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尖閣諸島問題:江戸時代に尊ばれた兵法「釣魚」の途上か?
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/160.html
投稿者 飯岡助五郎 日時 2013 年 5 月 06 日 03:25:43: VssSC.kx7zq3c
 

【江戸時代に尊ばれた太公望の魚釣り】
太公望が中国の磻溪 で魚釣りをする様子は、日本国の重要文化財に指定されている室町時代の狩野元信筆 「紙本墨画淡彩太公望、林和靖図 」*や江戸時代の尾形光琳 筆「太公望図」*を始め、江戸時代の狩野探幽筆「太公望釣浜図 」*、谷文晁筆「石番蹊跪餌図 」*、河鍋暁斎筆「太公望図」*、明治時代の平福百穂「太公望」*などに描かれ、また江戸時代の川柳にも「釣れますかなどと文王側へ寄り」 と詠まれ、当時の日本ではよく知られた故事だったようだ。
 *e国寶>狩野元信筆 「紙本墨画淡彩太公望、林和靖図 」東京国立博物館蔵
  http://www.emuseum.jp/detail/100267/006?word=%E9%9C%8A%E9%9B%B2%E8%A6%B3%E6%A1%83&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=1&mode=simple¢ury=
 *e国寶>尾形光琳 筆「太公望図」京都国立博物館蔵
 http://www.emuseum.jp/detail/100982/000/000?d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E5%A4%AA%E5%85%AC%E6%9C%9B&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=2&mode=simple¢ury=
 *群馬・ハラ ミュージアム アーク>狩野探幽筆「太公望釣浜図 」
 http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/94xIerGy7U6RNOgXhpcz/
 *頼山陽史跡資料館>谷文晁筆「石番蹊跪餌図 」広島県立歴史博物館蔵
 http://www.raisanyou.com/tenji106.htm
 *板橋区立美術館>河鍋暁斎筆「太公望図」
 http://www.itabashiartmuseum.jp/art/collection/ntb018.html
 *三重県立美術館>平福百穂筆「太公望」、川柳
 http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/hillwind/hill_64/hill64-5.htm

【太公望(姜太公)】
しかし、現代の日本語でこの故事を解説した資料をウエブ上で見つけることはできなかった。そこで、「太公望」の名を中国語で検索して漢文として読み、次の通り現代文に意訳してみた。

太公望は、姜太公とも称され、紀元前11世紀(縄文時代)に、東海の浜で生まれた姜姓の人。しかし彼は、身内の姜姓の王が統治する殷王朝を倒して姬姓の王が統治する周王朝を建て、自身は封王の座に就いた軍事戦略家だった。彼が人生を通して実践したその兵法は、明代末から清代初めの学者・謝詔が著した「風月夢」第十回によって成語「姜太公釣魚 願者上鉤」としていっそう広まることになった。
 *百度百科>姜太公
 http://baike.baidu.com/view/2745.htm?hold=syn
 *百度百科>姜太公钓鱼,愿者上钩
 http://baike.baidu.com/view/372878.htm?fromId=254432  

【兵法: 姜太公釣魚 願者上鉤】
姜太公は、しばしば番の谷川の傍らに鈴を垂らしていた。釣竿から垂れ下がる糸の先には真っ直ぐな釣鉤を付け、餌も無く、しかも水面から三尺の高さに離して水中に入れることはなかった。そして曰く「ここで生きたくないと願う魚よ、私の鉤につかまれ」と。
ある日、風変わりな魚漁を見た人が説教した。「爺さんよ、あんたのような魚の釣り方では百年たっても魚一匹釣れやしない」と。
姜太公曰く「おまえに本当のことを言おう。私は魚を釣るためにしているのではない。諸侯かつ王座を釣り上げるためにしているのだ」と。
その珍奇な魚釣りの噂が殷王朝の諸侯であった姬昌の耳に入ると、兵士が偵察にやってきた。そして姜太公曰く「釣れ、釣れ、魚の子は食いつかない。蝦の子が騒いでいるわい」。
今度は役人が偵察に来やってきた。そして、姜太公曰く「釣れ、釣れ、大魚は食いつかない、小魚騒ぐでない」。
すると、姫昌が釣魚の暗喩を解して姜太公に釣り上げられた。姜太公は姫昌に召抱えられると、腐敗した姜姓の殷王朝の倒し方を教え、また姬姓の周王朝建国に至る軍事戦略を指導した。そして、姬昌の息子の武王が周王朝を建てると、姬昌に周の創始者・文王という尊号が与えられ、また姜太公もその功績を讃えられて斉国の封王に任ぜられた。
 *大紀元>文化網>故事點播>成語典故>太公釣魚願者上鉤
 http://www.epochtimes.com/b5/0/11/4/c2645.htm

