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坂茂氏が「建築界のノーベル賞」を受賞した理由:被災地で紙管の教会などをデザイン:冷静でしっかり調べている中国メディア
http://www.asyura2.com/14/china4/msg/107.html
投稿者 あっしら 日時 2014 年 3 月 29 日 18:23:53: Mo7ApAlflbQ6s
 


中国のメディアに感心するのは、とかく身びいきになるものだが、(丹下健三氏以降の日本の)「建築家たちは西洋建築の精髄を吸収する一方、東洋文化として発展してきた。しかし、それと比較すると中国建築家にはまとまりがなく、思想の系譜も形成されていない」と冷静に評価していることである。

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坂茂氏が「建築界のノーベル賞」を受賞した理由

中国メディアが見る日本

 2014年03月28日17:48

 「建築界のノーベル賞」とも呼ばれるプリツカー建築賞が現地時間24日に発表され、今年の受賞者に、仏北東部メッス市のポンピドーセンター分館の設計や災害被災地での支援活動で知られる、日本の建築家・坂茂(ばんしげる)氏(56)が決まった。審査委員会は授賞理由の中で、「坂茂氏の作品は新しいコンセプトに満ちているだけでなく、同様に創造性に富んだ多彩なデザイン設計を人道的な取り組みに活用してきた」とし、活動を評価した。

 受賞を知った坂氏は、「今までやってきたことを続けろという意味と考え、おごらず流されずにやっていきたい」と答えている。授賞式は6月13日にオランダのアムステルダム国立博物館で行われる。

 1957年に東京で生まれた建築家・坂茂氏は建築界の奇才と呼ばれ、現在、東京、パリ、ニューヨークにオフィスを構え世界的に活躍している。紙管や包装素材、コンテナなどの一般的でありふれた素材を新しい建築素材として利用することに長けている。

 坂氏の作品のほとんどは創造性に富んだデザイン設計が施されている。称賛されるべきは、坂氏は構造に竹や織物、紙板、再生紙繊維、合成樹脂といった革新的かつ非伝統的な素材を使用している点だ。自然災害の被災者のための仮設住宅などにも、坂氏は通常紙管を柱、壁、はりなどに取り入れている。その理由は、これらの素材はどこでも手に入る上に、価格も安く、運送や組み立て、解体にも便利だからだ。しかも、防水、防火加工もできるし、リサイクルも可能だ。坂氏はこれについて、「日本では成長過程で、物を無駄にしてはならないと育てられる」と語っている。

 同賞を主宰するハイアット財団のトム・プリツカー会長は坂さんについて、「20年以上にわたり、自然災害によって引き起こされた過酷な状況に対して創造性と質の高いデザインで応えてきた」と評価した。同時に、坂氏が紙やコンテナなどありふれた素材を創造的に活用した点を高く評価した。

 受賞を知った坂氏は、パリのオフィスで取材に答え、「最後までやり遂げた後の賞だと思っていたので、本当に驚いています。今までやってきたことを続けろという意味と考え、おごらず流されずにやりたい」と語っている。

 ■11歳で建築家の夢を抱く

 「私はいつでも安くて、現地で手に入るリサイクル可能な素材に興味を持っている」。

 坂氏の子供時代、クラシック音楽が好きな父親は我が子に将来音楽家になってほしいと思っていたのかもしれない。坂氏は、小学校の頃からバイオリンを習わされていた。しかし、坂氏が心ひかれたのは伝統的な大工の仕事だった。大工の道具や仕事、木の匂いまでも好きだった。いつも、建築現場で出てくる木片を拾って、模型を作ったりしていた。このため、腕の立つ大工になりたいというのが、坂氏の幼い頃の理想だった。

 11歳の頃、学校の先生が生徒たちに簡単な家を設計する課題を出した。その結果、坂氏の作品は最優秀賞を受賞し、学校で展示された。そのときから、建築家になりたいという夢が坂氏の心に芽生えた。

