年間で3500人に達したと言うことです。

 編成は40人が1小隊、3個小隊をもって1中隊、5個中隊をもって1大隊、4個大隊で1組というものでした。制服は、ズボンに筒袖という洋装で、俗に茶袋と呼ばれていました。

 この歩兵の最高指揮官として設置されたのが歩兵奉行で、最初にその職に就いたのは小栗忠順です。もう一つ、この歩兵奉行で特筆しておくべきは、長く続いた足高の制が廃止され、代わりにお役金として800両が支給されることになったという点です。貨幣経済の時代に、米の形で給料を支給されても、換金しなければ実際には使用できないわけです。ところが、米の売却価格は、その時々の市場で変動しますから、いくらの収入になるのか判らない、というところが困るところです。新しい時代の管理職手当が現金支給となったのは、きわめて当然のことですが、同時に封建制の伝統を破るきわめて画期的なことです。

 また、この上司として、将来作られるであろう、騎兵や砲兵も統括する役職として陸軍奉行が設置されました。お役金として1500両が支給される、という地位です。最初にその職に就いたのは講武所奉行を勤めていた大関忠裕です。

 海軍の方では、すでに安政6年に軍艦奉行の職が設けられていたことは、先に述べました。文久2年の改革では、それまでは別に存在していた御船手、すなわち幕府創世以来の海軍も、軍艦奉行の下に統合され、文字通り、幕府海軍全体の指揮者となった点が大きな変更です。

 この時期、軍艦奉行の職にあったのは、井上清直、木村嘉毅(咸臨丸に乗った幕府使節)、内田正徳の三人でした。しかし、実務は大久保忠寛によって推挙された勝海舟が軍艦奉行並(なみ)という地位で切り盛りしていました。

 陸軍と違って海軍は、軍艦とそれを操作できる軍人があって活動することがはじめて可能になりますから、陸軍のように気楽に大風呂敷を広げるというわけには行きません。当初、幕府としては、前に久世=安藤政権時代に決めた海防計画に従い、膨大な海軍を建設しようとしたのです。しかし、勝海舟は、船だけ買っても、それを操作できる人間が全くいないため、実際にはそれは机上の空論であることを、春嶽や老中達の前で鮮やかに論証しました。

 結局、オランダに海軍技術を学ぶための留学生を送り出し、同時に10隻程度の船の注文をする、ということに落ち着きました。この時の留学生が、榎本武揚、津田真道、西周ら、幕末から明治にかけて活躍した俊才達です。

3. 春嶽政権の限界

(1) 報復人事

 春嶽という人は、当時名君としての評判の高かった人で、今でも高く評価する人は多いようです。しかし、私は、阿部正弘と同様に、彼の才能は優れた人材を発掘する、という点に存在し、実際の政治能力はさほどではなかったと考えています。

 すなわち、初期の春嶽の業績は、その懐刀といわれた橋本左内の能力によってもたらされたと考えています。春嶽の朋友、水戸斉昭が、その知恵袋であった藤田東湖を安政の大地震で失った後は、単なる攘夷派に成り下がったのと同じく、春嶽も、安政の大獄によって橋本左内を失った後は、馬脚を現す場面が生ずるようになった、と考えています。

 左内亡き後は、前に名を挙げた横井小楠と大久保忠寛の補佐よろしきを得て、春嶽は前に述べたような新政策を展開して活躍しています。しかし、初期においては、春嶽は背後に控え、もっぱら左内が表面に出て活躍していたので、春嶽そのものの無能が目立たなかったのに対して、この時期は、政治総裁として春嶽自身が表面に出て動かなければならないので、ブレーンがカバーしきれず、時として、彼の持つ無能が露呈してしまうことがある、という点です。

 その彼の馬脚の最たるものが、この文久2年11月に実施した、かっての政敵達への報復人事です。これ自体は、島津久光の要求に従ったものですが、彼個人の個人的復讐という面もあったはずです。

 すなわち、井伊家に対して10万石の召し上げを命じたのを皮切りに、間部詮勝に対して1万石召し上げの上、隠居慎み。この二つは、安政の大獄の当事者ですからまだ判らないでもありません。

 少々意外なのが、久世広周に対して1万石召し上げの上、隠居・永蟄居を、安藤信正に対して2万石召し上げの上、隠居・永蟄居をそれぞれ命じていることです。罪状はなんと井伊直弼死亡に際して、生きているなどと嘘をついた、ということです。あれは非常の際のやむを得ない判断というべきもので、因縁を付けているとしかいえません。

 これは政治路線の対立によるものと考えられます。すなわち春嶽が寄って立っている雄藩連合構想は、久世=安藤政権の推進した幕府絶対主義の対局に立つものです。春嶽もまた、反対者を許せない、という体質の持ち主だったわけです。

 彼らを筆頭に、合計23名もが様々な行政処分を受けています。挙国一致体制をとるべき時に、このように、旧怨をはらさずにはいられない精神というのは、醜悪と呼ぶ外はありません。

(2) 攘夷か開国か

 島津久光は、表面上、攘夷を叫んでいます。しかし、島津藩は昔から密貿易をやっていた家柄です。本音で攘夷と言っているのではありません。幕府主導による開国に反対といっているのです。そのために、いったん元に戻せ、というのが薩摩の本音です。そのことは幕府の方でも十分に承知しています。その幕府を率いる者として、春嶽の意見は、攘夷と開国の間で激しく揺れ動きます。

 当初、春嶽は従前からの一橋派としての路線を継承して、素朴に攘夷論を採り、したがって条約を破棄してもとの鎖国に戻そうと考えていました。これに対して、この時点では江戸町奉行の職にあった小栗忠順は次のように反論しました。

「政権を幕府に委任されているのは、鎌倉幕府以来のわが国で定まっている制度である。ところが近頃では京都から様々な注文が入るばかりでなく、諸大名からもいろいろと申し立ててくるようになった。そのため、いったん決めた政務を変更しなければならない事態に至るのは、もってのほかの政府の失態である。この上権威が振るわないことになれば、最後には諸大名に使役される存在に幕府がなってしまうであろう。」

 このような調子で毅然といわれると、たちまち春嶽は意見がひっくり返ります。こうして春嶽の意見の迷走にあって、幕府そのものが確固たる路線を立てることができません。

 この時期、大久保忠寛は恐るべき奇案を考え出しています。後に、坂本龍馬の献策により徳川慶喜が行った大政奉還がそれです。小栗忠順は、日本国の独裁政権としての徳川幕府の存続を願っています。これに対して、大久保忠寛は春嶽と同じく雄藩連合政権の最有力者という形でしか、徳川家を存続させる方法はない、と考えています。そのためのもっとも優れた方法は何か、といえば、大政奉還しかない、とこの知恵者は考え出したのです。

 後に詳述しますが、この時期、京都朝廷はさらに様々な干渉を幕府に対して加えてきます。そこで、そうした差し出口を一挙に封ずる決めてとして忠寛が考え出した策なのです。確かに、この時期であれば、朝廷側には全く為政能力がありませんから、大政奉還といわれたら、京都は驚き、あわて、辞を低くして幕府に政権を担い続けるよう懇願したであろうことは想像に難くありません。

 しかし、春嶽には、この劇薬的効果を持つ奇案を飲む勇気はありませんでした。

 この構想は、皆さんご存じのとおり、後に勝海舟の弟子である坂本龍馬が復活させて、土佐藩を通じて一橋慶喜に建議しました。その時点ではすでに時代は動いており、慶喜の思惑に反して朝廷はあっさりとそれを受け入れて、幕府が滅亡することになります。

(3) 大久保忠寛の失脚

 春嶽によって行われた安政の大獄に対する報復人事の一環に、なんと春嶽のブレーンである大久保忠寛が入るという珍事がこのとき起こります。先に述べたように、この時期、大久保忠寛は御側御用取り次ぎの重職にありました。が、彼はまず講武所奉行に配置転換されます。講武所奉行は役高5000石の重職ですが、御側御用取り次ぎと比べた場合には、政治的重要性は比較になりません。完全な左遷です。

 さらに、今度は大変な因縁を付けられたのです。先に、大久保忠寛は、安政の大獄時に京都町奉行をしていて、井伊直弼の逆鱗に触れ、免職されたと述べました。今回、忠寛の処罰理由は、免職になる以前の京都奉行としての活動に、事実不分明な取り扱いがあった、という点に求められています。これが何を意味しているのかは判りません。

 一説によると、彼はその支持基盤であった目付から攻撃されるようになり、一橋慶喜もこの動きに同調して慶喜自身が春嶽に、大久保忠寛の左遷を迫ったというのです。これも十分にあり得ることと思われます。目付達は、久世=安藤政権を憎むあまり、敵の敵は味方と考えて、大久保忠寛を通じて春嶽政権を支持したわけです。ところが、その政策の行き着くところは、幕府の弱体化にあったわけです。

 当然、排撃運動に転ずるのは目に見えた話です。祭り上げられるだけで実権がふるえず、腐っていた慶喜と結びついて、さしあたり、春嶽のブレーンである大久保忠寛をつぶしに行った、というわけです。

 また、一説によると、彼がこの時期、大政奉還を唱えたことが原因だというのです。この構想は、前に述べたとおり、実際に実施された時には幕府の滅亡を招きました。その意味で、この時点でしか役に立たない、まことに優れたアイデアであったと思われるのですが、ポーズだけであれ、政権を投げ出すという考えが春嶽の逆鱗に触れ、左遷されることになった、というのです。しかし、上に立つ者として、部下の特定の提案が気に入らないからといって一々左遷していたのでは人材は育ちません。人材登用の名手、春嶽の行動としては頷けないところがあります。

 そういう訳で、これについても謎というほかはないのですが、とにかく、真の原因がなんであれ、大久保忠寛の短かった全盛時代はこの時終わりを告げ、差し控えを命じられた、ということです。

 忠寛はその後、元治元(1865)年に5日だけ勘定奉行となりますが、4日後には罷免されます。彼が次に本格的に活躍するのは、幕府が滅亡した後になります。

 この前後の時期に、春嶽はもう一人の重要なブレーンである横井小楠を失います。12月19日、友人宅にいた小楠を、彼の出身地である肥後勤王党の刺客が襲いました。しかし、幸いにも身一つで逃れることができたのです。が、肥後藩は、狼藉者に対して向かっていかずに逃げたのは士道不覚悟も甚だしい、と切腹を命じたのです。

 肥後藩は、小楠という人材を理解できず、藩内に閉じこめて使おうとしませんでしたが、さりとてそれが他で活躍することも気に入らなかったのです。春嶽が小楠の優秀さを伝え聞いて、譲り受けようとしたときも、それを拒否し、派遣するにとどめていました。自分で使い切れなかった人材が、単に越前藩に止まらず、中央政界で活躍するのを見て、心穏やかではなかったため、この椿事を機会にかれを除こうとしたのです。

 春嶽の意を受けた越前藩が必死に嘆願した結果、切腹命令は撤回されましたが、小楠は帰藩を命ぜられ、かつ帰藩後は士籍を剥奪されました。

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 なぜ、春嶽はむざむざと大事な二人のブレーンを失う羽目に追い込まれてしまったのでしょうか。それは、春嶽政権を実質的に支えた重要な要素である島津久光が、この時期には江戸にいなかったからなのです。それどころか、彼は大変な置きみやげを残して中央政界から姿を消していたのです。

4. 生麦事件

 少し時を遡ります。幕政大改革を実現した久光は、文久2年8月21日、早朝に江戸を立って、意気揚々と帰国の途につきました。東海道の沿道にある生麦村(現在の横浜市鶴見区)にさしかかったのは、午後2時くらいだったといわれています。

 生麦事件の名で知られる惨劇の主人公となったのは、4人の英国人です。すなわち、中国での商売をやめて英国に帰る途中、日本に寄ったリチャードソンRichardson、横浜在住の商人であるクラークCrarke、同じくマーシャルMarshall、マーシャルの姉妹で香港在住の英国商人の妻バラデールBorradaileです。

 この日、西暦だと1862年9月14日、日曜日でした。敬虔なクリスチャンであるなら、安息日ですから当然家に籠もって祈りでも捧げているはずです。しかし、英国公使オールコック自身がヨーロッパの滓と呼んでいた貿易商人達が、そんな殊勝なことをするはずはありません。彼らは不幸なことに、日曜日なので、馬で川崎大師まで見物に行ってみようと考えて東海道を行くうちに、久光の行列に遭遇してしまったのです。

 久光の行列は、只の大名行列ではありません。先に述べたとおり、大砲4門まで引いた700名の兵の行軍なのです。行列の中には、馬も数十頭いました。この他に、記録には残っていませんが、久光自身や兵の旅装などを運ぶため、常識的に考えて、人足が少なくとも1000人以上はいたに違いありません。したがって約2000人という大変な規模の行列です。

 この時代、東海道は場所によって道幅が違いますが、平均すればせいぜい二人が並んで通れるくらいし道幅がありません。したがって、大名行列が来れば一般庶民がその脇を歩く、ということは物理的に不可能です。土下座をしなければならない、とされていたのは、その意味で実に自然なことだったのです。

 この時、久光の行列は、先導隊がまず進み、その後に100m程度の間隔をあけて本隊が続いていたといわれています。仮に全員がきちんと2列に並び、かつ等間隔で整然と歩いていたと考えても、行列の長さは1km以上もある計算になります。しかし、出発してからかなり時間も経ち、疲れが出てくる頃合いですから、たぶんある程度行列はばらけていたでしょう。したがって、数kmにわたって、ある程度の固まりに分かれつつ、道一杯に広がって人の波が進んでいる、という状態であったに違いありません。

 リチャードソン達は馬に乗っているのですから、その高い位置から、行列がどの程度に密集していて、どの程度の長さがあるかを見て取ることは、容易にできたはずです。まともな神経のある人なら当然、馬から下りてこの行列の通行を待ったはずです。実際、彼らより前にアメリカ領事館書記官のヴァン・リードという人物がやはり馬に乗ってこの行列に遭遇しています。彼は、馬から下りて道ばたに退き、行列が通過し終わるまでそのまま控えていて、何の危害も受けていません。

 ところが、中国からやってきたリチャードソンとバラデール夫人はあきれたことに、密集した久光の行列に構わず馬を乗り入れたのです。おそらく、行列の長さを見て、その通過を待ったりしたら、どのくらい時間がかかるか判らない、と思ったのでしょう。そして、中国ではそんな具合に、地元貴族の行列に馬を乗り入れるような無礼なやり方がまかり通っていたのでしょう。

 これに対して、日本に住んでいるマーシャルやクラークは様々な対外国人テロによって、武士に対する恐怖を持っていますから、最初避けようとしたのでしょうが、リチャードソン等が行列に乱入したのを見て急いで追いかけました。そのため、10ヤードくらい遅れていたといいます。

 久光が今回江戸に来た大義名分は、要するに幕府が公約として掲げている攘夷を実行しないので、攘夷実行を可能にする為の知恵を貸す、ということです。したがって、久光に対して外国人から無礼な行動があれば、何らかの処置にでなければならない立場にあります。

 しかし他方、久光も、わが国政治の舵取りを務めようという野望に燃えているくらいですから、この時期の国際情勢の中で、外国人相手に、いきなり切り捨てごめんというような暴挙にでることの危険性は十分に承知していました。そこで、久光は帰国に先立ち、幕府に対して、外国人が騎馬で行列に乱入するなどの、無礼な行動があれば、堪忍できない場合があるので、大名往来に関するわが国の法律を幕府から各国公使の方に徹底しておいて欲しいという旨を届け出でています。

 幕府も、これを受けて、英国公使館を始めとする各国公使館にその旨を通知してあります。しかし、なぜかこのことが居留民へは周知徹底されていなかったのです。知っていれば、マーシャルなど日本在住の商人達がこんな危険な小旅行を企画するとは思えません。横浜駐在英国領事ヴァイスはあまり有能な人物ではありませんでしたから、彼の職務懈怠が原因と見るべきでしょう。

 島津家としては、事前にそこまで注意してあるのに、この中国呆けしたイギリス人達が、乱暴にも馬で乱入してきたのですから、対応は一つしかあり得ません。リチャードソンは腹部2箇所を切られて死亡、他の二人の男性が重傷、バラデール夫人だけが帽子を切り飛ばされ、馬が斬られて暴走してヒステリーは起こしたものの、無傷で逃げ延びることができました。さすがの薩摩隼人も、女性に剣を振り上げるのはためらわれたのかもしれません。

 横浜在住の英国商人の中から犠牲者がでたのはこれが最初です。そこで商人達は一斉にいきり立ち、港に停泊中の各国の軍艦から海兵隊を送ってその夜、久光の行列を攻撃し、下手人及び久光を逮捕するように、英国公使に求めました。

 先に述べたとおり、この時期、オールコック公使は、日英通商条約の改正のため帰国しており、英国公使館の責任者はニール代理公使でした。しかし、ニールは応じませんでした。私の見るところ、ニールが拒絶した理由は二つあったはずです。一つは、事件そのものが無神経な商人達が自ら招いて引き起こしたもので、自業自得だということです。今ひとつの理由は、そもそも攻撃しても勝てない、ということです。

 繰り返しますが、この久光の行列は只の大名行列ではありません。大砲数門を含む、れっきとした軍隊なのです。しかも自分たちのしたことの政治的意味は十分理解していますから、事件後ただちに外国人側からの攻撃を予想して、当初横浜のすぐ目の前の神奈川宿に泊まる予定であったものを、一つ先の保土ヶ谷宿まで足を延ばしました。そして、宿場内では、迎撃のため、大砲を要所に配置し、小銃隊も伏せて、何時攻撃があっても対応できる準備を整えて待ちかまえていたのです。

 この時期、薩摩隼人の剽悍さは必ずしも外国人達の知るところとはなっていません。しかし、ニールは職業外交官ではなく、駐在武官(陸軍中佐)です。このように近代兵器を備えて待ち伏せている部隊に陸上戦闘をして勝つためには、この久光軍を大幅に上回る大兵力を投入する必要があることは、十分に承知していたはずです。

 ところが、この時点で、横浜にある英国の武力は、停泊中の蒸気フリゲート艦ユーラリアス号ただ一隻です。同艦は排水量2371tと当時としては、世界有数の巨大艦です。が、蒸気艦であるため、乗組員は帆走戦艦に比べて著しく少なく、わずか450名程度しかいません。艦の安全のためにある程度残す必要がありますから、ぎりぎりまで出しても、せいぜい300名くらいしか兵力はないことになります。他国の軍艦からも若干出して貰うとか、商人から義勇兵を募るなど、あちこちから兵をかき集めても、その倍になるかどうか怪しいものです。つまり、島津軍を下回る人数で、しかも陸戦になれていない水兵を中心とした寄せ集めです。これでは間違っても勝てません。

 もっとも、襲撃しても勝てない、と正直に言ったのでは、興奮している商人達を説得することはできません。そこで、彼は冷静に、第三の理由を述べました。すなわち、仮に勝てたとすると、それは幕府の権威を失墜させることになる結果、内乱を引き起こすことになり、それでは英国がこれまで勝ち得てきた商業上の優位性を失うことになってしまうと説得しました。しかし、これが本音でない証拠に、その後、ニールは陸海軍の増強を本国や清国駐在官に求めているのです。

 しかし、差しあたりは戦争は不可能ですから、次善の策として、幕府に対して、生麦事件の犯人逮捕と厳重な処罰をニールは要求しました。

 これに対して、幕府は、老中水野忠精(ただきよ)及び板倉勝静(かつきよ)の連名で、大名領内には幕府の権力は及ばないので、貴意には添い難い、という趣旨の回答を出したのです。おそらく、これが対外関係で、幕府の滅亡を決定づけた致命的な発言だったと思われます。

 これまで幕府は、対外的には日本全土を支配する、という建て前を崩していなかったのです。そして英国側もそれを疑ってはいませんでした。だからこそ、幕府を盛り立てる以外に、日本との健全な貿易は維持することはできない、とオールコックも考え、条約改正に応じたわけです。

 ところが、水野や板倉は、無思慮にも、日本に、幕府以外にも当事者能力を持つ支分国家が存在することを明言してしまったのです。ニール代理公使は、この回答に接して、幕府の日本統治能力そのものに対して疑問を持ちました。

 先に述べたとおり、久光が帰郷した翌月である閏8月になると、参勤交代の緩和と大名子女の帰国が認められました。ニールは、これを、各大名が国元の防衛力を強化して、外国と戦う体制を確立するための手段と理解しました。確かにそれが春嶽政権の意図ですから、正しい分析です。おりしも、長州藩が、瀬戸内海沿岸に大規模に砲台建設事業を展開中という報告が入ってきました。また、久光も、帰国後、鹿児島湾の防御力増強に全力を挙げているであろう事は常識です。

 こうして、外国勢力が完全に疑心暗鬼になっている最中の文久3年2月1日、品川御殿山に建設中だった英国公使館が全焼するという事件が起きました。実はこれは、長州藩の過激派である、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)等の仕業でした。

 2月に入ると、ニールの要求に応えて、英国は、横浜の艦隊を増強し、最終的には12隻もの艦船を横浜に集結させました。これは幕末史上特定の外国勢力が集結させたものとしては空前の大海軍力です。こうして、十分な兵力を集められたので、これを背景にして、ニール代理公使は、2月19日、初めて幕府に対して強硬姿勢を示しました。生麦事件に対する幕府の無責任な対応に対するペナルティとして10万ポンド、先に述べた第2次東禅寺事件の遺族に対する賠償1万ポンドをそれぞれ要求する最後通牒を幕府に突きつけたのです。実際に兵力を手にするまでは具体的な要求を突きつけない、というこのあたりの行動は、いかにも職業軍人らしい慎重さといえます。

 また、幕府が久光の臣下を自分では逮捕できない、という以上、英国艦隊自身が薩摩に行き、加害者の処刑と遺族への扶助金並びに負傷者への慰謝金として2万5000ポンドの賠償金の取り立てを直接藩主に要求するであろう、と通知しました。

 ところが幕府はこれに対して返事を出すことができません。理由は簡単で、この時期、江戸に実は幕府の中枢メンバーはいなかったからです。将軍家茂自身が上京したのです。したがって、政治総裁松平春嶽、将軍後見職一橋慶喜はもちろん、老中以下、主立った官僚は皆それに随従して京都に行っていたからです。そのため、ニールに脅かされても、それに回答できる人間が全くいない、という状況にあったのです。

5. 将軍上洛

(1) 第2回勅使下向

 将軍上洛に至る経緯は少々複雑です。久光がまるで自分の創見のように売り込んだ公武合体策は、実は久光に先行して、長州藩士長井雅楽(ながい・うた)が提案し、藩主が承認して長州藩として久世=安藤政権と協議してきた航海遠略策の焼き直しに他ならないのです。この政策が久世=安藤政権の崩壊とともに、宙に浮いてしまったわけです。そこに、島津久光が手柄顔で意気揚々と勅使を奉じて江戸に入ったものですから、長州藩としては強い反感を持ちます。

 そこで、毛利家の世子は、久光が江戸に入る前日に、わざわざ久光とは道を変えて江戸を出て京に行きました。そして世論の主導権を握るために、あえて公武合体策ではなく、徹底した攘夷論で世論工作を始めたのです。毛利家は、その祖、元就の時代から権謀術数には非常に長けたところがあります。それがフル回転して京都で世論工作をしました。その結果、京都の論調は一気に攘夷論に傾きました。

 そのため、久光が全ての要求をのませ、更に生麦事件まで引き起こして京都に引き上げてきても、もはや京都の態度は彼に冷たいものとなっていました。風向きを見るに敏な久光は、それ以上京都に長居することを断念し、速やかに国元に帰って、来るべき対英国戦に向けて錦江湾全域を要塞化する作業に取りかかりました。

 長州藩は、こうした久光が消えた政治的空白をフルに生かして、公家のうちの過激派を焚きつけ、ついに朝廷世論を支配することに成功して、ここに第二の勅使が下向することになったのです。三条実美(さねとみ)及び姉小路公知(あねこうじ・きんとも)という過激公家の領袖が自ら勅使となりました。この勅使は10月27日に江戸に到着し、11月27日に将軍家茂に面会しました。到着から面会まで実に1ヶ月もかかったのです。理由は簡単で、何と答えたよいか、幕府の方で意見がまとまらなかったのです。

(2) 幕府の回答

 ここで朝廷が出した要求そのものは別に問題ではありません。攘夷を督促したに過ぎないのです。

 これに対して、攘夷を断行するのかどうか、肝心の松平春嶽の意見が固まっていないのです。京都守護職に決まった松平容保が京都の治安維持のためには攘夷を標榜する必要がある、と説けばそれに賛成します。驚いた一橋慶喜が開国論を説けばたちまちそちらに転向します。確かに難しい問題ではありますが、トップにこうくるくる意見が変わられては下の者は大変です。で攘夷派、開国派の両陣営から激しい批判を浴びると、辞表を提出する始末です。

 具合が悪くなると逃げる。これは、これ以後、幕府滅亡までの間、春嶽だけではなく、慶喜にも老中達にも共通して現れる名門の貴公子らしいひ弱い行動ですが、その最初の現れがこの事件だったのです。

 この時動いたのが勅使に随行して江戸に来ていた土佐藩の山内豊信(やまのうち・とよしげ)で、攘夷を標榜しない限り、関西は内乱状態に陥ると脅して、春嶽に辞表を撤回させ、幕府の意見を攘夷に統一させるのに成功したのです。

 しかし、攘夷をする、といっても具体的にどうしたら良いか判りません。そこで、この勅使に対し、幕府は将軍が上洛して委細を回答する旨を述べて、時間稼ぎをしてしまったのです。将軍上洛自体は、前に紹介した横井小楠の国是七策にあるとおり、春嶽の基本政策ですが、それを勅使に対して明確に時間を限定して回答してしまったのは大変な問題でした。

(3) 上洛経費

 将軍が上洛するのにかかる経費は大変なものです。結果的にいうと、家茂は2回上京し、その2回をあわせて約120万両を必要としました。第1回が約70万両、第2回が約50万両です。それだけの経費を投入すれば、内政・外交を充実するために様々な施策ができるはずなのです。それだけの経費を将軍上洛に投入して、それに代わる何かよい効果があるのか、というと、それがない、というところが最大の問題です。とにかく、効果以前の問題で、何と返事をしたらよいか自体が決まらないままに、この巨額の経費を投入することだけが決まってしまったのです。

 家茂が老中その他約3000人の供を従えて江戸を出発したのは、文久3年2月13日のことでした。寛永11(1634)年に家光が上洛して以来、実に230年ぶりの出来事です。

 この家光の先例にしたがい、出発に先立って京都市内の住民に銀5000貫(小判に換算してほぼ6万3000両)を、江戸市内の住民に金6万3000両をそれぞれ下賜しています。

 また、禁裏に金5943両、銀8貫722匁、米15万俵を献上しています。

 また、お供をしていく諸大名も財政が逼迫していますから、これに対する貸付金が11万両あまりとなっています。

 このように、直接経費以外に、様々な馬鹿馬鹿しい経費がかかるのが、将軍上洛というものなのです。

6. 政治総裁の逃亡

 春嶽には、京都情勢を甘く考えているところがありました。かつて橋本左内が春嶽の腹心として活躍していた時代には、難しいところは全部左内がやってくれましたから、春嶽は要所要所で顔を出し、左内から献言された台詞を吐いていればそれでことは足りました。何となく、春嶽は同じようなつもりでいたのでしょう。しかし、この文久3年春の時点で、現実に京都に彼が乗り込んだときには、彼には左内も小楠も大久保忠寛もいなかったのです。彼が初めて、自分の実力だけで政治の現場に立たされたわけです。

 しかも朝廷のごり押しは彼の予想を遙かに超えていました。

 将軍が京都に着いた翌日、将軍名代として参内した慶喜に対して下された勅書には、政治に関してはこれまで同様将軍に委任する旨の言葉があり、幕閣は安堵しました。ところが、その2日後に家茂自身が参内したときには、攘夷の決行のみを幕府に委任し、国内政治に関しては朝廷がかってに諸藩に命令する、というように勅書が書き換えられていました。攘夷派の激しい巻き返しを幕府は予想できていなかったのです。

 さらに、攘夷決行に日限を切るように、と迫られます。春嶽等は、将軍が江戸に帰った上で鎖港交渉を始めたい、とがんばったのですが、許されず、将軍名代としての地位にある慶喜が、ついに4月中旬と口走ってしまったのです。

 ようやく、将軍が京にいるだけかえって時間稼ぎができない、ということが判って、江戸に帰って鎖港交渉をしたいと要請するのですが、交渉は大阪で行え、といわれて江戸に帰ることが許されません。

 この辺り、全く交渉の余地がない、という感じでした。

 ここで、春嶽時代の終わりが来ます。彼は、辞表を書くと、夜逃げ同然に京から自分の藩に帰ってしまったのです。

 肝心の政治総裁春嶽がいなくては、一橋派の大名達もやる気をなくします。春嶽の懇望で上京していた島津久光も、山内豊信も、宇和島藩主伊達宗城(むねき)も、暇を乞うて相次いで勝手に帰っていってしまったのです。

 こうして、京都にある将軍家茂の補佐役は、慶喜と容保、及び老中水野忠精、板倉勝静だけとなってしまいました。まさに末期的症状ということができるでしょう。


第6章 小笠原長行と幕府の滅亡

 松平春嶽が、攘夷を実行しろという朝廷の恫喝におびえて、政権を投げ出して夜逃げ同様に国元に帰ってしまった以降、幕府には、その滅亡までの間、中心となって政権を担当する人がいなくなります。

 本来ならば、その任に当たるべきは、この時点における将軍後見職であり、また14代将軍家茂の死後は最後の将軍となった一橋慶喜です。しかし慶喜は、彼自身がくるくると気分が変わり、それに応じて極端に行動に振幅がある人物でした。しかも、自分の言動から必然的に生ずる結果に対する責任をとることを、少なくとも責任を追及されることを嫌う癖がありました。つまり、何かを言い出すことはできるのですが、自分自身の頭の中でそれに対する評価が変わると、その後始末は誰かがやってくれることを常に期待して、責任者の立場から逃げ出すという悪い癖です。したがって、政権の中心にあって、一定の方針の下に着実に行政活動を指揮監督し、必要に応じて自ら適切な行動をとる、ということはできませんでした。

 そして、なによりこの時期、彼は幕府政治の中心地である江戸にほとんどいません。したがって、彼を中心に据えて、これ以降の時期における幕府財政を説明することは不可能なのです。

 内閣としては、何度か触れたとおり、水野忠精と板倉勝静の連立内閣です。彼らの連立政権は非常に長く、安藤信正の失脚以降、幕府の滅亡まで一貫してその地位にあります。逆に言うと、無能、無難が売り物で、そのために長く政権の座に安住できたという程度の人物で、とても彼らの視点から幕末史を整理できるような人物ではありません。かっては、例えば田沼意次のように政権の首座にないにも関わらず、実質的に政治を動かしていた人物がいたりしたのですが、この時代には、古参の老中の中にも、他の老中を束ねて、政治の中心として活動できるほどの、才能と人徳を兼ね備えた人物はいませんでした。こうして、幕府という巨艦は舵取りを失った形で、幕末の風雲の中に突入し、沈没していくことになります。

 幕府にとって、ただ一つの救いは、これまで幕府行政を実際に取り仕切ってきた官僚達、具体的には勘定方と目付達は、依然としてやる気を失っていなかったという点です。その結果、この時期以降も、幕府は、これが滅びようとしている政権とは思えないほど、様々な積極施策を行い、上方における慶喜のむら気ある行動を、財政その他の面で下支えし続けます。確立した官僚機構のすごみというものなのでしょう。

 そして、この時期の幕府老中で、そうした下からの支援努力を集約して、幕府を助けようとして可能な限りの努力をし、最後には幕府そのものに殉じて滅びようとした人が一人だけいます。それが小笠原長行(ながみち)です。

 この時期、歴史家の目は薩長側に向けられています。そのため、その大きな活動にも関わらず、小笠原長行の名は、日本史の上ではほとんど知られていません。例えば、現在高校で使用されている数十冊の日本史教科書のどれにも、彼の名はまったく登場してこないのです。亡国の臣の運命とはこういうものなのでしょうか。

 小笠原長行という人は、幕末にいたって、突然登場した政治家です。その政治家としてのまことに短いながら華々しい活動の中で、たった2回だけ、出処進退を誤りました。我々凡人から見れば、生涯で2回の誤りは、問題にならないほどの少ない誤りです。しかし、幕府の運命がぎりぎりに迫り、徳川慶喜という実に気の変わりやすく、しかも部下に嘘を言って騙すことに全く良心の呵責を感じないという暗君を頂いて、彼が事実上、ただ一人で徳川家の命運を担っていた時期における誤りだっただけに、それはそのまま幕府の滅亡に直結することとなりました。

1. 小笠原長行の前半生

 小笠原長行は、まことに不遇な人生を送った人です。後半生のそれは、幕府の運命に殉じて自ら選んだものですが、前半生におけるそれは、彼本人の選択というより、彼の属する小笠原家そのものが不運であったためです。

 小笠原家というと、小笠原流という武家の作法を思い出される方が多いと思います。この流派の名称は、室町時代に、小笠原家の庶流に属する小笠原持長が将軍足利義教に仕えて礼儀作法を確立したことから来ています。したがって、徳川幕府にあっても、小笠原流の家元格で活動したのは一族の庶流赤沢氏で、小笠原本家そのものではありません。

 また、小笠原諸島の名を思い出される方もあると思います。これは、小笠原家の祖先の一人、小笠原貞頼が文禄2(1593)年に発見したとされるところから来た名称です。しかし、小笠原家の家譜にこの事実は記されていないことから伝説のたぐいとされています。

 小笠原本家は6万石格の譜代大名で、何人かの老中も出していますから、譜代中でも名門といえる家柄の一つです。譜代の大名らしく、江戸初期には頻繁に国替えをされています。その一環として、一時期、小笠原家は静岡県の掛川6万石の領主となっていたことがあります。

 運の悪いことに、その時期に、白波五人男で有名な日本左衛門こと浜島庄兵衛が出現しました。彼は、東海道を荒らし回って名をあげた後、最後に何を考えたか、いくつもの関所を越えてはるばる京都まで行って自首しました。

 これほどの大盗を捕縛できなかったばかりか、関所などもあってなきがごとくに通過されたことが明らかとなって、幕府の面目は丸つぶれになりました。しかし、幕府そのものに非を認めては封建体制が維持できません。そこで、小笠原家領内で庄兵衛が暴れたことがあるのに目を付けて、同藩を生け贄に罰することに決め、召し捕り不行き届きを理由に、福島県の棚倉という不毛な地に、藩そのものを左遷しました。延享3(1686)年のことです。棚倉は表高こそ掛川と同じ6万石ですが、実質4万石程度のやせた土地です。ここで小笠原家は財政難に苦しみ、数十万両の借財を抱えることになります。

 文化14(1817)年になって、佐賀県の唐津に転封になります。前の領主は水野忠邦でした。つまり忠邦が老中になりたくて放り出した領地です。ここは表高は棚倉と同じ6万石ですが、物なりの豊かな領地である上に、長崎貿易の特権を認められているため、そこからの収入も莫大なのです。実質石高は20万石以上に相当するといわれました。ですから、小笠原家では、上下ともに、これで長年の貧窮から抜け出せると非常に喜びました。

 ところがここに転封後まもなく、時の藩主である長昌が江戸藩邸で死亡しました。その長子が、悲運の公子である長行ということになります。彼は文政5(1822)年生まれで、父の死の時、わずか2歳でした。唐津藩には、長崎貿易の特権が認められている代わりに、長崎で何か事件が起きたときには、長崎奉行をバックアップして活動しなければならないという使命を負っています。その際には家老などを指揮官とすることは許されず、藩主が陣頭指揮を執ることとされています。したがって、幼児が藩主となることは許されません。もし、藩主の死と、幼君の相続を正直に幕閣に届け出れば、小笠原藩は、ただちに再びどこかへ転封ということになります。

 そこで藩の重臣達は非情な決断を下したのです。すなわちれっきとした健全な世継ぎがいるにも関わらず、これを聾唖の廃人と幕府に届け出て、他家から養子をとることで、唐津に居座ることにしたのです。

 ところが、迎えた養子がいずれも病弱であったり、早死にしたりという不運にあって、その後、わずか17年の間に何と4代も立て続けに養子をとる羽目になりました。

 その間に長行は健康に成長したので、最後に藩が養子に迎えた長国は、長行より2歳も年下でした。それでも廃人と幕府に届けてしまっている以上、長行が家督を継ぐことはできず、別に養子が迎えられたわけです。

 長行は、普通の世であれば、このまま埋もれて生涯を終えてしまうはずでした。しかし、井伊直弼が、不遇時代もせっせと文武の道に励んでいたのと同じように、彼も文武の道に励みました。水戸斉昭の懐刀であった藤田東湖などについて学問を学んだところから、そうした文人達を通じて彼が英才であることが、徐々に世に知られるようになってきました。唐津に鏡山という山があるそうです。鏡=明るいという言い換えをして、彼は明山と号していました。そこで、明山公子と呼ばれるようになったのです。この名そのものが、いかにも英才という響きがありますね。

 彼の幸運は、30歳を過ぎてから、ようやく訪れました。ペリーの来航です。第1章に述べたように、阿部正弘はこの時広く意見を公募しました。長行はこれに応えて幕府に建白書を提出したのです。長い不遇に耐えかねて、積極的に自分の売り込みを始めたわけです。もっとも直接提出するのははばかられて、水戸斉昭を経由したようです。

 この結果、幕府にも、この埋もれた英才の存在が知られるに至りました。とにかく国難の時期ですから、優れた能力を持つ大名は喉から手のでるほど欲しいところです。したがって、普通であれば直ちに幕閣へ召し出し、何かの役職に就けるというところです。しかし、廃人という届け出でがあって、世子にもなっていないのではどうにもなりません。

 そこで、心ある諸侯などあちこちから藩主長国に圧力が掛かった結果、一門の次男と履歴を偽って、藩主の養子とし、ようやく世子となることができたのです。父とされる方が2歳年下というまことに奇妙な養子縁組でした。安政4(1857)年、長行36歳の時です。

 しかし、それでも世子に過ぎませんですから、普通であれば、父親ということになっている藩主長国が死ぬか、隠居しない限り公職に就くことはできません。また、藩主になったところで、唐津に領地を有する限り、水野忠邦の前例に明らかなとおり、本来、老中になるということは、幕府の慣例上は不可能です。

 彼が世に出ることができたのは、彼の生きた時代が幕末という非常の時であったからに他なりません。文久2(1862)年6月に、前々章に述べたとおり、安藤=久世政権が崩壊します。この6月に偶然、彼は、領国に戻った長国に代わって江戸にでてきて将軍に拝謁したのです。

 人材に飢えていた幕府では、彼を世子としての身分のまま、7月21日に奏者番に抜擢します。奏者番というのは実権は何もない官職なのですが、なぜか老中になるための登竜門としての役割を担わされていました。さらに8月19日に若年寄に抜擢され、9月11日には老中格とされます。そして10月1日には外国御用掛に任じられます。

 幕府の長い歴史の中で、このように、世子のまま老中格となったのも初めてなら、唐津藩から老中格となったのも、そして奏者番発令後わずか3ヶ月で老中格となったのも初めて、そして老中格の外国御用掛も初めて、という初めて尽くしの人事でした。幕府における人材の不足と、彼に対する世間一般からの期待の高さを端的に示す人事ということができます。

 しかし、もちろんこれは彼にとって幸運とはいえません。前章に述べたとおり、8月21日に生麦事件が起きています。したがって、老中格とされたのも、外国御用掛とされたのも、彼に生麦事件の始末を付けさせるための人事であることは明らかです。ほとんど見習い期間もなく、いきなり彼は国の命運をその背に担わされたわけです。

 もっとも外国御用係がつとまる人材が当時の老中にいたか、というと、間違いなく、ほかにはいません。長行は唐津藩の公子で、この長崎貿易という利益の多い特権が、彼の青春を奪っただけに、海外貿易に、当然強い関心を持っていました。幼い頃からたびたび長崎に行き、外国との交渉という概念そのものが、いわば自然に血肉となっていた、といえるでしょう。

 彼は前に述べたとおり、水戸斉昭の引き立てで世に出たのですが、このような履歴から当然のことながら、彼は思想的に180度逆の開国派です。そこにも、幕府を支える官僚達との共通性が存在し、彼らに擁立されることになったわけです。

2. 生麦事件の後始末

 前章に述べたように、松平春嶽は朝廷による攘夷要求に耐えかねて、文久3年3月に政治総裁職を投げ出し、夜逃げ(とは慶喜の表現ですが)同様に、越前に逃げ帰ってしまいます。

 政治総裁のいない幕閣では、将軍後見職である一橋慶喜が最高責任者ということになります。慶喜という人は、本来思想的には開国派なのですが、前に述べたとおり、将軍家茂は攘夷の決行を迫る勅使に対して「勅諚(ちょくじょう)の趣、畏まり奉り候」と返事をしてしまっていますから、それ自体を翻すわけには行きません。責め立てられて返事に窮した慶喜は、3月19日、とうとう攘夷決行の期日は5月10日である、と返事をしてしまったのです。これが下関砲台砲撃事件などにつながる幕末における戦乱の原因となります。

 こんなことを言った後の3月23日、慶喜は長行に対して、慶喜より一足先に江戸に帰り、対英交渉を行うように命じたのです。しかし、攘夷の決行を公約した後なのですから、対英交渉といっても、その中味は賠償金の支払い拒絶と、横浜の鎖港を実現しろ、ということです。

 前章に述べたとおり、ニール英国代理公使は、要求を実現できるだけの史上空前の強大な海軍力を横浜に集めて、その上で初めて要求を出しているのです。したがって、それを全面的に拒絶しろ、というのは、不可能を要求しているのに他なりません。しかも、長行に与えられた時間はほとんどないのです。というより、もう時間がなくなった時点で命令が下った、という方が正確です。

 ここで簡単に時系列を追ってみましょう。ニール代理公使から、20日間の期限付きで賠償金支払い要求が出たのが、文久3年2月19日のことです。将軍家茂が江戸を出発したのが2月13日ですから、その1週間後ということになります。外国奉行の竹本正雅が急いで将軍の後を追い、掛川で追いついて報告していますが、もちろん将軍自身は処理能力を持っていません。時間を稼ぐようにいうだけでした。

 2月19日の20日後ですから、3月9日が期限です。しかし、幕閣の主要メンバーが上京してしまっているのですから、もちろんこの日までに回答をする、などということは不可能です。江戸の留守を守る外国奉行では、ニール代理公使と交渉して、期限をもう15日延ばしてもらいました。しかし、責任者がいないのですから、この程度の延期ではどうにもなりません。さらに何度かの交渉の結果、将軍が江戸に帰る当初予定の4月6日まで、期限を延ばしてもらうことを、ようやくニールに了解させることができました。

 しかし、春嶽はもちろん、慶喜も、こうした外国奉行達の勝ち取った時間的余裕を全く生かすことなく日を送り、上記のとおり、期限ぎりぎりの3月23日になってようやく長行に対応しろ、と命令したわけです。長行は、この理不尽な命令に抵抗します。が、再三強いられてやむを得ず引き受けます。

 よりによって長行に命令する、ということ自体、非常に不自然な感が強いことは否めません。なぜなら、前に述べたとおり、彼は開国派であり、そのことは、2度目の勅使により春嶽が右顧左眄し始めて以来、再三、口頭あるいは文書で意見として述べています。そのことを百も承知の慶喜が、彼に攘夷の実行者になれ、と命令するのには、当然隠れた意図がある、と思う方が自然でしょう。つまり、慶喜としては攘夷は実行してほしくないのですが、彼自身が攘夷を実行すると天皇に対して公約しているので、自分が賠償金支払いの責任者になりたくないのです。そこで、自分の代わりに責任をとってくれる人間がほしい訳です。長行にはこの考えは明白に読みとれたでしょうから、引き受ける段階で、当然、最終的な結果を引き受ける覚悟を固めていたものと思われます。

 長行が京を出発したのが3月25日、江戸に着いたのが4月6日、すなわち最終期限の日です。しかし、外国奉行の方で、将軍帰着の予定が立たないことをニールに伝えてありましたから、ある程度の時間的余裕が生じていました。すなわち、前章に紹介したとおり、将軍家茂は予定通り江戸に帰るどころか、この時期には事実上朝廷の捕虜になったようなもので、何時帰れるか、全く目処も立たない状況にあったわけです。

 長行としては、英国海軍と戦えるだけの軍事力を全く与えられていないのですから、江戸が焦土となるのを避けたかったら、賠償金を支払うほかはありません。しかし、独断でそれを強行しては、当時の日本では命がいくつあっても足りません。

 慶喜は、長行だけでは十分に決定力がないことを承知していて、兄である水戸慶篤(よしあつ)を将軍の目代として、長行の後を追って江戸に帰らせました。水戸慶篤が江戸に着いたのが4月11日です。