【魚釣島の国有化と 兵法「姜太公釣魚  願者上鉤」】
2012年9月11日、日本国は魚釣島を国有化した。ただし、9月11日と言えば、米国にとって最も忌まわしい日として有名である。
そこで、東海の浜で生まれ、身内が統治する大国を倒した姜太公を日本国に読み替え、また大国を米国に読み替えてみると、恐ろしいほどに「姜太公釣魚 願者上鉤」の兵法と重なることがわかる。

・姜太公による釣魚:日本国による魚釣島の国有化
・腐敗した殷王朝:腐敗した米国
・殷王朝の諸侯・姬昌:米国には逆らわない国連常任理事国の中国
・姜太公を召抱えた姬昌:日本国の元首相の中国訪問
・姜太公が姬昌に殷王朝の倒し方を教える:日本国が中国に米国の倒し方を教える

米国の倒し方とは、もしかすると、1945年世界で初めて人間の生活圏に原爆を投下して核実験を行い、1951年世界で初めて原子力発電に成功し、その知的財産権で世界を牛耳る米国の、その利権を無価値にすることであろうか?ちょうど恐ろしいことに、福島第一原発事故後2年を経過した現在、日本国は、「日本の子ども約291,600人に甲状腺ガンの疑い*」が出ている状態を放置している。
 http://www.asyura2.com/13/genpatu31/msg/453.html
また、米国が広島・長崎で実施した核実験を肯定し、原発の利権に連なった日本人が、放射能の正体を知らずに我が子を殺そうとしている。このままでは近い将来、日本人が若い者から順番に大量に被曝死していくことになる。そうなったら、原爆や原発の知的財産の利用者は激減し、米国は武力でも経済でも世界を牛耳ることができなくなるのだろう。まるで、「姜太公釣魚 願者上鉤」の兵法の途上のようだ。  

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コメント
 
01. 2013年5月06日 12:53:40 : KKUQv68ch6
確かに日本で福島の被害が多く出れば原発はすたれるだろうが、米国は電磁波兵器とフリーエネルギー、ゼロ点エネルギーを米軍宇宙軍はつかってるからね。今のファラデーによる電磁気学やアインシュタインの理論は袋小路への誘導による騙しだよ。人類を停滞さすための百合、、釣りだろうね。
米軍、はべいこくの支配にはなくて世界権力の支配にあるから米国はなんのちからもない。日本を汚染さすために原発を作ってきたのでは。311も昔からの計画だろ。
日本はセカイ権力の誘導する日中戦争に乗って上海国やら後満州国でも作るつもりだろうからね。

02. 2013年5月07日 08:51:30 : 91MYi7YZPA
面白い投稿有難う!
縊死原死に太郎の事かとおもっただよw
日中の対立、米中対立、北朝鮮ミサイル、しかしその実態経済を見ると・・・
石油海洋開発の合弁ぶり、米中蜜月ぶり、日本人エリートの買弁ぶり・・・
これで日本が沈没しないワケがない。米石油との合弁トップが中共中枢に食い込んでいるだろ。中共軍の制圧で石油開発。で米欧株主もウハウハだろ。見猿言わ猿聞か猿の黄色い猿。

武器買わされて損した黄色い猿。
米国の破綻を救うために、フードスタンプ人口を、ただ死にゆくだけの人口でなく、儲ける(非直接産業、軍事諜報などの)人口に転化してきたが、限界だ。地球を一回りアラブにまで行き着いて仕舞ったからだ。たとい全「中東」を金融エリートが制圧したとしても、終わりだ。もう「フロンティア」も市場もないからだ。もう自分の貧しくして来た奴隷相手に商売するモデルしかなくなっているのだ、彼らは。


03. 2013年5月09日 01:48:35 : RfoJKVEpbs
JBpress>リーダーズライフ>映画の中の世界 [映画の中の世界]

