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活きる事の素直さを願う人々との繋がりを得る為に
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投稿者 金十字架 日時 2015 年 10 月 08 日 01:19:28: mfAWtS4GF8MpY
 

苦しみが人にとって何であるかを明確に理解した人ならば、
その苦しみを止める為の知識と云うものもまた、
そこでしか掴めないものである、
と云う事を理解するのではないかと思います。

そしてまたそこに、人が本当に必要としているものとは何か、
と云う事をも理解している筈だろうと考えます。

私の感覚からすれば、大方の人にとって「耐え難い苦しみ」とは、
集団であるものから差別されることだと見受けられます。

人が何故、集団の中で「無理をし続けてしまうのか」と言えば、視点を変えれば、
そこで個人が密かに感じている自身の特異性を不自然に変質させようとする行為に依るもの、
または、その特異さを隠してしまおうとする事に拠るものかも知れないと感じもします。

特異性とはこの場合、それぞれが持ちうる性質の事を言い表します。
それぞれの存在の背景とは、すべて一様なものでは有りません。
故にここで伝えたい事とは、誰もが特異性をもっていると云う事です。

私自身の事を話せば、私は家庭的に見ても、
特別変わった環境に生まれ育った訳でもなかった筈ですが、
年を重ねる程に、決まり事のような大衆的な話題性に馴染む事が出来ず、
自分をある種、普通のタイプではない、と周囲との温度差に、
隔たりを感じるようになっていった事は間違い無いと思います。

その後のある期間、身の回りの人の関わりに特殊な縁が生まれた事もあり、
自分の性質を隠しても見空かしてしまう人々に恵まれたおかげで、
その関わりの中では、大分楽に、自分をありのままに表現する安心感を得ていきました。

そこで、人とは、また自分らしさとは何かを考えるきっかけを与えられたように思います。

そこで、少しずつ穏やかさと云うものをも取り戻す事ができていったのだと思いますが、
それ以前の私はとても気性が激しく、間違っていないと一度感じた事に対しては、
断固として譲らないとする強情な一面を隠しませんでした。
よって人前で思い切った行動も辞さない人間であったと、今は幾分自重もできますが、
そうした部分を多々持って居たと云う事です。

しかしそうした自分の他人と違う部分をも、そこでは強みに感じて居たのも、
間違い無いと言えます。

ADHDやアスペルガーという症状と診断された子供たちが居ますが、
私も私の親もそこに部類する性格の人間だと感じています。

故に話す事ですが、そうした家族を抱える者にとって、
そうした性格とは、日々、頭を悩ませる事なのかもしれません。

特に気性の激しさや集団生活に馴染めないとする問題は、
そうした子供を持つ親族として、また親として、大変な気苦労を感じる事にもなるのでしょう。

しかし、それを無理に治す必要など有るのでしょうか。

それが病気として存在すると云う事、またそれは"治るもの"だとして診る事も、
社会に出る時にまで治らなければ、生活に支障をきたすものだと考える事も、
どちらも余計に苦痛と心労を重ねてしまうばかりであるように思います。

親故に、愛故にと、無理強いをしたり、手に余ると遠ざかったり、悲観したり、
そこにあるのは本当に愛情だと言えるでしょうか。

何故、生まれ持ったものを信じる事が出来ないのでしょうか。

社会的診断に当て嵌めれば、私もまたそこに属す人間であることは、
先ず間違いがないのだろうと考えます。

しかし、それに対しては、何も問題の無い事だと考えています。
何故なら、私はそう認定された方々の代弁者として言うことですが、
「既存の社会性自体が、未発達で障害そのものである」のだと言えるからです。

改善すべきと診断されるのは、そうした社会性の方である、と云うのが、
素直な私として伝えたい事です。

こうした声が少しずつでも理解されていくように、今後の、
「一億想選択時代」に期待していきたいと考えています。

誰に打ち明けるでもなく自殺する子供たちが居る事を考えれば、
どんな声でも彼らの訴える悩みに対して、手を差し伸べたいと考えた次第です。

既存の社会性では彼らに求められる答えを出せないのだと、
彼ら自身もまた察しているのだと思います。

「生(活きる)か死か」のギリギリの価値観の中に、ただ放置される子供たちに、
光明としての声を投げかける事の出来る人々は、
そうした全体数に対してまだ少ないのではないかと云う気がします。

自分と云うものをどのようにして持つべきかが判らないが為に、
社会性と云うものに対して従順であろうにも、
そこに属す事が出来ないと云う事をもまたそこで知らされる訳です。

すると後は、精神性の続く限り、誤摩化し、無理をし続けると云う悪循環に辿り着きます。

そこ迄行くと、後は、それぞれの人生は単なる賭博か、
運(またはその積み重ね)でしかないように捉えられてしまいます。

(この世で最もワケの判らない概念は「運」と云うものへの執着です)

そうなるとそこに漏れた人々の中で、最後迄、自分を生きようとする人々は、
自分の求める世界に自ら旅立つか、作り上げるほか無いのかもしれないと云う事です。

人に採っての苦痛とは、はじめの方で挙げた通り、
例えば、人の役に立たないと看做されると云った事です。

自分を役立てる場が無いと感じると云う事は、
そこに愛する者へ対し、愛を与える事も、
そこから受けとる事も、求める愛を感じていく事も出来ないと考えてしまうと云う事です。
(勿論、と云うか、私としては、そうしたものは求めるのではなく、
与える事によって感じられるとする見解に寄り添う立場ですが)
人はそうした精神性による苦痛をもっとも、耐え難いものに感じる生き物だと云う気がします。

よってそこに入り込みさえしなければ良いのだと云う考えの元、
より苦痛の少ない、別の肉体的な苦しみを授かろうとする事によって、
まず何よりも優先して回避を試みようとするのかもしれません。

勿論そこには活きる基盤を生む原動力があります。
しかし、その根底にある仕組みとは、一度人々の自由なる精神の土壌の上に、
一から組み替えられるべきであると考えます。

何故なら、現行の社会性の基盤と云うものが、そうした苦への怖れが求心力となり、
どなたか元公務員の方が揶揄していましたが、「一億総公務員化」で、
誰も責任をとりたがらない、よって採るべき行動もとられていない、
しかしそこにはお金と云う歯車だけは回っている、ようなものとして感じるからです。
(TPPの問題にしても、国内外の全体性の需要に鑑みて、
どの分野にでも利益を出せる関税の掛け方ややり方はもっと他に有る筈だと感じます)