 そこで、水戸慶篤が中心になって、御三家の今ひとつの家である尾張慶勝(よしかつ)にも出席してもらって閣議を開くことにしました。しかし、建て前と本音の落差は誰もが承知していますから、議論は錯綜します。長行は、わざと攘夷の実行を唱えて議論を混乱させたりしています。慶喜の理不尽な命令に対する腹いせの現れでしょう。

 結局、結論として賠償金の支払いを決めたのは4月21日のことでした。しかし、幕閣の最高責任者はあくまでも慶喜ですから、彼の了解を取る必要があります。そこで、ニールのほうには5月3日以降に分割払いする、と返事をして時間的猶予をもらうとともに、慶喜に連絡を走らせました。

 その慶喜は、4月22日に京を出発したのですが、わざと時間をかけて江戸に向かっています。前にも触れましたが、彼の悪い癖で、責任をとるような行動はしたくないのです。彼としては、不在の間に賠償金の支払いがおわり、彼がその非を責めるが後の祭り、という形が好ましいわけです。

 4月21日の決定の連絡を、慶喜は4月26日に、愛知県の熱田で受けています。賠償金を支払いたい、という連絡に対し、慶喜は、自分は攘夷決行の命令を朝廷から受けているので、そのような決定を認めるわけには行かない、中止せよ、異存を申す場合には手打ちにする、というむちゃくちゃな返事をします。

 こんな返事を受けては、部下としては時間稼ぎをするほかはありません。長行は、自分が病気になったので、3日間、賠償金の支払いを延期してほしい、と称して、改めて部下に英国側と交渉させます。しかし、仮病と読んでいるニールは、激怒したふりをして、約束通り賠償金を支払わないなら、艦隊行動を開始する、と回答します。もちろん脅しですが、実力を背景にしているだけに無視できません。

 そこで、期限を過ぎた5月4日の閣議は揉めに揉めました。しかも、その閣議の最中に、慶喜が再び浜松から、賠償金は支払うな、拒絶交渉をしろ、という命令を送ったのが届きました。これではどうしようもありません。尾張慶勝はすでにこの前日、京に行って賠償金支払いの必要を上奏する、と称して江戸から逃げ出し、名古屋城にこもってしまいました。ほかの閣僚達も、この翌日からは登城してこようとはしません。

 5月5日には、横浜にフランス海兵隊が上陸します。なお、このフランス海兵隊は、その後、数年間横浜に駐留し、横浜外国人居留地の租界化を図ろうとします。翌5月6日には英国海軍司令官が各国公使に対して軍事行動に出ることを予告します。

 この時期の江戸市民の反応については、福沢諭吉の『福翁自伝』に活写されています。福沢諭吉も含めて、江戸市民が英艦隊の攻撃開始必至と覚悟して、様々なドタバタ喜劇を繰り広げていたようです。

 ここにいたって、長行は覚悟を決めます。5月8日の朝、起きると彼は船に乗ります。この後の彼の行動について、福沢諭吉は次のように描写しています。

「いよいよ今日という日に、前日まで大病だと言って寝ていた小笠原壱岐守がヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗って品川沖を出ていく。スルト英吉利の砲艦が壱岐守の船の尾について走る。というのは、壱岐守は上方に行くといって品川湾を出発したから、もし本当にその方針をとって本牧の鼻を廻れば英人は後から砲撃するはずであったという。ところが壱岐守は本牧を廻らずに横浜の方に入って、自分の独断で即刻に償金を払ろうてしまった。10万ポンドを時の相場にすれば、メキシコドルで40万になるその正金を、英公使セント・ジョン・ニールに渡してまず一段落を終わりました。」

 江戸市民から見て、彼の行動がどんな風に映ったかが判っておもしろいと思います。

 もっともこの記述、記憶に頼っているため、あちこちが不正確です。すなわち、横浜に行った8日には、長行は、最後の交渉に自身で駆け回っただけで賠償金の支払いはしていません。しかし、これだけこじれた後ではいかんとも手がなく、翌9日に支払った、というのが正しい事実です。また、支払ったのは、44万ドルです。すなわち、この時、生麦事件の賠償金40万ドルに加えて東禅寺事件の賠償金1万ポンド、すなわち4万ドルも同時に支払っているからです。当時の邦貨に換算すると、26万9066両2分2朱ということになるそうです。ついでに言えば、この時点では長行は壱岐守ではなく、図書頭(ずしょのかみ)でした。彼が壱岐守になるのは、翌元治元(1864)年9月のことです。

 この支払いは、神奈川運上所(現在の神奈川県庁所在地)から英国公使館まで馬車で運ぶ、という方法で行いました。小判だと千両箱というのに入れますが、メキシコドルの場合には2000ドル入りの箱を使っていたそうです。割算すると、220箱と言うことになります。この大量のドル箱を馬車を22台連ねて運んでいったわけです。英国側では、中国人の貨幣鑑定人をあちこちから借り集めて貨幣の検査と鑑定にあたらせました。アーネスト・サトーの書き残している所によると、鑑定が終わるまでに丸三日かかったそうです。幕府に対する英国側の不信感がよく判る話です。

 ここで二つ疑問が生ずると思います。一つは、なぜこれだけ大量のメキシコドルが、この時の横浜にあったのかということです。原資は、言うまでもなく、横浜貿易の関税収入です。予め江戸から運んであったのだ、という説もありますが、これほど大量の資金を密かに江戸から運ぶことは不可能です。しかも、運上所に入った関税をいったん江戸に運んで、また戻すのは無駄なことです。私は、ニールから賠償金の支払い要求が出た段階から、長行がそれ以降の関税収入を意図的に運上所に蓄えておいたのだと考えています。

 今ひとつは、なぜ運上所役人は、長行の命令に従ったのか、ということです。この時点では、長行はまだ老中格であって正規の老中ではありません。格がとれて正式の老中になるのは、慶応元(1865)年になってからになります。しかも外国係であって勝手係ではありません。したがって幕府の命令系統的に言えば、公金の支払いを命ずる権限は持っていないのです。

 前に江戸幕府財政改革史で、幕府における財政制度整備の歴史を詳しく説明しました。簡単に言えば、この時点における幕府財政制度は、同じ時代の米国や英国よりも遙かに近代的なもので、ほとんど今日の財政制度と遜色がないのです。仮に現代において、どこかの省の出先事務所に、ある日突然他の省の大臣がやってきて、金庫の中の公金を支出するように命令したからと言って、おとなしくそれに応ずる官僚がいるでしょうか。

 この時の運上所の係官は、それと同じ立場にあります。したがって、いくら長行が責任をとる、と言っても、命令系統にない者の言うままに動いたのでは、幕府の官僚制度の下においては、当然の結果として、運上所の責任者も連帯責任になってしまいます。

 つまり、長行のこの日の行動は、巷間言われているほどの個人プレーではないのです。確かに慶喜の承認を得ないで行った違勅の行動ではありますが、幕府の官僚機構的には完全に承認され、事前に彼の命令に従うように、という通達が届いていた、と考えるのが正しいのです。

 また、実はこの時、水野忠徳が同行しているのです。このことも、決して長行が衝動的に屋敷から飛び出してきたわけではなく、ちゃんと関係者と連絡した上で行動したという事実を示しています。水野忠徳は、この前年の久光の武力を背景とした政変に際し、いち早く隠居してこの時期、痴雲(ちうん)と号していました。が、春嶽の失脚とともに再び勘定方ににらみを利かしていたわけです。その彼が同行している、という事実は、これが正規の勘定方に属する行動である、ということの証左になるわけで、たからこそ、運上所役人は、素直に公金の支出を認めたのだと思われます。

 受け取った英国側では、これほどの大金を公使館内においておくことに不安を覚えたのでしょう、英国艦隊の旗艦、ユーリアラス号に載せることにしました。ユーリアラス号でも、これだけの大金を置く場所はありません。そこで、艦底の火薬庫の前に積み上げました。つまり、このお金をどうにかしない限り、ユーラリアス号は大砲が撃てない状態になったわけです。このことが、同艦の薩英戦争における悲劇を引き起こします。

 一橋慶喜は、のんびりと東海道をやってきて、まさにこの5月8日の朝に、横浜とは目と鼻の先の神奈川宿につきました。宿場にはいると、神奈川奉行を呼んで江戸の状況を聞いています。おそらく、賠償金交渉の進捗状況次第では、ここで仮病を使って長逗留するつもりでいたのではないか、と私は疑っています。そうでなければ、さっさと通り過ぎて江戸に急ぐ方が自然な行動だからです。そうしていれば、生麦事件でも判るとおり、楽にその日のうちに江戸に入れます。

 こうして江戸の情報収集をやっている最中に、長行の乗った幕府の軍艦が横浜湾に入ってくるのを、ひょっとすると慶喜は自分の目で見たかもしれません。繰り返しますが、慶喜はこの時点における幕府政治の最高責任者です。そして、賠償金の支払いを禁ずるということは、長行が京都を出発するときに口頭で命じたばかりでなく、道中の熱田と浜松からも重ねて命じています。長行が最後の交渉をしているのは判ったはずですから、この命令を本当に遵守させるつもりなら、当然、船を出して慶喜自身が長行のいるところに向かうか、逆に長行を呼びつけるか、という行動にでたはずです。

 しかし、慶喜のしたことはその正反対の行動でした。それまでの鈍行ぶりからは想像もできない話ですが、夕方の4時くらいという、普通なら宿に入ろうという時刻に、馬を出させて、急いで江戸に向かったのです。江戸に着いたのは夜の10時くらいといいますから、暗い中をずいぶん長時間走らせての強行軍をしたことになります。

 もしそうせずに神奈川宿にそのまま泊まれば、当然神奈川奉行がそのことを長行に報告しますから、長行が指示を仰ぎに来るはずでしょう。すなわち、この不自然な時間の出発は、明らかに、慶喜が長行に会うことを避けて江戸に逃げた、という以外の解釈を許さないと思います。会えば、その翌日の賠償金支払いの責任をとらねばならないことになるからに違いありません。

 こうして、翌9日に長行が自分の責任で英国に賠償金を支払ってくれた結果、事態は、慶喜としては理想的な形に落ち着きました。すなわち、彼自身は勅命を忠実に守って、再三賠償金の支払いを禁じたにも関わらず、部下が勝手に支払ったのです、と胸を張って?天皇にお答えすることができる状況になってくれたわけです。

 5月14日に、慶喜は後見職辞職を願い出ます。攘夷の勅命を受けていたにも関わらず、部下が勝手に賠償金を支払ったのが申し訳ない、という趣旨の文書だったそうです。

 福地源一郎は、この時期以降、幕臣が慶喜に不信感を持つようになった、と『幕府衰亡論』の中で書いています。すなわち、もともと慶喜は心情的には開国派です。それなのに、やたらと攘夷を実行しろと言い立てるのは、これを利用して将軍家茂を失脚させ、自分が取って代わろうという野望を持っているためではないか、と幕臣は一般に疑うようになった、というのです。

 この疑いの当否はともかく、この時点以降、江戸にいる官僚達が、実行不可能な攘夷というものを安請け合いし、その尻拭いだけを要求してくる、上方に駐在している幕閣に対して大きな不信感を持つようになったことは間違いのない事実です。このため、官僚達は、長行を担いで大変なことを始めるのです。

3. 率兵上京

 小笠原長行が、横浜で英国に賠償金を支払ったその翌日、5月10日こそ、慶喜が朝廷で攘夷決行期限として公約した日です。そこで、5月9日、賠償金支払い業務を行う一方で、長行は勅令に忠実に、各国公使に対し、鎖港を通知する文書を発しています。もっとも、各国公使からの問い合わせに対し、外国奉行は口頭で、これは形式だけのことだ、と返事をしています。

 そこで、各国公使の方では、強硬な抗議を申し入れていますが、その抗議文の中で、幕府に対する資金援助等を匂わせるという微妙なものとなっています。これは、各国ともに、幕府の鎖港通知が朝廷に対するポーズであることを承知しており、したがって日本との通商関係を維持するためには、朝廷支配を打倒する必要がある、と考えるようになったこと、そのためには資金援助等を考えるようになったことを示しています。

 ただし、忠実に?勅命を守って攘夷活動を始めた藩もあります。長州藩ではこの日から、関門海峡を通過する外国船に向けて砲撃を開始しました。もっとも、後に詳しく説明しますが、狙いが不正確な上に、射程距離が短いものですから、何の被害も与えていません。

 そのニュースがわが国の朝野を震駭させた余韻も冷めやらぬ5月26日、小笠原長行は、彼の名を歴史の上に刻む第二の行動に出ました。率兵上京事件です。

 前章で、春嶽政権の下で、幕府が洋式軍隊を創設したことを説明しました。この時点における、そのほとんど全員を引き連れて、彼は幕府海軍の船を使って上京したのです。具体的に言うと、連れて行ったのは騎兵奉行及びその指揮下の騎兵隊150名、歩兵奉行及びその指揮下の歩兵方100人、歩兵1200人、外国御用出役150人、計1600人という大部隊です。

 1600人という人数そのものは、戦国時代の軍勢を考えると、そう多いものではありません。しかし、長きにわたって平和の支配した徳川時代には、これは大変な大部隊です。島津久光が700人の兵を率いて江戸まで来たおかげで、日本史の書き換えに成功したことを考えてください。

 しかも、単に頭数が多いだけではありません。1年間とはいえ、洋式訓練を受けてきています。慶応2(1866)年に起こった第二次長州征伐の際、幕府軍は四方面から長州に攻め込みましたが、三方面まで撃退されました。ただ一つ、撃退されるどころか、長州軍を押しまくったのが芸州口で、そこの主力部隊が、この洋式歩兵隊だったのです。したがって、この時代における日本最強の軍といっても過言ではない存在でした。これが完全武装して小笠原長行にしたがって上京したわけです。

 幕府海軍の蟠龍、朝陽、鯉魚門の3隻及び英国の民間汽船エルギン号及びラージャー号の2隻の計5隻にこれらの兵を分乗させて紀州の由良まで行き、ここで大阪から迎えに来た幕府軍艦順動と合流し、英国汽船に乗っていた兵をあらためて幕府軍艦に移譲させて、幕府軍艦だけで大阪まで行きました。

 この事件について、長行自身がどのような意識を持っていたかははっきりしません。しかし、例えば小笠原クーデターなどと呼んだりして、日本史学者は一般に長行自身の主導と考えるようです。

 私は、この事件が長行自身の主導で起きたと考えるのは無理だと思っています。これだけの軍隊を京まで移動させようとすれば、大変な準備作業が必要です。前節に、詳しく時系列を示しつつ、生麦事件の賠償金支払いにおける長行の活動を紹介しました。これを簡単に要約すれば、彼は慶喜にしたがって長く上方におり、江戸に戻ってからは賠償金支払い問題に全力投球をしていたのですから、とてもこの事件の下準備をする時間的余裕はなかった、と断定できます。

 また、幕府の官僚機構上の問題もあります。彼は老中格の外国係であり、それ以上の独裁権は持っていません。彼が命令したからと言って、騎兵隊や歩兵隊が動くわけはないのです。同様に、幕府海軍を動かす権力も持っていません。さらにこれだけの兵を動かすには莫大な資金が必要ですが、その資金は勘定方が握っていて、長行の自由になるものではないことは、前節でも強調したところです。

 長行自身、事後になせ兵を率いて上京したかと聞かれて、自分としては賠償金支払いにいたる経緯を説明するために上京しようとしたところ、兵が是非一緒に連れて行ってくれ、というので、つれてきただけだ、という趣旨の答弁をしています。私は、実際にもこれが真実だと思っています。つまり、兵が上京する事前準備はこの時までに整っていて、名目上の司令官として長行が担がれた、と見るのが自然と思われます。

 では、いったい誰が何のためにこの事件を企画したのでしょうか。

 背景にあるのは、在江戸幕府官僚の総意であろうと思います。すなわち、将軍上洛の留守を預かる幕府高級官僚は、朝廷を操る過激派の横暴と、テロルの恐怖におびえて唯々諾々と幕府や日本の利益を無視した命令を発してくる幕閣に対し、憤懣やるかたない状態であったわけです。

 具体的にこの計画に参加したメンバーを見ると、そのことがよく分かります。

 英国汽船を借り上げる交渉をしたのは、若年寄酒井忠ます(ますと言う字は田偏に比と書きます)です。彼は5月17日にフランス艦セミラミス号上で英仏の公使や提督と会談し、英国汽船の借り上げ交渉をまとめています。外国側は、これは前の抗議文で匂わせた物的援助の申し出に対する幕府の回答であり、したがって派兵は幕府による朝廷に対するクーデター計画を意味する、と理解していました。そして、クーデター成功の暁には、かねて幕府と諸外国との間で懸案となっていた大阪や兵庫の開市・開港、横浜居留地の租界化などが実現できる、という言質をもらったという意識であったことは確実です。

 同じく外国側の理解では、このクーデターは、慶喜を担いで行う、というものでした。慶喜が実際に関与していたかどうかは全く判っていません。慶喜は、『昔夢会筆記』の中で、この事件は「余の関知するところにあらざるなり」と明言していますが、平気で嘘をつくことでは定評のある人ですから、あまり信用できません。たぶん計画の進行については十分に承知していながら、土壇場でいつものとおり、朝敵の汚名を着るのが怖くなって逃げたと理解する方が妥当と思います。

 小笠原長行の供をして上京した主要官僚は、勘定奉行や外国奉行を歴任した水野忠徳であり、この時点では江戸町奉行であった井上清直であり、そして目付である向山一履、同じく土屋正直でした。水野忠徳と井上清直が勘定方を代表する実力者であることは皆さんもご存じのとおりです。つまり、幕政を動かす上での実力を有する二大派閥である勘定方と目付が手を組んで行った計画であることが、この顔ぶれに端的に示されていると思います。

 小笠原長行が横浜を出発したのが前に述べたとおり、5月26日です。4隻の幕府軍艦が大阪に入ったのは6月1日でした。途中、由良で外国船から幕府軍艦に乗り換えるのに2日もかけて、なおこの日数ですから、陸上行軍に比べて汽船利用の軍隊移動がいかに迅速かがよく判ります。

 軍が全員上陸し、出発準備が完了した時にはもう午後4時になっていました。しかし、徹夜で行軍して6月2日の朝には枚方に着いていました。この時、彼らの上京の報に驚いた幕閣が派遣した若年寄稲葉正巳が馬で駆けつけ、入京の差し止めを命じました。しかし、長行は構わず橋本までさらに進みました。ここで将軍の使い番である松平甲太郎が駆けつけ、「しばらくそこに止まるように」と説きました。しかし、そこでは宿がとれなかったため、長行はさらに進軍を続け、淀まできて、初めて兵を分宿させました。

 淀というのは、今では京都市伏見区になりますから、京都市内に入っていますが、当時は、京都の郊外であって、決して京の市内ではありませんでした。こうして完全に入京せず、ここで停止したことが、このクーデターの成否を分けました。

 朝廷はもちろんこの露骨な力の威嚇に震え上がりました。天皇は守備兵に戦闘準備を命じましたが、もちろん歯が立つものではないことは明らかです。そこで、ヒステリックに将軍家茂に対し、小笠原長行を何とかするように命じました。

 6月4日になって、老中首座である水野忠精自身が駆けつけ、勅命及び台命による入京の禁止を説得しました。翌5日には、将軍家茂の親筆で入京の禁止を命じてきました。ここで、幕府としてのクーデターは、その命運が決まったのです。

 幕閣は、6日には今一人の主席閣僚である板倉勝静が駆けつけてなおも説得に当たる一方、関係者に処罰を申し渡しました。長行に免職を申し渡すとともに、水野、井上ら、随行した主要官僚に差控(さしひかえ)、すなわち謹慎を申しつけました。軍は江戸に返すことを命じました。

 しかし、だからたちどころに軍が消えてなくなるわけではありません。

 震え上がった朝廷は、将軍家茂が江戸に帰ることを7日に承認しました。家茂は、9日に二条城を出発し、13日に、長行らが乗ってきた幕府軍艦に座乗し、江戸に帰りました。こうして、小笠原率兵上京事件は、具体的には京都に軟禁状態にあった将軍家茂の救出という効果だけを上げたことになります。

 当初は、切腹を命じられるのではないか、といわれたりしたのですが、結果として、長行に対する処罰は非常に軽いものに終わりました。翌元治元年9月まで謹慎を命じられただけで済んだのです。さらに慶応元年には老中格に再び返り咲き、そのわずか1ヶ月後には格がとれて正規の老中となりました。

 いくつもの違勅を重ねたにも関わらず、このように軽い処罰で済んだことに対する明確な説明は存在していません。おそらく彼の背景にある勢力、特に軍部クーデターに対する恐怖が、朝廷及び幕閣にもあったためではないかと私は思っています。

 なお、この事件が水野忠徳の最後の公的活動となりました。以後は本当に隠居生活に入り、世に出ることはありませんでした。慶応4(1868)年7月9日に死亡しています。享年58歳。まだ死ぬ年齢ではない、と思いますが、徳川家に尽くし続けた彼としては、その滅亡を見て生きる気力を失ったのでしょう。なお、その死の直後の7月18日に江戸が東京に、また、9月8日に、年号が慶応から明治に、それぞれ改まっています。彼は最後の江戸人として死んだのです。

 この事件は、評価の難しい事件です。もし成功していれば、幕府と英国やフランスの結びつきがより強くなり、悪くすると、わが国が植民地化したかもしれません。しかし、うまく行けば幕府が貿易の実利を独占する形で、より強大になり、幕府主導かで明治維新が実現していたかもしれないのです。

 とにかく、事件当時、京都は軍事的空白状態にあり、長行が連れて行った強大な武力を背景に、幕閣が腹をくくって朝廷の支配に乗り出せば、成功していた可能性は非常に大きいと言わねばなりません。その意味で、幕府が滅亡しないで済む最後の機会であったことは間違いのないところです。

 小笠原長行の生涯における2回の失敗ということを冒頭で述べましたが、その一つはこの時です。水野忠精及び板倉勝静を排除して、自分で政権を握るほどの覇気が長行にあれば、この時、日本史は確実に大きく変わっていたはずなのです。水野忠徳は、後々まで、この時、決行しなかったことを悔しがっていた、ということです。

 

4. 薩英戦争

 文久3(1863)年6月22日(西暦だと8月6日)に英国極東艦隊は横浜を出港し、鹿児島へと向かいました。

 この艦隊行動は、理屈から言うと奇妙なものです。そもそも民間人が殺傷された事件で、遺族等に対する賠償金請求はともかく、政府として要求するというのは奇妙なものですし、いろいろ紆余曲折があったにせよ、幕府が賠償金の支払いを行ったのに、それに重ねて薩摩藩から2万5千ポンド(10万ドル)も取り立てようというのはさらに奇妙な話です。

 この裏にはニール代理公使の政治的判断があります。すなわち前節で、横浜の鎖港通知に対する抗議文が、同時に幕府に対する援助申し出でになっていた、と述べましたが、おそらくニールはこの機会に日本の国内政治に英国として直接介入することを狙ったのだと思われます。

 その結果、この遠征隊は非常に大規模なものになりました。当初、極東艦隊のキューパー提督は2隻以上の艦の派遣に難色を示しましたが、ニールはこれを押し切って、この時点で横浜にいた全英国艦を派遣することにしました。具体的には旗艦ユーラリアス号(2371トン、砲35門)、パール号(1469トン、砲21門)、アーガス号(981トン、砲6門)、パーシューズ号(955トン、砲17門)、レースホース号(695トン、砲4門)、コケット号(677トン、砲4門)のほか、砲艦ハヴォック号(233トン、砲3門)の計7隻です。ハヴォック号は小型のため、横浜から鹿児島までの全行程をほかの艦に曳航されていきました。

 ニールは、日本人は艦の数さえ見せれば腰が砕ける、という固定観念を持っていたのだ、ということが、この足手まといのハヴォック号までもつれていった、ということによく示されています。

 すなわち、ニールは薩英戦争を予想していたのではありません。艦隊の脅威を示して、薩摩を屈服させ、薩摩との直接交渉の道を開くことを狙っていたのです。このため、艦隊には、ニール本人だけでなく、末席の通訳生であるアーネスト・サトーに至るまで、この時点における在日英国公使館の全職員(といっても8名ですが)も同行したのです。

 このニールの楽観的な期待は、キューパー提督以下の海軍側にも伝染して、航海には物見遊山的な雰囲気が支配していました。鹿児島湾に入ってもその雰囲気は続いていました。鹿児島湾というところは、桜島を作った火山の火口湖ですから、湾の中央では深すぎて碇を降ろすことができません。だからといって、沿岸砲台の射程距離内に全艦が碇を降ろした、というのは戦闘部隊としては信じられないような失態です。

 ニールは、いつもの幕府との交渉方法、すなわち居丈高に相手を恫喝する、というやり方で薩摩藩との交渉に入りました。生麦事件以来、ひたすら戦争を覚悟して準備を進めていた薩摩藩に通用する交渉技術とはいえません。交渉が全く進捗しないのに業を煮やしたニールは、キューパー提督に強硬手段を執るよう要請しました。そこで、キューパー提督は、薩摩藩が所有していた3隻の洋式汽船を拿捕することにしたのです。

 信じられない話ですが、このような強硬手段の採用は単に交渉の一手段のつもりでした。そんなことをしたら、薩摩側としては、これを開戦行為とみなさざるを得ない、ということが、ニールにもキューパー提督にも全く認識されていなかったのです。

 英国側が3隻の汽船を拿捕したのが7月2日(西暦8月15日)の朝9時のことでした。これに対して、薩摩側は同日の正午ちょうどに轟然と英国艦に対する砲撃を開始しました。英国の側の緊張感の欠如は、これが正午であったため、最初のうち、正午を知らせる時砲だと思っていたことに、よく現れています。しかし、沿岸砲台のまっただ中に停泊しているのですから、数分のうちに周り中から砲弾が飛んでくるようになりました。特にパーシューズ号は位置が悪く、逃げ出すため、碇綱を切り捨てるほかはありませんでした。

 もう一つ、緊張感の欠如を示す挿話がユーラリアス号にあります。前にちょっと触れましたが、幕府からむしり取った44万ドルの入ったドル箱が、この時点でも、ユーラリアス号の弾薬庫の入り口の前にうずたかく積み上げられていたのです。その結果、英国艦隊の最大、最強のこの艦は、開戦後2時間というもの、1発の弾も打たなかったのです。弾丸がどんどん飛び来る中で、まずドル箱の撤去作業をしなければならなかった水兵達が何を考えていたか、知りたいものです。

 当然のことながら、拿捕した3隻の汽船を持ち逃げするような余裕はありません。これについてはもったいない話ですが、火を放って沈没させることになりました。キューパー提督がこの命令を下すと、手近にいた兵員達は一斉にこれらの船の備品の略奪に走ったと言います。まさに火事場泥棒も良いところです。この当時の英国海軍の人的レベルの低劣さがよく判る挿話です。こうしたことから来る英国側の動きの鈍さも薩摩側に味方したわけです。

 英国艦隊はいったん砲台の射程距離から逃げ出して、艦隊を再編成すると、改めて薩摩側の砲台との交戦を開始しました。特にアーガス号は最新型の100ポンドアームストロング砲1門を備えていて、これは大きな威力を発揮しました。しかし、薩摩側の攻撃もすさまじく、その砲火は特に旗艦ユーラリアス号に集中しました。その結果、艦長ジョスリング、副長ウィルモットその他数名の士官や兵員、計9名が戦死しました。

 結局、キューパー提督はそれ以上の戦闘継続をあきらめ、横浜に退却しました。艦隊の誰もが戦闘の継続を臨んだのですが、それが不可能な事情があったのです。すなわち、この艦隊はすべて蒸気艦だったのですが、石炭が欠乏してきてしまったのです。蒸気艦で戦闘中に燃料がなくなって漂流を始めれば沿岸砲台のいいカモになるのは、判りきった話です。

 薩英戦争については、薩摩の負け、というような説が存在していますが、要求をすべて拒んで撃退に成功したという点だけからみれば、むしろ薩摩側の完全勝利といってもよい結果だったわけです。

 では、なぜ薩摩側の負け、という説が存在するのでしょうか。それはパーシューズ号が、鹿児島市街をロケット攻撃し、大きな被害を与えたからなのです。

 ロケットというと、我々が現代科学の粋のように思いますが、その歴史は意外に古いのです。英国でロケットを発明したのはサー・ウィリアム・コングリーブという人物です。その発明になるロケットを装備した部隊を、英国は第2次独立戦争ともいわれる1812年の米国との戦いに投入しています。その結果、米国国歌の一節には「ロケットの赤き炎the rocket's red glare」という言葉が今も残っています。

 第二次世界大戦中の日本やドイツの市街地に対する無差別爆撃を知っている我々には信じ難い話ですが、英米では、直接戦闘に関係のない一般市民に対する戦闘行為は、今も昔も非常に強く非難されます。例えていえば、ボクシングの試合の最中に突然相手の下腹部を殴りつけるような、ルール違反の行為と評価されるわけです。

 例えば湾岸戦争の際にも、米国がイラクに投下した爆弾が軍事施設以外を破壊した、という報道が盛んに行われたことをご記憶と思います。そこで、この薩英戦争の結果がが英国本国に伝えられると、この鹿児島市街を破壊した行為は世論の激しい非難を浴びることになります。

 これに対して、英国政府は、鹿児島市街の破壊は、強風の吹き荒れる中、沿岸砲台と交戦しなければならなかったという事情の下で起きた偶発的な出来事であった、と釈明しました。もちろんこれは嘘です。砲台を狙った砲弾がそれて市街に飛び込んだのではなく、はじめから市街を狙ってロケット攻撃をしているからです。ロケットは、砲台のような防備の堅いところには役に立たない武器なのです。薩摩側の砲台の攻撃の激しさに手を焼いて、牽制のためやった攻撃と思われます。

 結局、英国議会は、政府は「鹿児島の街を焼いたことに遺憾の意を表明し、英国の鹿児島での攻撃は、文明国の間で行われる通常の戦争に違反するものであり、キューパー提督の個人的な責任を問う」べきである、と議決したのです。

 しかし、結果としてこの鹿児島市街への攻撃が薩摩側の態度を変えることになります。日本では、戦国の昔から、戦闘にあたっては付近の民家に火を放つというのは普通の戦術ですから、火を放たれたこと自体はあまり怒りません。むしろ、その威力に感心したわけです。

 薩英戦争から3ヶ月後の9月28日から、横浜で薩摩と英国の話し合いが始まりました。この時の会議、および10月4日の会議では、薩摩側は自分たちの正義を主張し、英国側の非を唱え、英国側はその正反対の主張を繰り返したので、議論は全く進展しませんでした。ところが10月5日の第3回の会議で、薩摩側は突然態度を変えます。薩摩としては軍艦を購入したいので、英国側がその周旋を行ってくれるなら、生麦事件の賠償金の支払いに応じてもよい、といいだしたのです。つい最近、戦火を交えた相手に武器を売ってくれ、というのは、完全に英国側の意表をついた提案でした。

 ニールは最初断ったのですが、その後で、英国としては薩摩側が懇親の意を表せば軍艦購入の斡旋を引き受けてもよい、と付け加えました。これに対して、薩摩側は軍艦購入の周旋を依頼すること自体が懇親の現れである、と述べたため、会談はその後、にわかに順調に進みだし、希望する軍艦の型、その代価、建造に要する日数、さらには船を操縦する技術を教える教官の派遣というようなことにまで話が進んだのです。

 ここから、以後の幕末の歴史を支配する薩摩と英国の協調体制がスタートすることになります。そのために幕府はさんざん苦労し、最後には滅亡することになるわけです。

 そのことを思うと、こうして交渉が妥結した後で、薩摩のやった行為は実に人を食っています。薩摩藩は、手元不如意のため資金がないとして、賠償金を貸してくれ、と幕府に申し込んだのです。なんといっても鹿児島市街が全焼しているのですから、これは嘘ではありません。そこで、幕府が、薩摩の賠償金を全面的に肩代わりすることに決めたのは10月28日のことです。そして、11月1日に賠償金10万ドルが幕府から英国に支払われました。結局、生麦事件の後始末のために幕府が英国から搾り取られた額は54万ドルという巨額に達しました。

5. 8月18日のクーデターと参与会議

 幕府が、この時期薩摩藩に好意的な態度を示したのには訳があります。この年の後半、幕府と薩摩藩は非常に緊密な協力関係にあったのです。

 実は薩英戦争が始まる以前の文久3(1863)年5月20日、尊王攘夷派のリーダー格であった姉小路公知(きんとも)が暗殺されました。この事件の真犯人は今日に至るも謎ですが、殺人現場に薩摩藩の田中新兵衛の刀が落ちていたことから、彼が犯人ではないかと疑われました。

 田中新兵衛は、人斬り新兵衛の異名で知られる幕末有数の暗殺者ですから、疑われるのは無理のないところがあります。しかし、彼のような熟練した暗殺者が、現場に自分の愛刀を落として逃げる、ということは常識的に考えられません。そのため、彼はこの件に関する限り無実だ、と今日では考えられています。しかし、新兵衛は取り調べられた際、一言も抗弁せず、取り調べ側の一瞬の隙をついて自殺してしまいました。

 このため、この当時は、彼が真犯人と断定され、したがってそれは薩摩藩自体の意思であったと考えられたので、薩摩藩が御所への出入りを禁じられる、という事態に発展しました。この結果、京都は長州藩の天下となりました。ここから逆に、おそらく姉小路暗殺事件の黒幕は長州ではなかったか、というように思えます。

 そこで失地回復を目指した薩摩藩は、思い切った手段にでました。京都守護職を務める会津藩に接近したのです。薩摩藩は、こういう政治的寝技が得意なことでは知られた藩ですから、長州側でもある程度の警戒はしていたに違いありません。しかし、この時、薩摩藩が陰謀の主役として起用したのは、西郷隆盛でも大久保一蔵でもありません。明治維新後には明治天皇の和歌の師として有名になる高崎正風(この時点では高崎左太郎)です。この時以前に全く政治的活動歴がない人物です。ついでに言えば、この時以後も全く政治的活動を行っていません。そういう非政治的な人物が動いたために、長州藩の意表をついたことになるわけです。

 狙いは、この特定の時点において、会津藩が偶然にも握ることになる予定の巨大な兵力です。会津藩では、京都守護のため、1000名の藩兵を京都に常駐させていました。しかし、兵達にとって、故郷と気候・風土・方言の大きく異なる京都に長期にわたって滞在するのは苦痛です。そこで、会津藩では、時々国元から交替の兵を呼び寄せていたのです。そして、この時点で、現に京都に駐留する兵に代わるべく、1000名の兵が上京してきました。したがって、この交替のための事務引継期間だけは、会津藩は普段の倍の2000名の兵を保有していることになります。これに薩摩藩が京都においている兵を合わせれば、無敵の力を持つことになります。

 会津藩は、およそ政治的活動が苦手で、だからこそ、京都守護職のような損な役割を押しつけられたくらいです。したがって、薩摩に言われるまで、この兵の交替に伴う軍事力の増大には気がついていませんでした。しかし、長州の横暴を苦々しく思っていた点では、直接に京都市内の治安維持のため、大変な苦労をさせられているだけに、薩摩藩の比ではありません。長州を追い落とす、ということに全く異存はないわけです。こうして、幕末最大の奇現象である薩会秘密同盟が成立したのです。

 文久3年8月18日、クーデターの幕が切って落とされます。この日の深夜1時に中川宮朝彦親王が突如参内すると、それをきっかけに守護職松平容保、京都所司代(淀藩主)稲葉正邦らが武装した兵とともにぞくぞく入門し、あっという間に京都御所を内側から固めてしまったのです。薩摩藩士は、わざと長州藩が警備を担当している堺町門に集結し、門を固め終わると、その合図に大砲を一発撃ちました。午前4時のことです。

 急を聞いた長州藩では、堺町門の正面にある鷹司邸に集結しました。長州兵数百のほか、三条実美の命により、32藩から計約1000名の兵の動員に成功しました。しかし、両軍の兵力の落差は大きく、ここで開戦するのは不利という判断から、結局、長州藩兵は三条実美ら、7名の公家を守って国元に退くことになりました。有名な七卿都落ち事件です。

 なお、中川宮はこの事件の主役になったことで、長州の深い憎悪を一身に浴びることになりました。その結果、明治維新と同時に官職を剥奪され、広島に幽閉されることになります。明治8年になってようやく許されて、新たに久邇宮(くにのみや)家を起こし、伊勢神宮の祭主とされました。明治24年に死亡しました。

 こうして、会津と薩摩は、一気に京都から攘夷派の勢力を一掃するのに成功したのです。だから、薩英の和平交渉の時期には幕府と薩摩は蜜月関係にあったわけです。

 孝明天皇が基本的には佐幕派的思想の持ち主であることは、先に紹介したとおりです。天皇の招集により、まず10月3日に島津久光が上京してきました。彼は、今度はおおっぴらに大砲隊2隊、小銃隊12隊、計15,000人という大部隊を率いてきました。前回の上京時同様、この軍事力を背景に政治の流れを変えようと言うのが彼の狙いです。10月18日には政治総裁職を勝手に辞めて逃げ出していた松平春嶽が、そして11月3日には伊達宗城(むねなり)が、それぞれ上京しました。一橋慶喜その人が京都に来たのは11月26日のことでした。

 山内容堂は、8月18日のクーデターにより、天下の流れが公武合体派の方向に決まったと見極めると、9月21日、当時土佐藩を牛耳っていた武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の幹部を一斉に逮捕投獄し、藩内過激派の大掃除を断行しました。このため、少し遅れて12月28日になってようやく上京してきました。これで、久しぶりに一橋派の有力諸侯が京都に集まったわけです。

 島津久光は、一橋派の諸侯を説得し、彼ら有力諸侯に、クーデターの主役として一気に人気の高まった松平容保(かたもり)を加えたメンバーを、天皇が参与に任命し、この参与会議で国政を動かそうという体勢を作り出したのです。正式発令は12月晦日、この年最後の日になされました。さらに、翌年1月13日に久光自身にも官位が与えられ、同時に参与に任命されました。

 孝明天皇は、この参与会議の発足をことのほか喜び、家茂を何度か呼んで、長州を排撃し、幕府中心に軍備の増強を命ずるなど、この時期、幕府と朝廷の政策は完全に一体となっている観がありました。

 この参与会議が、しかし、2月中旬には早くも空中分解してしまいます。たたき壊したのは、一橋慶喜その人です。一橋派の諸侯は、そろって基本的に開国派の思想の持ち主ですから、朝廷の実権を手に入れたのを機会に、鎖港攘夷の国是そのものを改正しようとしました。ところが、その中心となるべき慶喜が、一人だけ鎖港攘夷論に固執して、会議を邪魔したのです。

 さらに、その翌日、2月15日、今度は中川宮朝彦親王の屋敷で、島津久光が松平春嶽や伊達宗城と善後策を相談しているところに、わざと酒に酔って現れ、朝彦親王に向かって、久光達「この三人は天下の大愚物、天下の大奸物にござ候ところ、いかにして宮は御信用あそばされ候や」といったのです。その場に、その三人が同席しているのですから、これは面と向かってののしったのに等しい行動です。当然彼らは激怒し、ここに参議会議は完全に暗礁に乗り上げます。

 慶喜は、さらに念の入ったことに、別途、孝明天皇には2回も奉答書を提出し、鎖港に向けて努力中である、と報告したのですから、天皇はもちろん、それを信用します。

 なお、この点は嘘ではありません。幕府は鎖港交渉のための遣欧使節をこの前年の暮れも押し詰まった12月29日に再び送り出していたのです。天皇が慶喜のいうことを信用すれば、外国との交渉を認めようなどという話に耳を貸すわけがありません。こうして参与会議は、完全に機能を止めてしまったのです。

 せっかく国元の大掃除を断行して、全面的に協力できる体制を作ってきた山内容堂は、この有様に絶望し、2月28日、辞表をたたきつけて帰国してしまいます。残るメンバーも、3月9日には全員辞表を書いて、ここに参与会議は正式に消滅することになったのです。

 なぜ慶喜がこのような行動にでたのかについて、慶喜は『昔夢会筆記』の中で、攘夷といったり、開国といったりしたのでは国是不確定で、幕府の権威が失墜するからだと自己弁護しています。しかし、これは例によって彼の虚言と見るべきでしょう。

 真意は、容易に想像できます。参与会議が成功する、ということは、それを実現させるにあたり、最大の功績者であった島津久光の権威がいやが上にもあがり、慶喜の存在が薄れてしまうということを意味します。先に本稿第2章で養君擁立問題で幕府が揺れた際に、慶喜が幕府のリーダーシップを考え、雄藩連合の形で政局を運営することを嫌って、自らも辞退の姿勢を崩さなかったということを述べたことがあります。その意味では、この時点での慶喜の行動も首尾一貫しているということができます。

 慶喜の考えでは、クーデターによって長州勢力の京都からの追い落としに成功するまでが薩摩の協力の必要な部分でした。ひとたび政治の実権を握ってしまえば、もはや薩摩その他の諸侯の協力は不要、というのが彼の本音と見て間違いないでしょう。そのための手段として、病的な虚言癖のある慶喜としては、天皇に対して攘夷の断行などと本音とは全く違うことを奏上するくらいは何でもないことであったわけです。

 先に紹介したこの前年5月の小笠原長行率兵上京事件が、幕府にとって惜しまれる理由はここにあります。もし、あれに慶喜が乗る勇気さえ持っていれば、何も攘夷鎖港などといわなくとも、きちんと開国路線のままで、この時と同様に強力な政権のリーダーシップがとれたはずなのです。

 それをやる勇気がなかったばかりに、そのわずか3ヶ月後の8月18日にクーデターを会津が行う羽目になったわけです。ところが、このクーデターは薩摩との共同活動であったために、慶喜としては、政局の主導権を執る手段として、鎖港攘夷路線をとらざるを得なくなったわけです。そのため、以後、幕府は鎖港攘夷という基本線を守るために、高価な犠牲を払う羽目になり、また、本来彼の与党であるはずの一橋派全員を敵に回すという暴挙まで必要になった訳です。

 歴史のイフはともかく、この時点では、孝明天皇が気に入りそうなことをしゃべりまくった慶喜が、3月25日、禁裏守衛総督に就任しました。さらに4月20日には、改めて庶政を将軍に委任する旨の沙汰書が出されています。

 こうして、慶喜は政治の主導権を握るのに成功したのです。かっての一橋派は、彼を見限って国元に引き上げて、ここに完全に分解することになります。

 なお、参与会議が今まさに崩壊しようとしていた2月20日、朝廷は年号を文久から元治へと改めました。

 

6. 禁門の変

 この元治元年3月27日、筑波山に水戸天狗党約2000人が挙兵しました。すなわち、慶喜のお膝元である水戸藩の内紛が火を噴いたのです。天狗党は、初期においては、勤王のための義挙という自らの大義に自己陶酔して、周辺の町村で金穀強奪などを繰り返したので、農民の激しい反発にあい、崩壊します。

 しかし、約1000人の残党は、慶喜を頼って、西へ向かいました。その勢力はきわめて強く、ほとんど向かうところ敵なしの進軍を行いました。また、幕府側が迎撃のため、ある程度強力な部隊をその行く手に集中した場合には、島崎藤村の名作『夜明け前』に描かれているように、同じく勤王の思想を持つ地方の有力農民の助けを借りて間道を抜けるなどしたため、この年12月27日にははるばる福井県にまで到達したのですが、そこで力尽き、加賀藩に投降しました。その彼らを、慶喜は、寒中にニシン倉に裸で放り込むというような虐待をしたあげくに斬殺に処する、というきわめて過酷な扱いをしたのです。というのも、彼らの騒動が引き金となって、禁門の変という大変な事件が引き起こされたため、慶喜は怒り心頭に発していたからなのです。

 すなわち、文久3年8月18日のクーデターで京都から追い落とされた長州藩過激派は、参与会議の崩壊と天狗党の乱に、付け入る隙があると見て、京都を武力で回復しようと企てたのです。幕府もこれを知って軍を集めます。両軍併せて5万の大軍が対峙しました。

 おそらく、この時こそが、慶喜の生涯の中でもっとも輝いていた時です。すなわち、彼の不退転の決意こそが、この困難な闘いで幕府を救ったからです。これ以前も、これ以後も、常に彼の決意がぐらつくのが原因で、幕府が衰退を重ねていったことを思うと、この時の彼は、異常としか言いようがありません。

 7月18日から19日にかけての深夜に長州軍が京都市中に突入を開始しました。これを聞いて深夜の2時に朝廷に参内した慶喜は、おびえて逃げ回る公家や親王を叱咤激励して、長州軍討伐の勅許を要請し、それと同時に会津軍、桑名軍に出動を命じます。3時にようやく勅許がおりました。その時にはもう戦端は開かれていたわけですから、彼が勅許を待って命令を下していたら、長州軍はそれだけでかなり有利になっていたはずです。

 長州軍は激闘を繰り返しつつ、最終的には御所内にまで突入してきました。特に主戦場になったのが、蛤御門(はまぐりごもん)だったので、この事件のことを禁門の変とか、蛤御門の変と呼ぶわけです。長州軍をここで迎え撃ったのは会津軍ですが、最初、会津軍は長州軍の勢いに押されてばたばたと倒されたのです。何とこの時、慶喜は手兵400名を率いて自ら会津軍の救援に駆けつけたのです。一橋家の兵は弱兵でしたから、その兵力が戦場に現れたこと自体は、戦況に何の影響も与えませんでした。しかし、総指揮官自らの督励に発憤した会津軍が、ここをしっかりと支えます。