アジアを紛争の罠にはめた英露のグレートゲーム インド、パキスタン、アフガニスタン、バングラデシュの悲劇
2013年05月09日(Thu) 竹野 敏貴
 5月1日、アフガニスタンとパキスタンの国境付近で、両国の警備隊の間で数時間にわたる銃撃戦があった。詳細は定かでないが、パキスタンが設置した国境監視施設が自国内にあるとアフガニスタンは主張、カルザイ大統領は「デュアランド・ライン」と呼ばれる現在の国境線を認めないとさえ発言している。
英国とロシアの膨張戦略で何度も引き直された国境線
アフガニスタンパキスタン国境となるカイバル峠
 19世紀、帝政ロシアの圧倒的膨張力に対抗せんと、インドから北へと向かう野望ありありの大英帝国は、その狭間のアフガニスタンへと侵攻を開始した。しかし惨敗。
 とは言え、ロシアが中央アジア地域を次々と配下におさめる現実に、1878年、再び戦争をしかけ、何とか保護国化することに成功する。そして93年に設けられたのがこの国境線。
 当時の英国領インド帝国外相の名をとり「デュアランド・ライン」と呼ばれている。しかしそれは、アフガニスタンの中心をなすパシュトゥン人の居住地域を引き裂く線ともなっていることにも、今回、カルザイ大統領は言及しているのだ。
 その頃、ラホール(現パキスタン領)などでジャーナリスト活動を続けていたのが、「ジャングル・ブック」で知られる英国人ラドヤード・キップリング。
 こうした情勢を織り込んだ作品を数々発表しているキップリングの代表作「キム」(映画化された時の邦題は『印度の放浪児』(1950))では、両国のせめぎ合いを「グレートゲーム」と呼び(以前からあった表現ではあるようだが)、以後、英露の膨張合戦を示す表現として広く使われるようになる。アフガニスタンは、そのグレートゲームの緩衝地帯となったのである。
 一方、英国の繁栄を支えるゲームの重要な駒インドでは、国民会議が設置された。産業界の代表、知識人層などの不満を吸収するための組織である。
 しかし、その中から反英急進派が台頭してくると、民族運動の中心地ベンガル地方を分断することでその勢いを止めようと「ベンガル分割令」を1905年に発令。
 それがかえって反英闘争を激化させてしまうことになれば、今度は、東ベンガルに自治州をつくることで利を得るはずのイスラム教徒のために「全インド・ムスリム連盟」を設立。
 結局、1911年、分割案は撤回されることになるのだが、こうして設けられた2つの組織は、以後独立へと向かうインドの中心組織となっていく。そんな独立までの経緯は、リチャード・アッテンボロー監督の描く“マハトマ”・ガンジーの一代記『ガンジー』(1982)が分かりやすく描写している。
 1947年、ようやく訪れた「インド」の独立は、ヒンドゥー教とイスラム教という宗教による地域分割を意味した。大抵の地域はすんなり帰属が決まったものの、藩王がヒンドゥー教徒で住民の8割がイスラム教徒というジャンムー・カシミール藩王国では決定が難航。
 ところが、パキスタンからイスラム教徒の民兵が侵入を開始したことから、インドに派兵を要請、そこから印パ戦争へと発展していってしまう。以後、今に至るまで、カシミール地方は火種であり続けることになる。
東西に分割されたパキスタン
バングラデシュの首都ダッカをダレスワン川から望む。低地に建物が乱立している
 この頃の様子を描く欧米映画はあまりないが、インド映画にとっては絶好の素材。『1947 アース』(1998/日本未公開)もそんな1本だが、そこに描かれるのはヒンドゥー教徒、イスラム教徒のみならず、シーク教徒、ゾロアスター教徒なども暮らす多宗教社会の現実。