誰かと比較する機会があった訳でもないのですが、
所謂「物心つく年頃」とは私の場合、一般的に見て、
かなり遅かったのではないかと思っていたのですが、
しかし、最近知った事で、小一くらいの記憶だったのではないかとする記憶が、
生後四か月の頃の記憶だったと云う事がわかりました。

その時既に、人間的な理解を通して、
周囲の状況を把握しようと務めていると云う事を自分の記憶に理解しました。

もし、何らかの知識を持つとした人が、自分の持ちうる知識を伝える事で、
その人が、元の力を取り戻す事が出来るかも知れないと考えるのならば、
それは何らかの見返りを期待する事以上の想いがそこに働いて居るものだと、
素直に信じたいと考えます。

そしてまたそうした人は、自分の評価を期待するでもなく、
押し付けるような真似をするでもなく、ただただ、
自分の伝えたい事が伝わって欲しいと云う事を願うのではないかと思います。


長いので二部につづく  

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コメント
 
1. 2015年10月08日 18:54:51 : mnFg1eDV3c
チンパンジーの群れを見れば分かるけど、一部が徒党を組んで縄張りを占領して余所者を暴力で排除し自分たちのハーレムを築く。基本的に人間と同じ行動である。もちろん人間はもっと複雑で敗者にも財産や家庭を与えて反抗心を抑えるが借金で縛って奴隷化してしまう。社会組織は何も人間の特権ではない。昆虫の蟻だって組織的な動物だ。

動物としてみると縄張り争い(戦争)に負けた種族は絶滅する運命にある。ただしそれでは敗者が命がけで抵抗するので勝者の損害は大きくなる。そこで友人に成りすまし敗者にも生存権を与えるフリをする。しかし常に機会があれば相手を滅ぼそうと考えているからロクな関係にはならない。ウソをウソで塗り固めた社会はやがて裸の王様を指導者に頂き滅亡への道を歩む事になる。結局人間は動物以上には成れないのである。恐らく広大な宇宙に存在する産業革命に成功できるような能力のある知的生命体は全てこのような結末をたどる運命にあるのだろう。知性は利己的な遺伝子の影響を排除できない。そしてよそ者の遺伝子を排除した結果古い遺伝子を修復できる機会を潰してしまった女王蟻が狂った巣は死滅する運命にある。


2. 2015年10月11日 08:00:47 : z21ZXlbTkk
恐らくそれは、知識、知性としての自覚が備わる前に、
遺伝子に刻まれた個々の(独自性という結晶としての)本能に
先天的に備わっているものなのではないでしょうか?

貴方には、言葉として敢えて要約すれば、
「リトリート、又は療養」といった類の、大きなテーマが
存在意義、即ち使命という程までに、備わっている気がします。
そして、そのコースを歩む限り、たとえ過ちが生じたとしても、
それを補うに余りある力を、本性が体現し得る、又は「している」
と感じ、また思い至りました。少し言葉は足りないかもしれませんが。。

それを、ご自身の内で消化した分だけ、意図や作為が全く無くとも
それと同じ成果を他者へ与え、即ち
「回向」を果たしているのではないかと。

私自身、その、貴方の、、
恩恵を実感している者の、一人です。


3. 2015年10月12日 16:13:17 : q931E3NW4E
>01 ,02
コメント有り難うございます。

投稿のつづきを書く前に、返信をさせて頂きます。

>01

まったく関係ない話かもしれませんが、私はつい先月スズメバチに刺されました。
外来種とされるちょっと大きめのやつです。「痛」と思った瞬間、右手の親指の付け根に一匹の蜂が。
さて刺された瞬間、「やぁ、やられた」と思ってすぐに可能な限り毒抜きをして、
その日は安静を決め込みました。
普通ならば皮膚科の医者に駆けつけるところを私はいきません。
さてどうなるものか。私はその経過をすべて感じ取ろうと決めていました。
自分の能力を深く感じる為の折角の機会を逃すのは勿体ないという頭が在ったからです。
夜中付近になると重苦しさが増して、日を跨ぐ頃にはかゆみがでてきます。
すると2日目の夜にはぷっくりと熊の手のように腫れ上がりました。
指は曲がらずパンパンです。そして痛みと云うよりはかゆい。
3日目には刺された所はやや沈静化して、毒は体内の別の所に移動しているのか、ゆっくりと腕全体が膨らんでいます。
4日目には完全に手は元通りしぼんで、新しい皮下組織が創りあげられていました。
そこで勝利宣言をする私。この4日間で自分が感じた事。その事であれこれ考えていたことなど、すべてさっぱり何もありません。思い出す程の事は無かったです。

刺された後、ただ淡々と自分の身体の能力と、ここにある命の背後にある確かさだけをただ信じていた、それだけです。

人の目から観て、それが幾ら凶行に思えても、私にとって蜂は蜂でしかなかったです。
もし蜂に刺されていた場所が他の場所だったらどうするつもりだったのかと忠告を受けても、ウマの耳に念仏です。
それが起きた時にはその場合の行動をとって居たに過ぎないでしょう。

私たちもまた、気付かず、蜂を追いつめるような行動をとっているかもしれません。
そしてそれが自分の取りたいと考えて行なった行動ではなく、
誰かに正しい事だと教えられて、やっていたのだとするなら、余計怖い事だと私は感じます。
虫だから、動物だからと、言葉は伝わらないからといって、
だからと言ってこちらが心を捨ててしまう事は無いのだと思いますが如何でしょうか。

あなたもまたそうした社会性に馴染んでしまった所為で狂ってしまった、
と云う事を伝えたいが為に此処に居る訳ではないのだと思います。そうですよね。


4. 2015年10月13日 10:05:08 : z21ZXlbTkk
>03
読んでみて、色々懐かしく思い出しました。
01氏へのレスとして、適切かどうかは分かりませんが。。