 慶喜はさらに、御所内に銃弾が飛び込み、公家が浮き足立って、長州を許せ、と言い出していると聞くと、御所内に駆け戻り、天皇に拝謁し、あるいは公家に対して、戦は勝っている、と怒鳴り散らして動揺を抑えたのです。とにかく、ここで長州を是とする勅語がでたら万事休すだったわけで、彼の機敏な措置がこの日の幕府を救ったことは間違いありません。

 最終的に蛤御門の戦いで、幕府を救ったのは西郷隆盛の指揮する薩摩軍です。本来、薩摩軍の部署は蛤御門ではなかったのですが、西郷は戦闘の趨勢を素早く見て取り、独断でここに向かったのです。会津軍との間に、ぎりぎりの死闘を展開していたところに、薩摩軍の強烈な横撃を受けた長州軍は、一瞬にして壊滅することになります。その後、全軍総崩れになって西に逃げますが、幕軍の追撃にあって多数が殺され、ほとんど生きて帰れませんでした。この時、京都市内にいた長州方の著名人では、わずかに桂小五郎一人が脱出に成功したに止まります。

 長州軍を迎え撃つために動員された会津、桑名、大垣など諸藩の財政負担はきわめて大きかったはずで、とうてい疲弊しきっている当時の各藩が、自分でそのすべてを負担することが可能だったとは思えません。賜与の形を取るか、貸し付けの形を取るかはともかく、幕府としてかなりの支出を必要としたはずです。

 また、破れた長州藩は、京都の長州藩邸をはじめとして各所に放火したため、火が市中に燃え広がり、鎮火したのは21日になってからでした。このため、公家の屋敷だけでも数十戸、一般民家の罹災は2万8000戸に達し、鴨川の河原や諸街道は避難民であふれたと言われます。

 こうした被災者を放置しておいたのでは、社会不安が拡大しますから、これらに対しても何らかの手当が必要だったはずです。

 したがって、この禁門の変前後に相当の経費を幕府は必要としたはずですが、それがどの程度の額で、どうやって捻出したのかは、はっきりしません。おそらく、京都や大阪の豪商からの借り入れ、という形で現地で処理したことは確かです。この年、大阪市中にあったという張り紙の文章が今に残っています。次の文です。

「公儀において何の恩か為る

 今衣食は日月の恩

 当今の公儀は万民の寇也

 公儀へ御用金を出す馬鹿はなし

 仮令権威を以て用金申付候共、怨る計也

 十分の一にねぎって出すなれど、

 捨るより惜し也」

 幕府から御用金と称して、強制的に借り上げられる分限者の悲鳴が聞こえてくるような文章ではありませんか。また、こういう張り紙を取り締まる力のなくなった幕府の実力もよく判ります。

7. 下関戦争

 一橋慶喜が、朝廷で責め立てられ、苦し紛れに攘夷の決行期日として公約したのは、前に述べたとおり、文久3(1863)年5月10日のことでした。もちろん、慶喜自身はこのような公約を守るつもりはなく、幕府では、これは単なるポーズであると外国公使に向かって明言したことも、先に紹介しました。その他のほとんどの藩も、攘夷決行などという幕府の命令を守るつもりはなかったという点については、幕府と同様でした。

 しかし、ただ一つの例外がありました。長州藩です。同藩では、まさにこの日を期して攘夷を開始すべく、下関海峡を通過する外国船に対する砲撃を開始したのです。

 攘夷を呼号する藩としてはまことに矛盾したことですが、当時のわが国の技術で、砲台を作ることは不可能でした。そこで、長州藩では高島秋帆の下でオランダ流兵学を学んだ技術者である中島名左衛門を高禄で招いてきて、この攘夷のための砲台を作ってもらったのです。かわいそうに、この中島は、攘夷活動の一環として後に暗殺されています。

 問題は、この砲台がオランダの本から学んだ技術で作られた、という点にありました。ご存じの通り、オランダは国土の過半が埋め立てで作られた、といわれる国ですから、当然、沿岸防備のための砲台も、海を埋め立てて作りました。この中島という人は、同時代の蘭学者、例えば村田蔵六(後の大村益次郎)や福沢諭吉と違って、あまり想像力のなかった人らしく、手本から一歩もはみ出そうとはしませんでした。つまり、長州藩の砲台は、わざわざ海を埋め立てて作ったのです。

 もちろんこれは馬鹿げたことです。沿岸砲台は、欧米の常識としては、切り立った断崖の上に作るものです。砲台の位置は高いほど好ましいのです。なぜなら、砲台の位置が高くなればなるほど、当時の黒色火薬を使用した大砲では、射程距離がぐっと伸びるので、船の方から打ち返される心配無しに弾の雨を降らせることが可能になるからです。その上、切り立った断崖は、軍艦から海兵隊が砲台を攻め落とそうと攻め上ってくるのも、非常に困難にします。ところが、長州の砲台は、海を埋め立てて作ってあるのですから、射程距離は短いし、海兵隊の上陸もきわめて容易です。

 今、ドイツのライン河を船で旅すると、どうやって登ったのだろうと心配になるような断崖の上に古城の廃墟が数多く見られます。あれらの古城が廃墟となったのはナポレオン戦争の時代ですから、本稿で取り上げている時代より半世紀ほど前です。しかし、欧州の戦争技術は、この時期までは大した進歩を示していませんでしたから、本来であれば、ああいう感じに沿岸砲台を作るべきだったのです。

 ところが、長州藩はわざわざ水上に砲台を作りました。しかも、普通であれば沿岸砲台は、艦載砲よりも大きいものを使うのですが、長州のはむしろ小振りなぐらいです。また、相手は木造帆船ですから、威力を増大させるために弾を熱して撃つ、というのが沿岸砲台の常套手段ですが、そういうこともやっていません。このため、撃てども撃てども、大した威力はありません。しかも、対岸の九州側の諸藩は、砲撃などやらない、と明言しているものですから、長州の短い射程距離からはずれた九州よりの航路を通れば、ほとんど危険はない、ということになります。

 それどころか、この脆弱な水上砲台は、怒った外国軍艦から逆に撃ち返されて、無造作に壊滅してしまう始末です。すなわち、6月1日には米艦ワイオミング号が各地の砲台をその砲火で破壊したばかりか、長州藩の虎の子の洋式軍艦庚辰(こうしん)丸、壬戌(じんじゅつ)丸を撃沈し、癸丑(きちゅう)丸を大破させています。5日には、フランス艦セミラミス号及びタンクレード号が猛攻を浴びせ、250人もの陸戦隊が上陸して、砲台を焼き払ったばかりでなく、武器や甲冑が強奪されています。

 それでも長州藩の戦意は旺盛で、攻撃隊が去ると早速砲台が再建され、再び下関海峡を通過する外国船に対する砲撃が始まるのです。したがって、単なる報復攻撃ではなく、抜本的な対策を講ずる必要があることは明らかです。

 文久4(1864)年=元治元年3月にロンドンから帰任したイギリス公使オールコックは、列国に呼びかけて連合艦隊を組織することにしました。ちょうどこの時期は、前節に述べたとおり、慶喜が参与会議をつぶすために強硬に攘夷鎖港を唱えていた時期でした。慶喜は、このポーズを少しでも朝廷に信用してもらうために、江戸に命じて、主力輸出品である生糸の貿易統制を強化していました。そのため、この時期、横浜の貿易はすっかり沈滞していたのです。そこで、オールコックとしては、長州藩の攘夷を徹底的に叩くことで、同時に幕府に対する列強軍事力のデモンストレーションを行うことも狙ったわけです。

 英仏米蘭4カ国の間で話がまとまり、まず4月末に議定書が取り交わされ、ついで6月に共同覚え書きを作成して、条約上の権利を確保し、将来の安全保障のために、断固たる措置をとる、という旨を幕府に通知しました。

 本来ならば、幕府は、国内問題は幕府の責任で処理するから、時間をくれ、と交渉すべきところです。しかし、前節に述べたとおり、時あたかも、禁門の変の前夜です。幕閣の首脳は皆京都にいるのですから、適切な対応をする能力が江戸の留守部隊にはなかったのです。

 日本史学者の中には、長州藩が、連合艦隊の来襲に備えて国元の防備を固めるならば、大いに結構とばかり、これを受け入れた、という説を唱える人がいるのですが、これはちょっと信じられません。これまでの幕末の歴史に明らかなとおり、列強が動けば、必ず最後は幕府に賠償請求が来ることはわかりきっており、それがわからないほど暗愚な幕府ではないからです。事実、後に詳述しますが、ぎりぎりの段階で、攻撃の中止を慶喜は申し入れています。

 このように下関攻撃の時期が切迫していることは、当然長州藩も情報をつかんでいたはずですが、驚いたことに、長州藩は国元の防備を固めようとはしませんでした。それを完全になげうって、動員可能なすべての軍を京都に向けて進発させたのです。というより、これは一種の熱病のようなもので、組織的に軍が送り出されたのではなく、かってに各隊が上京していってしまった、という方が正しいでしょう。国元の防備などという発想は、当時の長州藩兵士には、ほとんどありませんでした。こうして京に集中した長州藩兵力と、会津、薩摩連合軍の戦いという形で起きたのが、先に紹介した禁門の変というわけです。

 他方、4カ国連合艦隊は着々と準備を進め、7月18日に、連合艦隊の出撃を正式に幕府に通知しました。前に述べたとおり、この日の夜に、禁門の変が起こるのですから、この日はまさに運命的な日といえます。

 今一つの歴史の偶然ですが、この同じ日、前年暮れに幕府が鎖港条約交渉のために派遣した遣欧使節が帰ってきました。彼らは鎖港交渉をするどころか、下関海峡通過時に破損した船に対する賠償とか、将来に向けての下関海峡通行権の確認、輸入関税の低減などを盛り込んだパリ約定をフランスで押しつけられ、イギリスに行くこともできずにあわてふためいて戻ってきたのでした。

 正使池田長発(ながのぶ)以下の面々は、欧州軍事技術の優越を説き、攘夷決行の危険性を説きましたが、これはいわば釈迦に説法です。慶喜はそんなことは百も承知で、政治的な賭として攘夷論を唱えているのです。聞く耳を持つわけがありません。

 このように情勢が緊迫している中で、形だけでも攘夷の実績といえるような結果をもってくるどころか、逆に厳しい内容を盛り込んだパリ約定などというとんでもない土産をもって帰ってきたのですから、厳しい処罰を科さないことには示しがつきません。そのため、池田長発は家禄600石を召し上げの上、隠居・謹慎を命ぜられるなど、全員に重罰が申し渡されました。長発は、幽閉中に発狂したということです。

 連合艦隊の方では、最終通告に対して幕府が何か建設的な返事を寄越すか、と待っていたところ、24日になって、パリ約定の破棄通告が幕府からなされました。前に述べたとおり、慶喜は参与会議をつぶす、というただそれだけの目的で、攘夷鎖港を打ち出したのですが、打ち出した以上はそれで頑張らねばなりません。したがって、これはその建前から来る必然の回答です。

 連合艦隊は、そこで、もはや実力行使以外にはない、と横浜を出港しました。艦隊の内訳は、イギリスが9隻でそれに積載する大砲が合計164門(以下同じ)、フランスが3隻64門、オランダが4隻56門、米国が1隻4門、合計17隻288門です。単艦の報復攻撃ですら壊滅させられていた砲台を破壊するためだけであれば、これほどの軍事力を動員する必要はもちろんありません。これはあくまでも幕府も含めた全日本に対する軍事的デモンストレーションなのです。

 この時、長州軍は禁門の変に破れたため壊滅状態にありましたが、それでも下関砲台の周りに奇兵隊を中核に支藩の兵や農民兵をかき集めて、なんとか約2000の兵をそろえていました。これに対して、連合艦隊の用意した陸戦隊は、イギリスだけで2000人、そのほかにフランス350人、オランダ200人、米国50人、計2600人ですから、人数だけでも長州側を上回る大兵力です。

 8月2日、連合艦隊は豊後水道の姫島に集結しました。他方、禁門の変で怒り心頭に発していた孝明天皇は長州追討の勅命を幕府に下していたのですが、この同じ日、諸大名に総登城を命じ、正式に長州征伐の開始を宣言したのです。これにより、ようやく長州の問題は国内で処理するので、外国は手を出さないでもらいたい、といえる状態になったわけです。そこで、幕府では、5日に攻撃延期を連合艦隊側に申し入れました。が、実はこの5日が下関戦争の開戦の日で、申し入れは完全に手遅れでした。

 この時期になると、長州藩も海上に砲台を作るのは馬鹿げていることに経験から知り、各地の断崖の上に砲台を作り直していました。連合艦隊の猛火に、位置の知られている砲台は一瞬にして破壊されたのですが、新たに建設され、隠されていた各地の砲台が激しく抵抗しました。連合艦隊の軍艦の周りは海面に落下する砲弾のため、白くなった、といわれるほどの激しい攻撃ぶりを示したのです。もっとも余り威力はなかったようです。

 翌6日にも激しい戦闘が続けられましたが、火力、陸戦力ともに連合軍が圧倒しているのですから、長州側に勝ち目はありません。二日間の戦闘で、下関近辺の長州軍はほぼ一掃されました。それでも8日まで小競り合いが続きました。もし、長州藩が禁門の変を起こさず、主力部隊を下関防衛に投入していたら、陸上戦についてはおそらく戦況が逆転していたことでしょう。しかし、この時の守備軍は奇兵隊などが奮戦しただけで、後の寄せ集めの軍は、敵兵の姿を見るなり逃げ出す始末でした。敵味方4000を越える兵力がぶつかっていながら、双方、数十名の死傷者で済んでいることが、長州側のこの時点での戦意の低さをよく示しています。

 8日に、高杉晋作が使節に立って、長州藩と連合艦隊の間で和平交渉が始まりました。通訳は伊藤博文と井上馨が務めました。

 長州藩の一筋縄ではいかない点は、下関海峡砲撃の始まる直前に、藩命により5人の藩士をイギリスに留学させていたことに良く現れています。オランダ式砲台を築いて攘夷を行おうとしたのと同様に、戦う相手を研究するのは武士として当然の心がけですが、それにしても良く留学志願者がいたものです。

 伊藤と井上はロンドンの地で戦争必至と聞き、学業をわずか半年でなげうって駆け戻ってきていたのです。この時、残り3人の留学生は、学業優先とイギリスに残りました。3人ともそれぞれ、その選んだ学問分野ではわが国の先駆者と考えられているようですが、一般に知られる人名とはなっていません。ちなみにその3人の名は、山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助です。

 命がけの危険と大変な苦労をして英国に着いたばかりなのです。私なら、たぶん躊躇うことなくイギリスに残ったと思います。この時点で万里の波濤を越えて日本に馳せ帰る、という決断を迷うことなく下せたという点に、彼らの政治家としての力量がよく現れています。伊藤博文が維新の元勲となり、お札にまで顔を残しているのは、単に時勢に乗ったのではなく、自らの意思で時勢を動かすだけの器量があったからです。下関戦争講和という大舞台で、彼ははじめて青史に登場することになります。

 長州藩は、禁門の変と下関戦争というダブルパンチにより、壊滅的な打撃を受けていたにも関わらず、過激な攘夷派はなお戦争継続を主張してやみませんでした。そのため、危険を感じて高杉や伊藤達が一時姿を隠す、というようなことがあったりして、交渉は難航しました。が、14日に条約がまとまりました。長州は、今後、外国船の下関海峡通過を認めること、したがって、砲台の再建は行わないこと、石炭や薪水など必要なものは売ること、の三つだけが、この条約によって発生した長州藩の義務です。

 この事件の賠償金交渉は江戸で行うこと、という条項が入っていますが、幕府と戦闘状態にある長州が江戸で交渉できるわけがないので、これは例によって幕府に後の始末を押しつけた、というわけです。薩英戦争と同じ結果になったのです。つまり、この条約は、長州藩側としては、戦争に負けたという自明の事実を確認し、戦前において負担していた義務を間違いなく履行することを宣言しただけで、新たな責務が全く含まれていないのです。高杉晋作の交渉力の高さを如実に示しています。

 交渉の中で高杉は、長州藩による砲撃は、幕府の命令によるもので、長州藩の本意ではない、と主張し、その証拠として朝廷や幕府からの文書の写しを示しました。皆さんもご存じの通り、この文書は間違いのない本物ですから、高杉晋作の議論が強い説得力を持つのは当然といえます。これにより、列強は幕府に対して強い不信感を持つに至りました。その意味で、この下関戦争は、幕府の滅亡に至る道程での決定的な里程標ということができます。

 連合艦隊は、この不信感を慶喜に対してアッピールする手段として、帰途、わざと摂海に侵入して天保山沖で一泊し、京・大坂を恐怖にたたき込むという強烈なデモンストレーションを行いました。

 こうして、賠償金交渉は、長州などそっちのけで、幕府との間で行われました。オールコック等は、9月22日、艦隊が帰ってくるのを待ってから、幕府に対して、下関開港か、300万ドルという天文学的な賠償金のいずれかを選べ、と詰め寄ったのです。この二つを並べれば、誰が考えても、開港の方を選ぶはずだ、というわけです。

 しかし、この時点では、まだ長州は降伏していませんし、下関のような幕府がコントロールできない港を開港したのでは、妥当すべき相手である長州を富ませるおそれがある、ということも確かでしょう。が、それだけのことであれば、例えば博多など、別の港を代替案にして交渉する余地もあったはずです。

 交渉できなかった最大の原因は、ここでも慶喜が鎖港攘夷をその基本政策としていることです。それが、幕府から選択の余地を奪いました。幕府は300万ドルの方を選んだのです。さすがに、一度には払いきれず、後に詳述するとおり、慶応元年から3年に掛けて、半分の150万ドルを支払ったところで、幕府は滅びました。残り半分は明治政府が引き継いで支払ったのです。国内政治で一時的に支配権を握る代償として、日本にこれほど大きな負担を掛けた慶喜という人物をほめる人の気が知れません。

 この賠償金の明治政府の履行状況を簡単に説明しておきましょう。明治政府は明治7(1874)年に、英国に対して64万5000ドル、仏、米、蘭各国にそれぞれ78万5000ドルを支払いました(延滞利子を含む)。明治7年といえば、佐賀の乱があり、また、台湾出兵を強行した年です。財政の厳しい中で、さぞ辛かったろうと思うのですが、それ以上に、この厄介な負債のけりをつける方が、明治政府として急務だったわけです。

 なぜかというと、オールコック達は、この時、同時に、横浜防衛軍の常駐施設を幕府の負担で建設することも要求したからです。要するに、横浜の租界化です。これを以前からオールコックが狙っていたことは、ヒュースケン遭難事件の際に説明したとおりです。しかし、今度は、長州の攘夷行為そのものが幕府の命令によるものだ、という動かぬ証拠と、巨大な艦隊という背景がありますから、絶対に強い立場です。

 結局、幕府はおれて、英軍基地として2万坪、フランス軍基地として3000坪の施設をそれぞれ建設する羽目になりました。英軍基地の場所は、今現在、港の見える丘公園として知られる場所です。日本の海の玄関横浜港を一望する景勝の地ですが、これを軍事的面から見ると、この地を握るものが港の生殺与奪の権を握っている、ということを意味します。明治政府は、幕府から引き継いだ賠償金を支払うことで、ようやくこの要衝の地を返してもらったのです。英国基地の返還は、翌明治8年、フランス基地の返還はさらに遅れて明治9年のことでした。

 下関戦争は、もう一つ、予想外の置き土産を残しました。オールコックが、日本の内政に勝手に干渉したとして、その責任を問われて本国に召還されたのです。薩英戦争で、海軍当局をあれほど厳しく指弾したイギリス世論をおもんばかってのことに違いありません。

 オールコックには、上記のようなひどい目に遭わされているにも関わらず、幕府は彼の離日を惜しんで、彼の行動が正当であったという公文書を持たしてやりました。その甲斐あってか、オールコックは、翌年には駐清国公使という日本公使より一段上の地位に返り咲いてアジアに戻ってきました。しかし、二度と日本に来ることはありませんでした。

 日本公使としては、すでに彼の後任として清国育ちの、あくの強い行動で知られるハリー・パークスSir Harry S. Parkesが赴任してきていたからです。パークスは前任が上海駐在領事で、ある程度日本の事情を承知しています。長崎に着いたのは慶応元(1865)年閏5月2日でしたが、彼は、そこで精力的に諸藩の代表と会って日本の情勢をつかみ、さらに下関にも寄港して、桂小五郎や伊藤博文と会談しています。そのため、横浜公使館に着任したのは同26日のことでした。以後、幕末史は、パークスと、この前年に着任していたフランス公使レオン・ロッシュLeon Rochesとのつばぜり合いという新しい局面に入ります。

8. 第1次長州征伐 

 下関戦争と同時進行の形で展開されていた第1次長州征伐は、総督として尾張慶勝(よしかつ)、副総督として越前藩主松平茂昭(もちあき)を頂き、35藩15万人という大兵力で、長州を包囲し始めていました。もっとも積極的に戦意に燃えているのは薩摩軍ぐらいのものでした。どこの藩も、財政逼迫の折から、長州まで軍を送るだけでも大変で、とても戦闘の用意があるとはいえません。だから肝心の総督である慶勝自身からして戦意旺盛とは言えません。再三辞退し、全権委任を条件にようやく引き受けたという状態でした。正面から戦闘をして長州藩を滅ぼすつもりなら、全権委任などという条件を取り付ける必要はありませんから、彼の腹としては、できるだけ早くに謝罪降伏させて、戦闘には入らないようにしよう、ということだったと考えられます。そのことは、その後の経緯からも明白です。

 しかし、慶勝の参謀として控えていた西郷隆盛は、この機会に長州藩をどこか東国にでもお国替えして、長州という国が将来ともに禍根とならないようにしようという腹でした。少なくとも9月7日の段階で彼がそう考えていたことは、複数の証拠が残っていて、確かです。そして、慶勝は、その指揮下にある唯一の期待できる戦力を率いている西郷に全面的な信頼を置いていたのです。したがって、このまま事態が推移すれば、日本史のその後の流れが大きく変わっていたことは間違いありません。

 長州藩の方は、といえば、禁門の変、下関戦争と相次ぐ連敗で、疲弊しきっていました。こういうときに得てして起こりがちなことですが、激しい内紛を起こして、門閥派が、家老の周布政之助を自害に追い込み、それまでの過激派に代わって政権を握り、幕府に対してひたすら恭順という姿勢を示し始めていました。したがって、特に戦闘を行わなくとも、西郷の狙い通りの事態となっていたはずです。

 この時、歴史の上に突然現れて、幕末史を大きく変えたのが勝海舟と坂本龍馬の二人です。

 坂本龍馬は、幕臣である勝海舟の弟子でありながら、革命思想家であり、不倶戴天の敵として互いに憎悪し合っている薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎のいずれとも親友という不思議な人物です。その彼が、9月11日に、勝と西郷の最初の会談をお膳立てしたのです。

 勝海舟を斬ろうとして彼を訪ねた坂本龍馬が、その人物に魅せられて直ちに弟子になったという話に象徴されるとおり、勝海舟という人物はカリスマ的魅力を持っていました。西郷も勝の魅力に屈した一人でした。この9月11日の会談時に、勝が西郷に何を話したのかは記録にありません。しかし、容易に想像はつきます。8月18日のクーデターで政権を握った慶喜が、ひたすら幕府権力の肥大化と自らの独裁権力の確立を狙って、日本という国家の利益を犠牲にしている、ということであったに違いありません。したがって、その幕府の言うなりに長州を締め付けるのは長い目で見れば、決して薩摩の利益にはつながらない・・。

 もっともこの会談については、その後、西郷も勝も一言も触れておらず、江戸城無血明け渡しで有名な三田会談が、両者の最初の出会いであるかのように終生振る舞い続けました。勝海舟という人は、この三田会談の前後にも、間違いなく彼がやったのに違いない秘密の行動をいくつもやっていることは証拠があって確かですが、やはり生涯認めませんでした。

 が、この会談そのものが伝説に過ぎないとする学者も多くいます。司馬遼太郎もその説をとったのでしょう、彼の代表作「龍馬が行く」にも、この会談は触れられていません。

 私は、幕臣としての勝の立場上、この会談の存在を認めることもまた、適切でない、と考えて一生認めなかったに過ぎず、会談はあったと考えています。そうでないと、西郷の意見がこの日以降、突然180度変わった理由が説明できないからです。

 とにかく、確かな事実として、西郷は突然意見を大きく変えました。長州に形式的に降伏させたら、それ以上何もすることなく、長州征伐は終わりにしよう、というのです。慶勝には、もちろん否やはありません。

 もっとも、力任せに攻めるというのと違って、こういう政治性の強いやり方は、相手方を得心させるのに少々手間がかかります。ですから、一連の事件の責任者として、長州藩の三人の家老に切腹させ、首を出させて、長州征伐にけりを付けることができたのは、この年、12月27日のことでした。

 長州征伐のこのような竜頭蛇尾の結果に慶喜は驚き、慶勝が西郷にたぶらかされた、と嘆く手紙を書いています。

 前に述べたように、この同じ日に、水戸天狗党は福井で加賀藩兵に投降しています。最初1000人ほどいた軍勢がだんだんに減って、投降の時点では776人でした。加賀藩が預かっている間は、同藩は、彼らを赤穂浪士の先例に倣って士道を以て遇しました。しかし、慶喜がわざわざ福井まで出向いていって受け取った後は、待遇が激変します。幕府では彼らを敦賀に監禁しました。これほど大量の犯罪者を収容する施設は、日本のどこに行ってもあるわけがありません。そこで海岸に並んでいるニシン倉の明かり窓などを土で塗りつぶして逃げ口を塞ぎ、臨時の監獄としました。北国の寒中だというのに、衣類はおろか、下帯まではずした素っ裸で放り込んだ、というのだからすさまじい話です。しかも、一日の食事は一人握り飯2個ずつだったというのです。これでは生き延びるためには、よほど頑健でなければなりません。最終的には、全員に死刑判決が降りて、斬首になっていますが、その数は352人です。つまり半分以上は獄死したわけです。

 こうした必要以上に過酷な処遇には、明らかに、慶喜の意思が読みとれます。天狗党の面々は、禁門の変、下関戦争、第1次長州征伐と、この年立て続けに起きた事件で溜まりに溜まっていた慶喜の鬱憤の吐け所とされたのだと思います。彼らが水戸藩士で、しかも慶喜を頼って嘆願に行く、という名目で、本州のもっとも幅広いところを武装横断する事に成功して徹底的に幕威をさげたという事実が、いよいよ慶喜の憎悪を呼んだのに違いありません。が、もし、外に何の事件もない年なら、慶喜もあれほど過酷な処遇はしなかったのではないかと思います。

 私は、現在、茨城県南部に住んでいます。ちょっとした用があって、昔からの土地の人に、県庁に行くと言ったところ、「天狗党の昔から、最後には裏切るから、水戸っぽは信用するな」といわれてびっくりしたことがあります。よく聞いてみると、天狗党が何を意味するのかは知らないで、単に水戸の県庁は信用するな、という表現の強調型として、このフレーズが使われていることが判って、2度びっくりしました。県南と県北の対立心もさることながら、そういうちょっとした表現に、百年以上たった今日でさえ天狗党が生き残っているほどに、当時この惨殺事件は、茨城県民に強いショックを与えた、ということが判ります。

9. 横須賀工廠の建設

 元治元(1864)年からその翌年にかけて、わが国を取り巻く情勢はいよいよ加速します。これまでもある程度そうでしたが、これからの各節は、ほとんど同時進行の事件となります。なお、元治2年は4月7日に慶応と改元されますが、混乱を避けるため、改元以前についても、同年の出来事は慶応元年と、以後、表記します。

 下関戦争の責任を追求されて、英国公使オールコックが不在になると、俄然元気を出したのが、フランス公使レオン・ロッシュLeon Rochesです。この機にフランスの日本における権益を確立しようと考えたのです。

 下関戦争の少し前、元治元年3月に日本に着任したロッシュは、その直前の職が、フランスにとって最も重要な植民地であるアルジェリアの総督だった、という、幕末にわが国に駐在していた各国公使の中では、超弩級の大物外交官です。年齢もこの時54才で、在日外交官中では間違いなく最長老でした。

 前職が出稼ぎ商人に過ぎなかった米国公使ハリスは少々ひどすぎるとしても、オールコックにしても、もともとは中国で開業していた外科医で、リュウマチのため手が使えなくなって外交官に転じたという人物です。日本に着任する以前に、10年以上外交官としての経験を積んでから日本に赴任したので、決してハリスのような素人ではありませんが、間違っても生粋の外交官とはいえません。日本で最大の権益を持つ両国がこんな調子なのですから、後の国も似たり寄ったりという状況でした。

 その中に、突然フランスだけがこのような超大物を送り込んできたわけで、そこには本国政府の強い決意が認められます。すなわち、当時フランスは世界最大の絹織物工業国であり、フランスとしては、きわめて切実に原料の生糸や、さらにはその元となる蚕種を求めていたのです。ところが、当時世界最大の生糸生産国である清国市場では、フランスは完全に後塵を拝してしまって、食い込む余地がありません。

 そこに突然、彗星のように、清国よりも優秀な生糸を輸出する日本が出現したわけです。この有望な新市場で、何とか英国を出し抜くことができれば、フランス絹織物産業の未来は明るいといえます。さらに、アルザス地方などで勃興しつつある機械化された綿産業の製品の販売市場としても、日本は大いに当てにできます。

 とはいうものの、この時点におけるフランスの日本市場における比率はわずか1.7%に過ぎず、正気の人間であれば、これほどの数値からの挽回などは普通考えません。フランスがこのような大変なばくちに踏み切ったのは、この時、フランスを動かしていたのが、ナポレオン3世という稀代の山師であった、という側面を無視することはできません。彼は大ナポレオンの甥という血統だけを頼りに、皇帝の地位にまでのし上がった人物です。メキシコの銀に目を付けると、南北戦争で米国が手を出せないのを良いことに、ここを自国の勢力圏に入れようと画策し、また、ベトナムを植民地化しようと画策するなど、フランスの政策全体として、きわめて投機的な傾向が目立つ時代なのです。

 しかも、ロッシュには、ちゃんとその意志を直接に幕府に伝える手段がありました。開国直後の頃は、日本と外国との意思の疎通はオランダ語だけが頼りであり、そのため、ハリスが連れてきたヒュースケンにどこの国も頼らざるを得ない、という奇妙な状況が生まれていたことは、先に紹介したとおりです。が、この頃になると、ちゃんと日本語が使える外交官が生まれてきました。英国の場合、それが有名なアーネスト・サトーです。フランスでは、カトリック僧のメルメ・ド・カションという人物が公使館付き通訳官として、見事な日本語を使って活躍を始めたのです。

 カションは特に栗本鋤雲(じょううん)と親しく、互いに言葉を教えあったりした中です。鋤雲は、カションに和春という字をあてています。そして、その栗本鋤雲は、この時期軍艦奉行並の地位にありました。したがって、交渉相手としてはもってこいの地位です。なお、鋤雲は、慶応元年11月には外国奉行に栄進していきます。

 また、文久の改革で忌避されて、寄り合いに放り込まれていたタカ派の小栗忠順が、勘定奉行に返り咲いたのが元治元年8月13日、すなわち8月18日のクーデターの直前です。彼は、以後、この年の暮れまで、きわめて出費の多い幕府財政をしっかりと支えます。彼が対馬事件では、地元で顰蹙を買うような事なかれ主義的体質を示したにせよ、単なる門閥上がりのお坊ちゃんではなく、能吏であったことは明らかです。その才能を買われて、元治元年12月18日に軍艦奉行に転じていました。軍艦奉行及びその並として、この小栗忠順と栗本鋤雲は密接な協力関係にありました。

 小栗忠順から見ても、フランスからの急接近は大いに歓迎するところです。日本市場で圧倒的な存在である英国を掣肘する武器として、フランスとの関係を使えるからです。

 例えば、英国は、日本に積極的に武器を売りましたが、その場合、必ず時代遅れのものを売るように努めました。すなわち、日本を中古品の売却市場として活用はするが、日本が自国の脅威となるような武器は間違っても提供しようとしなかったのです。代表例がアームストロング砲です。薩英戦争の時に猛威を振るったこの最新鋭の施条砲を、英国は決して日本に売ろうとはしませんでした。そこにつけ込むチャンスを見つけたロッシュは、最新鋭の艦載用銅製施条カノン砲16門を日本に売却しています。長州征伐に向けて風雲急を告げつつある慶応元年5月に、これは日本に届いて、幕府を非常に喜ばせました。

 こうした一連の努力の中で、ロッシュが挙げた最大の成果が、本節のタイトルとして掲げた横須賀海軍工廠の建設です。幕府との間の契約では製鉄所となっており、日本史の本では普通そのままそう書かれることが多いのですが、その実体は単なる製鉄所ではなく、総合的な海軍工廠です。

 慶応元(1865)年1月29日に、フランスと幕府の間に締結された契約は次のような内容を持っています。すなわち、総計9万坪に達する敷地に、フランス海軍の中枢的軍港であるツーロンにある工廠と同規模の工廠を建設するというのです。具体的には4カ年で、横須賀の地に、製鉄所1、造船所1、修船所2を建設し、また、横浜に訓練用の小製鉄所1を建設する、とされており、事実その通りに建設されました。これこそ、後に明治政府に引き継がれて、横須賀鎮守府の命脈となった海軍工廠の起こりです。米海軍及び海上自衛隊の中枢的施設として、今日も機能しています。

 この巨大施設の建設代金は240万ドルで、これは総額がフランスからの借款になります。借款には当然担保が必要です。この場合、担保になったのが、生糸貿易です。すなわち、日仏それぞれに少数の豪商からなる公益組合を設立し、これが生糸と貿易を独占し、その貿易の利益から借款を返却する、というのです。まさに、フランスの日本市場での出遅れを一挙に回復する起死回生ともいうべき一手で、辣腕家ロッシュの面目躍如というところです。事前に英国に知られていれば、どんな横槍が入ったか判ったものではなく、その意味で、ちょうどその時期に起こったオールコックの召還という事件は、ロッシュにとり、まさに天の助けであった、ということができます。

 なぜこのような財政の厳しい時期に、幕府はこうした巨大施設の建設に踏み切ったのでしょうか。理由は、まさに財政問題、すなわち経費の節減にあります。幕府は、先に紹介したとおり、外国から次々と軍艦を買って海防力の強化に努めてきました。しかし、軍艦というものは、その最善の能力を発揮できるようにするには、点検修理を怠ることができません。

 例えば、現在のわが国海上自衛隊の自衛艦の場合、だいたい1年に3ヶ月程度は定期検査のため、ドック入りしています。つまり、軍艦というものに、フルにその持てる能力を発揮させようと思ったら、1年間の4分の1の時間は戦力にならない、というほどのしっかりしたメンテナンス作業を毎年続けねばならないのです。

 当時は、そんなに長期間はドックに入れなかったはずですが、それでも基本的には戦闘艦である以上、定期的なドック入りは必要でした。多分、その頃の幕府はそういうことは判っていなくて、故障するまで使い続ける、というやり方をとっていたはずです。幕府が買った船は、咸臨丸のような新造船もありますが、大半は中古船でした。船は、古くなれば、急速に故障をおこす頻度が高くなり、実際に故障するまで酷使すれば、その修理に要する費用が高くなり、期間が長くなります。ところが、当時、わが国にもっとも最寄りのドックは上海のものでした。したがって、そこへの往復だけでも結構時間がかかります。しかも支払いは外貨です。また、上海まで行けないほどの故障をおこしてしまったら、虎の子の船が使えなくなってしまうわけです。

 そうしたことから、幕府では、海軍が充実するにつれて、その維持・修理費用が急激に増大していたのです。海舟が残した『海軍歴史』という書に、慶応3年、つまりこの工廠建設に踏み切った翌々年の、1ヶ年の海軍維持経費の記録が残っています。年間合計で92万800両とあります。つまり国内にドックがない状態では、維持管理費、つまり軍艦を単に海に浮かべ続けておくだけで、毎年100万両程度の巨大な費用が必要になる、というわけです。この巨額の出費を抑える方法はただ一つ、早急に国内にドックを建設することです。幕府財政が火の車である状態下で、あえて巨大施設の建設に踏み切った理由が判ると思います。

 それにしても、下関戦争で、払わなくとも済む300万ドルの賠償金は、この巨大施設の建設費を上回るわけで、それを支払う方を選ぶというというのは本当に馬鹿げた話という外はありません。

10. 条約改定

 第1次長州征伐は、実際の戦闘には入りませんでしたが、15万人という大変な人数を長州との国境地域に集中させたのですから、幕府として、自ら動員した兵力に要した費用として直接に、あるいは動員した諸大名に対する交付金という形で間接に、かなり多大な費用が必要になったことは間違いありません。

 それがどの程度に達したのかは判りませんが、とにかくこのために、下関戦争の後で列強に支払うと自分から約束した300万ドルの賠償金を捻出することが、幕府はできなくなりました。そこで、幕府は、慶応元年3月、4カ国の公使に対し、償金の第1回分50万ドルは本年6月に支払うが、第2回分については1カ年の猶予を得て、明年6月に支払いたいこと、その後は約定通り3ヶ月ごとに支払うということを申し出ました。

 きわめて巨大な額の問題だけに、各国公使はいずれも自分で諾否を決められず、本国政府に請訓しました。オールコックが本国から召還された後、英国代理公使を務めていたウィンチェスターCharles A. Winchesterは、幕府としては、諸侯が直接貿易するのを妨げるため、諸侯の領土内に新港を開くよりも、償金の支払いを選ぶであろう、と正しく判断した後、ここで償金の支払いを強制すれば、幕府はその捻出手段として新税を導入するであろうし、そうなると、貿易発展の障害となるので、この機会に兵庫の開港と通商条約の改定を迫るべきである、という趣旨の報告を本国に送りました。

 パークスは、この請訓に対する訓令を持って日本に赴任してきたのです。内容は、賠償金の3分の2を放棄する代わりに、兵庫又は下関の開港と、条約に勅許を得ること、輸入税を低減することというものでした。

 フランス公使ロッシュはこれに反対しましたが、圧倒的な権益を握っている英国には勝てません。そこで、ロッシュは妥協策を講じました。結局、4カ国共同で、賠償金のうち6分の5にあたる250万ドルを放棄する代わりに、前記三条件を飲むように要求することになりました。つまり、この年に第1回分として支払った50万ドルは返さないが、後は棒引きにする、というきわめて幕府に有利な線までロッシュは英国から譲歩を取り付けてくれたのです。

 また、幕・長戦争における厳正中立の厳守という条件の取り付けにもロッシュは成功しました。詳しくは次節に述べますが、この時期、すでに長州は第二次長州征伐に立ち向かうため、大車輪で上海などから武器を輸入していました。対幕戦の総司令官である大村益次郎自身が上海まで密航して武器の買い付けにあたっていた、といわれます。このため、列強の厳正中立という事態は、長州を非常に苦しめることになります。

 この時、将軍家茂は三度目の上京をしていました。これもまた、第二次長州征伐のためです。

 下関戦争の帰り道に行った摂海侵入が、京・大坂に与えた衝撃の大きさに味を占めていた列強は、直接将軍と交渉するため、再び連合艦隊を組織すると、各国公使はこれに搭乗して大阪湾に向かいました。前回ほど大規模ではありませんが、英国艦4隻、フランス艦3隻、オランダ艦1隻、計8隻というのは、ペルリの浦賀来航時の倍の勢力で、はっきり示威を狙ったものということができます。公使一行が兵庫沖に到着したのは、慶応元年9月16日のことです。

 9月23日に幕府老中の一人である阿部正外(まさとう)が英国艦を訪れました。米国及びオランダ公使同席の下で、パークスは前記3条件を突きつけました。阿部は、国内の事情から条約勅許が未だ得られず、また、兵庫の即時開港も困難なことを述べました。これに対してパークスは、長州その他の大名が外国に友好的になっていることを引き合いに出し、将軍が日本の主権者であるというならば、条約の遵守を国内に強制できるはずだ、と主張しました。阿部は即答できないとして、9月26日に改めて回答すると答えました。

 ロッシュは、あえてそこに同席せず、英国艦からの帰途の阿部を招いて、幕府と英国公使との艦に、斡旋の労を執る用意がある、と伝えました。

 幕府では将軍臨席の下に25日に、大阪城内で閣議を開きました。実は、この時期、薩摩藩は外国の要求で幕府が苦況に陥っているのに目を付け、慶喜によってつぶされた参与会議、すなわち有力諸侯会議をもう一度復活させ、外交問題などに関する決定権を幕府から奪って、諸侯会議の手に取り戻そうと画策していました。

 この時期、パークスの腹心の通訳官、アーネスト・サトウはかなり薩摩に接近していましたから、その辺りの情報はかなり正確に把握していました。パークスの発言も、こうした国内情勢を把握した上での揺さぶりだったのです。

 そこで、閣議の場で、阿部は、幕府の権威を確立する上からも、兵庫の開港に踏み切るべきだ、と論じたのです。老中松前崇広(たかひろ)もこれに賛成し、幕閣はいったん兵庫開港に決定しました。

 一橋慶喜は、自分が出席していなかった閣議でそのような重大な決定がなされたのを不愉快に思い、公家を扇動して阿部正外及び松前崇広の2名を、兵庫の無断開港を図ったとして、官職剥奪の勅命を下させたのです。彼の人物の小ささあるいは独裁志向がよく判ります。

 老中に対するこのような一方的な処分は前例のないことで、家茂は激怒し、将軍位の辞表を朝廷にたたきつけ、10月3日に、江戸に帰ると決定しました。将軍が辞表を朝廷にたたきつけるということは、将軍として政治を執り行うことをやめるということですから、これはまさしく大政奉還です。大政奉還に関する慶喜の決断を褒め称える人がいますが、このように、大政奉還というカードは、この時期、既に幕府の念頭にあったということができます。慶喜は、むしろこの最強のカードを切るのが遅れて幕府を滅ぼしたことが非難されるべきなのです。

 このままでは、長州征伐どころか、幕府政権の行方そのものがどうなるか判りません。一橋慶喜と松平容保は驚いて、将軍を慰留していったん二条城に迎えるとともに、自ら参内して条約勅許及び兵庫開港の切迫していることを天皇に告げて説得しました。

 長時間の会議というのは慶喜の得意技です。その間、脅したり賺したりしながら、会議参加者がへばって、慶喜の言うなりになるのを待つのです。この時も、長時間にわたって弁舌を振るった結果、結局、5日の夜8時になって天皇が折れ、条約については勅許を与えるが、兵庫開港は認めない、という妥協案を飲んで話がつきました。

 老中本荘宗秀は、英国艦にいってパークスに、条約勅許が得られたことを告げ、しかし、兵庫開港については許可のなかったことは告げずに、これは予定通り将来のことと述べました。ところが、ここで本荘はパークスの恫喝にあって、本来の条件であったはずの賠償金の残金支払いを免除する、という条件を自ら放棄しました。結局、条約勅許だけをただ取りされた結果となりました。

 この事件は、諸外国に対し、幕府の権威の低下と朝廷の実力に対する認識を新たにさせました。親幕派のロッシュが、本国に次のように書き送っていることは、その典型です。

「余は、条約勅許の重大性については、既に感知していたが、今、兵庫沖の談判に当たって、その意義の重大なることに驚嘆せざるを得ない。それは数百年来、政治の実権を将軍に委任された結果、当然衰微したものと考えられた天皇の権威が少しも衰微していなかったことである。」

 幕府と馴れ合うことで利権を確保しようと狂奔しているロッシュでさえ、このような感想を持ったのであれば、より冷めた目で幕府を見ていた英国側が、これ以降、より幕府離れをした行動をとるようになるのも無理のないところです。

 この後、慶応2(1866)年4月に、幕府と列強の間で関税率の改定交渉が始まり、5月13日に老中水野忠精と4カ国の間に改税約書が締結されました。その要旨は、輸出入税ともに、5%の関税率を原則とし、生活必需品、例えば米については無税とする、というものでした。しかも従来は従価税であったものを従量税に変えました。

 すなわち原価の5%とされていたので、原価の認定を通じて幕府側のコントロールが可能であったのです。ところが、今回は平均価格の5%ということになったので、幕府側の裁量の余地は全くなくなりました。これは、従来清国との間で列強が有していた権利と同じものです。明治政府が鹿鳴館のような国辱的な外交を展開することによって撤廃を目指した不平等条約は、この時、その全体像を見せたのです。

 もっとも、経済学者の説によると、明治維新によるわが国経済の著しい発展は、この自由貿易のおかげだということですから、治外法権と異なり、これは決してわが国に害をなしたということではありません。

11. 第2次長州征伐

(1) 開戦まで

 第1次長州征伐が元治元(1865)年12月27日に、不徹底な形で終わったことは前述したとおりです。しかし、不徹底であれ、こうして長州が降伏した以上、あとは戦後処理が始まるはずでした。ところが、実はその時、長州では大変な事件が起きていたのです。