 国境線に分断される住民の悲劇がインド映画特有の歌をからめた物語進行で語られる。
 こうして成立したパキスタンは東西に分断されていた。西はウルドゥ語、東はベンガル語、と言語も違う。しかし、人口や商品生産量などで多数を占める東に対し、政治権力は西に集中。
 そして、ウルドゥ語だけを公用語としようとしたことをきっかけとして、ベンガル独立運動は活発化していく。
 1970年、東パキスタンは強力な「ボーラ・サイクロン」に襲われる。高潮にのまれた広大なデルタ地帯では20万人から50万人もの人々が犠牲となってしまう。そんな深刻な事態にも政府の対応は遅かった。
 住民の不満は爆発、翌年3月、ついに東パキスタンはバングラデシュとして独立を宣言する。しかし、西パキスタンは認めず、バングラデシュ独立戦争たる内戦へと進展していくのである。
 その際発生した大量の難民がインドへと流入。そんな状況にある1971年8月、ニューヨーク、マジソン・スクエア・ガーデンで、難民救済のためチャリティ・コンサートが開かれた。
 映画『バングラデシュのコンサート』(1971)として映像化されたこのコンサートは、元ビートルズのジョージ・ハリスンが主催したオールスターキャスト。世界の目をバングラデシュに集めることに成功したが、それは一時的なものにすぎなかった。
 100万人とも言われる難民を養う余力など持ち合わせていないインドとパキスタンの関係は悪化の一途をたどり、ついに東を支援する形で軍事介入することになる。第3次印パ戦争の勃発である。
 しかし、2週間あまりで西パキスタンは降伏、12月には国際社会もバングラデシュの独立を容認することになる。
政権に就けば暗殺されるの連続
「ガンジー」
 こうして独立の夢を実現したバングラデシュにも内包する民族問題があった。100万人もの先住民が暮らす東部のチッタゴン丘陵で、大規模な移住計画や先住民のベンガル同化策が進められていったのである。
 やがて、先住民の間から「シャンティ・バヒニ」によるゲリラ活動が展開されるようになり、このあたりは長く内戦状態に陥ってしまうことになる。その和平が実現したのは、1997年12月になってからのことだった。
 政局も混乱状態が続いた。独立運動中、死刑判決を受け投獄された「建国の父」ムジブル・ラーマンは混乱を極めた国を治めていったが、1975年に起きたクーデターで暗殺されてしまう。その後、政権の座についた陸軍参謀長ジアウル・ラーマンも81年5月暗殺。
 クーデターで権力を握ったエルシャドが反政府運動の激化で退陣した1991年2月になって、ようやく、初の実質的民選となったのである。そして、ジアウル・ラーマンの未亡人カレダ・ジアが、憲法改正により大統領制から議院内閣制へと変わったこの国で首相の座についたのだった。
 1996年には、シェイク・ハシナにその座を奪われるが、彼女はクーデターで一家のほとんど惨殺された際、海外留学していたために難を免れたムジブル・ラーマンの娘。その後も2人はしのぎを削り、今、首相の座にあるのはシェイク・ハシナ。大惨事となったビル崩壊事件の対応に追われる姿がメディアを賑わしている。
 未亡人と娘。血縁や配偶者による政権の引き継ぎは、バングラデシュのみならず、インド、パキスタン、スリランカなど、南アジアではよく見られる風景だ。
 パキスタンの政局も安定しなかった。東西分裂後、大統領、首相などの地位についたズルフィカール・アリー・ブットーは土地改革など社会主義的政策を推し進めていったが、旧支配層からの支持を得られず、1977年にはクーデターにより排除され、政敵暗殺の容疑をかけられた79年には死刑に処せられてしまう。