確か12〜13歳の頃。
アメリカ北西部にひとり留学していたのですが、何かの理由で郊外の
新婚(再婚か再再婚ですがw)の叔母の家に、従姉妹の運転するVWラビットの
窓が開いた助手席に乗りつ向かっていた時、不意に背中に「バチッ」と
強い電気ショックのようなものが走り、驚いて背中に手を当てようとしたところ、
今度は右手の小指にとんでもない電気ショックのような痛みが走って思わず
「ouch!!!」と叫んだところ、驚いた従姉妹が路肩に車を停めてくれました。

外に出て、着ていたブラウスをバタバタ振ったところ、
「ブーン」と飛び出したのは、熊蜂(比較的小型の)。

すると、見る見るうちに背中はピンポン玉大、小指と薬指の右側が、
2・5倍位に膨れ上がり、全く曲がらなくなり、熱を帯びて激しくズキズキ。

従姉妹は車を走らせ、到着したらすぐ医者を呼ぼうという話になったのですが、
着いた叔母の新居で叔母叔父に見せると、冷静な表情で
「あー、ちょっと待ってて」と言われ、5分くらい待ってると、
何やら真っ黒な、燻した草を摺ったようなものを持ってきて、
それを患部に湿布してくれました(それが何物かは未だ分かりませんが、、)。
「大丈夫、この程度なら、2日もすればすぐ直る」みたいなことを
(当時の英語聞き取り力はかなり低かったもののw)言われ、
痛いよ〜、と涙ちょちょぎれつつも、そのままにして寝た翌朝、
腫れは半減。
更にその次の朝には・・・

背中も小指も完治(笑)

他にも、10代後半、海で酷い日焼け(2度の火傷に近い)を負った時も、
祖母がエタノールに浸けたアロエとドクダミの酷い匂いの溶液と
シッカロールの全身にこまめに塗ったところ、
二日でつるっときれいに皮がむけ、痛みも痕も全く残らず完治。
同じ症状でそれを拒んだ親戚には、大きなシミが残ってしまったのですが。

20代後半、お尻にでっかいおデキ(これもピンポン玉大以上)ができた時は、
その時偶々遊びに行っていた自然療法の本まで出している、
ミュージシャンの友人に勧められて、炙ったツワブキをお尻に充てたところ、
ものの15分でドバっと溜まった血と膿が弾けて、翌日にはなんと
傷跡も残らず完治。。。

なんというか、洋の東西問わず、「民間療法恐るべし」W
といったところです(笑)
ひどい状態のときそれぞれ偶々巡り合った縁や、全く拒まなかった自分も、
今思えば凄いかも(笑)

だからか、30代後半、石段で転んで骨膜が露出する、15針の大怪我負った時も
(この時は流石に救急車でしたが)何の動揺もなく血圧や心拍も平常で
普通に談笑していた私を見て、救急隊員や医師に驚かれたのかも。

そう言えば、出産のときも、助産婦さんや看護師に「おしん」みたいとか
言われた(笑)

別に辛抱や我慢してたわけじゃない、というか、痛みを客観的に
「観察」してたというほうが正確かも。。。

とは言え、わざわざ蜂に刺されにいくような行動はとりませんよ。

きっと貴方もでしょう。


5. 2015年10月13日 10:45:03 : z21ZXlbTkk
もう一つ若気の至りを思い出したw

確か17の夏休み、海上花火大会の日、山の中腹の叔父の家で花火鑑賞パーティーが
あったので行って、未成年なのにビールぐいぐい飲んでつい浮かれ、
叔父の従業員が乗ってきてた原付(私は無免許而も無経験)に、乗らせて
と頼み込んで、ちょっとエンジンとブレーキのかけ方教わっただけで、
無謀にも下り発進。

山道は舗装されてはいたものの、すぐ左手はガードレール無しの崖っぷち、
而もほぼ真っ暗(ライトは当然点いてたものの)。

イエーイ!と下った途端、なんとカーブ地点に、人の頭大の落石がゴロゴロ
落ちており、気づいて慌ててブレーキかけたものの、敢え無く転倒。

原付は、ちょっと塗装が傷つきミラーが曲がった程度で、そんなに弁償しなくて
済みましたが、私は右ひじ近くに深い擦り傷を負った。

どのみち、その程度で済んだのは幸いでしたが、医者に行って処置して貰った
ものの、二週間たっても膿が収まらず、通院して包帯もとれず。。

その日、仕事から帰ってきて、見かねたのか母親が一言。
「あんたね、まだ病院通ってるの?そんなの、お金かかるだけでいつまで
経っても治るわけないじゃない。夏休みに若いくせに部屋でレコードばっかり
聞いてないで、思いっきり海で泳いできなさい。そんな傷、一発で治るから。
海の塩水って凄いのよ」
半信半疑ではあったが、ホントは海で泳ぎたいのを我慢していたので、
まあ母親が言ってくれてるんだからと翌日海で遊んだところ。。。

その日の内に膿は消え、翌日傷もほぼ完治。

うみでウミが治った!!(笑)

自然も、自然治癒力も、母も、凄いよ💛


6. 2015年10月13日 10:55:27 : z21ZXlbTkk
>01
とりま要は、女王蟻(蜂w)が狂ってなけりゃいいじゃん、と(笑)

7. 2015年10月13日 11:16:55 : z21ZXlbTkk
06続き
そして、大切なのは、運よりも「縁」だと。

良縁も運の内じゃないかって?

いや。良縁はいつでもそこにあるの。

ただ、あなたが気づいて開いて受け取らない限り、
息吹とその恩恵を感じ取れない、だけ。

あなたが、見ざる言わざる聞かざるのように塞ぎ込んで、

「気づかず開かず受け取らず」を決め込んでいる限り、
そこにないように錯覚してるだけだよ。


8. 2015年10月13日 12:08:18 : z21ZXlbTkk
祖母や叔母や母の療法で快癒した経験ついでに、ある日本神話を思い出した。

オオクニヌシが、伊弉冉の力で、兄神のいじめ虐待に拠る大やけどを
乗り越えたり、、

或いは有名な因幡の白兎のガマの穂伝説。。

わりとリアルな気がする。


9. 2015年10月13日 13:14:27 : z21ZXlbTkk
あとね、03スレ主氏への、
補足といっていいのかどうかですが、

私が熊蜂に出会って刺された記憶

偶々田舎道ふわっと飛んでた蜂が、偶々走ってた車の窓にうっかり吸い込まれて。
なんか敵かもしれない私の人体にふれたから、思わず自衛反応で刺してみた、
蜜蜂(にも二度ほど刺されたことあり)と違い、針残して自殺、的な生体でも
ないから、私の慌てた手の動き見て2度攻撃、