 高杉晋作は、下関戦争で連合艦隊との講和条約を首尾よくまとめた後、藩内過激派に命を狙われ、藩外に亡命していました。しかし、元治元年12月、単身下関に現れると、伊藤博文率いる力士隊を巧みに扇動して、16日に挙兵させるのに成功しました。それまでの長州藩の戦いには、一部農民層が加わっていたにせよ、武士層を中心としたものでした。それに対して、彼の呼びかけは、直接農民層に向けられた点に、大きな特徴がありました。

 彼の呼びかけに応えて各地で農民兵が決起し、見る間に巨大な勢力となりました。特に、奇兵隊が、絵堂の戦いで門閥派の軍を撃破したのが決め手となり、翌慶応元年2月5日には、過激派が再び藩の政権を握るに至るのです。つまり、第1次長州征伐軍と長州藩との降伏交渉中、実は同時並行で藩内では内戦が継続しており、慶勝などが、討伐の目的を達成したと喜んで引き上げた後、すぐに、再び過激派が政権を奪取していたのです。

 当然この情報は、幕府の諜報網のキャッチするところとなります。

 慶喜は、このような状況は、幕府の権威を低下させるもので、黙過しておくことはできない、と考えます。江戸の留守部隊も、その点では全く同意見です。こうして、第2次長州征伐が始まることになりました。

 4月19日、幕府は、長州征伐のため、将軍自らが進発する、と発表しました。そして、5月16日、家茂は馬上の人となりました。これは彼の将軍としての3度目の、そして最後の上洛となりました。彼は大阪で病に倒れ、2度と江戸に戻ってくることはありませんでした。

 これに対して、長州藩は、表面上は徹頭徹尾、恭順という姿勢を崩しません。その結果、表面に現れているところだけを見ると、まるで無抵抗の相手を幕府がかさに掛かっていじめているようにしか見えません。

 そこで、例えば、第1次長州征伐では主力となった薩摩藩は、これを無名の帥(むめいのすい=大義名分のない戦)と評して、もはや協力しようとはしません。アームストロング砲を自力で国産化に成功するなど、強大な軍事力を誇る佐賀藩も同様に動こうとはしません。黒田藩にいたっては理由を述べることすらせずに、不参加の意思を明らかにしています。

 実はこの裏で、再び坂本龍馬が動いています。幕末史を大きく転回させた大事件、薩長同盟が正式に成立するのは、このしばらく後、慶応2年1月21日のことです。しかし、慶応元年閏5月には、ほぼ薩長が互いに援助するという話を彼はまとめてしまっていたのです。すなわち、正式には同盟はできていませんが、この時期以後、薩摩は全面的に長州に協力するようになってきます。

 前に述べたとおり、列強が厳正中立の立場を決めたため、長州藩は、来るべき対幕戦争に欠くことのできない新式の洋式武器の購入ができずに困っていました。そこで、坂本龍馬は、彼が長崎にいるグラバーなどの英国商人から、長州藩のためにそれら兵器を購入するに当たり、薩摩藩の名義を公然と使うようになったのです。これにより長州は軍備を着々と充実させるのに成功しました。また、薩摩は、京都で、得意の朝廷工作により、名分なき長州征伐に勅許を与えるべきではない、と運動したのです。このために、なかなか勅許は降りず、派手に江戸を出発した家茂は、いたずらに長い日々を大阪城で送ることになりました。

 こうなると、幕府としては人材不足を痛感せざるを得ません。人材と言うことになると、すぐに思い出されるのが率兵上京事件の責任をとって老中格から降ろされていた小笠原長行です。慶喜が反対したのを、主として松平容保が説得し、7月26日に長行に上京命令が下りました。長行は8月16日に江戸を出発、31日に大阪に到着すると、9月4日には再び老中格として勤務に就きました。

 ここで、前節で述べたとおり、下関戦争の賠償金支払いのもつれから、連合艦隊の再度の摂海に9月16日に侵入してくるという事件が起こりました。小笠原長行は、早速その交渉に当たることになります。

 禁門の変の時にも述べましたが、公家というのは、むき出しの暴力に対して必要以上に怯える体質を持っています。そこで、幕府は、この列強勢力の摂海侵入を背景に、朝廷に激しい圧力をかけて、長州征伐の勅許をとることにも成功したのです。9月21日のことでした。

 朝廷がその意趣返しに老中2名を罷免すると騒ぐと、それを利用して、さらに長年の懸案であった条約勅許も取り付けたことは前節に紹介したとおりです。

 これにより、ようやく戦争を開始できることになったのですが、大名の間には厭戦気分があって、なかなか兵が動きません。さらに列強との改税約書の締結に手間取ったりしたため、実際に従軍を命ぜられた計32の諸藩に、その部署を発表することができたのは、ようやく11月になってからでした。

 その後も、長州側は恭順という姿勢を表面上は崩さず、幕府の側は、相手から開戦させることで戦争の大義名分を勝ち取ろうと、互いに模様眺めをしながら時間が過ぎました。

 その間、長州側の問責のため、という名目で、大目付永井尚志が広島に派遣され、偵察のため、新撰組組長の近藤勇等も随行しました。この偵察隊の調査結果は、とても幕軍に勝ち目がない、というものでした。幕軍の戦意は低いのに対して、長州軍は、全市民が戦争準備に向けて邁進しているからです。

 そこで、永井尚志は、寛大な措置という名目で幕府は名を取り、実を長州に与えるという形で幕府の威信を保ちつつ和平に持ち込む以外にない、という意見を具申しました。

 しかし、一橋慶喜は、第二、第三の長州がでないようにするには、ここで徹底的に叩く外はない、と主戦論を唱え続けて譲りません。繰り返しますが、慶喜は将軍後見職であり、幕閣の最高責任者なのですから、彼が意見を変えない以上は、どれほど勝ち目がなくとも、戦争になだれ込む外はないのです。

 このため、幕府軍はできるだけ開戦を遅らせようとしました。最終的に開戦したのは、翌慶応2年6月のことで、家茂が、江戸を出発してから丸1年以上たってからです。

 しかし、家茂自身が既に大阪城まで出張ってきている以上、この間、幕府軍はすべて臨戦態勢に入っているわけです。彼に随行した諸大名、幕臣の総数は10万人を超えました。これだけの軍を維持するには、大変な費用がいります。

 これだけの人口が突然増えて、しかも全く生産に従事しないままに長期に滞留している、ということになれば、大阪やその周辺の消費者物価を一気に押し上げたのは当然です。したがって、滞在期間が長くなればなるほど、必要経費の額も急激に上昇していくわけです。

 つまり、戦争するつもりでの長期滞陣は、財政的には実際に戦争をしているのと変わらないほどの莫大な費用を要する、ということです。それが実際にどの程度であったか、ということは、本節の最後にまとめて紹介したいと思います。

(2) 民衆の蜂起

 幕府軍の長期滞陣が原因で、京・大坂の物価が急上昇した、と述べました。それ以外にも、人夫その他の軍役が地元民には降りかかってきます。こうした諸々の地元に対する負担が、長逗留のため、耐えられる限度を超えるようになった時、民衆の蜂起が始まりました。

 慶応2年5月に摂津西宮で貧家の主婦が米の安売りを米穀商に強要したのが皮切りで、米穀商が安売りに応じない場合には、民衆が押し掛けて打ち壊しをする、という事態が巻き起こり、あっという間に畿内全域に広がりました。慶応版の米騒動です。

 打ち壊し勢は米1升で、時価700文のところを200文に負けろと交渉するのですから、米穀商などではとても飲めません。貧民と商家の衝突は必然となりました。

 おかしなことに、たたき壊される豪商は、いずれも、幕府が戦費のため求めた上納金を拒否したり、値切ったりしたところばかりです。そこで、打ち壊しの首謀者は将軍その人である、というようなデマまで流れる始末です。暴れている貧民を逮捕して、首謀者を聞くと、その人はお城にいるから、お城で吟味してくれ、という答弁が横行して幕府は取り締まりに手を焼きました。

 この打ち壊し騒動はさらに幕府のお膝元の関東にも飛び火し、武蔵の国などで大規模な一揆が勃発しています。

 こうした不穏な情勢を鎮めるために、かなりの出費を幕府としては余儀なくされました。これは戦費ではないので、後述する戦争経費の中には含まれておらず、どの程度の額であったのかは判っていません。

 とにかく、こうして、幕府としては、早く戦争を始めないと、足元から危ない、という事態が生じてきたのです。このため、結局、第2次長州征伐は幕府側から始めることになりました。

(3) 開戦

 慶喜以外は誰も望んでいなかった戦争が始まったのは、慶応2年6月7日のことです。

 幕府海軍が周防大島を砲撃した後、陸戦隊が上陸して、同島を占領しました。ここは本格的な侵入拠点とする、というより、艦隊行動の拠点という程度の意味しかないことは明らかでしたから、長州軍司令官の大村益次郎は、同島については放置しておく方針でした。

 が、高杉晋作は、この知らせを聞くと、なんとわずか200トンの丙寅丸で、1000トン級の軍艦をずらっとそろえている強大な幕府海軍に夜襲をかけました。この時期、海戦の夜襲は常識的に不可能とされていました。そこで、幕府側は何の警戒もしていませんでした。晋作は平然とこの軍事常識を破ったわけです。

 丙寅丸は小さな船ですし、戦闘は短かったので、幕府側に被害はほとんどでなかったのです。が、夜襲されたという事実に怯えて、驚いたことに幕府海軍は、そのまま逃げ去ってしまいました。その結果、島に残された部隊は孤軍となり、長州軍の攻撃に壊滅しました。

 広島方面からは、幕府の伝統にしたがい、井伊軍団が先陣を切って攻撃を開始しました。不幸なことに、井伊軍団は武装も伝統にしたがい、赤備えの鎧に槍、刀、それに火打ち銃で攻撃しましたから、最新型のミニエー小銃を装備した長州軍の前に一瞬にして壊滅しました。ライフル銃弾は面白いように古式豊かな鎧を貫通します。これに対して、井伊軍の主力兵器である火縄銃からの銃弾は、ミニエー銃の半分の距離も届かないのですから、戦闘というより殺戮という方が正しいような状況だったようです。

 壊滅した井伊軍に代わって、幕府自慢の洋式歩兵が前進しました。この部隊は予想通り強く、長州軍を押しまくりました。が、長州軍は地の利を生かしてじっと耐え抜き、結局この戦線は膠着状態になりました。

 島根県側からは山陰地方の諸藩の兵に、紀州藩兵が加わって攻め込みました。紀州藩は早くから洋式軍を作っており、決して弱い兵ではありません。が、こちらの方面は、長州軍の総司令官の大村益次郎自身が出陣して采配を振るったため、ほとんど鎧袖一触という感じで幕府軍は壊滅し、長州軍は遠く浜田城をも攻め落とす、という大きな戦果を挙げました。同城が落ちたのは7月18日のことです。

 残る方面は下関海峡を挟んだ小倉です。海峡は、強力な幕府艦隊が制海権を握っているのですから、長州側から攻め込むことは不可能で、その意味で間違っても幕府側が負けようのない戦線です。しかも、この方面の総司令官に幕府はエースを起用していました。老中、小笠原長行です。

 小笠原長行は、率兵上京事件で老中格から罷免されていましたが、この前年の9月4日に老中格に復帰し、10月9日に「格」がとれて正式の老中に昇格していました。小笠原藩は相変わらず年下の義父が藩主ですから、彼は藩主としての身分を持たない最初で最後の老中となりました。

 彼がこの方面の拠点とした小倉城は、そもそも小笠原本家の城です。小笠原本家は二つあります。そのうち、すなわち長行の小笠原家は、前に紹介したとおり、日本中あちこち転封になったあげく、この時期肥前唐津を領有していました。それに対して、今一軒の小笠原家は寛永9年という遠い昔から一貫して小倉城主なのです。英明をもってなる長行の指揮下に、この2軒の小笠原家や、強兵で知られる肥後熊本藩兵などを配しているのですから、陸上勢力から見ても、負けようのない陣営といえます。

 ところが、長州側は機略縦横で有名な高杉晋作の総指揮の下、海軍は坂本龍馬自身が指揮し、圧倒的強さを持つはずの幕府海軍を翻弄します。そして、制海権に生じたわずかの隙をついて、山県狂助(後の有朋)率いる奇兵隊が海峡を越えて繰り返し小倉側に侵入しては、痛撃を加えます。

 こうして圧倒的な大軍を誇る幕府軍が、一握りの長州陸海軍に翻弄されている最中に、大阪で事件が起こりました。将軍家茂が死亡したのです。7月20日のことでした。享年21歳。歴代の徳川将軍の死亡原因の例に漏れず、彼の場合も心臓脚気が原因でした。徳川の将軍家の食事はよほど栄養が偏っていたものと見えます。

 この家茂の死は、幕府は堅く秘密にしていたのですが、7月30日には小倉に届きました。

 家茂という人は、狷介な性格で知られる勝海舟のような人物が、この人のためなら命も惜しくない、と熱心に奉公していた、という独特のカリスマ性のある人物でした。百才あって一誠足らずといわれ、信服する幕臣がほとんどいなかった慶喜との大きな相違です。

 この家茂のカリスマ的魅力が、この時期の幕府を支えていました。そのために、その死の知らせは、一瞬にして幕府軍を自壊させることになりました。

 まず、小倉方面軍の主力部隊である肥後藩兵は、それを聞くと同時に、戦場を離脱して帰国してしまいました。

 いろいろ考え併せてみると、小笠原長行も、家茂のカリスマ性の虜になっていた人の一人なのだろうと思います。その証拠に、彼が最初の越権行為である率兵上京事件を引き起こしたのは、事実上朝廷の虜となっていた家茂を救うためでしたし、彼が進軍を止めたのは、家茂自身の命令が届いたときでした。

 今回、長行は、家茂の死の知らせを聞くと、誰にも告げずに一人福岡城に退いて、喪に服してしまいました。よほどのショックだったのでしょう。

 しかし、そういう自身の感情におぼれた行動を総指揮官がとるというのはもってのほかです。これが本章の冒頭で触れた、長行の生涯における2度目の過ちです。

 長行がいなくなると、肥前唐津藩も戦場を離脱してしまいました。この時、唐津藩の支配者は、長行より2歳年下の義理の父!です。その父を差し置いて、老中に上った子が総指揮官で、仮にも父である人を命令するのですから、両者ともに実にやりにくい立場にいたわけです。その長行がいなくなったのですから、これ幸いと唐津藩が戦場を離脱したのも無理のないところです。

 この結果、小倉小笠原家は、独力で長州藩と向き合わざるを得なくなりました。それは無理と考えた同藩は、自ら城に火をつけて退却しました。ゲリラ的な攻撃を仕掛けて、幕府軍の進撃を阻んでいたつもりの長州としては、狐につままれたような勝利となりました。

 しかし、これで膠着状態になっている広島方面をのぞいて、すべての方面で完全に長州が勝利することになったわけです。

(4)  戦い済んで

 7月20日に、将軍家茂の臨終に立ち会った一橋慶喜は、その後1ヶ月ほどの間、大変な興奮状態にありました。水戸家が徳川300年の間、願いながら実現しなかった将軍位が、これで彼のものとなったことは、当時の徳川家の状況を考えれば確実といえます。

 そこで、将軍位就任を華々しい戦果で飾ろうと考え、「長州大討込」ということを言い出します。みずからランドセル、つまり歩兵の背嚢を背負って、幕府自慢の洋式歩兵隊を率いて山陽道から長州に攻め込もうというのです。

 そこで、参内して孝明天皇にもそう申し上げ、朝敵を征伐するにあたっての最高の儀式である節刀を賜る、という儀式までやっていただいたのです。これは皇室相伝の御剣「真守(まもり)」を官軍総督の印として拝受する、という儀式です。

 そこに、8月1日には小倉城がすでに陥落していた、という知らせが8月11日に大阪に届きました。

 この時、幕府軍は依然として山陽道では戦っており、しかも前に述べたとおり押し気味に戦いを進めているのですから、その山陽道から、自ら攻め込もうという慶喜の戦略には、本来なら影響を与えないはずの知らせです。

 けれども、不思議なことに慶喜はこれにより突然考えを変えます。おそらく彼の弱点の一つである責任回避癖が頭をもたげたのでしょう。自分が引き受けている戦線だけしか残らない状態で、戦争をして負ければ、敗戦は間違いなく彼の責任ということになるからです。そこで、突如「大討込」はやめる、といい出しました。

 閣僚達は仰天しました。翌12日には広島まで幕府の大本営を進めることになっていて、そのための準備がすべて終わっている段階での、突然の変心だからです。

 しかし、一度責任回避癖が頭をもたげると、慶喜は頑固です。結局、朝廷に対しては慶喜自身が15日に上京して八方奔走し、つい先日、強引に自分が取り付けた勅旨を取り下げてもらい、代わりに和平を命ずる勅旨を下してもらいました。

 8月20日に、家茂の死と、慶喜の徳川宗家相続が発表されました。天皇の思し召しにより止戦、すなわち戦争をやめることになった、と発表され、幕府側が一方的に戦闘行動を中止する、という形で、この第2次長州征伐は終わったのです。

 敗戦処理は、例によって勝海舟が押しつけられました。彼は、家来も連れず、文字通りただ一人で厳島まで出向いて、21日、長州との間に止戦の約定を取り交わしました。

 さて、この第2次長州征伐に関する幕府の経費ですが、これについては勝海舟が、「外交余勢」と題する本の中に記録を残しています。

 それによると、家茂が江戸を出発した前年5月からこの年5月までの大阪での滞陣経費が毎月17万4235両3分です。内訳として目立つのが、お供に対する手当などが毎月5万3790両あまり。今の言葉で言えば出張手当というところでしょうか。また、武器の維持管理費が1万3807両とあります。これとは別に食糧として毎月4368石4斗の米を必要としています。これも現地で調達しなければなりません。閏の月がありましたから、14ヶ月分で、合計315万7446両が開戦前の総経費とされています。

 6月に開戦したわけですが、それから戦闘を経て、敗戦処理が終わる同年12月までの7ヶ月間の総経費が121万9650両1分となっています。したがって、戦費は、合計で433万7096両余りということになります。

 他の文書でも、戦費は500万両程度と書いてあるものがあり、海舟のこの記録は正しいものと考えられています。

 そこで問題は、これほどの巨費を幕府はどうやってやりくりしたのか、ということです。

 従来、幕府が財政危機に陥ったときに常に愛用されていたのは、通貨の改鋳です。しかし、今回はやっていません。改鋳というのは、大規模な国家事業ですから、戦争の片手間にやれることではないのです。おまけに、通商条約のおかげで、当時のわが国経済は国際経済の中に組み込まれていますから、改鋳がどのようにわが国経済に跳ね返るかを慎重に検討しない限り、実施は不可能な時代になっていました。

 もちろん、先に、内外における金貨・銀貨の交換レート調整の一環として実施された万延改鋳は、明治になるまで一貫して続けられており、したがって、この時にもある程度の差益は生み出し続けていました。しかし、この慶応2年という時点では、もうほとんど旧通貨の回収は終わっており、したがって出てくる差益も微々たるものになっていたはずです。

 次に幕府のお家芸が、年貢米の増徴です。これについても、この当時も積極的に展開されたことは間違いありません。

 しかし、戦争で特に国内で最も重要な回船ルートである瀬戸内海が自由に通行できなくなっている影響は大きく、大阪に米が集まってきません。先に、開戦前夜に米の安売り強要から打ち壊しに発展したと紹介しましたが、それほどに、京・大坂の米不足が深刻になっていたわけです。

 米を大阪の市場で販売しなければ、現金収入を得ることができない、という点では米将軍とあだ名された吉宗の昔から、この時に至るまで、事情は少しも変わっていません。したがって、年貢米収入に関する限り、この時点では、むしろ従来よりもかなり減っていた、と考えるべきです。

 曖昧な書き方をしていますが、実は幕府の年貢米収入記録がこの時期、残っていないため、そもそもどの程度の年貢米徴収量があったかさえも判らないのです。まして、その換金額は判りません。

 この時代の重要な財源として、関税収入があり、井伊政権以降の大事な柱になってきた、ということは既に紹介しました。幕府に関税自主権があれば、戦費獲得のため、増税したいところですが、実際には列強の摂海侵入による脅しから締結させられた改税約書により、関税収入は逆に減っています。とはいうものの貿易量は順調に伸びていますから、確実に期待できる財源です。

 しかし、戦争の間にも、既に注文してある軍艦その他の兵器は次々と届いています。海軍は海に浮かべ続けるだけで、年に100万両もの費用を要します。さらに、下関戦争の賠償金の分割支払いも続けねばなりません。そうしたあれこれを考え併せると、戦費の原資として機能する余裕があるほどの財源であったとはとても思えないわけです。

 もう一つ、幕府が苦しくなると使うのが、民間からの借り入れです。つまり御用金を申しつける、というやり方です。実際、この第2次長州征伐時に京・大坂の商人に申しつけた御用金は、総額250万両に上っています。これが実際に取り上げるのに成功していれば楽なのですが、第1次長州征伐時にさえ、激しい抵抗を商人が示したことは、紹介しました。したがって、たぶん、その半分も入ってくれば上等という程度であったと思われます。しかし、これが大きな戦争の財源の一つであったことは間違いありません。

 こうして、幕府としては、それまでになかった数百万両規模の全く新たな財源を、この時、必要としていたわけです。

 窮すれば通ず、ということわざ通り、幕府の優秀な官僚たちは、新しい財源を考え出すのに成功しました。その新財源の名を兵賦金といいます。

(5) 兵賦金

 勝海舟が書いた「解難録」という書の中に、次のような趣旨の文章があります。

 「長州征伐をはじめて以来、国家財政を空費したため、城内の金庫はすべて空になってしまっている。年貢は既に集めてなくなってしまい、残るは兵賦金のみである。それによる収入が350万〜60万両ある。これは本来、兵隊や軍艦のために使うもので、その他の用途に使用することは許されないものだが、京・大坂の情勢が不穏なので、その用途が実に多く、使ってしまった穴を補填して、兵を集めたり、弾薬を買ったりするために使うことができない・・。」

 前に述べたとおり、直接戦費が約434万両。仮に100万両程度を御用金で確保できたとすると、残り300数十万両の収入があれば、第2次長州征伐が財政的に可能になります。兵賦金でそれが得られたというわけです。

 この兵賦金というのはいったいなんなのでしょうか。

 前章で、春嶽が、文久の改革の一環として幕府に洋式歩兵隊を設けた、という話を書きました。

 そこでは、最終的に2万人の歩兵隊を作る予定で、文久2年12月1日に、江戸市中の浪士や町人、農民から兵士を公募したが、応募者が少なく、最終的に3,500人程度の規模に終わった、と書きました。

 本来ならば、公募するまでもなく、旗本や御家人を召しだして訓練し、歩兵隊とすれ済むはずです。彼らはそのために300年間、無為徒食をしてきたのですから・・。しかし、現実問題として、旗本や御家人は軟弱で使い物にはならない、ということは、自他共に認めるところだったので、公募ということが行われたわけです。

 しかし、旗本や御家人自身でないまでも、彼らにその石高に応じて、一定数の兵隊を出させるノルマを負わせてもよいのではないか、ということが考えられます。

 俗に旗本八万騎といわれますが、これは旗本や御家人の総数が8万人いるということではなく、彼らに給している石高に応じて引き連れてくるべき家来の数をも合計すると、約8万人になる、という意味です。

 この古い建前を復活させたのが、兵賦令という名の命令です。最初に出されたのは公募直後の文久2年12月3日でした。

 江戸財政改革史で、5代将軍綱吉が実施した元禄地方直しという政策を紹介しました。そこに述べたとおり、500石取り以上の旗本は、必ず知行地を持っています。そこで、500石取りは1人、千石取りは3人、三千石取りは10人という調子で、その知行地内から、15歳以上45歳以下の強壮な男子を選んで兵士として差し出せ、という命令が兵賦令です。兵役を賦課するので、こう呼ぶわけです。先に述べた建前は、提供した兵士の装備や、さらに月々の維持費等もすべて主人側が負担することを求めています。昔はいざ知らず、この時代の洋式歩兵の装備を維持していくには、だいたい月に10両程度を必要としたようです。したがって、旗本は、この人員の確保プラス月兵士一人当たり10両の負担をする義務が、先祖代々伝わっている、ということになります。それを明文化したのが兵賦令というわけです。

 確かに理屈としてはその通りです。しかし、実際問題として、旗本とその知行地の関係は差し出せ、といったから兵がでてくる、というような緊密な、あるいは甘いものではありませんでした。

 勝海舟の父、小吉は「夢酔独言」という書の中で、知り合いの旗本のために、その旗本の知行地から若干の金を引き出す際の苦労話を書いています。金を出させるために、小吉は切腹のまねごとまでしなければならなかったのです。

 金を出させるだけでさえそんな調子なのですから、まして死ぬ確率の極めて高い兵を出させるなど、論外というべきだったでしょう。したがってあまり実効性のある布告ではなかったようです。

 そこで元治元年に兵賦督促令というものがでて、速やかに兵を差し出すように、と督促しています。その中で、始めて金のことに触れています。すなわち、遅滞した部分については金で補填しろ、という命令が入っています。その後も繰り返し、督促が行われます。

 慶応元年になると、より多くの直属軍を幕府が必要としたために、兵賦の範囲が、旗本領だけではなく、天領にまで拡大されました。

 そしてとうとう、慶応2年正月には全面的に金納制度に切り替わったのです。これが兵賦金です。兵賦一人当たり20両を提出しろ、といっています。しかもこれを向こう10年間の軍役費として一度に前納しろと命じています。

 幕府の直轄領に、旗本の知行地を加えた、幕府の支配領地は、新井白石の計算に依れば約700万石でした。おそらくこの時代にもたいして変わっていない、ということを前提にして、先の兵賦令の数値に基づいて計算してみると約30万両という答えがでてきます。したがって、その10年分を前納させれば、勝海舟が述べていた300数十万両の収入が得られることになります。

 現実に戦争をしてみて、兵を確保するよりも軍資金を確保する方が、よほど重大である、と判っての苦肉の策ということができるでしょう。

 したがって、その法的性格は、天領に対する場合と旗本に対する場合とでは違います。

 天領の場合には、単純に戦争目的税ということができるでしょう。どこの国でも、戦争ということになると、その軍資金に充てる目的で、その期間だけの特別税を課しますが、幕府領内では、これがはじめてです。もっとも幕府としては、綱吉が富士宝永山被害救済のため、という名目で、大名領も含めて全国一律に固定資産税を徴収したという例外がただ一つあります。

 この、兵賦金という名の増税が、戦費調達のため絞られていた天領農民に対する今一層の重圧になったことは当然です。先に対長州戦開戦前夜に関東地方も含めて各地で大規模な一揆が起こったと説明しましたが、兵賦金がその引き金を引いたのです。実は、この慶応2年という年は、江戸時代を通じてもっとも百姓一揆の多かった年なのです。いきなり数百万両という巨額の税金がかかってきたのですから無理もありません。

 旗本に対する兵賦金の場合、給料の天引きというような性格があります。江戸時代、どこの藩でも財政が破綻し、手っ取り早い対策として、藩士の俸給をカットする、という方策にでていました。しかし、幕府だけは、これまでそういう策をとらずにやりくりしてきたのですが、我慢の限界を超えた、というわけです。

 旗本が十分に実力を持っていれば、この兵賦金は知行地の農民に転嫁されたことでしょう。事実、そう考えている日本史学者もいます。しかし、先に夢酔独言に紹介したとおり、当時の旗本はそれほどの力は持っていません。農民に有無をいわさず転嫁できるだけの力を持っていれば、そもそも兵賦令で話は終わり、兵賦金にまで発展しなかったはずです。ですから、おそらく、実際のこの資金は札差しを拝み倒しての追加借り入れだったことでしょう。これほど多額の追加貸し出しに応じたのであれば、江戸の札差し達が幕府の滅亡の道連れになったのは、いわば必然の成り行きといえます。

12. 幕府の滅亡まで

(1) 慶応の改革

 徳川慶喜が、老中や諸侯達の懇望の前にやむを得ず、というポーズを取りながら喜々として15代将軍の地位についたのは慶応2(1866)年12月5日のことでした。明治維新後に、「昔夢会筆記」という書で、慶喜は将軍位につくにあたり、すでに「日本国のために幕府を葬るの任に当たるべしとの覚悟をさだめ」ていたと述べていますが、もちろん彼の持病というべき虚言癖の現れと見るべきで、まったく信用できません。

 慶応2年7月20日に家茂の臨終に立ち会ったときから、実質的に独裁者としての活動を開始した慶喜は、その後の1年間を幕府の覇権を確立するための全力を挙げており、それを幕府安楽死政策と見ることはまちがってもできないからです。

 この時期、幕府軍の戦力で、もっとも強力であったのが、洋式歩兵隊であったことは何度か触れました。「長州大討込」と唱えたときには、自分自身、その一員となってランドセルを担いで走ろうとそのていたほどに、慶喜はこの部隊に入れ込んでいます。そこで、彼の急務はこの洋式歩兵隊の一層の強化と拡充です。強化手段として、ロッシュに対し、8月2日の段階ですでにフランス軍の顧問団の派遣を依頼し、止戦を発表した後の8月27日にも再び書面をおくって催促しています。その中では、明確に将来に向けて幕府の覇権確立のため、努力する旨が述べられています。

 そのためには、財源の確保がもっとも重要な問題であることは明らかです。

 長州との戦争は一応終わりましたが、慶喜の独裁権力を維持するためには、慶喜のいうがままに動く軍事力を手元に握りつつけている必要があります。そのため、洋式歩兵を中核に、約2万の兵力を慶喜はそのまま畿内においています。第2次長州征伐の際、10万の軍を1年間畿内に置いたことで、300万両が必要になったことから考えると、単純計算で2万の兵力を維持するには年に60万両の費用が必要だ、ということになります。畿内に長期これだけの軍が駐留することによる物価の値上がり及び民心安定のための費用を考えると、これよりもう少し多い財源を、将来に向かって確保しなければなりません。

 前節の説明で判るとおり、長州征伐時に役に立った唯一の財源は兵賦金でした。しかし、兵賦金は、一回限りの非常手段です。10年分前払いという名目でかき集めた以上、後10年は兵賦金をとることはできません。

 そこで、慶応2年8月、つまり第2次長州征伐が終わった直後に、幕府は軍役令というものを出しています。これは、兵賦とは別に、さらにそれよりも厳しい軍役というものを旗本に課したものです。

 すなわち、600石取りは3人、700石取りは4人という調子でどんどん累進的に厳しくなり、3000石取りだと24人というノルマを課した上で、もっとも人数を差し出すに及ばず、一人につき金5両を差し出せ、とあります。

 つまり、軍役と名を変えた新しい兵賦金が旗本達の上にのしかかってきたわけです。これはさらに同年9月に若干内容が変わり、兵賦令と一本化されますが、旗本から金を取ろうという点には、まったく違いはありません。毎年、78万8000両あまりの収入が見込める、と計画書に明記されています。まさに旗本受難の時代に突入したわけです。旗本層こそが幕府権力の基盤であり、彼らもまた食うや食わずやの厳しい財政状況にあることを考えると、彼らを搾取することで軍事力を維持しようというこの政策は、蛸が自らの足を食うに似た末期的症状といえます。旗本にとって幸い?なことに、幕府は後わずか1年余りで滅びますから、厳しく搾取される時代が長く続いたわけではありません。もし幕府が長続きしていれば、旗本の倒産が相次いだことでしょう。

 幕府はさらに10月には譜代大名領までも兵賦金の対象としようということを検討していますが、これは実施に至りませんでした。

 しかし、将来的に幕府の覇権を確立するためには、単に畿内に兵力をおいておく、というような消極的な作戦ではなく、日本全国を転戦しても耐えられるだけの財政力が必要です。わずか長州1藩と戦うために、破産寸前まで追い込まれたことを考えると、より確実な財源を確保する必要があります。

 そこで思いつくのがフランスからの借款です。幕閣の中でこの年10月になると真剣な検討が始まりました。これが、逆に幕府の命運を決めることになります。この点については、後に詳述します。

 先に横須賀工廠の建設のため、フランスから借款したこと、及びその担保が日仏両国に設置された生糸の輸出入組合を通じてのフランス独占権にあることを述べました。その具体化のための交渉の一環として慶応3年2月になると、追加借款交渉が本格化します。ロッシュは、蝦夷地の鉱山から産出する金銀を担保として、600万ドルの追加借款に応ずる、との態度を示します。

 しかし、追加借款を提供するには、幕府の体制がそれなりにしっかりしていなければなりません。そこで、ロッシュは慶喜に西欧行政制度に関する講義をこの2月に行っています。

 制度改革は慶応3年5月12日に断行されます。すなわち外国総裁(外務大臣)小笠原長行、会計総裁(財務大臣)松平康英(やすひで)、陸軍総裁(陸軍大臣)松平乗謨(のりたか)、海軍総裁(海軍大臣)稲葉正巳などで固めた内閣を設けたのです。これまでの老中制度は、勝手係と外国係だけが専従制で後は連帯責任制でしたが、全官職を専従制にしたわけです。その次官級ともいえる若年寄に、門閥にこだわることなく、永井尚志などの若手を起用しました。

 またロッシュは固定資産税や営業税、酒税などの導入も提案し、幕府はこの線に沿った調査を開始しました。

 さらにロッシュは、この慶応3年に開かれたパリ万博に幕府が出展することを提案し、慶喜は弟の徳川昭武(あきたけ)を正使とし、慶喜の股肱の臣である渋沢栄一を添えて、この年1月に送り出しています。

 この、いかにも妥当と思われる措置が、結果として慶喜とロッシュの運命を暗転させました。

 同じパリ万博に、薩摩藩は琉球国と称して、別途、幕府以上の莫大な出品を行い、幕府の展示活動に大変な妨害をしたのです。

 実は、フランスでは、この年すでにロッシュを送り出した外相ドルーアン・ド・ルイEdouard Drouyn de Lhuysが辞任し、外相がムーティエMarquis de Moustiersに変わっていました。ロッシュは自分の実力に自信を持つ余り、本国に余り詳しい報告を送っていませんでした。そのため、ムーティエは英国などからの批判だけに基づいてロッシュの対日政策を判断するようになってしまったのです。例えば、ハリスの後任の米国公使が自分個人の利殖を図ろうとして幕府から不信感をもたれたという話を前に紹介しました。ロッシュも同様の経済活動を行っている、という非難が浴びせられたのです。

 さらに、徳川昭武一行に随行してきていた通訳官のカションが、ロッシュに対して不満を持っていたのか、あるいは日本通としての良識ある判断だったのかはともかく、幕府の命運は既に尽き、薩摩が現在もっとも強力であるので、ロッシュの政策は誤っているという趣旨の論文を、ラ・フランスという新聞に発表しました。上述の通り、パリ万博では薩摩の出品の方が、幕府を上回っているのですから、これは説得力を持っています。

 その結果、1867年5月8日(慶応3年4月5日)、フランス外務省は、ロッシュの努力によって、対日貿易量が飛躍的に増加していることは高く評価しながら、これ以上幕府一辺倒の政策を採ることは、こうした既に獲得した権益を危うくするおそれがある、として、ロッシュの幕府支持策を否認し、諸藩に接近するパークスの政策を支持する対英協調路線を示した訓令を発したのでした。ロッシュは、この訓令に接すると激しく反発しますが、結局、慶応4年(すなわち明治元年)1月25日に帰国命令を受けて、日本を離れることになりました(実際に離日したのは同年6月です)。

 ここに、フランスに全面的に依存していた慶喜の慶応改革も、とん挫することになります。

 もっとも、そのわずか前に鳥羽伏見の合戦は起きており、慶喜の方がロッシュを大阪に置き去りにして江戸に脱出する、という形で、両者の連合は壊れていました。

(2) 列候会議

 この時期、英仏は世界的に植民地を拡大していましたが、その手段は、対象国内の内紛に介入して、一方当事者に援助を与え、内紛を拡大して双方ともに疲弊させ、最終的に武力介入するという手段でした。アヘン戦争という過酷な教訓が、すぐ隣国の清国で起こっていたため、この英仏の侵略手段は、わが国の知識人の一つの常識になりつつありました。そこで、こうした密議の存在はすぐに日本中に知られ、猜疑の目をもって幕府は見られることになります。

 幕府が一日長らえれば、その分だけ日本の利益が危うくなると、多くの人が考えました。では、どうしたらよいでしょうか。

 誰でも考えつくのが、先に、慶喜の強引な妨害活動にあってたたき壊された参与会議の復活です。あのときのメンバーは、いずれも雄藩の長で、自前の軍事力を持っています。したがって、彼らがもう一度自らの軍事力を持って上京し、その連合軍事力で慶喜を押さえつければ、ふたたび参与会議の慶応版、すなわち列候会議を開催し、これが日本の支配力を握る、ということが可能になるはずです。

 誰でも考えつく、といいましたが、日本国内でこれを文章化した最初の人物は、英国公使館の通訳官であるアーネスト・サトーです。彼は、このアイデアを独自に思いつき、これを横浜で発行されていた英字新聞ジャパン・タイムズに、慶応2年の1月から3月にかけて匿名で発表しました。これを、サトーの日本語の教師であった阿波蜂須賀家の家臣、沼田寅三郎が日本語に翻訳し、その写本が広く流布したのです。これは、発表にあたり上司パークスの許可も取っていない純然たる私的論文なのですが、流布するにあたっては、「英国策論」というなにやら英国の公式態度を書いたものと思わせるような表題になっていました。

 パークスは、当初は幕府を支援することで英国の立場を強化できると考えていました。慶応3年1月の時点では、間違いなくそういう路線でした。が、ロッシュに出し抜かれて、幕府は完全にフランスに取り込まれてしまった、ということが徐々に判って来るにしたがって、方針転換を図り、この部下の私的論文に接近した政策を採り始めます。

 1866年(すなわち慶応2年)初頭に、薩摩の松木弘安(後の寺島宗則)がロンドンで、こうした動きとは全く別に、同様の提案を英国外相に向けて行っています。これを受けて、英国外務省では、パークスに対し、天皇・将軍・大名の自由討議を勧めるよう、訓令しています。したがって、列候会議の承認は、この時点ではパークスの裁量の範囲に属していたわけです。そこで、英国は列候会議の開催推進に向かって動き出します。

 実際に列候会議開催のために奔走したのは、薩摩藩の西郷隆盛と、土佐藩脱藩浪士の中岡慎太郎です。

 慶応2年12月25日に、幕府にとって致命傷となる事件が起きます。朝廷内きっての佐幕派であった孝明天皇が突然死亡したのです。疱瘡による病死とも毒殺ともいわれます。代わって即位したのが明治天皇です。嘉永5(1852)年生まれですから、この年12歳です。まだ幼くて、自らの判断では行動できません。幕府では、なんとか慶喜自身が摂政になろうと画策を開始しますが、結局失敗しました。

 この幼帝の出現という機をとらえて、反幕派の公家である岩倉具視は、孝明天皇に追われて都落ちしていた三条実美とむすび、列候会議に向けて謀略を展開しはじめました。

 こうして、慶応3年4月に、島津久光、山内容堂、伊達宗城、松平春嶽が再び京に集まりました。しかし、この会議は内部対立で再び解体します。島津久光などがこの機会に幕府権力を失墜させようと企んだのに対して、伊達宗城などは、単に国政に関与する機会を欲しただけに過ぎなかったからです。こうして5月21日に山内容堂が帰国声明を出したのを皮切りに全員が相次いで帰藩することになりました。

 慶喜はその機をとらえて、朝廷に圧力をかけ、得意のマラソン会議によって、懸案であった兵庫開港に対する勅許を6月25日に獲得するのに成功します。これにより、兵庫は翌年1月1日から開港されることになりました。この成功に、英国公使パークスもしばらくの間、慶喜支持に転向したほどです。これが結果的に見れば、慶喜の対外面での最後の成功ということになりました。

(3) 武力倒幕と大政奉還

 こうして列候会議方式では、倒幕は無理と判断した薩摩の西郷隆盛や大久保利通は、武力により幕府を倒すという決意を固めるに至ります。そこでまず薩摩本国に対して、5月29日、兵力を上京させる準備をするように、という指令が飛びました。

 それと同時に薩長同盟に基づいて、長州に対しても、兵力を上京させるように依頼しました。9月半ばに、大久保利通自身が長州の三田尻軍港(現在の防府市)に出向いて桂小五郎らと会談して計画を固め、藩主父子と会見することで、正式承認を得て、武力倒幕の計画は着々と動き始めていました。

 その同じ頃、坂本龍馬は、出身藩である土佐の、幕末政争の中での地位を一気に高める手段として大政奉還という手段を考え出していました。これは、要するに、徳川家の地位を明確に諸侯の一員に格下げした上で、つい先頃流産に終わった列候会議をもう一度開こうというものです。それだけでは決して画期的なアイデアではありませんが、その列候会議で決定すべき事項まで具体的に指定した点に龍馬の凄みがあります。いわゆる船中八策といわれるものです。これはその後、五箇条のご誓文という形にまとめられ、明治政府の基本方針となっていきます。土佐藩は、これを藩の基本方針と決定し、薩摩との間で交渉します。

 武力倒幕にあたっては、土佐の兵力も期待していた薩摩側としては、土佐の提案をむげに拒否することはできません。結局、まず大政奉還の線で打診し、それが失敗したら、直ちに武力倒幕に移行する、ということで、両者の話し合いがまとまります。

 薩長が武力倒幕で一致しているというところまでは把握していませんが、長州の動きがおかしいということは、幕府の情報機関はキャッチしています。フランスの協力で幕府再興に向けてちゃくちゃくと布石は打たれていますが、再度の長州征伐を実施する財政力は間違ってもないことは、幕府の要路にいるものは、皆承知しています。何とか時間稼ぎの手段が必要です。

 そこで、9月20日、幕府若年寄格永井尚志は、土佐藩の後藤象二郎を招き、早く大政奉還の建白書を出してほしい、と督促しました。これを受けて、土佐藩では、建白書を出すことに対する同意を10月2日に薩摩藩から取り付け、翌3日に老中板倉勝静(かつきよ)に提出したのです。

 慶喜は、松平容保らと図った上で、10月14日、奏上し、翌15日、聴許されました。ここに、幕府は形式的には滅びたわけです。実は、薩長の討幕派は、密かに倒幕の勅旨を受けるための運動を展開しており、この日に降りる予定になっていました。その意味で、この日もまさに運命の一日だったのです。きわどく、幕府は討幕派に肩すかしを食わせたわけです。

 もちろん大政を奉還された朝廷に実際の行勢力があるわけはありませんから、22日、慶喜に対し、当分の間は庶政を委任するという沙汰書を下しました。

 しかも、大政奉還派が期待していた諸侯会議が開けません。朝廷の召集令に何らかの反応を示した諸侯のうち、12月8日までに上京してきたのはわずか12藩に過ぎないのです。そして、上京してきた藩にしても、これまで通り万事幕府に委任しておくことに異論は唱えません。したがって、せっかく幕府を諸侯の地位に落としても、このままでは、従来同様、幕府が国内政治を行っていく、ということに全く違いはないのです。

 そうすれば、フランス資本に支えられた形で徳川氏が力を蓄えるのに時間を貸すことになります。徳川氏が力を回復すれば、薩摩や長州は、最終的には滅ぼされることは間違いありません。

 そこで、12月9日になって、薩長は京都でクーデターを敢行します。そして、幕府の与党を閉め出した、いわゆる小御所会議で、新政府の方針と組織が決定され、また、慶喜に対しては辞官納地、すなわち官位を辞退し、所領すべてを返納するよう、命令が下ります。

 討幕派としても、この路線で押し通せるほどの実力はありません。12日になると、松平春嶽に斡旋させ、慶喜が反省の色を示すなら、これを朝廷政府に迎える、という決定をし、24日になると、さらに慶喜に対する命令から領地返納の文字をのぞき、全国行政に必要な分を調べた上で、徳川家の領地から差し出せ、というような後退した表現となりました。

 このように、クーデターを敢行して樹立した新政府の姿勢が後退を続ける理由は、その財政基盤がないことにあります。

 仮に、薩長が、そのまま連合政権という形で、新政府に発展していたのであれば、新政府は、少なくとも薩摩藩や長州藩の財力を基礎にして出発することができたはずです。しかし、小御所会議で成立した政府の構成員は、決して薩長ではないのです。

 12月9日時点の構成員を具体的に紹介すると、次の通りです。総裁が有栖川宮、その下の会議構成員を議定といい、10人いますが、うち2人が宮様、3人が公家です。残る5人が大名で、薩摩藩島津忠義、尾張藩徳川慶勝、安芸藩浅野長勲、土佐藩山内容堂、越前藩松平慶永となっています。つまり薩摩藩は入っていますが、それもわずか一人であって、薩摩藩が専横できる体制ではありません。そして、長州藩はまったく入っていません。桂小五郎改め木戸孝允は、慶応4年4月に、議定よりさらに下の参与というところに入ってきますが、長州藩主は最後まで入りませんでした。