 そして政権の座についたジア・ウル・ハク将軍はアフガン紛争が終わりかけた1988年飛行機事故死。同年12月、ようやく文民政権が誕生し、ブットーの娘ベーナジールが首相となったのである。
 一方、インドでは、穏健な政教分離とのイメージの国民会議が長く政権を維持していた。しかし、度重なる汚職疑惑のなか、1996年、バジパイ首相率いるヒンドゥー至上主義政党インド人民党(BJP)に政権与党の座を譲ることになる。そしてそのバジパイ政権は、98年、核実験を強行したのである。
 それに対抗するようにパキスタンも核実験を決行、印パ対立は、世界に全面核戦争の恐怖さえ感じさせる新しいステージへとはいることになる。
9・11でのばっちりを受けたムシャラフ
キップリングは「ガンガディン」など多くの作品でインドを描いた
 現在日本でも劇場公開中の『タイガー 伝説のスパイ』(2012)はインド映画歴代2位の興行収入となる大ヒット作だが、そこには核技術がパキスタンに流れることを阻止せんとするインドのスパイの姿がある。
 1999年、パルヴェーズ・ムシャラフが無血軍事クーデターでパキスタンの事実上の国家元首となった(2001年6月大統領就任)。ブットーやナワーズ・シャリーフなど、めまぐるしく首相が入れ替わった文民政権は腐敗にまみれていたことから、国民の支持は高かった。
 しかし、9・11同時多発テロが政権を苦しめることになる。
 米国が「対テロ戦争」を始めると、国際的孤立を恐れ、米国支持を表明。しかし、キリスト教国がイスラム教国を攻撃することに反感を持つ国民は少なくなく、不満が噴出。板挟みになったムシャラフの苦悩に歪む顔は、この国の苦しい立場そのものだった。
 親米路線で軍事経済援助を受け、インドとは段階的に協調路線をとっていったムシャラフは、2007年10月の大統領選挙で圧倒的多数の票を得た。
 ところが、陸軍参謀総長の大統領選出馬が違憲か否か係争中だったことから、最高裁長官を解任、自宅軟禁したうえ、非常事態宣言を出す状況下で11月24日当選となったのだった。
 その頃、1996年、汚職や不正蓄財を理由に首相職を追われていたベーナジール・ブットーが、米国の支援を受け、国民議会選挙のために帰国していた。ところが、12月27日、暗殺されてしまったのである。
 翌2008年2月の国民議会選挙ではパキスタン人民党が勝利、ユースフ・ラザ・ギーラーニーが首相に選出されると、当初抵抗したものの、ムシャラフは8月に辞任を発表、以後、ロンドンでの事実上の亡命生活に入っていた。
 それから5年、クーデターも起こらず、パキスタンの歴史上初めて文民政府が任期を満了した。そして行われる選挙の投票日がこの11日。国政復帰を目指し帰国したムシャラフは候補申請が認められず、4月19日には不法解任・拘束の疑いで逮捕されてしまった。
 選挙を前にして、イスラム過激派による候補者や選挙事務所へのテロが繰り返されており、候補者が殺害されるなど治安が悪化、警備には軍や警察など60万人を当たらせるという。
 パキスタンの地で米国が単独で行ったビンラディン殺害などで米国との関係は冷えこんでおり、ムシャラフ辞任後は、軍事パートナーを米国からロシアや中国へとシフトしつつある現実もある。
 この地域での米国のテロ作戦への影響も少なくないこの選挙の結果を見守ることにしよう。
(本文おわり、次ページ以降は本文で紹介した映画についての紹介。映画の番号は第1回からの通し番号)
(80)(再)印度の放浪児
(138)(再)ガンジー
(715)アース