ま要するに、お互い偶然のジャンクションにパニクッただけ、でしょうね。

相手にとってどうだったかは分からないけど、結果私にとっては
懐かしいいい体験(つまり恨みなし)。

ただ同じ体験はもう御免だから、以降熊蜂等の存在に気付いたら、
刺激しないようそっと離れて、(近づかないほうが、お互いのためだよ、、)

と自然に軽く念を送ってるかも(部屋にスズメバチ含め、
迷い蜂がいたら、なるべく優しくポリ袋に捕獲して外に出すことで、
これまで凌いできてる・・・)。

他生物とは、なるべく正しい知識と距離を保ちつつ、
上手く仲良く共存しましょう。

勿論、多文化人間同士であれば尚更、の知恵。知恵があるならば。


10. 2015年10月14日 00:21:13 : q931E3NW4E
>02

間を空けてしまいました。


心遣い、嬉しく思います。

確かに、誰かにこうして伝えられる「私」というものの解釈も、
自分から発せられたものに違いは無いと言えるのですが、
どうしたって、それぞれの解釈を通してしか伝わりえないものです。

それぞれに違った私が見えていて、それぞれに多角的に切り取られた私がいる。
そこにはとんでもなく横暴な考えを持つ人格としての私も居るかも知れない訳で、
何とも愉快な話だと云う気がしますが、
それぞれが自分と云うものをシェアしていると考えるのは面白いです。
まずは、そう云うものでいいのだと思います。

と云う事で、有り難く、そこに居る「私」を受け容れさせていただきたいと思います。

そうしてみると、敢えて自分らしさとは、自分で作り上げるものでも無く、
外側からそれを見るものをして、そこに浮かび上がる「その人らしさ」
としてのものだけを指すのだと云う感じも致しますね。

「自分の存在性」とは単にそれだけのことであるのかもしれません。

損か得かで言えば、きっと世の中でそうした考えを許容する事は「損」であるのかもしれませんが、
人の損策勘定を優先して、本質をおざなりにすることは私にはできかねることです。

私も、色々とお話ししたい事は沢山有りますが、
場所を変えて過ぎ去った時間にまた舞い戻ろうかと考えています。
そこで改めてお読みいただければと存じますが如何でしょうか。

意義あるお話しになれば良いのですが。

>04〜07
兎にも角にも、それは必要な経験をされたのですね。

そしてあなた様はきちんと判ってらっしゃいますね、と一言お伝えして。

急に寒くなりますので、お身体のケアをお忘れなく。それでは。


11. 2015年10月15日 04:23:24 : qo1i0ZmEII
>>6

レスありがとうございます。

生物の世界では組織化は比較的新しい形態であり、アリや蜂など昆虫で一億年くらいの歴史でしょうか。地球生物には4億年を超える歴史を持つ成功した生物があり、例としてサメやワニ、クモ、ゴキブリなどが挙げられます。これらの生物は恐竜が耐えられないような地球環境の激変(全面核戦争レベル)にも耐えた優れた生物です。しかしながらこれらの生物は組織化する方向で進化しませんでした。アリなどの行動を観察するとゴキブリに比べて格段に知的です。家に住み着いた場合駆除の困難さはゴキブリの比ではない。この点は人間社会に似ています。それではなぜアリはゴキブリを絶滅に追い込めないのでしょうか。

組織化は表面上非常に強力ですが、崩壊する因子を内包しているように私には思えるのです。組織した場合女王アリのみが頭脳として機能しその他は歯車として動きます。女王アリが病気になったり死んだりした場合その他が無事でも巣全体が死滅します。つまり分散投資ができないのです。そして巣の中に二匹目の女王はいません。組織化の特徴として二つの頭脳を持つ事は許されないのです。アメリカを頭とする国際金融寡頭も自分の基準以外の人類社会の存在を許す事ができない。それでは彼らが地球全体を征服するのに成功し基準に合わない人類を排除したとします。だが地球という星は過去から環境の変化を続けている。今地球最強でもいつかは必ず絶滅するような変化に見舞われるのです。その時彼らの基準は役に立つのでしょうか。あなたが言うように女王アリ(蜂?)は永遠に病気にならないのかも知れない、しかし環境の激変に見舞われた時対処できる能力があるかないかは、その時になって見なければ分からないのです。ゆえに卵を全て一つのカゴに盛るのはハイリスクな行為なのです。


12. 2015年10月15日 09:22:58 : z21ZXlbTkk
スレ主様

やはり、同情と共感とでは、全く違うフェーズなのだという実感を脇に置いても、
貴方に対しては、ただ共通経験としての共感でもって、
浮かれて苦痛体験自慢するだけではなく、
一応アナフィラキシーショックには、充分に気をつけたほうがいいと、
言っておくべきかも知れない・・・

私は若い時分であったこともあり、また当時、
偶々同じ蜂にほぼ同時に別々の箇所を間髪入れずに刺され、
かつ民間療法とは言え恐らく適切な処置により速やかに治癒された体験をもって、
すんなりと、少なくとも熊蜂に対しては、免疫性が高まった実感と共に、
回避する感覚も強まったかも知れない。。

しかし、間をあけて同じスズメバチに刺されるとなると、
深刻な症状に陥りかねません。

といったところでやはり全てはめぐり合わせ次第だと思う。
余程のことがない限り、ないとは思います。

つまり意識のあり方次第でどうにでもなるとは思いますが、
無責任に言いっぱなしはしたくないので、ただ念のため(笑)