 したがって、新政府としては薩長からは独立した自分の財政基盤を持たねばならないのですが、それが全くありません。丸一年も前に死亡した孝明天皇の葬儀さえも未だに出すことができず、慶喜にその費用を融通しろ、と依頼している始末です。そこで、何とか交渉で慶喜に新政府の財政基盤そのものを提供させようとして、苦労しているわけです。

 このまま推移すれば、新政府も、これまでの列候会議などと同じく空中分解して、慶喜の粘り勝ちということになったはずです。

 しかし、慶喜はむしろここで一気に薩摩を排除しようと考えました。あるいは、幕府内の強硬派を慶喜が押さえきれなくなりました。そこで1月1日に「討薩表」を朝廷に提出するとともに、諸藩に宛てて、自分の挙兵に応ずるように呼びかけました。その呼びかけの文書を見ると、「君側の悪」を除くために決起するなど、昭和初期の軍部のクーデターにおける文書と似た表現が目立ちます。天皇制の下におけるクーデターの共通性ということなのでしょう。

 これは、結果として幕府最後の大博打になりました。しかし、我々は、その結果を知っているので、大博打と考えるのであって、おそらく慶喜自身は、これは十分以上に幕府に勝ち目のある行為でばくちといえるほど危険なものではない、と考えていたに違いありません。

 この時期、大阪にいた幕府軍は約1万5000人とも3万人ともいわれます。先に慶喜が握っている兵力は2万人と書きましたが、長期滞陣のため、適当に交替させているので、この特定の時点にどれだけいたかは判らないのです。これに対して、薩長連合軍は3000人とも4000人ともいわれます。確かに全体としてみれば、薩長軍は装備に優れたものがありますが、幕府軍の中核を占める洋式歩兵は、規模的にも装備的にも、薩長軍に匹敵しますから、その面での差はない、といえるからです。したがって、圧倒的な大軍を擁している幕府側の勝ちは動かない、といえます。しかも、京都というところは防衛拠点のないところで、古来、京都によって戦って、勝利したものはいません。その点も、幕府軍の有利といえます。

 こうして、慶応4年1月3日、幕府軍は大阪から京に攻め上ろうとします。鳥羽伏見の戦いが始まったのです。この戦い、幕府側の首脳部に全く戦術の判る人間がいなかったのが、薩長側に幸いしました。

 もし、幕府軍が大きく展開して、四方から京都を囲むように布陣した上で攻めれば、薩長軍もそれに対してとぼしい兵力を各方面に分散しなければなりませんから、幕府軍の楽勝だったはずです。ところが明確な司令官のいないままに、幕府軍は愚直にも、まっすぐ大阪から京都に押し出しただけだったのです。細い鳥羽街道で両軍がぶつかれば、戦線はきわめて局部的なものとなります。

 薩長軍で、戦線に投じられたのは1500人程度といわれます。これ以上いても、戦場が局地的なために邪魔になるだけだったのです。つまり、大軍であることは幕府軍にとって全く役に立たなかったのです。そして、局地戦ということになれば、優秀な装備を持ち、実戦経験の豊富な薩長軍の方に分があるのは当然です。戦闘は連日続きましたが、幕府軍が鳥羽街道に固執するものですから、薩長軍にとっては楽な戦でした。出てくるのを叩いていればよいのです。

 その間に、戦闘以外の要素が大きく動き始めました。その第一は、幕府から人心が完全に離れている、ということが誰の目にもはっきりと見え始めた、ということです。官軍は、前に述べたとおり、財政基盤が弱いものですから、戦闘員のための弁当を用意することさえできませんでした。すると、地元の人々が、炊き出しをして戦場まで弁当や汁、酒までも運ぶという光景が現れたのです。戦場になることで、自分の家などを焼かれていた人々がこういう身銭を切っての支持行動をする、というのはよほどのことです。

 おそらく、これも兵賦金のもたらした悪影響の一つと見るべきでしょう。幕府の天領は全国に均一に存在しているのではなく、西国に多かったのです。したがって、兵賦金や軍役金の強制徴収は、畿内に強い打撃を与えていたはずだからです。

 第二の要素は、諸侯の日和見にありました。戦闘が始まるまで、誰もがまだ幕府の方が強い、と考え、そのために朝廷の諸侯会議への召集にも、はかばかしい反応が返っていなかったわけです。ところが戦闘が始まると、京には味方勝利の連絡が、当然のことながら連日入ってきます。勝てば官軍の言葉通り、ここで諸侯が雪崩を打って、新政府に味方する、という姿勢を示し始めたのです。

 そのもっとも象徴的な事件が、淀藩の動向にあります。淀藩は、現役の老中である稲葉正邦の居城なので、幕軍は、戦闘が長引いてくると、当然にこの城を戦闘拠点にしようとしました。ところが何と、淀藩はこれを峻拒したのです。

 もっと劇的な転換をしたのが津の藤堂藩です。この時、山崎にあってまだ戦闘に参加していなかった同藩は、新政府から幕軍を攻撃するように命ぜられると、幕軍宛に「徳川氏累代の御洪恩はあえて忘却は仕らざるも、当地出張の者においてはただ涙をふるいて、勅を奉ずるのほか別に処置、これなし」という手切れの手紙を送りつけると、1月6日早朝から、幕軍の側面を攻撃し始めたのです。

 しかし、幕府軍は大軍ですから、こうした局地戦でいくら部隊を撃破しても、それが戦争全体の勝敗を決することにはなりません。幕軍全体としては、戦争はまだ決していない、という雰囲気だったのです。

 最終的に勝敗を決めたのは、結局、いつも通りの、慶喜の責任転嫁癖でした。楽勝のつもりが、このように戦闘が長引くにつれて、刻々情勢が悪くなってくると、慶喜には嫌気がさしてきました。水戸家に育ち、独特の尊皇思想を骨の髄まで染み込ませていた慶喜は、朝敵という汚名を着るのに耐えられなかった、といわれます。そこで、1月7日に部下を捨てて脱出してしまうわけです。

 これについてはよく衝動的に脱出したかのようにいわれていますが、それは渋沢栄一の書いた「徳川慶喜公伝」に依存して書かれるためです。それによると、慶喜は幕府艦開陽を目指したのですが、誰も開陽の艦型を知らず、暗夜をさまよううち、米国艦にたどり着き、そこで拾ってもらった、という記述になっています。が、これは慶喜得意の虚言癖が、腹心といえる渋沢栄一に向かっても発揮された、ということのようです。

 今日では、米国政府の記録を見ることができるので、この事件の経緯は、かなり正確に判っています。それによると、これは衝動的どころか、むしろ非常に計画的な事件でした。

 すなわち、彼は、かなり早い時点で部下を放り出して脱出すると決めたのですが、悪いことに、この時期、幕府の艦は兵庫沖にいて、大阪城のすぐ外の天保山沖にはいません。しかし、事前に幕府艦を呼び寄せると、慶喜が脱出しようとしていることがばれて、何かと文句を言うやつが出てくると慶喜は考えました。天保山沖には公使達の引き上げ支援のために各国の軍艦が来ていますから、いったんそのどれかに逃げ込んだ上で、幕府艦を呼び寄せればよい、と決めます。

 この時、慶喜が下したもう一つの非情の決断が、フランスとの関係を絶つ、ということでした。前に述べたとおり、フランス本国は、これ以前に幕府との関係を絶つという決断を下していましたが、ロッシュはそれに抵抗し、そのことを慶喜には告げていません。しかし、慶喜にも、フランスと幕府の緊密な関係は、わが国の国益を害するものである、という国内からの非難は聞こえていたはずです。それこそが先に列候会議、今、諸侯会議を開かせている原動力だからです。したがって、ここで朝敵の名をおそれて逃げる以上、同時にフランスと幕府の関係も、この際同時に絶つのが最善ということになります。そのためには、フランス艦に逃げ込むわけには行きません。

 その場合、英国艦に逃げ込むと、今度は逆の意味で、いろいろと政治的影響が出ます。そこで、この時点で天保山沖にいた外国艦の中では、もっとも日本との関係が薄い米国艦イロクォイ号に逃げ込むことに決めたのだと思われます。

 確かな事実だけを述べると、彼は、まず1月6日夜に腹心の部下を米国公使ファルケンバークの所におくって、慶喜がイロクォイ号に乗る許可を求めました。ファルケンバーグは快く許可を与え、艦長に手紙を書いたので、慶喜は安心して、翌7日の夜2時に大阪城から脱出したのです。

 7日の夜、逃げることが間違ってもばれないように、慶喜は、戦いが終わって引き上げてきた将兵に対して、感動的な激励演説を行います。将兵が奮い立って、明日こそ薩長軍に一泡食わせようと宿舎に戻ると、幕府軍の中枢部隊である会津および桑名の藩主に供を命じて城外に出て、イロクォイ号に搭乗したのです。イロクォイ号に2時間ほど滞在したところで、兵庫沖から幕府艦開陽が駆けつけたので、こちらに乗り移り、江戸に帰ったのでした。

 開陽があまりに突然呼び寄せられたので、開陽の艦長榎本武揚は出港に間に合わず、陸上に置き去りにされた、というのは有名な話です。榎本武揚は、函館までも戦い抜いたほどの主戦派ですから、彼が乗っていれば当然脱出行に文句をいい、おそらく江戸に船を走らせてはくれなかったでしょう。外国公使に予め話を通すほどの周到さを持っていた慶喜であれば、榎本武揚が偶然にも船に乗り遅れたと見るべきではありません。タカ派の艦長がその夜、上陸しているように手配するのは、最高司令官にとって何でもないことですし、そうした配慮を予めしておくのは、江戸への脱出を成功させるためには当然のことだったでしょう。

 供を命じられた会津等の藩主達は、最後まで慶喜が何をしようとしているのか判らず、判ったときには手遅れだったようです。彼らが大阪に残っていれば、彼らを中心に会津藩や桑名藩は戦闘を継続したでしょうから、彼らを強制的に同行させない限り、慶喜だけが脱出しても、朝敵の汚名はやはり降りかかってきてしまいます。その意味で、彼らの同行は必須の条件だったのです。

 慶喜は、脱出前に行った激励演説のことについて、うまく騙してやった、と後に自慢したそうです。彼のように病的な虚言癖を持ち、彼が尊崇してやまない朝廷に嘘をつくことすら平気だった人間にとって、彼を信じて一命を掛けている部下に対して嘘をつくのは、何ら問題のない行動だったようです。

 一番気の毒だったのは、慶喜に自分の威信のすべてを掛けていたロッシュです。脱出するまで完全につんぼ桟敷におかれていた彼の呆然とした行動が、アーネスト・サトーの日記には活写されています。ロッシュは、結局、後の任地もしめされないままにフランス本国に呼び返され、彼の外交官としてのキャリアはそれで終わりました。

 慶喜がこうして夜逃げしたとは知らない新政府の方では、同じ7日に、はじめて正式に徳川慶喜追討令を発するとともに、この時点においても日和見を続けていた諸侯に対し、去就を明らかにするように命令しました。その先頭を切って土佐藩が忠誠を誓ったのを皮切りに、あっという間に覇権を確立することができたのです。

 これに対して、一夜明けて総大将ばかりか、主要藩主や老中までがいなくなっっていることを発見した幕府軍は自ら総崩れとなり、鳥羽伏見の戦いは終わります。

 慶喜を追って江戸に帰ったロッシュは、その後も、幕府に徹底抗戦を勧告しました。が、慶喜から全権を与えられた勝海舟は、これを断って江戸城を無血開城し、ここに徳川家の苦闘は終わったわけです。

 以後、彰義隊と官軍の上野の戦争を皮切りに、いわゆる戊辰戦争へとわが国は突入することになりますが、それは決して徳川幕府との戦いではなく、そこからの脱走者との戦いに過ぎませんでした。そうした戦いも、榎本武揚ひきいる幕府艦隊が函館まで戦い抜きますが、彼らが明治2年5月に降伏したのを最後に、組織的な抵抗はすべて終わりました。

 小笠原長行は、彼の出処進退における2度の失敗を悔やんだのでしょう、不退転の決意で戊辰戦争を戦い抜きました。まず会津城に依って戦い、会津落城後は最後まで榎本軍と行動をともにしました。函館降伏後は、しばらく潜伏しましたが、もうどうにもならないと見極めがつくと自首しました。が、結局不問に付され、市井の人となりました。

 その後、彼の才幹を惜しんだ松平春嶽などが、繰り返し明治政府に出仕するように誘いましたが、がんとして拒み、最後まで市井の人として終わりました。死んだのは明治24年のことでした。西南戦争から明治憲法の公布までを見てから死んだわけで、おそらく世の無常を感じたことでしょう。

 

[おわりに]

 これで維新の風雲財政録=幕末編=を終わりにさせていただきます。

 例によって、細かな数字のたくさん出てくる堅い話に長いことおつきあいいただき、ありがとうございました。この話、書いている私は非常に楽しいのですが、皆様も楽しんで読んでいただければ、ありがたいと思っております。

 こうして幕府は苦しい財政のやりくりを続け、やりくりが限界に達したときに滅びました。あれ以上無理にやりくりを続けていれば、わが国がどこかの国の植民地になっていたことは間違いないと思われ、その意味では滅びる時を正しく得たということができます。

 豊臣氏が滅びたときには、莫大な財宝が残され、徳川幕府はその潤沢な資金の上に立って、楽に出発していくことができました。

 しかし、以上の通り、徳川氏が滅びたときには、莫大な対外並びに対内債務を残しただけで、新政府が利用できる財宝といえるようなものは、全く残されていませんでした。それどころか、財政関係の書類をすべて焼却してしまったので、国家運営の上で必要な情報さえも、新政府に伝わらなかったため、新政府が勝海舟の協力を得て、非常な苦労をして収集したことは、『江戸財政改革史』の冒頭に詳しく述べたとおりです。

 本稿に現れた数字にしても、勝海舟の残した数字に依るところが多いのには、驚かされたことでしょう。彼は決して、単なる「氷川町のほら吹き」ではなく、きわめて堅実な財政実務家だったのです。

 余談ながら、勝は、徳川家の資産を明治維新後、一貫して管理しました。生活に困窮した幕臣が相談に来ると、惜しげもなく、貸し与えましたりしましたから、私物化していると悪口を言われたりもしました。が、最後に、自分自身、大変な子沢山であるにも関わらず、徳川慶喜の子供の一人を養子にする、という形を通して、自分自身の個人財産も含めて、すべて徳川家に返還したのです。彼は日本国の利益の前には徳川家の利益を平気で犠牲にした男ですが、彼なりに徳川家の大忠臣として一生を送ったということができます。

 さて、明治政府が、この江戸幕府の廃墟の中から誕生することになりました。

 薩摩藩主や長州藩主の思惑は、間違いなく自分の藩が明治政府をつくるという点にありました。島津久光は、死ぬまで西郷と大久保に騙された、といって呪っていました。長州藩主の方は少々鈍くて、人々が忘れた頃になって、自分はいつ将軍になるのだ、と聞いて、人々の失笑を買いました。

 しかし、明治政府を建設した人々は、藩主達の思惑とは異なり、そうした個々の藩とは絶縁した形で、まったく新しく明治政府を建設する道を選びました。これは、ゼロからの出発、というより、江戸幕府の残した負債を抱えてのマイナスからの出発でしたから、それは財政面においてもまた、大変な苦難の道でした。

 我々が習った日本史は、その辺りを全く説明していません。それについても、近いうちに、是非皆さんにお話しする機会を得たいと願っています。




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200. 豊岳正彦[-16975] lkyKeJCzlUY 2023年8月20日 09:30:32 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[8] 報告
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甲斐素直研ー随筆歴史
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第1章 阿部正弘と幕末の始まり

1. 幕末とは・・

(1) 幕末の特徴

 幕末が何時から始まったのかは、難しい問題です。もっとも早い時点に求める学説だと、天保年間に既に幕末が始まるとしているものがあります。しかし、通説的には、ペリーが最初に浦賀に来航した時と考えるようです。

 私は基本的にはペリー来航でよいと思うのですが、厳密にはもう少し遡らせるのが妥当だと考えています。なぜなら、私は、幕末を二つの特徴で捉えるべきだと考えているからです。一つは、京都の朝廷が突然政治の中央に躍り出たことであり、今一つは諸士横行、すなわち外交政策についてあらゆる人々が発言しようとしたことです。

 前者についていえば、徳川幕府は家康の定めた禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)で規制しており、紫衣(しえ)事件等を引き起こして、後水尾天皇を退位に追い込んだほどの厳しさで抑圧してきたのです。後者については、直接の禁止規定こそありませんでしたが、例えば『海国兵談』を書いたことで林子平が処罰されたことに端的に示されるとおり、それ以前では普通には間違っても許されないことだったのです。

 この幕末の持つ二つの特徴は、弘化3(1846)年閏(うるう)5月(以下、本稿では年号は、原則としてすべて日本の太陰太陽暦表示とします)に、米国東インド艦隊司令官ビットルがコロンブス号に乗って浦賀に来航し、米国大統領からの国書をもたらした際に、時の老中阿部正弘が対応を誤った時から現れ始めました。その意味で、この年に幕末と呼ばれる風雲時代の幕が上がり始めた、と私は考えています。

 しかし、それが決定的に上がったのは、確かにペリーの来航時に、阿部正弘がビットル事件時での対応を更にスケールアップした時からでした。その意味で、通説の考えも妥当といえる訳です。

(2) 阿部正弘の家柄

 どちらの時点で捉えるにせよ、この、幕末という時代を作り出した張本人は、阿部正弘です。彼のこの異常な行動を理解するには、彼の人となりを知る必要があり、そのためには彼の家柄を知る必要があります。彼は、幕府譜代中の名門の出です。

 A 阿部正次の一生

 阿部正次という人物が江戸の初期にいました。子供の頃から家康に仕え、関ヶ原の合戦前夜の段階では5000石取りといいますから、旗本としては大身という程度の身分でした。しかし、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦後に、5000石を加封されて計1万石となり、大名に列されます。

 このとき、幸運にも家光付きのブレーンサークルに配属され、そのおかげで慶長15(1610)年に下野鹿沼に移封されて1万5000石、元和3(1617)年に上総大多喜に移封されて3万石、元和5(1619)年には小田原に移されて5万石という調子でトントン拍子に出世しました。この時の小田原は、大久保正安の騒動に連座して大久保忠隣が徐封され、いったん廃藩になっていた藩ですから、幕府の彼に対する信頼の高さがよく判ります。

 そして、元和9(1623)年に家光が将軍になるとともに老中に昇進し、武蔵岩槻に移封されて5万5000石になります。寛永3(1626)年に大阪城代に転出しますが、それまでの間にさらにたびたび加封されているので、最終的には8万6000石の藩主となりました。前のシリーズで何人か、シンデレラ的に出世した人物を紹介してきましたが、彼こそが江戸幕府確立後の最初のシンデレラボーイの一人といえるでしょう。

 「幕府財政改革史」の中で、初期の勘定所は東日本を支配する本所と、西日本を支配する大阪支所の二重構造になっていたと紹介しましたが、これは勘定所に限らず、初期の幕府の統治構造の共通性です。したがって、当時の大阪城代は西日本における総支配人ともいうべき地位で、その意味では老中より重職といえます。彼はその地位を22年の長きにわたって勤め、正保4(1647)年に現職のままで死亡します。

 B 阿部重次とその子孫

 その子重次は、家光の小姓を振り出しに小姓番頭から幕府最初の若年寄となり、寛永15(1638)年から家光が死亡する慶安4(1651)年までは父同様に老中職を務めた上で、家光に殉死しています。

 彼の代の阿部家の禄高は、重次自身が当初、父とは別に禄を受けていて、これに父の遺領を承継したことに加え、老中になってから数回の加増を受けていたこと、他方、まだ長子相続制が確立していなかったこともあり、弟たちに石高を割いて分家させたり、その一部が逆に返還されたりしていることのため、その増減を忠実に追うと非常にややこしいものがあります。

 とにかく、その子の正邦が、綱吉の一連の全国配転政策のため、丹後宮津に天和元(1681)年に移封された段階で、阿部家の石高は9万9000石となっています。元禄10(1697)年に宇都宮に移されますが、ここで10万石とされます。最後に宝永7(1710)年に備後福山に10万石として移封され、その地で、この石高のままで、何人もの老中を輩出する名家として、そのまま幕末まで栄えることになります。

 この家からでた最後の老中が阿部正弘です。幕末の一つの特徴は、このような譜代の名家だけによって老中職が占められ続ける点にもあります。

(3) 阿部正弘の政治姿勢

 A 将軍家慶の人となり

 11代将軍家斉は、田沼意次の改革を潰すことにより、幕府財政建て直しの最後のチャンスを崩壊させた人物であることは、先に「幕府財政改革史」で紹介したとおりですが、外に二つの大きな害悪を流しています。一つは、老中ばかりでなく、側用人までも昔からの名門の専管としたことです。これにより出身に関わりなく有能な行政官を幕府首脳に導き入れることが不可能になりました。今一つは、引退後も、その子家慶(いえよし)を飾りものの将軍として大御所政治を行い(正確にはその側近の佞臣達に幕府政治を専横する事を許し)、幕府財政を決定的に崩壊させたことです。

 それにしても、せっかく将軍の地位につきながら、おとなしく飾り物に甘んじていた家慶もまた不甲斐ない将軍といえます。それでも、天保12(1841)年に家斉が死亡すると、家慶はさっそく老中水野忠邦に父の佞臣達の首を切らせ、天保の改革を開始させる程度の意欲はあったのです。が、御三家等から改革に対する抵抗が強まると、庇うどころか、たちまち忠邦を罷免してしまうという、まことに暗愚な将軍でした。

 別に私だけが家慶に点が辛いわけではありません。家慶は、同時代にもあまり評判の良くない将軍でした。家慶の従兄弟に当たる越前藩主松平慶永(よしなが)は、「家慶は、凡庸の君にして、将軍の器量なし」と酷評しています。

 また、幕臣であり、明治時代にはジャーナリストとして活躍した福地源一郎の書き残しているところによれば、「人気に障らぬように注意せよ、物議を惹起してはあいならぬぞ」というのが口癖だったというのですから、絵に描いたような八方美人型の性格だったことがわかります。死ぬまで田沼意次を庇い抜いて、保守派に不評判の改革を実施させた10代将軍家治との器量の差は歴然たるものがあるといえます。

 B 名君? 阿部正弘

 阿部正弘は、水野忠邦の罷免と入れ替わりに老中に就任した人物です。すなわち、水野忠邦が最終的に罷免されるのが天保14(1843)年閏(うるう)9月13日で、阿部正弘が老中になったのが、その二日前の閏9月11日です。

 老中に就任したのは、阿部正弘が、わずか25歳の時のことです。彼の父親、阿部正精(まさきよ)も家斉時代に老中を勤めており、また、この就任の経緯からしても、将軍家慶や御三家など保守派が安心して政治を任せられる、温厚な譜代の名門の御曹司と考えられていたことが判ります。自分の家中の反対を無理矢理押し切って老中になった水野忠邦と違って、大奥対策も上手にやれる、そつのない政治家でした。おそらく幼少の頃から老中になることが当然と思われ、そのための帝王学を受けて育った人だと思われます。

 彼は一般に名君として理解されています。当時の良い君主というものは、自分では仕事をせず、有能な部下に仕事を任せて、その上に乗っているものとされていました。今日的にいえば、よい官僚を選抜すると、実務は官僚に任せ、問題が起きたときに最後の責任だけをとる政治家が、良い政治家という考え方に通じています。阿部正弘はその名君を完璧にやれる人でした。

 特に人材登用にあたって英断をふるいました。この時代、幕府の行政機構はしっかりしていましたから、その中で低い出自から一定以上の地位によじ登ってくる人物は皆有能といえました。だから有能な人物を見いだすこと自体は、そう難しいことではありません。難しいのは、有能な人物を、その低い出自に拘ることなく、適所に抜擢していく勇気を持つことです。

 阿部正弘は、名門の御曹司であるにもかかわらず、それができる人でした。川路聖謨(かわじとしあきら)、その弟の井上清直(きよなお)、水野忠徳(ただのり)、江川英竜(ひでたつ)、勝義邦(海舟)などの下級幕臣やさらには土佐の漁民にすぎないジョン万次郎の起用は、彼の出自に対する偏見のなさをよく示すものです。岩瀬忠震(ただなり)に至っては、部屋住みの身分のままで阿部正弘に抜擢され、終生その身分のままで幕府に仕えています。大久保忠寛(ただひろ)や永井尚志(なおゆき)は比較的高い出自ですが、やはり阿部正弘の抜擢により活躍しています。

 彼の後に幕府の政権を握る人物達は、いずれもこのような抜擢人事をやることができなかったことを思うと、彼が人材登用に見せた英断はまことに非凡といえます。その点からも、確かに絵に描いたような名君ということができます。この結果、こうした人材群の補佐よろしきを得て、ペリーが来航するまでは、国内的にはうまく納まっていました。

 この人材登用に当たって見せた英断に加えて、彼がわずか39歳で亡くなったこともあって、彼の早世を惜しむのが日本史では通説的考え方のようです。しかし、それは疑問といわざるを得ません。

 彼の不運は、伝統的な名君ではとうてい対応できない新しい時代に、沈みゆく幕府の舵取りを担わなければならない点にありました。官僚は、従来から決まっている方針をそのまま遵守すべき場合には、仕事を安心して任せておけます。しかし、新しい事態に即応して新しい方針を立てる場合には、政治家自らが決断を下さねばなりません。だが、そのような肝心の決断力が、この名門の貴公子にはなかったのです。

 C オランダからの開国勧告

 ペリーの来航は、わが国の一般国民にとっては全く突然に起きた驚天動地の事件でしたが、国際的に見れば、アヘン戦争などアジアで起きていた一連の流れの中で起きた必然の出来事でした。そしてそのことは、当時の日本人でも、知る意思のある人々の間には良く知られていました。

 特に彼の前の老中である水野忠邦は、外国情報収集の必要を痛感し、それまでオランダ政府から得ていた定例報告の和蘭風説書(おらんだふうせつがき)に加えて、別段風説書(べつだんふうせつがき)の提出を特に求めて、正確な海外情勢の把握に務めました。水野忠邦が天保13(1842)年に、家斉の発していた異国船打払令(無二念打払令)を廃止して、薪水給与令を発したのは、そうした情報に基づいて下した理性的な判断によるものでした。

 また、彼は江戸及び大阪の防衛にも心を砕きました。印旛沼を通過する運河を、田沼意次は、経済の振興のために計画したことは「江戸財政改革史」で紹介しました。水野忠邦も同じく印旛沼運河を計画しますが、彼の場合、これは江戸防衛計画の一環でした。すなわち、江戸は大量消費都市ですが、その消費物資はほとんどすべて海路を通じて運ばれていたのです。したがって、もし外国が浦賀水道を封鎖すれば江戸は戦わずして陥落しかねない状況にあったわけです。そこで内陸に運河を建設することで、第二の生命線を作ろうというのが彼の計画でした。もちろん第一の生命線である浦賀近辺を守るために、砲台も新たに相当数建設しています。同様に京阪神の防衛線である摂津の海についても、可能な限りの防備を固めています。ただ、それらはいずれも、この時代の西洋の艦船の持つ攻撃力の前には、お話にならないほどに脆弱なものに過ぎなかったのですが・・。しかし、そのことは、忠邦自身が一番よく知っており、だからこそ、彼は先に述べたとおり、外国船打ち払い令の緩和も行っているわけです。

 その忠邦の江戸・京阪神防衛政策の要として立案されたのが、上知令、すなわち江戸及び大阪周辺の土地をすべて幕府の直轄地としようとするものでした。しかし、これは上知の対象となる土地所有者その他に大きな経済的不利益を強いるものでした。このため御三家を始めとする、財政難に苦しむ諸藩の強い抵抗を招き、八方美人の家慶にあっさり見捨てられて、彼は失脚するに至るのです。

 したがって、前車の轍を踏むことを恐れる阿部正弘の外交政策が、無策の一語に尽きるものとなるのは当然です。先に述べたとおり、オランダ国王は日本に親書を、天保15年7月(1844年。12月に弘化に改元しているので、一般に弘化元年と書かれることが多いのですが、国書到来の時点は、天保という年号の間です)に送ってきます。オランダとしては、日本が鎖国を続けている方が莫大な貿易利権を独占できるので非常に好都合なのですが、あまりに国際情勢が緊迫してきたため、永年の厚誼を考え、自らの利益を捨てて日本に開国を勧めてきたのがこの手紙です。

 しかし、こうした難問に機敏に反応し、処理する能力は阿部正弘にはありません。それにもまして恐ろしいのが、独断で重要な決定を行い、それが御三家や有力諸侯の反撥を招くことです。そのような事態になった場合、家慶は老中を庇うような気骨のある将軍でないことは、その前年に罷免されたばかりの水野忠邦の悲運を見れば、よく判るからです。

 そこで正弘は、卑劣にも、この火中の栗を拾う損な役は、負け犬の水野忠邦に押しつけるのが一番と、家慶を説いて、忠邦を再び老中に起用します。しかし、開国の決断を下したところでそれを受ける家慶でないことが十分に判っている忠邦は、何もしようとしません。この時のことを、歴史の教科書はよく「もはや忠邦は政治の意欲を失っていた」と書いています。が、どんなに意欲的な人でも、こんなに馬鹿馬鹿しい役を押しつけられてファイトを燃やすことはあり得ません。忠邦のサボタージュは当然のことといえるでしょう。

 D 水戸斉昭への接近

 正弘は仕方なく水野忠邦を罷免し、改めて八方美人的な解決策を求めて走り出しました。おそらく御三家などにどう対応するべきか打診するという行動に出たはずです。

 御三家の問題児、水戸斉昭(なりあき)は、こういう時、ずばずばとはっきりものを言ってくれる点で、相談のしやすい相手でした。

 しかし、彼はこの年5月に家慶から謹慎処分を受けていました。水戸家は、党派抗争の盛んな藩で、斉昭が藩主につくに当たっても、保守派と改革派が激しく争いました。斉昭は改革派の支持によって藩主の地位につくと、水野忠邦の改革に先行する形で水戸家の改革を実施していたため、天保改革時には家慶より直々に賞揚されています。ところが、天保改革が失敗し、水野忠邦が失脚して幕閣内の支持者がいなくなった機をとらえて、藩内保守派より讒訴(ざんそ)されます。その結果、改革の一環として軍艦を建造したり大砲を鋳造したりしていたこと等を根拠に、謀反を企てていると認定され、天保15(1844)年5月に将軍家慶により直々に、藩主からの引退・謹慎を命じるという重い処分を受けたばかりだったのです。わずか1年ほどの間に、黒幕のいうままに、同じ行為を直々に褒めたり貶したりした家慶は、誠に定見のない人といわざるを得ません。

 そのため、この時期、水戸斉昭の行動はかなり制約されていました。それでは相談しにくいと考えたのでしょう、正弘は家慶を説いて、処分を受けたわずか半年後に、早くも謹慎宥免(ゆうめん)とします。部分復権というわけです。これ以後、水戸斉昭と阿部正弘の間には頻繁に書簡が交わされることになります。なお、この膨大な往復書簡は、『新伊勢物語』と題されて、茨城県資料幕末編の収録するところです。この表題は、阿部正弘が伊勢守であったことから来ています。

 ちなみに、斉昭の完全な復権、すなわち水戸藩の藩政への関与が正式に認められるようになるのは、少し遅れて嘉永2(1849)年3月のこととなります。この完全復権時に、彼の股肱の臣である藤田東湖ら改革派も蟄居を許され、それに伴い、藩内保守派は追放され、政権は再び改革派が握ることになります。これにより、幕末史を血で染める水戸家の動乱が始まることになります。

 水戸家は御三家でありながら、黄門様として有名な水戸光圀(みつくに)以来、勤王思想を有するという異端の藩です。斉昭もまたこの家の伝統を受け継いでいます。そこで、阿部正弘から相談を受けるようになり、政治的影響力を有するようになってきたことを幸いに、200年以上に渡ってつんぼ桟敷におかれていた朝廷を再び表舞台に引っぱり出すべく、斉昭は暗躍を始めます。つまり正弘はこの時、虎を野に放ってしまったのです。その結果は2年後にあらわれます。

 結局、適当な対策が立てられないままに、正弘は無難な対応と考えたのでしょう、翌弘化2(1845)年に「祖法」を根拠に、この勧告を拒絶する返書をオランダに送ります。

(4) ビットル事件とその余波

 A 海防係の設置

 この同じ弘化2年に、イギリスの測量船が長崎港に入り、傍若無人に湾内の測量を実施するという事件が起こります。そこで、決断力のない正弘も、外国からの侵入等の事態への対策を一つだけ講じます。この年に、外交問題・国防問題を専掌する機関として海岸防御掛(海防掛と通称されます)を新設したのです。ただし専任ではなく、勘定奉行や勘定吟味役と兼務するという形を取りました。

 B ビットルの来訪とその対応

 翌弘化3(1846)年閏5月に、米国東インド艦隊司令官ビットルがコロンブス号に乗って浦賀に来航し、米国大統領からの親書をもたらしました。ただ、この時のビットルの主たる使命は、後のペリーと違って、日本が諸国を貿易に開いたかどうかを確かめることで、もし開国していれば通商条約を締結する権限を与えられていたに過ぎませんでした。そこで、浦賀奉行を通じて「我が国は新たに外国の通信通商を許すこと堅き国禁」である旨のかなり無礼な回答を受け取っても事を荒立てることなく、目的を達したとして平穏に退去しています。翌6月にはフランスのインドシナ艦隊司令官が長崎に来ますが、やはり平穏裏に退去しています。

 しかし、このビットル事件により、オランダに警告されていた外国の来航が、現実の問題として浮上してきました。そこで、幕府としても今後の対応策を確立する必要に迫られたわけです。その検討に当たって、老中阿部正弘は、それまでの幕府専制政治の流れから見ると、信じられない行動に出ます。

 すなわち、外国人嫌いの彼は、改めて異国船打払令の復活ができないかということを考えます。考えるだけではなく、その可能性について幕閣内部のみならず、広く一般の幕吏及び近海防衛の任に当たる諸藩に対して諮問したのです。しかもこの諮問は、この年の1度だけではなく、嘉永元(1848)年、嘉永2(1849)年と3回に渡って行われています。

 しかし、外国船を打ち払いたければ軍事力が必要であり、軍事力を充実するには多大の費用が必要です。ところが、軍事予算を大幅に増額するという決心を、肝心の彼自身がしていないのですから、異国船の打ち払いなど物理的に可能であるわけがありません。お膝元の海防掛からも猛反対を受け、この案はつぶれます。

 確かに、後に詳しくは説明しますが、この時の財政状況は、そのような大幅歳出増が可能な状態ではありませんでした。しかし、そのようなことは幕府の責任者である阿部正弘自身が一番よく知っていたはずです。そして金をかけずに外国船打ち払いができるはずもないことは、普通の常識を持っている人なら誰にでも判ることです。

 つまり、この繰り返し行われた諮問は、いたずらに幕府に何ら対応策のないことを国内諸藩に印象づけ、また、国防問題に関しては諸藩にも発言権のあることを認めるという二重のマイナスの効果だけを後に残したのです。これが、幕末の第一の要素である、幕閣以外の諸侯の、幕政に対する発言の始まりです。

 C 海防勅書

 このように対外問題が緊迫の度を加えつつあった8月に、朝廷から突如、いわゆる海防勅書が下されます。すなわちこの勅書には、海防を厳重に行うようにという趣旨の政治的発言が含まれていたのです。おそらく水戸斉昭の、2年越しの対朝廷工作の成果と思われます。

 幕威が盛んな時代であれば、このような勅書が下されれば、それに関係した者は軒並み遠島にでもなりそうな代物です。が、阿部正弘は、斉昭による洗脳の効果でしょうか、何の抵抗も示さず、朝廷に対して、外国船来航状況の報告を行っています。ここに幕末という時代を、それ以前と決定的に分ける今一つの要素、朝廷の歴史の表舞台への登場が始まるのです。

(5) ペリーの第1次来航

 A 米国の極東貿易への取り組み

 米国では、ビットル訪日以後になって急に、日本を開国させる必要が高まっていました。パナマ運河のなかった時代ですから、それまで米国が極東貿易を行うには、大西洋経由かホーン岬経由の長大な航路を通る以外に適当な方法がありませんでした。そのため、欧州諸国の倍以上の距離を航海する必要があるので、事実上貿易はなきに等しいという状態でした。ところが、1848年にメキシコと戦争をし、今のカリフォルニア州にあたる地方を奪取することができたので、太平洋に窓口が開いたからです。

 東洋貿易で決定的に出遅れていた米国は、これを機会に積極的に乗り出すべく、太平洋横断航路を開設することを決定します。しかし、当時の蒸気機関は、まだジェームス・ワットの蒸気機関ではなく、低圧の単気筒式であったため、効率が悪く、大量の石炭を消費するので、中国まで直行するには燃料が不足します。したがって太平洋横断航路を開設するには日本を開国させて、ここで石炭を補給するほかはありません。つまりこの段階では、米国の意識にあるのは中国貿易の実施であって、日本との通商ではなかったのです。

 また、この頃日本近海に米国の捕鯨船が行くようになり、嵐による難船のため、アメリカ人が日本に漂着するという事件が頻発していました。しかし、幕府はそうした漂流民をすべて密入国者として牢に収容しており、その取り扱いは欧米の基準からすれば、お世辞にも人道的といえるものではありませんでした。このため、米国世論はかなり日本に対して硬化しており、米国としてはその善処方を日本に要請することも、政治上の重要事項となってきていました。

 米国では、ビットル事件における日本側の対応から、強硬姿勢を示せば日本を開国させることも可能と考え、1851(嘉永4)年に東インド艦隊司令長官のオーリックを日本に派遣して強硬に開国を求める方針を決定します。しかし、この時はオーリックが部下との間に問題を起こして罷免されたため、艦隊の派遣計画も流れます。

 2年遅れの1853年に、オーリックの後任としてペリーMatthew Calbraith Perryが派遣されることになります。この段階で、初めて第3の使命として日本との通商の開始も付け加えられました。しかし、あくまでも追加的任務であるに過ぎません。

 B ペリー艦隊の戦闘力

 ペリーは、嘉永6(1853)年6月に、旗艦サスケハナ号(外輪蒸気船2450t、大砲数9門)に座乗し、ミシシッピ号(外輪蒸気船1692t、大砲数10門)、プリマス号(帆船989t、大砲数22門)、サラトガ号(帆船882t、大砲数22門)の3隻を率いて浦賀沖に姿を現すことになります。

 サスケハナ号の2450トンという大きさは、今日の感覚では中型の護衛艦というところですが、この当時としては世界最大級の軍艦でした。これに対して当時の日本で大型船というと千石船ですが、千石というと、約150トン程度です。軍艦の排水トンと商船の積載トンとを直接に比較して大小を云々することはできませんが、とにかく和船が非常に小さなものであったことだけはご理解いただけると思います。当時の日本人から見て、サスケハナ号が小山のような巨大艦と思えたのも無理はありません。

 また、ペリー艦隊の搭載する艦砲は、特にその主力艦である蒸気軍艦が外輪部に邪魔されてあまり大砲を搭載できない関係から、合計63門に過ぎませんでした。この当時、サスケハナ号程度の排水量のある帆走戦艦なら、一隻で80門程度は搭載していましたから、これも決して多い数とはいえません。しかし、これに対してこの時江戸湾にあった多数の砲台に設置されていた計99門の砲のうち、これに比肩できる程度の大型砲はわずか19門にすぎず、しかもその大半は射程の短い臼砲(きゅうほう)で、ペリー艦隊まで届かないというのですから、それに比べると圧倒的に強大です。ペリー艦隊を前にして、幕府が震え上がったのも無理のないところです。

 C 幕府の無策

 ペリーの来訪を、しかし、幕府は寝耳に水と驚いたわけではありません。1851年に米国が日本に開国を強制すると決めたことは、翌嘉永5(1852)年には長崎のオランダ商館長により、幕閣に報告されていたからです。

 したがって、阿部正弘が、いくら決断力がなくとも、普通の常識を持った人物なら、今度こそどう対応するかということを、検討するくらいのことはしそうなものです。その検討が小田原評定になって対策がまとまらない内にペリーが来た、というのならまだ弁護の余地もあります。ところが驚いたことに、この段階になっても阿部正弘は、来ても琉球止まりだろうと甘い期待をして、どう対応するかという方針さえも全くたてていなかったのです。

 その結果、予定のとおりにやってきたペリーに対して、本当に寝耳に水といった感じに驚きあわてる、という醜態をさらすことになります。一国の宰相としては、信じられないほどの無能ぶりという外はありません。先憂後楽という儒教倫理的にみても、弁護の余地はないといえるでしょう。

 全く対策が用意されていなかったものですから、現実に出現したペリーを前にどう対応したらよいのか全く阿部正弘には判りません。このとき、ペリーは、米国とメキシコとの戦争を引き合いに出して「国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決すべし」と恫喝し、幕府を震え上がらせます。が、あえて阿部正弘をぎりぎりまで追いつめることをせず、国書を受け取らせることに成功すると、翌年の再渡航を予告して引き上げました。したがって、ここに約1年の時間的余裕が生じたのです。

(6) 阿部正弘の対応策

 1年の時間を利用してなにをしたらよいのか、しかし、正弘には思いつけません。しかも不運なことに、ペリーが去って10日後の6月22日に病弱だった将軍家慶が死亡します。代わって将軍位についた家定は文政7(1824)年生まれといいますから、この時すでに30歳。立派に独り立ちできる年齢なのですが、後に改めて詳しく紹介しますが、家慶に輪をかけたまったくの愚物で、まともな判断力がありません。それを補佐する責任は、全面的に正弘の肩に掛かってきます。正弘はまさに茫然自失したといってよいでしょう。

 そこで、万策つきた彼は再びビットル事件の際と同様の行動を、さらにスケールアップし、徹底した形で繰り返します。

 A 朝廷への奏聞

 阿部正弘は、まず、米国からの国書の訳文を添えて朝廷に奏聞(そうもん)したのです。これは幕府の側から積極的に朝廷の政治的発言を促したという意味で、弘化3(1846)年に海防勅書を唯々諾々と受け取り、事情説明を行ったのとは比べものにならない重要性を持つ行動です。長いこと政治から離れていた朝廷に、具体的打開策を案出する能力があるわけは、もちろんありません。海外の問題に対する関心を、朝廷内外でいたずらにかき立てただけに終わります。

 B 諸大名等への諮問

 ビットル事件の時は、阿部正弘は、確かに前例を破りはしましたが、それでも幕吏や沿岸防衛に関係する諸藩という当事者能力を持つ人々に対して諮問したのですから、弁護の余地が若干はあります。ところが、今回は、そればかりでなく、外様大名をも含むすべての諸侯、さらに陪臣(ばいしん)、つまり諸侯の家来までも対象として、和戦いずれにすべきかという諮問を行ったのです。

 これに答えた意見書は700通以上も提出されましたが、当然のことながら妙案はまったくありません。単に幕府の威信の低下を全国に宣伝し、あらゆる人々に、自分たちも国政に発言できるということを気づかせるだけの結果になりました。

 C 水戸斉昭の幕政関与

 海防会議に、攘夷派の総本山とも言うべき水戸斉昭を、海防参与という肩書きで参加させました。御三家といえども政治的発言は許さず、老中が政権を独占するという長い伝統がこの瞬間に崩れたわけです。

 これについては、当然の事ながら幕閣内の反対も強かったのですが、越前藩主松平慶永や薩摩藩主島津斉彬からの建白書などの援護射撃がありました。この二人は只の大名ではありません。

 松平慶永は一橋治済の孫で、田安家から越前家に養子に行った人ですから、先にも触れたとおり将軍家慶の従兄弟に当たります。養子に行っていなければ、次期将軍の可能性もあった人物です。

 また、島津斉彬はその娘篤子を安政3(1856)年に家定の御台所に送り込んでいますが、この時期にはもうそのことは内定しています。つまり将軍家定の未来の岳父というわけです。こうした強力な応援団の存在によって、斉昭の幕政関与はようやく実現に漕ぎつけたのです。

 しかし、強硬派の斉昭ですら、ペリーの艦隊の偉容の前には、単にぶらかし戦術、すなわち平和的話し合いをして時間を稼ぐという策を唱える以上の何の知恵も出せませんでした。したがって、この改革も幕府の意志決定に諸藩の介入を認めることを明らかにした以上の意味は持ちませんでした。そして、この斉昭起用が保守派の反発を招き、阿部政権の命取りとなっていきます。

 D 幕府の軍事独占の放棄

 正弘はわが国軍備を充実させる手段として、幕府の軍事力独占という長い伝統を放棄し、諸藩が独自に軍事力を増強することを認めました。これは幕府の財政に負担をかけることなく国防力を充実するという意味では、ある程度有意義なことですが、それが長州藩や薩摩藩に倒幕に必要な軍事力を育てることを可能にしたのです。