(271)(再)バングラデシュのコンサート
(716)タイガー

80.(再)の放浪児 Kim 1950年米国映画
印度の放浪児
(監督)ヴィクター・サヴィル
(出演)エロール・フリン、ディーン・ストックウェル
(音楽)アンドレ・プレヴィン
 バリバリの帝国主義者だったキップリングが、英露のスパイ合戦を少年の冒険物語として描いた作品。英国からの一方的な視線ではあるものの、19世紀末の英露のせめぎ合いを分かりやすく描いた作品という意味での価値は高い。
 ほかにも「ガンガ・ディン」などインドを舞台とした作品を数多く発表しているキップリング。
 英国軍人を親族に持ち、インドで長い間ジャーナリストとして活躍してきただけに、植民者としての目にブレがなく、その時代の真のインドを知ることはできなくとも、英国人の思い描くインドというものがはっきり読み取れる諸作と言えるだろう。
(再)138.ガンジー Gandhi 1982年英国・インド映画
「ガンジー」
(監督)リチャード・アッテンボロー
(出演)ベン・キングスレー、キャンディス・バーゲン
(音楽)ラビ・シャンカール
 通常「マハトマ・ガンジー」と表記されることが多いが、「マハトマ」とは偉大なる魂という尊称で、モハンダス・カラムチャンド・ガンジーというのが本名。
 劇中、ネルーなどが使っている「バーブー」というガンジーへの呼称は、インド人が親しみをこめた父親という意味。
 民衆運動、人権運動を暴力的に行わない「不服従」による抵抗をその信条としたガンジー主義の支持者は今でも多いが、非現実的な理想主義との批判も多い。断食(ハンガーストライキ)による抗議もよく使った手法だった。
 ヒンドゥー社会最大の問題とも言えるカーストに対するスタンスは微妙で、「不可触賤民」の存在の排除は推進しようとしていたが、身分を分け職業を決める「ヴァルナ」については職業分担という意味で決して否定しなかった。
 そもそも召使いがいるような家庭環境で育ったガンジーにとって、それは「差別」ではなく「区別」だった、ということなのだろう。
715.1947 アース 1947 Earth 1998年インド映画(日本未公開)
1947 アース
(監督)ディーパー・メヘター
(出演)アーミル・カーン、ナンディタ・ダス
 インドとパキスタンへと分割に向かいつつある頃のラホール。女性のナレーションが自身の少女時代を語る。
 ゾロアスター教の裕福な家庭に生まれた8歳になるレニーは、両親に愛され、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒の人々にも囲まれ、幸せに生きていた。
 しかし、世は宗教間の対立は激化。そうしたことを続けることは、現実が許さなくなり・・・。
 インド独立の影で、宗教と言う名のもとに分断される人々の姿を描く。ディーパー・メヘターの『Fire』(1996)『Water』(2005)と並ぶ「Elements trilogy」の1本である。
(再)271.バングラデシュのコンサート The concert for Bangladesh 1971年米国映画
『バングラデシュのコンサート』
(監督)ソール・スイマー
(出演)ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、ラヴィ・シャンカール、バッドフィンガー、レオン・ラッセル
 1971年8月1日、ニューヨーク、マジソン・スクエア・ガーデンで行われたバングラデシュ難民救済のためのチャリティーコンサートを収めた映像作品。
 当時、ウッドストックのような商業ベースの野外コンサートは行われていたが、チャリティーを前面に押し出したものはこれが最初。
 ビートルズ時代、ジョン・レノンやポール・マッカートニーの陰に隠れがちで、“Quiet Beatle”とも呼ばれていたジョージ・ハリスンが、傾倒していたインド音楽の師ラヴィ・シャンカールの要請に応える形で開催に持ち込んだコンサート。
 もう1人のビートルズメンバー、リンゴ・スターやボブ・ディランなどと熱のこもった演奏を見せてくれる。
 ビートルズ時代のハリスンの名曲“While my guitar gently weeps” “Here comes the sun” “Something”や、ディランの“Blowin’ in the wind”が白眉。
 1947年、英領インドのイスラム教徒多住地域を中心に独立したパキスタンだったが、現在のパキスタンにあたる西パキスタンからはるかに離れた「飛び地」である東パキスタンは西に従属する形となっていた。
 1970年、東パキスタンがサイクロンで大被害を受けた際の政府の対応はひどいもので、住民の不満は一気に爆発、翌71年3月、東パキスタンはバングラデシュとして独立を宣言する。
 西パキスタンは認めようとせず、バングラデシュ独立戦争たる内戦へと進展してしまうが、その際発生した難民がインドへと大量に流入する状況下でコンサートが開催された。
 しかし、インドとて多数の難民を養う余力などあるわけもなく、業を煮やして東を支援する形で軍事介入(第3次印パ戦争)に踏み切ると、わずか2週間余りで西パキスタンは降伏、12月に国際社会も独立を容認したのだった。
716.タイガー 伝説のスパイ Ek Tha Tiger 2012年インド映画
タイガー 伝説のスパイ
(監督)カビール・カーン
(出演)サルマーン・カーン、カトリーナ・カイフ
 インド諜報部(RAW)のエース「タイガー」はイラクでのパキスタン諜報部(ISI)との戦いを終え、インドへと戻ってきた。
 次なるミッションは、パキスタンと通じているとの疑いのある科学者を監視するため、アイルランドへと向かうこと。タイガーにとって簡単なものとなるはずだった。
 ところが、そこで思いもかけず出逢った女性と恋に落ちてしまう。
 それも彼女はパキスタンのスパイで・・・。
 「カブール・エクスプレス」(2006/日本未公開)で劇映画デビューを果たしたドキュメンタリー出身のカビール・カーンの娯楽作。
 カーンの日本での劇場初公開作だが、カーンは日本にもゆかりのあるチャンドラ・ボースを描く作品を次作として企画中とのこと。楽しみである。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/37745


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