余計なお世話かもと思いつつ、人類の(大袈裟カナ?)希望でもある貴方にこそ、
是非大事を取ってほしいので。。。


13. 2015年10月15日 09:40:13 : z21ZXlbTkk
>11さん、

あなたは、少しばかり視野狭窄に陥っておられるのかも知れません。

「ふ〜ん、そんなこともあるのかな?」と、半信半疑でもいいですので、
金十字架氏と私のやりとりを、じっくり眺めてごらんになってください。

一般社会の組織的通念とは、別の平面の存在を共有していることが、
お分かりになる筈です。ファンタジーというわけでは、ありません。


14. 2015年10月16日 01:02:37 : q931E3NW4E
>011

そうした解釈に、こまごまと口を挟む事は致しませんが、
昆虫の世界の組織化のパターンを人間社会に当て嵌めてみる事は実際可能です。

類似性を発見すると云う事は、そうした試行も可能であると云う事を物語っています。

人間の場合は、より人の知性に適合する、
組織維持の為に徹底したやり方が必要とされるに至ったとあなたは仰る訳です。

そこで次に、あなたもまた言いたいことはこうでしょう。

「ではどうすれば、その牙城が脆く崩れ去るだろうか」

それもまた試行の観点から立ったものの見方であり、
あなたが関心を持つのもまた人間の社会の在り方であると思います。

私たちとそこで意思の疎通を見いだす事が可能である訳です。
意見を通わせるのに必要なのは、互いの解釈に理解を深めると云う事です。

それが可能であれば、この生態系の中の人類の於かれた環境もまた、
決まりきった在り方で終わるものなどではなく、
様々な試行が段階的に行なわれている場所だと見る事が出来る筈です。

あなたの見識もまた、あなたと云う霊性の表現の試行の為に役立てられる為にあります。


15. 2015年10月16日 04:25:24 : q931E3NW4E
>03
>12
それは私も付け加えておくべき点だったと、すぐに思い返した次第です。

ただし、その時点での私はあくまで、
その出来事を"きちんと"利用して、もしかすると死に至る可能性もある、
と云う事を受け入れていたと云う事です。

勿論、その時点ではどうした選択肢も可能ですし、
医者に行くと云う選択肢を選ぶ事は間違ってはいないことです。
ですが、それは自ら断ったと云う事であって、敢えてそこで、
「程度が低い」と評される選択肢を選んだということも、伝えたつもりです。
何もスペースを採って弁明じみた解説をするほどのことでもないのですが。

勿論、仰る通り、誤解して欲しく無いのは、怖れを楽しむ目的でやったとか、
騒ぎを起こしたくてやったとか、そうした「刺激を求めて」それを選択したというつもりは毛頭もないということです。

ただ、その上で伝えたいこともまたあり、各々の魂とは、様々な社会性を背景に、
どうしたこともチャレンジすることを望んで「ここ」に顕現されている筈ですから、
ある側面では、危険も承知の上で"楽しんでやっている"と言えると云う事です。

勿論ここでは、生命倫理といった観点から様々な解釈に曝される魂の在り方とは、
別の側面でも一様に同じ意見が論じられるとは言いきれない複雑さが有り、
それぞれの立場から何を求めているかの答えは当然違ってくるでので、
誰にでも適切な判断と言うには容易なことではないでしょう。

ただ、全てを受け入れると云うに流れの中に誰もが身を置くと云う事を理解し、
そうして前進する先に必ず誰もが辿り着く場で、
ご自身が完璧な存在であるとことを思い出した暁には、
自身へどうした判断をも可能とする立場に居るだろうことは明白です。

自分の人生を使ってしか試せない事が有るということもまた確かで、
その中にはもっとも危険とされる挑戦をして、
自分に対しての絶大な信頼を得て、その推進力を人生に於いて利用する、
という事を選ぶ魂だって当然いると言える筈です。

それは、ある一定の人々の認識を従えていれば、名誉有る事として、
人々の中に受け入れられさえします。

ご存知かと思いますが、空海の幼年期の崖からの身投げは、
それは、単に死のうと願って飛び降りた、と云うものではなかった訳です。
「私がもし仮に人の世に必要な存在であれば、死ぬ筈が無い」と云う信念をそこに抱いていたからこそ、実際に試してみた、と云う幼子の純粋さに驚嘆して評価されている訳です。

世間一般では、そうした言い分はまかり通らないものとする訳ですが、
いつの世も「普通」とされる精神状態に比較すれば、
どんな事実もばかな空想の域を出ない言い分として判断されるだけでしょう。

そうした大層なレベルのドラマに比較することではありませんが、
大なり小なり、魂は、多くは全く当り障りの無い方法を選んで、
自分への信頼性を取り戻させる為、または、自分の創造性を再確認する為に、
さまざまな方法で、こうした偶然性としての出来事を自分に与え、"具現化されている"と云う事ができるのです。

勿論、それらは別段「すべき事でもない」とは言えるものですが、
起こされる事故や病気と云った事象は、それぞれの魂の性格に拠るものであると言えます。
「死に方にもその人の生き方が現れる」と云った事も、まさにそうした理由からです。


16. 2015年10月16日 05:01:49 : q931E3NW4E
大概、善を語るのに悪の説明が必要だと考える大人が、
「これこれは危険だからしてはいけない」と云った理由を持ち出して、
「条件づけられた枠の内側に治まる事」をまことしやかに正しい理由だとささやきますが、
基本、そうした観点で利を得るとするのは、
自分の能力を否定する立場を得た大人だけであって、
より自由な子供たちの観点からは、
そうした説教じみた論理性に撒かれる理由は特にない訳です。

大人達は既にその時点で、社会性に先立つものの義務感を訴えますが、
そこで劣等感と差別意識を埋め込み、レッテルを貼ると云う事を教える事が、
自分達の社会を維持する上で欠かせないものだと、
理性と云うものに拠る判断の合理性と云うものを誤って理解させます。

根本的にそうした「大人の事情」となる言い分は、
魂とするものにはまったく当て嵌まらず、適用するものとはならない訳です。

必要な指導として、子供たちの先行きを不安視するエネルギーは、
増々それによって推進力を得て、ことはエスカレートしていきます。

不必要な筈の心配は、子供たちへの信頼の無さを物語ります。

悪の道への概念は子供たちを解放しない訳です。

よりそちらへ行かないようにと伝えられる強大なリスクは単に、
事前に健全な魂を萎縮させるものとして意識に植え込まれます。

そうして善性が何かなどを諭し伝える事には限界があり、
そこを超えて語られるものの中には、行き過ぎて不自然すぎる表現が横行しています。

子供達には敏感でまた直感的に、大人達の不確かな挙動を感じ取っています。

そこに伝えているのは大人が与えると考えている安心感とはほど遠い、
そことは対照的に位置するもので、
社会を動かすとしながら、そこに巻かれているだけとする、
大人達のあやふやな精神性を曝け出す事にしかなっていない訳です。