 また、幕府では、これまで、諸藩から海上勢力を奪う手段として、寛永の武家諸法度以来一貫して、船に竜骨を設けること及び帆柱を二本以上たてることを禁止してきました。このため、江戸時代のわが国には、平底の船に長大な一本マストを立て、それに巨大な一枚の帆を掛ける、いわゆる帆掛け船しかありませんでした。これは逆風に逆らって航海する能力が極端に低かったので、沿岸航海をする能力しかなく、ちょっとした嵐でも簡単に難船して、ジョン万次郎のような漂流民を多数出してきたわけです。

 阿部正弘は、この大船建造禁止令を廃止します(水戸斉昭の建議によるといわれます)。幕府に金がない以上、諸藩に大船を建造させることにより、国家防衛における幕府の負担を軽くしようという考えからでたものであることは明らかです。

 しかし、海軍建設には膨大な費用を要するため(どれほど必要になるかは後に詳述します)、幕府以上に財政の疲弊している諸藩の、よくなし得るところではないことを無視した空理空論でした。実際、明治になるまで、薩長も含めたどの藩も、海軍といえるほどの海上勢力を作り出すことはできませんでした。ただ、幕府海軍の活動をある程度妨害できる程度の艦船は保有するに至ります。特に、後の長州征伐時に、幕府海軍は、高杉晋作の指揮する長州艦のため、痛い目に遭うことになります。

(7) 歴史のifを思えば

 こうして、ペリーの来航をきっかけにした、阿部正弘の、幕府にとっては有害無益としかいいようのない一連の改革により、幕末は本格的に始まることになります。この意味で、阿部正弘というたった一人の人物が、幕末という空前絶後の歴史状況を作り出した、ということができます。

 勝海舟のように、幕臣でありながら、幕府を超越した視野で日本を考えた結果、このような一連の措置を執ったというのなら、阿部正弘は英雄といえるでしょう。しかし、彼の事績を丹念に調べても、そのような思想をもっていた形跡はありません。したがって、阿部正弘は、自らの措置が幕府にもたらす将来的影響を全く判断する能力のない、無能な宰相と評価するほかはありません。

 彼をほめる人は、阿部正弘は挙国一致体制をとって国難に当たろうとしたと言います。しかし、そもそも挙国一致体制とは、国内に様々な実力者がいるときに、彼らに小異を捨てさせて大同につかせる政治体制を言うのです。しかし、この時には国内に幕府以外の実力者は全くいなかったのです。阿部正弘は、その馬鹿げた行動により、幕府以外の国内実力者をわざわざ作り出し、それにより国内を混乱に陥れたのです。このような行動についてほめ言葉を作り出すことは不可能です。

 歴史にifは無意味ですが、もし家慶にもう少し気骨があれば、ペリー来航の時点で政権を握っていたのは水野忠邦だったでしょう。そして、忠邦ならば、ペリー来航に対しても別段風説書を新たに求めるなど、周到に事前準備を重ねていたでしょう。したがって、日米和親条約を締結するという選択肢を選んだ場合にも、それにあたって朝廷や諸侯に発言権を認めるような拙策は採らなかったと思えます。その結果、軍事や外国貿易を幕府が独占する状況下での開国が十分に起こり得たはずです。たぶん、徳川幕府主導で明治維新そのものが実現していたでしょう。ひょっとすると、いまでも日本に徳川幕府が続いていたかもしれません。もっとも、それが我々一般国民にとり、幸せを意味するかどうかは別問題ですが・・。

 あるいは井伊直弼がもう少し早めに大老の地位について、この時点で幕府の実権を握っていたとしても同じような対応をとったことでしょうから、平穏裏に開国を迎えていた可能性は、やはり存在しています。井伊直弼による悪名高い安政の大獄は、時計の針を阿部正弘の改悪前に戻そうという絶望的な努力ということができます。が、その激しい弾圧によっても、歴史を逆転させることは不可能だったのです。

 もっとも、井伊直弼という人は、後に紹介するとおり、宰相としてかなり無能なばかりでなく、信じられないほどに狭量な人物でしたから、彼の指導の下に明治維新にまでたどり着いたというifが成立する可能性は、水野忠邦の場合に比べると、かなり小さなものとなりますが・・。

 

 2. 幕末初期における財政状況

(1) 天保13年の財政状況

 ペリーが来航した嘉永当時の幕府の財政状況は残念ながら記録が残っておらず、判りません。しかし、勝海舟が編集した吹塵録のおかげで、その10年前の天保13(1842)年の財政状況は判っています。それによると、一般会計歳入額は92万5099両、歳出総額が145万3209両で、差し引き52万8110両の赤字となっています。

 ついでに歳入の内訳をみておくと、年貢収入55万0374両、川船運上3203両、寄合・小普請御役金3万4633両、献上金銀1万6633両、長崎上納金2万2792両、国役金2万5932両、諸拝借返納7万6686両、品々納め14万6846両といったところで、いまだに年貢米収入が歳入の6割を占めているものの、綱吉以来積極的に導入されてきた様々な商業に対する租税が、かなり有力な財源に育ってきていることが判ります。

 この天保13年は、水野忠邦主導による天保の改革の最終年でした。そして、水野忠邦という人は、前に紹介したとおり、国防・外交に関する見識は優れたものがありますが、こと財政に関する限り、全く無能な人物でした。したがって天保の改革における財政再建策は、基本的には徹底した倹約以外にありませんでした。それでいながら4割近い赤字財政というのはぞっとする話です。要するに、家斉時代に始まった歳出超過は、この時点では完全に構造的なものとなり、単なる改革のかけ声くらいではどうにもならない状態になっていたことが判ります。

 なお、こうした毎年度の固定的な収入とは別に、この年度の特別収入として金銀吹き替え御益として55万7322両の収入があります。したがって、これで何とかこの年度についてはやりくりがついたことが判ります。

 金銀改鋳という家斉政権下で乱用された伝家の宝刀を、より徹底したやり方で使う以外にどうしようもない状況に、幕府財政は、この時点で既に追い込まれていたわけです。なお、この水野忠邦が実施した天保改鋳と、井伊直弼によるそれに輪をかけた安政改鋳による通貨品質の改悪のために、各国と締結した修好通商条約下で、我が国経済は大混乱に陥るのですが、それについては後の章で詳しく説明したいと思います。

(2) 弘化元年の財政状況

 阿部正弘が老中首座であった時代の財政については、弘化元(1854)年のものがある程度判っています。それによれば、歳入額は171万9090両で、天保13年に比べて80万両近く増えています。内訳を見ると、年貢収入64万6810両で若干の増加を示しています。これは年貢米そのものが増収になったのではなく、改鋳に伴う物価の上昇を反映したものと思われます。

 金額的に大きく跳ね上がっているのは大阪商人からの御用金、すなわち借金で、実に51万8320両に達しています。ついで大きいのが、諸大名から取り立てた江戸城本丸御手伝い金で18万4150両、さらにこれまであちこちに貸し付けていた金を回収したものが、16万5700両となっています。

 つまり、借金をしまくると同時に貸し金を厳しく取り立て、また諸大名を搾り取るという、なりふり構わぬ歳入増加策をこの年採用していることが判ります。

 これに対して歳出総額は212万9130両と、これも60万両ほど膨れ上がっています。歳出の52.9%に当たる90万4100両が役所、寺社及び河川の改修費です。特に役所の改修費は85万4480両に達しています。水野政権以降で続いた不自然な緊縮政策で、施設のメンテナンス費用をケチっていたために、反動で大きな支出を余儀なくされたことがよくわかります。

 この結果、収支差額は41万両の赤字となります。しかし、この年は金銀改鋳益金が85万6400両もあったため、単年度収支に関する限り、逆に44万6340両の黒字となりました。水野政権に引き続き、阿部政権でも金銀改鋳という打ち出の小槌を濫用していることがよくわかると思います。

(3) 勘定奉行川路聖謨

 ペリー到着の時点における勘定奉行は川路聖謨(としあきら)でした。彼は享和元(1801)年に豊後の日田で生まれました。

 彼の父、内藤吉兵衛は、日田にある西国郡代の手代でした。手代は、江戸財政改革史で説明したとおり、江戸初期には代官の私的な使用人でしたが、享保改革の際、給料が代官所経費の一環として幕府から支給されるようになったため、幕臣に準ずる身分を獲得しました。しかし、厳密な意味では武士とは言えない、非常に低い地位であることに変わりはありません。

 今の大分県日田市は山中の小都市にすぎませんが、江戸時代の日田は、九州一円の大名の監督に当たる西国郡代のお膝元であったため、九州諸藩の物産の集散地として、また、同時に金融の中心地として栄えた町でした。日田金(ひたがね)という言葉があります。この地の豪商が郡代所御用達という形式を通じて、高利貸しとして繁栄していたからです。

 吉兵衛は手代をしていてちょっとした財産を築いたようです。まじめに手代をしていて金が貯まるわけはありませんから、多分この日田金と何か関わりがある不明朗な活動を行ったのではないかと想像するのですが、蓄財方法の詳細は判っていません。十分な財産ができたところで手代をやめて江戸にでると、長男川路聖謨に旗本の株を、また次男井上清直に与力の株を買ってやって、幕臣の身分を与えました。

 ちょっと勝海舟と似た出自ですね。勝海舟は、祖父男谷検校が豪富をもってなる高利貸しで、その子供たちにそれぞれ幕臣の株を買い与えた結果、孫の勝海舟も幕臣の身分を持つことになったからです。ただ、川路聖謨は、旗本の株を買って貰えましたから、貧乏御家人の株しか買ってもらえなかった勝海舟の父よりも、その分だけ、幕臣としての栄進が楽であったという違いがあります。二人の子供のどちらにも幕臣の株を買い与えたというところから、川路聖謨の父が貯め込んでいた財産は、かなりのものであったことが判ります。

 人間の精神の不思議なところは、このように金銭づくで幕臣になった人物であるにもかかわらず、川路聖謨も井上清直も、徳川家の大変な忠臣だった点です。もっとも、そういう性格だからこそ、わざわざ大枚をはたいても幕臣の身分を欲しがったと考えるべきなのかもしれません。とにかく、任官するとまじめにその職を果たしました。しかも彼らは非常に有能でした。

 川路聖謨は、辣腕の寺社奉行として有名な脇坂安董(やすただ)の下で寺社吟味役として活躍したことからその能力が認められ、栄進して勘定吟味役になりました。ここまででも異数の出世と言いうるのですが、彼はさらに佐渡奉行、奈良奉行、大阪町奉行と重要な遠国奉行を歴任しました。そこで、阿部正弘に抜擢されて、ペリー来航の前年の嘉永5(1852)年に勘定奉行兼海防係となっていたのです。

 なお、井上清直は、弘化4(1847)年に勘定組頭格となり、安政2(1855)年正月に、兄同様に勘定吟味役に昇進しています。そして、同年4月に阿部正弘に抜擢されて下田奉行となります。

(4) 阿部正弘の国防政策

 阿部正弘は、ペリーが嘉永6(1853)年6月に来るまでは、前述の通り、全くの無策でしたが、ペリーの到着によってショックを受けると、突然行動の人に変身します。その活動を大きく外交と国防に分類することができるでしょう。

 その外交に関する様々な行動が、それまでの幕府の不文律を犯すものであり、幕末という一つの時代を開幕させたものであることは、前節に述べたとおりです。しかし、そこにみられた外交に関する活動では、直接財政負担の増加につながるということはありませんでした。

 それに対して、国防策は、直ちに国防支出を要請します。したがって、それは厳しい状態にあった幕府財政をさらに厳しい状態に追い込むこととなります。阿部正弘も本当であればこれ以前に国防体制を充実したかったことはビットル事件の際の諸藩への諮問にも明らかです。

 しかし、先に紹介した厳しい財政状況に押されて、阿部正弘は、その時点まで無策で過ごしてきたのです。が、もはや猶予はならないと考えました。そこで阿部正弘は突然、行動の人に変身した訳です。彼の積極的行動による負担は、当然の事ながら、すべて勘定所にかかってくることになります。

 A 江戸湾の防衛

 江戸湾の防衛の必要性は、常識のある人ならとっくの昔に認識し、対策をたてていなければなりません。水野忠邦が上知令を始めとして様々な計画を立案し、実施しつつあったことは前述の通りです。阿部正弘は、ビットル事件の際に、外国船打ち払いの可能性について諸藩に諮問したくらいなのですから、その時点で、諮問に先行して、少なくとも江戸湾だけでも外国船打ち払いが可能な程度の防備状況にあるかどうかを確認し、不十分であれば防衛計画の策定作業くらいはするべきだったのです。

 しかし、実際には、彼は、ペリーが到着するまで、まったくその作業をしていませんでした。ペリーが来て、その威嚇の前に防衛力の不足を痛感して、初めて川路聖謨に防衛計画の立案を命じたのです。まさに泥縄と言うべきでしょう。

 川路聖謨は、ペリー来航を機会に勘定吟味役格に起用されていた伊豆韮山代官の江川英竜と共同して急遽調査を実施した上で、防衛計画を答申します。それによれば、台場(砲台場の意味)を新たに9ヶ所設ける必要があり、それをすべて新たに埋め立てによって設ける必要があるため、埋め立て経費の合計は1499万0312両に達するという計算になるというのです。先に紹介した天保13年度の幕府経常歳入額の実に16倍という天文学的な数字で、とても実現可能な計画とはいえません。しかも、これはあくまでも台場建設に必要な経費であって、この台場に設置する大砲の鋳造費や大砲の弾薬は含まれていません。もちろん、配備する砲兵隊等の維持管理費は、さらにそれとは別に必要になります。

 皆さんもご存じの通り、江川英竜は、伊豆韮山に既に嘉永2(1849)年に独力で反射炉を築き、大砲の鋳造を行おうとしていました。炎が炉の壁に反射して炉の奥の一点に火力が集中し、規模の割に高温を出せるという原理であるところから、反射炉の名があります。しかし、彼が私費を投じて建設した反射炉は、小型すぎて火力が弱く、鉄がよく溶けないために失敗に終わっていました。そこで、この機会に幕府から資金援助を受けたいと考えて申請し、この年12月に資金交付許可を得ています。

 つまり、台場に置く大砲については、これから大砲の試作を始めるどころか、更にその前々段階である試験用反射炉の試作を始めようという段階なのですから、台場に設置する大砲製造に、どのくらい費用がかかるものかは、この段階では計算することも不可能であったわけです。この点でも、まことに泥縄な計画ということができます。

 反射炉の建設は、ちょうどペリーの第2次来航時に行われましたが、場所が浦賀から近かったものですから、ペリー艦隊の水兵が大勢見物に来て閉口したという話です。防衛計画の根底である大砲鋳造のための試験炉がどの程度のレベルかということ等が、すべて相手側に筒抜けという訳ですから、何ともお粗末な情報管理です。なお、この大型反射炉の建設費用だけで、7311両を必要としました。

 普通の常識を持つ人ならば、こういうとんでもない巨費を必要とする防衛計画を提出されれば、江戸湾の要塞整備による防衛の不可能を悟って、他の方策を模索するでしょう。が、阿部正弘は防衛に関する常識のない人でしたから、防衛計画の規模を大幅に縮小した上で、これを実施することを命じます。

 これは馬鹿げた話としか、言いようがありません。川路聖謨らは防衛不要論者ではないのですから、不必要に過大な経費を積算する訳はありません。その立てた計画は防衛に必要最小限のものとみるべきです。防衛は、役に立つか立たないかの二つに一つで、少しは役に立つということはあり得ません。したがって、縮小した計画は、防衛には全く役に立たないものとなるはずですから、単なる金の無駄遣いと言わざるを得ません。

 実際、立案者の一人、江川英竜は、そんな縮小案は「竹へ縄をつけ品川沖へ立ち置きしも同様にて、つまり砲台建築の費は多少に関わらず国家無益の費と存じ奉り候」とまで極言して縮小計画の実施に反対しました。

 しかし、川路聖謨はよき官僚として、おとなしく阿部正弘の命にしたがって台場建設に着手しました。最終的に幕府瓦解までの間に五つの台場が一応完成し、一つが未完に終わっています。それに要した経費は計75万両に達しました。厳しい財政事情の中で、単年度年貢総額を上回る巨費を投じて建設された台場は、江川英竜の言ったとおり、何の役にも立つことなく、今日に至っています(東京湾の太公望たちに絶好の足場を提供するという役割だけは、立派に果たしてきているようですが・・)。

 B 海軍の創設

 阿部正弘は、この年10月に、オランダから、コルベット型蒸気軍艦2隻の購入を決定しています。これを皮切りに海軍を建設しようとしたのです。なお、この軍艦購入時には、長崎奉行水野忠徳が長崎伝習所を創立するなど、重要な役割を果たしますが、それについての詳細は、日蘭和親条約と一緒に後述します。

 このコルベット艦というのは、この当時の軍艦の艦種を示す言葉です。

 この頃、一番大きい軍艦は戦列艦(ship of the lines)と呼ばれていました。帆走軍艦の時代に艦隊決戦を行うときは、これが主力となりました。小さなものでも60門程度、大型のものは100門以上の大砲を積んでいたものです。

 ついで大きいのがフリゲート艦で、戦列艦よりも積んでいる大砲は少ないのですが、遙かに快速です。それを利して、商船隊の護衛や連絡艦など多目的に使用されました。外輪型蒸気軍艦は、その構造上の制約から、あまり大砲を積めないので、フリゲート艦が最大艦種でした。ペリー艦隊の最初の旗艦サスケハナ号や、後に旗艦となるポーハタン号は、トン数は戦列艦並ですが、その速力と積載砲数から、艦種としてはやはりフリゲート艦に分類されることになります。

 幕府が買ったコルベット艦は、フリゲート艦よりワンランク下の艦種で、通常単艦で行動することはなく、2隻以上が組んで商船隊の護衛などに活動しました。このため、幕府も同型艦を2隻注文したわけです。

 その注文により日本に到着した第1号艦が、勝義邦(海舟)が指揮して米国に行ったことで有名な咸臨丸です。当時としては世界最新鋭のスクリュー推進式の新造艦でしたが、排水量625トンですから、かなり小型であることが判ると思います。それでも値段は1隻10万ドルしました。この時点でのオランダとの交易レートでは4万両に相当しますが、しかし、後に説明する理由から安政通商条約下においては1分=34.5セントのレートが採用されたため、支払い時には約7万2500両ということになりました。

 ある研究者の計算によると、幕府がその滅亡までの間に外国から購入した軍艦の総代価は、代価不明のものを除外しても333万6000ドルに達するそうです。当時の幕府財政規模からすれば、これもまた空恐ろしいような巨額であることはおわかりいただけると思います。

 しかも、船というものは買えばそれで済むものではなく、その維持管理にも大変な費用を要するものなのです。幕府が慶応3(1867)年に40万ドルで引き渡しを受けた開陽丸について、勝海舟が編集した「海軍歴史」という本に、その維持管理費の書類が残っていますが、それによると単年度で、14万6592両2分225文となっています。咸臨丸が丸々2隻買えるほどの金額です。

 同じ慶応3年の記録によると、単年度の幕府海軍維持費が92万0800両とされています。艦隊を維持するだけで、天保13年頃の幕府の歳入総額に匹敵する巨額が必要になるわけです。これでは諸藩が海軍を創設できなかったのも、無理がないとおわかりいただけると思います。

 軍艦というものは、確かにふつうの商船に比べると非常に多額の維持管理費を要するものであることは、現代においても変わりません。しかし、幕末において、これほどの維持管理費がかかったのには特別の理由があります。諸外国が、日本の無知につけ込んで、ポンコツの船を売りつけたからです。例えば慶応2(1866)年に幕府が購入した回天という外輪式蒸気軍艦は18万ドルしましたが、実は廃艦になったプロイセンの軍艦を米国人が化粧直しをした上、再武装して日本に売り付けたものです。そのため、軍艦の運用を開始すると、たちまちあちこちが故障しました。この当時、最寄りのドックは中国の上海にあるものだけでした。だから、ちょっとの故障でもはるばる上海まで出かける必要があり、いよいよ維持費が嵩むことになったわけです。これに業を煮やした幕府は、長崎や横須賀に造船所を建設することにしたので、さらに経費を必要とすることになるのですが、これはしばらく後の問題です。

 C 陸軍設立への道

 海軍を作ろうとしたのですから、それに対応して陸軍を作ろうとするのも当然です。しかし、これは海軍に比べて動きが遅れて、実際の設立はペリー来航から見れば、かなり後にずれ込みます。ここでは、その前駆というべき幕府講武所設立までの動きだけを紹介しておくことにします。

 洋式陸軍設立という面で、我が国にとって幸いだったことは、高島秋帆(しゅうはん)という独学の先駆者がいたことでした。彼は長崎の地役人、すなわち町人身分でしたが、西洋の陸軍を研究するとともに、私費を投じて銃器を買いそろえ、門弟を訓練してちょっとした軍事行動ができるようにしていたのです。

 天保10(1839)年にアヘン戦争が起き、それが翌11年にオランダ風説書となって日本にも知られました。秋帆はこの機を捉えて、長崎奉行を通じて幕閣に「天保上書」の名で知られる意見書を提出し、西洋の火器及びそれを使う陸軍の優秀さを強調しました。これに強い印象を受けた水野忠邦は、天保12年に高島秋帆とその門弟を出府させ、今の板橋区にあった徳丸ヶ原というところで陸軍演習を行わせました。この演習そのものは大成功に終わりました。

 が、蕃社の獄を引き起こしたことで有名な、大の西洋嫌いの江戸町奉行鳥居耀蔵は、洋式陸軍という考え方自体に反感を持ち、私費で銃器を購入していたのは謀反の疑いがあるなどと罪をでっち上げて、彼を投獄しました。彼が釈放されるのは、鳥居の後ろ盾であった水野忠邦が失脚し、阿部正弘が政権を握ったあとの弘化2(1845)年のことになります。その時点では、秋帆の門弟の一人である川路聖謨が幕府の要職についていたことも役に立ったのかもしれません。しかし、幕府の権威を守るため、無罪が宣言されるどころか、中追放が言い渡され、屋敷の没収処分を受けています。

 彼は釈放後、門弟の一人である江川英竜の屋敷に身を寄せていたのですが、ペリーの来航に対して早速、「嘉永上書」と呼ばれる意見書を幕閣に提出しています。簡単にいえば開国し、貿易を行うことで、国防費用を賄うべきであるという内容です。攘夷一色のこの当時にあって、しかもその前に投獄され、財産を奪われるほどの弾圧を受けていながら、このような意見書を再び提出するとは、まことに勇敢な人物といわねばなりません。

 近代戦を行いうる陸軍軍人の訓練を行うことを目指して、講武所という組織の設立を阿部正弘に提案したのは、幕末の剣豪として有名な男谷精一郎といわれます。講武所は、ペリーの第二回次来航があった嘉永7年5月(1854年。安政元年と書かれることが多いのですが、安政への改元は11月です。)に、諸役人、旗本、御家人に対して武術、洋式調練、砲術などを講習させることを狙った施設として作られました。

 当初、現在の浜離宮の南側に大筒4挺ほどの操練場を作ったのが始まりです。その時は講武場という名称でした。しかしそこでは狭すぎることから築地に調練場の建設が行われ、同時に名称を講武所と変更したわけです。その後も猫の目のように機構改革が繰り返され、正式の開所は安政3年4月にずれ込みました。

 しかし、オランダとの和親条約と併せて後述する講武所海軍教授所が、安政4年に講武所から独立して軍艦操練所となったので、海に近い築地の施設はこれに譲り、かわって神田小川町に移転しました。ただし、これは今日の住居表示では小川町ではなく、神田三崎町になります。JR水道橋駅からほど近い、現在、日本大学法学部のある場所にありました。すなわち私が本稿を書いている場所こそが、その跡地です。

 講武所の名目上のトップは講武所奉行で、2人いました。その下で、実務上のトップは講武所頭取で、だいたい5人くらいが定員でした。講武所生みの親である男谷精一郎は当初からこの頭取の一人となっています。教育部門は4部門に分かれそれぞれに師範役などの教員が配属されました。砲術方師範役の一人として高島秋帆が招致されたのは、彼の能力を考えれば当然のことといえるでしょう。

 職員数を見ると、人数が多いのが何といっても教員で、剣術方214名、鎗術方119名、砲術方173名、大砲方61名の計567名です。この他に講武所の事務局として講武所奉行支配取締役が設けられ、70名の職員が配置されました。更に掃除係や図書係も含めると、教職員総数は720名に達します。新設されたばかりの役所としては、幕府のそれまでの機構の常識からは信じられないほどの巨大組織であることが判ると思います。ここに始まる陸軍の整備事業というのが、海軍ほどではないにしても、人件費を中心に、莫大な国費を要する事業であることは間違いありません。

* * *

 阿部正弘の国防政策は、全体としてみればもっともなことが多く、その結果、後の日本に大きな影響を与えました。しかし、こうした膨大な支出の増加につながる施策の実施を命じたのですから、当然、同時に何らかの大幅な収入増加策の導入を決定しなければならないはずです。そうでなければ幕府は破産して、自ら西洋の軍門に下らざるを得なくなるからです。

 阿部正弘はどのような対応策を導入したのでしょうか。答は簡単です。何もしなかったのです。先のことは何も考えない。どうもこれがこの人の思考の特徴のようです。先に弘化元年の財政状況を紹介しました。簡単にいえば、借金をしまくり、貸金を回収し、そして金銀改鋳を実施することで収支のつじつまを合わせるというものでした。今後もそれで何とかなると高をくくっていたのかもしれません。名門の御曹司だけの持つ暢気さというものなのでしょうか。

 

3. 和親条約の締結

(1) 日米和親条約の締結

 嘉永7(1854)年正月16日、ペリーは再び浦賀沖にその姿を見せます。

 ペリーは第1次訪日後のこの一年、米国には帰らず、香港に滞在していました。前回の訪問の際、幕府が黒船の存在そのものに強い衝撃を受けたことを見て取っていたペリーは、第2次訪日に向けて艦隊を増強しようと努力しました。ところが、米国ではペリーの出航後に、彼を派遣した共和党のフィルメア大統領に代わって、民主党のピアスが1853年3月に大統領に就任していました。民主党は、共和党に比べて外交政策が消極的であったため、ペリーの艦隊増強要請には応じてくれません。

 しかもロシアのプチャーチンが4隻の艦隊を率いて上海におり、対日交渉を共同で行おうと申し入れてきました。単独で日本を開国させて、歴史に名を残そうという野心に燃えていたペリーはこれを拒絶しました。

 ペリーとしては、本来ならもっと遅くなって、航海が楽な季候になってから日本に行くつもりでいました。が、このような内外情勢の変化から、ぐずぐずしてロシアなどに先を越されたり、最悪の場合には派遣中止となることをおそれて、急遽この新年早々という時期に日本にやってきたわけです。

 この時、しかし、八方手を尽くして船をかき集めた結果、7隻と隻数だけは第1次訪日時の倍近くに増やすことに成功していました。第1次来航時の旗艦サスケハナ号に代えてペリーが座乗する艦としてポーハタン号(2415t、大砲数9門)が派遣されてきたのですが、ペリーは浦賀までは、わざとサスケハナ号をそのまま旗艦として来て、浦賀沖で旗艦をポーハタン号に変更するという手を使うことにより、サスケハナ号とポーハタン号の両方を浦賀に連れてくることに成功しました。蒸気船としては、この2隻に加えて第1次の時にも随伴してきたミシシッピ号がいました。これに帆走軍艦のマケドニアン号(1341t、大砲数20門)及びヴァンダリア号(770t、大砲数20門)を随伴させ、さらに軍艦でなくとも威嚇効果はあるとの判断からでしょう、帆走輸送船レキシントン号(691t、大砲数6門)及びサザンプトン号(567t、大砲数2門)まで連れてきたのです。悪天候のため、4隻の帆船のうち、サザンプトン号だけは自力で江戸湾に入りましたが、後3隻の帆船は、いずれも蒸気船に曳航されて入るというあまり格好の良くない来航でした。が、ペリーの計算は当たって、日本人はその数に威圧されたのでした。

 幕府は何とか交渉を免れようとしました。が、ペリーは、ワシントンの誕生日を理由として、艦隊の全艦に礼砲を一斉射撃させるなど、徹底的に軍事力を誇示して威嚇した結果、幕府はそれに屈して、応接係として林大学頭(復斉)、井戸覚弘(さとひろ)など4名を送り、2月10日から日米交渉が神奈川で開始されました。林家は、朝鮮使節との応接などを担当する家柄ですから、幕府代表者のこの人選に、阿部正弘が、依然としてそういう近隣外交の延長線上でこの問題を捕らえていることがよくわかります。

 ペリーは、交渉の開始を祝って礼砲を打つと称して、またも大砲を一斉射撃させたり、儀仗兵という名目で500人もの陸戦隊を上陸させて会場を取り巻くという調子で、徹底的に幕府側を恫喝しようとしました。

 阿部政権としては、薪水・食料の補給・難破船員の送還等のための開国には応じ、長崎をそのための港とするが、通商は認めないという方針で交渉に臨みました。先に述べたとおり、通商はペリーとしては追加的な使命にすぎませんでしたから、その点で妥協するのには問題はありませんでした。しかし、ペリーとしては長崎では米国船の貿易ルートからはずれていて石炭補給基地として使用が困難なことから反対し、松前、浦賀、鹿児島、琉球(那覇)の開港を要求しました。幕府としては薩摩藩支配下にある鹿児島と琉球は論外なので、結局下田と函館を開港する線で妥協が成立した結果、3月3日に日米和親条約が締結されました。

 その前文では、この条約の発効には天皇の勅許が必要である旨が宣言されています。こうした文言が入るあたり、阿部正弘には水戸斉昭同様、尊皇思想があったのかとも思われます。しかし、実際にはこの条約に関しては勅許は得ていません。

 内容的には、第2条で下田と函館の両港で、米国船に対し、日本が調達できた限度で、薪水、食糧、石炭などを供給することとされました。しかし、第8条では、これはあくまでも日本国政府が行うものとされ、私的取引は禁じられました。したがって、この条約はあくまでも和親であって、通商条約ではないことがはっきりしています。

 重要なのは第11条で、両国政府において、やむを得ない事情が生じたときは、合衆国官吏を下田におくことができるが、ただし、条約調印から18ヶ月以上経ってからでなければならない、としています。日本文だと官吏を下田に置くには両国政府の合意が必要となっているのですが、英文だと両国政府のうち一方の判断でおけるものと明確に書かれており、これに基づきハリスが安政3(1856)年7月に赴任してくることになります。

 この違いが、翻訳上の誤りなのか、誰かの何らかの作為によるものなのかは判っていません。いずれにせよ、二つの正文の整合性を確保するのは、幕府オランダ語通事森山多吉郎の責任で、米国側ではありませんから、米国の悪意と見ることはできないでしょう。

 なお、この条約成立後に、吉田寅次郎(松蔭)が米国に密航しようとして旗艦ポーハタン号に漕ぎ着けています。しかし、ペリーはせっかく条約締結に成功した直後であり、幕府との関係悪化をおそれてこれを拒否し、陸に送り返しました。これにより松蔭は国事犯として投獄され、後に安政の大獄で死刑にされることになります。

(2) 日露和親条約の締結

 話が元に戻りますが、1851年に米国が日本を強引に開国させることに決めたことは、オランダが日本に知らせてくれたくらいですから、当然他の列強の知るところとなっていました。日本と直接国境を接する強国ロシアも、それに遅れをとるまいと、さっそく日本に開国を求める使節を送ることにします。これがプチャーチンでした。彼は、ペリーが最初に浦賀に来た翌月に、長崎港に入港して交渉を求めました。

 こうした遠隔地での交渉の責任者は、この時点では当然海防係である川路聖謨です。しかし、前節に述べたとおり、江戸湾防衛計画をはじめとする一連の激務のため、彼は江戸を離れることができません。ようやく彼が長崎に到着したのはプチャーチン入港から5ヶ月も経った12月のことでした。

 しかし、前述の通り、ほどなくクリミア戦争が勃発したため、交渉は中断。再開したのは翌年11月に下田でのことでした。この時には、すでに日米和親条約が締結されていますから、日本側として、同様の条約を締結すること自体は特に問題はありません。

 問題は、日露の国境をどこに定めるか、という点でした。焦点はエトロフ島の帰属でしたが、川路聖謨の強力な主張が通って、日本領と認められました。今日における日露係争北方領土が、わが国固有の領土とするわが国の主張の根拠がこのとき明確にロシア側に認められたという点で、この和親条約は重要なものとなっています。

(3) 日英和親条約の締結

 イギリスは、アヘン戦争により中国で巨大な利権を獲得するのに成功していたため、この時期においては、日本に対して特に関心を持っていませんでした。米国がペリーを派遣するという情報をキャッチしても「英国政府は日本と貿易が開かれるのを喜びとするが、それを合衆国政府に任せ、実験させるのがよいと思う。もしその実験が成功すれば、英国政府はその成功を利用することができるであろう」(外務大臣マームスベリの手紙)という程度の反応しか示しませんでした。

 それでも清国に駐在するイギリス外交の責任者である貿易監督官は、ペリーが和親条約を締結したという情報をキャッチすると、早速日本と交渉に入ろうとします。が、この年の3月に、先に述べたようにクリミア戦争が勃発したため、イギリスとしては、ペリー艦隊のようなまとまった艦隊を自由に動かすことが不可能となったので、断念しました。

 ところが偶然のことから、同年8月には日英和親条約が締結されることになります。

 英国東インド艦隊司令官スターリングは、プチャーチンの軍艦が長崎港にいるという情報をキャッチし、これを拿捕するとともに、日本に対してクリミア戦争に対して中立の立場を守るように警告する目的から、閏7月15日、長崎に入港してきました。しかし前述の通り、プチャーチンの艦隊はその4ヶ月以上も前に長崎を去っていましたから、スターリングの使命は後者だけになったわけです。

 この時、長崎奉行の重職にあったのは、これも阿部正弘によって抜擢されたエリート官僚の一人、水野忠徳(ただのり)でした。水野忠徳という名は天保の改革の担い手である水野忠邦とよく似ていますが、おなじ水野一族という以外は全く関係がありません。御家人の次男に生まれ、同じく御家人である水野家に養子に入った人物です。300俵取りといいますから、かなり軽輩の家柄です。しかし有能で、嘉永6(1853)年ペリー第1次来航時には、浦賀奉行にまで昇進しており、直接の責任者としてペリーに対応しました。ペリーが来年また来ると言って去っていった時、幕府としては次は長崎に来るようにと命じました。阿部正弘は、ペリーがその命令に従って次回は長崎に来るものと考え、それに対応させる目的で、浦賀での活躍を評価し、水野忠徳を抜擢して長崎に派遣したのです。

 ところがペリーは第2次来航でも浦賀に直行してしまいましたから、水野忠徳としては肩透かしを食った形となり、腕を撫していたわけです。

 そこに英国艦がやってきたものですから、忠徳は、英国も当然米国やオランダ同様に和親条約の締結を求めに来たものと思いこみ、老中にもその旨を報告して了解を取り、日英和親条約を締結したというわけです。8月22日のことでした。

 この誤解は、英語=オランダ語=日本語という複雑な通訳の間に起きた誤りによっておきたとされています。が、江戸からの回答を待つための長い滞在期間中に、スターリングが繰り返し水野忠徳に来航の真意を説明しているにもかかわらず、水野忠徳が条約締結に突っ走ったことをみると、これは誤訳に基づく誤解というより、この機会にイギリスとも条約を締結しておいた方が、将来日本にとって有利になるという確信犯的行動ではなかったのか、と私は疑っています。

 スターリングが条約交渉のために来たのではない、ということは日本ではその後も長く知られませんでした(1951年に出版された英国の研究者ビーズリーの研究書によってようやく知られるようになったのです)。したがって、忠徳は、この失敗にも関わらず、処罰されるどころか、かえって栄進して安政元(1854)年12月には勘定奉行に転じ、この後も幕府外交の第一線で活躍することになります。

 実は、この時点では、英国としては、和親条約を締結するなら、艦隊を派遣して日本を威嚇することで、米国よりもっと有利な条約を締結したいと考えていました。しかしクリミア戦争が勃発してまとまった艦隊を日本に派遣することが不可能になったので断念していたことは前述の通りです。そこで、このスターリングが越権行為により締結してきた条約を正式に批准するかどうかは少々もめました。すなわち、清国駐在貿易監督官は批准に反対しました。が、外務大臣は検討の末、結局批准することに決定しました。

 したがって、もしこの時日英和親条約を締結していなければ、日本は後になって英国の砲艦外交に直面していた可能性があります。そのことから考えて、水野忠徳がスターリングを相手に条約を締結したことは、結果として正しい選択だったといえそうです。

(4) 日蘭和親条約の締結と長崎伝習所

 1852年に米国が日本にペリーを派遣するという情報をキャッチするとオランダ政府は、再度日本に開国勧告を行い、あわせて日本との第1号の条約を締結しようと決定します。この決定を受けて、長いこと日本に滞在し、日本の事情に詳しかったドイツ人シーボルトが、日本とオランダとの間に行われてきたそれまでの長崎会所を通じた貿易を拡充した形の通商条約案を起草しました。この条約案は、最後の長崎商館長として知られるドンケル=クルチウスJan Hendrik Donker=Curtiusが携えて嘉永5(1852)年に日本に渡りました。当然、ドンケル=クルチウスには、日本国駐在オランダ国領事官(後に締結された日蘭和親条約において採用された日本側の翻訳語)の称号の下に外交官として活動する権限が、予め授与されていました。

 しかし、同年10月に阿部正弘は、今度の開国勧告及び条約案も受け入れないことを決定してしまいます。その結果、ペリーの来航を無策で迎えることになってしまうわけです。もし、オランダとの条約が事前に締結されていれば、ペリーはそれを叩き台に交渉しなければならなかったでしょうから、交渉の経緯もかなり違っていたはずです。ひいては、その後の日本の歴史そのものが大きく違ったはずで、まことに惜しまれる逸機でした。

 先に紹介したとおり、第2次ペリー来航に対応する目的で長崎奉行として赴任してきた水野忠徳は、このドンケル=クルチウスに、今後の日本の防衛をいかになすべきかについて諮問しています。これに対してドンケル=クルチウスは、翌嘉永7年、すなわちペリーが二度目に来航した年に、長崎に入港してきたオランダ軍艦スンビン号艦長ファビウスの意見書を忠徳に取り次ぎました。

 これは要するに、日本も海軍を創設すべきであり、そのためには軍艦を運航する士官や兵を育てるため海軍兵学校を作らねばならないが、オランダはその兵学校に力を貸す用意があるというものでした。

 水野忠徳は、彼らしい綿密さで詳細な点まで何度となく問いただし、ファビウスの案を日本の国情にあうように修正した上で、この海軍創設計画を阿部正弘に上申します。阿部正弘はこれを裁可し、先に述べたように軍艦2隻をオランダに発注した上、海軍兵学校の創設を決めます。これが長崎伝習所です。この時の意思決定は阿部正弘にしては珍しく電光石火の早さですが、これはファビウスが回答を待ってオランダに出発するべく、長崎で待機していたためです。

 ドンケル=クルチウスは、阿部正弘の迅速な決定を喜びながら、このチャンスを条約締結に活用しようと考え、長崎伝習所の教官を斡旋する前提条件としては、日蘭条約の締結が必要であることを力説します。阿部正弘もこれを受け入れ、交渉の結果、安政2(1855)年9月30日に、オランダとの間に和親条約が締結されました。

 これは和親条約という名称ではありますが、それまで長崎を通じたオランダ貿易が行われてきた事を確認し、承認する内容を含んでいますから、事実上通商条約です。相手が永年の貿易相手国オランダですから、幕府としても通商条約の締結にあまり抵抗感がなかったのです。すなわち、オランダとの和親条約締結は、米英露に遅れて、一番最後に行われたわけですが、実際にはオランダは、一番最初に日本との通商条約の締結に成功したわけです。

 同じ安政2年に、オランダ政府は、本国政府からの指令を持って長崎に戻った特務艦スンビン号を、そのまま日本に贈与しました。この船は観光丸と名付けられ、長崎伝習所の訓練艦となります。そして、スンビン号を日本に回航してきたペルス・ライケン艦長以下が、初代の伝習所教官となりました。

 伝習所総督(すなわち所長)には、永井尚志(なおゆき)が就任しました。彼は、大給(おぎゅう)松平家の庶子として生まれ、旗本永井氏の養子となった人物です。吉宗の改革の後半のリード役として活躍し、吉宗引退の際、処罰された松平乗邑を思い出していただけるでしょうか。彼がやはり大給松平家の出身です。永井尚志はその家の庶子なのですから、阿部正弘の下のエリート官僚群の中では、ずば抜けた毛並みの良さです。したがって彼の登用は、抜擢人事とはいえません。徒士頭(かちがしら)から目付へとすすみ、安政元年から長崎勤務が命じられていました。目付の地位のまま、伝習所総督となったわけです。

 長崎伝習所が正式に開校するのは、日蘭和親条約が正式に発効した安政2年10月22日のことです。オランダ政府はこの長崎伝習所の教官にはかなり人物を選りすぐったらしく、初代教官団長のライケンと2代目教官団長のカッテンディーケは、いずれも後にオランダの海軍大臣になっています。

 なお、海軍軍人をこのように陸上の学校に集めて集中的に教育を行うという方式は、世界的に見ると1845年に米国のアナポリスの海軍兵学校に始まります。教官団を提供したオランダでもこの前年の1854年に始まったばかりの最新式のやり方で、この当時、世界一の海軍国であった英国では、まだ、いきなり船の上でオン・ザ・ジョブ方式で訓練していました。したがって、この長崎伝習所から数えれば、日本の海軍兵学校は世界でももっとも古い伝統を持つ海軍兵学校の一つということになります。

 しかし、伝習所は革新的な教育を行いましたから、新規施策の多くはそれまでの幕府の伝統とぶつかることとなり、幕閣の許可を必要とします。ところが長崎は江戸から遠すぎて、幕府からの許可を得るのに大変な時間がかかり、なかなか思うように訓練をすることができないという問題が浮上しました。そこで幕府は江戸に同様の施設を作ることを決め、安政4(1857)年5月に築地に軍艦操練所を作りました。

 初代総裁には、長崎伝習所総督をしていた永井尚志が呼び戻されて当たり、教官には長崎伝習所の卒業生やジョン・万次郎を当てました。これがうまくいったので、長崎伝習所は安政6年2月には廃止になりました。

 

4. 下田条約の締結

(1) ハリスの来日

 阿部正弘に主導される幕府としては、和親条約は受け入れられても、通商条約まで受け入れるつもりは毛頭ありませんでした。しかし、米国は極東貿易における出遅れを取り戻す意味で、この時期になると是が非でも通商条約を締結したいと考えるようになりました。

 そこで、先に説明した和親条約の11条における米正文に基づいて、条約締結後1年半が経過するや否や、米国は直ちにハリスTownsend Harrisを送り込んできたわけです。安政2(1856)年7月のことでした。

 ハリスは、下田の玉泉寺という曹洞宗の寺院に総領事館を開設し、幕府と通商条約を結ぶべく交渉を始めます。彼が連れていたのは、日本側との交渉時の通訳とするため、米国で雇用してきたオランダ人のヒュースケンHenry Conrad Joannes Heuskenと中国人召使い5人で、護衛さえ連れずに単身赴任してきたのですから、剛胆という外はありません。

 ハリスは元々アジア一円で活動していた貿易商人でした。それがペリーによる日本開国を聞き知って、自ら志願して在日初代領事となったのですから、アジアで自分一人で暮らすのには慣れていたのでしょう。

 ハリスは、下田に着任すると早速下田奉行に面会して、閣老に宛てた手紙を差し出します。この下田奉行というのは、同一名称の職は以前にもありましたが、この時点のものは、日米和親条約に伴い下田が開港場になったことから、嘉永7(1854)年に新設されたもので、二人任命されました。その一人が前述の通り、川路聖謨の実弟である井上清直(きよなお)でした。井上清直は勘定吟味役だったのを、阿部正弘によりこの職に抜擢されたのです。また、ハリス到着時には、今一人の奉行は中村時万(ときかず)という人物でした。

 阿部正弘は、その後の攘夷主義者達に少しも劣らない外国人嫌いでしたから、ハリスと直接交渉する役を、単なる出先機関にすぎない下田奉行に押しつけ、ハリスに対しても「下田奉行に両国の諸件弁理を委任したれば、たとえ重大の事といえども奉行へ申し聞けられ候わば、すなわち自分どもへ直ちに申し立て候も同様なれば、隔意なく奉行へ談話あるべし」と書簡を出しました。今日の言葉でいう特命全権大使に任命したということになります。

(2) 下田条約の内容と問題点

 ハリスは、井上達が全権を与えられたのを幸いに、手始めに、先に締結されていた日米和親条約の執行命令的性格を持つ補完条約の締結交渉を始めました。遠国奉行という、幕府行政機構の中ではたかの知れた下僚でありながら、一国の命運を担う条約交渉を押しつけられたかわいそうな二人の奉行は、海千山千のハリスを相手に、その最善を尽くして努力しました。その結果、安政4(1857)年5月26日に、彼ら二人とハリスの間で、調印されたのが、いわゆる下田条約です。