 坂氏は東京芸術大学建築学科を受験することに決めた。高校3年の頃から美大の予備校の夜間部に通い始めた。そこで、紙や木材、竹を使って建築の模型を作ることを学んだ。この後、南カリフォルニア建築学院とクーパーユニオンで建築を学ぶ。1985年、坂氏は何の仕事の経験もない状況で、東京に行き個人の建築設計事務所を開く。そして、その事業を東京だけでなく、ニューヨークやパリにまで拡大させる。坂氏の作品は非常に小さな住宅建築から、実験的な住宅やコミュニティ、博物館、展覧館、コンベンションセンター、音楽ホール、オフィスビルまで多岐にわたっている。

 建築設計事務所・方体空間工作室を立ち上げた建築家・王ホ氏は取材に答え、「坂茂氏の建築設計の個性は突出している」と語った。かつて王氏が東京に留学していた頃、国外留学から帰国し、東京で事務所を開いていた坂氏は王氏が住む家の近所にコンクリートの家を建てたことがあったという。「その時代の日本建築は、ポストモダンが隆盛だったが、坂氏の設計した建築にはあまりポストモダンの特徴が見られなかった」と王ホ氏。この後、坂氏が紙管を使って設計した美術館に触れた王氏は、「この建築は私に深い印象を残した」と語った。

 坂氏が設計する建築では、紙管が重要な要素となっている。1985年頃から坂氏は紙管を構造とする建築を開発すると同時に、それを使った一連の実験的な建築物を作っている。このほかにも、「PCパイルの家」「ダブルルーフの家」「家具の家」「カーテンウォールの家」「2/5 HOUSE」「壁のない家」「はだかの家」などを設計している。

 このような建築は通常「耐久性が良い」、「環境にやさしい設計」と称賛されるが、坂茂氏はこれについて、「30年前にこのような設計スタイルを採るようになった頃、だれも環境について語る人はいなかった。これらを使用するのはごく当たり前のことだと思っている。私はいつでも安くて、現地で手に入るリサイクル可能な素材に興味を持っている」と答えている。

 ■高い質の建築設計による人道的な取り組みは、世界の見本

 坂氏の建築設計はダイレクトでいて誠実。しかし、決して平凡ではない。どの作品も新鮮なインスピレーションが体現されている。作品の優雅さ、シンプルさ、軽快さは坂氏の建築への情熱や長年の仕事の経験の上に築かれてきたものだ。極めて重要なのは、坂氏の建築物の中に存在する人に対する敬意だ。自然災害の被災者であろうと、個人であろうと、公共の場の公衆であろうと、この敬意は坂氏が心を配って設計する仕事のスタイル、合理的なレイアウト、念入りに選んだ素材、豊かな空間にすべて現れている。

 プリツカー建築賞の審査委員会の目には、坂氏は世界の見本となる模範的な建築家として映っている。これも、坂氏の非常に強い社会への責任感と高い質の設計による社会的需要を満足させる積極的な活動、そして人道的な取り組みに独自のスタイルを活用してきたことによる。

 坂氏の人道的な活動は1994年に始まった。当時、ルワンダの内戦によって200万の難民が住む地を追われ悲惨な環境下で暮らしていたことを知った坂氏は、ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所に乗り込み、紙管を構造とした難民シェルターを作ることを提案したところ、すぐに提案が採用され、顧問に招聘されることになった。1995年、神戸の阪神大震災が起こった際、これ以前に日本へ逃れてきていたベトナム難民が政府が提供する仮説住宅に入れなかったため、ビール用ケースに土嚢(どのう)を詰めたベトナム難民用の仮説住宅を作った。