17. 2015年10月16日 05:07:46 : q931E3NW4E
現実の枠とは、そこではある理解は正しく、
ある理解は受け入れられないと云う全体の認識によって生み出されているものです。
謂わばそうした大多数による偏狭な見識なくして、
超越した人間性のドラマもまた生まれないと言えるのであり、
そうしたドラマは、新しい価値観に移り変わる際の、
新たな創造性の風を常に誘い込む呼び水となります。

イエスキリストに代表されるドラマもまた同内容の舞台である筈ですし、
その他の指導者と云った存在理由もまた魂全体で生み出した、変化への要請と見るものです。

初歩的なこの世界のしくみに対する理解に進んでいけば、自ずと到達する理解です。

意識の世界に創造された事が、この物質世界で顕現される訳です。
その逆はありません。

具現化されたこの世界は全て、試行の賜物です。

その試行は誰有ろう、「私たちの完璧さ」を理解するレベルに拠る、
"私たち自身の"無邪気な「思いつき」によって為されていると言える訳です。

「そうした私たち」とは、ここに「肉体を持っている私たち」とどう違うのか、
何故同じと言えるのかに付いては、またその事も追々、また別の場所に書かせて戴きたい事ですが、
まずここにいる我々が必要とする理解とは、
ごく簡単に言えば、今あるものを全て信頼し、
完璧な繋がりを得て存在すると云う事を受入れると云う事です。

それには、感性についての考察をより深くから知ろうと決めて、
「あらゆる自らのつくり出した存在性を受け容れ、統合し、開いていく」ことによって辿り着けるものだと云う事です。


18. 2015年10月16日 05:40:40 : q931E3NW4E
誰の目に、どう映る私をも、それぞれの中の自分、と受け容れ、
自分の意識の中に排除すべきものもばしょもまた無いと云う事に気付いていく、その繰り返し。

そして今現在、あらゆる解釈によって様々な思惑と誤解を招いている、
我々の魂がやがて行き着く場所、あらゆる輪廻体系へと続くターミナル、
休憩場所、内観の場、試行の場、選択の場、あの世、
どれも一つの場所を表現したものですが、
これら様々に語られる「世界」について、
これ迄持っていた解釈、観念、情念、思惑、感情を一旦置いて、
改めてそこに介在するとする自分の存在性を見つめる時、
別の違った角度から捉え直すことによって可能となる「一つの確信への考察」へと、
理解を深めていく事によって、それはすんなりと自身が、
それら自身の受け容れて来た思い込みに囚われていたと云う事に気付ける筈です。

つまり自身の心の解放に至るものであると考えています。

それと同時並行して、あらゆる既成の解釈に触れ、
それらを受け容れ、溶解し、解放し、繋げていく人々が現れていきます。
新しい世界のグリッドを皆で構築していく為の、その中の一助となれば倖いです。

私たちが棲息できる世界は、今尚我々がつくっているのです。

この二元性という概念の具現化は、我々とするものの思いつきです。
また人間的な存在としての我々も、元をただせば、我々の持つ創造性、
つまり我々の無邪気な「思いつき」の具現化にあります。

我々は「アヴァター」と云う言葉が適切かもしれません。

ここは魂としての我々の試行による、具現化の為の場である訳です。
今もって何らかの試行、そして思いつきがここでは顕現され続けていて、
自らかけていた制限も意識の使い方を取り戻しつつ有る為に、
少しずつ取り払われてきていると言える訳です。

そのことによって、この世界は今、変革が可能となっているのですから。

ここで意識の使い方、創造行為を学ぶ為にも、
ここに居る我々には自由意志が与えられ、
私たちであるものからも自由である訳です。

それはあらゆる生命史観を乗り越えて心と云うものを培ってきた、
我々としての能力を最大限に生かす場として存在します。

いつまでも苦は苦でない為に、
あらゆる能力と看做す事の出来る技術の開発の為に、
あらゆる日常のドラマ体験が繰り広げられてはた訳です。

私が認識している範囲の事なら、「言葉での説明は可能」だと見定めています。
勿論、力不足は否めませんが。
私個人としてこれに割く時間を確保したい状況ですが、
この拙速とも言えない力量で、できるだけ伝えていきたいと思います。


19. 2015年10月16日 05:44:17 : q931E3NW4E
前もって報告したように、場所を変えたいと思います。

20. 2015年10月16日 18:38:13 : qo1i0ZmEII
>>13

私は金十字架氏とあなたについて深く知っているわけではないし、深い付き合いになる機会もないでしょうからあなたがたの感情世界に深く入りたいとは思いません。

一般社会の組織的通念とは、別の平面の存在を共有しているという話ですが、これも水掛け論になるので反論はいたしません。

ロバートキヨサキの「金持ち父さん貧乏父さん」という本の中で以下のような一節があります。

「私は自分よりも才能があり賢い者を社員として雇い、利益を上げている。」

ロバートキヨサキは部下が自分よりも才能があり賢い事を知っているのに、なぜ彼は自分の持っている社会資源や地位を部下に譲り自分が部下の下で働きたいとは思わないのだろうか。そうした方が人類という種全体の利益になるのははっきりしているのに、そういう行動に出る人はレアケースです。

>>1の文章で利己的な遺伝子について述べていますが、私が興味があるのは生物の組織化と利己的な遺伝子の交互作用によってどのような将来を予想できるか、という点です。人類組織の頂点に立つ者が決して才能があり賢いわけでもなく、自己保身のみに汲々としてライバルになりそうな事項をすべて消し去ったとします。その先には何が待っているのでしょうか。

ローマ帝国が崩壊してヨーロッパが数百年の戦争と不衛生から黒死病の暗黒時代に入った時、人類世界は決して進歩を止めたわけではありませんでした。アラビア数字と言われているように西洋科学の復興の礎になったのは中東のイスラム文明です。そして大航海時代に殖民地での収奪による富がなければ産業革命すら不可能だったでしょう。中国で発明された黒色火薬がなければ、いくら西洋の鋳鉄技術が優れていたとしてもたった数百人の兵士で数十万人いる帝国を滅ぼす事はできないし、羅針盤がなければ正確に目的地まで航行する事すらできません。