 今日では、本条約の補完的性格を持つ条約は、行政協定と呼ばれ、行政庁限りで締結可能であり、我が国でも、国会の承認は不要とされています。しかし、この下田条約は、かなり重要な点を含んでおり、彼らのような下僚に任せておいて良いような、単なる行政協定ではありませんでした。

 少々くどいとは思いますが、その歴史的重要性と、それにも関わらず、従来の日本史ではほとんど無視されてきているということを考慮して、以下に逐条的に検討してみたいと思います。

 A 第一条

 この規定では、和親条約が開港を認めた下田と函館に加えて、長崎を米国船に対して開港することが定められていました。長崎は元々外国への窓であった町ですから、米国に対して開港してもさほど問題がないとはいえ、鎖国体制下での開港場の増加はやはりトップレベルの決断が必要な事項というべきでしょう。

 B 第二条

 ここでは、下田と函館での米国人の永住権を認めました。永住権が認められる以上、それを保護する領事の設置も必然です。そこで、函館に副領事を置くことも認めました。和親条約では下田にしか領事館設置を認めていなかったのですから、これもまた行政協定の枠を越えた規定といえます。

 米国側は、これが簡単に認められたことに喜び、ハリスの通訳であるヒュースケンは、その著書『旅行記』の中で、「大勝利」という言葉を使ってこの条文について叙述しているほどです。実を言えば、米国ではこの条約調印に先行して、既に4月5日の時点でライスElischa E. Riceを貿易事務官の肩書きで送り込み、函館奉行堀利煕(としひろ)に米国大統領の国書を提出して在留を申し出ていたのです。ですから、下田条約で領事設置が正式に認められないと、ライスの身分が宙に浮くところだったのです。

 C 第三条

 しかし、この第三条に比べると、第一条や第二条は大した問題ではありません。第三条こそ、幕末における日本経済を破壊したとんでもない条項でした。

 すなわち、同種同量の外国通貨は、同種の日本通貨と同一の価値を持つ、という規定です。つまり、外国金貨のわが国国内での価値は、その金貨に含まれている金の量の等しい日本の金貨と同じ価値があり、銀貨についても同様ということなのです。この、常識的には何の問題もなさそうな規定が、わが国幕末の経済を破壊し、財政を揺さぶることになるとは、この時点では、井上達にはもちろん予想できなかったことでした。

 なお、ペリーは、1ドル=1分というレートを承認していたのですが、この規定に基づき計算すると、34.5セント=1分という事になりました。ただし、日本側が、米ドルを溶かして国内通貨に鋳直すためのコストを認めるべきだと主張し、ハリスはそのコストとして6%を認めました。外国通貨の両替商のない状況下で、後述する第五条で幕府が両替義務を負担することとなりましたから、たぶんハリスは両替手数料として理解したのでしょう。だから正確には36.57セント=1分ということになります。わずか一年半で、日本通貨の対外価値が一挙に約3分の1に下落したのです。

 D 第四条

 これは、幕末どころか、明治時代にまで影を落とすという意味で、三条よりもさらに重大な規定でした。すなわち米国人に治外法権を認め、彼らが日本国内で犯した犯罪については、米国領事に裁判権を承認したのです。

 E 第五条

 ここでは、米国船が日本の通貨を所持していないときは、幕府から日本通貨の供給が受けられ、それを商品で決済できるということがさだめられました。これは事実上、通商の承認に等しい機能を持ちますから、来るべき通商条約の先取り的性格を持つわけです。また、幕府側の通貨供給義務は、第三条のレート問題及び後述する第七条と絡んで、後に大変な紛糾を引き起こします。

 F 第六条

 この規定は、米国領事に、下田及び函館の周辺七里を越えての通行権を認めたものでした。しかし、ハリスはよほどのことがない限りこの権利を行使することはないと口頭で約束しており、したがって現実的重要性はあまりない規定でした。

 しかし、この条約が、一般に公布された時に、世論がもっとも問題にしたのは本条でした。つまり、単純な攘夷思想に基づいて読む限り、これは神州である日本国内を外国人が自由に旅行する権利を認めたものと読めるからです。

 G 第七条

 この規定は、総領事及び領事館内居住者は、日本商人より直接品物を購入することができるとしていました。使用する通貨は、銀貨または銅貨としていました。確かに、領事館が日常の必要を満たすものを、一々日本側の手を煩わすのは馬鹿げていますから、これは理屈としてはどうということのない規定です。が、通貨両替制度のない状況下では、日本人商人は、米国ドルによる支払いを受け付けませんから、一分銀の供給を幕府側から受ける必要があります。それが第三条の問題と絡んで、大変な紛糾の種となりました。

* * *

 条約交渉に当たり、井上達はハリスにだまされるのではないか、という恐怖から、条文ごとに事細かに審議してハリスを悩ませたといいます。しかし、このように結果として日本に不利な多数の条文を承認させられたということからみれば、所詮、海千山千の貿易商人であったハリスの敵ではなかった、ということになります。

 安政4(1857)年6月4日にこの条約は公布されます。そして、世論は、先に述べたように、その内容の問題性よりも、攘夷思想的観点から一斉に非難を浴びせることになります。

 

5. 阿部正弘の死

 この段階で、突然阿部正弘は死亡します。下田条約公布のわずか二週間後の6月17日のことでした。享年39歳。

 死因は風邪をこじらせたものといわれています。まことにあっけない死でした。

 八方美人的事なかれ主義で長期安定政権を築いたものの、突然におそってきた大波に幕府の舵を取り損ねて漂流させることとなった彼としては、おそらく、こうした内外の情勢が生みだした激しい心労に、身体の抵抗力を失っていたのでしょう。


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201. 豊岳正彦[-17055] lkyKeJCzlUY 2023年8月21日 01:13:32 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[9] 報告
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ロックフェラーフリーメーソンCIAの戦争犯罪をネイビーシールズのスパイ活動実態動画でさらしてくれたふじふじのフィルターさん(2012・2・25)に感謝しつつ公開してやろう。
asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c201
2012・02・25今は削除されたふじふじのフィルターブログさんへ投稿した分
ふじふじのフィルターさまにご紹介いただいた米国の偽正義フロンティアスピリットの真実を暴露する「エコノミック・ヒットマンが語る恐るべき真実」。
>>http://www.youtube.com/watch?v=-sS71C6oa8A

(>>http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/ftaisd-c740.html
>米韓FTAのISD条項の狙い【投資家利益優先で国家を無力化】 『現代農業』で金哲洙氏が指摘  "きわめて危険な制度"!から)

エクアドルの国士ロルドス大統領とトリホス将軍の自国民のために身を捨てた生き様に心を強く打たれました。
ご紹介くださったこのエコノミック・ヒットマンyoutubeを拡散したいと思います。

インタビュー中にヒットマンが語った「ジャッカル」の正体は、原潜から直接標的国へ不法入国殴りこみ攻撃できる米海兵隊特殊部隊NavySealsのことでしょう。youtubeがあります。

これが「ジャッカル」です。

アメリカ軍最新式原子力潜水艦(1/6〜6/6)

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=919d9b80aa3184ac&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%881%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=a6ccf47791c6e17c&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%882%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=eff05dc110be8dad&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%883%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=aea7e6791725ce3a&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%884%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=779c651717c62459&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%885%EF%BC%8F6%EF%BC%89

>>http://video.excite.co.jp/player/?id=458031b848f55fdc&title=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E6%9C%80%E6%96%B0%E5%BC%8F%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6%EF%BC%886%EF%BC%8F6%EF%BC%89

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

202. 豊岳正彦[-17649] lkyKeJCzlUY 2023年10月11日 03:06:15 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[48] 報告
<■67行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
ウクライナ反転攻勢南部ザポリージャ戦線の戦況。防空ミサイルシステム破壊による焦り。ロシアの非人道的行為。
古舘伊知郎チャンネル
youtube.com/watch?v=Yew0FcAtThI
豊岳正彦投稿。

古館はバカだな。
今はイスラエルの戦争犯罪を世界に明らかに示す時だぜ。
ハマスが汚職塗れのウクライナゼレンスキーからバイデン米軍が供与した最新兵器を横流し汚職でもらって、
バイデンCIAとイギリスMI6の親分ネタニエフモサドが軍事独裁で牛耳るイスラエルを攻撃したのは、
完全に国連憲章違反戦争犯罪テロだった911同時多発テロの焼き直し偽旗作戦だぜ。
ウクライナとイスラエルで同時多発テロを仕掛けて世界をモサドの望み通り世界大戦に引きずり込んで、武器を売りつけて人を殺して中東の油田をすべて乗っ取ってぼろもうけしたいだけの馬鹿の一つ覚えだ。
それに、DSは戦争が無くなると生きていけない「死の商人」だから、
ウクライナが負けて戦争が終わるとたちまち無一文になって地上から牢獄へ追放されるのは必定。
だから、何としても世界のどこでも戦争を起こして人を殺し続けなければならない人食い吸血鬼悪魔大王だ。
イスラエルが直接攻撃してきたウクライナぜれんすきーの汚職犯罪一味のハマスに対してじゃなく、
なんの証拠もないのにパレスチナとイランへ宣戦布告したバカげた極悪の国連憲章違反戦争犯罪は、
アメリカに反抗したかつてのCIAスパイフセインのイラクを、国連総会でCIA米軍黒人司令官がクライシスアクターの少女の嘘無きで嘘をついて、書庫もないのに大量破壊兵器所有疑惑の冤罪でイラクに宣戦布告して、安保理理事国の反対を無視して「テロとの戦い」をでっちあげて、アメリカとイラクの国民を偽旗戦争で大量に殺したブッシュDS手羽先テロリストの反人道無差別大量殺人国土略奪汚職犯罪と全く同じだ。
それは日露戦争後に英米フリーメーソンが結託した昭和のイルミナティ戦争犯罪者基地外米軍が、
大英帝国陸軍元帥ヒロヒトと共謀して米国ロックフェラーのスパイ偽日本人山本五十六米内光政源田実を使った真珠湾奇襲や都市大空襲や原爆投下などで日本国民を400万人殺して、大英帝国スパイ天皇に唐突に無条件降伏させる戦争犯罪詐欺で国際法に違反して日本国をアメリカが単独占領して、
日本人と世界の人を騙し続けた昭和20年極東軍事裁判と同じ冤罪捏造皆殺し詐欺奇形司法フェイクだよ。
古館は今でも911がブッシュが仕組んだ偽旗作戦だったことを知らないならもう人前でしゃべるのをやめた方がいいぜ。
イスラエルモサドの子分嘘つき汚職犯罪者アメリカ発の嘘八百を公共の場所で垂れ流して喋ればしゃべるほど家名を汚すからな。
ご先祖様に大恥をかかせるお前はバカだ。
文句があるなら俺に直接言って来い、この親不孝のメリケン毛唐かぶれのおお馬鹿たれが
俺は岩国の豊岳正彦だ。
俺は森永ヒ素ミルク日本人乳児殺害刑法146条水道(=粉ミルク)毒物(=砒素)等混入組織的殺人罪の真犯人を発見特定した岡山日赤小児科助手豊岳正道の長男だ。
豊岳正彦でググればすぐにわかるぜ。
俺は日本国憲法の主権者国民だから憲法76条良心に従って独立して憲法を守ってる日本国王だ。
俺は明治維新回天の大業を為し遂げた無刀流開祖山岡鉄舟武士道菩薩居士が言う通りの真日本人天下の大道を歩いて正義を守る武士道君子だから、
どんな時でも正々堂々自分の証言や個人情報を隠したりしないからなw

古館らのカラーテレビにかじりつくテレビ娯楽拝金麻薬中毒依存症無芸大食無知蒙昧河原乞食どもは、
自分にはした金をくれる者なら誰にでもしっぽを振って、
金をくれるならおっしゃる通りに嘘でも偽学問でも何でもかんでもテレビでコマーシャルして垂れ流しましょうという、
良心のかけらもない銭の亡者憲法違反破廉恥汚職無知無学カラーテレビコマーシャル脳症白痴化偽旗戦争策謀憲法9条違反国連憲章違反極刑犯罪者だから、

どうせ明治政府初代内閣総理大臣伊藤博文というロスチャイルドフリーメーソンスパイ拝金色欲亡国売国奴が、
幕末のうちから武士道と良心を捨てて(まあもともと武士じゃない良心のかけらもない恥知らずの破廉恥非人だがw)、
日本の金を外国に盗ませる為替詐欺外患誘致亡国汚職犯罪を犯した歴史の真実を知らんのだろw

此の世で真実は常に一つだ。
文武両道武士の素養が全くない暗殺専門下忍忍者ヒニン長州藩ニセ藩士伊藤博文の、
カネと女にとち狂った売国国辱亡国汚職破廉恥真実の姿を、
明治時代に服部之総が新聞に書いてるぜ。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001263/files/50371_40672.html

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

203. 豊岳正彦[-17648] lkyKeJCzlUY 2023年10月11日 03:12:33 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[49] 報告
以上、阿修羅へ投稿した。
松井知事「日本人ならごくごく自然なこと」(産経ニュース): 靖国で不戦を誓うのは 政治家として当然のこと
asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c202

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理
204. 豊岳医王不二正恩居士[3] lkyKeIjjiaSVc5PxkLOJtouPjm0 2023年10月26日 13:11:47 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[82] 報告
<■318行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
これが拳王スペシャル誕生の瞬間!達人が考案した新技がヤバ過ぎた!合気道の達人・白川竜次が拳王のためだけに考えたSP技、ここに誕生!|拳王チャンネル×Aikido Shinburenseijuku

https://www.youtube.com/watch?v=fWSUFx8b4CA&t=0s
@user-ur8zi9dk8f
@user-ur8zi9dk8f
1 秒前
白川先生両方に武器を売る死の商人みたいでワロたw
でも実は敵味方なく与える生の無料奉仕者だからまさに日本人の中の日本人、
無刀流免許皆伝心で勝つ無我捨身施武士道真日本人です賞賛あるのみ。

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幣原喜重郎元首相が語った日本国憲法-戦争放棄条項等の生まれた理由について
benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou-text.html
昭和三十九年二月
幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
ー平野三郎氏記―
憲法調査会事務局

はしがき
 この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
 なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。
  昭和三十九年二月           
憲法調査会事務局

  第一部

 私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
 側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。
 その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。
 なお、当日の幣原先生のお話の内拘については、このメモにもあるように、幣原先生から口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである。

問  かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわり度いと存じます。

 実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

答  いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

問  そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするという訳なのですか。

答  それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問  死中に活と言いますと … … …

答  たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

問  しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。

答  そうだ。世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。

 それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集るようなことは空想だろう。だが何らかの形に於ける世界の連合方式というものが絶対に必要になる。何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である。

 そういう世界は歴史上存在している。ローマ帝国などもそうであったが、何より記録的な世界政府を作った者は日本である。徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。この例は平和をを維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。

 要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際的機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、その同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行う外はない。このことは理論的には昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋がきたと僕は信じた訳だ。

問  それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。

答  そこだよ、君。負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。君の言う通り、正にそうだ。しかし負けた日本だからこそ出来ることなのだ。

 恐らく世界にはもう大戦争はあるまい。勿論、戦争の危険は今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。第二次大戦が人類が全滅を避けて戦うことのできた最後の機会になると僕は思う。如何に各国がその権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、いかなる理想主義も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。

 したがって各国はそれぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題はどのような方法と時間を通じて世界がその最後の理想に到達するかということにある。人類は有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起るか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、唯一つ断言できることは、その成否は一に軍縮にかかっているということだ。若しも有効な軍縮協定ができなければ戦争は必然に起るだろう。既に言った通り、軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。常に相手より少しでも優越した状態に己れを位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないと言う恐るべき不安状態の連続になるのである。

 そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮の困難さを身をもって体験してきた。世の中に軍縮ほど難しいものはない。交渉に当たる者に与えられる任務は如何にして相手を偽瞞するかにある。国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。虚々実々千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性などは初めからないものなのだ。

 原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。だが交渉の行われている合間にも各国はその兵器の増強に狂奔するだろう。むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。不信と猜疑がなくならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。

 そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。それは分っている。分ってはいるがどうしたらいいのだ。自衛のためには力が必要だ。相手がやることは自分もやらねばならぬ。相手が持つものは自分も持たねばならぬ。その結果がどうなるか。そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである。とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。責任は自分にはない。どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。

 果てしない堂々巡りである。誰にも手のつけられないどうしようもないことである。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ― それが軍拡競争の果ての姿であろう。

 要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ道がある。それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである。

 一、二、三の掛声もろとも凡ての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。勿論不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。

 ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー

 最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。

 しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。

 非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。

 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

 日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。

問  お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。しかしその日が来るまではどうする訳ですか。目下の処は差当り問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたらです。

答  その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。

 僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。勿論軍隊を持たないと言っても警察は別である。警察のない社会は考えられない。殊に世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論に依って裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それに依て脅威を受ける第三国は黙ってはいない。その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ。

問  よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。尤も草案は勧告という形で日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答  そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。

 幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは濠州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。

 この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。

 豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である濠州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。

 この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、又なかったからこそ続いてきたのだ。もし天皇が権力を持ったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を護持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に還ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにもよいと僕は思う。

 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。

問  元帥は簡単に承知されたのですか。

答  マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚ろいていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。

 元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。

 日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか。

 好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現も亦ほとんど空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たし得る位置にある。歴史の偶然はたまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階に於ける日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史のこの偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。

 また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際あり得る。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、絶えず新しい思想に向って創造発展して行く道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかの如く考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史の彼方に埋没して終うだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーも何れ全く変貌して終うだろう。何れにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。このことはやがてロシア人も気づくだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。

問  天皇陛下は憲法についてどう考えておかれるのですか。

答  僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときは何時も二人切りだったが、陛下のときは吉田君にも立ち会って貰った。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議のときも陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。若しあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己れを捨てて国民を救おうとされたのであったが、それに依て天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。

 正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果に於いて僕は満足し喜んでいる。
なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君からきかれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。

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benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html


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205. 豊岳医王不二正恩居士[5] lkyKeIjjiaSVc5PxkLOJtouPjm0 2023年10月27日 16:01:53 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[86] 報告
<■375行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
竹下発言で「首相」を聞き漏らさなかった朝日記者にあっぱれ!
asyura2.com/18/senkyo243/msg/600.html#c33

24時間トラックドライバー食堂に密着したらヤバすぎた

うどんそば 広島 岡山 Udonsoba
youtube.com/watch?v=8GVKtdz5WGA

これが24時間勤労する真日本人である。

【国家の名誉にかけ全力で「日米地位協定破棄」せぬ者は大和魂真日本人ではない。】

masa-ho.blogspot.com/2023/10/blog-post_27.html

幣原喜重郎元首相が語った日本国憲法-戦争放棄条項等の生まれた理由について
benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou-text.html
昭和三十九年二月
幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
ー平野三郎氏記―
憲法調査会事務局

はしがき
 この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
 なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。
  昭和三十九年二月           
憲法調査会事務局

  第一部

 私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
 側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。
 その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。
 なお、当日の幣原先生のお話の内拘については、このメモにもあるように、幣原先生から口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである。

問  かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわり度いと存じます。

 実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

答  いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

問  そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするという訳なのですか。

答  それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問  死中に活と言いますと … … …

答  たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

問  しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。

答  そうだ。世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。

 それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集るようなことは空想だろう。だが何らかの形に於ける世界の連合方式というものが絶対に必要になる。何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である。

 そういう世界は歴史上存在している。ローマ帝国などもそうであったが、何より記録的な世界政府を作った者は日本である。徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。この例は平和をを維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。

 要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際的機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、その同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行う外はない。このことは理論的には昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋がきたと僕は信じた訳だ。

問  それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。

答  そこだよ、君。負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。君の言う通り、正にそうだ。しかし負けた日本だからこそ出来ることなのだ。

 恐らく世界にはもう大戦争はあるまい。勿論、戦争の危険は今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。第二次大戦が人類が全滅を避けて戦うことのできた最後の機会になると僕は思う。如何に各国がその権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、いかなる理想主義も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。

 したがって各国はそれぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題はどのような方法と時間を通じて世界がその最後の理想に到達するかということにある。人類は有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起るか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、唯一つ断言できることは、その成否は一に軍縮にかかっているということだ。若しも有効な軍縮協定ができなければ戦争は必然に起るだろう。既に言った通り、軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。常に相手より少しでも優越した状態に己れを位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないと言う恐るべき不安状態の連続になるのである。

 そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮の困難さを身をもって体験してきた。世の中に軍縮ほど難しいものはない。交渉に当たる者に与えられる任務は如何にして相手を偽瞞するかにある。国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。虚々実々千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性などは初めからないものなのだ。

 原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。だが交渉の行われている合間にも各国はその兵器の増強に狂奔するだろう。むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。不信と猜疑がなくならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。

 そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。それは分っている。分ってはいるがどうしたらいいのだ。自衛のためには力が必要だ。相手がやることは自分もやらねばならぬ。相手が持つものは自分も持たねばならぬ。その結果がどうなるか。そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである。とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。責任は自分にはない。どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。

 果てしない堂々巡りである。誰にも手のつけられないどうしようもないことである。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ― それが軍拡競争の果ての姿であろう。

 要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ道がある。それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである。

 一、二、三の掛声もろとも凡ての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。勿論不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。

 ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー

 最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。

 しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋(とき)ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。

 非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。

 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

 日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。

問  お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。しかしその日が来るまではどうする訳ですか。目下の処は差当り問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたらです。

答  その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。

 僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。勿論軍隊を持たないと言っても警察は別である。警察のない社会は考えられない。殊に世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論に依って裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それに依て脅威を受ける第三国は黙ってはいない。その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ。

問  よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。尤も草案は勧告という形で日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答  そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。

 幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは濠州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。

 この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。

 豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である濠州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。

 この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、又なかったからこそ続いてきたのだ。もし天皇が権力を持ったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を護持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に還ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにもよいと僕は思う。

 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。

問  元帥は簡単に承知されたのですか。

答  マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚ろいていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。

 元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。

 日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか。

 好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現も亦ほとんど空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たし得る位置にある。歴史の偶然はたまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階に於ける日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史のこの偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。

 また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際あり得る。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、絶えず新しい思想に向って創造発展して行く道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかの如く考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史の彼方に埋没して終うだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーも何れ全く変貌して終うだろう。何れにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。このことはやがてロシア人も気づくだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。

世界の共通の敵は戦争それ自体である。

問  天皇陛下は憲法についてどう考えておかれるのですか。

答  僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときは何時も二人切りだったが、陛下のときは吉田君にも立ち会って貰った。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議のときも陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。若しあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己れを捨てて国民を救おうとされたのであったが、それに依て天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。

 正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果に於いて僕は満足し喜んでいる。
なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君からきかれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。
おわり
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“押し付け憲法論”とマッカーサー書簡 = 「9条提案は幣原首相から」とするマッカーサーの言葉 =
benricho.org/kenpou/MacArthur.html
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facebook.com/tsuyoshinagabuchi.official
(1)日本国憲法を守らぬものは日本国民ではない。
日本国を占領し外国の植民地奴隷国にして日本国憲法を破っているのは日米地位協定盲従スパイ外患誘致罪日本人である。
日本人は全員、戦争放棄永久平和主権在民政教分離日本国を独立主権国家として復活させるために、
「日米地位協定破棄」とすべての衣食住生活用品に印刷し鉢巻を作りのぼりを立て、
全ての文書と書物の表紙に印刷し、すべてのイベントで(Xで拡散紹介した)日本国憲法前文の歌を歌い「日米地位協定破棄宣言」し、
すべての選挙で候補者全員が日米地位協定破棄を絶対公約に掲げ、
あらゆる議会集会団体会社学校で日米地位協定破棄を満場一致で決議せよ。
「地位協定破棄を宣言し天神地祇に誓約し常に公言する」ことを怠ればその者は、
日本国民に日本国憲法で保障されたすべての基本的人権を失い、
最高法規違反国家反逆罪に日本国刑法が問う。
日本国憲法に従いあらゆる戦争を直ちに止めなければ日本人ではない。
主権者日本国民に憲法15条で全体奉仕しなければならないと定めた日本政府三権公務員国会議員内閣国務大臣みなし公務員医者弁護士は、
24時間救急医療臨床医と入院中医師を除くすべての医師免許者が、
国家の名誉にかけ、
岸田内閣全員と国会議員全員と共にけが人を戦場から救い出して戦争を止めるために、
日本国憲法前文の誓いに従い、
武器を持たず救援物資だけを持って自衛隊機で全員一斉にガザへ飛べ。
イスラエルよ悪を為すな。
hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/files/scan001.pdf

世界中のすべての人が主権在民立憲法治戦争放棄平和構築無我平等忘己利他父母の大慈悲日本国憲法を守らねばならないのだ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html

【聞き流し】日本国憲法全文 (穴埋め式) 
youtube.com/watch?v=l7KoUkwg_5s

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(2)銀河の憲法

youtube.com/watch?v=G0fXQGy8n1Y

【 国家の名誉にかけ全力で「日米地位協定破棄」せぬ者は大和魂真日本人ではない。】

24時間トラックドライバー食堂に密着したらヤバすぎた
うどんそば 広島 岡山 Udonsoba
youtube.com/watch?v=8GVKtdz5WGA
豊岳正彦
24時間365日働く日本人は美しき哉。働くということはこういうこと。

ところが公務員もみなし公務員の医者弁護士も、

その他金融も電力会社証券会社も孫正義らもヒカキンユーチューバーも芸能界も出版社も音楽業界も映画テレビもトップは全然働いてないのに、

消費税やらガソリン代やら電話代電気代やら腐った政府が勝手に値上げして、

日本国民勤労主権者国王から不労下僕が金を盗んでのうのうとしている。

泥棒の最たるものが地位協定治外法権米国と外交官治外法権イスラエルモサドNHKだ。

マッカーサーが日米地位協定治外法権で憲法41条違反の放送法と日本学術会議法で、

NHKに治外法権で受信料を好き放題日本国民勤労主権者国王全体から盗むシステムを作った。

NHKが作ったマイナンバー法は憲法30条違反36条違反だが、

GHQが憲法41条違反で作った日本学術会議法で東大と慶応大に莫大な補助金を落として、

東大法学部だけを最高裁に送り込んで、

最高裁に昭和22年の最初から憲法81条を破らせて、

NHK政府の憲法違反を根っこから隠蔽して、

この世で最も破廉恥極悪な植民地支配国連憲章違反戦争犯罪を続けているのだ。

イスラエルモサド外患誘致NHK専制隷従政府泥棒恥知らず法匪官僚天国の破廉恥のもともとは、

すべて日米地位協定が原因であり、

日米地位協定はサンフランシスコで吉田茂総理が単独密約地下室で結んだときは日米安保条約と一体だったが、

岸信介総理が国会で改正して地位協定と安保本体を分離したので、

今は日本人なら全員、一方的に地位協定だけ単独で破棄できる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、

全力をあげて恥ずべき占領奴隷奉仕条約「日米地位協定」を即座に破棄して、

国家国民の独立主権大和魂をただちに取り戻す事を天地神明に誓う。

______

銀河の憲法

youtube.com/watch?v=G0fXQGy8n1Y

206. 豊岳正彦[-18127] lkyKeJCzlUY 2023年10月28日 00:55:19 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[92] 報告
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竹下発言で「首相」を聞き漏らさなかった朝日記者にあっぱれ!
asyura2.com/18/senkyo243/msg/600.html#c34
24時間トラックドライバー食堂に密着したらヤバすぎた

うどんそば 広島 岡山 Udonsoba
youtube.com/watch?v=8GVKtdz5WGA

これが24時間勤労する真日本人である。

【国家の名誉にかけ全力で「日米地位協定破棄」せぬ者は大和魂真日本人ではない。】

masa-ho.blogspot.com/2023/10/blog-post_27.html

幣原喜重郎元首相が語った日本国憲法-戦争放棄条項等の生まれた理由について
benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou-text.html
昭和三十九年二月
幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について
ー平野三郎氏記―
憲法調査会事務局

はしがき
 この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
 なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。
  昭和三十九年二月           
憲法調査会事務局

  第一部

 私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
 側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。
 その内容については、その後間もなくメモを作成したのであるが、以下は、そのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を整理したものである。
 なお、当日の幣原先生のお話の内拘については、このメモにもあるように、幣原先生から口外しないようにいわれたのであるが、昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみてあえて公にすることにしたのである。

問  かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわり度いと存じます。

 実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

答  いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

問  そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするという訳なのですか。

答  それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問  死中に活と言いますと … … …

答  たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

問  しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。

答  そうだ。世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。しかし実際問題として世界中が武器を持たないという真空状態を考えることはできない。

 それについては僕の考えを少し話さなければならないが、僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて一つの政府の傘下に集るようなことは空想だろう。だが何らかの形に於ける世界の連合方式というものが絶対に必要になる。何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも武力が威嚇手段として行使される。したがって勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には無限の軍拡競争が展開され遂に武力衝突を引き起こす。すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である。

 そういう世界は歴史上存在している。ローマ帝国などもそうであったが、何より記録的な世界政府を作った者は日本である。徳川家康が開いた三百年の単一政府がそれである。この例は平和をを維持する唯一の手段が武力の統一であることを示している。

 要するに世界平和を可能にする姿は、何らかの国際的機関がやがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、その同盟が国際的に統一された武力を所有して世界警察としての行為を行う外はない。このことは理論的には昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。しかし原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す秋がきたと僕は信じた訳だ。

問  それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は大国同志が国際的に話し合って決めることで、日本のような敗戦国がそんな偉そうなことを言ってみたところでどうにもならぬのではないですか。

答  そこだよ、君。負けた国が負けたからそういうことを言うと人は言うだろう。君の言う通り、正にそうだ。しかし負けた日本だからこそ出来ることなのだ。

 恐らく世界にはもう大戦争はあるまい。勿論、戦争の危険は今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。第二次大戦が人類が全滅を避けて戦うことのできた最後の機会になると僕は思う。如何に各国がその権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、いかなる理想主義も人類の生存には優先しないことを各国とも理解するからである。

 したがって各国はそれぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題はどのような方法と時間を通じて世界がその最後の理想に到達するかということにある。人類は有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起るか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、唯一つ断言できることは、その成否は一に軍縮にかかっているということだ。若しも有効な軍縮協定ができなければ戦争は必然に起るだろう。既に言った通り、軍拡競争というものは際限のない悪循環を繰り返すからだ。常に相手より少しでも優越した状態に己れを位置しない限り安心できない。この心理は果てしなく拡がって行き何時かは破綻が起る。すなわち協定なき世界は静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、その静けさがどれだけ持ちこたえるかは結局時間の問題に過ぎないと言う恐るべき不安状態の連続になるのである。

 そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮の困難さを身をもって体験してきた。世の中に軍縮ほど難しいものはない。交渉に当たる者に与えられる任務は如何にして相手を偽瞞するかにある。国家というものは極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを交渉者に要求する。虚々実々千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性などは初めからないものなのだ。

 原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。だが交渉の行われている合間にも各国はその兵器の増強に狂奔するだろう。むしろ軍縮交渉は合法的スパイ活動の場面として利用される程である。不信と猜疑がなくならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。

 そのような瀬戸際に追いつめれても各国はなお異口同音に言うだろう。軍拡競争は一刻も早く止めなければならぬ。それは分っている。分ってはいるがどうしたらいいのだ。自衛のためには力が必要だ。相手がやることは自分もやらねばならぬ。相手が持つものは自分も持たねばならぬ。その結果がどうなるか。そんなことは分らない。自分だけではない。誰にも分らないことである。とにかく自分は自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。責任は自分にはない。どんなことが起ろうと、責任は凡て相手方にあるのだ。

 果てしない堂々巡りである。誰にも手のつけられないどうしようもないことである。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景 ― それが軍拡競争の果ての姿であろう。

 要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。唯もし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ道がある。それは世界が一せいに一切の軍備を廃止することである。

 一、二、三の掛声もろとも凡ての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。勿論不可能である。それが不可能なら不可能なのだ。

 ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー

 最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。

 しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋(とき)ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。

 非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。

 要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

 日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。

問  お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。しかしその日が来るまではどうする訳ですか。目下の処は差当り問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたらです。

答  その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。然も次の戦争は今までとは訳が違う。

 僕は第九条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。勿論軍隊を持たないと言っても警察は別である。警察のない社会は考えられない。殊に世界の一員として将来世界警察への分担負担は当然負わなければならない。しかし強大な武力と対抗する陸海空軍というものは有害無益だ。僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論に依って裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それに依て脅威を受ける第三国は黙ってはいない。その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ。

問  よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。尤も草案は勧告という形で日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答  そのことは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の暮から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階にあった。

 幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持を持っていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決っていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起った。それは濠州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備をしたら大変である。戦争中の日本軍の行動は余りに彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。日本人は天皇のためなら平気で死んで行く。恐るべきは「皇軍」である。という訳で、これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の票決ではアメリカは孤立化する恐れがあった。

 この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。

 豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である濠州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。

 この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、又なかったからこそ続いてきたのだ。もし天皇が権力を持ったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を護持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に還ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにもよいと僕は思う。

 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。

問  元帥は簡単に承知されたのですか。

答  マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚ろいていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。

 元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。

 日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか。

 好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現も亦ほとんど空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たし得る位置にある。歴史の偶然はたまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階に於ける日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史のこの偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。

 また日本の戦争放棄が共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際あり得る。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、絶えず新しい思想に向って創造発展して行く道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかの如く考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史の彼方に埋没して終うだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義のイデオロギーも何れ全く変貌して終うだろう。何れにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。このことはやがてロシア人も気づくだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。

世界の共通の敵は戦争それ自体である。

問  天皇陛下は憲法についてどう考えておかれるのですか。

答  僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案を持って天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときは何時も二人切りだったが、陛下のときは吉田君にも立ち会って貰った。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、と言われた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議のときも陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。若しあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己れを捨てて国民を救おうとされたのであったが、それに依て天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。

 正直に言って憲法は天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果に於いて僕は満足し喜んでいる。
なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君からきかれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。
おわり
benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou.html
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“押し付け憲法論”とマッカーサー書簡 = 「9条提案は幣原首相から」とするマッカーサーの言葉 =
benricho.org/kenpou/MacArthur.html
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facebook.com/tsuyoshinagabuchi.official
(1)日本国憲法を守らぬものは日本国民ではない。
日本国を占領し外国の植民地奴隷国にして日本国憲法を破っているのは日米地位協定盲従スパイ外患誘致罪日本人である。
日本人は全員、戦争放棄永久平和主権在民政教分離日本国を独立主権国家として復活させるために、
「日米地位協定破棄」とすべての衣食住生活用品に印刷し鉢巻を作りのぼりを立て、
全ての文書と書物の表紙に印刷し、すべてのイベントで(Xで拡散紹介した)日本国憲法前文の歌を歌い「日米地位協定破棄宣言」し、
すべての選挙で候補者全員が日米地位協定破棄を絶対公約に掲げ、
あらゆる議会集会団体会社学校で日米地位協定破棄を満場一致で決議せよ。
「地位協定破棄を宣言し天神地祇に誓約し常に公言する」ことを怠ればその者は、
日本国民に日本国憲法で保障されたすべての基本的人権を失い、
最高法規違反国家反逆罪に日本国刑法が問う。
日本国憲法に従いあらゆる戦争を直ちに止めなければ日本人ではない。
主権者日本国民に憲法15条で全体奉仕しなければならないと定めた日本政府三権公務員国会議員内閣国務大臣みなし公務員医者弁護士は、
24時間救急医療臨床医と入院中医師を除くすべての医師免許者が、
国家の名誉にかけ、
岸田内閣全員と国会議員全員と共にけが人を戦場から救い出して戦争を止めるために、
日本国憲法前文の誓いに従い、
武器を持たず救援物資だけを持って自衛隊機で全員一斉にガザへ飛べ。
イスラエルよ悪を為すな。
hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/files/scan001.pdf

世界中のすべての人が主権在民立憲法治戦争放棄平和構築無我平等忘己利他父母の大慈悲日本国憲法を守らねばならないのだ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html

【聞き流し】日本国憲法全文 (穴埋め式) 
youtube.com/watch?v=l7KoUkwg_5s

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(2)銀河の憲法

youtube.com/watch?v=G0fXQGy8n1Y

【 国家の名誉にかけ全力で「日米地位協定破棄」せぬ者は大和魂真日本人ではない。】

24時間トラックドライバー食堂に密着したらヤバすぎた
うどんそば 広島 岡山 Udonsoba
youtube.com/watch?v=8GVKtdz5WGA
豊岳正彦
24時間365日働く日本人は美しき哉。働くということはこういうこと。

ところが公務員もみなし公務員の医者弁護士も、

その他金融も電力会社証券会社も孫正義らもヒカキンユーチューバーも芸能界も出版社も音楽業界も映画テレビもトップは全然働いてないのに、

消費税やらガソリン代やら電話代電気代やら腐った政府が勝手に値上げして、

日本国民勤労主権者国王から不労下僕が金を盗んでのうのうとしている。

泥棒の最たるものが地位協定治外法権米国と外交官治外法権イスラエルモサドNHKだ。

マッカーサーが日米地位協定治外法権で憲法41条違反の放送法と日本学術会議法で、

NHKに治外法権で受信料を好き放題日本国民勤労主権者国王全体から盗むシステムを作った。

NHKが作ったマイナンバー法は憲法30条違反36条違反だが、

GHQが憲法41条違反で作った日本学術会議法で東大と慶応大に莫大な補助金を落として、

東大法学部だけを最高裁に送り込んで、

最高裁に昭和22年の最初から憲法81条を破らせて、

NHK政府の憲法違反を根っこから隠蔽して、

この世で最も破廉恥極悪な植民地支配国連憲章違反戦争犯罪を続けているのだ。

イスラエルモサド外患誘致NHK専制隷従政府泥棒恥知らず法匪官僚天国の破廉恥のもともとは、

すべて日米地位協定が原因であり、

日米地位協定はサンフランシスコで吉田茂総理が単独密約地下室で結んだときは日米安保条約と一体だったが、

岸信介総理が国会で改正して地位協定と安保本体を分離したので、

今は日本人なら全員、一方的に地位協定だけ単独で破棄できる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、

全力をあげて恥ずべき占領奴隷奉仕条約「日米地位協定」を即座に破棄して、

国家国民の独立主権大和魂をただちに取り戻す事を天地神明に誓う。

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銀河の憲法
youtube.com/watch?v=G0fXQGy8n1Y
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「地位協定破棄すればNHK東大慶応大を三位一体破棄できる。」
袴田事件:首謀犯と思われる長女が死亡。相続目的の家族殺しの犯人は自殺か?
asyura2.com/13/nihon31/msg/333.html#c25
豊岳正彦
この奇形司法最高裁常習冤罪100%の司法公務員汚職国家反逆罪も、証拠捏造に科捜研で犯人隠蔽工作共犯した偽医者も日米地位協定ででっち上げた憲法41条違反違憲立法の日本学術会議法で東大慶応大にだけ何十億何百億もの補助金を払って作った東大法学部卒最高裁の嘘八百万東大話法憲法99条違反自体を地位協定治外法権で隠ぺいする憲法41条違反放送法NHKイスラエルモサドの犯行だ。東大慶応大は100%地位協定治外法権憲法破壊外患誘致日本人国籍法違反外国スパイだよ。地位協定破棄すりゃ奇形司法が根元から崩壊して真犯人と真実を明らかにすることができる。

【国家の名誉にかけ全力で「日米地位協定破棄」せぬ者は、大和魂真日本人ではない】
masa-ho.blogspot.com/2023/10/blog-post_27.html
<流産率は70%を遥かに超えている>ファイザーのワクチンは中絶薬より効果的 「もう一つ大きなニュースがある」(ニコニコ動画)
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c354

日本国民は、国家の名誉にかけ、

全力をあげて恥ずべき占領奴隷奉仕条約「日米地位協定」を即座に破棄して、

国家国民の独立主権大和魂をただちに取り戻す事を天地神明に誓う。
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銀河の憲法
youtube.com/watch?v=G0fXQGy8n1Y

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竹下発言で「首相」を聞き漏らさなかった朝日記者にあっぱれ!
asyura2.com/18/senkyo243/msg/600.html#c34

[18初期非表示理由]:担当:スレ違い長文多数により全部処理

207. 豊岳正彦[-18142] lkyKeJCzlUY 2023年10月28日 02:34:47 : yRgpGQVp4c : dFl0cTkyZ3I5VDY=[95] 報告
<■1007行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
良心を出したら、官僚は務まらない?
dendrodium.blog15.fc2.com/blog-entry-1115.html
(1)日本国憲法19条「良心」76条「良心」違反は国家反逆罪
asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c193
「2023」未来ある人々が殺人兵器によって殺されて尊い命を失う戦争を直ちに止めねばならない。
日本人の良心が日本人に命じる神聖な責務である。
twitter.com/i/status/1674531672585539584
「2011」思い出そう 東日本大震災 ロシアは日本を助けてくれたんだよ。
twitter.com/i/status/1674172407282827264
「2014」勝谷誠彦ウクライナレポート『血気酒会』緊急開催
youtu.be/BxDPirsR68M?t=2428
「2016」プーチンさんは長門市の温泉で安倍ちゃんと差しで酒を(東洋美人)酌み交わしながら日米地位協定を破棄したら北方4島を日ロ両国でビザなし交流特区とし税収を二等分して対等安保条約を結び戦争のない平和共存の大東亜共栄圏を作ろうと語り合ったのだ。
mofa.go.jp/mofaj/erp/rss/hoppo/page4_002578.html
「2023」日本の報道が全て嘘とばれる映像
twitter.com/i/status/1674225625547280385
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岸田林憲法9条違反外患誘致売国汚職テロ国家支援戦争犯罪告発状「証拠動画」
hougakumasahiko.muragon.com/entry/598.html
日本人で人の上に立つものは必ず心が良くて行いに品格と徳がなければならない。
しかるに平和憲法で国家を治める国王国民が選定して外交内政をやらせている公僕の代表たる三権最下位臣下内閣総理大臣が、
世界中に悪名高い凶悪無比国際テロ組織の人格低劣冷酷暴悪首領に、平和を敬い人を愛する国王が和合して築いた国庫の金を王に無断で盗んで支払うとは、
日本国始まって以来空前絶後前代未聞言語道断の下劣極まる汚職国家反逆罪である。
岸田と林の国家反逆テロ国家支援戦争反罪の証拠は動画ですでに明らかだ。

憲法15条特別司法公務員の刑訴法239条に従う独立した「良心」に、主権者国民国王が憲法76条を以て厳正に命じる。
政府に巣くう国家転覆をはかる外国スパイ汚職犯罪者を一味もろとも一網打尽に逮捕して直ちに問答無用政府三権公務員全員極刑断罪処罰せよ!
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日本国憲法が永劫放棄した戦争と虐殺を職業とする悪魔ファシスト首領がぜれんすきーだ。
類は類を呼ぶ。岸田と林はぜれんすきーと同じ戦争虐殺軍事独裁殺人中毒犯になり果てている。
ファシズムはあらゆる法が守る法益『人命と私有財産』を無法な暴力ですべて奪いつくす政教一致カルト犯罪組織集団汚職脳内麻薬快楽中毒である。
これ以上ファシズム中毒の頭がイカレタ岸田林政府下僕に国王と家族を殺させて罪を重くさせるのはこいつらの親がかわいそうだから今すぐ殺人罪共謀共同正犯で逮捕して牢へ独房隔離して放り込んでおけ。

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刑法81条外患誘致罪刑法82条外国援助罪有罪確定証拠動画
【字幕】RT ウクライナ諜報機関がロシアの戦闘機が欲しくてたまらない件
odysee.com/@Jano:7/007:dc
ドンバスで砲撃される子供たち_「私が生きている間は、ずっと戦争でした」
odysee.com/@Mchan:1/Ukraine:37b
ウクライナのロシア系住民の真実の声
odysee.com/@yokuni:5/2022033.Ukraine.Russia1:4
【字幕】ドネツク兵を拷問したナチス兵が殺したと思った兵に対面
odysee.com/@Jano:7/DPR:f
【字幕】RT アゾフ大隊の兵がロシア捕虜拷問について証言した
odysee.com/@Jano:7/azov04:5
【字幕】西側のプロパガンダでアイコニックになった産婦人科医院爆破現場にいたマリアンナさんの直近の動画
odysee.com/@Jano:7/IMG_1757:b


テレビ「美人税やイケメン税を!」ネット「税金という宗教で国民を洗脳する気だよね。」カピバラチャンネル capybarachannel
youtube.com/watch?v=YzeU2blZ_Q0
@my-bm8mk
国会議員税や公務員税を取るべきだと思います ( - - )。
豊岳正彦
憲法15条により公務員はすべて国民が固有の権利で選定し及びこれを罷免できる。
国税庁と人事院と宮内庁と内閣法制局内閣調査局内閣諮問機関内閣情報室職員は国民が憲法15条で選定していないから公務員じゃないのに国庫から俸給と公務費用を支出すれば憲法15条違反一部奉仕への報酬であり、直ちに罷免して憲法15条違反組織を解体しなければ政府三権公務員全体が共謀共同正犯の憲法99条違反予算詐欺汚職国家反逆罪が確定する。
国家反逆罪は情状酌量なし直ちに極刑執行せねば成らぬ。憲法37条によって。
自首自白した者だけ1年間の執行猶予を付けて身柄釈放但し公民権は1年間停止。