 このことがきっかけで、NGOボランティア・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)が設立され、これ以降の災害救済活動でこの建築スタイルが用いられるようになった。VANは2008年の四川省の汶川大地震発生後に小学校の仮設校舎を建設したほか、2010年のハイチ大地震でも仮説住宅を建設している。2011年の東日本大震災では、VANは50カ所以上の避難所で1800ユニットもの紙による簡易間仕切りを作り、被災者の家族たちのプライバシー確保に貢献した。また、宮城県の女川町にもコンテナ仮説住宅を建設している。これらの努力によって、避難所での被災者の生活の質は大きく改善された。2011年、ニュージーランドで起きたカンタベリー地震では、坂氏はクライストチャーチの再編と再建のシンボルとして、紙管を使った大聖堂を完成させた。プリツカー建築賞の審査員委員会は次のように坂氏を讃えている。「坂茂氏は、傑出した設計を通して、難しい仕事に取り組み、それを成功させ、建築家が政府や公共機構、ボランティアと被災者との間の対話の架け橋になれるという証を示してきた」。

 これに対し、王氏も深く同意し、「坂茂氏の建築設計は紙を用いて思考している。これは、素材の問題だけでなく、環境保護やリサイクルの問題にも対応するものだ。坂茂氏は早くからエネルギーや社会上の役割を考えた建築を実践している。エコロジーや環境保護と同時に、建築の意義についても注意を払っている。おそらく、坂茂氏は建築家として建築の本体性を追求することから、建築が持つ社会的責任や意義を追求する方向へと移行したのだと思う。個人的には、建築の社会性というものが将来より一層注目されていくと思う」と語った。

 ■プリッカー賞受賞の7人の日本人建築家

 35年前にプリッカー建築賞が設立されて以来、多くの日本人建築家が同賞を受賞している。今回の坂茂氏は日本では7人目のプリッカー建築賞受賞の建築家となる。過去の受賞者は、丹下建三氏(1987年)、槙文彦氏(1993年)、安藤忠推氏(1995年)、建築ユニットSANAA(妹島和世氏と西澤立衛氏)(2010年)、伊藤豊雄氏(2013年)の6人。

 これに対し、王氏は、「日本の建築家はそれぞれ自分独自の建築観を持っている。建築に対する理解は非常に個性的だ」として、「自分が建築をどのように理解しているかを、実践の中でさまざまな試行を取り入れながら表現し、建築のある側面からそれを追求していく。ある日本の建築家は建築の社会性を追求し、ある建築家は素材を追求する。これが日本の建築の豊かさをもたらしている」と指摘する。

 ■3年連続で東アジアの建築家が受賞 中国の建築家はさらに精進の必要あり

 興味深い現象として、プリッカー建築賞が3年連続して東アジアの建築家に与えられていることがあげられる。2012年は中国の建築家・王澍氏、2013年は伊東豊雄氏、そして今年の坂茂氏だ。このため、建築評論家の王明堅氏は、「今年のプリッカー賞が再び日本の建築家に決まったことは少し意外だった」と語った。

 しかし、これも東アジアの建築家が世界の建築界で注目を浴び、再び話題となっているからのようだ。これについて、王明堅氏は、「これは、欧米の現代建築の発展が成熟してしまい、興味深い新鮮な驚きや現代建築界全体にとって意義あるものが提供できなくなってしまったため、東アジアの建築家が注目の対象となっている」として、「東アジアの建築家は世界の建築界に新しいものを提供している」と指摘した。

 具体的には、日本の建築界はすでに数十年間にわたる思想の系譜を持っている。王明賢氏は、「日本は1960年代に丹下健三に強い影響を受けた、大高正人、稹文彦、菊竹清訓、黒川紀章、評論家・川添登らが中心メンバーとなって展開した建築運動「メタポリズム」が生まれた。それによって生まれた現代建築には独自の理論がある。これらの建築家たちは西洋建築の精髄を吸収する一方、東洋文化として発展してきた。しかし、それと比較すると中国建築家にはまとまりがなく、思想の系譜も形成されていない。(編集MZ)

 「人民網日本語版」2013年3月28日

http://j.people.com.cn/94473/8582222.html


 

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