産業革命を成し遂げた後西洋人たちは土着の権力を次々と滅ぼしました。今や数学の基礎を提供したイスラム文明も火薬や羅針盤を提供した東洋文明もグローバルな影響を受けています。今もし再び暗黒時代が訪れれば復興するのに必要な科学技術を提供できる者は地球上に存在しないでしょう。

女王蟻は絶対に狂わないと言っていた人がいましたが、それではなぜヨーロッパは数百年も野蛮な戦争と無知からきた黒死病により苦しんでいたのか、そして再び同じ事が起きないという根拠が何なのか聞きたいですね。


21. 2015年10月17日 02:06:33 : q931E3NW4E
>20
私に対してのコメントではないようですが、
私の口からも伝えておきたい言葉があります。

私は自分が持っているとする価値観を武器に、自身の利する所の為に、
誰かに何かを押し付けようと思っている訳ではありません。
誰もが他者を侵害する迄の自由や権利、また力とは、
与えられている訳ではないと知るからです。

故に、互いがたった一つだけ有るように見える「利」を奪い合うことにはなら無いのですから、
水掛け論とはならないと思います。

ただ、それぞれの主張は、混ざりあわず、互いに干渉しあうも共存する、と云う事になるでしょう。

01に「結局人間は動物以上にはなれない」と綴って居られますが、
「そう成る」必要は無いのだと思います。

人はそう成ろうとすることによって驕りを生んだのですから。

しかし、より的確に言えば、
「人は本来、自然と対峙する立場に在るのではなく、
人間は自然以上には成れないものである」、とするのが適当かと存じます。

あなたが言うような考えを借りて喩えるならば、
人は生物的な誤りを繰り返す中で、連綿と受け継がれていく肉体の外側に、
"言葉(ミーム)"と云う新たな記録媒体となるDNAを生み出したのではないかと思います。

人は自然性そのものの働きを自らの感性を元に言葉と云うものに示し、
理性、または心とするものを人は生み育てましたが、
やがてそれらが、あなたの言う肉体に潜む利己的な遺伝子の働きの中で、
解釈もまるで真逆のものと成り、形骸化していった、とも考えることはできます。

そしてまた、人々は今、再びそれを「どう利用するか」で、
あなたの求める答えとなる、人の流れていく先(運命)が決まっていく、とされ、
そしてまたそこに、私は、「変えていけるのだ」と考え伝えていると云う事になるかと思います。


22. 2015年10月18日 01:23:15 : q931E3NW4E
>11
種の生存の為の形態を知性と呼ぶかどうかは別として、
蟻やゴキブリ、それぞれの違いはあっても、
生命力としてみた種の生存率の高さは、
単に、環境へ対する適応力の高さだったと言えるかもしれません。

次点に、生殖能力の高さや、生存に適した特定のエリアの環境、
または単一的な生殖能力を持つ種はそれら環境とどうかかわってきたのか、
そうした違いを挙げる事は出来るかもしれませんし面白い事だと思います。

極寒の地で生きる酵母菌や、
マグマの中でも絶対零度でも生存するバクテリア、
それらに勝る生存能力を見せる他の生態系となると、
さらにミクロの世界には、まだまだいくらでも、
意識的な存在を確認する事が出来るでしょう。

重力や引力、観測出来る光のスピード、
あるゆる運動もまたどうした場の法則性の上に成り立っているのか
意識はどうした運動性をもっているか、はたまた何で出来ているか、
もし、宇宙の全ての知識を一冊の本に認めるなら、
我々の関心はまだそうした本の一ページも読み尽くさない所にあると思います。

しかし、言える事は、よりマクロな視点で解釈した「生物圏」に存在する、
すべての多様な種に見る相関性、それぞれの生存形態に切り離せないものとは、
ただ「自然と共に在る」と云う事に尽きる、と云うことかもしれません。

私はそこに絶対的な知性としての安心感を得る事が出来るからです。

蟻や蜂、またゴキブリも、その折々の「自然」との適合を余儀なくされる中で、
共生を果たし、必要な進化を得てきたと言えるのであり、
数千年かけて、その必要条件をクリアして進化してきたが故に、
その長らく維持することの出来た形態を手にした、また辿り着いた、と云う事が出来ると思います。
また、蟻や蜂に関して言えば、その生物圏の環境の醸成と、維持、
という役割を担う存在として我々の眼に理解出来ます。
それは自然の要請に対して"使わされた"と言える進化かもしれず、
その謂わば役目に適した存在形態に辿り着くべく進化した種が居た事で、
そこで生物圏も多様な発展性、その恩恵に拠る進化への道が開かれたと看做す事も出来ます。

生物圏の発展がそれぞれの種の進化を一因としていると考えるのは、妥当なことです。


23. 2015年10月18日 01:51:52 : q931E3NW4E
人間社会の組織化は大別して二種有ります。

「斥力を内包する繋がり」か、純粋な求心力のみに繋がりをえる、
「来るもの拒まず、去る者追わず」の繋がりの二つです。

どちらも、素直にそれぞれに利するところのものに群がっているように見えて、
前者は、必ずしもそうとは言えない生存形態を余儀なくされている点に注目出来ます。
後者は「群れ」と呼ぶよりは、明らかに目的意識が"群れること"に無い事は明白です。

ここに揶揄される女王中心の王権主義とする集団は、
明らかに自由ならざる解釈を受け入れざるを得ないと云う点で、前者です。
しかし、それぞれはそこから自立出来ず、縛られていると云う実感を抱えながらも、
それとは別に自分の目的とするものに果敢に取り組む事が出来ます。

しかし、そこにはまた、明確な意思を持てず、群れるほか無いとする点で、
生命として、また霊的な観点から見て非常に寂しい存在としての姿が有ります。

こうした状況を変えられないと見るか、苦とは、それ自体、
そこから離れる知識を得る事を促す目的で存在すると見るかで、
意識の力点の作用に真逆の違いが生まれます。

後者側に立つ人間にはそれを乗り越えてきたとする認識があるものだと云う気がします。

蟻の群れる習性がもしどちらかだとすれば、先ずどちらでもないとした上で、
後者により近いのでは?と云うことに私は一票を投ずるでしょう。

どちらもそれぞれの意識に核としてある「考え方」が、その組織を形成するものの本質となります。

故にといいますか、崩壊の因子とは単純に、
斥力(元々それを望まないとする人々の意思)であると言え、
組織を統括する上で働く心理性とは、
その斥力に弾かれぬ様維持することに傾けられることとなる訳です。