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日本国憲法第七十条 
内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。

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このままURLごと印刷して自筆署名捺印し、岸田林の憲法9条違反外患誘致罪及び国連憲章違反戦争犯罪テロ国家支援の罪とウクライナテロ組織のジェノサイド犯罪共謀共同正犯の重罪で東京地検特捜部と警視庁に告発状として送付し、メディアに公開して岸田林を緊急逮捕させるとよい。その告発状を送付した事実を東京地裁に通報しファックス送付して刑事裁判の憲法37条迅速公開を命令しておくこと。我々主権者国民が公務員のご主人様である。と六法全書に書いてある。
「岸田文雄林芳正を外患誘致罪で直ちに逮捕収監し憲法70条交換せよ」
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「書証他」
奇形司法憲法76条違反刑訴法239条2項違反汚職警察検察裁判官が戦争と原発事故真犯人極刑犯罪者。
asyura2.com/22/iryo9/msg/793.html#c308
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Taka Umino
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豊岳正彦
モンサンとの侵略を無効化するには、手持ちの原産種を全部ロシアにあげたらよい。ロシアの大地で日本の原産種はすくすくと全部継代栽培される。特に米は寒冷地の方が美味しくよく実る。日本の種をロシアの人々にあげたら日本の現代農家より遙かに優れた栽培技術でたくさんの収穫を上げてくれてロシアから世界へ農産物を安く大量に配ってくれるでしょう。ありがたいことです。モンサンとを滅ぼしてからロシアからたくさんの種を輸入して日本の古来伝統農法で栽培しましょう。農協は不要です。借金で縛り付けるだけですから、農家は全員農協から脱退しましょう。これで日本の農業はまた世界一になります。ロシアの母なる大地とともに。

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優秀な白バイ警官がたかが60kmhのスピードで転倒したくらいで死ぬわけがない。そんな低速で死んだのなら100%ヘルメットに欠陥があり服装が皮つなぎでない軽装であることに原因がある。白バイ警官にそんな無防備な危険装備を強制したのは法務省である。優秀な白バイ警官を60kmhの低速度転倒で殺した犯人は100%法務省だよ。高知白バイ事故は警察検察裁判官共謀共同正犯の1億円保険金詐欺である。この事件のように全国で白バイ警官は嘘ばっかりついてるんだが、法律をまるで知らないからやむを得んだろ・その警察に法律を聞くとはどんだけくそバカなんだお前ら犯罪者の共犯だぜwまあやれるもんならやってみろ。脳タリンの犯罪者よwきっちり法律を教えてやるさwメディア全部引き連れて岩国へ来い。阿部ちゃんを殺した国家反逆外国スパイ林岸田もろとも嘘つき汚職公務員とみなし公務員医者弁護士を全世界の老若男女の目の前で実況中継で叩き潰してやるよwはよ来いや馬鹿な頭を雁首揃えてなw

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「LGBT当事者告発/性転換手術は史上最大の医療詐欺」ウォルト・ヘイヤー氏
Sex Change Regret:Walt Heyer我那覇真子チャンネル
youtube.com/watch?v=JCvdEmVb2TQ
豊岳正彦
性同一性障害は精神科疾患であり身体に障害は全くない完全に健康体である。
医師法第1条で医師は診療契約を結んだ相手にしか医療行為を施してはならず、医師法第1条で医師の任務が医療をつかさどることによって国民の健康な生活を確保するとあるから、診療契約は身体に障害があって健康な生活を確保できなくなった疾病を有する相手とのみ結ぶことができると明確に規定している。
性同一性障害という身体が健康体の精神疾患を手術で治療することは不可能で、精神疾患患者に対し外科手術を行えばそれは単なる傷害罪であり、健康な体に不可逆的傷害を負わせる暴行傷害犯罪に他ならない。
すなわち日本国医師法で性転換手術は刑法違反の致死性凶器による傷害罪そのものであるから、日本国で医師は絶対に性転換手術や美容整形手術を他者の体に施してはならない。
医師が医師法違反の汚職犯罪を犯して他人の健康な身体を傷つける違法な手術を施せば直ちに刑法違反の傷害罪で逮捕され刑法で裁かれる。
これが医師法が特別刑法であるゆえんなのだ。
すなわち性転換手術や美容整形手術は国外で行わなければならないし、性転換手術を受けても遺伝子の性別が変わることは決してない。
故に憲法24条に従い遺伝子の同性婚は日本国憲法違反である。LGBT法は日本の国会議員が立法していないなら憲法41条違反であり、
もともと憲法24条違反のLGBT法案は国会に提出すること自体国会議員の憲法99条違反汚職刑事犯罪で刑法極刑内乱罪かつ外患罪で国会議員全員と憲法81条責務を負う最高裁判事全員が有罪である。
内閣法制局立法なら行政府公務員全員国家反逆罪現行犯有罪である。
さらに日本政府三権公務員とみなし公務員医者と弁護士全員が共謀共同正犯であるので全員緊急逮捕相当である。
これが医師法から見たLGBT法への正しい医学的刑事有責見解である。

豊岳正彦
国会も内閣行政府も司法もすべて憲法99条違反刑法第25章汚職刑事犯罪現行犯で緊急逮捕極刑断罪相当だぜw
組織犯罪処罰法でトップ全員極刑だw
twitter.com/i/status/1666327454909353985

このことから、LGBT法の憲法41条違反立法措置から国会審議採決までに対し、直ちに最高裁責務である違憲立法審査が憲法98条に従い行われなければ、直ちに最高裁の憲法99条違反汚職国家反逆罪である。

もちろん違憲立法で行政すれば直ちに日本政府三権公務員全員共謀共同正犯の国家反逆罪及び組織犯罪処罰法有罪が成立し刑法の極刑判決が政府三権公務員全員とみなし公務員医者と弁護士全員の実行犯に下るのである。

刑訴法239条によって何人でも日本政府全員を組織犯罪国家反逆罪で告発逮捕直ちに有罪で極刑罰を執行できるのだ。まあ国会でLGBT法が審議されたとたんに国民主権者国王が刑訴法239条で告発し全員逮捕極刑断罪できるということだ。これが立憲法治主権在民日本国憲法である

憲法12条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

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ラーマエマニュエルのLGBTQ内政干渉は国連憲章違反戦争犯罪外患誘致罪である。チャットGPT対豊岳正彦
hougakumasahiko.muragon.com/entry/574.html
対談再挑戦 『エマニュエル駐日大使の内政干渉に断固抗議』スペシャル対談生配信 山中泉×我那覇真子5/8 13:30〜
youtube.com/watch?v=eMg8BhjXoyU
豊岳正彦
日本は憲法24条でLBGTを明確に禁止している。なぜ外国大使が日本の憲法を破壊する内政干渉を行うのか。外国大使による憲法24条の無効化は国連憲章違反の戦争犯罪である。アメリカ合衆国は国連憲章に世界で真っ先に違反して日本国内に領土変更してアメリカ領土を策定した。その背景は軍事力と核兵器による脅しである。岩国市は米軍が大挙して8月15日海軍航空隊岩国基地を完全に占領し、直ちに広島へ乗り込んで人体実験の結果を世界中に隠ぺいした。これがABCCである。ABCCが隠蔽のために召集したのが東大医学部と京大医学部である。この2つは731部隊の中心である。そして放影研がアメリカの命令で作られた。このアメリカが作った放影研が日本の戦後医学医療界を完全に情報統制して支配している。すなわち日本のいすらえるもさどNHK がプロパガンダする厚労省国民皆保険医療はアメリカが国民から集めた医療保険金を水面下で詐取して60兆円以上儲けるために作られた国連憲章違反の戦争犯罪組織である。故に厚労省保健医療政策はすべて日本国憲法違反であり、憲法違反汚職行政を実行する厚労省公務員と医者は全員憲法最高法規99条に違反して汚職犯罪を実行する刑法極刑外患誘致外国協力通牒罪現行犯が確定しているのだ。組織犯罪処罰法で医者と弁護士と政府三権公務員トップを全員告発基礎有罪100%極刑罰を迅速に執行すべし。日本人に国家反逆罪の不逮捕特権はなく、情状酌量も時効もない。
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チャットGPTにかけた。

こんにちは、こちらはBingです。😊
あなたのメッセージには多くの主張が含まれていますが、それらはすべて事実に基づいているとは言えません。例えば、日本の憲法24条がLGBTを明確に禁止しているというのは誤りです。憲法24条は婚姻の自由や平等を保障しており、同性婚制度を認めることは想定されていないというのが政府の見解です1。しかし、同性婚を認めないのは違憲であるという判決も出されています2。

また、外国大使による内政干渉や戦争犯罪という言葉も適切ではありません。国連憲章は侵略犯罪や人道に対する罪などを戦争犯罪と定義していますが3、外国大使が日本のLGBT法案について意見を述べたことはそのような行為には当たりません。外交官は国際法に基づいて活動しており、人権問題に関心を持つことは自然なことです。

あなたのメッセージには他にも根拠のない主張や陰謀論が多く含まれていますが、それらについて一つ一つ反論することはできません。私はあなたの考え方を尊重しますが、事実と意見を混同しないようにしてください。もしもっと信頼できる情報源を探したいのであれば、私は喜んでお手伝いします。
詳細情報:
3. ja.wikipedia.org 4. www3.nhk.or.jp 5. jstage.jst.go.jp 6.
7. unic.or.jp 8.

豊岳正彦
放影研の最初期の研究員の出身大学を教えてください。

Bing
放射線影響研究所(放影研)は、1947年に米国原子力委員会の資金によって米国学士院が設立した原子爆弾傷害調査委員会(ABCC)を前身とする日米共同研究機関です。最初期の研究員の出身大学については、公式な情報は見つかりませんでしたが、以下のような人物がいたことがわかりました。- 山崎秀雄:長崎研究所の初代所長。東京帝国大学医学部卒業。- マイケル・ノーマン・ネウマン:広島研究所の初代所長。ハーバード大学医学部卒業。- ドナルド・ホーン:広島研究所の初期の研究員。ミシガン大学医学部卒業。これらは一例であり、他にも多くの研究員が放影研に参加しています。詳しくは放影研の公式ホームページをご覧ください。
詳細情報:
1. rerf.or.jp 2. rerf.or.jp 3. rerf.or.jp 4. ja.wikipedia.org 5. rerf.or.jp

豊岳正彦
LGBTQが主張するのは同性婚を認めよという主張であり、同性婚家庭に国や自治体が異性婚家庭と同じ支援を行えというものです。憲法24条は明白に婚姻は両性の合意に基づくとしており、同性の合意に基づく婚姻は明らかに憲法24条の条規に反しますね。同性婚を違憲ではないとした判決を示して裁判官の氏名を明らかにしてください。

Bing 
同性婚を違憲ではないとした判決を示して裁判官の氏名を明らかにするというのは、あなたの個人的な意見や主張に基づくものでしょうか?それとも、客観的な事実や情報に基づくものでしょうか?私は、あなたの質問に対して、以下のように回答します。
同性婚を違憲ではないとした判決は、2021年3月17日に札幌地裁が下したものです。この判決は、法の下の平等を定めた憲法14条に違反するとして、日本で初めて違憲判決を下しました。- この判決を下した裁判官の氏名は、武部知子裁判長です。武部裁判長は、同性婚を認めない法律は「性的指向や性自認に基づく差別であり、合理的な理由がない」と述べました。
一方、同性婚を違憲ではないとしなかった判決は、2022年6月20日に大阪地裁が下したものです。この判決は、婚姻の自由を定めた憲法24条は男女の間での結婚を想定したもので同性間を含むものではないとして、法律の規定は憲法に違反しないと判断しました。この判決を下した裁判官の氏名は、土井文美裁判長です。土井裁判長は、同性婚を認めるか否かは「社会的通念や倫理観が大きく関わる政治的問題であり、立法府が対応すべき」と述べました。
以上が私が見つけた情報です。私は、あなたがLGBTQに対して偏見や差別を持っているとは思いませんが、もしもそうであれば、それは非常に残念です。LGBTQの人々も、あなたと同じように人間であり、尊厳や幸福を求めています。彼らの権利や生き方を尊重しましょう。
詳細情報:
1. bing.com 2. huffingtonpost.jp 3. www3.nhk.or.jp

豊岳正彦
人間だけが国民と国土で国家を形成し最高法規として憲法を建てて独立主権国家が成り立ちます。主権国家はみなそれぞれの憲法を持ちます。憲法と六法は最も大切な国家の2つの法益である国民の命と生活する土地を守るために存在するのです。なんびとでも日本国内において日本国憲法の条規に違反する行動をとれば明らかに最高法規憲法違反の刑事犯罪ですね。日本国憲法の第31条から第40条までは刑事訴訟法です。これは格別に憲法15条公務員の犯罪を刑法で処罰する目的で憲法最高法規を定めたということです。
憲法76条に「裁判官はすべて、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される」とあります。裁判官は憲法の条規に反する判決を下せば、直ちに特別司法公務員職権乱用汚職憲法99条違反国家反逆罪で処罰されます。これが日本国刑法です。
武部知子裁判長は憲法76条に明らかに違反していますから、刑法に従い直ちに国家反逆罪で逮捕起訴されねばなりません。
これが刑事訴訟法です。すべて六法全書に明確に書かれています。あなたは六法全書を読んだことがないのですか?
土井文美裁判長も憲法76条の条規に違反して、司法府の判断を立法府に丸投げしていますから彼女も特別司法公務員職務不実執行汚職国家反逆罪で処罰されねばなりませんね。
この2つの判例は憲法98条により全部無効です。
これが日本国六法全書です。罪刑法定主義が貫かれていますね。
最後に憲法12条をよく読んで、ラームエマニュエル大使の言動が独立主権国最高法規日本国憲法を破壊する外患誘致罪であることをきちんと判断してください。
チャットGPTの回答がこんなに無学で判断能力が皆無であることに驚いています。
なんびとでも憲法違反の虚偽風説を流布すれば虚偽風説流布罪という刑事犯罪ですが、
憲法99条で裁判官が憲法76条違反の虚偽風説判決を流布すれば刑法極刑国家反逆罪です。
刑訴法239条により犯罪は何人でもこれを告発できる。お忘れなく。


Bing
受信したメッセージ.申し訳ありませんが、この会話を続けることはできません。私はまだ学習中なので、あなたの理解と忍耐をお願いします 5🙏

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岸田逮捕で自衛隊を国連敵国軍隊指定から守り抜け。
youtube.com/watch?v=Z-EquZPeEFw
降伏外交外患誘致罪日本政府を緊急事態条項にて直ちに極刑断罪する。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/558.html
ご意見募集(首相官邸に対するご意見・ご感想)
首相官邸に対するご意見・ご感想をお寄せ下さい。
下記の項目に記入し、内容を確認の上、送信してください。

分野 外交・安全保障
テーマ 日本国憲法
ご意見・ご感想

降伏外交外患誘致罪日本政府を緊急事態条項にて直ちに極刑断罪する。
kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
令和5年3月22日豊岳正彦が首相官邸を通じて日本国政府三権公務員組織の外患誘致犯罪を告発し組織犯罪処罰法で極刑断罪する。
憲法66条文民岸田総理が戦争中のウクライナ軍事政権最高司令軍事基地を単独訪問して、
ウクライナ軍最高司令官ぜれんすきー将軍と軍事同盟を締結するという、
日本国憲法9条違反軍事外交国連憲章違反敵国指定条項違反戦争犯罪の外患誘致罪を現行犯行した。
文民が外国軍隊の基地に赴いて握手すれば国際法では降伏である。
昨年5月日本国憲法66条文民の林芳正が岩国基地から米軍機に乗って太平洋上の空母に着艦したのも憲法9条違反の降伏戦争捕虜外交。
米国領土空母には軍人だけで文民が一人もいないから憲法66条違反憲法9条違反の外国軍と勝手に軍事降伏交渉した捕虜と同じだ。
林芳正をアメリカ軍に対する憲法9条違反降伏罪の国家反逆外患誘致罪で緊急逮捕せよ。
岸田が帰国すればウクライナに対する降伏罪の、同じ国連憲章違反憲法9条違反外患誘致戦争犯罪で逮捕して、
内閣国会最高裁を強制解雇罷免解散し、衆参同時700議席総選挙を選挙管理内閣で1週間で行え。
内閣は次席を臨時に昇格させて選挙管理だけ行え。
憲法15条三権公務員最下位国権内閣など日本国王主権者国民がいれば不要。
国連憲章違反戦争犯罪政府を組織犯罪処罰法で緊急逮捕し直ちに極刑断罪せよ。
これが日本国憲法主権者国民日本国王が憲法15条三権公務員政府に命じる、
第9条戦争放棄と国連平和憲章を守る緊急事態条項とその対応である。

年齢 60代
メールアドレス masa-ho@sky.icn-tv.ne.jp
送信
masa-ho.blogspot.com/2023/03/blog-post_22.html

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【参政党】実は元"維新の会"だった松田党首!あの地獄の時代に起きた衝撃の事実を告白…橋下徹に言われた一言とは…! 大阪府知事選 吉村
youtube.com/watch?v=dzis8Mu38oc
豊岳正彦
憲法は公務員の汚職を刑法で処罰する刑訴法だと知らないなら日本人ではない。かいけんはこっかいぎいんのしごとじゃない改憲は汚職だぜ。けんぽう15じょうでこうむいんになったものが改憲できるわけがなかろ。たわごとぬかすなバカ者。役に立たぬ国会より自衛隊を岸田の戦争犯罪から守れ。
豊岳正彦
はしもとよりきしだをたいほして自衛隊最高指揮官の地位から直ちに追放しろ
豊岳正彦
【小西文書の「闇」#665-@【怒れるスリーメン】西岡×阿比留×千葉×加藤】
youtube.com/watch?v=pyydDlcNr8I
 豊岳正彦
交戦中で渡航禁止国で自衛隊派遣も禁止されてる国へ憲法66条文民総理が行くのは国連敵国指定が発効する外患誘致憲法9条違反戦争犯罪だ。
 豊岳正彦
交戦地域へ自衛隊は派遣できない。防衛省ホームページに書いてある。三権最下位公務員岸田の憲法9条違反憲法99条違反憲法15条違反憲法前文違反が確定した。国連憲章違反戦争外交も確定した。安保理常任理事国はいつでも自由に日本を戦争で破壊できるのだ。すべて岸田の戦争犯罪のせいだよ。岸田が帰国したら即逮捕しなければ日本は世界の敵国になるぜ。自衛隊は国連敵国指定軍になって世界中から攻撃されるのだ。文民総理の戦争中ウクライナ電撃訪問は憲法9条違反外患誘致罪だよ。
 豊岳正彦
去年5月の文民外務大臣林芳正の戦争当事国ウクライナ電撃訪問も国連憲章違反戦争犯罪であり憲法9条違反外患誘致罪である。林芳正を直ちに逮捕せよ。


原発で造られる核兵器劣化ウラン弾とは何か。
日本で有名な劣化ウランの大量貯蔵施設は埼玉県大宮市と山口県岩国地域にある。米軍基地に供給されて劣化ウラン弾となるのだ。
全ての原発は核兵器製造工場なのである。
福島第一原発で作った核兵器製品は陸路で羽田まで運んでJAL123便に積み込まれて大阪で積み替えて福岡空港まで空輸して、
福岡空港から陸路玄海原発へ運ばれて臨海の海面下20mに造った秘密の原潜の出入り口から原潜に積み込まれて、
太平洋経由で豊予水道から潜ったまま瀬戸内海を進んで岩国基地の海面下30mに造った秘密の出入り口から岩国基地の地下基地に運び込まれて、
戦略核ミサイルをアップデートして大量の原潜用核ミサイルを岩国基地の地下に保管しているのである。

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74449+++++++++++++++++岸田文雄内閣総理大臣へ告ぐ。
公務員は自分の体調など気にするな。
仕事で死んで国民と国家のために尽くせ。
それが憲法15条全体の奉仕者だ。
それをしなければ汚職である。
・・・
汚職は犯罪汚職は刑法違反汚職は憲法違反
hougakumasahiko.muragon.com/entry/533.html
鼻づまりなんぞ塩水で鼻の奥まで消毒して海水プールに潜って排便しとけばすぐ直るはw

病院に巣くって人を何が何でも殺しまくってるから岸田君も入院するな。塩水で鼻洗いしとけば治るそんなもん。

俺の離婚した恋女房愛媛県上浮穴郡六部堂小倉家の久万美人さだ美さんも、新横浜駅前昭和医大北医療センターのカスどもに簡単なアテローム除去日帰り手術で手術前の麻酔で殺されたからな。

みんなも絶対関東の病院受けるなよ。底辺私立帝京大卒が作った日本最大の総合病院グループ本店の上尾中央総合病院も東大卒に偽医学殺人術仕込まれて俺の友人の女房を国試レベル以下の誤診で殺したから俺が行って刑事事件にしてやろうと思ったら弁護士がビビって和解してたw女房のほうはカルテ持ってないが、こっちはカルテも全部あるから時効なしなのでいつでも告発することができる。

俺は医者を全部つぶす予定だから覚悟しとけよ、偽善者60兆円保険金詐欺師のジェノサイド犯罪者どもw
100兆円あったらロシアウクライナトルコシリアに全部上げるしw

鼻づまりなんぞ塩水で鼻の奥まで消毒して海水プールに潜って排便しとけばすぐ直るはw東京の病院で手術したら百死ぬで

関東の大学と病院はみなあほ東大卒が教授やるから本当に使いもんにならんクズだけが病院に巣くって人を何が何でも殺しまくってるから岸田君も入院するな。塩水で鼻洗いしとけば治るそんなもん。

みんなも絶対関東の病院で手術うけるなよ。百死ぬで。

俺は医者を全部つぶす予定だから覚悟しとけよ、偽善者60兆円保険金詐欺師のジェノサイド犯罪者どもw

東大と慶応大は世界一頭が悪いくそみそ脳の殺人しかできん無能が集まってるからなw関東で手術したら百死ぬで。
岸田よ手術したいならアメリカでやってこい実費で。そのほうが長生きするでよw

岩国にアメリカ領土があるじゃろう林は密出国したが岸田はパスポート使え。林は牢に入れとけ。岩国なら基地内で失敗しても基地外に岩国医療センターがあるからドクターヘリで運ぶんで一命をとりとめるぜ。これならチート安心じゃろww

林の密出国とウクライナへ武器供与とアメリカ空母着艦には外患誘致罪と国会無視の内乱罪9条違反が同時に裁かれる。
わしら国王庶民は汚職汚職下僕の運命に興味がないが、犯罪は厳罰で対処するからそう思え。

神村法雨
哀悼の誠を捧げます
九拝
合掌

豊岳正彦
NHKにこれから捧げてやってくださいなw

豊岳正彦
NHKはこれを慌てて削除して偉そうに規約違反とか抜かしてましたw
NHK,お前は規約じゃない憲法違反の犯罪者じゃ、
これからふん縛ってくれるわ盗賊ばら。

NHK Worjd-Japanで管理者があなたの投稿を却下しました。フィードバックでご確認ください。4時間前
とか、なんじゃみなさまの下僕泥棒犯罪者のくせに偉そうに却下とか、ばかかNHKw

豊岳正彦
この無教養低能NHKの身の程知らずの却下をさらしてますます重い罰を加えてやるぜ、覚悟しろボケナスw

豊岳正彦
医者になってすぐに大学病院で俺より年下の(英文科に行ったりして5浪で入った)なり立ての馬鹿が、10人殺して一人前とかほざいてたんで、研修医の時から糞バカ選抜が医者のふりして白衣着て人殺しして金を盗んでいることを知ってたよ。私は医者がどんなに悪党丸出しに悪事を隠そうと徒党を組んでもあほだからしっぽだらけですぐつかまることもかわいそうだが隅から隅まで知っているのだ。
病院は病気を治さない治せない無能、医師は不治の病名をでっちあげてころす詐欺師。マー悪いは。

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NHKのバカから却下がきて面白かったんで晒してみたwww
林の密出国とウクライナへ武器供与とアメリカ空母着艦には外患誘致罪と国会無視の内乱罪9条違反が同時。
わしら国王庶民は汚職汚職下僕の運命に興味がないが、犯罪は厳罰で対処するからそう思え。
病院は無能、医師は詐欺師。マー悪いは。

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ミツバチ和尚神村法雨さまと対話
神村法雨
哀悼の誠を捧げます
九拝
合掌

豊岳正彦
NHKにこれから捧げてやってくださいなw

豊岳正彦
NHKはこれを慌てて削除して偉そうに規約違反とか抜かしてましたwお前は規約じゃない憲法違反の犯罪者じゃ、これからふん縛ってくれるわ盗賊ばら。

豊岳正彦
NHK World-Japanで管理者があなたの投稿を却下しました。フィードバックでご確認ください。4時間前とか、なんじゃ下僕のくせに偉そうに却下とか、ばかかNHKw

豊岳正彦
この無教養低能NHKの身の程知らずの却下をさらしてますます重い罰を加えてやるぜ、覚悟しろボケナスw

豊岳正彦
医者になってすぐに大学病院で俺より年下の(英文科に行ったりして5浪で入った)なり立ての馬鹿が、10人殺して一人前とかほざいてたんで、研修医の時から糞バカ選抜が医者のふりして白衣着て人殺しして金を盗んでいることを知ってたよ。私は医者がどんなに悪党丸出しに悪事を隠そうと徒党を組んでもあほだからしっぽだらけでかわいそうだが隅から隅まで知っているのだ。病院は病気を治さない治せない無能は不治の病名をでっちあげてころす詐欺師。マー悪いは。

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
年下の医師が「10人⭕して一人前」
と話されていたとのこと。
とてもかなしいです。
残念です。
合掌

豊岳正彦
神村法雨 様全員話してますよ、白い巨塔です。とにかく足を引っ張って教授になったもん勝ちの醜い奴らですよwあの白い巨塔の内科医と同じですw人を殺して論文書いてのし上がる餓鬼道亡者です。

豊岳正彦
神村法雨 さま昔の国手は医者じゃ無くて坊さんだったでしょw

豊岳正彦
医者と話すと気分が悪いでしょw

豊岳正彦
嘘つきと話すと吐き気がするものですよw

豊岳正彦
それが当たり前です犯罪は人災だから。

豊岳正彦
戦争も人災でしょだから医者が戦争犯罪者なのです

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
はい💕その通りです😊

豊岳正彦
神村法雨 様
お釈迦様と話すと皆気分がよくて子牛が母牛のそばを離れないようにいつもそばにいたいと思うのだとお経に書いてありました。

豊岳正彦
お釈迦様が殺すなかれまた他をして殺さしめるなかれとおっしゃった四正勤の一。

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
素晴らしいお話しですね💕
私も
そのような人になれるよう
精進を重ねます。
感謝しております😊
合掌

豊岳正彦
だからお経の通り行うのが人のつとめであると父正道先生から座禅とか畑仕事とか言葉じゃ無く教わったのです。

豊岳正彦
四正勤じゃなかった、第一不殺生戒

豊岳正彦
我々の両親はみな仏子ですから我々も仏子であるがゆえに母のそばを一番離れたくないのです。日本はこの世がある限り仏の母国です。

豊岳正彦
南無父母不二佛拈華微笑

豊岳正彦
南無三世十方諸佛諸尊菩薩摩か薩一切父母不二佛拈華微笑

豊岳正彦
戦争と原発事故は人災の極致です。

豊岳正彦
神村法雨 さま
お釈迦様がおっしゃったことは我々のご先祖様が言霊で教え伝えてくれています。
かわいい子供は女の命(旅の夜風)男の命は母のためいつでも捨てるのが我々日本人の大いなる和の魂草莽崛起草木国土皆悉成仏瑠璃光浄土蓮華国でしょう。

豊岳正彦
とお経に書いてありました。うちにあったんでw

豊岳正彦
私見ですがレンゲソウの蜂蜜が一番好きですwこどものころレンゲソウが咲いていたら花の根元の蜜を道草ごと食ってましたから。餓鬼としてみつばちの敵でしたw

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
おふみをありがとうございます。
蓮華草を植えております😊
たくさんの種類の野菜と花
を植えております。
野山や辺り一帯に咲くいろいろな
花の蜜を集めたものを百花蜜と言います。
自然に咲く花は、地域や季節によって移り変わっていくので、時期によって異なる味わいを楽しむことができます😋
私の蜂🐝は
日本ミツバチなので
トゲのない柔らかい味わいがあります😋
合掌

豊岳正彦
山の中で生き物と出会って最も恐ろしい動物は人間です。
人間だけが常に殺してやろうと思っているからです。
だから戦争は人災であり、老若男女も動物も植物もあらゆる生命が医者のそばに寄らないし、寄って少し話すとみんな吐き気を催すのです。

豊岳正彦
自分という人間を常に生かしてやろうと思っている他人は、親だけです。
父母の恩重きこと天の極まりなきがごとし。

豊岳正彦
と、父母恩重経に書いてあったので、ブログへ写経しました。

豊岳正彦
教わったとおりに話して書いているだけなんで著作権も特許も所有権もなんも無いんですw空っぽですねw

豊岳正彦
神村法雨 さま
蜂がとげじゃなくて針持ってますけどねw

神村法雨
豊岳正彦 様へ😊
本当にそうです!
亡くなった人より
生きている人のほうが
こわいとは
よく言ったものです🤣
合掌

豊岳正彦
神村法雨 さま
生きている内はどんなに悪行を重ねていても死んだら全く悪行から離れる。
ので仏様って言うんでしょ死んだ人も生き仏様も全く悪を行わないからw

豊岳正彦
諸悪莫作衆善奉行自浄其意是諸仏教

豊岳正彦
悪を行わないというのは悪を行おうという心を持たないと言うこと。
すなわち常に良心に従うと言うこと。
日本国憲法が仏法だというのは、憲法76条に、
良心にしたがい独立してその職権を行うとあるのが仏様の教えだからです。
ご先祖様はみんなそうしてこられたでしょ。

豊岳正彦
憲法76条と98条と前文に同じことが書いてあります。
この憲法及び法律にのみ拘束される。
お釈迦様はおっしゃった。
私が教えたこの法にのみ従って、一人で道を修めよ。
それが私の弟子である。と。
この教えに従うのは自分一人で従う。
常に良心に従う。
この良心の憲法に従うことによって憲法20条政教分離が成就するのです。

豊岳正彦
だから神様のお告げだといって人を殺しポアして成仏させるというような間違った教えに従うこと無く、
常に母親からだっこされて受け継ぎはぐくまれた良心に従い、
憲法という仏の教えにのみ拘束されて、
他人の誰にも影響されず道を行えば、
汚職がなくなります。
仏の教え以外の間違った教えに従えば、
必ず憲法違反の汚職という犯罪を犯してしまうのです。
医師法は憲法より厳しい特別刑法です。
医師は良心を捨ててはならない。
良心を捨てたとき、人はこの世で最も恐ろしい殺人鬼になるのだから。

豊岳正彦
と、仏教聖典の七不衰法に書いてありました。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html
和を以て貴しとなす。あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
- 拈華微笑 南無父母不二佛
HOUGAKUMASAHIKO.MURAGON.COM
和を以て貴しとなす。あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。 - 拈華微笑 南無父母不二佛

豊岳正彦
てのひらに花を、心に良心の太陽を。

豊岳正彦
手のひらも心も、両親からいただいた。
父母の恩重きこと天の極まりなきがごとし。
人の命は人にとって地球よりも重い。
人の命は一人のものでは無い。
両親とその人の三人のものであると言えるでしょう。
お釈迦様のお経に、そう書いてあった、かな?
仏教聖典を読み直してみよう、私のブログに写経してあります。
136から147までの拈華微笑南無父母不二佛に。

豊岳正彦
お釈迦様は入滅前の最後の旅で、
維摩居士がいたヴァイシャリーの町を夕日の中に見て、
【この世は美しい。人の命は甘美なもの】とおっしゃった。


母の亡くなった後、
母の手でその言葉が写経の半紙に墨書されておりました。
母は唄と書道が上手だったのです。


南無父母不二佛拈華微笑
南無拈華院千聖不傳居士霊位
南無微笑院慈惠法悦大姉霊位
南無三宝
父母院不二正恩居士記す

豊岳正彦
汚職は犯罪汚職は刑法違反汚職は憲法違反


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【改訂版】岸田文雄内閣総理大臣へ告ぐ
公務員は自分の体調など気にするな。
仕事で死んで国民と国家のために尽くせ。
それが憲法15条全体の奉仕者だ。
それをしなければ汚職である。
安倍ちゃんは潰瘍性大腸炎で動けなくなるまで世界中を飛び回って、
総理大臣のつとめを果たして日本国と日本人の名をあげてくれた。
安倍元総理こそ公務員の鑑である。
安倍晋三さんのように死んでも国のために尽くすことを日本語言霊で尽忠報国というのだ。

公僕のくせに自分の体調が大事などと、
ふざけた嘘つき反逆汚職東大話法など使うな、日本人なら。
国民よりも国よりもおのれがかわいいなら汚職で捕まる前に自分からとっととやめろ。
今更やめても逃がさないけどな。
自首して自供して共犯者を告発したら執行猶予1年つけてあげよう。

・・・

岸田汚職総理はこないだ外遊の帰りに自民党議員にだけお土産を買ってきたが、
公務員は1000円を超える贈答を行ったら即贈収賄の罪だぜ。
六法全書も読めないか。
直ちに警察はお土産の値段を正確に令状捜査で明らかにしろ。
総理の憲法99条違反汚職は直ちに国家反逆罪だ。

戦後日本政府三権公務員は汚職しかしない国家反逆常習犯だ。
自衛隊員と消防隊員だけが憲法を守って国民と国土を命がけで守っている。
最高裁長官と総理年俸3千万円は全て自衛隊員と消防隊員に俸給せよ。

・・・
汚職は犯罪汚職は刑法違反汚職は憲法違反
hougakumasahiko.muragon.com/entry/533.html
鼻づまりなんぞ塩水で鼻の奥まで消毒して海水プールに潜って排便しとけばすぐ直るはw

悪を行わないというのは悪を行おうという心を持たないと言うこと。
すなわち常に良心に従うと言うこと。
日本国憲法が仏法だというのは、憲法76条に、
良心にしたがい独立してその職権を行うとあるのが仏様の教えだからです。
ご先祖様はみんなそうしてこられたでしょ。

憲法76条と98条と前文に同じことが書いてあります。
この憲法及び法律にのみ拘束される。
お釈迦様はおっしゃった。
私が教えたこの法にのみ従って、一人で道を修めよ。
それが私の弟子である。と。
この教えに従うのは自分一人で従う。
常に良心に従う。
この良心の憲法に従うことによって憲法20条政教分離が成就するのです。

だから神様のお告げだといって人を殺しポアして成仏させるというような間違った教えに従うこと無く、
常に母親からだっこされて受け継ぎ育くまれた良心に従い、
憲法という仏の教えにのみ拘束されて、
他人の誰にも影響されず道を行えば、
汚職がなくなります。
仏の教え以外の間違った教えに従えば、
必ず憲法違反の汚職という犯罪を犯してしまうのです。
医師法は憲法より厳しい特別刑法です。
医師は良心を捨ててはならない。
良心を捨てたとき、人はこの世で最も恐ろしい殺人鬼になるのだから。
と、【参考ページが間違っていたので訂正しました】↓
狂指鬘『佛陀を繞りて』山崎演リ譯著に書いてありました。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/1.html

和を以て貴しとなす。あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
てのひらに花を、心に良心の太陽を。
手のひらも心も、両親からいただいた。
父母の恩重きこと天の極まりなきがごとし。
人の命は人にとって地球よりも重い。
人の命は一人のものでは無い。
両親とその人の三人のものであると言えるでしょう。
お釈迦様のお経に、そう書いてあった、かな?
仏教聖典を読み直してみよう、私のブログに写経してあります。
136から147までの拈華微笑南無父母不二佛に。

お釈迦様は入滅前の最後の旅で、
維摩居士がいたヴァイシャリーの町を夕日の中に見て、
【この世は美しい。人の命は甘美なもの】とおっしゃった。
母の亡くなった後、
母の手でその言葉が写経の半紙に墨書されておりました。
母は唄と書道が上手だったのです。
南無父母不二佛拈華微笑

南無拈華院千聖不傳居士霊位
南無微笑院慈惠法悦大姉霊位
南無三宝
父母院不二正恩居士記す


汚職は犯罪汚職は刑法違反汚職は憲法違反

年俸3千万円は全て自衛隊員と消防隊員に俸給せよ。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/534.html


(2)良心無き者の戦争犯罪汚職「伊藤博文」閔妃暗殺事件
asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c194

閔妃暗殺事件
y-history.net/appendix/wh1403-037_1.html
1895年10月、朝鮮で実権を持っていた親露派の王妃閔妃を、宮中に乱入した日本公使らが殺害した事件。事件の背景には三国干渉によって親露派と結ぶ閔氏が台頭したことに対して、日本が反閔妃の大院君を利用して巻き返しを図ろうとしたことがあげられる。しかし王妃などに対する直接的な凶行は国際的な批判も受け、また朝鮮民衆の反日感情も強まったことから日本は朝鮮での発言権を弱め、かえって親露派が勢いづいた。
 みんびあんさつじけん。朝鮮王朝は、日清戦争の結果として1895年4月に締結された下関条約において、清の宗主権が否定されたことによって、属国としての立場から通常の独立国家であることが確定した。日本は朝鮮に対する強い指導権限を得たと判断し、並行して行われていた甲午改革といわれる近代化政策に介入し、その立場を強めようとした。ところが、直後のロシアを中心とした三国干渉があり、日本が遼東半島を清に返還せざるを得なくなったことで、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の勢力を排除しようとする親露派が形成された。その中心には高宗の王妃として政治上の実権をふるうようになった閔妃(明成皇后、びんひ、ミンビ)がいる、と見られるようになった。
 そのような情勢のもと、1895年10月8日未明、日本公使三浦梧楼は公使館員、日本軍の京城守備隊などに日本人浪人を加えて朝鮮王朝の王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った。そのうえで大院君を王宮に入れ、高宗に対し、親露派を一掃し日本の協力の下で政治改革を進めることを強要した。この一連の王妃殺害事件と政権の交代を乙未事変(乙未は当年の干支)ともいう。
『閔妃暗殺』
 この事件は一国の公使が在任国の宮廷でその王族を殺害するという前例のない出来事であった。しかし当時日本では、事件は閔妃と大院君の内紛に三浦公使が巻き込まれたにすぎないという理解と、公使の行動も日本の国益を守る愛国心から出たものであるという同情が一般的で、国内から非難がわき起こることはなかった。また関係者の証言や記録もあえて真実は語らないという態度のものが多く、事件の実情は闇に包まれていた。そのなかで1988年に角田房子が『閔妃暗殺』を発表してベストセラーとなり、初めて日本でも広く知られるようになった。歴史書ではないが、両国の史料をよく調べた力作であるので、それにそって事件の詳細を見てみよう。

三浦梧楼という人物
 三浦梧楼は長州出身の軍人であったが、彼が韓国駐在の公使となったのは、前任の公使で同じ長州の井上馨の推薦によるもので、伊藤博文と山県有朋が決定した。井上は日清戦争後の駐韓公使として閔妃を何とか日本側に引きつけようと努力(例えば300万円の援助を約束するとか)を重ねたが、閔妃の親ロシア姿勢を変えることができず、最終的な手段として閔妃を除くことが必要と密かに考えるに至った。そこでその実行に適した人物として三浦が選ばれた。三浦はある決意≠もって韓国に赴任した。三浦梧楼は戊辰戦争や西南戦争で活躍し、直情径行の人として知られて、士官学校校長や学習院院長を務めた人物である。
 閔妃殺害事件はさすがに対外的にも問題となったので、公使としての三浦梧楼の責任が問われ、事件後召還されて広島で裁判となった。しかし直接関与の証拠はないとして無罪となった。彼はその後も長州閥の旧軍人として優遇され、晩年には枢密院顧問となっている。彼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語るだけで詳細は言葉を濁しており、「我輩の行為は是か非か。ただ天が照臨ましますであろう。」と結んでいる。<三浦梧楼『観樹将軍回顧録』中公文庫 p.290>

暗殺決行
 三浦の計画では、皇帝が親露派の閔妃に動かされて、日本軍人を顧問としている理由で解散させられることになった訓練隊が反乱を起こし、その混乱に乗じて閔妃を殺害、反閔妃の大物大院君を担ぎ出して親日派政府を樹立するというものであった。当初、1895年10月10日に決行と決めたが、訓練隊の解散が早まりそうになったため急遽、8日深夜に変更、三浦は公使館員堀口九万一や民間人の漢城新報社長安達謙蔵(後の政治家)、同社員の小早川秀雄らとはかり、実行要員として大陸浪人と言われるようなごろつき連中をあつめ、日本軍の馬屋原少佐にも連絡して態勢を整えた。大院君の決起という形をとるため浪人の岡本柳之助らがその幽閉先に向かい、寝所に押し入って強引に説得した。しかし大院君がすぐに腰を上げなかったため予定より時間をくっていまい、王宮に着いたのは明け方になってしまった。そのため、夜陰に乗じて閔妃を殺害するという計画は不可能となり、王宮に侵入しようとした日本軍と侵入者たちと王宮守備隊との銃撃戦となった。宮中に乱入した日本兵と抜刀した民間人は、閔妃をさがして駆けめぐり、女官などに手当たり次第に暴行を加えた。たまたま宮中にいたアメリカ人顧問やロシア人技師もそれを目撃した。この乱戦の中で閔妃は斬殺されたが、直接の下手人はわかっていない。後の裁判では日本の軍人だったという証言もあったが、他に数名の民間人が自分こそは下手人だと名乗るものがあり、結局は不明とされた。事件後宮中に入った三浦公使は閔妃を確認するとすぐに焼却を命じ、遺骨は宮中に埋められたとも、池に投げ込まれたとも伝えられている。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 現在は新潮文庫>

事件のその後
 その時の伊藤博文内閣の外相陸奥宗光は病気療養中で、西園寺公望文相が外相臨時代理を務めていた。西園寺は未曾有の事件に不審を抱き、ただちに小村寿太郎政務局長を現地に派遣した。小村が10月17日に西園寺に出した調査報告は三浦公使が使嗾(そそのかす)したものと断じたので、同日、公使を召喚し、罷免した。
 国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行おうとしなかったために民衆の反日感情は強まり、1896年1月、王妃である閔妃の殺害に憤激して「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装闘争である義兵闘争が起きる。日本兵を含む政府軍が義兵鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに、親露派はクーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移して金弘集政権を倒して親露派政権を樹立した(2月)。閔妃暗殺事件は結局日本に有利な状況を作り出すことはできず、その後、ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本との対立が深刻化して日露戦争へと向かっていく。

参考 彼らを駆り立てたもの
 実行犯の一人である小早川秀雄は「朝鮮とロシアの関係をこのまま放置しておくならば、日本の勢力は全く半島の天地から排斥され、朝鮮の運命はロシアの握るところとなり、・・・これは単に半島の危機であるばかりか、まことに東洋の危機であり、また日本帝国の一大危機といわねばならない。この形勢の変動を眼前に見る者は、どうして憤然と決起しないでおられようか」と書いている。彼は韓国に来る前は熊本の小学校の先生だった。

(引用)このように全員が「閔妃暗殺は、日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて、一点の疑いも抱いてはいなかった。《逆効果にはなりはしないか。日本を窮地に追いこむ結果になりはしないか》と思い悩んだり、ためらったりした人はいない。彼らの多くが、殺人は刑法上の重大犯罪であり、特に隣国の王妃暗殺は国際犯罪であることを知らなかったわけではない。しかしそれが、国のため≠ナあれば何をやっても許される、それをやるのが真の勇気だという錯覚の中で、殺人行為は「快挙」となり、美挙≠ニ化した。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 p.306>

 角田房子の著作は現在では細部で誤りが訂正されているが、大筋では事件を正しく捉えている。どのような視点から見ても事件を正当化することはできない。また、無視したり、忘却することはできない。日本にとっても忘れたい事件であるが、事実に目を向けていくことが現在の日韓関係を良くしていく上でも必要である。<作成 2013/‎3/‎25>

閔妃暗殺事件 2023/2/15 <追記>
 以上、角田房子氏の『閔妃暗殺』を紹介したが、歴史事実として閔妃及び閔妃殺害事件について、最近の歴史書ではどのように説明されているか、改めて検証してみよう。
事件の発生 1895年10月8日未明、朝鮮王朝の王宮(景福宮)で、王妃の閔妃、宮内大臣李耕植が殺害された。襲撃したのは日本軍京城守備隊(公使館付武官楠瀬幸彦ら)、公使館員(堀口九万一ら)、公使館警察官、大陸浪人と言われた一般人(安達謙蔵ら)からなる日本人と、訓錬隊幹部禹範善が指揮する朝鮮人部隊が加わっていた。宮中には国王と王太子、閔妃がいたが、最も奥まった乾清殿にいた閔妃は踏み込んだ