あなたの言う人間社会の組織に見るあらゆる嘘と偽り、欺瞞が、
その必要性の中で踊り狂う活躍の場を得ます。
単純にそれはドラマと言えるかもしれませんが。


24. 2015年10月18日 02:04:43 : q931E3NW4E
望まないながらも引き寄せられると云う人々束ねる為に必要とする力とは、
実は、斥力に比較してそう大きく無くても良いような気がします。

人の集団心理に「利」と映るものさえ、見つけられれば良いのだと云う気も致します。

単純に利とするものと言っても、
苦痛を回避する為に、より苦痛でないものを手にすると云う事が、
ある者にとって「利」と看做される場合も有ります。

それは単純に利益として見られるものではない筈ですが、
ある価値観に当て嵌めて、それは「利するものである」と言える訳です。

こちら側の論理は蟻の世界に当て嵌める事は出来ませんが、
大きなものに群がる集団心理と云うものには、
大抵そこに比較できる同種の存在を通して、
自分の得ているものに比較的に満足しようとする執着が見て取れます。

その執着心こそが、そうした組織を維持する中心的な働きとしてあると言えるような気がします。

私は諦念を勧めているのでは有りませんが、それが時にそこから脱する時に、
功を奏すると云う事は実経験によって伝えてよいものと感じています。

ある種そこに居る人々も何かを諦めてそこに居ると言えるのですから、
全体性に対する無責任でよいとする振る舞いをする個々の在り方は、
そこに理解の紐を解く事が出来る筈です。

自己中心的な振る舞いと云うのも、その例えに沿って、
二種あると云う事が明確さを増す筈です。

完全に言葉とするものは、そこではトリックの小道具としてしか扱われて居らず、
そこに言葉の力としてのものは誤用されていると云う気がします。

選挙に見る、多数決、数の力で勝利を得ようとすることが間違いだと気付くなら、
私には同じ方法を採ることはできません。

ですから、また私は、それぞれに誤用されていると感じる特定の言葉の持つ定義を一から、(別途投稿にて)書き記していく所存でおります。


25. 2015年10月18日 03:27:50 : qo1i0ZmEII
>>1の文章には誤解を招く書き方がありました。正確には「結局人間の組織は動物以上には成れないのである。」と書くべきだったのでしょう。

もちろん個々の人間の中には他者に対する博愛や同情心があり家族や地域社会のために自己犠牲を厭わない人がいるのは知っています。しかし組織になった場合、いわゆる組織の論理というのは昆虫やチンパンジーのそれと大して変わりがないのではないか。つまり非人道的ではないかと考えております。

もしそうなら、我々の社会は非人道的なものに「法人」なる法律上の人権を与えている。しかも法人は税制や政府の優遇策でも個人よりも圧倒的に有利な立場にあります。我々の社会は個々人よりも非人道的なものに特権を与えている。本来ならば一番大事にされるのは社会を構成する我々個々人のはずですよね。

そして組織の中では利害関係によって構成員の行動が縛られ、犯罪を命令されても実行できない者は「使えない奴」として組織から排除されます。こうして自分個人や家族や地域社会よりも組織の論理を優先する構成員によって社会資源の独占が行われ、非人道的な目的のために使われます。今の人類社会が歴史上かつてないほど貧富の差が広がっているというのも、組織によって独占された資源の分配が招いた結果です。

それでは組織は独占した資源を何に使っているのでしょうか。そもそも個体で獲得できる資源は生活のためか、家族や子孫を養うために使われます。私が推測するに組織が獲得した資源で構成員に分配されるのは極一部です。大部分は、組織を肥大化させるために使われます。こうして本来ならば科学技術の進歩により多くの人が憂いのない生活を送れるはずなのに貧困化によって社会不安がもたらされ、さらに組織の肥大化の障害を排除する過程で政治不安がもたらされ、戦争やテロが絶えない世の中になってしまいます。

私は人類社会が健全に発展するためには組織に強力な規制をかけるべきだと考えます。例えば獲得した利益を構成員に分配しない組織の利益は没収すべきです。しかし問題は、私と同じような考えをする人があまりいない事ですねw


26. 2015年10月21日 06:59:12 : z21ZXlbTkk
>15
暫く、阿修羅に繋がらない場所に出張していた為、レス遅れましたが。。

その通り、なのです。が、
私と貴方との個人的なメールかSNSでのやりとりであれば、単純にイイネ!
とか、同意、で済む話です。

しかしここは公な掲示板、現に第三者は既に絡んでいます。

となると、こういうこと平気で当たり前のように語り合ってはいますが、
一応公に対する責任として
「よい子はマネしないでね」
というテロップ掲げた方が良いと思った次第w

ある意味、私も金十字架さんも、世間の権威者の言うことなど了解済みで
平気で無視して、「自己責任」で冒険するタイプの、いわば「悪い子ちゃん」
だと思うのでw

人によっては、暴走家にみえるかもだけど(実は深慮遠謀)、
影響与えたり感化されたりは、困るかな、と。

自分の考えと合致してたので勇気づけられたという者の試行は否定しませんが、
あくまで自己責任ということで(笑)


27. 2015年10月21日 08:12:50 : z21ZXlbTkk
>25
あなたと同じような考えを持つ人が「あまりいない」と見えることなど、
実はどうでもいいことかもしれない。

先ずはあなたが、そのような葛藤や考察を有していることが大事で。
仮にたった一人だとしても。

あとは世界を己の延長と見做す程に信頼し、開いてさえいれば
同様を共有する人々との縁は、唖然とするくらい直にでも築かれる。

要は少数派同士でも、仲間が存在する事実さえ実感すれば、
マクロな戦争含む社会問題、ひいては天災ですらもさえも、脅威ではなくなる。

中央集権的政府なんぞが我々の魂を縛り付けられるものかどうか。

笑止千万ではないかw


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